あれは確か、小学校に入るちょっと前の事だったから、五、六歳の時だったと思う。
先代の買い物に一緒に連れて行ってもらった私は、滅多に行く事のできない街中に出られた事で大はしゃぎ。気が付いたら先代とはぐれ、一人、知らない土地をさ迷い歩いていた。
そうして、ふと目に付いた公園。そこでは私と同じ位の歳の女の子達が、テレビのヒロインごっこをして遊んでいた。
私もその番組は大好きだったし、それに。
「ねぇ、わたしもまぜて」
現人神の末裔たる東風谷の一族。その子である私は、人里から少し離れた神社で秘術を教わる毎日に明け暮れており、同年代の友達なんて一人も居なかった。だから私は、どうしても彼女達と一緒に遊んでみたかったのだ。
「わたしね、テレビみたくね、まほうがつかえるの。
だから、ね。わたしもまぜて」
東風谷の一族に伝わる秘術。神様の力を借りて、奇跡を起こす能力。
私は歴代の中でも特に秀でた才能を持って生まれたらしく、この歳で既に、小さな風を起こしたり、小雨を降らせる程度の事はできるようになっていた。
「かぜよ!」
両手を目の前で交差させ、少しの溜めを作り、それから一気に両側へと広げる。
途端、小さな風が砂場の砂を巻き上げた。
「わぁ」「すごい!」「ほんとだ、テレビみたい!」
女の子達は私の術に驚き、そして感動していた。
私は嬉しくなった。何だか、テレビに出てくる魔法のヒロインになったような気がして。
だから私は、今度は雨を降らせてあげると、そう言った。
「えー?」「あめ?」「こんなにいいおてんきなのに?」
多分私は、調子に乗っていたんだと思う。
東風谷の術は一子相伝の秘術。外の人間の目の前では決して使ってはならない。
そう言い聞かされていたのにも関わらず、私は彼女達の前で奇跡を起こして見せてしまった。
「……あ」「あめだ」「すごいすごい! あなた、ほんとのまほうつかいなんだ!」
「ほんとうは、ひみつなんだけどね」
ああ、自分は特別な人間なんだ。テレビの中みたいに、お話の主人公になれる人間なんだ。
私は、自分自身に酔ってしまっていた。だから。
「貴方、今の……」
彼女達以外の大人が私の力を見てしまっていた、その事に、全く気が付かなかったのだ。
“どこイツ”
「……今の……凄い! 凄い天気予報!」
――はぃ? あの、えと、言ってる意味が?
「朝の天気予報じゃ降水確率ゼロって言ってたのに。今の今まで、雲ひとつ無い良いお天気だったのに。
それなのに、『雨が降る』って言って、本当にそれが当たっちゃうんだもの。
凄いわ貴方! ちっちゃいのに、本物の天気予報の人より凄いわ」
いや、あの違くて。
今の、天気予報じゃなくて……。
「ママー」
「あら~、良い子にしてた?」
「うんっ!」
「あの子、お友達?」
「ううん。さっきね、まぜてって」
「そうなんだ。
でも凄いねー、あの子。凄い天気予報」
「てんきよほうなの?」
「そう、天気予報よ。でも、テレビの天気予報よりもよく当たっちゃうの!」
「すごい! すごいてんきよほう!」
違うって! そんなのじゃないって!
今のは私が、神様の力を借りて起こした奇跡なの!
凄い天気予報って、そんな、常識レベルの『凄い』の範疇に矮小化させないで!
私は、私は!……。
◆
「……何だか今、ひどく懐かしいものを見ていたような気が……」
けたたましいベルの音が私を夢の世界から引きずり起こした。
何だか少し腹が立っていたので、少々乱暴に時計の頭を叩いて音を止める。時間は八時ちょうど。
土曜の朝なんだからもう少し遅くまで寝ていたいけど、仕方ない。今日は十時からバイトがあるのだから。
「そう言えば、あれからだったわね」
私の価値観が転換したのは。さっきまでの夢の内容を思い出しながら、私は一人呟いた。
あの後、『凄く良く当たる天気予報をする子供が居る』という噂は瞬く間に広まり、そうして私が小学校に入学した直後には、『噂のお天気小学生』という、今から考えると何だか違った意味にも聞こえそうな見出しで、地元ケーブルテレビのローカル番組に取り上げられたりもした。
でも、それがピーク。
その程度のちょっと面白い話なんてものは、日常の中であっさり消費されてしまうもの。
暫くの間はテレビに出た有名人としてクラスメイトからちやほやされた私も、二年になるとそうでもなくなり、そして、三年になってクラス替えがあった後には、ちょっと面白い苗字の普通の女の子として認識されるようになっていった。
テレビに出たって話も、馬鹿な男子から『あいつ昔、ノー天気小学生って言われてたんだぜぇ』と、からかいのネタにされる程度になってしまった。
それまでの私は、自分は奇跡を呼ぶ事のできる特別な存在だって、そう言い聞かされて育てられていたし、実際自分自身、自分は特別なんだって、そう思っていた。
でも今の世の中は、本物の奇跡を目の当たりにしたというのに、それを奇跡とは認識しなかった。
人前で力を見せるという禁を犯した私だけど、事が大事に至らなかったというわけでお咎めは無し。
その後も修行は続け、季節外れの台風を呼んだり、阿羅羯磨(あらかつま)の如く湖を割ったり、真夏に御神渡りを発生させたり、と、数代に渡って失われていた秘術の数々をいくつも再現できるようになった。
おかげで私の修行期間中だったここ十年程は、諏訪湖周辺では異常気象が連発してたわけなんだけれども、それも地元ニュースと人々の日々の話題のネタ以上のものにはなりえなかった。
そうして私は、何だか悟ってしまったのだ。
一般人の月面旅行も目前に迫ったこのご時世、『科学』という名の神様の前では、私の、私の神様の起こす奇跡なんて、『ちょっと面白い』程度のものでしかないんだって。
ああそうそう。私の神様、と言えば、もうそろそろ……。
『ウチの神社の賽銭箱とかけましてぇー、心と技と解くぅ~。その心はぁ――』
ほら、予想通り。玄関の扉が開く音と共に、やけにテンションの高い大声が飛び込んできた。
それにしても、心と技? 心、技……体?
「かぁ~らぁ~だぁ~かぁ~らぁ~~♪」
私の部屋の扉を開く、一升瓶を片手に上機嫌な朝帰りの酔っ払い様。
「お帰りなさいませ、八坂様」
ここ守矢の神社の神様であり、そして、諏訪信仰の本来の対象である、八坂神奈子様。
八坂様をここまではっきりと認識し、話までできるというのは、初代を含めても殆ど居なかったらしい。
その為か、八坂様は私の事を妙に気に入っているようだ。
「もぉ~おぉぅ、早苗ったらぁ~。
『八坂様』だなんて、そんな他人行儀な呼び方はやめてって言ってるじゃないー。
もっとフランクに『カナちゃん♪』とかって呼んでよおぅ」
「そういうわけにはまいりません。私は、東風谷の人間は、八坂様にお仕えする身分なのですから」
「ほんと、早苗は真面目ねぇー。
それだったら私だって、早苗の事、『早苗さん』とか呼んじゃうわよぉ~?」
ああ、はいはい。どうぞ、ご勝手に。
「サ~ナエ~さんサナエさん、サナエさ~んは愉っ快だンなぁ~~♪」
「いやちょっと何ですかその歌!? そんなに愉快じゃありませんよ、私!?」
「ケロッちゃん、ちょっとそれ取って~♪
カナちゃん、この味どうかしら~♪」
「時にはしくじる事もあり、ちょっぴり悲しい時もある!?」
……て言うか、ケロちゃんて誰?
「……飲み会、楽しんでこられたようですね」
八坂様は昨日の夜、他の山神様が開く宴会へ行くと言って出て行った。
そうして今日の朝、帰って来たらこの様子。私は、素直な感想を言っただけだった。
けれど。
「楽しかった、ですってえ?」
うわ、声のトーンがいきなり下がった。目もすわって、こちらを睨んできている。
どうしよう。私、何かまずい事を言ってしまったのかしら。
「冗っ談じゃないわよ! 私ゃ完璧に味噌っカス扱いだったわよ!
『あれ、八坂さんってまだ現役だったんだ?』みたいな目で見られてたわよコンチクショー!」
あれだけケラケラ笑っていたのが、今度は火山が噴火でもしたかのような勢いで怒り始めた。
「ってか、あんの小娘!
あいつそもそも、やった仕事って言ったら、喧嘩してる夫婦の間に入って離婚話を纏めただけじゃないのさ!
しかもそん時何を言ったのかってのは秘密にしてるし! それ、明らかに堅気の仕事じゃないでしょーが!
そんな奴が何で、いつの間にか山神に就職して、しかも言うに事欠いて御利益に縁結びとかのたまってるワケよ!?
もういっそ、人の縁なぞククッとらんと己の首でもククッてしまえば良いのにっ!」
何だかもう、もっっの凄く罰当たりな事を言っている気がする。まぁ八坂様も神様だから、罰が当たったりって事はないんでしょうけれど。
ちなみに、話題になってる神様が誰なのかって、何となく判るけれど言わないでおこう。私には罰が当たるかもしれないし。
「レベルだって、私の方が高いでしょうが!」
レベル? ああ、この間、私が中古のゲーム屋さんで買ってきた、あの昔のゲームの話かしら。
八坂様ってばいっつもうちでゴロゴロしながら、暇だ、暇だーって五月蝿いから、私は時々、中古で安くなっている、昔のゲームや漫画を買って八坂様にお供え?している。
で、何で八坂様がそんなに暇なのかと言えば。
「なーにが『うちの神社は全国に二千七百程も在りますの』よ。
うちだって二千五百は在るわよ! 大した差は無いわよ!
もっとも、私のとこにはアガリのびた一文も来ないけどねっ!!」
そう、それなのだ。
諏訪信仰の神様といえば、建御名方神。八坂様の名前といえば、まぁ、建御名方神の妻として、八坂刀売神の名が残るのみ。
どうしてそんなややこしい事になっているのか。その辺りの事情については、実は私も良くは知らない。
東風谷の伝承は親から子へ、全て口伝のみで継承される為、長い時の間に大部分が失われたり、変容してしまったりしている。私の場合、八坂様に直接訊くっていう手段もあるのだけれど、八坂様は八坂様で、『話すと長くなるから面倒』と、詳しくは教えてくれない。
それでも、私の知ってる限りのいきさつを纏めると。
八坂様は何らかの事情により、諏訪神社に名前だけの神様を置き、自分はその神様の妻として名前の一部を残しただけで、東風谷一族の祖先を伴ってこの神社に隠居したらしい。
そうしてこの地では、神様の力が必要な事態が起きると、人々は名前だけの神様に願い事をし、神社では仮の儀式を行い、それを受けて八坂様に仕える東風谷の人間が実際に奇跡を起こすという、そういう少々面倒なシステムが長く続いてきた。
ちなみに東風谷は元々、諏訪大社の神長である守矢の家と同じ祖先を持つらしい。特に力を持った者が分かれた、要は分家?みたいなものだそうで、ただ、奇跡を呼べる人間の存在が広く知れ渡ると、それを良く思わないものや、或いは利用しようとする者に狙われる可能性があるからと、守矢の姓は隠して東風谷を名乗り、けれど繋がりは保つ為、名の方は守矢家の人間と同じものをつける事になっている。私の『早苗』という名前も、少し前の守矢の人から取られているそうだ。
で、このシステムに於いては、全国の諏訪神社に寄せられる信仰は、全てそのまま我が神社に送られて八坂様のものとなっていた。
東風谷の人間も、公から隠されてはいたものの、その存在を知る一部の人間からは、それこそ神様と同様の扱いを受けていたと言う。
そうして長く続いたその仕組みも、けれど、明治維新の大変動の前に崩れる事となる。
中央政府の令もあり、表の諏訪大社では大きな変化を余儀なくされた。
当時の守矢家当主は、そんな混乱の中で守矢の秘法が失われるのを惜しみ、一子相伝の口伝えのみであった秘法の一部や守矢の系譜を、初めて文字として形に表した。
その際、東風谷や八坂様については一切触れられなかった。多分、中央政府の手がこちらまで伸びないように、配慮してくれての事だったんだと思う。
ただ、結果としてはそれが裏目に出てしまった。
それまでは、東風谷や八坂様の存在は隠されていたものの、人々の間には『どうも諏訪神社には“本当の”神様が居るらしい』と、何とはなくそんな空気が流れていた。
けれど、文字として出されたものを見て人々は、『ああやっぱり、そんなものは居なかったのか』と納得してしまった。
そうして時代は明治、大正、そして昭和の戦争と、短期間の間に大きな変動を続けた。
そんな中、元々秘伝中の秘伝であったこの神社についての知識はどんどん失われ、更には科学の台頭と共に、人々は神様の実在を、実利としての御利益を信じなくなっていった。
そうして今では、一般の人々はおろか守矢の人間でさえもが、私達の存在を忘れ去ってしまった。
悪意を持って抹消されたとか、わけあって完全に闇に隠されたとか、そういう事ではなく、ごくごくナチュラルに忘れられてしまったのだ。
今でも全国各地に諏訪神社は在るし、そこには沢山の人が参拝している。けれど、そうした人達の信仰は八坂様には流れて来ない。
ここも今では、訪れる人間の全く居ない、ただのさびれた神社となってしまっている。
「私だってねぇ、そりゃ昔は凄かったわよ? この地にやって来た時の事なんか、ほら、今でもよく覚えているけど」
ハイテンションで帰って来たかと思えば突然怒り出し、今度は昔語り。ああ何だか、とっても典型的な酔っ払い。
あれでも昔は神懸かり的にお酒に強かったらしいんだけど。神様は信仰を失うと力を失うそうだから、そのせいなのかも。
「シャン! スタッ。グゥゥン。バァ――ン。
『貴方は八坂神奈子ね?』『そういう貴方は洩矢諏訪子』
『みんなケロちゃんって呼んでるわ……これからよろしく』
ミシャミシャ『ハッハッハッハッハッ』
『ミシャグジ様ーッ。
紹介するわ、ミシャグジ様って言うの! わたしの僕でね、恐ろしい祟り神なのよ。心配ないわよ! 決して人にしか祟らないから。
すぐ仲よしになれるわッ』
『ふん!』
ボギャァァ。
『なっ! 何をするだァ―――――ッゆるさんッ!』
(こいつがこの国の王、洩矢の諏訪子か!
こいつを精神的にとことん追いつめ、ゆくゆくはかわりにこの神奈子が、洩矢の王国をのっとってやる!)
『わたしはミジャグジ様が嫌いだ! 怖いんじゃあない。悪魔絵師によってご立派になり過ぎた頭部に虫唾が走るのだ!
あのミシャグジ様とかいう阿呆神をわたしに近づけるなよな』
それまで楽しかった諏訪子の生活は、とてもつらいものとなったのだった」
あのー、効果音まで口に出さないで下さい、効果音まで。それって何だか、たまーに本屋で見かける、立ち読みで漫画を『音読』してる小さな子供みたいです。
……年齢、どう少なく見積もっても四桁はいってるのに、小さな子と同レベルの行動って……。
それにその流れだと、八坂様完全に悪役です。最終的には、相手の子孫に倒されて貸されたものを返す羽目になりそうです。
……て言うか、諏訪子って誰?
ああ確か、この神社で祀ってるもう一柱の神様、だったかしら?
この神社、八坂様とはまた別の神様が居るらしいけれど、その事については殆ど何も伝わってないし、実際、私も見た事ないしなぁ。
ま、それはともかく。
「八坂様。私今日、十時から出かける用がありますので」
「スーパーで万引き? 公衆便所で千円が一枚? 戦争行こうと三輪車で突撃?」
だからもう、そういう小学生男子レベルのネタはやめて下さい。しかもそれ、地域と年代によってバリエーションが多過ぎるので判り難いです。
「バイトです。帰るのは夜になりますので」
「バイトー? 早苗ったら、本当に真面目ねー」
そりゃもう。そうでなければ生活できませんから。
先代までの財産だって、そうそういつまでも頼れるわけじゃないんです。
「あ、そうだ。バイト行くんだったら帰りにお酒、お願いねー」
「……つい先日、大量に買い込んだ筈ですが」
「あの程度、腹の足しにもならないって」
そもそも、アルコール類を『腹の足し』として勘定しようとしないで下さい。
「ま、あれか。早苗はお酒飲まないから、その辺の事は理解しづらいのかしらねぇ」
判ってるんだったら、あんまり無理無茶言わないで下さいよ。
「よし! ここは一発、保護者として早苗にお酒の良さってものを教えてあげましょう!」
「はい?」
何でそうなるんですか。って言うか、誰が保護者ですか誰が。
ああもう、話が支離滅裂。これだから酔っ払い様は……。
「あの、私、これからバイトなので――」
「なにー? 私の酒が飲めないってー?」
教科書に『性質の悪い酔っ払いの例(図1)』とかいって図解付きで載せられてそうなくらい定番な科白を言いながら、一升瓶を手に迫って来る八坂様。
「ちょっ、待っ――!」
「それ飲めやれ飲めドンと飲めー♪」
私の口に無理やり瓶の口をt%&#”;:?????――……。
◆
「何時だと思ってるの貴方! 大遅刻よ!」
凄い大声。ああ、頭にガンガン響く……。
って言うか、ここバックヤードだけど店内へのドアは開けっ放しだし、今の怒鳴り声、お客さんにも聞こえてただろうな。恥ずかしい……。
「すみません。その、突然の大雨で――」
「貴方今日十時からだけど、雨が降ってきたのは十時過ぎてからよ!?」
そりゃそうよね。
無理矢理お酒を飲まされて気を失って、目が覚めたらもう十時過ぎ。カモフラージュと言い訳を兼ねて私は雨を降らし、それこそ文字通りの意味で飛んで来たのだけど……そうよね、どう考えてもアウトよねぇ。
「ちょっと! 聴いてるの、東風谷さん!?」
「ああはい! 本当にすみません!」
ああもう。なんで店長の居る日に限って遅刻なんてしちゃうかなぁ。
このおば……店長、とにかくネチッこいし五月蝿いしで、はっきり言って苦手。
うう、世が世なら、私は現人神として、貴方なんか声もかけられないくらいの……。
……って、ダメダメ。悪いのは遅刻した私の方なんだから。理不尽に他人を恨むなんて、そんなんじゃ駄目よね。うん。
「あの、それじゃ私、レジに――」
「ああ、もういいわよ。
レジは私が入るから、東風谷さんはドリンクをやってちょうだい。
さっき到着したばかりだから、入るだけ冷蔵庫に入れて、後はここの棚に整理しといて」
え、ちょっと。
ドリンクってあの、隅に積んであるダンボール箱の山よね?
あんなの、女の子がやる仕事じゃないわよ。今レジに入ってるのって男の人だから、彼にやってもらえばいいのに。
うう、これってイジメよね。世が世なら……。
◆
「ただいま戻りました、八坂様……」
「お帰りなさい。
どうしたの? 随分疲れた顔をして」
そりゃ疲れもしますよ。
今日は土曜という事で、バイトは朝十時から夜の六時半まで。途中で二回、一時間と三十分の休憩が在ったけど、それでも実働七時間。
まぁ、実際は遅刻してしまったからもう少しだけ短いのだけれど、その分普段は男の人にやらせるような力仕事までさせられて。
その上帰りは、両手に缶のお酒でギッシリのビニール袋。飛んで帰る気力すら残らなかったわ。
ああそれにしても、このお酒、いつも通りバイト先で、売り上げ貢献って名目で買ったんだけど。
『貴方、若い内からそんなにお酒ばかり飲んで』
ああ、違うんです店長。これは、私が飲むんじゃなくて……。
『それにね、東風谷さん。言いたくないんだけど、貴方、今日朝来た時にお酒の臭いがしてたわよ?』
ああ、それも違うんです。私は嫌だって言ったのに、八坂様が無理矢理……。
って言うか『言いたくない』のなら言うなー! 嫌味ったらしいっ!
うう、世が世なら……。
「どうしたのよ早苗。百面相なんかして」
しまった。顔に出てしまっていたみたいだ。
「ま、良いわ。早苗、ちょっと話があるんだけど」
何だか少し真面目な顔で、八坂様がこちらを見ている。流石に半日もすれば、お酒も抜けるみたいね。
「話って、長くなります?」
「ん? ええ、まあ。もしかしたらちょっと」
はっきりしないなぁ。
私は重い袋を台所まで運び、そこで時計に目をやった。もうすぐ七時半になる所。
「これから買い物に行くので、長くなるようでしたらその後にしていただけませんか?」
買い物なんて、本当はバイトの帰りに済ませておけば良かったんだけど、両手に大荷物を抱えている状況じゃちょっと無理。一番近くのスーパーまでもかなり離れてはいるけれど、今は夜だし、重荷さえ無ければ飛んで行けば良いのだから。
「いつも行ってるスーパーって、確か二十四時間営業でしょ。だったらそんなに急がなくても」
「八坂様の方こそ。夕食を食べながらゆっくり話せば良いではありませんか」
確かにあそこのスーパーは二十四時間営業。
でも今からだと、パックのお寿司がタイムサービスで安くなってるのよね。それを買って、帰る前に食べちゃおうって、そういう魂胆。八坂様には内緒で。私のちょっとした贅沢。
八時半くらいまでならほぼ間違いなく残ってるんだけど、確実にいくなら、やっぱりちょっと早めに行きたいし。
「……ああ、えっと。
やっぱりあんまり長くない話だから、ここで話させてもらうわね」
結局話すんですか。もう、勝手だなぁ。
まぁ、でも良いか。長くなりそうだったら、途中で一旦切ってもらって買い物に行けば良いんだし。
「引越しをね、しようと思うのよ」
「……はぃ?」
全く予想だにしてなかった単語を耳にして、思わず間の抜けた声が漏れてしまった。
引越しって、誰が何処に? 八坂様が、何処か別の土地に?
「幻想郷って、知ってるかしら」
「え? ああ、はい。一応」
聞いた事がある。幻想郷。
古くからの風習、失われた秘術や秘宝、そして妖怪。そんな、この世界では忘れ去られたもの達が集まるという世界。
そんな世界が、この国の何処か山奥にひっそりと存在しているという。
「でね、昨日の飲み会の時、その幻想郷の事が話題に上ってねぇ。
それで思い付いたのよ。
今のこの世の中で人間から信仰を集めるには限界があるって。だったら幻想郷に行って、そこで妖怪からも信仰を集めようって」
「妖怪から、信仰……ですか?」
「そうよ。
妖怪は人間よりも、精神的なものに重きを置く種族。可能性は充分にあるわ」
「でも……」
「このままここに留まったってジリ貧よ。だったらここは一発、ね。
幸い幻想郷には大きな山が一つ在って、そこには沢山の妖怪が住み着いているらしいから。
そこに神社や諏訪湖ごと、引っ越してしまおうって魂胆よ」
「諏訪湖って……諏訪湖!?」
「そう」
「そうって、この神社はともかく、諏訪湖まで消えたら、それはちょっと、とんでもない事に――」
「大丈夫よ。代わりのやつをちゃちゃっと創って、こっちにはそれを置いていくから」
何だか今、とてつもなくもの凄い事をあっさりと言われてしまった気がする。
私も色々な奇跡を起こせるけれど、八坂様はやっぱりスケールが違う。
「でね、早苗。貴方にももちろん、一緒に来てもらいたいわけよ」
その言葉を聴いて、流石に私は一瞬、固まってしまった。
それって、この世界とお別れするって、そういう事よね?
「あの……その幻想郷からって、こっちに戻って来たりとかはできるんですか?」
「結界で隔離されてるって言うけど、まぁ、完全完璧に断絶されていたらそもそも入る事ができないし。
早苗くらいの力があれば、何とか出入りはできるんじゃないかしら。多分。
ただ――」
ただ?
「――聞いた話だとね、どうも幻想郷って、出入りをする際に時間のズレが起きたりとか、そういう事があるらしいのよ。入ったら百年前になってるとか、出たら百年後になっちゃったとか。
まぁ、いわゆるウラシマ効果ってやつかしら?」
それはちょっと違う気が。
でも、言わんとしている事は理解できた。異界訪問や神隠しといった類の出来事に於いては、決して珍しくもない話。例えこの世界に帰って来られたとしても、そこは『私の知っている今の世界』ではないかも知れないという事。
「あ、いや。ほら、あくまで聞いた話ではって事よ。もしかしたら何の問題も無く簡単に行ったり来たりー、とかできるのかも知れないし」
私の表情を見て戸惑っている事を感じ取ったのだろう。八坂様がフォローを入れてきた。
でもフォローって言うにはどうにも、その、何だか。
「何だかさっきから、多分とか、もしかしたらとか、そんなはっきりしない言葉が多いですね」
重大な決心を人に迫ろうって時に『らしい』や『かも知れない』で締められるような話ばかりされても、そんなんじゃ無闇に不安を増幅させてしまうだけ。八坂様って絶対、セールスの仕事には向いてないわね。
「いやまぁ。
そもそも幻想郷ってさ、こっちで現役バリバリ絶好調の神からすれば、言い方は悪いけどロートルの行き着く先みたいなイメージで捉えられててねぇ。
昨日の飲み会に来てた連中の殆どが、あんまり詳しい事までは判ってなかったりするのよ」
もちろん私も含めてね、と、八坂様は付け加える。それって暗に、自分も『現役バリバリ絶好調』だって言いたいのかしら。
……ううん。『だった』、って事か。言いたいのは。
「ま、そんな事はともかく。
どう? 早苗も行ってみたくない? 幻想郷」
そんな、母親が子供に『面白い遊園地が在るんだって。次の日曜に一緒に行こっか』みたいなノリで言われても……。
「何て言うかね、私、思うのよ。
こうした時代に早苗のような、初代、って言うかあいつに匹敵するぐらいの力を持った子が東風谷に生まれたっていうのも、今この時に繋がる運命の一部だったんじゃないかって」
何だか随分と回りくどくて判りづらい言い方だけど、もしかして私、今ほめられた?
「幻想郷っていうのは、要は昔のこの国みたいな感じだしね。私達が絶好調だった、あの頃よ。
早苗もきっと向こうでは、現人神様だー、現人神様だーって、それこそ祀られる側にだってなれちゃうかも?
貴方小さい頃、『大きくなったら何にな~りたい?』って訊かれると、『かっみにっなるっ、なるっのっ♪』とか言ってたんだし、ちょうどいいじゃない」
「いや何ですかそのあんまり可愛くない子供!? いくらなんでも私――」
……あ、でも。ようく思い出してみれば確かに、そんな事を言っていた気がする。
私は小さい頃から八坂様の事が見えていて、話ができて、そんな私に八坂様は、背中から御柱を生やしたりそこから色とりどりの綺麗な光の弾を降らせてみたり、と、そんな事をして一緒に遊んでくれていた。
だから幼い私には、神様っていうのが、何だろう、テレビに出てくる魔法使いみたいなものだと思っちゃって。だって、人の背中から何かが生えるなんて、そんなの、子供向け番組で言ったら主人公がパワーアップした時の定番みたいなものよ。
それで私は、大きくなったら自分も神様になりたいって、確かにそう思っていたのよね。
「夢、今なら叶うわよ?」
そっか。私も神様になれるかも知れないんだ。そうしたらこんな、生活費のやりくりに困ったり嫌味な店長に頭を下げてバイトに行ったりなんて生活ともおさらばができて……。
「それに早苗。こっちに友達いないんだから未練も無いでしょ」
――ちょっと待て。
「あの、八坂様? 何だか今とっても、人が人に言ってはならない言葉の定番が聞こえた気が?」
「私神様だし。って言うか事実でしょ」
どうしよう。八坂様が八坂様でなかったらグーで一発いってる所よ。いくらなんでも酷すぎる言葉。もしこれがテレビ番組だったら、抗議殺到で最悪打ち切りよ。
「私にだって――」
――そう言えばあれは、小学校の卒業の時だったかしら。
担任の先生の提案で私のクラスでは、生徒全員に一枚ずつ色紙が配られ、そこに当人以外の全クラスメイトが『○○さんの良い所』みたいなのを書く、といった事をやった。
で、私に寄せられたのはというと。
『東風屋さんはマジメです』×29で以上。
何かもう、一番最初に書かれたのを全員そのまま真似したって、そんな感じが丸出したったなぁ。
「や、でも、あれは昔の話だし――」
――そう言えばついこの間、男子がしてた馬鹿話。
『やっぱウチで一番つったら、去年のミスの岡谷先輩っしょ』『郷田も良くない?』『確かに。名前ゴツい割りに可愛いし。あとB組の湊とか』
『東風谷は?』
『あー、何かアイツ地味だよな。それよっか塚間ってさ、結構ムネが――』
凄いわよね。当人の耳に入る距離で。て言うか、もしかしてあの時の私、存在を認識されていなかった?
ちなみに話に加わっていた男子全員、あの後体育の授業や部活の練習中、ここぞって時に『不幸にも』眼に塵が入ったりしていたそうで。天罰よ、きっと。
「ああ、そう言えば――」
先代が居なくなってからここ、八坂様以外に、人間に『早苗』って名前で呼ばれた記憶が……。
「あ、そうそう早苗。話は変わるんだけど」
人間と一緒に食事をした記憶が……何故だろう、思い出せない……。
「今ウチにね、お客さんが来たわよ」
お客さんか。そう言えばお客さんがウチに来たのもここ数年で一度も……。
「――って。
お客さん!?」
「ええ。早苗が帰って来たのとほぼ同じくらいに、こっちへの道を歩いて来る二人組みを感知したんだけど、その子達が今着いたわ」
「どうしてもっと早く教えて下さらないんです!」
「いや、だって、着いたの今だし」
「そうではなくて! ここに着く前、こちらに向かっていると判った時点で!」
「それは、『こっちの方』に向かってるってのが判っただけで、もしかしたら近所の別の所が目的なのかもとか――」
「ウチに近所なんて在りませんよ!」
よれよれのブラウスに、下は動き易いようジーンズ。それが、バイト帰りの今の私の格好。
いくら落ちぶれたとは言え、この守矢の神社を預かる風祝として、こんな格好で参拝者の前に出るわけにはいかない。大急ぎで着替えないと。
『すみませーん』
チャイムの電子音と共に、お客さんの声が聞こえた。
意外。若い女の子の声だわ。こんな遅い時間に、こんな辺鄙な所まで。
「八坂様。祭礼用のあの服、何処にしまいましたっけ!?」
「知らないわよそんなの」
最後に着たのって『ピンポーン』まだ先代が居た頃『ピンポーン』、修行期間中の事だし『ピンポーン』なぁ。多分、箪笥『ピンポーン』の奥の『ピンポーン』方に『ピンポーン』……あ、在った!『ピンポーン』 あ、でもこ『ピンポーン』れ、久しく着『ピンポーン』てないか『ピンポーン』らどう『ピンポーン』着れ『ピンポーン』ば良い『ピンポーン』んだっ『ピンポーン』たか『ピンポーン』って……。
あーもーピンポンピンポンやかましい! 小学生なの? 今ウチに来てるのって学校帰りの小学生男子!?
こっちだってできる限り急いでいるんだから、余計に焦らせるような事しないでちょうだい!
「返事くらいしてあげたらぁ?」
袖の部分が分離した独特な形の服を手に悪戦苦闘しつつ、私は小声で八坂様に応える。
(返事って、何て返事すれば良いのですか。『今着替え中なんで待ってて下さーい』なんて、そんな恥ずかしい事を言えとでも!?)
「別に恥ずかしい事でもないと思うけど。早苗って、変な所で融通きかないわねぇ」
(申し訳ございませんね! どうせ私は地味な堅物ですよ!)
「誰も地味とは言ってないけど。何かささくれ立ってるわねぇ。もっと落ち着きなさいよ」
落ち着いている間に逃げられるわけにはいかないんです。数年ぶりの参拝客に!
(どうですか、八坂様。これでしっかり着られています? おかしな所ありませんか?)
「んー、オッケーじゃない?」
よし。これで準備万端。私は大慌てで玄関に向かい、そうして戸を開いた。
「お待たせし……って」
あれ。誰も居ない。もしかしてもう、帰ってしまった……? しまったこんな事ならやっぱり返事だけでもしておけば良かったかしらああもう私ってばいつもこんな――……。
「あっちよ早苗。本殿の方」
一瞬またパニックに陥りかけた私を、後から付いて出て来た八坂様の言葉が落ち着かせてくれた。
八坂様の指す先、薄暗い境内の中、本殿の裏手に回ろうとしている二人の……女の子?の姿が見えた。良かった。まだ帰ってなかった。
私は大きく深呼吸をする。落ち着け私。焦るな私。
風祝の、東風谷の人間として、滅多に無い機会だからってパニックになったりせず、堂々と、厳かに、誇りを持って。
「何の御用でしょうか」
顔に穏やかな笑みを作ってから私は、静かに、そして優しく、背後から声をかける。
それに反応して、二人の少女がゆっくりとこちらを振り向いた。
「参拝の方? 珍しい。こんな辺鄙な所まで」
笑顔を保ったまま、私は続けた。
二人組みのうち一人は、黒い帽子に黒い外套とこの夜中に保護色みたいな格好をした女の子で、もう一人は金髪の……わ、外人さん! それも、お人形さんみたいな美少女。どうしよう、私、英会話なんて……えーと、アイアム、サナエ、シュラインメイデン?
「参拝と言うか、まぁ」
帽子の少女が、少々ばつの悪そうな顔で応えた。良かった、こっちの人で。金髪の子に話しかけられたらどうしようかと。
「大学のレポートを作るのに、この辺りの神社を色々調べていまして」
大学? と言うと。
「あら。もしかして、トウリの」
「トウリ?」
「え? あ、ううん。ごめんなさい、こちらの話。気になさらないで」
あ、違ったみたい。大学って言うからてっきり、諏訪東京理科大の人かと思ったけど。ここから一番近いのって多分あそこだし。
でもようく考えてみれば、理科大の人がレポート作成で神社めぐりっていうのも違う気がするわね。それに、近いって言っても実際それほど近いわけでもないし。
だとしたら、塩尻の歯科大……も違いそうだし、信大かしら。そうすると、来たのは松本から?
「貴方達、もしかして、この辺りの人では――」
「ええ、京都から」
「まあ、京都!
そんな遠くから、わざわざ大学のレポートの為に」
京都。県内ですらないじゃない。て言うか日本の首都!
ああ、道理で。こんなお洒落な格好で、しかも一人はブロンドの美少女。流石、都会の大学生は違うわねぇ。
いいなぁ。私も京都、行きたいなぁ。修学旅行で行って以来だしなぁ。
……ん、あれ、ちょっと待って。そう言えば、大学のレポートの為って、もしかして彼女達、参拝客じゃないって事?
ああ、早とちりだったわ。お客さん=参拝客だとばかり……。
「あの、それで、この神社について、ちょっとお話を聞きたいんですけれど。
例えば、裏――」
「ねぇ、貴方達」
参拝の人でないのだったら話は別。ちょっと申し訳ないのだけれど、どうも長くなりそうな気配を感じたので強引に切らせてもらった。
「あの――」
「京都から来たと言ってましたけど、今日の内に帰るのですか?」
「……いえ、今晩は宿をとってあって、明日、帰る予定です」
「それなら今日の所は宿に戻って、お話をするのはまた明日に。そうしてはどうかしら?」
私だって、それはまぁ手伝いはしてあげたいし、て言うか実際してあげるつもりだけど、それは別に明日でも良いじゃない。
正直、今日は色々あって疲れてるし、それに、早くしないとスーパーのタイムセールのお寿司も無くなっちゃう。
「都会の方には判らないのかも知れませんけれど、この辺りのような田舎の夜道は、結構危ないものなのですよ。だから」
暗い道で容赦なくヘッドライトを浴びせてくるから、自動車とすれ違う度に視界が奪われるのよねぇ。しかも帽子の女の子なんか保護色。懐中電灯だって持ってないでしょうしね、都会の人は。
「でも――」
「安心して下さい。別に私は、逃げも隠れもしませんから。また明日、いらして下さいな」
明日はバイトも休みだし、ゆっくりと相手をしてあげられるから。というわけで、さっさと帰る帰る。
「判りました。それでは、今日はこれで。夜分遅く、失礼しました」
こんな、滅多に訪れる人の無い神社までわざわざ来てくれたのに、本当、申し訳ないとは思うけど、その分明日、丁重にお相手をさせてもらうから。
そうだ。スーパーに行ったら、ちょっと高めのお茶とギフト用のお菓子を買っておこう。明日の準備として。
「行きましょう、メリー」
金髪の少女に声をかけ、帽子の女の子は鳥居に向けて歩き出した。
と思ったら、すぐに立ち止まってこちらに振り返り。
「帰る前に一つだけ、訊きたいんですけど」
「……なんでしょう?」
しまった。つい、話を受けてしまった。引いたと見せかけて油断させて、そうして急に、だったから。流石は都会の学生、駆け引きが巧い。
まぁ、一つだったら別に良いかしら。
「その蛇と蛙の髪飾りって、貴方個人のアクセサリーなんですか。それとも」
「代々、この神社に伝わる物、ですが?」
先代から伝えられた話では、この髪飾り、初代の頃から東風谷の家に伝わっているらしい。
「なんで、蛇と蛙なんですか?」
……え? ぇーと、えー?
この髪飾り、子供の頃からずーっと着けてて、デザインに疑問を持った事なんて今まで無かったし、特に話を聞いた事も無いし……。ああでも、八坂様のしめ縄が確か、蛇の絡まっている形をイメージしているらしいから、そうすると蛇の方は八坂様の事かしら。でも、蛙は?
「さぁ、なんででしょうね?」
「蛇っていうのは、何となく判ります。脱皮をする姿が、死と再生の繰り返しと見られて、色々な神話で神聖化されていますし。
でも、何でここでは蛙が一緒なんですか。
蛇と蛙っていったら、食う者、食われる者の関係ですけど、それを一緒に装飾具としている理由は?」
うわ。凄い、流石にちゃんと勉強してるわね。追及の手が厳しいわ。何だかまるで、学校の授業で研究発表をして、その後にクラスメイトからの質問を受けてる時みたい。はっきり言ってこういうの、苦手。だって、私にも判らないんだもの。
でもどうしよう。さっきはつい、口が滑って『なんででしょう』とか言ってしまったけど、東風谷の人間が学生に質問されて返答に窮するなんて、こんな体たらくじゃ先代までに顔向けができないわ。
でも実際、知らないものは知らないのだし。どうしよう。どうする? 何かこう、適当にそれらしいこと言って誤魔化そうかしら。でも、それらしいことっていっても、うーんと、えーっと……。
「どちらも同じ爬虫類、だからじゃないかしら?」
にっこり笑って言ってみた。
……納得、してくれるかしら。これで。
「蛙は両生類、ですけどね」
…………。
……しまった――っ! 素で間違えた――っ!
ああもう、軽くパニックになっていたせいで小学生でもやらないような間違いを! 何だか今、もの凄い呆れた顔でツッコミを入れられた気がする……恥ずかしい……。
蛙と蛇の間柄は、ユーステノプテロンとディメトロドンの間柄と同じくらいは離れているわ。
……ん、あれ、ユーステノプテロンは魚類で、ディメトロドンは……単弓類、だったかしら。
まずい。まだちょっと、頭が混乱しているみたい。落ち着け早苗、焦るな早苗。とりあえず、笑顔だけは崩さないように。余裕、余裕を持ってるように見せなきゃ。
うーむ、でも、こうなったらもう、下手に見栄を張ろうとせずに、正直な所を言った方が傷口を広げずに済みそうね。
「やっぱり諏訪大社の、蛙狩神事と関係があったり――」
「ああ、あのね。
ごめんなさい。私もよく知らないの。本当に。ごめんなさい」
私の選択、正解だったみたい。この人、京都の人なのに蛙狩神事の事までちゃんと調べて来てる。変な言い訳をしていたら、また痛いツッコミを喰らってたわね。
でも、そうね。確かに蛙狩神事は関係がありそうだし、後で八坂様に訊いてみよう。
「髪飾りについては……判りました、ありがとうございます」
ああ、良かった。とりあえずは納得してくれたみたい。今日中に色々と予習をしておいて、明日こそは名誉挽回といかなくちゃ。
と、一安心したのも束の間。
「最後に、これで本当に、最後ですけど」
一つだけ、と言いつつ、質問が二つ、いえ、正確には三つ目になってるけど、勘弁してちょうだい。
正直、予習さえしてあれば大抵の事はこなせる自信があるんだけれど、抜き打ちとか、アドリブとかって苦手なのよ。
あまり答えにくい質問はしてほしくないんだけど……。
「貴方は神様の存在を信じていますか」
あれ、ちょっと意外な質問。まぁ、ここは無難に。
「いいえ、と、言うわけにはいきませんね。神社の人間としては」
少し困ったような顔を作って、そうして答えてみる。普通の神社だったらきっと、こういう反応をするでしょうしね。
でも、どうやら彼女のお気には召さなかったようで。
「宗教家としてとか、信仰の云々とか、そういう話じゃなくて。
『テレビに出てくる有名人は実際に存在する』っていうのと同じレベルで、貴方個人が、神様が実際にいると思っているのかどうか、と、それを訊きたいんです」
神様の実在、か。普通だったらこういうの、哲学とかの問題になるんでしょうけど、私の場合、むしろ日常の問題だし。
ちなみにこの場合の問題っていうのは、障害とかそういうのと同じ意味合い。
ウチの家計がきついのって、お酒だとかゲームだとか漫画だとか、そうした神様へのお供え物のせいっていうのが大きいわけだし。それなのにうちの神様、今は全然働いてくれないし。
かと思ったら突然、引越しの話なんか持って来るし。
「世の中、知らない方が良い事も在りますよ」
世の一般の人はきっと、神様って何だかとても凄い力を持っていて、それでもって高潔で――とか、そういうイメージがあるのでしょうけど。まぁ、そういうものをわざわざ叩き壊すような真似をしなくても、ね。
って、いけないいけない。今ちょっと、思いっ切り疲れてる気分が顔に出てしまっていた気がする。余裕を持って、スマイル、スマイル。
「それでは。帰り道、気を付けて下さいね」
まだちょっと不服そうな顔をしながら、でも帽子の女の子は、ブロンドの美少女を連れてやっと帰ってくれた。
「……っはぁー、緊張したー」
二人の姿が完全に見えなくなったのを確認して、私は大きく息を吐く。
帽子の女の子の質問攻めもきつかったけれど、もう一人のブロンドの女の子はブロンドの女の子で、話をしている間ずっと私の事をじろじろと見回していたし。やっぱり私の今のこの格好、風祝の正装としてのこの服装が珍しかったのかしら。外人さんだし、巫女の服とかそういう日本的なものに興味を持ちそうだし。
ああでもそれ以前に、ただ単純に『変な格好』と、そう思っていただけなのかも知れない。私が言うのもアレだけど、この格好、肩の所に隙間が空いていてスースーするからこれからの季節はちょっと辛いし、それに、正直に言ってコスプレみたいで恥ずかしいのよね。
「ねぇ早苗」
頭のすぐ後ろから八坂様の声がした。あれ、もしかして今話をしている間、ずっと後ろに?
「内心緊張しながらも必死になって表面だけは取り繕っている姿が、見ていてとても面白可愛かったわ」
やかましいです。
「ずっと見ていたのでしたら、少しくらい助け舟を入れて下さっても」
「ああ、いや、下手に動くと見付かるかも知れなかったから。一応は私、隠れておいた方が良かったでしょう?」
確かに。東風谷の掟では、八坂様の存在も決して外部に知らせてはならないという事になっているし。でも。
「見付かるわけありませんよ」
八坂様の姿は誰にも見えないし、声は誰にも聞こえない。そう、私以外には。
少し呆れ顔で応えた私に八坂様は、けれどそれ以上の呆れ顔になって返してきた。
「もしかして早苗、気付いてなかったの?」
……何に?
「あの二人、普通の人間じゃなかったわよ。どちらも随分と面白い眼を持っていた。
特に金髪の子の方なんか、私とあいつの、姿まではっきり見えていたかどうかはともかく、少なくとも存在だけは気付いていたわ。
だからこそ、あんなにこちらの方をじろじろと見ていたんじゃないの」
面白い眼って、何それ。
それってまさか、今のこの世の中に、私以外に異能の力を持った人間が居るって、そういう事? それとも京都ではもしかして、そんなに珍しいものでもなかったりするのかしら。
ああでも、それじゃああれって、別に私の事を見てたんじゃなくて、見てたのは八坂様の方だったんだ。
やだ。私ったら恥ずかしい。何て言うか、自意識過剰だったかも。
「あれ、もしかして早苗、見られてるのは自分だと――」
「アッ! あーあー! そう言えば八坂様! 色々お聴きしたい事があるのですがっ!
この髪飾りの事とか、やっぱり蛙狩神事と関係があるのか、とかっ」
「ん? ああ、さっき質問されてたやつ?」
ちょっと強引だったけど話題転換成功。自分自身で恥ずかしいと認識している事を、更に他者からツッコまれたくはないんです。
「話すと長いから面倒なんだけどねぇ」
「そこを何とか。明日の予習という事で」
「じゃあまぁ、簡単にね。一言で言えば関係『アリ』」
「はぁ。それはどういったご関係で」
「その髪飾りの蛇が私の象徴だっていうのは判る?」
「はい」
「蛙はあいつの象徴。蛙狩神事は、まぁ、ぶっちゃけ元々、あいつへの嫌がらせという事で始めさせたものだし。あいつには随分苦労させられたから」
あいつ、あいつって頻繁に出てくるけれど。それって。
「あいつってその、この神社にもう一柱、いらっしゃるという――」
「そう、諏訪子の事」
「諏訪子様、ですか。
……あの、その、諏訪子様って一体、どういった方なのですか」
「何よそれ。自分の所の神様なのに」
「先代からは殆ど何も伝わっておりませんし、それに、私自身も見た事が無いので」
「あー。そう言えばここ百年ちょっとくらい、あいつ本殿から出ずに寝てばっかりだからねぇ。流石は蛙」
うちの神社の神様って、かたやニート、かたや引き籠もりっていう事なんだ。
「蛙がその、諏訪子様の象徴だという事は判りましたけれども。そもそも、何故守矢の神社には二柱の神様がいらっしゃるのですか?」
複数の神様を祀るなんていうのは普通の神社ではごく当たり前の事だけど、うちの場合は事情が特殊だし。
「その辺が長くてめんどくさいんだけどねー。それに確か、随分と前にだけども同じ話をした気が」
「私は聞いた事ありませんが」
八坂様の言う昔って、もしかして何百年の昔、数代前の東風谷の人間に対してじゃないかしら。神様は人間と時間感覚のスケールが違い過ぎるから。
「ああでも今日の朝、酔ってた勢いで話さなかったっけ」
「あれだけでは何も判りません」
って言うか、あの話って実際にあった出来事なの? 八坂様、それじゃまるで悪のカリスマ。
「んー。じゃあまぁ、かいつまんで」
観念した様子で息を吐き、そうしてやっと八坂様は話し始めた。
「大昔の話だけどね、私はこの地にやって来てここの神だった諏訪子と勝負して勝って、そうしてここの新たな神様となった。
でもまぁ、色々ゴタゴタがあって、結局ここの支配はあいつが続行する事になったの」
「そこで建御名方神、ですか」
「そう。そのまんまだと他の大和の連中から、『知ってる? 洩矢の王国に行った奴って、結局地元の神に勝てなかったんだって』『うわ、ダサッ』とかありもしない事を言われそうだからね。
だからあいつに名前だけの神を融合させて、『そんな事ないですよー。洩矢の王国はちゃんと新しい別の神様が支配しましたよー』と、外からはそういう風に見えるよう体裁を整えたってわけ」
それってインチキじゃあ……。
「でも、それでしたら何で、その時に八坂様御自身のお名前を使われなかったのですか」
「だってほら、自分の名前をそのままあいつに付けたりしたらねぇ。
もし知り合いが遊びに来たりでもしたら、『あれ、神奈子ってちょっと見ない間に随分と印象変わった? て言うか幼くなってる?』とかなって、事の色々が露見しかねないもの。あの蛙に、その辺うまくやれって言っても無理だろうし。
だから私は『新しく洩矢の神様になったのはウチのツレなのー。でもって私は子育てに忙しいからー』って事にして、余計なツッコミ入れられる前にここへ寿退社決め込んだわけ。
うちに神様が二人いる理由っていうのは、まぁ大体そんな所」
うーん。正直、まだあまり良く理解はできていないんだけれど。でも、何だか思っていたよりも俗っぽい話というか。まぁ、世の中の実際なんてそんなものなのかしら。
「あー、でね。
話題は変わるけれど、さっき話してた……」
少し真面目な顔になって、八坂様が切り出してきた。
「引越しの話ですか。幻想郷への」
「そ。自然豊かな土地で妖怪と信仰心にあふれる充実したセカンドライフを過ごす。素敵だと思わない?」
「まぁ、確かに」
「でしょ、でしょ」
確かに、私のような異能の力を持った人間には、奇跡を奇跡として信じない今のこの世の中は合ってないのかも知れない。ならいっそ、奇跡が奇跡と認められる世界に行った方が良いのかも、と、そうも思う。
でも。
「でもまだ暫くは、ここに留まっては如何でしょう」
「えー?」
八坂様は不満を声に出すけれど、でも私は、まだこの世界を離れる気にはなれない。
さっきのあの二人組。私以外にも異能の力を持った人間が存在する。それを知って私は思ったのだ。この世界にもまだ、希望はあるんじゃないかって。
「この地に留まったままで、信仰を集める為の努力をする。まずそれが先なのでは」
「努力って言ったって、具体的にどうするのよ」
「そうですね、例えば……八坂様の長所といえば、今の世の大多数の神々と違い、口約束や気休めだけではない、実際に起きる出来事としての神徳があると思うのです。ですから、それを活かして」
「そうしてやってきて、で、今のこの状況なんだけどね」
「それでしたら、五穀豊穣や武運といった事も良いのですが、もっと今の世の中に合った、多くの人々の身近な事柄に関する神徳を顕してみては?
学業成就だとか、縁結びだとか、交通安全だとか」
「私は風雨を司る神よ? 勉強とか恋愛はどうしようもないって。
……あ。でも、交通安全ならアリかしら」
「ですよね?
とりあえずは今の二人組、彼女達の帰りの交通安全を保障してあげれば、明日来た時には信者になってくれるかも知れませんよ?」
「あの子達の交通安全か。うーん、地味だけど、まぁ、小さな事からコツコツっていうのも一つの方法かしら」
良かった。八坂様も納得してくれたみたい。
さて、何だか色々な事があって随分と遅くなっちゃったけど。
「それでは私、買い物に行ってまいりますね」
大急ぎで飛んでいけば、多分タイムセールのお寿司にも間に合うでしょう。
「それでは」
「あ、その前に一言だけ」
もう既に両足は地面から離れていた私を、八坂様の声が引き止めた。
「早苗ってば、ジーシキカジョー♪」
……意地悪。
◆
「あーあ。お寿司……」
大きな買い物用マイバッグを片手で持ちながら、夜の空の中で一人、私は声を出して嘆いた。
確かに色々あって遅くはなったけれども、それでもこの時間、いつもだったら二つか三つは確実に残ってるんだけどなぁ。パックのお寿司。
別にどうしても食べたかったわけでもないんだけれど、当然食べるつもりでいた物が食べられないとなると、何だかもの凄くテンションが下がってきちゃう。これから帰ってお料理とか、そんな気力まで消えちゃった。
マイバッグの中に入っているのは、パスタと、あとはレトルトのミートソースだけ。今日はこれで済ませちゃおう。サラダはまぁ、今日は無しで。デザートは確か、冷蔵庫にヨーグルトが在った筈。明日の朝食もこれでいこう。
……あ。明日って言えば、お客様用のお茶とお菓子、忘れてた。どうしよう、戻るのも面倒だし。
ま、いっか。明日、朝早く起きて買いに行けば。便利ね、二十四時間営業。
それにしても……ちょと気になったんだけど。
お店で周りの人達が、何だか私の事を見てひそひそ言ってた気がするのよねぇ。あれ、何だったんだろう。
……この事、八坂様に話したらきっと、またジーシキカジョーとか言ってからかわれるんだろうな。
「ただいま戻りましたー」
『お帰りー』
声はすれども姿は見せず。聞こえたのは、居間へと通じる襖の向こうから。
私は台所に荷物を置いてから、外から帰ってきたら風邪の予防、と、お風呂場に行って洗面台で手を洗い……。
……って、今、鏡を見て気付いてしまった。私、東風谷の祭礼服を着たまんまで買い物に行っていた。
うっわ、道理で周囲の視線を感じるわけだ。こんなコスプレみたいな格好。恥ずかしい、知ってる人に見られなかったかしら。
「失礼いたします、八坂様」
一声をかけて居間に入る。目に飛び込んで来たのは、パソコンに向かって座っている八坂様の背中。
「これから食事の用意をいたしますので、ゲームはもうそろそろ切り上げてくださいね」
ちょっと前に買って来た、これまた昔のパソコンゲーム。空を飛ぶ不思議な巫女さんが妖怪を退治するシューティング。
それにしても八坂様。さっき、ちょっとはヤル気を見せてくれたと思ったのに、またゲームばっかりして。
「またゲームばっかりしてー、とか、そんなこと思ったでしょ、今」
「いいえ。そんな事ありませんわ」
「私だってね、別にゲームをする為だけにパソコンをつけたわけじゃないのよ。今の今までは、ネットで交通安全について調べてたの。で、その後、早苗が帰ってくるまでのちょーっとした時間潰しに」
にしては何だか、敵キャラの居ない画面の中で巫女さんが、不死鳥の羽にまとわりつかれながら飛び回っているのが見えるんですけれど。あ、でも、もしかしてこれは練習モード?
それにしても神様がネットで調べ物って。さっき色々言ってた割りに、八坂様って結構、現代文明を謳歌してる気がする。
「でね、早苗。ちょっと気になった事があったんだけど」
こちらには振り向かず背中を見せたまま、八坂様は話を続ける。しかもゲームをしながら。器用だなぁ。
でも、このゲーム、私も前にやった事があるけれど、今の攻撃に関して言えば慣れれば結構簡単だし。
「何でしょうか?」
「踏み切りのさ、事故ってあるわよね」
「はぁ。踏み切り、ですか」
「踏み切りの中で自動車が立ち往生しちゃって、それに電車がぶつかるとか、そういうやつ」
たまにニュースで見るわね、そういう話。まぁでも、交通事故全体からすれば、どちらかと言えば少数派な感じがするけれど。
「ああいう場合って、自動車の運転手の方に過失があったら、やっぱり、損害賠償請求とかされちゃうのかしら?」
「そうなると思いますが。
確か昔、新聞か何かで、実際そういう話を読んだ記憶がありますから。自動車側が多額の賠償金を払わされたという。
踏んだり蹴ったりですよね。自動車を壊され、場合によっては大怪我もして、その上で賠償までしなくてはならないのですから」
「あー、やっぱり、そーなんだー……」
消え入りそうな声でそう言って、それから先は何も言わず黙々とゲームを続ける八坂様。こちらの事は全く見ようともしない。
画面の中では、少しずつ攻撃が激しくなってきている。でも、これくらいならまだ余裕で……。
「え? そこでボム?」
思わず声が出てしまった。まだ追い込まれるにはほど遠い状況だったというのに、八坂様、あっさりとボムを使っちゃった。
「臆病だな、とか、ヘタレ、とか、そう思った?」
「ぃ、いえ、別に」
ほんの少しだけは。でも、まぁ。
「無理に粘って抱え落ちするとか、そんな事になってしまうのが一番悪いですからね。今のくらいに用心深い方が良いと思いますよ」
「そうよね、用心深いっていうのは悪い事じゃないわよね? 危険を未然に防ぐっていうのは、良い事よね?」
「ええ、そう思います」
私がそう言った、その途端。
「ぃよ――っし! 良かった、やっぱり私は悪くない!」
ゲームを中断し、大声を上げながら八坂様は立ち上がった。たかがゲームの事で、そこまで大げさに一喜一憂しなくても。
「いやね。実はちょっと、早苗には言いにくい事があったんだけど、でも今の言葉を聞いて安心したわ」
頭を掻きながら嬉しそうな笑顔を向けてきた八坂様を見て、逆に私の胸の中には妙なモヤモヤがわいてきた。
「買い物前に早苗が言ってた、あの二人組みの交通安全って話。実際にやってきたんだけど」
八坂様が私の言う事を聴いて事を起こしてくれた。それはとても嬉しい事の筈なのに、何だろう。
「でまぁ、あの帽子の方の子。道を歩きながら色々考え事しててね、連れの子も『危ないわよー』とか言ってて。で、そんな所にちょうど、車が迫ってきたわけよ」
何だろう、急激に沸いてくる、この……。
「多分ぶつかりはしないだろうなって、そうは思ったのよ。でも、万が一って事もあるし、用心をしておくに越した事は無いかな、と」
――この言い知れぬ不安感!
「でね、車を止めようとして、咄嗟に御柱を創って落としちゃったの。ドーンって」
ちょっと待て――っ!?
「御柱って、まさか、車とぶつかったりは!?」
「ああ、うん。本当はまぁ、単にビックリせて足止めってつもりで。ただほら、昔から言うじゃない。駐車場のナンバーで唯一車が止まれないのは――」
「怪我人は!?」
「出すわけないじゃない。私これでも神様よ?
ただまぁ、車の方はちょっと、凄い事になったかも」
ちょっと! ちょっとちょっとちょっと!?
車が大破って、その賠償はまさかウチに? ううん、それだけじゃない。道路が破損でもしていたらその修理とか、あとは御柱の撤去とか、その他諸々の費用、もしかしたら全部!?
「直せるんですよね? 八坂様、神様なんだから当然奇跡を起こして直せるんですよね!?」
「昔の人は言いました。起きないから奇跡って――」
「起こせますよね、神様なんだから!」
「いやほら、壊れた物の修理なんて、それ、私の能力の範疇と全く重ならないし」
「ちょっと――――ッ!?」
「……まぁでも、早苗も言ったじゃない。用心深いのは良い事だって。だからまぁ、これも良い事、みたいな? 感じ?」
「無理して可愛く言ってみても駄目です! どうするんですか、こんな事しでかして!」
――あ、でも、待って。
冷静に考えてみれば、現場で実際に起きた出来事っていうのは、『道路に突然御柱が降って来て、それに車がぶつかった』という事のみ。
「八坂様が落としたなんて、そんなこと誰も判るわけが無いし……常識的に考えれば風で飛ばされたとかどうとか、そういう話に落ち着くわよね。いくら警察が優秀でも、捜査の手がウチに及ぶなんて事は――」
「ああ、あのね。御柱にね、実は描いてあったりするんだけど。蛇と蛙」
蛇と、蛙?
「でまぁ、現場にはあの二人が居たわけで」
――――ッい。
「一体何を考えてるんですか――ッ!? そんな犯行現場に名前入りの凶器を置いていくような真似! 推理物だったらまず間違いなく引っかけですけど、現実じゃ真っ先にウチが疑われますよ!」
「あ、いや。いくら御利益を与えても、それが誰からか判らなきゃ意味ないかなー、とか思って」
どうしよドウシヨどウしヨ動詞よ!?
「それでもって、実際、あの二人こっちに向かって来ちゃってたりなんだり……走ってるみたいだから、多分、もうすぐに着いちゃうかもー……」
――――ああ、そうだ。そう言えば。一つ、全てを解決できる良い方法が、一つだけ在るじゃない。
「八坂様」
「はっ!? はひっ、何でしょう!?」
私は八坂様の両肩にガッシリと手を乗せて、そうして言った。
それにしても、何で八坂様が敬語? そんなに私、怖い顔してる?
「行きましょう、幻想郷に」
◆
『そろそろ来る頃と思っていましたよ』
二人の少女を遥か下に見ながら私は言った。ふふ、驚いてる驚いてる。人前で空を飛ぶって、初めてやったけど気持ちいい!
ああ、それに何だか今の科白、ゲームや漫画のラスボスみたいで格好良いわよね。風を弄って意図的に声に揺れを生じさせたり、演出もバッチリ。
『これから私“達”は、幻想の世界へと旅立ちます』
うふふ。光ってるわ。私今、最高に光り輝いているわ! それこそ文字通りの意味で!
客星の光を召喚して背後に設置。ああ、今彼女達の眼には、私の姿、一体どれだけ神々しく映っているのかしら!
実際の所、幻想郷に移る術は全て八坂様がやってくれていて、私は別に何もしなくて良いのだけど。だから、客星の光も単なる演出。
特に意味も無く光り輝く。これも、ある意味こういったシーンでのお約束みたいなものなんだし。
ああ、素敵。とってもイカシてるわ東風谷早苗!
「旅立つって、幻想の世界って、何?」
帽子の子が声を上げた。ふふ、あの子、よく判ってるじゃない。
こうした展開では必須の要素、『なぜなに君』。あ、女の子だから『なぜなにさん』かしら。
『この世界で忘れ去られたもの、即ち、幻想になったものが流れ着く世界。
今の世は、既に神を必要としていません。ならば私“達”がここに留まる理由も、もはや在りはしないでしょう。
ですから私“達”は、人の世を離れ、素晴らしき奇跡の世界へと向かうのです』
なぜなにさんに向けて、こうやって上の視点から物を話す。これがまた気持ち良いのなんのって!
ああ。私の事をお天気小学生と言った人達。口うるさいバイトの店長。私に対して『マジメ』以外の認識を何一つ持たなかった上に漢字間違えていた小学校のクラスメイト。人の事を『地味』の一言で片付けた馬鹿男子。
彼らにも見せてあげたい。今の私を、本当の私を!
「幻想の世界に行くって、それって、私達がここに来て貴方と会った、その事も関係しているんですか?」
一足お先に幻想郷へ行きかけていた私の意識を、けれど、ブロンドの子の言葉が引き戻した。
そうね。確かに。
『そうですね。貴方達がここに来た事がきっかけとなり、“私”にも決心がつきました』
貴方達が来なければ、八坂様もあんな馬鹿な真似はしなかっただろうし。いや、その内いつかはやっただろうけども。
とにかくウチには、信仰はもちろんお金も無いの。先代までの財産を崩す生活もイッパイイッパイ。
車とか、道路とか、絶対に何十万では済まないだろうし、もう無理。絶対無理。
そーよぶっちゃけ夜逃げよ何悪い!?
『さぁ、お別れです。
幻想の世界は、この世界とは流れる時が違うとも言われています。もう、貴方達と会う事も無いでしょう』
ああ、視界がだんだんとぼやけてきた。眼に映る風景が、私が生まれ育った世界が、少しずつ光に飲まれて溶けてゆく。
さようなら、何にも良い事なかったこの世界。そしてこんにちは、私の新たな理想郷。
『待っ――』
薄れゆく意識の中、最後に聞こえたのは、ブロンドの子の何処か悲痛な叫び声だった。
◆
――風の吹く音と、水面に波の立つ音が聞こえる。
「――あ」
私達の目の前に在るのは、夜の湖の風景だった。私がよく見知っている、あの諏訪湖の姿。
でも、今私達が立っているのは、山に少し入った所に在った筈の、湖を見える場所には無かった筈の守矢の神社。
そして湖の周囲に在る光景も、人工物なんて何一つ見えない、深い深い山の中。
「あの子達、今頃ビックリしてるだろうなぁ、きっと」
最初に口をついてでてきたのは、そんな言葉だった。
「そうね、驚いているでしょうね。
帰りの手間を省くって事で、わざわざ公園まで飛ばしてあげたから。『新しい』諏訪湖の見える公園に。
あの子達の眼なら異変に気付くだろうし、きっと鳩が豆鉄砲喰らったような顔してるわよ、今頃」
悪戯な笑みを浮かべて、冗談っぽく八坂様が言った。
「それにしてもさっきの早苗。すっごい格好良かったわよ?」
「やめて下さい。からかうの」
今から考えると私、かなり恥ずかしい事をしてた気がする。何かこう、お腹に溜まっていた色々が一気に出てきて、むやみやたらとテンションが上がりまくっていたしなぁ。もしさっきのやり取りを誰かがビデオにでも撮っていて、それを『ハイッ』なんて見せられた日には……って、そんなのありえないけど、想像したら心の中が恥ずかしさと痛々しさで一杯になってきた。
本当にもう、調子に乗っちゃってる時の自分って、冷静になってから思い返すとかなり辛い。そう冷静になって考えれば……。
考えれば。
……?
考えれば?
「――考えれば、例の御柱、ウチから持ち出したやつじゃなくて、その場で創ったやつって言ってましたよね」
「え? ええ。一瞬で背中から生やして、そのままドーンって」
という事はつまり、あの御柱を物理的にいくら調べてもウチには繋がらない。蛇と蛙の絵だって、その程度の物は何の証拠にもなりはしない。
結局、出来事の大部分に八坂様の『目に見えない力』が働いてる以上、異能者であるあの二人ならともかく、警察がいくらがんばった所で物的証拠があがる筈も無いわけで……。
…………。
「はーやーまっったぁ――――!!」
うわああしまった早まった! 別に私、夜逃げする必要なかったんじゃないの!?
「いーやー! おウチ帰るーっ!」
「おウチなら、ほら、ここじゃない」
そうじゃなくって!
「ポテチ! ポテチが食べたい! それにカップ麺に、コンビニ弁当に、ハンバーガーにっ!」
「あら、早苗ってそんな不健康な物が好きだったの?」
好きでも何でもありませんよ! でも、もう食べられないと思うと無性に食べたくなるんですーっ!
「そんな事より早苗。そろそろご飯にしましょうよ。久しぶりに大仕事したから、何だかとってもお腹が空いて。
今日はパスタでしょ? 早く作ってよ」
「こんな山奥でどうやって作れと言いますか!?」
「山奥って言ったって、神社は在るし台所もそのままだし」
「電気はガスは水道は!?」
「――あっ」
『あっ』て言った? 今。
何、『あっ』て?
もしかしてその辺りの事、何も考えてなかったのー!?
「電気が無いとすると……冷蔵庫のヨーグルト、早めに食べた方が良いわね」
「それはどうでもいいしっ!」
「ああそう言えば、もしかしてネットも駄目?」
「当っ然でしょうがぁーっ!」
ああもう! とにかくここは、一旦外に出て、食べられなくなるお菓子とか買えるだけ買って、欲しい本も全部手に入れて、それから、それから……!
「八坂様! ここは一度、外に出て準備をし直してから改めて――」
「あー、まあ、その……それについてはちょっと、言いにくい事が……」
言いにくいって、まさか。
「時間ねぇ、やっぱりズレちゃったみたい。と言っても、百年とかじゃなくて、数十年昔。ま、大した事は無いわよね?」
そんな、『やっば、今日ガッコウ遅刻しちゃったー☆』みたいな軽いノリで言われても!?
「大した事ないって、八坂様ならそうでしょうけど 、人間の私には大問題ですよ!」
「まぁ、大丈夫じゃない? 戻る時にはまたズレが起きて±0になるとか」
マイナスマイナスの可能性も在りますけどねっ。
あーああもうっ! 何で、どうして、こんな……。
ううん、駄目。駄目よ早苗。ネガティブになっては駄目。ネガティブになると、猫背になるって言うし。なんてこった。
今の私の状況、完全にマイナスだけど。でもそれでいいじゃない。ここから逆転すれば良いだけの事なんだから。
クールにいきましょう、早苗。周りから真面目真面目と言われ続けてきた、そんな私の真骨頂を発揮する時は今なのよ。元の世界に戻るのが無理なら、今いるこの世界で有意義に過ごせる方法を、真面目に、一生懸命、頑張って考えれば……。
――そう。ここを、幻想郷を、私達の真の理想郷に……。
その為に私は、私も……。
「……かっみにっなるっ、なるっのっ……」
「? 何よ早苗、今度は急に静かになって」
……そうよ、もう、私に残された道は一つ。
「八坂様、私、決めました!
私、東風谷早苗は、現人神の末裔として幻想郷全ての信仰をこの神社の、八坂さまのものとする事をここ誓います!」
人も妖怪もぜぇーっんぶひっくるめて、幻想郷に存在する者達全ての信仰を独占する。そうして。
「そうして八坂様と私は、幻想郷で唯一無二の神となるのです!」
「いや。『私と早苗』って時点で既に唯一でも無二でもないし。あと、諏訪子も居るし」
八坂様が何かを言ってるけれど、それは気にしない。
「ダイジョーブ、任せてください! あっという間にこの幻想郷全ての信仰を集めて来ますっ。
何せ今の私は、自分のこの力を誰の目をはばかる事も無く存分に使えるのですから!」
ああもう、何だか愉しくなってきちゃったわよチクショウ。もう凄い、無駄にテンション上がりまくりって感じ。
今なら私、何でもできる気がする。そうよ、もう私は脇役なんかじゃない。この幻想郷を舞台にした物語の、主人公にだってなってみせるんだから!
さあ、幻想郷の者達よ。これから先、困った事が起きたら、いつでもこの世界のスーパーヒロインの名前を呼ぶのですよ。
この私、風祝の早苗の名を!
先代の買い物に一緒に連れて行ってもらった私は、滅多に行く事のできない街中に出られた事で大はしゃぎ。気が付いたら先代とはぐれ、一人、知らない土地をさ迷い歩いていた。
そうして、ふと目に付いた公園。そこでは私と同じ位の歳の女の子達が、テレビのヒロインごっこをして遊んでいた。
私もその番組は大好きだったし、それに。
「ねぇ、わたしもまぜて」
現人神の末裔たる東風谷の一族。その子である私は、人里から少し離れた神社で秘術を教わる毎日に明け暮れており、同年代の友達なんて一人も居なかった。だから私は、どうしても彼女達と一緒に遊んでみたかったのだ。
「わたしね、テレビみたくね、まほうがつかえるの。
だから、ね。わたしもまぜて」
東風谷の一族に伝わる秘術。神様の力を借りて、奇跡を起こす能力。
私は歴代の中でも特に秀でた才能を持って生まれたらしく、この歳で既に、小さな風を起こしたり、小雨を降らせる程度の事はできるようになっていた。
「かぜよ!」
両手を目の前で交差させ、少しの溜めを作り、それから一気に両側へと広げる。
途端、小さな風が砂場の砂を巻き上げた。
「わぁ」「すごい!」「ほんとだ、テレビみたい!」
女の子達は私の術に驚き、そして感動していた。
私は嬉しくなった。何だか、テレビに出てくる魔法のヒロインになったような気がして。
だから私は、今度は雨を降らせてあげると、そう言った。
「えー?」「あめ?」「こんなにいいおてんきなのに?」
多分私は、調子に乗っていたんだと思う。
東風谷の術は一子相伝の秘術。外の人間の目の前では決して使ってはならない。
そう言い聞かされていたのにも関わらず、私は彼女達の前で奇跡を起こして見せてしまった。
「……あ」「あめだ」「すごいすごい! あなた、ほんとのまほうつかいなんだ!」
「ほんとうは、ひみつなんだけどね」
ああ、自分は特別な人間なんだ。テレビの中みたいに、お話の主人公になれる人間なんだ。
私は、自分自身に酔ってしまっていた。だから。
「貴方、今の……」
彼女達以外の大人が私の力を見てしまっていた、その事に、全く気が付かなかったのだ。
“どこイツ”
「……今の……凄い! 凄い天気予報!」
――はぃ? あの、えと、言ってる意味が?
「朝の天気予報じゃ降水確率ゼロって言ってたのに。今の今まで、雲ひとつ無い良いお天気だったのに。
それなのに、『雨が降る』って言って、本当にそれが当たっちゃうんだもの。
凄いわ貴方! ちっちゃいのに、本物の天気予報の人より凄いわ」
いや、あの違くて。
今の、天気予報じゃなくて……。
「ママー」
「あら~、良い子にしてた?」
「うんっ!」
「あの子、お友達?」
「ううん。さっきね、まぜてって」
「そうなんだ。
でも凄いねー、あの子。凄い天気予報」
「てんきよほうなの?」
「そう、天気予報よ。でも、テレビの天気予報よりもよく当たっちゃうの!」
「すごい! すごいてんきよほう!」
違うって! そんなのじゃないって!
今のは私が、神様の力を借りて起こした奇跡なの!
凄い天気予報って、そんな、常識レベルの『凄い』の範疇に矮小化させないで!
私は、私は!……。
◆
「……何だか今、ひどく懐かしいものを見ていたような気が……」
けたたましいベルの音が私を夢の世界から引きずり起こした。
何だか少し腹が立っていたので、少々乱暴に時計の頭を叩いて音を止める。時間は八時ちょうど。
土曜の朝なんだからもう少し遅くまで寝ていたいけど、仕方ない。今日は十時からバイトがあるのだから。
「そう言えば、あれからだったわね」
私の価値観が転換したのは。さっきまでの夢の内容を思い出しながら、私は一人呟いた。
あの後、『凄く良く当たる天気予報をする子供が居る』という噂は瞬く間に広まり、そうして私が小学校に入学した直後には、『噂のお天気小学生』という、今から考えると何だか違った意味にも聞こえそうな見出しで、地元ケーブルテレビのローカル番組に取り上げられたりもした。
でも、それがピーク。
その程度のちょっと面白い話なんてものは、日常の中であっさり消費されてしまうもの。
暫くの間はテレビに出た有名人としてクラスメイトからちやほやされた私も、二年になるとそうでもなくなり、そして、三年になってクラス替えがあった後には、ちょっと面白い苗字の普通の女の子として認識されるようになっていった。
テレビに出たって話も、馬鹿な男子から『あいつ昔、ノー天気小学生って言われてたんだぜぇ』と、からかいのネタにされる程度になってしまった。
それまでの私は、自分は奇跡を呼ぶ事のできる特別な存在だって、そう言い聞かされて育てられていたし、実際自分自身、自分は特別なんだって、そう思っていた。
でも今の世の中は、本物の奇跡を目の当たりにしたというのに、それを奇跡とは認識しなかった。
人前で力を見せるという禁を犯した私だけど、事が大事に至らなかったというわけでお咎めは無し。
その後も修行は続け、季節外れの台風を呼んだり、阿羅羯磨(あらかつま)の如く湖を割ったり、真夏に御神渡りを発生させたり、と、数代に渡って失われていた秘術の数々をいくつも再現できるようになった。
おかげで私の修行期間中だったここ十年程は、諏訪湖周辺では異常気象が連発してたわけなんだけれども、それも地元ニュースと人々の日々の話題のネタ以上のものにはなりえなかった。
そうして私は、何だか悟ってしまったのだ。
一般人の月面旅行も目前に迫ったこのご時世、『科学』という名の神様の前では、私の、私の神様の起こす奇跡なんて、『ちょっと面白い』程度のものでしかないんだって。
ああそうそう。私の神様、と言えば、もうそろそろ……。
『ウチの神社の賽銭箱とかけましてぇー、心と技と解くぅ~。その心はぁ――』
ほら、予想通り。玄関の扉が開く音と共に、やけにテンションの高い大声が飛び込んできた。
それにしても、心と技? 心、技……体?
「かぁ~らぁ~だぁ~かぁ~らぁ~~♪」
私の部屋の扉を開く、一升瓶を片手に上機嫌な朝帰りの酔っ払い様。
「お帰りなさいませ、八坂様」
ここ守矢の神社の神様であり、そして、諏訪信仰の本来の対象である、八坂神奈子様。
八坂様をここまではっきりと認識し、話までできるというのは、初代を含めても殆ど居なかったらしい。
その為か、八坂様は私の事を妙に気に入っているようだ。
「もぉ~おぉぅ、早苗ったらぁ~。
『八坂様』だなんて、そんな他人行儀な呼び方はやめてって言ってるじゃないー。
もっとフランクに『カナちゃん♪』とかって呼んでよおぅ」
「そういうわけにはまいりません。私は、東風谷の人間は、八坂様にお仕えする身分なのですから」
「ほんと、早苗は真面目ねぇー。
それだったら私だって、早苗の事、『早苗さん』とか呼んじゃうわよぉ~?」
ああ、はいはい。どうぞ、ご勝手に。
「サ~ナエ~さんサナエさん、サナエさ~んは愉っ快だンなぁ~~♪」
「いやちょっと何ですかその歌!? そんなに愉快じゃありませんよ、私!?」
「ケロッちゃん、ちょっとそれ取って~♪
カナちゃん、この味どうかしら~♪」
「時にはしくじる事もあり、ちょっぴり悲しい時もある!?」
……て言うか、ケロちゃんて誰?
「……飲み会、楽しんでこられたようですね」
八坂様は昨日の夜、他の山神様が開く宴会へ行くと言って出て行った。
そうして今日の朝、帰って来たらこの様子。私は、素直な感想を言っただけだった。
けれど。
「楽しかった、ですってえ?」
うわ、声のトーンがいきなり下がった。目もすわって、こちらを睨んできている。
どうしよう。私、何かまずい事を言ってしまったのかしら。
「冗っ談じゃないわよ! 私ゃ完璧に味噌っカス扱いだったわよ!
『あれ、八坂さんってまだ現役だったんだ?』みたいな目で見られてたわよコンチクショー!」
あれだけケラケラ笑っていたのが、今度は火山が噴火でもしたかのような勢いで怒り始めた。
「ってか、あんの小娘!
あいつそもそも、やった仕事って言ったら、喧嘩してる夫婦の間に入って離婚話を纏めただけじゃないのさ!
しかもそん時何を言ったのかってのは秘密にしてるし! それ、明らかに堅気の仕事じゃないでしょーが!
そんな奴が何で、いつの間にか山神に就職して、しかも言うに事欠いて御利益に縁結びとかのたまってるワケよ!?
もういっそ、人の縁なぞククッとらんと己の首でもククッてしまえば良いのにっ!」
何だかもう、もっっの凄く罰当たりな事を言っている気がする。まぁ八坂様も神様だから、罰が当たったりって事はないんでしょうけれど。
ちなみに、話題になってる神様が誰なのかって、何となく判るけれど言わないでおこう。私には罰が当たるかもしれないし。
「レベルだって、私の方が高いでしょうが!」
レベル? ああ、この間、私が中古のゲーム屋さんで買ってきた、あの昔のゲームの話かしら。
八坂様ってばいっつもうちでゴロゴロしながら、暇だ、暇だーって五月蝿いから、私は時々、中古で安くなっている、昔のゲームや漫画を買って八坂様にお供え?している。
で、何で八坂様がそんなに暇なのかと言えば。
「なーにが『うちの神社は全国に二千七百程も在りますの』よ。
うちだって二千五百は在るわよ! 大した差は無いわよ!
もっとも、私のとこにはアガリのびた一文も来ないけどねっ!!」
そう、それなのだ。
諏訪信仰の神様といえば、建御名方神。八坂様の名前といえば、まぁ、建御名方神の妻として、八坂刀売神の名が残るのみ。
どうしてそんなややこしい事になっているのか。その辺りの事情については、実は私も良くは知らない。
東風谷の伝承は親から子へ、全て口伝のみで継承される為、長い時の間に大部分が失われたり、変容してしまったりしている。私の場合、八坂様に直接訊くっていう手段もあるのだけれど、八坂様は八坂様で、『話すと長くなるから面倒』と、詳しくは教えてくれない。
それでも、私の知ってる限りのいきさつを纏めると。
八坂様は何らかの事情により、諏訪神社に名前だけの神様を置き、自分はその神様の妻として名前の一部を残しただけで、東風谷一族の祖先を伴ってこの神社に隠居したらしい。
そうしてこの地では、神様の力が必要な事態が起きると、人々は名前だけの神様に願い事をし、神社では仮の儀式を行い、それを受けて八坂様に仕える東風谷の人間が実際に奇跡を起こすという、そういう少々面倒なシステムが長く続いてきた。
ちなみに東風谷は元々、諏訪大社の神長である守矢の家と同じ祖先を持つらしい。特に力を持った者が分かれた、要は分家?みたいなものだそうで、ただ、奇跡を呼べる人間の存在が広く知れ渡ると、それを良く思わないものや、或いは利用しようとする者に狙われる可能性があるからと、守矢の姓は隠して東風谷を名乗り、けれど繋がりは保つ為、名の方は守矢家の人間と同じものをつける事になっている。私の『早苗』という名前も、少し前の守矢の人から取られているそうだ。
で、このシステムに於いては、全国の諏訪神社に寄せられる信仰は、全てそのまま我が神社に送られて八坂様のものとなっていた。
東風谷の人間も、公から隠されてはいたものの、その存在を知る一部の人間からは、それこそ神様と同様の扱いを受けていたと言う。
そうして長く続いたその仕組みも、けれど、明治維新の大変動の前に崩れる事となる。
中央政府の令もあり、表の諏訪大社では大きな変化を余儀なくされた。
当時の守矢家当主は、そんな混乱の中で守矢の秘法が失われるのを惜しみ、一子相伝の口伝えのみであった秘法の一部や守矢の系譜を、初めて文字として形に表した。
その際、東風谷や八坂様については一切触れられなかった。多分、中央政府の手がこちらまで伸びないように、配慮してくれての事だったんだと思う。
ただ、結果としてはそれが裏目に出てしまった。
それまでは、東風谷や八坂様の存在は隠されていたものの、人々の間には『どうも諏訪神社には“本当の”神様が居るらしい』と、何とはなくそんな空気が流れていた。
けれど、文字として出されたものを見て人々は、『ああやっぱり、そんなものは居なかったのか』と納得してしまった。
そうして時代は明治、大正、そして昭和の戦争と、短期間の間に大きな変動を続けた。
そんな中、元々秘伝中の秘伝であったこの神社についての知識はどんどん失われ、更には科学の台頭と共に、人々は神様の実在を、実利としての御利益を信じなくなっていった。
そうして今では、一般の人々はおろか守矢の人間でさえもが、私達の存在を忘れ去ってしまった。
悪意を持って抹消されたとか、わけあって完全に闇に隠されたとか、そういう事ではなく、ごくごくナチュラルに忘れられてしまったのだ。
今でも全国各地に諏訪神社は在るし、そこには沢山の人が参拝している。けれど、そうした人達の信仰は八坂様には流れて来ない。
ここも今では、訪れる人間の全く居ない、ただのさびれた神社となってしまっている。
「私だってねぇ、そりゃ昔は凄かったわよ? この地にやって来た時の事なんか、ほら、今でもよく覚えているけど」
ハイテンションで帰って来たかと思えば突然怒り出し、今度は昔語り。ああ何だか、とっても典型的な酔っ払い。
あれでも昔は神懸かり的にお酒に強かったらしいんだけど。神様は信仰を失うと力を失うそうだから、そのせいなのかも。
「シャン! スタッ。グゥゥン。バァ――ン。
『貴方は八坂神奈子ね?』『そういう貴方は洩矢諏訪子』
『みんなケロちゃんって呼んでるわ……これからよろしく』
ミシャミシャ『ハッハッハッハッハッ』
『ミシャグジ様ーッ。
紹介するわ、ミシャグジ様って言うの! わたしの僕でね、恐ろしい祟り神なのよ。心配ないわよ! 決して人にしか祟らないから。
すぐ仲よしになれるわッ』
『ふん!』
ボギャァァ。
『なっ! 何をするだァ―――――ッゆるさんッ!』
(こいつがこの国の王、洩矢の諏訪子か!
こいつを精神的にとことん追いつめ、ゆくゆくはかわりにこの神奈子が、洩矢の王国をのっとってやる!)
『わたしはミジャグジ様が嫌いだ! 怖いんじゃあない。悪魔絵師によってご立派になり過ぎた頭部に虫唾が走るのだ!
あのミシャグジ様とかいう阿呆神をわたしに近づけるなよな』
それまで楽しかった諏訪子の生活は、とてもつらいものとなったのだった」
あのー、効果音まで口に出さないで下さい、効果音まで。それって何だか、たまーに本屋で見かける、立ち読みで漫画を『音読』してる小さな子供みたいです。
……年齢、どう少なく見積もっても四桁はいってるのに、小さな子と同レベルの行動って……。
それにその流れだと、八坂様完全に悪役です。最終的には、相手の子孫に倒されて貸されたものを返す羽目になりそうです。
……て言うか、諏訪子って誰?
ああ確か、この神社で祀ってるもう一柱の神様、だったかしら?
この神社、八坂様とはまた別の神様が居るらしいけれど、その事については殆ど何も伝わってないし、実際、私も見た事ないしなぁ。
ま、それはともかく。
「八坂様。私今日、十時から出かける用がありますので」
「スーパーで万引き? 公衆便所で千円が一枚? 戦争行こうと三輪車で突撃?」
だからもう、そういう小学生男子レベルのネタはやめて下さい。しかもそれ、地域と年代によってバリエーションが多過ぎるので判り難いです。
「バイトです。帰るのは夜になりますので」
「バイトー? 早苗ったら、本当に真面目ねー」
そりゃもう。そうでなければ生活できませんから。
先代までの財産だって、そうそういつまでも頼れるわけじゃないんです。
「あ、そうだ。バイト行くんだったら帰りにお酒、お願いねー」
「……つい先日、大量に買い込んだ筈ですが」
「あの程度、腹の足しにもならないって」
そもそも、アルコール類を『腹の足し』として勘定しようとしないで下さい。
「ま、あれか。早苗はお酒飲まないから、その辺の事は理解しづらいのかしらねぇ」
判ってるんだったら、あんまり無理無茶言わないで下さいよ。
「よし! ここは一発、保護者として早苗にお酒の良さってものを教えてあげましょう!」
「はい?」
何でそうなるんですか。って言うか、誰が保護者ですか誰が。
ああもう、話が支離滅裂。これだから酔っ払い様は……。
「あの、私、これからバイトなので――」
「なにー? 私の酒が飲めないってー?」
教科書に『性質の悪い酔っ払いの例(図1)』とかいって図解付きで載せられてそうなくらい定番な科白を言いながら、一升瓶を手に迫って来る八坂様。
「ちょっ、待っ――!」
「それ飲めやれ飲めドンと飲めー♪」
私の口に無理やり瓶の口をt%&#”;:?????――……。
◆
「何時だと思ってるの貴方! 大遅刻よ!」
凄い大声。ああ、頭にガンガン響く……。
って言うか、ここバックヤードだけど店内へのドアは開けっ放しだし、今の怒鳴り声、お客さんにも聞こえてただろうな。恥ずかしい……。
「すみません。その、突然の大雨で――」
「貴方今日十時からだけど、雨が降ってきたのは十時過ぎてからよ!?」
そりゃそうよね。
無理矢理お酒を飲まされて気を失って、目が覚めたらもう十時過ぎ。カモフラージュと言い訳を兼ねて私は雨を降らし、それこそ文字通りの意味で飛んで来たのだけど……そうよね、どう考えてもアウトよねぇ。
「ちょっと! 聴いてるの、東風谷さん!?」
「ああはい! 本当にすみません!」
ああもう。なんで店長の居る日に限って遅刻なんてしちゃうかなぁ。
このおば……店長、とにかくネチッこいし五月蝿いしで、はっきり言って苦手。
うう、世が世なら、私は現人神として、貴方なんか声もかけられないくらいの……。
……って、ダメダメ。悪いのは遅刻した私の方なんだから。理不尽に他人を恨むなんて、そんなんじゃ駄目よね。うん。
「あの、それじゃ私、レジに――」
「ああ、もういいわよ。
レジは私が入るから、東風谷さんはドリンクをやってちょうだい。
さっき到着したばかりだから、入るだけ冷蔵庫に入れて、後はここの棚に整理しといて」
え、ちょっと。
ドリンクってあの、隅に積んであるダンボール箱の山よね?
あんなの、女の子がやる仕事じゃないわよ。今レジに入ってるのって男の人だから、彼にやってもらえばいいのに。
うう、これってイジメよね。世が世なら……。
◆
「ただいま戻りました、八坂様……」
「お帰りなさい。
どうしたの? 随分疲れた顔をして」
そりゃ疲れもしますよ。
今日は土曜という事で、バイトは朝十時から夜の六時半まで。途中で二回、一時間と三十分の休憩が在ったけど、それでも実働七時間。
まぁ、実際は遅刻してしまったからもう少しだけ短いのだけれど、その分普段は男の人にやらせるような力仕事までさせられて。
その上帰りは、両手に缶のお酒でギッシリのビニール袋。飛んで帰る気力すら残らなかったわ。
ああそれにしても、このお酒、いつも通りバイト先で、売り上げ貢献って名目で買ったんだけど。
『貴方、若い内からそんなにお酒ばかり飲んで』
ああ、違うんです店長。これは、私が飲むんじゃなくて……。
『それにね、東風谷さん。言いたくないんだけど、貴方、今日朝来た時にお酒の臭いがしてたわよ?』
ああ、それも違うんです。私は嫌だって言ったのに、八坂様が無理矢理……。
って言うか『言いたくない』のなら言うなー! 嫌味ったらしいっ!
うう、世が世なら……。
「どうしたのよ早苗。百面相なんかして」
しまった。顔に出てしまっていたみたいだ。
「ま、良いわ。早苗、ちょっと話があるんだけど」
何だか少し真面目な顔で、八坂様がこちらを見ている。流石に半日もすれば、お酒も抜けるみたいね。
「話って、長くなります?」
「ん? ええ、まあ。もしかしたらちょっと」
はっきりしないなぁ。
私は重い袋を台所まで運び、そこで時計に目をやった。もうすぐ七時半になる所。
「これから買い物に行くので、長くなるようでしたらその後にしていただけませんか?」
買い物なんて、本当はバイトの帰りに済ませておけば良かったんだけど、両手に大荷物を抱えている状況じゃちょっと無理。一番近くのスーパーまでもかなり離れてはいるけれど、今は夜だし、重荷さえ無ければ飛んで行けば良いのだから。
「いつも行ってるスーパーって、確か二十四時間営業でしょ。だったらそんなに急がなくても」
「八坂様の方こそ。夕食を食べながらゆっくり話せば良いではありませんか」
確かにあそこのスーパーは二十四時間営業。
でも今からだと、パックのお寿司がタイムサービスで安くなってるのよね。それを買って、帰る前に食べちゃおうって、そういう魂胆。八坂様には内緒で。私のちょっとした贅沢。
八時半くらいまでならほぼ間違いなく残ってるんだけど、確実にいくなら、やっぱりちょっと早めに行きたいし。
「……ああ、えっと。
やっぱりあんまり長くない話だから、ここで話させてもらうわね」
結局話すんですか。もう、勝手だなぁ。
まぁ、でも良いか。長くなりそうだったら、途中で一旦切ってもらって買い物に行けば良いんだし。
「引越しをね、しようと思うのよ」
「……はぃ?」
全く予想だにしてなかった単語を耳にして、思わず間の抜けた声が漏れてしまった。
引越しって、誰が何処に? 八坂様が、何処か別の土地に?
「幻想郷って、知ってるかしら」
「え? ああ、はい。一応」
聞いた事がある。幻想郷。
古くからの風習、失われた秘術や秘宝、そして妖怪。そんな、この世界では忘れ去られたもの達が集まるという世界。
そんな世界が、この国の何処か山奥にひっそりと存在しているという。
「でね、昨日の飲み会の時、その幻想郷の事が話題に上ってねぇ。
それで思い付いたのよ。
今のこの世の中で人間から信仰を集めるには限界があるって。だったら幻想郷に行って、そこで妖怪からも信仰を集めようって」
「妖怪から、信仰……ですか?」
「そうよ。
妖怪は人間よりも、精神的なものに重きを置く種族。可能性は充分にあるわ」
「でも……」
「このままここに留まったってジリ貧よ。だったらここは一発、ね。
幸い幻想郷には大きな山が一つ在って、そこには沢山の妖怪が住み着いているらしいから。
そこに神社や諏訪湖ごと、引っ越してしまおうって魂胆よ」
「諏訪湖って……諏訪湖!?」
「そう」
「そうって、この神社はともかく、諏訪湖まで消えたら、それはちょっと、とんでもない事に――」
「大丈夫よ。代わりのやつをちゃちゃっと創って、こっちにはそれを置いていくから」
何だか今、とてつもなくもの凄い事をあっさりと言われてしまった気がする。
私も色々な奇跡を起こせるけれど、八坂様はやっぱりスケールが違う。
「でね、早苗。貴方にももちろん、一緒に来てもらいたいわけよ」
その言葉を聴いて、流石に私は一瞬、固まってしまった。
それって、この世界とお別れするって、そういう事よね?
「あの……その幻想郷からって、こっちに戻って来たりとかはできるんですか?」
「結界で隔離されてるって言うけど、まぁ、完全完璧に断絶されていたらそもそも入る事ができないし。
早苗くらいの力があれば、何とか出入りはできるんじゃないかしら。多分。
ただ――」
ただ?
「――聞いた話だとね、どうも幻想郷って、出入りをする際に時間のズレが起きたりとか、そういう事があるらしいのよ。入ったら百年前になってるとか、出たら百年後になっちゃったとか。
まぁ、いわゆるウラシマ効果ってやつかしら?」
それはちょっと違う気が。
でも、言わんとしている事は理解できた。異界訪問や神隠しといった類の出来事に於いては、決して珍しくもない話。例えこの世界に帰って来られたとしても、そこは『私の知っている今の世界』ではないかも知れないという事。
「あ、いや。ほら、あくまで聞いた話ではって事よ。もしかしたら何の問題も無く簡単に行ったり来たりー、とかできるのかも知れないし」
私の表情を見て戸惑っている事を感じ取ったのだろう。八坂様がフォローを入れてきた。
でもフォローって言うにはどうにも、その、何だか。
「何だかさっきから、多分とか、もしかしたらとか、そんなはっきりしない言葉が多いですね」
重大な決心を人に迫ろうって時に『らしい』や『かも知れない』で締められるような話ばかりされても、そんなんじゃ無闇に不安を増幅させてしまうだけ。八坂様って絶対、セールスの仕事には向いてないわね。
「いやまぁ。
そもそも幻想郷ってさ、こっちで現役バリバリ絶好調の神からすれば、言い方は悪いけどロートルの行き着く先みたいなイメージで捉えられててねぇ。
昨日の飲み会に来てた連中の殆どが、あんまり詳しい事までは判ってなかったりするのよ」
もちろん私も含めてね、と、八坂様は付け加える。それって暗に、自分も『現役バリバリ絶好調』だって言いたいのかしら。
……ううん。『だった』、って事か。言いたいのは。
「ま、そんな事はともかく。
どう? 早苗も行ってみたくない? 幻想郷」
そんな、母親が子供に『面白い遊園地が在るんだって。次の日曜に一緒に行こっか』みたいなノリで言われても……。
「何て言うかね、私、思うのよ。
こうした時代に早苗のような、初代、って言うかあいつに匹敵するぐらいの力を持った子が東風谷に生まれたっていうのも、今この時に繋がる運命の一部だったんじゃないかって」
何だか随分と回りくどくて判りづらい言い方だけど、もしかして私、今ほめられた?
「幻想郷っていうのは、要は昔のこの国みたいな感じだしね。私達が絶好調だった、あの頃よ。
早苗もきっと向こうでは、現人神様だー、現人神様だーって、それこそ祀られる側にだってなれちゃうかも?
貴方小さい頃、『大きくなったら何にな~りたい?』って訊かれると、『かっみにっなるっ、なるっのっ♪』とか言ってたんだし、ちょうどいいじゃない」
「いや何ですかそのあんまり可愛くない子供!? いくらなんでも私――」
……あ、でも。ようく思い出してみれば確かに、そんな事を言っていた気がする。
私は小さい頃から八坂様の事が見えていて、話ができて、そんな私に八坂様は、背中から御柱を生やしたりそこから色とりどりの綺麗な光の弾を降らせてみたり、と、そんな事をして一緒に遊んでくれていた。
だから幼い私には、神様っていうのが、何だろう、テレビに出てくる魔法使いみたいなものだと思っちゃって。だって、人の背中から何かが生えるなんて、そんなの、子供向け番組で言ったら主人公がパワーアップした時の定番みたいなものよ。
それで私は、大きくなったら自分も神様になりたいって、確かにそう思っていたのよね。
「夢、今なら叶うわよ?」
そっか。私も神様になれるかも知れないんだ。そうしたらこんな、生活費のやりくりに困ったり嫌味な店長に頭を下げてバイトに行ったりなんて生活ともおさらばができて……。
「それに早苗。こっちに友達いないんだから未練も無いでしょ」
――ちょっと待て。
「あの、八坂様? 何だか今とっても、人が人に言ってはならない言葉の定番が聞こえた気が?」
「私神様だし。って言うか事実でしょ」
どうしよう。八坂様が八坂様でなかったらグーで一発いってる所よ。いくらなんでも酷すぎる言葉。もしこれがテレビ番組だったら、抗議殺到で最悪打ち切りよ。
「私にだって――」
――そう言えばあれは、小学校の卒業の時だったかしら。
担任の先生の提案で私のクラスでは、生徒全員に一枚ずつ色紙が配られ、そこに当人以外の全クラスメイトが『○○さんの良い所』みたいなのを書く、といった事をやった。
で、私に寄せられたのはというと。
『東風屋さんはマジメです』×29で以上。
何かもう、一番最初に書かれたのを全員そのまま真似したって、そんな感じが丸出したったなぁ。
「や、でも、あれは昔の話だし――」
――そう言えばついこの間、男子がしてた馬鹿話。
『やっぱウチで一番つったら、去年のミスの岡谷先輩っしょ』『郷田も良くない?』『確かに。名前ゴツい割りに可愛いし。あとB組の湊とか』
『東風谷は?』
『あー、何かアイツ地味だよな。それよっか塚間ってさ、結構ムネが――』
凄いわよね。当人の耳に入る距離で。て言うか、もしかしてあの時の私、存在を認識されていなかった?
ちなみに話に加わっていた男子全員、あの後体育の授業や部活の練習中、ここぞって時に『不幸にも』眼に塵が入ったりしていたそうで。天罰よ、きっと。
「ああ、そう言えば――」
先代が居なくなってからここ、八坂様以外に、人間に『早苗』って名前で呼ばれた記憶が……。
「あ、そうそう早苗。話は変わるんだけど」
人間と一緒に食事をした記憶が……何故だろう、思い出せない……。
「今ウチにね、お客さんが来たわよ」
お客さんか。そう言えばお客さんがウチに来たのもここ数年で一度も……。
「――って。
お客さん!?」
「ええ。早苗が帰って来たのとほぼ同じくらいに、こっちへの道を歩いて来る二人組みを感知したんだけど、その子達が今着いたわ」
「どうしてもっと早く教えて下さらないんです!」
「いや、だって、着いたの今だし」
「そうではなくて! ここに着く前、こちらに向かっていると判った時点で!」
「それは、『こっちの方』に向かってるってのが判っただけで、もしかしたら近所の別の所が目的なのかもとか――」
「ウチに近所なんて在りませんよ!」
よれよれのブラウスに、下は動き易いようジーンズ。それが、バイト帰りの今の私の格好。
いくら落ちぶれたとは言え、この守矢の神社を預かる風祝として、こんな格好で参拝者の前に出るわけにはいかない。大急ぎで着替えないと。
『すみませーん』
チャイムの電子音と共に、お客さんの声が聞こえた。
意外。若い女の子の声だわ。こんな遅い時間に、こんな辺鄙な所まで。
「八坂様。祭礼用のあの服、何処にしまいましたっけ!?」
「知らないわよそんなの」
最後に着たのって『ピンポーン』まだ先代が居た頃『ピンポーン』、修行期間中の事だし『ピンポーン』なぁ。多分、箪笥『ピンポーン』の奥の『ピンポーン』方に『ピンポーン』……あ、在った!『ピンポーン』 あ、でもこ『ピンポーン』れ、久しく着『ピンポーン』てないか『ピンポーン』らどう『ピンポーン』着れ『ピンポーン』ば良い『ピンポーン』んだっ『ピンポーン』たか『ピンポーン』って……。
あーもーピンポンピンポンやかましい! 小学生なの? 今ウチに来てるのって学校帰りの小学生男子!?
こっちだってできる限り急いでいるんだから、余計に焦らせるような事しないでちょうだい!
「返事くらいしてあげたらぁ?」
袖の部分が分離した独特な形の服を手に悪戦苦闘しつつ、私は小声で八坂様に応える。
(返事って、何て返事すれば良いのですか。『今着替え中なんで待ってて下さーい』なんて、そんな恥ずかしい事を言えとでも!?)
「別に恥ずかしい事でもないと思うけど。早苗って、変な所で融通きかないわねぇ」
(申し訳ございませんね! どうせ私は地味な堅物ですよ!)
「誰も地味とは言ってないけど。何かささくれ立ってるわねぇ。もっと落ち着きなさいよ」
落ち着いている間に逃げられるわけにはいかないんです。数年ぶりの参拝客に!
(どうですか、八坂様。これでしっかり着られています? おかしな所ありませんか?)
「んー、オッケーじゃない?」
よし。これで準備万端。私は大慌てで玄関に向かい、そうして戸を開いた。
「お待たせし……って」
あれ。誰も居ない。もしかしてもう、帰ってしまった……? しまったこんな事ならやっぱり返事だけでもしておけば良かったかしらああもう私ってばいつもこんな――……。
「あっちよ早苗。本殿の方」
一瞬またパニックに陥りかけた私を、後から付いて出て来た八坂様の言葉が落ち着かせてくれた。
八坂様の指す先、薄暗い境内の中、本殿の裏手に回ろうとしている二人の……女の子?の姿が見えた。良かった。まだ帰ってなかった。
私は大きく深呼吸をする。落ち着け私。焦るな私。
風祝の、東風谷の人間として、滅多に無い機会だからってパニックになったりせず、堂々と、厳かに、誇りを持って。
「何の御用でしょうか」
顔に穏やかな笑みを作ってから私は、静かに、そして優しく、背後から声をかける。
それに反応して、二人の少女がゆっくりとこちらを振り向いた。
「参拝の方? 珍しい。こんな辺鄙な所まで」
笑顔を保ったまま、私は続けた。
二人組みのうち一人は、黒い帽子に黒い外套とこの夜中に保護色みたいな格好をした女の子で、もう一人は金髪の……わ、外人さん! それも、お人形さんみたいな美少女。どうしよう、私、英会話なんて……えーと、アイアム、サナエ、シュラインメイデン?
「参拝と言うか、まぁ」
帽子の少女が、少々ばつの悪そうな顔で応えた。良かった、こっちの人で。金髪の子に話しかけられたらどうしようかと。
「大学のレポートを作るのに、この辺りの神社を色々調べていまして」
大学? と言うと。
「あら。もしかして、トウリの」
「トウリ?」
「え? あ、ううん。ごめんなさい、こちらの話。気になさらないで」
あ、違ったみたい。大学って言うからてっきり、諏訪東京理科大の人かと思ったけど。ここから一番近いのって多分あそこだし。
でもようく考えてみれば、理科大の人がレポート作成で神社めぐりっていうのも違う気がするわね。それに、近いって言っても実際それほど近いわけでもないし。
だとしたら、塩尻の歯科大……も違いそうだし、信大かしら。そうすると、来たのは松本から?
「貴方達、もしかして、この辺りの人では――」
「ええ、京都から」
「まあ、京都!
そんな遠くから、わざわざ大学のレポートの為に」
京都。県内ですらないじゃない。て言うか日本の首都!
ああ、道理で。こんなお洒落な格好で、しかも一人はブロンドの美少女。流石、都会の大学生は違うわねぇ。
いいなぁ。私も京都、行きたいなぁ。修学旅行で行って以来だしなぁ。
……ん、あれ、ちょっと待って。そう言えば、大学のレポートの為って、もしかして彼女達、参拝客じゃないって事?
ああ、早とちりだったわ。お客さん=参拝客だとばかり……。
「あの、それで、この神社について、ちょっとお話を聞きたいんですけれど。
例えば、裏――」
「ねぇ、貴方達」
参拝の人でないのだったら話は別。ちょっと申し訳ないのだけれど、どうも長くなりそうな気配を感じたので強引に切らせてもらった。
「あの――」
「京都から来たと言ってましたけど、今日の内に帰るのですか?」
「……いえ、今晩は宿をとってあって、明日、帰る予定です」
「それなら今日の所は宿に戻って、お話をするのはまた明日に。そうしてはどうかしら?」
私だって、それはまぁ手伝いはしてあげたいし、て言うか実際してあげるつもりだけど、それは別に明日でも良いじゃない。
正直、今日は色々あって疲れてるし、それに、早くしないとスーパーのタイムセールのお寿司も無くなっちゃう。
「都会の方には判らないのかも知れませんけれど、この辺りのような田舎の夜道は、結構危ないものなのですよ。だから」
暗い道で容赦なくヘッドライトを浴びせてくるから、自動車とすれ違う度に視界が奪われるのよねぇ。しかも帽子の女の子なんか保護色。懐中電灯だって持ってないでしょうしね、都会の人は。
「でも――」
「安心して下さい。別に私は、逃げも隠れもしませんから。また明日、いらして下さいな」
明日はバイトも休みだし、ゆっくりと相手をしてあげられるから。というわけで、さっさと帰る帰る。
「判りました。それでは、今日はこれで。夜分遅く、失礼しました」
こんな、滅多に訪れる人の無い神社までわざわざ来てくれたのに、本当、申し訳ないとは思うけど、その分明日、丁重にお相手をさせてもらうから。
そうだ。スーパーに行ったら、ちょっと高めのお茶とギフト用のお菓子を買っておこう。明日の準備として。
「行きましょう、メリー」
金髪の少女に声をかけ、帽子の女の子は鳥居に向けて歩き出した。
と思ったら、すぐに立ち止まってこちらに振り返り。
「帰る前に一つだけ、訊きたいんですけど」
「……なんでしょう?」
しまった。つい、話を受けてしまった。引いたと見せかけて油断させて、そうして急に、だったから。流石は都会の学生、駆け引きが巧い。
まぁ、一つだったら別に良いかしら。
「その蛇と蛙の髪飾りって、貴方個人のアクセサリーなんですか。それとも」
「代々、この神社に伝わる物、ですが?」
先代から伝えられた話では、この髪飾り、初代の頃から東風谷の家に伝わっているらしい。
「なんで、蛇と蛙なんですか?」
……え? ぇーと、えー?
この髪飾り、子供の頃からずーっと着けてて、デザインに疑問を持った事なんて今まで無かったし、特に話を聞いた事も無いし……。ああでも、八坂様のしめ縄が確か、蛇の絡まっている形をイメージしているらしいから、そうすると蛇の方は八坂様の事かしら。でも、蛙は?
「さぁ、なんででしょうね?」
「蛇っていうのは、何となく判ります。脱皮をする姿が、死と再生の繰り返しと見られて、色々な神話で神聖化されていますし。
でも、何でここでは蛙が一緒なんですか。
蛇と蛙っていったら、食う者、食われる者の関係ですけど、それを一緒に装飾具としている理由は?」
うわ。凄い、流石にちゃんと勉強してるわね。追及の手が厳しいわ。何だかまるで、学校の授業で研究発表をして、その後にクラスメイトからの質問を受けてる時みたい。はっきり言ってこういうの、苦手。だって、私にも判らないんだもの。
でもどうしよう。さっきはつい、口が滑って『なんででしょう』とか言ってしまったけど、東風谷の人間が学生に質問されて返答に窮するなんて、こんな体たらくじゃ先代までに顔向けができないわ。
でも実際、知らないものは知らないのだし。どうしよう。どうする? 何かこう、適当にそれらしいこと言って誤魔化そうかしら。でも、それらしいことっていっても、うーんと、えーっと……。
「どちらも同じ爬虫類、だからじゃないかしら?」
にっこり笑って言ってみた。
……納得、してくれるかしら。これで。
「蛙は両生類、ですけどね」
…………。
……しまった――っ! 素で間違えた――っ!
ああもう、軽くパニックになっていたせいで小学生でもやらないような間違いを! 何だか今、もの凄い呆れた顔でツッコミを入れられた気がする……恥ずかしい……。
蛙と蛇の間柄は、ユーステノプテロンとディメトロドンの間柄と同じくらいは離れているわ。
……ん、あれ、ユーステノプテロンは魚類で、ディメトロドンは……単弓類、だったかしら。
まずい。まだちょっと、頭が混乱しているみたい。落ち着け早苗、焦るな早苗。とりあえず、笑顔だけは崩さないように。余裕、余裕を持ってるように見せなきゃ。
うーむ、でも、こうなったらもう、下手に見栄を張ろうとせずに、正直な所を言った方が傷口を広げずに済みそうね。
「やっぱり諏訪大社の、蛙狩神事と関係があったり――」
「ああ、あのね。
ごめんなさい。私もよく知らないの。本当に。ごめんなさい」
私の選択、正解だったみたい。この人、京都の人なのに蛙狩神事の事までちゃんと調べて来てる。変な言い訳をしていたら、また痛いツッコミを喰らってたわね。
でも、そうね。確かに蛙狩神事は関係がありそうだし、後で八坂様に訊いてみよう。
「髪飾りについては……判りました、ありがとうございます」
ああ、良かった。とりあえずは納得してくれたみたい。今日中に色々と予習をしておいて、明日こそは名誉挽回といかなくちゃ。
と、一安心したのも束の間。
「最後に、これで本当に、最後ですけど」
一つだけ、と言いつつ、質問が二つ、いえ、正確には三つ目になってるけど、勘弁してちょうだい。
正直、予習さえしてあれば大抵の事はこなせる自信があるんだけれど、抜き打ちとか、アドリブとかって苦手なのよ。
あまり答えにくい質問はしてほしくないんだけど……。
「貴方は神様の存在を信じていますか」
あれ、ちょっと意外な質問。まぁ、ここは無難に。
「いいえ、と、言うわけにはいきませんね。神社の人間としては」
少し困ったような顔を作って、そうして答えてみる。普通の神社だったらきっと、こういう反応をするでしょうしね。
でも、どうやら彼女のお気には召さなかったようで。
「宗教家としてとか、信仰の云々とか、そういう話じゃなくて。
『テレビに出てくる有名人は実際に存在する』っていうのと同じレベルで、貴方個人が、神様が実際にいると思っているのかどうか、と、それを訊きたいんです」
神様の実在、か。普通だったらこういうの、哲学とかの問題になるんでしょうけど、私の場合、むしろ日常の問題だし。
ちなみにこの場合の問題っていうのは、障害とかそういうのと同じ意味合い。
ウチの家計がきついのって、お酒だとかゲームだとか漫画だとか、そうした神様へのお供え物のせいっていうのが大きいわけだし。それなのにうちの神様、今は全然働いてくれないし。
かと思ったら突然、引越しの話なんか持って来るし。
「世の中、知らない方が良い事も在りますよ」
世の一般の人はきっと、神様って何だかとても凄い力を持っていて、それでもって高潔で――とか、そういうイメージがあるのでしょうけど。まぁ、そういうものをわざわざ叩き壊すような真似をしなくても、ね。
って、いけないいけない。今ちょっと、思いっ切り疲れてる気分が顔に出てしまっていた気がする。余裕を持って、スマイル、スマイル。
「それでは。帰り道、気を付けて下さいね」
まだちょっと不服そうな顔をしながら、でも帽子の女の子は、ブロンドの美少女を連れてやっと帰ってくれた。
「……っはぁー、緊張したー」
二人の姿が完全に見えなくなったのを確認して、私は大きく息を吐く。
帽子の女の子の質問攻めもきつかったけれど、もう一人のブロンドの女の子はブロンドの女の子で、話をしている間ずっと私の事をじろじろと見回していたし。やっぱり私の今のこの格好、風祝の正装としてのこの服装が珍しかったのかしら。外人さんだし、巫女の服とかそういう日本的なものに興味を持ちそうだし。
ああでもそれ以前に、ただ単純に『変な格好』と、そう思っていただけなのかも知れない。私が言うのもアレだけど、この格好、肩の所に隙間が空いていてスースーするからこれからの季節はちょっと辛いし、それに、正直に言ってコスプレみたいで恥ずかしいのよね。
「ねぇ早苗」
頭のすぐ後ろから八坂様の声がした。あれ、もしかして今話をしている間、ずっと後ろに?
「内心緊張しながらも必死になって表面だけは取り繕っている姿が、見ていてとても面白可愛かったわ」
やかましいです。
「ずっと見ていたのでしたら、少しくらい助け舟を入れて下さっても」
「ああ、いや、下手に動くと見付かるかも知れなかったから。一応は私、隠れておいた方が良かったでしょう?」
確かに。東風谷の掟では、八坂様の存在も決して外部に知らせてはならないという事になっているし。でも。
「見付かるわけありませんよ」
八坂様の姿は誰にも見えないし、声は誰にも聞こえない。そう、私以外には。
少し呆れ顔で応えた私に八坂様は、けれどそれ以上の呆れ顔になって返してきた。
「もしかして早苗、気付いてなかったの?」
……何に?
「あの二人、普通の人間じゃなかったわよ。どちらも随分と面白い眼を持っていた。
特に金髪の子の方なんか、私とあいつの、姿まではっきり見えていたかどうかはともかく、少なくとも存在だけは気付いていたわ。
だからこそ、あんなにこちらの方をじろじろと見ていたんじゃないの」
面白い眼って、何それ。
それってまさか、今のこの世の中に、私以外に異能の力を持った人間が居るって、そういう事? それとも京都ではもしかして、そんなに珍しいものでもなかったりするのかしら。
ああでも、それじゃああれって、別に私の事を見てたんじゃなくて、見てたのは八坂様の方だったんだ。
やだ。私ったら恥ずかしい。何て言うか、自意識過剰だったかも。
「あれ、もしかして早苗、見られてるのは自分だと――」
「アッ! あーあー! そう言えば八坂様! 色々お聴きしたい事があるのですがっ!
この髪飾りの事とか、やっぱり蛙狩神事と関係があるのか、とかっ」
「ん? ああ、さっき質問されてたやつ?」
ちょっと強引だったけど話題転換成功。自分自身で恥ずかしいと認識している事を、更に他者からツッコまれたくはないんです。
「話すと長いから面倒なんだけどねぇ」
「そこを何とか。明日の予習という事で」
「じゃあまぁ、簡単にね。一言で言えば関係『アリ』」
「はぁ。それはどういったご関係で」
「その髪飾りの蛇が私の象徴だっていうのは判る?」
「はい」
「蛙はあいつの象徴。蛙狩神事は、まぁ、ぶっちゃけ元々、あいつへの嫌がらせという事で始めさせたものだし。あいつには随分苦労させられたから」
あいつ、あいつって頻繁に出てくるけれど。それって。
「あいつってその、この神社にもう一柱、いらっしゃるという――」
「そう、諏訪子の事」
「諏訪子様、ですか。
……あの、その、諏訪子様って一体、どういった方なのですか」
「何よそれ。自分の所の神様なのに」
「先代からは殆ど何も伝わっておりませんし、それに、私自身も見た事が無いので」
「あー。そう言えばここ百年ちょっとくらい、あいつ本殿から出ずに寝てばっかりだからねぇ。流石は蛙」
うちの神社の神様って、かたやニート、かたや引き籠もりっていう事なんだ。
「蛙がその、諏訪子様の象徴だという事は判りましたけれども。そもそも、何故守矢の神社には二柱の神様がいらっしゃるのですか?」
複数の神様を祀るなんていうのは普通の神社ではごく当たり前の事だけど、うちの場合は事情が特殊だし。
「その辺が長くてめんどくさいんだけどねー。それに確か、随分と前にだけども同じ話をした気が」
「私は聞いた事ありませんが」
八坂様の言う昔って、もしかして何百年の昔、数代前の東風谷の人間に対してじゃないかしら。神様は人間と時間感覚のスケールが違い過ぎるから。
「ああでも今日の朝、酔ってた勢いで話さなかったっけ」
「あれだけでは何も判りません」
って言うか、あの話って実際にあった出来事なの? 八坂様、それじゃまるで悪のカリスマ。
「んー。じゃあまぁ、かいつまんで」
観念した様子で息を吐き、そうしてやっと八坂様は話し始めた。
「大昔の話だけどね、私はこの地にやって来てここの神だった諏訪子と勝負して勝って、そうしてここの新たな神様となった。
でもまぁ、色々ゴタゴタがあって、結局ここの支配はあいつが続行する事になったの」
「そこで建御名方神、ですか」
「そう。そのまんまだと他の大和の連中から、『知ってる? 洩矢の王国に行った奴って、結局地元の神に勝てなかったんだって』『うわ、ダサッ』とかありもしない事を言われそうだからね。
だからあいつに名前だけの神を融合させて、『そんな事ないですよー。洩矢の王国はちゃんと新しい別の神様が支配しましたよー』と、外からはそういう風に見えるよう体裁を整えたってわけ」
それってインチキじゃあ……。
「でも、それでしたら何で、その時に八坂様御自身のお名前を使われなかったのですか」
「だってほら、自分の名前をそのままあいつに付けたりしたらねぇ。
もし知り合いが遊びに来たりでもしたら、『あれ、神奈子ってちょっと見ない間に随分と印象変わった? て言うか幼くなってる?』とかなって、事の色々が露見しかねないもの。あの蛙に、その辺うまくやれって言っても無理だろうし。
だから私は『新しく洩矢の神様になったのはウチのツレなのー。でもって私は子育てに忙しいからー』って事にして、余計なツッコミ入れられる前にここへ寿退社決め込んだわけ。
うちに神様が二人いる理由っていうのは、まぁ大体そんな所」
うーん。正直、まだあまり良く理解はできていないんだけれど。でも、何だか思っていたよりも俗っぽい話というか。まぁ、世の中の実際なんてそんなものなのかしら。
「あー、でね。
話題は変わるけれど、さっき話してた……」
少し真面目な顔になって、八坂様が切り出してきた。
「引越しの話ですか。幻想郷への」
「そ。自然豊かな土地で妖怪と信仰心にあふれる充実したセカンドライフを過ごす。素敵だと思わない?」
「まぁ、確かに」
「でしょ、でしょ」
確かに、私のような異能の力を持った人間には、奇跡を奇跡として信じない今のこの世の中は合ってないのかも知れない。ならいっそ、奇跡が奇跡と認められる世界に行った方が良いのかも、と、そうも思う。
でも。
「でもまだ暫くは、ここに留まっては如何でしょう」
「えー?」
八坂様は不満を声に出すけれど、でも私は、まだこの世界を離れる気にはなれない。
さっきのあの二人組。私以外にも異能の力を持った人間が存在する。それを知って私は思ったのだ。この世界にもまだ、希望はあるんじゃないかって。
「この地に留まったままで、信仰を集める為の努力をする。まずそれが先なのでは」
「努力って言ったって、具体的にどうするのよ」
「そうですね、例えば……八坂様の長所といえば、今の世の大多数の神々と違い、口約束や気休めだけではない、実際に起きる出来事としての神徳があると思うのです。ですから、それを活かして」
「そうしてやってきて、で、今のこの状況なんだけどね」
「それでしたら、五穀豊穣や武運といった事も良いのですが、もっと今の世の中に合った、多くの人々の身近な事柄に関する神徳を顕してみては?
学業成就だとか、縁結びだとか、交通安全だとか」
「私は風雨を司る神よ? 勉強とか恋愛はどうしようもないって。
……あ。でも、交通安全ならアリかしら」
「ですよね?
とりあえずは今の二人組、彼女達の帰りの交通安全を保障してあげれば、明日来た時には信者になってくれるかも知れませんよ?」
「あの子達の交通安全か。うーん、地味だけど、まぁ、小さな事からコツコツっていうのも一つの方法かしら」
良かった。八坂様も納得してくれたみたい。
さて、何だか色々な事があって随分と遅くなっちゃったけど。
「それでは私、買い物に行ってまいりますね」
大急ぎで飛んでいけば、多分タイムセールのお寿司にも間に合うでしょう。
「それでは」
「あ、その前に一言だけ」
もう既に両足は地面から離れていた私を、八坂様の声が引き止めた。
「早苗ってば、ジーシキカジョー♪」
……意地悪。
◆
「あーあ。お寿司……」
大きな買い物用マイバッグを片手で持ちながら、夜の空の中で一人、私は声を出して嘆いた。
確かに色々あって遅くはなったけれども、それでもこの時間、いつもだったら二つか三つは確実に残ってるんだけどなぁ。パックのお寿司。
別にどうしても食べたかったわけでもないんだけれど、当然食べるつもりでいた物が食べられないとなると、何だかもの凄くテンションが下がってきちゃう。これから帰ってお料理とか、そんな気力まで消えちゃった。
マイバッグの中に入っているのは、パスタと、あとはレトルトのミートソースだけ。今日はこれで済ませちゃおう。サラダはまぁ、今日は無しで。デザートは確か、冷蔵庫にヨーグルトが在った筈。明日の朝食もこれでいこう。
……あ。明日って言えば、お客様用のお茶とお菓子、忘れてた。どうしよう、戻るのも面倒だし。
ま、いっか。明日、朝早く起きて買いに行けば。便利ね、二十四時間営業。
それにしても……ちょと気になったんだけど。
お店で周りの人達が、何だか私の事を見てひそひそ言ってた気がするのよねぇ。あれ、何だったんだろう。
……この事、八坂様に話したらきっと、またジーシキカジョーとか言ってからかわれるんだろうな。
「ただいま戻りましたー」
『お帰りー』
声はすれども姿は見せず。聞こえたのは、居間へと通じる襖の向こうから。
私は台所に荷物を置いてから、外から帰ってきたら風邪の予防、と、お風呂場に行って洗面台で手を洗い……。
……って、今、鏡を見て気付いてしまった。私、東風谷の祭礼服を着たまんまで買い物に行っていた。
うっわ、道理で周囲の視線を感じるわけだ。こんなコスプレみたいな格好。恥ずかしい、知ってる人に見られなかったかしら。
「失礼いたします、八坂様」
一声をかけて居間に入る。目に飛び込んで来たのは、パソコンに向かって座っている八坂様の背中。
「これから食事の用意をいたしますので、ゲームはもうそろそろ切り上げてくださいね」
ちょっと前に買って来た、これまた昔のパソコンゲーム。空を飛ぶ不思議な巫女さんが妖怪を退治するシューティング。
それにしても八坂様。さっき、ちょっとはヤル気を見せてくれたと思ったのに、またゲームばっかりして。
「またゲームばっかりしてー、とか、そんなこと思ったでしょ、今」
「いいえ。そんな事ありませんわ」
「私だってね、別にゲームをする為だけにパソコンをつけたわけじゃないのよ。今の今までは、ネットで交通安全について調べてたの。で、その後、早苗が帰ってくるまでのちょーっとした時間潰しに」
にしては何だか、敵キャラの居ない画面の中で巫女さんが、不死鳥の羽にまとわりつかれながら飛び回っているのが見えるんですけれど。あ、でも、もしかしてこれは練習モード?
それにしても神様がネットで調べ物って。さっき色々言ってた割りに、八坂様って結構、現代文明を謳歌してる気がする。
「でね、早苗。ちょっと気になった事があったんだけど」
こちらには振り向かず背中を見せたまま、八坂様は話を続ける。しかもゲームをしながら。器用だなぁ。
でも、このゲーム、私も前にやった事があるけれど、今の攻撃に関して言えば慣れれば結構簡単だし。
「何でしょうか?」
「踏み切りのさ、事故ってあるわよね」
「はぁ。踏み切り、ですか」
「踏み切りの中で自動車が立ち往生しちゃって、それに電車がぶつかるとか、そういうやつ」
たまにニュースで見るわね、そういう話。まぁでも、交通事故全体からすれば、どちらかと言えば少数派な感じがするけれど。
「ああいう場合って、自動車の運転手の方に過失があったら、やっぱり、損害賠償請求とかされちゃうのかしら?」
「そうなると思いますが。
確か昔、新聞か何かで、実際そういう話を読んだ記憶がありますから。自動車側が多額の賠償金を払わされたという。
踏んだり蹴ったりですよね。自動車を壊され、場合によっては大怪我もして、その上で賠償までしなくてはならないのですから」
「あー、やっぱり、そーなんだー……」
消え入りそうな声でそう言って、それから先は何も言わず黙々とゲームを続ける八坂様。こちらの事は全く見ようともしない。
画面の中では、少しずつ攻撃が激しくなってきている。でも、これくらいならまだ余裕で……。
「え? そこでボム?」
思わず声が出てしまった。まだ追い込まれるにはほど遠い状況だったというのに、八坂様、あっさりとボムを使っちゃった。
「臆病だな、とか、ヘタレ、とか、そう思った?」
「ぃ、いえ、別に」
ほんの少しだけは。でも、まぁ。
「無理に粘って抱え落ちするとか、そんな事になってしまうのが一番悪いですからね。今のくらいに用心深い方が良いと思いますよ」
「そうよね、用心深いっていうのは悪い事じゃないわよね? 危険を未然に防ぐっていうのは、良い事よね?」
「ええ、そう思います」
私がそう言った、その途端。
「ぃよ――っし! 良かった、やっぱり私は悪くない!」
ゲームを中断し、大声を上げながら八坂様は立ち上がった。たかがゲームの事で、そこまで大げさに一喜一憂しなくても。
「いやね。実はちょっと、早苗には言いにくい事があったんだけど、でも今の言葉を聞いて安心したわ」
頭を掻きながら嬉しそうな笑顔を向けてきた八坂様を見て、逆に私の胸の中には妙なモヤモヤがわいてきた。
「買い物前に早苗が言ってた、あの二人組みの交通安全って話。実際にやってきたんだけど」
八坂様が私の言う事を聴いて事を起こしてくれた。それはとても嬉しい事の筈なのに、何だろう。
「でまぁ、あの帽子の方の子。道を歩きながら色々考え事しててね、連れの子も『危ないわよー』とか言ってて。で、そんな所にちょうど、車が迫ってきたわけよ」
何だろう、急激に沸いてくる、この……。
「多分ぶつかりはしないだろうなって、そうは思ったのよ。でも、万が一って事もあるし、用心をしておくに越した事は無いかな、と」
――この言い知れぬ不安感!
「でね、車を止めようとして、咄嗟に御柱を創って落としちゃったの。ドーンって」
ちょっと待て――っ!?
「御柱って、まさか、車とぶつかったりは!?」
「ああ、うん。本当はまぁ、単にビックリせて足止めってつもりで。ただほら、昔から言うじゃない。駐車場のナンバーで唯一車が止まれないのは――」
「怪我人は!?」
「出すわけないじゃない。私これでも神様よ?
ただまぁ、車の方はちょっと、凄い事になったかも」
ちょっと! ちょっとちょっとちょっと!?
車が大破って、その賠償はまさかウチに? ううん、それだけじゃない。道路が破損でもしていたらその修理とか、あとは御柱の撤去とか、その他諸々の費用、もしかしたら全部!?
「直せるんですよね? 八坂様、神様なんだから当然奇跡を起こして直せるんですよね!?」
「昔の人は言いました。起きないから奇跡って――」
「起こせますよね、神様なんだから!」
「いやほら、壊れた物の修理なんて、それ、私の能力の範疇と全く重ならないし」
「ちょっと――――ッ!?」
「……まぁでも、早苗も言ったじゃない。用心深いのは良い事だって。だからまぁ、これも良い事、みたいな? 感じ?」
「無理して可愛く言ってみても駄目です! どうするんですか、こんな事しでかして!」
――あ、でも、待って。
冷静に考えてみれば、現場で実際に起きた出来事っていうのは、『道路に突然御柱が降って来て、それに車がぶつかった』という事のみ。
「八坂様が落としたなんて、そんなこと誰も判るわけが無いし……常識的に考えれば風で飛ばされたとかどうとか、そういう話に落ち着くわよね。いくら警察が優秀でも、捜査の手がウチに及ぶなんて事は――」
「ああ、あのね。御柱にね、実は描いてあったりするんだけど。蛇と蛙」
蛇と、蛙?
「でまぁ、現場にはあの二人が居たわけで」
――――ッい。
「一体何を考えてるんですか――ッ!? そんな犯行現場に名前入りの凶器を置いていくような真似! 推理物だったらまず間違いなく引っかけですけど、現実じゃ真っ先にウチが疑われますよ!」
「あ、いや。いくら御利益を与えても、それが誰からか判らなきゃ意味ないかなー、とか思って」
どうしよドウシヨどウしヨ動詞よ!?
「それでもって、実際、あの二人こっちに向かって来ちゃってたりなんだり……走ってるみたいだから、多分、もうすぐに着いちゃうかもー……」
――――ああ、そうだ。そう言えば。一つ、全てを解決できる良い方法が、一つだけ在るじゃない。
「八坂様」
「はっ!? はひっ、何でしょう!?」
私は八坂様の両肩にガッシリと手を乗せて、そうして言った。
それにしても、何で八坂様が敬語? そんなに私、怖い顔してる?
「行きましょう、幻想郷に」
◆
『そろそろ来る頃と思っていましたよ』
二人の少女を遥か下に見ながら私は言った。ふふ、驚いてる驚いてる。人前で空を飛ぶって、初めてやったけど気持ちいい!
ああ、それに何だか今の科白、ゲームや漫画のラスボスみたいで格好良いわよね。風を弄って意図的に声に揺れを生じさせたり、演出もバッチリ。
『これから私“達”は、幻想の世界へと旅立ちます』
うふふ。光ってるわ。私今、最高に光り輝いているわ! それこそ文字通りの意味で!
客星の光を召喚して背後に設置。ああ、今彼女達の眼には、私の姿、一体どれだけ神々しく映っているのかしら!
実際の所、幻想郷に移る術は全て八坂様がやってくれていて、私は別に何もしなくて良いのだけど。だから、客星の光も単なる演出。
特に意味も無く光り輝く。これも、ある意味こういったシーンでのお約束みたいなものなんだし。
ああ、素敵。とってもイカシてるわ東風谷早苗!
「旅立つって、幻想の世界って、何?」
帽子の子が声を上げた。ふふ、あの子、よく判ってるじゃない。
こうした展開では必須の要素、『なぜなに君』。あ、女の子だから『なぜなにさん』かしら。
『この世界で忘れ去られたもの、即ち、幻想になったものが流れ着く世界。
今の世は、既に神を必要としていません。ならば私“達”がここに留まる理由も、もはや在りはしないでしょう。
ですから私“達”は、人の世を離れ、素晴らしき奇跡の世界へと向かうのです』
なぜなにさんに向けて、こうやって上の視点から物を話す。これがまた気持ち良いのなんのって!
ああ。私の事をお天気小学生と言った人達。口うるさいバイトの店長。私に対して『マジメ』以外の認識を何一つ持たなかった上に漢字間違えていた小学校のクラスメイト。人の事を『地味』の一言で片付けた馬鹿男子。
彼らにも見せてあげたい。今の私を、本当の私を!
「幻想の世界に行くって、それって、私達がここに来て貴方と会った、その事も関係しているんですか?」
一足お先に幻想郷へ行きかけていた私の意識を、けれど、ブロンドの子の言葉が引き戻した。
そうね。確かに。
『そうですね。貴方達がここに来た事がきっかけとなり、“私”にも決心がつきました』
貴方達が来なければ、八坂様もあんな馬鹿な真似はしなかっただろうし。いや、その内いつかはやっただろうけども。
とにかくウチには、信仰はもちろんお金も無いの。先代までの財産を崩す生活もイッパイイッパイ。
車とか、道路とか、絶対に何十万では済まないだろうし、もう無理。絶対無理。
そーよぶっちゃけ夜逃げよ何悪い!?
『さぁ、お別れです。
幻想の世界は、この世界とは流れる時が違うとも言われています。もう、貴方達と会う事も無いでしょう』
ああ、視界がだんだんとぼやけてきた。眼に映る風景が、私が生まれ育った世界が、少しずつ光に飲まれて溶けてゆく。
さようなら、何にも良い事なかったこの世界。そしてこんにちは、私の新たな理想郷。
『待っ――』
薄れゆく意識の中、最後に聞こえたのは、ブロンドの子の何処か悲痛な叫び声だった。
◆
――風の吹く音と、水面に波の立つ音が聞こえる。
「――あ」
私達の目の前に在るのは、夜の湖の風景だった。私がよく見知っている、あの諏訪湖の姿。
でも、今私達が立っているのは、山に少し入った所に在った筈の、湖を見える場所には無かった筈の守矢の神社。
そして湖の周囲に在る光景も、人工物なんて何一つ見えない、深い深い山の中。
「あの子達、今頃ビックリしてるだろうなぁ、きっと」
最初に口をついてでてきたのは、そんな言葉だった。
「そうね、驚いているでしょうね。
帰りの手間を省くって事で、わざわざ公園まで飛ばしてあげたから。『新しい』諏訪湖の見える公園に。
あの子達の眼なら異変に気付くだろうし、きっと鳩が豆鉄砲喰らったような顔してるわよ、今頃」
悪戯な笑みを浮かべて、冗談っぽく八坂様が言った。
「それにしてもさっきの早苗。すっごい格好良かったわよ?」
「やめて下さい。からかうの」
今から考えると私、かなり恥ずかしい事をしてた気がする。何かこう、お腹に溜まっていた色々が一気に出てきて、むやみやたらとテンションが上がりまくっていたしなぁ。もしさっきのやり取りを誰かがビデオにでも撮っていて、それを『ハイッ』なんて見せられた日には……って、そんなのありえないけど、想像したら心の中が恥ずかしさと痛々しさで一杯になってきた。
本当にもう、調子に乗っちゃってる時の自分って、冷静になってから思い返すとかなり辛い。そう冷静になって考えれば……。
考えれば。
……?
考えれば?
「――考えれば、例の御柱、ウチから持ち出したやつじゃなくて、その場で創ったやつって言ってましたよね」
「え? ええ。一瞬で背中から生やして、そのままドーンって」
という事はつまり、あの御柱を物理的にいくら調べてもウチには繋がらない。蛇と蛙の絵だって、その程度の物は何の証拠にもなりはしない。
結局、出来事の大部分に八坂様の『目に見えない力』が働いてる以上、異能者であるあの二人ならともかく、警察がいくらがんばった所で物的証拠があがる筈も無いわけで……。
…………。
「はーやーまっったぁ――――!!」
うわああしまった早まった! 別に私、夜逃げする必要なかったんじゃないの!?
「いーやー! おウチ帰るーっ!」
「おウチなら、ほら、ここじゃない」
そうじゃなくって!
「ポテチ! ポテチが食べたい! それにカップ麺に、コンビニ弁当に、ハンバーガーにっ!」
「あら、早苗ってそんな不健康な物が好きだったの?」
好きでも何でもありませんよ! でも、もう食べられないと思うと無性に食べたくなるんですーっ!
「そんな事より早苗。そろそろご飯にしましょうよ。久しぶりに大仕事したから、何だかとってもお腹が空いて。
今日はパスタでしょ? 早く作ってよ」
「こんな山奥でどうやって作れと言いますか!?」
「山奥って言ったって、神社は在るし台所もそのままだし」
「電気はガスは水道は!?」
「――あっ」
『あっ』て言った? 今。
何、『あっ』て?
もしかしてその辺りの事、何も考えてなかったのー!?
「電気が無いとすると……冷蔵庫のヨーグルト、早めに食べた方が良いわね」
「それはどうでもいいしっ!」
「ああそう言えば、もしかしてネットも駄目?」
「当っ然でしょうがぁーっ!」
ああもう! とにかくここは、一旦外に出て、食べられなくなるお菓子とか買えるだけ買って、欲しい本も全部手に入れて、それから、それから……!
「八坂様! ここは一度、外に出て準備をし直してから改めて――」
「あー、まあ、その……それについてはちょっと、言いにくい事が……」
言いにくいって、まさか。
「時間ねぇ、やっぱりズレちゃったみたい。と言っても、百年とかじゃなくて、数十年昔。ま、大した事は無いわよね?」
そんな、『やっば、今日ガッコウ遅刻しちゃったー☆』みたいな軽いノリで言われても!?
「大した事ないって、八坂様ならそうでしょうけど 、人間の私には大問題ですよ!」
「まぁ、大丈夫じゃない? 戻る時にはまたズレが起きて±0になるとか」
マイナスマイナスの可能性も在りますけどねっ。
あーああもうっ! 何で、どうして、こんな……。
ううん、駄目。駄目よ早苗。ネガティブになっては駄目。ネガティブになると、猫背になるって言うし。なんてこった。
今の私の状況、完全にマイナスだけど。でもそれでいいじゃない。ここから逆転すれば良いだけの事なんだから。
クールにいきましょう、早苗。周りから真面目真面目と言われ続けてきた、そんな私の真骨頂を発揮する時は今なのよ。元の世界に戻るのが無理なら、今いるこの世界で有意義に過ごせる方法を、真面目に、一生懸命、頑張って考えれば……。
――そう。ここを、幻想郷を、私達の真の理想郷に……。
その為に私は、私も……。
「……かっみにっなるっ、なるっのっ……」
「? 何よ早苗、今度は急に静かになって」
……そうよ、もう、私に残された道は一つ。
「八坂様、私、決めました!
私、東風谷早苗は、現人神の末裔として幻想郷全ての信仰をこの神社の、八坂さまのものとする事をここ誓います!」
人も妖怪もぜぇーっんぶひっくるめて、幻想郷に存在する者達全ての信仰を独占する。そうして。
「そうして八坂様と私は、幻想郷で唯一無二の神となるのです!」
「いや。『私と早苗』って時点で既に唯一でも無二でもないし。あと、諏訪子も居るし」
八坂様が何かを言ってるけれど、それは気にしない。
「ダイジョーブ、任せてください! あっという間にこの幻想郷全ての信仰を集めて来ますっ。
何せ今の私は、自分のこの力を誰の目をはばかる事も無く存分に使えるのですから!」
ああもう、何だか愉しくなってきちゃったわよチクショウ。もう凄い、無駄にテンション上がりまくりって感じ。
今なら私、何でもできる気がする。そうよ、もう私は脇役なんかじゃない。この幻想郷を舞台にした物語の、主人公にだってなってみせるんだから!
さあ、幻想郷の者達よ。これから先、困った事が起きたら、いつでもこの世界のスーパーヒロインの名前を呼ぶのですよ。
この私、風祝の早苗の名を!
しかし設定の使い方が上手い…なるほどなるほど、と頷かされました。
幻想郷への引越しや早苗さんの性格付けなど、その経緯が非常に上手く設定されていると思います。
また、文章のテンポも非常に良く、一気にスラッと読むことが出来ました。
楽しい作品をありがとうございました。
次回作も楽しみにしていますね。
それにしても早苗さん……(´Д⊂
ちくしょう、いい構成してやがる!
御柱はロードローラーのように落としたんでしょうかw
でもタケミカヅチも殺しまくったしチャラにしてくれないかな? かな?
……というのはさて置いて、前回の秘封倶楽部視点から
今回の洩矢神社への移行、更に風神録本編へと繋げる手腕はお見事。
手放しで満点です。
とかいう理屈抜きにこの神様と巫女が素敵すぎるんですがどうしてくれるんですかw
にしてもJOJOネタの使い方がうますぎるwww
早苗さん、あんたは・・・・
早苗さん前回は色々と秘密のありそうな、つかみどころのない人って感じだったのに、今回はホントにいっぱいいっぱいで・・・・・・
それはそうと、神奈子さまから微塵もカリスマが感じられん
ペルソナのタケミカヅチは結構使えました、ごめんなさい。
会話もテンポが良くて、久し振りにテラ嫉妬よ!
本当に楽しい時間をありがとうございました^^
自動車の運転手は災難だったなあと前作で思ってましたが、まさか、
こんなしょーもない理由でマイカー大破とはw
そしてJOJOネタは光る宝石。輝く命そのものやで…
真面目な点ばかりが創作で使われてた早苗さんだけど、
「過信」がうまく表現されてて、かつ可愛い早苗さんが見れて満腹。
紹介されていたのがきっかけで読んでみたのですが……
所詮SSも嗜好品なんだな、と云う事を思い知るに留まりました。
私など、さなさんのイメージが堅物で固定されているわけですが、
そのイメージを引っ繰り返すには到らなかったんですよね。
違和感無いのが凄いって言ってる人もいますが、
私には違和感バリバリなわけでして。
関係ありませんが、安易なパロディネタを組み込んでも不自然が無いのは
外の世界にいたという設定を持つ さなさんならでは、でしょうか。
最後になりましたが、イッパイイッパイな子は可愛いものですね。
人前では平静を装おうとしてる子なんて、特に。
A面とは打って変わってこちらは見事なギャグ構成。完全にはまりました。
A面とのリンクが判明するたび、「ちょ、そんな理由!?」と、いちいち心中でツッコミ入れてしまってました。
そしてこれはステッキーな早苗たん。なんといういじられキャラ。吹っ切れた時のはっちゃけっぷりも素敵。
そりゃ神奈子様も気に入りますよ。もっと愛してあげて! 彼女は叩けば叩くだけ光る子です!
いや、本当に面白かった。A面B面合わせて、とても楽しませてもらいました。
ところで・・・
秘封倶楽部と早苗らの時代って違うんじゃなかったでしたっけ?
まぁ、こういうのも面白いので自分的にはアリなんですけどね。
こちらを読んで、見事にやられました。
ギャグとシリアスの混ぜ具合も素敵です。
この構成の上手さには思わず嫉妬してしまいましたw
前作の微妙な舌足らずさがこのような複線だったとは、やられましたー
なんてこったい、完全にだまされた。
トウリとか、何か深い意味があると思ったのに。。
そういえばメリーたちは何大学なんだろう。
ところで早苗さんより神様の方が現代っ子に見えてしまうのは私だけなのでしょうか?ww
せざるをえない A面との早苗のギャップが最高です イッパイイッパイ可愛い
予断ですが3の八坂様(のダンナ?)は大のお気に入りです 両腕封印されてるのに
頭突きで突撃スキルぶっ放す様は五体満足の癖に針しかつかえねー某太陽神なんか
めじゃねーって感じでした イメチェンした某山神もお気に入りなんですけどね
神奈子さまも良い味出してるし、何よりもどこいつとの表裏一体ってか楽屋オチってか構成の妙を味あわせて頂きましたw
それと久々にお名前を見掛けて嬉しかったですw
諏訪子出てこないね?
ぜひ続き(?)というか諏訪子入り3人の話も読んでみたいですね。
キャラの描写が見事だったと思います。
メリー可愛いよメリー
しかし軽いですね~幻想郷に来るにはこれ位じゃないといけないんですかね。
そして早苗さんかわいいよ早苗さん
大変面白うございましたw
幻想郷への引越しって大抵重い話になるのにこれはwww