山のような巨体を揺らして、川沿いを歩くのは建御名方という巨漢だった。
出雲の大国主と越の沼河姫との子であり、越国を任された神である。
水辺の神でありながら、恵まれた体躯と怪力から軍神としての側面も持っていた。
「神奈子、疲れてないか?」
「えぇ、あなたのお陰で」
その巨体の肩にちょこんと座り、建御名方を労うのは妻である八坂神奈子だった。
伊勢の天八坂彦の娘で建御名方に嫁いでおり、彼女も同じく神であり農耕を司っていた。
「それよりももう既に諏訪の地に入ってるのよ? 私の事より仕事の事を気にしなさい」
「……あぁ、わかってるよ」
二人は観光の為に諏訪の地へ来たのでは無かった。
ある仕事の為である。
それは、葦原中国の統一事業。
その名も、――プロジェクト日本。
天照大神が統治する高天原――現在は大和と名乗る――の掲げた最大の目標であった。
当時の葦原中国は小さな国々に分れ、その小さな国毎に神が住んで統治していた。
しかし、国毎にバラバラでは得られる信仰が限られてしまい、新しい信仰を得るには難しい状況だった。
より多くの信仰を得る為にはどうすればよいか?
高天原が打ち出した解決策は統一だった。
小国同士が信仰を奪い合えば人間たちの間で争いが起こってしまう。
争いは一時的に信仰を高めるが、敵味方多くの命が失われ、敗北した神も信仰を止められ、殺されてしまう。
それではハイリスク・ハイリターンすぎるのだ。
大陸の遥か西方では、そんな争いによる信仰の奪いあいの結果、神を悪魔と呼ぶ支配による統一が行われていた。
しかし、同じ統一であっても高天原の打ち出したそれは、統一の下での信仰の共有である。
つまり、神を神のままとした統一の下での共存だった。
それは、唯一の神を信仰するよう人間に強制するのではなく、
数多くの神々の中から好きな神を選んで信仰するという、選択肢を与える事でもあった。
とはいえ、計画を良しとせず従わない「順わぬ神」には武威を示し、実力行使をも厭わなかった。
葦原中国には大国主の治める出雲という国があった。
出雲は大和国と連合し、越、伊勢などの地方勢力の盟主となっていた。
その為、葦原中国でもっとも影響力のある国とも言えた。
高天原は大国出雲に統一計画への参加を打診。
交渉をのらり、くらりと受け流していた出雲だったが、
経津主の説得と、息子であり、託宣の神である事代主の言葉に従い、計画に参加する事となった。
出雲の計画参加に伴い、
大和、越、伊勢も計画に参加する事となり、高天原の統一事業は一挙に推し進められた。
この時、高天原は本拠を大和国に定める。
黄泉へ通じる出雲と、日の昇る伊勢の中間に位置し、伊勢と瀬戸への海路の開けた土地だからである。
この為、高天原は葦原中国の統一国日本の前身として、大和を名乗る事になった。
順調に統一計画を推し進める大和であったが、統一目前でその歩みを止めることになってしまう。
説得に応じない国が二つ、存在したのだ。
それは諏訪と常陸。
出雲に劣らない勢力を持つ二国を従えるには、もっと力のある神を使者に立てる必要がある。
そう判断した大和は力ある神々にその任務を与えたのだった。
常陸には建御雷と経津主が。
残る諏訪には建御雷とその妻、八坂神奈子が。
§
巨体を揺らし、川沿いを歩く建御名方がぽつりと弱音を吐く。
「でも、争いになったら……」
そんな大任を受けた建御名方だが、その巨体とは裏腹に温厚で愚直な性格をしていた。
大任を任される切欠となったSUMOU大会では建御雷との決勝戦にて猫だましで怯んだ所を投げ飛ばされていた。
彼はそれほどまでに絡め手を苦手としていたのである。
自らの弱点を痛感した建御名方はそれ以来自身を喪失したままだった。
そんな状況に、この大任を任されたのである。
確かに彼以上に膂力を誇る神は数えるほどしか居ないから当然ではあるが、
相手は説得に応じない勢力である。
戦いは必至であり、戦いにおいて絡め手は常道である。
自信を失い、弱音を吐くのも無理はなかった。
「はぁ……」
神奈子は建御名方の後頭部をパシンっ、とはたく。
「ほら、しっかりしなっ」
「か、神奈子……」
「もう、あなたは私の旦那でしょ? 俺に任せろ位言ってよね!」
そう建御名方に活を入れた神奈子は続けて優しくつぶやく。
「それに私も居るんだからさ、あなたなら大丈夫よ」
全てを背負い、全てを自らが成し遂げねば成らないと思っていた建御名方だったが、
そんな必要はどこにもない。
建御雷ですら経津主を連れて行ったのだ。
彼には妻である神奈子がいるのだ。
「神奈子……」
そのことを再認識した建御名方の表情に覇気がみなぎる。
「あぁ、俺に任せとけ!」
「うん」
力強く言い放った建御名方に、神奈子も嬉しそうに微笑んだ。
二人がしばらく歩いていると、視界に木々以外の物が見え始める。
人の手による物であり、人々が集団で生活する場所――村である。
「おぉ、村が見えてきたぞ」
村が見えたことで歩みが速くなった建御名方を、神奈子を静止する。
「ちょっとまって」
「うん?」
「諏訪の神に会う前に、あの村で神様の事を聞きましょ」
彼らの前に使わされた使者は、諏訪の神と直接交渉する前に追い返されている。
これから相対する存在を知らないままでは交渉になっても争いになっても不利である。
「ふむ、それもそうだな」
その言葉と共に、神奈子は建御名方の肩から下ろされる。
「俺がひとっ走り聞いてくる。神奈子はここで待っててくれ」
情報を得に聞き込みをすれば、相手にもこちらの情報も伝わるだろう。
それならば一人だけで十分であるし、外来の者に厳しい村かもしれない。
そんな場所に最愛の妻を一人行かせるつもりは建御名方にはなかった。
「えぇ、気をつけてね」
その事を承知した神奈子は建御名方を見送り、川辺で一休みする事にした。
§ § §
神奈子達が川沿いを歩いている頃、洩矢の神、諏訪子の下に、何者かが諏訪の地に入ったとの知らせを受けた。
「まーた大和から来たのかしら……」
随分前にも大和から使者が来ていたが、彼女は会うことなく使者を追い返していた。
会って交渉する必要が無かったからだ。
「もう、こっちはイロイロと忙しいのに……」
知らせを持ってきた神官は侵入者の行方を事細かに説明する。
侵入者はどうやら川辺に沿って移動しているらしい。
「それで諏訪子様、いかがいたしましょう?」
彼女を祭る神官が出方を伺う。
「うん、この前と同じでいいわ」
諏訪子は神官にそう言うと、すっくと立ち上がり社を出る。
「諏訪子様、あなた様が行かなくても我々神官団が……」
「あはは、大丈夫大丈夫。どうせまた前と同じ結果だから」
神官の心配をよそに、諏訪子はあっけらかんと言い放つ。
「しかし、御身に何かあっては……」
なおも神官は食い下がるが、諏訪子は神官の言葉をやんわりと退ける。
「私よりも先日の大風で被害が出てるでしょ? そっちを心配しなよ」
諏訪子の言葉通り、大風による被害は放っておくには少しばかり大きすぎた。
風によってなぎ倒された巨木と大岩が道を塞ぎ、畑を潰していたのだ。
そこを突かれては神官といえども痛かった。
「……判りました。ですが、くれぐれもお気をつけて」
「はいはい、それじゃいってきまーす」
神官に別れを告げると、諏訪子は川辺へと向かった。
川へ向かって駆ける諏訪子に、巨木の撤去作業をしていた村人が声を掛ける。
「諏訪子様ぁ、そんなに急いで走ると転んじまうよ」
「あはは、おじさんこそ腰痛めないようにね!」
幾人かの村人とすれ違うが、その誰もが親しげに声を掛けていた。
村人達の向ける視線は神を敬うというよりも、親が子に向けるソレに近かった。
それらは全て、彼女の役割と、その容貌に起因していた。
神力を発揮しなければ彼女はどこから見ても幼い少女以外の何者でもなかった。
そして彼女はその事を熟知しており、十二分に利用していた。
諏訪子はまったく使者に会わなかったわけではない。
彼女は自らの容貌――幼い少女の姿を生かし、村の子供として使者に会い、警戒心を抱かせず、質問攻めにして情報を聞き出していたのだ。
「さてさて、今回はどこまでお喋りしてくれるのかしら?」
§
川辺に到着した諏訪子は水遊びをしながらこちらに近づく使者を観察する。
報告にあったとおり、侵入者は大男と女性の二人組だった。
「大きいのが村へ行ったわね……」
大方事前に情報を仕入れるつもりだろう。
しかし村人達は撤去作業に忙しい。
あの大男はろくな情報は得られないで帰ってくるだろう。
「お嬢ちゃん、一人で遊んでいるの?」
そんな事を考えていると、もう一人の方に声を掛けられる。
よかった、バレていない……
内心安堵しつつ、諏訪子は振り返る。
「うん? そうだよー」
「ねぇ、一人で遊ぶよりも、お姉さんと一緒に遊ばないかしら?」
柔和な笑みを浮かべる女性。
「うー、でも、知らない人とは遊んじゃダメって言われてる……」
「なら自己紹介。 私は八坂神奈子、こう見えても神様なのよ?」
「わぁ、神様なの!?」
――八坂?
多くの坂……、つまり、山ノ神?
でも確か伊勢の神に天八坂って……
「えぇ、お嬢ちゃんにも神徳を与えましょうか?」
神徳。
神の大いなる力。
それは即ちその神の司る力の正体が判る。
「くれるの!」
「ふふ、それじゃあ……、あっちの草むらにでも行きましょうか」
神奈子はそう背後を指差しながら、舌なめずりをする。
その瞬間、諏訪子の背筋に悪寒が走る。
「――ッ!?」
な、なに……、この感じ?
あの草むらに入ると良くない事が起きる、気がするわ……
「ぁ、う……、ここじゃダメなの?」
諏訪子は一歩下がる。
「それではきっと恥ずかしいから、草むらの方がいいわよ~」
神奈子が一歩半、迫る。
その頬はほんのりと上気し、朱色に染まっている。
「ぁ、ぅ……、う……」
やばい、やばい、やばい、
こいつ、絶対にヤバイッ
どうして鼻息が荒いの?
どうして美味しそう♪って目で私を見るの?
私が神だってバレてないのなら……
あぁ、とにかく身の危険、というか貞操の危機を感じるわ!
今すぐ逃げる?
相手はヤる気満々。きっと逃げ切れない。
それなら……
「さぁ……、大人しく……」
諏訪子は先手必勝とばかりに、懐に手を入れる。
「!」
懐からソレを取り出す。
「これでも……ッ!」
掲げようとした刹那、神奈子は間髪入れずに手にしたソレを一指しする。
「こら、お子様が刃物なんか振り回しちゃダメよ?」
たちまち掲げようとしたソレが赤黒く錆びて崩れてしまう。
「あぅう、鑰(カギ)が……」
鉄の鑰がこうもあっさりと錆びるだなんて、相手は水気を操れるって事?
「あら、てっきり刃物だと思って……、ごめんなさいね」
私の武器――金気じゃ相手に力を与えちゃう……っ
ここは一時撤退を……
逃げ出そうとする諏訪子の体に藤の蔓が絡みつく。
「うわぁ!?」
――しまった、木気も操れるだなんて!
金気を操る諏訪子は土気であり、木気には抗えない。
抗う手段であった金気は先ほどの水気で封じられていた。
戦う間も無く、諏訪子は絶体絶命に陥っていた。
「鑰のお詫びに神徳をいっぱい注いであげるわ」
背後の草むらに移動した神奈子は絡めとった諏訪子をずるずると引きずり、手繰り寄せる。
「は、離してよぉ! それに注ぐって何よ!?」
「大丈夫、私は農耕神だから、開発も生やすのも得意なのよ♪」
草むらに引きずりこまれながら、諏訪子の頭には謎でいっぱいになる。
開発って何さ?
生やすって何を――?
「すぐに良くなるから……♪」
「いや、いや……、アッ――!!」
§ § §
「んっしょ……」
千人で引っ張っても動かないような大岩も、その巨漢に掛かれば軽がると持ち上がってしまう。
村に到着した建御名方は、撤去作業に苦戦している村人を見て聞き込みも忘れて手伝っていた。
「おぉ、あんた凄いな……」
集まった村人の誰もが驚き、その雄姿を見上げていた。
「これはどこに置けばいい?」
「あぁ、そっちにお願いするよ」
ズシン、と重い音を響かせて大岩が撤去される。
道を塞いでいた巨木も、畑を潰していた大岩も建御名方の怪力よって早々と片付けられていた。
「いやぁ助かったよ旅の人」
「本当だ、ありがとう」
「ふぅ、しかしこんなに荒れて……、嵐でもあったのか?」
「まぁ、諏訪では良くある事だから」
「あんたが此処に住んでくれれば頼もしいんだけどなぁ」
村人達は建御名方の膂力を絶賛し、感謝していた。
そんな中、彼を大和の神だと知っていた神官達はその膂力に驚愕し、どうしたものかと手をこまねいていた。
あんな怪力を見せられては神官団で立ち向かっても一網打尽にされてしまうのは明白である。
騒ぎ立てても村人達はきっと彼を庇うだろう。
神官達は困り果て、諏訪子の帰還を待ちわびていた。
そんな事を知らない村人達は、建御名方と親しげに話を始める。
「お茶もってきたから一息いれとくれ」
村の女性達がどんぶりにお茶を注いで建御名方に渡す。
「やや、これはありがたい」
受け取った建御名方はうまそうにお茶を飲み干す。
「それでいったいどうしてこの諏訪の地に来たんだね?」
「忘れるところだった……、諏訪の神様ってどんな方なんだい?」
「ほぉ、諏訪子様に何か用でも?」
「いやなに、異国に来たのだから挨拶しなきゃ失礼かなと思って」
そう言った途端、村人達は吹き出し、笑い始める。
「あはははっ、それはいい、きっと面白い光景だろうなぁ」
村人達が笑うのも無理は無い。
一生懸命踏ん反り返る少女に巨漢が頭を垂れて神妙に挨拶をするのだ。
諏訪子の姿を知り、愛する村人にとってこれ以上滑稽な事は無いだろう。
それを知らない建御名方の頭には疑問符が並ぶ。
「??? どうして笑うんだ?」
「今川に居るだろうから、会ってみれば判るけど……、教えてあげるよ」
「諏訪子様はね……」
村人の説明を受けた建御名方は顔面蒼白になって駆け出す。
「たた、大変だ……、神奈子ぉおお」
§
建御名方が駆けつけた時には、既に終わった後だった。
「遅かったか……」
建御名方を迎えたのは
「あら、お帰りなさい。遅かったのね♪」
満足そうに衣服の乱れを直す神奈子と、
「うぐっ、ひっく……、えぐっ、えぐっ」
半裸で泣きじゃくる幼い少女――洩矢の神――諏訪子だった。
可愛らしい少女に目が無いという神奈子の悪癖を知り、認めている建御名方はそんな事には驚かないし、怒らない。
「えーっとな、神奈子……、諏訪の神様見つけたぞ」
「凄いじゃない、どこに居るの?」
夫の手柄に喜ぶ神奈子。
建御名方はその隣を指差す
「……もしかして、この子?」
その問いに建御名方は無言でうなずく。
「……交渉前に(押し)倒しちゃったわ」
「うわぁあああん」
諏訪子の泣き声が川辺に響いた。
§ § §
その後3人は諏訪子の住む社で話し合いの場を設けた。
「とりあえず、こちらの言い分はひとつ。統一事業の為に諏訪の地を明け渡しなさい」
この単純極まりない神奈子の物言いに、建御名方がフォローする。
「もちろん、素直に従ってもらえればそれ以上の事――たとえば土地を追い出すような事はしない。それに統一によるメリットはそちらにもある」
統一によって国境が無くなれば、人も物も流通し、今までとは比較にならないほど繁栄し、
同時に信仰も広がりやすくなるだろう。
諏訪子と同じく国を治めていた建御名方は人の暮らしと信仰の両側から諏訪子に説いた。
「それとも……、今度はまじめに戦ってみる?」
神奈子の挑発的な言葉を、諏訪子は首を横に振って受け流す。
「戦わないわよ。あんたとの相性は悪いみたいだし、あれで十分。私の負けよ」
諏訪子は再度降伏を宣言する。
「では、こちらの要求は呑んでくれると?」
しかし、諏訪子はこれにも首を横に振る。
「負けたからには従うけれど、きっと貴方達じゃこの土地を治めるのは無理よ」
「どうしてかしら? 私の旦那は越国を治めていた実績があるわ」
「統治能力の有無って訳じゃないのよ……」
うまく説明できないのか、うーん、と唸った末に諏訪子は一つの提案をする。
「その理由と、私の役割を見せてあげるわ」
§
社の外に出た諏訪子は村人を集めはじめる。
「それで、いったい何をするの?」
「んー、まずは生贄ね」
そういいながら、諏訪子は村人達に一本の矢を配る。
受け取った村人は弓を手にそれぞれ山へと入っていった。
「一人に矢一本で一体どうするのよ?」
「まぁまぁ、すぐにわかるから」
諏訪子の言葉通り、しばらく待っていると村人達は手に獲物を持って諏訪子の元に帰って来る。
最終的に集まった獲物の数は70を超えていた。
そのどれもが一本の矢で見事に獲物を仕留めていた。
「すばらしい技術だな……」
素直に驚く建御名方に、諏訪子は笑う。
「あはは、これは私の神徳。生贄の獲物はふさわしい対象を効率よく捕らえなきゃね」
生贄だからといって無差別に動物を狩っては絶滅してしまう。
子供は狩らず、無駄に傷つけない為に、一矢で確実に捕らえられる様に諏訪子は力を授けたのだ。
その後、諏訪子は二人と共に集まった生贄を持って村の外れにある丘へと出る。
そこには大きな楓の木が悠然と根を下ろし、その根元には平らになった大きな石が置かれていた。
そして、楓と石を取り囲む様に、四方に一本ずつ柱が立っていた。
諏訪子は持ってきた生贄を次々に並べてゆく。
「よぉし、準備終わり」
四本の柱や石から、ここが神事の為の場所だという事は容易に想像がつく。
そして、樹木は通り道であり、石はとどまる場所であり、
生贄は呼び寄せる為の餌であると同時に、現れた事への感謝も意味する。
その事を知っていた神奈子はこれが召喚の儀式である事をすぐさま察知する。
「それで、ここまで準備して何を呼び寄せるつもりなの?」
「貴方達がこの土地を治められない理由よ」
そう答えた諏訪子は口の中で何やら唱えながら、祈りを捧げる。
「さぁ、降ろすわよ――、ミシャグジ様を!」
突如吹き出した風に楓の枝が大きくざわめきはじめる。
風は勢いを徐々に増し、瞬く間に巨大な風の渦を作り出し、丘の草花を薙ぎ倒し、捧げられた生贄を吹き飛ばす。
烈風の中心である楓はギシギシと幹を軋ませ、枝につけた葉を舞い散らす。
しかし、四方にそびえる柱が結界の役割を果たし、柱より外では突風の勢いは大幅に殺がれていた。
が、結界内部は嵐のように風が荒れ狂っていた。
「ぬぅ……っ」
あまりの強風に、建御名方は神奈子を背に隠してその身を庇う。
さすがの建御名方も吹き荒れる豪風には耐えるので精一杯の様子であった。
吹きすさぶ風の中、諏訪子の声が響く。
「ほら、これがその理由、ミシャグジ様よっ」
「一体どこにミシャグジ様が!?」
二人は強風の中目を見開き、周囲を見渡すがどこにもミシャグジ様という存在は見当たらない。
「判らないの?」
諏訪子は歌う様に、説明する。
「たった一でも人を病にし、十なら作物を薙ぎ倒し、百なら巨木を圧し折り、
千なら海を荒らす嵐となって、万にもなれば国を揺るがす大風となる。
一であり、万でもあり、巨大であり、細かくもなる。
その身は不可視の荒ぶる蛇。
人々が恐れる原初の存在――」
「それって、まさか――」
思い当たった答えに、神奈子は目を見開く。
「そう、ミシャグジ様は、風そのものよ!」
「く……っ、確かにこれは、私達では難しいかも……ッ」
建御名方にしがみ付くのがやっとな神奈子とは対照的に、諏訪子は慣れた感じである。
「そして、ミシャグジ様を鎮める事こそ、私の役割。その為に私は信仰されるっ」
諏訪子は懐から鉄の鑰(カギ)を取り出す。
「あら……、さっきの?」
「さっきは使う前に壊されちゃったけど、この鑰の本当の力を見せてあげるわ」
そう自慢げに言い放つと、諏訪子は鑰を掲げる。
地面から鶏の頭を模した鎌「薙鎌」が無数に現れる。
その様は我と書いてオレと読みたくなる程、ゲート・オブ・バビ○ンだった。
「さぁ見なさい、これが風を――ミシャグジ様を鎮めるという事よ」
現れた無数の鎌が、楓を中心に吹き荒れる暴風に向けて殺到する。
鎌が空を薙ぎ、楓の幹に打ち込まれる度に、風の威力が弱まってゆく。
金気によって木気である風が殺がれた証である。
鎌が舞い飛ぶ、その度に吹き付ける風がその力を弱める。
「確かに、風が相手じゃどうしようもないな……」
神奈子を抱きとめる建御名方がそう呟く。
「そうね……」
そして、二人が見守る中、遂に諏訪子はたった一人でミシャグジ様を――風を鎮めてしまった。
今はもう楓の木を中心にそよ風が吹く程度である。
「ね、この理由があるから、諏訪の地は私じゃなきゃ鎮められないのよ」
そう言うと諏訪子はしゃがみ込んでしまう。
「ならばあなたが私達と共に居れば解決する話でしょ?」
単純明快な答えである。
が、諏訪子は重大な問題点を指摘する。
「それじゃあ信仰する側が困るわよ。一度に複数の神を信仰しなきゃいけないんだから」
人々がいくら敬い祭っても、ミシャグジ様は荒ぶるばかりである。
かといって祭らなければ被害はもっと大きくなる。
そんなミシャグジ様を鎮められる諏訪子であるが、
彼女も祭られ、信仰される事でその神力を維持、増強してミシャグジ様に対抗している。
「それは貴方達にも言える事でしょ?」
今までは風を鎮める諏訪子が同時に国を治めていたので信仰が集中していたが、
そこに神奈子や建御名方が割り込むと、鎮める事への信仰と、国を治める信仰とが別々になってしまう。
そうなってはお互いに困るのではないか?
そう言っているのだ。
「確かに、そうなると……、どうすればいいかしら……」
神奈子は大いに悩んだ。
諏訪の地だけを特別扱いしては他の国から批判が相次ぐだろう。
統一を目指す大和側としてはそれだけは避けなければならない。
かといって信仰が分散してしまっては鎮める力が弱くなり、その為に信仰を失う悪循環に陥ってしまう。
だからといって降伏し、従うと言った諏訪子の神徳を奪う事は土地を譲り受ける以上の事はしないという約束を破る事になる。
神奈子が一人思案している所、今まで黙っていた建御名方が口を開く。
「全部纏めてしまえば話は早いんじゃないか?」
「どういう意味?」
悩んでいた神奈子は顔をあげて建御名方を仰ぎ見る。
「信仰対象を一人に絞るんだよ。その一人を通して神徳を授けるようにすれば可能だろう」
建御名方は顔役をつくり、窓口を設ける事で信仰の分散を防ぐ事を提案したのだ。
窓口役以外は表に出ず、名は広まらなくなってしまうが、今と遜色無く信仰を得られるようになる。
大和側としても表向きは支配下に置いた事になり問題は無い。
「……」
神奈子はこの妙案を吟味しているのか、黙り込んでしまう。
それとは反対に、諏訪子は懸念を示す。
「それはいいけれど、ミシャグジ様はどうするの? 話が通じる相手じゃないのよ?」
大人しくしてくれと言って聞く相手ならば諏訪子じゃ無くても鎮められる。
「ミシャグジ様はその一人に降ろして宿らせるんだよ。一であり万であるなら、ミシャグジ様を信仰する事になるだろう?」
この提案が実現すれば、農耕、狩猟、風、水、軍事などの神徳が一人に集まる事で、信仰は分散するどころか集中する事になる。
そして、ミシャグジ様を宿す事でミシャグジ様を信仰する事にも繋がる。
今浮かんでいる問題点が全て解決する。
しかし、諏訪子はこの提案に声を荒げて反対する。
「前代未聞よ、荒ぶる存在をその身に宿すなんて……っ」
「樹木や石に宿せるんだ。生き物でもできるだろう?」
「そりゃあ、やればできるだろうけど……、
宿ったミシャグジ様はその身の内側で大暴れするに決まってるわ。
もし暴れなくても荒ぶる精神にきっと心がおかしくなってしまうわよ」
ミシャグジ様を知り尽くす諏訪子は捲くし立てる。
それほどまでに、危険であると判断したのだ。
「そうならない為に、神奈子と、諏訪子の嬢ちゃんが居るんだろう?」
建御名方はその大きな手で諏訪子の頭をくしゃりと撫でて、神奈子を見つめる。
「……やっぱり、最初から自分がやるつもりだったのね」
「あぁ、言いだしっぺの法則ってあるだろう? そういう事だよ」
重い手を押しのけて、なおも諏訪子は食い下がる。
「や、やめた方がいいよ……、あなたも、自分の旦那が危険な目にあってもいいの?」
「この人なら大丈夫だって信じてるもの」
「そうそう、それに俺は頑丈だからな」
と建御名方は他人事のように笑い飛ばす。
夫婦である二人のどちらが犠牲になっても残ったほうが可哀想だと思い、食い下がっていた諏訪子は大きくため息を吐く。
諏訪子の想像以上に、この二人は仲睦まじく、信頼しあっていたのだ。
「あぁもう、本当にどうなっても知らないからね!」
諏訪子は立ち上がるとスカートについた草を払うと建御名方に向き直る。
木を道として石に宿ったミシャグジ様は今さっき鎮めたばかりである。
儀式の為のお膳立ては全て終了している。
「始めるよ、――神降ろし」
「応」
建御名方の短い返事の後、一陣の風が吹き抜けた。
その後、諏訪の地には洩矢神に変わり、数多くの神徳を持った新たな神「諏訪明神」が祭神として鎮座する事になる。
それこそ、諏訪が大和に降り、統一国「日本」の礎となった証だった。
早苗は大丈夫だったのか。
ってか、とめろよ旦那。