「…それにしても何もないな」
昼食をとり終えた霖之助は、そうポツリと呟くと、いかにも気だるそうに、一つ小さいあくびをして、手にしていた新聞に目を落とした。
昼下がりの陽光が、時折、彼に転寝への誘いをかける。
この『香霖堂』に今日も客は訪れそうもない。しかし、元々繁盛する事自体が滅多になかったので、彼はすでに慣れてしまっていた。
それに何しろ、この店には客以外の者なら頻繁に現れる。それこそ日常茶飯事のように。
ふと、彼の耳に人の声が入ってきた。早速、誰かやって来たらしい。
彼は、声がした方にゆっくりと目を向けてみる。その先には人の姿が二つ。一人は黒髪の子―幻想のブン屋こと射命丸文という天狗だ。この子とは面識がある。それもそのはずで、彼が今読んでいた新聞は、彼女が発行しているものなのだ。どういうわけか彼女は、これまでもちょくちょく彼の店にやって来ていた。一応は取材という名目で来るのだが、少なくとも彼の記憶の中で、まともに取材を受けた事は一度もなく、大抵は、店の商品の話、もしくはそれ以外の雑談で終わってしまっていた。
一方、もう片方の子は、初めて見る顔だった。緑の大きなリュックを背負い、同じく緑の帽子を被った青い髪の子だ。
一見、年端もいかない幼子のようにも見えるが、そこは妖怪、見た目で判断してはいけない。
そうこうしているうちに、二人はこっちにやって来る。
「あ、店主さん。どうもこんにちは」
霖之助に会うなり文は、きびきびした動作で一礼をする。
「やあ、どうも」
霖之助も彼女に軽く頭を下げる。彼は、彼女の礼儀正しさに対しては一応、感心していた。とは言っても、それは彼女自身の性格と言うよりは、単に天狗という種族が持つ特徴に過ぎなかったのだが、何しろ普段彼の周りにいる者は皆、礼儀とはまるで無縁であるかのような存在ばかりなので無理もなかった。
一方、もう一人の青い髪の子は、ずっと文の後ろに身を半分隠したまま、じーっとこっちを見ている。
どうやら彼女は初対面が苦手なタイプのようだ。
「新聞、拝見させてもらってるよ」
彼は、手に持ってる新聞をひらひらとさせて、文に見せびらかすような仕草をする。
「これはこれは、いつも購読ありがとうございます …で、どうでしたか? 今回の記事の方は」
文の、そのうやうやしい言葉づかいは、大概、下手すれば慇懃無礼とも取られかねないのだが、不思議な事に、彼女の場合はそれを感じさせない。
「うーん、些か気になる点があったけど…まぁ、とりあえずそれはまた後日、話す事にするよ」
「いえいえ、読者の意見は大切です! 是非、今この場で教えてください。今後の新聞作りの参考にしたいので」
彼女は、メモとペンを用意してまでこちらの意見を待っている。思わず霖之助は苦笑してしまう。
「まあ、熱心なのは大変いいが…ほら、今日は連れもいるんだろう? ずっと放っておいたら可哀想じゃないのかい」
彼の言葉で文はようやく、その連れの子に目をうつす。
「おっと、そういえばそうでした。今日は、あなたに会いたいという子がいまして…」
そう言うと文は、自分にしがみついてる子の頭を、帽子越しに軽くぽんっと叩く。
頭を叩かれた、その青い髪の子は、文と目を合わせつつ、ゆっくりと離れる。そして霖之助の対面まで来ると、たどたどしい口調で自己紹介を始めた。
「…は、はじめまして、ええと、私はにとり。河城にとり…通称、谷カッパのにとりです」
彼女は、うつむき加減で、いかにも緊張した様子で一礼する。
「僕は森近霖之助。この店の店主だよ。まぁ、そんなに気をつかわないでくれ。一応、僕も妖怪であるのだから。なるほど、河童か…。でも、河童が何故、わざわざこんな所に?」
彼女は、視線を上目遣い気味にしながら答える。
「あ、それは、ここに来れば面白いものがあるって文に言われて…」
霖之助は思わず文の方を見る。
「…君の紹介なのかい?」
「ええ、あなたがガラクタを扱う商売してると教えたら是非とも会ってみたいって」
そう平然と言い放った彼女に対して、霖之助は何か言いそうになるが、どうせ、いつもの事だし言うだけ無駄か。と思いとどまる。それに彼女は決して悪気があって言ってるわけではないことを、今までの経験から彼は知っているのだ。
霖之助は気を取り直して今度は、にとりの方に尋ねてみる。
「…ということは、もしかして君は、古道具や骨董品等に興味あるのかい?」
しかし、彼の質問に、にとりはふるふると首を横に振った。
「うーむ、話が全然見えてこないな…」
霖之助は思わず頭をかく。
と、その時だ。突然、にとりは何かを見つけたのか、彼の後ろの方に素早く駆け寄る。そして金属製の何か丸いものを拾い上げた。それは今朝、霖之助が散歩の最中に拾った、いわゆる懐中時計だった。
彼の鑑定によると、この時計はブレゲとか言うらしく、誰が見ても高価そうだと感じる代物だった。なにしろ表面の文字盤が透明で中の機構が丸見えだし、時刻を表す数字なんかは、宝石があしらわれておりキラキラと輝きを放っている。とにかく絢爛豪華の一言に尽きる一品だった。しかし、その時計は既に壊れていたのか、惜しい事に針が動いていなかった。
時計としての価値はないと判断した彼は、とりあえず庭に放置しておいたのだ。
彼女は、目を輝かせてそれを見つめている。
「ねぇ、これ…」
「あぁ、それか。残念だが既に壊れてるみたいだ。何やら値打ちモノのような感じだけど…」
彼の言葉を聞いた後、暫く彼女は時計を見回していたが、やがて気づいたように声を上げる。
「…やっぱり間違いない! こんな凄いのもったいないよ!! これ、ミニッツリピーターだよ!?」
その口調は先ほどまでとは明らかに違っていた。だが今の方が、遥かに自然に聞こえる。きっとこれが、彼女本来の喋り方なのだろう。
一方、文は、二人から少し距離をとり、にこにこしながらこっちの様子を眺めている。どうやら、この場においては傍観者に徹するつもりのようだ。
「…ミニッツリピーター?」
霖之助が聞き返すと、にとりは得意げに説明を始める。
「ミニッツリピータってのは懐中時計みたいな機械式時計のギミックの一つだよ。その仕組みは、トゥールビヨンに匹敵すると言われるくらい超複雑なもので、時計職人の中でも本当に限られた人にしか作れないのさ。んで、気になるその仕組みの方はと言うと…」
―その後も、彼女の説明は続いたが、専門的な用語があまりにも多すぎて、正直彼には、ほとんど解らなかった。しかしどうやら現在の時刻を知らせるアラーム機能のようなものらしいという事は、辛うじて理解出来た。つまりこの懐中時計は、本来なら音が鳴るというのだ。とは言え、せっかくのその仕掛けも壊れてしまっていては確認すら出来ない。
彼は思わずため息をつく。
「…実に残念だ。せめて壊れていなければね…」
「大丈夫! 壊れてんなら直せばいいのさ!」
にとりはそう言うと、にかっと笑って白い歯をこぼす。
「直す? 直すったって…どうやって?」
「うーんと…そうだ、ちょっと家の中、借りてもいいかな?」
「ああ、構わないが…」
と、彼が言うや否や、にとりは急ぎ早に店内へと入っていってしまった。
霖之助は呆然として文の方を見遣る。すると彼女は笑顔で言った。
「さあ、私達も早く中に入りましょう。面白いものが見れそうですよ」
「ふむ…」
面白いものとは何だろうか。と、彼は一瞬考えたが、考えるより見たほうが早いという事で彼女と一緒に店内へと入ることにした。
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・
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「さてさて、それじゃ、早速始めるよー!」
店の奥の作業机に陣取ったにとりは、嬉々とした表情で、背中に背負っていたリュックから精密工具を取り出す。そして懐中時計の裏ぶたを開けたかと思うと、中の機構を次々とばらし始める。
その手際の良さは、なかなかのものだ。
ちょうど、皆にお茶を用意した所だった霖之助は、それを見て思わず感嘆の声をもらす。
「へぇ…すごいじゃないか」
文の方は笑顔で彼女を見ている。
彼女がさっき言ってた『面白いもの』とはこの事だったのだろうか。
「この子は機械に強いんですよ。私も、このカメラが壊れた時とか、よくお世話になってるんです」
そう言って彼女は愛用のカメラを取り出して手に取る。
「なるほど。彼女は技術者タイプというわけなのか…」
やはり妖怪というものは見た目によらないものだ。と、霖之助は心の中でつくづく思った。
にとりはいつの間にか、ルーペを片目にはめて作業に没頭している。
机の上は、既に解体した部品やら歯車やらでいっぱいになっており、それら部品の中には彼女の小指の先ほどしかないような小さいものも沢山あった。果たして彼女は、これらを元通りに組み立てられるのだろうか。
彼は心配になって、つい聞いてしまう。
「これ、元に戻せるのかい…?」
にとりは作業したままで答える。
「もちろん! 原因もわかったし、あとは直して組み立てればいいだけだよ」
「ほう。で、原因は何だったんだい?」
「テンプよ。テンプが壊れてたの。こいつが壊れてたら動かないのは当然よ」
彼女はそう言って小さな輪っかのような部品を一つ、つまみ上げて見せる。どうやらそれが『テンプ』という部品のようだ。
「そうなのか…」
テンプとは一体どういう役割をする部品なのか気になったが、彼は敢えて聞かなかった。
聞いたら聞いたできっと、また彼女の長々とした説明が始まってしまうだろう。そういえば、さっきの説明の中でも出てきた単語だったような気もするが…。など霖之助が考えてるうちにも、彼女の作業は着々と進んでいく。
今は、歯車一つ一つの調整をしている所のようだ。
それを見ていた彼は思わず呟く。
「河童が歯車に戯れる…か。なかなか滑稽だな」
それを聞いた文がすかさず聞き返す。
「どうして滑稽なんですか?」
「ん、あぁいや、なんでもないさ…こっちの話だよ」
「はぁ…。」
彼女は腑に落ちない様子でこっちを見ている。と、そのときだ。
「よっし! 出来た!」
にとりはそう言って机から立ち上がる。
机の上には元通りに復元された、きらびやかな懐中時計の姿があった。
「おぉ…」
思わず二人から声が漏れる。
にとりは胸を張っていかにも自慢そうだった。
「じゃあ、動かしてみるね」
彼女は、自前のネジ巻きを使ってゆっくりと時計のネジをキリキリと巻いていく。そして彼女がネジ巻きを抜くと、時計はカチカチと音を立てて時を刻み始める。
中の歯車達も、それに合わせて規則正しく動いているのがよく見えた。
「これはすごいな。まさか本当に直るとは…」
「さあ、どうだ! この私に直せない機械はないよ!」
彼女は、まさに得意満面の様相だ。
「さすが、にとりね」
文はそう言いながら懐中時計を手にとって見回している。
「そういえば、これ、音が鳴るんだったよね?」
霖之助がふと呟くと、にとりはすかさず答える。
「鳴るよー。よしじゃあ、早速鳴らしてみようか。文、時計を机においてもらっていい?」
「あ、はいはい」
にとりに言われるがままに文は時計を机の上に置く。
「それじゃ、いくよ。よーく、耳を澄ませてね」
彼女は、そう言うと時計の竜頭をぐいっと引っ張る。するとギリギリと歯車が回り出すような音が時計から聞こえ始めたかと思うと、程なくしてチーンチーンとベルの音が数回響く。
その後、すぐに別なベルの音が同じく数回響き、更に別な音のベルが鳴らされる。それらの音は、思わず聞き入ってしまうような、よく響き渡る澄んだ音色だった。
「わかったかい? これがミニッツリピーターってやつさ! つっても私も実物見たのは初めてだったけどね」
「ふむ、なるほど。今のように、ベルの回数で現在の時間を知らせてるってわけか」
「ご名答! つまり、最初のベルが何時かを、次のベルが何十分かを表していて、最後のベルが何分なのかを表してるのさ! ちなみに、ミニッツリピーター以外にも、いくつか種類があって…」
ここから暫くの間、にとりの独壇場が繰り広げられる。
再び彼女は専門用語をふんだんに使って時計の説明をしていた。
霖之助は思わず苦笑いしながらそれを聞いていた。
一方の文の方は、既に慣れてしまっているのだろうか。にこにこと笑みを浮かべて彼女の話を聞いていた。
一通り説明を終えたにとりは、息を切らせながら、すっかり冷たくなってしまったお茶を一飲みすると、再び魅入られたように時計を見つめ始める。その様子は、まるで宝石に魅入られた女性のようにさえも見えた。
相当、この時計が気に入ったのだろう。そこで、見かねた霖之助は思い切って彼女に声をかける。
「…もし、それ欲しいなら君にあげてもいいけど」
「え?」
にとりは、驚いて思わず反射的に霖之助の方を見た。彼は続ける。
「…君はそれが欲しいんだろう? 必要としてくれる人の元にあったほうが、モノだって幸せに決まってる。ましてや、その時計は君が一人で直したんだ。故に、君が持つにふさわしいと思うしね」
しかし、彼の言葉を聞いたにとりは、なぜか複雑そうな表情を浮かべる。
「…んーでも、それならちゃんと、お金払うよ。ほら、一応、商売してるみたいだし…それに、これ高そうだし…」
そう言うと、彼女は懐から財布を取り出そうとする。すかさず、彼はそれを制止した。
「あぁ、気にしなくていい。君が大事にしてくれるのなら、それがお代がわりだ」
「本当? 本当にいいの…!?」
「もちろんだとも。男に二言は無い」
たちまち、にとりの顔がほころんだ。
「ありがとう! あなたはいい人だ!」
彼女は、喜びを体いっぱいに表すように、はしゃぎながら文の方に向かうと、そのままの勢いで彼女に抱きつく。
「わーい! もらっちゃったよ!」
文も彼女を抱えたまま、じゃれるように、その場でくるんと回ったりしている。
よほど、この二人は仲がいいのだろう。それは離れて見ている霖之助が彼女らを少し羨ましいと思ってしまうくらいのものだった。だが、実際の所、天狗と河童は元々は同じ山に住んでいるわけなのだから、彼女らのように仲が良くても何ら不思議ではないのだ。
「で、本当によかったんですか? この子にあげちゃったりして」
霖之助が、声に驚き振り向くと、そこには文の姿があった。
「ああ、構わないよ。あの時計は彼女が持っていたほうがいいだろう」
「本当、ありがとうございます」
彼女は深々と一礼する。
「いやいや…」
霖之助は何故か照れくさくなり、彼女から顔を背けてしまう。
「…やはり連れてきて正解だったわ。にとりったらあんなに楽しそうにしてたし」
「どうやら今日は仕事で来たわけじゃなかったようだね。てっきり記事にでもするのかと思ったよ」
「そんな、違いますよ。今日は本当の本当に、ただの気晴らしです」
そう言って文は、おかわりした緑茶をこくっと飲み干す。
「ふむ、しかし、僕の所で気晴らし出来る人も珍しいな」
「あの子はそういう子ですから」
文は、にとりを微笑ましそうに見つめている。
「なるほど。だが、彼女は良かったかもしれないが。…君はどうなんだい?」
「…え、私ですか?」
霖之助の言葉に彼女は思わず目を丸くする。
「あぁ、こんな狭い所では全然気晴らしにもならなかったんじゃないか?」
彼女は、はにかむような表情を見せた後、にこりと笑みを浮かべながら霖之助に言った。
「…そんな事ありません。私も十分楽しかったですよ?」
「…そうか、なら良かったが。ところで…」
彼は、何かを言いかけたが、ちょうどその時、例の時計のベルの音が鳴り響く。はしゃいでいたにとりが鳴らしたのだ。
ベルが再び家中に響き渡り、皆、再びその音に聞き入っている。三人ともその表情は、とても穏やかなものだった。
時計が鳴り終えた後、文は気が付いたように彼に尋ねる。
「そういえば…。さっき何か言いかけたようですけど…?」
霖之助は彼女を見ると、ふっと満足げな笑みを浮かべて呟くように言った。
「いや、なんでもないさ…」
「気になりますねぇ…」
「ま、それよりいいお菓子があるんだ。良かったらどうだい?」
お菓子と聞いて、にとりがすかさず反応する。
「お、いいねー。食べたい!」
「よし、じゃあちょっと待ってくれ」
彼は、ずっと保管していたとっておきの焼き菓子を、二人に振舞う事にした。
そのお菓子の名前は『白い恋人 ブラック』だった。
このブレゲのミニッツリピーターって、ちょっと調べたら数千万円……。
彼女と香霖が組んだら、何か新しい可能性が見えてきそうですね。
あと、ひとつ誤字報告。 >霖之助に合うなり文は、きびきびした動作で
本編に出ないまま終わってしまったが…。
香霖のコレクションばかり無駄に増えそうだ。
こういう触れ合いも香霖堂ならではですね