閑とした夜闇が広がる中に鈍い轟音が響きわたる。不思議なほど静かに。とはいえ、確かに辺り一帯の空気は大きく揺らいだ。それでも竹薮の奥深いところにもたらされたこの異変が人里の民の寝耳に届くことはなかった。その周辺で跋扈している妖怪にさえも。
一番不思議なのは、かの博麗の巫女がこのことに一切気づいていなかったことだ。この後、月がすり替えられた異変の解決に乗り出すまで、博麗の巫女はこの、延々と広がる竹林のことに一切無関心だったのである。人里の中で「迷いの竹林」と言われてはいるが、そこには外の者を惑わせるばかりでなく、内側にあるものまで外に出すまいと迷わせるのか。
轟音の中心は、まるで底の浅いボウルを模したかのごとく、なだらかな球底を描いて大量の竹が放射状に折れていた。
その中心に、レイセンは大の字に倒れていた。
長いことそのまま動く気配すら見せなかったのだが、ようやく重そうにまぶたを開いた。その奥に息づく瞳は、人間のものとしてはおおよそありえない鮮やかな紅色を帯びている。
レイセンは両手にそろそろと力を入れて、ゆっくりと半身を起こす。その後、片手を頭の上にやり、そこから伸びたものを確認する。――左右から細長く伸びた、兎の耳。
それから、彼女は空を見上げた。満天の夜空の中で、白く小さく輝く満月を見付けると、長いこと眺めつづけた後で、深い溜め息をついた。
「……逃げて、これた……?」
つッ……とうめき声を上げ、レイセンはこめかみのあたりを掌で押さえて半ばうずくまる。頭の奥がズキンと痛んだのだ。その痛みが、ここに来るまでの経緯の記憶を阻む。
自分のことは思い出せる。名前はレイセン。月に生まれ育った「兎」。地球から押し寄せてきた妖怪を、月の高度な文明の力で追い返した昔話を聞きながら、月に生きる者としての誇りをもって生きてきたつもりだった。
だが今度は、地球の民が自ら培った文明を結集して、月に侵略してきたのだ。何百年ぶりの侵攻に、迎え撃つ月の民の戦力はわずかほどしかなかった。そのわずかな戦力のなかに、レイセンも含まれていた。
だが今まで安穏と平和を謳歌してきたうら若い少女にとって、戦争は恐怖でしかなかった。生来気の弱いところの大きいレイセンにはそれが耐えられずにいた。自分が死ぬかもしれないということを考えたとき、彼女は耐えがたいまでの恐怖と悲しみを覚え、何もできなくなってしまうほど。
しかし来るべき時は刻々と迫っていた。月の民は協力しあって迎撃の準備に取り掛かった。だが、レイセンだけはとてもその中に入っていくことができずにいた。――自分達が死ぬかもしれないのに、なんで抵抗なんてするんだろう? 話し合いを持つことはできないのか? 降伏することはできないのか? ……逃げることはできないのか?
――いや、逃げることはできる。
レイセンは夢遊病者のようにふらりと立ち上がると、その場から逃げるために行動を起こしたのだった――。
……つッ!
そこからは脳奥の鈍痛が記憶を遮っていた。どういう手段で月を抜け出して、今この場所にいるのか、その間のことが全く思い出せない。
ただ、ここがどこなのかは検討がつく。もう一度月を見上げ、そこに、月から見た青と白の入り交じった鮮やかで大きな「星」の記憶を重ね合わせる。それで、ようやく自分がいる場所を知る。
ここは、地球なのだ。
だが一体どうやってここまでやってきたのだろう? 宇宙船? しかしあの運転には高度な技術が要求される。仮に乗り込んだ所で、地球に行くどころか月に飛び立つことさえできないはずだ。それに、辺りを見回してみても、宇宙船どころか、その残骸や痕跡すら見付からない。
――じゃあどうやって?
……つッ!
またも鈍痛に阻まれる。
だが少しだけ、本筋から外れたことをレイセンは思い出すことができた。唐突に頭の中に現れた一つの固有名詞。
〈幻想郷〉
自分が地球のどこかにあるというその場所、〈幻想郷〉を目指して月を発ったこと。だがレイセンは、英吉利や亜米利加、中華や印度や露西亜など、地球の国々の名前や主要都市までは知っていたけれど、〈幻想郷〉の場所は全く知らない。――今でさえ。
鈍痛は襲ってこなかった。代わりにあるのは、記憶の虚空だけであった。そもそも〈幻想郷〉のことをどうやって知ったのかすら記憶になかった。人づてに聞いた気がするが、はっきりと覚えていない。そもそも人づてに聞いたのかどうかすら自信がない。考え悩むうち、憶測を遮る鈍痛とは違った、別の軽い頭痛が襲ってきた。
レイセンはそれ以上ここにやってきた過程を類推するのをやめた。
とにかく今すべきことなのは、周辺の把握だ。休めるところを探して、今後に備えるのが賢明だろう。
今度はゆっくりと地面に立つ。両脚にところどころ痛みを覚えるが、ところどころかすり傷があるほかに、骨折や深い傷はなかった。
放射状になぎ倒された竹の周りには、さらに竹が生い茂っている。ようやく月のわずかな光に慣れてきた紅い瞳で見る限り、その繁みはかなり深そうだ。どうやら、広い竹林の中に空から突っ込んだようだ。
抜き足差し足ではないが、なぎ倒された竹の転がる地面を転ばぬよう爪先を立てるようにしてその場を抜け、竹の茂る中に入った。
とその時、レイセンは長い耳でかすかな声を聞く。息を潜め、レイセンは注意深くその声に耳を傾ける。
声の主はどうやら少女の声のようであった。それも、理由はわからないが泣いている感じがする。わずかな月の光をたよりに、レイセンは竹茂る間を抜けながら、声のする方へとゆっくりと近付く。
☆
声の主の方へと向かいながらも、レイセンは記憶を阻む鈍い頭痛に苛まれる。思い出せない「謎」が次々に沸き出してくるからだ。
そもそも、敵の本拠である地球になぜわざわざ逃げ込んでしまったのか。もし地球の民に見付かってしまったら、たちまち殺されてしまうかもしれないのに。自分は敵地の中、どこにあるともわからない〈幻想郷〉を目指していたというのか? 他に自身の服装のこと。宇宙に飛び立つなら飛び立つなりの装備があるのに、今の自分は迎撃のために配給された戦闘服ですらない。普段の生活で着ている服そのままだ。正直それほど丈夫な服ではない。竹薮の中に突っ込めば、少なからずやぶけてしまう程度の強度しかない。なのに、服はやぶけるどころか、綻び一つないのである。いや、そもそも地球に突っ込んだなら、月にはない大気圏との摩擦で大量の熱が生まれて、地上に降り立った時には一切合財焼き尽くさんばかりの灼熱になっているはずなのに、自分はほとんど無傷で、しかも倒された竹も、いくつかくすぶっているのみだった。――一体、なぜ?
頭に涌いて広がる「謎」の濃霧を晴らそうにも、ずきずきとした頭の痛みでままならない。……どこかで頭を打ったのかしら? しかし頭に傷どころか、たんこぶすらない。あるのは長い耳だけである。
その長い耳は、少女の泣き声をしっかり感じとっていた。レイセンは的確に、声の主のいる場所へ近付いていった。
きりなく生える竹の幹をくぐり抜けて、ようやくレイセンの紅い目が声の主の姿を捉えた。しかし、その姿を見て彼女は目を丸くした。
彼女は提灯を携帯していたようであった。地面に転がっていたそれは、さほどの明るさこそなかったが、少なくとも彼女の身体とその周囲を照らすには充分であった。
ずいぶんと古風で質素なデザインのワンピースを身に纏っている。レイセンよりも小柄で、顔を見れば幼い少女に見える。
だがレイセンは、少女が地球の民に見えなかった。
なぜなら少女の頭には、レイセンの頭にあるものと同じ、長い耳が生えていたからだ。だが随分と形は違う。だが、自分等とおなじ「兎」が地球にもいるなんて、聞いたことがなかった。
兎の耳の少女は、足に傷を負っていた。何かしら尖ったものが、ふくらはぎに深く刺さっている。
そういえば、とレイセンは懐をまさぐる。取り出したのは、携帯用の応急処置キット。迎撃に備えるよう、戦闘服と一緒に配給されたもののひとつだ。だが配給されたものの中で、レイセンが肌身離さず持っていたのは、この応急処置キットだけであった。戦いに赴きたくないが、自分の身は守りたいという思いからだったのかもしれない。しかし突き詰めようにも、また頭痛がぶり返してしまう。
応急処置キットを手に持って、レイセンは少女に前に姿を現した。
少女は頭の耳を伏せ気味にして、身を縮こまらせてしまった。
「心配しないで。怪しい者じゃない。傷を治してあげる」
そっとささやくように言いながら、そろりそろりと少女に近寄るレイセン。
対して、少女は一層肩をすくませて怯えながら、こう言い返した。
「……か、構わないで。迷ってるなら出口を教えてあげるから、触らないで……!」
レイセンは少女の言葉に構わず、少女のもとにやってくると、両ひざをついて座って応急処置キットを拡げる。
「出口なら後で聞く。でも今はあなたの傷を治すのが先」
「いいのっ! こんな傷、ほっといたら治るから! 触らないでって、言ってるでしょ!」
「動かないで。傷口が広くなるよ!」
言いながらレイセンは、少女のふくらはぎに刺さっていたものを引き抜いた。
「っいっ……!」
刺さっていたのは竹の破片であった。自分が降り立った時になぎ倒されて壊れた竹が飛んできて刺さったのだろうか?
「怪我したのは、いまさっき?」
「そんなの、関係ないでしょ! もうトゲも抜けたから、大丈夫よ……。もう私行くわ」
「だめよ、ちゃんと消毒しなくっちゃ。傷が膿んだら目も当てられない」
「だから、いいって」
「――じっとしてなさい」
逃げようとする少女の足首をぐっと掴んで引き止めると、レイセンは少女の傷に消毒液を滴らせた。痛い、しみると悲鳴をあげる少女にかまわず、レイセンは的確に処置を進める。
「随分傷は深いけど、これで傷は大丈夫。でも足を動かすには無理があるかも。私が肩を貸すわ。家まで連れて行ってあげる」
患部にガーゼを当て、外れぬように包帯を巻くと、レイセンはそう言って少女の背中に手を回して抱き起こそうとする。
だが少女はその手を振り払う。
「そんなことしてもらわなくていいから! 私、一人で家に帰れるから……」
頑なに拒んで見せてはいるが、彼女のちいさな頬はほんのりと赤らんでいた。感謝こそすれ、素直に表に出せないのだろうか?
「何も遠慮することはないわ。私には……行く所がないから……」
「こんな竹林の中には何もないよ。竹林を抜けて少し行けば人里があるから、そっちに行けばいいじゃない」
地面に転がった提灯を拾うと、少女はふくれたような顔をして立ち上がる。さすがに傷を負った足はまだ痛むのか、そちらに体重をかけないようにして、片足だけで立つようにしている。
「私はまだここで用事があるの。あなたはもうここから――」
「レイセンよ。私の名前は、レイセン」
「名前なんか聞いてないわよ! いいからここから出ていって! いい? ここからあっちの方角に行けばここから抜けられる。そのまままっすぐ行けば、人里が見えてくるから。もう夜だから、急がないと妖怪に食べられちゃうよっ!」
少女は言い捨てるようにまくし立て、自分はレイセンに指さしてみせた方向とは正反対の方向へ片足をひきずって歩いていく。
レイセンは最初、兎耳の少女の指し示した方向へ行こうとした。だがそちらへ一歩踏み出して、また足を戻してしまった。
どうも引っかかっていた。この夜闇の深い竹林の中を果たして指し示した方向にまっすぐ歩くことなどできるのだろうか? そこがどうもうさんくさい。
振り返れば、少女の姿は随分遠くにあったが、まだどうにか見える範囲にいた。さっき少女は随分迷惑そうな態度でまくしたててはいたが、あるいは彼女の後をついていけば、少なくとも安全に休める場所に行ける確率は高そうに思えた。
少女に気づかれぬよう、レイセンは竹の影に隠れるようにしながら、少女のあとをつける。
応急処置は施したといえ、少女は随分痛そうにしていた。時折立ち止まっては竹の幹にもたれて座り、足をさすっている。さすりながら、彼女はぼそぼそと何かを呟いていた。
距離が離れているので、人間の耳なら何を言っているのかさっぱりわからなかっただろう。しかしレイセンの耳は兎の耳。遠い場所の声でも、彼女ははっきり聞き取ることが出来た。とはいえ、月育ちの彼女には、少女が口にする言葉のいくつかは未知のものばかりで理解ができなかった。言葉そのものがわからなかったわけではない。途中途中の単語の数々が、レイセンの知らない言葉ばかりだったのだ。
それでもレイセンは、どうにか少女の呟きを聞き取ろうとする。
「……あの子、一体なんだろう? 兎? 兎にしては、――。――ではみたことない。――様に言った方がいいのかな? でも、正反対の方向教えたし、――に来ることは多分ないわ。運がよければこの竹林から抜け出ているだろうし、運が悪ければ永遠にさまようだけだもの。ようは――にやってこなけりゃいいのよ。……うう、痛い。なんで私はこんなに運が悪いんだろう? 私に会った他の人はみんな幸せそうにしてるのに……」
自分の行動が正解だったことだけレイセンは理解した。どうやら、最後まで少女についていく必要がありそうだ。最悪、夜が明けてから少女に本当のことを問いただせばいい。
☆
〈幻想郷〉は、人間以外の者たちが隠れ住むという場所。そこならば、月と地球の戦争に巻き込まれずにすむ。自分はそう考えて月から逃げ出したのか。
ではここは、自分が目指していた〈幻想郷〉なのだろうか? いや、今跡を追っている少女の耳は確かに兎の耳だ。レイセン自身の知る地球の兎は、同じく月で「兎」と呼ばれる自分達とは全く異なる、明らかに獣の姿をしている。ではあの少女は地球の妖怪なのだろうか? いや、そうに違いない。これは断言できる。同じ兎の耳を持つ者として、あの耳が本物であることは一目見てわかったから。
しかしそれでもレイセンは〈幻想郷〉にたどり着けた確信を掴めずにいた。そもそも、果たしてこの場所が安心できるところなのかどうかさえ判断がつきかねている。
兎耳の少女は、怪我した片足をひきずるようにして歩きながら、依然竹林の中を歩き続けていた。しかし一体どこまで歩きつづけるのか。竹の幹に進路を阻まれながら、レイセンはこの竹の森にうとましさを覚え始めていた。その苛立ちは、遠く先を進む少女のほうにも向く。――はやく目的地に着きなさいよ!
急いた心が、レイセンにミスをさせてしまった。
進路の先に立ちふさがっていた竹を掴んだのだが、それはわずかな力にさえたやすくたわんでしまうほどの細い竹であった。たちまち隣り合う竹の枝に自らの枝を重ね、ガサガサと大きな音を立ててしまった。
立ち止まって、振り返る少女。
レイセンは見付かってしまった。
長い距離を間に挟んで、しばし対峙する二人。すぐに、少女が口せき切った。
「――なんでついてくるのよおっ!」
叫ぶのと同時に、少女は懐からおもむろに何かを取り出すと、遠くにいるレイセンに向かって投げ放った。
レイセンには、少女の投げたものがトランプのカードのようなものに見えた。しかし真っ直ぐ投げ放たれたそれは、レイセンに近付くにつれて光を帯び、膨らんで、まばゆい一筋の光の尾を軌跡に伸ばす。
ほどなくしてそれは幾本もの光になり、円盤のような形に変わってレイセンのいる方角へ群で飛んでくる。
丸に違い矢羽――しかし月の住人であるレイセンに、飛んでくる円盤の文様などわかるわけがない。ただ、自分に向かって飛んでくる幾枚もの円盤を避けることだけしか考えていなかった。
飛んでくる円盤の速さも速かったが、レイセンの身体もそれ以上に機敏であった。かすりそうになりながらも、飛んでくる方向からほぼ直角の方角へ逃げることでどうにかやり過ごす。
しかし再びレイセンがもといた場所に戻ったときには、すでに少女は姿を消していた。
どういう構造で飛んできたのかはわからないが、あの光の円盤はレイセンの尾行を撒くために仕掛けたものだったようだ。
しばしレイセンは途方に暮れる。兎の耳をそばだてても聞こえてくるのは竹の葉がそよぐ音だけ。辺りを見回しても、夜闇の中で竹が連なって生えている以外に見えるものは何もない。だが夜が明けるまでここで居留まるにしても、レイセンは不安を感じていた。さらなる危険が襲ってくるかもしれないし、それに――果たして夜は明けるのだろうか?
結局レイセンは、少女のいた方向に見当をつけて歩いていくことにした。少女が確実にそこへ行ったかどうかはわからないが、今は動くしかない。
☆
レイセンの選択は正しかった。
それでも、ずいぶん長いこと竹茂る闇の中を歩かされたため、彼女は随分心細さに苛まれていた。月から逃げてきたことすら後悔するほどに。
だが行く手が突然大きく開けたとき、レイセンの中に渦めいていた憂鬱の螺旋はすっかり打ち消された。
開けたところにあったのは、上に瓦をしつらえた白壁の塀に囲まれた、屋根広くうだつの高い大きな屋敷であった。それも月のものとは違い、木と藁でできていた。まだできて間もないのか、日に蒸した藁の匂いと壁に塗り込めたのだろう湿った土の匂いがほのかに漂っている。
さらに数歩近寄って見てみても、汚れは一つも見当たらない。質素な中にも凛としたものを感じさせる程、その建物は竹林の中に我が存在を主張するように悠然と建っている。
建物の周辺を伺うためにレイセンが歩くと、これもまだ新しく作ったような、白木に金色の蝶番があしらわれた立派な正門があった。だが、両開きになった扉の片側が半開きになっている。かの少女がこの屋敷に入っていったのだろうか?
誰もいないのを確認すると、レイセンは足音を殺して正門の敷居をまたいだ。
塀の中は、外で見た以上に屋敷の豪勢さが展開されていた。剪定の行き届いた松や竹が隅に植えられ、その合間を穏やかな渓流を模した小川が流れ、小さな池に水を流し込んでいた。池の中には錦鯉が数匹いて、今は夜の眠りの中なのか、ひれの動きも鈍い。
月の光で明るく照らされた庭の周囲を、屋根つきの渡り廊下が取り囲んでいる。
母屋を挟んで反対側には、今まで歩いてきた竹林さながらの密度で竹が植えられている一角があった。玉砂利が敷かれた地面、竹の幹にまぎれるように小さな石燈篭が置かれているのを見ると、そちらも庭になっているのだろうか? だが遠目で確認できるのはそこまで。庭かどうか見極めるためにそちらへ行こうにも、母屋の軒の前を通っていかなければならない。
まずは正面から声を掛けて主を呼ぶべきなのだろうが、こんな夜更けに果たして応じてくれるだろうか。レイセンは戸惑った。だが、このまま黙ってはいっては泥棒同然、たとえ友好的な相手でも怒りのままに追い返すだろう。
「す……すいません、誰かいますかぁ?」
心細い口調で、しかしできるだけ大声を出して呼びかけるレイセン。
しかし答える声はない。不審者といぶかって武器を持って現れる者すらいない。あたりはレイセンの呼び掛けなど無視するかのように、閑と静まり返っている。
これほど大きな屋敷で見張りを置いていないとは、なんと不用心なのだろう? しかしその不用心さが逆にレイセンには不気味に思えた。
――ならば入らなかったらいいだけ。
レイセンは、屋敷の大きな門の下を貸してもらって夜明けまで眠ることにした。きびすを返し、一旦門のところまで戻ろうとした。
かさり、と音がした。微小な音であったが、レイセンの耳はしっかりその音を捉えていた。その音は……間違いない……屋敷の玄関。
とっさに向き直ったとき、レイセンは何者かが屋敷の中に逃げ込んでいくのを見た。――ちらりと見えたピンク色のスカートの裾。
――あの子か?!
「ちょ、ちょっと待って! 私道に迷ってここに来たの。待ってよ!」
片腕を伸ばし、追いかけようとあわてて前のめりに駆け出すレイセン。それは心細さから、救いを求めているかのようでもあった。
開け放たれた屋敷の玄関をくぐり、さっき人影の走っていった方向を見ると、そこには長い廊下が続いていた。先が見えないほど、ありえないくらい長い。外から見た屋敷も大きかったが、この廊下の長さはそれ以上だ。そして、その先に人影は全く見えない。ただ、廊下の両側に点々と蝋燭が薄暗くともされているのみ。途中途中には襖が左右一対で閉まっているのが見て取れる。見渡す限りでは、どの襖にも、朧月夜や天の川など、夜空を題材にした水墨絵が描かれている。
追うべき者を見失ったレイセンは、とりあえず廊下に足を踏み入れることにした。まず、一番近いところにあった襖を左右とも開ける。どちらも、畳敷きのちいさな和室があるのみであった。調度は全くといっていいほどなく、小さな床の間に座布団が置かれているくらいであった。誰もそこにはおらず、いた形跡や気配すら感じられなかった。
さらに奥に進んで、他の襖を開けてみたが、どこも誰もいない似たような和室があるのみであった。十も二十も開けて回ったレイセンであったが、あまりの変わり映えのなさに彼女は途中から襖を開けるのをやめてしまった。とにかく、廊下の奥へ進むことを考えた。
しかしどれだけ奥に進んでも、廊下は終わりを見せない。時折左右一対に夜空の襖絵の描かれた襖を見るのみで、あとは延々と板張りの床が続くのみ。――おかしい。振り返れば玄関もはるか遠く、点にしか見えない程まで進んできたのに。……自分は何か幻影をみているのだろうか?
だがすぐにレイセンはその考えを否定する。もし幻影だとすれば、すぐにそうだと気づくはずだったからだ。逆にそうでなければ、道に通じた者とは言えない。
レイセンは生来、幻影を司る能力を持っているのだ。彼女は月での生活の中で能力を伸ばすための鍛錬を積んでいた。おかげで、意識すれば自分の目を見る者を瞬時に幻で眩ませるほどにまで上達した。
それとともに、同じ能力を持つ月の兎の幻影を見分けることができた。しかも誰よりも正確に見破ることが、レイセンにはできる自信があった。
今歩いている長い廊下には、幻影の気配は全く感じられない。だから、これは幻影ではない。幻影の術に長けた自分が、間違うわけがなかろう。
しかしそれでもありえない。幻影でないとすれば一体何の仕掛けがあるというのだろう?
考えているうち、レイセンはいつしかはたりと立ち止まってしまっていた。それから、再び玄関のほうを見る。次にとるべき行動は、おのずと決まった。先で迷うなら、振り出しに戻るべし。
――戻るしかないか。
朝になればきっと誰かこの不思議な屋敷から出てくるだろうし、その時に自分の聞きたいことを聞けばいいだろう……そんなことを考えながら、きびすを返して玄関のほうへ向かう。
すると、背後で襖の開く音が聞こえた。
落ち着いた調子の女の声。
「待ちなさい、そこの兎」
レイセンがおそるおそる振り返る。
一人の女が、レイセンからそう離れていないところに仁王立ちになっていた。濃紺と深紅の布地でできた、洗練されているが随分古風なデザインの服を身に纏っている。だが、編んで束ねた長いブロンドヘアーの頭の上に載せたナースキャップや、服のデザインの細かい部分に見てとれる独特な特徴を見て、レイセンはその女が何者か、おぼろげながら把握できた。
薬師か医者か……だが間違いなく医療系の仕事をしている者と。
「見ない顔ね。こんな夜更けにどこから迷いこんできたのかしら?」
女は自分から近付いてきた。その顔には歓迎の色は微塵も感じられなかった。露骨にはないにせよ、警戒しているように見える。まじまじと自身を見つめてくる女に気圧されるように、レイセンはじりじりとあとずさる。
いや、今こそ自分の身の上を話すときだ。どういう経緯だかわからないが、いつの間にかこの竹林に墜落して、さ迷っているうちにこの屋敷に着いた。朝まででいいので泊めさせてほしい、と。……だがそれだけのことなのに、彼女は言い出せない。つぶさに観察するこの医者風の女のどこにも、声をかける隙を見付けることができないでいた。
それでも思い切って切り出そうとしたレイセン。だが彼女よりも早く、昔風の医者姿の女が口を開いた。
「ふぅん……? もうかれこれ千と数百の年月が流れているというのに、一体私達に何の用なのかしら――月の兎が……!」
語尾で潜めた声に、不穏な響きがにじんでいた。それは巣穴で身構えながら唸る猛獣にも似ている。
背筋に悪寒を感じたレイセンは、おそるおそるもさっきより早い足取りであとずさる。
一方女のほうも数歩、大股で後退した。それから片腕を後ろに回すと、身の丈を頭一つ上回るほどの長さの弓を取り出した。まるで手品のように、さっき何もなかったところから、である。
「今さら何をしに来た? 偵察か?」
もう一方の手には、いつの間にか矢が握られていた。それを弓につがえ、徐々に弦を引きながら、女はレイセンににじりよってくる。さっきのいぶかる表情から眼光が鋭くなった女の言葉に、レイセンの応える猶予はない。少なくともレイセンにはそう思えた。
ならば、もう逃げるしかない――!
文字どおり、脱兎のごとくレイセンは玄関に向けて駆け出した。
「――待ちなさい!」
鋭く空を斬る音を伴って、矢が飛んできた。明らかに足を狙った、低い弾道。だがかろうじてレイセンは飛び跳ねることで避ける。しかしその拍子で彼女はバランスを崩してたたらを打って転んでしまった。
「チィっ、今度こそ――!」
「ひ、ひぃっ!」
さらに一本、空をかっ切って矢が飛んでくる。辛うじてその場から跳ねて矢を避けるレイセン。
タツン、と板張りの床に矢の深々突き刺さる音。その後に、着地を考えずに闇雲跳び上がったために、レイセンがそのまま体を床へしたたかにぶつける音が続く。思いのほかのダメージに、レイセンは起き上がるのに手間取る。
その目前に、またも矢が飛んでくる。それはレイセンの身体をめがけるも、引きが甘かったのか、床に矢尻を当ててそのままレイセンの脇を転がっていってしまった。
「……腕が鈍ったものね。連射もまともにできなくなったなんて……!」
手品のように、矢筒も背負わぬ後ろから矢を取り出して、また昔医者の女は弓に矢をつがえる。命を救う医者の格好をしているくせに、レイセンを的にして、弓を引いて凝視するその目は狩人のそれ。
そして武器を持たないレイセンは、ただ逃げるのみである。どうにか体勢を整えて玄関へ走りゆくレイセンの背後を、矢がたてつづけに飛んでくる。だが兎の長い耳は、矢の飛ぶ筋を読むにはとても適していた。とがった矢尻のもどりが空を斬る音を拾うことで、後ろのどこにどれほどの早さで飛んできているのか手に取るようにわかる。おかげで、どうにか矢を避けることができた。
「ええい、ちょこまかと……! 逃さないわよ月の兎。この場所は絶対に漏らさない!」
医者姿の女狩人は、苛立ちを眉間に浮かべて追いかけてくる。
目指す玄関はあと少しであった。しかしレイセンの逃げ足を引っ張るかのように、女の放つ矢が立て続けに飛んでくる。さっきから脚ばかり狙われているせいで、まっすぐ走ることすらままならない。直進しようものなら、先を読まれて撃ち抜かれてしまう。だから、矢が飛んでくるたびに進路を変えてジグザグに走る以外にない。
脚ばかり気にしていてはいけない。たまに胴体や頭めがけて矢が飛んでくる。それもレイセンは辛くも避けるが、身体すれすれに飛んでくる矢の空切る音を聞くと生きた心地がしない。
人一人が射ているとは思えない矢の雨をくぐり抜けて、ようやく玄関にたどり着いた。戸を開けて外に出て、さっきの竹薮に身を潜めてしまえば、あとはどうとでも逃げられる。 レイセンは閉まっている戸に勢いよく手をかける。
「――っ!」
びくともしない。桟を掴んで押し引きするが、戸は開かない。
戸に鍵がかかっているのかと、とっさにレイセンは確かめるが、そういったものは全く見当たらない。
無理矢理にでも開けてやると思い切って体当りを試みるが、戸は壊れるどころか、どうとレイセンに毅然と立ちはだかるのみ。ただレイセンが肩をしたたかに打ち付けて痛めてしまっただけであった。
その彼女の頬をかすめて、矢が戸に突き刺さる。
振り返ると、医者の衣を被った女狩人が、冷たい笑みを浮かべて立っている。
「……手こずらせるわね……。でもこれで終わり。ようやく射止められるわ」
何も持たぬ右手をぶんと横に振って見せると、大扇を広げるように五本の矢が現れた。
「引導くらいは渡してあげる。この五本の矢を全て射るまでの時間だけね」
すかさず矢を弓につがえ、弦を引いてレイセン目がけて構える女。
矢尻のもどり以上に鋭い女の眼光を見て、レイセンは震え上がる。その瞳の奥に孕んでいたものは、明らかな敵意そのもの。
――月にいた頃に苛まれていた、死への恐怖がレイセンの頭にオーバーラップする。
紅い瞳から涙がこぼれる。
――死にたくない、死にたくない……!
しかし、それは逆に言えばレイセンにとって好機でもあった。相手が自分を、自分の眼を凝視しているのならば、自分の能力下に置いてしまうことができる。
幻影を司る力を。
涙で潤んだ目を見開いて、自分を射貫かんばかりの女の目をきっと見返す。その時のレイセンの目の表情の変化に、女は動揺したようであった。敵意放たんばかりの目が一瞬ひくりとたじろぐ。
今さら気づいてももう遅い。レイセンはためらいなく自分の能力のスイッチを入れた。とても自然に、とても簡単に。
「う、うあぁっ……!」
女は引いていた矢を離してしまう。だが、構えのぶれた弓は、至近距離でさえレイセンの身をまともに射ることはできなかった。
たちまち女はひざをついて身を崩す。左手の弓すら手放してうずくまり、今自分の目を、さらには自分の頭に覆いかぶさってきた狂気の幻影を振り払わんと激しくかぶりを振る。
ついには吐き気まで催し始めたのか、口に手をあてがってえづき声を上げ始めた。
人を狂わせるなんて簡単。いつも見ている景色を、絶えず形を変えるレンズを通して見ているように歪めるだけ。あるいは色までも歪め、明暗まで歪める。そうすれば、どんな人間でもたちまち苦しみ始める。
――あなたが悪いんだから。あなたが私を傷つけようとしたんだから……。
女がすっかり武器を手放してうずくまっているのを見届けると、レイセンはその場から離れようと動き始める。しかし、玄関の戸はやはりびくとも動かない。またも、今度は何度も体当りを試みて叩き壊そうとするが、戸は思っている以上に頑丈なのか、突破するどころか動くとっかかりさえ掴めない。
ならば、どこか他に出られるところを探すしかない。レイセンは、未だ床にうずくまったままの女を跨いで、再び廊下に行って外へ出る場所を探そうとした。
だが、女を跨いだところで、レイセンは鋭い痛みに襲われる。
「ぎゃっ……!」
膝裏を縦に切り裂くように痛みの筋が走る。たちまちレイセンは廊下の床に転がる。
痛むところに手を当て、目の前に持ってくると、べったりと赤い血がついていた。
「ああ、痛いっ、痛いぃ……!」
悲鳴を上げながら玄関の方を見ると、あの狩人女の手に、血に染まった矢が握られていた。狂気に苦しむ中、矢の柄を掴んでレイセンの脚を切りつけたのだ。
「……随分と奇妙な能力を使ってくれるじゃない。迂闊だったわ……」
ゆらりと立ち上がり、弓を拾いあげると、女は血塗られた矢をつがえ、レイセンに向けて放つ。何の容赦も猶予も隙も、そこにはなかった。
「いやあああぁああぁっ!」
至近距離で放たれた矢は、レイセンの傷ついた脚を貫通した。鋭い痛みが、彼女を襲う。
「あ、あ、ああっ、あっ、ああぁっ……」
自分の脚に深々刺さった矢を見て、その傷口からどくどくと流れる血を見て、さらにレイセンは恐れおののく。
一方、女はまだ狂気のもたらした不快感から脱しきれていないのか、ときおりかぶりを振って自身を気付けながら、ゆっくりレイセンに近付いてくる。
「月の兎……、よくも私に恥をかかせてくれたわね。うんん?」
脚に突き刺さった矢を握りしめ、傷口を拡げんとばかりにゆさぶりをかける。
さらにこみ上げる痛みに加え、傷ついた筋肉が一層きしめいて悲鳴をあげる。
「ああいやあああぁああぁっ!」
「こんなもんじゃないわ。こんなもんじゃないのよ。……そうね、その忌まわしい眼と引き換えに教えてあげようかしらねぇ……ふふ」
女の唇からこぼれた笑みには、針のむしろに勝る程の痛々しい棘を含んでいた。
「い、いやぁ、いやあぁ……」
「拒む余地なんか、もうあなたにはないわ」
女はレイセンの上に跨って座り、弓に矢をつがえてかまえる。標的は、数寸先のレイセンの紅い瞳。
「まずは右眼。次に左眼。それからあなたは盲目の中で、自分がどこを傷つけられているかわからないままに死ぬの。最高の処刑法だと思わない? それとも、痛みのショックで死ぬかもしれないわね」
「い、いやああああっ、やめてっ、眼はやめてぇえええっ!」
「うるさい兎ねぇ。月ではどうだったか知らないけど、この地では兎は人に狩られるものなのよ。あなたは今までの罪を許してくださいって神にでも仏にでもすがるしかないの」
弦が許すいっぱいいっぱいまで引っ張られる。
いつ射貫かんと焦点あわぬほど至近距離でねめつけてくる矢尻の先端など見ていられない。レイセンはまぶたを固く閉じて激しくかぶりを振る。
だが無情にも、矢は放たれた。
たちまちレイセンは鋭い痛みを覚えた。深く切りつけるような痛みが、顔の横に一筋走る。同時に、自分に跨って身動きを封じていた女の重みがなくなった。
とすっと、頭の後ろの床に突き刺さる音。
おそるおそる目を開けるレイセン。……幸いにも、右眼はつぶされていなかった。顔の右あたりに痛みはあるが、矢が右側に突き立っているのを見ると、どうやらぎりぎりのところで反れたようである。しかし、ゼロ距離とばかりに矢を構えられたのに、なぜ……?
ふと目を横に逸すと、先ほどの女が横倒しになっていた。彼女が何が自分の身に起こったかわからぬ様子でうめきもがく中、上に覆いかぶさっていたのは、ピンク色のワンピースを纏った少女であった。
あの、竹薮で出会った兎耳の少女。
「や、やめてくださいっ! この人は悪い人じゃないんです!」
「な……だれかと思ったら、……てゐ、あなた何いきなり、離しなさい!」
「やめてください! 殺しちゃだめっ!」
突き放そうとする女の手の突きをかい潜って、少女は女の弓を掴んで奪い取ろうとする。
二人の揉み合いを呆然と眺めるレイセンであったが、すぐに脚を貫く矢の鋭い痛みが襲う。
再度逃げるチャンスが訪れたが、脚がこんな状態ではどうすることもできない。
すると、また一人こちらにくる気配を感じとった。すぐ手近の襖の裏から。
たちまち、その襖が開く。
兎耳の少女よりは数段年上に見えるが、その服装はかの医者皮を被った女狩人よりも古風なドレスであった。使っている布生地も人の手で織った風合いであったし、漉きこまれた月影や笹の柄も、少なくとも月ではもう何百何千年に絶えてしまっているものだ。
いらだたしげに、身の丈ほどもある黒い髪を手で後ろに掻き上げ、彼女は言い放った。
「こんな夜中に一体何の騒ぎなの? この矢傷を負ったイナバは何? 説明しなさい、永琳」
☆
「ふふ……、ほんと、目を塞いでさえいれば、かわいい子よね」
穏やかな中にも、こいじわるな響きを含ませた声が聞こえる。それから、どこからともなくさわさわと身体の肌を撫でる感触。背筋や胸の膨らみに行き着くと、まるでからかうように指をさわさわ這わせてくすぐってくる。
足元には冷たい水を感じる。さっき頭から水を浴びせられていた。体から滴る雫が、足元の水に落ちてぴしょん、ぴしょっと小さな水音を立てている。
今、裸にされて水浴びさせられているのは理解できた。あと、代わって身体を洗ってくれているのが、以前に矢で射ようと迫ってきた女なのも、声でわかる。
しかしそれ以上はわからない。
なぜならレイセンは今、厚い布で目を塞がれているからだ。おまけに、両手は手枷のようなものに後ろに繋がれて自由が利かない。
これは全て、この女――八意 永琳の提案からくるものであった。
どうやらこの永琳という女は、この屋敷の従者の頭のような存在らしい。だが概ねのことは彼女が取り仕切っているらしい。ちなみに屋敷の主は蓬莱山 輝夜という、永琳よりはるかに年下に見える少女。だが彼女は屋敷の一室に籠っているらしく、時折他の従者を通して永琳を呼ぶ以外はほとんど屋敷の雑事に顔を出すことはないようだ。
レイセンは主の輝夜に感謝しないとならない。彼女がいなければ、確実に永琳の矢で完全に命を射止められていただろう。さらには客人としてこの屋敷でもてなすとまで提言したのだ。
そこに永琳が口を挟む。もてなす代わりに彼女が申し出たのが、レイセンへの目隠しと手枷だったのだ。信用できないから、というのがその理由であった。
命の危機からとっさの自己防衛であの狂気の幻視能力を使ったとはいえ、レイセンは後悔の念にかられた。自由を奪われることに対してではなく、能力を使うことで相手を怖がらせてしまったことに。何か他に平和的な手だてを講じられなかったのか、落ち込む心の中で先に立たぬ考えをめぐらせる。
だが永琳は、目隠しされて手枷をはめられたレイセンを、人が変わったかのように優しくもてなした。
三度の食事は丁寧に口に運ぶ。寝床に連れ添って寝かせては、朝になれば見えぬ朝日の光のかわりに刻を告げに訪れる。着替えも手伝い、こうやって水浴びも手伝ってくれる。
主である輝夜の言に従っているのだろうが、矢を突き立てられた身にすれば不気味にすら感じる程だ。
その永琳が、レイセンの首から頬に向けてさわさわと濡れた両手を這わせてくる。
「あら、いけないわ。顔を洗うのを忘れてた。ちゃんとぬぐってあげないとね……」
言いながら、濡れた布で丹念な指使いでぬぐってくる。頬や顎、鼻や額、さらには、唇の端から上下それぞれ、内側と外側から二本の指で軽く揉みしだくように。
「や、あ、うぁ……」
目を塞がれていても、自分の口が永琳のいいように醜く歪められているのははっきりわかった。本人は押し殺しているようでも、レイセンには微かに聞こえる、永琳の蔑むように弾んだ息づかい。
屈辱感のあまり、レイセンは手を払いのけようと激しく身をよじらせた。だが永琳は顎の下をがっちり両手で掴んで離そうとしない。
「ほらぁ、じっとしてなさい。どれだけ抵抗したところで、あなたは私から逃げられないわ」
そう言った後で、彼女は大胆にもレイセンの胸の膨らみを荒々しく掴みあげてみせる。
「ふぎっん!」
「私らがあなたに何しようとも、もう逃げ場はないのよレイセン。この屋敷の外にあなたを暖かく迎え入れてくれるところはないし、もちろん故郷の月にも戻れない。同志が戦おうというのに自分だけ逃げた身では、ね」
もう一方の手が、人差指の腹でくすぐるように背筋をすっと沿って腰に到ると、尻の膨らみを堪能するかのように手の平全体で撫でまわす。獲物に喰らいつく毒虫のように、五本の指を大きく拡げて。しかしその手は尻が目的ではなく、徐々に下に向かっているのをレイセンは察した。いや、下といってもももの裏ではなく、両脚が合わさって奥まった、秘密の部分。
「謝るなら今のうちよ、レイセン。さもないと、あられない声をあげて恥ずかしい思いをしないといけないわよ」
胸を揉みしだく永琳の手指が、乳首を摘んでこねくり回し始めた中、レイセンの身体の中で危うさを孕んだむず痒さが渦をまく。
その中での永琳の言葉に、レイセンは恥辱の場面をつぶさに思い描く。
――そんなの、堪えられない。
彼女は、震えた声で嘆願の言葉をこぼす。
「……ご、ごめんなさい。もう抵抗しませんから……せめて意地悪しないで、優しくしてください……」
「そう、それでいいの……かわいい兎さん」
レイセンの長い耳元で、永琳が静かに囁く。だがその息づかいには昂ぶりが感じとれた。
水浴びを終え、服を着せられたあとで、レイセンは永琳に訊く。
「あなたたちは、私をどうするつもりなのですか?」
「輝夜様の言どおりよ。客人として丁重に扱わせて頂きます」
「最終的には、どうするつもりなのですか? この屋敷から追い出すのですか?」
「そんなことしないわ。仮にそうされたとして、あなた行くところあるの? 月を守るための戦いが恐くて逃げてきた兎さん?」
悪戯っぽく答える永琳。彼女はレイセンのすぐそばに身を寄せるように座った。
レイセンが、ぼそりと答える。
「……確かに前に話したとおり、私は戦いが恐くて逃げてきました。でも……そこのところ、本当は不確かなのです。逃げたいくらい戦争が恐かったのは確かですが……どういった経緯でこの地に辿りついたのか、思い出せないんです。なんで具体的に行動にでてしまったのか、そもそもどうやって月から飛び立てたのか……」
「でも、逃げたには変わりないわ。きっと月の人間はあなたのことを裏切者だと思ってる。今さら戻って許しを乞うたところで、水に流して許してくれるかどうか」
さらに、永琳は語調を変えてさらに一言付け加える。
「私達も、あなたを月に戻すつもりはない」
レイセンはその言葉に、自分に向けて矢を放ってきた永琳の鋭い目つきを思い出した。
どうにか怯えを心のうちに抑え込んで、レイセンは訊く。
「なぜですか? あなたたちは……何者なんですか……?」
言葉を発した後で、自分が間抜けな質問をしたことにレイセンは気づく。
ここは地球であり、今現在月は地球の者に攻撃されている。つまりここは敵方の陣地なのだ。自分は味方からわけもわからず飛び出して、敵方に入り込んでしまった人質のようなものではないか。
「そうね……。まだあなたには名前以外のことをあなたに教えていないわね」
永琳はふぅっと息をついて、レイセンの質問に答えた。
「私たちはね、月の人間に追われているの。指名手配中の犯罪者、とでも言うのかしら」
「……? え、え?」
犯罪者と聞いて、レイセンは困惑する。故郷の月は戦いの中に突入しようとしていて、自分はただそこから逃れることだけ考えていた。「犯罪者」なんて今まで想定もしていなかった言葉だ。
永琳はさらに、衝撃的な名詞を口にする。
「あなたは、蓬莱の薬を知っているかしら?」
蓬莱の薬――!
レイセンの頭の奥底から、学校で学んだ歴史の一幕がよみがえる。
秘薬を製造し、服用した罪として二人の女が咎められ、うちの一人が月を追放されたという話。その薬の効用は不老不死。しかし一度飲んだらどんな方法でも死ぬことのできない劇的な作用について、あらゆる観点で問題を指摘され、議論の末に禁忌とされていた。――それが蓬莱の薬。
「……まさか、あなたたちはあの禁忌の薬を飲んだ二人なのですか?」
「そ。で、私がその製作者」
あっさりと永琳は答える。
レイセンは自分の耳を疑った。そもそも蓬莱の薬の事件ははるか昔のこと。学校の授業の中で触れられたのもごくごく一部のみ。咎められた二人のうち、追放されていないもう一人の行方も知らないし、そもそも蓬莱の薬を飲んだ二人が今現在どうしているのかなど、知る由もない。それは遠い昔の話で、今現在ここに生きている自分には関係ないと、意識すらしていなかった。
――そんな人物に出くわすなんて……!
確たる証拠は無かったが、永琳の話を信用せずにいられなかった。レイセンの持つ一握りの情報を埋めあわせるように、彼女は自分達の身の上を話す。
――言い出したのはこの屋敷の主である輝夜。禁忌である薬の製作を頑なに拒んでいたが、結局永琳は彼女のわがままに折れて、蓬莱の薬を作る。製作者の責任として、毒見として永琳が飲み、何もないのを安堵して輝夜が飲んだ。
――かくして二人は月の府に罪を問われ、断罪される。結果、輝夜は死罪にも等しい形で月を追放されるが、永琳は彼女よりはるかに軽い罰で済まされる。禁忌の薬を作ったのになぜこうも扱いが違うのか、永琳には理解できなかった。だが、その時は月の府に従う他なかった。
――それから十余年の時を経て、永琳に転機が訪れる。輝夜が地球で転生したことを知ったのだ。巧みな根回しを行った末、永琳は罰受ける身でありながら彼女を迎える使節団の一人に加わることができた。だが彼女はただ輝夜を迎えるだけために使節団に加わったのではない。地球に到着し、輝夜との久方ぶりの面会を果たしたあと、永琳は仲間の使節団のメンバーを一人残らず殺害したのだ。それから彼女は輝夜の手を取り、この後何百年となるかわからない逃避行に発ったのだ……。
一通り語りつくした永琳であったが、それでも彼女の口からは語られぬことがあった。
なぜ永琳は輝夜と運命を共にすることを選んだのか。
いや、それは語られなかったのではない。永琳は言葉の行間で語っていた。時折の沈黙、深い溜息、それから、輝夜のことを語るときの、物憂げな口調。輝夜と逃げ出すくだりでは強い決意のようなものすら感じとれた。
それは決して欺くためについた嘘ではないだろう。そもそも、月から逃げ込んできた一人の兎を騙すために、そこまで壮大な似非事を喋るだろうか。
だが永琳の言葉を信じるにしても、まだ明らかにならない問題がある。
「そんな月に追われている人間が、私をどうしようというのですか?」
「どうもしないわよ。あなたは月に帰さない。ま、帰れないでしょうけど」
一息ついて永琳は言葉を続ける。
「どうやらこの一帯は『幻想郷』と呼ばれているらしいけど、フィールド・バリアというか、空間が限定されているようなの。『幻想郷』自体はそこそこの広さはあるけど、限定された境界から先に行くことはできないようになっているようなの。いろいろ調べてはいるけど、それが何故だかはわからない。私達も最初から『幻想郷』を目指していたわけじゃないの。いつしかここに迷い込んだというか」
「でもここにいる限り大丈夫よ、イナバ。ここは迷いの竹林の中。そして頼れる永琳がいる」
割って入ってきた声は、屋敷の主・蓬莱山輝夜。
「ねぇ永琳。もういいんじゃないかしら? 月から来たというそのイナバ、もう悪さしないと思うわ」
「しかし姫様、彼女の持つ術は危険です……!」
「そうかしら? 術を持っているにしても、今ここで使ったところで彼女に得することなんてあるのかしら?」
きつく縛られた目隠しの結び目に手指が触れる。永琳が悲鳴にも近い声で止めるように言うが、――
レイセンの目隠しははらりととれた。
もう何日ぶりかわからない外の光景に、目が一瞬くらむ。
視界が開けた当初は、暗くて何一つみえなかった。しかし目が慣れるにつれ、いろいろと物が見れるようになる。座っている縁側、ともっている行灯、床に生えた竹の群。
そのすき間からかいま見える、瞬く星のただ中に丸々と光る青白い真円の光――月。
レイセンは、竹の生い茂る窮屈な隙間から見える月をしばらくぼおっと見つめていた。
「ほら、大丈夫じゃない」
「……そうですね、姫様」
永琳は、レイセンの手に嵌めた枷も外し、彼女の肩を叩く。
――ようやく、たどりつけたのか……?
〈幻想郷〉は、レイセンを暖かく迎え入れてくれた。ひとまずのところ。
☆
これからの新しい生活のはなむけとして、レイセンは永琳と輝夜から新しい名前を授かった。
《鈴仙・優曇華院・イナバ》
「姫様と二人で話し合って決めた名前です。あなたは私達と違って新しい世代に生まれたイナバだから、すこし洒落た名前を考えてみたわ。以後はこの名前を名乗るように」
と永琳に言われたものの、当のレイセンはこの新しい名前の珍妙さと長ったらしさに嫌気を感じずにいられなかった。
しかも名付け親たる二人は、一日もせずに彼女のことを略して呼ぶようになった。永琳は「ウドンゲ」と呼び、輝夜は「イナバ」と呼ぶ。しかも輝夜に至っては、屋敷にいる兎たちを総じて「イナバ」と呼んでいるありさまだ。とても自分のために十分話し合ったとは思えない。
新しい名前への不満を抱えて、レイセンは屋敷の縁側に憮然と腰かけていた。
すると、一人の兎が足音を殺すかのようにそろりとレイセンに近寄ってきた。
ピンク色のワンピースを纏っている、見た目人間の少女に見える妖怪兎。因幡てゐであった。
振り向くレイセンに、てゐはびくりと肩をひきつらせ、顔を引きつらせる。
「な、なによ。こっち見ないでよ」
「やって来ておいて何よ」
おどおどとしながら生意気に口をきくてゐに、レイセンは不機嫌に返す。
「お、お礼にきたのよ。……傷のことで」
スカートの裾をまくりあげて脚を見せるてゐ。見ると、ふくらはぎの傷口は注意深く見ないとわからないほどうっすら残っているのみだった。
「永琳様が言うには、早く手当してくれたから傷の治りも随分いいって。あなたのこと話したら、永琳様すごく感心してたわ。ちゃんとお礼しておきなさいって。……ありがとう」
深く頭を下げてから、てゐがレイセンに小さな草を一本差し出した。
四葉のクローバーだった。
「プレゼントよ。大事にしてよね。わざわざちゃんと枯れないようになってるんだから」
「普通草って枯れるでしょ?」
「枯れるわけないわよ。造花なんだから」
なによそれ、と毒づきつつも、感謝されることに悪い気はしなかった。レイセンは四葉のクローバーの造花を胸にしまいこむ。
「ねえてゐ。あなた、私が新しい名前もらったの知ってるわよね? どう呼んでくれる?」
ポケットにしまったのを確認しながら、レイセンはてゐにそう訊いた。
「どう呼ぶも何も、あなたの名前って、レイセンじゃないの?」
抱えていた不満が氷解したように思えた。思わず表情をゆるめるレイセン。
一番不思議なのは、かの博麗の巫女がこのことに一切気づいていなかったことだ。この後、月がすり替えられた異変の解決に乗り出すまで、博麗の巫女はこの、延々と広がる竹林のことに一切無関心だったのである。人里の中で「迷いの竹林」と言われてはいるが、そこには外の者を惑わせるばかりでなく、内側にあるものまで外に出すまいと迷わせるのか。
轟音の中心は、まるで底の浅いボウルを模したかのごとく、なだらかな球底を描いて大量の竹が放射状に折れていた。
その中心に、レイセンは大の字に倒れていた。
長いことそのまま動く気配すら見せなかったのだが、ようやく重そうにまぶたを開いた。その奥に息づく瞳は、人間のものとしてはおおよそありえない鮮やかな紅色を帯びている。
レイセンは両手にそろそろと力を入れて、ゆっくりと半身を起こす。その後、片手を頭の上にやり、そこから伸びたものを確認する。――左右から細長く伸びた、兎の耳。
それから、彼女は空を見上げた。満天の夜空の中で、白く小さく輝く満月を見付けると、長いこと眺めつづけた後で、深い溜め息をついた。
「……逃げて、これた……?」
つッ……とうめき声を上げ、レイセンはこめかみのあたりを掌で押さえて半ばうずくまる。頭の奥がズキンと痛んだのだ。その痛みが、ここに来るまでの経緯の記憶を阻む。
自分のことは思い出せる。名前はレイセン。月に生まれ育った「兎」。地球から押し寄せてきた妖怪を、月の高度な文明の力で追い返した昔話を聞きながら、月に生きる者としての誇りをもって生きてきたつもりだった。
だが今度は、地球の民が自ら培った文明を結集して、月に侵略してきたのだ。何百年ぶりの侵攻に、迎え撃つ月の民の戦力はわずかほどしかなかった。そのわずかな戦力のなかに、レイセンも含まれていた。
だが今まで安穏と平和を謳歌してきたうら若い少女にとって、戦争は恐怖でしかなかった。生来気の弱いところの大きいレイセンにはそれが耐えられずにいた。自分が死ぬかもしれないということを考えたとき、彼女は耐えがたいまでの恐怖と悲しみを覚え、何もできなくなってしまうほど。
しかし来るべき時は刻々と迫っていた。月の民は協力しあって迎撃の準備に取り掛かった。だが、レイセンだけはとてもその中に入っていくことができずにいた。――自分達が死ぬかもしれないのに、なんで抵抗なんてするんだろう? 話し合いを持つことはできないのか? 降伏することはできないのか? ……逃げることはできないのか?
――いや、逃げることはできる。
レイセンは夢遊病者のようにふらりと立ち上がると、その場から逃げるために行動を起こしたのだった――。
……つッ!
そこからは脳奥の鈍痛が記憶を遮っていた。どういう手段で月を抜け出して、今この場所にいるのか、その間のことが全く思い出せない。
ただ、ここがどこなのかは検討がつく。もう一度月を見上げ、そこに、月から見た青と白の入り交じった鮮やかで大きな「星」の記憶を重ね合わせる。それで、ようやく自分がいる場所を知る。
ここは、地球なのだ。
だが一体どうやってここまでやってきたのだろう? 宇宙船? しかしあの運転には高度な技術が要求される。仮に乗り込んだ所で、地球に行くどころか月に飛び立つことさえできないはずだ。それに、辺りを見回してみても、宇宙船どころか、その残骸や痕跡すら見付からない。
――じゃあどうやって?
……つッ!
またも鈍痛に阻まれる。
だが少しだけ、本筋から外れたことをレイセンは思い出すことができた。唐突に頭の中に現れた一つの固有名詞。
〈幻想郷〉
自分が地球のどこかにあるというその場所、〈幻想郷〉を目指して月を発ったこと。だがレイセンは、英吉利や亜米利加、中華や印度や露西亜など、地球の国々の名前や主要都市までは知っていたけれど、〈幻想郷〉の場所は全く知らない。――今でさえ。
鈍痛は襲ってこなかった。代わりにあるのは、記憶の虚空だけであった。そもそも〈幻想郷〉のことをどうやって知ったのかすら記憶になかった。人づてに聞いた気がするが、はっきりと覚えていない。そもそも人づてに聞いたのかどうかすら自信がない。考え悩むうち、憶測を遮る鈍痛とは違った、別の軽い頭痛が襲ってきた。
レイセンはそれ以上ここにやってきた過程を類推するのをやめた。
とにかく今すべきことなのは、周辺の把握だ。休めるところを探して、今後に備えるのが賢明だろう。
今度はゆっくりと地面に立つ。両脚にところどころ痛みを覚えるが、ところどころかすり傷があるほかに、骨折や深い傷はなかった。
放射状になぎ倒された竹の周りには、さらに竹が生い茂っている。ようやく月のわずかな光に慣れてきた紅い瞳で見る限り、その繁みはかなり深そうだ。どうやら、広い竹林の中に空から突っ込んだようだ。
抜き足差し足ではないが、なぎ倒された竹の転がる地面を転ばぬよう爪先を立てるようにしてその場を抜け、竹の茂る中に入った。
とその時、レイセンは長い耳でかすかな声を聞く。息を潜め、レイセンは注意深くその声に耳を傾ける。
声の主はどうやら少女の声のようであった。それも、理由はわからないが泣いている感じがする。わずかな月の光をたよりに、レイセンは竹茂る間を抜けながら、声のする方へとゆっくりと近付く。
☆
声の主の方へと向かいながらも、レイセンは記憶を阻む鈍い頭痛に苛まれる。思い出せない「謎」が次々に沸き出してくるからだ。
そもそも、敵の本拠である地球になぜわざわざ逃げ込んでしまったのか。もし地球の民に見付かってしまったら、たちまち殺されてしまうかもしれないのに。自分は敵地の中、どこにあるともわからない〈幻想郷〉を目指していたというのか? 他に自身の服装のこと。宇宙に飛び立つなら飛び立つなりの装備があるのに、今の自分は迎撃のために配給された戦闘服ですらない。普段の生活で着ている服そのままだ。正直それほど丈夫な服ではない。竹薮の中に突っ込めば、少なからずやぶけてしまう程度の強度しかない。なのに、服はやぶけるどころか、綻び一つないのである。いや、そもそも地球に突っ込んだなら、月にはない大気圏との摩擦で大量の熱が生まれて、地上に降り立った時には一切合財焼き尽くさんばかりの灼熱になっているはずなのに、自分はほとんど無傷で、しかも倒された竹も、いくつかくすぶっているのみだった。――一体、なぜ?
頭に涌いて広がる「謎」の濃霧を晴らそうにも、ずきずきとした頭の痛みでままならない。……どこかで頭を打ったのかしら? しかし頭に傷どころか、たんこぶすらない。あるのは長い耳だけである。
その長い耳は、少女の泣き声をしっかり感じとっていた。レイセンは的確に、声の主のいる場所へ近付いていった。
きりなく生える竹の幹をくぐり抜けて、ようやくレイセンの紅い目が声の主の姿を捉えた。しかし、その姿を見て彼女は目を丸くした。
彼女は提灯を携帯していたようであった。地面に転がっていたそれは、さほどの明るさこそなかったが、少なくとも彼女の身体とその周囲を照らすには充分であった。
ずいぶんと古風で質素なデザインのワンピースを身に纏っている。レイセンよりも小柄で、顔を見れば幼い少女に見える。
だがレイセンは、少女が地球の民に見えなかった。
なぜなら少女の頭には、レイセンの頭にあるものと同じ、長い耳が生えていたからだ。だが随分と形は違う。だが、自分等とおなじ「兎」が地球にもいるなんて、聞いたことがなかった。
兎の耳の少女は、足に傷を負っていた。何かしら尖ったものが、ふくらはぎに深く刺さっている。
そういえば、とレイセンは懐をまさぐる。取り出したのは、携帯用の応急処置キット。迎撃に備えるよう、戦闘服と一緒に配給されたもののひとつだ。だが配給されたものの中で、レイセンが肌身離さず持っていたのは、この応急処置キットだけであった。戦いに赴きたくないが、自分の身は守りたいという思いからだったのかもしれない。しかし突き詰めようにも、また頭痛がぶり返してしまう。
応急処置キットを手に持って、レイセンは少女に前に姿を現した。
少女は頭の耳を伏せ気味にして、身を縮こまらせてしまった。
「心配しないで。怪しい者じゃない。傷を治してあげる」
そっとささやくように言いながら、そろりそろりと少女に近寄るレイセン。
対して、少女は一層肩をすくませて怯えながら、こう言い返した。
「……か、構わないで。迷ってるなら出口を教えてあげるから、触らないで……!」
レイセンは少女の言葉に構わず、少女のもとにやってくると、両ひざをついて座って応急処置キットを拡げる。
「出口なら後で聞く。でも今はあなたの傷を治すのが先」
「いいのっ! こんな傷、ほっといたら治るから! 触らないでって、言ってるでしょ!」
「動かないで。傷口が広くなるよ!」
言いながらレイセンは、少女のふくらはぎに刺さっていたものを引き抜いた。
「っいっ……!」
刺さっていたのは竹の破片であった。自分が降り立った時になぎ倒されて壊れた竹が飛んできて刺さったのだろうか?
「怪我したのは、いまさっき?」
「そんなの、関係ないでしょ! もうトゲも抜けたから、大丈夫よ……。もう私行くわ」
「だめよ、ちゃんと消毒しなくっちゃ。傷が膿んだら目も当てられない」
「だから、いいって」
「――じっとしてなさい」
逃げようとする少女の足首をぐっと掴んで引き止めると、レイセンは少女の傷に消毒液を滴らせた。痛い、しみると悲鳴をあげる少女にかまわず、レイセンは的確に処置を進める。
「随分傷は深いけど、これで傷は大丈夫。でも足を動かすには無理があるかも。私が肩を貸すわ。家まで連れて行ってあげる」
患部にガーゼを当て、外れぬように包帯を巻くと、レイセンはそう言って少女の背中に手を回して抱き起こそうとする。
だが少女はその手を振り払う。
「そんなことしてもらわなくていいから! 私、一人で家に帰れるから……」
頑なに拒んで見せてはいるが、彼女のちいさな頬はほんのりと赤らんでいた。感謝こそすれ、素直に表に出せないのだろうか?
「何も遠慮することはないわ。私には……行く所がないから……」
「こんな竹林の中には何もないよ。竹林を抜けて少し行けば人里があるから、そっちに行けばいいじゃない」
地面に転がった提灯を拾うと、少女はふくれたような顔をして立ち上がる。さすがに傷を負った足はまだ痛むのか、そちらに体重をかけないようにして、片足だけで立つようにしている。
「私はまだここで用事があるの。あなたはもうここから――」
「レイセンよ。私の名前は、レイセン」
「名前なんか聞いてないわよ! いいからここから出ていって! いい? ここからあっちの方角に行けばここから抜けられる。そのまままっすぐ行けば、人里が見えてくるから。もう夜だから、急がないと妖怪に食べられちゃうよっ!」
少女は言い捨てるようにまくし立て、自分はレイセンに指さしてみせた方向とは正反対の方向へ片足をひきずって歩いていく。
レイセンは最初、兎耳の少女の指し示した方向へ行こうとした。だがそちらへ一歩踏み出して、また足を戻してしまった。
どうも引っかかっていた。この夜闇の深い竹林の中を果たして指し示した方向にまっすぐ歩くことなどできるのだろうか? そこがどうもうさんくさい。
振り返れば、少女の姿は随分遠くにあったが、まだどうにか見える範囲にいた。さっき少女は随分迷惑そうな態度でまくしたててはいたが、あるいは彼女の後をついていけば、少なくとも安全に休める場所に行ける確率は高そうに思えた。
少女に気づかれぬよう、レイセンは竹の影に隠れるようにしながら、少女のあとをつける。
応急処置は施したといえ、少女は随分痛そうにしていた。時折立ち止まっては竹の幹にもたれて座り、足をさすっている。さすりながら、彼女はぼそぼそと何かを呟いていた。
距離が離れているので、人間の耳なら何を言っているのかさっぱりわからなかっただろう。しかしレイセンの耳は兎の耳。遠い場所の声でも、彼女ははっきり聞き取ることが出来た。とはいえ、月育ちの彼女には、少女が口にする言葉のいくつかは未知のものばかりで理解ができなかった。言葉そのものがわからなかったわけではない。途中途中の単語の数々が、レイセンの知らない言葉ばかりだったのだ。
それでもレイセンは、どうにか少女の呟きを聞き取ろうとする。
「……あの子、一体なんだろう? 兎? 兎にしては、――。――ではみたことない。――様に言った方がいいのかな? でも、正反対の方向教えたし、――に来ることは多分ないわ。運がよければこの竹林から抜け出ているだろうし、運が悪ければ永遠にさまようだけだもの。ようは――にやってこなけりゃいいのよ。……うう、痛い。なんで私はこんなに運が悪いんだろう? 私に会った他の人はみんな幸せそうにしてるのに……」
自分の行動が正解だったことだけレイセンは理解した。どうやら、最後まで少女についていく必要がありそうだ。最悪、夜が明けてから少女に本当のことを問いただせばいい。
☆
〈幻想郷〉は、人間以外の者たちが隠れ住むという場所。そこならば、月と地球の戦争に巻き込まれずにすむ。自分はそう考えて月から逃げ出したのか。
ではここは、自分が目指していた〈幻想郷〉なのだろうか? いや、今跡を追っている少女の耳は確かに兎の耳だ。レイセン自身の知る地球の兎は、同じく月で「兎」と呼ばれる自分達とは全く異なる、明らかに獣の姿をしている。ではあの少女は地球の妖怪なのだろうか? いや、そうに違いない。これは断言できる。同じ兎の耳を持つ者として、あの耳が本物であることは一目見てわかったから。
しかしそれでもレイセンは〈幻想郷〉にたどり着けた確信を掴めずにいた。そもそも、果たしてこの場所が安心できるところなのかどうかさえ判断がつきかねている。
兎耳の少女は、怪我した片足をひきずるようにして歩きながら、依然竹林の中を歩き続けていた。しかし一体どこまで歩きつづけるのか。竹の幹に進路を阻まれながら、レイセンはこの竹の森にうとましさを覚え始めていた。その苛立ちは、遠く先を進む少女のほうにも向く。――はやく目的地に着きなさいよ!
急いた心が、レイセンにミスをさせてしまった。
進路の先に立ちふさがっていた竹を掴んだのだが、それはわずかな力にさえたやすくたわんでしまうほどの細い竹であった。たちまち隣り合う竹の枝に自らの枝を重ね、ガサガサと大きな音を立ててしまった。
立ち止まって、振り返る少女。
レイセンは見付かってしまった。
長い距離を間に挟んで、しばし対峙する二人。すぐに、少女が口せき切った。
「――なんでついてくるのよおっ!」
叫ぶのと同時に、少女は懐からおもむろに何かを取り出すと、遠くにいるレイセンに向かって投げ放った。
レイセンには、少女の投げたものがトランプのカードのようなものに見えた。しかし真っ直ぐ投げ放たれたそれは、レイセンに近付くにつれて光を帯び、膨らんで、まばゆい一筋の光の尾を軌跡に伸ばす。
ほどなくしてそれは幾本もの光になり、円盤のような形に変わってレイセンのいる方角へ群で飛んでくる。
丸に違い矢羽――しかし月の住人であるレイセンに、飛んでくる円盤の文様などわかるわけがない。ただ、自分に向かって飛んでくる幾枚もの円盤を避けることだけしか考えていなかった。
飛んでくる円盤の速さも速かったが、レイセンの身体もそれ以上に機敏であった。かすりそうになりながらも、飛んでくる方向からほぼ直角の方角へ逃げることでどうにかやり過ごす。
しかし再びレイセンがもといた場所に戻ったときには、すでに少女は姿を消していた。
どういう構造で飛んできたのかはわからないが、あの光の円盤はレイセンの尾行を撒くために仕掛けたものだったようだ。
しばしレイセンは途方に暮れる。兎の耳をそばだてても聞こえてくるのは竹の葉がそよぐ音だけ。辺りを見回しても、夜闇の中で竹が連なって生えている以外に見えるものは何もない。だが夜が明けるまでここで居留まるにしても、レイセンは不安を感じていた。さらなる危険が襲ってくるかもしれないし、それに――果たして夜は明けるのだろうか?
結局レイセンは、少女のいた方向に見当をつけて歩いていくことにした。少女が確実にそこへ行ったかどうかはわからないが、今は動くしかない。
☆
レイセンの選択は正しかった。
それでも、ずいぶん長いこと竹茂る闇の中を歩かされたため、彼女は随分心細さに苛まれていた。月から逃げてきたことすら後悔するほどに。
だが行く手が突然大きく開けたとき、レイセンの中に渦めいていた憂鬱の螺旋はすっかり打ち消された。
開けたところにあったのは、上に瓦をしつらえた白壁の塀に囲まれた、屋根広くうだつの高い大きな屋敷であった。それも月のものとは違い、木と藁でできていた。まだできて間もないのか、日に蒸した藁の匂いと壁に塗り込めたのだろう湿った土の匂いがほのかに漂っている。
さらに数歩近寄って見てみても、汚れは一つも見当たらない。質素な中にも凛としたものを感じさせる程、その建物は竹林の中に我が存在を主張するように悠然と建っている。
建物の周辺を伺うためにレイセンが歩くと、これもまだ新しく作ったような、白木に金色の蝶番があしらわれた立派な正門があった。だが、両開きになった扉の片側が半開きになっている。かの少女がこの屋敷に入っていったのだろうか?
誰もいないのを確認すると、レイセンは足音を殺して正門の敷居をまたいだ。
塀の中は、外で見た以上に屋敷の豪勢さが展開されていた。剪定の行き届いた松や竹が隅に植えられ、その合間を穏やかな渓流を模した小川が流れ、小さな池に水を流し込んでいた。池の中には錦鯉が数匹いて、今は夜の眠りの中なのか、ひれの動きも鈍い。
月の光で明るく照らされた庭の周囲を、屋根つきの渡り廊下が取り囲んでいる。
母屋を挟んで反対側には、今まで歩いてきた竹林さながらの密度で竹が植えられている一角があった。玉砂利が敷かれた地面、竹の幹にまぎれるように小さな石燈篭が置かれているのを見ると、そちらも庭になっているのだろうか? だが遠目で確認できるのはそこまで。庭かどうか見極めるためにそちらへ行こうにも、母屋の軒の前を通っていかなければならない。
まずは正面から声を掛けて主を呼ぶべきなのだろうが、こんな夜更けに果たして応じてくれるだろうか。レイセンは戸惑った。だが、このまま黙ってはいっては泥棒同然、たとえ友好的な相手でも怒りのままに追い返すだろう。
「す……すいません、誰かいますかぁ?」
心細い口調で、しかしできるだけ大声を出して呼びかけるレイセン。
しかし答える声はない。不審者といぶかって武器を持って現れる者すらいない。あたりはレイセンの呼び掛けなど無視するかのように、閑と静まり返っている。
これほど大きな屋敷で見張りを置いていないとは、なんと不用心なのだろう? しかしその不用心さが逆にレイセンには不気味に思えた。
――ならば入らなかったらいいだけ。
レイセンは、屋敷の大きな門の下を貸してもらって夜明けまで眠ることにした。きびすを返し、一旦門のところまで戻ろうとした。
かさり、と音がした。微小な音であったが、レイセンの耳はしっかりその音を捉えていた。その音は……間違いない……屋敷の玄関。
とっさに向き直ったとき、レイセンは何者かが屋敷の中に逃げ込んでいくのを見た。――ちらりと見えたピンク色のスカートの裾。
――あの子か?!
「ちょ、ちょっと待って! 私道に迷ってここに来たの。待ってよ!」
片腕を伸ばし、追いかけようとあわてて前のめりに駆け出すレイセン。それは心細さから、救いを求めているかのようでもあった。
開け放たれた屋敷の玄関をくぐり、さっき人影の走っていった方向を見ると、そこには長い廊下が続いていた。先が見えないほど、ありえないくらい長い。外から見た屋敷も大きかったが、この廊下の長さはそれ以上だ。そして、その先に人影は全く見えない。ただ、廊下の両側に点々と蝋燭が薄暗くともされているのみ。途中途中には襖が左右一対で閉まっているのが見て取れる。見渡す限りでは、どの襖にも、朧月夜や天の川など、夜空を題材にした水墨絵が描かれている。
追うべき者を見失ったレイセンは、とりあえず廊下に足を踏み入れることにした。まず、一番近いところにあった襖を左右とも開ける。どちらも、畳敷きのちいさな和室があるのみであった。調度は全くといっていいほどなく、小さな床の間に座布団が置かれているくらいであった。誰もそこにはおらず、いた形跡や気配すら感じられなかった。
さらに奥に進んで、他の襖を開けてみたが、どこも誰もいない似たような和室があるのみであった。十も二十も開けて回ったレイセンであったが、あまりの変わり映えのなさに彼女は途中から襖を開けるのをやめてしまった。とにかく、廊下の奥へ進むことを考えた。
しかしどれだけ奥に進んでも、廊下は終わりを見せない。時折左右一対に夜空の襖絵の描かれた襖を見るのみで、あとは延々と板張りの床が続くのみ。――おかしい。振り返れば玄関もはるか遠く、点にしか見えない程まで進んできたのに。……自分は何か幻影をみているのだろうか?
だがすぐにレイセンはその考えを否定する。もし幻影だとすれば、すぐにそうだと気づくはずだったからだ。逆にそうでなければ、道に通じた者とは言えない。
レイセンは生来、幻影を司る能力を持っているのだ。彼女は月での生活の中で能力を伸ばすための鍛錬を積んでいた。おかげで、意識すれば自分の目を見る者を瞬時に幻で眩ませるほどにまで上達した。
それとともに、同じ能力を持つ月の兎の幻影を見分けることができた。しかも誰よりも正確に見破ることが、レイセンにはできる自信があった。
今歩いている長い廊下には、幻影の気配は全く感じられない。だから、これは幻影ではない。幻影の術に長けた自分が、間違うわけがなかろう。
しかしそれでもありえない。幻影でないとすれば一体何の仕掛けがあるというのだろう?
考えているうち、レイセンはいつしかはたりと立ち止まってしまっていた。それから、再び玄関のほうを見る。次にとるべき行動は、おのずと決まった。先で迷うなら、振り出しに戻るべし。
――戻るしかないか。
朝になればきっと誰かこの不思議な屋敷から出てくるだろうし、その時に自分の聞きたいことを聞けばいいだろう……そんなことを考えながら、きびすを返して玄関のほうへ向かう。
すると、背後で襖の開く音が聞こえた。
落ち着いた調子の女の声。
「待ちなさい、そこの兎」
レイセンがおそるおそる振り返る。
一人の女が、レイセンからそう離れていないところに仁王立ちになっていた。濃紺と深紅の布地でできた、洗練されているが随分古風なデザインの服を身に纏っている。だが、編んで束ねた長いブロンドヘアーの頭の上に載せたナースキャップや、服のデザインの細かい部分に見てとれる独特な特徴を見て、レイセンはその女が何者か、おぼろげながら把握できた。
薬師か医者か……だが間違いなく医療系の仕事をしている者と。
「見ない顔ね。こんな夜更けにどこから迷いこんできたのかしら?」
女は自分から近付いてきた。その顔には歓迎の色は微塵も感じられなかった。露骨にはないにせよ、警戒しているように見える。まじまじと自身を見つめてくる女に気圧されるように、レイセンはじりじりとあとずさる。
いや、今こそ自分の身の上を話すときだ。どういう経緯だかわからないが、いつの間にかこの竹林に墜落して、さ迷っているうちにこの屋敷に着いた。朝まででいいので泊めさせてほしい、と。……だがそれだけのことなのに、彼女は言い出せない。つぶさに観察するこの医者風の女のどこにも、声をかける隙を見付けることができないでいた。
それでも思い切って切り出そうとしたレイセン。だが彼女よりも早く、昔風の医者姿の女が口を開いた。
「ふぅん……? もうかれこれ千と数百の年月が流れているというのに、一体私達に何の用なのかしら――月の兎が……!」
語尾で潜めた声に、不穏な響きがにじんでいた。それは巣穴で身構えながら唸る猛獣にも似ている。
背筋に悪寒を感じたレイセンは、おそるおそるもさっきより早い足取りであとずさる。
一方女のほうも数歩、大股で後退した。それから片腕を後ろに回すと、身の丈を頭一つ上回るほどの長さの弓を取り出した。まるで手品のように、さっき何もなかったところから、である。
「今さら何をしに来た? 偵察か?」
もう一方の手には、いつの間にか矢が握られていた。それを弓につがえ、徐々に弦を引きながら、女はレイセンににじりよってくる。さっきのいぶかる表情から眼光が鋭くなった女の言葉に、レイセンの応える猶予はない。少なくともレイセンにはそう思えた。
ならば、もう逃げるしかない――!
文字どおり、脱兎のごとくレイセンは玄関に向けて駆け出した。
「――待ちなさい!」
鋭く空を斬る音を伴って、矢が飛んできた。明らかに足を狙った、低い弾道。だがかろうじてレイセンは飛び跳ねることで避ける。しかしその拍子で彼女はバランスを崩してたたらを打って転んでしまった。
「チィっ、今度こそ――!」
「ひ、ひぃっ!」
さらに一本、空をかっ切って矢が飛んでくる。辛うじてその場から跳ねて矢を避けるレイセン。
タツン、と板張りの床に矢の深々突き刺さる音。その後に、着地を考えずに闇雲跳び上がったために、レイセンがそのまま体を床へしたたかにぶつける音が続く。思いのほかのダメージに、レイセンは起き上がるのに手間取る。
その目前に、またも矢が飛んでくる。それはレイセンの身体をめがけるも、引きが甘かったのか、床に矢尻を当ててそのままレイセンの脇を転がっていってしまった。
「……腕が鈍ったものね。連射もまともにできなくなったなんて……!」
手品のように、矢筒も背負わぬ後ろから矢を取り出して、また昔医者の女は弓に矢をつがえる。命を救う医者の格好をしているくせに、レイセンを的にして、弓を引いて凝視するその目は狩人のそれ。
そして武器を持たないレイセンは、ただ逃げるのみである。どうにか体勢を整えて玄関へ走りゆくレイセンの背後を、矢がたてつづけに飛んでくる。だが兎の長い耳は、矢の飛ぶ筋を読むにはとても適していた。とがった矢尻のもどりが空を斬る音を拾うことで、後ろのどこにどれほどの早さで飛んできているのか手に取るようにわかる。おかげで、どうにか矢を避けることができた。
「ええい、ちょこまかと……! 逃さないわよ月の兎。この場所は絶対に漏らさない!」
医者姿の女狩人は、苛立ちを眉間に浮かべて追いかけてくる。
目指す玄関はあと少しであった。しかしレイセンの逃げ足を引っ張るかのように、女の放つ矢が立て続けに飛んでくる。さっきから脚ばかり狙われているせいで、まっすぐ走ることすらままならない。直進しようものなら、先を読まれて撃ち抜かれてしまう。だから、矢が飛んでくるたびに進路を変えてジグザグに走る以外にない。
脚ばかり気にしていてはいけない。たまに胴体や頭めがけて矢が飛んでくる。それもレイセンは辛くも避けるが、身体すれすれに飛んでくる矢の空切る音を聞くと生きた心地がしない。
人一人が射ているとは思えない矢の雨をくぐり抜けて、ようやく玄関にたどり着いた。戸を開けて外に出て、さっきの竹薮に身を潜めてしまえば、あとはどうとでも逃げられる。 レイセンは閉まっている戸に勢いよく手をかける。
「――っ!」
びくともしない。桟を掴んで押し引きするが、戸は開かない。
戸に鍵がかかっているのかと、とっさにレイセンは確かめるが、そういったものは全く見当たらない。
無理矢理にでも開けてやると思い切って体当りを試みるが、戸は壊れるどころか、どうとレイセンに毅然と立ちはだかるのみ。ただレイセンが肩をしたたかに打ち付けて痛めてしまっただけであった。
その彼女の頬をかすめて、矢が戸に突き刺さる。
振り返ると、医者の衣を被った女狩人が、冷たい笑みを浮かべて立っている。
「……手こずらせるわね……。でもこれで終わり。ようやく射止められるわ」
何も持たぬ右手をぶんと横に振って見せると、大扇を広げるように五本の矢が現れた。
「引導くらいは渡してあげる。この五本の矢を全て射るまでの時間だけね」
すかさず矢を弓につがえ、弦を引いてレイセン目がけて構える女。
矢尻のもどり以上に鋭い女の眼光を見て、レイセンは震え上がる。その瞳の奥に孕んでいたものは、明らかな敵意そのもの。
――月にいた頃に苛まれていた、死への恐怖がレイセンの頭にオーバーラップする。
紅い瞳から涙がこぼれる。
――死にたくない、死にたくない……!
しかし、それは逆に言えばレイセンにとって好機でもあった。相手が自分を、自分の眼を凝視しているのならば、自分の能力下に置いてしまうことができる。
幻影を司る力を。
涙で潤んだ目を見開いて、自分を射貫かんばかりの女の目をきっと見返す。その時のレイセンの目の表情の変化に、女は動揺したようであった。敵意放たんばかりの目が一瞬ひくりとたじろぐ。
今さら気づいてももう遅い。レイセンはためらいなく自分の能力のスイッチを入れた。とても自然に、とても簡単に。
「う、うあぁっ……!」
女は引いていた矢を離してしまう。だが、構えのぶれた弓は、至近距離でさえレイセンの身をまともに射ることはできなかった。
たちまち女はひざをついて身を崩す。左手の弓すら手放してうずくまり、今自分の目を、さらには自分の頭に覆いかぶさってきた狂気の幻影を振り払わんと激しくかぶりを振る。
ついには吐き気まで催し始めたのか、口に手をあてがってえづき声を上げ始めた。
人を狂わせるなんて簡単。いつも見ている景色を、絶えず形を変えるレンズを通して見ているように歪めるだけ。あるいは色までも歪め、明暗まで歪める。そうすれば、どんな人間でもたちまち苦しみ始める。
――あなたが悪いんだから。あなたが私を傷つけようとしたんだから……。
女がすっかり武器を手放してうずくまっているのを見届けると、レイセンはその場から離れようと動き始める。しかし、玄関の戸はやはりびくとも動かない。またも、今度は何度も体当りを試みて叩き壊そうとするが、戸は思っている以上に頑丈なのか、突破するどころか動くとっかかりさえ掴めない。
ならば、どこか他に出られるところを探すしかない。レイセンは、未だ床にうずくまったままの女を跨いで、再び廊下に行って外へ出る場所を探そうとした。
だが、女を跨いだところで、レイセンは鋭い痛みに襲われる。
「ぎゃっ……!」
膝裏を縦に切り裂くように痛みの筋が走る。たちまちレイセンは廊下の床に転がる。
痛むところに手を当て、目の前に持ってくると、べったりと赤い血がついていた。
「ああ、痛いっ、痛いぃ……!」
悲鳴を上げながら玄関の方を見ると、あの狩人女の手に、血に染まった矢が握られていた。狂気に苦しむ中、矢の柄を掴んでレイセンの脚を切りつけたのだ。
「……随分と奇妙な能力を使ってくれるじゃない。迂闊だったわ……」
ゆらりと立ち上がり、弓を拾いあげると、女は血塗られた矢をつがえ、レイセンに向けて放つ。何の容赦も猶予も隙も、そこにはなかった。
「いやあああぁああぁっ!」
至近距離で放たれた矢は、レイセンの傷ついた脚を貫通した。鋭い痛みが、彼女を襲う。
「あ、あ、ああっ、あっ、ああぁっ……」
自分の脚に深々刺さった矢を見て、その傷口からどくどくと流れる血を見て、さらにレイセンは恐れおののく。
一方、女はまだ狂気のもたらした不快感から脱しきれていないのか、ときおりかぶりを振って自身を気付けながら、ゆっくりレイセンに近付いてくる。
「月の兎……、よくも私に恥をかかせてくれたわね。うんん?」
脚に突き刺さった矢を握りしめ、傷口を拡げんとばかりにゆさぶりをかける。
さらにこみ上げる痛みに加え、傷ついた筋肉が一層きしめいて悲鳴をあげる。
「ああいやあああぁああぁっ!」
「こんなもんじゃないわ。こんなもんじゃないのよ。……そうね、その忌まわしい眼と引き換えに教えてあげようかしらねぇ……ふふ」
女の唇からこぼれた笑みには、針のむしろに勝る程の痛々しい棘を含んでいた。
「い、いやぁ、いやあぁ……」
「拒む余地なんか、もうあなたにはないわ」
女はレイセンの上に跨って座り、弓に矢をつがえてかまえる。標的は、数寸先のレイセンの紅い瞳。
「まずは右眼。次に左眼。それからあなたは盲目の中で、自分がどこを傷つけられているかわからないままに死ぬの。最高の処刑法だと思わない? それとも、痛みのショックで死ぬかもしれないわね」
「い、いやああああっ、やめてっ、眼はやめてぇえええっ!」
「うるさい兎ねぇ。月ではどうだったか知らないけど、この地では兎は人に狩られるものなのよ。あなたは今までの罪を許してくださいって神にでも仏にでもすがるしかないの」
弦が許すいっぱいいっぱいまで引っ張られる。
いつ射貫かんと焦点あわぬほど至近距離でねめつけてくる矢尻の先端など見ていられない。レイセンはまぶたを固く閉じて激しくかぶりを振る。
だが無情にも、矢は放たれた。
たちまちレイセンは鋭い痛みを覚えた。深く切りつけるような痛みが、顔の横に一筋走る。同時に、自分に跨って身動きを封じていた女の重みがなくなった。
とすっと、頭の後ろの床に突き刺さる音。
おそるおそる目を開けるレイセン。……幸いにも、右眼はつぶされていなかった。顔の右あたりに痛みはあるが、矢が右側に突き立っているのを見ると、どうやらぎりぎりのところで反れたようである。しかし、ゼロ距離とばかりに矢を構えられたのに、なぜ……?
ふと目を横に逸すと、先ほどの女が横倒しになっていた。彼女が何が自分の身に起こったかわからぬ様子でうめきもがく中、上に覆いかぶさっていたのは、ピンク色のワンピースを纏った少女であった。
あの、竹薮で出会った兎耳の少女。
「や、やめてくださいっ! この人は悪い人じゃないんです!」
「な……だれかと思ったら、……てゐ、あなた何いきなり、離しなさい!」
「やめてください! 殺しちゃだめっ!」
突き放そうとする女の手の突きをかい潜って、少女は女の弓を掴んで奪い取ろうとする。
二人の揉み合いを呆然と眺めるレイセンであったが、すぐに脚を貫く矢の鋭い痛みが襲う。
再度逃げるチャンスが訪れたが、脚がこんな状態ではどうすることもできない。
すると、また一人こちらにくる気配を感じとった。すぐ手近の襖の裏から。
たちまち、その襖が開く。
兎耳の少女よりは数段年上に見えるが、その服装はかの医者皮を被った女狩人よりも古風なドレスであった。使っている布生地も人の手で織った風合いであったし、漉きこまれた月影や笹の柄も、少なくとも月ではもう何百何千年に絶えてしまっているものだ。
いらだたしげに、身の丈ほどもある黒い髪を手で後ろに掻き上げ、彼女は言い放った。
「こんな夜中に一体何の騒ぎなの? この矢傷を負ったイナバは何? 説明しなさい、永琳」
☆
「ふふ……、ほんと、目を塞いでさえいれば、かわいい子よね」
穏やかな中にも、こいじわるな響きを含ませた声が聞こえる。それから、どこからともなくさわさわと身体の肌を撫でる感触。背筋や胸の膨らみに行き着くと、まるでからかうように指をさわさわ這わせてくすぐってくる。
足元には冷たい水を感じる。さっき頭から水を浴びせられていた。体から滴る雫が、足元の水に落ちてぴしょん、ぴしょっと小さな水音を立てている。
今、裸にされて水浴びさせられているのは理解できた。あと、代わって身体を洗ってくれているのが、以前に矢で射ようと迫ってきた女なのも、声でわかる。
しかしそれ以上はわからない。
なぜならレイセンは今、厚い布で目を塞がれているからだ。おまけに、両手は手枷のようなものに後ろに繋がれて自由が利かない。
これは全て、この女――八意 永琳の提案からくるものであった。
どうやらこの永琳という女は、この屋敷の従者の頭のような存在らしい。だが概ねのことは彼女が取り仕切っているらしい。ちなみに屋敷の主は蓬莱山 輝夜という、永琳よりはるかに年下に見える少女。だが彼女は屋敷の一室に籠っているらしく、時折他の従者を通して永琳を呼ぶ以外はほとんど屋敷の雑事に顔を出すことはないようだ。
レイセンは主の輝夜に感謝しないとならない。彼女がいなければ、確実に永琳の矢で完全に命を射止められていただろう。さらには客人としてこの屋敷でもてなすとまで提言したのだ。
そこに永琳が口を挟む。もてなす代わりに彼女が申し出たのが、レイセンへの目隠しと手枷だったのだ。信用できないから、というのがその理由であった。
命の危機からとっさの自己防衛であの狂気の幻視能力を使ったとはいえ、レイセンは後悔の念にかられた。自由を奪われることに対してではなく、能力を使うことで相手を怖がらせてしまったことに。何か他に平和的な手だてを講じられなかったのか、落ち込む心の中で先に立たぬ考えをめぐらせる。
だが永琳は、目隠しされて手枷をはめられたレイセンを、人が変わったかのように優しくもてなした。
三度の食事は丁寧に口に運ぶ。寝床に連れ添って寝かせては、朝になれば見えぬ朝日の光のかわりに刻を告げに訪れる。着替えも手伝い、こうやって水浴びも手伝ってくれる。
主である輝夜の言に従っているのだろうが、矢を突き立てられた身にすれば不気味にすら感じる程だ。
その永琳が、レイセンの首から頬に向けてさわさわと濡れた両手を這わせてくる。
「あら、いけないわ。顔を洗うのを忘れてた。ちゃんとぬぐってあげないとね……」
言いながら、濡れた布で丹念な指使いでぬぐってくる。頬や顎、鼻や額、さらには、唇の端から上下それぞれ、内側と外側から二本の指で軽く揉みしだくように。
「や、あ、うぁ……」
目を塞がれていても、自分の口が永琳のいいように醜く歪められているのははっきりわかった。本人は押し殺しているようでも、レイセンには微かに聞こえる、永琳の蔑むように弾んだ息づかい。
屈辱感のあまり、レイセンは手を払いのけようと激しく身をよじらせた。だが永琳は顎の下をがっちり両手で掴んで離そうとしない。
「ほらぁ、じっとしてなさい。どれだけ抵抗したところで、あなたは私から逃げられないわ」
そう言った後で、彼女は大胆にもレイセンの胸の膨らみを荒々しく掴みあげてみせる。
「ふぎっん!」
「私らがあなたに何しようとも、もう逃げ場はないのよレイセン。この屋敷の外にあなたを暖かく迎え入れてくれるところはないし、もちろん故郷の月にも戻れない。同志が戦おうというのに自分だけ逃げた身では、ね」
もう一方の手が、人差指の腹でくすぐるように背筋をすっと沿って腰に到ると、尻の膨らみを堪能するかのように手の平全体で撫でまわす。獲物に喰らいつく毒虫のように、五本の指を大きく拡げて。しかしその手は尻が目的ではなく、徐々に下に向かっているのをレイセンは察した。いや、下といってもももの裏ではなく、両脚が合わさって奥まった、秘密の部分。
「謝るなら今のうちよ、レイセン。さもないと、あられない声をあげて恥ずかしい思いをしないといけないわよ」
胸を揉みしだく永琳の手指が、乳首を摘んでこねくり回し始めた中、レイセンの身体の中で危うさを孕んだむず痒さが渦をまく。
その中での永琳の言葉に、レイセンは恥辱の場面をつぶさに思い描く。
――そんなの、堪えられない。
彼女は、震えた声で嘆願の言葉をこぼす。
「……ご、ごめんなさい。もう抵抗しませんから……せめて意地悪しないで、優しくしてください……」
「そう、それでいいの……かわいい兎さん」
レイセンの長い耳元で、永琳が静かに囁く。だがその息づかいには昂ぶりが感じとれた。
水浴びを終え、服を着せられたあとで、レイセンは永琳に訊く。
「あなたたちは、私をどうするつもりなのですか?」
「輝夜様の言どおりよ。客人として丁重に扱わせて頂きます」
「最終的には、どうするつもりなのですか? この屋敷から追い出すのですか?」
「そんなことしないわ。仮にそうされたとして、あなた行くところあるの? 月を守るための戦いが恐くて逃げてきた兎さん?」
悪戯っぽく答える永琳。彼女はレイセンのすぐそばに身を寄せるように座った。
レイセンが、ぼそりと答える。
「……確かに前に話したとおり、私は戦いが恐くて逃げてきました。でも……そこのところ、本当は不確かなのです。逃げたいくらい戦争が恐かったのは確かですが……どういった経緯でこの地に辿りついたのか、思い出せないんです。なんで具体的に行動にでてしまったのか、そもそもどうやって月から飛び立てたのか……」
「でも、逃げたには変わりないわ。きっと月の人間はあなたのことを裏切者だと思ってる。今さら戻って許しを乞うたところで、水に流して許してくれるかどうか」
さらに、永琳は語調を変えてさらに一言付け加える。
「私達も、あなたを月に戻すつもりはない」
レイセンはその言葉に、自分に向けて矢を放ってきた永琳の鋭い目つきを思い出した。
どうにか怯えを心のうちに抑え込んで、レイセンは訊く。
「なぜですか? あなたたちは……何者なんですか……?」
言葉を発した後で、自分が間抜けな質問をしたことにレイセンは気づく。
ここは地球であり、今現在月は地球の者に攻撃されている。つまりここは敵方の陣地なのだ。自分は味方からわけもわからず飛び出して、敵方に入り込んでしまった人質のようなものではないか。
「そうね……。まだあなたには名前以外のことをあなたに教えていないわね」
永琳はふぅっと息をついて、レイセンの質問に答えた。
「私たちはね、月の人間に追われているの。指名手配中の犯罪者、とでも言うのかしら」
「……? え、え?」
犯罪者と聞いて、レイセンは困惑する。故郷の月は戦いの中に突入しようとしていて、自分はただそこから逃れることだけ考えていた。「犯罪者」なんて今まで想定もしていなかった言葉だ。
永琳はさらに、衝撃的な名詞を口にする。
「あなたは、蓬莱の薬を知っているかしら?」
蓬莱の薬――!
レイセンの頭の奥底から、学校で学んだ歴史の一幕がよみがえる。
秘薬を製造し、服用した罪として二人の女が咎められ、うちの一人が月を追放されたという話。その薬の効用は不老不死。しかし一度飲んだらどんな方法でも死ぬことのできない劇的な作用について、あらゆる観点で問題を指摘され、議論の末に禁忌とされていた。――それが蓬莱の薬。
「……まさか、あなたたちはあの禁忌の薬を飲んだ二人なのですか?」
「そ。で、私がその製作者」
あっさりと永琳は答える。
レイセンは自分の耳を疑った。そもそも蓬莱の薬の事件ははるか昔のこと。学校の授業の中で触れられたのもごくごく一部のみ。咎められた二人のうち、追放されていないもう一人の行方も知らないし、そもそも蓬莱の薬を飲んだ二人が今現在どうしているのかなど、知る由もない。それは遠い昔の話で、今現在ここに生きている自分には関係ないと、意識すらしていなかった。
――そんな人物に出くわすなんて……!
確たる証拠は無かったが、永琳の話を信用せずにいられなかった。レイセンの持つ一握りの情報を埋めあわせるように、彼女は自分達の身の上を話す。
――言い出したのはこの屋敷の主である輝夜。禁忌である薬の製作を頑なに拒んでいたが、結局永琳は彼女のわがままに折れて、蓬莱の薬を作る。製作者の責任として、毒見として永琳が飲み、何もないのを安堵して輝夜が飲んだ。
――かくして二人は月の府に罪を問われ、断罪される。結果、輝夜は死罪にも等しい形で月を追放されるが、永琳は彼女よりはるかに軽い罰で済まされる。禁忌の薬を作ったのになぜこうも扱いが違うのか、永琳には理解できなかった。だが、その時は月の府に従う他なかった。
――それから十余年の時を経て、永琳に転機が訪れる。輝夜が地球で転生したことを知ったのだ。巧みな根回しを行った末、永琳は罰受ける身でありながら彼女を迎える使節団の一人に加わることができた。だが彼女はただ輝夜を迎えるだけために使節団に加わったのではない。地球に到着し、輝夜との久方ぶりの面会を果たしたあと、永琳は仲間の使節団のメンバーを一人残らず殺害したのだ。それから彼女は輝夜の手を取り、この後何百年となるかわからない逃避行に発ったのだ……。
一通り語りつくした永琳であったが、それでも彼女の口からは語られぬことがあった。
なぜ永琳は輝夜と運命を共にすることを選んだのか。
いや、それは語られなかったのではない。永琳は言葉の行間で語っていた。時折の沈黙、深い溜息、それから、輝夜のことを語るときの、物憂げな口調。輝夜と逃げ出すくだりでは強い決意のようなものすら感じとれた。
それは決して欺くためについた嘘ではないだろう。そもそも、月から逃げ込んできた一人の兎を騙すために、そこまで壮大な似非事を喋るだろうか。
だが永琳の言葉を信じるにしても、まだ明らかにならない問題がある。
「そんな月に追われている人間が、私をどうしようというのですか?」
「どうもしないわよ。あなたは月に帰さない。ま、帰れないでしょうけど」
一息ついて永琳は言葉を続ける。
「どうやらこの一帯は『幻想郷』と呼ばれているらしいけど、フィールド・バリアというか、空間が限定されているようなの。『幻想郷』自体はそこそこの広さはあるけど、限定された境界から先に行くことはできないようになっているようなの。いろいろ調べてはいるけど、それが何故だかはわからない。私達も最初から『幻想郷』を目指していたわけじゃないの。いつしかここに迷い込んだというか」
「でもここにいる限り大丈夫よ、イナバ。ここは迷いの竹林の中。そして頼れる永琳がいる」
割って入ってきた声は、屋敷の主・蓬莱山輝夜。
「ねぇ永琳。もういいんじゃないかしら? 月から来たというそのイナバ、もう悪さしないと思うわ」
「しかし姫様、彼女の持つ術は危険です……!」
「そうかしら? 術を持っているにしても、今ここで使ったところで彼女に得することなんてあるのかしら?」
きつく縛られた目隠しの結び目に手指が触れる。永琳が悲鳴にも近い声で止めるように言うが、――
レイセンの目隠しははらりととれた。
もう何日ぶりかわからない外の光景に、目が一瞬くらむ。
視界が開けた当初は、暗くて何一つみえなかった。しかし目が慣れるにつれ、いろいろと物が見れるようになる。座っている縁側、ともっている行灯、床に生えた竹の群。
そのすき間からかいま見える、瞬く星のただ中に丸々と光る青白い真円の光――月。
レイセンは、竹の生い茂る窮屈な隙間から見える月をしばらくぼおっと見つめていた。
「ほら、大丈夫じゃない」
「……そうですね、姫様」
永琳は、レイセンの手に嵌めた枷も外し、彼女の肩を叩く。
――ようやく、たどりつけたのか……?
〈幻想郷〉は、レイセンを暖かく迎え入れてくれた。ひとまずのところ。
☆
これからの新しい生活のはなむけとして、レイセンは永琳と輝夜から新しい名前を授かった。
《鈴仙・優曇華院・イナバ》
「姫様と二人で話し合って決めた名前です。あなたは私達と違って新しい世代に生まれたイナバだから、すこし洒落た名前を考えてみたわ。以後はこの名前を名乗るように」
と永琳に言われたものの、当のレイセンはこの新しい名前の珍妙さと長ったらしさに嫌気を感じずにいられなかった。
しかも名付け親たる二人は、一日もせずに彼女のことを略して呼ぶようになった。永琳は「ウドンゲ」と呼び、輝夜は「イナバ」と呼ぶ。しかも輝夜に至っては、屋敷にいる兎たちを総じて「イナバ」と呼んでいるありさまだ。とても自分のために十分話し合ったとは思えない。
新しい名前への不満を抱えて、レイセンは屋敷の縁側に憮然と腰かけていた。
すると、一人の兎が足音を殺すかのようにそろりとレイセンに近寄ってきた。
ピンク色のワンピースを纏っている、見た目人間の少女に見える妖怪兎。因幡てゐであった。
振り向くレイセンに、てゐはびくりと肩をひきつらせ、顔を引きつらせる。
「な、なによ。こっち見ないでよ」
「やって来ておいて何よ」
おどおどとしながら生意気に口をきくてゐに、レイセンは不機嫌に返す。
「お、お礼にきたのよ。……傷のことで」
スカートの裾をまくりあげて脚を見せるてゐ。見ると、ふくらはぎの傷口は注意深く見ないとわからないほどうっすら残っているのみだった。
「永琳様が言うには、早く手当してくれたから傷の治りも随分いいって。あなたのこと話したら、永琳様すごく感心してたわ。ちゃんとお礼しておきなさいって。……ありがとう」
深く頭を下げてから、てゐがレイセンに小さな草を一本差し出した。
四葉のクローバーだった。
「プレゼントよ。大事にしてよね。わざわざちゃんと枯れないようになってるんだから」
「普通草って枯れるでしょ?」
「枯れるわけないわよ。造花なんだから」
なによそれ、と毒づきつつも、感謝されることに悪い気はしなかった。レイセンは四葉のクローバーの造花を胸にしまいこむ。
「ねえてゐ。あなた、私が新しい名前もらったの知ってるわよね? どう呼んでくれる?」
ポケットにしまったのを確認しながら、レイセンはてゐにそう訊いた。
「どう呼ぶも何も、あなたの名前って、レイセンじゃないの?」
抱えていた不満が氷解したように思えた。思わず表情をゆるめるレイセン。