夜。木々と湖を望みながら異彩を放つ紅い館の門前。
3間(5メートル程度)の間合いを置いて対峙する両者は正に対極であった。
片や、長大な金属製の杖を正眼に構えた、六尺五寸の巨漢。
片や、徒手空拳にて極低に構えた、長い赤毛の拳法着の少女。
共通するのは、敵を前にした者特有の張り詰めた空気。
まごう事無き立会いである。
巨漢は鍛え上げられた肉体と堂に入った構えで、得物の握り方一つまで、熟練の使い手であることが伺える。
少女の構えは何処か奇矯な獣を思わせるものであったが、心得のある者が見れば、一毫たりとも隙の無いことが解ったであろう。
常識で言えば、上背で上回り得物を手にした男が圧倒的に有利。
しかし両者の表情を見比べれば、焦燥を押し隠し気を乱さぬよう努めているのは巨漢であり、少女の表情はいっそ涼しげですらあった。
見合ったのは十数秒。
巨躯が滑らかに前に出ると、震えるように動いた。大仰な予備動作は無く、最小限の動きで最大の結果を齎す練達の一撃。
下段への小さい薙ぎ。刃無き鉄杖とは言え、硬度・重量・技量による速度が重なれば、その破壊力は甚大。掠めるだけで骨まで響く。
更に下段は、人体にとって最も防御が困難な部位であると同時に、大地を踏みしめる力に関わり、破砕されれば戦いに大きな制限のつく弱点でもある。
つまり間合いの長い得物にとって、軽い下段は牽制であると同時に必殺の意味合いを持つのだ。
しかし鉄杖は空を切った。
あるべき場所に、少女の脚が無い。跳んだ、と気付いたのは、跳躍した少女が、「二歩目で、鉄杖を蹴った」時点であった。
鉄杖の戻りより速く飛び込んだ少女は両腕を男の首に絡め、蛇を思わせる滑らかさで背後を取った。
この時点で、絞めの体勢が完成している。
戦慄と共に男は悟る。鉄杖を捨て肘を打ち込む前に、頚部の血流を止められた己の意識が暗転するであろうことを。
「参った」
消沈ととも吐き出された敗北宣言。鎖のように巻きついていた腕がするりと解けた。
背後を振り向くと、少女は今しがたの立会いが嘘のように静かな笑みを浮かべている。
「「有難う御座いました」」
互いの声が響き、男は帰って行った。
その後姿が消えるまで眺めていると、
「へぇー……やっぱり人間相手だと強いんだな。美鈴」
横から、可憐なソプラノヴォイスが男言葉を吐き出した。
黒装束に白い肌。太陽のように輝く金髪。誇らしげに被った大きな三角帽がこれ以上無く「私は魔女だ!」と自己アピールしているその少女の名は、霧雨魔理沙という。
目前に聳える館、紅魔館を度々訪れる盗人にして魔法屋である。魔法の研究に行き詰って、気分転換を兼ね今夜も図書室を荒らそうとしたのだが、たまたま門番が人間に手合わせを申し込まれている所に出くわし、好奇心の赴くままに見物していたのだ。
「えー、そう? 普通よ」
美鈴(めいりん)、と呼ばれた少女――見た目は人間の少女だが、実際には妖怪であり、この紅魔館の門番その人である紅美鈴(ほん・めいりん)は、長い赤毛を揺らして朗らかに笑った。
「妖怪でもあんなワイヤーアクションしないぜ」
「お嬢様や咲夜さんなら楽勝よ?」
「吸血鬼やら時間止める奴やらと比べる方が間違ってるぜ。ま、弾幕ごっこはまだまだだけどな?」
「いつか越えてやるわよ」
そう言って、紅美鈴はまた笑った。
「しかしアイツ、確かにケンカは強いけど、レミリアやフランと比べるとやっぱりなあ。格好も浮いてるし。何でアイツが門番なのか気になるぜ」
「私としては、どうしてあなたが当然のように人の図書館で寛いでるかをお訊ねしたいわね」
読み込んでいた魔道書を置いてふと呟いた魔理沙に、この広大な図書館の主であるパチュリー・ノーレッジは不機嫌げに答えた。長い髪の下、その視線は魔道書に落とされたままだ。
「だってアイツ、名前もお前等と違う響きだろ? 人間と普通に手合わせしてるし。この前なんか、霧の湖に迷い込んできた子供を、門番業そっちのけで里まで送ってってたぞ」
「一応、レミィに許可を取ってはいたわよ、子供の件は……」
「人間の咲夜より人間に対しては人当たりいいし――それに、何て言うか、やっぱり紅魔館(ここ)の門番にしては、インパクトに欠けるぜ。
さっきもケンカを見てきたが、強いけど地味だったぞ。スペルカードは綺麗だけどな」
「……あなたは、美鈴の、弾幕ごっこ以外での本気を見たことが無いのよ。私も一度だけしかない」
人の話を聞いていない魔理沙の問いに、煩わしげながら律儀に答えるパチュリー。その言葉に、魔理沙の好奇心が鎌首を擡げた。
「へぇ、そうなのか? どういうことしたら見せてくれたんだ、その本気ってやつ?」
パチュリーは自身の失言に顔を顰める。
「プライバシーって知ってる?」
「知ってるぜ。それはいいから聞かせてくれよ」
臆面も無く言い放つ魔理沙に、パチュリーは一度溜息をついて少し考えてから、「ま、いいでしょ」と話し始めた。
『回想:虹色の邂逅』
かつて、まだスペルカードルールが存在せず、紅魔館という屋敷が幻想郷の何処にも存在していなかった頃。
人間を襲うことを禁じられ、気概も牙も無くしていた妖怪たちの間に戦慄が走りぬけた。
外の世界から来た強大な妖怪、吸血鬼が、手当たり次第に力ある妖怪を叩きのめしては、その配下に加えていくという事件が起こったのである。
力の有無に関わらず妖怪たちの反応は様々で、人間のかわりの遊び相手と襲い掛かって返り討ちにあう者もいれば、逃げ隠れる者、吸血鬼に取り入ろうとする者、特に何もせず静観する者もいた。
但し、何れの道を選んだとしても、その吸血鬼と実際に出会えば結果は同じであった――すなわち、圧倒的力で叩きのめされ、その配下となっていったのだ。
妖怪は力を認めた相手には従順となる傾向が強いため、天狗や河童といった“山”で社会を気付いていた者たち以外は次々吸血鬼の傘下となることを承諾したのである。
そんな状況の中、妖怪の山に次いで大きな山に住まい、日々淡々と修行を繰り返している赤毛の妖怪がいた。
彼女は大陸から渡った後に幻想郷を訪れた妖怪であり、名を、美鈴と言った。
山の中腹、殺風景な岩場から見下ろす広大な森や低い山々の何処かでは今日も吸血鬼が蛮勇を奮っているのであろうが――美鈴は無関心であった。
彼女の求道的な精神は、他者との争いよりも己を高めることに向けられていたし、美鈴の力に対する他の妖怪の評価は「中の上」止まりであった。
事実、美鈴は大した妖力を持っていないし、妖術の類も使うことはなかった。詰まり、吸血鬼に狙われるほどの力を持っているとは思えなかったのである。
幻想郷の喧騒を余所に、淡々と起きては鍛錬を積み、眠る。永遠に繰り返されるそんな日々の、或る一日であった。
「御免あそばせ」
住処としている洞穴へ、一日の鍛錬を終え戻る美鈴の前に、一人の、まだ幼いと形容すべき少女が現れたのは。
小さく華奢な身体に、高貴さを印象付ける夜の蒼に似たブルネット。容姿格好こそ貴族のお嬢様を思わせる可憐な雰囲気だが、その背に広がる、蝙蝠の皮膜を思わせる巨大な翼。一目で尋常ならざる存在と解る。
しかし妖怪である美鈴が恐れる理由は無い。
「こんばんは。何の用?」
邪険な雰囲気ではなく、挨拶と静かな問いを返す美鈴に、幼子はころころと鈴の音を鳴らすような笑い声を上げた。
「あのね――あなたを、倒すべきだって、感じたのよ」
宣戦布告にしては、余りにも無邪気で、朗らかで、透明な声。
その言葉に、美鈴は理解した。
「あなたは――」
「初めまして、美鈴」
幼子は、スカートの端を摘むと、悪戯っぽく笑って礼をする。
「私は、レミリア・スカーレット。今、巷を騒がせている“吸血鬼”よ」
予想通りの返答。
美鈴には、彼女の笑みによって、月の光が紅みを増したように感じられた。
「……何故、私などの所に?」
沸いた疑問を、美鈴はそのまま口にしていた。
強者との戦いを好むと言われているレミリア・スカーレットが、何故、中途半端な自分の所へ来たのか、と。
「強い妖怪と戦いたいのであれば、此処などよりも太陽の花畑に住まう風見や、境界の妖怪の所へ向かうべきよ」
問いかけに、レミリアは一層笑みを深めた。
「私は美味しいものは取っておくタイプなの。それに……“見えた”のよ」
「“見えた”……?」
「そう。私は、戦ってあなたを家来にすべきだって。そういう運命が見えたの。私は運命が見えるのよ」
楽しげに告げるレミリア・スカーレットの言葉は、妖怪である美鈴にとってすら世迷言であったが――
確信に溢れたその声と、強者のみが持ち得る絶対的自信は、少なくとも無視させない強い力を感じさせた。
「さ、それじゃ、遊びましょうか」
「……断る、と言ったら」
「無理矢理襲い掛かる」
とっておきの悪戯を告げるような、満面の笑顔が月光に照らされる。
美鈴は、とうとう諦めの溜息を吐いた。
「満足させられるかは解らないわよ」
「いいお返事ね」
立ち会う他、無いようだと。
斯くして、相対する両者は正に対極。
片や、齢十にも満たぬように見える幼子。月を照り返す蒼にも似たブルネットの下には笑顔があり、構えすら取ってはいない。中天に気儘に掛かる紅き満月の佇まい。
片や、重心を高めに取り、猫足に構えた少女。闇の中燃えるような赤毛の下には、一転冴え冴えと澄んだ表情があり、夜の空気を取り込んだかのよう。
「本当に、ケンポーを使うのね。人間が、力の無い自分たちのために作ったモノなのに」
余裕綽々に声を発したのは勿論レミリアである。美鈴は答えずにじっと見つめている。
実際の所、レミリアは何故こうすべきなのか本当に解っていない。ただ、その運命が見えただけで。
ただ、今まで見えた運命が、彼女を楽しませなかった事は無かった。
大した妖力を持たず、それどころか妖怪でありながら弱者のように研鑽や鍛錬などにしがみつくこの中途半端な存在が、自分に何を見せてくれると言うのだろう?
それを考えると、心が躍るのである。
「さて、それじゃ行くわよ」
レミリアが動かずにいたのは、隙を探す等と言う瑣末なことのためではない。妖怪同士の戦いでは滅多にお目にかかれない「構え」なるものをじっくり見物するためだった。
十分に見つめ終わり、一歩を踏み出す。
5間(9メートル程度)はあった間合いが、その一歩で零になった。
吸血鬼ほど多種多様な能力と弱点を抱えた存在はいない。しかしその第一の能力を挙げるとするならば、身体能力に尽きる。
単純に迅く、単純に力が強い。
幻想郷に来てからの短い時間でレミリアが打ち負かしたつわものは両手の指に余るが、その中で一合以上戦えた者は片手の指にも足りない。
真っ向から飛び込み、真っ向から斬りつける。余りに単純なその攻撃を、誰も防げなかったのだ。
そして今回もまた、敵はレミリアの速度についてこれない。美鈴の視線は、一瞬前までレミリアがいた場所に注がれている。
落胆はあった。しかし爪を鈍らせるレミリアではない。
レミリアの右腕が閃いた。
トン。
勢いを付けるために一瞬引いた腕に軽い衝撃。
脚。
美鈴の爪先が、懐にもぐりこんだレミリアの肘に添えられていた。
単純なハンドスピードでは、圧倒的にレミリアが上回っていた筈だった。もとより、腕と脚では速度が違いすぎる。
加えて言えば、パワーでもレミリアは美鈴を圧倒していた。恐らく、美鈴と同じスペックの妖怪が二人いたとしても、レミリアを取り押さえることはできない。
だというのに。
その、ほんのささやかな加撃は、レミリアの腕の動きを封じた。丸で腕の力を抜く魔法か呪いでも掛けたように。
そして更なる衝撃。
美鈴は、自分の動きを「封じてから」、漸く視線を向けたのだ。
「何……?」
このレヴェルの妖怪に動きを止められた事は衝撃だったが、それに浸り機会を逃す吸血鬼ではない。
右が抑えられたとしても、左がある。相手の脚が戻るより速く、一撃で全てを打ち砕くべく、更なる力を込めて左腕を振るった。
途端、ぐるん、と視界が回転した。
レミリアの小さな体が、宙を舞っていた。
振るった左の手首が美鈴に掴まれている。防御されてしまったことが解った。しかし、如何なる術理で、美鈴が大した予備動作も無く自分の体を操作したのか全く解らない。
気付けば、レミリアは脚から地面に着地させられていた――美鈴に背を向ける形で。瞬間、かけられる体重。予想外につく予想外で、普段ならば支えられる筈の力を受け止めかね、レミリアは膝をついた。
背後の美鈴はレミリアの腕を捻り上げていた。振りほどこうとしても、びくともしない。
「ち――」
すかさずフリーになった右腕を振るう。
がしり。
不自然な体勢からの一撃は、いとも簡単に美鈴に掴みとめられ、左腕と絡められた。結果、美鈴はレミリアの背後を取り、片腕でレミリアの両腕を拘束することに成功している。
詰みの形。レミリアが一歩を踏み出してから、未だ数秒も経たぬ内の出来事である。
「勝負あり、では?」
美鈴の静かな問いが、耳に届いた。
「嘘だろ。美鈴が勝ってんじゃん!! へー、凄いな、アイツ。紅魔館の裏主人みたいなものじゃないか」
「……まだ終わりじゃないわ。黙って聞きなさい」
「……ウチのメイド長顔負けね。どんな手品?」
レミリアの、好奇心に満ちた声。
「種も仕掛けもありはしない。
妖怪が、自分の肉体を最適に使い、四肢を最適な経路で動せば、誰でもこの程度はできる。
妖怪が、あらゆる自体を想定し、肉体が記憶するまでに鍛錬を積めば、如何なる状況でも見ずに動くことなど容易なことよ」
「ふざけてるわね」
鍛錬すれば妖怪も力を増す。しかし、この領域に達するまでに、どれほど己に苦痛を強いたことか。
生来の強さに自負を持つ妖怪たちは、誰もしない、否、できないはしない。
それとも、「だから」なのか。
美鈴という、あまりに中途半端な存在だからこそ、苦行を我が身と同一化させ、力を得るまでに至ったのか――。
「――ふっ、」
「?」
「ふふっ、あはっ、あははははは!!」
レミリアの小さな口から漏れたのは、笑声。困惑する美鈴に、レミリアは倣岸に告げた。
「良いわね……認めてあげる。あなたは、本当に戦うに値する相手よ!」
告げるや、その身体が「ほどけた」。レミリアの肉体が数十数百の蝙蝠へと変化し、美鈴の拘束から逃れたのだ。
蝙蝠たちはばさばさと羽ばたき、美鈴の周囲を旋回しながら、その全てからレミリアの声を響かせた。
『あなたには、私の力を見せても惜しくはないわね』
数百が響きあい、一つの意志持つ言葉を作り上げる。
「吸血鬼……色々できるとは聞いていたけど」
対する美鈴は少し顔をゆがめた後、構えを変えた。
重心はやや後ろ。手を前に出し、五指を纏めて窄めた様は何処か蟷螂を思わせた。
『構え、ってのを変えたのね。楽しみよ。さあ、何を見せてくれるの?』
その声が合図になったように、数百の蝙蝠が、美鈴へと殺到する。肉食の蝙蝠には牙があり、一匹一匹の殺傷力は微少だが、この数になれば、さながら蝗の大群の如く骨以外を削り取る。
瞬く間に美鈴の周囲の空間は蝙蝠に埋め尽くされた。さながら巨大な黒塊である。キイキイと不吉な鳴き声が重なる様はおぞましさを感じさせる――この場にそれを感じられる他者はいなかったが。
その不吉なる黒魂に、突然、亀裂が入った。
同時に『パッ』という軽い破裂音が途切れることなく響き、連続して血飛沫が舞い散った。
美鈴の出血ではない。
蝙蝠が、次々に潰されていた。
しかし、美鈴の手が見えない――。
否。
それは、連打であった。
不可視せしめるほどの拳速が、蝙蝠を虐殺していたのだ。
美鈴の取った構え、及び手形は、高速の連撃を可能とするものであった。
人の身にても、極めれば一息十六連の加撃が可能であると言われる。
況や妖怪である美鈴をして、如何程の連撃が可能かは推して知るべし。
黒塊の中での美鈴の選択は通用せぬ防御を放棄、極限の連撃で、その全てを撃退することであった。
己が鍛錬の成果に、命運を託したのである。
キイ、キイ、キイ、キイ
パ、パパパッ、パパッ、パッ
窄められた手が稲妻よりも迅く迸り、精密正確に蝙蝠たちを殺戮していく。
無数の奇妙な拳打が走れば、無数の蝙蝠の中に、無数の死骸が転がる。
やがて蝙蝠の数が減ったことが目に見えて解るまでに黒塊が崩壊したところで、蝙蝠たちは美鈴から離れた。
露わになった少女は、全身を、その髪の色同様の朱に染めていた。其処に汗が混じり、息が心なし、荒い。されど、その瞳には静かな闘志が揺らぐことなく存在していた。
残った蝙蝠たちがやや距離を置いて一箇所に集まり、再びレミリアの姿を形作る。大量の蝙蝠を潰された故か、その左腕は半ばほどで切れていた。
レミリアは、紅い瞳で美鈴を見据えた。
「本当に凄いわね。此処までで降伏しなかったのは何人もいないのよ」
「光栄、ね」
喜悦の声に、満身創痍の身でありながら、未だ静かな笑みと共に声を返す美鈴。
レミリアは確信する。
この中途半端な妖怪は、確かに自分を満足させる存在だ。
レミリアは、この日で一番の笑顔を見せた。
「そう、光栄に思ってちょうだい。……私も、本気を出すから」
「うっわ、その台詞酷いな。まだ本気じゃなかったとか本気で酷いな。……酷いな! 本当に酷いぜ!」
「4回も言わなくていいわ。レミィは永遠に幼いのだから仕方ない。口を挟まないで聞いてなさい」
その瞬間、美鈴の全身の肌が粟立った。
レミリアの小さな体が、巨人もかくやと言うほどに大きくなったかのように錯覚する。
声と同時に膨れ上がったレミリアの魔力は、紅い光として視認できるほどである。
この紅い悪魔の力の前では、美鈴の妖気など微々たるもの。本質的に、自分より大きい。
「さあ、本番よ」
両手を広げるレミリアの周りに、深紅の魔法陣が幾つも展開する。眼球を模した紋様をあしらった魔法陣は、見るだけでその力の強大さ・禍々しさが伝わってくる。
もとより地力が違いすぎる上、負傷している美鈴が太刀打ちできる存在ではなかった。
「一応聞いておくわね。降伏は?」
しかし、
「しないわ」
美鈴は降伏を是としない。
「素晴らしいわよ、あなた」
レミリアの掌が美鈴に向けられ――。
「ああ、何て紅い夜――こんなにも楽しい夜!」
紅い、巨大すぎる魔力の塊が撃ち出された。最早、武によって克服できる領域など超越している。それは射撃などというものではない。
爆撃だった。
「これは……!」
美鈴の肢体が空間を跳ねた。その身が弾かれたように大きな距離を飛翔し、効果範囲から逃れる。
間一髪の距離。背後で炸裂音。振り向けば、今居た場所が完全に崩落していた。軽功を用いねば、己も巻き込まれていたのは間違いない。
「……っ」
「まだまだ、これから!」
魔法陣が美鈴へ向くや撃ち出したのは、差し込む月光をそのまま刃にしたかのような紅い魔力。先程の爆撃程効果範囲は大きく無いが、攻撃の数が大きすぎる。
だが、美鈴が見せたのは曲芸染みた身体操作。背後の壁面を使い、体重を忘れたかのように大きな跳躍――集中する紅き刃を、まとめて回避しつつ、そのままレミリアへと空中からの突撃を敢行する。飛翔の勢いをそのまま攻撃に転化し、蹴りを放つ。
「この距離なら!」
「忘れた?」
美鈴の必殺の蹴りは、空を切った。
狙い打った首筋が、存在していなかったのだ。
レミリアは、上半身だけを無数の蝙蝠と化していた。そしてその蝙蝠は、大技の後で動きが止まった美鈴の背後に集合し、再びレミリアの上半身を形作り。
美鈴が振り向いた時には、レミリアの右腕が掲げられていた。腕にびっしりとあの魔法陣が浮かび上がり、ばちばちと周囲の空間が魔力で歪んでいる――間違いなく、今までで最大の一撃。
「しまっ……」
「あなた、今までで一番楽しかったわよ。紅い魔法で――おやすみなさい」
かわすことのできない美鈴に紅い魔力が打ち込まれ、周囲の岩肌も大地も、何もかもが粉砕された。
「…………」
レミリアは、その光景を無言で見詰めている。
強大な魔力をぶちまけた、自分の「本気」の結果。
大地にはクレーターと見紛う粉砕痕が穿たれ、なけなしの木々は吹き飛び、最早地形が変わっている。
その中心部を見据えながら、やがて、口を開いた。
「やれやれねぇ……」
そこには、美鈴が、まだ、立っていた。
崩落した岩場の中、唯一人、屹立していた。
出血は更に大量になり、目が見えているかも怪しい。四肢は折れていないのが不思議なほどである。
だが、立っていた。両の脚はしっかりと身体を支えている。
「こっちに来てからは、初めてよ。これって、何て言う感覚だったかしら。
……ああそうだ。確か、“敬意”ね」
美鈴の妖気で、レミリアの魔力を受け止めることは不可能である。
通常は。
だが、妖気が肥大化せずとも、己が授かったその力を、徹底的に練り上げ、先鋭化し、両手に集中させ――
余りにも精妙無比な身体操作と併用することで――
美鈴は、不完全ながら、あの紅い魔力を受け流し、いなし、直撃を避けたのである。
完璧な肉体的技巧と、完璧な妖気の自己制御によってのみ奏でられる、常識を超えた絶技。
その全身からは、肉眼で目視できるほどに練り上げられた妖気が、虹色の光の形で立ち上っていた。特に両腕からは、眩いまでの極彩光が放たれている。
「“気を使う程度の能力”」
レミリアは呟く。
「確かにあなたは、妖気は大きくないし、速さも力も、最強には程遠い」
最早その表情は笑みではない。
「でもあなたは、完璧に己を制御しきっている。
肉体的な技術も、妖気の操作も。
私が出会ってきた中で――最も調和した、美しい力……」
「言葉は、いいから」
美鈴は笑った。静かに。深手も、己の絶技を成功させた陶酔もなく、ただ静かに。
「続けましょう。……私は、もう少し、戦える」
――美鈴の中にも、変化が生まれていた。
今まで、吾唯足の言葉どおり、ただ己を高めることだけで満足できていた自分。
それ以外のことに必要性など感じなかった自分。
しかし――この強大な吸血鬼との戦いの中で、血を吐くような鍛錬の中で身に付けた技を駆使した時。
美鈴は、今まで感じたこともない高揚を覚えたのだ。
自分がしてきたことは、どんな意味があったのだろう?
自分がしてきたことは、どれほどの成果を上げている?
戦えてる。
戦えてる。
本来、格の違う強大な力と、私は戦えている!!
「いいわ」
レミリアは頷いた。そして再び、笑う。敬意を以ての、透明な微笑。
展開していた魔法陣が一つを残して消え、レミリアの腕の中に収束していき、一振りの深紅の槍を形作った。
握る。
「単体に対してのものなら、私の最強の攻撃よ」
周囲にばちばちと紅い光が舞う。存在するだけで、周囲の弱小の生命ならば気死しかねない、呪詛で構築された殲滅槍。
レミリアは、背中が見える程の大きな動きで、その槍を振りかぶった。
「“スピア・ザ・グングニル”」
肘から先の無い左腕は、狙いを定めるように美鈴の心臓へと向いている。
「受けて立ちます」
美鈴の構えは、重心を上にしたもの。狙われている心臓を両腕がカバーできる形だが、あの槍の攻撃範囲が見た目通りでないことは理解していた。
あれは、一切合財薙ぎ払う、そういうタイプの力だ。
「幻想郷だとこういうとき、こう言うのでしょう? “いざ……”」
レミリアの問いかけに、美鈴も笑みを返した。ぎりぎりまで張り詰めていながら、心は自由だった。
「“尋常に……”?」
二人の声が、
「「“勝負”!!」」
唱和し、槍が放たれる。吸血鬼の身体能力を最大限に開放した投擲――全身から肩、肩から肘、肘から手、手から槍へと力が伝えられ、大砲のように撃ち出された。
対し、美鈴は、――飛び込んだ。向かい来る巨大な力の収束に対し、掌ではなく、左の手の甲に気を集中させ、槍の纏った呪力の障壁を貫通し、その“本体”の軌道を逸らすよう、手を添える。
魔力と妖気がぶつかるギャリギャリギャリギャリ、という音が空間を揺らすように響き渡り、あっという間に美鈴の左手は皮が剥がれ、紅い血が噴出すなり蒸発した。
だが。
「……覇ァッ!!」
美鈴の左腕が跳ね上げられる。極限まで練り上げられ、一点に集中した妖気を叩きつける。
バヂイィッ!!
空間に亀裂が入ったかのような爆音と共に、極彩の妖気が深紅の魔力を貫き、槍はあらぬ方向へと弾き飛ばされた。
美鈴の左腕はぐしゃぐしゃにひしゃげ、原形を止めていなかったが、その動きは止まらない。
右半身に妖気を移し変えて懐に飛び込む。
震脚。踏み込みによって発生する力のベクトルを攻撃力に転嫁。
足元が砕け散るが、委細構わず。
完全な自己コントロール。渾身の、全身全霊の力を、
全身から肩、肩から肘、肘から極彩の光を放つ掌へ伝え切り――
心臓めがけ、打ち込んだ。
レミリアは、投擲し終わったフォームのまま、その光景をスローモーションのように眺めていた。
これはとんだプレゼント。まさか、こんなことがあるなんて。
激闘と、敗北――余りにも予想外の。
予想外で“悔しい”
予想外で“楽しい”
一片に味わえることなんて、そうそう無いのだから――
見えた運命に誘われるように此処に来て、良かった。
ぽん
「え?」
レミリアは、軽い、本当に軽い衝撃に我に返った。
自分の心臓の位置に、美鈴の掌が確かに当てられている。
だがその手に力はなく、極彩の妖気も消え去っていた。
驚いて美鈴の顔を見上げる。
美鈴は、実力を全て出し切った者のみが浮かべる満足した表情のまま、気を失っていた。
はっと眼が醒めると同時に、飛び起きて臨戦態勢を取った。
「もう、終わったわよ。それともまだやる?」
聞こえたくすくす笑い。美鈴が向けた視線の先には、左腕を手首辺りまでは再生させたレミリアの姿があった。
月の傾き具合を見るに、時間は然程経っていない。実際、痛みが体中に押し寄せてきた。
それでも膝を付くことをよしとせずに立ちっぱなしの美鈴に、レミリアは歩み寄った。
「本当、幻想郷(ここ)でも一等の意地っ張りね」
「それが取り得なのよ」
笑い返す美鈴だが、レミリアに対する迎撃は無い。
完全に弛緩した空気に、今更ながら確信する。
(――ああ、負けたんだ……)
全力を出せたという清々しさと、敗北による悔しさが同時に沸き上がる。
届かなかった。今まで積み上げてきたもの全て使っても。
「ねえ」
レミリアの声に我に帰る。彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「どうだった? 戦いたくなかったみたいだったけど」
「――」
暫しのの沈黙の後、答える。
「たまには、力を使ってみるのも楽しいかも知れないわ」
「でしょう!」
レミリアは我が意を得たりと手を打ち合わせて喜ぶ。
「それじゃあ、戦う喜びに目覚めたあなたに、一つ命令よ。あなたは勝負に負けたんだから」
「解ってるわ。あなたの家来になるっていう約束でしょう」
「そうなんだけど、それだけじゃないわ。
あなたには、私の屋敷の門番になってもらう」
「門番? 屋敷?」
突然の命令に、美鈴は面食らった。
「吸血鬼に屋敷があるなんて聞いていないけど」
「今はまだね。『これから来る』のよ。今は準備中。私はその前に、此処を私の王国にしておくというわけ」
屋敷ごと外の世界からとはスケールの大きな話だ。
「その屋敷は、大事な大事な私の城よ。親友も一緒だしね。
ね。あなたには、其処を守って欲しいのよ。何があってもあなたは守ってくれそうだもの。
それに……誰かが来たら、思う存分戦えるわよ?」
レミリアは、あの槍を投擲した右手を差し出した。
美鈴は躊躇する。
“戦える”ということは、今の美鈴にとっては好条件となっていた。
吾唯足を知っていた筈の自分は、精神的に衰退してしまったのだろうか? だとしても、この思いは押さえ切れそうに無い。
この強烈な吸血鬼に呼び起こされてしまった、戦うことへの喜びは――。
「解った。……宜しくお願いします」
かくて、美鈴は吸血鬼の手を取った。レミリアは満面の笑みを浮かべる。
「交渉成立ね。それじゃ、あなたに、私の館の門番としての運命を授けるわ」
「運命を授ける?」
「新しい名前よ。運命には名前が必要だわ。私の屋敷、紅魔館に相応しい……」
言いながら、レミリアは美鈴の髪に目を留め、笑みを深めた。
「そうね。美鈴、という響きは綺麗だから残して、我が一族にあやかり『紅』の一字を加えましょう。
紅美鈴(ホン・メイリン)という名前――どう? 綺麗でしょう?」
子供のように上機嫌なレミリアに、思わず美鈴は笑みを返した。
「負けた私に、拒否権はありませんね」
「その通り」
二人は、あけすけに笑いあった。今までの戦いが嘘のように。
夜明けが、迫ろうとしていた。
帰り道。自分の半分ほどの上背しか無いレミリアにぱたぱたと支えて貰いながら、美鈴は一言呟いた。
「ねえ、どうして、幻想郷を支配しようなんて思うの? そういう運命が見えたから?」
「いいえ」
レミリアの即答。
「そうした方が面白いからに、決まってるじゃない!」
「そう……」
その返答に、美鈴――紅美鈴は、改めて確信する。
この吸血鬼は、我侭で乱暴だが、『大きい』。それは力だけではなく、存在が大きい。
まだまだ、自分が追いつくことは難しいようだ。
いいだろう。目標は高い方がいい。
いつか自分がこの吸血鬼を越えるまで。
この吸血鬼の居場所を守り続けることを、自らに課そう。
「……雇い主になるんだから、お嬢様、と呼んだほうが宜しいですか?」
「あら、いきなりだと気持ち悪いわ。でも悪い気分ではないかもしれない」
そう言って笑うレミリアの表情は、腑抜けた妖怪たちの中で淡々と過ごしてきた美鈴にとって、眩しかった。
この出会いは、どうも致命的に自分を変えてしまいそうなことに薄々気付きながら、美鈴はそれにすら期待する自分を、受け入れることにした――。
「こんな所。……美鈴が『門番』を任されているのは、伊達や酔狂ではないわ」
「……あのさ。美鈴、強すぎじゃないか?」
「弾幕ごっこじゃなく素手での手合わせなら」
パチュリーは呟く。
「そうでなければ、門番なんて任せない。本当に追い詰められた時、克己心などという、妖怪にとって不要なモノを持つ彼女は、スペックを再び越えてしまうかも知れない。私や咲夜とも五分以上かも知れないわ。
尤も根が素直で向上心旺盛だから、弾幕ごっこのルールに合わせて色々と研鑽するのも楽しいようよ。他者を無闇に傷つけるのが好きなわけでもないし」
そして付け足した。
「あなたに似ているかもね」
努力家でありながら努力していることを知られるのが嫌いな魔理沙は、何となくムッとして、意地悪な声を出す。
「成る程ねえ。……でも、弾幕ごっこばっかりだと、拳法とかも忘れちゃうんじゃないのか?」
その問いに、パチュリーは「それは無いわね」と静かに答えた。
「レミィと会って彼女は色々と変わったけれど、一つだけ変わっていないもの」
「?」
「武術というものに対する思い、よ」
「そんなに好きなのか?」
「どうしたんですか? 珍しいですね、パチュリー様が話し込まれるなんて」
と、扉を開けてやってきたのは紅美鈴本人だった。
「ご苦労様。休憩?」
「ええ。ありがとうございます。ちょっと様子を見に来てみました。また本をどっかの盗人が持っていかないか心配で」
「酷いぜ。私は死ぬまで借りてるだけだ。……あ、そうだ。なあ美鈴」
「何?」
「お前さ、武術のことはどのくらい好きなんだ?」
その問いかけに、美鈴はきょとんとした。今までの話を聞いていなかったのだから当然だが。
それから少し考え込んだ後――
「あなたや、パチュリー様が魔法に抱く思い程度には、強く思ってるわよ」
胸を張って、そう言った。
魔理沙はまじまじとその表情を見て、
「帰るぜ」
席を立った。
「どうしたの。唐突ね」
「いや、話聞いてたら、負けてらんないって思っただけだぜ」
にやりと笑い、勝手に図書館の本を数冊抱き、歩き出す。
「……どうしたんですか?」
魔理沙の背を見送りながら不思議そうに訪ねる美鈴に、パチュリーは珍しく悪戯めいた笑みで答えた。
「さあ。誰かさんに、触発でもされたのではない?」
美鈴は、首を傾げるばかりだったが、やがて
「そうですか」
と、清々しく笑った。丸で、虹のかかる青空のように。
数日後。
「ところでお前、その時幻想郷行ってなかったくせに何で其処まで詳しく話せたんだ?」
「私は親友よ。レミィに“目”を付けるくらい、いつだってしてるわ」
「……レミリアも難儀だな……」
3間(5メートル程度)の間合いを置いて対峙する両者は正に対極であった。
片や、長大な金属製の杖を正眼に構えた、六尺五寸の巨漢。
片や、徒手空拳にて極低に構えた、長い赤毛の拳法着の少女。
共通するのは、敵を前にした者特有の張り詰めた空気。
まごう事無き立会いである。
巨漢は鍛え上げられた肉体と堂に入った構えで、得物の握り方一つまで、熟練の使い手であることが伺える。
少女の構えは何処か奇矯な獣を思わせるものであったが、心得のある者が見れば、一毫たりとも隙の無いことが解ったであろう。
常識で言えば、上背で上回り得物を手にした男が圧倒的に有利。
しかし両者の表情を見比べれば、焦燥を押し隠し気を乱さぬよう努めているのは巨漢であり、少女の表情はいっそ涼しげですらあった。
見合ったのは十数秒。
巨躯が滑らかに前に出ると、震えるように動いた。大仰な予備動作は無く、最小限の動きで最大の結果を齎す練達の一撃。
下段への小さい薙ぎ。刃無き鉄杖とは言え、硬度・重量・技量による速度が重なれば、その破壊力は甚大。掠めるだけで骨まで響く。
更に下段は、人体にとって最も防御が困難な部位であると同時に、大地を踏みしめる力に関わり、破砕されれば戦いに大きな制限のつく弱点でもある。
つまり間合いの長い得物にとって、軽い下段は牽制であると同時に必殺の意味合いを持つのだ。
しかし鉄杖は空を切った。
あるべき場所に、少女の脚が無い。跳んだ、と気付いたのは、跳躍した少女が、「二歩目で、鉄杖を蹴った」時点であった。
鉄杖の戻りより速く飛び込んだ少女は両腕を男の首に絡め、蛇を思わせる滑らかさで背後を取った。
この時点で、絞めの体勢が完成している。
戦慄と共に男は悟る。鉄杖を捨て肘を打ち込む前に、頚部の血流を止められた己の意識が暗転するであろうことを。
「参った」
消沈ととも吐き出された敗北宣言。鎖のように巻きついていた腕がするりと解けた。
背後を振り向くと、少女は今しがたの立会いが嘘のように静かな笑みを浮かべている。
「「有難う御座いました」」
互いの声が響き、男は帰って行った。
その後姿が消えるまで眺めていると、
「へぇー……やっぱり人間相手だと強いんだな。美鈴」
横から、可憐なソプラノヴォイスが男言葉を吐き出した。
黒装束に白い肌。太陽のように輝く金髪。誇らしげに被った大きな三角帽がこれ以上無く「私は魔女だ!」と自己アピールしているその少女の名は、霧雨魔理沙という。
目前に聳える館、紅魔館を度々訪れる盗人にして魔法屋である。魔法の研究に行き詰って、気分転換を兼ね今夜も図書室を荒らそうとしたのだが、たまたま門番が人間に手合わせを申し込まれている所に出くわし、好奇心の赴くままに見物していたのだ。
「えー、そう? 普通よ」
美鈴(めいりん)、と呼ばれた少女――見た目は人間の少女だが、実際には妖怪であり、この紅魔館の門番その人である紅美鈴(ほん・めいりん)は、長い赤毛を揺らして朗らかに笑った。
「妖怪でもあんなワイヤーアクションしないぜ」
「お嬢様や咲夜さんなら楽勝よ?」
「吸血鬼やら時間止める奴やらと比べる方が間違ってるぜ。ま、弾幕ごっこはまだまだだけどな?」
「いつか越えてやるわよ」
そう言って、紅美鈴はまた笑った。
「しかしアイツ、確かにケンカは強いけど、レミリアやフランと比べるとやっぱりなあ。格好も浮いてるし。何でアイツが門番なのか気になるぜ」
「私としては、どうしてあなたが当然のように人の図書館で寛いでるかをお訊ねしたいわね」
読み込んでいた魔道書を置いてふと呟いた魔理沙に、この広大な図書館の主であるパチュリー・ノーレッジは不機嫌げに答えた。長い髪の下、その視線は魔道書に落とされたままだ。
「だってアイツ、名前もお前等と違う響きだろ? 人間と普通に手合わせしてるし。この前なんか、霧の湖に迷い込んできた子供を、門番業そっちのけで里まで送ってってたぞ」
「一応、レミィに許可を取ってはいたわよ、子供の件は……」
「人間の咲夜より人間に対しては人当たりいいし――それに、何て言うか、やっぱり紅魔館(ここ)の門番にしては、インパクトに欠けるぜ。
さっきもケンカを見てきたが、強いけど地味だったぞ。スペルカードは綺麗だけどな」
「……あなたは、美鈴の、弾幕ごっこ以外での本気を見たことが無いのよ。私も一度だけしかない」
人の話を聞いていない魔理沙の問いに、煩わしげながら律儀に答えるパチュリー。その言葉に、魔理沙の好奇心が鎌首を擡げた。
「へぇ、そうなのか? どういうことしたら見せてくれたんだ、その本気ってやつ?」
パチュリーは自身の失言に顔を顰める。
「プライバシーって知ってる?」
「知ってるぜ。それはいいから聞かせてくれよ」
臆面も無く言い放つ魔理沙に、パチュリーは一度溜息をついて少し考えてから、「ま、いいでしょ」と話し始めた。
『回想:虹色の邂逅』
かつて、まだスペルカードルールが存在せず、紅魔館という屋敷が幻想郷の何処にも存在していなかった頃。
人間を襲うことを禁じられ、気概も牙も無くしていた妖怪たちの間に戦慄が走りぬけた。
外の世界から来た強大な妖怪、吸血鬼が、手当たり次第に力ある妖怪を叩きのめしては、その配下に加えていくという事件が起こったのである。
力の有無に関わらず妖怪たちの反応は様々で、人間のかわりの遊び相手と襲い掛かって返り討ちにあう者もいれば、逃げ隠れる者、吸血鬼に取り入ろうとする者、特に何もせず静観する者もいた。
但し、何れの道を選んだとしても、その吸血鬼と実際に出会えば結果は同じであった――すなわち、圧倒的力で叩きのめされ、その配下となっていったのだ。
妖怪は力を認めた相手には従順となる傾向が強いため、天狗や河童といった“山”で社会を気付いていた者たち以外は次々吸血鬼の傘下となることを承諾したのである。
そんな状況の中、妖怪の山に次いで大きな山に住まい、日々淡々と修行を繰り返している赤毛の妖怪がいた。
彼女は大陸から渡った後に幻想郷を訪れた妖怪であり、名を、美鈴と言った。
山の中腹、殺風景な岩場から見下ろす広大な森や低い山々の何処かでは今日も吸血鬼が蛮勇を奮っているのであろうが――美鈴は無関心であった。
彼女の求道的な精神は、他者との争いよりも己を高めることに向けられていたし、美鈴の力に対する他の妖怪の評価は「中の上」止まりであった。
事実、美鈴は大した妖力を持っていないし、妖術の類も使うことはなかった。詰まり、吸血鬼に狙われるほどの力を持っているとは思えなかったのである。
幻想郷の喧騒を余所に、淡々と起きては鍛錬を積み、眠る。永遠に繰り返されるそんな日々の、或る一日であった。
「御免あそばせ」
住処としている洞穴へ、一日の鍛錬を終え戻る美鈴の前に、一人の、まだ幼いと形容すべき少女が現れたのは。
小さく華奢な身体に、高貴さを印象付ける夜の蒼に似たブルネット。容姿格好こそ貴族のお嬢様を思わせる可憐な雰囲気だが、その背に広がる、蝙蝠の皮膜を思わせる巨大な翼。一目で尋常ならざる存在と解る。
しかし妖怪である美鈴が恐れる理由は無い。
「こんばんは。何の用?」
邪険な雰囲気ではなく、挨拶と静かな問いを返す美鈴に、幼子はころころと鈴の音を鳴らすような笑い声を上げた。
「あのね――あなたを、倒すべきだって、感じたのよ」
宣戦布告にしては、余りにも無邪気で、朗らかで、透明な声。
その言葉に、美鈴は理解した。
「あなたは――」
「初めまして、美鈴」
幼子は、スカートの端を摘むと、悪戯っぽく笑って礼をする。
「私は、レミリア・スカーレット。今、巷を騒がせている“吸血鬼”よ」
予想通りの返答。
美鈴には、彼女の笑みによって、月の光が紅みを増したように感じられた。
「……何故、私などの所に?」
沸いた疑問を、美鈴はそのまま口にしていた。
強者との戦いを好むと言われているレミリア・スカーレットが、何故、中途半端な自分の所へ来たのか、と。
「強い妖怪と戦いたいのであれば、此処などよりも太陽の花畑に住まう風見や、境界の妖怪の所へ向かうべきよ」
問いかけに、レミリアは一層笑みを深めた。
「私は美味しいものは取っておくタイプなの。それに……“見えた”のよ」
「“見えた”……?」
「そう。私は、戦ってあなたを家来にすべきだって。そういう運命が見えたの。私は運命が見えるのよ」
楽しげに告げるレミリア・スカーレットの言葉は、妖怪である美鈴にとってすら世迷言であったが――
確信に溢れたその声と、強者のみが持ち得る絶対的自信は、少なくとも無視させない強い力を感じさせた。
「さ、それじゃ、遊びましょうか」
「……断る、と言ったら」
「無理矢理襲い掛かる」
とっておきの悪戯を告げるような、満面の笑顔が月光に照らされる。
美鈴は、とうとう諦めの溜息を吐いた。
「満足させられるかは解らないわよ」
「いいお返事ね」
立ち会う他、無いようだと。
斯くして、相対する両者は正に対極。
片や、齢十にも満たぬように見える幼子。月を照り返す蒼にも似たブルネットの下には笑顔があり、構えすら取ってはいない。中天に気儘に掛かる紅き満月の佇まい。
片や、重心を高めに取り、猫足に構えた少女。闇の中燃えるような赤毛の下には、一転冴え冴えと澄んだ表情があり、夜の空気を取り込んだかのよう。
「本当に、ケンポーを使うのね。人間が、力の無い自分たちのために作ったモノなのに」
余裕綽々に声を発したのは勿論レミリアである。美鈴は答えずにじっと見つめている。
実際の所、レミリアは何故こうすべきなのか本当に解っていない。ただ、その運命が見えただけで。
ただ、今まで見えた運命が、彼女を楽しませなかった事は無かった。
大した妖力を持たず、それどころか妖怪でありながら弱者のように研鑽や鍛錬などにしがみつくこの中途半端な存在が、自分に何を見せてくれると言うのだろう?
それを考えると、心が躍るのである。
「さて、それじゃ行くわよ」
レミリアが動かずにいたのは、隙を探す等と言う瑣末なことのためではない。妖怪同士の戦いでは滅多にお目にかかれない「構え」なるものをじっくり見物するためだった。
十分に見つめ終わり、一歩を踏み出す。
5間(9メートル程度)はあった間合いが、その一歩で零になった。
吸血鬼ほど多種多様な能力と弱点を抱えた存在はいない。しかしその第一の能力を挙げるとするならば、身体能力に尽きる。
単純に迅く、単純に力が強い。
幻想郷に来てからの短い時間でレミリアが打ち負かしたつわものは両手の指に余るが、その中で一合以上戦えた者は片手の指にも足りない。
真っ向から飛び込み、真っ向から斬りつける。余りに単純なその攻撃を、誰も防げなかったのだ。
そして今回もまた、敵はレミリアの速度についてこれない。美鈴の視線は、一瞬前までレミリアがいた場所に注がれている。
落胆はあった。しかし爪を鈍らせるレミリアではない。
レミリアの右腕が閃いた。
トン。
勢いを付けるために一瞬引いた腕に軽い衝撃。
脚。
美鈴の爪先が、懐にもぐりこんだレミリアの肘に添えられていた。
単純なハンドスピードでは、圧倒的にレミリアが上回っていた筈だった。もとより、腕と脚では速度が違いすぎる。
加えて言えば、パワーでもレミリアは美鈴を圧倒していた。恐らく、美鈴と同じスペックの妖怪が二人いたとしても、レミリアを取り押さえることはできない。
だというのに。
その、ほんのささやかな加撃は、レミリアの腕の動きを封じた。丸で腕の力を抜く魔法か呪いでも掛けたように。
そして更なる衝撃。
美鈴は、自分の動きを「封じてから」、漸く視線を向けたのだ。
「何……?」
このレヴェルの妖怪に動きを止められた事は衝撃だったが、それに浸り機会を逃す吸血鬼ではない。
右が抑えられたとしても、左がある。相手の脚が戻るより速く、一撃で全てを打ち砕くべく、更なる力を込めて左腕を振るった。
途端、ぐるん、と視界が回転した。
レミリアの小さな体が、宙を舞っていた。
振るった左の手首が美鈴に掴まれている。防御されてしまったことが解った。しかし、如何なる術理で、美鈴が大した予備動作も無く自分の体を操作したのか全く解らない。
気付けば、レミリアは脚から地面に着地させられていた――美鈴に背を向ける形で。瞬間、かけられる体重。予想外につく予想外で、普段ならば支えられる筈の力を受け止めかね、レミリアは膝をついた。
背後の美鈴はレミリアの腕を捻り上げていた。振りほどこうとしても、びくともしない。
「ち――」
すかさずフリーになった右腕を振るう。
がしり。
不自然な体勢からの一撃は、いとも簡単に美鈴に掴みとめられ、左腕と絡められた。結果、美鈴はレミリアの背後を取り、片腕でレミリアの両腕を拘束することに成功している。
詰みの形。レミリアが一歩を踏み出してから、未だ数秒も経たぬ内の出来事である。
「勝負あり、では?」
美鈴の静かな問いが、耳に届いた。
「嘘だろ。美鈴が勝ってんじゃん!! へー、凄いな、アイツ。紅魔館の裏主人みたいなものじゃないか」
「……まだ終わりじゃないわ。黙って聞きなさい」
「……ウチのメイド長顔負けね。どんな手品?」
レミリアの、好奇心に満ちた声。
「種も仕掛けもありはしない。
妖怪が、自分の肉体を最適に使い、四肢を最適な経路で動せば、誰でもこの程度はできる。
妖怪が、あらゆる自体を想定し、肉体が記憶するまでに鍛錬を積めば、如何なる状況でも見ずに動くことなど容易なことよ」
「ふざけてるわね」
鍛錬すれば妖怪も力を増す。しかし、この領域に達するまでに、どれほど己に苦痛を強いたことか。
生来の強さに自負を持つ妖怪たちは、誰もしない、否、できないはしない。
それとも、「だから」なのか。
美鈴という、あまりに中途半端な存在だからこそ、苦行を我が身と同一化させ、力を得るまでに至ったのか――。
「――ふっ、」
「?」
「ふふっ、あはっ、あははははは!!」
レミリアの小さな口から漏れたのは、笑声。困惑する美鈴に、レミリアは倣岸に告げた。
「良いわね……認めてあげる。あなたは、本当に戦うに値する相手よ!」
告げるや、その身体が「ほどけた」。レミリアの肉体が数十数百の蝙蝠へと変化し、美鈴の拘束から逃れたのだ。
蝙蝠たちはばさばさと羽ばたき、美鈴の周囲を旋回しながら、その全てからレミリアの声を響かせた。
『あなたには、私の力を見せても惜しくはないわね』
数百が響きあい、一つの意志持つ言葉を作り上げる。
「吸血鬼……色々できるとは聞いていたけど」
対する美鈴は少し顔をゆがめた後、構えを変えた。
重心はやや後ろ。手を前に出し、五指を纏めて窄めた様は何処か蟷螂を思わせた。
『構え、ってのを変えたのね。楽しみよ。さあ、何を見せてくれるの?』
その声が合図になったように、数百の蝙蝠が、美鈴へと殺到する。肉食の蝙蝠には牙があり、一匹一匹の殺傷力は微少だが、この数になれば、さながら蝗の大群の如く骨以外を削り取る。
瞬く間に美鈴の周囲の空間は蝙蝠に埋め尽くされた。さながら巨大な黒塊である。キイキイと不吉な鳴き声が重なる様はおぞましさを感じさせる――この場にそれを感じられる他者はいなかったが。
その不吉なる黒魂に、突然、亀裂が入った。
同時に『パッ』という軽い破裂音が途切れることなく響き、連続して血飛沫が舞い散った。
美鈴の出血ではない。
蝙蝠が、次々に潰されていた。
しかし、美鈴の手が見えない――。
否。
それは、連打であった。
不可視せしめるほどの拳速が、蝙蝠を虐殺していたのだ。
美鈴の取った構え、及び手形は、高速の連撃を可能とするものであった。
人の身にても、極めれば一息十六連の加撃が可能であると言われる。
況や妖怪である美鈴をして、如何程の連撃が可能かは推して知るべし。
黒塊の中での美鈴の選択は通用せぬ防御を放棄、極限の連撃で、その全てを撃退することであった。
己が鍛錬の成果に、命運を託したのである。
キイ、キイ、キイ、キイ
パ、パパパッ、パパッ、パッ
窄められた手が稲妻よりも迅く迸り、精密正確に蝙蝠たちを殺戮していく。
無数の奇妙な拳打が走れば、無数の蝙蝠の中に、無数の死骸が転がる。
やがて蝙蝠の数が減ったことが目に見えて解るまでに黒塊が崩壊したところで、蝙蝠たちは美鈴から離れた。
露わになった少女は、全身を、その髪の色同様の朱に染めていた。其処に汗が混じり、息が心なし、荒い。されど、その瞳には静かな闘志が揺らぐことなく存在していた。
残った蝙蝠たちがやや距離を置いて一箇所に集まり、再びレミリアの姿を形作る。大量の蝙蝠を潰された故か、その左腕は半ばほどで切れていた。
レミリアは、紅い瞳で美鈴を見据えた。
「本当に凄いわね。此処までで降伏しなかったのは何人もいないのよ」
「光栄、ね」
喜悦の声に、満身創痍の身でありながら、未だ静かな笑みと共に声を返す美鈴。
レミリアは確信する。
この中途半端な妖怪は、確かに自分を満足させる存在だ。
レミリアは、この日で一番の笑顔を見せた。
「そう、光栄に思ってちょうだい。……私も、本気を出すから」
「うっわ、その台詞酷いな。まだ本気じゃなかったとか本気で酷いな。……酷いな! 本当に酷いぜ!」
「4回も言わなくていいわ。レミィは永遠に幼いのだから仕方ない。口を挟まないで聞いてなさい」
その瞬間、美鈴の全身の肌が粟立った。
レミリアの小さな体が、巨人もかくやと言うほどに大きくなったかのように錯覚する。
声と同時に膨れ上がったレミリアの魔力は、紅い光として視認できるほどである。
この紅い悪魔の力の前では、美鈴の妖気など微々たるもの。本質的に、自分より大きい。
「さあ、本番よ」
両手を広げるレミリアの周りに、深紅の魔法陣が幾つも展開する。眼球を模した紋様をあしらった魔法陣は、見るだけでその力の強大さ・禍々しさが伝わってくる。
もとより地力が違いすぎる上、負傷している美鈴が太刀打ちできる存在ではなかった。
「一応聞いておくわね。降伏は?」
しかし、
「しないわ」
美鈴は降伏を是としない。
「素晴らしいわよ、あなた」
レミリアの掌が美鈴に向けられ――。
「ああ、何て紅い夜――こんなにも楽しい夜!」
紅い、巨大すぎる魔力の塊が撃ち出された。最早、武によって克服できる領域など超越している。それは射撃などというものではない。
爆撃だった。
「これは……!」
美鈴の肢体が空間を跳ねた。その身が弾かれたように大きな距離を飛翔し、効果範囲から逃れる。
間一髪の距離。背後で炸裂音。振り向けば、今居た場所が完全に崩落していた。軽功を用いねば、己も巻き込まれていたのは間違いない。
「……っ」
「まだまだ、これから!」
魔法陣が美鈴へ向くや撃ち出したのは、差し込む月光をそのまま刃にしたかのような紅い魔力。先程の爆撃程効果範囲は大きく無いが、攻撃の数が大きすぎる。
だが、美鈴が見せたのは曲芸染みた身体操作。背後の壁面を使い、体重を忘れたかのように大きな跳躍――集中する紅き刃を、まとめて回避しつつ、そのままレミリアへと空中からの突撃を敢行する。飛翔の勢いをそのまま攻撃に転化し、蹴りを放つ。
「この距離なら!」
「忘れた?」
美鈴の必殺の蹴りは、空を切った。
狙い打った首筋が、存在していなかったのだ。
レミリアは、上半身だけを無数の蝙蝠と化していた。そしてその蝙蝠は、大技の後で動きが止まった美鈴の背後に集合し、再びレミリアの上半身を形作り。
美鈴が振り向いた時には、レミリアの右腕が掲げられていた。腕にびっしりとあの魔法陣が浮かび上がり、ばちばちと周囲の空間が魔力で歪んでいる――間違いなく、今までで最大の一撃。
「しまっ……」
「あなた、今までで一番楽しかったわよ。紅い魔法で――おやすみなさい」
かわすことのできない美鈴に紅い魔力が打ち込まれ、周囲の岩肌も大地も、何もかもが粉砕された。
「…………」
レミリアは、その光景を無言で見詰めている。
強大な魔力をぶちまけた、自分の「本気」の結果。
大地にはクレーターと見紛う粉砕痕が穿たれ、なけなしの木々は吹き飛び、最早地形が変わっている。
その中心部を見据えながら、やがて、口を開いた。
「やれやれねぇ……」
そこには、美鈴が、まだ、立っていた。
崩落した岩場の中、唯一人、屹立していた。
出血は更に大量になり、目が見えているかも怪しい。四肢は折れていないのが不思議なほどである。
だが、立っていた。両の脚はしっかりと身体を支えている。
「こっちに来てからは、初めてよ。これって、何て言う感覚だったかしら。
……ああそうだ。確か、“敬意”ね」
美鈴の妖気で、レミリアの魔力を受け止めることは不可能である。
通常は。
だが、妖気が肥大化せずとも、己が授かったその力を、徹底的に練り上げ、先鋭化し、両手に集中させ――
余りにも精妙無比な身体操作と併用することで――
美鈴は、不完全ながら、あの紅い魔力を受け流し、いなし、直撃を避けたのである。
完璧な肉体的技巧と、完璧な妖気の自己制御によってのみ奏でられる、常識を超えた絶技。
その全身からは、肉眼で目視できるほどに練り上げられた妖気が、虹色の光の形で立ち上っていた。特に両腕からは、眩いまでの極彩光が放たれている。
「“気を使う程度の能力”」
レミリアは呟く。
「確かにあなたは、妖気は大きくないし、速さも力も、最強には程遠い」
最早その表情は笑みではない。
「でもあなたは、完璧に己を制御しきっている。
肉体的な技術も、妖気の操作も。
私が出会ってきた中で――最も調和した、美しい力……」
「言葉は、いいから」
美鈴は笑った。静かに。深手も、己の絶技を成功させた陶酔もなく、ただ静かに。
「続けましょう。……私は、もう少し、戦える」
――美鈴の中にも、変化が生まれていた。
今まで、吾唯足の言葉どおり、ただ己を高めることだけで満足できていた自分。
それ以外のことに必要性など感じなかった自分。
しかし――この強大な吸血鬼との戦いの中で、血を吐くような鍛錬の中で身に付けた技を駆使した時。
美鈴は、今まで感じたこともない高揚を覚えたのだ。
自分がしてきたことは、どんな意味があったのだろう?
自分がしてきたことは、どれほどの成果を上げている?
戦えてる。
戦えてる。
本来、格の違う強大な力と、私は戦えている!!
「いいわ」
レミリアは頷いた。そして再び、笑う。敬意を以ての、透明な微笑。
展開していた魔法陣が一つを残して消え、レミリアの腕の中に収束していき、一振りの深紅の槍を形作った。
握る。
「単体に対してのものなら、私の最強の攻撃よ」
周囲にばちばちと紅い光が舞う。存在するだけで、周囲の弱小の生命ならば気死しかねない、呪詛で構築された殲滅槍。
レミリアは、背中が見える程の大きな動きで、その槍を振りかぶった。
「“スピア・ザ・グングニル”」
肘から先の無い左腕は、狙いを定めるように美鈴の心臓へと向いている。
「受けて立ちます」
美鈴の構えは、重心を上にしたもの。狙われている心臓を両腕がカバーできる形だが、あの槍の攻撃範囲が見た目通りでないことは理解していた。
あれは、一切合財薙ぎ払う、そういうタイプの力だ。
「幻想郷だとこういうとき、こう言うのでしょう? “いざ……”」
レミリアの問いかけに、美鈴も笑みを返した。ぎりぎりまで張り詰めていながら、心は自由だった。
「“尋常に……”?」
二人の声が、
「「“勝負”!!」」
唱和し、槍が放たれる。吸血鬼の身体能力を最大限に開放した投擲――全身から肩、肩から肘、肘から手、手から槍へと力が伝えられ、大砲のように撃ち出された。
対し、美鈴は、――飛び込んだ。向かい来る巨大な力の収束に対し、掌ではなく、左の手の甲に気を集中させ、槍の纏った呪力の障壁を貫通し、その“本体”の軌道を逸らすよう、手を添える。
魔力と妖気がぶつかるギャリギャリギャリギャリ、という音が空間を揺らすように響き渡り、あっという間に美鈴の左手は皮が剥がれ、紅い血が噴出すなり蒸発した。
だが。
「……覇ァッ!!」
美鈴の左腕が跳ね上げられる。極限まで練り上げられ、一点に集中した妖気を叩きつける。
バヂイィッ!!
空間に亀裂が入ったかのような爆音と共に、極彩の妖気が深紅の魔力を貫き、槍はあらぬ方向へと弾き飛ばされた。
美鈴の左腕はぐしゃぐしゃにひしゃげ、原形を止めていなかったが、その動きは止まらない。
右半身に妖気を移し変えて懐に飛び込む。
震脚。踏み込みによって発生する力のベクトルを攻撃力に転嫁。
足元が砕け散るが、委細構わず。
完全な自己コントロール。渾身の、全身全霊の力を、
全身から肩、肩から肘、肘から極彩の光を放つ掌へ伝え切り――
心臓めがけ、打ち込んだ。
レミリアは、投擲し終わったフォームのまま、その光景をスローモーションのように眺めていた。
これはとんだプレゼント。まさか、こんなことがあるなんて。
激闘と、敗北――余りにも予想外の。
予想外で“悔しい”
予想外で“楽しい”
一片に味わえることなんて、そうそう無いのだから――
見えた運命に誘われるように此処に来て、良かった。
ぽん
「え?」
レミリアは、軽い、本当に軽い衝撃に我に返った。
自分の心臓の位置に、美鈴の掌が確かに当てられている。
だがその手に力はなく、極彩の妖気も消え去っていた。
驚いて美鈴の顔を見上げる。
美鈴は、実力を全て出し切った者のみが浮かべる満足した表情のまま、気を失っていた。
はっと眼が醒めると同時に、飛び起きて臨戦態勢を取った。
「もう、終わったわよ。それともまだやる?」
聞こえたくすくす笑い。美鈴が向けた視線の先には、左腕を手首辺りまでは再生させたレミリアの姿があった。
月の傾き具合を見るに、時間は然程経っていない。実際、痛みが体中に押し寄せてきた。
それでも膝を付くことをよしとせずに立ちっぱなしの美鈴に、レミリアは歩み寄った。
「本当、幻想郷(ここ)でも一等の意地っ張りね」
「それが取り得なのよ」
笑い返す美鈴だが、レミリアに対する迎撃は無い。
完全に弛緩した空気に、今更ながら確信する。
(――ああ、負けたんだ……)
全力を出せたという清々しさと、敗北による悔しさが同時に沸き上がる。
届かなかった。今まで積み上げてきたもの全て使っても。
「ねえ」
レミリアの声に我に帰る。彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「どうだった? 戦いたくなかったみたいだったけど」
「――」
暫しのの沈黙の後、答える。
「たまには、力を使ってみるのも楽しいかも知れないわ」
「でしょう!」
レミリアは我が意を得たりと手を打ち合わせて喜ぶ。
「それじゃあ、戦う喜びに目覚めたあなたに、一つ命令よ。あなたは勝負に負けたんだから」
「解ってるわ。あなたの家来になるっていう約束でしょう」
「そうなんだけど、それだけじゃないわ。
あなたには、私の屋敷の門番になってもらう」
「門番? 屋敷?」
突然の命令に、美鈴は面食らった。
「吸血鬼に屋敷があるなんて聞いていないけど」
「今はまだね。『これから来る』のよ。今は準備中。私はその前に、此処を私の王国にしておくというわけ」
屋敷ごと外の世界からとはスケールの大きな話だ。
「その屋敷は、大事な大事な私の城よ。親友も一緒だしね。
ね。あなたには、其処を守って欲しいのよ。何があってもあなたは守ってくれそうだもの。
それに……誰かが来たら、思う存分戦えるわよ?」
レミリアは、あの槍を投擲した右手を差し出した。
美鈴は躊躇する。
“戦える”ということは、今の美鈴にとっては好条件となっていた。
吾唯足を知っていた筈の自分は、精神的に衰退してしまったのだろうか? だとしても、この思いは押さえ切れそうに無い。
この強烈な吸血鬼に呼び起こされてしまった、戦うことへの喜びは――。
「解った。……宜しくお願いします」
かくて、美鈴は吸血鬼の手を取った。レミリアは満面の笑みを浮かべる。
「交渉成立ね。それじゃ、あなたに、私の館の門番としての運命を授けるわ」
「運命を授ける?」
「新しい名前よ。運命には名前が必要だわ。私の屋敷、紅魔館に相応しい……」
言いながら、レミリアは美鈴の髪に目を留め、笑みを深めた。
「そうね。美鈴、という響きは綺麗だから残して、我が一族にあやかり『紅』の一字を加えましょう。
紅美鈴(ホン・メイリン)という名前――どう? 綺麗でしょう?」
子供のように上機嫌なレミリアに、思わず美鈴は笑みを返した。
「負けた私に、拒否権はありませんね」
「その通り」
二人は、あけすけに笑いあった。今までの戦いが嘘のように。
夜明けが、迫ろうとしていた。
帰り道。自分の半分ほどの上背しか無いレミリアにぱたぱたと支えて貰いながら、美鈴は一言呟いた。
「ねえ、どうして、幻想郷を支配しようなんて思うの? そういう運命が見えたから?」
「いいえ」
レミリアの即答。
「そうした方が面白いからに、決まってるじゃない!」
「そう……」
その返答に、美鈴――紅美鈴は、改めて確信する。
この吸血鬼は、我侭で乱暴だが、『大きい』。それは力だけではなく、存在が大きい。
まだまだ、自分が追いつくことは難しいようだ。
いいだろう。目標は高い方がいい。
いつか自分がこの吸血鬼を越えるまで。
この吸血鬼の居場所を守り続けることを、自らに課そう。
「……雇い主になるんだから、お嬢様、と呼んだほうが宜しいですか?」
「あら、いきなりだと気持ち悪いわ。でも悪い気分ではないかもしれない」
そう言って笑うレミリアの表情は、腑抜けた妖怪たちの中で淡々と過ごしてきた美鈴にとって、眩しかった。
この出会いは、どうも致命的に自分を変えてしまいそうなことに薄々気付きながら、美鈴はそれにすら期待する自分を、受け入れることにした――。
「こんな所。……美鈴が『門番』を任されているのは、伊達や酔狂ではないわ」
「……あのさ。美鈴、強すぎじゃないか?」
「弾幕ごっこじゃなく素手での手合わせなら」
パチュリーは呟く。
「そうでなければ、門番なんて任せない。本当に追い詰められた時、克己心などという、妖怪にとって不要なモノを持つ彼女は、スペックを再び越えてしまうかも知れない。私や咲夜とも五分以上かも知れないわ。
尤も根が素直で向上心旺盛だから、弾幕ごっこのルールに合わせて色々と研鑽するのも楽しいようよ。他者を無闇に傷つけるのが好きなわけでもないし」
そして付け足した。
「あなたに似ているかもね」
努力家でありながら努力していることを知られるのが嫌いな魔理沙は、何となくムッとして、意地悪な声を出す。
「成る程ねえ。……でも、弾幕ごっこばっかりだと、拳法とかも忘れちゃうんじゃないのか?」
その問いに、パチュリーは「それは無いわね」と静かに答えた。
「レミィと会って彼女は色々と変わったけれど、一つだけ変わっていないもの」
「?」
「武術というものに対する思い、よ」
「そんなに好きなのか?」
「どうしたんですか? 珍しいですね、パチュリー様が話し込まれるなんて」
と、扉を開けてやってきたのは紅美鈴本人だった。
「ご苦労様。休憩?」
「ええ。ありがとうございます。ちょっと様子を見に来てみました。また本をどっかの盗人が持っていかないか心配で」
「酷いぜ。私は死ぬまで借りてるだけだ。……あ、そうだ。なあ美鈴」
「何?」
「お前さ、武術のことはどのくらい好きなんだ?」
その問いかけに、美鈴はきょとんとした。今までの話を聞いていなかったのだから当然だが。
それから少し考え込んだ後――
「あなたや、パチュリー様が魔法に抱く思い程度には、強く思ってるわよ」
胸を張って、そう言った。
魔理沙はまじまじとその表情を見て、
「帰るぜ」
席を立った。
「どうしたの。唐突ね」
「いや、話聞いてたら、負けてらんないって思っただけだぜ」
にやりと笑い、勝手に図書館の本を数冊抱き、歩き出す。
「……どうしたんですか?」
魔理沙の背を見送りながら不思議そうに訪ねる美鈴に、パチュリーは珍しく悪戯めいた笑みで答えた。
「さあ。誰かさんに、触発でもされたのではない?」
美鈴は、首を傾げるばかりだったが、やがて
「そうですか」
と、清々しく笑った。丸で、虹のかかる青空のように。
数日後。
「ところでお前、その時幻想郷行ってなかったくせに何で其処まで詳しく話せたんだ?」
「私は親友よ。レミィに“目”を付けるくらい、いつだってしてるわ」
「……レミリアも難儀だな……」
私も美鈴は「かっこいい」イメージです。
レミリアとの戦闘シーンや美鈴の鍛錬している光景が目に浮かぶようでした。
もう本当に最高でした!
素手での戦闘なら、決してお嬢様にも引けを取らない、だけど、普段は大らかにまったりと過ごしてるみたいな。
にしても、その豊富な語彙力には尊敬します。
ネタとしてはありきたり、だがそれが良い。
かっこいい美鈴が好きな自分としては楽しく読ませていただきました。
有意義な時間を提供していただいた作者にthanks
特筆すべきは戦闘シーンです。しっかりまとめられていて、製作者のみ理解出来ていて読者に伝わってこない、いわゆる置いて行かれる様な部分が無かったのは非常に感心させられました。情景がとても良く想像できました。
かっこいい美鈴素敵でした。
ありがとうございました。