※ことによると15禁くらいの内容かもしれません。
荒い息遣いだけが響いていた。
沈みかかる夕陽が、障子越しに居間を紅く染め尽くしていた。
居間には二人。
巫女は畳に横たわり、眠っているのか微動だにしない。
紅い悪魔はその傍らに手を突き、触れそうな距離から巫女をじっと見下ろしている。
息遣いは、悪魔のものだった。
悪魔の視線の先。
巫女の襟を結んでいた向日葵色のスカーフは解かれ、服の胸元は大きく広げられていた。
その露わになった領域、巫女の首から心臓に至る線上に、どろりと溜まるモノがある。
鮮やかに紅く。
艶めいて昏く。
巫女の胸が安らかに上下するごとに液体はじりじりとその縄張を広げ、白い柔肌を己の色で侵食していく。
息遣いは、悪魔のものだった。
霊夢の血。
私の、霊夢の、血。
悪魔の少女は心の中でそう繰り返しながら、目の前の紅い泉から立ち昇る香気を胸いっぱいに満たす。
恍惚の表情で、悪魔は顎を開いた。
灼熱の吐息が漏れ、ぬらりと光る牙が剥かれ、まるで血そのもののように紅い舌が踊り出る。
落ちかかる髪を片手で押さえながら、悪魔はその舌先をそろりと降ろし、
心の中ではなおも愛しいその名を、
――霊夢。
甘い香気が、
――れいむ。
いただきまー
「なにやってんのよあんたはっ!!」
「――すわぁっ!?」
◇
ぱたぱた。
ぱたぱたぱた。
「ああん、霊夢の血がー」
「ちがーじゃなーいっ!」
顔と翼以外の全身をびっしりとお札で拘束されたレミリアが、部屋の隅っこで情けない声を上げている。
霊夢はそれに針のような剣幕を返しながら、胸元の紅い液体を手ぬぐいで慎重に拭き取っている。
液体のぬぐわれたその下、乙女の肌には――傷ひとつ無い。
「……よし、と。服に付いたりしてないわね」
「そんなことしなくても、あのまま寝てれば私が綺麗にしてあげたのに……」
「お断りよっ。ああもう、なんなのこれ?」
べったりと不吉な色に染まった手ぬぐいに、霊夢は顔を近づける。
品のいい、甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった。
「……ジャム? というか、ソース?」
「ええ、そうよ。材料はブラックベリーとラズベリー、それにブラッドオレンジが少々。って咲夜が言ってた」
ぱたぱた。
澄ました声でレミリアが答える。
直立不動の姿勢で無数のお札に固められ、手も足も出ずに翼だけ動かしているその姿は、なにやら新種のミノムシ妖怪のようにも見える。蓑村葉子とかそんな名前の。
「それ、最近のお気に入りなの」
「色も質感もまるっきり血じゃない。気持ち悪いなあ」
「だって、私がそう命じて作らせたんだもの。咲夜も結構苦心したみたいよ」
「こんな物のために従者を苦心させるな」
見れば、傍らの卓袱台の上には霊夢が置いた覚えのないガラス瓶があった。
まだ八割がた残っているその中身が、咲夜苦心の作とやらなのだろう。
節度ある訪問者というものに恵まれない我が身を思い、巫女は長い溜息をついた。
「まったく、人がお昼寝してる時に悪趣味なもの垂らしてくれちゃって……」
「日が落ちるまで惰眠を貪るのを昼寝と称するのは、どうかと思うけど」
「放っといて」
「そのソース、人間には見てくれが悪いかもしれないけど、いろんなものに合って美味しいのよ? クッキーとかヨーグルトとかチーズケーキとか巫女とか」
「だから、その見てくれが問題なのよ……あと巫女は除外して」
「せっかく持ってきたんだし、霊夢もどう? なんなら私が『器』になってあげるけど」
「――なっ」
博麗霊夢、ちょっと想像した。
「こ、これから夕御飯の支度なの。そんなの舐めるような時間じゃないでしょ」
「甘い物は別腹って言うじゃない」
「……その台詞って、普通は御飯の後に言うものじゃないかな」
「あ、そう? 食後にってこと? うん、そうね。それもいいわね」
もうこいつと会話するのやめようかなぁ。
霊夢は頭を押さえながらレミリアに背を向ける。
「生憎だけど、今日の食後には甘い柿があるの。今年の初物よ」
「私は柿の初物より霊夢のはぶっ」
座布団がミノムシ妖怪の顔面を直撃した。
さっきまで霊夢が枕にしていたやつだった。
「くんくん……ああ、霊夢の匂い……霊夢のよだれ……」
すこーん。
針が座布団を貫き、レミリアのおでこをピチューンした。
座布団がずり落ちる心配がなくなって、レミリアは幸せそうだった。
ぱたぱた。
◇
「あら、何も言わないのに私の分まで作ってくれたのね。嬉しいわ」
「……どうせ作らなきゃ、膝にかじりついて欲しがるくせに。一人前が半分になるくらいなら最初から作っとくわよ」
「そうそう。解ってるじゃない」
運命は受け入れなきゃね――との言葉を黙殺して、霊夢は食卓に手を合わせる。
いつの間にかお札の拘束から脱していたレミリアも、愉快そうに笑いながら霊夢にならった。
「やっぱり、御飯は一人よりも二人で食べた方がおいしいわよね?」
「さてね。食い扶持がかさむのと差し引きで、どっちが得なんだか……」
洗濯上手なメイドの話。
図書館で妹と一緒に読んだ本の話。
話が弾めば箸も弾み、小さな手と口を上機嫌で働かせるレミリア。
このお嬢様、血を飲むのが下手で服を汚しがちなのは一向に改善しようとしないくせに、箸の使い方だけは猛特訓したと自慢するのだからいい気なものである。
これが紅い悪魔かねぇ。
霊夢はそう思いながら、レミリアの皿が気持ち良く平らげられていくのを見守っていた。
「ごちそうさま。たまにはこういう普通の食事もいいわね」
「普通の食事でおなかが膨れるなら、血なんか飲むことないんじゃないの?」
皿は下げられ、二人はお茶の残りをゆるりと飲んでいる。
卓袱台の上、さっきからずっと置きっぱなしだったガラス瓶をつつきながら、霊夢が尋ねた。
「そうはいかないわ。吸血鬼なんだから」
「胃袋に入っちゃえば、お米も血も変わらないと思うけどなぁ」
「変わるわよ。人間だって、ある種の栄養素が決定的に不足していたら、いくら食事をしていても身体がもたないでしょう? それと同じよ」
「厄介ねぇ」
「そう。厄介なの」
だから――と。
レミリアは不敵に呟いた。
卓袱台をするりと回り込んで、霊夢の横に座る。
「霊夢の作ってくれる御飯はおいしいけど、正直なところまだちょっと物足りないのよね」
「あ、そう」
だから。
レミリアは呟く。
吸血鬼の指先が、巫女の肩をそっと撫でる。
「ねえ、霊夢……」
「血はあげないわよ」
「ねーれーむぅー」
「そんなクリーミィな声で言っても駄目」
うー。
卓上にぺたりと顎を投げ出し、レミリアは不満そうに唸る。
「けち」
「けちで結構」
「ふん、だ。霊夢が素直に血を飲ませてくれないから、私はこんな、」
ちょん、とレミリアは瓶をつつき、
「虚しい代替行為に溺れるしかないというのに」
「誤解を招くような言い方はやめてよ……」
れーむのー血なーんてー。
すっぱいにー違いーないー。
変な抑揚をつけてぼやきながら、レミリアは畳に身を投げ出してごろごろごろごろごろごろ
「……もう。事あるごとに同じやり取りしてるのに、いちいちヘソ曲げないでよ。あんた、血には不自由してないんでしょう? 契約とやらのおかげで」
――止まった。
並の人間や妖怪がこの場にいれば、震え上がったかもしれない。
契約――その言葉に反応して霊夢を見上げたレミリアの眼には、殺気に近いものすら浮かんでいた。
ゆらりと体を起こし、温度の知れない声音で、レミリアは言う。
「ええ……それはもう。ありがたいことに、有象無象の血にはまったく不自由してないわ。忌々しい契約とやらのおかげでね」
契約。
悪魔の契約。
レミリア・スカーレットは幻想郷の人間に危害を加えないこと。
その代償として、食糧となる血液の供給が保証されること。
レミリアと、幻想郷を代表する妖怪達の間には、そんなルールがあった。
人間に対する脅威のレベルという点で妖怪を比べた場合、吸血鬼のそれは群を抜いていると言っていい。
妖怪と人間の良好なバランスをこそ是とする幻想郷において、際限なく眷属を増やしかねないその力はあまりに危険だった。
幻想郷の均衡が揺らぐことを恐れた古参の妖怪達は、数を頼みにレミリアを交渉の席へと引きずり出し、半ば強引にその契約を取りつけたのである。
奴らはそれだけ私を恐れているのだ。
支配者は自ら狩りをする必要などないのだ。
そう考えれば、レミリアの矜持もそう痛むものではなかった。
少なくとも、契約を交わした当時はそうだった。
だが、今となっては――。
「……あーあ。幻想郷全部を敵に回してでもあんな要求は突っぱねるべきだったわ。自分で血を吸う相手も選べないなんてね」
「短気は起こさないでよ? 『幻想郷全部』には私も含まれてるんだから」
「いまさら短気も損気も起こしようがないわ。先方が取り決めどおりに血を差し出し続ける限り、契約は絶対の拘束力を持つ。人間同士が交わすような、やわな約束とはわけが違うのよ」
とはいえ、抜け道がないわけではない。
厳密に言えば、禁じられているのは「人間を襲い、その意に反して血を奪う」こと。
だから、戦う意思のある人間をレミリアが返り討ちにすることは可能だし、レミリアに我が身を捧げようという人間がいれば、その血を飲むこともできる。
「要は、霊夢さえその気になってくれればなんの問題もないのよね」
「まだ言うか」
「霊夢にとっても悪い話じゃないと思うんだけどなー」
「血なんか抜かれて、こっちに何の得があるっていうのよ」
「あれっ、知らなかった?」
「だから何を?」
問うが早いか、レミリアはひとっ跳びで霊夢の隣に戻ってきた。
少しは大人しくしていられないのか――などと考える霊夢を覗き込むようにして、意味ありげに笑ってみせる。
「吸血鬼の唾液には、即効性の麻酔作用があるのよ。血を吸う相手に痛い思いをさせないようにね」
「へえ。それで?」
それでね。
レミリアはちろりと覗かせた舌先を指で示し、
「加えて、吸血鬼が『そういう気分』になったときの唾液には、まあ、なんというか、そういう追加効果もあったりするのよ」
「言ってることが抽象的で、よく解らないわね」
「解ってるくせに。……ふふ、霊夢が相手だったら『それどころじゃない気分』になるかも」
「お茶、煎れなおしてくるわ」
レミリアの視線を振り切るように霊夢は立ち上がり、二つの湯飲みを手に居間を出てゆく。
「天国見せてあげられるんだけどなー」
「私は天上の至福より、下界の平穏がいいの」
居間と台所で不毛な言葉を投げ合い、ほどなくしてお盆を抱えた霊夢が戻ってくる。
お盆の上には、急須と湯飲みと、夕陽の色を丸く閉じ込めたような柿があった。
「ほら、血の話はそれくらいにして。剥いてあげるからあんたも食べなさい」
「……ふん。屋敷に帰ったら口直しに1ガロン飲んでやる」
ぶつくさ言いながらもレミリアは座りなおし、柿と対面して卓袱台に肘を突く。
霊夢は手にした柿に包丁をあてがいながら、一仕事終えたような溜息をついた。
「やれやれ……。それだけ食糧に恵まれてて、なんでそう私の血にこだわるのかしらね」
「好きだから」
がたんっ。
たぶん、霊夢が悪い。
なんとなく言ってみただけとはいえ、霊夢のそれはあまりといえばあまりに迂闊で、愚かで、無意味な、答えの判りきった、さりとてその答えを明言することはすこぶる衝撃的な、レミリアの性格を知っていれば十分に返答を予測できた、せっかく収まりかけた話を再燃させかねない、実にヤブヘビな問い掛けであった。
そういえばこいつ、たまにこういう直球投げてくるんだっけ――。
そんな思考も後の祭り。
言葉には言霊があり、とりわけ吸血鬼のそれは強力だった。
結果として霊夢の手元は狂いに狂い、包丁の刃はつややかな柿の表面を猛然と滑った。
そして、
「あっ」
霊夢が短く叫んだ。
柿を取り落とした左手の、人差し指の、その先。
一筋の、鮮やかに紅い線が走っていた。
「もうっ……あんたがいきなり変なこと言うから……」
霊夢は顔をしかめて、指先をあらためる。
かなり深く切ってしまったらしく、滲み出る血は見る間に傷口から溢れ、指を伝い落ちてゆく。
止血止血。なんか布なんか布。
左手を宙に迷わせながら、霊夢はきょろきょろと辺りを見回す。
それで、ふと、さっきからレミリアが一言も発していないことに気付いた。
ひょいと、隣を見る。
レミリアがいた。
口を半開きにした吸血鬼の、まんまるに見開かれた瞳が、一直線に霊夢の指先へと向けられていた。
霊夢が視線を返していることにも、気付いていなかった。
「……あ……」
見られていることを遅れて察したレミリアが、びくりと震える。
決まり悪げに目を逸らすその表情が、今にも泣き出しそうに、霊夢には見えた。
――あちゃあ。
霊夢は内心、舌打ちする。
吸血鬼の嗜好など知ったことではないが、レミリアにとってこの状況がいかにも目の毒であるということは容易に想像がついた。
焦がれに焦がれて求め続けたものが、目の前にあっても。
恐らくはその小さな鼻が、すでに血の匂いを嗅ぎ取っていたとしても。
それを得ることが、決して叶わないのだから。
これも契約のせいか? いや違うだろう。
仮にレミリアが力づくで霊夢の血を奪おうとするならば、霊夢はそれを力で拒絶するだけの話であって、その構図は今の二人となんら変わるものではないはずだ。
つまるところ、すべては霊夢の胸先三寸なのであり、少なくとも今のレミリアにこんな顔をさせているのは妖怪達に押し付けられた契約なんかではなくて、
「――帰る」
ぽつりとこぼれたその言葉が、霊夢の思考を断ち切った。
聞き返す暇もなくレミリアは立ち上がり、霊夢と柿と煎れたてのお茶に背を向けて歩きだす。
「ちょっと、もったいないから飲んでから行きなさいよ」
「いらないっ!」
火のついたような声。
レミリアは庭へ続く障子を乱暴に開け放ち、縁側を踏み破らんばかりの勢いで一歩、二歩、
「……お茶のことじゃ、なくてさ」
三歩目が、宙に浮いて固まった。
レミリアが、ゆっくりと振り向く。
霊夢はすらりと立ち上がり、毅然として言った。
「約束して。レミリア」
まだ手当てがされないままの左手を、レミリアに示す。
「事が済むまで、ちゃんと私の言うことを聞いて、血を飲む以外におかしな真似をしないって誓うなら」
揃えた指先を器のように軽く曲げ、上に向けられた掌の中心に、浅く血が溜まっていた。
「――これ、あんたにあげるわ」
「……っ!」
契約。
悪魔の契約。
血を飲ませて貰う間は霊夢に逆らえない、そんな絶対の拘束力。
それを持ち掛けられたのだと認識したレミリアの表情が、にわかに険しくなった。
「……このうえ私に、人間なんかとの契約を交わせと?」
「人間となんて、そんな大袈裟なものじゃないわよ。これは私とあんたの話」
「……でも、」
「嫌なら別にいいんだけど。早く決めちゃってよね」
「――――……、」
何か言おうとして何も言えず、レミリアはただ立ち尽くす。
軒先と居間で、吸血鬼と巫女が、しばし無言で見つめ合う。
今の今までレミリアに張り詰めていた烈しさや凶暴性といったものは、すっかり鳴りを潜めていた。
代わりにそこにあるのは、見ていて滑稽なほどの逡巡。
霊夢の血。
人間なんかと。
霊夢の。
そんな思いが、落ち着きなく揺れる瞳と翼にありありと浮かんでいた。
「ほら、早く。こぼれちゃう」
「…………」
「レ・ミ・リ・ア、」
「…………うー……」
なんというか、警戒心の強い野良猫を魚の切れっ端で釣っているような気分。
手を差し延べたまま霊夢は辛抱強く待って、待って待って、
「――ち、」
猫が、後ろ手で障子を閉めた。
そしてその口が、ゆっくりと、
――契約は力を帯びた。
「ん」
聞き届けた霊夢が、小さく頷く。
そして、柔らかな笑みを浮かべて、言った。
「おいで、レミリア」
たちまち泣きそうな顔に逆戻りしたレミリアが、ひとっ跳びで霊夢の胸に飛び込んだ。
抱きとめ損ねて畳に尻餅をつきながらも左手の血を守ったのは、博麗の巫女にしては上等な気遣いだったかもしれない。
◇
「霊夢……れいむ……っ!」
「ちょ、ちょっと……そんなにがっつくほど無いってば……」
居間には二人。
吸血鬼と巫女が、文字どおり膝を突き合わせて座っている。
霊夢が左手を差し出す。
レミリアはそれを抱きかかえるように、捧げ持つように両手で支える。
小さな血の池と細い手首に浮き出る血管に、レミリアの視線が間近から注がれる。
いきなり噛みつかれる心配はないものの、吸血鬼が自分の血を子細に観察しているという状況に、霊夢はどこか落ち着きのなさを覚えた。
血の匂いにでも浸っているのか、レミリアはしばらくそうして熱っぽい呼吸だけを繰り返していたが、おもむろに手の中の手をつい――と傾けた。盃のように。
霊夢の左手の小指の根元、そこから掌の脇に向けて、一筋の血がほろりとこぼれる。
その紅い雫を、待ち構えていたレミリアの舌先が静かに舐め上げた。
「んっ」
慣れない感触に、霊夢の肩がピクンと揺れる。
つい漏れてしまった声に気恥ずかしくなり、伏せがちになった霊夢の視界の中で、レミリアの喉が小さく動いた。
「……はぁ……ぁ…………!」
レミリアが震えた。
ひときわ熱い吐息とともに、頭から爪先、翼のつけ根から先端までがぶるぶると打ち震え、それは触れ合う手と手から霊夢にまで伝わってきた。
半分は夢を見ているようなレミリアの目の、残り半分が霊夢をとらえた。
「霊、夢」
「――――……」
霊夢は言葉を返せなかった――なにか応えるべきなのか、なにを応えるべきなのか。
人の血の味に酔いしれる吸血鬼という、巫女にとっては忌むべき邪悪であるはずのその姿が、今はひどく艶めいて見えた。
やがてレミリアは再び霊夢の手に唇を寄せ、血の一滴一滴を愛おしげに舐め取ってゆく。
雛鳥のように羽根を震わせながら。
薄く閉じたその瞳の端に、光るものすら浮かべながら。
なにも、そんなに喜ばなくたっていいじゃない――。
霊夢は笑ってやろうとして失敗し、ただ困ったような顔になってレミリアを見る。
空いてる右手で、なんとなくその頭を撫でてみたり。
「ふぅ……ん……っ」
それが引き金になったのかどうかは知らないが、手の端を舌でちろちろとくすぐるだけだったレミリアの振る舞いは、次第に大胆なものになりつつあった。
零れるほどの量の血はすでになく、レミリアは霊夢の手の角度を頻繁に変えながら、四方八方からついばむような口づけを繰り返す。
手の甲に。
掌に。
指と指の谷間に。
血の源泉たる指先の傷に。
「――――っ」
「痛い?」
「……ううん」
不意に傷口を触られて身じろぎする霊夢だったが、レミリアの問いには首を振った。
契約を交わした今、自分の言葉はレミリアを縛る――そう解っていればこそ、霊夢はあまり口うるさいことを言う気にもなれなかった。
どうもさっきから、自分はこいつに甘くないだろうか。
きっと、腹を空かした乳飲み子と大差のないその姿に惑わされているのだろう。
とりあえず、霊夢はそう考えることにした。
例えば、これがもし筋肉ダルマの大男でぎゅるぎゅる回転しながら眼からビームを乱射するような吸血鬼だったら、神社に一歩踏み込んだ瞬間に夢想封印のフルコースを喰らわせていると――
「ひゃっ」
とりとめの無い思考に、新たな刺激が割り込んできた。
見ればレミリアは、うっとりとした表情で霊夢の人差し指にしゃぶりついている。
「……んっ……む……」
「ちょ、ちょっと、」
不規則にうねる舌のくらくらするような熱さが、たちまち霊夢の感覚を埋め尽くす。
僅かに残っていた血がレミリアの唾液と混ざり合い、それが指ごと持っていかれそうな錯覚を伴って飲み下されてゆく。
「レミリア、レミリアってば」
「ん……、にゃひ? いひゃい?」
「痛く、ないけど」
ないけどぉ。
自分でも何と言ったらいいのかよく判らず、幼い吸血鬼の唇から見え隠れする我が身の一部を、霊夢は途方に暮れて見守るしかなかった。
「ぷはっ――」
うわぁ。
牙や舌との間に幾筋もの糸を引きながら、ようやく指が解放される。
それは半分溶けているんじゃないかと思うくらいにぬらぬらと光る液にまみれていて、霊夢は思わず目を逸らしてしまった。
「ねえ、霊夢?」
「……なによ」
飽きもせず、霊夢の手を決して手放すこともなく、まだ僅かに血の滲む指先に舌を這わせながらレミリアが問う。
「どうして急に、血をくれる気になったの?」
「そんなの、別に……んっ、どうだっていいじゃない……」
「気になるわよー。いつだってけちな霊夢が、ねぇ?」
ぺろぺろ。
「ご挨拶ね。私は別に血を惜しんでるわけじゃなくて、巫女として……」
「だからさ。それがどうして?」
あむあむ。
「だって、ふぁっ……どうせ洗い流すか拭くかしかない血だったし。それに……」
「それに?」
ちゅぱちゅぱ。
「私だって、お茶が切れてて辛いときに……んくっ、目の前でどばどば捨てられたら、はっ、腹が立つだろうなって……」
「――ふっ、あははっ! 霊夢らしいわね。私の気持ちなんてちっとも酌んでくれてないあたりが」
「……あ……ぅん……っ!」
さっきから――変。
意思に反して漏れる声が、どんどん熱を帯びてきていた。
頭を振って、霊夢は考える。
いくら慣れない事とはいえ、舐め回されているのは所詮手なのだ。刺激に対する感度という点では、人体の中でもむしろ鈍い器官であると言っていい。
それなのに、なんでこんなに、その、
「……だから言ったでしょ? 霊夢にも悪い話じゃないって」
「なっ――」
レミリアが霊夢を見上げ、会心の笑みを浮かべた。
そもそも、契約とはあくまで対象者の行動を制限するものであって、物理現象にまで干渉するものではない。
だからレミリアが語った如く、吸血鬼の唾液にそういうアレがあるとすれば、それは、やはり、そういう効果をちゃんと発揮するのである。
「期待はしてなかったの? こういうの」
「そんなっ……、こんなの、私は……っ!」
霊夢とて、ある程度の覚悟はしていた。
ただ、直接噛まれるわけでもなし――と、たかをくくっていたことも確かだった。
「だけど、こんなに効きがいいなんて私も驚いたわ。想いが強いと効力も増すのかしら、ね?」
レミリアはそう言って、真っ赤な傷口に舌先をこじ入れた。
「……ッ……!」
――嘘。
激痛をもたらすはずのその行為に、霊夢が感じたのは――ただ甘い痺れ。
まるで傷口から、失った血の代わりに蜂蜜が流れ込んでくるようだった。
それは、霊夢の腕を内側からちりちりと炙り立てながら、確実に近付いてくる――心臓へと。
これほどとは。
霊夢はぼんやりと霞のかかり始めた目で、恨めしげにレミリアを見返す。
もっとも、ここまでの行為は一応の同意の上にあったものだし、レミリアにとってもこの状態は予想外であったとなれば、嵌められたとも言えない。
想いが強いと――。
さっきのレミリアの言が本当なのだとしたら、こいつはどれだけ私のことを、
「……はっ……はぁっ……!」
まずい。
余計な事を考えたら、余計に体が、
「霊夢」
掌の一点、運命線と感情線の交わるところにキスをして、レミリアは静かに霊夢の手を置いた。
空いた両腕が、今度は首に絡みついてくる。
「霊夢」
「ちょ、近い……! レミリア、顔近いって……!」
触れ合わんばかりの距離。
血の匂い、でもどこか甘い吐息が頬にかかり、唇を撫で、喉の奥にまで滑り込んでくる。
霊夢自身の息遣いはそれよりもなお熱く――首を抱く腕に力が、
「愛してるわ」
◇
星と満月と虫の声。
レミリアは一人、幻想郷の夜空を飛んでいた。
両腕をだらりと下げ、背中の翼だけをいい加減に動かして、気の抜けた顔でふよふよと飛んでいた。
あの時――。
千載一遇のチャンスに霊夢のすべてを奪ってやろうとした、あの時。
重なりかけた唇はするりと横に逸れて、レミリアの頬に小さく口づけた。
――血が止まったわ。
霊夢は絞り出すようにそう囁き、レミリアの肩を弱々しく押し返した。
それから、こうも言った。
――私は、巫女だから。
それがなんだ、と言い返せる雰囲気ではなかった。契約の拘束力を抜きにしても。
結局、レミリアはその後すぐに神社を出ることになり、今はこうして急ぐでもない家路についている。
「……ふぅ……」
あれっぽっちの血で満足したのかと訊かれれば、レミリアは首を振っただろう。
人間ごときに枷を負わされて情けなくはないのかと問われれば、それはやはり忸怩たるものがある。
それでもなお、気の抜けたその顔に時折浮かぶのは――こらえきれない笑み。
「……ふ、ふ」
だって、だってだって、霊夢のあの顔。あの声。
なにより、あの、血の味。
望むものすべてを手に入れることはできなかったが、それでも今夜の収穫は大したものだった。
こういう妥協的な考え方はレミリアの本分ではなかったが、後の楽しみが増えたと思えば愉快なものだ。
霊夢に嫌われたなどと、レミリアは露ほども思っていない。
別れる間際の短い会話を思い出す。
『あーあ。柿、食べそこねちゃったわ』
『そうね』
『また今度来たときに剥いてくれる?』
『……変な期待を、しないなら』
『あはっ。期待があろうとなかろうと、運命というのは訪れるものよ?』
『どうだか……。またね、レミリア』
『ええ。また』
平静を装っていたのだろう。
恐らくは必死で体の火照りに耐えながら、レミリアを見送ってくれた霊夢。
ああ、あの時の顔もたまらなかった。
レミリアはふと振り返って、まだそう遠くもない神社を見る。
その場所は今、何層あるのか数えるのも馬鹿らしくなるほどの多重結界に覆われていた。
無理に破ろうとすれば、レミリアとて塵になりかねない。局地結界としては生まれて初めて見るほどの強度だった。
霊夢は本気だ。
本気で朝まで、レミリアはおろか何人たりとも近寄らせないつもりなのだろう。
「――ふ、ふ、ふふっ」
それならそれで、レミリアも余計な心配をせずに済むというものだった。
まったく、博麗神社には節操のない来客が多くて困るのである。
霊夢。霊夢。
天国へのフリーパスを、手にする直前で拒んだ、愚かで可愛い私の霊夢。
火は点けども燃えきらぬままのその体を、あなたはその幾重もの檻の中でどうしているのだろう。
なにか特別な術で抑えているのだろうか。
それとも――。
レミリアは羽ばたきも軽やかに、空中でくるりと姿勢を正す。
そして胸に両手を当て――霧を呼んだ。
いつかのように、幻想郷中を覆い尽くすことはしない。
それは、そう、せいぜいが小さなダンスホールくらいのもの。
巫女の居ぬ間に。少しだけ。
夜空のまんなか、霧が月光を照り返して紅く輝く。
その淡い光の舞台で、レミリア・スカーレットは踊る。
博麗霊夢の幻影と、手に手を取って。
あの夜を思い出す。
霊夢と初めて対峙した、あの熱い夜。
「…………~♪」
いつしか、レミリアの口からメロディが。
次いで、歌声が流れ出す――。
闇がざわめいて 眠れぬこの夜
窓を開け 羽根広げ あなたの元へ翔ぶ
――霊夢の血の味は覚えた。
霊夢もまた、吸われることの味を覚えたはずだ――
渦巻く夜風と 二人の瞳が
待ち侘びた この刻の 始まりを告げる
月はなお紅く その肌を照らして
秘められた 熱き血を 透かして視るように
今 永遠に重なり 口づけ合おう 心ゆくまま
そう それがさだめと 悟る時まで 紅き夜は続く
今宵はVampirish Night あまねくScarlet Night
コトバも罪も 霧へと消えて
甘くこぼれる 雫の先で
想いはいつか 契りに変わる……
――その牙を突き立てて。私を虜にして――
いつか必ず、その口からそう言わせてみせる。
ぞくぞくするような決意。
光の霧を吹き散らし、夜の支配者は空の彼方へと飛び去った。
……おやすみ霊夢。
眠れっこないでしょうけど。
~終~
著者様のお言葉を拝借しますが、まさに“喉を焼くブランデーの甘さ”
そんな味。オトナの甘味を堪能した。
> そもそも吸血鬼の唾液成分がどうとか
大丈夫。実際にそうなのかどうかは関係ない。
そうなる「運命」なのだから。
このカップリングが大好きな私としてはありがとうと言わざるを得ない。
ほのぼのした会話からめくるめく吸血幻想への展開、お見事。
いいですね、この背徳というか倒錯と言うか、この感じこそ女吸血鬼って感じです。自分の中ではレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」が吸血鬼文学の金字塔なので…
しかし結界の内側をなんとしても覗いてみたいwたまには受けな霊夢もイイネ。
>>例えば、これがもし筋肉ダルマの大男でぎゅるぎゅる回転しながら眼からビームを乱射するような吸血鬼だったら
ダイ・亜門…懐かしいですな
冒頭の妖艶とも言える描写、カリスマただもれなお嬢様、指先を舐める淫靡な情景、そして、妄想を掻き立てられるラストの霊夢・・・・・・・
結界の中では一体どうなっているのやら・・・・・・それを想像したら、そのお恥ずかしい話なのですが、勃○してしまいまいてね、ふふ
こういう倒錯した幻想郷もいいなぁ
ただ
途中から背景で彼奴が動き回っていました・・・
誰か! 誰か塩を持ってきて!!
こりゃあ、ぇろい。
さて、今作ですが、れみりゃ様のかわいらしさいじらしさおそろしさがぎっしり詰まった読み応えのある文章でございました。
巫女巫女霊夢が堕巫女になるのはそう遠からず?
唾液の伏線を張っておいてからの徐々に興奮していく霊夢の様子の描写がふふふ…その恥ずかしい話ですが(ry
ラストの締め方も妄想の余地があることがにくいぐらいにネチョです。
え? 考えすぎ? まさかまさか。
では、監督さん、ごちそうさまでした。(何が
まさに“喉を焼くブランデーの甘さ”
『れみりゃ』が話が進むにつれて
カリスマ全開の『レミリア・スカーレット』に
なっていくのがまた…。
>> ――その牙を突き立てて。私を虜にして――
ここから最後の文で,辛うじて残っていた
残機全部持っていかれました。
心の底からご馳走様。良い一杯でしたw
糖分取りすぎたぜ
うん、このレミ霊は…ごくりとしながらおいしく読みました。
そして回転しながら眼からビームを出す筋肉ダルマな吸血鬼を見たいと思ったのは俺だけではないはずw
エロ過ぎる。
あんたは最高だ!
最初は「(霊夢が血を)飲ませてくれない」にひっかけていたかに思われたタイトルが、いつの間にか「(あなたの唾液を)飲ませて、紅(の悪魔)」にすり変わっていた。そう思ってドキドキした変態は俺だけでいい。
まんざらでもなかったんだな……
>眠れっこないでしょうけど。
ここの部分に凄まじいカリスマを感じた。
最高だよレミ×霊!!
それにしてもこれはいいレミ霊。最高と言わざるをえない。
だがそれがいい。そして鼻血が止まらず視界が白くなりかけてきたんだが、
これはありがとうと言うしかない。
ポイントポイントの演出力は高かったと思いますが、描かれたとおりの熱を感じられたかという点においては首を捻っているところです。主題を無視して細かいことを気にしすぎ、なのかも知れませんが、それも一読み手としての感想として読んでもらえればと思います。
次は「多重結界in霊夢」を是非ともーw
思わず叫びそうになってしまった…
間違いなく結界の中の話も書いて欲しい(^o^)
ふと、不思議に思えた今日頃ごろ・・・
「…………うー……」
↑レミリア、うーー♪
この話のどこがエロいのですか!
この話はレミィのかわいさとカリスマと霊夢への純粋な思いでできているのです!
ええ、そうですとも。誰に見せても恥ずかしくない話ですよ!
吸血です、単なるほのぼのした吸血なんです!(ぁ
でもやっぱカリスマが一番格好いい!
最後の「眠れっこないでしょうけど」とか悶絶ものでした・・・
あとトリビアひとつ。手、特に指先は人体のなかで最も感覚の鋭い部位だったりします。どうでもいいですね(;´д`)
ダイ=アモンの濃い髭面が離れなくなったので10点減点。
もし人間を好きになってしまった場合、とても悲しい未来がまつ
下僕や虜囚の関係しかないとしたらキツイ
妖艶でカリスマ溢れるお嬢様、実に素晴らしいですね。
思ってたところにキター!最高です!
喉が焦げそうになりますた。
わーい、レミ霊!レミ霊!あぁもう堪らない…!
最高です!
「…………うー……」
すげぇwww
レイレミ最高!