三途の川に美しい十六夜の月が出た。岩山の間を光が通ってきた。
川べりには幽霊が一体だけ残されている。金色の月に照らされながら、暇な幽霊は尻尾を追いかけ、ぐるぐると渦を巻いていた。そのうち一艘の小舟が音もなく川面を滑ってきて、小野塚小町が顔を見せた。
「いい晩だろう?長かった列も最後、残業もあんたでおしまいだ。ひとつ丁寧に送り届けるからよろしく頼むよ」
小町に応えて、幽霊は機嫌良さげな様子で上下に弾んだ。小舟がそろりと岸を離れた。舟は時折霧のかたまりを貫きながら川を進んだ。辺りは静かで、ぎいぎいと単調に櫂が軋むばかりだった。顔には流石に疲労の色が浮いていたが、小町は無言の舟旅などまっぴらだった。話しかけようと口を開きかけたその時、幽霊が声を発してきた。
(わたしは、知って、いる、あなたを)
(知っている、知っている)
気質の具現化した幽霊の「声」は非常にノイズが多い。並の死神では、恐れ、怒り、安堵など単純なシグナルしか読み取ることができない。たどたどしくも言葉としてそれを理解できるのは、経験の長い小町ならではのことだった。
「なんだ、あたいの知り合いが死んじまったのか、一体誰だい」
(知っている、知っている)
小町は可笑しみを感じた。ノイズの奔流の中に【挑戦的な】意識がはっきり混じっていたからだ。小町はくつくつと笑いながら言った。
「たちの良い霊だと思ったんだけどなあ。当ててみろってかい」
(あなたは、当ててみろ)
「よし、じゃあこうしよう。死者は向こう岸で一時的に元の姿に戻れる。答え合わせはその時だ。舟を漕いでいる間にあんたの名前が出たらあたいの勝ち」
幽霊が青白い体を毛羽立たせた。不満げだった。
(それは、あなたを、有利)
(こたえます、あなたを、それ、なまえ、三回)
「解答権は三回か。それでもあたいが有利なんだけどな」
見な、と小町は前方の霧を指し示した。月光で金木犀のような色に染まった霧の中に、ぼんやりと映り込むものがあった。
「ここは過去を流れる川だからね。おあつらえ向きに光源もある。霧の量だって丁度いい。あんたの過去は霧の幻燈に映っちまう。ほらこれは、空?空だ。快晴だな。まああたいの知り合いはみんな飛べるからヒントにはならないか」
(そらだ)
「空だな」
(わたしは、とべた)
「そうだろうな」
(速かった?)
「知らんわ」
(いまはおそいけど)
「それは仕様がない、こら、あまり動くと危ないぞ」
小町はうーんと考え込んだ。幸いこれを外してもあと二回ある。
「巫女か?博麗の」
(わたしは、巫女、ではない)
(わたしは、霊夢、ではない)
「違うか。暢気そうな幽霊なんだがなぁ」
(わたしも、ああやって過ごしたい)
「あたいもだ」
しばし無言。互いに茶を啜るような間があった。
(ここで、ヒント)
「サービスが良いな」
(わたしは、自由、だいたい、気まま、ときどき、仕事)
「ますます霊夢っぽい。っておい、これもカウントするな。あと二回だ。二回ある」
小町はあたりをきょろきょろと見回し、手頃な霧の固まりを捜した。しかし川風が出始め、霧はほとんど吹き飛ばされていた。幽霊は風を浴びながら心地よさげに尻尾を風に流した。
「三途の川に月が出て、おまけに風が吹くなんて珍しい。あたいも初めてだよ」
小町は目を細めた。昇り立ての大きな月が黄色く浮かんでいる。水面は平らに月を映す。両岸の岩山は鉛筆のような影となって伸びていた。彼岸の方から、鐘を突くような音やお囃子のような音が風に乗って聞こえてくる。
「お堂の鐘がここまで聞こえたか」
小町は漕ぐのを休めず、口の中で吟じはじめた。月落チ烏啼イテ霜天ニ満ツ。月も落ちてないし、烏も啼いていないし、霜も天に満ちていないが小町は気にしない。途中は飛ばした。夜半鐘声客船ニ到ル。景色を見ていた幽霊がふと向き直った。
(うた)
「まあ、歌だ」
霜にでも反応したのだろうか。そんなのも二人くらい知っている気がする。しかし、あいつらは死ぬのか?むしろ歌に反応したと考えて、だいたいにおいて気ままで時々仕事している奴。
「夜雀。ミスティアだっけ」
(ちがいました、あと一回)
それもそうかと小町は思った。あの鳥頭が私を覚えているはずがない。少し深読みをしすぎた。
幽霊から話を振ってきたので、しばらくは自分の仕事の話をして過ぎた。幽霊はころころとよく笑う。笑うというか、体を震わせたり、ちかちか光ったり、体を半分に折り曲げてみたりと多彩な反応で飽きさせない。月を愛でて笑いながら、気がつくと彼岸の黒い陸地はすぐそこに見えていた。
長くはない舟旅だった。
「意外と業は深くないんだな。あんたは」
(さて、あと一回。私はいったい誰でしょう)
彼岸に近づいたためか、幽霊の言葉はチューニングが合ったように整然と聞こえていた。
「初めから簡単だったんだよ。妖怪はそうそう死なないから、あんたは人間に決まってる。あのメイドの人生はだいたいにおいて仕事だろうから、消去法であんたは魔理沙だ。間違いない」
(……)
「ちゃんと老衰できたか?悔いはないかい」
(……)
「ま、これから会うのは映姫様だ。そう固くならなくてもいいだろう」
幽霊は言った。
(残念ですが、外れです)
(それに彼女らはずっと)
小町の頭に昔の記憶が飛び込んできた。なぜ忘れていたのだろう。巫女も白黒も、あのメイドだってそうだ。私が送った。もうずっと、ずっと前のことだった。
じゃあ目の前のこいつは、いったい誰なのだろう。
彼岸に降り立った彼女は、もう生前と変わらない姿をしていた。あんたか、と小町が驚いたように言った。
「死にそうもないと思っていたけど、死ぬんだな。やっぱり」
もう口を利くことのできない彼女はしばらく困ったような微笑を浮かべていた。そして何かを思いついた子供のように、表情をぱあっと華やげると、彼女は首から下げたそれを外し、小町へと差し出してきた。
受け取って下さい。
唇がそう動いた。幽霊の持ち物はやはり物品の幽霊であり、それがもう使いものにならないことは分かりきっていたが、小町は手を伸ばしてそれを受け取った。彼女はそれを見届けると一歩後ろに下がった。暗さで顔が見えなくなった。笑顔が見えなくなるのは寂しかった。顔のない彼女はしきりに手を振り、後ろを向き、闇に溶けて消えていった。ごう、と川風が一瞬だけ強くなった。仕事の達成感と悲しさの入り混じった気分で小町はそれを見ていた。再び鐘が聞こえてくる。暖かな月は形を潜め、霜のような光を地面に投げかけている。小町は烏の啼く声を聞いた気がした。
根は甘い裁判長だ。彼女が地獄に行くのは、まあ十中六七はないだろう。長い残業を終えた小町は舟を彼岸の砂浜に揚げて帰路についた。
霧はますます晴れ、月はますます青白く冴えていった。彼岸の岩山が白銀のようにちらちら光っている。首から下げた物をもてあそびながら、それを写真に撮りたいなと小町はふと思った。
うん、でも小町と一緒に彼女は誰だろうと考えるのは楽しかったです。
良き旅を。
寂しくて面白かったです。
何だか明るいような、悲しいような・・・・・・不思議な感じでした。
取り敢えず、綺麗な作品をありがとうございます。
残業してまで仕事ばりばりこなす小町
冒頭にて経験が長いとしておいて、「初めて体験する」
そして霊夢、魔理沙達が死んでいた事を忘れていた
極めつけは幽霊のヒント。
てっきり、幽霊の正体は小町自身だと思いましたが、
首から何か提げている、という事で違うのですね。
なんだか凄く考えさせられて、ミステリアスでよかったですよ。
短絡的にみょんだと思った俺は間違い無く大馬鹿。
明確な答えはありませんが、彼女なのでしょう。
すごく寂しいのに、悲しくはない。不思議なお話でした。
それはさておき、ぐっと胸に迫るラストでした。
「もう使い物にならない」首から提げた遺品ってことは、やっぱり「彼女」なのかなあ
この雰囲気がたまりませんね。
あたりでそれなら妖夢かと思ってしまいました。
烏、ですしね。
人間って所も肯定してるわけではなさそうだし。
本当にありがとうございます。
次も頑張ります。イヤッホウ。
作者が想定したのはやっぱり「彼女」なわけですが、
読者さんには読み解く自由がありますので、
多様な読みを提示して下さるのはとても嬉しいことです。
てゐというのも納得。
子供みたいに笑わせたり、ちょっと幼く書いた部分があります。
振る舞いだけ見ると違和感はなかったです。
めのうさんの意見に脱帽。
意図的なミスリードじゃなかったのがくやしいっ…
まだまだ自分の文体を模索中です。
いつになるかわかりませんが、次の作品もよしなに。
感想欄にお邪魔しました。
「私で最後よ」
とか言うのを想像してしまった。
良い話をありがとう。
それ以外だったら、難解さに作者に文句を言いたくなるw
彼女が死ぬほどの年月とはどれ程のものなのだろうか?
他の面子や幻想郷はどうなってしまっているのか?
色々な想像ができるなぁ。面白かった~。
阿拾とか阿拾壱とかいるのかなとおもった私は大馬鹿ですw
色々考えさせられるいいお話でした。
ありがとうございました。
死神の仕事は、知り合いだった者にも最後にもう一度会えるから寂しくないのか、会えるからこそ寂しいのか、などと考えてしまったり。
悲しいお話の筈なのにそう感じさせぬ、この温かい雰囲気が素晴らしかったです。
読み直して再評価
というか、死ぬんですね、やっぱり
小町と同じこと思ってしまいました
彼女の死はそれだけ私にとってイメージしにくいものでした。
生きてるからには当たり前に訪れることなのにね。