前作、「信仰は儚き人間の為に」の続きだったりします。
これ単品で読むとちょっとわかんない部分があるかもしれません。
ちょっとだけオリキャラも活躍します。ご注意ください。
諏訪の神社、そして諏訪湖が突如消えた。日本中を震撼させるこの大異変の真相を知っている早苗は、もうここにいない。
早苗と同じ高校に通い、彼女の一番の親友だった優希は、彼女がいなくなる前に書いた手紙を握り、消えた神社の跡地へと来ていた。優希の隣には同じく早苗のクラスメイトだった少年、鈴木がいる。
二人は人混みを裂き、無理矢理切れ目を作って縫い込むように突き進む。鈴木は離れぬように優希の手をしっかり取り、自ら先行して人の切れ目を作った。優希も鈴木に続いて、突っ込んだ。
幾度と怒鳴られ、邪険にされ、足を踏まれ、謝って、二人はようやく最前列へと辿り着く。息を肩で落ち着かせ、優希は顔を上げた。そして、優希は広がる全景に改めて愕然とした。
「何よ、これ……」
警察が張った黄色いテープの向こう、あるのは途轍もなく深く、大きく、暗い穴だけだった。神社も湖も、この世界から消失していたのだ。
「早苗ぇぇッ!!」
優希は訳もわからず叫んでいた。彼女の視界は潤み、自らの感情をぶちまけていく。
「何勝手に訳のわかんないことやってんのよぉ! 風祝って何!? あんた巫女だったんでしょ! 幻想郷って――」
「――幻想郷ってどこよぉ!」
少女が深淵とも呼べる大きな穴に向かって潤んだ声で叫んでいた。周りの人間は突如叫んだその少女に注目した。
野次馬で溢れる中、その乱雑な中には似つかわしい優美な装いをし、日傘を差した女性が立っていた。だが、女性に注目する人間は一人もいない。まるで、始めから見えていないように。彼女もまた、少女を見ていた。そしてその女性はそっと笑みを浮かべた。優雅に口元を歪ませ、愉快だと言わんばかりの端麗な笑みを、だ。
女性が少女を見ていると、少女はふと振り返る。そして、女性の姿を“見た”。女性は美麗に微笑む。
女性は微笑を浮かべたまま、“スキマ”に消えた。
今日あったことを思い出し、明日あるであろうことを思い浮かべ、早苗は星を眺めていた。明日もいつも通りの自分でいられるだろうか。早苗はそれが不安で堪らなかった。
早苗が一人夜空に馳せていると、誰かが彼女の横に付いた。早苗が横を見ると、そこにいたのは守矢の祭神、諏訪子だった。
「さて、面倒なことになって来たわね」
「面倒とは思っていませんよ」
諏訪子は早苗から視線を外し、全天に広がる星を見上げた。早苗もまた再び夜空へと視線を移す。
「ねえ、早苗。この星空、幻想郷とやらではどう映るんでしょうね?」
「もっと綺麗に映ると思いますよ。想像ですけど、辺境の地らしいですし、空気も綺麗じゃ無いんでしょうか?」
「それは楽しみね。でも、一つ困ったことがあるわ」
何ですかと早苗は夜空から諏訪子を見た。諏訪子は夜空を見たまま、問いに答える。
「ここからの夜空が見えないのよねぇ。ここの夜空、結構好きだったのに」
諏訪子は実に残念そうに言い、声色を変えて続けた。
「……別に悲しいのなら泣いてもいいと思うよ? 早苗は失うものが多過ぎるわ」
わざとなのだろう、諏訪子の口調は少し早苗を刺すものがあった。だが、早苗はある少女の顔を思い浮かべ、首を横に振る。
「友達との約束なんです。泣くときは一気に泣こうって。その方が疲れないって。泣きそうになったことは沢山あったけど、高校入ってからは一度も泣いてませんよ、私?」
「何ともまあ、合理的だね。と言っても私もここ数百年泣いて無いなぁ……」
諏訪子が溜め息を付き、早苗は苦笑をする。諏訪子は星の瞬きが散らばる夜空を見上げたまま、さらに続けた。
「後一つ、私子供いたのよね」
「へえ、そう……なのかー!?」
早苗はあまりにさらっと言われた驚愕の事実に妙な言葉遣いになってしまった。実際の年齢はさて置き、容姿は高校二年生である早苗よりも幼く見える。良くて中学生くらいだろう。そんな小さな身体で子供を生むことが大事であることくらい、経験の無い早苗にも想像できた。
「そうなのよー。ずっと昔の話。ある人間との間にね」
「ええ!? 相手は人間なんですか? びっくりですよ。神様でも人の子は産めるんですね」
「そんな大したこと無いわ。それでね、早苗に似てるなって」
「お子さんがですか?」
諏訪子は首を横に振り、笑顔で優しく言った。
「父親の方。真っ直ぐで、優しい人だったわ。ホントにもう、男版早苗って感じだったよ?」
諏訪子の言葉に早苗は苦笑する。
「男版私ですか……? あんまり見たくは無いかも。でも、とってもロマンチックですよね、神と人のラブストーリーって」
「ええ、とってもロマンチックだったと思うわ。また今度、ゆっくり話してあげるね」
早苗は今すぐにでも聞きたい気持ちがあったが、もう夜も遅い。諏訪子の言う通り、今度お茶でも楽しみながらゆっくり聞こうと早苗は頷いた。
「ねえ、早苗一緒に寝ましょうか?」
「ええっ!? どうしたんですか、急に」
早苗は急なことにまた声を上げてしまった。
「私に子供がいたっていったでしょ? だからよ」
諏訪子は自分の子供のことでも思い出したのか、理由をそう告げた。早苗はいまいち腑に落ちなかったが、断る理由も無く了承する。何より、諏訪子と一緒にいると安泰を得られた。それは神奈子といるときとは少し違うものだ。
「いいですよ。じゃあ、寝ましょうか」
今日という日を終え、残すところ後三日となる。守矢の神社は後三日で、この世界から消失するのだ。
早苗はいつも通り五時に起床し、諏訪子も早苗が起きた物音に目を覚ました。早苗は日課となっている行動に移る。いつもと違うのは諏訪子も一緒ということだ。諏訪子と一緒に弁当と軽い朝食を作り、諏訪子と一緒に食べる。二人で境内を掃除し、少し恥ずかしながらも、久しぶりに二人で朝風呂に入った。そして、早苗は制服に着替える。さすがにこの時は、諏訪子に部屋から出て行ってもらった。
早苗が着替え終わると、何故だか部屋の外が騒がしい。神奈子と諏訪子が言い争っているようだ。溜め息を吐きながらも早苗はドアを開け、様子を覗う。
「どうして早苗と一緒に寝たり、お風呂入ったりしてるの!?」
「何で、揉めてるんですか? と訊こうと思ったんですが、どうやらその必要は無いようですね」
「ええ、全くその必要性は無いわね」
諏訪子は早苗をやれやれとした声で肯定する。
「ええ、無いわ。私が怒っているのは、早苗をキズモノにした事実よ!」
「その曲解を解いてくれることを全力で祈願してもいいでしょうか、神奈子様」
早苗は辟易と、もう一度溜め息を吐いた。
――結果、神奈子を説得するのに小一時間を要した。いつの間にか、登校時間である。
「いってらっしゃーい」
「それじゃあ、行ってきますからね。もう喧嘩はしないでくださいよぉ」
早苗は言って神奈子と諏訪子、二人に背を向ける。
「ああ早苗、それと一つ」
「何ですか?」
神奈子が思い出したように早苗を呼び止めると早苗は足を止めて、少し怒気の籠もった声で振り返った。
「もう、そんなに怒らないでよ。――早苗、いまから言うことを良く聞くのよ」
神奈子は先ほどの冗談めいた面を改め、険さえも窺える表情で早苗を見た。
「この辺りに不穏な空気があるわ。瘴気にも似た、淀んだものよ。言うなれば、妖怪の気配」
「妖怪、ですか……?」
「そう。私達の計画を察知してか、それとも偶然にも妖怪の気紛れと重なったか……。どちらにせよ、妖怪の考えなんざわかったもんじゃない。もし出会ったなら、全力で神社に逃げ込みなさい」
早苗はしっかりと頷く。妖怪の全てが幻想郷にいるわけではないのだろうか。もしかしたら幻想郷から出向いて来たのかもしれない。不安を残しながらも、早苗は学校へ向かうことにした。
今日も一日、何ら変わりのない高校生活が始まった。四時限目、今は古典の時間だ。早苗は教室を見渡す。皆が皆真面目というわけではないが、割と真剣に授業に取り組んでいる。早苗は、ふと視界が潤んでいることに気付く。
……まだ、泣くときじゃない。
早苗は必死で自分に言い聞かせる。彼女は決行の日が近付くにつれて、情緒が安定しないことに焦燥を感じていた。もし誰かに気付かれ、全てを話してしまったら、別れは余計に辛くなるだけだろう。自分はそれほど強くないと、早苗自身わかっているのだ。弱みを見せてしまえば、溜め込んでいるものが決壊してしまうだろうと。
「橘、起きろ橘! 立て!」
先生が机に突っ伏して寝ていた男子生徒、橘に叫んだ。クラスから笑いが生まれる。
「んぁ、はぁい。やっべ、マジ寝てた……」
橘はゆっくりと起き、立ち上がる。橘の緊張感の無い言葉に、クラスメイトの余計に笑い声が大きくなる。
「部活キツイのはわかるが、もうちょっと頑張れ。で、橘。旧暦で十月を何て言う?」
「先生、俺を舐めないでくださいよ? 寝起きでもわかります。神無月でしょ?」
橘は自信満々に胸を張って答えた。
「ああ、惜しいな。この辺はちょっと違うんだ。というわけで、特別に放課後小テストやってやる」
「ちょっと待ってよ、先生。正解でしょ? ていうか、小テストとか聞いてないって!」
「小テストはぐっすり寝てた罰だよ、諦めろ。まあ、正解したらチャラでも良かったんだけどな。で、東風谷正解は?」
早苗は急に当てられて驚くが、当てられた理由を考えれば自分が適任だということに気付く。
「えっと、神在月です」
「え? それって出雲の方じゃ無かったっけ?」
女子生徒が疑問を漏らす。女子生徒には先生が答えた。
「お、良く知ってるな。十月は日本中の神様が出雲に集まるから、出雲では神在月、他の所では居なくなるから神無月って言うんだ。それじゃ東風谷。何でここらが、神在月というか説明してやってくれ」
早苗ははいと、返事をして立ち上がった。
「私が住んでいる神社の祭神、タケミナカタ様が出雲に出向かれないのは、出雲のタケミカヅチ様と国の最高権力を賭けて勝負をし、負けてしまったからなのです。タケミナカタ様は敗走し、この地を訪れました。ですがここには、モレヤという神様と祟り神のミシャグジ様がいました。そこでタケミナカタ様はこの地に攻め込み、モレヤ様を追い出し、この地に君臨したというわけです。負けた相手の所へ、顔を出すわけにもいかず、タケミナカタ様はずっとここへおられるということですね」
というのが、日本神話の見解であった。早苗は簡略して話したが、話の大体はクラスの皆に伝わったようだった。
だが、この話の真相を早苗は知らなかった。彼女もまた日本神話上でしか、自らの神社の祭神の過去を知らなかったのだ。神奈子に聞いても諏訪子に聞いても、口を揃えて「喧嘩になるから嫌だ」と言われてしまう。だから、何故自分の神社には神話の名義とは違う二人の祭神がいるのか、わからなかった。
「興味を持ったなら、地域の神話なんかも調べてみると面白いぞ。じゃあそろそろ時間だし、終わりにしようか。東風谷、号令頼む」
早苗は立ったまま起立と号令を掛け、皆を立たせる。次に礼と言い、クラスの皆が従い、礼をする。
昼休み、早苗はいつものように後ろの席の優希と向かいあって、弁当を食べていた。
「早苗、土曜暇ー? 映画見に行かない?」
「うーん、十一時くらいからならいいですよ。何見に行きたいんですか?」
早苗はその日の予定を思い出し、返答をした。午前中は何かと神社の管理があったが、十一時には片付くだろうと踏んでの答えだ。
「オッケ、十一時ぐらいね。映画はねぇ、『神隠し』ってやつ」
「それって、怖いのじゃ……」
『神隠し』、最近話題のホラー映画だ。早苗はあまり得意な方では無かった。そして、行こうと言っている張本人の優希は大が付くほど苦手だった。
「うん、死ぬほど苦手なホラー」
「何でわざわざ、そんなの見に行くの?」
「早苗が抱きついてくれるかなって。それか私が抱きつく」
「どっちも嫌ですよ。もっと違うのにしましょうよ……」
「いーやーだー。怖いもの見たさってあるでしょ?」
「そんなこと言って、いつも楽しむ余裕無いじゃないですか」
早苗は溜め息を一つ吐き、続ける。
「それにね、優希がしがみ付くとすごく痛いんですよ? 爪とか食い込んで」
「あはは、そりゃあれだ。だって私必死だもん。まあ考えてみりゃ、いっつも早苗にしがみ付いてばっかってのもつまらないわね。よし、たまには男でも誘おうか」
早苗は優希の唐突な思い付きにやれやれともう一度溜め息を吐いた。そんな早苗を尻目に、優希は教室を見渡し、男子を物色している。そこへ、鈴木が近付いてきた。
「東風谷、もう一個教えて欲しい問題があったんだけど……、って何、優希。また何か思いついたの?」
「あんた良く人の考えがわかるわね。で、鈴木明日暇?」
「ああ、ちょうど部活も無くなちゃったし、暇だけど」
「良し、映画見に行こう。十一時に、早苗の神社集合ね」
優希は鈴木の有無を聞かぬまま、話を進めた。
「はいはい、わかったよ。十一時に東風谷の神社ね」
鈴木もやれやれとした声で了承するあたり、優希との付き合い方がわかっていると早苗は苦笑して鈴木を見た。鈴木も早苗に苦笑で答える。
「鈴木君、問題どこ?」
「ああ、そうだった。ここ」
鈴木は本件を思い出して、携えてきた英語の教科書を広げ、指を指して早苗に見せる。早苗は箸を置き、鈴木が示した箇所を見る。
「えっと、ここはね――」
早苗が言い掛けて、鈴木は早苗の言葉を遮る。
「あっ、いいよ。先に弁当食べなよ」
と言い、鈴木は隣の席の椅子を借り、早苗達の横に座った。早苗は頷き、箸を再び持って、弁当を口に運んでいった。談笑には鈴木も加わり、昼休みはあっと言う間に過ぎた。
早苗は一人、帰路に着いていた。何故彼女は帰宅部なのかと問われれば、理由は簡単で神社の管理があるからである。昼間は代理の管理者を何人か立てているが、夕方からは早苗が一人で管理することになっている。
一人で事足りるのは、神罰のおかげである。神奈子と諏訪子が神社を見張っているので、警備の手間が省けているのである。例え強盗が入ってこようと、神の力に太刀打ち出来なる筈無いのだ。神罰が下ると噂も広まって、神社に悪事を働かそうという者は早苗が生まれる以前から一度も出て来ていない。掃除や建築物の手入れも月に一回業者を呼んでいるし、早苗も小まめにしているので問題無い。
かといって昔から一人で管理しているわけでは無かった。元は祖母と二人で管理していたのだが、祖母は早苗が中学二年のときに死去、それからは一人である。両親は神社を離れ、名古屋で教師をしている。どうやら昔、いざこざがあったようで神社には帰らないと決めているようだ。早苗の母は巫女である前に、女として暮らしたかったらしい。早苗が生まれると、母も早苗を祖母に会わせないわけにもいかず、早苗は神社にたびたび遊びに来ていた。もうそのときは祖母もとっくに母を許していた。早苗は小さい頃から慣れ親しんだ神社が好きだった。そして、早苗は祖母と暮らし、巫女になることを決めたのだ。
許しを得たからといって、両親は生徒を放って帰ってくることが出来ず、早苗のことは“八坂様”と“洩矢様”に任せようということになったのだ。早苗が実質一人暮らしを出来ているのは、信頼の置ける神様のお陰であった。
夕焼けの空を見上げ、早苗は明日も晴れるのだろうと翌日の晴天を嬉しく思った。雲だってほとんど無い。天気予報でも、今週一杯はずっと晴れると言っていた。
――だが、嵐は突如やって来る。そして、日曜の全国のニュースは天気どころでは無いだろう。早苗は慌てふためくであろう世の中に、申し訳無さを感じた。もし自分が逆の立場だったらと思うと、募る苦痛はより多大なものとなる。身近な人間が突如として消えるのだ。それこそ死去するよりも納得出来ない。
早苗は陰鬱な考えを頭から振り払う。最近独りになると、すぐ悲しい考えをしてしまっている。早苗は歩調を速め、帰宅を急いだ。
「お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ。早苗ちゃん頑張ってね」
早苗は巫女服に着替えて、代理の管理者の男と変わり、売店の椅子に座った。赤い袴のこの装束とも、もうお別れだった。神奈子によると、幻想郷への出発に向けて、“風祝”としての装束が用意してあるらしい。
早苗は売店から、神社の風景を眺める。参拝者は数人いる程度で、もう日は沈みかけていた。朱に染まる石畳に、人が長い影を作る。早苗はこの風景を何百回と見てきた。祖母と、母と、幾人もの人と一緒に、自然と人工、信仰と信心が作り出す美麗な景色を見てきたのだ。
「お姉ちゃん。お守りください」
早苗は神社の風景に見惚れていて、いつの間にかカウンターの下に来ていた女の子に気付いていなかった。まだ五歳くらいだろうか、小銭を握り、少し恥ずかしそうに立っている。少し遠くには女の子を見守る男の姿があった。父親だろう。
「何のお守りがいいですか?」
早苗は訊きながら、カウンターから立ち上がって女の子の横に回った。
「あのね、赤ちゃんのお守り! もうすぐね、妹が生まれるの!」
「安産祈願だね。五百円になります」
早苗は女の子から百円玉五枚を受け取る。
「丁度ですね、ありがとう」
にっこりと微笑みながら早苗は、お守りを紙袋に入れる。そして、包んだお守りを女の子に手渡して、女の子に優しく言う。
「あのね、お守りはただ渡すだけじゃダメよ? ちゃんとね、願いを込めるの。ここにはね、八坂様っていう神様と洩矢様っていう神様がいるんです。すごい神様だから、ちゃんと願いを叶えてくれるんだよ?」
「やさかさまと、もりやさま?」
「うん。ちゃんとお願いしましょうね?」
「うん、わかったー。やさかさま、もりやさま、おねがいします。赤ちゃんが元気に生まれてきますように」
早苗の目前の女の子は目を伏せ、両手で紙袋に入ったお守りを挟み、祈願をした。罪悪の念を感じながらも微笑み、早苗は女の子の頭を撫でる。
「はい、神様はきっと叶えてくれますよ」
「うん、お姉ちゃん。バイバーイ!」
女の子はお守りをしっかり握って走り出し、父親のところまで危なっかしく駆けていった。早苗は父親と手を繋いで帰る小さな少女の姿を見えなくなるまで見送った。
「早苗、子供の信仰心というのは実に素直でいいものさ」
ふと現れた神奈子が微笑を浮かべて告げた。
「神奈子様、私いい加減なことを言ってしまいました……」
早苗は抑揚の無い落ちた声で苦しそうに吐き出した。声は少し震えを持ち、彼女の感情今にも決壊しそうだった。
「いい加減なことじゃない。信仰は信じる心よ? 信心を通せば願いは叶う。信仰を忘れた人間は信心を忘れた人間。それは人間の死に近いわ。信仰を得られない神と同じようにね」
神奈子は早苗の頭に手を置いて、続けた。
「泣くな、早苗。まだそのときじゃ無いんでしょ?」
「はい、まだ泣くときじゃないです」
早苗は自分に言い聞かせるように、復唱した。早苗は瞳を伏せ、昂ぶった感情を押さえつけて、彼女はさらに言葉を放つ。
「私は幻想の地をこの目で見てみたい。奇跡の秘境の風を、この身で感じてみたいんです。例え何を犠牲にしても、風祝として、神奈子様、諏訪子様とご一緒に幻想郷へと行ってみたいのです」
早苗の言葉には確固とした覚悟があった。早苗は迷いなど微塵も無いほどに真っ直ぐと、神奈子の瞳を見る。神奈子も早苗の直視に答えるように、早苗に微笑んで彼女の頭を撫でた。早苗が先ほど女の子を撫でたように、慈しみの伝わる優しい手。早苗は神奈子の手を嬉しく思い、涙は失せて、代わりに笑顔が零れた。
「早苗、ごめんなさい。そして、ありがとう」
今日も早苗は諏訪子と境内から星を眺めていた。二人の間には特に会話は無く、その場には心地よい静寂があった。幾億の光の群れに早苗は見惚れ、星々の輝きに馳せていた。
「ねえ、早苗はあっちに行って具体的にはどうするつもりなの?」
諏訪子は唐突に早苗に訊ねる。早苗は諏訪子の方を向き、少し困ったような表情で答えた。
「そうですね、具体的にはあまり考えていないんですよ。うーん、自分の力を試してみたいですが、まずは神奈子様と諏訪子様の信仰を取り戻すことが先決でしょうね」
ある程度は考えているものの、幻想郷の実状を知らない早苗は実質的な思惑を考えていなかった。ただ、いくら妖怪だろうと神徳の力の前に敵うはずが無い。つまり幻想郷の実権を握るのを神奈子だろうと、早苗は踏んでいた。少し横暴かもしれないが、野蛮だと聞く妖怪達が蔓延る幻想郷に神の徳を広めるには、幻想の地を押さえるのが一番早いと、早苗は考えていたのであった。
「そんな上手く行くかしらねぇ?」
「しなければならないのです。信仰を集め、徳を広めるためには」
「信仰か……。早苗はどうして神々が信仰を得られなくなったと思う?」
諏訪子は早苗に訊ねる。諏訪子の問いはどこか寂寥を潜めているように早苗は感じた。
「科学や文明の進展では無いでしょうか? 目に見えて進歩する科学に人は信仰心に似た心を寄せているからだと思います」
科学の進展は人間の意識を変えた。遥か昔には神に頼らざるを得なかったことも、今の時代は科学が簡単に与えてくれる。科学は幾度と無く奇跡を起こし続けたのだ。だから人は科学の徳を尊び、科学を信仰するようになったのだろう、と早苗は考えていた。
「そうね。それも一つの答えだわ。だけどね、もっと簡単に説明出来るわよ。科学や文明が進歩し、社会が豊かになったわ。同時に淘汰されるものもある。つまりね、神は必要で無くなったのよ」
諏訪子は悄然と告げた。早苗は彼女自身の存在を否定する諏訪子の言葉に、憤怒と悲哀を覚え、声を荒げて反論した。
「そんなこと……! 現に人は今でも神様に頼りっきりです!」
早苗は思わず口走ってしまった言葉に、ばつの悪さを感じた。反駁した諏訪子の言葉は、日頃自分が思っていたことなのである。早苗は寂しげな諏訪子が嫌で、咄嗟に言い放ってしまったのだった。
「ええ、そうかもね。だから、秋はちゃんとやってくる」
諏訪子は夜空を見上げて続ける。早苗は諏訪子の顔を見られずに俯いていた。
「秋がやってくるのは秋を好む人がいるからよ。それは秋に向けられた信仰心。秋は人にとって必要なもので、科学による代用が利かないから。だから秋の神が消えることは無いわ」
「……でも、それでも……。人は神様を忘れています」
早苗は俯いたまま苦しげに言った。諏訪子は腕を伸ばし、自らよりも背の高い早苗の頭を撫でた。
「大丈夫よ。この国から神がいなくなるとき、それは科学が神になったときよ。四季さえも科学の力で何とか出来てしまったら、それこそ神の立つ瀬なんて無いものね。だけど、幾重にも自然が交差した季節の美しさは作り出せるものじゃない。他にも人の手じゃ作り出せないものは沢山あるわ」
撫でられた頭の心地よさに、早苗は諏訪子を見る。早苗と目が合った諏訪子は苦笑をした。
「人間には時代というものがあるわ。変われなかったのは私達の方よ。だから淘汰されるのは必然のこと」
「そんなの、私は嫌です。神様は使い捨てじゃないんですから」
早苗は諏訪子に訴え掛けるように吐き出す。だが、ここには本当に訴えるべき者はいないのだ。いるのは神と神でもある人間だけ、だった。
「そうやって豊かさを手に入れてきたのがこの国よ。そして、そんな人間達だからこそ、信仰を得られてきたこともまた事実。信仰というのは必要性に流れていくものなのよ。……本当はこういう言い方したくは無いんだけどね」
「私もです。私も人間を信じていますから」
早苗は強く言い切った。諏訪子も頷き、澄んだ笑顔が咲く。
信仰は信心の上で成り立つと神奈子は言った。信仰は必要の上で成り立つと諏訪子は言った。そして、早苗は思う。信仰とは人間の活動原理そのものではないか、と。信じることを忘れ、物事に必要性を失くした人間が人間でいられる筈無いのだ。社会で磨耗していく人間は、そのことを忘れてしまっているのだろう。消えて、幻想と果てた信仰とはまさにそれなのだ、と早苗は解した。
最後の高校生活、早苗は思い残すことが無いように、思い切り楽しんだ。とはいっても、いつもと同じことをしただけだ。授業をしっかり受け、放課中は友達と話す。普遍性の無いいつも通りの一日。周りの人間にはそんないつかは忘れるであろう一日だった。だが、早苗は違う。きっと一生忘れないだろうという大切な一日だ。
午前の授業も終わり、変わりない騒々しい昼休みだった。いつも同じように優希と向かい合い、もう一人隣には鈴木を迎えて、早苗は談笑を楽しんでいた。そんな中、早苗はふと昨日の夜の諏訪子との会話を思い出していた。
「ねえ、優希。優希は神様が本当にいると思いますか?」
「何、急に? そうね、早苗はどう思う?」
質問をされた優希は、早苗に質問で返す。
「私ですか? 神様はいる、と思いますよ」
「じゃあ、いる」
早苗の答えを聞いた優希はすかさず答えた。彼女の答えに早苗は不満を漏らす。
「じゃあ、って何ですか。真面目に聞いてるんですから、真面目に答えてくださいよ」
「私は至って真面目よ? だって、巫女の早苗がいるって言ってるんだもん、神様はいるよ。そりゃ、バイトの巫女が神様はいるなんていっても信憑性無いだろうけど、本当の巫女、しかも早苗が迷い無くいるって言ったら信じるに値するでしょ?」
「また屁理屈っぽいことを……」
「論理的って言って欲しいわね。神様の存在をどのように信じるかなんて一個人の自由だし、奇跡体験をして信じようが、私のように巫女の話を信じようが、信じることは同じよ」
早苗は反論できなかった。優希は早苗を論破した褒美と言わんばかりに早苗の頬を指で突っ突いた。だが、早苗は何も言えない。勝者は敗者に従うものなのだ。
「止めてやれって、かわいそうだろ……」
鈴木は優希に制止の言葉を掛けるが、そんな言葉を素直に聞き入れる彼女では無かった。優希はほくそ笑み、早苗の頬をさらに突っ突く。
「勝てば官軍だもんねー。柔らかほっぺは私のものだもん。鈴木ぃ、僻むなって。そういう、あんたはどうなの? 神様はいると思う?」
「いると思うよ。やっぱり奇跡ってのはあるし、それが起こせるのは神様だけだと思う。まあ、優希じゃないけど東風谷が言い切ってくれると納得できるし」
「それは喜んでいいのかな?」
早苗は頬を突かれながら、腑に落ちない声で言った。
「喜ぶべきことだよ。早苗の人間性を信じてるってことだもん」
「そういうこと」
優希は散々突っ突いた指を引いて告げ、鈴木も彼女の言葉に同意する。
「私は巫女を信じてるわけではなく、巫女である早苗を信じてるの。早苗は滅多なことが無いかぎり嘘を付かない」
優希は微笑を加えて、早苗に告げた。優希や鈴木、クラスメイトと接していると早苗は自分が幸いなのだと思い知らされる。それを捨てるに値する価値が本当に幻想郷にあるのだろうか、と早苗を苦悩させるのだった。
……どうして、ここまで来て迷う必要があるの?
早苗は自分自身に問うた。彼女は問いを心中で反芻する。幻想郷に行くと決めたのは早苗自身だ。“八坂様”でも“洩矢様”でも無い、早苗自身だったのだ。
……私は、幻想郷に行きます。
早苗は自身に答えを出した。もう早苗は揺らぐことは無く、自分自身を信じる。
放課後、ほとんど生徒が部活に向かい、教室に残る生徒は少数だった。早苗もまた帰りの準備をしていた。後、十数分でこの高校とも永訣ということである。耐え難い寂寥感が、早苗の胸に大きく巣食っていた。
早苗は自身で作って、二日前カーテンのレールに括りつけたてるてる坊主を見上げた。来週の体育祭は晴れるだろうか、と不安を覚える。それにもしかしたら体育祭も中止かもしれない。だが、早苗はそんな思いを振り払った。信じることが大切なのだ。雨は降らないし、体育祭も行なわれる、と早苗は自分に言い聞かせた。
早苗は昨夜、諏訪子と話した後に書いた手紙を鞄から取り出す。自身の感情を書き連ね、これから起こる一連の大事を説明する手紙だ。早苗はその手紙をそっと自分の机の中に忍ばせた。
早苗は一息吐き、もう思い残すことは無いか考えた。少し思考を巡らすだけで、思い付くことは山ほど出てきた。早苗は考えることを止めた。
……いつも通り、帰ろう。
早苗にとって、それが今一番大切で、すべきことだった。
映え渡る蒼穹、遊びに行くには十分すぎるほど清々しい日和だ。早苗は巫女服を着て、石畳を掃いていた。早苗は今着ている巫女服も学校の制服も、たまには幻想郷で着ようと思っていた。どうせ思い出に取っておくのだから、思い出に浸るのなら着た方が面白いと考えたのだ。
ふと早苗は鳥居の方を見た。そこには見知った顔が二人、優希と鈴木だ。優希が手を振り、早苗の方に駆けて来る。
「お待たせ。早苗の巫女服姿はいつ見ても可愛いわね」
「ははは……、ありがと。鈴木君と一緒だったんだ」
少し遅れて、鈴木も早苗の近くへと来た。
「おはよう。噂に聞いてたけど、東風谷って巫女服似合うな……」
鈴木は感心したように言った。鈴木の言葉に早苗は顔を赤らめた。鈴木も自分で言ったことに気が付いたのか、少し顔を赤らめる。
「うわ、鈴木は大丈夫だと思ったのに。こいつも変態かよ」
「真性のお前だけには言われたく無かったけどな。不覚にも巫女服もアリだと気付いた」
「だから前々から言ってたのに。写真買っときゃ良かったね」
早苗は優希の聞き捨てなら無い台詞をしっかりと拾った。
「ちょっと待ってください!? 写真って何!?」
「もちろん、巫女服の早苗。大丈夫よ、売りつけたのは女子だけだから。唯一の男子だった鈴木も買わなかったしね」
優希は親指をグッと立てて、早苗に安堵感を与えた。だが、早苗に伝わったのは冷淡な非情だけだった。
「人の写真で何一儲けしてるんですか!? 罰当てますよ、罰!」
「ああ、もう終わったことじゃない。さっさと着替えてこないと、映画始まっちゃうよ? それにね、神様だって欲しがっちゃうほど可愛い写真なんだから。この可愛さ広めたところで罰なんて当たらないわ」
早苗は悔しいことに反論出来なかった。
……神奈子様なら絶対に欲しがる……。
苦渋を舐めさせられた気分だが、ここで口論していても仕方が無いと早苗は着替えに行くことにした。
早苗は着替え、代理の管理者に後のことを頼んで、優希と鈴木、二人と共に神社を出発した。目指すは最近建てられたショッピングモールだ。早苗達は少し歩き、バスに乗ってショッピングモールに向かった。二十分くらいすると、バスの中から大きな建物が見えた。その近くのバス停で早苗達は降りる。他にも何人かがバスから降りた。土曜日ということもあって、ショッピングモールの駐車場には何台もの自動車が止まり、中は人で溢れていた。
早苗達はまず映画館に向かった。上映時間は午後一時半から、優希が今朝新聞で確認した通りだった。現在の時刻は十一時三十六分、上映まで二時間ほどある。取り敢えず、三人はチケットを買い、ファミレスで昼食を取ることにした。
早苗はクリームパスタを、優希はオムライス、鈴木はハンバーグ定食をそれぞれ頼んだ。ややあって、ウェイトレスがクリームパスタ、ハンバーグ定食、オムライスの順で注文した品を持ってくる。
早苗はクリームパスタを前にして手を合わせ、しっかりと「頂きます」と言う。早苗の一連を見ていた優希は、少し可笑しそうに早苗に告げる。
「ホント、早苗ってそういうのきっちりしてるよね。可愛いな、もうっ」
「優希に同意」
優希の言葉に鈴木も笑いながら同意した。
「鈴木君までそう思ってるんですか?」
早苗は口を尖らせて漏らす。そんな早苗の態度に鈴木は慌てて付け加える。
「いや、別に変な意味じゃないよ。ただ、そういうのって大事なことだよな、って感心しただけ。自分にも言えることだし、何だか日本人ってそういうこと忘れてる気がするしさ」
早苗は鈴木の言葉にそっと微笑んだ。
「“頂きます”も“ご馳走様”も立派な信仰ですから。犠牲になってくれた命に、一生懸命育てて下さった農家の方に、そして豊穣の神様や収穫の神様、いろいろな神様に対する信仰の一つなんですよ」
鈴木は早苗を真摯な態度でじっと見ていた。優希も微笑を浮かべて早苗の話を聞いている。
「信仰は、この世界に溢れています。何てったって、八百万の神々に見守られているんですから。信仰とは信じる心ですよ。信じれば、神様は微笑んでくださいます」
早苗は言い切ってから、少し熱が入ってしまったと顔を赤らめて苦笑した。優希は早苗に笑い掛け、鈴木は自らの目の前にあるハンバーグに見る。そして彼は手を合わせ、「頂きます」とはっきり言った。
「いつもいい加減だった気がするから、これからはちゃんと言わなきゃな」
「そうだね。信仰は信じる心、か……」
微笑む優希は静かに呟いた。
一頻り談笑を楽しんだ三人は、再び映画館へ向かった。ポップコーンとジュースを買って、上映までは二十一分、チケットを店員に渡し、館内に続く通路に入る。長い通路にいくつもの入り口があった。入り口には番号が振ってあり、上映する映画のポスターが立ててある。
早苗達が見る映画、『神隠し』は十七番、割と奥の方だ。十七番の入り口から館内に入り、早苗達は割り振られた席を探した。ちょうど中間の見やすい席だ。鈴木を真ん中に、向かって右に早苗、左に優希という形で座る。早苗は上映前にトイレへ行って置こうと二人に断って、館内を出てトイレに向かった。
――そして、再び館内に向かう途中、早苗は脇を通り過ぎたその女のあまりの異様さに振り返った。華やかな衣服を身に纏い、長く艶やかなに輝く髪を揺らし、妖しく端麗な嬌笑を浮かべていた彼女を何故、“通り過ぎるまで”気が付かなかったのか。何故もうすでに振り向いた先に彼女は、“いない”のか。早苗を得体知れない不安が飲み込もうとしていた。これは単純な恐怖ではない。もっと違う、心の奥に眠る何かを騒々しく叩く感覚。早苗はその感覚を一度も感じたことが無い筈だった。だが、身体のどこかはその感覚を覚えている。
……あれは、人じゃない……。
早苗は自分の中で、いつの間にか結論を出していた。人で無ければ何なのだというのだろうか。幽霊だろうか。いや違う、もっと暴悪な存在だ。早苗の頭は恐怖に気圧されるように、思考を巡らせていた。
……妖怪……?
神奈子が言っていた妖怪だろう。早苗は自らが達した結論に妙に納得してしまっていた。まるで妖怪というものを知っているかのように、だ。
「東風谷、どうかしたのか?」
早苗は急に掛けられた声に顔を上げた。声の主は鈴木だった。鈴木は早苗の様子を心配そうに、窺っていた。どうやら早苗は回りに目が行き届かないほど沈潜してしまっていたらしい。早苗は慌てて思考を切り、険の表情を解いた。
「ううん、何でもない。ちょっと考えごとしてただけです。鈴木君こそ、どうしたの?」
早苗の取り繕った言葉に、鈴木は少し怪訝さが残った声で答えた。
「ああ、うん、俺もトイレ言っとこうかなと思って。本当に大丈夫か? 気分悪いなら言ってくれよ」
「うん、ありがとう。本当に大丈夫だから、気にしないでください。じゃあ、先に行ってますね」
早苗は霧の晴れぬ心情を封じ、笑顔を作って鈴木に安心を与えた。鈴木はわかったと、煮え切らない返事をして、トイレに向かった。早苗も先ほどの妖怪を気に掛けながらも、館内に戻ることにした。
早苗と鈴木が戻り、しばらくすると館内が暗くなる。それに伴って館内が寂び返る。まずスクリーンに映し出されたのは注意事項、続いて新作映画の紹介とCMだ。そして本編が始まる。
映画の内容は、今人気の女優が演じる主人公の友達がいなくなるところから始まる。主人公は友達を探し出そうと決起するが、一向に手掛かりは見つからない。そんなときに主人公は一人の女性と出会う。そして、その女性は突如包丁を取り出し、主人公に襲いかかろうとする。
ここで早苗はふと左横を見た。一瞥のつもりだったが、早苗は視線を戻すことを止める。席を二つ挟み、三つ目の席。そこに座っていた女に彼女は驚愕したからだ。
先ほどすれ違った妖怪が、実に可笑しそうに笑っているのである。
今スクリーンに映っているのは、とてもじゃないが笑えるシーンでは無い。それでもその妖怪はくすくすと愉快そうに笑っている。どこか酷薄な笑み。早苗はその笑みを不気味だと思う半面で、綺麗だとも思ってしまっていた。妖怪の考えなどわからないと神奈子は言っていたが、まさにその通りだと早苗も思った。表情からまるで思惑というものが伝わってこない。
惹き付けられているという表現が一番的確だろうか、早苗は妖怪から目を離せずにいた。すると妖怪は早苗の方を見る。
人の顔をジロジロ見るなんて失礼ですわ。早苗はあまりの事態に困惑した。
……どうして、私の頭の中に声が……。
突如、頭に響いた声は早苗の声であり、他の女性の声でもある。初めまして。そんな驚くことでも無いわよ。少し、自意識と他意識の境界を弄っただけよ、と早苗は理解する。あなたを取って食おうなんて思ってないわ。妖怪は、早苗を文字通り取って食おうとしているわけでは無い。早苗の意識に入り込んだ声は頭の中を反響し、早苗を混乱させ、納得させた。私も映画とやらを見てみたいだけよ。妖怪は映画を純粋に見に来ただけだ。早苗達を手に掛けようとしているわけでは無いのだろう。入り込んでくる声は、早苗の意識を操った。意識を操られるというのは何とも不快な感覚で早苗は、気味悪いでしょうからそろそろお暇させていただくわと思った。
「また会いましょう。少なくとも私はあなた達を歓迎するわ」
声は頭の中に、では無く、耳元からだった。早苗は声に咄嗟に振り向く。だが、そこに彼女の姿は無かった。代わりにあったのは、突然振り向いた早苗に対しての怪訝の視線だ。早苗は小さな声ですいませんと言って、視線をスクリーンに戻す。
「どうした東風谷?」
鈴木は声を殺して早苗を気に掛けた。早苗は鈴木の方を向き、
「ううん、ちょっと虫が入り込んでたみたい」
と適当なことを言って茶を濁した。
「なら、いいんだけど……、その……、手が痛い」
言われて早苗は視線を落とす。彼女の手は鈴木の手を強く握っていた。早苗は慌てて鈴木の手から自分の手を離した。
「ごめんなさい。気付かなかった」
「別にいいよ。優希になんてさっきから爪立てられっぱなし」
鈴木は苦笑し、早苗は優希の様子を確認する。鈴木の言う通り、優希は鈴木にしがみ付きながら、スクリーンを必死に見ていた。
映画も見終わり、早苗達三人は軽く買い物をしてから帰路に着き、今はバスの中だ。窓の外は夕暮れを越し、空には日の残光と対照的に輝きを増す星々の姿が見受けられた。早苗達は最後列に映画館と同様、三人並んで座っていた。向かって右から早苗、優希、鈴木はずっと自分の右腕を摩っている。
「ああ、痛い……。地味に痛い」
「情けないわね。男ならそれぐらい我慢したら?」
優希はやれやれとした声で言う。当然、鈴木はその言葉に納得出切るはずが無い。
「お前が言うか? 普通血が滲むまでしがみ付かないだろ?」
「怖かったんだもん。仕方無いじゃん」
「もう、二人とも落ち着いて」
険悪な雰囲気の二人を早苗は苦笑で宥める。
「非があるのはどう考えても優希ですし、鈴木君に謝りましょう、ね?」
「おいおい、早苗までコイツの味方ですか。そうですか」
早苗の言葉に優希は納得せず、ふて腐れて拗ねる。早苗は代わらず苦笑で、子供をあやすように言った。
「はいはい、すぐそうやって拗ねないの。鈴木君にごめんなさいを言いましょう」
「……わかったわよ。ごめんなさい」
「もういいけどさ。何で小学生レベルの会話してんだろうな。何か優希といるとペース乱れるよ」
鈴木は溜め息を吐く。優希もやれやれとした声で言った。
「まあ、お互いその程度の精神年齢ってことじゃない」
「東風谷はそこらのバランスを取ってくれると。優希と東風谷が仲良い理由、わかったような気がする」
言われ、早苗はそれは違うと思った。
「私も子供だと思いますよ? 優希や鈴木君より、ずっと」
早苗は自分が子供であることを自覚していた。それはこれから神奈子が起こす大事に乗ることが、多大な迷惑が掛かる我侭だとわかっていたからである。我侭は子供が言うもの、自分を抑えられない子供が言うものだ。
「でもまあ、早苗ってたまに子供っぽいところあるよね。そこがまた可愛いんだけど」
「でも実際俺達なんかよりしっかりしてるだろ。神社の管理なんかもちゃんとやってるしさ」
「それは神社が好きだからですよ。好きだから、離れたくないから、一人で住めるように頑張っているだけですよ」
三人が話し込んでいると、いつの間にか降りるバス停が近付いていた。次は神社前と告げられ、早苗は停車ボタンを押す。程無くしてバスは止まり、早苗達は荷物を持ってバスを降りた。
「じゃあ、今日は解散と言うことで」
「ああ、じゃあまた月曜な」
優希が解散を掛けて、鈴木もそれに従う。早苗は今日という日を終えるのが、堪らなく怖く、悲しく、辛く、苦しかった。全ての感情が負の方へと流されて行き、こうやって話している自分の笑顔にも自信が無かった。本当に今日を楽しめたのかと、早苗は疑問さえ覚えていた。
別れを言えば、今日がもう終わる。そう思うと早苗は言葉を発することが出来なかった。
「早苗、どうかしたの?」
早苗は首を横に振る。心配そうに早苗を見る優希と鈴木を安心付ける為、そして別れを恐れる自分を否定する為に。
「何でもないですよ。それじゃあね、さよなら。……それと一つ、今日はちゃんと雨戸を閉めて置いてくださいね。嵐が来ますから……」
「なあ、優希。今日の東風谷、どっかおかしかったよな?」
優希と鈴木は途中まで街灯が照らす同じ帰路を辿っていた。距離こそ鈴木の家の方が遠いが、方角的に一緒なのだ。
「うん。ありゃ、何か苦しいことでもあるんだろうね」
優希は何でも無いようにさらっと言った。鈴木は彼女の淡々とした態度に呆れていた。
「お前なぁ、わかってんなら心配してやれよ」
「早苗は他人から悩みを聞き出されるの好きじゃないからね、自分から話さないかぎり打ち明けないと思うわ。それに私は、早苗を信じてるから」
優希は笑顔で信じていると言い切った。優希にとって早苗は誇れる親友なのだ。
「……そっか。本当に羨ましいよ、東風谷と優希って」
「僻むなって。じゃあね、私こっちだから」
「家まで送ってくよ。もう暗いしな」
優希は頷き、鈴木は彼女と共に辻を曲がった。鈴木にこうして家まで送られることもさほど珍しいことでは無かった。鈴木と優希は高校に入ってからの付き合いだが、お互いに話しやすい相手だと感じている。異性という壁も無く、良き友人同士だ。
「なあ、優希。そういや、東風谷が言ってた嵐って何だろうな」
「ああ、そう言えば。天気予報じゃそんなこと言ってなかったのにね」
優希は不思議に思いながらも、帰ったら部屋の雨戸を閉めようと考えていた。
早苗が帰り、自室に向かった。部屋に辿り着き、戸を開けた瞬間、その光景に愕然とした。ベッドの上で神奈子が諏訪子の上にまたがっていた。神奈子は諏訪子の服に手を掛け、諏訪子はその手を阻止しようとベッドの上で暴れている。
「人のベッドで何やってるんですか!?」
「あら、お帰りなさい。暇だったから諏訪子で遊ぼうと思って」
神奈子は顔だけを早苗に向けて、まるで悪びれた様子も無く、ごく普通に早苗を迎えた。その隙を見て諏訪子は神奈子を自身の右に払い除ける。神奈子は姿勢を崩し倒れた。すかさず諏訪子は立ち上がって、早苗の後ろに隠れた。
「あいつ酷いのよ! 暇だから一緒にゲームしようって呼んでおいてね、いきなりガバーッ、って! このろくでなし、鬼畜!」
瞳いっぱいに涙を溜めている諏訪子の頭を早苗は撫でる。神奈子は起き上がり、胡坐を掻きながら頬杖を付き、嘲笑を浮かべる。
「はんっ、二人っきりになったんだ。そっちもそれを期待してたんでしょ? 何をいまさら言ってるんだか。本当は私のオンバシラが欲しかったに決まってるわ」
神奈子の物言いに早苗は少し怪訝に感じる。
「こんな外道に、私は、私はぁ……!」
諏訪子はついにおいおいと泣き出す。流石の早苗も、諏訪子のあまりに演技掛かった涙に気付く。
「……私のお部屋で本当は何してたんですか?」
早苗は溜め息を吐きながら言った。
「ああもう、諏訪子がオーバー過ぎるのよ、バレちゃったじゃない」
諏訪子が顔を上げ、泣き腫らしていたはずの顔を上げた。その顔は目こそ赤かったものの、頬に涙の跡は無い。
「あーうー、プロレスごっこよ。ちょっとテレビでやっててさ。でも畳の上じゃ痛いじゃない?」
「ちょっとでも心配した私が馬鹿でしたよ」
「心配しないで早苗、いつも私達は合意の上だから」
神奈子が言うと、早苗は少し顔を赤らめ、咳払いをした。
「そんなこと聞いてません」
「何顔赤らめてるの、早苗。遊びの話よ? あれ、早苗ってばもしかして……。ね、諏訪子?」
「その辺にしてあげなよ。早苗、ホントに顔から火噴きそうだよ」
諏訪子は苦笑いして、早苗の顔を覗き込んだ。早苗は彼女の言う通り、顔を真っ赤にし、恥ずかしさから顔を逸らした。
「さて、早苗。着替えは置いといたわ。着替えなさいな」
神奈子は立ち上がり、諏訪子も早苗から離れた。早苗はベッドの上に置いてある服に気付く。青い袴の風祝の装束だ。早苗は青い服に胸の高鳴りを感じた。異様なまでの高揚感が彼女の中で膨らんでいく。
……あれが、風祝の……。
神奈子と諏訪子は一度だけ笑い掛け、早苗の部屋を後にする。ドアが閉まる瞬間、早苗はあることを思い出し、二人を呼び止めた。
「神奈子様、諏訪子様! そういえば今日、妖怪に会いました。どうやらあの妖怪は私達を歓迎してくれているみたいです」
ドアの向こうから声が神奈子の声が聞こえた。
「そう。でもまあ、妖怪の種族にもよるが、基本的に妖怪の言葉なんて充てにならないわよ」
続けて早苗が聞いたのは諏訪子の少し揚がった声だった。
「妖怪かぁ、懐かしいわね。相変わらず狡猾なのかしら?」
「そうね、また騙し合いとかして遊びたいわね」
早苗は諏訪子と神奈子の発言に、引きつった笑みをする。
「そ、そんなことやってたんですか?」
「しょうがないじゃない。あいつらってば、人間襲いまくるから守ってあげなくちゃならなかったのよ。で、どうせやるなら楽しもうって。騙し合いだとか、戦ったりもしたわね。今消えてしまったのは、あのとき好き放題やったツケでしょう」
ドア一枚通して聞こえる神奈子の声は懐かしさに浸ったものだ。妖怪という単語に、早苗は今日の映画館でのことを思い出す。そこで早苗は不可解な事実に気が付く。
「それで、あの、妖怪の声や顔って覚えられないものなんですか?」
「いいえ、見た目こそ人間に近いし、普通は覚えていられると思うけど」
早苗は今更になって気が付いたのだ。彼女は映画館で出会った妖怪の声は愚か、顔、格好さえも覚えていなかった。妖怪に会ったという事実と妖艶なまでの色香、この二つだけは覚えているのだが、それ以外は全く覚えていない。妖怪と話したのかと問われれば、それさえもはっきりしないほど記憶から欠落していた。じゃあ何故、あの妖怪が早苗達を歓迎していると早苗は告げられたのか。答えは早苗自身でも出せなかった。
「不思議な妖怪もいるのね。少なくとも私はそんな妖怪にあったことは無いわ」
「そう、ですか……。油断なりませんね」
だが、どんな妖怪が相手だろうと早苗は屈するつもりなど皆無だ。慄然たる妖怪に圧迫されているであろう幻想郷に神徳を広める為、早苗はある種の使命感に燃えていた。大好きなこの世界と同様に、幻想郷にも平穏な暮らしをもたらしたいのだ。
「じゃあ、下行ってるわ」
神奈子が告げ、続いて早苗が強い、覚悟を込めた口調で返した。
「わかりました。少し、待っていてくださいね。ちょっと泣きます」
「そういうことは言わなくてもいいのよ、早苗」
諏訪子の苦笑の交じった声が聞こえ、早苗は顔を赤らめる。
「どうせまた顔赤くしてるんでしょ? 準備は整っているわ。後は早苗だけよ」
早苗は強固な想いの共に、
「はい、待っていてください!」
と言い放った。
早苗は着替え終わり、自身の姿を鏡に映した。その服は青い巫女服とでも言うのだろうか、何とも斬新だ。そして早苗は仕上げに蛙と蛇の髪飾りを付ける。
先ほどから窓を打つ風の音を耳にしながら吐息を一つ、早苗は窓の外を見る。星の光は雲に遮られ、地にまで届いていない。だが雲の上ではいつものように瞬いているのだろうと、彼女は見えぬ星光に思いを馳せた。日本中で、世界中で普遍を崩落させるのはこの地だけなのだ。それは早苗の偏見かもしれない、変わり続けているのかもしれない。それでも世界は“いつも通り”を繰り返しているのだ。
早苗の世界は潤む。胸が途轍もなく苦しくなり、嗚咽が漏れた。今まで溜めに溜め込んでいたものが、一気に瞳から零れる。
「ああぁ、嫌だぁ! あぁぁ、みんなと会えなくなるなんてぇ! 優希ぃ、私寂しいよぉ! お母さん、お父さん、もっといろんなこと教えて貰いたかったぁ! ご、ごめんなさい、みんなぁっ! 勝手にいなくなってぇ、迷惑かけてぇっ! ありがとう、今まで、ほん、とにぃ……、ありがとおっ!!」
胸から込み上げてくる全ての思いを涙と一緒に流し、言葉として放つ。
一気に泣こうと提案したのは優希だった。早苗は小学校に入ったばかりのころ良く虐められており、その度に泣いていた。原因は、神様は絶対にいると言い切っていたので、からかわれていたのである。そんなときに助けてくれたのが優希だった。優希は虐めていた子達に「トナカイがサンタさんいるって言ったらあんた達だって信じるでしょ? じゃあ、“みこさん”が神様いるって言うだから信じなさいよ」と言って、虐めっ子達を黙らせたのだ。そのときに約束したのが、一気に泣こうというものだった。今思うと優希はあの頃から大人だったな、と早苗は感心した。
泣き腫らすのは、確かに重労働なのだ。身体にも、心にも、相当に負担が掛かる。だから一気に泣く。
早苗は心が収まってくれるまで、ひたすらに泣いた。そして、涙はやがて枯れるものだ。どんなに辛くても、苦しくても枯れるまで泣き続ければ、次に進めることが出来る。一頻り泣いてしまえばこっちのものだと早苗は声を上げて、昂ぶった感情を止めど無く流し尽くした。
ややあって、感情の雫は頬を濡らすことを止めた。代わりに早苗から生まれたのは、澄み切った安堵と心の奥底から沸いてくる期待だった。その感情に早苗は頬を緩める。
泣き止んだ早苗は携帯を取り、優希にメールを送る。メールを送り終えると彼女は携帯の電源を切った。
外は早苗が言った通り、嵐となっていた。胸騒ぎを抑えられずにいた優希は、早苗から送られてきたメールを見て、唖然とした。すぐさま早苗に連絡を取ろうとリダイヤルで彼女の名前を見つける。だが、
『お掛けになった電話は現在、電波の――』
優希は最後まで聞くこと無く、舌打ちと共に電話を切った。これほどまでにこの女声を腹立たしく思ったことなど優希には無かった。優希はもう一度、自身に送られてきたメールを見る。
『私の机の中の手紙を見てください。さよなら』
文面はこれだけだった。優希は溜まらず、メールを返信する。きっと届いていないのだろうと知っておきながら。
……早苗、一体どうしたっていうの?
外はすでに豪雨と暴風が支配していた。地を打ち付ける雨が辺りを白く染め、視界を奪う。ときどき稲光も雷鳴と共に瞬いた。だがそんな暴風雨の中、早苗の目の前にいる神様二人は全く濡れていなかった。それは、早苗も同様である。自らを逸れて暴れ回る雨と風に、早苗は奇跡の中にいる心地よさを覚えていた。
「早苗はもう、この世界に未練はないわね?」
「未練が無いと言えば嘘になりますが、大丈夫です」
早苗は迷い無く、真っ直ぐと言い放った。
「諏訪子はどう?」
「最初っから、ほとんど未練なんて無かったわよ。勝手に私の神社を移動されるのは迷惑だけどね」
諏訪子の声色は辟易としていたが、どこか嬉々としたものがあった。
「今更そんなこと言うな。きっとあっちも楽しいわよ?」
「そうね、楽しませてもらうわ」
諏訪子は眉根を下げて、神奈子から離れた。
「神奈子様、もう神社や諏訪湖の周辺には人はいませんか?」
「ええ、大丈夫よ。誰もいないわ」
それを聞き、早苗も神奈子から離れる。
早苗が離れ終えると神奈子は諏訪子の顔を見て頷き、早苗の顔を見て微笑む。
「では、行きましょう。“八坂様”」
早苗は覚悟と共に言い、神奈子は返答として力強く頷いた。
「ええ、行きましょう、早苗。奇跡の地、――」
暴風と豪雨はより強さを増し、目を焼くような閃光と耳を突いて頭を揺らす轟音が響く。早苗は八坂の神の姿を毅然と直視した。
「――幻想郷へ!!」
その一際大きな轟音、次いでの停電に、優希は小さな悲鳴と共に飛び起きた。自室の光は消え、雨戸も締め切っている為、視界は闇に埋もれた。優希はベッドに放ってあった携帯を手探りで取る。携帯で時刻を確認すると、一時二十二分、真夜中だ。
優希はなかなか寝付けないでいた。それは早苗からの不可解なメールが気になって仕方が無いからだ。暴風雨が壁を打ち付ける音は、さらに不安と苛立ちを煽る。携帯の電池の残量も少なく、こんなことなら放っておかずに充電しておけば良かったと優希は今更ながら後悔した。そんなことを思っていると案の定、携帯のディスプレイには充電してくださいと表示され、しばらく電子音を出した後、携帯の電源は切れてしまった。
優希はもう一度、ベッドの上に寝転んだ。全てを隔てる闇と嵐の音の中、優希は安堵を得ようと目を閉じる。だが脳裏に浮かぶのは早苗の顔だ。さらに不安は募っていく。黒だけが視界を埋め、意識は闇の中に解けていくようだった。
――いつの間にか意識を失っていた優希は母親に文字通り叩き起こされた。
「優希、起きなさい! 優希っ!」
「んん? 痛いって、何ぃ、お母さん?」
寝惚けている優希はゆっくりと身体を起こした。寝不足のせいもあって身体は重い。だが、
「早苗ちゃんの神社が消えたのよ!」
優希を覚醒させるには母親の言葉だけで十分だった。
パジャマに上着だけを着た優希はニュースを見て愕然とした。テレビに映っているのは、ここら一帯の上空からの映像だが、街を隔てて明確な異質がそこにあった。巨大な穴だ。アスファルトと地層を深く抉り、昨日まで存在していたものがこの世界から欠落していた。
「何これ……」
やはり早苗からのメールは杞憂で終わってくれなかった。焦燥に駆られた優希は衝動のまま家を飛び出す。母親の呼び止める声が聞こえたような気がしたが、優希はただ神社まで駆けていった。走りながら優希は、ふと昨夜のことを思い出し、気付いた。アスファルトは濡れていたが完全に一晩で嵐は去り、空を染めるのは青色の快晴だった。嵐は、早苗と共に過ぎ去っていた。
――神社、いや神社があった場所にはこの地方周辺の人間全てが集まってきたのではないかと言うほど人だかり出来ていた。優希は肩で息を整えながら、その人の壁を見渡す。彼女が本当に見たいのは人混みなんかでは無く、奥にある神社が消えた事実だ。優希は募る苛立ちを押さえ込めず舌打ちを一つ。その直後、背後から自分の名を呼ばれた。
「優希! 携帯も繋がらないし、家行ってもさっき出て行ったって言われるし」
「鈴木、私、昨日早苗を止められたかもしれない。メールがあったの、さよならって」
優希は昨夜の自らの行動に悔恨の情を覚えていた。メールが届いたとき、何故早苗のところへ向かわなかったのだろうと今更ながらの後悔が優希の胸を突き刺す。
「お前外見てなかっただろ? あんな暴風雨の中、普通立ってられない。ほら、周り見てみろ」
優希は言われ、周りを見渡した。右方にある街路樹は薙ぎ倒されており、電灯も割れている。左のブティックのショーウィンドウも破砕していた。何せ、家を出てしばらくして未明の嵐を思い出した優希である。ただ早苗のことしか頭に無かった優希の目には、映っていなかった。
「それでも、……それでも! 早苗を……!」
優希は苦痛の声を吐き出し、対する鈴木はじっと彼女を見て無言だ。優希はどうしていいかわからず、その場にへたれ込んだ。鈴木は見かねてか、優希に声を掛ける。
「立て、優希。メール何て書いてあったんだ? さよならだけだったのか」
優希は鈴木を見上げて、力無い声で告げ、
「違う。教室に――」
自らの言葉に気が付いた。
「――そうよ、学校! 学校って開いてるわよね?」
優希の声は活力を取り戻し、彼女は立ち上がる。教室に早苗の手紙が置いてあることを思い出したのだ。
「たぶんこんな状況だし、開いてると思うけど」
「行こう! 早苗の机に手紙があるはずだわ!」
優希と鈴木は案の定開いていた学校に辿り着き、職員室へと向かった。担任から教室の鍵を受け取り、教室へと入った。そして、優希は早苗の机の中に入っていた手紙を手に取る。優希は便箋を広げ、早苗の手紙を読む。
『この手紙を読んでいるということはきっと私はもうこの世界にはいないのでしょう。何だか闘病の末に書いた手紙みたいですね。
始めに、ごめんなさい。勝手にいなくなってしまって。そして、今までありがとうございました。
私が向かったのは幻想郷という辺境の地です。信じてくれないと思いますが、その地は結界で隔たれており、普通の人間が行き来するのは無理です。
そして私は巫女では無くてですね、正確には風祝(かぜはふり)という神職に着いています。今でこそ、巫女と同じようなものですが、昔は気候を操ってこの地に安寧をもたらしていましたそうです。私も実は気候を操っていたんですよ。晴れ女の秘密はそこにあったのでした。
本当はもっとみんなと一緒にいたかった。もっともっと笑っていたかった。それでも私は自分の力と仕える神を信じ、幻想郷へ向かいます。これは私のわがままです。お母さん、お父さん、優希や鈴木君、みんなを、日本中を巻き込んだわがままです。だから、もう一度謝りますね。
ごめんなさい。優希の口からも伝えておいてください、お願いします。
そろそろ終わりにしようと思います。これ以上書いていたら、泣き出してしまいそうなので。
私は幻想郷で生きていきます。優希もそちらで頑張ってください。自分をいつまでも信じていてください。
優希、また会えるといいですね。信じましょう、再会できることを。
信仰は信じることです。信じることで叶うのですから。
早苗より』
「優希、この手紙信じれるか? 正直、わかんねえよ」
鈴木は悔しそうに、それでいて静かに言った。対して優希は頷く。
「私もわかるわけ無いじゃない? だから、文句言いに行くわ」
優希は憤怒の念を込め、しっかりと言い放った。
優希と鈴木は人混みの最前列まで身体を押し進めてきた。本当にこの世界から消失した神社の代わりに存在する巨大な暗穴を目の前に優希は一つ吐息をする。彼女は次の瞬間、自身の気持ちを破竹の勢いで叫び放った。
「早苗ぇぇッ!! 何勝手に訳のわかんないことやってんのよぉ! 風祝って何!? あんた巫女だったんでしょ! 幻想郷ってどこよぉ!」
嗚咽が混じり、優希の声は濡れる。鈴木はただ優希の想いを聞いていた。
「何ぃ、よぉ……! 相談くらいしなさいよ。わ、私が止めるとでも思ったの? あんたの気持ちがそんなことで揺ら、ぐと、思ったの? 何で、勝手にいなくなるのぉ? さ、早苗の、早苗の、バカッー!!」
優希は理不尽に激昂する気持ちと嗚咽を抑えつけ、息を整える。叫んだおかげで、彼女は注目の的である。無数の視線を集める中、優希は自身の背後を刺す睥睨にも似た異様な視線を感じた。優希は咄嗟に振り向く。
そこには、あまりに奇異な女性が立っていた。日傘を差し、笑みを浮かべ、優希を真っ直ぐ見ていた。ドレスともいうべきか優雅な衣装を纏い、金色の長髪は地を照らす陽光を反していた。優希は優美な姿の女性から目が離せず、鼓動が高鳴っていくのを感じた。胸の奥が燻り、恍惚とした意識が頭を支配していく。
そして刹那、女性の背後に亀裂が入り、人の眼のように開く。女性はその亀裂に嚥下されるように、その場から消えた。
次いで、優希を襲ったのは眩暈だった。鈴木の声が聞こえるが、意識は遠退き、失せる。
秋は確実に近付きつつも、まだまだ残暑の日が続きている。早く秋の神が来ないかと思いながら優希は、夕焼けが照らす帰路を快く歩いていた。この朱色の道は明日の快晴を暗示してくれている何とも希望に満ちた道だと、優希の口元はほころびる。同時に、この地も来月には神無月だが、秋の神はそれまで来てくれるのだろうかと彼女は明くる日の快晴がもたらす暑さに少し不安も覚えていた。
日曜日、意識を失った優希は鈴木により病院に運ばれたが、寝不足と心労による軽い貧血だと判断された。優希自身も叫んだ後のことをあまり覚えてはおらず、何とも恥ずかしい思いをした。
早苗が消え、月曜日のクラスの雰囲気はとても陰鬱なものだった。だが優希と鈴木は、早苗は生きていると言ってクラスを励ました。根拠が無いと何人かのクラスメイトからは反駁されたが、優希は早苗の言葉を借りて、信じることが大切だと説いた。鈴木は気丈を装いながら、実は早苗にちゃんと告白しておけば良かったと後悔していた。そんな鈴木を今度代わりに遊んであげるからと優希は励ましていた。
そして、今日は体育祭だった。当初は中止になるかもしれないと噂されていたが、今一つ活気が消えた学校に景気を取り戻そうと催したのだ。早苗のてるてる坊主が聞いたのか、雲ほとんど無い快晴。天気予報では曇りのち雨だったはずなのだが、昨夜の内に雲は失せていた。
世間では神社の喪失の謎が囁かれている。某国の新兵器、大規模な地盤沈下、はたまた宇宙人説。学者やコメンテーターが連日テレビで色々と騒いでいるようだが、未だに真相は見えていないようだ。真相は神と早苗のみぞ知る、と優希はテレビの見解を見て一人笑っていた。
優希が曲がり角を曲がると、日傘を差している女性がいた。優希が女性の顔を見ると、その女性と不意に目が合う。
「こんにちは。それともそろそろ、こんばんは、かしら?」
優希は突如挨拶と質問をされ、驚いてたじろぎながら挨拶を返した。
「こ、こんにちは。こんにちはでいいと思いますよ」
優希は女性の余りに艶やかで端麗な姿に見惚れる。衣服、振る舞い、容姿、全てが麗の文字を切り離せない。
……綺麗な人……。
今まで見た誰よりも美人だと感じた。
「そうね。まだ日も出ているし」
「はい。……えっと、どこかで会いましたっけ?」
優希は何故か、急に問うてしまっていた。こんな綺麗な人間、一度見たら絶対に忘れないだろうに。優希は馬鹿なことを訊ねたと自らの発言に後悔する。
「日曜日じゃないかしら? あなた、穴に向かって叫んでいたでしょう? しっかり見ていたわ」
女性はくすりと笑う。彼女の一連一連は美麗で仕方が無い。優希はもし自分が男だったら完全に惚れていただろうと、内心で苦笑した。もちろん早苗には勝てなかっただろうが。
「ああ、あのとき。周りにいたんですか? 恥ずかしいとこ見られちゃったな」
赤面しながら苦い笑みをする優希に対して、女性は微笑を浮かべた。続けて優希を刺すように、
「……幻想郷、行きたいの?」
と告げた。優希は言葉を無くし、表情から笑みが失せる。
「幻想郷、そこはこの世界から果てたものが集う場所よ。あなた達が忘れた、忘却の楽園。それはそれは、とても優美な世界ですわ。常識と幻想の境界に隔てられ、夢と現の境界に縛られた世界。あなたの友達はきっと、この世から消えたものを取り戻したかったのね」
女性は口元を歪ませ、微笑という名を借りた悪意の笑みを優希に向けた。笑んだ女性はそっと手を優希に差し伸べる。
「行ってみたいんでしょう、あなたも? 自らも幻想と果て、自ら幻想と果てた彼女を探しに」
だが、優希は首を横に振った。
「確かに、行きたくないと、会いたくないと言ってしまえば嘘になります。でも、私は行かない。早苗を信じているから。早苗は言ってました。信仰は信じること。だから、私は早苗も、この地に住む神様も、この世界も、そして自分自身も信じようと思います」
優希に繚乱を象った笑みが咲く。それを見た女性は笑みを澄ませ、より濃くした。
「そう。信じること、ねぇ。そういえば自己紹介が遅れたわね、私は――」
女性は歩み始め、優希の脇を通り過ぎる。
「――八雲紫よ。もう二度と会うことも無いでしょうが、覚えておいてね」
優希は振り返るが、そこには先ほどの女性、八雲紫の姿は無かった。
紫はスキマから顔だけを出して、博麗神社の居間でいつものように茶を飲んでいる霊夢の後ろ姿に見惚れていた。
……相変わらずいい腋ねぇ……、歴代の博麗の巫女の中でも一、二を争うわ。
紫は堪らず霊夢に声を掛けた。
「霊夢ぅ、久しぶりね」
驚いたのか、霊夢は咽ながらゆっくりと振り向く。霊夢は人を刺殺出来るような視線で、紫を睨んだ。だが紫は全く怯まず、
「見て見て霊夢、生首ー」
霊夢の反応は皆無で、相変わらず紫に向けられるのは鋭い眼光だった。
「――打符「妖怪封印チョップ」――!!」
霊夢は手刀を振り下ろし、紫の脳天へと直撃させる。痛撃に襲われた紫は頭をスキマの中に引っ込め、頭を押さえながら霊夢の横に再び全身を現した。
「痛いわね、もうちょっと手加減しなさいよ」
「嫌よ。後、警告しておくけど次同じようなことやったら、――霊打「博麗式逆水平チョップ」――で首へし折るから」
「もう、物騒なスペルカードね。せっかく久しぶりに会えたというのに」
紫は残念そうに漏らした。
「そういえば、ここんとこ顔出して無かったわね」
「ええ、ちょっとお出かけしてたのよ。旅行みたいなもんね」
紫がそう言うと、
「そう。どうでもいいけどね」
霊夢は本当にどうでもよさそうな声で返した。
「あのね、霊夢。そういうものは声だけに留めて、言葉に出すべきじゃ無いと思うわ。とっても傷付くから」
「じゃあ、何かお土産でもあるの?」
「もちろん、無いわよ」
紫は即答する。やっぱり、と霊夢は再び茶を飲む。
「嘘よ。ちゃんとあるわ。しかし霊夢の辛辣さたるや、妖怪に勝るものがあるわね」
霊夢は紫の方を見るが、その視線は明らかに期待しているものでは無い。紫はスキマを開け、手を突っ込み、お土産を取り出した。スキマから抜き出された紫の手が持っていたそれは、色彩豊かな紙の筒に入ったいくつもの白い物体だった。
「何それ?」
「『ポップコーン』というらしいわ。食べ物よ」
霊夢は食べ物、と言う単語に反応した。
「食べ、られるの?」
ええ、と紫は試しに一つ手に取って口に放った。そしてどうぞとちゃぶ台の上に置き、霊夢に差し出す。霊夢は手に取って感触を確かめ、観察してから口に運んだ。
「うん。ちょっと塩気が強いような気もするけど、結構イケるわね」
「でしょう? 茶請けくらいにはなると思ってね。ところで霊夢、私は客人よ?」
霊夢はポップコーンにもう一度手を伸ばしかけたが、笑顔の紫の顔を見て、その手を引いた。そして、辟易と立ち上がり台所に向かい、ややあって茶を持ってくる。
「ありがとう。やっぱり持つべきものは友達よね」
「全く、素直にお茶が欲しいって言えばいいじゃない」
ポップコーンを摘みながら、紫も湯飲みをすする。
「やっぱり、霊夢の入れてくれたお茶はお世辞抜きにおいしいわ。……本当に友達っていいもんだと思うわよ? これも冗談抜きに」
紫の言葉を聞いていた霊夢のポップコーンを口に運びかけた手が止まった。
「これ、毒でも入ってるんじゃないの?」
「失礼ね。私が友情を語っちゃいけないの?」
不満気な声で紫は霊夢に問い掛けた。
「まあ、たまにはいいかもね」
再び霊夢はポップコーンを口の中に入れた。
「ところで霊夢、何か感じない?」
紫に言われ、霊夢は怪訝な視線を紫に向けた。
「別に感じないけど。……何? また何かやらかそうとしているわけ?」
紫は目を伏せ、首を横に振る。霊夢の勘が働かないということは、新たに来た者達は幻想郷にとって悪い知らせではないのだろう。紫は面白くなりそうだと期待に胸を躍らせ、内心で笑んだ。
……ようこそ、幻想郷へ。
「霊夢、信仰心ってのは大切よ? 信仰は信じること。巫女なら覚えておきなさいな」
霊夢は紫の言葉に首を傾げた。紫はそんな様子の霊夢を見て、微笑む。この神社の神様も苦労をしているだろうと、紫は微笑を浮かべながら思った。
「まあいいわ。それより、ポップコーンってどうやって作るの?」
「原料はとうもろこしよ。生のとうもろこしを油で炒めるの」
「へえ、簡単なのね。今度作ってみようかしら」
実際に作ろうとし、飛び跳ねるポップコーンに慌てる霊夢の姿を想像して、紫は心中でほくそ笑んでいた。
これ単品で読むとちょっとわかんない部分があるかもしれません。
ちょっとだけオリキャラも活躍します。ご注意ください。
諏訪の神社、そして諏訪湖が突如消えた。日本中を震撼させるこの大異変の真相を知っている早苗は、もうここにいない。
早苗と同じ高校に通い、彼女の一番の親友だった優希は、彼女がいなくなる前に書いた手紙を握り、消えた神社の跡地へと来ていた。優希の隣には同じく早苗のクラスメイトだった少年、鈴木がいる。
二人は人混みを裂き、無理矢理切れ目を作って縫い込むように突き進む。鈴木は離れぬように優希の手をしっかり取り、自ら先行して人の切れ目を作った。優希も鈴木に続いて、突っ込んだ。
幾度と怒鳴られ、邪険にされ、足を踏まれ、謝って、二人はようやく最前列へと辿り着く。息を肩で落ち着かせ、優希は顔を上げた。そして、優希は広がる全景に改めて愕然とした。
「何よ、これ……」
警察が張った黄色いテープの向こう、あるのは途轍もなく深く、大きく、暗い穴だけだった。神社も湖も、この世界から消失していたのだ。
「早苗ぇぇッ!!」
優希は訳もわからず叫んでいた。彼女の視界は潤み、自らの感情をぶちまけていく。
「何勝手に訳のわかんないことやってんのよぉ! 風祝って何!? あんた巫女だったんでしょ! 幻想郷って――」
「――幻想郷ってどこよぉ!」
少女が深淵とも呼べる大きな穴に向かって潤んだ声で叫んでいた。周りの人間は突如叫んだその少女に注目した。
野次馬で溢れる中、その乱雑な中には似つかわしい優美な装いをし、日傘を差した女性が立っていた。だが、女性に注目する人間は一人もいない。まるで、始めから見えていないように。彼女もまた、少女を見ていた。そしてその女性はそっと笑みを浮かべた。優雅に口元を歪ませ、愉快だと言わんばかりの端麗な笑みを、だ。
女性が少女を見ていると、少女はふと振り返る。そして、女性の姿を“見た”。女性は美麗に微笑む。
女性は微笑を浮かべたまま、“スキマ”に消えた。
今日あったことを思い出し、明日あるであろうことを思い浮かべ、早苗は星を眺めていた。明日もいつも通りの自分でいられるだろうか。早苗はそれが不安で堪らなかった。
早苗が一人夜空に馳せていると、誰かが彼女の横に付いた。早苗が横を見ると、そこにいたのは守矢の祭神、諏訪子だった。
「さて、面倒なことになって来たわね」
「面倒とは思っていませんよ」
諏訪子は早苗から視線を外し、全天に広がる星を見上げた。早苗もまた再び夜空へと視線を移す。
「ねえ、早苗。この星空、幻想郷とやらではどう映るんでしょうね?」
「もっと綺麗に映ると思いますよ。想像ですけど、辺境の地らしいですし、空気も綺麗じゃ無いんでしょうか?」
「それは楽しみね。でも、一つ困ったことがあるわ」
何ですかと早苗は夜空から諏訪子を見た。諏訪子は夜空を見たまま、問いに答える。
「ここからの夜空が見えないのよねぇ。ここの夜空、結構好きだったのに」
諏訪子は実に残念そうに言い、声色を変えて続けた。
「……別に悲しいのなら泣いてもいいと思うよ? 早苗は失うものが多過ぎるわ」
わざとなのだろう、諏訪子の口調は少し早苗を刺すものがあった。だが、早苗はある少女の顔を思い浮かべ、首を横に振る。
「友達との約束なんです。泣くときは一気に泣こうって。その方が疲れないって。泣きそうになったことは沢山あったけど、高校入ってからは一度も泣いてませんよ、私?」
「何ともまあ、合理的だね。と言っても私もここ数百年泣いて無いなぁ……」
諏訪子が溜め息を付き、早苗は苦笑をする。諏訪子は星の瞬きが散らばる夜空を見上げたまま、さらに続けた。
「後一つ、私子供いたのよね」
「へえ、そう……なのかー!?」
早苗はあまりにさらっと言われた驚愕の事実に妙な言葉遣いになってしまった。実際の年齢はさて置き、容姿は高校二年生である早苗よりも幼く見える。良くて中学生くらいだろう。そんな小さな身体で子供を生むことが大事であることくらい、経験の無い早苗にも想像できた。
「そうなのよー。ずっと昔の話。ある人間との間にね」
「ええ!? 相手は人間なんですか? びっくりですよ。神様でも人の子は産めるんですね」
「そんな大したこと無いわ。それでね、早苗に似てるなって」
「お子さんがですか?」
諏訪子は首を横に振り、笑顔で優しく言った。
「父親の方。真っ直ぐで、優しい人だったわ。ホントにもう、男版早苗って感じだったよ?」
諏訪子の言葉に早苗は苦笑する。
「男版私ですか……? あんまり見たくは無いかも。でも、とってもロマンチックですよね、神と人のラブストーリーって」
「ええ、とってもロマンチックだったと思うわ。また今度、ゆっくり話してあげるね」
早苗は今すぐにでも聞きたい気持ちがあったが、もう夜も遅い。諏訪子の言う通り、今度お茶でも楽しみながらゆっくり聞こうと早苗は頷いた。
「ねえ、早苗一緒に寝ましょうか?」
「ええっ!? どうしたんですか、急に」
早苗は急なことにまた声を上げてしまった。
「私に子供がいたっていったでしょ? だからよ」
諏訪子は自分の子供のことでも思い出したのか、理由をそう告げた。早苗はいまいち腑に落ちなかったが、断る理由も無く了承する。何より、諏訪子と一緒にいると安泰を得られた。それは神奈子といるときとは少し違うものだ。
「いいですよ。じゃあ、寝ましょうか」
今日という日を終え、残すところ後三日となる。守矢の神社は後三日で、この世界から消失するのだ。
早苗はいつも通り五時に起床し、諏訪子も早苗が起きた物音に目を覚ました。早苗は日課となっている行動に移る。いつもと違うのは諏訪子も一緒ということだ。諏訪子と一緒に弁当と軽い朝食を作り、諏訪子と一緒に食べる。二人で境内を掃除し、少し恥ずかしながらも、久しぶりに二人で朝風呂に入った。そして、早苗は制服に着替える。さすがにこの時は、諏訪子に部屋から出て行ってもらった。
早苗が着替え終わると、何故だか部屋の外が騒がしい。神奈子と諏訪子が言い争っているようだ。溜め息を吐きながらも早苗はドアを開け、様子を覗う。
「どうして早苗と一緒に寝たり、お風呂入ったりしてるの!?」
「何で、揉めてるんですか? と訊こうと思ったんですが、どうやらその必要は無いようですね」
「ええ、全くその必要性は無いわね」
諏訪子は早苗をやれやれとした声で肯定する。
「ええ、無いわ。私が怒っているのは、早苗をキズモノにした事実よ!」
「その曲解を解いてくれることを全力で祈願してもいいでしょうか、神奈子様」
早苗は辟易と、もう一度溜め息を吐いた。
――結果、神奈子を説得するのに小一時間を要した。いつの間にか、登校時間である。
「いってらっしゃーい」
「それじゃあ、行ってきますからね。もう喧嘩はしないでくださいよぉ」
早苗は言って神奈子と諏訪子、二人に背を向ける。
「ああ早苗、それと一つ」
「何ですか?」
神奈子が思い出したように早苗を呼び止めると早苗は足を止めて、少し怒気の籠もった声で振り返った。
「もう、そんなに怒らないでよ。――早苗、いまから言うことを良く聞くのよ」
神奈子は先ほどの冗談めいた面を改め、険さえも窺える表情で早苗を見た。
「この辺りに不穏な空気があるわ。瘴気にも似た、淀んだものよ。言うなれば、妖怪の気配」
「妖怪、ですか……?」
「そう。私達の計画を察知してか、それとも偶然にも妖怪の気紛れと重なったか……。どちらにせよ、妖怪の考えなんざわかったもんじゃない。もし出会ったなら、全力で神社に逃げ込みなさい」
早苗はしっかりと頷く。妖怪の全てが幻想郷にいるわけではないのだろうか。もしかしたら幻想郷から出向いて来たのかもしれない。不安を残しながらも、早苗は学校へ向かうことにした。
今日も一日、何ら変わりのない高校生活が始まった。四時限目、今は古典の時間だ。早苗は教室を見渡す。皆が皆真面目というわけではないが、割と真剣に授業に取り組んでいる。早苗は、ふと視界が潤んでいることに気付く。
……まだ、泣くときじゃない。
早苗は必死で自分に言い聞かせる。彼女は決行の日が近付くにつれて、情緒が安定しないことに焦燥を感じていた。もし誰かに気付かれ、全てを話してしまったら、別れは余計に辛くなるだけだろう。自分はそれほど強くないと、早苗自身わかっているのだ。弱みを見せてしまえば、溜め込んでいるものが決壊してしまうだろうと。
「橘、起きろ橘! 立て!」
先生が机に突っ伏して寝ていた男子生徒、橘に叫んだ。クラスから笑いが生まれる。
「んぁ、はぁい。やっべ、マジ寝てた……」
橘はゆっくりと起き、立ち上がる。橘の緊張感の無い言葉に、クラスメイトの余計に笑い声が大きくなる。
「部活キツイのはわかるが、もうちょっと頑張れ。で、橘。旧暦で十月を何て言う?」
「先生、俺を舐めないでくださいよ? 寝起きでもわかります。神無月でしょ?」
橘は自信満々に胸を張って答えた。
「ああ、惜しいな。この辺はちょっと違うんだ。というわけで、特別に放課後小テストやってやる」
「ちょっと待ってよ、先生。正解でしょ? ていうか、小テストとか聞いてないって!」
「小テストはぐっすり寝てた罰だよ、諦めろ。まあ、正解したらチャラでも良かったんだけどな。で、東風谷正解は?」
早苗は急に当てられて驚くが、当てられた理由を考えれば自分が適任だということに気付く。
「えっと、神在月です」
「え? それって出雲の方じゃ無かったっけ?」
女子生徒が疑問を漏らす。女子生徒には先生が答えた。
「お、良く知ってるな。十月は日本中の神様が出雲に集まるから、出雲では神在月、他の所では居なくなるから神無月って言うんだ。それじゃ東風谷。何でここらが、神在月というか説明してやってくれ」
早苗ははいと、返事をして立ち上がった。
「私が住んでいる神社の祭神、タケミナカタ様が出雲に出向かれないのは、出雲のタケミカヅチ様と国の最高権力を賭けて勝負をし、負けてしまったからなのです。タケミナカタ様は敗走し、この地を訪れました。ですがここには、モレヤという神様と祟り神のミシャグジ様がいました。そこでタケミナカタ様はこの地に攻め込み、モレヤ様を追い出し、この地に君臨したというわけです。負けた相手の所へ、顔を出すわけにもいかず、タケミナカタ様はずっとここへおられるということですね」
というのが、日本神話の見解であった。早苗は簡略して話したが、話の大体はクラスの皆に伝わったようだった。
だが、この話の真相を早苗は知らなかった。彼女もまた日本神話上でしか、自らの神社の祭神の過去を知らなかったのだ。神奈子に聞いても諏訪子に聞いても、口を揃えて「喧嘩になるから嫌だ」と言われてしまう。だから、何故自分の神社には神話の名義とは違う二人の祭神がいるのか、わからなかった。
「興味を持ったなら、地域の神話なんかも調べてみると面白いぞ。じゃあそろそろ時間だし、終わりにしようか。東風谷、号令頼む」
早苗は立ったまま起立と号令を掛け、皆を立たせる。次に礼と言い、クラスの皆が従い、礼をする。
昼休み、早苗はいつものように後ろの席の優希と向かいあって、弁当を食べていた。
「早苗、土曜暇ー? 映画見に行かない?」
「うーん、十一時くらいからならいいですよ。何見に行きたいんですか?」
早苗はその日の予定を思い出し、返答をした。午前中は何かと神社の管理があったが、十一時には片付くだろうと踏んでの答えだ。
「オッケ、十一時ぐらいね。映画はねぇ、『神隠し』ってやつ」
「それって、怖いのじゃ……」
『神隠し』、最近話題のホラー映画だ。早苗はあまり得意な方では無かった。そして、行こうと言っている張本人の優希は大が付くほど苦手だった。
「うん、死ぬほど苦手なホラー」
「何でわざわざ、そんなの見に行くの?」
「早苗が抱きついてくれるかなって。それか私が抱きつく」
「どっちも嫌ですよ。もっと違うのにしましょうよ……」
「いーやーだー。怖いもの見たさってあるでしょ?」
「そんなこと言って、いつも楽しむ余裕無いじゃないですか」
早苗は溜め息を一つ吐き、続ける。
「それにね、優希がしがみ付くとすごく痛いんですよ? 爪とか食い込んで」
「あはは、そりゃあれだ。だって私必死だもん。まあ考えてみりゃ、いっつも早苗にしがみ付いてばっかってのもつまらないわね。よし、たまには男でも誘おうか」
早苗は優希の唐突な思い付きにやれやれともう一度溜め息を吐いた。そんな早苗を尻目に、優希は教室を見渡し、男子を物色している。そこへ、鈴木が近付いてきた。
「東風谷、もう一個教えて欲しい問題があったんだけど……、って何、優希。また何か思いついたの?」
「あんた良く人の考えがわかるわね。で、鈴木明日暇?」
「ああ、ちょうど部活も無くなちゃったし、暇だけど」
「良し、映画見に行こう。十一時に、早苗の神社集合ね」
優希は鈴木の有無を聞かぬまま、話を進めた。
「はいはい、わかったよ。十一時に東風谷の神社ね」
鈴木もやれやれとした声で了承するあたり、優希との付き合い方がわかっていると早苗は苦笑して鈴木を見た。鈴木も早苗に苦笑で答える。
「鈴木君、問題どこ?」
「ああ、そうだった。ここ」
鈴木は本件を思い出して、携えてきた英語の教科書を広げ、指を指して早苗に見せる。早苗は箸を置き、鈴木が示した箇所を見る。
「えっと、ここはね――」
早苗が言い掛けて、鈴木は早苗の言葉を遮る。
「あっ、いいよ。先に弁当食べなよ」
と言い、鈴木は隣の席の椅子を借り、早苗達の横に座った。早苗は頷き、箸を再び持って、弁当を口に運んでいった。談笑には鈴木も加わり、昼休みはあっと言う間に過ぎた。
早苗は一人、帰路に着いていた。何故彼女は帰宅部なのかと問われれば、理由は簡単で神社の管理があるからである。昼間は代理の管理者を何人か立てているが、夕方からは早苗が一人で管理することになっている。
一人で事足りるのは、神罰のおかげである。神奈子と諏訪子が神社を見張っているので、警備の手間が省けているのである。例え強盗が入ってこようと、神の力に太刀打ち出来なる筈無いのだ。神罰が下ると噂も広まって、神社に悪事を働かそうという者は早苗が生まれる以前から一度も出て来ていない。掃除や建築物の手入れも月に一回業者を呼んでいるし、早苗も小まめにしているので問題無い。
かといって昔から一人で管理しているわけでは無かった。元は祖母と二人で管理していたのだが、祖母は早苗が中学二年のときに死去、それからは一人である。両親は神社を離れ、名古屋で教師をしている。どうやら昔、いざこざがあったようで神社には帰らないと決めているようだ。早苗の母は巫女である前に、女として暮らしたかったらしい。早苗が生まれると、母も早苗を祖母に会わせないわけにもいかず、早苗は神社にたびたび遊びに来ていた。もうそのときは祖母もとっくに母を許していた。早苗は小さい頃から慣れ親しんだ神社が好きだった。そして、早苗は祖母と暮らし、巫女になることを決めたのだ。
許しを得たからといって、両親は生徒を放って帰ってくることが出来ず、早苗のことは“八坂様”と“洩矢様”に任せようということになったのだ。早苗が実質一人暮らしを出来ているのは、信頼の置ける神様のお陰であった。
夕焼けの空を見上げ、早苗は明日も晴れるのだろうと翌日の晴天を嬉しく思った。雲だってほとんど無い。天気予報でも、今週一杯はずっと晴れると言っていた。
――だが、嵐は突如やって来る。そして、日曜の全国のニュースは天気どころでは無いだろう。早苗は慌てふためくであろう世の中に、申し訳無さを感じた。もし自分が逆の立場だったらと思うと、募る苦痛はより多大なものとなる。身近な人間が突如として消えるのだ。それこそ死去するよりも納得出来ない。
早苗は陰鬱な考えを頭から振り払う。最近独りになると、すぐ悲しい考えをしてしまっている。早苗は歩調を速め、帰宅を急いだ。
「お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ。早苗ちゃん頑張ってね」
早苗は巫女服に着替えて、代理の管理者の男と変わり、売店の椅子に座った。赤い袴のこの装束とも、もうお別れだった。神奈子によると、幻想郷への出発に向けて、“風祝”としての装束が用意してあるらしい。
早苗は売店から、神社の風景を眺める。参拝者は数人いる程度で、もう日は沈みかけていた。朱に染まる石畳に、人が長い影を作る。早苗はこの風景を何百回と見てきた。祖母と、母と、幾人もの人と一緒に、自然と人工、信仰と信心が作り出す美麗な景色を見てきたのだ。
「お姉ちゃん。お守りください」
早苗は神社の風景に見惚れていて、いつの間にかカウンターの下に来ていた女の子に気付いていなかった。まだ五歳くらいだろうか、小銭を握り、少し恥ずかしそうに立っている。少し遠くには女の子を見守る男の姿があった。父親だろう。
「何のお守りがいいですか?」
早苗は訊きながら、カウンターから立ち上がって女の子の横に回った。
「あのね、赤ちゃんのお守り! もうすぐね、妹が生まれるの!」
「安産祈願だね。五百円になります」
早苗は女の子から百円玉五枚を受け取る。
「丁度ですね、ありがとう」
にっこりと微笑みながら早苗は、お守りを紙袋に入れる。そして、包んだお守りを女の子に手渡して、女の子に優しく言う。
「あのね、お守りはただ渡すだけじゃダメよ? ちゃんとね、願いを込めるの。ここにはね、八坂様っていう神様と洩矢様っていう神様がいるんです。すごい神様だから、ちゃんと願いを叶えてくれるんだよ?」
「やさかさまと、もりやさま?」
「うん。ちゃんとお願いしましょうね?」
「うん、わかったー。やさかさま、もりやさま、おねがいします。赤ちゃんが元気に生まれてきますように」
早苗の目前の女の子は目を伏せ、両手で紙袋に入ったお守りを挟み、祈願をした。罪悪の念を感じながらも微笑み、早苗は女の子の頭を撫でる。
「はい、神様はきっと叶えてくれますよ」
「うん、お姉ちゃん。バイバーイ!」
女の子はお守りをしっかり握って走り出し、父親のところまで危なっかしく駆けていった。早苗は父親と手を繋いで帰る小さな少女の姿を見えなくなるまで見送った。
「早苗、子供の信仰心というのは実に素直でいいものさ」
ふと現れた神奈子が微笑を浮かべて告げた。
「神奈子様、私いい加減なことを言ってしまいました……」
早苗は抑揚の無い落ちた声で苦しそうに吐き出した。声は少し震えを持ち、彼女の感情今にも決壊しそうだった。
「いい加減なことじゃない。信仰は信じる心よ? 信心を通せば願いは叶う。信仰を忘れた人間は信心を忘れた人間。それは人間の死に近いわ。信仰を得られない神と同じようにね」
神奈子は早苗の頭に手を置いて、続けた。
「泣くな、早苗。まだそのときじゃ無いんでしょ?」
「はい、まだ泣くときじゃないです」
早苗は自分に言い聞かせるように、復唱した。早苗は瞳を伏せ、昂ぶった感情を押さえつけて、彼女はさらに言葉を放つ。
「私は幻想の地をこの目で見てみたい。奇跡の秘境の風を、この身で感じてみたいんです。例え何を犠牲にしても、風祝として、神奈子様、諏訪子様とご一緒に幻想郷へと行ってみたいのです」
早苗の言葉には確固とした覚悟があった。早苗は迷いなど微塵も無いほどに真っ直ぐと、神奈子の瞳を見る。神奈子も早苗の直視に答えるように、早苗に微笑んで彼女の頭を撫でた。早苗が先ほど女の子を撫でたように、慈しみの伝わる優しい手。早苗は神奈子の手を嬉しく思い、涙は失せて、代わりに笑顔が零れた。
「早苗、ごめんなさい。そして、ありがとう」
今日も早苗は諏訪子と境内から星を眺めていた。二人の間には特に会話は無く、その場には心地よい静寂があった。幾億の光の群れに早苗は見惚れ、星々の輝きに馳せていた。
「ねえ、早苗はあっちに行って具体的にはどうするつもりなの?」
諏訪子は唐突に早苗に訊ねる。早苗は諏訪子の方を向き、少し困ったような表情で答えた。
「そうですね、具体的にはあまり考えていないんですよ。うーん、自分の力を試してみたいですが、まずは神奈子様と諏訪子様の信仰を取り戻すことが先決でしょうね」
ある程度は考えているものの、幻想郷の実状を知らない早苗は実質的な思惑を考えていなかった。ただ、いくら妖怪だろうと神徳の力の前に敵うはずが無い。つまり幻想郷の実権を握るのを神奈子だろうと、早苗は踏んでいた。少し横暴かもしれないが、野蛮だと聞く妖怪達が蔓延る幻想郷に神の徳を広めるには、幻想の地を押さえるのが一番早いと、早苗は考えていたのであった。
「そんな上手く行くかしらねぇ?」
「しなければならないのです。信仰を集め、徳を広めるためには」
「信仰か……。早苗はどうして神々が信仰を得られなくなったと思う?」
諏訪子は早苗に訊ねる。諏訪子の問いはどこか寂寥を潜めているように早苗は感じた。
「科学や文明の進展では無いでしょうか? 目に見えて進歩する科学に人は信仰心に似た心を寄せているからだと思います」
科学の進展は人間の意識を変えた。遥か昔には神に頼らざるを得なかったことも、今の時代は科学が簡単に与えてくれる。科学は幾度と無く奇跡を起こし続けたのだ。だから人は科学の徳を尊び、科学を信仰するようになったのだろう、と早苗は考えていた。
「そうね。それも一つの答えだわ。だけどね、もっと簡単に説明出来るわよ。科学や文明が進歩し、社会が豊かになったわ。同時に淘汰されるものもある。つまりね、神は必要で無くなったのよ」
諏訪子は悄然と告げた。早苗は彼女自身の存在を否定する諏訪子の言葉に、憤怒と悲哀を覚え、声を荒げて反論した。
「そんなこと……! 現に人は今でも神様に頼りっきりです!」
早苗は思わず口走ってしまった言葉に、ばつの悪さを感じた。反駁した諏訪子の言葉は、日頃自分が思っていたことなのである。早苗は寂しげな諏訪子が嫌で、咄嗟に言い放ってしまったのだった。
「ええ、そうかもね。だから、秋はちゃんとやってくる」
諏訪子は夜空を見上げて続ける。早苗は諏訪子の顔を見られずに俯いていた。
「秋がやってくるのは秋を好む人がいるからよ。それは秋に向けられた信仰心。秋は人にとって必要なもので、科学による代用が利かないから。だから秋の神が消えることは無いわ」
「……でも、それでも……。人は神様を忘れています」
早苗は俯いたまま苦しげに言った。諏訪子は腕を伸ばし、自らよりも背の高い早苗の頭を撫でた。
「大丈夫よ。この国から神がいなくなるとき、それは科学が神になったときよ。四季さえも科学の力で何とか出来てしまったら、それこそ神の立つ瀬なんて無いものね。だけど、幾重にも自然が交差した季節の美しさは作り出せるものじゃない。他にも人の手じゃ作り出せないものは沢山あるわ」
撫でられた頭の心地よさに、早苗は諏訪子を見る。早苗と目が合った諏訪子は苦笑をした。
「人間には時代というものがあるわ。変われなかったのは私達の方よ。だから淘汰されるのは必然のこと」
「そんなの、私は嫌です。神様は使い捨てじゃないんですから」
早苗は諏訪子に訴え掛けるように吐き出す。だが、ここには本当に訴えるべき者はいないのだ。いるのは神と神でもある人間だけ、だった。
「そうやって豊かさを手に入れてきたのがこの国よ。そして、そんな人間達だからこそ、信仰を得られてきたこともまた事実。信仰というのは必要性に流れていくものなのよ。……本当はこういう言い方したくは無いんだけどね」
「私もです。私も人間を信じていますから」
早苗は強く言い切った。諏訪子も頷き、澄んだ笑顔が咲く。
信仰は信心の上で成り立つと神奈子は言った。信仰は必要の上で成り立つと諏訪子は言った。そして、早苗は思う。信仰とは人間の活動原理そのものではないか、と。信じることを忘れ、物事に必要性を失くした人間が人間でいられる筈無いのだ。社会で磨耗していく人間は、そのことを忘れてしまっているのだろう。消えて、幻想と果てた信仰とはまさにそれなのだ、と早苗は解した。
最後の高校生活、早苗は思い残すことが無いように、思い切り楽しんだ。とはいっても、いつもと同じことをしただけだ。授業をしっかり受け、放課中は友達と話す。普遍性の無いいつも通りの一日。周りの人間にはそんないつかは忘れるであろう一日だった。だが、早苗は違う。きっと一生忘れないだろうという大切な一日だ。
午前の授業も終わり、変わりない騒々しい昼休みだった。いつも同じように優希と向かい合い、もう一人隣には鈴木を迎えて、早苗は談笑を楽しんでいた。そんな中、早苗はふと昨日の夜の諏訪子との会話を思い出していた。
「ねえ、優希。優希は神様が本当にいると思いますか?」
「何、急に? そうね、早苗はどう思う?」
質問をされた優希は、早苗に質問で返す。
「私ですか? 神様はいる、と思いますよ」
「じゃあ、いる」
早苗の答えを聞いた優希はすかさず答えた。彼女の答えに早苗は不満を漏らす。
「じゃあ、って何ですか。真面目に聞いてるんですから、真面目に答えてくださいよ」
「私は至って真面目よ? だって、巫女の早苗がいるって言ってるんだもん、神様はいるよ。そりゃ、バイトの巫女が神様はいるなんていっても信憑性無いだろうけど、本当の巫女、しかも早苗が迷い無くいるって言ったら信じるに値するでしょ?」
「また屁理屈っぽいことを……」
「論理的って言って欲しいわね。神様の存在をどのように信じるかなんて一個人の自由だし、奇跡体験をして信じようが、私のように巫女の話を信じようが、信じることは同じよ」
早苗は反論できなかった。優希は早苗を論破した褒美と言わんばかりに早苗の頬を指で突っ突いた。だが、早苗は何も言えない。勝者は敗者に従うものなのだ。
「止めてやれって、かわいそうだろ……」
鈴木は優希に制止の言葉を掛けるが、そんな言葉を素直に聞き入れる彼女では無かった。優希はほくそ笑み、早苗の頬をさらに突っ突く。
「勝てば官軍だもんねー。柔らかほっぺは私のものだもん。鈴木ぃ、僻むなって。そういう、あんたはどうなの? 神様はいると思う?」
「いると思うよ。やっぱり奇跡ってのはあるし、それが起こせるのは神様だけだと思う。まあ、優希じゃないけど東風谷が言い切ってくれると納得できるし」
「それは喜んでいいのかな?」
早苗は頬を突かれながら、腑に落ちない声で言った。
「喜ぶべきことだよ。早苗の人間性を信じてるってことだもん」
「そういうこと」
優希は散々突っ突いた指を引いて告げ、鈴木も彼女の言葉に同意する。
「私は巫女を信じてるわけではなく、巫女である早苗を信じてるの。早苗は滅多なことが無いかぎり嘘を付かない」
優希は微笑を加えて、早苗に告げた。優希や鈴木、クラスメイトと接していると早苗は自分が幸いなのだと思い知らされる。それを捨てるに値する価値が本当に幻想郷にあるのだろうか、と早苗を苦悩させるのだった。
……どうして、ここまで来て迷う必要があるの?
早苗は自分自身に問うた。彼女は問いを心中で反芻する。幻想郷に行くと決めたのは早苗自身だ。“八坂様”でも“洩矢様”でも無い、早苗自身だったのだ。
……私は、幻想郷に行きます。
早苗は自身に答えを出した。もう早苗は揺らぐことは無く、自分自身を信じる。
放課後、ほとんど生徒が部活に向かい、教室に残る生徒は少数だった。早苗もまた帰りの準備をしていた。後、十数分でこの高校とも永訣ということである。耐え難い寂寥感が、早苗の胸に大きく巣食っていた。
早苗は自身で作って、二日前カーテンのレールに括りつけたてるてる坊主を見上げた。来週の体育祭は晴れるだろうか、と不安を覚える。それにもしかしたら体育祭も中止かもしれない。だが、早苗はそんな思いを振り払った。信じることが大切なのだ。雨は降らないし、体育祭も行なわれる、と早苗は自分に言い聞かせた。
早苗は昨夜、諏訪子と話した後に書いた手紙を鞄から取り出す。自身の感情を書き連ね、これから起こる一連の大事を説明する手紙だ。早苗はその手紙をそっと自分の机の中に忍ばせた。
早苗は一息吐き、もう思い残すことは無いか考えた。少し思考を巡らすだけで、思い付くことは山ほど出てきた。早苗は考えることを止めた。
……いつも通り、帰ろう。
早苗にとって、それが今一番大切で、すべきことだった。
映え渡る蒼穹、遊びに行くには十分すぎるほど清々しい日和だ。早苗は巫女服を着て、石畳を掃いていた。早苗は今着ている巫女服も学校の制服も、たまには幻想郷で着ようと思っていた。どうせ思い出に取っておくのだから、思い出に浸るのなら着た方が面白いと考えたのだ。
ふと早苗は鳥居の方を見た。そこには見知った顔が二人、優希と鈴木だ。優希が手を振り、早苗の方に駆けて来る。
「お待たせ。早苗の巫女服姿はいつ見ても可愛いわね」
「ははは……、ありがと。鈴木君と一緒だったんだ」
少し遅れて、鈴木も早苗の近くへと来た。
「おはよう。噂に聞いてたけど、東風谷って巫女服似合うな……」
鈴木は感心したように言った。鈴木の言葉に早苗は顔を赤らめた。鈴木も自分で言ったことに気が付いたのか、少し顔を赤らめる。
「うわ、鈴木は大丈夫だと思ったのに。こいつも変態かよ」
「真性のお前だけには言われたく無かったけどな。不覚にも巫女服もアリだと気付いた」
「だから前々から言ってたのに。写真買っときゃ良かったね」
早苗は優希の聞き捨てなら無い台詞をしっかりと拾った。
「ちょっと待ってください!? 写真って何!?」
「もちろん、巫女服の早苗。大丈夫よ、売りつけたのは女子だけだから。唯一の男子だった鈴木も買わなかったしね」
優希は親指をグッと立てて、早苗に安堵感を与えた。だが、早苗に伝わったのは冷淡な非情だけだった。
「人の写真で何一儲けしてるんですか!? 罰当てますよ、罰!」
「ああ、もう終わったことじゃない。さっさと着替えてこないと、映画始まっちゃうよ? それにね、神様だって欲しがっちゃうほど可愛い写真なんだから。この可愛さ広めたところで罰なんて当たらないわ」
早苗は悔しいことに反論出来なかった。
……神奈子様なら絶対に欲しがる……。
苦渋を舐めさせられた気分だが、ここで口論していても仕方が無いと早苗は着替えに行くことにした。
早苗は着替え、代理の管理者に後のことを頼んで、優希と鈴木、二人と共に神社を出発した。目指すは最近建てられたショッピングモールだ。早苗達は少し歩き、バスに乗ってショッピングモールに向かった。二十分くらいすると、バスの中から大きな建物が見えた。その近くのバス停で早苗達は降りる。他にも何人かがバスから降りた。土曜日ということもあって、ショッピングモールの駐車場には何台もの自動車が止まり、中は人で溢れていた。
早苗達はまず映画館に向かった。上映時間は午後一時半から、優希が今朝新聞で確認した通りだった。現在の時刻は十一時三十六分、上映まで二時間ほどある。取り敢えず、三人はチケットを買い、ファミレスで昼食を取ることにした。
早苗はクリームパスタを、優希はオムライス、鈴木はハンバーグ定食をそれぞれ頼んだ。ややあって、ウェイトレスがクリームパスタ、ハンバーグ定食、オムライスの順で注文した品を持ってくる。
早苗はクリームパスタを前にして手を合わせ、しっかりと「頂きます」と言う。早苗の一連を見ていた優希は、少し可笑しそうに早苗に告げる。
「ホント、早苗ってそういうのきっちりしてるよね。可愛いな、もうっ」
「優希に同意」
優希の言葉に鈴木も笑いながら同意した。
「鈴木君までそう思ってるんですか?」
早苗は口を尖らせて漏らす。そんな早苗の態度に鈴木は慌てて付け加える。
「いや、別に変な意味じゃないよ。ただ、そういうのって大事なことだよな、って感心しただけ。自分にも言えることだし、何だか日本人ってそういうこと忘れてる気がするしさ」
早苗は鈴木の言葉にそっと微笑んだ。
「“頂きます”も“ご馳走様”も立派な信仰ですから。犠牲になってくれた命に、一生懸命育てて下さった農家の方に、そして豊穣の神様や収穫の神様、いろいろな神様に対する信仰の一つなんですよ」
鈴木は早苗を真摯な態度でじっと見ていた。優希も微笑を浮かべて早苗の話を聞いている。
「信仰は、この世界に溢れています。何てったって、八百万の神々に見守られているんですから。信仰とは信じる心ですよ。信じれば、神様は微笑んでくださいます」
早苗は言い切ってから、少し熱が入ってしまったと顔を赤らめて苦笑した。優希は早苗に笑い掛け、鈴木は自らの目の前にあるハンバーグに見る。そして彼は手を合わせ、「頂きます」とはっきり言った。
「いつもいい加減だった気がするから、これからはちゃんと言わなきゃな」
「そうだね。信仰は信じる心、か……」
微笑む優希は静かに呟いた。
一頻り談笑を楽しんだ三人は、再び映画館へ向かった。ポップコーンとジュースを買って、上映までは二十一分、チケットを店員に渡し、館内に続く通路に入る。長い通路にいくつもの入り口があった。入り口には番号が振ってあり、上映する映画のポスターが立ててある。
早苗達が見る映画、『神隠し』は十七番、割と奥の方だ。十七番の入り口から館内に入り、早苗達は割り振られた席を探した。ちょうど中間の見やすい席だ。鈴木を真ん中に、向かって右に早苗、左に優希という形で座る。早苗は上映前にトイレへ行って置こうと二人に断って、館内を出てトイレに向かった。
――そして、再び館内に向かう途中、早苗は脇を通り過ぎたその女のあまりの異様さに振り返った。華やかな衣服を身に纏い、長く艶やかなに輝く髪を揺らし、妖しく端麗な嬌笑を浮かべていた彼女を何故、“通り過ぎるまで”気が付かなかったのか。何故もうすでに振り向いた先に彼女は、“いない”のか。早苗を得体知れない不安が飲み込もうとしていた。これは単純な恐怖ではない。もっと違う、心の奥に眠る何かを騒々しく叩く感覚。早苗はその感覚を一度も感じたことが無い筈だった。だが、身体のどこかはその感覚を覚えている。
……あれは、人じゃない……。
早苗は自分の中で、いつの間にか結論を出していた。人で無ければ何なのだというのだろうか。幽霊だろうか。いや違う、もっと暴悪な存在だ。早苗の頭は恐怖に気圧されるように、思考を巡らせていた。
……妖怪……?
神奈子が言っていた妖怪だろう。早苗は自らが達した結論に妙に納得してしまっていた。まるで妖怪というものを知っているかのように、だ。
「東風谷、どうかしたのか?」
早苗は急に掛けられた声に顔を上げた。声の主は鈴木だった。鈴木は早苗の様子を心配そうに、窺っていた。どうやら早苗は回りに目が行き届かないほど沈潜してしまっていたらしい。早苗は慌てて思考を切り、険の表情を解いた。
「ううん、何でもない。ちょっと考えごとしてただけです。鈴木君こそ、どうしたの?」
早苗の取り繕った言葉に、鈴木は少し怪訝さが残った声で答えた。
「ああ、うん、俺もトイレ言っとこうかなと思って。本当に大丈夫か? 気分悪いなら言ってくれよ」
「うん、ありがとう。本当に大丈夫だから、気にしないでください。じゃあ、先に行ってますね」
早苗は霧の晴れぬ心情を封じ、笑顔を作って鈴木に安心を与えた。鈴木はわかったと、煮え切らない返事をして、トイレに向かった。早苗も先ほどの妖怪を気に掛けながらも、館内に戻ることにした。
早苗と鈴木が戻り、しばらくすると館内が暗くなる。それに伴って館内が寂び返る。まずスクリーンに映し出されたのは注意事項、続いて新作映画の紹介とCMだ。そして本編が始まる。
映画の内容は、今人気の女優が演じる主人公の友達がいなくなるところから始まる。主人公は友達を探し出そうと決起するが、一向に手掛かりは見つからない。そんなときに主人公は一人の女性と出会う。そして、その女性は突如包丁を取り出し、主人公に襲いかかろうとする。
ここで早苗はふと左横を見た。一瞥のつもりだったが、早苗は視線を戻すことを止める。席を二つ挟み、三つ目の席。そこに座っていた女に彼女は驚愕したからだ。
先ほどすれ違った妖怪が、実に可笑しそうに笑っているのである。
今スクリーンに映っているのは、とてもじゃないが笑えるシーンでは無い。それでもその妖怪はくすくすと愉快そうに笑っている。どこか酷薄な笑み。早苗はその笑みを不気味だと思う半面で、綺麗だとも思ってしまっていた。妖怪の考えなどわからないと神奈子は言っていたが、まさにその通りだと早苗も思った。表情からまるで思惑というものが伝わってこない。
惹き付けられているという表現が一番的確だろうか、早苗は妖怪から目を離せずにいた。すると妖怪は早苗の方を見る。
人の顔をジロジロ見るなんて失礼ですわ。早苗はあまりの事態に困惑した。
……どうして、私の頭の中に声が……。
突如、頭に響いた声は早苗の声であり、他の女性の声でもある。初めまして。そんな驚くことでも無いわよ。少し、自意識と他意識の境界を弄っただけよ、と早苗は理解する。あなたを取って食おうなんて思ってないわ。妖怪は、早苗を文字通り取って食おうとしているわけでは無い。早苗の意識に入り込んだ声は頭の中を反響し、早苗を混乱させ、納得させた。私も映画とやらを見てみたいだけよ。妖怪は映画を純粋に見に来ただけだ。早苗達を手に掛けようとしているわけでは無いのだろう。入り込んでくる声は、早苗の意識を操った。意識を操られるというのは何とも不快な感覚で早苗は、気味悪いでしょうからそろそろお暇させていただくわと思った。
「また会いましょう。少なくとも私はあなた達を歓迎するわ」
声は頭の中に、では無く、耳元からだった。早苗は声に咄嗟に振り向く。だが、そこに彼女の姿は無かった。代わりにあったのは、突然振り向いた早苗に対しての怪訝の視線だ。早苗は小さな声ですいませんと言って、視線をスクリーンに戻す。
「どうした東風谷?」
鈴木は声を殺して早苗を気に掛けた。早苗は鈴木の方を向き、
「ううん、ちょっと虫が入り込んでたみたい」
と適当なことを言って茶を濁した。
「なら、いいんだけど……、その……、手が痛い」
言われて早苗は視線を落とす。彼女の手は鈴木の手を強く握っていた。早苗は慌てて鈴木の手から自分の手を離した。
「ごめんなさい。気付かなかった」
「別にいいよ。優希になんてさっきから爪立てられっぱなし」
鈴木は苦笑し、早苗は優希の様子を確認する。鈴木の言う通り、優希は鈴木にしがみ付きながら、スクリーンを必死に見ていた。
映画も見終わり、早苗達三人は軽く買い物をしてから帰路に着き、今はバスの中だ。窓の外は夕暮れを越し、空には日の残光と対照的に輝きを増す星々の姿が見受けられた。早苗達は最後列に映画館と同様、三人並んで座っていた。向かって右から早苗、優希、鈴木はずっと自分の右腕を摩っている。
「ああ、痛い……。地味に痛い」
「情けないわね。男ならそれぐらい我慢したら?」
優希はやれやれとした声で言う。当然、鈴木はその言葉に納得出切るはずが無い。
「お前が言うか? 普通血が滲むまでしがみ付かないだろ?」
「怖かったんだもん。仕方無いじゃん」
「もう、二人とも落ち着いて」
険悪な雰囲気の二人を早苗は苦笑で宥める。
「非があるのはどう考えても優希ですし、鈴木君に謝りましょう、ね?」
「おいおい、早苗までコイツの味方ですか。そうですか」
早苗の言葉に優希は納得せず、ふて腐れて拗ねる。早苗は代わらず苦笑で、子供をあやすように言った。
「はいはい、すぐそうやって拗ねないの。鈴木君にごめんなさいを言いましょう」
「……わかったわよ。ごめんなさい」
「もういいけどさ。何で小学生レベルの会話してんだろうな。何か優希といるとペース乱れるよ」
鈴木は溜め息を吐く。優希もやれやれとした声で言った。
「まあ、お互いその程度の精神年齢ってことじゃない」
「東風谷はそこらのバランスを取ってくれると。優希と東風谷が仲良い理由、わかったような気がする」
言われ、早苗はそれは違うと思った。
「私も子供だと思いますよ? 優希や鈴木君より、ずっと」
早苗は自分が子供であることを自覚していた。それはこれから神奈子が起こす大事に乗ることが、多大な迷惑が掛かる我侭だとわかっていたからである。我侭は子供が言うもの、自分を抑えられない子供が言うものだ。
「でもまあ、早苗ってたまに子供っぽいところあるよね。そこがまた可愛いんだけど」
「でも実際俺達なんかよりしっかりしてるだろ。神社の管理なんかもちゃんとやってるしさ」
「それは神社が好きだからですよ。好きだから、離れたくないから、一人で住めるように頑張っているだけですよ」
三人が話し込んでいると、いつの間にか降りるバス停が近付いていた。次は神社前と告げられ、早苗は停車ボタンを押す。程無くしてバスは止まり、早苗達は荷物を持ってバスを降りた。
「じゃあ、今日は解散と言うことで」
「ああ、じゃあまた月曜な」
優希が解散を掛けて、鈴木もそれに従う。早苗は今日という日を終えるのが、堪らなく怖く、悲しく、辛く、苦しかった。全ての感情が負の方へと流されて行き、こうやって話している自分の笑顔にも自信が無かった。本当に今日を楽しめたのかと、早苗は疑問さえ覚えていた。
別れを言えば、今日がもう終わる。そう思うと早苗は言葉を発することが出来なかった。
「早苗、どうかしたの?」
早苗は首を横に振る。心配そうに早苗を見る優希と鈴木を安心付ける為、そして別れを恐れる自分を否定する為に。
「何でもないですよ。それじゃあね、さよなら。……それと一つ、今日はちゃんと雨戸を閉めて置いてくださいね。嵐が来ますから……」
「なあ、優希。今日の東風谷、どっかおかしかったよな?」
優希と鈴木は途中まで街灯が照らす同じ帰路を辿っていた。距離こそ鈴木の家の方が遠いが、方角的に一緒なのだ。
「うん。ありゃ、何か苦しいことでもあるんだろうね」
優希は何でも無いようにさらっと言った。鈴木は彼女の淡々とした態度に呆れていた。
「お前なぁ、わかってんなら心配してやれよ」
「早苗は他人から悩みを聞き出されるの好きじゃないからね、自分から話さないかぎり打ち明けないと思うわ。それに私は、早苗を信じてるから」
優希は笑顔で信じていると言い切った。優希にとって早苗は誇れる親友なのだ。
「……そっか。本当に羨ましいよ、東風谷と優希って」
「僻むなって。じゃあね、私こっちだから」
「家まで送ってくよ。もう暗いしな」
優希は頷き、鈴木は彼女と共に辻を曲がった。鈴木にこうして家まで送られることもさほど珍しいことでは無かった。鈴木と優希は高校に入ってからの付き合いだが、お互いに話しやすい相手だと感じている。異性という壁も無く、良き友人同士だ。
「なあ、優希。そういや、東風谷が言ってた嵐って何だろうな」
「ああ、そう言えば。天気予報じゃそんなこと言ってなかったのにね」
優希は不思議に思いながらも、帰ったら部屋の雨戸を閉めようと考えていた。
早苗が帰り、自室に向かった。部屋に辿り着き、戸を開けた瞬間、その光景に愕然とした。ベッドの上で神奈子が諏訪子の上にまたがっていた。神奈子は諏訪子の服に手を掛け、諏訪子はその手を阻止しようとベッドの上で暴れている。
「人のベッドで何やってるんですか!?」
「あら、お帰りなさい。暇だったから諏訪子で遊ぼうと思って」
神奈子は顔だけを早苗に向けて、まるで悪びれた様子も無く、ごく普通に早苗を迎えた。その隙を見て諏訪子は神奈子を自身の右に払い除ける。神奈子は姿勢を崩し倒れた。すかさず諏訪子は立ち上がって、早苗の後ろに隠れた。
「あいつ酷いのよ! 暇だから一緒にゲームしようって呼んでおいてね、いきなりガバーッ、って! このろくでなし、鬼畜!」
瞳いっぱいに涙を溜めている諏訪子の頭を早苗は撫でる。神奈子は起き上がり、胡坐を掻きながら頬杖を付き、嘲笑を浮かべる。
「はんっ、二人っきりになったんだ。そっちもそれを期待してたんでしょ? 何をいまさら言ってるんだか。本当は私のオンバシラが欲しかったに決まってるわ」
神奈子の物言いに早苗は少し怪訝に感じる。
「こんな外道に、私は、私はぁ……!」
諏訪子はついにおいおいと泣き出す。流石の早苗も、諏訪子のあまりに演技掛かった涙に気付く。
「……私のお部屋で本当は何してたんですか?」
早苗は溜め息を吐きながら言った。
「ああもう、諏訪子がオーバー過ぎるのよ、バレちゃったじゃない」
諏訪子が顔を上げ、泣き腫らしていたはずの顔を上げた。その顔は目こそ赤かったものの、頬に涙の跡は無い。
「あーうー、プロレスごっこよ。ちょっとテレビでやっててさ。でも畳の上じゃ痛いじゃない?」
「ちょっとでも心配した私が馬鹿でしたよ」
「心配しないで早苗、いつも私達は合意の上だから」
神奈子が言うと、早苗は少し顔を赤らめ、咳払いをした。
「そんなこと聞いてません」
「何顔赤らめてるの、早苗。遊びの話よ? あれ、早苗ってばもしかして……。ね、諏訪子?」
「その辺にしてあげなよ。早苗、ホントに顔から火噴きそうだよ」
諏訪子は苦笑いして、早苗の顔を覗き込んだ。早苗は彼女の言う通り、顔を真っ赤にし、恥ずかしさから顔を逸らした。
「さて、早苗。着替えは置いといたわ。着替えなさいな」
神奈子は立ち上がり、諏訪子も早苗から離れた。早苗はベッドの上に置いてある服に気付く。青い袴の風祝の装束だ。早苗は青い服に胸の高鳴りを感じた。異様なまでの高揚感が彼女の中で膨らんでいく。
……あれが、風祝の……。
神奈子と諏訪子は一度だけ笑い掛け、早苗の部屋を後にする。ドアが閉まる瞬間、早苗はあることを思い出し、二人を呼び止めた。
「神奈子様、諏訪子様! そういえば今日、妖怪に会いました。どうやらあの妖怪は私達を歓迎してくれているみたいです」
ドアの向こうから声が神奈子の声が聞こえた。
「そう。でもまあ、妖怪の種族にもよるが、基本的に妖怪の言葉なんて充てにならないわよ」
続けて早苗が聞いたのは諏訪子の少し揚がった声だった。
「妖怪かぁ、懐かしいわね。相変わらず狡猾なのかしら?」
「そうね、また騙し合いとかして遊びたいわね」
早苗は諏訪子と神奈子の発言に、引きつった笑みをする。
「そ、そんなことやってたんですか?」
「しょうがないじゃない。あいつらってば、人間襲いまくるから守ってあげなくちゃならなかったのよ。で、どうせやるなら楽しもうって。騙し合いだとか、戦ったりもしたわね。今消えてしまったのは、あのとき好き放題やったツケでしょう」
ドア一枚通して聞こえる神奈子の声は懐かしさに浸ったものだ。妖怪という単語に、早苗は今日の映画館でのことを思い出す。そこで早苗は不可解な事実に気が付く。
「それで、あの、妖怪の声や顔って覚えられないものなんですか?」
「いいえ、見た目こそ人間に近いし、普通は覚えていられると思うけど」
早苗は今更になって気が付いたのだ。彼女は映画館で出会った妖怪の声は愚か、顔、格好さえも覚えていなかった。妖怪に会ったという事実と妖艶なまでの色香、この二つだけは覚えているのだが、それ以外は全く覚えていない。妖怪と話したのかと問われれば、それさえもはっきりしないほど記憶から欠落していた。じゃあ何故、あの妖怪が早苗達を歓迎していると早苗は告げられたのか。答えは早苗自身でも出せなかった。
「不思議な妖怪もいるのね。少なくとも私はそんな妖怪にあったことは無いわ」
「そう、ですか……。油断なりませんね」
だが、どんな妖怪が相手だろうと早苗は屈するつもりなど皆無だ。慄然たる妖怪に圧迫されているであろう幻想郷に神徳を広める為、早苗はある種の使命感に燃えていた。大好きなこの世界と同様に、幻想郷にも平穏な暮らしをもたらしたいのだ。
「じゃあ、下行ってるわ」
神奈子が告げ、続いて早苗が強い、覚悟を込めた口調で返した。
「わかりました。少し、待っていてくださいね。ちょっと泣きます」
「そういうことは言わなくてもいいのよ、早苗」
諏訪子の苦笑の交じった声が聞こえ、早苗は顔を赤らめる。
「どうせまた顔赤くしてるんでしょ? 準備は整っているわ。後は早苗だけよ」
早苗は強固な想いの共に、
「はい、待っていてください!」
と言い放った。
早苗は着替え終わり、自身の姿を鏡に映した。その服は青い巫女服とでも言うのだろうか、何とも斬新だ。そして早苗は仕上げに蛙と蛇の髪飾りを付ける。
先ほどから窓を打つ風の音を耳にしながら吐息を一つ、早苗は窓の外を見る。星の光は雲に遮られ、地にまで届いていない。だが雲の上ではいつものように瞬いているのだろうと、彼女は見えぬ星光に思いを馳せた。日本中で、世界中で普遍を崩落させるのはこの地だけなのだ。それは早苗の偏見かもしれない、変わり続けているのかもしれない。それでも世界は“いつも通り”を繰り返しているのだ。
早苗の世界は潤む。胸が途轍もなく苦しくなり、嗚咽が漏れた。今まで溜めに溜め込んでいたものが、一気に瞳から零れる。
「ああぁ、嫌だぁ! あぁぁ、みんなと会えなくなるなんてぇ! 優希ぃ、私寂しいよぉ! お母さん、お父さん、もっといろんなこと教えて貰いたかったぁ! ご、ごめんなさい、みんなぁっ! 勝手にいなくなってぇ、迷惑かけてぇっ! ありがとう、今まで、ほん、とにぃ……、ありがとおっ!!」
胸から込み上げてくる全ての思いを涙と一緒に流し、言葉として放つ。
一気に泣こうと提案したのは優希だった。早苗は小学校に入ったばかりのころ良く虐められており、その度に泣いていた。原因は、神様は絶対にいると言い切っていたので、からかわれていたのである。そんなときに助けてくれたのが優希だった。優希は虐めていた子達に「トナカイがサンタさんいるって言ったらあんた達だって信じるでしょ? じゃあ、“みこさん”が神様いるって言うだから信じなさいよ」と言って、虐めっ子達を黙らせたのだ。そのときに約束したのが、一気に泣こうというものだった。今思うと優希はあの頃から大人だったな、と早苗は感心した。
泣き腫らすのは、確かに重労働なのだ。身体にも、心にも、相当に負担が掛かる。だから一気に泣く。
早苗は心が収まってくれるまで、ひたすらに泣いた。そして、涙はやがて枯れるものだ。どんなに辛くても、苦しくても枯れるまで泣き続ければ、次に進めることが出来る。一頻り泣いてしまえばこっちのものだと早苗は声を上げて、昂ぶった感情を止めど無く流し尽くした。
ややあって、感情の雫は頬を濡らすことを止めた。代わりに早苗から生まれたのは、澄み切った安堵と心の奥底から沸いてくる期待だった。その感情に早苗は頬を緩める。
泣き止んだ早苗は携帯を取り、優希にメールを送る。メールを送り終えると彼女は携帯の電源を切った。
外は早苗が言った通り、嵐となっていた。胸騒ぎを抑えられずにいた優希は、早苗から送られてきたメールを見て、唖然とした。すぐさま早苗に連絡を取ろうとリダイヤルで彼女の名前を見つける。だが、
『お掛けになった電話は現在、電波の――』
優希は最後まで聞くこと無く、舌打ちと共に電話を切った。これほどまでにこの女声を腹立たしく思ったことなど優希には無かった。優希はもう一度、自身に送られてきたメールを見る。
『私の机の中の手紙を見てください。さよなら』
文面はこれだけだった。優希は溜まらず、メールを返信する。きっと届いていないのだろうと知っておきながら。
……早苗、一体どうしたっていうの?
外はすでに豪雨と暴風が支配していた。地を打ち付ける雨が辺りを白く染め、視界を奪う。ときどき稲光も雷鳴と共に瞬いた。だがそんな暴風雨の中、早苗の目の前にいる神様二人は全く濡れていなかった。それは、早苗も同様である。自らを逸れて暴れ回る雨と風に、早苗は奇跡の中にいる心地よさを覚えていた。
「早苗はもう、この世界に未練はないわね?」
「未練が無いと言えば嘘になりますが、大丈夫です」
早苗は迷い無く、真っ直ぐと言い放った。
「諏訪子はどう?」
「最初っから、ほとんど未練なんて無かったわよ。勝手に私の神社を移動されるのは迷惑だけどね」
諏訪子の声色は辟易としていたが、どこか嬉々としたものがあった。
「今更そんなこと言うな。きっとあっちも楽しいわよ?」
「そうね、楽しませてもらうわ」
諏訪子は眉根を下げて、神奈子から離れた。
「神奈子様、もう神社や諏訪湖の周辺には人はいませんか?」
「ええ、大丈夫よ。誰もいないわ」
それを聞き、早苗も神奈子から離れる。
早苗が離れ終えると神奈子は諏訪子の顔を見て頷き、早苗の顔を見て微笑む。
「では、行きましょう。“八坂様”」
早苗は覚悟と共に言い、神奈子は返答として力強く頷いた。
「ええ、行きましょう、早苗。奇跡の地、――」
暴風と豪雨はより強さを増し、目を焼くような閃光と耳を突いて頭を揺らす轟音が響く。早苗は八坂の神の姿を毅然と直視した。
「――幻想郷へ!!」
その一際大きな轟音、次いでの停電に、優希は小さな悲鳴と共に飛び起きた。自室の光は消え、雨戸も締め切っている為、視界は闇に埋もれた。優希はベッドに放ってあった携帯を手探りで取る。携帯で時刻を確認すると、一時二十二分、真夜中だ。
優希はなかなか寝付けないでいた。それは早苗からの不可解なメールが気になって仕方が無いからだ。暴風雨が壁を打ち付ける音は、さらに不安と苛立ちを煽る。携帯の電池の残量も少なく、こんなことなら放っておかずに充電しておけば良かったと優希は今更ながら後悔した。そんなことを思っていると案の定、携帯のディスプレイには充電してくださいと表示され、しばらく電子音を出した後、携帯の電源は切れてしまった。
優希はもう一度、ベッドの上に寝転んだ。全てを隔てる闇と嵐の音の中、優希は安堵を得ようと目を閉じる。だが脳裏に浮かぶのは早苗の顔だ。さらに不安は募っていく。黒だけが視界を埋め、意識は闇の中に解けていくようだった。
――いつの間にか意識を失っていた優希は母親に文字通り叩き起こされた。
「優希、起きなさい! 優希っ!」
「んん? 痛いって、何ぃ、お母さん?」
寝惚けている優希はゆっくりと身体を起こした。寝不足のせいもあって身体は重い。だが、
「早苗ちゃんの神社が消えたのよ!」
優希を覚醒させるには母親の言葉だけで十分だった。
パジャマに上着だけを着た優希はニュースを見て愕然とした。テレビに映っているのは、ここら一帯の上空からの映像だが、街を隔てて明確な異質がそこにあった。巨大な穴だ。アスファルトと地層を深く抉り、昨日まで存在していたものがこの世界から欠落していた。
「何これ……」
やはり早苗からのメールは杞憂で終わってくれなかった。焦燥に駆られた優希は衝動のまま家を飛び出す。母親の呼び止める声が聞こえたような気がしたが、優希はただ神社まで駆けていった。走りながら優希は、ふと昨夜のことを思い出し、気付いた。アスファルトは濡れていたが完全に一晩で嵐は去り、空を染めるのは青色の快晴だった。嵐は、早苗と共に過ぎ去っていた。
――神社、いや神社があった場所にはこの地方周辺の人間全てが集まってきたのではないかと言うほど人だかり出来ていた。優希は肩で息を整えながら、その人の壁を見渡す。彼女が本当に見たいのは人混みなんかでは無く、奥にある神社が消えた事実だ。優希は募る苛立ちを押さえ込めず舌打ちを一つ。その直後、背後から自分の名を呼ばれた。
「優希! 携帯も繋がらないし、家行ってもさっき出て行ったって言われるし」
「鈴木、私、昨日早苗を止められたかもしれない。メールがあったの、さよならって」
優希は昨夜の自らの行動に悔恨の情を覚えていた。メールが届いたとき、何故早苗のところへ向かわなかったのだろうと今更ながらの後悔が優希の胸を突き刺す。
「お前外見てなかっただろ? あんな暴風雨の中、普通立ってられない。ほら、周り見てみろ」
優希は言われ、周りを見渡した。右方にある街路樹は薙ぎ倒されており、電灯も割れている。左のブティックのショーウィンドウも破砕していた。何せ、家を出てしばらくして未明の嵐を思い出した優希である。ただ早苗のことしか頭に無かった優希の目には、映っていなかった。
「それでも、……それでも! 早苗を……!」
優希は苦痛の声を吐き出し、対する鈴木はじっと彼女を見て無言だ。優希はどうしていいかわからず、その場にへたれ込んだ。鈴木は見かねてか、優希に声を掛ける。
「立て、優希。メール何て書いてあったんだ? さよならだけだったのか」
優希は鈴木を見上げて、力無い声で告げ、
「違う。教室に――」
自らの言葉に気が付いた。
「――そうよ、学校! 学校って開いてるわよね?」
優希の声は活力を取り戻し、彼女は立ち上がる。教室に早苗の手紙が置いてあることを思い出したのだ。
「たぶんこんな状況だし、開いてると思うけど」
「行こう! 早苗の机に手紙があるはずだわ!」
優希と鈴木は案の定開いていた学校に辿り着き、職員室へと向かった。担任から教室の鍵を受け取り、教室へと入った。そして、優希は早苗の机の中に入っていた手紙を手に取る。優希は便箋を広げ、早苗の手紙を読む。
『この手紙を読んでいるということはきっと私はもうこの世界にはいないのでしょう。何だか闘病の末に書いた手紙みたいですね。
始めに、ごめんなさい。勝手にいなくなってしまって。そして、今までありがとうございました。
私が向かったのは幻想郷という辺境の地です。信じてくれないと思いますが、その地は結界で隔たれており、普通の人間が行き来するのは無理です。
そして私は巫女では無くてですね、正確には風祝(かぜはふり)という神職に着いています。今でこそ、巫女と同じようなものですが、昔は気候を操ってこの地に安寧をもたらしていましたそうです。私も実は気候を操っていたんですよ。晴れ女の秘密はそこにあったのでした。
本当はもっとみんなと一緒にいたかった。もっともっと笑っていたかった。それでも私は自分の力と仕える神を信じ、幻想郷へ向かいます。これは私のわがままです。お母さん、お父さん、優希や鈴木君、みんなを、日本中を巻き込んだわがままです。だから、もう一度謝りますね。
ごめんなさい。優希の口からも伝えておいてください、お願いします。
そろそろ終わりにしようと思います。これ以上書いていたら、泣き出してしまいそうなので。
私は幻想郷で生きていきます。優希もそちらで頑張ってください。自分をいつまでも信じていてください。
優希、また会えるといいですね。信じましょう、再会できることを。
信仰は信じることです。信じることで叶うのですから。
早苗より』
「優希、この手紙信じれるか? 正直、わかんねえよ」
鈴木は悔しそうに、それでいて静かに言った。対して優希は頷く。
「私もわかるわけ無いじゃない? だから、文句言いに行くわ」
優希は憤怒の念を込め、しっかりと言い放った。
優希と鈴木は人混みの最前列まで身体を押し進めてきた。本当にこの世界から消失した神社の代わりに存在する巨大な暗穴を目の前に優希は一つ吐息をする。彼女は次の瞬間、自身の気持ちを破竹の勢いで叫び放った。
「早苗ぇぇッ!! 何勝手に訳のわかんないことやってんのよぉ! 風祝って何!? あんた巫女だったんでしょ! 幻想郷ってどこよぉ!」
嗚咽が混じり、優希の声は濡れる。鈴木はただ優希の想いを聞いていた。
「何ぃ、よぉ……! 相談くらいしなさいよ。わ、私が止めるとでも思ったの? あんたの気持ちがそんなことで揺ら、ぐと、思ったの? 何で、勝手にいなくなるのぉ? さ、早苗の、早苗の、バカッー!!」
優希は理不尽に激昂する気持ちと嗚咽を抑えつけ、息を整える。叫んだおかげで、彼女は注目の的である。無数の視線を集める中、優希は自身の背後を刺す睥睨にも似た異様な視線を感じた。優希は咄嗟に振り向く。
そこには、あまりに奇異な女性が立っていた。日傘を差し、笑みを浮かべ、優希を真っ直ぐ見ていた。ドレスともいうべきか優雅な衣装を纏い、金色の長髪は地を照らす陽光を反していた。優希は優美な姿の女性から目が離せず、鼓動が高鳴っていくのを感じた。胸の奥が燻り、恍惚とした意識が頭を支配していく。
そして刹那、女性の背後に亀裂が入り、人の眼のように開く。女性はその亀裂に嚥下されるように、その場から消えた。
次いで、優希を襲ったのは眩暈だった。鈴木の声が聞こえるが、意識は遠退き、失せる。
秋は確実に近付きつつも、まだまだ残暑の日が続きている。早く秋の神が来ないかと思いながら優希は、夕焼けが照らす帰路を快く歩いていた。この朱色の道は明日の快晴を暗示してくれている何とも希望に満ちた道だと、優希の口元はほころびる。同時に、この地も来月には神無月だが、秋の神はそれまで来てくれるのだろうかと彼女は明くる日の快晴がもたらす暑さに少し不安も覚えていた。
日曜日、意識を失った優希は鈴木により病院に運ばれたが、寝不足と心労による軽い貧血だと判断された。優希自身も叫んだ後のことをあまり覚えてはおらず、何とも恥ずかしい思いをした。
早苗が消え、月曜日のクラスの雰囲気はとても陰鬱なものだった。だが優希と鈴木は、早苗は生きていると言ってクラスを励ました。根拠が無いと何人かのクラスメイトからは反駁されたが、優希は早苗の言葉を借りて、信じることが大切だと説いた。鈴木は気丈を装いながら、実は早苗にちゃんと告白しておけば良かったと後悔していた。そんな鈴木を今度代わりに遊んであげるからと優希は励ましていた。
そして、今日は体育祭だった。当初は中止になるかもしれないと噂されていたが、今一つ活気が消えた学校に景気を取り戻そうと催したのだ。早苗のてるてる坊主が聞いたのか、雲ほとんど無い快晴。天気予報では曇りのち雨だったはずなのだが、昨夜の内に雲は失せていた。
世間では神社の喪失の謎が囁かれている。某国の新兵器、大規模な地盤沈下、はたまた宇宙人説。学者やコメンテーターが連日テレビで色々と騒いでいるようだが、未だに真相は見えていないようだ。真相は神と早苗のみぞ知る、と優希はテレビの見解を見て一人笑っていた。
優希が曲がり角を曲がると、日傘を差している女性がいた。優希が女性の顔を見ると、その女性と不意に目が合う。
「こんにちは。それともそろそろ、こんばんは、かしら?」
優希は突如挨拶と質問をされ、驚いてたじろぎながら挨拶を返した。
「こ、こんにちは。こんにちはでいいと思いますよ」
優希は女性の余りに艶やかで端麗な姿に見惚れる。衣服、振る舞い、容姿、全てが麗の文字を切り離せない。
……綺麗な人……。
今まで見た誰よりも美人だと感じた。
「そうね。まだ日も出ているし」
「はい。……えっと、どこかで会いましたっけ?」
優希は何故か、急に問うてしまっていた。こんな綺麗な人間、一度見たら絶対に忘れないだろうに。優希は馬鹿なことを訊ねたと自らの発言に後悔する。
「日曜日じゃないかしら? あなた、穴に向かって叫んでいたでしょう? しっかり見ていたわ」
女性はくすりと笑う。彼女の一連一連は美麗で仕方が無い。優希はもし自分が男だったら完全に惚れていただろうと、内心で苦笑した。もちろん早苗には勝てなかっただろうが。
「ああ、あのとき。周りにいたんですか? 恥ずかしいとこ見られちゃったな」
赤面しながら苦い笑みをする優希に対して、女性は微笑を浮かべた。続けて優希を刺すように、
「……幻想郷、行きたいの?」
と告げた。優希は言葉を無くし、表情から笑みが失せる。
「幻想郷、そこはこの世界から果てたものが集う場所よ。あなた達が忘れた、忘却の楽園。それはそれは、とても優美な世界ですわ。常識と幻想の境界に隔てられ、夢と現の境界に縛られた世界。あなたの友達はきっと、この世から消えたものを取り戻したかったのね」
女性は口元を歪ませ、微笑という名を借りた悪意の笑みを優希に向けた。笑んだ女性はそっと手を優希に差し伸べる。
「行ってみたいんでしょう、あなたも? 自らも幻想と果て、自ら幻想と果てた彼女を探しに」
だが、優希は首を横に振った。
「確かに、行きたくないと、会いたくないと言ってしまえば嘘になります。でも、私は行かない。早苗を信じているから。早苗は言ってました。信仰は信じること。だから、私は早苗も、この地に住む神様も、この世界も、そして自分自身も信じようと思います」
優希に繚乱を象った笑みが咲く。それを見た女性は笑みを澄ませ、より濃くした。
「そう。信じること、ねぇ。そういえば自己紹介が遅れたわね、私は――」
女性は歩み始め、優希の脇を通り過ぎる。
「――八雲紫よ。もう二度と会うことも無いでしょうが、覚えておいてね」
優希は振り返るが、そこには先ほどの女性、八雲紫の姿は無かった。
紫はスキマから顔だけを出して、博麗神社の居間でいつものように茶を飲んでいる霊夢の後ろ姿に見惚れていた。
……相変わらずいい腋ねぇ……、歴代の博麗の巫女の中でも一、二を争うわ。
紫は堪らず霊夢に声を掛けた。
「霊夢ぅ、久しぶりね」
驚いたのか、霊夢は咽ながらゆっくりと振り向く。霊夢は人を刺殺出来るような視線で、紫を睨んだ。だが紫は全く怯まず、
「見て見て霊夢、生首ー」
霊夢の反応は皆無で、相変わらず紫に向けられるのは鋭い眼光だった。
「――打符「妖怪封印チョップ」――!!」
霊夢は手刀を振り下ろし、紫の脳天へと直撃させる。痛撃に襲われた紫は頭をスキマの中に引っ込め、頭を押さえながら霊夢の横に再び全身を現した。
「痛いわね、もうちょっと手加減しなさいよ」
「嫌よ。後、警告しておくけど次同じようなことやったら、――霊打「博麗式逆水平チョップ」――で首へし折るから」
「もう、物騒なスペルカードね。せっかく久しぶりに会えたというのに」
紫は残念そうに漏らした。
「そういえば、ここんとこ顔出して無かったわね」
「ええ、ちょっとお出かけしてたのよ。旅行みたいなもんね」
紫がそう言うと、
「そう。どうでもいいけどね」
霊夢は本当にどうでもよさそうな声で返した。
「あのね、霊夢。そういうものは声だけに留めて、言葉に出すべきじゃ無いと思うわ。とっても傷付くから」
「じゃあ、何かお土産でもあるの?」
「もちろん、無いわよ」
紫は即答する。やっぱり、と霊夢は再び茶を飲む。
「嘘よ。ちゃんとあるわ。しかし霊夢の辛辣さたるや、妖怪に勝るものがあるわね」
霊夢は紫の方を見るが、その視線は明らかに期待しているものでは無い。紫はスキマを開け、手を突っ込み、お土産を取り出した。スキマから抜き出された紫の手が持っていたそれは、色彩豊かな紙の筒に入ったいくつもの白い物体だった。
「何それ?」
「『ポップコーン』というらしいわ。食べ物よ」
霊夢は食べ物、と言う単語に反応した。
「食べ、られるの?」
ええ、と紫は試しに一つ手に取って口に放った。そしてどうぞとちゃぶ台の上に置き、霊夢に差し出す。霊夢は手に取って感触を確かめ、観察してから口に運んだ。
「うん。ちょっと塩気が強いような気もするけど、結構イケるわね」
「でしょう? 茶請けくらいにはなると思ってね。ところで霊夢、私は客人よ?」
霊夢はポップコーンにもう一度手を伸ばしかけたが、笑顔の紫の顔を見て、その手を引いた。そして、辟易と立ち上がり台所に向かい、ややあって茶を持ってくる。
「ありがとう。やっぱり持つべきものは友達よね」
「全く、素直にお茶が欲しいって言えばいいじゃない」
ポップコーンを摘みながら、紫も湯飲みをすする。
「やっぱり、霊夢の入れてくれたお茶はお世辞抜きにおいしいわ。……本当に友達っていいもんだと思うわよ? これも冗談抜きに」
紫の言葉を聞いていた霊夢のポップコーンを口に運びかけた手が止まった。
「これ、毒でも入ってるんじゃないの?」
「失礼ね。私が友情を語っちゃいけないの?」
不満気な声で紫は霊夢に問い掛けた。
「まあ、たまにはいいかもね」
再び霊夢はポップコーンを口の中に入れた。
「ところで霊夢、何か感じない?」
紫に言われ、霊夢は怪訝な視線を紫に向けた。
「別に感じないけど。……何? また何かやらかそうとしているわけ?」
紫は目を伏せ、首を横に振る。霊夢の勘が働かないということは、新たに来た者達は幻想郷にとって悪い知らせではないのだろう。紫は面白くなりそうだと期待に胸を躍らせ、内心で笑んだ。
……ようこそ、幻想郷へ。
「霊夢、信仰心ってのは大切よ? 信仰は信じること。巫女なら覚えておきなさいな」
霊夢は紫の言葉に首を傾げた。紫はそんな様子の霊夢を見て、微笑む。この神社の神様も苦労をしているだろうと、紫は微笑を浮かべながら思った。
「まあいいわ。それより、ポップコーンってどうやって作るの?」
「原料はとうもろこしよ。生のとうもろこしを油で炒めるの」
「へえ、簡単なのね。今度作ってみようかしら」
実際に作ろうとし、飛び跳ねるポップコーンに慌てる霊夢の姿を想像して、紫は心中でほくそ笑んでいた。
素晴しいお話ありがとうございます。
個人的に風神録キャラは大好きなので。
もしよろしければ、今度は風神録後の話もつくってみてください。
タイトルについては…、別に深く考える必要はないかと。
神主様のセンスはおそらく日本でも上位でしょうから。いやマジで。
>信じましょう、再開できることを。
再会かと。
>……相変わらずいい腋ねぇ……、歴代の博麗の巫女の中でも一、二を争うわ。
ここで完全に吹きました。
そして悲しさを最後まで残さない書き方が非常に気に入りました。
中盤でプロレスごっこの言い訳をする神二人の会話は中々のカオスだった。
が、色々と誤字やら気になる点が多々あったので、もう少し念入りに推敲したらもっといいのではないかと思いました。
以下、列挙します。
> 「~神無月でしょ?」
> 橘は自身
自信たっぷりに~というような文章が本来はあるのでしょうか。途中で切れています。
> 十一字には片付くだろうと踏んでの答えだ。
「十一時」
> 目に見えて進歩する科学に人は信仰心似た心を寄せているから
「信仰心に」?
> クラスメイトと接していると早苗は自分が幸いなのだと思い知らせる
「思い知らされる」?
> レールに括りつけたてるてる坊主見上げた。
「てるてる坊主を」?
> 神様だって欲しがっちゃうほど可愛いん写真なんだから。
「可愛い写真」?
> 長く艶やかなに輝く髪を揺らし、
「艶やかに」?
> 席を二つは挟み、三つ目の席。
「席を二つ挟み」?
> 子供あやすように言った。
「子供を」?
> 優希と東風谷が仲良い理由わかったような気がする
「理由が」?
> 言われ、早苗はそれ違うと思った。
「それは」?
意図的にそうした部分があったら失礼。
あと「~無い」など、無用な漢字変換が多いと感じました。
漢字変換する/しないを使い分けると、より読みやすくなりますし文章にメリハリがつきますよ。
これからも楽しみにしてます。
やはり日常を丁寧に書いてこその旅立ちですね。
それと、紫様のシリアスとギャグの凄まじい落差がかえって得体の知れなさを際立たせているのも素敵です。
にしても優希、ほんとええ奴やなぁ……。