決められた時間を半刻近く過ぎてから、八雲紫は妖怪の山に姿を現した。
情けなく息を切らすことも言い訳の台詞を述べることもなく、微風ひとつ立てず大地に足を下ろす。
眠い。大欠伸を噛み殺すこと数知れず。殺しきれずにくぁー、と低く唸ること数度。
目尻に溜まった涙を白絹の手袋の先で拭い、円形の手鏡で化粧の具合を確かめる。
藍にしつこく起こされて目を覚ましたら、月が沈みかけていた。紫なりにまあまあ急いで準備をして、山の裾野のここまで来た。
白粉ののりは良好。白目の充血に一瞬眉をしかめ、すぐに忘れて成熟した大人の笑顔を作る。端まで鋭く紅を塗った唇を反り返らせて。
そうして自分の空間を整えてから、暗い周囲を見回した。逢引の相手は未だ現れず。
思い出せる限り、約束の時刻に彼女が来たことは一度もない。紫が来たことも一度もない。
裾野の一角のミズナラの古木林を集合場所に指定したのは、紫ではなく彼女。両腕で抱えられないくらい太く成長した灰白色の木々が、東西南北いい加減な方向に枝葉を飛ばす。近隣の木とねじれ絡み合い月光を遮断する様は、紫には大変エロティックに見えた。お盛ん。
とにかく一寸先すら見えないほどの暗所なので、夜目の利かない人間は勿論天狗も殆ど訪れない。二人きりの静かな酒宴には相応しかった。
伽羅の扇で境界をくすぐって、緋毛氈と秘蔵の清酒、猪口を引っ張り出す。香木の枯れた甘やかな匂いには、酒とまた違う旨味があった。
舌先でつと扇の端を舐める。いつか酔ったときに誤って浸した、蓮華の蜜の湿った味がした。
扇の削り文様は、蜜に擦り寄る彼岸の揚羽蝶。いつぞや説教の長いちびっこ閻魔が連れていた。彼女曰く、そう、貴女は幻想郷を愛しすぎる。そして、愛する力を持ちすぎる。貴女の主観ひとつで世界が歪む。紫は閻魔小娘の眉間の皺に扇を押し当てて言ってやった。そうね、誰にでも言えることよね。
遅刻常習犯の相手を放置して、紫は毛氈に仰向けに寝転がり、ひとりいい加減な宴会を始める。名前と同じゆかりの色のドレスは、軽薄さを感じさせる熟れた身体に引きずられ、不規則で自堕落な波紋を成した。重力任せに腕を落とせば、緋色の毛羽立った布地を外れて外へ。大地から突き出た根で手の甲をしたたか打った。ぬるい清酒を含んだ口で、舌打ちをする。
喉の奥に液体が入り込み、たっぷり時間をかけて冷たく沁み、体温で温められる。腐る寸前まで忘れられていた林檎のような、自己主張の強い香り。空の徳利を音を立てて嘗め回した。
まどろんだ視界に入るのは、老いてなお活発なミズナラのご乱交と、その隙間から覗く金色の星の海。月面侵略が趣味だった頃、月を取り巻く星屑で星座を編んで遊んでいた。
「久方の天の御空ゆ、何だったかしら。使えない記憶力」
季節が良く出来た独楽のように素早く巡り、新たな交友が開け。月の都の大戦も、星の位も、天文の和歌も今は昔。天球よりも遠い意識の水底に沈んでいる。隙間と継ぎ目を操る己のこと、手を伸ばせばすぐにも鮮明な記憶を掴めるのは間違いないのだけれど、やらない。
ペースを考慮せず酒を入れていたら、肌が火照ってたまらなかった。手袋の先を噛んで引き、日焼けしていない青白い手を抜き出す。布の膜一枚の外れた素肌、夜は冷たく涼しく響く。小指から人差し指まで順に握って開いてを繰り返す。生命線の溝に薄く汗が溜まっていた。
「長い生命線。まだまだ死ななそうね、残念」
お芝居なら拍手を与えたくなるような、情感たっぷりの高い声が降ってきた。指と指の間から見上げれば、遅れてきた酒席のパートナー。膝上丈の短い朝顔型のスカートをはためかせ、脚を肩幅に広げている。ドロワーズはだらしなくずり落ち、腹を一寸覗かせていた。
「貴女も元気そうね、とても残念。たまには大人しくしたらどうかしら、年相応のばば臭ぁい格好して」
「まずはお手本を見せて欲しいわね、きっとびっくりするほど似合うわ。お金をくれたらコーディネイトしてあげる」
「あらあら、普段着慣れてる子でないと言えない売り文句ね」
喉任せの醜い言葉の応酬を飽きるまで続けてから、彼女――因幡てゐは
「なんて。妖怪の大賢者様相手に失礼つかまつりましたわ」
緋色の毛氈に飛び乗って胡坐をかいた。紫の猪口を奪うと、雫を一滴赤い舌に載せる。短い睫毛をはためかせ、長い白耳を左右に揺らす。
「ちっとも失礼と思っていないのではなくて、てゐ」
「今日もまた一段と美味しいお酒で。ご馳走様ですわ」
てゐが杯を回すと、餅飴のような香りの分子が林に満ちた。小さな鼻を動かして満足そうに微笑む。激しい曲線を描く黒髪には紙片のようなものが挟まっていた。紫が摘んで掲げれば、端の欠けた紅葉の葉。赤い色素の発現にはまだ早く、青臭さがある。
身を起こして葉っぱの縁をなぞる紫の隣で、てゐは素焼きの猪口に満たした清酒を楽しんでいた。傍らの風呂敷を紫が指差すと、
「作ったの。たまには良いよね、お酒と甘いものも」
結び目を解いて、紅白の菓子を盛った平皿を出した。巻きすで巻いた凸凹の跡が周りについた餅菓子で、齧ると歯型の残る程度の弾力と軟らかさ。表面に片栗の粉を塗してある。金と物にうるさい彼女らしい、ごく僅かな甘味。砂糖を出し惜しみして天秤で何度も量る様が想像できた。
「何て言ったかしらね、これ」
「すあま、って輝夜が言ってた」
「あぁ、あの年齢不詳姫」
素で甘いと書いてすあま。もともとは、州に浜ですはま。海に突き出た浜辺の形に作るものだった、歴史ある甘味。
幻想郷には海はない。言葉として存在しているだけで、多くの民は直に見たことがない。明治十七年の外の海は、どのような色をしていたか。しょっぱかったか、温かかったか、貝殻は拾ったか。うるち米の薄甘い餅からは、潮海の面影はかけらも感じられなかった。
「紫と宴会だって言ったら、これがぴったりだって」
両頬に素甘を詰め込んだてゐが、噛みしだきながら言った。頬を突いてやると、押し戻る硬い感触、はちきれんばかり。
「州浜がぴったり、ねぇ。姫様らしい嫌がらせ」
喉を生き物のように蠢かし、餅を呑み込んだてゐに説明してやる。
「お菓子の州浜のもとになったのは、飾り物の州浜なの。お盆に砂で浜を作って、鶴亀や松竹梅の作り物を配したもの。そして飾り物の州浜のもとになったのは、」
「不老長寿の仙人の遊ぶ蓬莱の山」
「先に言わないの。貴女の心はいつまでも幼稚ね」
「身体もぴちぴちでございます」
素甘を載せた平皿の空きに、先刻の紅葉をはめ込んだ。これもまたひとつの州浜、幸せな箱庭。そう見立てるのは紫だけで、大食の兎は餅を食み続けた。先ほどより、幾らか健康的な速度で。
「海も幻想郷に持ってくれば良かったわね」
この兎は紫と同じくらい長命で、大昔に鮫の背を歩いて海を渡ったのだという。酔った彼女から何度も聞かされた武勇伝で、動物は鮫のときもあればツキノワグマやザトウクジラのときもあった。
「泳げないから別にいい」
てゐとの出会いはもうはっきりとは覚えていない。幽々子よりも長く、浅い付き合い。時たまこうやって、思い出したように日を定めて酒を飲むだけ。貸し借りなしの軽い関係は気楽で、自然に消滅することなく続いた。変わらない宴席の間に、幻想郷が海と切り離され、阿礼乙女が代替わりし、吸血鬼や宇宙人や神様が現れた。ミズナラの若木は貫禄ある巨体に育った。
「美味しいわね、これ。甘くないからお酒と合うわ」
「十分甘いよ」
しみったれた味覚の節約兎は、皿の七割近い餅を胃袋に収めていた。表面張力の限界まで米酒を注ぎ込み、猪口に小さな唇を寄せる。一気に飲むのかと思ったら、啜って離した。紫の空杯に酒を盛ると、彼女は
「乾杯してなかった」
赤茶色の杯を合わせて鳴らした。虫の合唱には早い静かな秋山に、軽やかな土器の音が生まれて残った。それはいつかどこかで聴いた、懐かしい響き。
去り行く時に縋るのは、寿命の短い人間ばかり。酒を酌み交わして待っていれば、全てはまた巡ってくる。見逃した満月も、散った桜も、亡くした人も。多分本物の海も。
「ふふ。歌でも詠みましょうか、てゐ」
「いいよ。お題とご褒美は何にする?」
星を載せて空は金銀に光り、木々は好き勝手に枝を伸ばす。年月を経た清い酒は空気を酔わせ、お菓子は悪戯っ気に満ちている。酒の相手はお茶目で冷めていて、夜の音色は胸の底を高揚させる。この世界を嫌うのは難しいですわ、閻魔さん。
幾よ経とながき眠りに果て問はば照葉舞い落つゐだてんの程 因幡てゐ
山寄せの雲透きに見る夢の日は幽かに響く鈴(りん)の歌声 八雲紫
紫とてゐ
今までありそうでなかった組み合わせですね。
なかなか面白いと思います。
ただ、意図的なものなのならこれはこれでいいと思いますが
文体や表現に少し違和感があるのが気になりました。
次の作品も期待しています。
すっかり虜になってしまいました。
先ほどまで貴方の過去の作品を読み返していたところです。
とても注目しておりますので、今後も作品の投下を心待ちにしております。
彼女もバックボーンとしてあれこれと抱えていそうなのですが、創想話ではあまり突っ込んで描く人がいないので、こういう風にカリスマというか、凄味みたいなものを感じさせてくれるてゐは読んでいて実に楽しい。
これもアリだな、と読後に感じさせた時点できっと作者の勝ち。
不思議な魅力に満ちている素敵なお話でした。
今後も期待しています。
ということは姫や紫くらい長く生きてるのでは・・・
それぞれの詠み人の名前が盛り込まれていてかっちょいいです。
自分も悪戯兎じゃないてゐを書いたことがありますが、中々上手くいきませんでした。
でも、あなたのてゐは本当に自然と言うか、キャラがきちんと生きているように感じます。
でも、てゐを幼く書く人が多いのは何でだろう?
文体・表現の違和感は、可能な限り無くして行きたいです。
てゐと紫の組み合わせ、楽しんでいただけたようでほっとしました。
慌しい時代を抜けて、落ち着いて。毎日が楽しくて仕方がなくて。時々孫にちょっかいを出して遊ぶお祖母ちゃん。これが私の中のてゐのイメージです。