(一)
夜中三時をまわる頃、パチュリーは一冊の厚い本を読み終えた。栞代わりの小さなリボン
を頁の最後に挟みこんで、机の横に高々と積み重ねられた本の上へとそれを落とす。どさり
という重い音に遅れて、ぱたんと表紙の閉じる小気味いい音が響いた。俄かに耳が澄んで、
天井から降りてくるけだるい雨の音が、また耳につきはじめる。
朝から一日降りつづいた雨はいよいよ強くなってきたらしい。大地の層にやわらげられて
も地下にとどく、ざあざあという篭もった雨の跫音が、地上の降りようの激しさを伝えてい
る。そうしてまた時おり雷の一撃が地響きのように低く轟いて、机を、ランプを、本棚を、
部屋の夜気を、分けへだてなくびりびりと震わせた。
「おつかれさまです」
本を置いてまもなく、小悪魔が紅茶を運んできた。蔵書の整理をしながら近くで様子を伺
っていた彼女は、パチュリーのひと休みが近いことを見てとると、かいがいしくお茶の準備
を済ませていたのであった。
「ご苦労さま。掛けなさい」
「失礼します」と小悪魔は向いに掛ける。椅子を引く音が、雷の低いうなりに合わさって重
く響く。
「今日はもうおしまいですか」
「ええ。片しておいてくれる」
いつもより高く積まれた本を見遣って、小悪魔はもういちど「おつかれさまでした」と穏
やかな声。パチュリーは答えて小さく頷く。
ならべたカップにスプーンを添えて、
「こちらは、紅茶に溶かしますか」
と小悪魔の差し出す粉薬は、短い時間にも深くこころよい眠りを得るための害のない睡眠
薬のようなものである。パチュリーは、夜更かしの宵にはしばしばこれを飲んで、睡眠時間
の不足を補っていたが、今日はその勧める手を静かに制して断った。そうして不思議そうに
見まもる小悪魔に、雑然と重なった本のなかから一冊をとって、おもむろにそれを開いて見
せる。
「懐かしいものを見つけたの」
紅茶を一口、声の調子を幾分やわらかに、紙の面を撫でるようにめくっていく。やがてそ
れが或る頁で止まると、ふいに小悪魔は眠気の覚めた表情を浮べて、ぐっと身を乗りだした。
頭の小さな羽と、その根もとに結った白いリボンがはたりと揺れる。
「これは……」
頁の間には、端の黒く焦げた一枚の紙切れが挟まっていた。何かの文字が書かれた面を表
にして、ちょうど栞のように。小悪魔はそれを見て、何か非常な感慨に打たれたようにはっ
と息を呑んだ。俄かに目の色を変えて、そうしてその紙を、文字を、じっと熟視っている。
「思い出すわね」
パチュリーもまた思うことがあるという風で、紙片を静かに拾い上げ、それを灯りに照ら
してみると、かすれた文字がちらちらと光に揺れた。そこに記された古代の文字を、独特の
抑揚で読み上げる――その声はまるで、その言葉を、遠い昔を思い返す緒口にするとでもい
うように、深い情を含んでいるように聞きなされた。小悪魔は小さく羽を揺らして、わずか
に上気した吐息を洩らす。パチュリーは紙を置く。二人は顔を見合わせて、やがて安心した
ように静かな笑いを零した。
琥珀のようなランプと、そこから洩れる光が急に懐かしいもののように思われた。
(二)
その日は明け方から降りだして、昼を経ても、夕方を過ぎてもやまなかった。
夏の湿り気がまだ残っているところへ、続きに続く長雨。地下をこめる湿気にランプの光
は幾分こまやかになって、本も服も冷やかにしとっていた。夜になってまた少し気温が下が
ったらしい、仄かな秋の寒さが、肌にぞくぞくと感じられる。読み終えた本を片付けついで
に、もう一枚衣を着重ねて、お白湯で喉を潤した。
しばらく本棚の間をさまよい歩く。
上へ下へと、背表紙へ視線を滑らせて行く。どの棚を見ても覚えのある題名と、まだ読ん
でいないように思われる見知らぬ題名が、何の順にならべられるでもなく混然としていた。
何がどこに仕舞われているかはとっくに把握のそとに抜け出て、何かもう一度読み返したい
と思っても、目当ての本を探しだすことは至難だった。所定の位置を決めず、読み終えるた
びにそれを適当な空隙へもどしてきた代償に、いよいよ図書室のほうが持ち主を祟りはじめ
たのである。そろそろ整頓が必要な頃合いと感じる。しかし本と本とで溢れかえったこの広
大な図書室を、たった一人でそっくり片付けるには、一日働きとおしても何日かかるだろう。
ましてまたいずれは乱れていくものを……。こう考えると、やはり現実に整理に動く気には
なれなかった。
ふと時計を見やると、もう零時も過ぎていたので、今日の最後にと適当な本棚に立ち止ま
り、どれかを手任せに抽こうと手を伸ばす。部屋の片付けは日を改めて考えることにして、
今日のところはあと一冊ほど、適当なものを読んで寝ることに決めたのである。そうして手
に取ろうとしている本の題名には、幸い見覚えがない――。
びくっと肩が跳ねる。心臓がひときわ大きな拍を打った。その一瞬の動揺に驚いて、すか
さず由来を五感に探ると、笑い声……背表紙に指先の触れるその拍子に、幾重にも重なる壁
を透して、高らかな笑いの反響を聞いた。覚えずさっと血の気が引く。とっさに四方に気を
走らせると、地上の一角に小さな魔力の乱れを感じとった。見上げれば、ちょうど裏庭の方
角である。
今の門番はお世辞にも役に立つとは言えない。侵入者と考えてまず妥当である。
捉えた気配を逃さないよう気を張って、より近くへ寄ってみると、高い天井の向こうに、
そこだけくっきりと切り取ったように異質の空気が漂っている。注意しなければ見逃してし
まう違和感ぐらいのもので、薄く、細く、力の程度はたいしたことはなかった。ただそれは
弱っているというよりも、必死で隠そうとして隠しあえず、洩れているようなか細さのよう
に感じられた。もしかするとそれはかなり前からそこに居て、ずっと身をひそめていたのか
もしれない。
何とはなしに不穏な胸騒ぎが起こる。従者に任せてよい事態ではないように思われた。す
ぐに雨避けの薄い上着を羽織って、階段をさす。一刻をあらそう予感がして、いつになく足
を速めた。
なにより最初に聞かれた声が気になっていた。ほんの一瞬とはいえ、確かにはっきりと耳
にしたあの無限に不吉な気配を帯びた、ひび割れるように高い、高い、叫ぶような笑い声……
骨の髄まで沁みとおって、内側から体を腐らせてしまうような……。ぐっと唇を噛む。粘り
つくように心に残るその怖ろしげな印象を振り切って、とにかく先ずは裏庭をあたってみる
ことだった。
履き通しの暖かい部屋履きを、長らく使っていなかった雨靴に履きかえて、大きめの傘を
携え図書館を出る。階段にはもう雨の匂いが濃く漂っていた。
(三)
扉を開けた途端に、張り裂けんばかりの轟音が耳を襲った。ざあああとまるで鼓膜のそば
に嵐が吹き荒れているような、耐えがたく不快な低音である。それは紅魔館の塀の向こう側
から津波のように押し寄せる、雨脚の激しく湖を打ち付ける音だった。外は思った以上にひ
どく降っていた。
一歩を踏み出すと、跳ね上がる飛沫は腰元までとどく。石畳は非常に泥濘っていた。傘を
両手で支えて、雨の重みによろめきながら庭を裏手へ廻っていく。
庭全体に夜の森の重く濡れた匂いが立ち込めている。群がるような大雨に庭の木立はみな
白く煙って、塀の向こうは何も見えない。ひどい視界のなかを、足もとに茂ったシダを踏み
分けて、微かな灯籠の光を頼りに行く。ぐるりと庭を半周歩き廻った果に、ようやく洩れ出
る魔力の源に行き当たった。図書室から見上げた違和感の位置も、確かこのあたりであった。
屋敷の側を向くと、たしかにそこに生き物の気配がある、それが壁に寄りそってかがみこ
んでいるのを感じる。けれどもそれを見分けるにはあまりに暗い。塀沿いにところどころ据
えられた石燈の光は、降りしきる雨粒と重たい暗闇に跳ね返されて、壁側までは届かなかっ
た。
雨はますます強くなってきた。傘を肩に乗せて、照明代わりに簡単な火の呪文を唱える。
声を発すると、うずくまる影は僅かに身じろぎしたように見えた。詠唱が終わり、指先に火
が灯る。忽然と明るくなって、壁の煉瓦模様のなかにくっきりと侵入者の姿が映し出された。
ひと目見て、淋しい姿だった。ちょうど人間の娘ほどの体躯に、ほとんど肌を隠さない真
夏のような服装、雨と泥にまみれた緋色の長い髪。背中に一対、頭に一対、背負った蝙蝠の
ような羽から悪魔とわかる。悪魔、というほどの力も持ち合わせてはいない、小悪魔だった。
それが屋敷の壁に背をもたせて、濡れた草叢に手足をひたしながら、突然の明かりに驚いた
様子もなく、激しい雨に打たれるままにただ力なくうつむいている。
「こんばんは。……悪いけれど、ここに居てもらっては困るわ」
寄って声をかけると、その小悪魔は静かに顔を起こした。向けられた眸は雨を透して赤く
光り、哀れみを乞うようにも、威嚇するようにも見える。しかしなによりもその眸があまり
に曇りのない、澄んだ赤さを湛えているのが興味を惹いた。悪魔にはきわめて珍しい、透明
感のある端然とした眸。実際に見るのははじめてだったが、文献の示すところによると、こ
の眸を持つ悪魔は非常な賢さをそなえているという――ただし良くも悪くも、であった。良
ければ思いがけない拾い物かもしれないが、悪ければ取り返しのつかないことになるかもし
れない。しかしいまは目の前に悄然と居るこの小さな悪魔が、そうまで邪悪な存在にはどう
しても見えなかった。
「ここに居てもらっては困るわ」
と繰りかえす。追い返すにしろ事情を聞くにしろ、まずはここから動かさなければはじま
らない。すると突然、その艶のある凛とした眸から、ぽろぽろと涙が零れたのである。あま
りに思わぬことに驚いて、ギクリと立ちすくむ。どうして泣くのかとっさにわからなかった
が、肩を落としがちに、小さく体を震わせて、怯えているのだろうと思った。こちらに害の
ないことは察せられた。しかしあまり無闇に怖がられると、今度は話が聞きづらくなる。
「出て行く気がないなら、ついて来なさい。中に入りましょう」
夜が更けてますます冷たくなる雨に、この小悪魔の身も案じられて、つい語気を強めて誘
う。そうして反応がなければ力ずくでもと考えていたところへ、意外にも小悪魔はゆっくり
と立ちあがって、こちらに従う意思をみせた。そのまま先を歩きはじめると、抵抗らしい抵
抗も逃げ出す様子もなく、大人しくあとを随いてくる。ほっとする反面、妙な違和感を抱か
ずにはいられなかった。けれども今はそんなことに穿鑿を入れている余裕はない。
寂しげにうなだれている様子を見ると、諦めたようにも思われるが、何より雨が寒かった
のかもしれない――そう思ったとき、振り返って傘を差し出した。どっと体に雨がかかって、
あっという間にびしょぬれになる。小悪魔は驚いて目を丸くする。
「どうせ私は戻ったらお風呂」
そう言ってぐっと手を伸ばすと、小悪魔はおずおずとそれを受け取った。こちらを気遣う
ようなそのしぐさで、すぐに良い性質と知れた。傘の下に入ると、川か海から放り出された
ばかりのように体中から雫がしたたって、すっかり消耗している様子だった。その苦しそう
な足取りにあわせて、少し歩調を落とす。
「あなたも、まずはお風呂ね。話はそのとき聞くわ」
二人ともずぶぬれのまま、庭の来た道を辿っていく。道々ふと、小悪魔がずっと左手で右
の二の腕をおさえていることに気がついた。怪我をしているのかもしれない。顔を見ると、
もう泣いてはいなかった。そうしてひとしきり降った雨は、少し弱まりかけている……。
玄関を前にすると、小悪魔はちょっと戸惑ったようにそこに立ちすくんだ。傘をひいて、
正面塔に飾り付けられた大きな時計をぼんやりと見上げている。何を想っているのか、その
悲しげな表情から推しはかることはできなかった。ただ今は面倒なことにならないうちにと、
説き伏せるよりも先に力任せにぐいと手を引いて、屋敷の中へ連れ込んだ。
(四)
浴室への道すがら、思わぬ相手に出くわした。レミリアが、上機嫌に口笛を吹きながら廊
下をこちらに歩いてきたのである。ふだんはもうとっくに寝ているはずの時間だった。
「どうしたの、そんなびしょぬれで」
その小さな吸血鬼はこちらを認めるなり、夜をわきまえないかん高い声でそう訊いた。両
の眸が燃えるように紅く、爛々と輝いて、背中の大きな羽は小刻みにせわしなく宙を切る。
立ち止まってからも始終落ちつきなくかかとを打ち鳴らして調子をとっていた。あきらかに
気が昂ぶっている。そうしてその小さな体躯の全身から溢れ出る、並々ならない威圧感を抑
えようともしていない。
「ちょっとね。それよりあなた、少し変よ」
「ふふ、そう、寝つけなくて」と、そんなことはとうにわかっているという調子で答えて、
レミリアの興味はすぐに小悪魔にうつる。
「その子なに、悪魔? 召喚したの?」
「屋敷に迷い込んだみたいだから、中に連れてきたのよ。このとおり降ってるし、かわいそ
うでしょう」
「ふうん。名前は、なんていうの」
レミリアの凄まじい迫力に圧されてか、ずっとうつむいて黙り込んでいた小悪魔が、この
とき急にビクッと戦慄いた。右腕をつかむ力が強くなって、くしゃりと何か乾いた音が響く。
そうして答えるべき言葉を失ったようにただ茫然と震えている。心のうちがわからなければ、
まったく要領を得ない。とにかくこの場を離れるべきのような気がした。
「知らないわ、ただの小悪魔よ。……行きましょう」
レミリアの反応を待つより早く、小悪魔の背中を押して先へ促す。傍を通りすぎざま、
「パチェ、やさしいねえ」
くくっと咽喉の奥で押し殺したように笑って、レミリアは、眸の紅をなだめるように、暗
澹とした窓の外を見やった。そうしてまた廊下をゆるゆると歩きはじめる。行くあてはなく、
ただ昂ぶってじっとしていられないというように。
「寝なさい。一刻も早く」
はーい、と愛らしい返事を返して、レミリアは暗がりに消えていった。高い口笛の音が、
しばらく廊下にこだまし続ける。ようやくその音も届かなくなると、どっと憔悴した気がし
た――額に汗がにじんでいるから、気がしたのみならず、いくらか気迫に中てられたらし
い。内心はたしかに焦っていた。
小悪魔はまだ少し表情に怯えた色を残していた。それでも体の力は幾分抜けて、どことな
くほっとした雰囲気を漂わせている。ただ左手だけがまだこわばったままで。
「さあ、もう平気よ」
浴室に向かう途中、廊下の小机に飾られた小さな卓上カレンダーに、ふと今日の日付を思
い出す――暦の上では今日は満月だった。雨は小降りに変わってきた。
(五)
少し広めの浴室を選んだ。
思ったとおり、やはり服を脱ぐのをためらった。手を離さなければならないからである。
脱衣所を兼ねた待合に、ぽつんと立って、そこで動きは止まってしまった。
「何かは知らないけれど、悪いようにするつもりはないわ。手を離して」
事情は酌む、けれども不明な材料を残しておくのは好ましくない。毅然とした態度をたも
ってそう告げる。小悪魔はまだ戸惑っていた。
「釘を刺すまでもないとは思うけれど、私があなたを一も二もなく家にあげたのは、お人よ
しというわけじゃあないのよ」
手間取るのが嫌さに、言うことを聞かなければあなたくらい、いつでもどうにでも始末が
つくと暗にほのめかす。それは十分に伝わったと見えて、小悪魔は弱々しく頷いた。耐える
ようにぐっと目を瞑って、そろそろと手を離す。血が流れ出すでもなく、とくに怪我はない
――そうしてあきらかになった、この小悪魔がレミリアとのやりとりの間にも、怯えながら
必死に庇っていたのは、そこに巻かれた細い包帯のような紙だった。
寄って見ると、墨書きで模様のように何かの言葉が書かれている。ある種の魔術に常用さ
れる古代の文字だった。発音はできる。文字の並びを認めたとき、それが何であるか、ふい
に感づいた。ためしに少しの魔力を込めて読み上げてみる。
「…………」
口にした途端、小悪魔は一瞬竦んだかと思うと、次の瞬間にはもう、あれほど澄んでいた
眸は灰色に濁ってうつろだった。そうして突然喪心したように、茫然と、焦点のあわない目
でまっすぐ前を向いている。
試みに「入りましょう」と言うと、小悪魔はついとそれに従って浴室の中に歩んだ。その
動きに意思は少しも感じられなかった。それは間違いなく使役される悪魔の様子であった。
想像は正しかった。紙片の文字は、この小悪魔の真名だったのだ。
隣に掛けさせて、しばらくそっとそのままにしておく。そのあいだに体を洗って、髪に染
みた雨を流していた。ぬるりとしたいやな感触が消えるまで念入りにお湯をかぶって、見る
と、小悪魔はようやく意識をとりもどしはじめて、そこに悄然とうなだれていた。
「そういうことだったのね……」
声をかけると、小悪魔はじっと巻かれた紙の上を見つめて、涙ぐんだ。
それは皺にもならず、水にも濡れず、ほどけたりやぶけたりする様子はまったくなかった。
ぴったりと腕に張り付いていて、指をかけるところもなく、剥がそうにもまるで手だてがな
い。確実に呪符の類と知れた。
紙は契約のしるしに、小悪魔を縛るために巻きつけられた。それは召喚に伴うごく自然な
行為、そのときには何の意図もなかったのだろう。しかし彼女は、その特殊な性質のために、
主人の意にはそぐわなかった……。そうして放り出す前になって、術者の歪んだ悪意は、そ
こにわざわざこの小悪魔の名前を書き記したのである。腹いせか、遊び心か、報復のつもり
か――残酷なことをする――知らず、鈍い怒りが込み上げてきた。
悪魔にとって、見ず知らずの人にも名を知られうるということは、実際、ほぼ全ての自由
を奪われているに等しい。誰も彼もが読める文字ではないとはいえ、身に刻まれたは、自分
を完全に使役しうる呪文である。心は許せない。疑心は尽きない。右からも、左からも、絶
えず身をとりかこむ不安に悩まされながら、ひたすらにひと目をはばかって、陰惨な生活を
強いられる。このままさすらえば、あるいはいずれ自分で右腕を斬り落とすことになるかも
しれない。いかに惨めに捨てられても、その先の一生まで奪われて捨てられた者が、そう多
くいるだろうか――悪魔らしからぬ純粋な性質が呼んだ、理不尽なわざわい、耐えがたい不
幸と言うしかなかった。
そうしてふとこの小悪魔が屋敷の扉を前に立ち止まったことを思い出す。思えばあれも捨
てられた者の抑えがたい反応だったのだろう。ところどころ窓から洩れる光の、ひと気のす
るあたたかい家の中、その扉の向こうが、一度放り出された者の目にはきっと、二度とは立
ち入りがたい別の世界のように感じられたに違いない……。そう考えると、有無なく無理や
り引っ張ったのはかえってよかったのかもしれないとも思う――不安げにうつむいて、タイ
ルの溝をゆるゆると流れていく水の行方を追っているそのあどけない横顔に、憐憫の情は胸
を衝いて湧き上がった。
「じっとして」
ぐっと腕をつかんで引き寄せる。小悪魔はびくっとして泣きはらした目を見開く。
「いい、悪いようにはしないわ。少しのあいだ、我慢して」
余計な不安をあたえるより先に、詠唱をはじめた。庭で灯りにつかったものよりも、いっ
そう位の高い炎のスペル。水気のあるのは好都合だった。この呪縛は、今この場で焼き切っ
てしまうしかない――「お人よしじゃあないのよ」という自分のことばを思い出して苦笑す
る。格好の良いことを言いながら、自分も大概なおひとよしであると思った。詠唱が終わっ
て、眩しいばかりの鋭い炎が、刃物のように指先に点る。
炎の穂先が肌に触れると、小悪魔は声を噛み殺して苦しげに呻いた。逃れようとする腕を
やむなく強く押さえつけて、切っ先を紙片に交差させる。呪符からは、そこに封じられた悪
意が昇華していくように、粘りつくような黒い煙があがって、同時に吐き気をもよおす魚膏
のような臭いがこめた。肌を深く傷つけないよう、慎重に、しかし出来るかぎり素早く、呪
符を焼き切っていく。やがてそれははらりとタイルの床に落ちた。両端は黒く焦げて、まだ
鉄色の煙がくすぶっている。小悪魔は息切って肩を落とす。腕には痛ましい火傷の跡がつい
た。ただこのくらいの痕跡なら、いずれは消えると少し安心する。
「終わり」
ふうと息をついた。思った以上に消耗した。ひどく強力なものを相手にしたことが今ごろ
わかる。魔力はほとんど空っぽになってしまった。
小悪魔は激痛の余韻に喘いでいた。火傷の上へゆっくりとお湯を流してやって、そっとそ
こへ手を翳す。「頑張ったわね」と声をかけると、背中は小さく震えた。
喘ぎのようやく収まったころに、小悪魔は、床に貼り付いた焦げた紙片を拾い上げて、呆
然とその呪縛の残骸を見た。忌まわしい枷は外れた。そうして唐突に自由になったことに、
困惑して、どう振舞っていいかわからないようだった。
「先にあがるわね」
手を離して立つと、小悪魔は戸惑いをこめた目をこちらへ向ける。そうして追って立とう
とするのを、差し止めて、
「あなた、まだちっとも洗ってないじゃない。外で待っているから、よく汚れを落としてく
ることね……タオル、ここに置くわ」
先に出て、待合の暖炉に火を焚いた。
窓辺に身をもたせて、また深く息をついた。ひとりのお人よしとして、するべきことはし
た。あとはどうなるかわからない。彼女ももう自由の身になったからには、すぐに出て行く
かもしれない。そうなればまたすべてもとどおり、だろうか。
月の白く褪せた光は窓から差して、木造りの床をくっきりと明暗に分けていた。窓の向こ
う、空をのぞくと雨はもうすっかりあがって、霽れた雲間に、満月が皓々と照っている……。
(六)
雨上がりの月が、皓々と照っている? ハッとして、もういちど空を凝視した。灰紫の雲
は月をよけるように周囲に散って、満月だけが切り取られたようにあきらかだった。降りつ
づいた雨に湿った今日の大気に、その光の道すじに、水気など少しも含んではいないとでも
いうように、輪郭は朧にならずくっきりとして、月は見開かれた目のように輝いている。そ
う刮目してまで見とどけなければならない何かが、地上に起ろうとしているかのように。
ぞくと背筋に冷たいものが走る。それがすぐにじわりと熱い汗にかわる。十月の末に向か
って、大気の魔力は刻々と高まっている。自分の気持ちもまた、そのために少し昂ぶってい
るのかもしれないとも思われた。しかし今日は、それにくわえてこの異常な満月、悪魔の侵
入者、そして――。
笑い声を聞いた。
ぞっとするように高い、かん高い、脳にきんと沁み入るような――。がたんと窓が大きな
音を立てた。風がさわぎ出す。ひとつふたつの窓はもう風のために開いてしまって、そこか
ら冷たい夜風が吹き込んだ。思わず窓の傍を離れて、廊下へ抜ける通路に避ける。笑い声は
いっそうに激しくなる。その声が窓から窓へ反響していくように、硝子はがたがたと揺さぶ
られて、燭台はいまにも倒れそうであった。風はぐるりとめぐって通路にまで吹き込んで、
髪を、服を、かき乱して、ひゅううと笛のような音を立てながら、逃げるように廊下を抜け
ていく――。
そうして笑いはぴたりとやんだ。風もまた怯えるのをやめたようにはたりとなくなった。
外の木立も、窓硝子も、燭台も、ランプの五分芯も、纏う服さえ、みな無言のうちに沈んで、
何か畏るべきものの訪れを瞑想のうちに待つかに見える。月明かりはいつしか赤みを帯びて、
机や床を仄かな夕暮れの色に染めていた。
森とした廊下に口笛が響く。ハッとして廊下の側を振り返る。正面に見える廊下の窓は、
やはり月のために赤々としていた。まもなくそこへ音もなく顔を覗かせたのは、レミリアで
あった。
(七)
息が止まった。差し向かいになったとき、俄かに空気は人の呼吸し得ないものに変わった
ように思われた。
「パチェ、ねえ、もどってきちゃった」
ゆっくりと後ずさる。レミリアはすがるように、息のかかるほど近くまで寄ってくる。息
は焼けるように熱く、眼は血が滲んでいるように、針ほどの隙間もなく真っ赤になって、黒
目の部分はほとんど真紅に光っていた。また下がる。距離をとると、少しばかりの空気が肺
に流れ込んでくる。
「レミィ。寝なさいと、言ったでしょう」
「だって寝られない……ふふ、あはは」
言葉は半ばで、ぞっとするような笑いに変わった。狂ったような笑い声がそのあとに長く
長くつづく。そうして自分でもどうにもならないのであろう痙攣に似た笑いを、何かに憑か
れたように断続的に繰り返しながら、にじり寄って、
「ねえ、どうしたらいいと思う? あ、パチェの血を飲めば、落ち着くかな……ねえ、もし
かしたら……」
「そんなわけ、ない、でしょう」
今昂ぶった体に魔女の血を容れれば、レミリアはもう止まらないだろう。そうして恐らく
は一夜のうちに、何もかもおしまいになる。レミリアにはそれがわからない。わかっていて
も、体が言うことを聞かないのかもしれない。
一歩を下がる。息が苦しい。吸うと肺はすぐに満たされて、吐くとすぐ空になる。空気が
足りない。気のはやった犬のように短い周期で呼吸を繰りかえす。喘息の発作が起こってい
た。気管が絞るように圧されて、呼吸のたびに乾いた空気の音が、あの不吉な口笛の響きに
呪われたように、抑えがたくひゅうひゅうと洩れる。レミリアは笑っている。また一歩を下
がると、頭のうしろが窓硝子にぶつかって、がしゃんと大きな音を立てた。
「わからない……」
レミリアは、追いつめた獲物を見るような目つきでこちらを見る。ここまで昂ぶったレミ
リアを見るのははじめてだった。怖ろしかった。心臓が軋むようにうずく。がくんと足が竦
んで、壁を背に崩折れた。レミリアは、ようやく自分よりも低くなった相手をじっと見下ろ
し、にぃと尖った歯を顕わにして、
「やってみなきゃ、わからない!」
弾かれたように眸を満月と見開いた。そこに窓の外の赤い月が映りこんで重なり、吐き気
のするような赫に、体が凍る。熱い指が肩に食い込んで、身をよじることもできずに、ぐっ
と目を瞑る――どさりと、その華奢な体がもたれかかってきた。
やわらかい声。心臓が止まる。
気がつくと、どこにも痛みはなかった。レミリアはぐったりとその軽い体重をこちらにあ
ずけて、ぼうっとしている。肩をつかんだ手は力を失って、そのまま背中の後ろにだらんと
垂れた。細い手足は指先まで火照って、体は蒸されたあとのように熱い。何が起こったのか
まるでわからずに、レミリアの体を抱えたまま、気を落ち着かせると、次第に耳が澄んで、
穏やかなアルトが聞かれた――すこし呼吸が楽になる。
小悪魔が、歌っていた。
浴室の戸がわずかに開いていた。その向こうで小悪魔が歌っている。すき間からこちらの
様子をうかがっていたのかもしれない。そうして歌っているのはただの歌というわけでもな
いのだろう、詩に耳をかたむけると、どこか不思議な感じがした。あれほど昂ぶっていたレ
ミリアは、もうすっかり体の力も抜けて、眠たげにうとうとしている。
「パチェ……ねむい」
「よかったわね、レミィ。もう寝なさい」
気持ちを静めるように背中を撫でてやると、レミリアは頭をこつんと肩の上に落として、
「ん……」
小さくひと声発したかと思うと、それきりかっくりと首を垂れて、寝息も健やかにぐっす
りと寝入ってしまった。一度眠ってしまえば、もう朝まで起きる心配はない。ようやく安堵
の息をついた。
「もう平気よ、いらっしゃい」
声をかけると歌はやんで、すき間からこちらをうかがう小悪魔の顔がのぞいた。あずけた
タオルをまとって浴室を出てくる。近くの机にたたんで置いた従者の夜着をさすと、おとな
しくそれに着替えはじめた。
「素敵な声ね。何の歌?」
興味が半分、それから眠ってしまったレミリアへの説明を求めるように、尋ねる。ただの
綺麗な歌声で眠るような子ではない。小悪魔は神妙にうつむいて、やがてささやくように、
「悪魔の、子守唄です」と答えた。
はじめて聞いたその声は、歌と変わらずしとやかな声だった。穏やかでやさしく、それで
いてどこか愛嬌がある。
「そう……ありがとう。助かったわ」
小悪魔は、ほんのお礼にもならないといったふうに、静かに控えめに首を横に振った。手
には焦げた紙切れをしっかりと握っていた。
レミリアを背中に負って、待合を出る。図書館へ降りる階段を示して、先に降りて待って
いるように小悪魔に言う。レミリアを自室にとどけてもどると、月はしだいに薄雲の向こう
に姿をひそめて、廊下は俄かに暗くなった。長い夜が片付いた。
(八)
図書館へもどってみると、姿を探すまでもなく、小悪魔は、いつもの読書机に遠慮がちに
掛けていた。そこだけランプを灯したままだったので。
もどってきたことには気がついていない様子だった。机は本が散らかっていたままになっ
ていた。そうしてそのなかの放り出された一冊を、小悪魔は真剣な面持ちで熟視っていたの
である。
「読みたかったら、好きに読んでいいのよ」と言うと、小悪魔はハッと顔をあげて、
「いえ……」とためらいがちな声を出す。それが少し不自然さに、ふと、
「あなた、字は読めるの?」と尋ねると、
「……読めません」
と寂しげにため息して、悄然としてしまった。落ち込ませるつもりはなかったので、悪い
ことをしたと思う。つい気がとがめて、
「それなら、貸しなさい、読んであげるわ」
そんなことを言うと、小悪魔はひどく驚いて、またひどく喜んだ様子で、おずおずとその
本を差し出した。そのしぐさに、少しは心を許してくれたように思われた。
本を朗読するのは何年ぶりだか知れない。表紙には大きな家と、その煙突にかかる、印象
的な月の絵が描かれていた。中身はありがちな、平凡な奇譚である。それがつまらなさに放
り出したものを、こうして人に読んで聞かせると、また面白く感じられるのが、なんとも不
思議な心持ちだった……。半分ほどを読み終えたころには、さすがに喉が苦しくなって、喘
息が出るまえにやめてしまった。それでも小悪魔は満足した様子で、心底嬉しいといったふ
うに、丁寧にお礼を言った。
お白湯を汲みにいく。小悪魔には口慰みに、煮え湯に乾燥した味噌を溶かしてあたえた。
地下にはこれといった食べ物はなく、ちゃんと食べさせるには明日の朝を待たなければなら
なかった。
「風邪をひかないように、ちゃんと飲みなさい」
「はい……ありがとうございます」
「朝ごはんは、二人分、用意してもらうわ。別段、食べられないもの、ないでしょう」
「はい」
返事は次第にはっきりとして、一度堰を切ってからは、もう言葉を話すことをためらって
いないように見えた。やがて味噌湯を飲み終えたころ、できるだけ穏やかに切り出した。
「さて、いいかしら。質問しても」
小悪魔の表情に、俄かに不安の色が差す。けれどももう隠し立てすることもないというふ
うに、神妙な調子をなして「はい」と静かに答えた。
「みっつほど、答えてもらうわ」
そう言って指を三本、立てて見せる。小悪魔はこくんと唾を飲んで、それを凝視する。
「片付けは得意」
「え? は、はい」
「陽の光は好きかしら」
「いいえ……?」
あっという間に終わったふたつの質問に、小悪魔は目を丸くする。ひと呼吸おいてから、
最後の質問を投げかけた。
「じゃあ、ここではたらく気はない?」
「えっ」と小悪魔は息を呑む。
「司書がほしいと思っていたところなの。一夜にお互い助け合ったのも、なかなか奇縁じゃ
ない」
小悪魔は茫然として、そのまま黙してしまった。言われたことを頭の中で必死に整理して
いるように、その答えを一生懸命に探しているように。――同じようなできごとが、ついさ
っき、浴室の中にもあったことを思い出す。こうして止まってしまうのは、困惑したときの
彼女の癖のようなものなのだろう。そんなところにもなんとなく愛嬌があるように思われた。
つくづく悪魔らしからぬ性質と、思わずくすりと笑ってしまう。その声に、小悪魔はハッと
こちらへ帰ってきたようだった。
「ほんとうに、いいんですか……?」
眸の奥に拭いきれない不安の色を湛えながら、胸を押さえて小悪魔は訊く。「ええ」と答
えて、じっと見まもって待つと、やがて小さくこくんと頷いた。それが答えだった。ようや
くすべてに片がついたのだった。
同意の上の契約はすぐに済んだ。ただひとつ、契約のしるしに何を身につけさせるか、そ
う都合のいいものがすぐには思い当たらない。ふと机の上に開かれたままの本が目に止まっ
た。そうして考えつく。いつも栞代わりにしている、この白いリボンは、きっとちょうどい
い……。本からそれをするりと引き抜いた。そうしてなくなってしまった栞の代わりに、契
約を終えて必要のなくなった名前の紙を挟み込む。誰の目にも触れないように、また、いつ
でもその真名と今日のできごとを思い出すことのできるように。
リボンを頭の羽の、根元のところへ結んでやる。小悪魔はちょっとくすぐったそうに身を
揺すって、羽はそのためにぱたぱたと揺れた。
「じきに慣れるわ。さあ、これから、よろしくね」
こちらの差し出した手をくっと握って、ようやく――小悪魔の眸は、この日はじめて嬉し
さの涙のために濡れ輝いた。そうしてこのときばかりは悪魔らしく、どこか悪戯な光を涙の
奥に湛えながら、眩しいほどにっこりと笑ってみせたのだった。
(九)
小悪魔は揺れるランプの芯を見つめていた。パチュリーの追憶の語り口から、彼女の目か
ら見たあの日の光景を記憶に汲みとって、そうして夢のように思い出される印象をぼんやり
と反芻しているらしかった。パチュリーは紙片を静かに本に戻して、
「厭なことを思い出させたかしら」
「いえ。嬉しい、思い出です」
小悪魔は、話の最後の感触を思い出すように、人知れずきゅっと指を握った。雨音はいつ
しか聞こえなくなっていた。
「出ましょうか。涼しくて、ちょうどいい時間だわ」
「外、ですか」
「準備なさい」
階段の空気は凛としている。一階の廊下からは、もう朝の支度に忙しい従者たちのあわた
だしい物音が聞かれる。その音に、結局一夜を明かしてしまったとパチュリーは思う。そう
思うと、俄かに少し頭がぼんやりとする。
「さっきのお話に、ひとつだけ間違いがありましたよ」
ふいに小悪魔はそう言った。
「そう、何かしら」
パチュリーは先を上っていく。上りながら、何か腑に落ちないことがあっただろうかと、
話の記憶を探る。そうしてひとつ思い当たる。小悪魔は話し出した。
「私がはじめてパチュリーさまの姿を見たとき、つい泣いてしまったのは、怯えていたので
はなくて」
小悪魔はここでちょっと言葉を途切らして、躊躇するように先を行くパチュリーをじっと
見た。二人とも、無言のままいくらか段をあがる。
「ほっとしたんです」とやがて切り出した。言いながら、頬に紅が潮した。
「ほっと? どうして」と不審しんで、パチュリーは振りかえる。階段の段差
に、二人の目線はちょうど同じ高さになった。
「不安だったんです。本当に、どうしようもなく心細くて。お屋敷の中に渦巻いてる力が、
いつか私を襲いに来るんじゃないかと思って、雨の冷たさを忘れるくらい、気にかかって仕
方なかったんです。そうしたら地下の方から大きな力が動いて、私に近づいて来るものだか
ら――もうダメだと思いました。どんな妖怪が襲いに来るんだろう、どんな怪物に食い殺さ
れるんだろうって、そんなふうにばかり思っていたら……」ここで小悪魔はまた少し言いよ
どんだが、今度はすぐに言葉を継いだ。「あんまり、小さくて可愛らしい、子供みたいな人
が来たものだから……」
来たものだから、思わず張りつめていた気持ちが解けてしまったのだろう。それだから素
直についてきたのだと、あのときの軽い違和感に、ようやく合点がいった。しかしその理由
にはいささか気に食わないものがある――「小さくて可愛らしい」主人は面白くなさそうに
仏頂面をして、小悪魔の、自分の贅言を察してあわてて「いえ」と訂正を口にしようとする
のも取りあわず、
「減点ね」とぴしゃり言って、いかにも不機嫌そうに、たったと階段を駆け上がった。
「そんなあ」
泣きそうな声をあげて、小悪魔もあわてて駆け出した。変な意味じゃあないんです、など
と弁解の言葉を述べたてて、必死で主人の後を追いかける。パチュリーの笑った口元は、小
悪魔からは見えなかったので――。
雨はやんでいた。空はまだ明け悩んで暗かった。薄墨を流したような空の向こうには、ち
ょうど外塀の上に置かれたように、うっすらと月の輪郭が浮んで見えた。
二人は、湿った草葉を踏んで、あの日の道を廻っていく。
パチュリーは立ち止まった。小悪魔もまたそこに立ち止まって、話の中とはずいぶん様子
の変わってしまった裏庭を見た。あのときうずくまっていた壁の傍には、今はもうこんもり
と見知らぬシダが茂って、足を踏み入れることはできない。
話の印象は少しずつおぼろになって、ゆっくりと、記憶はまた記憶にもどっていく。パチ
ュリーもまた、今日の回想をそれでおしまいにするというように、あの日は進まなかったそ
の先へと、歩き出す。小悪魔はついその後姿を、
「パチュリーさま」
と呼びとめた。そうして控えめに、手を前に交んで、
「もどったら、あのときの続きを、読んでいただけませんか」
と。ざあと朝の風がよせる。紫の髪がふわりとふくらんで、散り散りになって朝の空気に
艶やかな線を曳く。パチュリーは「そうね」と一言、そうして首をあげて空を見た。
小悪魔もつられて空を仰ぐ。玻璃板のような秋の明け方の空がどこまでも広がっている。
夜の模様はことごとく薄明に溶けて、もう月のありかを見つけることはできなかった。風が
また低く吹いて、湿葉が一枚、ついと鼻先をかすめていった。
シーン毎の雰囲気は感じ入れました。
って、あの後未だに続きを読んであげてなかったの!?
満月のレミィ危なっ!
小悪魔に子守歌を歌って欲しい!
パチュリーと小悪魔の心の動きが少し軽すぎる気はしましたが
シーンごとの情景が簡単に心に浮かんでくる描写はすばらしかったです
最後の台詞もいい。この主従はいい関係ですね。
と言いつつ二人の関係にそこはかとない艶を感じてしまったのは
きっと自分の心が穢れているに違いない。
言葉の繋がりやつづりに無理を感じないので大変読みやすかったです。
ただ途中、雨がいきなり満月になったのが唐突だったような気がしました。
お嬢様の運命をあやつる力が働いたと考えてもいいのでしょうか?ここが納得できる一文があったら100点でした。
実際はどういう関係なのかも分かりませんけどね。
……小悪魔の腕に真名を貼り付けたやつは許さん。