/*
あの時、私は今より無力だった。
「いたい……いたいよう……!」
どうして。
どうして。
どうして。
ただ、自問だけが脳内を巡っていた。どうすればいいのか、このままだとどうなるのかなんて、考えていなかった。
こんなはずじゃない。ないのに。
泣き声は遠くから聞こえてくるような気がした。
血を吸った砂も、ドス黒く変色した皮膚も、膝の下から腐り崩れ落ちていく組織の臭いも、まるで録画された映像を後から見ているかのように、現実感がなかった。
「助けてよ……どんな怪我だって、治してくれるんじゃないの……? いたい、いたいよ、たすけてよ……はやく」
そんなことは、キミが勝手に思っていただけ。
みんなが勝手に言っていただけ。
でも、私も確かに、そう、信じていた。私にはその力があると思っていた。
どうして。どうして。どうして治ってくれないの。
何を間違えたの。
もう一回やればいいのかもしれない。でも、もう何回もやった。何もよくならかなった。
私に出来ることは、痛みを訴えて泣くこの可哀想な子を、ただ呆然と眺めることだけだった。
*/
「あーあ。もう、疲れたわ。これくらいでいいでしょ、勉強。遊びましょ」
声や目や態度、全身でもう飽き飽きだというメッセージを発しながら、この国の現王の娘、つまり姫であるところのカグヤは鉛筆を投げ出して言った。
この国、と言ったが、月には国は一つしかない。また、現時点で、王の子孫で女性であるのはカグヤしかいない。カグヤは、月に存在するただ一人の「姫」だった。
「姫。時間管理は、私の役割ですよ」
「あーはいはい。わかってますよって。相変わらず頭の固い先生ですこと」
「あと5分ありますからね。最後に練習問題一つくらいやっておきましょう」
「えーりんのオニー、あくまー」
ぶー。カグヤはこれ見よがしに頬を膨らませて抗議する。
家庭教師――八意永琳は優しく微笑みながら、サインペンで白紙に手早く問題文を書き込んでいく。予めテキストに準備しておいた問題だけではなく、その場で当日の勉強をほどよく復習できるような問題を考えて作成するのが永琳の流儀だった。
カグヤは不満の表情を崩さないまま鉛筆をふたたび手にとって、作られた問題に取り掛かる。
問題文を読み終えると、迷わずに計算を始める。紙の上に、複雑な記号が書き込まれていく。手が動き続けること、約3分。紙の上に解答が出現する。
「はい」
「さすが姫、完璧です」
「当たり前でしょ。定石を確認するだけの基本問題なんてできないわけがないんだから時間がもったいないだけだっていつも言ってるじゃない」
「それでも、反復することはそれ自体に意味があるのですよ」
まる。
カグヤの解答に大きく○印をつけながら、永琳は姫の不満を軽く受け流していた。
にこり、と緊張を解いた笑顔を見せて。
「間違えるときもあるわけですし、ね?」
「む……」
できないわけがない、と言った手前、正答率が100%ではないというところを突かれると、苦しい。カグヤは、ふん、とそっぽを向いた。
「今日みたいな簡単なときはダイジョウブなの! さあこれでもう終わりでしょ! 遊ぶわよ!」
「そうですね。――姫、鉛筆はちゃんと鉛筆立てに戻してください」
「うーいちいち細かい! これでいいんでしょ!」
立ち上がりかけていたカグヤは、紙の上に放置されていた鉛筆を掴んで、鉛筆立てに挿す。鉛筆立てには10本ほどの鉛筆がずらりと並んでいた。いずれもすでに削ってあり、長さはマチマチだった。
「問題ありません。……さて。では、今からオフモードで」
すう……。永琳は目を閉じて一度深呼吸をする。
きゅ、と拳を軽く握る。
目を開く。
「さあ! 遊びますか! 今日は地雷原でリアルサバイバル鬼ごっこかお風呂でにゅるにゅるスライムごっこかどちらにしましょう!」
「どっちも嫌よ!! だから、いつも言ってるけど急にテンション変えないでついていけないからっ」
「オンとオフの切り替えこそがストレスなく有意義に世を生きるコツですよ、姫。ああそういえば偶然ここに遊戯内容が描かれた的とダーツが。これで決めましょう」
「明らかに胴体より大きいそれを今どこから出したのよー!?」
「まあ。ついに姫も乙女の体の神秘に興味を持つ年頃に……うふふ」
「絶対そんな次元の話じゃないからっ!?」
実際のところ折りたたみ式の的を瞬時に広げたというだけの話なのだが、永琳はそんなネタばらしをするつもりはなかった。些細なことだからだ。通常なら姫の動体視力なら十分に目で追えた動作だったのだが、そこはうまく隠しながら広げた永琳の勝ちというものだ。しかし、だからといってどうというものでもない。
「どれに当たるかしらね」
「待って、まず何が書いてあるか確かめさせて」
ぱし。カグヤは厚紙で出来たその的を取って、書かれている文字をしっかりと睨みつける。
・佐藤大五郎(素直。困ったときは)
・真鍋八重子(精神分離反応歴あり。要注意)
・みーや(丈夫。やや反抗的)
・TERA(やや敏感体質。投薬量注意)
・ジャックなんとか(笑)
「なんか人の名前が書いてあるー!?」
びくーん。
名前と、そのあとに続く何か不穏当な臭いのする単語に、カグヤは思い切り引いた。
「ああ――すみません、間違えました。私用の的でしたね、これは。姫用のは、ええ、これです」
さ。
瞬時に的が取り替えられる。
「う、うう、聞かないほうがいい気がする……よくわからないけど、一人だけ明らかにいっぱい穴が開いていた佐藤さんの無事を祈りたい気分だわ……一人だけ説明文もまともに書いてもらえない子ももっと可哀想だけど」
「正式に契約を結んでいますから、犯罪ではありませんわ。ご安心ください」
「やっぱり気になるー!?」
「さ、今度こそ姫のプレイ用の的ですわ。ご確認ください」
「プレイ言うな。んー……カードに、ボードゲームに、フリーキックに……なんだ、意外にまともじゃない」
「そうおっしゃるかと思いましてアブノーマルの極限を目指したバージョン2もございます」
「一生地下シェルターにでも仕舞っておきなさい」
カグヤは冷たい声で言いながら、ダーツを手に取った。
金属製で先端が尖った矢は、簡単に厚紙を貫いた。
永琳は、姫の専属家庭教師だった。
専門は薬学なのだが、専門外でも非常に広く深く教養を持っていたこともあって、選出された。始めてみると姫との相性も非常に良かったらしく、その成果を踏まえて、家庭教師を開始した3年後にはもう王室の全面的な信頼を得るほどになっていた。
ただ、この家庭教師による収入を、独自の研究費用として使用していたわけではない。八意家には、王室から莫大な研究費の支給がある。これまで長きに渡って国民の健康水準を引き上げ続けてきた功績によって、特に用途を定めない予算が無条件に送られている。この事実は公然であり、いつの時代も批判の声は上がってくるものの、一度として予算が廃止されることはなかった。事実、成果を上げつづけて来たのだ。
さて、信頼というのは、裏切らない限りは非常に便利なものだ。
永琳が一緒であれば、弟子を一緒に連れて姫のもとまで遊びに来るなんてことも許されていた。
「よう、姫、元気かー」
例えそれが無礼な男子であっても。
じと、とカグヤはそれを睨みつける。
「永琳、だからこれは持ち込まないでって言ってるでしょ。私の教育によくないじゃない」
「う、うう。悲しい。そもそも人扱いですらないなんて。先生、フォローお願いします」
「世間の暗部を知ることも姫の務めですから」
「オレ暗部ですか!?」
「えーと……じゃあ、恥部?」
「もっと嫌です!?」
しくしく。
打ちひしがれてしゃがみこんで、少年は地面に向かって挫折のポーズ。
「これが……現実か……」
と、まあ、ここまでのいつもの挨拶を終えたところで、永琳が先を促す。
「さあ、早く入りましょう。凍えそうだわ」
「えー。これくらいで寒いって。永琳も結構トシなのねえ」
「……姫。あとで特別授業がありますので明日の夕方の予定を空けておいてくださいね?」
「ひ!?」
いつもどおりの声と笑わない目に怯える姫の後方から、さらに呟く声ひとつ。
「先生を怒らせてやんの。ばーか」
「……」
肘鉄。
鳩尾にクリーンヒット。
悶絶する少年を置いて、カグヤは振り向きもせず永琳のあとを追いかけた。
「ふ……いい一撃だったぜ……ああ、これなら世界と戦える……おおいせめて体を張ったネタくらい聞いてくれよぅ……」
がくり。
なんだかんだ言って、仲は悪くないのだ。この二人は。
永琳が見守る中、二人はカードゲームで白熱していた。どちらも、本気だ。
傍から見ていると低学年の子を相手に高学年の男子が大人気なく全力でかかっているように見えるが、実際のところ、二人は同い年だった。カグヤのほうが幼く見えるだけだ。
「ふふ……油断したわね! マナドレイン発動!」
「なん!? がっ……くそ、持ってたのにさっきのファイヤボールのときは使わなかったのか……!?」
「ふっふー。切り札はより相手にとって嫌なタイミングで使うものよ、少年。で、フェニックス召喚」
「のおおおおおおおっ」
第7戦はカグヤに軍配が上がったようだった。だいたいいつも、ほぼ互角か、若干姫のほうが優勢になることが多いくらいだ。
肩を落とす少年に、得意げな姫。
「さあ、次もやるかしら? 懲りずに」
「やってやる」
戦いは、まだまだ続きそうだった。
少年はカードをかき集めてシャッフルする。カグヤのほうは、先程のデッキ(戦略的な意味を持たせた、カード数十枚の組み合わせ)を横にやり、新しいデッキで再戦する。
「なんだよーまた新しいのかよー。ぐう、これだから金持ちは……!」
「これも戦略よ、戦略」
そんな光景を眺めながら、永琳は微笑んで、カグヤが先程使用したデッキを回収して片付ける。本当なら片付けまでちゃんとさせるところだが、これだけ熱中して遊んでいるところにわざわざ水を差すことはないだろう。
紙で出来たカードは傷み始めていて、端が少し捲れかけている。カードの端を軽く撫でて、永琳はその束を箱の中に片付けた。
ちらり、窓から外を見る。太陽はもうかなり低くなっていた。ずいぶんと時間が経ったものだ。
「……少し、歩いてきますね」
永琳は二人に言って、立ち上がる。
もう二人とも、常に見張っておかなければいけないほど子供ではない。監督責任はあるが、この二人を少し放っておいたところで、何か間違いが起きることもあるまい。
「いってらっしゃーい」
「んー」
適当な見送りの声を聞いて、永琳は部屋を出た。
第8戦がカグヤのぎりぎりの勝利で終わり連勝を飾ったところで、少年も外を見た。
太陽が沈みかけていた。暗くなりつつある。
少年はカードを集めて、まとめる。
「よし! ちょっと外出ないか?」
「寒いから嫌」
「ものすごくストレートに断られた……うう。なんだよー、姫は若いから寒さは平気なんだろー」
「昼間と夕方じゃ全然違うに決まってるじゃない」
「うん……すごく正論……まあ、ちょっとだけ、な? 最近あんまり空見上げてないんじゃないか?」
「寒いからね」
「だろうさ。最近、すっごい綺麗に見えるんだよ。本当はもっと完全に夜になってからのほうがいいんだけど」
「見えるって?」
「そりゃあ、チキュウだよ」
「寒い」
「……オレが温めてやろうか?」
「断る」
「うわーん」
中庭から、空を見上げる。暗くなりつつあるとはいえ、まだ太陽の勢力は空に影響力を残している。
「チキュウじゃ、これくらいの時間だと、世界が真っ赤になるらしいな。知ってたか?」
「それくらい3歳のときに習ってるわ」
「……さいで」
地球は、他のどの惑星よりも大きな存在感を見せていた。当然だ、月は地球の衛星にすぎないのだから。
カグヤは、その青く巨大な星をじっと見上げる。なるほど、綺麗に見える。真夜中に見ればもっと綺麗だろう。
「本当、綺麗な星。たくさんの命が今もあの中で生まれているんでしょうね。ここでは考えられないくらい、たくさんの種類の」
「恵まれた星ではあるよなあ」
「機会があれば一度、行ってみたいわね」
「……月の姫さまが言うとかなり深い意味に聞こえるなあ。オレはあんまり行きたいとは思わないや」
「あら、どうして」
「だって、ここよりずっと田舎で社会の発達も遅れてるんだろ? いくら綺麗でもオレには向いてない。いきなり『偉大なる大自然』の中に投げ出されてもオレが今勉強してることなんて何の役にも立たないだろうしな」
「――そうね。正しいわね」
ちら、とカグヤは少年の顔を覗き見る。
少年は地球を見上げてはいなかった。目が合った。
「あなた、チキュウのことあんまり好きじゃないでしょ」
「なんでだ?」
「言葉の響きからわかるわよ。ねえ、好きでもないのにどうしてわざわざ寒いのに、一緒にチキュウを見上げようなんて思ったの?」
「……」
少年は、言われてから、わざとらしく空を見上げた。
「姫は見たいんだろ? それが理由だ」
「――るよ」
「ん?」
カグヤは、少年の言葉に、聞こえないような小さな声で応えた。
聞かせてやろうかとも思って言ったのだが、思いとどまったのだ。ただ、言葉自体を止めるほどには、自制心が働かなかった。
――本当の理由、知ってるよ。
そう言ったのだ。
それは、言ってはいけない言葉だ。カグヤは踏みとどまった。覚悟があるのなら、まだ今は、早い。言うべきときではない。
目を伏せる。
本当の理由。
きっと――寒いから、だ。
「ああ、姫。こちらでしたか。早くお部屋へ。これからさらに冷えますから」
「冷たくなったら、永琳がぎゅってして温めてくれるでしょ?」
「あらあら。甘えん坊さんですね。ほら、ぎゅー」
「ん……」
「……オレの立場って……」
/*
天才などと呼ばれた。
物覚えが早い。応用力もある。運動能力も優れている。なんて、持て囃されていた。
最初はそう呼ばれることが嬉しかった。自分には才能があるのだと誇らしく思った。
だけど、そのうち漠然と、それは違うのだと思い始めていた。
何故違うと思ったのかも、すぐに自分で理解するようになった。
私はただ、人より状況が恵まれているだけなのだと。もちろんそれは私の能力の結果なのだから、単純に運が良かっただけだとは言えないかもしれない。だけどやっぱり、天才なんてものではない。
私は天才と呼ばれることを嫌がるようになっていった。それは本質を見落とした言葉だから。
それは私のことを理解できなくしてしまう言葉だから。
やがて私は、私の能力の本当の意味を知った。
私を天才と呼ばしめる結果を生み出したこの能力が非常に忌むべき、おぞましい能力であることを知った。
私は天才どころか、世界にとっての病原菌みたいなものだ。
そう思うと、今私が勉強していることは、なるほど世界のためになることなのだろう。
病原菌ならばいつか撃退されないといけない。
世の中、うまくできている。
*/
けふ、けふっ……
乾いた咳が時折寝室の中に響く。
薬を飲んでから、かなり症状は治まってきていた。
「さすが、永琳の薬ね」
カグヤはベッドの中から、今日は本業で活躍したいつもの家庭教師を褒める。
姫の寝室は、決して無駄に広くは無かった。そして、ベッドだけではなく、テーブルが一個置いてあるため、むしろやや窮屈な印象すら受ける。月では、金持ちの家では豪華さをアピールするために貴重な木製の家具をふんだんに使うものだが、この部屋にはまったく見当たらない。テーブルもベッドも金属製だ。木製といえば、鉛筆くらいのものだった。鉛筆もまた高級品であり、また決してペンに比べて便利ということもなく、使う者はほとんどいない。姫が鉛筆の愛用者であるということが鉛筆メーカーの宣伝文句になっているくらい、珍しいものだ。
永琳は、姫の額に手を置いて、そっと放す。
「熱も引きましたね。あとはゆっくりお休みしていただければ」
「今日は勉強はお休みね。たまには風邪を引くのもいいものね」
「もう、姫。少し前まであんなに苦しんでいたのに、元気になった途端それですか」
「苦しくても永琳が助けてくれるから安心なんだもん」
「私も、いつだっているわけでないんですよ」
「うー」
布団の中からカグヤが見せる不満の表情は、すっかり健康なときのそれと同じものになっていた。
永琳は、カグヤの髪を撫でる。カグヤは気持ちよさそうに目を細める。
「――だからこそ、できるだけ早いうちに手を打ったほうがいいと思うのですけれど」
声に、厳しい調子が混じる。
永琳の目に一瞬ともった炎は、しかし、カグヤが微笑みながら首を横に振ったことで、消される。
「ダメよ。永琳は何もしないで。何も知らなかったみたいに、今までどおりいて」
「しかし、姫……」
「いいの。私にとって、必要な段階だから……きっと、これも」
「……わかりました。しかし私には責任がありますから、チェックだけは確実にさせていただきます」
「うん。ありがとう」
なんて寂しそうな微笑なんだろう。永琳はカグヤを見つめて、心を痛める。
今起きている問題の根本的解決を図ることは永琳には簡単なことだった。しかし、姫にその手段を固く禁じられてしまった。約束をしてしまったからには、守らなければならない。自制しなければならない。
歯がゆい。
何も姫の体のことについて責任を負っているからという社会的な問題ではないからだ。今はもう。
「姫。私は姫のことが、好きです」
「……えー。どうしたのよ急に。……えっと、うん。私も、永琳のこと、好きよ」
ただ責任というだけの問題ならば、姫との約束など破棄してでも、行動に出るべきだと思う。姫の心は傷つくかもしれないが、確実に守ることができる。
それができないのは、結局、極めて個人的な感情の問題だからだ。このひとを、傷つけたくない。
「だから、私を信じて」
今できることは、この綺麗な黒い髪を撫でてあげることくらいだった。
深く息を吐く。――そう、深く思い悩む必要は無い。しっかりチェックさえしていれば、守り続けることはできる。ちょっと面倒になるというだけの問題だ。
気分を入れ替えて、永琳はまた微笑を戻す。カグヤもまた、永琳の変化を見て取って、安心したように表情を緩めた。
「あーあ。でも、いいな。私も永琳の髪撫でてあげたいわ。永琳がどんな顔するか見てみたいのに」
「あら。姫がご希望でしたら、私はいつでも歓迎ですわ」
「うう。そう言われると本当にやってしまいたくなるから怖いわ。自重、自重……」
「私は、本当に、いいのですよ?」
「……ううん。今は、やめておく。永琳は大切な人だから。それにね。今、私、ひょっとしたらもう少ししたら、もう我慢しなくてよくなるんじゃないかって、希望があるの」
「――え?」
姫の言葉に、永琳は髪を撫でる手をぴたりと止めて、目を丸くする。
しばらく固まって呆然としていたが、その間にも頬は高潮していく。目に、先程の炎とはまた違う色が灯る。
「どうどうどういうことですか!? 何か物凄い裏技とかウルテクとか禁断の秘儀とかそのようなものを発見されたのですか!? みんなが笑ってハッピーエンドみたいないわゆるウルトラビタミンCな解決方法が!?」
「おおおおちついて永琳。ビタミン余計だから」
「何をおっしゃいます姫! ビタミンはとても大切なものです! 姫にも私にもなくてはならないものなのです! 多くの人のビタミンC欠乏症を解決するために八意家は代々どれほどの創意工夫を重ねてきたか。振り返れば350年前の事件こそが契機で」
「ああんっ……わかってるけどー、いきなり脱線してるからっ」
何か唐突に講義が始まりそうなところを、カグヤは目で制する。
永琳はたまに暴走し始めると止まらなくなることがあることを、よく知っていた。早期発見、早期沈静化が大切なのだ。
カグヤは、永琳の言葉が一時的に停止して、呼吸が少し落ち着いたタイミングを見計らって、言葉を繋げた。
「えーと。……禁断の秘儀っていうのは、まさに的確な表現ね。上手い言葉があったものだわ。でも、次は違うかな」
早く内容を聞きたくてうずうずしている永琳の目を見て笑って。
天井を見上げて、そして、目を閉じる。
「みんなが笑ってハッピーエンド、とはいかないと思うわ」
ねえ永琳。私もいっぱい調べたのよ、薬のこと。
ずっと考えていたの。どうすればいいのか。
永琳ならもちろん知っているでしょう? 決して完成しない薬のこと。
――それ。永琳なら気付いていたんじゃない? 私がいれば、完成しちゃうってことも。
わかってるわ。殺人よりもずっと重大な犯罪なんでしょ。
それでも私はいいかなって思ってるの。永琳は安心していいわ。私が権力で脅して永琳に作らせたということにすれば、きっと許してもらえるから。
……そんな怒らないでよ。私、本気だもん。
「遊びに来たぞー。さ、姫。今日はいい天気だ、ゲートボール的なものでもするか」
「帰れ」
「一言目からー!?」
「実家に帰れ」
「研究活動さえ否定された!?」
「墓場に帰れ」
「アンデッド扱い!?」
以上、挨拶のコーナー。少年が壁に手を突いてずーんと沈むあたりが挨拶完了の合図。
姫は軽く手を振って、少年をあしらう。
「今日はちょっと体がだるいの。元気が有り余ってるならソロ活動で発散してちょうだい」
「う、うう。なんか物凄いことを言われた気がする」
「姫、大丈夫ですか? 今日は帰らせますから、ゆっくり休まれたほうが」
「えー。どうせ仮病だろー。ふふん、なんだ、だるいところがあるならオレが優しく揉んでやろうかー」
じと。
カグヤの氷のように冷たい視線が少年を貫く。
「どこ見てるのよ、産業廃棄物」
「とうとう廃棄物!?」
「永琳、ちゃんとそれ、法令にのっとって処分しておいてね」
「はい、喜んで」
「喜んでー!?」
とどめ。
真っ白に燃え尽きる少年。
「ぐう。……ま、まあいいや。今日もカードで勝負しないか?」
「勝負してあげてもよくてよ。今日も焼いた鉄板の上で土下座させて参りましたって言わせてあげるわ」
「したことないし! 死ぬし!」
仲はいいのだ。
永琳は、二人の後ろ姿を、刺すような鋭い目で見つめて、後を追った。
/*
学校というものに行ったのは、ほんの2年間だった。
学校の最後の思い出は、ただずっと謝ってばかりいたことだった。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
「もういいよ」
私がいつまでもいつまでも謝り続けるものだから、そう言うしかなかったのだろう。
本心なわけがない、と思っていた。ほんの少し前まで、ランナーとして将来を有望されていた子が、もう二度と競技場の上を走れなくなったのに、もういいなんて思うわけがない。
「いつまでも謝らないでよ。それで足が戻ってくるわけでもないんだから……」
私のせいだ。私のせいだ。
私が、間違えていたから。
私が壊してしまったから。
「ほら、歩くくらいなら何も問題ないし。ギソク、って言うんだって、これ。技術って凄いなあって感動してるんだ! 手足くらいならもう十分にとりかえがきくんだって……なんて、それくらいのことは知ってるよね」
キミが入院している間にお話はたくさん聞いたから。
このときにはもう、私は自分の「力」のことを、半分正しく理解していた。
たまたま、切り傷の治療痕に意識をこめて「いたいのいたいの、とんでけー」すると傷がすっかり消えていって、痛みもなくなったと喜ばれたのが最初のきっかけだったから、勘違いしてしまっていたのだ。
本当はただの、時間経過を進めてしまう力だったのに。手に触れるもの全ての時間を。意識すれば、なおさら早く進めることが出来る。逆に、どれだけ止めようと思っても、進めないことは、できない。
あの足の傷なんてそのまま普通に治療すればなんてことのない怪我だったのに。
治療もしないまま時間を進めてしまったから、切断までする羽目になった。私は一人の人間の未来を奪ってしまった。
そう――さらに後になると、まさしく奪ってしまったという表現が言葉どおり正解であると知ることになる。
どうして時間を戻すことはできないのか。悔しかった。何も知らないで軽率なことをしてしまったことが……悲しかった。
*/
涙。
頬を伝う熱い感触で目を覚ます。
また、昔の夢だった。今、この朝にこの夢を見るのは、必然とも言えるか。
ぼろり、と握り締めていた布団のカバーが崩れ落ちた。腐っている。寝ている間に変に力がかかってしまったか。もう布団も取り替えないといけない。
「私……」
ぼんやりと、呟く。
彼か、彼女か。
どっちの結果でもいいと思っている。――なんて言えば、それは嘘になる。
本当に覚悟ができているなら、とっくに選んでいてもよかったのだ。彼の選択が一番正しいのだろうから。きっと誰も困らない、誰も悲しまない、平和な結末。ただ、私が覚悟をすればいいだけ。
それに比べて、私が考えた道は、きっと多くの人に迷惑をかけてしまう。わがままだと思う。
結局、答えは出ているのだ。私は、私を傷つけたくないから、わがままを通す。大好きな永琳さえ巻き込んでしまう。
ごめんなさい。身勝手でごめんなさい。
もう、最後の答えを出すときがきたみたいだから。予感はしている。
永琳が言っていた。今日は特別授業の時間を作ったと。
もう一度浮かぶのは彼の顔だった。ごめんなさい。あなたのことも、本当は好きだったよ。
選択が終わったら、手くらいは握らせてくれるかな?
「蓬莱の薬――なるほど、禁断の秘儀ですね。これは、まさに」
永琳が取り出したその透明な瓶に、カグヤは息を呑む。
見た目には水となんら変わらない透明な液体がそこに入っているだけだった。
いや、事実、現時点ではただの水と変わらないのだと永琳は言う。
「これを完成させるためには、このままずっと置いておく、熟成が必要。そう」
永琳は、真剣な目でカグヤを見つめる。
「永遠に」
「私の力があれば、できる」
「そうですね。この瓶も、永遠の時間に耐え切れるはず。試したことはないから保証はできませんが。あとは、姫が、時間を進めれば」
「時間を『奪えば』、でしょ?」
カグヤは微笑んだ。
この、カグヤの能力の、残った半分の理解は、昔の事件よりさらにずっと遅れた。
カグヤは、手で触れるもの全ての時間を奪う。
奪った時間を、自分のために使う。ものを考えるときは、周囲の時間は何も変えないまま、自分の中で数倍の時間を使って考えることができた。ゲームでも、運動でも、その気になれば「世界が止まって見える」状態まで時間を圧縮することが出来た。それでいて、身体の老化は遅らせることができる。ことができる、どころではない。おかげで実年齢よりずっと幼く見える。
「こんな泥棒みたいな力を使って、何が天才なのよ。本当、昔の自分に呆れるわ」
「姫」
「大丈夫。もう、それを終わらせるから。そのために、作ってもらったんだから……」
躊躇はしない。
カグヤは、瓶を手に取った。そして、意識を集中させる。
瓶は見る間に黄ばんでいく。普通のガラス瓶なら、もうひびが入っていてもおかしくないほどに。
1分。
2分。
……3分。
瓶の中で、液体が青く輝いた。カグヤは瓶から手を離す。
「――完成したみたいですね」
永琳が呟いた。
かつて、薬の伝説と作り方がどこからか伝えられて以来、少なくとも月の住民は誰も見たことがないであろう、完成形の蓬莱の薬。製造方法は抹消されかけたが、一度伝えられたものを完全に消すことは不可能だった。だから、精製が法で禁止された。万が一にも、完成してしまわないように。
それでもなお、本当に完成させてしまうときが来るなど、誰も思ってはいなかっただろう。
「これが、蓬莱の薬」
「ええ。私たち、これで重罪人です。私は完成前のを作った時点ですでにアウトでしたけれど」
「これで……私は」
もう、誰の時間も奪わなくて済むのか。
カグヤは、祈るような思いで薬を見つめる。
時間を進める能力ではなく、奪って自分のものにする能力だと。
その違いを認識したことは、大きかった。
ならば、自分が永遠の存在になってしまえば、もう奪う必要は無くなるはずだから。
カグヤは、再び瓶に手を伸ばした。
それを、永琳が制した。永琳が、先に瓶を掴む。
「永琳……?」
「姫。新しい薬を、いきなり姫に試していただくわけにはいきませんわ」
「……永琳!? まさか」
蓋を開ける。
カグヤが手を伸ばしてそれを止めようとしたときには、もう、永琳はその中身を一口、口に含んでいた。
泣きそうな顔をしているカグヤに向かって、こく、と喉を鳴らして、永琳は優しい笑顔を見せた。
「――今日は、ダーツが私に当たったのですよ」
「ばか……! なんでよ……! 永琳、自分が何をやったかわからないわけがないでしょ!? 永琳は、永琳は、全然、こんな、私の問題なんて、関係なかったのに……!」
「落ち着いてください、姫。実験はこれからです」
「……!?」
永琳は、瓶に蓋をして、離れたところに慎重に置く。
そして、ポケットから別の小さな瓶を取り出した。そこには、黒い液体が満たされていた。
「近寄らないでくださいね。万一血液に混じってしまえば、即死です」
「やめて! 永琳、これ以上ばかなことしないで!」
「『動くな』」
「え……!?」
カグヤの体が、びくんと弾けて、固まる。
「な、なにこれっ……」
手足に力を入れても、まったく動かない。力が抜けてしまっているわけではない。まるで置物にでもなったかのように固まってしまったのだ。
「無礼を働いたことを、お許しください。安全のため、少し離れて見守っていただくことにしました」
「やだ……やだよ、やめて……」
「ご心配いただいて、ありがとうございます。でも、私は自信がありますから、大丈夫ですよ。姫を、殺人事件の被疑者に仕立ててしまうようなことはありません。――絶対」
瓶の蓋を開ける。
永琳は、ただ優しい目でカグヤを見つめる。
「一番楽に死ねる薬ですしね。見苦しいところを見せることもないと思います」
「やだ、いやだ、いやだ。実験なんていらない! 私の力がなくなったかどうかで試せるじゃない!」
「試すのは、私の仕事です」
くい、と。
永琳は、毒薬を飲んだ。すぐに、瓶の蓋を閉める。
「あ、ああ、ああああ……」
「すぐ、戻ります」
/*
あの時、私は今より無力だった。
「いたい……いたいよう……!」
泣き叫ぶ少年の足に、何も知らずただ、間違った「治療」を行っていた。
あの時、私は今より無力だった。
だから、少年は命まで奪われることはなかった。足だけで済んだのだ。今ほどの時間を進めることはなかったから。
私は、人殺しにはならずに済んだ。
今は私のわがままのせいで。
大切な人を殺してしまう。
*/
「ああ、痛いのは痛いのですね……」
まるで他人事のような言葉を残して、永琳は倒れた。
あっけなく。その言葉を最後に、息を引き取った。
「え……えいり……」
体は動かない。何か、壮大な冗談に騙されているような気がした。
しかし、本当の冗談は、このあとにやってきた。
カグヤの呆然とした言葉が終わる前に、永琳の体が瞬時に光って、光の粒になって、弾けた。
一瞬、そこには何も残らず、跡形もなく何もかもが消えた。ほんの一瞬。
次の瞬間にはもう、光の粒が集まって、また光って、少し前までと何も変わらない永琳の笑顔が、そこにあった。
「えい……永琳……!!」
「――服も一緒に再生するのは、面白いですね。裸を見られる覚悟もしていたのですが」
「永琳のばか! ばか! 何暢気に言ってるのよ……!! わ、私、どれだけ、どんな、う、あああ、ぅ……っ」
「ああ、すみません。挨拶を忘れましたね。ただいま、姫」
永琳はカグヤの頬に手を伸ばす。
冷たい手が、カグヤの頬を撫でる。
「実験は、見ての通り、成功です」
「……ばか……」
「泣かないでください、姫。次は、姫の番です」
「……!」
ぎゅ。
永琳は、カグヤを真正面から抱きしめた。
「しっかり見てくださいましたか? 姫。姫は、これを飲めば」
蓬莱の薬。
それを視線で示したあと、真正面から目を見つめる。
「私みたいな、化け物になります」
「そんなの……! とっくにわかってたわよ……! だから、永琳がそうなる意味なんて全然なかったのに……!」
「姫が不老不死となれば、国中がパニックになるでしょう。もちろん、もう姫ではなくなるかもしれません」
「わかってるってば! 覚悟なんてとっくにできてる! 誰にどれだけ迷惑かけても、私はこうするって決めてたの……もう、誰の時間も、命も、奪いたくなかったから」
木の家具だって使いたい。
花束だって受け取りたい。
好きな人の手くらい握りたい!
「――『動け』」
固まっていた体が動いた。
手では触れないように気をつけながら、永琳の体を抱き返す。
「それが姫の決断でしたら、私は何も後悔などしません。研究時間がたくさん増えて、都合がいいくらいです」
「……こんなときまで、強がり言うんだから……!」
「いいえ、本心です。私は今、とても満たされた気持ちですから」
そっと薬の瓶を、カグヤに手渡す。
カグヤは頷いて、瓶の蓋を開ける。
一口。永琳が飲んだ量と同じだけ、口に含む。
「……永琳」
「はい、姫」
「まずい……」
「ええ、私もそう思います」
飲んだ。これでもう、時間を奪って生きる化け物ではなくなった。永遠を生きる化け物に生まれ変わった。
口元を緩める。そして、笑う。
「やっちゃった」
「『実験』、しますか? ああ、私の体では実験の意味がないですね。私ももう永遠ですから。では、これで」
「永琳のサインペン」
「書いてみてください」
「うん」
キャップを開ける。
ノートに、ペン先を下ろす。
す、す、と手早くペンを動かして、離した。
「書けた……」
「おめでとうございます」
インクは乾いてしまうことなく、しっかりとノートに文字を残した。
「『人』ですか」
「ん……あ、うん、別に深い意味はないの。なんとなく思いついた単語だっただけ」
二人で、笑いあった。
幸せな時間。カグヤは、永琳の手をそっと握った。永琳は、優しく握り返した。
「手を握るのって、こんな感じなのね」
「次の宿題は、その感じを感想文にしてもらうことにしましょうか」
「幸せな単語だけでいっぱい埋めてあげるわ……!」
足音が遠くから聞こえた。どたどたいう勢いのある音ではない。踏みしめるように歩く音だ。
本当は走りたいのだろうに。カグヤは足音を聞きながら、ぼんやりと思った。
急ぐことができなかったもう一つの選択肢が、遅れてやってきた。
ばたん。彼は、ノックもせず、ドアを開けた。
「先生! まさか、バカなことやってないでしょうね……」
少年は、すぐに黄ばんだ瓶に目を止める。
大きく目を見開いた。ぎり、と歯軋りを立てて、顔をゆがめる。
「先生……!」
「ああ。私の日誌、勝手に読んだのかしら。悪い子」
「まさか、まさか……」
「――ごめんなさい。私は覚悟が足りなかったから、あなたを選ぶことができなかった」
「……!」
カグヤの言葉に、少年は驚きに目を丸くする。
そして、悲しい目で、カグヤの顔を見た。
「わかってた。あなたが一番正しいこと。私は、自分の立場を考えれば、そして本当にみんなの、そしてあなたの気持ちを考えれば、腕くらい失ってもよかったはずだった」
「……気付いてたのか」
「永琳が見つけてくれたの。永琳が持ってきた風邪薬に、違うものが混入しているって。あなたが何かしていたのも、気付いていたんですって。私ね、いつかあなたから仕返しされることは、わかってたの。私が風邪を引くように仕向けたのもこのためだったのかって。やっとそのときが来たのかな、って思った。でもまだ、考えは浅かったみたいね」
カグヤもまた、悲しい目で少年を見つめる。
「あなたの薬の正体が知りたくて、私、ちょっとフリをしてみたの。ねえ、私がちょっとだるい、って言ったとき、あなた、マッサージしてくれるって言ったでしょう。普通はだるいって言ったら、全身に疲れが残ってるくらいの想像をするものよ。マッサージなんて発想は出ない。なのにあなたは、あのとき……私の、腕を見てた」
「……そうだ。オレは、姫、あんたの両腕が麻痺して動かなくなる薬を飲ませようとした。そのまま放置しておくと、やがて全身に麻痺が回ってしまう毒だ」
「回避するためには、腕を切断するしかない――そうでしょ」
「……」
少年は目を伏せる。
もう完全に力は抜けていた。
「そうね。昔あなたが言ったことだったわ。手足くらいなら、なんとでもなる。義手をつければいいだけなのよ。そして、本当の両腕を失った私は、もう誰の時間を奪うことも無い」
カグヤは、永琳から手を離して、立ち上がった。
そして、ごめんなさいと言った。
「理想的な選択肢だった。でも私は、自分の手を失いたくはなかった。あなたの薬を飲む覚悟がなかったの」
だから化け物になる選択肢を選んだ。
わかりやすい話。
少年は、目を閉じて、拳を強く強く握り締めた。
爪が自らの掌を破り傷つけるほどに。血が腕を流れていく。
「勝手なこと言うな……オレはただ、復讐したかっただけだ。姫の都合なんてどうでもよかったさ」
「ごめんなさい。もう私はあなたの復讐を受け止めることもできない。どこまでも自分勝手なのよ」
「……はは……復讐なら、まだ、できる。オレは、禁断の薬を作らせた姫を訴えるだけでいい。もう姫が生きる場所はないんだ」
「――」
永琳が、動いていた。
瞬時にして、どこからか抜いた刃物の先が、少年の首の数ミリ手前を捉えていた。
「ぅ……」
「やめて、永琳。どの道、誰かにはバレることだし、訴えられることだわ」
「ですが」
「お願い」
「……わかりました」
刃を引いた。
その目は、少年を睨みつけたまま。
「ねえ、ユウ。たぶんこれで最後になるから、私のお願い、聞いてくれるかな」
「……! 今更名前を呼ぶな……!」
「手を、繋いでくれる? もう私、あなたの時間を奪うことはないから」
あの日以来。
少年の未来を奪ったあの日以来、彼の体には一切手を触れていなかった。
「なんでだよ」
「あなたのこと、好きだから」
「……! お……オレは……なんだよ! くそっ! オレは、姫のことなんか……!」
「ユウ」
カグヤは手を伸ばす。
「私の警戒を解く演技だったとしても、楽しく遊んだ思い出が作り物だったなんて、私は思わない」
「勝手な思い込みだ」
「それでもいいわ」
カグヤの差し出された手を見て、少年の目に動揺の印が浮かんでいた。
手を見て、目を見て、また手を見て、目を閉じる。
悔しそうに、悔しそうに、表情を歪めた。
「オレはまだ……これからを生きる」
くる、とカグヤに背を向けた。
「さよなら、姫」
開けっ放しのドアから部屋を出て、歩き去っていった。
カグヤは背中を見つめる。じっと見つめる。
走り去りたい場面だろうに。格好付けさせることもできなかった。背中が見えなくなってから、カグヤは、照れ笑いを浮かべた。
「ふられちゃった」
じわり。永琳の顔が、景色が歪む。
涙が零れる。
いけない。姫は泣いてはいけないと教えられているのに。
ああ、でも、今くらいはいいかな、とカグヤは自分を甘やかす。これくらいは許してもらってもいいはずだ。
こんなに悲しいのに、泣いてはいけないなんて誰も言わないだろう。
だから、泣いた。
思い切り、泣いた。
もうすぐ、こうして泣くときに胸を貸してくれる人もいなくなる。頭を撫でてくれる人もいなくなる。今くらいは、全身で甘えてみたかった。
弁護士は最高の仕事をしてくれたと思っていいのだと、永琳は自分に言い聞かせる。
そう、弁護士は悪くない。
決してカグヤの強制ということにせず、あくまで治療に必要なものだった正当な行為だと、姫の人権に関わる問題として争ってくれた。人らしく生きる権利は誰にでもあるという原則を武器に戦ってくれた。
見事、永琳は無罪を勝ち取った。
ならば同じ理論で姫も無罪を得ることもできたはずだ。
しかし、判決は非情だった。国のトップという立場にあるものが、自らの都合のために禁断に手をつけたことは決して許されないと。どこまで上っても、この判決が覆ることはなかった。
確かに正統な理屈ではある。それでも、判決の差に、政治的圧力を感じずにはいられなかった。
一度、無駄に姫を苦しめるだけの刑は実行された。――らしい、と、頑丈な檻の中で聞いた。
明らかに違法行為なのだが、永琳は、姫の裁判から処刑の実行時まで常にこのような形で拘束を受けていた。なるほど正しい判断だ、と永琳は自虐的に笑う。姫が今どこにいるかさえまったく知らされていないが、どんな手段を使ってでも探し出して逃げ出していたことだろう。どんな手段を使ってでも、だ。そのためなら何人だって、殺せる。
拘束から解き放たれたときには、姫はすでに手の届かないところまで流されたということを聞いた。
彼女が憧れていた場所に。――地球に。
こんなことなら、裁判など最初から受けず、やはりあのとき姫を攫って隠れておくべきだったのだ。
それを泣きながら止めたのが姫本人だったとしても。
胸が痛い。
「……先生」
「……ああ。久しぶりね、あなた。まだこんなところにいたの」
「オレは、あなたの弟子です。どこにも」
「どうして私を無罪にしたの」
「……何のことですか」
「あなたが、あの大臣に取り入ったんでしょう。わずらわしい説明はさせないで。どうして私を無罪にしたの」
「先生は、この国の今、そして未来にとっても、大切な人だから、です。誰もがそう思っています」
「そう。そんな理由なの。わかったわ、もう実家に帰りなさい」
「嫌です。オレは」
「二度言わせないで。あなたはもう私の生徒ではないわ。明日以降、あなたの姿を見たら、躊躇なく殺すから」
「……」
「私がまだ手を抑えられるうちに、逃げなさい」
ああそうだ。
不死身の体には、死刑は効かない。
だったら、死刑になるほどの重罪をもし永琳が犯したとすれば、どんな刑罰が待っているだろう。
遠い地球を見上げる。
「――私が、愚かな思いつきを実行に移す前に」
あの時、私は今より無力だった。
「いたい……いたいよう……!」
どうして。
どうして。
どうして。
ただ、自問だけが脳内を巡っていた。どうすればいいのか、このままだとどうなるのかなんて、考えていなかった。
こんなはずじゃない。ないのに。
泣き声は遠くから聞こえてくるような気がした。
血を吸った砂も、ドス黒く変色した皮膚も、膝の下から腐り崩れ落ちていく組織の臭いも、まるで録画された映像を後から見ているかのように、現実感がなかった。
「助けてよ……どんな怪我だって、治してくれるんじゃないの……? いたい、いたいよ、たすけてよ……はやく」
そんなことは、キミが勝手に思っていただけ。
みんなが勝手に言っていただけ。
でも、私も確かに、そう、信じていた。私にはその力があると思っていた。
どうして。どうして。どうして治ってくれないの。
何を間違えたの。
もう一回やればいいのかもしれない。でも、もう何回もやった。何もよくならかなった。
私に出来ることは、痛みを訴えて泣くこの可哀想な子を、ただ呆然と眺めることだけだった。
*/
「あーあ。もう、疲れたわ。これくらいでいいでしょ、勉強。遊びましょ」
声や目や態度、全身でもう飽き飽きだというメッセージを発しながら、この国の現王の娘、つまり姫であるところのカグヤは鉛筆を投げ出して言った。
この国、と言ったが、月には国は一つしかない。また、現時点で、王の子孫で女性であるのはカグヤしかいない。カグヤは、月に存在するただ一人の「姫」だった。
「姫。時間管理は、私の役割ですよ」
「あーはいはい。わかってますよって。相変わらず頭の固い先生ですこと」
「あと5分ありますからね。最後に練習問題一つくらいやっておきましょう」
「えーりんのオニー、あくまー」
ぶー。カグヤはこれ見よがしに頬を膨らませて抗議する。
家庭教師――八意永琳は優しく微笑みながら、サインペンで白紙に手早く問題文を書き込んでいく。予めテキストに準備しておいた問題だけではなく、その場で当日の勉強をほどよく復習できるような問題を考えて作成するのが永琳の流儀だった。
カグヤは不満の表情を崩さないまま鉛筆をふたたび手にとって、作られた問題に取り掛かる。
問題文を読み終えると、迷わずに計算を始める。紙の上に、複雑な記号が書き込まれていく。手が動き続けること、約3分。紙の上に解答が出現する。
「はい」
「さすが姫、完璧です」
「当たり前でしょ。定石を確認するだけの基本問題なんてできないわけがないんだから時間がもったいないだけだっていつも言ってるじゃない」
「それでも、反復することはそれ自体に意味があるのですよ」
まる。
カグヤの解答に大きく○印をつけながら、永琳は姫の不満を軽く受け流していた。
にこり、と緊張を解いた笑顔を見せて。
「間違えるときもあるわけですし、ね?」
「む……」
できないわけがない、と言った手前、正答率が100%ではないというところを突かれると、苦しい。カグヤは、ふん、とそっぽを向いた。
「今日みたいな簡単なときはダイジョウブなの! さあこれでもう終わりでしょ! 遊ぶわよ!」
「そうですね。――姫、鉛筆はちゃんと鉛筆立てに戻してください」
「うーいちいち細かい! これでいいんでしょ!」
立ち上がりかけていたカグヤは、紙の上に放置されていた鉛筆を掴んで、鉛筆立てに挿す。鉛筆立てには10本ほどの鉛筆がずらりと並んでいた。いずれもすでに削ってあり、長さはマチマチだった。
「問題ありません。……さて。では、今からオフモードで」
すう……。永琳は目を閉じて一度深呼吸をする。
きゅ、と拳を軽く握る。
目を開く。
「さあ! 遊びますか! 今日は地雷原でリアルサバイバル鬼ごっこかお風呂でにゅるにゅるスライムごっこかどちらにしましょう!」
「どっちも嫌よ!! だから、いつも言ってるけど急にテンション変えないでついていけないからっ」
「オンとオフの切り替えこそがストレスなく有意義に世を生きるコツですよ、姫。ああそういえば偶然ここに遊戯内容が描かれた的とダーツが。これで決めましょう」
「明らかに胴体より大きいそれを今どこから出したのよー!?」
「まあ。ついに姫も乙女の体の神秘に興味を持つ年頃に……うふふ」
「絶対そんな次元の話じゃないからっ!?」
実際のところ折りたたみ式の的を瞬時に広げたというだけの話なのだが、永琳はそんなネタばらしをするつもりはなかった。些細なことだからだ。通常なら姫の動体視力なら十分に目で追えた動作だったのだが、そこはうまく隠しながら広げた永琳の勝ちというものだ。しかし、だからといってどうというものでもない。
「どれに当たるかしらね」
「待って、まず何が書いてあるか確かめさせて」
ぱし。カグヤは厚紙で出来たその的を取って、書かれている文字をしっかりと睨みつける。
・佐藤大五郎(素直。困ったときは)
・真鍋八重子(精神分離反応歴あり。要注意)
・みーや(丈夫。やや反抗的)
・TERA(やや敏感体質。投薬量注意)
・ジャックなんとか(笑)
「なんか人の名前が書いてあるー!?」
びくーん。
名前と、そのあとに続く何か不穏当な臭いのする単語に、カグヤは思い切り引いた。
「ああ――すみません、間違えました。私用の的でしたね、これは。姫用のは、ええ、これです」
さ。
瞬時に的が取り替えられる。
「う、うう、聞かないほうがいい気がする……よくわからないけど、一人だけ明らかにいっぱい穴が開いていた佐藤さんの無事を祈りたい気分だわ……一人だけ説明文もまともに書いてもらえない子ももっと可哀想だけど」
「正式に契約を結んでいますから、犯罪ではありませんわ。ご安心ください」
「やっぱり気になるー!?」
「さ、今度こそ姫のプレイ用の的ですわ。ご確認ください」
「プレイ言うな。んー……カードに、ボードゲームに、フリーキックに……なんだ、意外にまともじゃない」
「そうおっしゃるかと思いましてアブノーマルの極限を目指したバージョン2もございます」
「一生地下シェルターにでも仕舞っておきなさい」
カグヤは冷たい声で言いながら、ダーツを手に取った。
金属製で先端が尖った矢は、簡単に厚紙を貫いた。
永琳は、姫の専属家庭教師だった。
専門は薬学なのだが、専門外でも非常に広く深く教養を持っていたこともあって、選出された。始めてみると姫との相性も非常に良かったらしく、その成果を踏まえて、家庭教師を開始した3年後にはもう王室の全面的な信頼を得るほどになっていた。
ただ、この家庭教師による収入を、独自の研究費用として使用していたわけではない。八意家には、王室から莫大な研究費の支給がある。これまで長きに渡って国民の健康水準を引き上げ続けてきた功績によって、特に用途を定めない予算が無条件に送られている。この事実は公然であり、いつの時代も批判の声は上がってくるものの、一度として予算が廃止されることはなかった。事実、成果を上げつづけて来たのだ。
さて、信頼というのは、裏切らない限りは非常に便利なものだ。
永琳が一緒であれば、弟子を一緒に連れて姫のもとまで遊びに来るなんてことも許されていた。
「よう、姫、元気かー」
例えそれが無礼な男子であっても。
じと、とカグヤはそれを睨みつける。
「永琳、だからこれは持ち込まないでって言ってるでしょ。私の教育によくないじゃない」
「う、うう。悲しい。そもそも人扱いですらないなんて。先生、フォローお願いします」
「世間の暗部を知ることも姫の務めですから」
「オレ暗部ですか!?」
「えーと……じゃあ、恥部?」
「もっと嫌です!?」
しくしく。
打ちひしがれてしゃがみこんで、少年は地面に向かって挫折のポーズ。
「これが……現実か……」
と、まあ、ここまでのいつもの挨拶を終えたところで、永琳が先を促す。
「さあ、早く入りましょう。凍えそうだわ」
「えー。これくらいで寒いって。永琳も結構トシなのねえ」
「……姫。あとで特別授業がありますので明日の夕方の予定を空けておいてくださいね?」
「ひ!?」
いつもどおりの声と笑わない目に怯える姫の後方から、さらに呟く声ひとつ。
「先生を怒らせてやんの。ばーか」
「……」
肘鉄。
鳩尾にクリーンヒット。
悶絶する少年を置いて、カグヤは振り向きもせず永琳のあとを追いかけた。
「ふ……いい一撃だったぜ……ああ、これなら世界と戦える……おおいせめて体を張ったネタくらい聞いてくれよぅ……」
がくり。
なんだかんだ言って、仲は悪くないのだ。この二人は。
永琳が見守る中、二人はカードゲームで白熱していた。どちらも、本気だ。
傍から見ていると低学年の子を相手に高学年の男子が大人気なく全力でかかっているように見えるが、実際のところ、二人は同い年だった。カグヤのほうが幼く見えるだけだ。
「ふふ……油断したわね! マナドレイン発動!」
「なん!? がっ……くそ、持ってたのにさっきのファイヤボールのときは使わなかったのか……!?」
「ふっふー。切り札はより相手にとって嫌なタイミングで使うものよ、少年。で、フェニックス召喚」
「のおおおおおおおっ」
第7戦はカグヤに軍配が上がったようだった。だいたいいつも、ほぼ互角か、若干姫のほうが優勢になることが多いくらいだ。
肩を落とす少年に、得意げな姫。
「さあ、次もやるかしら? 懲りずに」
「やってやる」
戦いは、まだまだ続きそうだった。
少年はカードをかき集めてシャッフルする。カグヤのほうは、先程のデッキ(戦略的な意味を持たせた、カード数十枚の組み合わせ)を横にやり、新しいデッキで再戦する。
「なんだよーまた新しいのかよー。ぐう、これだから金持ちは……!」
「これも戦略よ、戦略」
そんな光景を眺めながら、永琳は微笑んで、カグヤが先程使用したデッキを回収して片付ける。本当なら片付けまでちゃんとさせるところだが、これだけ熱中して遊んでいるところにわざわざ水を差すことはないだろう。
紙で出来たカードは傷み始めていて、端が少し捲れかけている。カードの端を軽く撫でて、永琳はその束を箱の中に片付けた。
ちらり、窓から外を見る。太陽はもうかなり低くなっていた。ずいぶんと時間が経ったものだ。
「……少し、歩いてきますね」
永琳は二人に言って、立ち上がる。
もう二人とも、常に見張っておかなければいけないほど子供ではない。監督責任はあるが、この二人を少し放っておいたところで、何か間違いが起きることもあるまい。
「いってらっしゃーい」
「んー」
適当な見送りの声を聞いて、永琳は部屋を出た。
第8戦がカグヤのぎりぎりの勝利で終わり連勝を飾ったところで、少年も外を見た。
太陽が沈みかけていた。暗くなりつつある。
少年はカードを集めて、まとめる。
「よし! ちょっと外出ないか?」
「寒いから嫌」
「ものすごくストレートに断られた……うう。なんだよー、姫は若いから寒さは平気なんだろー」
「昼間と夕方じゃ全然違うに決まってるじゃない」
「うん……すごく正論……まあ、ちょっとだけ、な? 最近あんまり空見上げてないんじゃないか?」
「寒いからね」
「だろうさ。最近、すっごい綺麗に見えるんだよ。本当はもっと完全に夜になってからのほうがいいんだけど」
「見えるって?」
「そりゃあ、チキュウだよ」
「寒い」
「……オレが温めてやろうか?」
「断る」
「うわーん」
中庭から、空を見上げる。暗くなりつつあるとはいえ、まだ太陽の勢力は空に影響力を残している。
「チキュウじゃ、これくらいの時間だと、世界が真っ赤になるらしいな。知ってたか?」
「それくらい3歳のときに習ってるわ」
「……さいで」
地球は、他のどの惑星よりも大きな存在感を見せていた。当然だ、月は地球の衛星にすぎないのだから。
カグヤは、その青く巨大な星をじっと見上げる。なるほど、綺麗に見える。真夜中に見ればもっと綺麗だろう。
「本当、綺麗な星。たくさんの命が今もあの中で生まれているんでしょうね。ここでは考えられないくらい、たくさんの種類の」
「恵まれた星ではあるよなあ」
「機会があれば一度、行ってみたいわね」
「……月の姫さまが言うとかなり深い意味に聞こえるなあ。オレはあんまり行きたいとは思わないや」
「あら、どうして」
「だって、ここよりずっと田舎で社会の発達も遅れてるんだろ? いくら綺麗でもオレには向いてない。いきなり『偉大なる大自然』の中に投げ出されてもオレが今勉強してることなんて何の役にも立たないだろうしな」
「――そうね。正しいわね」
ちら、とカグヤは少年の顔を覗き見る。
少年は地球を見上げてはいなかった。目が合った。
「あなた、チキュウのことあんまり好きじゃないでしょ」
「なんでだ?」
「言葉の響きからわかるわよ。ねえ、好きでもないのにどうしてわざわざ寒いのに、一緒にチキュウを見上げようなんて思ったの?」
「……」
少年は、言われてから、わざとらしく空を見上げた。
「姫は見たいんだろ? それが理由だ」
「――るよ」
「ん?」
カグヤは、少年の言葉に、聞こえないような小さな声で応えた。
聞かせてやろうかとも思って言ったのだが、思いとどまったのだ。ただ、言葉自体を止めるほどには、自制心が働かなかった。
――本当の理由、知ってるよ。
そう言ったのだ。
それは、言ってはいけない言葉だ。カグヤは踏みとどまった。覚悟があるのなら、まだ今は、早い。言うべきときではない。
目を伏せる。
本当の理由。
きっと――寒いから、だ。
「ああ、姫。こちらでしたか。早くお部屋へ。これからさらに冷えますから」
「冷たくなったら、永琳がぎゅってして温めてくれるでしょ?」
「あらあら。甘えん坊さんですね。ほら、ぎゅー」
「ん……」
「……オレの立場って……」
/*
天才などと呼ばれた。
物覚えが早い。応用力もある。運動能力も優れている。なんて、持て囃されていた。
最初はそう呼ばれることが嬉しかった。自分には才能があるのだと誇らしく思った。
だけど、そのうち漠然と、それは違うのだと思い始めていた。
何故違うと思ったのかも、すぐに自分で理解するようになった。
私はただ、人より状況が恵まれているだけなのだと。もちろんそれは私の能力の結果なのだから、単純に運が良かっただけだとは言えないかもしれない。だけどやっぱり、天才なんてものではない。
私は天才と呼ばれることを嫌がるようになっていった。それは本質を見落とした言葉だから。
それは私のことを理解できなくしてしまう言葉だから。
やがて私は、私の能力の本当の意味を知った。
私を天才と呼ばしめる結果を生み出したこの能力が非常に忌むべき、おぞましい能力であることを知った。
私は天才どころか、世界にとっての病原菌みたいなものだ。
そう思うと、今私が勉強していることは、なるほど世界のためになることなのだろう。
病原菌ならばいつか撃退されないといけない。
世の中、うまくできている。
*/
けふ、けふっ……
乾いた咳が時折寝室の中に響く。
薬を飲んでから、かなり症状は治まってきていた。
「さすが、永琳の薬ね」
カグヤはベッドの中から、今日は本業で活躍したいつもの家庭教師を褒める。
姫の寝室は、決して無駄に広くは無かった。そして、ベッドだけではなく、テーブルが一個置いてあるため、むしろやや窮屈な印象すら受ける。月では、金持ちの家では豪華さをアピールするために貴重な木製の家具をふんだんに使うものだが、この部屋にはまったく見当たらない。テーブルもベッドも金属製だ。木製といえば、鉛筆くらいのものだった。鉛筆もまた高級品であり、また決してペンに比べて便利ということもなく、使う者はほとんどいない。姫が鉛筆の愛用者であるということが鉛筆メーカーの宣伝文句になっているくらい、珍しいものだ。
永琳は、姫の額に手を置いて、そっと放す。
「熱も引きましたね。あとはゆっくりお休みしていただければ」
「今日は勉強はお休みね。たまには風邪を引くのもいいものね」
「もう、姫。少し前まであんなに苦しんでいたのに、元気になった途端それですか」
「苦しくても永琳が助けてくれるから安心なんだもん」
「私も、いつだっているわけでないんですよ」
「うー」
布団の中からカグヤが見せる不満の表情は、すっかり健康なときのそれと同じものになっていた。
永琳は、カグヤの髪を撫でる。カグヤは気持ちよさそうに目を細める。
「――だからこそ、できるだけ早いうちに手を打ったほうがいいと思うのですけれど」
声に、厳しい調子が混じる。
永琳の目に一瞬ともった炎は、しかし、カグヤが微笑みながら首を横に振ったことで、消される。
「ダメよ。永琳は何もしないで。何も知らなかったみたいに、今までどおりいて」
「しかし、姫……」
「いいの。私にとって、必要な段階だから……きっと、これも」
「……わかりました。しかし私には責任がありますから、チェックだけは確実にさせていただきます」
「うん。ありがとう」
なんて寂しそうな微笑なんだろう。永琳はカグヤを見つめて、心を痛める。
今起きている問題の根本的解決を図ることは永琳には簡単なことだった。しかし、姫にその手段を固く禁じられてしまった。約束をしてしまったからには、守らなければならない。自制しなければならない。
歯がゆい。
何も姫の体のことについて責任を負っているからという社会的な問題ではないからだ。今はもう。
「姫。私は姫のことが、好きです」
「……えー。どうしたのよ急に。……えっと、うん。私も、永琳のこと、好きよ」
ただ責任というだけの問題ならば、姫との約束など破棄してでも、行動に出るべきだと思う。姫の心は傷つくかもしれないが、確実に守ることができる。
それができないのは、結局、極めて個人的な感情の問題だからだ。このひとを、傷つけたくない。
「だから、私を信じて」
今できることは、この綺麗な黒い髪を撫でてあげることくらいだった。
深く息を吐く。――そう、深く思い悩む必要は無い。しっかりチェックさえしていれば、守り続けることはできる。ちょっと面倒になるというだけの問題だ。
気分を入れ替えて、永琳はまた微笑を戻す。カグヤもまた、永琳の変化を見て取って、安心したように表情を緩めた。
「あーあ。でも、いいな。私も永琳の髪撫でてあげたいわ。永琳がどんな顔するか見てみたいのに」
「あら。姫がご希望でしたら、私はいつでも歓迎ですわ」
「うう。そう言われると本当にやってしまいたくなるから怖いわ。自重、自重……」
「私は、本当に、いいのですよ?」
「……ううん。今は、やめておく。永琳は大切な人だから。それにね。今、私、ひょっとしたらもう少ししたら、もう我慢しなくてよくなるんじゃないかって、希望があるの」
「――え?」
姫の言葉に、永琳は髪を撫でる手をぴたりと止めて、目を丸くする。
しばらく固まって呆然としていたが、その間にも頬は高潮していく。目に、先程の炎とはまた違う色が灯る。
「どうどうどういうことですか!? 何か物凄い裏技とかウルテクとか禁断の秘儀とかそのようなものを発見されたのですか!? みんなが笑ってハッピーエンドみたいないわゆるウルトラビタミンCな解決方法が!?」
「おおおおちついて永琳。ビタミン余計だから」
「何をおっしゃいます姫! ビタミンはとても大切なものです! 姫にも私にもなくてはならないものなのです! 多くの人のビタミンC欠乏症を解決するために八意家は代々どれほどの創意工夫を重ねてきたか。振り返れば350年前の事件こそが契機で」
「ああんっ……わかってるけどー、いきなり脱線してるからっ」
何か唐突に講義が始まりそうなところを、カグヤは目で制する。
永琳はたまに暴走し始めると止まらなくなることがあることを、よく知っていた。早期発見、早期沈静化が大切なのだ。
カグヤは、永琳の言葉が一時的に停止して、呼吸が少し落ち着いたタイミングを見計らって、言葉を繋げた。
「えーと。……禁断の秘儀っていうのは、まさに的確な表現ね。上手い言葉があったものだわ。でも、次は違うかな」
早く内容を聞きたくてうずうずしている永琳の目を見て笑って。
天井を見上げて、そして、目を閉じる。
「みんなが笑ってハッピーエンド、とはいかないと思うわ」
ねえ永琳。私もいっぱい調べたのよ、薬のこと。
ずっと考えていたの。どうすればいいのか。
永琳ならもちろん知っているでしょう? 決して完成しない薬のこと。
――それ。永琳なら気付いていたんじゃない? 私がいれば、完成しちゃうってことも。
わかってるわ。殺人よりもずっと重大な犯罪なんでしょ。
それでも私はいいかなって思ってるの。永琳は安心していいわ。私が権力で脅して永琳に作らせたということにすれば、きっと許してもらえるから。
……そんな怒らないでよ。私、本気だもん。
「遊びに来たぞー。さ、姫。今日はいい天気だ、ゲートボール的なものでもするか」
「帰れ」
「一言目からー!?」
「実家に帰れ」
「研究活動さえ否定された!?」
「墓場に帰れ」
「アンデッド扱い!?」
以上、挨拶のコーナー。少年が壁に手を突いてずーんと沈むあたりが挨拶完了の合図。
姫は軽く手を振って、少年をあしらう。
「今日はちょっと体がだるいの。元気が有り余ってるならソロ活動で発散してちょうだい」
「う、うう。なんか物凄いことを言われた気がする」
「姫、大丈夫ですか? 今日は帰らせますから、ゆっくり休まれたほうが」
「えー。どうせ仮病だろー。ふふん、なんだ、だるいところがあるならオレが優しく揉んでやろうかー」
じと。
カグヤの氷のように冷たい視線が少年を貫く。
「どこ見てるのよ、産業廃棄物」
「とうとう廃棄物!?」
「永琳、ちゃんとそれ、法令にのっとって処分しておいてね」
「はい、喜んで」
「喜んでー!?」
とどめ。
真っ白に燃え尽きる少年。
「ぐう。……ま、まあいいや。今日もカードで勝負しないか?」
「勝負してあげてもよくてよ。今日も焼いた鉄板の上で土下座させて参りましたって言わせてあげるわ」
「したことないし! 死ぬし!」
仲はいいのだ。
永琳は、二人の後ろ姿を、刺すような鋭い目で見つめて、後を追った。
/*
学校というものに行ったのは、ほんの2年間だった。
学校の最後の思い出は、ただずっと謝ってばかりいたことだった。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
「もういいよ」
私がいつまでもいつまでも謝り続けるものだから、そう言うしかなかったのだろう。
本心なわけがない、と思っていた。ほんの少し前まで、ランナーとして将来を有望されていた子が、もう二度と競技場の上を走れなくなったのに、もういいなんて思うわけがない。
「いつまでも謝らないでよ。それで足が戻ってくるわけでもないんだから……」
私のせいだ。私のせいだ。
私が、間違えていたから。
私が壊してしまったから。
「ほら、歩くくらいなら何も問題ないし。ギソク、って言うんだって、これ。技術って凄いなあって感動してるんだ! 手足くらいならもう十分にとりかえがきくんだって……なんて、それくらいのことは知ってるよね」
キミが入院している間にお話はたくさん聞いたから。
このときにはもう、私は自分の「力」のことを、半分正しく理解していた。
たまたま、切り傷の治療痕に意識をこめて「いたいのいたいの、とんでけー」すると傷がすっかり消えていって、痛みもなくなったと喜ばれたのが最初のきっかけだったから、勘違いしてしまっていたのだ。
本当はただの、時間経過を進めてしまう力だったのに。手に触れるもの全ての時間を。意識すれば、なおさら早く進めることが出来る。逆に、どれだけ止めようと思っても、進めないことは、できない。
あの足の傷なんてそのまま普通に治療すればなんてことのない怪我だったのに。
治療もしないまま時間を進めてしまったから、切断までする羽目になった。私は一人の人間の未来を奪ってしまった。
そう――さらに後になると、まさしく奪ってしまったという表現が言葉どおり正解であると知ることになる。
どうして時間を戻すことはできないのか。悔しかった。何も知らないで軽率なことをしてしまったことが……悲しかった。
*/
涙。
頬を伝う熱い感触で目を覚ます。
また、昔の夢だった。今、この朝にこの夢を見るのは、必然とも言えるか。
ぼろり、と握り締めていた布団のカバーが崩れ落ちた。腐っている。寝ている間に変に力がかかってしまったか。もう布団も取り替えないといけない。
「私……」
ぼんやりと、呟く。
彼か、彼女か。
どっちの結果でもいいと思っている。――なんて言えば、それは嘘になる。
本当に覚悟ができているなら、とっくに選んでいてもよかったのだ。彼の選択が一番正しいのだろうから。きっと誰も困らない、誰も悲しまない、平和な結末。ただ、私が覚悟をすればいいだけ。
それに比べて、私が考えた道は、きっと多くの人に迷惑をかけてしまう。わがままだと思う。
結局、答えは出ているのだ。私は、私を傷つけたくないから、わがままを通す。大好きな永琳さえ巻き込んでしまう。
ごめんなさい。身勝手でごめんなさい。
もう、最後の答えを出すときがきたみたいだから。予感はしている。
永琳が言っていた。今日は特別授業の時間を作ったと。
もう一度浮かぶのは彼の顔だった。ごめんなさい。あなたのことも、本当は好きだったよ。
選択が終わったら、手くらいは握らせてくれるかな?
「蓬莱の薬――なるほど、禁断の秘儀ですね。これは、まさに」
永琳が取り出したその透明な瓶に、カグヤは息を呑む。
見た目には水となんら変わらない透明な液体がそこに入っているだけだった。
いや、事実、現時点ではただの水と変わらないのだと永琳は言う。
「これを完成させるためには、このままずっと置いておく、熟成が必要。そう」
永琳は、真剣な目でカグヤを見つめる。
「永遠に」
「私の力があれば、できる」
「そうですね。この瓶も、永遠の時間に耐え切れるはず。試したことはないから保証はできませんが。あとは、姫が、時間を進めれば」
「時間を『奪えば』、でしょ?」
カグヤは微笑んだ。
この、カグヤの能力の、残った半分の理解は、昔の事件よりさらにずっと遅れた。
カグヤは、手で触れるもの全ての時間を奪う。
奪った時間を、自分のために使う。ものを考えるときは、周囲の時間は何も変えないまま、自分の中で数倍の時間を使って考えることができた。ゲームでも、運動でも、その気になれば「世界が止まって見える」状態まで時間を圧縮することが出来た。それでいて、身体の老化は遅らせることができる。ことができる、どころではない。おかげで実年齢よりずっと幼く見える。
「こんな泥棒みたいな力を使って、何が天才なのよ。本当、昔の自分に呆れるわ」
「姫」
「大丈夫。もう、それを終わらせるから。そのために、作ってもらったんだから……」
躊躇はしない。
カグヤは、瓶を手に取った。そして、意識を集中させる。
瓶は見る間に黄ばんでいく。普通のガラス瓶なら、もうひびが入っていてもおかしくないほどに。
1分。
2分。
……3分。
瓶の中で、液体が青く輝いた。カグヤは瓶から手を離す。
「――完成したみたいですね」
永琳が呟いた。
かつて、薬の伝説と作り方がどこからか伝えられて以来、少なくとも月の住民は誰も見たことがないであろう、完成形の蓬莱の薬。製造方法は抹消されかけたが、一度伝えられたものを完全に消すことは不可能だった。だから、精製が法で禁止された。万が一にも、完成してしまわないように。
それでもなお、本当に完成させてしまうときが来るなど、誰も思ってはいなかっただろう。
「これが、蓬莱の薬」
「ええ。私たち、これで重罪人です。私は完成前のを作った時点ですでにアウトでしたけれど」
「これで……私は」
もう、誰の時間も奪わなくて済むのか。
カグヤは、祈るような思いで薬を見つめる。
時間を進める能力ではなく、奪って自分のものにする能力だと。
その違いを認識したことは、大きかった。
ならば、自分が永遠の存在になってしまえば、もう奪う必要は無くなるはずだから。
カグヤは、再び瓶に手を伸ばした。
それを、永琳が制した。永琳が、先に瓶を掴む。
「永琳……?」
「姫。新しい薬を、いきなり姫に試していただくわけにはいきませんわ」
「……永琳!? まさか」
蓋を開ける。
カグヤが手を伸ばしてそれを止めようとしたときには、もう、永琳はその中身を一口、口に含んでいた。
泣きそうな顔をしているカグヤに向かって、こく、と喉を鳴らして、永琳は優しい笑顔を見せた。
「――今日は、ダーツが私に当たったのですよ」
「ばか……! なんでよ……! 永琳、自分が何をやったかわからないわけがないでしょ!? 永琳は、永琳は、全然、こんな、私の問題なんて、関係なかったのに……!」
「落ち着いてください、姫。実験はこれからです」
「……!?」
永琳は、瓶に蓋をして、離れたところに慎重に置く。
そして、ポケットから別の小さな瓶を取り出した。そこには、黒い液体が満たされていた。
「近寄らないでくださいね。万一血液に混じってしまえば、即死です」
「やめて! 永琳、これ以上ばかなことしないで!」
「『動くな』」
「え……!?」
カグヤの体が、びくんと弾けて、固まる。
「な、なにこれっ……」
手足に力を入れても、まったく動かない。力が抜けてしまっているわけではない。まるで置物にでもなったかのように固まってしまったのだ。
「無礼を働いたことを、お許しください。安全のため、少し離れて見守っていただくことにしました」
「やだ……やだよ、やめて……」
「ご心配いただいて、ありがとうございます。でも、私は自信がありますから、大丈夫ですよ。姫を、殺人事件の被疑者に仕立ててしまうようなことはありません。――絶対」
瓶の蓋を開ける。
永琳は、ただ優しい目でカグヤを見つめる。
「一番楽に死ねる薬ですしね。見苦しいところを見せることもないと思います」
「やだ、いやだ、いやだ。実験なんていらない! 私の力がなくなったかどうかで試せるじゃない!」
「試すのは、私の仕事です」
くい、と。
永琳は、毒薬を飲んだ。すぐに、瓶の蓋を閉める。
「あ、ああ、ああああ……」
「すぐ、戻ります」
/*
あの時、私は今より無力だった。
「いたい……いたいよう……!」
泣き叫ぶ少年の足に、何も知らずただ、間違った「治療」を行っていた。
あの時、私は今より無力だった。
だから、少年は命まで奪われることはなかった。足だけで済んだのだ。今ほどの時間を進めることはなかったから。
私は、人殺しにはならずに済んだ。
今は私のわがままのせいで。
大切な人を殺してしまう。
*/
「ああ、痛いのは痛いのですね……」
まるで他人事のような言葉を残して、永琳は倒れた。
あっけなく。その言葉を最後に、息を引き取った。
「え……えいり……」
体は動かない。何か、壮大な冗談に騙されているような気がした。
しかし、本当の冗談は、このあとにやってきた。
カグヤの呆然とした言葉が終わる前に、永琳の体が瞬時に光って、光の粒になって、弾けた。
一瞬、そこには何も残らず、跡形もなく何もかもが消えた。ほんの一瞬。
次の瞬間にはもう、光の粒が集まって、また光って、少し前までと何も変わらない永琳の笑顔が、そこにあった。
「えい……永琳……!!」
「――服も一緒に再生するのは、面白いですね。裸を見られる覚悟もしていたのですが」
「永琳のばか! ばか! 何暢気に言ってるのよ……!! わ、私、どれだけ、どんな、う、あああ、ぅ……っ」
「ああ、すみません。挨拶を忘れましたね。ただいま、姫」
永琳はカグヤの頬に手を伸ばす。
冷たい手が、カグヤの頬を撫でる。
「実験は、見ての通り、成功です」
「……ばか……」
「泣かないでください、姫。次は、姫の番です」
「……!」
ぎゅ。
永琳は、カグヤを真正面から抱きしめた。
「しっかり見てくださいましたか? 姫。姫は、これを飲めば」
蓬莱の薬。
それを視線で示したあと、真正面から目を見つめる。
「私みたいな、化け物になります」
「そんなの……! とっくにわかってたわよ……! だから、永琳がそうなる意味なんて全然なかったのに……!」
「姫が不老不死となれば、国中がパニックになるでしょう。もちろん、もう姫ではなくなるかもしれません」
「わかってるってば! 覚悟なんてとっくにできてる! 誰にどれだけ迷惑かけても、私はこうするって決めてたの……もう、誰の時間も、命も、奪いたくなかったから」
木の家具だって使いたい。
花束だって受け取りたい。
好きな人の手くらい握りたい!
「――『動け』」
固まっていた体が動いた。
手では触れないように気をつけながら、永琳の体を抱き返す。
「それが姫の決断でしたら、私は何も後悔などしません。研究時間がたくさん増えて、都合がいいくらいです」
「……こんなときまで、強がり言うんだから……!」
「いいえ、本心です。私は今、とても満たされた気持ちですから」
そっと薬の瓶を、カグヤに手渡す。
カグヤは頷いて、瓶の蓋を開ける。
一口。永琳が飲んだ量と同じだけ、口に含む。
「……永琳」
「はい、姫」
「まずい……」
「ええ、私もそう思います」
飲んだ。これでもう、時間を奪って生きる化け物ではなくなった。永遠を生きる化け物に生まれ変わった。
口元を緩める。そして、笑う。
「やっちゃった」
「『実験』、しますか? ああ、私の体では実験の意味がないですね。私ももう永遠ですから。では、これで」
「永琳のサインペン」
「書いてみてください」
「うん」
キャップを開ける。
ノートに、ペン先を下ろす。
す、す、と手早くペンを動かして、離した。
「書けた……」
「おめでとうございます」
インクは乾いてしまうことなく、しっかりとノートに文字を残した。
「『人』ですか」
「ん……あ、うん、別に深い意味はないの。なんとなく思いついた単語だっただけ」
二人で、笑いあった。
幸せな時間。カグヤは、永琳の手をそっと握った。永琳は、優しく握り返した。
「手を握るのって、こんな感じなのね」
「次の宿題は、その感じを感想文にしてもらうことにしましょうか」
「幸せな単語だけでいっぱい埋めてあげるわ……!」
足音が遠くから聞こえた。どたどたいう勢いのある音ではない。踏みしめるように歩く音だ。
本当は走りたいのだろうに。カグヤは足音を聞きながら、ぼんやりと思った。
急ぐことができなかったもう一つの選択肢が、遅れてやってきた。
ばたん。彼は、ノックもせず、ドアを開けた。
「先生! まさか、バカなことやってないでしょうね……」
少年は、すぐに黄ばんだ瓶に目を止める。
大きく目を見開いた。ぎり、と歯軋りを立てて、顔をゆがめる。
「先生……!」
「ああ。私の日誌、勝手に読んだのかしら。悪い子」
「まさか、まさか……」
「――ごめんなさい。私は覚悟が足りなかったから、あなたを選ぶことができなかった」
「……!」
カグヤの言葉に、少年は驚きに目を丸くする。
そして、悲しい目で、カグヤの顔を見た。
「わかってた。あなたが一番正しいこと。私は、自分の立場を考えれば、そして本当にみんなの、そしてあなたの気持ちを考えれば、腕くらい失ってもよかったはずだった」
「……気付いてたのか」
「永琳が見つけてくれたの。永琳が持ってきた風邪薬に、違うものが混入しているって。あなたが何かしていたのも、気付いていたんですって。私ね、いつかあなたから仕返しされることは、わかってたの。私が風邪を引くように仕向けたのもこのためだったのかって。やっとそのときが来たのかな、って思った。でもまだ、考えは浅かったみたいね」
カグヤもまた、悲しい目で少年を見つめる。
「あなたの薬の正体が知りたくて、私、ちょっとフリをしてみたの。ねえ、私がちょっとだるい、って言ったとき、あなた、マッサージしてくれるって言ったでしょう。普通はだるいって言ったら、全身に疲れが残ってるくらいの想像をするものよ。マッサージなんて発想は出ない。なのにあなたは、あのとき……私の、腕を見てた」
「……そうだ。オレは、姫、あんたの両腕が麻痺して動かなくなる薬を飲ませようとした。そのまま放置しておくと、やがて全身に麻痺が回ってしまう毒だ」
「回避するためには、腕を切断するしかない――そうでしょ」
「……」
少年は目を伏せる。
もう完全に力は抜けていた。
「そうね。昔あなたが言ったことだったわ。手足くらいなら、なんとでもなる。義手をつければいいだけなのよ。そして、本当の両腕を失った私は、もう誰の時間を奪うことも無い」
カグヤは、永琳から手を離して、立ち上がった。
そして、ごめんなさいと言った。
「理想的な選択肢だった。でも私は、自分の手を失いたくはなかった。あなたの薬を飲む覚悟がなかったの」
だから化け物になる選択肢を選んだ。
わかりやすい話。
少年は、目を閉じて、拳を強く強く握り締めた。
爪が自らの掌を破り傷つけるほどに。血が腕を流れていく。
「勝手なこと言うな……オレはただ、復讐したかっただけだ。姫の都合なんてどうでもよかったさ」
「ごめんなさい。もう私はあなたの復讐を受け止めることもできない。どこまでも自分勝手なのよ」
「……はは……復讐なら、まだ、できる。オレは、禁断の薬を作らせた姫を訴えるだけでいい。もう姫が生きる場所はないんだ」
「――」
永琳が、動いていた。
瞬時にして、どこからか抜いた刃物の先が、少年の首の数ミリ手前を捉えていた。
「ぅ……」
「やめて、永琳。どの道、誰かにはバレることだし、訴えられることだわ」
「ですが」
「お願い」
「……わかりました」
刃を引いた。
その目は、少年を睨みつけたまま。
「ねえ、ユウ。たぶんこれで最後になるから、私のお願い、聞いてくれるかな」
「……! 今更名前を呼ぶな……!」
「手を、繋いでくれる? もう私、あなたの時間を奪うことはないから」
あの日以来。
少年の未来を奪ったあの日以来、彼の体には一切手を触れていなかった。
「なんでだよ」
「あなたのこと、好きだから」
「……! お……オレは……なんだよ! くそっ! オレは、姫のことなんか……!」
「ユウ」
カグヤは手を伸ばす。
「私の警戒を解く演技だったとしても、楽しく遊んだ思い出が作り物だったなんて、私は思わない」
「勝手な思い込みだ」
「それでもいいわ」
カグヤの差し出された手を見て、少年の目に動揺の印が浮かんでいた。
手を見て、目を見て、また手を見て、目を閉じる。
悔しそうに、悔しそうに、表情を歪めた。
「オレはまだ……これからを生きる」
くる、とカグヤに背を向けた。
「さよなら、姫」
開けっ放しのドアから部屋を出て、歩き去っていった。
カグヤは背中を見つめる。じっと見つめる。
走り去りたい場面だろうに。格好付けさせることもできなかった。背中が見えなくなってから、カグヤは、照れ笑いを浮かべた。
「ふられちゃった」
じわり。永琳の顔が、景色が歪む。
涙が零れる。
いけない。姫は泣いてはいけないと教えられているのに。
ああ、でも、今くらいはいいかな、とカグヤは自分を甘やかす。これくらいは許してもらってもいいはずだ。
こんなに悲しいのに、泣いてはいけないなんて誰も言わないだろう。
だから、泣いた。
思い切り、泣いた。
もうすぐ、こうして泣くときに胸を貸してくれる人もいなくなる。頭を撫でてくれる人もいなくなる。今くらいは、全身で甘えてみたかった。
弁護士は最高の仕事をしてくれたと思っていいのだと、永琳は自分に言い聞かせる。
そう、弁護士は悪くない。
決してカグヤの強制ということにせず、あくまで治療に必要なものだった正当な行為だと、姫の人権に関わる問題として争ってくれた。人らしく生きる権利は誰にでもあるという原則を武器に戦ってくれた。
見事、永琳は無罪を勝ち取った。
ならば同じ理論で姫も無罪を得ることもできたはずだ。
しかし、判決は非情だった。国のトップという立場にあるものが、自らの都合のために禁断に手をつけたことは決して許されないと。どこまで上っても、この判決が覆ることはなかった。
確かに正統な理屈ではある。それでも、判決の差に、政治的圧力を感じずにはいられなかった。
一度、無駄に姫を苦しめるだけの刑は実行された。――らしい、と、頑丈な檻の中で聞いた。
明らかに違法行為なのだが、永琳は、姫の裁判から処刑の実行時まで常にこのような形で拘束を受けていた。なるほど正しい判断だ、と永琳は自虐的に笑う。姫が今どこにいるかさえまったく知らされていないが、どんな手段を使ってでも探し出して逃げ出していたことだろう。どんな手段を使ってでも、だ。そのためなら何人だって、殺せる。
拘束から解き放たれたときには、姫はすでに手の届かないところまで流されたということを聞いた。
彼女が憧れていた場所に。――地球に。
こんなことなら、裁判など最初から受けず、やはりあのとき姫を攫って隠れておくべきだったのだ。
それを泣きながら止めたのが姫本人だったとしても。
胸が痛い。
「……先生」
「……ああ。久しぶりね、あなた。まだこんなところにいたの」
「オレは、あなたの弟子です。どこにも」
「どうして私を無罪にしたの」
「……何のことですか」
「あなたが、あの大臣に取り入ったんでしょう。わずらわしい説明はさせないで。どうして私を無罪にしたの」
「先生は、この国の今、そして未来にとっても、大切な人だから、です。誰もがそう思っています」
「そう。そんな理由なの。わかったわ、もう実家に帰りなさい」
「嫌です。オレは」
「二度言わせないで。あなたはもう私の生徒ではないわ。明日以降、あなたの姿を見たら、躊躇なく殺すから」
「……」
「私がまだ手を抑えられるうちに、逃げなさい」
ああそうだ。
不死身の体には、死刑は効かない。
だったら、死刑になるほどの重罪をもし永琳が犯したとすれば、どんな刑罰が待っているだろう。
遠い地球を見上げる。
「――私が、愚かな思いつきを実行に移す前に」
相変わらず面白かったです。
髪を撫でで上げたいとゆー伏線はバッチリ利きました
重い話でしたが面白かったですよ~
ただ、何故少年を登場させたのかがわかりませんでした。
ただ、やはり男性の行動言動の理由付けが弱いのか最後の弁護士あたりの流れは少々当惑しました。えーりんとユウの絡みがもう少しだけでもあれば個人的にはしっくりきたかも。
伏線はなかなかおもしろく、えーりんとてるよの絡みは個人的にはかなりツボでした。
文調も、メインの人物も。
それを補って余りあるものはありました。
ですがその分上手くまとめてある、とも言えます。全体としては興味深く読ませていただきました。