-何故、気付かなかったのか-
鈴仙・優曇華院・イナバは走っている。
無限の距離を走っている。
既に心臓も肺も限界を超え、吐き出す吐息一つ一つが、溶けた鉛のように喉を焼く。
だが、鈴仙の足は止まらない。
不意に痙攣する筋肉のせいで足がもつれ、顔面を板張りの廊下に突っ込ませる。
鼻っ面に走った激痛を無視し、流れた鼻血もついでに無視し、両腕を突っ張ってすぐに立ち上がる。
走る。走る。
鈴仙・優曇華院・イナバは、走る。
あの梟から、逃れるために。
-何故、気付かなかったのか-
-あの女は-
-蓬莱山輝夜は-
-月の姫などではない-
-そも、人ではない-
-人の形をしているだけの、梟の化け物なのだ-
時は少し、さかのぼる。
永遠亭はまさに永遠である。
永遠とは何か。
時間の静止である。
周囲を迷いの竹林に囲まれた永遠亭は、まず人の生活が放つ雑音というものから隔離されている。
下男下女がわりに飼われているイナバたちは騒がしいといえば騒がしいが、二足でちょこまかと動き回る兎の仕草には、煩わしさよりも先に幻想郷らしいお伽の色が香る。
高く伸びた竹林は、酷暑の日光を、薄絹でくるむように和らげ、初夏の色合いに変えている。
竹林を通る風は、人里のむっっとした温気とは対照的に、風鈴でも聞こえてきそうな涼風。
永遠亭は、真夏の外界から完全に切り離されていた。
じりじりと尻長に沈む夕日の色も、昼と夜の境界を隔てて紫紺。
薄くラヴェンダーに染まった世界は、まさに静止していた。
別に意図して作り出した光景ではない。
外の世界では切り捨てられるあらゆる不可思議の萃まる幻想郷という場。
長き旅路の果て、そこに住を取った死なずの姫とその側近。
月から、人から逃れるために選んだ迷いの竹林。
それらの原因が絡まりあって、この風景を生んでいるのだ。
そんなことを問わず思いながら、夕日が一寸、一寸、また一寸と沈んでいく様子を、鈴仙は縁台に腰掛つつ眺めていた。
紅い瞳には、特になにが視えるというわけでもなく。
長い耳には、特になにが聴こえるというわけでもない。
月より逃げ、輝夜の気まぐれで保護されて以来二十余年。
逃亡の日々では得られなかったこの永遠を、鈴仙は気に入っていた。
ふと気付けば、縁台には笹葉の茶と羊羹が置かれていた。
イナバたちは本質的に移り気で自分勝手だが、たまにこのように気を効かす。
笹茶の渋みを、手製で形の悪い羊羹の甘みで打ち消しつつ、じり、じりと沈む夕日を眺める。
ざざざあ、と。
迷いの竹林が鳴いた。
静止しているようにも見えた永遠は、その実永遠ではなかったらしい。
羊羹の甘さを笹茶で飲み干すころには、すでに周囲に日の気配はなかった。
あるのは、夏の夜である。
永遠亭の周囲には樹液を啜れる樹が存在しないため、蝉は鳴かない。
盛夏とはいえ、いずこにも気の速い輩はいるようで、藪からかすかに秋虫の鳴き声が響いてきた。
紫紺から黒へと色を変えた空には、地上の熱気にあぶられ霞む、下弦の月。
満月でなくてよかった、と鈴仙は思う。
弱弱しい秋虫の演奏を背中に聴きながら、鈴仙は立ち上がる。
今日はいい日だった。
心静かに日を眺め、夕暮れを楽しみ、夜を見つめた。
そんな日に、満月など見てしまったら。
思い出してしまう。
逃げ出したことを、見捨てたことを、傷付いたことを、思い出してしまうのだ。
ゆえに、今宵が満月ではなくてよかったと、鈴仙は思った。
流しに茶と皿を置いたところで、イナバの一羽に呼び止められた。
姫の私室に、服を届けて欲しいとのことである。
ふうむ、と一瞬唸ってから、鈴仙はそれを引き受けた。
蓬莱山輝夜の私室は、永遠亭の中でも最も奥まった座敷にある。
平安初期のつくりを色濃く残す永遠亭でも、もっとも時代が匂う場所である。
輝夜は気難しいわけでもわがままというわけでもないが、少々、遠い。
月人という出自ゆえか、姫という育ちゆえか。
日々呑気に馬鹿馬鹿しく過ごしているイナバとも、性質の悪い悪戯ばかりしかけては意地の悪い笑みを浮かべているその頭領とも。
そして地上唯一の月兎である鈴仙とも、どこか違う品の高さがあった。
それはもちろん尊敬の対象なのだが、同時に気安さからは遠い。
自然、イナバ達の足は、奥座敷から遠のくことになった。
地上に落ちた際に命を救われ、ここ永遠亭を住まいとするよう命じられた鈴仙は、それに比べれば近い、のだ。
どこで手に入れてくるのか、上質の絹で仕上げた蒼衣を両手に抱えながら、鈴仙は永遠亭の廊下を行く。
月からの追放者である輝夜は、月光を嫌った。
故に永遠亭の窓は小さく、廊下はひどく暗い。
奥座敷に続く長廊下は、先に語った理由で人通りが少ないため、行灯をともすことも珍しい。
深い夜が広がる廊下だが、鈴仙の紅い目にはさほど妨げにはならなかった。
きしし、きし。
板張りの廊下を鳴らせながら、鈴仙・優曇華院・イナバが奥座敷へと進む。
奥座敷は、薄く金泥を散らした大きな襖(ふすま)で仕切られていた。
腰を落とし、息を一つ、吸う。
「姫様、お着物の替えをお持ちしました」
邸の主に面を通す当然の礼儀として、低頭したままの礼。
が、返事はない。
しん、と。
永遠亭の中に救う闇と永遠が、輝夜の声を吸い取ってしまったかのように、奥座敷は静まり返っていた。
鈴仙は一瞬悩んだ後、襖を開けることにした。
このまま帰っては日々の業務に支障をきたすし、かといって服だけ置いて帰るのも無礼の極みだ。
少々失礼だが、ここは内に入ろう。
事情は解らないが、輝夜はイナバたちが感じ取っているよりもはるかに柔らかい人物である。
それは、文字通り月から落ちた自分を拾い上げてくれたときから、身に染みていた。
思えば、この鈴仙の思慮深さと、人を信頼する優しさこそが。
ここからの黒く深い夜を、生み出すことになるのだが。
運命が読めぬのは人も月兎も同じである。
するするとすり足で、音も立てず鈴仙は迷いなく、奥座敷を行く。
座敷と言っても、並みの民家よりはるかに巨大である。
小間、書斎、物置、居間。
人が居住するために必要な施設は、一通りしつらえてある。
ぼう、と淡い行灯に導かれるように、奥座敷のまた最奥、輝夜の寝室まで、鈴仙はたどり着いた。
途中途中で探っては見たものの、輝夜はおろか、その側近である八意永琳も見当たらなかった。
同じ月人として、永琳はまさに輝夜の腹心である。
輝夜の意は永琳に伝えられ、それを永琳は弟子である鈴仙に教える。
鈴仙は一応部下ということになっているイナバの長、因幡てゐに意を通達し、てゐが因幡の指揮を取る。
イナバ達の考えが輝夜に届くためには、この逆の過程をたどればよい。
おおむね、このようにして永遠亭は動いていた。
つまり、輝夜という主にたどり着くときにはかならず八意永琳を間に挟むのである。
それが、側近というものであろう。
益体もない思考を、小さく頭を振って飛ばす。
他のどこにもいない以上、輝夜はここにいる。
「姫様、入りますよ」
やはり、返事はない。
だが、鈴仙は扉に手をかけ、静かに開けた。
白い木の枝に、女が生っている。
そう、見えた。
行灯は左右に二丁、竹御簾は乱れて開けており、寝室の様子は鈴仙の眼球に容赦なく飛び込んできた。
奇妙な樹木である。
実に当たるのは銀髪の女。
枝に当たるのは白き繊手。
幹に当たるのは緑なす黒髪。
古ぼけた椚(くぬぎ)から硬く黒い表皮が剥がれ落ち、内の木肌が見えるかのように。
緋の着物が見え隠れしている。
絞殺されている女は、高く高く掲げられていた。
蓬莱山輝夜の背はそれほど高くない。
対して、八意永琳はなかなかに立派な体格をしている。
自然、少し見上げる程度の身長差が二人にはあるのだが、それを無視して輝夜の手は高く高く、月でも握りつぶすかのように掲げられ、永琳を吊り上げていた。
かぎに曲げた両手には異常な力が篭っているのか、猛禽の爪にも似ている。
ゆらり、ゆらり。
風にゆれる風鈴のように、永琳の足が泳ぐ。
かつて、鈴仙は永琳自身から習った事柄があった。
素手で絞殺された死体は、死ぬまでに時間がかかるのでひどく暴れ、苦悶の表情を浮かべるのだと。
ならば、なぜ。
八意永琳は、微笑むように死んでいるのか。
その瞼は静かに閉じられ、口元に苦悶の色など欠片もない。
白皙に一滴紅を落としたような頬には、悦楽の色が透けて見えるではないか。
だらりと落ちた両の腕はひどく閑かで、着衣には一筋の乱れもない。
正しく、植物的な死体であった。
そして、樹が動いた。
枝は白の手、幹は黒髪。
かすかにのぞく着物からは、こちらに背を向けているのだと判別できる。
だが、なぜ。
何故、そのくびがぎりぎりときしむようにゆるり、と曲がるのか。
黒髪が慣性の法則にしたがって、行灯に照らされた室内を泳ぐのか。
人の形をしたものにはありえない可動域で、鈴仙を視界に捕らえるべく振り返ってくるのか。
鈴仙は動けない。
動く、ということすら考え付かない。
心には空白が広がり、自動機械のように定期的な呼吸を繰り返すだけだ。
何が起こっているのか。
目には移っていても、理解はしていない。
そんな心理に、金色の光が刺さった。
輝夜の首は奇妙な動きでねじれ、ついに背後の鈴仙を捉えた。
その瞳。
常のように、玄玉のごとく黒い。
だが、常ならぬ光がそこにはある。
金色。
一年に一度あるかないか、大気の都合で満月が狂ったように光り輝くときにも似た、鈍く光る色合いが輝夜の瞳の底に宿っている。
ぎらり、ぎらり。
黒い虹彩に押し込められ、しかしその勢いを殺すことは出来ない光が、漏れ出している。
金色。
狂いの月光。
それが、鈴仙の空白に、刺さった。
「ほう」
輝夜が鳴いた。
唇の端は軽く釣りあがり、気品のある微笑みの形だった。
その時、ようやく鈴仙は理解したのだ。
異常に捻じ曲がった首、幾重にも重ねた黒と緋の羽毛、闇に耀く金色の眼、微笑に似た鋭い嘴。
あれは、梟だ。
兎を食し、夜を飛び、林に篭るマガツの鳥だ。
なんという思い違いか。
蓬莱山輝夜は、梟の化け物だったのだ。
そして、時間は先に進む。
結局、鈴仙・優曇華院・イナバはあの夜をなかったことにした。
記憶を弄れるわけでも、歴史を食えるわけでもない。
あれは、波長と狂気を操る自分の能力が見せた、真夜中の幻影。
いつの間にか帰っていた寝所で、目覚めたときにそう決めたのだ。
もちろん心に不安はある。
だが、ここ以外にいく場所はなく、ここ以外にいくつもりもない鈴仙にとって、昨夜の梟の記憶は、抱えるに重すぎた。
ならば、忘れるしかない。
見なかったのだ。
もしくは、見たとしても幻なのだ。
そう思い込み、それを助長すべく、いつも以上に働いた。
イナバ達は鈴仙の奇妙な張り切りぶりに首を捻ったのが、兎ゆえに深く気にはせず、むしろ自分の仕事が減ったことを素直に喜んだ。
ふぅ、と息を吐いて、縁台に腰を下ろす。
笹茶は変わらぬが、菓子はひょうたんを模した干菓子になっていた。
イナバの一人に、菓子造りに凝っているものがいるのだろう。
砂糖の洗いが巧くいっているのか、干菓子は雑味の弱い、上品な仕上がりだった。
それを口の中で転がしながら、鈴仙は一寸、一寸、夕日が沈む風景を眺めた。
昨日と同じように、一息ごとに夜空は紫から紫紺へと色を変えていく。
秋虫がどこからともなく鳴いていた。
いつもの永遠であり。
やはり、昨日の”あれ”は幻だったのだ。
「ねぇ、イナバ」
鈴音が、夜を切った。
背後からかかった声は、鈴仙のよく知るものである。
鈴仙は振り返らない。
振り返りことを、体が拒絶していた。
「昨日届けてくれた着物、なかなかよろしくてよ。蒼はあまり好みではないけれど、これはいいわ」
梟の羽は生え変わる。
絹の黒髪は変わらずとも、合間に見えた色は緋から蒼に変わっているのだろうか。
どくん、どくん。
心音が乱れ、喉が渇く。
息を整えなければと意識すればするほど、呼吸が乱れた。
「それで、昨日のことなのだけれども」
きし、きし、と。
板張りの廊下を鳴らして、梟が近づいてくる。
逃げるべきなのか、それとも振り返るべきなのか。
体が動かない。
そも、梟は風きり羽の周囲を柔らかな羽毛が覆っているから、音など立てず歩けるではないか。
獲物に恐怖を与えてから食すのが、化物の礼儀なのか。
梟の静かな歩みを教えてくれたのは、誰だったか。
あの時、死体になって、木にぶら下がっていた女ではなかったか。
梟の化け物に捕らえられた、八意永琳ではなかったのか。
「聞いている、イナバ?」
するり、と。
輝夜の顔が、回り込むように鈴仙を覗き込んだ。
瞳と瞳が通う。
黒の奥に耀く月光が、乱れに乱れた心に突き刺さった。
顔面に石でもぶつけられたような衝撃。
そのまま、鈴仙・優曇華院・イナバは意識を手放した。
最後に思ったのは。
やはり、幻ではなかったと。
そのようなことだった。
「……」
縁台に腰掛けたままの鈴仙にいらだって、覗き込んでみれば突然気を失ってしまった。
目と目が合った瞬間、大きく開かれた紅い眼が思い出される。
口元は恐怖に引きつり、視線には分厚い恐怖があった。
「永琳」
「はい」
するり、と。
夜の闇を縫って、赤と青に分けられた衣が現れる。
八意永琳。
輝夜直属の薬師にして参謀であり、ともに千年を越えるときを抜けてきた無二の存在である。
「適当に薬を見繕って、なかったことにして頂戴。このままでは、イナバは壊れてしまうでしょう」
「はい。……やはり、ばれると面倒でしょうかね、姫」
「そういうわけじゃないわ……」
あの時、永琳の首を絞めたのは、特に理由があってのことではない。
死なずの命運に飽き果てていた五百年ほど前に話が飛び、そういえばあなたに殺されましたね、などと永琳が言うので、なんとはなしに絞め殺してみただけだ。
戯れに過ぎない。
だが同時に、不死人の戯れは、常人にとっては異形であることも、輝夜は理解していた。
鈴仙は月兎とはいえ、心は自分達などよりよほど人に近い。
その脆い心で受け止めるには、いくぶんか衝撃であったのだろう。
別に、ばれて困ることではない。
輝夜にとって、それは本心である。
なにも、首を絞めれば死ぬイナバや人間で戯れよう、というわけではないのだ。
永琳以外を殺すつもりは、毛頭ない。
否。
死なぬものを殺すことは、果たして殺人といえるのか。
正当化するつもりもなく、万言を費やしても理解してもらえるわけがないことはわかっていたが、輝夜の内では理のあることなのだ。
だから、ばれて困ることではない。
ただ、鈴仙がこのまま壊れてしまうのは、なんともやりきれなかった。
運命など信じぬ輝夜であったが、鈴仙が月の罪人である自分を頼ったのは、やはり縁というものだったのだろう。
イナバ、などと他の妖怪兎にからげた呼び名をしているが、そのときの気まぐれとはいえ、月人に位置を知られるリスクを背負ってまでかくまったのは、心通じうる物があったからだ。
一言でまとめるのなら。
蓬莱山輝夜は、鈴仙・優曇華院・イナバが、それなり以上に好きなのだ。
気を失い、永琳に抱えられて闇に消えていく鈴仙を見ながら、輝夜はそんなことを思った。
月は下弦、なんとも静かな夜だ。
幻想郷に流れ着き、てゐと取引して因幡を囲い、竹林に迷いの術をかけた。
永遠亭は、輝夜が作り上げたのだ。
人里の騒も、盛夏の熱も、ここまでは届かない。
いい夜だ。
鈴仙が戻れば、また永遠が続くのだろうと、輝夜は思った。
永夜異変勃発は、この夏が過ぎた後、中秋の名月になる。
誤字ですよ――。
ああ、フクロウってそう言う意味でのフクロウか。
という価値観の食い違いがとても上手く描写されていると思います。