参、表意と深層と肉体
守矢神社本殿は薄暗く、立派に設けてある祭壇以外は大した物はない為、神社であるのに伽藍としていた。洩矢諏訪
子と八坂神奈子は二柱、何を話す訳でもなく氏子の持って来た酒をちびちびと飲み、静かな時間を過ごしている。
非常に奇妙な関係の二柱である。本来ならば敵対して然るべきの立場であるのに、二柱にそんな緊迫感は些かもない。
長い月日のなせる業……といってしまえば簡単だが、実際さらに簡単である。諏訪の土着神、洩矢諏訪子は、建御名
方を祭上げる巫女八坂神奈子の侵略を受け入れ、全てを明け渡したのだ。月日など無くとも、最初から殆ど敵対してな
ど居ない。
呪力勝負と銘打って、諏訪子は鉄の輪、神奈子は藤の蔓を用いて戦争の前哨戦を演じたのだが、諏訪子はここで降伏。
無血開城のあっけないものだった。
これを良しとした神奈子は諏訪周辺を牛耳ろうとしたが、諏訪子に対する畏怖が大きい地での建御名方普及は容易で
は無く、致し方なく、諏訪子の威光を借り、表向きは建御名方と巫女の神奈子を、実質は諏訪子が支配する、と云う異
形の形での諏訪地の統治となった。
建御名方を信奉する巫女たる神奈子は神格化、後に建御名方の嫁と云う立場として神にならび、信仰心によって人で
はなくなった。以来千数余年。諏訪子と神奈子は、奇妙な同居を延々と続けている。
その二柱は、今となって話す事もない。変わり映えの無い毎日を、諏訪子は気楽に、神奈子は信仰心の薄れに焦りな
がら暮らしているのだ。
……そんな二柱だったが。
「……ねぇ、諏訪子ちゃん?」
「なぁに。神奈子さん」
神奈子は口を開いた。いつもなら、ただ二人で酒を飲んで神奈子は湖に戻るのだが、今日は違う。
「実はね、早苗が困っているの。転位結界を張るのに必要な土地神が、現世を離れないときかないらしくって」
「それで?」
「私の威厳では動かせないの」
諏訪子は眼をパチクリさせて「ほぇ?」と首を傾げる。何を言っているか解らない、といった様子だ。
「だから、私の名前を出しても、その神は動かないの」
「あぁー。土着の神は頑固だからぁ。八坂刀売に土地を明け渡すなどとんでもないって最後まで反対したヒトかな」
「そうなんですの? でも、貴女が一声掛けてくれれば、きっと動くわ」
「そうかなぁ。どうかなぁ。わからないなぁ」
「……このままでは、出雲からの使者が来る。成るべくなら、その前までに幻想郷へ移転したいの」
「嫌味たらしくて苦手なのよね、出雲の人たちは」
「そう。だから、一声掛けてくれるだけでいいの。その土地神、一柱だけに、早苗はもう一ヶ月交渉してるわ」
「早苗、頑張るね」
……のらりくらりとかわす諏訪子の言動に、神奈子は頭をぽりぽりと掻いて表情を濁らせる。我関せずを容認した過
去があるのは、神奈子の失敗であった。
「干渉しなくていいと言ったのは私。これは、謝るわ。だから、お願い」
「――都合が良いよ。神奈子は勝手なのね。私は別にこの地を離れようと離れまいとどっちでも良い。私はこのまま
信仰心が消え失せて、自分が消えるのもまた、運命だと思う。だって、私は自然神。人が自然にカミが在ると信じたか
らこそ存在するの。元が人間で巫女の貴女だって解るでしょう? 信仰の消滅は、神の自然消滅を示す。それはカムナ
ガラに通ずるわ。あるままに。私は、自然神なのだもの」
「でも、意思があるわ。意思があるなら、生きる権利もある。だってまだ生きているのよ?」
「そうね。でも、私は別に消えても構わない。神が必要とされなくなったのなら、必要とされないその世界こそが新
しい神なのよ。生きる事に固執して、世界の神と対峙したくはないわ」
「また不戦思想ですの? 貴女は本当に変わらないわ」
「その不戦のお陰でこの地を手に入れたのは、貴女」
……元から神である者の”諦め”の思想は、強すぎる。人間としては最低最悪の思想であるが、自然発生した神から
すれば、在るも無いも同じ。色即是空の体現である。他の神々は違うにしても、諏訪子はその考えが強い。
当然、神奈子とて弁えている。長い付き合いなのだ。諏訪子の考えている事、話す事、その意味も全て弁えているが、
しかし。神奈子は諏訪子ではないのだ。どれだけ理解していようと、同調などはしてあげられない。
「……あら、意外と根に持っているのね」
「え。あ、違う違う。今の話に準えて、例を出しただけ。私はどうでも良いの」
「どうかしら。洩矢の祟神が、そんなに淡白であるとは、思えないのよね」
「……私はミシャグジの総体。私を構成する一部が祟神としての性格を表しただけ」
「ならどちらにせよ貴女の意思なのじゃない。やっぱり信仰心は欲しいわよね?」
「どど、どうしてそんな話になるのよ? 私はあるままを受け入れるの。信仰心は貴女にあげるわ」
「つまり私と貴女は、そういう意味で表裏一体って事よね?」
「そ、そうねぇ」
「じゃあ、私の意思も尊重して頂戴な。私は幻想郷に移って、諏訪明神として返り咲くの。だから協力して」
「えぇ!? ゆ、誘導尋問よぉ」
「こんな質の低い誘導に引っかかる方が悪いのよ。おほほ、昔から甘っちょろいわねぇ。ほれほれ、甘いでちゅねー」
「こ、このセクハラ神……あ、あ~う~」
…………。
甘いのは腋ではなかろう、と諏訪子は思ったが、神奈子は諏訪子に覆い被さり、それを責め立てる。神聖なる本殿で
女性同士戯れるのは不敬なのだろうが、そもそも祭ってあるのがこの二柱である。不敬を犯しては為らぬと云うなれば、
それ以上説得力のある理由を用意せねばなるまい。
「はひ、く、くすぐったい、か、かなこ、やややめ……」
「どう? どうなの? ここが弱いの? だらしないわねぇ。口の端からヨダレまで垂らして……ふふふふふふふ」
「ど、どーしたら、あひゃひゃ、はひ、やめるのよぉ」
「ハイ手伝いますって一言言えばいいのよ、この頑固神」
「嫌」
「ならば信仰が無くなって消え失せる前に、笑い死んで消え失せなさいっ」
「んひひひひっ、やぁめてよぉ~……あひゃひゃひゃッ!!」
「ふふ……顔真っ赤にしちゃって……本当に素直じゃあないわねぇ……くく、嗜虐心がそそられるわ……ん?」
調子に乗っていた神奈子がこれから更に盛り上がろうとして腕まくりをしたところで、何かに気が付く。その隙に逃
げだそうとした諏訪子も、本殿の出口でピタリと止まった。
(誰か来たわ)
(何で声小さくするのよ? 誰も見えないし聞こえないでしょうに)
(な、何となくよ。諏訪子、そっちに隠れて)
(えぇ……もう……はいはい)
日も暮れて大分立つと云うのに、本殿まで足を運ぶ人間などそうは居ない。居たとしても、たまたま掃除に来た家人
か、神主か。
(誰、神奈子)
(あれは……早苗の母。もう一人来たわね……父だわ)
双方共二人の姿は見えないので、二柱は緊張を解除して、本殿の出口をすり抜けて近づく。
(拝殿抜けてこっちに来たなら、何で掃除道具の一つも持ってないのかな?)
(さぁ)
二柱は何かしら話始める早苗の両親の直ぐ傍まで来ると、腰を降ろしてそれを観察する。
「一体本殿まで呼び出して、どうしたっていうんだ」
「家の中ではお父様とお母様も居るし、早苗が聞き耳を立てるかもしれないから」
「……まぁ、ここならよっぽどの事が無い限り、こんな時間には誰もこないだろうからな……それで?」
「……ここ数ヶ月、早苗は夜に出歩いているでしょう? 何故注意なさらないのです」
「あの子は神が観える子だ。あの子が神託と言うのなら、それは神託なのだろう」
「で、でも。毎晩長い注連縄と、祭具一式を持って出て行くのですよ。まさか、外道とか」
「馬鹿をいいなさい。お前はあの子を、外道に走るような子に育てたのか?」
「……いいえ。けれど、その……最近、早苗が冷たくって……」
(……神奈子のせーだわ)
(そうよ。悪かったわね)
「確かに、そんな節はあるな……」
「あの子は、誰よりも優しい子です。自然を愛しているからこそ、人を愛しているからこそ、御力を授かっているの
です……」
「……お前のその言葉は、どこまで本心だ」
「……」
「分家の俺が言うのもなんだが、お前は神の存在を疑っている。娘の力を見ても、まだ」
「……だ、だって……た、確かに、あの子は不思議な力がありますけれど、か、神など……形式であって……」
「あの子は、お前に信じて貰いたかったんだろう。何より、母に。先代の神長官に。お前は物事をはっきり言わない
だろうが、あの子は頭が良い。いわずとも悟っている」
「け、けれど……観た事もないモノを信じるのは、狂気です」
「狂って娘の信用を勝ち取れるなら、安いものだ。別にカルト宗教でもあるまいに。古式ゆかしい、諏訪信仰だぞ?」
「……はい」
「お前の気持ちも解らんでもない。でもあの子も多感な年頃だし、進学についてもピリピリしている。母のお前が感
じとってやれずにどうする……。取り敢えず、俺からも話しておくから、お前も少しは娘を信用してやれ」
「……ごめんなさい、彼方」
「気にするな」
…………。
早苗の母は父に肩を抱かれ、母屋に戻って行く。その場に残されたものは、重苦しい空気だけであった。
(……早苗……)
(親に疑われたら、そりゃ冷たくもなっちゃうわよねー)
(……あのね諏訪子。あの母もあの子も、貴女の子孫でしょうに)
(うぐぐ……神奈子はいつも痛い所を……)
(これでも、手伝ってくれないかしら。あの母は結局、あの子を信じてはあげられないわ。あの子は幻想なの。幻想
は幻想で生きるべきだと、私は思うわ)
(そうかしら……。それは、逃げではないの?)
(認められない、信じて貰えない。そんな存在は、生まれる場所を間違えたとしか、言いようが無いのよ。赴くべき
場所があるなら、行くべきであるわ)
(では、貴女も私もそうなのかしら? 生まれた場所を間違ったの?)
(訂正するわ。望まれない時代になったのよ)
(そうね……)
栄華への固執。
千数百年崇められた神奈子は、矢張り取り戻したいだろう。しかし現世で復興を遂げる事は……精神文化を斬り捨て
た現代人が蔓延る限りは難しい。世界が一度滅びでもしない限りは、二度と訪れない。
文明が廃れ、人がまた何も無い状態の一から生きるなれば、アニミズムがまた新たに信仰され、神奈子も諏訪子も自
然とその中から湧出する筈であるが、それが一体何時なのかなど、神すらも知れない。
なれば、今目の前にあるモノを手にすべきだ。幻想となったものが吹き溜まる、最後の楽園へ行く事。幻想郷の導き
手もまた公認である。この機会を逃し、力の強い早苗が年老いていなくなってしまったら、もう手は届かないのだ。
神奈子は自分の私利私欲を否定しない。だが、これは早苗の為でもある。
「あの子は今後も、自分を覆い隠して生きるのかしら。いいえ違うわ。幻想になって、のびのび生きるの」
「……早苗は人だよ。崇められて神になる事は無い。もう、そんな世ではないから。だから、現実を見せるべきだと
思うわ。神奈子、貴女は早苗に優しすぎるし、強制しすぎる」
「……大事な、巫女ですもの」
暗がりから、空を見上げる。星は瞬き、月もまた太陽の力を借りて、月光を振り撒いていた。神無月は近く、このま
までは出雲へ旅立たねばならない。
もし幻想郷へ移住する計画がバレていたならば、国津神々は絶対、諏訪明神の移住を認めないだろう。尖兵が現れ、
厳重に監視するに違いない。
「いやはや、お噂通りですね」
……そう。バレたのならば、この地を脱出する事叶わぬのだ。
「今日はお客さんが多いわね」
「……おひさしゅう。八重事代主(ヤエコトシロヌシ)で御座います」
ぼぅと闇に紛れ、光のぼやけた柱が、二柱の前へと現れる。神奈子は舌打ちし、諏訪子はその後ろに隠れた。
「御義兄さん。ずいぶんといやらしい現れ方をしますのね」
「……いやらしい計画を企てていると聞き及びまして、使者より先にご様子をお伺いに参りました次第。八坂刀売神
様。弟をお捨てになられるおつもりですか」
今にも消え入りそうな光が、二柱を取り囲むようにクルクルと回る。それは一つではなく、一周する毎に二つ三つと
増えて行く。八重事代主。大国主の子であり、神奈子が諏訪侵攻の為に祭上げた建御名方の兄弟である。
「貴方直々に来るなんて。よっぽど大国主は焦っていらっしゃるのね」
「人の信心が亡くなって久しく。我々も必死で御座います。今、諏訪の明神様がお隠れになられたら、ますます人心
は消え行き、我々も消えてなくなりましょう。それでも明神様はお隠れになられると仰るのですか」
「……天神地祇、須らくあるままによ。事代主」
神奈子の後ろから顔を出した諏訪子がそう呟く。その言葉は威厳があり、また否定出来ない言霊が含まれていたが、
事代主はまるであざ笑うように、クルクルと回る速度を速める。
「おおこれは、洩矢大神であらせられるではありませんか……貴方も八坂刀売神様に説いてはくれませぬか。信仰あ
っての我々八百万であると。天神地祇すべからく人の心より出でし尊き概念であるのだと……」
「この地に残る事も、去る事も、私は否定も肯定もしないわ。カミは人が欲する時のみ出もの。必要とされないのな
らばそれもカミの行く末。私は何処にも、固執はしない」
「……木端が良く言う。戦いもせずひれ伏した土着めが……」
光の珠は二柱を正面にしてピタリと停止する。交戦は避けられないと悟った諏訪子は即座に引いて優位に戦えるよう
体勢を整えるが、間に神奈子が割って入った。
その眼光は鋭く、神のその先を見通すような力が滲み出ている。八重事代主は『無い顔を気まずそうに歪めて』数間
ほどふよふよと下がる。
「例え信仰衰えようとも、貴方一人消滅させる事など、造作もない。我友人を罵った事を謝罪なさい。でなければ、
この場で蜂の巣にして結界で丁寧に梱包して熨斗つけて、出雲に送りつけてやる」
「おお、恐ろしや……諏訪明神は何時から祟神になられたのです」
「謝罪するのかしないのか」
「宣戦布告と受け取って宜しいのでしょうか」
「――所詮頭だけか。貴様とて大和の神に戦いもせずひれ伏した分際で。失せろ」
(軍勢は直ぐにでもお出でなさいますぞ……努々お忘れになられぬよう……)
光は集束し、飛翔したかと思えば星に隠れるよう紛れて消えていった。神奈子は、緊迫した面持ちの諏訪子の肩に手
をかけ、本殿の中へと導く。今晩はもう訪れはしないだろうが……状況は悪化した。
予想外である。今年が駄目なら来年でも構わない、と大きく構えていた神奈子だったが、何時の間にか内通されてい
たらしい。もし、神奈子に諏訪全土を完全掌握するほどの信仰心があったのならば、このような事態には陥らなかった
だろうが、如何せん、神奈子の考えは一時代遅れていたと言わざるを得ない。まだある、まだ手が届いていると過信し
ていたのが原因だ。
出雲の神々となぁなぁに付き合ってさえいれば防げると思っていたその軽薄な考えに、神奈子は自己を嫌悪する。し
かも状況は悪化した。何せ雨風の他に、諏訪の神格は軍神である。それなりに好戦的であるし、友人を罵られたのなら
黙っていられるほど気も長くは無い。
「ごめんなさい。お話を合わせばよかっただけなのに」
「諏訪子は何も悪くないわ。何時までも信仰に固執する彼等が悪いのよ」
その発言は、確実に自己矛盾である。解っては居たが、そうとしか答えようが無い。神々は焦っているのだ。長い信
仰の栄華を失い始めている事実に。もう天津神々も大分隠れてしまっている。中には月に行った者すらいるとの噂であ
るし、確実に神も人も、乖離が激しくなっていた。
自然としての、土地としての性質の強い国津神々は、やはりその場所を動きたくはない。神奈子もその端くれであり、
諏訪子はそのものである。誰も、好き好んで生まれ育ち崇め奉られた地を離れたくはないのだ。
責任は何処にあるかなど、もはや意味はない。時代であるし、神であるし、人である。
「……それに諏訪子、貴女は関わらないと決めていたのだから、あれは当然の答えよ」
「……」
諏訪子は帽子を脱ぎ、それをどうするでもなく、ただ弄る。裏返してみたり、中に手を入れてみたり、回してみたり、
これといって意味はない。ただそうしていないと、手持ち無沙汰で、気まずくて仕方が無かった。
仕方ない、と神奈子は神酒を取り出し、盃に酒を注ぐ。だが諏訪子はそれを否定し、帽子を差し出した。
「……」
これにくれ、と云うことだったか。流石に帽子へ注ぐ訳にも行かないので、一升瓶ごと渡すと、諏訪子はすぐさま平
らげてしまう。
「神奈子」
「何」
「……戦うのは嫌だわ」
「そうね。出雲の信仰は、うちと同格かそれ以上。大半の神も、出雲にはお伺いを立てているでしょうから、絶対的
不利ではあるわね」
「でも、このまま神奈子がこの地に縛られるのも……良くないわ」
「……諏訪子? だって貴女、あるままにって……」
諏訪子はスッと立ち上がり、数歩歩いて床板を蹴飛ばす。中から現れたのは、一年飲んで余るほどの酒である。
「……飲みましょう。でもこれは現実から逃れる為じゃあなく、火を要れる為のお酒」
「……戦うの?」
「神奈子が幻想郷へ行くっていうのなら、やはりそれもカミが思ったままの業。故に、あるままにでしょう」
「……」
当然、神奈子と云う一部分を扱っただけの、都合の良い解釈だと、二柱とも理解している。しかし、このまま戦わず
して神奈子が消え行くまで地に縛り付けられる事を、諏訪子は良しと思ってはいないのだ。本来の意味のあるままにを
受け入れるのは、自分だけで十分であると、諏訪子はそう言いたかった。
「私と神奈子が作った土地ですもの。今更干渉されてたまりますか。守矢と湖は、私達のもの。外のカミに好き勝手
なんてさせない。神奈子は逃げて。私は――必ず抑えるから」
「ごめんなさいね……諏訪子」
「親友じゃない。貴女が望むなら、私は貴女に見返りを求めず尽くすわ。それに貴女は今の今まで、私を好きに生き
させてくれたもの。優しくしてくれたもの。だから」
気を落とす神奈子をそっと慰める。
――長い付き合いである。諏訪子は彼女の全てを理解した上で、立ち回っていた。神奈子の事、早苗の事、諏訪の事、
出雲の神々の事。様々な事象が入り混じって、果して何が正しいか、何が間違っているかが非常に混沌としている中、
諏訪子はそれを見極めている。
――神とはそれそのものが私利私欲だが、人の私利私欲によって生まれる存在である。もし、この世界の何処かにそ
の神が欲する信仰心で幸せになる者達が居るならば、その神はそこへ赴くべきである。まだ、信仰心全てが消え失せた
訳ではない。誰かが欲するからこそ、神奈子も諏訪子も、生きているのだ。
あるままに。この言葉は、実に都合が良い。どうとでも解釈出来る、占いのような言葉である。
「ほら、神奈子、飲みましょう。ここにあるの、取って置きの良いものよ。そんな安酒とは違うんだから」
「……えぇ」
東方の地の夜は更けて行く。二柱の神は、幾年かぶりに、友人としての酒を交えた。
・
・
・
・
・
早苗は、項垂れる気持ちを奮い立たせて起き上がる。折角仲良くなったと思った柏子に軽い否定を受けた事もあるが、
それよりも、両親からの説教が効いた。何も解って無いくせに……そう思うが、口にはしない。ただ淡々と、ああだこ
うだとのたまう父の戯言を聞くのみ。これは父として、愛あるからこその諭しなのだが、早苗には届いていない。ただ
不愉快である、と云う気持ちだけが湧き上がり、何の効果もない。
自分を解ってくれる人は一人だけ。自分と同格に並ぶ、あの柏子だけ。
そう考えると、少しは学校へ赴く気分になった。布団を畳み、洗面所で顔を洗い、大きな欠伸を一つして食卓へと向
かう。父と母の顔を見ると憂鬱であったが、意識的に気にしないよう心がける。ご飯と味噌汁と魚を平らげると、さっ
さと登校の支度をして、表へと出た。
何も変わらない普通の日の始まり。十文字に跨って、目的地へと疾走する。今日は柏子が訪れる事もなかった。もし
かしたら登校途中に出会わないかと期待したが、それもない。
続々と正門を潜る生徒達の間を縫い、昨日記憶に留めた、変哲の無い場所に自転車を止める。
「……あれ」
自転車といえば、柏子も自転車登校であった。特徴のあるママチャリで、見間違う筈がないのだが、見当たらない。
まだ来ていないのかとも思ったが、時間はギリギリである。
遅刻する事もあるのだろう、と納得した早苗は教室へと向かう。
いつも通りの喧騒。いつも通りの顔ぶれ。
しかし、見慣れた顔はあろうとも、柏子の顔は無く、そして――席もない。
「ねぇ山田、物部さんの席どうしたの?」
「早苗ちゃん? 物部って誰さっ明日って今さ」
日本語の通じない山田の頭を引っ叩き、隣の女子にも聞いてみるが、そんな人物は観た事も聞いた事も無いという。
……多少、混乱する。まさか狸に化かされたか、狐に騙されたか、はたまたネコか。
隣の席にいた筈の物部柏子は、誰の記憶にもないと言う。酷く、空虚な感覚が早苗の心を支配し始めた。確かに、神
奈子の影響を受けていた事はあって、普通ではないとは理解していたし、見えぬものを観る力を有した、不思議な子で
あったのであるから、突如居なくなっても不自然な訳が…………。あるに決まっている。
「も、物部さんよ? 物部柏子さん。本当に知らないの?」
「早苗ちゃん、疲れてるんだよ」
「――疲れてないわよっ」
鞄を山田に投げつけて廊下を駆け出す。
折角の、折角の現世でも希望が、まさか妖の類であったなど、信じたくもない。そもそも、自分は巫女である。高等
な力を有した巫女が、妖如きに騙されるなど、あってはならないし、そんな事ある筈も無いと断言せねばならない。
「柏子ちゃんっ」
廊下を駆け抜け、下駄箱を通り抜け、自転車置き場へ赴こうとしたところで一端停止し、校木まで走り寄る。
(神様、神様)
(なんだね、朝から騒がしい)
(昨日の女の子、見てませんか?)
(ああ、あの神様か……見ておらんの)
(どういう比喩です。あの子は人間ですよ?)
(はぁ。いやぁ、あれは神様だろうて。ミシャグジ様であろう)
「――な、、、、、、なんて事っ」
早苗は校木の前で立ち尽くす。登校する生徒達が、そんな姿を見てひそひそと噂を立てているが、早苗の耳には及ば
ない。頭を振り、抱え、考え、絶望する。
昨日接していた柏子の過去など、全く思い出せないのだ。親しく話す以前の彼女とは一体ナニモノだったか。そもそ
も、そんな者が居ただろうか。いや居ない。居たのなら、もっともっと早くに、仲良くなっていた筈であるし、大体自
分の親戚で、同年代の子が居るなど、聞いた事もない。
守矢系の若い女性は間違いなく、巫女として仕えているはずだ。同じ学校で同じクラスの子の顔を、神社で見ないな
んて云うのは不自然すぎる。
考えれば考えるほど矛盾が湧出する。止め処なく溢れる疑問で早苗の頭に熱が上がるが、ここで倒れている訳にもい
かない。すぐさま踵を返して、早苗は自転車に跨り、校外へと出る。
「ミシャグジ様……なんて意地が悪いのかしら……ああもうっ」
探せど探せど見つからない神様が隣にいた。どこまで人を馬鹿にするのか。どれだけこっちが必死になって土地神を
説得してきたのか。思い出すだけでも腹立たしい。最悪の侮辱を受けた気分である。
「どこよ、どこへ行ったのよっ」
思いつく限りの守矢系列の神社に顔を出しては居ない居ないと探し回り、あがる息を抑えながら、それでも探しまわ
る。見つけてどうするのか、と言えば、別にどうもしない。だが文句の一つでも言ってやらねば腹が納まらない。
「あれが居る場所なんて……解る訳ないじゃない……」
一度柏子を見かけた御社にまで足を運んだが、当然、そこにあるのは寂れて苔むした鳥居と小さな建築物のみ。
「……」
もうどれだけ走ったか。街中思いつく限り自転車をこいで、もう足はガタガタ言っている。鳥居に寄りかかり、そこ
へ腰掛けて空を見上げるのが限界だ。
「柏子ちゃん……」
唯一、同格と見なせる子だと思った。
唯一、心からお話の出来る子だと思った。
唯一、今後も付き合っていけるんじゃないかと、希望を持てる子だと思った。
それがどうだ。神様が観える所か、本人が神様だったなどと、巫女である早苗すら馬鹿げた話だと感じてしまうでは
ないか。懸命に走り回り、連日外に出て結界を張り、神様に頭を下げて、両親に白い目で見られて。そんな自分を、ミ
シャグジ様はあざ笑っていたというのかと思うと、腹も立つが、それ以上に悲しい。
「何が……何が神様よ……」
御力は己に力を与え、人の身にして神に近しい力を振るう事の出来る早苗。確かに、それは類稀なる才能であり、尊
敬されて然るべきものだが、今の時代、そんなモノは意味が無い。インチキと笑われるか、見せても気持ち悪がられる
かしかないのだ。
こんな世界が嫌で嫌で、早苗は選民思想を先行させた。己が神の言う桃源郷へ行けば、自分を隠して生きる必要など
無いと、その言葉を信じて。向こう側へ行ける希望は、早苗の心を明るくしたが、同時に不安も募らせた。
好きではないとはいえ、やはり自分は人間であり、家族もいる。一人ではない。
幻想郷へ旅立つ夢と、押し迫る現の狭間で、早苗は悩み続けた。
そんな中に現れた物部柏子は、現の最後の希望であったというのに。それは神様で、しかも、期待だけさせて泡のよ
うに弾けて消えてしまった。
「うっ……うっ……ひうっ……」
込みあがってくる悲しみを抑えられない。自制する心は強いのに、それが機能しない。
自分は何処へ向かえば幸せなのか。人として生きる事は出来るが、抑えて暮らす事は苦痛でしかない。幻想として生
きるなれば良いが、家族達はどう思うか解らない。拒まれたのならば、一人で行くしかないのだ。
やはり頭に来る。自分に現世への執着を植え付けた、あの神が憎く思えてくる。
「……んっ」
ハンカチを取り出し、顔を拭おうとすると、その間からスルリと一枚の紙切れが零れ落ちた。……レシートである。
「――まさか、ね」
まさかとは言うが、他にあてなどない。早苗は立ち上がると、恨み言の一つでも言う為に、再び自転車へと跨った。
ここから自転車をこいだら、きっと辿り付くのは夕方になるだろう。しかしはっきりさせたい。溜りに溜まった文句を
ぶつけてやらねばならない。何せ、本音を話せるのは、物部柏子ぐらいなものなのだ。
走りながら、人を避けながら、車をかわしながら、早苗は自分を憂いて、人を哀れみ、神を笑う。自分がもし幻想郷
に隠れてしまったのなら、皆はどう思うだろうか。自分はどう感じ、人はどう思い、神はどう配慮するのだろうか。
模範解答はない。試験ではない。自分で出さなければいけない答えであるし、その意味を理解する手助けも無いので
あるから、全ては己に還る。
守矢の巫女としての生活を最優先に、神を祭り、家族友人を切り捨てる真似は、果して正しいかいなか。
これは簡単だ。間違いである。自分は神の巫女である以前に人の子なのだから、道徳に反している。
幻想郷で自分は幸せに暮らせるだろうか。
これはイエスであるといえる。聞いただけの話ではあるが、幻想に近しい自分は幻想の方が馴染むに決まっていた。
この二つの狭間にあるものは、常識の壁。
前提が非常識であるが故に、ハードルは高い。早苗には、まだ答えが出せないが、もう一つ、何かがあれば、全てに
区切りが付けられるのではないか……そう思えて仕方が無い。
「いらっしゃいませ」
「甘いの」
「はい。お席はどちらにいたしましょう」
そんな悩みも、取り敢えずは置いて置く。まずはこんな深い悩みを抱かせる結果を作った元凶の頭を、叩いてやらな
ければいけない。
「あの珈琲メーカーの隣」
「相席になりますが」
「――友人です」
アンティークの珈琲メーカーの隣、窓際の席。早苗が散々喋って、日頃の鬱憤をぶちまけた場所。
「神様は甘党なのね」
「げぇっ、早苗さんっ」
そこでは、昨日と変わらない姿をした物部柏子が、五皿目のシフォンケーキを頂いていた。
「……一体どういうつもりなのよ。騙すなら最後まで騙せばいいじゃない」
「……状況が変わったの。取り敢えず、座って。早苗さん」
柏子は驚くような仕草は見せたが、悪びれた様子はない。あまりにも普通の反応に、早苗はどう切り出すべきかと思
考を巡らせていたが、柏子が先に口を開いた。
「どう。まだ現世への未練はたらたらなの?」
「貴女の所為でね」
「――絶望した?」
「したわよ。お陰で頭ん中ぐちゃぐちゃで、整理もつかないわ」
「あう……」
柏子……洩矢諏訪子に、悪気などない。
「……私はね、ただ、現実をもう少し見て欲しかったの」
自分の愛すべき子孫達の行く末を案じた、諏訪子に出来る唯一の助力。確かに、早苗がどう思おうと、幻想郷へ行け
ば早苗は幸せになれるだろう。だが、諏訪子にとって子孫とは早苗だけではない。守矢に連なる一族全てである。
神奈子を責める気も無いが、完全に神奈子だけを肯定する事だけは、止めて欲しかった。
彼女は、早苗は現人神である以前に人間だ。人間には、人間の幸せがある。それは神奈子も言っていたし、現実を見
ぬ者に何が見えるのかといった諭しであったのだが、如何せん神の言葉は足らな過ぎた。
「もっともっと、時間があるものだとばかり思っていたけれど……」
故に、諏訪子は人の姿となり、早苗の前に現れた。肯定と否定を重ねて、早苗に現実を見るよう仕向けるよう努める
筈であったのだが、時間は迫り、状況は進む。これから先もこうして人の身として早苗や家族達に接していれば、自ず
と人らしさや、あるべき生活に目が向くと考えていただけに、事代主の出現は口惜しい。
……幻想郷へ赴く事は否定しない。だが、もし家族がそれを拒否し、早苗だけ幻想郷へ行くとなれば、それこそ早苗
を支える者など神奈子しかいなくなってしまう。
「……幻想郷へ行くのは構わない。でも、禍根を残すような真似だけは、しては駄目」
「どういう意味よ……貴女、ミシャグジ様だっけ……私と、一体なんの関係があるの」
「――そっか。あ、ううん。一応、貴女に祀られている一部の木端な神様としての、意見」
洩矢神が祖神だと、早苗は知らない。そして、諏訪子もそれを教えるつもりはなかった。今更明かした所でどうにも
ならないし、あまり意味も無く。だから今は、諏訪子の考えている事を、早苗にも考えて貰う。それだけだ。
「貴女みたいな神様、見たこと無いわ」
「隠れていたから。別に私の事はいいの。それより、家族の事を、考えてあげて」
「……何よそれ」
「お父さんとお母さんに怒られたでしょう。でも、それは嫌いだからじゃない。貴女が心配だから」
「解ってはいるけど……でも、お父様もお母様も、私を信じてはいないわ」
「そうかもしれない。けどね、その両親を信じてあげられるのもまた、娘の貴女しかいないの」
「――なんだか、貴女が親みたいな口ぶり」
「あ、あはは。偉そうにごめんね。でも、真実でしょう?」
「……うん」
ウェイターがイチゴのショートケーキと紅茶を持って現れる。早苗はそれを受け取り……自分では食べず、諏訪子に
渡した。
「お供え」
「あぁ……なんだか、貴女からお供えを貰うのは初めてかもしれない」
「蔑ろにして、悪かったわ」
「いいの。隠れていたって言ったでしょう。私は、もう隠れたカミだから」
そういって苦笑する。
本心は嬉しいが、素直に喜べはしない。幾ら祖神でも、今早苗が信奉しているのは、紛う事無く神奈子である。勿論
そうするように仕向けたのも自分だし、こうならないよう望んだのも自分だ。諏訪子は後ろから見守るだけ。諏訪の地
の安寧を願い、本殿に収まるだけの存在。今更主張はしない。
だが、やはり子孫を持つ者として、ご先祖として、助言だけはしなくてはならない。
「ご両親とちゃんとお話して。残された間は少ないけれど……ちゃんとお話して、それから決めて。現世に止まり、
人としての幸せを見つけるか。それとも幻想郷へ旅立ち、新たな生を営むか」
「時間が、無いの? もしかして、出雲の……?」
「なんとか抑える。だから貴女は安心して話し合って。そして幻想郷へ至るならば、最後の結界発現点を結んで。あ
の土地神には話をつけてある」
「神奈子様は……いえ、貴女、その、つまり、ミシャグジ様って……」
答えるべきか、答えぬべきか。
今更、迷う事もない。
「私は土着の、単なる土地神。神奈子様に尽くすのは、これ諏訪の神としての死命。ご馳走様、早苗さん」
すっかりと平らげられた皿は六枚。お賽銭でも持って来たのだろうか、伝票の上にはお勘定が乗っている。早苗は、
その背中を引き止める事も出来なかった。
己の愚かしさに、眩暈がする。自分の為に現れたのに、その神様の頭を引っ叩こうなどと思い立った自分が許せない。
何故『ありがとう』の一言が言えなかったのか。道徳に反した上、人道にも劣る。自分の事をここまで考えてくれる神
など、神奈子ぐらいであったと言うのに。摂社末社の小さな神とは言え、お礼も出来なかった自分が憎い。
迷いに迷った自分の心の道を定めてくれたのは、きっと道祖神としての神格なのであろうと、早苗は思う。
「視野が狭いと、本当に何も観えないものね」
目を瞑り、腹に力を込めると、よしっと意気込み立ち上がる。
逃げても仕方が無い。
早苗は伝票を掴み取り会計を済ませると、すぐさま自転車に乗って自宅へと急ぐ。
「頑張ってね、私の可愛い巫女さん」
早苗は、必ず幻想郷へ行くだろう。洩矢神は何もかも、見通している。神奈子の考える事、早苗がどう決断するかな
ど、最初から。ただ欲しかったのは、決意とケジメ。物事は何かしらのクビキを必要とする。
現世と黄泉ならば岩戸を。
幻想と現実ならば常識の壁を。
半端な気持ちで転位結界など発動させたら、絶対に失敗する。だから、吹っ切らねばならない。
洩矢諏訪子は、何もかも見通していた。愛すべき友人の事も、愛すべき子孫の事も、そして今後、己がどのような行
動に出て、どう朽ち果てるのかも。
四、我祟神也。
その夜。東風谷早苗は、両親と対峙した。
東風谷早苗、一世一代の大勝負なのだが、親を説き伏せて都会へ出る子供と大差は無いので、あまり緊迫感はない。
だが、大学に行く為に都会へ出ると説明するのとは訳が違う。皆噂でしか知らない、ローカルな桃源郷へ行くと、宣言
するのである。
早苗の腹はもう決まっていた。自分は神奈子と共に、幻想となると。その際、両親はどうするか。もし反対するなら、
どう返すべきか。早苗の頭の中でぐるぐると理由が回る。
「お父様、お母様。早苗は、幻想郷に参ります」
その一言で場は完全に沈黙した。予想はしていたが、無言の圧力はなかなかに早苗の神経を削ぐ。
「早苗。ちゃんと説明してくれ。それは、テレビの特番とかでやってる都市伝説の、幻想郷、でいいのか?」
「伝説ではありません。全ては真実。何も観えない者達が、嘘であると風潮しているだけに過ぎません」
「彼方……早苗さんは……」
「少し黙っていなさい。早苗、父さんは、お前に特別な力がある事を受け止めている。この世には科学だけでは説明
のつかない事象が沢山ある事も、理解している。だがな、行き成り見たことも無い秘境に行くといわれても、納得は出
来ん。蓬莱に旅立った人々を送り出すような、そんな古典的な人間ではないんだ私達は」
「重々承知しています。けれど、神はおり、そしてまた異界もあります。お父様もお母様も、心の底からは信じてお
りませんでしたね。けれど早苗は、力を使えます。観えますし、行けます」
「連日連夜外に出ていたのは、その準備だと?」
「そうです。変な娘だと思ってくださって結構。しかし、それこそが私には現実として観えるのですから、これは仕
方ありません」
父は目を閉じ、娘の言う話を何とか理解してやれぬかと悩む。元より守矢の分家で、観えぬものを信奉するよう育て
られた婿養子だが……矢張り、娘の話は難しく、苦しい。母は貞淑で、その隣で顔を伏せ、何も言わず佇んでいる。
どう思われているだろうとは、早苗も心配するが、真実であるから仕方が無い。
「早苗さん」
父が頭を捻り停止する中、母はとうとう口火を切った。早苗に向き直り、正座をする佇まいは真剣そのものである。
「貴方は時が来れば話すといったわね」
「今がその時です」
「では此方から問うわね。早苗さん、貴方は私達に、どうしてほしいのかしら?」
意外な質問だったが、切り返す言葉はある。
「私は幻想郷へ参る事を既に決めております。けれど、それはお父様、お母様、お爺様、お婆様を捨てて消える事で
す。何の挨拶も無くでは、娘として疑われます」
「……幻想郷へ行くのは、貴方一人なのかしら」
「神奈子様……いえ、八坂刀売神様と、一人と一柱です」
「……妃神は神奈子様と仰るのね……私は、一度しかあったことが、ないから」
「お、オマエ?」
母は、真剣に答えた。人の心を悟りすぎて、嫌な想いばかりする早苗も、その言葉が嘘でないと解る。
「……自分が異常なんじゃないかと、何度も悩んだわ。お父様にもお母様にも話した。けれど、信じてもらえなくっ
て、私はそれ以来、話す事を止めたの。信じる心もまた薄れて……やがて、観えなくなった」
「……お母様……」
「貴方が観えると言った時は正直ドキリとしたわ。でも、私と同じで、時が経てば観えなくなると思っていたのよ。
でも貴方は……早苗さんは、信仰心が強かった。だから、そうして八坂刀売神様の恩恵を受けれたのね。神長官として
の役目を、完全に果たせる貴方が」
早苗と父は言葉を失い、ただ母の言葉に耳を傾ける。優しく丁寧で、綺麗な声色は、早苗に似ていた。いや、早苗が
似ていた。どうあっても、早苗はこの母の子なのである。
愛故だったのだろう。人から可笑しな目で見られない為に、母は幻想を切り捨てた。そして、早苗の幻想を切り捨て
ようとした。神を信じず、知らない振りをして、早苗を現実に留めようとしたのだ。
それは母として至極まっとうな努めであり、娘が夢見がちにならぬよう、理性を育てるのに必要な行為であった。だ
が、早苗は物が違っていた。規格が一般人から外れていた。伝えられた術をセッセと覚え、奇跡を起こし、神と交信す
る早苗は、型にははまらないのだ。
誰がこの母を責められようか。誰が罵れようか。娘を誰よりも愛しているからこその、想いなのではないのか。
「黙っていてごめんなさい、彼方、早苗さん。母のあれは、やはり幻覚では、無いのよね」
「……神奈子様は、どんな容姿をされていましたか」
「胸元に鏡を携えて……背中に注連縄が……」
間違いなく、神奈子である。
「神奈子様は、信仰亡きこの世を捨て、幻想郷へとお隠れになります。早苗は、お供をしなくてはなりません」
「決意は変わらないのか」
「はい」
「どうしても、行くのですね」
「はい。お父様とお母様は……その、どう、なさいますか」
「……つまり、私達も連れて行けると言う事か」
「はい」
最後の禍根。そして最後の質問だ。
どうあっても両親は両親。そして、自分は娘。この両親を信じてあげられるのも、また娘のみだ。重苦しい空気が、
早苗を押しつぶそうになるが、負けない。ピンと背筋を伸ばして、正面を向いて両親を見る。今更逃げても仕方が無い。
挨拶なしに消える娘は親不孝の中でも尤も最悪だ。そもそも、親の目の届かぬ場所に一生行くのだから、それ自体がも
う不道徳であるのだが。しかし、早苗の決意は揺るがない。この、信じる両親の心を、聞かねばならない。
「……幻想郷は、いい所なのか」
「そう聞き及んでおります」
「誰から」
「幻想郷の賢者様です」
「そうか」
「……どう、なさいますか」
母は、ほんの少し前に出て、早苗に手を差し出す。何の意味か解らなかったが、早苗もそれにならった。
「神に仕えること、即ち神と共にあること。御祭神がそう仰るなら、早苗さんはそれに従うべき」
「お母様……」
「巫女とは、供物です。尊き供物です。その身人身御供として、捧げてらっしゃい」
「お父様と……お母様は……」
「私達は、お父様もお母様も居るわ。もう御歳だし、誰かがお世話しなくちゃいけない。それにね、守矢祭祀の頂点
を空きにはして置けないでしょう。最後の、力ある現人神が幻想になるのだもの……誰か分家の子を神長官とするか…
…またお父さんと頑張るか。しないとね」
母は早苗の手を取り、そう優しく微笑んだ。そこに父の手も加わる。もう、幻想郷の存在などどうでも良いのかもし
れない。娘は独り立ちする。ただ、その事だけなのだろう。
早苗は……何と無しに零れる涙を拭いもせず。両親の胸へと縋った。
「早苗は……早苗は、立派にお勤めします。必ずや、幻想郷で諏訪信仰を再興させてみせます……」
「そうね。頑張るのよ、早苗さん」
信じればあるもの。信じなければないもの。
それは、信仰だけに止まらず、家族の情もまた同じであると、そう感じさせられる。人との繋がり、家族との繋がり
とは、血以上に、交遊以上に、信心から成り立つものなのだろう。
「はい――行ってまいります、お父様、お母様。どうぞ、お元気で」
・
・
・
・
・
「早苗、早く用意して、早く着替えて」
「は、はい」
時は迫る。人が動き神が動き、妖怪が早くせよと急かすのだ。八雲紫は早苗をせっつき、準備を急がせる。事態は急
を要する。うだうだはしていられない。
「それにしても、出雲の軍勢って……」
「貴女の神が仲たがいしたのよ。最初から襲撃するつもりで、京都辺りに伏せていたのだろうけれど……」
八雲紫が現れたのは、両親との別れを済ませて直ぐである。余韻も引ききらぬ内に現れた彼女は、空気を読めないと
いえば読めないのだが、そんな事も言っていられない。国津神の、中央神話の神々は、諏訪を手放すまいと大挙して押
し寄せている。
「済ませましたっ」
「もういいわね。湖まで行くわ。入って」
紫が指を一振りすると、早苗の正面にこの世の物とは思えぬスキマが出来上がる。入ることは躊躇われたが、さっさ
と行けと紫に突き飛ばされた為、やもうえなく目玉だらけのスリットへと飲み込まれた。
人外の異形の術に酷い抵抗感を覚えてしまうのは、巫女としての感性なのだろうが、それも間も無く終わりアッとい
う間に湖へとたどり着いた。
「……境界を操るなんて、信じられません」
「貴女こそ、人の身としては信じられないわ。霊夢ほどとは言わないけれど、かなりのものね」
「れいむ……?」
「こっちの話よ。さ、早く」
何故八雲紫が現れたのか。手助けしないと聞いていたのだが、どうやら状況は刻々と変わるものらしい。軍勢が現れ
たとなれば未完成の結界を破壊される事が怖い。そして何より、八坂神奈子の身である。
「私は、これ以上の手助けをしない。後は頑張りなさい」
「はいっ」
早苗は、正装に身を包み砂利の浜を疾走する。一ヶ月掛かった説得だった。それをあっけなくミシャグジに解決され
てしまったのは、多少悔しいが、ありがたくもある。きっと早苗一人ではどうしようもなかっただろう。
長い年月をかけて構成されたカミとは、皆頑固である。他の土地神も渋々承知したのであるからして、説得に時間が
掛かったのは仕方が無い事だった。取り敢えず、今はもう会う事もないミシャグジ様に心の中でお礼をする。
「あったッ」
出雲の手勢が荒らした節は見受けられない。土地神もまた、いつも通りその場所へ座っていた。
(呪の発現点を拵えます。何とぞご協力を)
(……ミシャグジ様が言うんだ。仕方ない)
老神は早苗に手を出すよう指示する。老木の杖でその手を叩くと、温かみのある光が一粒出現した。これは、神の一
部。自然の猛威の欠片。
(有難う御座います)
(向こうでも、宜しくお願いするぞい)
(――はいっ!!)
神の坐す岩に、光を捧げて手を合わせる。独特の調子の祝詞が言霊となりて、岩に静まる。鞄から乱暴に神酒を取り
出すと、容赦なくぶちまけて注連縄を括った。
(乱暴じゃのぉ)
(急いでるんです。もし何か来ても、絶対にここを明け渡してはいけませんからね)
(面倒じゃのぉ)
そう釘を刺して、早苗は走った。ここも大事だが、神奈子はもっと心配だ。鞄を揺らしながら、何時もの大岩目掛け
て林を突っ切る。普段なら直ぐについてしまうと云うのに、今日だけは違った。
嫌な予感がするのだ。巫女の感とでも称するべき感覚か。まるで己が一部を弄られるような、不愉快なものに虫唾が
走る。まさか。あの八坂神奈子に万一など、ある筈もない。あっては困る。あっては――ならない。
「神奈子さまぁぁぁ――――――!!!!」
砂利だらけで、足元が覚束ない。何度も何度も足を取られるが、早苗はそれでも走る。絶叫が闇に吸い込まれて、虚
しい残響だけが残っても、それでも走る。
「神奈子様ッ!!」
「早苗……」
そうだ。何もある筈が無い。そもそも、何がこようとも、八坂神奈子が木端の国津神にやられる筈などないのだ。早
苗は神奈子の胸に飛び込み、安堵する。
――では、この焦燥感はなんなのか。
八雲紫に軍勢が迫っていると説明されたからだろうか……だが、それは違う、と早苗は否定する。もっと根本的な、
自分の身に危機が迫るような焦り。
「神奈子様……神奈子様……」
「早苗、どうしたの……何かありましたか」
「私、不安で。先ほど八雲紫様が、軍勢が迫っていると」
「まだこないわ。大体、そんな近くに大軍がいたら、貴女は感じ取れるでしょう?」
「でも、それが。まるで、自分に恐ろしい厄災が降りかかるような……そんな不安を覚えて……」
「――そう」
神奈子はそれを悟り、あえて何も言わなかった。そう――説明しても、意味は無いから。
確かに、その感覚は正しい。
確かに、早苗に危機は迫っている。
だがそれは、早苗そのものではなく――。
早苗の、神に迫っているのだ。
「早苗、さぁ。まだこなくとも、いずれは来ます。転位結界を」
「――はい」
・
・
・
・
・
カミは何故生まれたか、カミは何故存在するか。その問いは、繰り返してきた通り、諏訪子の言う通り、何もかもは、
人の成し得る業である。人無くしてカミは無し。絶望と希望の狭間を行き来して来た人類が生み出した、運命と畏怖の
結晶である。
この世の森羅万象を崇め奉るこのアニミズムは、単純な構造の元にその実様々な可変と輪廻の道を辿ってきた。自然
を敬う心、畏れる心、祖先を敬う心、人を愛する心。人の思いによって信仰とは移り変わるものである。
では、この洩矢諏訪子、古代信仰、民間信仰、祟神信仰の権化たる、洩矢神はどうだろうか。
その性質は一定ではなく、要素要素が合わさってなされている。時には戦神となり人々に勇気を与え、時には賽の神
となり人々に道を示し、時には製鉄の神となり人々の暮らしを豊かにし、時には作物の神となり、人々の生活を潤した。
ミシャグジ、基、その信仰の総体たる洩矢諏訪子が、土着の頂点と称される理由はここにある。
「単身、我々の侵攻阻止とは、大きく出られましたの」
「”木端の国津神”が、吠え面かいても、知らないわよ」
長野、岐阜県境山上。月が煌々と照らす夜に、諏訪神と出雲神は空中にて対峙した。
もし、この光景が人類に見えたのなら、どう口走り、どう表現するであろうか。神話の再来か、神の軍勢か、兎に角
常軌を逸脱していると口を揃えるだろう。出雲の軍勢は、赤々とぎらつく無数の光は、今見える星ほどもある。
「諦めてはいかがですか」
「まさか」
諏訪子は闇を受け入れるように腕を大きく開き、号令を掛ける。木々の一つ一つは森の総体となり、山の一つ一つは
山の総体となり、荒ぶる人々の感情は相応しく大きな形へと具現化する。
「……」
「まだだよ」
川は竜となり空を翔け、池は大きな蝦蟇となり、岩はこの世をくびく程の岩戸となる。
「……そんな。千数百年前、これだけの信仰を集めていたなら……八坂刀売になぞ、負けるはずも……」
「なんでだろう。どうしてだろう。神奈子さんが可愛かったからかな」
「ご、ご冗談を……」
「どうかしら、そうかしら? まぁ今となっては、あまり意味のない問いに答え」
ゆらり、と。諏訪子の指が軍勢へと向く。出雲の神々はうろたえ、士気は低い。
「ふふ。一応ね、これも自信があったの。私の信仰は衰えないと知っていたから。だから表向きを神奈子に任せた。
当然じゃない。どうあっても、ありとあらゆる物の信仰の総体である私が、人からの信仰心を、失う筈がないのだもの。
でも貴方達にはあげない。この地は、私と神奈子のものだから」
「な、何を……」
「我中央神話に歯向かいし洩矢神也。一にして八百万の軍勢ぞ。貴様等が肢体、千に千切りてくびり殺さむ」
「ゆ、行け、出雲の神々――大国主の名の元に、土着の神を平定せよっ」
「全軍突撃。侵略者共を平らげよ」
万の咆哮が天に轟く。
「カミこそが至上などではない。信仰とは、カミとヒトが紡げる、唯一の絆であると知れ」
恐らくは――これが東方の神々の、最後の大戦であろう。
※、あすのよあけ
それは私がまだ、人の信仰を得て体を持つようになったばかりの頃。
人は田畑を耕し、自然に充ちた国を、日々生きる為に、新たに豊かな暮らしを得る為に、拓き始めた頃の話。
人は皆日々を生きるだけで精一杯であったし、娯楽もさほど無い。噛み女達が作る酒をがぶ飲みして、笑いながら歌
を歌う程度しか、楽しみの無い時代。
生きる力に満ち満ちた人々は、苦しいなれど、幸せであった。価値観は少なく、不満もそれほど無いからだ。
皆は今生きてゆける事は、全てカミのお陰なのだとして、毎日私に供物を捧げた。私、と言っても私だけじゃあなく
て、あちら此方の、土着の神々に。道を別つカミに。道を遮るカミに。地に野に山に。信仰は厚く、この世界が何時ま
でも続くものだと、私は信じて疑わなかった。
新しい技術も手に入れて、人は益々栄えた。皆は弥栄(いやさか)アレと笑い、ますます私を信奉するようになる。
――そんな矢先、彼女は現れた。
彼女は、私とは違う神様を祭った人。建御名方と云う、軍神であるらしい。
当然、私がそうそう簡単に、この諏訪の地を引き渡す訳もない。人々もそう願ったし、他の神々もそう願った。
願われたら仕方が無い。カミとは人の信仰心により動くもの。
私は製鉄の技術で作られた鉄輪を持ち、建御名方の巫女である彼女は、藤の蔓を持って対峙した。
――力もまた、信仰の量によって異なる。
私の鉄輪はボロボロに錆びてしまった。信仰はとても大事なのだと、悟った瞬間でもある。
このままでは里の人々が虐殺されてしまう。私は、ただそれだけは止めてくれと巫女に懇願した。その巫女は――そ
の、美しい美貌を持った巫女は、私に笑いかけた。
勝負が決まって、このまま反旗を翻さぬなら、殺さずとも良いと。
祟神の巫女は一瞬で、私の中のカミになった。その慈愛に満ちた表情は、とても否定し難くて……。
私は、自分のカミの座を引き渡した。それで良いと想ったから。それに、私は様々な信仰の総体。そうそう信心が失
われる事もないと考えたから。
……今思えば、少し悪い気もする。でも、いいじゃない。ただ負けるだけってのも、癪だし。
案の定、私の信仰は衰える所か、巫女の軍勢の中にも広まって、結局馴染んでしまった。建御名方の名は建前となっ
て、巫女への信仰も薄れてしまう。
巫女が……神奈子が泣きついてきたのを、未だに良く覚えている。あんな可愛い顔、多分二度と見れない。
だから私は一計を講じて見る事にした。私は後ろから動いて、神奈子はその功績を自分の物であるとしなさいと。
そのお陰で、神奈子への信仰は再び集まり、私は隠れる事がおおくなった。でも総体的に見れば、実質私への信仰で
もあるので、私が消えてしまう事もない。
実に上手くいったと思う。神奈子は喜び、私も喜んだ。平和な政治が出来たし、信じる心は日々の生活も豊かにして
行った。
――信仰とは、ヒトとカミがあって初めて成り立つ。
日々生きる人たちは、何かに縋りたいから。幾ら集まって暮らしても、完全に心は埋められない。その心を埋めるの
が、私達の役割。別に熱狂的に信じて貰う必要なんかなくて、ただ、ご飯を食べるときに手を合わせて感謝して、いた
だきます、ごちそうさまと言ってくれれば良い。岩倉を見つけたら、何となく手を合わせてくれれば良い。その年が豊
作なら、私が住まう場所まで来て、手を合わせてくれれば良い。
信仰って、そういうもの。ヒトはカミに生かされていると錯覚して、その心を埋めてくれる。
心の安寧を得る事こそが、信仰のあり方だ。
ねぇ神奈子。
あの頃は幸せだったね。
みんな、ヒトが幸せだった。凶作で辛い日々もあったし、誰かが死んで悲しい事もあったけれど。
みんなみんな、その一つ一つに、手を合わせていたよね。森羅万象を愛する心って、幸せだと思う。
ねぇ神奈子。
もう、神様はいらない時代なのかしら。別に、王国を再興したい訳じゃあないの。
ただ、ここの国の人たちは……信仰によって、幸せを手に入れていたから――
だからね……神奈子……私は心配なの……ヒトとカミが共存出来なくなった世が、心配で心配で堪らないわ。
私……あんな大きな口を叩いたけれどね……あの神々だって、もうよれよれなんだよ……。
勝てる訳ないじゃない……勝てないわよ……。
「では貴女は、何故諏訪の地を護ろうとしたの。あるがままに、ではないのかしら」
……それは、私的な感情。
だって、あの地は私と神奈子の思い出が詰っているもの。
「では貴女は、何故神奈子を逃したの」
……彼女は、生きる事を望んでいたわ。ならば代わりに、私が消えて無くなるその日までこの地を護ろうと思って。
「負けると解っていたのに」
……うん。私と神奈子の地だもの。終わりがそこなら、それこそあるままによ。
「……貴女は、生きたいかしら」
……もし……私利私欲だけでものを言わせてもらえるならば……もし、私が生きられる地がまだあるのなら……生き
てみたい。現世での私はもう、消えてなくなってしまうのだろうから。
「生きたいのね?」
……生きたい。その地でヒトを幸せにしてみたい。神奈子ともっとお酒を飲みたい。出来れば、もっと早苗とも……
お話、してみたいの――。
そこに、ヒトの幸せと私の幸せがあるのならば。生きてみたいわ。
「その願い、聞き入れられたり。いらっしゃい神様、こんにちは神様、これから、幻想郷が消え行くその日まで、宜
しくして頂戴ね」
誰の声だったかなんて知らない。でも、その声は確かに澄んでいて、邪心はなかった。
何かを慈しむような声は、神奈子に似ている。
ごめんなさい、諏訪の地――古いカミは、別の場所で生きて行きます――ごめんなさい。
――嗚呼尊き東方の地よ。
洩矢諏訪子が目を醒ましたのは、いつも通りの本殿の中であった。あまり記憶がはっきりはしていない。どうやって
この場所にたどり着いたかなど知る由も無かった。
「……諏訪子」
……温かい声が聞こえる。聞きなれた声。安心出来る声。嫌いだけれど大好きな、自分の片割れの声。スッと顔をあ
げてみれば、目の前にそのヒトは居る。
「神奈子……」
膝枕をされていたらしい。道理で頭が痛くない筈だ、と諏訪子はなんだか、恥ずかしい気持ちになる。仲が良いとは
いえ、こんな事をされた覚えはない。けれど、こんな小さな行ないが、酷く嬉しくて、年甲斐も無く泣いてしまいそう
になる。
「神奈子……ここは……?」
顔を伏せて、今抱く疑問をぶつける。そう、自分は出雲神の進撃を受けて朽ち果てた筈であるのだが……。
「幻想郷。私が気が付いたら、貴女も居たわ」
そういう事らしい。その答えも疑問ではあったが、聞いても仕方なかろう。
「――私達は、幻想になったのね」
「ええ。新天地よ。外、見て御覧なさい」
神奈子に促され、諏訪子は本殿の外へと出る。
――諏訪子が目にしたものは、全て一瞬で見えなくなってしまった。
「……人工物がない……山も木も川も……みな……ああ……」
言葉を失う。暫く忘れていた光景が、そこにあったのだ。目元を拭い、その姿をもう一度瞳に映す。
原始日本。手付かずの野山が、そこにはあった。諏訪子が、神奈子が愛したクニの姿そのものであった。
「ここは妖怪山と言うらしいの。下りれば、人里もあるらしいわ」
「ヒトもいるのね……そう。そっか……あは……」
諏訪子はその場にペタンと座り込み、ただ懐かしさに思いを馳せる。自然が神であった時代が回帰したような、この
幻想郷に。
「ああ!! いらしたんですね、いらしたんですね!?」
「幻想郷へようこそ、諏訪明神様ッ」
「厄いわぁーホント厄いわぁー」
そこへ、三人が駆けて来る。良く似た姉妹が二柱に、妙に元気だけれど陰鬱そうな神が一柱。
「あら、この子達は……」
「前から住んでいる子達よ。ここに転地する為に少し手伝ってもらったの」
「神奈子さま、あの、お約束の方は?」
「摂社の大歳神社でしょう? ふふ、小さな御社だったから持って来たわよ。早苗に感謝なさい」
「だって、だって静葉お姉ちゃんッ」
「よかったわねー穣子。ふふ、ふふふ」
「あ、混ぜて、あたしも混ぜてよ」
早速、神奈子の移住は幻想郷に好影響を齎しているらしい。姉妹と厄神は、抱き合って喜んでいる。厄神は恐らく関
係ないのだろうが、居座る場所が増えてそれはそれで嬉しいのだろう。
「ねぇ神奈子」
「なぁに?」
見渡す限りの自然。そして、もう殆ど交わる事もなかった、しっかりと実体を保つ神。来たばかりだというのに、諏
訪子は幸せで、逆にそれが不安となってしまう。
桃源郷とはそういうものなのだろうか。ただ、それだけが疑問だった。
「今度は、何時まで続くかしらね」
「その時はその時。今はただ、あるモノを受け入れましょうよ。あるままにでしょう?」
「……そう、だったね」
自分勝手に幻想郷へ移住した事。これはやはり罪悪であった。だがもし、カミとヒトが一体であるとすれば、カミに
も自由を選ぶ権利があるのではないだろうか。
意思があり、生きる希望を秘めたものは、須らく、その思いを尊重すべきではないだろうか。
ただ自由ばかり主張する小物ならばそれも違うが――
――しかし、この八坂刀売神も、洩矢神も……千数百年にわたって、ヒトに尽くしてきたではないか。信仰という名
の絆で、ヒトの心に安寧を齎したではないか。
今やっとその束縛を解かれたとしたら……誰がこの神々を責められよう。
「かぁーなーこぉーさまぁー……」
遠くから、うら若い少女の声が聞こえる。その声の主は――今回の功労者。
「ん?」
「げぇっ、早苗ッ!! あわわわ……隠れなきゃ」
「ちょ、なんで今更隠れるのよ」
「色々あるの、色々。私はまだ出てきちゃ駄目なのっ」
「ま、まぁ貴女が言うなら……」
諏訪子はそそくさと本殿の中に隠れる。現れた早苗は、ナニモノかの気配を感じて訝るが、神奈子に遮られた。
「ナニモイナイワ」
「いや何も聞いてませんし、でも……居たでしょう……」
「そこの子達じゃあないの?」
「初めまして」
「はじめましてぇ」
「厄りまして」
「はぁ……この方達は?」
「貴女がお祀りする新しい神様三柱。人里の信仰を集めるにも良いから、面倒見てあげてね」
「これも諏訪信仰復古のためだと思えば、三柱なんてどーってこともありません。大船に乗った気持ちでいてくださ
いな。お三方」
「――期待してるわ。さぁ、頑張りましょう、幻想郷の信仰を集めなければね」
屈託の無い早苗の笑顔が神奈子には眩しい。
もう、彼女は自分を偽る必要も無い。ありのまま、この幻想郷で暮らして行く。
現代人であるからして、なかなか生活も相成れない部分があるだろう。苦労もするだろう。
だが、そこには苦労でしか買えない幸せがある。幻想での苦労あっての、幸せがある。
「――はいッ!!!」
神奈子は思う。
この地こそが蓬莱なのであると。
カミもヒトも、霊も妖怪も、須らく受け入れる、理想郷なのだと。
失われた者達が集う、最後の王国なのだと。
end
あなたは神だ。
風神録話なのに紫が登場するのも違和感が少なかったです。
最後に一つだけ、誤字と思われる箇所があったので
その声は確かに済んでいて → 澄んでいて
風神録はまだあまり把握していないですし、神話もさっぱりなのですが、すんなりと読めてしまいました。
出雲の神々の扱いが酷すぎるだの、少しひっかかった所はあるのですが、純粋に私がこのお話に差し上げたいと思う点数を。
途中実際の神話と絡めたあたり、現実味が強くなったせいか若干違和感を感じましたが、クライマックスで話が怒涛のごとく動き出した時には気にならなくなっていました。
次回作も楽しみにしています。
特に新キャラ三人の立ち位置、心情が丁寧に書かれてて非常に読みやすかったです
取り敢えず私も合唱
惹きこまれました。とても面白かったです。
最後に禍根を残さず別れの挨拶が出来てはいましたが……そこが残念でしょうがないです。
……と言ってもそれは作品としてではなくストーリーの中で、です。
柏子が諏訪子だったというのはやられましたね。全然気付きませんでした。
風神録登場キャラが一気に好きになってしまいましたね。どうしましょうか(笑)
こういうお話は大好きです。
毎回毎回面白いお話をありがとうございます。
とても面白かったです。
現人神とはいえ人である早苗は、このような葛藤があったのでしょうね・・・
神クラスの幻想郷入りともなれば紫が動くのも納得です。
しかし雛のセリフが何気にひどい気がしますw
「厄りまして」ってwww
何というか、私自身の風キャラに対するイメージと全く相違なく、特にケロちゃん…いや、諏訪子様の素晴らしいカリスマが。もう。
途中で諏訪子様に泣かされそうになり、最後は厄神様に笑わせてもらいました。
一言で言えばそう、「ビックバンあ~う~☆」
神奈子がタケミナカタの巫女であったという設定は実に巧いと思います。
これなら確かに両神格の融合がさほど無理なく可能ですね。
あとスーパータ○ダヤの特価品にゃ笑わずをえんなw。
以上、守屋柏子でその正体にピンと来る、地元からでした。
が、この作品はそれをとっぱらってくれました。ありがとうございます。
とりあえずご飯の前には手を合わせようと決心する今日この頃。
是非とも、俄雨さんの書いた諏訪子や早苗をまた読んでみたいです。
素晴らしい作品だと思いました。凄く面白かったです。
早苗さん好きで、このSSに出会えて本当に良かった。
しかし自分も食事のときはいただきますや御馳走様をきっちりいいます。
自然に感謝、神様に感謝です。
食事前に手を合わせると言う小さなことでも、立派な信仰。
そういえば、一人暮らしをしてからいただきますを言って無いなぁ・・・・・・
これからは手を合わせるようにします。
あと、諏訪子様を招く時の紫様の言い回しが素敵でした。
近所の諏訪神社や稲荷神社に行きましょうかねぇ…
ああ、すっかり食べるだけの単なる作業になってました……
感謝して手を合わせようと思います、明日と言わず今夜の夜食から
最後まで読んで、自分が日本人でホント良かったと思いました。
描かれた人間、早苗の日常から非日常への推移とその心情の揺れ動き。
早苗を愛する神二柱の思いやり。
キャラ設定.txtを読んだときにもやっとおぼろげに浮かんだ空想が、こんなにも鮮やかな形になって現れてくれたことに感謝を。
神奈子様と諏訪子さまの仲良しっぷりも大変興奮もといほがらかな気持ちにさせていただきました。
後半の大和の神VS土着の神のシーンからもう涙腺直撃。
ああ、もうどれだけ語ればこの作品の魅力を言い表せられるのか。
紙面も尽きましたのでこのあたりで終わりますけれど。(紙面じゃない)
風神録のキャラ設定を読むだけでウルってたのにこれは反則…です…。
愛する友人とその地のために立ち向かった諏訪子様万歳!
さりげなく、紫に続くカリスマの持ち主なんじゃないでしょうか ケロちゃん…。
何はともあれアツイ感動をありがとうございました。
前編後編一気に読んじゃいました。
諏訪子の在り方に感動。
最初は違和感があったのですが、考え直してみればこれだけの大事なのだから紫が出てくるのは当然ですね。
毎度、素晴らしいお話をありがとうございます。
で、このケロちゃん(柏子)はセーラーなのかブレザーなのかそれとも(ry
毎回レベルの高い作品を書かれるので、その力には羨ましいばかり。
ケロ…諏訪子様の溢れんばかりカリスマには身震いすら覚えましたが、カリスマと信仰は立てるモノは違えど同じもの。身震いするのは当然ですね。
これが締めには相応しいでしょう!
御馳走様でした!
俄雨さんのこれからの作品も楽しみです。
感動をありがとうございました。
早苗さん、良い子だなぁ
一気に読んでしまった。
言葉足らずの私なので一言で終わらせてもらいます。
いい作品をありがとうございました。
それを吹き飛ばすパワーに引き込まれました。
今回の作品、どうやら違和感を感じる方がいらっしゃるようで、それをいかになくして行くかが課題であるように思えます。文章力語彙力含め、今後も精進して行きたい所存です。読んで下さって有難う御座いました。
しかしキャラの口調に違和感が。神奈子とか雛とか雛とか雛とか(ぉ
既存のキャラである紫を上手く使っていることで幻想郷に風神録組が馴染みやすくなるように感じました。
ただ、後書のゆかりんの部分はちょっと異質?
ギャグSSならいいにしても、この本編の後書としては……
もうガンk(ryとは呼びません。ぜひ神奈子様と呼ばせていただきますw
ちなみに最後の新聞はなぜか蓮子とメリーが食い入るように読んでるという妄想をしたのは私だけでいいですw
信仰観とかも原作から一歩踏み込んだ内容で非常に惹かれました。
話の大筋は一瞬で予想できる正統派過去話なのに、どうしてこれほどにひきこまれるのか。
楽しい40分間を過ごさせていただきました。ありがとうございます。
神奈子様かわいいよ!
諏訪子様もカワイイよ!
早苗ちゃんもテラカワユス。
カーリッスマ!カーリッスマ!
微細な点でん?と思うこともなくはないですが、全体を通して読んで楽しめる話でした。
面白かったです。
神々の世界に部隊を置いた作品でありながら、バックグラウンドを疎かにせず物語が進行されており、手抜かりのない重厚な雰囲気を感じることが出来ました。
風神録の作品はまだ数が少ないというのに、のっけからここまで完成度の高い作品が出てしまったのは実に罪なことですね――まるで先鞭のない部分でここまで隅々に手を入れて精緻に作り上げられるという、その実力に深く感服しました。
良作ありがとうございました。
あと他の方も描かれてますが、神奈子の口調には確かに少々違和感が。
原作中では霊夢に「ずいぶんフランクな神様ね」と言われてますし。
が、早苗と二柱の心の葛藤や諏訪と出雲の神々の絡ませ方など、
本当に読み応えがありました。ごちそうさまでした。
しかし雛が…(笑)
「立派に設けてある祭壇以外は大した物はない為」
という部分は、「は」が連続してしまっているため、
「祭壇以外に」や「大した物が」などに変えた方がすっきりするのではないかと思います。
余計な指摘でしたら済みません。
悩む心の襞も負の感情も熱い友情も母性愛もとても巧く描かれますが、特に素晴らしいのは「人と人が分かり合う」描写ですね。これを読むといつも嬉しくなって元気が出てきます。
>人道にも劣る。
悖るでは?
もー素晴し過ぎて信仰心しぼり取られました。
厄神様の口調にも思わず笑っちゃいましたよ、「厄い」ってw
とても素敵な話でした。風神キャラがか~なり好きになりましたw
有意義な時間を過ごさせて頂きました
なんかもうジブリ化できそう。
特に、現代における神様の定義について深く考えさせられるものでした。社説にある記者と同意見なのにはマイッタ…。
現人神である早苗は、現代では異端以外の何者でも無いと言う所に悲しみを感じますね。こうしてどんどん幻想郷入りしていってしまうのでしょうか。
登場人物については、加奈子と諏訪子の絡み具合が非常にグッドw 長年一緒にいればフランクにもなるでしょう(笑)
加奈子の早苗に対する母性溢れる態度も良いですね。幼いころから見守っていたのでしょうか、実に思いやりに溢れたやりとりが心を和ませてくれました。
幻想郷に来た早苗が、普通じゃない人間たち(紅白・黒白・メイド長等々)に出会ったときにどういった反応を示していくのかが楽しみですね。
>嘘であると風潮
もしや「吹聴」では?
ちょうど日本神話を調べている途中でしたので、背景関係などに関しても楽しく読ませて頂きました。
特に、諏訪子と出雲神の軍勢が対峙する場面では思わず鳥肌が立ちました。
まさに、第二次の諏訪大戦と言ったところでしょうか。
素晴らしい作品をありがとうございました。
次回作も期待しています。
柏子の正体もなんとなくわかり、結末も決まっているにも関わらず
読んでいてグッと来るものがあるのはやはり書き手が優れているからだと思います。
公式設定と二次設定をうまく融合させて、
その上でキャラクターの魅力を引き出してしまうなんて。凄すぎです。
若干詰め込みすぎなのが唯一惜しまれる点でしょうか。
良い作品でした。お腹いっぱい。
どうもありがとう。
> 「厄いわぁーホント厄いわぁー」
これで全部吹っ飛んだw
嘘です。素敵なお話ありがとうございました。
守矢組好きにはたまりませんでした。
二柱もカリスマあってかっこいいよ~
できれば三人の幻想郷生活も見てみたいな。
地元民にはさらに嬉しいお話でした。
結末が明らかなのにここまで引き込ませられたのは驚きでした。
どうもありがとうございました。
雛…あんたって娘は…orz
すごく楽しませていただきました。
別に神社移動だから紫が関わってるのは普通ですね。
話に引き込まれて面白かったです。
文句なしです・・・
神様可愛いよ神様
ストーリーは勿論文章や描写も素晴らしく、感動しました。
個人的には事代主命以外のモブ出雲神の扱いが少々酷かった気もしますが、元々100点では到底収まらないレベルの感動があるので満点を献上します。
扶桑日報の社説が、心に染みた。
おもしろかったです。頑張ってください
けどちょっと駆け足だったかなぁと思わなくもないので90点。
暗く重い会話しかなかったのに幻想郷にきて最初に住人と交わした厄りましてっ
開放感ありすぎでしょう。神奈子諏訪子の気持ち、望みを思うとたまらん
この辺のカタルシスが大好きです
あとがきも相変わらずで大好きです。
調子を崩して台無しにするんじゃなくて、気持ちがいいあとがきなんですよね。
今日から神様を意識した生活を始めてみようかなと思ったり
現人神でありながら女子高生、早苗さんの不安定な性質がすごく良くあらわれていたとこと
なんだか可愛い神奈子様と、無邪気な幻想郷の三柱が可愛い!ほんと可愛い。そして雛ww
全部で500点くらいつけたいとこですが、100点が上限故。
いきなり日本語は難しいのかもしれないので、とりあえず母国語で書いたのを読んでみたい