※風神録です。お気をつけください。
その意見に賛成する事も反対する事も、意味は無い。東風谷早苗の返答など待たずとも、八坂神奈子は決断するし、
否定は許されないからだ。それに、早苗自身もまたそれに反対する気持ちもない。
双方共ほぼ異論は無い。これより守矢神社一帯は全て幻想となる。
「楽しみです。幻想郷」
「そうですわね……それより早苗、少し頑張りすぎではありませんか」
陽が別れを告げ闇が侵攻し始めた湖の辺、ひっそりと一区画だけ区切られたように存在する林の中。注連縄の結界に
よって現世と完全に別たれた一角で、神は人へと問いかけた。
「少しでも早く向こうに行って見たいんです」
守矢の巫女、東風谷早苗は屈託の無い表情で八坂神奈子の問いに答える。傍目から見ても些か窶れ気味ではあったが、
そのような表情で語られると諏訪明神たる神奈子も反論出来ない。
「とはいうものの……急ぐ必要はないのですよ」
自分の可愛い巫女の頭を撫でる。言葉では今一伝わらない深慮を如何にして伝えようかと思った結果の行動だ。
「えぇ。解っています、神奈子様。ほどほどですね、ほどほど」
その手を取り、握り返す。早苗は母に労わられるような想いを感じ、温かな気持ちになる。神奈子が解っていないの
は、このような行動が早苗に無茶をさせる原因であると言う事だ。早苗は周りの環境が作り出した性格のお陰で、心か
ら優しくされると俄然やる気が出てしまうタイプである。
「もう一仕事してきます。結界に綻びがあるとそこから崩壊しかねませんから、要チェックです」
「そ、そう。無理は駄目ですよ」
「はい!」
早苗は嬉しそうに返事をして、神奈子に背を向けると暗がり広がる林の中へと消えていった。
「……」
心配である。力ある巫女とはいえ、人に近しい身。神長官の位を持とうとも、現人神と称えられた過去の威厳があろ
うとも、やはり生身である。無理をすれば疲れるのだ。
――詰る所何が疲れるかといえば、幻想郷へ移住する為んはこの膨大な敷地を結界で覆わねばならない。守矢神社だ
けならいざ知らず、守矢の拝殿に本殿に、摂社末社に湖丸ごと。並大抵の術者のこなせる範囲ではない。移すにしても、
それは個別にやるべきなのだが、早苗は己の力を信じているのか、この位は平気だと笑って見せている。
「大した子ね」
「――八雲の」
……大岩の上で神酒をあおりながら巫女の心配をしている神奈子の元に、突如声が掛かった。
「うちの巫女に爪の垢を煎じて飲ませてあげたいわ」
「少し頑張り過ぎですわ。幾ら言ってもきかないの」
境界の割れ目からその少女が優雅な仕草で出でて、神奈子の隣へと座る。森羅万象何もかも寝静まった夜だと云うの
に、彼女の存在は派手で、非常に浮いている。神奈子もその異常さ加減に最初は驚かされたものの、今は大分なれて来
ていた。盃に神酒をついで差し出すと、八雲紫は胡散臭く笑い、それを受け取る。
「悪いわねぇ。こちら側は信心が薄いから私も完全に力を扱えないのよ」
「どうかしら。そんなものにすら左右されないアベコベな存在なのに?」
「……あら、解るかしら?」
「ふふ。信仰心は衰えようとも、私は神ですもの」
「ま、代償だと思ってくださいな。無償で移住させても構わないのだけれど、それじゃあ私に借りを作ってしまうで
しょう? 幻想郷で借りを作るとね、貴女が思っている以上の要求を突きつけられるわ」
「手伝ってはいけないのかしら」
「決断するのは貴女。そして神を支えるのは巫女の仕事。大丈夫、あの子は強いわ」
「――そうですわね」
紫はそう諭してから、盃をあおる。酒の質が落ちているのも、信仰心低下の現れだなと想い、現世を憂いた。外には
もう信じる力が殆ど無い。信じすぎれば世は大きく動くが、信じなさすぎれば世は劣化する。神に、殊自然神に敬意を
抱かぬ人類がこのまま何処へ向かうのか。八雲紫はそればかりが心配であった。
「未練は」
「私には」
当時は朝廷の討伐者(田村麻呂)すら頭を下げた諏訪明神も、今はもう歴史書の一部にしか登場せず、誰も気に止め
る事もない。地元の信仰心はあれど、当時のような栄華は訪れないのだ。神奈子に未練がある筈もなく。
「けれど」
早苗はどうなのだろうか、と考える。
早苗自身は反対する気持ちはないと常々言っているし、その気持ちは行動として現れている。しかし、奥底でどう思
っているかは、本人にしか解らないものだった。
「幻想郷は面白い所よ。暇ではあるけれど、その暇が心地よい場所だから」
「えぇ」
「もう一柱は?」
「干渉しないと言っていますわ。彼女にとってこれは瑣末な問題なのでしょうね」
「そう。面白い神様ね」
「もう数千年の付き合い。あの子はそういう子です」
「……では、また。ああ、向こうの神様には、一応伝えておくわ。準備もいるだろうから」
「すみませんね。お休み。八雲の」
「ゆかりんでいいわよぉ」
「……」
スキマ妖怪はそういい残し、割れ目へと消えていく。神奈子からしても、実に理解不能の妖怪だった。
幻想郷移住の話は守矢の中でもあったが、直接勧めてきたのはあの八雲紫であった。多少揉め事はあるだろうけれど、
幻想郷は全てを受け入れるように出来ているから何も心配は無いと。それが幻想郷移住計画の踏ん切りをつけさせた一
言だった。どこの誰ぞとも解らぬ妖怪として最初は警戒していたが……害はありそうには見えたが、後ろ暗いモノは見
受けられなかったので、神奈子も早苗もそれを信じた。
過去の文献を漁り、紫の力量と能力だけを頼りにして掴んだ情報で、それが境界の魔であると知ったのは後日の事。
噂では知っていたので、これだけの力を持ちながら日本の何処に潜んでいたのかと言う疑問は幻想郷と言う記号によっ
て解消されたのだ。
幻想郷。あの妖すらも許容される桃源郷。信仰を失って久しい諏訪の者達には、一縷の希望である。
「……早苗、大丈夫かしら」
神酒を注ごうとして手が空を切る。
「不味そうに飲んでいたクセに」
本当に、良く解らない妖怪である。
ただ、そんな妖怪でも生きられる場所だと思うと、神奈子は少しだけ嬉しくなった。幻想の郷には幻想と成り果てた
ものが吹き溜まる。なれば、己の追い求めるものもまた、必ずある筈であるから。
そして同時に、早苗が心配だ。早苗は現代の娘。人としての本分はあるし、家族も友達もいるだろう。それと一緒に
来るのか、切り捨てるのか。そういった葛藤もまた、ない訳がない――。
壱、東風谷早苗
「東風谷さん、東風谷さん?」
「え、あ、はい」
「どうしたんですか。机に突っ伏して」
「さ、最近忙しくて、ですね。あははは……」
「まぁ、真面目な貴女だから大丈夫だろうけれど……大学、都会に出るのでしょう?」
「す、すみません……」
「しっかりしてね。はい。じゃあ佐藤君、次を読んで」
「えーっと、そいつあ困った。山の神がお怒りになられたのだ。そういって田吾作は村に戻って皆に知らせると……」
早苗は机に突っ伏していた頭を上げて左右に振り、ぼーっとした目線で黒板を見る。
(……疲れすぎかも)
上の空になりながら、シャープペンをカチカチと押し、授業を受けるでもなく、己の身体の心配をしてみる。夏の終
わりから今にかけて毎晩、幻想郷への道を開く為の結界を張りに外へ出ているのだ。学業との両立はなかなかに難しい。
両親に不思議な目で見られるようになってからは尚更であった。
(早苗さん、早苗さん)
(物部さん……?)
(これこれ)
隣の席の子が何やら包み紙を差し出してくる。気だるそうにそれを受け取り開いてみると、これまたしょうも無い事
が書かれていた。早苗はそのメモ紙にある質問に対し、棘のある返答を書き込み、元へと返す。
「うわ、早苗ちゃんに振られた」
「山田、五月蝿い」
「ぶふふふふッッ!!! 山田ざまぁ」
ゲラゲラと下品な笑い声が響く。若い女性の先生も頭を抱えるような仕草をしている。
憂鬱である。何故にこんなにも周りが阿呆なのかと、その事が頭を悩ませるに値する。
早苗は、世辞では無く周りから尊敬されていた。地方でも有力な神社の跡取であり、容姿も良く、勤勉。両親と総代
を含む一部の氏子達しか知らないが、早苗は奇跡を起せる巫女神である。その力は雰囲気として漏れ出しているのか、
それも相俟って、確実に一目置かれる存在であった。
そのような環境がいけなかったのであろうか。東風谷早苗という人物は多少、周囲を見下していた。意識的なもので
はなく、心底に蟠るモノ。表には決して出さないが、心の奥では辺りが馬鹿だと決め付けている。
「早苗ちゃん、もう少し包み隠そうよ」
「だ、だってそういうの逆に恥ずかしいし……それに、男だったら真正面から来て頂戴よ」
「おお、流石早苗嬢。女々しさが無いなぁ」
「貴方が女々しすぎるのよ」
「山田相当嫌われたぜ。終ったな」
「鬱だ死のう」
「はた迷惑だから一人でひっそりお願いね」
「ぶふっ!!」
喧しいと先生が山田の頭を引っ叩く。そのお陰で早苗は幾分かすっきりした。馬鹿にしないとはいっても、馬鹿をす
る人間を馬鹿のようにたしなめる事ぐらいはする。空気は読めるのだ。
「ったく……授業が進まない」
「不肖山田、自ずから廊下に立ってまいります」
「どうせサボるんだからいなさい」
「見抜かれた」
また教室に笑い声が響く。憂鬱である。こちとら連日夜更かしして結界作りに励んでいるのに、コイツラときたら…
…とは思うが、そんな苦労は誰も知る所ではないし、何せ自分の為の行ないだ。
(幻想郷かぁ……)
そんな喧騒の中現実を逃避するように、早苗は神奈子が幻想郷へ行くと決断した日を思い出す。
突如人間の世界を離れる、と言われた時は流石に恐怖であった。自分の知らぬ世界へ移住する、などと、異能を持つ
早苗も、話がぶっ飛んでいると考えたからだ。
しかし己の神は真剣そのモノであったし、神長官である己の威厳が発揮出来る場所なのではないかと思うと、胸が高
鳴った。幻想になってしまったモノが集う場所。信仰心亡き日本国とは隔絶された、最後の楽園。自分にはその桃源郷
へ赴ける資格がある。……神童と湛えられる、特別な人間だからこそ、そのような想いは日に日に強くなっていった。
そしてそれに連なる今はどうだろうか。
何の事もない。今すぐこの現世から離れたいと考えるようになっていた。連日連夜結界を張り巡らせ、地鎮を行い、
祭壇に向かって榊を振る。今までは巫女としての単なる業務でしかなかった神事も、桃源郷へ至る道であると思えば思
う程、それが愛しく思えた。幼い頃から叩き込まれた術も、業も、元から備えた力も、全てはこの時の為だったのだと、
早苗は歓喜する。
早苗は、嬉しかった。恐怖もあったが、もはや悩むにも値しない恐れ。
「あー、今日はここまで。指定した範囲まで復習してくるように。東風谷さん、号令」
「起立。礼」
「おつかれちゃーーーん」
やっと憂鬱で怠惰な今日が終る。早苗はヨシと意気込むと、鞄に勉強道具一式を放り込んで立ち上がる。
「早苗さん、ちょっとお店に寄っていかない?」
「ごめんね、急いでるから、物部さん」
「そう……ごめんね」
「あ、謝らないで。また機会がある時にでも」
「うん。じゃあね、早苗さん」
隣の席の友人から声をかけられるが、それには取り合わない。足早に廊下を抜け、下駄箱を通り過ぎ、自転車に乗っ
て商店街を突っ切り、自宅への道を急ぐ。一分一秒無駄にしたくない。それだけの時間があれば、さっさと儀式を済ま
せてしまいたい。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい、早苗さん」
母屋には母の姿。その瞳は心配に充ちていた。早苗も解ってはいるのだが、取り合わない。部屋へと戻って直ぐに着
替えると、準備物を手に玄関へと向かう。
「早苗さん」
「はい、お母様」
今すぐにでも外へと出たかったが、母に止められた。いつもなら見守るだけであったのに、今日は違うらしい。
「……長い注連縄ですね。大方結界用なのでしょうけれど」
手提げ鞄からはみ出たものを指して母は言う。
「……」
「こそこそする事でもないでしょう。それとも、こそこそしなければいけない事をなさっているんですか」
「神託の通り動いているだけです」
「神はもうお隠れになられました。貴女の事でしょうから、きっと神社の為なのでしょうけれど、目的が解りません」
「――時が来ればお話します。お母様は、その時にご決断ください」
「……早苗さん」
では、と一瞥し、外へと出る。お気に入りのピンクの十文字に乗って、湖へと走る。
往来する車をかわしながら、人を避けながら。信仰心亡き国を思いながら、それを欺瞞であると感じながら。
「観えないものね、お母様達は」
家族に、神奈子が観える者はいない。神社一家であるし、信仰心は人一倍ある筈なのだが、それでも神奈子の姿が見
えるのは早苗だけ。威厳ある神の姿が薄れるほど、神奈子を形作る信仰心は無くなっていた。
早苗は、ある種神奈子に対して同情がある。そこに居るのに居ないと言われる我神が可哀想なのだ。小さい頃から傍
に居て、事ある毎に早苗の助けをした、親よりも近い存在。その神奈子が観えないと、実の母は言う。父も同じだった。
幻想郷なれば。幻想郷なれば、神奈子はそんな想いをせずとも良くなる筈。元来ある力を思う存分発揮して、威光を
取り戻す事が出来る。幻想郷が幻想となったものを受け入れるのなれば、信仰は最早幻想であるに違いなかった。
一刻も早く、この不憫な世の中から神奈子を連れ出し、幻想の神にせねばならない。
「――相変わらずちょっと遠いのよね、ここ」
距離が縮まる訳が無いのだが、この距離のお陰で時間をロスしてしまうので、そんな愚痴が漏れてしまう。
早苗は一息置いてから湖の辺に自転車を止めて、近くの林の中へと隠れる。ここで正装に着替えてから、穏行印を組
み、真言を紡ぐ。私服では身が入らず、結界に綻びを作ってしまう。とはいえ、こんな巫女服を着て湖の長い周囲を回
る事など出来ない。人気がある場所であるし、現世とオサラバすると言っても、やはり気恥ずかしいのだ。
術は受け売りであった。宗教概念がごっちゃになってはいるものの、元からごちゃごちゃのままなった大系であるし、
早苗からしてもさして違和感はなかった。今では陰陽術の方が純粋な神道術式よりも手馴れている。これも血族の成せ
る業だったが……勿論、日陰者である為、誰に評価されるでもない。
「さぁ……今日こそは」
周囲十六キロに及ぶ大きな湖。流石にこれ全てに注連縄を張り巡らせる訳にもいかない。神奈子にそれを進言したと
ころ、要所要所に呪の発現点を作り、術の発動時に結界を張る、と云う様式にするよう言われた。多大な霊力と地力を
必要とする為、地神の協力は必要不可欠。非常にリスクは伴うのだが、十六キロ全て注連縄で囲うよりは手軽であるし、
何より人の迷惑にならない。時期は違えど漁をする者も居るし、釣り人も居り、遊覧船などもある為、下手すると注連
縄が途中で切られてしまう。
安全策と言えば安全策なのだが、如何せん面倒な事がある。
(幻想郷へ行くんです。貴方もここに居るより、よっぽど良いと思うのですが)
(いや。俺はずっとここにいた。俺はここにしか住まん)
(そこをどうにか。湖さえ動かせれば、向こうで貴方も幸せに暮らせるんです)
(大体ホントかいね。湖ごと異界に引越しなぞ。幻想郷はきいた事があるが、観た事はないでな)
(神奈子様があると仰るのです。ありますとも)
(八坂刀売神かぁ……ミシャグジ様はなんと?)
(ミシャグジ様……?)
(洩矢(もれや)神様だよ。アンタ巫女だろうに)
(あ、あー……あははは)
(怪しいもんだ)
(本当に、最後は貴方だけなんです。お願いしますよ。移住後もお供え沢山持ってきますから)
(洩矢神様がウンと言わぬ限りは、俺は動かん)
これである。
区画整理で立ち退き拒否する住人と、お役所の争いそのものだった。湖はそもそも、諏訪明神だけのものではない。
数多の神々がおわし、その中の代表格が神奈子なだけである。昔から湖を住まいにしている者達はなかなかに頑固で、
交渉するだけで数ヶ月を要した。
そしてこの土地神が最後であるのだが……頑固なのである。洩矢神が頷かぬ限りは移住しないと言って聞かない。早
苗も、勿論知らぬ訳ではなかったが……所在が解らない。古代神であるし、神奈子も知っているような素振りを見せる
のだが、当の本人に逢わせてくれようとはしない。
洩矢神さえ頭を振れば、この神もウンというのだが……早苗は、この土地神との交渉だけでもう一ヶ月を費やしてお
り、流石に狼狽してしまう。
(洩矢神様はどこにいらっしゃるんでしょうね)
(あんた守矢の巫女じゃないのかい)
(そ、そうですけど)
(んん? じゃあ何で洩矢神を知らない。御奉りしているのは八坂刀売神だけでもあるまい?)
(はぁ、まぁ。摂社末社沢山ありますし……でもご本人がどこなのやら)
(ははぁ……完全にお隠れあそばしたのか。いやはや。これでは移住できぬのぉ)
白髭を蓄えた老神は顎を摩りながら笑う。こうなってはいつも負けパターンである。早苗は仕方なく、お神酒だけ置
いてその場を立ち去る事とした。
薄暗い湖の周囲を歩き、先ほど着替えた場所の奥まで進む。大分季節も秋へと向かっていて、夜はなかなかに肌寒く、
早苗は腕を擦りながら周囲を見渡す。
「神奈子様」
「おお、早苗。大義ね」
「いえ……」
「そう。ほら、此方へいらっしゃいな」
「はい」
文明が開かれたこの一帯から、隠れるように存在する大岩の上に、早苗の神は居た。柔和な顔で微笑み、彼女を誘う
と、優しく励ますようにする。
「急ぐ事はありません。早苗」
「けれど、私は早く神奈子様を幻想郷へと導きたいのです」
「何故、そこまで躍起になる必要があるの」
「――それは……」
口にしようとして、止まる。我神に「貴女が可哀想だから」などとは、口が裂けても言えない。信仰心に拘る神にと
って、その発言は冒涜である。まるで威厳が無いと言っているのと同じだ。
「まあまあ、飲みなさいな」
「で、でも弱いですし、まだ途中ですし」
「良いから。神様のお酒が飲めないって言うの?」
「で、では」
盃を持たされ、溢れんばかりの酒を注がれる。空を見上げるまでもなく、そこには大きな月が映っていた。
……焦る理由はもう一つある。
神無月が近いのだ。
この時期になれば、神々は出雲へと神集う。諏訪の有力神たる神奈子が呼ばれない訳がない。それで無くとも信仰心
亡き今、有力な神が幻想郷へ隠れるとなると、国津神々がお許しになるかどうか知れないのだ。
幻想郷は異界の中でも特殊である。高天原に中津国に常世に根乃堅州国に黄泉と、何層かに分かれる八百万の概念の
世界とは、幻想郷は相成れていない。自然発生したものではなく、人工物であるのだ。一度幻想郷へと赴けば、諏訪明
神が中津国へと帰って来る事はないと、神々は承知している。
あの世へと参られた大神達もその席では言う事を言うだろう。諏訪明神……神奈子も発言権ある立場とは言え、大和
の恩恵を受ける神には到底太刀打ち出来ない。引き止められる前に、必ず移住せねばならないと……早苗は常々思って
いた。
「心配?」
「……とんでもない」
「いいの。早苗の考えている事は手にとるように解るから、繕わなくても。私は貴女の全部を把握しているのよ?」
「人として浅いのです」
「大丈夫。出雲に赴いても、あの馬鹿共説き伏せてきますわ。大国主の阿呆も、嫌味たらしい稲田姫も」
「お強いのですね、神奈子様は」
「当然ですわ。一体どれだけ長い間の付き合いなのやら」
神奈子はそう語り、盃をあおる。己の可愛い巫女の御髪を撫でて微笑み、その度量の広さを見せる。心配させない為
に、心から巫女を案じていると伝える為に。
「……西南の土地神がウンと言わないんです」
そんな優しさに触れた為だろうが、ポツリとこぼす。言ってから、早苗は口を抑えた。今まで弱音の一つも吐かずに
居たというのに……今のは違います、と弁解するものの、神奈子はそれに対し、多少小首を傾げた。
「私の名前を出しているのにも関わらず、です?」
「あいやその……う……あう……」
それは、神奈子の威厳が届いていない、という証明である。早苗は仕方なく……ハイと頷いた。
「その土地神は何と」
「はい。その……洩矢神が頷かぬ限り、ここから動かない、と申しまして」
「坤か……ん、んん。そう、洩矢が首を縦に振らなければ駄目だと」
「私はその洩矢神を知りません。古代神であり、加奈子様に楯突いた神であるとは知っているんですが」
「あいやその……うーん……」
神奈子は、バツが悪そうにアッチを向いて酒を飲み始める。どうやら明言を避けたいらしい。早苗はそんな神奈子の
行動を不思議がるが、深く追求するような立場でもない為、言葉を控えた。
「訊かないの?」
「訊けません」
神奈子としては、今ココでそれを明かしてしまっても良いのかと云う躊躇いがある。何せ、洩矢神は東風谷早苗の祖
神。今更神奈子が本当は祖神じゃあありません、などとは言い難い。早苗が勉強不足であった事も災いしており、神奈
子が優しくしすぎた所為で、思考停止しているのである。
呪術や学問に関しては申し分の無い知識量を備えてはいるのだが、殊己の身に関しての問題はあまり気にせず、調べ
もしていない。早苗の盛大な勘違いであるのだが……神奈子は言えない。それに、早苗もまた聞く事を否定している。
例え神奈子が真実を話した所で、早苗は離れたり、白い目で見たりはしないだろう。しないだろうが、神奈子として
もこれ以上の信仰力低下は避けたい事実であるし、何より、この子個人に禍根を残したくなかった。
可愛い己の巫女である。誰が自分の不利になる事を率先して話したがるだろうか。
「ごめんね、少しでもお手伝い出来れば良いのに」
「とんでもない。神を祀るのが巫女の仕事。加奈子様はどっしり構えていてください」
「早苗……」
――もう長く生きた。建御名方神を奉り上げ、討伐の戦巫女としてこの地に赴いた時以来……様々な時代の流れと、
人々の変化、そして信仰移ろい行く姿を見てきた。自分を神として崇め奉る一家を庇護下において、一大勢力を築き上
げ、朝廷すらも脅かした。
しかしそれも全ては泡と消え、祭りは形式だけのものとなり。人々の心から信じる思いは消えて久しく、もう一生、
取り戻す事もないだろう。大和の神話に取り込まれる前もこのような危機感を有しては居たが……今はそれ以上と言え
る。
どうあっても信仰はあったのだ。だが、今はその信仰の絶対数が少ない。
そんな中、そんな消え失せて淘汰され行く中、自分を直に見つめ、問い掛けてくれる人間がいる。
「早苗……」
もう一度口にした。可愛い可愛い、自分の巫女。最早誰も見えぬ自分を愛してくれるたった一人の巫女。失いたく無
いのは、当然だった。
「か、神奈子さま?」
近くに寄せて抱きしめる。自分の代わりにここまで頑張ってくれるのだ。
「貴女だけですのよ。今語りかけてくれる人間は、貴女だけですの」
「神奈子様。そう嘆かないでください。幻想郷は目の前です。そこでは、貴女の威厳を思う存分、発揮出来るに違い
ありません。神奈子様は、神奈子様は再び大明神として、崇められるのです」
早苗は、その言葉で全てを告白していた。もう本当に信じる心を持った人はいない事を。明神としての力が、他方へ
殆ど届いていない事を。けれど、幻想郷にさえ行ければ、全て解決するのであるという希望を。
「神奈子様。洩矢の神がおらずとも、私は必ず土地神を説き伏せます。だから、もう少しの辛抱です」
「私は観ている事しか出来ないけれど……無理は駄目。ね、それだけは、気をつけて。最近頑張りすぎですわ。貴女、
自分の顔を御覧なさいな。頬が少しこけているでしょう」
「――はい」
早苗は、神奈子の胸元で小さく返事をする。己が己である所以。東風谷早苗が東風谷早苗になった全て。早苗からす
れば……矢張り、神奈子は肉親以上の存在であった。その言葉は重く、否定出来ない。
既に一度弱音を吐いてしまったのだ。今更繕うのも滑稽であると感じる。
「今夜は帰りなさいな。まだ時間はある。それに、最後の現世なのよ。もう少し、人間らしい生き方を楽しんでから、
幻想郷に移るのも悪くはないでしょう。肩肘を張らず、ゆっくりなさい」
「今の世は、面白くないのです」
「異な事を。人ほど面白いものが、どこにあると言うんです」
「そうでしょうか……私は、愚か者です。周りが、自分以下にしか見えないのです。それが最低な心持ちである事も
理解はしているんですけれど、でも、どうしようもないのです」
「それもあって、早く幻想になりたいと……そう願うのね」
「早苗は馬鹿です。こんな巫女で、すみません……」
勿論、誰が悪い訳でもない。元から備える力と、環境がそう早苗を育てた。農耕馬の中にサラブレットが混じってい
たら、当然浮くだろう。皆それぞれの役割があり、農耕馬とて蔑まれる対象ではないのだが、価値をつけられてしまう
と矢張り差は出る。ましてこの東風谷早苗は、同族でも更に上の存在だ。
どれだけ力を持とうと周りがそれについてこれず、誉められたくも無い場所を誉められ、見えるものだけを信仰する
人々の滑稽な思いが早苗には痛い。現代はまさに即物主義が悪い方向へと極まったように思える。
外面だけを気にして、内面に触れようとしない。どれだけ内側に素晴らしいものを秘めていようと、そうそう評価し
て貰える世の中でもなくなった。東風谷早苗は当然、外面も素晴らしい。故に認めて貰えるのだが、真の早苗の本心は
そこに無い。本当に観てもらいたいのは、己の内側であると言うのに……父や母すらも、どこまで見抜いているか解ら
なかった。
「もっと上手く育てて上げられれば、こんな苦労性の子にならなかったでしょうに。許して頂戴」
「いいのです。神奈子様は、私をちゃんと私として見てくれます。私は、神奈子様に見てもらえれば、それで」
……実際のところ、神奈子と早苗がおかれる立場は、殆ど同じだった。
不可視のものに配慮しなくなった、信仰亡き人々によって迫害された、その犠牲者である。
「それでも、人は面白い。早苗、そして貴女も人ですわ」
「……」
「少しの間でしょうけれど、もう少し人として過ごすよう努めてみなさいな」
「……はい」
宵闇に風が吹く。大岩に坐す神はそう言って、己が巫女を送り出した。
早苗が時計に目をやると、既に二十時を回っている。今から自転車をこいで自宅へ帰ると二十一時を過ぎるだろう。
また両親からどんな目で見られるのかと思うと、非常に憂鬱だったが、仕方ない。
(人としてといわれてもなぁ……神奈子様、やっぱり少しずれているのかしら)
一応、早苗としても人らしくは生きているつもりだ。その人らしく生きる事が苦痛でならないのだが、神奈子が外れ
た事を言った試しがないので、間違っているとも断言出来ない。現人神とは言われるが、まだまだ本物の神の考えなど
理解はし得ないものがあった。
(あれ……あの子)
そんな事を一人考えながら先を急いでいると、視界の端に見慣れた人間が映った。恐らくは隣の席の物部であると思
ったが、人違いである可能性も否定できず、その姿も直ぐに消えてしまった為、早苗は追うのをやめた。
消えていった場所は……一度前にも訪れた事のある、土地神が坐す場所だ。不思議には思ったが……しかし、確か家
はこの辺りであると聞いていたので、考えてみればさほど疑問でもない。
早苗はそう納得すると、再び自転車をこいで自宅を目指し始めた。
弐、物部柏子
だるい体を起して、思い切り背伸びをする。まだ布団の中で夢と現を行き来していたかったが、そうもいかない。ぼ
やける頭を振り、のそのそと立ち上がって襖を開く。秋も近しい、涼しげな空気を感じて、早苗は憂鬱になった。
昨日はあまり寝ていない。一晩中神奈子に言われた言葉が気になって仕方が無かった。普段なら何かしらハッキリし
た事を明言されても、さほど気に止める事もないのだが、いつもとは内容が違ったのだ。
早苗自身に対して、『ああしなさい』と言われた事はあっても『こうすればいいのでは』などとは言われた事が無い。
結局、考え抜いた結果の答えは一つ。幻想郷へ行く前に、思い出でも作りなさい、と言いたいのだろうと、そこに行
きついた。
「早苗さん、起きていますか」
「はい。おはよう御座います」
「おはよう。お友達がもう来ていますよ」
……。
母の言葉を受けて、ぼやけた頭の思考が別のベクトルへと向く。たどり着いた先は思考停止であった。
意味が解らないのだ。
小学生の頃なら、無くはなかった。友人が迎えに来る事も少なくなかったし、自ら赴く事もあった。だがこの歳とな
ってそれは過去の遺物と成り果て、そのような行為をされる覚えはないし、する気も無い。
「だ、だれです?」
「物部柏子(かえこ)さんだって」
物部柏子と言えば、隣の席にしかいない。ショートカットが可愛らしい、普通の女の子。一年の頃から一応は顔見知
りだったような気がするのだが、親しくした記憶はない。
「少し待つよう言ってあげてください、すぐに行きます」
「えぇ。もう朝食は用意してありますから」
「は、はい」
何となしに、神奈子の言葉が甦る。どれだけ偶然でも、普通はよほど突飛な人間で無い限り、一日のリズムを親しく
もない人間の為に変えたりはしない。昨日誘いを断った事が関係しているのか、とも思ったが、そんな事はしょっちゅ
うであるし、早苗個人は何一つ変わっていない。
なれば現実的な要素以外の一因がある。
人らしく過ごしてみるよう努めてみたらどうか。
この言葉に尽きる。
……神奈子に人心を操る力が無いと否定出来ない限りは、これが原因であると考えるのが正しい。神奈子にどんな思
惑があるか知れないが、もう現在進行形で物事が進んでいるので、拒む訳にもいかない。
早苗はそこまで考えを至らせると、すぐさま着替えて台所に赴き、両親と祖父母に頭を下げ、丁寧かつ手早く朝食を
済ませる。
「あ、早苗さん」
「……」
玄関を出て直ぐ、そこには柏子が居た。早苗より身長は低く、大分子供っぽい様相。制服も長があっておらず、今一
しっくり来ていない。何の変哲もない、ただの同級生なのだが――さてどうだと、早苗は疑って掛かる。
「早苗さん?」
「……ちょっと待って」
声を掛ける柏子を片手で制止し、両の眼をしっかりと開いて不可視を観る。
……不自然な様子はない。もし神奈子の呪がかかっていたとするなら、その残り香くらいはありそうなものだと早苗
は思っていたのだが……予想は外れた。上手く隠しているのかもしれないので、完全否定は出来ないが。
「おはよう、物部さん」
「おはよう」
まずはその辺りから探ってみようと考える。挨拶だけして、早苗は自分の自転車に跨り、目で『一緒に行きましょう』
と促す。柏子はそれを悟ってか、明るい笑顔でそれを肯定した。
「……」
毎日見ている光景だが、相変わらず山が多い。木が多い。ちょっと遠くを見渡せば、こぢんまりとした街並の先に山
がある。セーラー服を靡かせて自転車を駆ける早苗は、この光景とも後暫くすればオサラバなのだなと、感慨深く思い、
ありもしない感傷に浸る。その方が、巫女らしいからだ。
幻想郷はもっと山奥であると言われる。ここも相当山奥であるが、幻想郷の人里は小さく、未だ原生林が辺りを覆い、
絶滅した生物が闊歩し、物語の世界にしかいないと言われ続けて来た存在が、日々を営んでいる。
それはどれだけ夢のある情景であろうか。早苗も乙女の端くれ、そういったファンタジックな存在に、憧れない訳で
もない。そもそも、風祝の巫女である自分自体がファンタジーであると言うメタ的な事は、この際置いて置く。
一応、これもまた幻想郷へ移住する決意を固めた一因であった。酷い選民思想なのだが、東風谷早苗においてはそれ
も仕方が無い。あまりにも、周りとはかけ離れているのだから。
では、その幻想に恋焦がれる少女の最後の一時に現れた彼女は、一体なんだろうか。
「今日はどうしたの。うちに来るなんて、初めてよね?」
「え、あ。う、うん。な、なんとなくだよ」
ここまであからさまに怪しいと、どこから怪しむべきなのか迷ってしまう。神奈子の力を感じれないのは、呪を隠し
ている場合もあるが、この慌てふためく姿を見る限りでは、呪を受けているようには見えない。
基本、呪や術というのは、命令と同じで式を当てはめ、その流れ通りに動かすものである。人を操るとしたならば、
精神の一部を掌握し、術者が思った通りの行動をするよう刷り込む。
カエルや蝶なればまだしも、人間の精神構造は複雑であるから、あまり難しい注文は出来ない。故に、かなり単調に
なってしまって……そう、人間らしい反応が薄くなったりするのだ。
そう訊かれたらテンプレ通り答えるよう指示されている、と云うならば納得も行くのだが。
「家からこっちって、反対じゃなかったっけ。遠かったでしょうに」
「う、うん。昨日の夜中に思い立ってね、少し早く出たんだ」
「ごめんなさいね、別に尋問しようって思ってるんじゃないの。ただ、不思議だったから」
「そ、そーだよねぇ。普段から、そんなに仲良くは、ないしねー……。め、迷惑だった?」
「……いいえ。ただ、来る時は事前に言ってね。朝が慌しくなってしまうから」
「ごめん……」
責めるつもりは無いのだが……矢張り、朝飛び起きて大急ぎで出たのが災いしているらしく、口調が刺々しくなって
いる。柏子はそんな早苗の意図を汲み取ってか、自転車をこぎながら小さくなってしまった。
……違和感。
違和感が付き纏う。この子はこんな、テンションの低い子だっただろうか。どうも畏まりすぎている気がしてならな
い。いや、勘繰りすぎか。
「じ、実はね……」
と、様々な疑念が早苗に渦巻く最中、柏子は何かを口にしようとして、出せない、といった様子を見せ始めた。
「どうしたの。まさか夢枕に何か立ったとか、お告げでもあったのかしら」
「あ、解った?」
……早苗は、多少頭を抱える。自転車をこぎながら話すものでもないと考えて、早苗はその話は後で、と釘を刺した。
それに、もう学校の校舎が見えている。
「よっと……」
校門を抜けた先。そこには日常のワンシーンがある。今まで自分が暮らしてきた学び舎の自転車置き場。早苗はそん
な己の中で幻想となる風景を目に焼き付けてから、柏子に向き直る。
「さっきのお話、お昼でいいかな」
「うん。なんだかごめんなさい」
「いいの。私、そういうオカルト話嫌いじゃあないから」
柏子は……その言葉を聞いて微笑む。同い年にしては少し小さめの彼女は、先ほどとは違って愛嬌に充ちていた。話
を聞いて貰いたかっただけなのだろうか……と、そこで答えを落ち着かせようとする。
早苗が勘繰りすぎていたのかもしれない。早苗が神社の巫女である事は周知の事実であるし、もし夢枕など立たれた
ら、身近な人に相談もしたくなるだろう。結局は神奈子が原因であるのであれば、答えは簡単だった。
・
・
・
・
・
神を観る事は、現代において容易な事ではない。例えば、幽霊や妖怪が視認出来る者を「見鬼」と呼んだりするが、
早苗はそれの数倍上である。幽霊や妖怪は自ずと、普通の人間でも波長が合えば見えるものだが、神霊となると話は
違ってくる。神を構成する要素は、言わずもがな信仰だ。これが薄れた神は見え難く、大社の宮司でもまず難しいだろ
う。霊能者と言われる人々の一部か、早苗のような信仰厚く力ある者にしか、姿は現さない。
例えば、今東風谷早苗の眼前に聳え立つ、校庭の樹木。樹齢百年の校木だが、当然これにも八百万が宿っている。周
りの人間、物部柏子などに、あれは観えるかと言った所で見えはしない。正直に言ってしまえば何言ってるんだお前、
である。流石にデンパ少女扱いはされたくないので早苗も何も言わないが、そこには居るし、在るのである――
「早苗さん、ウィンナー二本とこのミニパン交換しよ」
「はい」
「やった。あーこれは……スーパータケダヤの特価品」
「な、なんで解るの?」
「一昨日やってたから」
「在る意味私より凄いわ、物部さん」
――などと、難しい事を考えてみる。実際のところはもっと感覚的な問題で、不可視を観る力とは、一概ではない。
柏子のこれもまた情報と考察の成せる見鬼の力なのだろう。
「それで……」
本題は別に観えるか観えないかではないし、弁当のおかずでもない。何時までも食事を突付いていては日が暮れてし
まう。早苗は弁当の話題から転換し、胡散臭い話へ持って行く事とした。
「私は、こんな職業だから、そういった怪奇現象を否定はしない。だから話してみて」
「うん。昨日の話なのだけれど、枕元に誰かが来て、早苗さんのところに向かえって言われて」
「その人の様相は、覚えている?」
「胸元に鏡を携えていて……背中に大きな注連縄が……」
間違いなく神奈子である。
「それは良い神様よ。だから何も心配いらないわ」
「神様……そっか」
これで全てが氷解した。きっと、神奈子が早苗の身を案じたのだろう。日々詰まらなそうに生活する早苗が、幻想郷
に行く前に、人の身として人らしい思い出が作れるように配慮したに違いなかった。
「それ以外には?」
「なんとなぁくだけれど……早苗さんを、何処かに誘ってあげて欲しいって」
突如曖昧になる―――が、良く考えてみれば、解る話でもある。
「多分だけれど、気分転換になるよね?」
紙パックのイチゴ牛乳をチロチロと啜りながら、遠くを見つめて柏子が言う。
そう、柏子はずっと隣の席に居たのだ。自分の体調が宜しくなさそうであると云う事も、一目瞭然で、それもあって
昨日は仲良くもないのに誘いに出た。そしてあろう事か、ぴったりのタイミングで神の手が加わったのである。
(神奈子様、普段から私の事観察してるみたいだし……偶然とは言えないわよね)
その神によって早苗という存在を強調され、早苗の最近の行動が柏子の中で合致し、ある一つの答えに至った。そう
考えるが自然だ。
「うん」
「もしかして、最近夜外に出てるのかな。それで、思いつめたような、疲れたような顔をしているとか」
その問いに、早苗は口を閉じる。そこまで遠くに住んでいる訳でもないので、観られている可能性は否定出来ないの
だが、まさかこの人物に観られていたとは思いも寄らなかった。大体、幾ら知り合いでも外に出ればなかなか目に止ま
らないもの。まして閑散としたこの街である。
「あ、別に詮索するつもりはないの。この前ちょっと見かけたから」
「……そういえば昨日、物部さんも見かけたよ。湖の近くで」
「あ、あー。そうなんだ。家がそっちだし、そんな事もあるかな」
「あそこは土地神様を祭った小さな御社があると思ったのだけれど」
「詳しいねぇ。あるある」
「うん。うちの系列の御社だから」
諏訪明神にまつわる、名前も知られぬ土地神の御社。今では殆ど触れられる事もない、小さな場所だ。幾ら近所と言
っても……若い女の子が出入りするような場所ではない。昨日は見間違いかと思ったが、この言葉でハッキリした。
「どうしてあんな場所に? ちょっと不思議」
「あ、えーっと……言ってなかったっけ?」
「え?」
「私の苗字、解るでしょ? 物部氏の末裔なの。大きな神社ではないけれど、小さなお社の管理を幾つか任されてい
てね。嘘じゃないよ? 神社庁と東風谷本家に問い合わせてみる?」
「あいや、そこまでしなくとも……そっか。物部守屋……あ、え? じゃあ親戚?」
「大分遠いだろうけどねー」
早苗は目をパチクリさせて柏子のあっけらかんとした表情を窺う。ただのクラスメイトかと思っていたが、実は親戚
という不思議な繋がりがあったらしい。狭い集落などでは良くあった事だが、今は大分開けているし、小さな街といっ
ても出入りも激しい。物部なんて苗字は最近珍しいとは思っていたが……何とも意外であった。それに、もしそうであ
るなら、神様と聞いて随分と淡白な反応をした柏子にも納得が行くし、わざわざ早苗に相談した理由も合点が行く。
「ごめんなさい、親族会で顔を合わせたことがなかったから」
「あはは。お父さん達は顔を出しているとは思うのだけれどね」
年に数度開かれる親族会に物部の名はあったが、まさか直接関係した人物であるとは知らなかった。大手神社の家と
もなると、その血族の家系図は分かれに分かれ、こっから曽祖父を辿ると親戚、やら、数百年前のタメゴロウさんから
辿ると親戚、何て人が幾人か出てくるものだが、これもその内だろう。事務的なものは両親に任せていたので、これは
失念であった。
しかし、そう考えると一気に親近感が湧いた。そして期待するのは、神が観えるか観えないか、なのだが……矢張り
問うのは怖い。物部とて血族とはいえ、自分の両親すら観えないのだ。期待などするだけ無駄なのだが……。
一応、前例はある。夢と現の境界を漂っていたとはいえ、夢枕で神を観れたのならば……。
「ねぇ、えぇと……」
「かえこで良いよ。意外と長い付き合いなのに、ずっと苗字で呼ばれるの、違和感あったんだ」
「うん。じゃあ柏子さん。その、こんな事を訊くのは可笑しいのかもしれないけれど……」
「お、なになに? そういうの好き」
「あ、うん。えぇと……私たちって人間じゃない? だから本当は物質しか観えないよね」
「そうだね、普通はね」
「……霊とか、妖怪とかは……観える?」
「観えるよ」
「!!」
柏子への好感度が、一気に跳ね上がる。何故自分はこんな子を友達として見ていなかったのかと悔やまれる。もっと
もっと早く打ち解けていれば、こんなつまらない日常でも、一味も二味も違った筈なのに。
「じゃ、じゃあじゃあっ!! あの樹からこっちを見ているの、何か解る?」
「初老の神様だね。大分姿は薄まっているけれど、あ、手振ってる。おーい」
柏子の言う通り、初老の神様が此方に手を振っていた。それはもう確信。間違いはない。この子は、霊や妖怪どころ
ではなく、神すらも観える目を持った子。自分と同じ程度の視力を有した、類稀なる神童だ。
思わず興奮する。何と声をかけて良いか解らなくなる。この子は観える。神が観える。自分と同じ位置に立つ、今現
世に指で数えるほどしか居ない人間の一人。
ここ暫くの疲れが吹っ飛ぶような喜びを覚える。この、ショートカットのちんちくりん、なんて思っていた自分が憎
たらしい。昔の自分は死んでしまえと、思わず罵る。なんと見る目が無い事か。向こうの世界にばかり目を向けていた
から、現実を見る目が衰えていたのかもしれない。
「ああああ、か、柏子さん、いいえ、柏子ちゃんっ」
早苗は、勢い余って柏子の手を掴み、迫る。
「え、あ。そ、そんな、顔近い近い。は、恥ずかしいってば、早苗さ、」
「今日は何処へ行きましょうか? 美味しい甘味処を知っているのだけれど、行く? 行くわよね。当然。全部私が
持つから。うん、柏子ちゃんはお財布の心配しなくても大丈夫。学校終ってからが良い? いいえ駄目ね。今からよ。
もうあんまり時間も無いから、これから沢山お話しましょう? 駄目かしら? もしかして引いた?」
「ああ、うう、ううん? こんなに嬉しそうにする早苗さんを見たことがないから、面食らっただけだよ」
「そうっ」
早苗のテンションは鰻のぼりである。手早く弁当を畳んで片付け、それを柏子に持たせると、速攻教室へと駆けた。
ものの一分で、早苗は二人の鞄を持って現れる。
「はやっ」
「はぁ……はぁ……時間がおしいの。さ、行きましょ、さっ」
「あ、あひー……」
きっとこれも神奈子様の思し召しなのだろう。そう思えば思うほど、神奈子への忠誠心も高まる。今日は、いや、今
日から幻想郷に行くまでの短い間は、きっと今まで生きて来た現世での、最高の思い出になるに違いなかった。
それに、無心になれば、余計な事を考えずに、済む。
「早苗さん、速い、速いってば」
「もーちょっとだから、嗚呼もう、坂がうざいー……ふぬぅっ」
アップダウンを乗り越え、へばる柏子を従え、早苗は走る。普段から長い距離を走っているので、口では辛いと言っ
ても慣れたものだ。次第に色づき始める木々を通り越し、車をかわして人を避けて。しかし、今日は憂いなどない。授
業を途中で抜け出したのだから、後で親に連絡が行くかもしれない。だがそんな事はどうでも良いし、今後の成績など
気にする問題でもない。
「おーい……あれ?」
と、一人テンションを上げすぎたのがいけなかったか。柏子は大分坂の下に居る。早苗は自転車を降り、剣指を作っ
て柏子の後ろを指差した。
「八坂刀売」
ぽつりと神の真名呟く。その神格は風だ。途端坂の下から風が吹き上げるようになる。
現人神たる所以はココにあり、何のリスクも背負わず、神業を成す事が出来る。最早現代に失われた奇跡が、早苗に
は宿っていた。普段から使い慣れている早苗からすれば、何の事もない日常のワンアクションに過ぎないが、その価値
たるやいなや、現世ではそうそうお目にかかれぬ物がある。
「ふぇー……らくちーん」
「ほらほらぁ、風に任せてないでこいでこいでぇー」
「あ、うーん……」
漸く坂を登りきり、やっとの事で目的地にたどり着いた。さっさと自転車を止めさせると店の中へと入る。シックな
雰囲気のある喫茶店で、全体から珈琲の香りが漂っていた。甘味処と言われると首を傾げざるを得ないが、早苗曰く、
店主は無類の甘党で、喫茶店とは名ばかりのスウィーツの名所だとか。
二人はアンティークの珈琲メーカーの近くに腰掛けて落ち着き、はぁと一息吐く。窓際からは遠くに山が見え、その
周りには大して高くはないコンクリートの城が犇いている。多少、堆く積まれた工事用の土砂が目に入るが、それは仕
方ないとして割り切る。何にせよ、良い場所だ。
「ランチのお客さんも結構居るね」
「まぁこんな時間だし、仕方ないわ」
ウェイターが水を持ってくるのと同時に、早苗は”甘いの”と注文する。ウェイターはそれで畏まってくれた。
「じょ、常連なんだ」
「甘いの、好きなの」
早苗は普段あまり見せない、緩い笑顔のままニコニコし、取り敢えず思いつく事柄を次から次へと矢継ぎ早に述べて
行く。他愛も無い話から、一体どのように神様が観えるのか、どういった経緯で気がついたのか、自分の事を何時から
知っているのか、神事には参加していたのか、夢枕に立ったあれうちの神様だったんだけどどう思うとか、甘いのは美
味しいか、お酒って飲むの? 等々。
抑圧していたものを解放するように、早苗は喋りに喋る。柏子もまた聞き上手らしく、嫌な顔一つせずそれをうんう
んと相槌を打ち適切な言葉を述べて行く。
大体、最初は柏子の相談に乗るはずであったのに、今となっては早苗が聞いて貰う立場になっていた。この東風谷早
苗が一体何を抑圧していて、何を話せずに居たか。それは現人神としての立場を考えれば、自ずと答えは見える。
――内面全てである。
早苗は優等生である事に終始していた。内面は表に出さず、兎に角人に見える形で、優秀な自分と云うものを周りに
誇示し続けてきたのだ。それは酷いストレスであるし、慣れもあれど人間は完璧ではない。積もりに積もったものが爆
発する事も、無くは無かった。
東風谷早苗と云う「人間」は、ほぼ人間ではない。神代(かみよ)にまで遡っても、比べられるだけの呪術者が居た
か居ないか。直接神と交信し、その御力を我力の如く行使出来うるのであるからして、周囲の一般人とは比べ物にはな
らないし、本人が同格と認められる者もまた居ない。
同格の存在が無いとは、つまり同じ話が通じない。言語レベルでの対話は可能だが、精神的なレベルの話をしようと
すると齟齬が出てしまう。まして異常な力の話など出来る筈がない。
だがそこに、同じモノが見える少女が現れたのだ。力云々ではなく、ある一部でも同調して語れる人物の存在は、早
苗の待ち望んだ友人である。今まで話した事も無いような事柄が、早苗の口から湯水の如く溢れるのもまた、必然だろう。
「そうなのよ。一部の氏子と両親しか知らないけれど、私、そういう力があるの」
「そ、それって喋って大丈夫なの?」
「だって、誰も信じないもの。信心は地に落ちているし、私なんてきっとエセ霊能力者扱いよ、それに」
「それに?」
「私はもう、現世から居なくなるから」
ケーキを食べながら、パフェを食みながら、甘い紅茶を啜りながら、早苗は喋り続けた。うっかり失言してしまった
事も、気がつくまでに数十秒掛かるほどに、無心で話し続けてた。
「早苗さんが、居なくなるの?」
「……う……あ、な、何でも無い。今のは違うの」
「でも、随分と本音ばかり話していたし、今のが違うって云うのは、ちょっと納得出来ないかな」
柏子はそう発言してからアッサムティーを啜り、今の言葉を考えさせるような間を置く。早苗は気まずそうにしてそ
の間に堪えるが、聞きに回っていた柏子の思わぬ反撃に狼狽する。
「これこそ本当に信じてもらえる話だとは思わないけれど……ねぇ、柏子ちゃん。幻想郷って、知ってるかしら?」
早苗は致し方なく口を開く。流石神を観る目を持つ子とでも言うべきか、柏子の眼が非常に鋭く、否定も嘘も吐ける
気がしなくなったのだ。とはいえ、荒唐無稽は話である。これを真実と取るも虚言と取るも、柏子次第だが。
「ネットでも有名な、オカルト話かな。蓬莱の伝説なんかに準えてある、日本の秘境の事」
「うん……そこに、私は行くの」
「連日夜に外へ出ている事と関係しているの?」
「……柏子ちゃんなら話しても、大丈夫かな。なんだか、荒唐無稽な話も信じてくれそうだし」
「私は早苗さんが嘘を吐いているとはトテモ思えないもの。だって、私自身、皆が信じない神様が見えるのだから」
それも当然か、として早苗は抵抗を諦めた。一般人が聞いたら「何だこのデンパ」と言われかねない話も、柏子なら
ば信じる。当人もまた一般人ではないのだから、当たり前と言えば当たり前だった。
「そう。貴女も見た、八坂刀売神様が、幻想郷へ移住すると言うの。巫女である私も、ついていかなきゃいけない」
「幻想郷は、物語でしか生きて居ないような生物や、亡霊や妖怪、神様なんかも住んでいるって、聞いた事がある」
「うん。私は幻想郷へ行く為に、毎日転位用結界を張っているわ。だから、夜に見かけられたりしたのね」
「転位って、単身で転位する訳じゃないの?」
「……守矢と幾つかの摂社末社……そして、湖ごと」
「そっか……」
柏子は、多少、気を落とすような素振りを見せるが、大して驚いている様子はない。一体どんな感情を抱いているの
か、今一解り辛い反応に、早苗も次の言葉に詰る。
「……家族は、どうするの?」
「皆は、神様も見えないもの。必要なものだけ持って、母屋は残して行く。その後に発生する諸問題を考えると、少
し頭が痛いけれど、私はもう決意を固めているし」
「湖もなくなっちゃうんだ……そうなると、大変な問題になりそうだね」
「一応有名な湖だし、ふふ。日本中のマスコミがトップ記事にするんだろうなぁ」
「あはは、間違いないね。湖消える。県は困惑。地質学者はありえないと長野の中心で叫ぶんだね」
「漁協の人にも、旅行会社の人にも、湖の恩恵を受ける人たちにも、迷惑を掛けるね」
「大丈夫だよ。それは一時でしかない。川はあるし、年月は全てを埋めるから。それに、一度消えた湖なんて、全国
各地から観光客が来るよ。その時は守矢の変わりにうちの小さな御社が恩恵を受けてあげる」
「と、止めてくれたりは、しない?」
「しないよ。決意堅そうだし。それに多分、早苗ちゃんは――幻想郷の方が、活き活き出来ると思うの」
その言葉には、一体どんな意味合いが込められていたのか。たった数時間集中して話し込んだだけの知人が、どれほ
ど自分を理解してくれているかなど、早苗には把握出来ない。だが、物部柏子が神を観る目を持つ子であると云う前提
を思い出せば、手にとれぬ形ではあれど、想像は可能だ。
自分は、人として、傍から見て、やはり活き活きしていないのだろう。現世での自分は上辺だけを繕った優等生。人
らしい、女の子らしい生活を送らぬ、味気ない秀才。
その言葉の意味を汲み取れる部分だけ汲み取れば――それは、幻想は幻想として生きるべき、という断言だ。
「……もう、どのくらい話したかな」
「日が暮れてきちゃってる。やっぱ割り勘にしよ? たぶん、万単位で食べてる」
「う……い、いいの。もう、この世で使うお金なんてこれで最後なんだから」
「そっか」
早苗は伝票を掴むと、上着を着てレジへと赴きさっさと会計を済ませる。財布は相当軽くなったが、気分は重かった。
柏子を連れて外に出る頃には、もう茜色の空が世界を支配していた。二人で空を見上げ、見果てぬ空間に思いを馳せ
てみる。そこに生まれた感情は何とも言い難い、季節の変わり目のような、侘しいものであった。
「今日は、付き合ってくれてありがとう」
「とんでもない。甘いものご馳走になったし、学校はサボれたし」
「――そうだ」
この蟠る気持ちを解消するには、どうしたら言いかと考え思いつく。
恐らくは、逃げであるのだ。
考えたくも無い、考えたくなかった事実を、誰かにやんわりと否定して貰いたくて思いついた事。
「今から、神様にあってみない?」
こう話した自分は、きっと最低な人間なのだと感じる。何せ、幻想郷へ移住するという葛藤を、他人に預けようとし
ているのだから。
『幻想郷の方が活き活き出来る』
そう言われても、まだこの物部柏子と云う人物に、引き止めてもらいたかった。早苗は柏子の中に希望を見出し始め
ている。今まで同等の人間がいなかった早苗は自棄であったのだろう。しかし、この柏子は同等に話が出来る。親にす
らも明かせないような秘密を話せる。この子さえいれば、今後も現世で、上手く生きて行けるかもしれない。
――ならば、幻想郷へ赴かずとも、良いのではないだろうか?
……神奈子への同情がある。信仰心もある。
だが所詮、東風谷早苗は、まだうら若き少女であった。決断も責任も、少女には重過ぎるのである。
「ううん。良い。それより、またこようね、ここ」
「う……うん」
否定する言葉に、落胆を覚える。しかし、罪悪感は、背負わずに済んだ。ただなんとなく、これでいいような気がす
る。確かに本心を伝えられるのはこの子だけかもしれないが……果して、神奈子に逢わせてどうしようと言うのか。
……無心で思いの丈を口に出来る機会を設けてくれた事だけでも、ありがたく思わねばならないだろう。また深く考
えれば、つまらない現実が押し寄せてくる。それは、東風谷早苗が一番触れたくない部分だ。
幻想とは、この悩みすらも解決してくれるだろうか。だとすれば、幻想郷は理想の都なのだろう。しかし、それを考
えれば考えるほどに、自分の中で蟠る問題が持ち上がる。
「帰ろっと」
自転車に跨り、思い切り坂を下って行く柏子の背中を見つめる。
現実は辛いが……。
あの子さえいれば、それも乗り切れ、そして現実での幸せが見出せるのではないかと、期待してしまう。
東風谷早苗は、幻と現の狭間を、知らず知らずの内に漂っていた。
つづく
その意見に賛成する事も反対する事も、意味は無い。東風谷早苗の返答など待たずとも、八坂神奈子は決断するし、
否定は許されないからだ。それに、早苗自身もまたそれに反対する気持ちもない。
双方共ほぼ異論は無い。これより守矢神社一帯は全て幻想となる。
「楽しみです。幻想郷」
「そうですわね……それより早苗、少し頑張りすぎではありませんか」
陽が別れを告げ闇が侵攻し始めた湖の辺、ひっそりと一区画だけ区切られたように存在する林の中。注連縄の結界に
よって現世と完全に別たれた一角で、神は人へと問いかけた。
「少しでも早く向こうに行って見たいんです」
守矢の巫女、東風谷早苗は屈託の無い表情で八坂神奈子の問いに答える。傍目から見ても些か窶れ気味ではあったが、
そのような表情で語られると諏訪明神たる神奈子も反論出来ない。
「とはいうものの……急ぐ必要はないのですよ」
自分の可愛い巫女の頭を撫でる。言葉では今一伝わらない深慮を如何にして伝えようかと思った結果の行動だ。
「えぇ。解っています、神奈子様。ほどほどですね、ほどほど」
その手を取り、握り返す。早苗は母に労わられるような想いを感じ、温かな気持ちになる。神奈子が解っていないの
は、このような行動が早苗に無茶をさせる原因であると言う事だ。早苗は周りの環境が作り出した性格のお陰で、心か
ら優しくされると俄然やる気が出てしまうタイプである。
「もう一仕事してきます。結界に綻びがあるとそこから崩壊しかねませんから、要チェックです」
「そ、そう。無理は駄目ですよ」
「はい!」
早苗は嬉しそうに返事をして、神奈子に背を向けると暗がり広がる林の中へと消えていった。
「……」
心配である。力ある巫女とはいえ、人に近しい身。神長官の位を持とうとも、現人神と称えられた過去の威厳があろ
うとも、やはり生身である。無理をすれば疲れるのだ。
――詰る所何が疲れるかといえば、幻想郷へ移住する為んはこの膨大な敷地を結界で覆わねばならない。守矢神社だ
けならいざ知らず、守矢の拝殿に本殿に、摂社末社に湖丸ごと。並大抵の術者のこなせる範囲ではない。移すにしても、
それは個別にやるべきなのだが、早苗は己の力を信じているのか、この位は平気だと笑って見せている。
「大した子ね」
「――八雲の」
……大岩の上で神酒をあおりながら巫女の心配をしている神奈子の元に、突如声が掛かった。
「うちの巫女に爪の垢を煎じて飲ませてあげたいわ」
「少し頑張り過ぎですわ。幾ら言ってもきかないの」
境界の割れ目からその少女が優雅な仕草で出でて、神奈子の隣へと座る。森羅万象何もかも寝静まった夜だと云うの
に、彼女の存在は派手で、非常に浮いている。神奈子もその異常さ加減に最初は驚かされたものの、今は大分なれて来
ていた。盃に神酒をついで差し出すと、八雲紫は胡散臭く笑い、それを受け取る。
「悪いわねぇ。こちら側は信心が薄いから私も完全に力を扱えないのよ」
「どうかしら。そんなものにすら左右されないアベコベな存在なのに?」
「……あら、解るかしら?」
「ふふ。信仰心は衰えようとも、私は神ですもの」
「ま、代償だと思ってくださいな。無償で移住させても構わないのだけれど、それじゃあ私に借りを作ってしまうで
しょう? 幻想郷で借りを作るとね、貴女が思っている以上の要求を突きつけられるわ」
「手伝ってはいけないのかしら」
「決断するのは貴女。そして神を支えるのは巫女の仕事。大丈夫、あの子は強いわ」
「――そうですわね」
紫はそう諭してから、盃をあおる。酒の質が落ちているのも、信仰心低下の現れだなと想い、現世を憂いた。外には
もう信じる力が殆ど無い。信じすぎれば世は大きく動くが、信じなさすぎれば世は劣化する。神に、殊自然神に敬意を
抱かぬ人類がこのまま何処へ向かうのか。八雲紫はそればかりが心配であった。
「未練は」
「私には」
当時は朝廷の討伐者(田村麻呂)すら頭を下げた諏訪明神も、今はもう歴史書の一部にしか登場せず、誰も気に止め
る事もない。地元の信仰心はあれど、当時のような栄華は訪れないのだ。神奈子に未練がある筈もなく。
「けれど」
早苗はどうなのだろうか、と考える。
早苗自身は反対する気持ちはないと常々言っているし、その気持ちは行動として現れている。しかし、奥底でどう思
っているかは、本人にしか解らないものだった。
「幻想郷は面白い所よ。暇ではあるけれど、その暇が心地よい場所だから」
「えぇ」
「もう一柱は?」
「干渉しないと言っていますわ。彼女にとってこれは瑣末な問題なのでしょうね」
「そう。面白い神様ね」
「もう数千年の付き合い。あの子はそういう子です」
「……では、また。ああ、向こうの神様には、一応伝えておくわ。準備もいるだろうから」
「すみませんね。お休み。八雲の」
「ゆかりんでいいわよぉ」
「……」
スキマ妖怪はそういい残し、割れ目へと消えていく。神奈子からしても、実に理解不能の妖怪だった。
幻想郷移住の話は守矢の中でもあったが、直接勧めてきたのはあの八雲紫であった。多少揉め事はあるだろうけれど、
幻想郷は全てを受け入れるように出来ているから何も心配は無いと。それが幻想郷移住計画の踏ん切りをつけさせた一
言だった。どこの誰ぞとも解らぬ妖怪として最初は警戒していたが……害はありそうには見えたが、後ろ暗いモノは見
受けられなかったので、神奈子も早苗もそれを信じた。
過去の文献を漁り、紫の力量と能力だけを頼りにして掴んだ情報で、それが境界の魔であると知ったのは後日の事。
噂では知っていたので、これだけの力を持ちながら日本の何処に潜んでいたのかと言う疑問は幻想郷と言う記号によっ
て解消されたのだ。
幻想郷。あの妖すらも許容される桃源郷。信仰を失って久しい諏訪の者達には、一縷の希望である。
「……早苗、大丈夫かしら」
神酒を注ごうとして手が空を切る。
「不味そうに飲んでいたクセに」
本当に、良く解らない妖怪である。
ただ、そんな妖怪でも生きられる場所だと思うと、神奈子は少しだけ嬉しくなった。幻想の郷には幻想と成り果てた
ものが吹き溜まる。なれば、己の追い求めるものもまた、必ずある筈であるから。
そして同時に、早苗が心配だ。早苗は現代の娘。人としての本分はあるし、家族も友達もいるだろう。それと一緒に
来るのか、切り捨てるのか。そういった葛藤もまた、ない訳がない――。
壱、東風谷早苗
「東風谷さん、東風谷さん?」
「え、あ、はい」
「どうしたんですか。机に突っ伏して」
「さ、最近忙しくて、ですね。あははは……」
「まぁ、真面目な貴女だから大丈夫だろうけれど……大学、都会に出るのでしょう?」
「す、すみません……」
「しっかりしてね。はい。じゃあ佐藤君、次を読んで」
「えーっと、そいつあ困った。山の神がお怒りになられたのだ。そういって田吾作は村に戻って皆に知らせると……」
早苗は机に突っ伏していた頭を上げて左右に振り、ぼーっとした目線で黒板を見る。
(……疲れすぎかも)
上の空になりながら、シャープペンをカチカチと押し、授業を受けるでもなく、己の身体の心配をしてみる。夏の終
わりから今にかけて毎晩、幻想郷への道を開く為の結界を張りに外へ出ているのだ。学業との両立はなかなかに難しい。
両親に不思議な目で見られるようになってからは尚更であった。
(早苗さん、早苗さん)
(物部さん……?)
(これこれ)
隣の席の子が何やら包み紙を差し出してくる。気だるそうにそれを受け取り開いてみると、これまたしょうも無い事
が書かれていた。早苗はそのメモ紙にある質問に対し、棘のある返答を書き込み、元へと返す。
「うわ、早苗ちゃんに振られた」
「山田、五月蝿い」
「ぶふふふふッッ!!! 山田ざまぁ」
ゲラゲラと下品な笑い声が響く。若い女性の先生も頭を抱えるような仕草をしている。
憂鬱である。何故にこんなにも周りが阿呆なのかと、その事が頭を悩ませるに値する。
早苗は、世辞では無く周りから尊敬されていた。地方でも有力な神社の跡取であり、容姿も良く、勤勉。両親と総代
を含む一部の氏子達しか知らないが、早苗は奇跡を起せる巫女神である。その力は雰囲気として漏れ出しているのか、
それも相俟って、確実に一目置かれる存在であった。
そのような環境がいけなかったのであろうか。東風谷早苗という人物は多少、周囲を見下していた。意識的なもので
はなく、心底に蟠るモノ。表には決して出さないが、心の奥では辺りが馬鹿だと決め付けている。
「早苗ちゃん、もう少し包み隠そうよ」
「だ、だってそういうの逆に恥ずかしいし……それに、男だったら真正面から来て頂戴よ」
「おお、流石早苗嬢。女々しさが無いなぁ」
「貴方が女々しすぎるのよ」
「山田相当嫌われたぜ。終ったな」
「鬱だ死のう」
「はた迷惑だから一人でひっそりお願いね」
「ぶふっ!!」
喧しいと先生が山田の頭を引っ叩く。そのお陰で早苗は幾分かすっきりした。馬鹿にしないとはいっても、馬鹿をす
る人間を馬鹿のようにたしなめる事ぐらいはする。空気は読めるのだ。
「ったく……授業が進まない」
「不肖山田、自ずから廊下に立ってまいります」
「どうせサボるんだからいなさい」
「見抜かれた」
また教室に笑い声が響く。憂鬱である。こちとら連日夜更かしして結界作りに励んでいるのに、コイツラときたら…
…とは思うが、そんな苦労は誰も知る所ではないし、何せ自分の為の行ないだ。
(幻想郷かぁ……)
そんな喧騒の中現実を逃避するように、早苗は神奈子が幻想郷へ行くと決断した日を思い出す。
突如人間の世界を離れる、と言われた時は流石に恐怖であった。自分の知らぬ世界へ移住する、などと、異能を持つ
早苗も、話がぶっ飛んでいると考えたからだ。
しかし己の神は真剣そのモノであったし、神長官である己の威厳が発揮出来る場所なのではないかと思うと、胸が高
鳴った。幻想になってしまったモノが集う場所。信仰心亡き日本国とは隔絶された、最後の楽園。自分にはその桃源郷
へ赴ける資格がある。……神童と湛えられる、特別な人間だからこそ、そのような想いは日に日に強くなっていった。
そしてそれに連なる今はどうだろうか。
何の事もない。今すぐこの現世から離れたいと考えるようになっていた。連日連夜結界を張り巡らせ、地鎮を行い、
祭壇に向かって榊を振る。今までは巫女としての単なる業務でしかなかった神事も、桃源郷へ至る道であると思えば思
う程、それが愛しく思えた。幼い頃から叩き込まれた術も、業も、元から備えた力も、全てはこの時の為だったのだと、
早苗は歓喜する。
早苗は、嬉しかった。恐怖もあったが、もはや悩むにも値しない恐れ。
「あー、今日はここまで。指定した範囲まで復習してくるように。東風谷さん、号令」
「起立。礼」
「おつかれちゃーーーん」
やっと憂鬱で怠惰な今日が終る。早苗はヨシと意気込むと、鞄に勉強道具一式を放り込んで立ち上がる。
「早苗さん、ちょっとお店に寄っていかない?」
「ごめんね、急いでるから、物部さん」
「そう……ごめんね」
「あ、謝らないで。また機会がある時にでも」
「うん。じゃあね、早苗さん」
隣の席の友人から声をかけられるが、それには取り合わない。足早に廊下を抜け、下駄箱を通り過ぎ、自転車に乗っ
て商店街を突っ切り、自宅への道を急ぐ。一分一秒無駄にしたくない。それだけの時間があれば、さっさと儀式を済ま
せてしまいたい。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい、早苗さん」
母屋には母の姿。その瞳は心配に充ちていた。早苗も解ってはいるのだが、取り合わない。部屋へと戻って直ぐに着
替えると、準備物を手に玄関へと向かう。
「早苗さん」
「はい、お母様」
今すぐにでも外へと出たかったが、母に止められた。いつもなら見守るだけであったのに、今日は違うらしい。
「……長い注連縄ですね。大方結界用なのでしょうけれど」
手提げ鞄からはみ出たものを指して母は言う。
「……」
「こそこそする事でもないでしょう。それとも、こそこそしなければいけない事をなさっているんですか」
「神託の通り動いているだけです」
「神はもうお隠れになられました。貴女の事でしょうから、きっと神社の為なのでしょうけれど、目的が解りません」
「――時が来ればお話します。お母様は、その時にご決断ください」
「……早苗さん」
では、と一瞥し、外へと出る。お気に入りのピンクの十文字に乗って、湖へと走る。
往来する車をかわしながら、人を避けながら。信仰心亡き国を思いながら、それを欺瞞であると感じながら。
「観えないものね、お母様達は」
家族に、神奈子が観える者はいない。神社一家であるし、信仰心は人一倍ある筈なのだが、それでも神奈子の姿が見
えるのは早苗だけ。威厳ある神の姿が薄れるほど、神奈子を形作る信仰心は無くなっていた。
早苗は、ある種神奈子に対して同情がある。そこに居るのに居ないと言われる我神が可哀想なのだ。小さい頃から傍
に居て、事ある毎に早苗の助けをした、親よりも近い存在。その神奈子が観えないと、実の母は言う。父も同じだった。
幻想郷なれば。幻想郷なれば、神奈子はそんな想いをせずとも良くなる筈。元来ある力を思う存分発揮して、威光を
取り戻す事が出来る。幻想郷が幻想となったものを受け入れるのなれば、信仰は最早幻想であるに違いなかった。
一刻も早く、この不憫な世の中から神奈子を連れ出し、幻想の神にせねばならない。
「――相変わらずちょっと遠いのよね、ここ」
距離が縮まる訳が無いのだが、この距離のお陰で時間をロスしてしまうので、そんな愚痴が漏れてしまう。
早苗は一息置いてから湖の辺に自転車を止めて、近くの林の中へと隠れる。ここで正装に着替えてから、穏行印を組
み、真言を紡ぐ。私服では身が入らず、結界に綻びを作ってしまう。とはいえ、こんな巫女服を着て湖の長い周囲を回
る事など出来ない。人気がある場所であるし、現世とオサラバすると言っても、やはり気恥ずかしいのだ。
術は受け売りであった。宗教概念がごっちゃになってはいるものの、元からごちゃごちゃのままなった大系であるし、
早苗からしてもさして違和感はなかった。今では陰陽術の方が純粋な神道術式よりも手馴れている。これも血族の成せ
る業だったが……勿論、日陰者である為、誰に評価されるでもない。
「さぁ……今日こそは」
周囲十六キロに及ぶ大きな湖。流石にこれ全てに注連縄を張り巡らせる訳にもいかない。神奈子にそれを進言したと
ころ、要所要所に呪の発現点を作り、術の発動時に結界を張る、と云う様式にするよう言われた。多大な霊力と地力を
必要とする為、地神の協力は必要不可欠。非常にリスクは伴うのだが、十六キロ全て注連縄で囲うよりは手軽であるし、
何より人の迷惑にならない。時期は違えど漁をする者も居るし、釣り人も居り、遊覧船などもある為、下手すると注連
縄が途中で切られてしまう。
安全策と言えば安全策なのだが、如何せん面倒な事がある。
(幻想郷へ行くんです。貴方もここに居るより、よっぽど良いと思うのですが)
(いや。俺はずっとここにいた。俺はここにしか住まん)
(そこをどうにか。湖さえ動かせれば、向こうで貴方も幸せに暮らせるんです)
(大体ホントかいね。湖ごと異界に引越しなぞ。幻想郷はきいた事があるが、観た事はないでな)
(神奈子様があると仰るのです。ありますとも)
(八坂刀売神かぁ……ミシャグジ様はなんと?)
(ミシャグジ様……?)
(洩矢(もれや)神様だよ。アンタ巫女だろうに)
(あ、あー……あははは)
(怪しいもんだ)
(本当に、最後は貴方だけなんです。お願いしますよ。移住後もお供え沢山持ってきますから)
(洩矢神様がウンと言わぬ限りは、俺は動かん)
これである。
区画整理で立ち退き拒否する住人と、お役所の争いそのものだった。湖はそもそも、諏訪明神だけのものではない。
数多の神々がおわし、その中の代表格が神奈子なだけである。昔から湖を住まいにしている者達はなかなかに頑固で、
交渉するだけで数ヶ月を要した。
そしてこの土地神が最後であるのだが……頑固なのである。洩矢神が頷かぬ限りは移住しないと言って聞かない。早
苗も、勿論知らぬ訳ではなかったが……所在が解らない。古代神であるし、神奈子も知っているような素振りを見せる
のだが、当の本人に逢わせてくれようとはしない。
洩矢神さえ頭を振れば、この神もウンというのだが……早苗は、この土地神との交渉だけでもう一ヶ月を費やしてお
り、流石に狼狽してしまう。
(洩矢神様はどこにいらっしゃるんでしょうね)
(あんた守矢の巫女じゃないのかい)
(そ、そうですけど)
(んん? じゃあ何で洩矢神を知らない。御奉りしているのは八坂刀売神だけでもあるまい?)
(はぁ、まぁ。摂社末社沢山ありますし……でもご本人がどこなのやら)
(ははぁ……完全にお隠れあそばしたのか。いやはや。これでは移住できぬのぉ)
白髭を蓄えた老神は顎を摩りながら笑う。こうなってはいつも負けパターンである。早苗は仕方なく、お神酒だけ置
いてその場を立ち去る事とした。
薄暗い湖の周囲を歩き、先ほど着替えた場所の奥まで進む。大分季節も秋へと向かっていて、夜はなかなかに肌寒く、
早苗は腕を擦りながら周囲を見渡す。
「神奈子様」
「おお、早苗。大義ね」
「いえ……」
「そう。ほら、此方へいらっしゃいな」
「はい」
文明が開かれたこの一帯から、隠れるように存在する大岩の上に、早苗の神は居た。柔和な顔で微笑み、彼女を誘う
と、優しく励ますようにする。
「急ぐ事はありません。早苗」
「けれど、私は早く神奈子様を幻想郷へと導きたいのです」
「何故、そこまで躍起になる必要があるの」
「――それは……」
口にしようとして、止まる。我神に「貴女が可哀想だから」などとは、口が裂けても言えない。信仰心に拘る神にと
って、その発言は冒涜である。まるで威厳が無いと言っているのと同じだ。
「まあまあ、飲みなさいな」
「で、でも弱いですし、まだ途中ですし」
「良いから。神様のお酒が飲めないって言うの?」
「で、では」
盃を持たされ、溢れんばかりの酒を注がれる。空を見上げるまでもなく、そこには大きな月が映っていた。
……焦る理由はもう一つある。
神無月が近いのだ。
この時期になれば、神々は出雲へと神集う。諏訪の有力神たる神奈子が呼ばれない訳がない。それで無くとも信仰心
亡き今、有力な神が幻想郷へ隠れるとなると、国津神々がお許しになるかどうか知れないのだ。
幻想郷は異界の中でも特殊である。高天原に中津国に常世に根乃堅州国に黄泉と、何層かに分かれる八百万の概念の
世界とは、幻想郷は相成れていない。自然発生したものではなく、人工物であるのだ。一度幻想郷へと赴けば、諏訪明
神が中津国へと帰って来る事はないと、神々は承知している。
あの世へと参られた大神達もその席では言う事を言うだろう。諏訪明神……神奈子も発言権ある立場とは言え、大和
の恩恵を受ける神には到底太刀打ち出来ない。引き止められる前に、必ず移住せねばならないと……早苗は常々思って
いた。
「心配?」
「……とんでもない」
「いいの。早苗の考えている事は手にとるように解るから、繕わなくても。私は貴女の全部を把握しているのよ?」
「人として浅いのです」
「大丈夫。出雲に赴いても、あの馬鹿共説き伏せてきますわ。大国主の阿呆も、嫌味たらしい稲田姫も」
「お強いのですね、神奈子様は」
「当然ですわ。一体どれだけ長い間の付き合いなのやら」
神奈子はそう語り、盃をあおる。己の可愛い巫女の御髪を撫でて微笑み、その度量の広さを見せる。心配させない為
に、心から巫女を案じていると伝える為に。
「……西南の土地神がウンと言わないんです」
そんな優しさに触れた為だろうが、ポツリとこぼす。言ってから、早苗は口を抑えた。今まで弱音の一つも吐かずに
居たというのに……今のは違います、と弁解するものの、神奈子はそれに対し、多少小首を傾げた。
「私の名前を出しているのにも関わらず、です?」
「あいやその……う……あう……」
それは、神奈子の威厳が届いていない、という証明である。早苗は仕方なく……ハイと頷いた。
「その土地神は何と」
「はい。その……洩矢神が頷かぬ限り、ここから動かない、と申しまして」
「坤か……ん、んん。そう、洩矢が首を縦に振らなければ駄目だと」
「私はその洩矢神を知りません。古代神であり、加奈子様に楯突いた神であるとは知っているんですが」
「あいやその……うーん……」
神奈子は、バツが悪そうにアッチを向いて酒を飲み始める。どうやら明言を避けたいらしい。早苗はそんな神奈子の
行動を不思議がるが、深く追求するような立場でもない為、言葉を控えた。
「訊かないの?」
「訊けません」
神奈子としては、今ココでそれを明かしてしまっても良いのかと云う躊躇いがある。何せ、洩矢神は東風谷早苗の祖
神。今更神奈子が本当は祖神じゃあありません、などとは言い難い。早苗が勉強不足であった事も災いしており、神奈
子が優しくしすぎた所為で、思考停止しているのである。
呪術や学問に関しては申し分の無い知識量を備えてはいるのだが、殊己の身に関しての問題はあまり気にせず、調べ
もしていない。早苗の盛大な勘違いであるのだが……神奈子は言えない。それに、早苗もまた聞く事を否定している。
例え神奈子が真実を話した所で、早苗は離れたり、白い目で見たりはしないだろう。しないだろうが、神奈子として
もこれ以上の信仰力低下は避けたい事実であるし、何より、この子個人に禍根を残したくなかった。
可愛い己の巫女である。誰が自分の不利になる事を率先して話したがるだろうか。
「ごめんね、少しでもお手伝い出来れば良いのに」
「とんでもない。神を祀るのが巫女の仕事。加奈子様はどっしり構えていてください」
「早苗……」
――もう長く生きた。建御名方神を奉り上げ、討伐の戦巫女としてこの地に赴いた時以来……様々な時代の流れと、
人々の変化、そして信仰移ろい行く姿を見てきた。自分を神として崇め奉る一家を庇護下において、一大勢力を築き上
げ、朝廷すらも脅かした。
しかしそれも全ては泡と消え、祭りは形式だけのものとなり。人々の心から信じる思いは消えて久しく、もう一生、
取り戻す事もないだろう。大和の神話に取り込まれる前もこのような危機感を有しては居たが……今はそれ以上と言え
る。
どうあっても信仰はあったのだ。だが、今はその信仰の絶対数が少ない。
そんな中、そんな消え失せて淘汰され行く中、自分を直に見つめ、問い掛けてくれる人間がいる。
「早苗……」
もう一度口にした。可愛い可愛い、自分の巫女。最早誰も見えぬ自分を愛してくれるたった一人の巫女。失いたく無
いのは、当然だった。
「か、神奈子さま?」
近くに寄せて抱きしめる。自分の代わりにここまで頑張ってくれるのだ。
「貴女だけですのよ。今語りかけてくれる人間は、貴女だけですの」
「神奈子様。そう嘆かないでください。幻想郷は目の前です。そこでは、貴女の威厳を思う存分、発揮出来るに違い
ありません。神奈子様は、神奈子様は再び大明神として、崇められるのです」
早苗は、その言葉で全てを告白していた。もう本当に信じる心を持った人はいない事を。明神としての力が、他方へ
殆ど届いていない事を。けれど、幻想郷にさえ行ければ、全て解決するのであるという希望を。
「神奈子様。洩矢の神がおらずとも、私は必ず土地神を説き伏せます。だから、もう少しの辛抱です」
「私は観ている事しか出来ないけれど……無理は駄目。ね、それだけは、気をつけて。最近頑張りすぎですわ。貴女、
自分の顔を御覧なさいな。頬が少しこけているでしょう」
「――はい」
早苗は、神奈子の胸元で小さく返事をする。己が己である所以。東風谷早苗が東風谷早苗になった全て。早苗からす
れば……矢張り、神奈子は肉親以上の存在であった。その言葉は重く、否定出来ない。
既に一度弱音を吐いてしまったのだ。今更繕うのも滑稽であると感じる。
「今夜は帰りなさいな。まだ時間はある。それに、最後の現世なのよ。もう少し、人間らしい生き方を楽しんでから、
幻想郷に移るのも悪くはないでしょう。肩肘を張らず、ゆっくりなさい」
「今の世は、面白くないのです」
「異な事を。人ほど面白いものが、どこにあると言うんです」
「そうでしょうか……私は、愚か者です。周りが、自分以下にしか見えないのです。それが最低な心持ちである事も
理解はしているんですけれど、でも、どうしようもないのです」
「それもあって、早く幻想になりたいと……そう願うのね」
「早苗は馬鹿です。こんな巫女で、すみません……」
勿論、誰が悪い訳でもない。元から備える力と、環境がそう早苗を育てた。農耕馬の中にサラブレットが混じってい
たら、当然浮くだろう。皆それぞれの役割があり、農耕馬とて蔑まれる対象ではないのだが、価値をつけられてしまう
と矢張り差は出る。ましてこの東風谷早苗は、同族でも更に上の存在だ。
どれだけ力を持とうと周りがそれについてこれず、誉められたくも無い場所を誉められ、見えるものだけを信仰する
人々の滑稽な思いが早苗には痛い。現代はまさに即物主義が悪い方向へと極まったように思える。
外面だけを気にして、内面に触れようとしない。どれだけ内側に素晴らしいものを秘めていようと、そうそう評価し
て貰える世の中でもなくなった。東風谷早苗は当然、外面も素晴らしい。故に認めて貰えるのだが、真の早苗の本心は
そこに無い。本当に観てもらいたいのは、己の内側であると言うのに……父や母すらも、どこまで見抜いているか解ら
なかった。
「もっと上手く育てて上げられれば、こんな苦労性の子にならなかったでしょうに。許して頂戴」
「いいのです。神奈子様は、私をちゃんと私として見てくれます。私は、神奈子様に見てもらえれば、それで」
……実際のところ、神奈子と早苗がおかれる立場は、殆ど同じだった。
不可視のものに配慮しなくなった、信仰亡き人々によって迫害された、その犠牲者である。
「それでも、人は面白い。早苗、そして貴女も人ですわ」
「……」
「少しの間でしょうけれど、もう少し人として過ごすよう努めてみなさいな」
「……はい」
宵闇に風が吹く。大岩に坐す神はそう言って、己が巫女を送り出した。
早苗が時計に目をやると、既に二十時を回っている。今から自転車をこいで自宅へ帰ると二十一時を過ぎるだろう。
また両親からどんな目で見られるのかと思うと、非常に憂鬱だったが、仕方ない。
(人としてといわれてもなぁ……神奈子様、やっぱり少しずれているのかしら)
一応、早苗としても人らしくは生きているつもりだ。その人らしく生きる事が苦痛でならないのだが、神奈子が外れ
た事を言った試しがないので、間違っているとも断言出来ない。現人神とは言われるが、まだまだ本物の神の考えなど
理解はし得ないものがあった。
(あれ……あの子)
そんな事を一人考えながら先を急いでいると、視界の端に見慣れた人間が映った。恐らくは隣の席の物部であると思
ったが、人違いである可能性も否定できず、その姿も直ぐに消えてしまった為、早苗は追うのをやめた。
消えていった場所は……一度前にも訪れた事のある、土地神が坐す場所だ。不思議には思ったが……しかし、確か家
はこの辺りであると聞いていたので、考えてみればさほど疑問でもない。
早苗はそう納得すると、再び自転車をこいで自宅を目指し始めた。
弐、物部柏子
だるい体を起して、思い切り背伸びをする。まだ布団の中で夢と現を行き来していたかったが、そうもいかない。ぼ
やける頭を振り、のそのそと立ち上がって襖を開く。秋も近しい、涼しげな空気を感じて、早苗は憂鬱になった。
昨日はあまり寝ていない。一晩中神奈子に言われた言葉が気になって仕方が無かった。普段なら何かしらハッキリし
た事を明言されても、さほど気に止める事もないのだが、いつもとは内容が違ったのだ。
早苗自身に対して、『ああしなさい』と言われた事はあっても『こうすればいいのでは』などとは言われた事が無い。
結局、考え抜いた結果の答えは一つ。幻想郷へ行く前に、思い出でも作りなさい、と言いたいのだろうと、そこに行
きついた。
「早苗さん、起きていますか」
「はい。おはよう御座います」
「おはよう。お友達がもう来ていますよ」
……。
母の言葉を受けて、ぼやけた頭の思考が別のベクトルへと向く。たどり着いた先は思考停止であった。
意味が解らないのだ。
小学生の頃なら、無くはなかった。友人が迎えに来る事も少なくなかったし、自ら赴く事もあった。だがこの歳とな
ってそれは過去の遺物と成り果て、そのような行為をされる覚えはないし、する気も無い。
「だ、だれです?」
「物部柏子(かえこ)さんだって」
物部柏子と言えば、隣の席にしかいない。ショートカットが可愛らしい、普通の女の子。一年の頃から一応は顔見知
りだったような気がするのだが、親しくした記憶はない。
「少し待つよう言ってあげてください、すぐに行きます」
「えぇ。もう朝食は用意してありますから」
「は、はい」
何となしに、神奈子の言葉が甦る。どれだけ偶然でも、普通はよほど突飛な人間で無い限り、一日のリズムを親しく
もない人間の為に変えたりはしない。昨日誘いを断った事が関係しているのか、とも思ったが、そんな事はしょっちゅ
うであるし、早苗個人は何一つ変わっていない。
なれば現実的な要素以外の一因がある。
人らしく過ごしてみるよう努めてみたらどうか。
この言葉に尽きる。
……神奈子に人心を操る力が無いと否定出来ない限りは、これが原因であると考えるのが正しい。神奈子にどんな思
惑があるか知れないが、もう現在進行形で物事が進んでいるので、拒む訳にもいかない。
早苗はそこまで考えを至らせると、すぐさま着替えて台所に赴き、両親と祖父母に頭を下げ、丁寧かつ手早く朝食を
済ませる。
「あ、早苗さん」
「……」
玄関を出て直ぐ、そこには柏子が居た。早苗より身長は低く、大分子供っぽい様相。制服も長があっておらず、今一
しっくり来ていない。何の変哲もない、ただの同級生なのだが――さてどうだと、早苗は疑って掛かる。
「早苗さん?」
「……ちょっと待って」
声を掛ける柏子を片手で制止し、両の眼をしっかりと開いて不可視を観る。
……不自然な様子はない。もし神奈子の呪がかかっていたとするなら、その残り香くらいはありそうなものだと早苗
は思っていたのだが……予想は外れた。上手く隠しているのかもしれないので、完全否定は出来ないが。
「おはよう、物部さん」
「おはよう」
まずはその辺りから探ってみようと考える。挨拶だけして、早苗は自分の自転車に跨り、目で『一緒に行きましょう』
と促す。柏子はそれを悟ってか、明るい笑顔でそれを肯定した。
「……」
毎日見ている光景だが、相変わらず山が多い。木が多い。ちょっと遠くを見渡せば、こぢんまりとした街並の先に山
がある。セーラー服を靡かせて自転車を駆ける早苗は、この光景とも後暫くすればオサラバなのだなと、感慨深く思い、
ありもしない感傷に浸る。その方が、巫女らしいからだ。
幻想郷はもっと山奥であると言われる。ここも相当山奥であるが、幻想郷の人里は小さく、未だ原生林が辺りを覆い、
絶滅した生物が闊歩し、物語の世界にしかいないと言われ続けて来た存在が、日々を営んでいる。
それはどれだけ夢のある情景であろうか。早苗も乙女の端くれ、そういったファンタジックな存在に、憧れない訳で
もない。そもそも、風祝の巫女である自分自体がファンタジーであると言うメタ的な事は、この際置いて置く。
一応、これもまた幻想郷へ移住する決意を固めた一因であった。酷い選民思想なのだが、東風谷早苗においてはそれ
も仕方が無い。あまりにも、周りとはかけ離れているのだから。
では、その幻想に恋焦がれる少女の最後の一時に現れた彼女は、一体なんだろうか。
「今日はどうしたの。うちに来るなんて、初めてよね?」
「え、あ。う、うん。な、なんとなくだよ」
ここまであからさまに怪しいと、どこから怪しむべきなのか迷ってしまう。神奈子の力を感じれないのは、呪を隠し
ている場合もあるが、この慌てふためく姿を見る限りでは、呪を受けているようには見えない。
基本、呪や術というのは、命令と同じで式を当てはめ、その流れ通りに動かすものである。人を操るとしたならば、
精神の一部を掌握し、術者が思った通りの行動をするよう刷り込む。
カエルや蝶なればまだしも、人間の精神構造は複雑であるから、あまり難しい注文は出来ない。故に、かなり単調に
なってしまって……そう、人間らしい反応が薄くなったりするのだ。
そう訊かれたらテンプレ通り答えるよう指示されている、と云うならば納得も行くのだが。
「家からこっちって、反対じゃなかったっけ。遠かったでしょうに」
「う、うん。昨日の夜中に思い立ってね、少し早く出たんだ」
「ごめんなさいね、別に尋問しようって思ってるんじゃないの。ただ、不思議だったから」
「そ、そーだよねぇ。普段から、そんなに仲良くは、ないしねー……。め、迷惑だった?」
「……いいえ。ただ、来る時は事前に言ってね。朝が慌しくなってしまうから」
「ごめん……」
責めるつもりは無いのだが……矢張り、朝飛び起きて大急ぎで出たのが災いしているらしく、口調が刺々しくなって
いる。柏子はそんな早苗の意図を汲み取ってか、自転車をこぎながら小さくなってしまった。
……違和感。
違和感が付き纏う。この子はこんな、テンションの低い子だっただろうか。どうも畏まりすぎている気がしてならな
い。いや、勘繰りすぎか。
「じ、実はね……」
と、様々な疑念が早苗に渦巻く最中、柏子は何かを口にしようとして、出せない、といった様子を見せ始めた。
「どうしたの。まさか夢枕に何か立ったとか、お告げでもあったのかしら」
「あ、解った?」
……早苗は、多少頭を抱える。自転車をこぎながら話すものでもないと考えて、早苗はその話は後で、と釘を刺した。
それに、もう学校の校舎が見えている。
「よっと……」
校門を抜けた先。そこには日常のワンシーンがある。今まで自分が暮らしてきた学び舎の自転車置き場。早苗はそん
な己の中で幻想となる風景を目に焼き付けてから、柏子に向き直る。
「さっきのお話、お昼でいいかな」
「うん。なんだかごめんなさい」
「いいの。私、そういうオカルト話嫌いじゃあないから」
柏子は……その言葉を聞いて微笑む。同い年にしては少し小さめの彼女は、先ほどとは違って愛嬌に充ちていた。話
を聞いて貰いたかっただけなのだろうか……と、そこで答えを落ち着かせようとする。
早苗が勘繰りすぎていたのかもしれない。早苗が神社の巫女である事は周知の事実であるし、もし夢枕など立たれた
ら、身近な人に相談もしたくなるだろう。結局は神奈子が原因であるのであれば、答えは簡単だった。
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神を観る事は、現代において容易な事ではない。例えば、幽霊や妖怪が視認出来る者を「見鬼」と呼んだりするが、
早苗はそれの数倍上である。幽霊や妖怪は自ずと、普通の人間でも波長が合えば見えるものだが、神霊となると話は
違ってくる。神を構成する要素は、言わずもがな信仰だ。これが薄れた神は見え難く、大社の宮司でもまず難しいだろ
う。霊能者と言われる人々の一部か、早苗のような信仰厚く力ある者にしか、姿は現さない。
例えば、今東風谷早苗の眼前に聳え立つ、校庭の樹木。樹齢百年の校木だが、当然これにも八百万が宿っている。周
りの人間、物部柏子などに、あれは観えるかと言った所で見えはしない。正直に言ってしまえば何言ってるんだお前、
である。流石にデンパ少女扱いはされたくないので早苗も何も言わないが、そこには居るし、在るのである――
「早苗さん、ウィンナー二本とこのミニパン交換しよ」
「はい」
「やった。あーこれは……スーパータケダヤの特価品」
「な、なんで解るの?」
「一昨日やってたから」
「在る意味私より凄いわ、物部さん」
――などと、難しい事を考えてみる。実際のところはもっと感覚的な問題で、不可視を観る力とは、一概ではない。
柏子のこれもまた情報と考察の成せる見鬼の力なのだろう。
「それで……」
本題は別に観えるか観えないかではないし、弁当のおかずでもない。何時までも食事を突付いていては日が暮れてし
まう。早苗は弁当の話題から転換し、胡散臭い話へ持って行く事とした。
「私は、こんな職業だから、そういった怪奇現象を否定はしない。だから話してみて」
「うん。昨日の話なのだけれど、枕元に誰かが来て、早苗さんのところに向かえって言われて」
「その人の様相は、覚えている?」
「胸元に鏡を携えていて……背中に大きな注連縄が……」
間違いなく神奈子である。
「それは良い神様よ。だから何も心配いらないわ」
「神様……そっか」
これで全てが氷解した。きっと、神奈子が早苗の身を案じたのだろう。日々詰まらなそうに生活する早苗が、幻想郷
に行く前に、人の身として人らしい思い出が作れるように配慮したに違いなかった。
「それ以外には?」
「なんとなぁくだけれど……早苗さんを、何処かに誘ってあげて欲しいって」
突如曖昧になる―――が、良く考えてみれば、解る話でもある。
「多分だけれど、気分転換になるよね?」
紙パックのイチゴ牛乳をチロチロと啜りながら、遠くを見つめて柏子が言う。
そう、柏子はずっと隣の席に居たのだ。自分の体調が宜しくなさそうであると云う事も、一目瞭然で、それもあって
昨日は仲良くもないのに誘いに出た。そしてあろう事か、ぴったりのタイミングで神の手が加わったのである。
(神奈子様、普段から私の事観察してるみたいだし……偶然とは言えないわよね)
その神によって早苗という存在を強調され、早苗の最近の行動が柏子の中で合致し、ある一つの答えに至った。そう
考えるが自然だ。
「うん」
「もしかして、最近夜外に出てるのかな。それで、思いつめたような、疲れたような顔をしているとか」
その問いに、早苗は口を閉じる。そこまで遠くに住んでいる訳でもないので、観られている可能性は否定出来ないの
だが、まさかこの人物に観られていたとは思いも寄らなかった。大体、幾ら知り合いでも外に出ればなかなか目に止ま
らないもの。まして閑散としたこの街である。
「あ、別に詮索するつもりはないの。この前ちょっと見かけたから」
「……そういえば昨日、物部さんも見かけたよ。湖の近くで」
「あ、あー。そうなんだ。家がそっちだし、そんな事もあるかな」
「あそこは土地神様を祭った小さな御社があると思ったのだけれど」
「詳しいねぇ。あるある」
「うん。うちの系列の御社だから」
諏訪明神にまつわる、名前も知られぬ土地神の御社。今では殆ど触れられる事もない、小さな場所だ。幾ら近所と言
っても……若い女の子が出入りするような場所ではない。昨日は見間違いかと思ったが、この言葉でハッキリした。
「どうしてあんな場所に? ちょっと不思議」
「あ、えーっと……言ってなかったっけ?」
「え?」
「私の苗字、解るでしょ? 物部氏の末裔なの。大きな神社ではないけれど、小さなお社の管理を幾つか任されてい
てね。嘘じゃないよ? 神社庁と東風谷本家に問い合わせてみる?」
「あいや、そこまでしなくとも……そっか。物部守屋……あ、え? じゃあ親戚?」
「大分遠いだろうけどねー」
早苗は目をパチクリさせて柏子のあっけらかんとした表情を窺う。ただのクラスメイトかと思っていたが、実は親戚
という不思議な繋がりがあったらしい。狭い集落などでは良くあった事だが、今は大分開けているし、小さな街といっ
ても出入りも激しい。物部なんて苗字は最近珍しいとは思っていたが……何とも意外であった。それに、もしそうであ
るなら、神様と聞いて随分と淡白な反応をした柏子にも納得が行くし、わざわざ早苗に相談した理由も合点が行く。
「ごめんなさい、親族会で顔を合わせたことがなかったから」
「あはは。お父さん達は顔を出しているとは思うのだけれどね」
年に数度開かれる親族会に物部の名はあったが、まさか直接関係した人物であるとは知らなかった。大手神社の家と
もなると、その血族の家系図は分かれに分かれ、こっから曽祖父を辿ると親戚、やら、数百年前のタメゴロウさんから
辿ると親戚、何て人が幾人か出てくるものだが、これもその内だろう。事務的なものは両親に任せていたので、これは
失念であった。
しかし、そう考えると一気に親近感が湧いた。そして期待するのは、神が観えるか観えないか、なのだが……矢張り
問うのは怖い。物部とて血族とはいえ、自分の両親すら観えないのだ。期待などするだけ無駄なのだが……。
一応、前例はある。夢と現の境界を漂っていたとはいえ、夢枕で神を観れたのならば……。
「ねぇ、えぇと……」
「かえこで良いよ。意外と長い付き合いなのに、ずっと苗字で呼ばれるの、違和感あったんだ」
「うん。じゃあ柏子さん。その、こんな事を訊くのは可笑しいのかもしれないけれど……」
「お、なになに? そういうの好き」
「あ、うん。えぇと……私たちって人間じゃない? だから本当は物質しか観えないよね」
「そうだね、普通はね」
「……霊とか、妖怪とかは……観える?」
「観えるよ」
「!!」
柏子への好感度が、一気に跳ね上がる。何故自分はこんな子を友達として見ていなかったのかと悔やまれる。もっと
もっと早く打ち解けていれば、こんなつまらない日常でも、一味も二味も違った筈なのに。
「じゃ、じゃあじゃあっ!! あの樹からこっちを見ているの、何か解る?」
「初老の神様だね。大分姿は薄まっているけれど、あ、手振ってる。おーい」
柏子の言う通り、初老の神様が此方に手を振っていた。それはもう確信。間違いはない。この子は、霊や妖怪どころ
ではなく、神すらも観える目を持った子。自分と同じ程度の視力を有した、類稀なる神童だ。
思わず興奮する。何と声をかけて良いか解らなくなる。この子は観える。神が観える。自分と同じ位置に立つ、今現
世に指で数えるほどしか居ない人間の一人。
ここ暫くの疲れが吹っ飛ぶような喜びを覚える。この、ショートカットのちんちくりん、なんて思っていた自分が憎
たらしい。昔の自分は死んでしまえと、思わず罵る。なんと見る目が無い事か。向こうの世界にばかり目を向けていた
から、現実を見る目が衰えていたのかもしれない。
「ああああ、か、柏子さん、いいえ、柏子ちゃんっ」
早苗は、勢い余って柏子の手を掴み、迫る。
「え、あ。そ、そんな、顔近い近い。は、恥ずかしいってば、早苗さ、」
「今日は何処へ行きましょうか? 美味しい甘味処を知っているのだけれど、行く? 行くわよね。当然。全部私が
持つから。うん、柏子ちゃんはお財布の心配しなくても大丈夫。学校終ってからが良い? いいえ駄目ね。今からよ。
もうあんまり時間も無いから、これから沢山お話しましょう? 駄目かしら? もしかして引いた?」
「ああ、うう、ううん? こんなに嬉しそうにする早苗さんを見たことがないから、面食らっただけだよ」
「そうっ」
早苗のテンションは鰻のぼりである。手早く弁当を畳んで片付け、それを柏子に持たせると、速攻教室へと駆けた。
ものの一分で、早苗は二人の鞄を持って現れる。
「はやっ」
「はぁ……はぁ……時間がおしいの。さ、行きましょ、さっ」
「あ、あひー……」
きっとこれも神奈子様の思し召しなのだろう。そう思えば思うほど、神奈子への忠誠心も高まる。今日は、いや、今
日から幻想郷に行くまでの短い間は、きっと今まで生きて来た現世での、最高の思い出になるに違いなかった。
それに、無心になれば、余計な事を考えずに、済む。
「早苗さん、速い、速いってば」
「もーちょっとだから、嗚呼もう、坂がうざいー……ふぬぅっ」
アップダウンを乗り越え、へばる柏子を従え、早苗は走る。普段から長い距離を走っているので、口では辛いと言っ
ても慣れたものだ。次第に色づき始める木々を通り越し、車をかわして人を避けて。しかし、今日は憂いなどない。授
業を途中で抜け出したのだから、後で親に連絡が行くかもしれない。だがそんな事はどうでも良いし、今後の成績など
気にする問題でもない。
「おーい……あれ?」
と、一人テンションを上げすぎたのがいけなかったか。柏子は大分坂の下に居る。早苗は自転車を降り、剣指を作っ
て柏子の後ろを指差した。
「八坂刀売」
ぽつりと神の真名呟く。その神格は風だ。途端坂の下から風が吹き上げるようになる。
現人神たる所以はココにあり、何のリスクも背負わず、神業を成す事が出来る。最早現代に失われた奇跡が、早苗に
は宿っていた。普段から使い慣れている早苗からすれば、何の事もない日常のワンアクションに過ぎないが、その価値
たるやいなや、現世ではそうそうお目にかかれぬ物がある。
「ふぇー……らくちーん」
「ほらほらぁ、風に任せてないでこいでこいでぇー」
「あ、うーん……」
漸く坂を登りきり、やっとの事で目的地にたどり着いた。さっさと自転車を止めさせると店の中へと入る。シックな
雰囲気のある喫茶店で、全体から珈琲の香りが漂っていた。甘味処と言われると首を傾げざるを得ないが、早苗曰く、
店主は無類の甘党で、喫茶店とは名ばかりのスウィーツの名所だとか。
二人はアンティークの珈琲メーカーの近くに腰掛けて落ち着き、はぁと一息吐く。窓際からは遠くに山が見え、その
周りには大して高くはないコンクリートの城が犇いている。多少、堆く積まれた工事用の土砂が目に入るが、それは仕
方ないとして割り切る。何にせよ、良い場所だ。
「ランチのお客さんも結構居るね」
「まぁこんな時間だし、仕方ないわ」
ウェイターが水を持ってくるのと同時に、早苗は”甘いの”と注文する。ウェイターはそれで畏まってくれた。
「じょ、常連なんだ」
「甘いの、好きなの」
早苗は普段あまり見せない、緩い笑顔のままニコニコし、取り敢えず思いつく事柄を次から次へと矢継ぎ早に述べて
行く。他愛も無い話から、一体どのように神様が観えるのか、どういった経緯で気がついたのか、自分の事を何時から
知っているのか、神事には参加していたのか、夢枕に立ったあれうちの神様だったんだけどどう思うとか、甘いのは美
味しいか、お酒って飲むの? 等々。
抑圧していたものを解放するように、早苗は喋りに喋る。柏子もまた聞き上手らしく、嫌な顔一つせずそれをうんう
んと相槌を打ち適切な言葉を述べて行く。
大体、最初は柏子の相談に乗るはずであったのに、今となっては早苗が聞いて貰う立場になっていた。この東風谷早
苗が一体何を抑圧していて、何を話せずに居たか。それは現人神としての立場を考えれば、自ずと答えは見える。
――内面全てである。
早苗は優等生である事に終始していた。内面は表に出さず、兎に角人に見える形で、優秀な自分と云うものを周りに
誇示し続けてきたのだ。それは酷いストレスであるし、慣れもあれど人間は完璧ではない。積もりに積もったものが爆
発する事も、無くは無かった。
東風谷早苗と云う「人間」は、ほぼ人間ではない。神代(かみよ)にまで遡っても、比べられるだけの呪術者が居た
か居ないか。直接神と交信し、その御力を我力の如く行使出来うるのであるからして、周囲の一般人とは比べ物にはな
らないし、本人が同格と認められる者もまた居ない。
同格の存在が無いとは、つまり同じ話が通じない。言語レベルでの対話は可能だが、精神的なレベルの話をしようと
すると齟齬が出てしまう。まして異常な力の話など出来る筈がない。
だがそこに、同じモノが見える少女が現れたのだ。力云々ではなく、ある一部でも同調して語れる人物の存在は、早
苗の待ち望んだ友人である。今まで話した事も無いような事柄が、早苗の口から湯水の如く溢れるのもまた、必然だろう。
「そうなのよ。一部の氏子と両親しか知らないけれど、私、そういう力があるの」
「そ、それって喋って大丈夫なの?」
「だって、誰も信じないもの。信心は地に落ちているし、私なんてきっとエセ霊能力者扱いよ、それに」
「それに?」
「私はもう、現世から居なくなるから」
ケーキを食べながら、パフェを食みながら、甘い紅茶を啜りながら、早苗は喋り続けた。うっかり失言してしまった
事も、気がつくまでに数十秒掛かるほどに、無心で話し続けてた。
「早苗さんが、居なくなるの?」
「……う……あ、な、何でも無い。今のは違うの」
「でも、随分と本音ばかり話していたし、今のが違うって云うのは、ちょっと納得出来ないかな」
柏子はそう発言してからアッサムティーを啜り、今の言葉を考えさせるような間を置く。早苗は気まずそうにしてそ
の間に堪えるが、聞きに回っていた柏子の思わぬ反撃に狼狽する。
「これこそ本当に信じてもらえる話だとは思わないけれど……ねぇ、柏子ちゃん。幻想郷って、知ってるかしら?」
早苗は致し方なく口を開く。流石神を観る目を持つ子とでも言うべきか、柏子の眼が非常に鋭く、否定も嘘も吐ける
気がしなくなったのだ。とはいえ、荒唐無稽は話である。これを真実と取るも虚言と取るも、柏子次第だが。
「ネットでも有名な、オカルト話かな。蓬莱の伝説なんかに準えてある、日本の秘境の事」
「うん……そこに、私は行くの」
「連日夜に外へ出ている事と関係しているの?」
「……柏子ちゃんなら話しても、大丈夫かな。なんだか、荒唐無稽な話も信じてくれそうだし」
「私は早苗さんが嘘を吐いているとはトテモ思えないもの。だって、私自身、皆が信じない神様が見えるのだから」
それも当然か、として早苗は抵抗を諦めた。一般人が聞いたら「何だこのデンパ」と言われかねない話も、柏子なら
ば信じる。当人もまた一般人ではないのだから、当たり前と言えば当たり前だった。
「そう。貴女も見た、八坂刀売神様が、幻想郷へ移住すると言うの。巫女である私も、ついていかなきゃいけない」
「幻想郷は、物語でしか生きて居ないような生物や、亡霊や妖怪、神様なんかも住んでいるって、聞いた事がある」
「うん。私は幻想郷へ行く為に、毎日転位用結界を張っているわ。だから、夜に見かけられたりしたのね」
「転位って、単身で転位する訳じゃないの?」
「……守矢と幾つかの摂社末社……そして、湖ごと」
「そっか……」
柏子は、多少、気を落とすような素振りを見せるが、大して驚いている様子はない。一体どんな感情を抱いているの
か、今一解り辛い反応に、早苗も次の言葉に詰る。
「……家族は、どうするの?」
「皆は、神様も見えないもの。必要なものだけ持って、母屋は残して行く。その後に発生する諸問題を考えると、少
し頭が痛いけれど、私はもう決意を固めているし」
「湖もなくなっちゃうんだ……そうなると、大変な問題になりそうだね」
「一応有名な湖だし、ふふ。日本中のマスコミがトップ記事にするんだろうなぁ」
「あはは、間違いないね。湖消える。県は困惑。地質学者はありえないと長野の中心で叫ぶんだね」
「漁協の人にも、旅行会社の人にも、湖の恩恵を受ける人たちにも、迷惑を掛けるね」
「大丈夫だよ。それは一時でしかない。川はあるし、年月は全てを埋めるから。それに、一度消えた湖なんて、全国
各地から観光客が来るよ。その時は守矢の変わりにうちの小さな御社が恩恵を受けてあげる」
「と、止めてくれたりは、しない?」
「しないよ。決意堅そうだし。それに多分、早苗ちゃんは――幻想郷の方が、活き活き出来ると思うの」
その言葉には、一体どんな意味合いが込められていたのか。たった数時間集中して話し込んだだけの知人が、どれほ
ど自分を理解してくれているかなど、早苗には把握出来ない。だが、物部柏子が神を観る目を持つ子であると云う前提
を思い出せば、手にとれぬ形ではあれど、想像は可能だ。
自分は、人として、傍から見て、やはり活き活きしていないのだろう。現世での自分は上辺だけを繕った優等生。人
らしい、女の子らしい生活を送らぬ、味気ない秀才。
その言葉の意味を汲み取れる部分だけ汲み取れば――それは、幻想は幻想として生きるべき、という断言だ。
「……もう、どのくらい話したかな」
「日が暮れてきちゃってる。やっぱ割り勘にしよ? たぶん、万単位で食べてる」
「う……い、いいの。もう、この世で使うお金なんてこれで最後なんだから」
「そっか」
早苗は伝票を掴むと、上着を着てレジへと赴きさっさと会計を済ませる。財布は相当軽くなったが、気分は重かった。
柏子を連れて外に出る頃には、もう茜色の空が世界を支配していた。二人で空を見上げ、見果てぬ空間に思いを馳せ
てみる。そこに生まれた感情は何とも言い難い、季節の変わり目のような、侘しいものであった。
「今日は、付き合ってくれてありがとう」
「とんでもない。甘いものご馳走になったし、学校はサボれたし」
「――そうだ」
この蟠る気持ちを解消するには、どうしたら言いかと考え思いつく。
恐らくは、逃げであるのだ。
考えたくも無い、考えたくなかった事実を、誰かにやんわりと否定して貰いたくて思いついた事。
「今から、神様にあってみない?」
こう話した自分は、きっと最低な人間なのだと感じる。何せ、幻想郷へ移住するという葛藤を、他人に預けようとし
ているのだから。
『幻想郷の方が活き活き出来る』
そう言われても、まだこの物部柏子と云う人物に、引き止めてもらいたかった。早苗は柏子の中に希望を見出し始め
ている。今まで同等の人間がいなかった早苗は自棄であったのだろう。しかし、この柏子は同等に話が出来る。親にす
らも明かせないような秘密を話せる。この子さえいれば、今後も現世で、上手く生きて行けるかもしれない。
――ならば、幻想郷へ赴かずとも、良いのではないだろうか?
……神奈子への同情がある。信仰心もある。
だが所詮、東風谷早苗は、まだうら若き少女であった。決断も責任も、少女には重過ぎるのである。
「ううん。良い。それより、またこようね、ここ」
「う……うん」
否定する言葉に、落胆を覚える。しかし、罪悪感は、背負わずに済んだ。ただなんとなく、これでいいような気がす
る。確かに本心を伝えられるのはこの子だけかもしれないが……果して、神奈子に逢わせてどうしようと言うのか。
……無心で思いの丈を口に出来る機会を設けてくれた事だけでも、ありがたく思わねばならないだろう。また深く考
えれば、つまらない現実が押し寄せてくる。それは、東風谷早苗が一番触れたくない部分だ。
幻想とは、この悩みすらも解決してくれるだろうか。だとすれば、幻想郷は理想の都なのだろう。しかし、それを考
えれば考えるほどに、自分の中で蟠る問題が持ち上がる。
「帰ろっと」
自転車に跨り、思い切り坂を下って行く柏子の背中を見つめる。
現実は辛いが……。
あの子さえいれば、それも乗り切れ、そして現実での幸せが見出せるのではないかと、期待してしまう。
東風谷早苗は、幻と現の狭間を、知らず知らずの内に漂っていた。
つづく
それと、この時点である程度展開が読める気がしますし。
点数は後編を読んだ上でそちらに纏めて入れさせていただきます。
現人神と湛えられた→「讃えられた」または「称えられた」
等の本人→当の
「幻想郷へ移住する為んはこの」
漢字変換が多くて少し読みづらかったですが、それ以上に内容に興味津々でした。
これから後編を読みます。
場面の一つ一つが想像できます。後編いってきます。