亡霊がふうわりふうわりと膳を運び、忙しげに兎が走り回る景色は、いかにも楽園の冥界にふさわしい不可思議といえた。
散る桜の中に半透明の霊が行き来し、その下をまるで時に追われているかのようにせわしなく兎が駆け抜ける。
そこだけ切り取ればとんでもなくせわしないが、果てしなく高く伸びる冥界の空と、白玉楼の無間の広さの中では、それもまた絵画の一幕に過ぎない。
そんなことを思いながら、蓬莱山輝夜はぷう、と煙を春風に流した。
茶席の中入りに出される煙草盆は、外の世界においては形骸化しているらしい。
が、幻想郷の古式においては、雁首に草を詰め、羅宇(らう)を通して吸い口から煙を呑む行は、いまだ当然のものとして行われていた。
それに、もし仮に出された煙管を点けることが無作法だとしても、輝夜は煙をくゆらせただろう。
煙管でゆるりと草を燻らすのは嫌いではなかったし、こんなにも空が高く花が綺麗ならば、届かぬ天に白煙を上げぬほうが不調法だろう。
―届かぬ不死の煙が、不二より昇り月を目指す―
そんな夢を見たのは、あまりにも桜が美しかっただろうか。
「堪能されていますか、永遠亭の姫君?」
なんとも儚い輝夜の幻視を打ち破ったのは、この茶席の主の言葉だった。
西行寺幽々子。
冥界の管理人にしてここ白玉楼の主。
色素の抜けた肌と髪が、亡霊の姫という彼女の存在を物語っている。
「ええ。来て良かったわ、華胥の亡霊姫。イナバたちもあんなに喜んでいる」
「冥界はすこし静かに過ぎますわ。死人に口なし、普段にはない彩で、迎えるほうも張りが出るというもの」
かたや月人の姫君にして、地に堕ちてからも永遠の邸の主として座る蓬莱人。
かたや歌聖の娘として生まれ、さまざまな風流風雅を死んでからも嗜む亡霊姫。
言葉を掛(かけ)も返(かえし)も、ゆったりとした故実に満ちていた。
「そろそろ釜の煮も十分付いたころあい。一服いかがでしょうか」
「是非にお願いしたいわ。永遠亭には客が少なくて、私は点ててばかりだったし」
こん、と煙管を盆に戻し、輝夜が立ち上がる。
視線を上げたころには、幽々子の背中が消えるか消えぬか、そんな按配だった。
永遠亭も巨大な邸だが、白玉楼の廊下もまた長く、広い。
見失いそうになる瞬間、幽々子の鮮やかな蒼衣がちらりと視界に写り、それを追いかけることで輝夜は迷わずにすんだ。
亡霊ゆえの緩やかな歩みは、どうにも人には届きえぬ風雅が付きまとっており、なるほどこのように死ぬのならばそれも悪くは、と思い至ったところで。
どうせ死ねぬ身であることを輝夜は思い出し、今まで慎重に積み重ねてきた風情、全てを吹き飛ばすような堕声が喉から迸りかけた。
表情と腹を引き締め、蝶のように、もしくは散華のごとくふわりふわりと舞う幽々子の背中を捜す。
丁度、薄暗い茶室の扉を開いて、闇の中に消えるところだった。
にじり口も蹲(つくばい)もない変則的な茶室だが、鼈甲に色を変えた細めの柱といい、艶の消えた土塀の色合いといい、渋好みに締まった見事なものである。
窓は四角い小口、高すぎる空の光は最低限に取り入れ、陰影のふちが濃い。常の造りと比べても、非常に小さい。
広さは四畳、客と主人が座ればもう人は入れない造り。
だが、それでいいのである。
戯れは白洲の大庭で、桜花と春光に狂いながらすればいい。
この、四畳に切り取られた密室は、幻想の郷には抜け落ちがちな静寂を飲み込むための場所なのだ。
する、と無音で座る。
幽々子は既に釜の前に座し、半眼にて道具を眺めている。
ちらりとそちらに目を切った後、輝夜は眼前の軸を見た。
茶席における軸とは、ただの書ではもちろんない。
その席をいかな心持で点てるのかという、主人の宣言に他ならない。
古筆か、それとも新たに書き上げたものか。
文面はどの書籍から取られ、それにまつわる故事と席のつながりは何か。
一筆の中に主人の意気全てがこめられ、それを見抜く客の眼も試される。
そのようなものである。
『ねかはくは はなのもとにて 春しなん』
流麗な草書ではあるが、墨蹟は新しい。
幽々子本人が、今日のために書いたものと見て間違いはなかろう。
だが、と輝夜は思った。
かの法師の辞世は、この切り詰められた席には少々重すぎる。
外界で舞い散る桜花を、わざわざ題に持ち上げるのもくどい。
ここまで席を渋く作り上げてきたのならば、場違いの一言を受けても仕方のない軸ではないか。
「妖夢には、席の趣旨と違いすぎるから、山内郷の水墨にしようといわれたのだけど」
するり、と蝶のように、幽々子の言葉が輝夜の思考に滑り込んだ。
ひきつけられるように視線を送れば、既に茶は立ち、薄暗がりに湯気を立て置かれている。
一礼して、三つ指にて体を摺り、茶碗を手に取った。
ひたり、と手に吸い付く小ぶりな黄瀬戸である。流れた青釉が五月の湧かばのように眩しい。
来たときと同じく無音で戻ると、輝夜は一息、丹田から息を吸った。
「どうしてもね、あの桜が咲くと、この句を書きたくなるの。性分ね。どうぞ、お飲みください」
それに促されるように、輝夜は黄瀬戸を口に当て、一口、二口、半分、茶を喫んだ。
湯を少なく、練るように造る濃茶。
だが茶が玉として固まることはなく、練りすぎて香りが飛ぶこともない。
甘い当たり口からほのかに、そして濃厚に茶の薫りが鼻に抜け、かすかな苦味が喉に残る。
「結構なお手前で」
自然、輝夜の口からその言葉が漏れていた。
それが作法だからというわけでも、ましてや世辞でもない。
ただ、いい茶を飲んだ気持ちが、自然と音になった。
そんな一言に軽く、幽々子は会釈を返すと、二つ目の茶碗を準備し、視線を小窓にやった。
輝夜がそれを追いかけると、遠く、高く、見える桜。
おそらくは何十里も離れているだろう彼方ですら、その威風を主張する妖の桜。
その枝には、一葉の花もなく、玄々とした枝振りだけを誇っていた。
「西行妖は、こういう席で見るには強すぎる樹ですわ。それこそ二百由旬は離れないと、毒気に当てられて喫茶どころでは」
「でしょうね」
そのための、四畳にしても小さすぎる窓か。
ゆっくりと弛緩していく自分を感じながら、輝夜は自然、体の力を抜いていた。
借景、という概念がある。
自然にある景色を借りて、庭の一部にして全体として使う、作庭の技法である。
西行妖だけを捉える四角い窓は、この概念で造られたものである。
いうなれば、窓を額縁にし、風景そのものを切り取った風景画。
「ああ、なるほど」
「なにか」
「そういうことならば、場違いな法師の軸にも得心が行くわ。この部屋は、茶室ではないのね」
にこり、と笑ったのは肯定かそれとも否定か。
いつまに点てられていたのか、白釉の高麗が翠を湛えて輝夜の前に在った。
薄手前。
手に取ると、先の黄瀬戸とは異なる、徹底的に軽く滑らかな感触。
飲む。
全てを死に誘う華胥の亡霊といえど、殺せぬものはあるようだ。
そんな感慨にふけるほど、爽やかな茶の風情が喉を流れていく。
「この部屋は、あの桜を見るための遠見台。主も客も、あの妖の前には同(おなじ)、というところかしら」
「流石のご見識。ううん、やはりお客様はいいわね。妖夢を相手にだけ点てていると、こういうところに風が吹かなくていけないわ」
「それは私も同じことよ。やはり、来てよかったわ。席はこうでないとね。自服(じふく)で?」
「点てていただけるならば非常にありがたいわね。月人の一服というのは、どんな味がするのかしら」
自服、というのは亭主が自ら茶を立て、自分で飲むことである。
客である輝夜がそれを聞き、亭主である幽々子が『輝夜に点てて欲しい』と答えた。
ならば点てる。
席というのはそのようなものである。
するり、と絹の質感で輝夜は立ち上がり、ゆらり、と蝶の足取りで幽々子は行く。
主客の位置は須臾の間で入れ替わり、輝夜は道具の前にいた。
漆の棗、茶釜は少し背の高い車軸。
用意されていた三つ目の茶碗、ずっしりとしたの赤洛。
閉ざされた永遠の邸の中で、無聊を慰めるために杓を筅(せん)を取っていた輝夜の体は、何も考えずとも茶を点てていく。
無心である。
「あの桜、なぜ咲かさなかったの?」
その無心から、言葉が漏れた。
半霊の庭師に、幻想郷中走り回させて春を集めたと聞いている。
そうまでしてみたかった開花を、なぜ諦めたのか。
想念は無心の上をすり抜けて、茶筅を握る輝夜の体がぶれることはない。
「巡りというものよ。どうしても、見てみたかったけど、見れぬものなのでしょう」
「どうして、死呼びの力を疎んだの?」
「昔のことです。忘れてしまいましたわ」
西行寺幽々子の力は死を操る程度の力。
触れれば花は落ち、見つめれば人は死ぬ。
言葉を紡ぐだけで周囲は息絶え、存在その物が死を呼び込む。
冥界にいるのは亡霊のみ。ならばもはや死ぬものもない。
が、いまだ顕界にいた時の幽々子ならば、おそらくは。
音もなき死に満ちた世界を生み出す自分を、疎んだのではないか。
確信はない。
空気がなければ音も曇りもなく、ただただ静寂と清涼に満ちた月世界の景色と共に、何故か浮かんだだけである。
「どうぞ」
「頂戴します」
所詮月世界など夢。月には兎と、山ほどの月人が湧いている。
想念は泡沫のごとく消え、気付けば輝夜は手前を終えていた。
静かに赤洛を傾ける幽々子を視界の端に捉えつつ、輝夜はもう一度、小さすぎる窓から西行妖を見た。
どこまでも高く、大きい。
かすかに、永遠亭のイナバたちがはしゃぐ声が、春風に乗って聞こえた。
「とても美味しいわ。あの事件では本当に色々あったけれども、こうして客としてきていただいて、私嬉しいの」
「ああ」
私も。
永遠の密室から出でても、月は自分を見ていないと知り。
一服を求めて客として赴く。
そんな風な今を、楽しんでいるのだ。
「結構なお手前で」
「こちらこそ、いい席だったわ。今度はそちらが客としてきていただければ嬉しいわね」
「うふふ、冥と顕の境界は緩んでいるけど、私がそちらにいくと、色々面倒な気もするわ。でも」
でも、いつか。
そう二人が呟き、輝夜が差し出された赤洛を手に取ろうとした瞬間。
風が吹き、四角く切り取られた西行妖からひとひら、花びらが落ちた。
赤釉に、薄く乗った茶の翠。
その真ん中に、狙い済ましたように、桜花。
二人の姫は、知らず、鈴のような声で笑った。
そんな風にして、蓬莱山輝夜、初めての白玉楼は過ぎていくのだ。
しかしこの輝夜はなんともカリスマにあふれてることww
月下に映える夜桜や、姿は見えずとも遠くから聞こえるイナバたちの声。
静かな情景の中に見え隠れする一抹の憂いが、読んでいてとても心地よかったです。
茶会で交わす二人の会話は、ともすれば重くなりそうなのに、読んでみればそうでもない。
最後も幽雅にまとまって、とても気持ちよく読了できました。
作品は小粒ですが、素直にうまいなぁと感じる一品でした。
次回作も楽しみにまっています。
「雅」を体現するような背景・心情描写で読んでいるこちらも
色々と勉強になりました。
いつもと一味違うゆゆ様と輝夜もまた良い味を出していると思います。
雅である作品でありますし、独特の言い回しは違和感がありません。
しかしなんというか柔らかい、風に舞う花のような文章で読みやすいときたもんです。
こんな作品を読ませていただいて有難う御座いました!
結構なお手前で。
余計な世辞は無粋というもの・・・・・・
ただ一つだけ、結構なお手前で
↑こんな感じの幽々子ばかり見てきたのでこれは新鮮。
たまにはこういう優雅な幽々子もいいですね~。
輝夜も流石は月の姫ですね。
ただ一つ気になるのは幽々子は不死者が苦手だったような・・・
何か書こうとすると無粋に思えてしまう。いやはや、すばらしい。
だけど何というか、ちょっと言い回しに違和感が――
いやレベルが高いからこそ見える些細な粗なのですが、もっともっと言い回しも構成も台詞も練れたんじゃないかなぁ、と。
これからも期待しておりますw
素晴らしいSSをありがとう
こんなまともな輝夜は久しぶりに見ましたよ。
素敵な作品ご馳走様でしたー
亡くなられましたけどね、そのおばぁちゃん。
美しい情景に、無粋な台詞回しがかえってはまっていたと思います。
この二人だからこその特性かと。
こんな姫様方に会いたかったんですよ。