仄かな風の音が、乱れた呼吸と鼓動に掻き消されている。
フルスピードで動き続けた全身は口々に不調を訴え、大量の酸素と安静を要求してきていた。
どうしたものか、と妖夢は思う。
このまま数分の時を刻んだところで、彼女は特に気分を害することもあるまい。それで本来の力が出せるのであれば、と喜んで待つだろう。
だが妖夢はそれに頷けない。
互いに休憩が必要であるのならばまだしも、腕を組んで無造作に立つ彼女は呼気を乱した様子も無い。自分だけの都合で小休止を挟むことなどどうして出来ようか。
温和な新聞記者という認識は皮が剥がれるように消え去っている。皮の下に潜む本当の彼女は、清々しく感じてしまうまでに苛めっ子だったのだ。
距離は二十メートル少々。
愛刀の楼観剣は、切っ先を対峙する文へと合わせたまま動かない。
左手に持つのが常の白楼剣は鞘へと納められ、空けられた手は楼観剣の切っ先へと添えられていた。
右足を大きく引いて体勢は半身、繰り出される攻撃は突きなのだとその姿勢が告げている。
次の手をわざわざ相手に晒すのは愚策に他ならないが、妖夢にはこれ以外に選択肢が残されていない。
妖夢が得意とするのは正眼、しかしそこからでは何をどう発展させようと刃が届かないことを十分足らずで思い知らされていた。
「――――」
膝が一際沈み込む。
上下を繰り返していた肩が脱力し静止する。
大地が踏み抜かれた。
耐えることなど出来る筈もない地面は断末魔のような低い呻きを上げ、抉り取られた土が舞い上がる。
それら一切合財を意識せず遥か遠く、妖夢は一筋の矢と化していた。
楼観剣を心臓目掛けて突き出す。体の捻りを加えられた切っ先は音速を超え、風切り音さえ切り裂いて文へと迫る。
一瞬と呼ぶにはあまりに長すぎる涅槃寂静の邂逅。
真っ当な生物の限界を彼方に置き去りにした神速の一撃は、剣術における最速――つまり妖夢の繰り出せる最も速い一撃は、寸前に体を捻り始めていた文の袖の極一部を塵へと帰した。
音すら着いて来れない世界の中で二人の視線が確かに交錯する。
極限の集中は時を遅延させ、瞬きの間もない逢瀬を数千倍へと引き伸ばす。
妖夢には確かに見えた。
嘲笑うかのように歪んでいく口の端が。
愚弄するかのように細められていく瞳が。
『遅い』と告げる、射命丸文の姿が。
何を、と反論することに意味は無い。
口を動かす余力があれば足を動かせ。
思考する暇があれば手を動かせ。
忌々しいアイツを斬り飛ばせ――――!
文の横を通り過ぎた直後、捻った勢いそのままに右肩を前に突き出す。
同時に頭を下に振り、生じた回転力に任せるまま体全体を回転させる。
地面を睨み空を仰ぎ、体が地面と平行になったところで足を伸ばす。
霊気を集中させ圧縮し即席の壁と為し、振られるがままの左足を叩きつけた。
体重と速度の乗算を足の面積で除算、導き出されるは天文学的な圧力。
足を粉微塵にして尚余りあるそれは、しかし魔法のように足に吸い込まれて消えた。
違う。
生じた力に対処出来ないようでは三流だ。
生じた力を捻じ伏せてようやく二流。
一流ならば。
体を捻るという動作が終わったばかりの文を睨む。
距離にして三メートル、ブラウスのボタンの微かな傷まではっきり見える。
右腕は袈裟を通って左腰、左足に全体重を預けて続く第二撃は居合。
莫大な力を蓄えて収縮しきった左足が、躍動の時を今か今かと待っている。
暴発しかねない力を宥めすかし、今一度楼観剣を強く握り締めた。
生じた力、思うがままに制御し、利用してこそ一流。
時間にして刹那。
ありったけの霊力の壁が爆ぜて散る。
渾身の矢を躱された妖夢は、己が自身を一閃と成して再度文へと襲い掛かる――!
それは妖夢が好まない博打だった。
全速の突き、即座に反転しての居合抜き。
如何に鍛えられているとはいえ、所詮は少女の細足である。どう楽観視しても無事では済まないという確信に等しい予感があった。居合に移ることも出来ず、足を壊すだけに終わるかもしれないとさえ思った。
それを考えればこうして斬りかかることが出来ているだけでも僥倖である。
そんな大きな覚悟の上に成り立つ、正に必死の連撃。
だからこそ理解出来ないでいる。
どうして剣閃の先に在るのが彼女の体ではなく、それを受け流すべく絶妙に傾けられた扇であるのかが。
どうして体勢を整える間も無く両断される筈の彼女が、小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら待ち構えているのかが。
文の右腰から左肩へ――逆袈裟に斬り上げるべく生まれたその一撃は、そうあることが決まっていたかのように扇の上へと乗せられた。
見事だ、と妖夢は思う。自分では示し合わせていてもこう上手くはいくまい。
文の両膝が沈み込むのが見える。僅かな動作が見せた未来を何とか否定したくて、幽かな間違いに期待して殊更右腕に力を込めた。
扇の上を滑るように奔る軌跡は、足掻きも空しく跳ね上げられた扇と共に大きく上へと逸れていく。
間違いなど起こらない。万に一つさえ生み出さない絶対的な差が、確かな力量を持っているからこそ嫌でも理解出来る。
剣閃は文を両断するどころか触れることもなく頭の上を通り過ぎていき、妖夢自身もそれに引っ張られるように空高く舞い上がった。
投げ出された体は風圧に揉まれ、くるくる、くるくると不規則に回る。
地面、空、地面、空。振り回される視線が、ままならない身体が操り人形を連想させて、無性に悔しかった。
「ッ……!!!」
ぎちりと歯を食いしばり、僅かに残った霊力を総動員して体を静止させる。
重力に引かれて地面に降りれば、今更のように左足が悲鳴を上げた。
わめくものかと息をも止めて口を閉じ、楼観剣を地面に突き刺して顔を上げると、
「束の間の空の旅はどうだったかしら?」
涼やかな表情を浮かべた文が、老人のように腰を曲げた妖夢を見下していた。
「どうせならあのまま顕界まで遊びに行ってくれれば良かったのに。今日は貴方には用は無いのですよ」
くつくつと笑う文に楼観剣を向けながら、妖夢は忌々しげに声を上げた。
「何度も言わせるな、幽々子様はお休み中だ。お前の道楽に付き合っている暇は無い」
「だからあなたが私を追い払おうって? 殊勝なことね」
れっきとした仕事である取材を道楽と断じられたことを気にした様子も無く、引かれた左足を一瞥する。全く体重がかかっていないことは一目瞭然。
視線に気付いた妖夢は重心を体の中心へと移そうとして、顔を顰めて宙に浮き上がった。
「ところで、私はあなたのご主人様とは知り合いなんだけど」
「だから何だ」
「顔見知りの無害な新聞記者を本気で殺せなんて物騒な命令を出す人だったかしら」
洋風の靴に歯を付けたような妙ちくりんな高下駄が、かつんと暢気な音を立てた。
「…………」
握り締められた楼観剣が、主の動揺を代弁するように小さく音を立てる。
「いくら天狗が丈夫って言ってもね、吸血鬼みたいな変態じゃないの。真っ二つにされたら死ぬわ、よく分からないけど」
でも天魔様なら千切りにされても何とかなりそうね。
本気とも冗談とも知れないそんな言葉は、妖夢の耳には届かなかった。
今更のように思う。顔見知りの、友人と言っても差し支えない筈の彼女に、自分は何をしていたのか。
最初はいつもの弾幕ごっこだったのだ。
妙に食い下がる彼女にお帰り願おうとスペルカード合戦を申し込んだのが、もう遠い昔のような気がする。
スペルカードを全て破られ、渋々道を譲ったところで挑発を重ねられて楼観剣を抜いた。
気紛れな風のように逃げ回る彼女にどうしても一太刀浴びせたくて、気付けば本気になっていた。
殺意など無かった。多少は苛立っていたものの、傷つけたいなどという気持ちはまるで無かったのだ。
覚えがある。
何の気兼ねも無く全力を出せる感覚に。
「まともに戦ったのは初めてだったけど、案外大したことないのね。これなら霊夢の方が余程厄介」
「何だと……?」
思い出してはならない。
その感覚が、いつ味わったものだったのかを。
桁違いの強さを持つ金色の影が、追い掛け続けている大きな大きな背中が、脳裏に浮かんで不自然に消えた。
「どれだけ鋭かろうと、箱入り甘ちゃんお嬢の剣なんて怖くないわ。あなたの剣には敵を消去しようっていう意思が感じられない」
冥界は死者だけが住む閉じた世界である。口も無ければ手足も無い彼らは当然敵対する筈もなく、だから妖夢は何が何でも排除しなければならない存在――敵と対峙したことが無い。春雪異変の霊夢でさえ、弾幕ごっこというルールを逸脱してはいなかった。
「私の方が強かろうと、例え私が無害だと分かっているとしても、」
事実上敵が存在しない場所で護衛も務めるという矛盾が生み出した、妖夢が抱える決定的な弱さ。それが明るみに出ないよう無意識に作り上げていた強固な壁は、
「敵を稽古相手にしようなんて舐めた思考をしてるようじゃあ本物の敵には勝てないわ」
遠慮を知らない暴風が、粉微塵にして吹き飛ばした。
「稽古……? ちが、私はそんな――」
「あなたは私を殺す気だったわけじゃない。でも繰り出す攻撃は掛け値無しの全力で、その矛盾の解答はあなたの心の中にある」
「……言うな。それ以上……!」
「いくらか経ったところで、私を追い払うという使命を投げ捨てた。全力を尽くせて気持ち良かったでしょう? それを悉く防がれて悔しかったでしょう? 後ろに控える主人を放り出して目的を挿げ替えて、さぞや楽しかったでしょうね」
「黙れ」
「頭の芯に染み付いた思考はどんな状況でも変わりはしない。格下相手には油断して負ける。同格なら裏をかかれて終わり。格上なら――捨て身と無謀を履き違えて無駄死にするのがせいぜいよ」
「黙れ、黙れ……!」
「従者なんて辞めなさい。あなたみたいなのが盾なんじゃ、お姫様が気の毒よ」
「黙れぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
意識する前に体が動いた。目の前の彼女に言葉を発せられることがたまらなく怖かった。
けれど、何故か彼女の姿は視界から消えていて。
「じゃあね」
耳元で声がして、回り込まれたと認識する間も無く意識が飛んだ。
見慣れた天井が目に入ってきた。木目が、刻まれた傷が、自分の部屋へ戻ってきたことを教えてくれる。
どうして、どうやって。そんなことは頭には浮かんでこなかった。
「…………」
文に言われたことを、一字一句覚えている。
魂魄妖夢に決定的に欠けているものを、これ以上無い形で見せ付けられた。
紙一重の大きすぎる差に諦めを感じたのはいつだっただろう。
何とか一太刀浴びせたいと、それだけが目的になったのはいつだっただろう。
「おはよう」
体に染み入るような静かな声。
横たわる妖夢のすぐ左手で、湯呑を持った幽々子が微笑んでいた。
「……幽々子様」
脱力したがる身体に鞭を入れ、妙に重たい布団を除けて上半身を起こす。
「頑張り過ぎは身体に毒よ。丸二日寝込むなんて張り切りすぎじゃない?」
「まる、ふつ、か?」
開け放たれた障子の向こう、陽に照らされる庭を見やる。
秋も終わりの、枯葉が薄く積もった暢気な一幕が広がっていた。
文が訪れる前に丁寧に掃除されて落ち葉などどこにも見られなかったというのに、である。
「掃除頑張りなさいね。このままじゃお客様をお呼び出来ないわ」
「た、ただい」
がばりと布団を跳ね除け、バネのように勢い良く立ち上がった妖夢は、
「まッ!?」
何処からか降ってきた金ダライが脳天を直撃。鈍い衝撃に尻餅をついた。
「~~~~!!」
頭を抑えて悶絶する妖夢には目もくれずに、中央部がへこんだタライに視線を落としてゆっくりと呟く。
良い音するのね~。目覚ましに使おうかしら。
「ふざけないでくださ――」
「今日は休みなさい。部屋から出ずに寝ておくこと」
頭を抑えたまま涙目で試みた反論は、鋭い声に両断された。
「ふざけているのはあなたよ妖夢。私は何と言ったかしら。頑張り過ぎは身体に毒と、たった今そう言ったばかりでしょう」
「そ、それはそうですが」
「普段じゃ考えられないような疲労でずっと眠っていた癖に、食事もしないで働くですって? また倒れて、また人に迷惑かけるつもり?」
「う……」
「まあ、その様子だと左足も大丈夫そうね」
顔の前に扇を広げ、安堵に緩む口元を隠す。下がる目尻も何とかしたかったが、顔全体を隠してしまっては格好が付かない。
「足……? あ、そういえば」
ふくらはぎに手を這わす。軽く揉んでみると、凝りのある筋肉が鈍い痛みを返してきた。足首をぶらぶらと振ってみても、やや強めのだるさがある程度。
しばらく使い物にならなくなることさえ覚悟していたのに普段の筋肉痛が多少重くなった程度でしかない。
眠ったまま二日経過していることを考えれば普段とは比べ物にならない程酷いとはいえ、この程度で済んだことが自分でも信じられない。
「毎日たくさん走ってるものね。鍛えられたんじゃないの?」
剣術の基本は足腰、とは姿を眩まして久しい妖忌の口癖である。
それ故に妖夢は空を飛ぶことが極端に少ない。冥界はおろか顕界さえも己の庭とし、坂だろうが森だろうが苦にせず走り回っている。沈む前に足を上げれば、という屁理屈を胸に水の上さえ走ろうとしているがこれはまだ成功していない。
「……えへへ」
「えへへじゃないわよこの馬鹿ちん」
嬉しそうに顔を赤らめる妖夢にでこぴん一発。
「何するんですか幽々子さ――」
「皮肉を正直に受け取らないの」
虫刺されのように赤くなった額をさすりながら抗議の声を上げた妖夢を、苦笑顔の幽々子がぴしゃりと制する。
「皮肉?」
「足に比べて腕の力が弱すぎるのよ妖夢は。剣に振り回されてるとまでは言わないけど、土台がしっかりしてても砲身がポンコツじゃ使い物にならないわ」
やれやれと言わんばかりに肩を竦める。そんなことも気付いてないのか、と大きな溜息が付け加えた。
文が妖夢の斬撃を悉く回避出来たのは、基本に忠実な型しか繰り出さなかったこと――これは『稽古』を行っていた妖夢が半ば無意識に行っていたのだが――と表情からほぼ間違い無く仕掛けてくる攻撃が読めたから。そして足から腰、上半身と伝えられた速度が腕の段階で減速してしまっていたからである。
尤も、腕の力とて格別弱いわけではない。あくまでも下半身に比べればといった無いものねだりの領域であり、だからこそ気付いていなかったのだ。
「話は変わるけど、百戦を危なげなく戦うためにはどうすればいいのかしら」
「え……? ええと、彼を知り、己を知れば百戦危うからず――」
字がかすれる程に読んだ書物の一文。
彼を知らずして己を知れば一勝一負し、彼を知らず己を知らざれば戦う毎に必ず危うし。そう続く文句を諳んじようとして、幽々子の言わんとすることを理解して頭痛を覚えた。
「迷想でもしてみるといいかもしれないわね」
「字が違います!」
細かいことを考えるのが好きではない妖夢にとって、瞑想は最もやりたくないことの一つであった。
だが、戦いとは自分自身を知らねば始まらないものである。長所も短所も性格も思考のパターンも、知っていれば武器になり知らなければ枷になる。
絶大な能力も使わなければ朽ちるだけ。直しようの無い悪癖であっても、きちんと認識していればいくらでも使いようがあるのだ。
「足に響くといけないから、今日のところは横になってやってみたらどう? 夕飯には呼んであげるからゆっくりとね」
「はい、ありがとうございます幽々子さ――――――」
では早速と布団へ身体を滑らせた妖夢は、聞いてはならない言葉を聞いた気がして跳ね起きた。
「どうしたの妖夢? 急に動いちゃ身体に悪いわ」
陽の光を背負った主の表情が窺えない。
ただ、死神の鎌のような三日月の口だけが、何か悪い冗談のようにはっきりと見える。
「ゆ、幽々子様のお手を煩わせるなんてとんでもありません! 夕食の支度は私が――」
「また同じことを言わせる気かしら」
「うぐっ……」
目が。それ自体は光を発することなど出来る筈もない目が、当たり前を侵食して輝きだす。
夜空の星のような暖かさを湛えていれば、目の当たりにした妖夢も胸を撫で下ろすことが出来るだろう。
だが、あれは。
「何故か、突然、本当に偶然なんだけど、良いのが手に入ってね~」
「……何のことでしょう」
地獄の底で冥く盛る篝火のような光を放つ目に泣きそうになりながらも、返ってくる言葉を誰よりもよく知っていながらも、妖夢は尋ねなければならない。
これは妖夢に与えられた罰だから。主である幽々子の存在を一時的とはいえ忘却し、侵入者の撃退を格上への挑戦へと変えてしまったことを身をもって反省しなければならないから。
「山葵」
「あああぁぁぁぁ……」
腰が砕ける。
膝を突き、肘を突き、頭を上げることすらままならない妖夢を見下ろして、幽々子は心から楽しそうに告げた。
「今日の夕飯は山葵茶漬けよ。もちろん、いつも通りの、ね」
一見しただけでは具も無いただの茶漬けと誤解するだろう。
一嗅ぎすれば常軌を逸した異常さに悶絶するに違いない。
何故なら。
御飯に茶をかけているようにしか見えないそれは。
ただの白湯と、それを茶と見間違える程にぶち込まれた山葵とで成り立っているのだから。
正式名称を湯割り山葵。
たっぷりと、見ただけで卒倒する程にたっぷりと投入された山葵を、熱々の白湯とほこほこの御飯に混ぜて頂く拷問料理。
山葵の質の良さが泣くとは八雲さん家の狐さまの言葉である。
彼女は一口毎に涙を溢しながらも淀みなく完食してみせるツワモノだ。ただ慣れたとも言う。
藍の言葉を聞いて唖然とした。姿を見て間違いなく夢だと思った。
紛れもない毒物である。半幽霊には口が無いため半殺しで済んでいるが、そこらの人間なら即死だろうと妖夢は思う。
瞑想頑張ってね。そんな声と共に障子が閉められる。相変わらず頭は上がらなかったが、幽々子が遠ざかっていくことは気配から察知出来た。
「湯割り山葵を前にして瞑想か……幽々子様は厳しいや」
布団の上で大の字。ごろごろと転がって頭を枕に置いてみると、見慣れた天井が目に入ってきた。木目が、刻まれた傷が、僅かな時間を経て随分と明るく見える。
沈み切っていた気分は、ほんの少しのやり取りで平静にまで浮き上がってきていた。
時間をかけて取り組むのは同じ。だが心持一つで成果は驚く程に違う。感情を自在にコントロールする境地には達していない妖夢にとってはどんな説法よりもありがたかった。
「ありがとうございます、幽々子様」
掛け布団を掛けなおし、お日様の匂いに包まれながら目を閉じる。
眠り過ぎたからか眠ろうという気はしないが、眠り過ぎたせいで思考が鈍い。
拳骨の一つでもくれてやろうかと腕を上げ、まあいいやと思い直して布団の中へと引っ込ませた。
まだ陽は高い。焦ることはあるまい。
いつも自分の周りに浮いている半幽霊の視界を作り出す。
自分がいつ、どこで、何を考え何をしているのかを、思い出して問うてみることにした。
夕御飯は平凡な梅茶漬けとお新香であった。空の胃に殺人級の辛さは刺激が強すぎるだろうとの配慮であり、活力を取り戻した妖夢は自ら台所に立ちを栗を焼いて平らげた。
そうして満腹感と食後の茶に気を緩めたところに翌日の朝食を告げるのが幽々子である。
すっかり元気になったわね、と。そんな言葉を滲ませる母親を思わせるような笑顔は、半笑いでちゃぶ台に突っ伏す妖夢には終ぞ見ることが出来なかったに違いない。
「へぇ。それはまた面白いことやってるじゃないの」
一通り話を聞き終え、萃香は手に持っていた杯を豪快に傾けた。
顔を覆う程の大きさを持つ杯のせいで表情こそ見えないものの、声色は極めて上向き。内容との齟齬は感じられない。
妖夢が最近元気が良い。記者のあんたなら何か知ってるんじゃないか。
萃香の問いに、ここだけの話ですよと前置いた長話。微に入り細に穿った話し振りは、文の妖夢に対する興味の深さをこれでもかと萃香に感じさせた。
「そこまでは良かったんですけど、ね」
文は軽く溜息をついて、大皿に盛られた銀杏を口に運ぶ。酒の肴を目的として作られているためやや塩味が濃い。
「幽々子に追い掛け回されたんでしょ」
「……外れ。気付く前に全部終わってたので一歩も動いてません。最初から最後まで吐かされましたよ」
「奇襲なら確かに避けようもないね、幽々子の蝶は」
その時のことを思い出したのか、何かから庇うように両腕を身体に巻きつける文を見ながら萃香はカラカラと笑う。
笑いながら酒を注ぎ、一息で空にする。銀杏には手をつけていない。肴は文の話と文自身だ。
「幽々子は子煩悩なのよ。おまけに典型的で徹底的な親馬鹿」
「子煩悩? 行き詰ってた妖夢を放ったらかしにしてたのに?」
「気が長いの。自分が言わなくても、いつか必ず自分で気付くだろうって」
幽々子は妖夢に対して何かを諭すことは稀だ。その稀も、自分で気付いた方が楽なのではないかと思える程に遠回りで障害だらけ。
無意味な数多の要求の中に捻くれた細い道を混ぜ、妖夢の右往左往喜怒哀楽を眺めるのが幽々子の日常であり娯楽であり愛情である。
「つまり――あんたの行動は幽々子に取っちゃ余計な世話。妖夢の負担だって小さいものじゃないし、予め知ってたらどんな手段を使っても止めただろうね」
さて。
空になった杯を傍らに置き、文の目を正面から見つめたまま身を乗り出す。
「ようやく本題」
「そんなに睨まれると怖いです」
くすくすと笑う文。言葉とは裏腹に、細められた瞳は恐怖の色を少しも宿していない。
むしろ、真逆と言えるような。不敵な、挑発的とさえ言える、普段の彼女には見られない好戦的な色が濃い。
「何故そんな真似をした?」
事の原点。即ち動機である。
相手が素直と勤勉を人型にしたような妖夢であったからこそ大きな問題にはならなかったが、幽々子の出方次第ではそれも分からなかったのだ。
「彼女を一皮剥いてあげようと思ったのが二割」
「へぇ」
「幽々子嬢を誤解して動かないと踏んでたのが三割」
「それで?」
「残りは趣味」
当然の如く言い切る。萃香の表情にも大した変化は無い。
片や、些かも取り繕う気は無く。片や、あまりに予想通りの返答に呆れてしまっている。
「ま、そんなとこだろうね。聞いた私が馬鹿だったよ」
「蜘蛛の巣みたいな策を巡らせるのは年寄りだけで十分。物事はシンプルにいかないと」
肩を竦めた萃香の視線を、立てた片膝に頬杖を付いて正面から迎撃。
多少幼さのある外見からは想像も出来ない程に堂に入ったその振る舞いは、彼女が外見不相応な歳月を生き抜いてきた妖であることを否応にも感じさせる。
「物事はシンプルに、か。同感ね」
萃香は苦笑を滲ませて、喧嘩を売っていると言って差し支えない文の視線を受け流した。
おや、とでも言いたそうに目を丸くした文から視線を外し、杯を手に取り酒を注ぐ。
「そしてそう思うのは私だけじゃない。あんたは知らないんだ」
「……? 何を――」
「文ーッ! いるー!?」
含み笑いを漏らした萃香に疑問を投げたその時、けたたましい足音と共に大声が響いた。
そら来た、という呟きをひとまず無視し、声の主へ身体ごと視線を向ける。
「騒がしいわね椛。何事?」
大袈裟な太刀と盾を脇に抱え、飛び込んで来たのは見回りの役を負っている椛。
絶え絶えの呼吸と共に上下する肩は疲労の度合いをありありと伝え、白い衣服は袈裟懸けに斬られて素肌が覗いている。
「侵入者よ侵入者! あんたを指名よ、あんな化け物相手に何やらかしたわけ!? おかげでおろしたばかりの冬服が台無しよ、とっておきの一張羅だったのに!」
凄い剣幕で捲くし立てる椛の顔には、無数の汗に紛れて涙が滲んでいる。
大声を上げるその姿も、怒っているというよりは八つ当たりしている感が強い。
「化け物? 指名……? もう少しちゃんと説明しなさいってば、それだけじゃさっぱり――」
「その侵入者って、おかっぱで銀髪の剣士でしょう? 二刀流の」
突然の出来事に思考が付いていかない文の言葉を遮り、心底楽しそうに萃香が割って入る。
「あれ、萃香さん? はいそうです、よくご存知で」
にやにやと底意地の悪い笑みを浮かべた萃香の言葉に、椛は冷や水を掛けられたように目をぱちくりさせる。
と同時に、状況を一瞬で把握した文が凍りついた。
「えっ……なっ……? 嘘、まさかそんな」
「最初に言ったでしょ? 面白いこと『やってる』じゃないのってね」
瞬きも忘れて硬直する文に楽しそうに言葉を投げ、ぐびりと喉を鳴らして酒を飲む。
生意気な小娘が失敗を悟って落ち込む姿程愉快なものはない。酒も進むというものである。
「彼を知り己を知れば百戦危うからず、だったかしら。自他共に認める未熟者が『射命丸文を知り尽くした』と満足するのはいつになるだろうねぇ?」
「ううう、しまったぁ……」
状況が飲み込めずに立ち尽くす椛をゆっくりと押し退け、文はとぼとぼと歩いて行く。
その背中にはつい先程までの覇気は微塵も無く、命からがら逃げ出していく敗戦の将のよう。
「とにかく、滝の中腹辺りで待たせてるから。何があったかは知らないけど、知り合いなら早く行ってあげて」
「っ……ああもう分かってるわよ。ゴチャゴチャ吼えるな犬椛」
疲れ切った顔で毒を吐き、殊更憤慨した椛の叫び声に押されるように萃香の視界から消えていった。
犬って言うなだのこの服弁償しろだの立て続けに喚く様は確かに犬が吼えているようだと、文を見送りながらぼんやりと思う。
「大変ね」
文が見えなくなるまで声を上げ続け、荒い息を更に荒くした椛に声をかける。
萃香の存在を忘却していたのか、両手をわたわたさせ恥ずかしいと一言。
「気にしてないから少し息を整えたらどう? 飲み物がいるならほれ、酒だけど」
勤務中なので、と丁重に断り深呼吸を一つ二つ。
見る見るうちに息が整っていく辺りはさすがに天狗である。
「文は昔からああですから。もう慣れっこですよ、お互いに」
でもあの鳥頭は覚えてないかもしれないですね、と。語る口調は楽しげで、浮かべる表情は少しだけ悪戯っぽく。
気持ちの良い娘、という印象を萃香は改めて刻み込む。
「それにしても珍しいですね文にお客なんて。人間とも妖怪とも違う、妙な感じの子でしたが」
「あいつのお気に入りだよ」
「……あんの馬鹿」
萃香の言わんとするところを察し、溜息を吐いてこめかみを押さえた。
好きな相手程苛めたくなる――世間一般には知られていない文の一面。
それもからかう程度のものではなく、相手の全力を凌駕して嘲笑ってみせるのが大好きというのだから性質が悪い。
「でも、あの子なら確かに文でも十分に相手になるかな」
妖夢の姿を認めて牽制の意を込めて弾幕を展開した椛は、気付くことも許されないままに衣服を切り裂かれ刃を目の前に突き付けられていた。
文と同等以上の速度もさることながら、迷いが全く無いせいで体感速度が異常に速い。
第一次遭遇では侵入者と会話を交わすことは無い筈の椛が、大天狗に報告に行く前に文の元を訪れたのにはそういう理由がある。
「寂しそうね。文が取られるのが嫌?」
「取られるって……私達のことを何だと思ってるんですか」
げんなりとした表情を見せた椛に、冗談よと返す萃香。
「でも」
斬り裂かれた隙間から覗く素肌を撫でる。滑らかな白い肌には僅かな傷もついていない。
制圧するだけなら服を斬る必要も無いのに、そんな情けないことばかりを思う。警備という役を負っていながら、回避だの反撃だのは全く浮かんでこない。
「寂しいっていうのは本当かもしれません。私じゃもう文を満足させることは出来ないんだなぁって」
妖夢は椛より遥かに強い。
文は妖夢以上に強い。
故に、文と椛の差は計り知れない。
文は格上の相手との衝突を徹底して避ける。
そして明らかな格下の相手も同様。慇懃な態度も同じだが、その理由は正反対なのであった。
戦いは勝たねば面白くない。だが、どう転んでも勝ちが動かないようであればそれもまた面白くない。
遥か昔から、勝ち負けを繰り返して切磋琢磨してきた。
一方的に負けるようになり、子供の遊戯につきあう大人の様相を呈してきたのはいつのことだったか。
それすら数少なくなり、交し合うのが酒と軽口ばかりになったのはいつのことだったか。
同年代の天狗の中で、文は二つも三つも突出している。
幼い頃から苦楽を共にしてきた椛にとってそれは間違いなく誇らしいことなのに、本人に対してそれを告げたことは一度も無い。
「ふぅん」
過去へと飛んでいた椛の思考が、萃香の声に現在へと引き戻される。
見れば、普段の溶けるような赤ら顔はどこにもなく。どこか詰まらなそうな、冷めた目をしていた。
「萃香さん?」
「ま、確かに文は無駄に好戦的で自分より弱い奴を見下す嫌な奴だわな」
「――違いますよ」
独り言のような小さな声。
子犬を連想させるような高い声を持つ割にトーンも低い。
けれど、文に大音量高音域でぶつけていた罵声より、萃香の心に深く突き刺さる。
何より。
殺意とすら呼べそうな程の激烈な敵意を持った視線が、萃香の全身を震わせた。
「訂正してください。文はそんな人じゃありません」
「どう違う」
「褒められたものじゃない一面を知って尚、貴方は変わらず文との付き合いを続けている。その理由を、胸に手を当てて考えてみてはどうですか」
冷気に全身を焼き尽くされる錯覚。背中を伝う汗が熱いのか冷たいのか、そんな簡単なことさえ判別が付けられない状況の中で萃香は思う。
表と裏が全く違う、これだから天狗は厄介なんだ。関わったら碌なことにならないってのに、面白過ぎて止められない。
瞬き二つに溜息一つ。仁王のように立つ椛を正面から見据え、ゆっくりと口を開いた。
「だろう?」
冷めた顔に暖かさが戻る。普段の惚けたような飲兵衛の笑みとは違う柔らかな笑みは、太刀をも向けようとした椛を脱力させた。
僅か三文字の切り返し。主語も述語も存在しない言葉を、マイナス方向に沸騰した椛の思考は中々理解してくれない。
「…………」
「………………あ」
解答に辿り着く。萃香が言うまでも無いと省略した言葉が、頭の中で再生される。
――それはお前も同じことだろう?
途方も無い実力差がついて尚、文が椛と共に時間を過ごしているのは何故か。別段好戦的というわけでもない椛が、文とつるんでいるのは何故か。
相手を諭そうと言葉を発しておきながら、誰よりもそれを認識していなかったのは他ならない自分自身で。
怒りに凍り付いていた心が恥ずかしさで爆発し、顔を急速に朱に染めることで外界へと出力される。あまりの急激な変化がおかしくて、萃香は声を上げて笑い出していた。
「ねえ椛」
「あ、はい」
返事が一瞬遅れる。どこか遠くへと飛びかけていた思考を、椛は慌てて頭の中へと引き戻した。
「その服どうするつもり?」
「文に弁償させます。力尽くでも」
「頑張れ」
かしゃんと太刀を盾に当ててウインクして見せる椛に、萃香は満足気に頷いた。
椛が挑発に乗ってくれないという愚痴は聞き飽きた。あの性悪ったら酷いという惚気ならしばらく良い肴になりそうだ。
「ところで、さっき私の酒を断ったじゃない? あれは、私の酒は飲めないってことかしら」
「いやそうじゃなくて。今は仕事ちゅ……う……!?」
笑う萃香の前で、椛の顔から血の気が引いていく。
椛がここに来てからもう短くない時間が経っている。間違いなくサボタージュの椛。確実に大目玉だ。
「お、大天狗様に報告に行きますのでこれでっ!」
ひらひらと手を振る萃香に深く頭を下げ、慌しく何処かへと飛んで行く。
焦燥が浮かんでいなければおかしい状況にあって、椛の表情は弾けんばかりの笑みばかりが浮かんでいた。
「良い子に好かれて幸せ者だなぁ」
今頃妖夢と一閃交えているであろう文の姿を思い浮かべる。
自分のために本気で怒ってくれる人がいる人が、果たしてどれだけいることだろう。
群れて暮らしている人間だからいるわけではない。永く生きる妖怪だからいるわけでもない。
必要なのはその人自身の魅力。それを漏らさず汲み取ってくれる相方も必要であるが、そんなものはどこからか現れる。
文が去り椛が去り、残ったのは丁度空になった酒瓶と大量の銀杏。どうしたものかと小首を捻り、しつこさにかけては右に出る者の無い押しかけ女房を見に行くことにした。
自らを知るにも相手を知るにも、剣を交えるのが一番手っ取り早い。
真剣に立ち回りながら自分と相手とを客観視し、かつ後で振り返られるようにつぶさに記憶するのは容易なことではないが、出来ないなら出来るようになるまで繰り返し試みるのが妖夢である。
文は妖夢を甘く見すぎたのだ。妖夢は文の想像を遥かに超えて一途で向こう見ず。そして自らに厳しいがために練度に上限を設けない。
妖夢にとっては渡りに船。だが、意図せずに付き合う羽目になった文はどうか。
正面切って断ってしまえば、妖夢とて文に挑むことはしなくなるだろう。けれど、自分から切っ掛けを作ってしまった以上文の方から断ることは出来ない。妖夢次第ではあるが、数十年単位で毎日のように手合わせを繰り返すことも覚悟しなければならない。
近距離戦に限定すればほぼ同等のスペックを持つ妖夢との手合わせは文にとっても望むところではあるが、それも限度というものがある。果ての見えない道は、天狗の足を持っていても苦痛以外の何物でもない。
「これに懲りて少しは苛め気質が直ってくれれば良いんだけど」
あまりの夢物語加減に自分で噴いた。
削るか、先まで書いて下さっていたら、もっと良かったかと思う。
統一したほうが読みやすくなるのではないでしょうか。
次は是非とも文と椛の話を読んでみたいです