作品集41
『二人はふれあい、しかし交わることなく 前編』の続きになります。
読んでいない方は、まずそちらから読むことをお勧めします。
隣に誰かがいてくれる。
それはとても幸せなこと。
時に私を支え、励まし、叱ってくれる大切な友人。
それはかけがえのない宝。
上白沢慧音。
私は彼女と共に永い時を生きてきた。
気づけば彼女は私の深いところまで入り込んでいて、私の体の一部のようになっていた。
だからかもしれない。
百年、二百年……姿の変わらない彼女がいなくなるなんて、私には信じられなかった。
いや、私は信じられなかったんじゃない。信じたくなかったのだ。
怖かったから。
一人になってしまうことが、例えようもなく恐ろしかったから。
――なあ、妹紅。もしも私がいなくなったら、お前はどうするんだ?
朝、顔を合わせたとき。
昼、里で一仕事終えたとき。
夜、二人で食事をしているとき。
慧音はことある毎に、こう言っていた。
――なんだよそれ。「私がいなくなったら」って、そんなこと言うなよ。
怒る私に、慧音はどこか寂しそうに笑って「すまない」と言う。
慧音は優しい。そんな慧音の性格を知っていたから、私はそうやって誤魔化していた。別れの時がもうすぐそこまで来ていることに、本当は気づいていたのに。
――……妹紅。お前に一つ、頼みがあるんだ。
ある日、私が布団に入ると隣で先に寝ていたはずの慧音がそう言った。
どうしたんだ?と目で問いかける私に、慧音は言った。
――私が死んだら……。
最後まで聞かずに、私は部屋を飛び出した。
「私がいなくなったら」「私が死んだら」。どうしてそんなことばかり言うのか。やっと見つけた、ずっと一緒にやってきた友達なのに、どうして私を一人にするんだ。
立ち並ぶ竹の間を走りながら、私は泣いていた。
本当はわかっていた。
病気、怪我、寿命……里の人間と関わりを持つようになってから、私は何度も、それこそ数え切れないほどの人間の死を見てきた。
誰しもいつかは死ぬ。今度はそれが慧音の番だというだけ。
いくら長い寿命を持とうとも、不老不死の私の前にはほんのわずかな時間でしかないのだから。
でも。
頭ではわかっているつもりなのに心がそれを拒む。
一緒にいたい。一緒にいて欲しい。そんな子供じみた願望が、諦めるという選択をさせてくれない。
……当たり前だ。子供じみた願望――子供の願いだからこそ、純粋で、身勝手で、何よりも強いものなのだから。
◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇
どこをどう走ったのか。気づけば私は、永遠亭の前に立っていた。
考えるより先に体が動いていたらしい。何故と考えると、遅れること数秒で答えが返ってきた。
――蓬莱の薬。
輝夜の能力によって作られる、不老不死をもたらす霊薬。よく考えてみれば、不老不死の私と一緒にいられるのは、輝夜のように永遠を生きる存在か、私と同じ不老不死の存在だけだ。
だから無意識に私の足がここに向かったのは、ある意味当然の結果だったかもしれない。
(でも……輝夜は私に会ってくれるだろうか?)
あの日以来、輝夜が私に使いをよこすことはなくなっていた。
それは私も同じことで、かれこれひと月近く、輝夜の元を訪ねていなかった。
そんな私が訪ねてきたら――それも輝夜の力が必要だからという理由で――輝夜はどう思うだろう。
怒るか、呆れるか、それともあの時のように「帰れ」と言われるのだろうか。
世界の全てに見放されるような、あの絶望感。
またあんな目をされたら、今度こそ私は正気でいられなくなる。
(でも、それもいいか……)
狂ってしまえば、これ以上苦しむことはないかもしれない。
慧音を助けるか、助けられず私が狂うか。
どちらにしろ私は安息を手に入れられる――。
こんなことを考える時点で、私はもう狂っているのかもしれない。
門を開きながらそんなことを思った。
◇◇
「こんばんわ。こんな時間に何の用かしら?」
予想通りというか何というか。門を潜るとそこには永琳が立っていた。いや、立っていたと言うよりも、立ちふさがったと言う方が正しいか。
警備の兎一匹いない中で、こんなところに一人でいる。
どう考えても、私を待っていたとしか思えなかった。
「お前さんに用はない。用があるのは輝夜だ」
「そう。残念だけど、姫は今お休みになられたところなの。用があるならまた明日にしてもらえないかしら?」
心の底まで見透かすような笑み。
その時、私の頭の中で何かが切れた音がした。
「嘘をつくな! どうせ会わせるつもりはないくせに……邪魔をするなら力ずくで通るまでだ――!」
私は何をしていたのか。こいつがここにいる以上、どうしたって順調に話が進むはずはなかったのに。
抑えていた感情と共に炎が噴き上がる。
踏み込みながら薙ぎ払った翼を、永琳は軽く飛び退いてかわした。
…………………………
……………………
………………
攻撃が当たらない。狙っても狙わなくても、隙を見せようと見せまいと、全てが紙一重でかわされる。
しかし、それでいて私は永琳を追い詰めることも、屋敷へ近づくことも出来ずにいた。
明らかな時間稼ぎだった――十分、二十分……まだそれほど時間は経っていないはずなのに、かれこれ一時間以上戦っているような気にさえなってくる。
空振り、空振り、空振り、また空振り……焦る気持ちばかりが膨らんでいく。
(時間を無駄にするわけにはいかないのに……!)
「そうねぇ。時間は無駄にできないのよね?」
まるで私の心の中を知っているように、永琳は笑う。
その顔がさらに私を苛立たせ、焦らせる。
「あら、図星かしら? おかしな話よね。私たちには永遠に等しい時間が与えられているというのに」
何を焦っているのかしら?
言葉にこそ出さなかったものの、永琳の目はそう語っていた。
「……黙れ」
――知った風な口を利くな。
「黙れ……!」
――お前に私の何がわかる。
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ――!!」
お前に私の苦しみの何がわかる。
掛け替えのない友人を失おうとしている私の何が――
「――あの半獣、もう長くないのでしょう?」
瞬間、頭の中が真っ白になった。
激しく燃えていた炎が一気に力を失って散っていく。
私が正気を取り戻すまで、わずか一秒あったかどうか。
けれど、永琳にとってはそれで十分だったのだろう。
時間稼ぎをしていたのも、挑発的な態度を取っていたのも、すべてはこの時のため。
私を確実に仕留めるための、決定的な瞬間を作り出すためだったのだから――。
天が地に、地が天に。
何をされたのか、気づけば私の体は跳ね上げられていた。
腕を取った永琳が体を捻る。危険を感じたときにはもう遅い。肘が嫌な音と共にあり得ない方向に拉げて曲がる。
骨の折れる音、筋の千切れる音。痛みで遠のいた意識は地面に叩きつけられた衝撃で無理やり引き戻された。
「それで、ここに来たということは、お目当ては姫? それとも蓬莱の薬かしら? どちらにせよ救いようのない話だけど」
髪を掴まれて無理やり上を向かされる。その手を払いのけようとした私の手は、銀の矢によって地面に縫いつけられていた。
「違うかしら? 貴方は一人になりたくない。だからあの半獣を助けたいのよね?」
違う、とは言えなかった。
その通りだ。私は一人になりたくない。
一人は嫌だ。誰かがそばにいてくれることに慣れてしまったから、私はもう一人ではいられない。きっと、一人でいることに耐えられない。
だから私は……慧音にいなくなってほしくない。どんな形であれ生きていてほしい。
「でもね、救いはそれを求める人にこそ与えられるべきもの。一方的な救済なんて唯の自己満足以外の何物でもないわ。それに……誰が望んで私たちみたいな化け物になりたがるというの?」
永琳は笑っていた。無理に笑おうとしたのか、その笑顔は歪なものだったが。
「死にたくても死ねない。死にたいのに死ねない。全てのものが死に絶えても私たちは生き残るわ。それが私たちの運命。私たちの宿命。そんな呪われた輪の中に貴方は、一時の苦しみから逃れるためだけに自分の大切な人を巻き込もうというのね。……酷い人」
でも、と永琳は言う。その顔はもう笑っていなかった。
「自分だけ楽になれると思ったら大きな間違い」
髪を掴んでいた手が離される。
倒れ込んだ私の背に、永琳の足が乗せられた。
――大切なものを失う苦しみを、貴方も味わいなさい。
ぐ、と永琳は脚に力を込めたようだった。
体の中で硬い物が割れる音がした。開いた口からどろどろと血が溢れていく。
痛みはほとんどなかった。が、代わりに胸のあたりが冷たくなって、周りが暗くなっていく。
慧音を助けることが出来ず、私は正気のままで。
これから先、どんな苦しみが待ち受けているのだろう?
そう考えると死ぬことが――わずかな時間にせよ、辛い現実から目を背けられるその時間が――私にはとても幸せなことに思えた。
◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆
「小町。貴方に頼みたいことがあります」
「……こんな時間に来るなんて、何があったんですか?」
ぽりぽりと頭を掻きながら小町は起き上がった。
まだ夜も明けきらない時間。本来なら使いを寄こすところを四季映姫自らが訪ねてきたのだ。寝ぼけ頭の小町でも何かあったということくらいは察しがつく。
「ええ。実は少し……いえ、かなり厄介なことが起きました」
「厄介なこと、ですか」
小町は内心首を傾げた。
この四季映姫という人は大抵のことを障害と認識しない。他人から見れば重労働であっても、何食わぬ顔で片付けてしまう、そういう人だ。
その人が「かなり厄介なこと」と認識する問題とはいったい何だろう。
「藤原妹紅。覚えていますね?」
「もちろん。結構長い付き合いですから」
「では、彼女が頻繁にこちら側へ来ていることは?」
「……は?」
そんな馬鹿な。小町はそう言って笑おうとした。
が、笑うに笑えなかった。映姫は嘘をつかない――こんな事では絶対に。それがわかっているから、小町は何も言うことができなかった。
「その様子では知らなかったようですね。それだけで貴方が日頃、いかに怠けているかがわかりますが……まあ、それは後々追求することにします。小町、貴方に頼みたいことは一つです。藤原妹紅をこちら側の世界へ近づかせないようにすること。特に、死者の霊たちに近づかせないでください」
「……どうしてですか?」
訳が分からない、という顔をする小町を、映姫は困ったように見た。
「貴方という人は……あの時、なぜ私があそこにいたのか、不思議に思わなかったのですか?」
「『あの時』?……ああ、この前の。いや、なぜって……」
やっぱりお説教しに来たのかなと。
口にこそしなかったものの、小町の顔はそう言っていた。
「それも一つの理由ではありましたが。いえ、それより。彼女の存在は死者の世界にはあまりに危険なのです。……わかりませんか? 死者になり得ない者が、こちら側に足を運んでいる。それ自体がすでに異常なのです。現にあの後、死者の霊が騒いで大変だったでしょう?」
「あー……そういえばそうでしたね。あたいはてっきり、お祭り気分で浮かれてるのかな、と」
「……」
「四季様? どうかしたんですか?」
「……いえ。貴方の脳天気さが羨ましいと思っただけです」
ただ浮かれた程度で死者の霊が一斉に騒ぎ出すわけがないだろうに。たまにこの娘は何を考えているのかわからなくなる。映姫は額を押さえてため息をついた。
「……順を追って説明しますが、藤原妹紅は不老不死の存在――つまり、肉体ではなく魂を本体としています。一方、死者の霊も肉体を失った魂です。霊から見れば彼女は自分と同じ存在。しかし、彼女はその能力故に新しい体を生み出し、生き返る――現世に引き返すことができます。きっと彼らの目にその姿は眩しく映るのでしょう。ちょうど、灯りに引かれて虫が集まるように、自らの意思とは関係なく、彼女は彼らを引き寄せてしまうのです」
それを抑えていたのが三途の川の渡し守、つまり小町である。死者の霊を彼岸へと渡す、遙か昔より続けられてきたその行為自体が一つの秩序を形作っているからだ。(尤も、本人にその自覚はないが)
その小町がいなければ妹紅は知らない間に多くの死者の霊を現世へ連れ帰ってしまっていただろう。
もしそうなれば、肉体を失った霊たちは体を求めて彷徨い、事によっては多くの人死にが出たかもしれない。
「……なるほど。それであたいの出番ですか」
「ええ。貴方の能力で彼女を死者の霊たちから遠ざけてください。裁きを待つ霊たちがいる以上、私がいつまでも睨みを利かせているわけにはいきませんから」
「あー……ははは」
ということはつまり。
自分が寝床に入っている間、この人はずっと見張りをしていたと。なんてこった。
「そ、それじゃ、行ってきます!」
勢いよく跳ね起きた小町は着替えもそこそこに走っていった。
が、しかし。飛び出したと思った瞬間にはもう、小町は部屋に戻ってきていた。
「ところで四季様」
「……なんですか?」
「これっていつまで続けていればいいんでしょうか?」
「この件が片付くまでです。大丈夫、それほど時間は掛からないはずですから」
「わかりました!」
映姫の言葉を聞くと、小町は安心したように、また走っていった。
(……この異常事態にもかかわらず、博麗の巫女は動いていない。それはつまり、この事件を解決する人間が他にいるということ。……とすれば、彼女はいつ動くのでしょうか?)
日が昇る。また新しい一日が始まる。
今日も霊たちの生前の行いを改め、裁きを下さなければならない。
(いつか、彼女たちを裁ける日が来ればいいのですが……)
陰鬱な気分になりながら、映姫は裁きの間へと向かった。
◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆
「――だから、死ぬなんて言うなよ……!」
叫ぶ私に、慧音は首を横に振った。
「誰でもいつかは死ぬんだ。……お前にはすまないとは思うがな」
「……嫌だ。そんなの嫌だ。慧音、お願いだから――」
唇に触れた人差し指がその先を遮った。
「誰だって辛いんだよ。先に逝く方も、後に残される方も。……だからそんな顔をするな」
慧音は笑って頭を撫でてくれた。体を動かすことさえ辛いはずなのに、そんな素振りさえ見せずに。
私はただ、頷くことしかできなかった。
「妹紅はまだまだ子供だなぁ」
「……私より年下のくせに」
「それでも、だよ。幾つになっても、お前はまだまだ子供だ」
楽しそうに、幸せそうに、慧音は言う。
それでもいい。慧音が笑ってくれるなら、私は子供のままでいい。
目を閉じると、慧音の手の感触が、さっきよりも強く感じられたような気がした。
…………
………………
……………………
気がつくと私は暗い部屋の中に一人で寝ころがっていた。
(……なんだ、夢か)
体に力が入らない。意識が混濁する。
まあ、飲まず食わずでじっとしていればそれも当たり前か。もしかしたら、何回か死んでいるのかもしれないし、同じ事を繰り返しているのかもしれない。記憶が曖昧ではっきりしないけど。
でも仕方がない。今はもう、何もする気が起きないから。
それに私が死んでも悲しむ奴なんていやしない。みんな、私が不老不死だって知っているから。死んでも生き返る奴が死んだって気にも留めないだろう。
(……ああ、そういえば。それを知っていて初めて悲しんでくれたのは慧音だったっけ)
驚いて、怒って、殴って……それからわんわん泣いて、また怒られた。
慧音は私の体のことを知っても、私を人間として見てくれていた。
私は、今までそういう風に見られたことはなかった。大抵は気味悪がって逃げるか、私の力を欲しがるかのどちらかだったから。
だから、泣いて、怒ってくれた慧音の姿が私にはそれがとても尊いものに映ったのだ。
でも、慧音はもういない。骨の一欠片だって残っていない。
私はもう一人ぼっちだ。周りには誰もいない……誰にもいて欲しくない。
別れるのが辛いから。いなくなるとわかっているなら一人の方がずっといい。
(でも、それなら……)
その時ふと、頭の中に輝夜の顔が浮かんだ。永遠の存在であるあいつなら、と。
笑ってしまう。
酷い奴だ……私は。あんな事をしておいてまだ、自分が助かることを考えるなんて。どうしようもない。本当に救えない……そしてそれ以上に、許せない。
巡らせた視線の先に鈍く光る物が映った。
私はそれを手に取って――
◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆
「そこのイナバ。何か面白いことしなさい」
私の言葉を聞くなりイナバA(と仮に呼ぼう)はコロンと床に転がった。なかなか面白い倒れ方だったけれど、それからピクリとも動かない。気を失っているようだった。
この私がせっかく声を掛けてやったのに失礼な。
同じ事をB、C、D、E、F……と繰り返してみたけれど、過程が同じなら結果も同じ。コロコロと気を失って転がるイナバが増えただけだった。
「ねえ、永琳。どうしてこうなったのかしらね?」
「多分……姫が怖いからだと思いますよ」
怖い? 私が?
差し出された鏡に映る私は、何かこう、顔は笑っているのに目が笑っていないというか、非常に危険な空気を漂わせていた。
「怖いって言うより、なんか危ない人みたいだわ」
「そうですね。姫、何か気がかりなことでもあるのですか?」
「……ないわよ。そんなもの」
◇◇
永琳にはああ言ったものの、本当は一つある。
気がかりではなく、嫌な予感といった方が正しいけど。
それは、妹紅が最近、私の所へ来なくなったこと。
少し前までは使いを出さなくてもよく遊びに来ていたのに。
来ないと言えばもう一人。あの半獣――上白沢慧音とか言ったか。こちらは私の所ではなく、永琳の所に来なくなった。
原因はおそらく寿命だろう。(もしかしたらまだ生きてるかもしれないが)
永琳の力を持ってしても、もうどうしようもないところまで半獣は弱っていたのだ。……いや、あの半獣はずいぶん前から弱っていた。永琳の力があったからこそ、ここまで生きて来られたと見るべきだろう。
「……馬鹿よねえ」
寿命を延ばすくらいだったら私に言えばよかったのだ。あの半獣が頼むなら、蓬莱の薬を作ってやっても構わないと思っていたのに。
永琳の薬は確かに良く効く。
でもそれは、永遠の前には吹けば飛ぶ塵のようなもの。寿命を百年や二百年延ばしたところで、私たちには瞬きする程度の時間でしかない。それならいっそ不老不死に、という発想はなかったのだろうか。
まあいいか。半獣のことなど二の次だ。
私の気がかりは妹紅のこと。あれはずいぶんと、あの半獣に依存している部分があったから。
(……とはいえ、どうしたものかしらね)
困った。こんな時どうすればいいのかわからない。
生まれてこの方、私はこういった類のトラブルなど遭遇した試しがないのだ。(もしかしたらあったかもしれないけど)
優秀すぎる従者を持つと意外なところで苦労するらしい。
――あ、そうだ。
こんな時こそ『優秀すぎる従者』の出番じゃない。
◇◇
「嫌です」
私が部屋に入るなり永琳は言った。
というか。
「ちょっと永琳。私まだ何も言ってない」
「あら、そうですか? 私はてっきり「妹紅のことが気になるんだけど、どうしたらいいかわからないの」と仰ったのかと」
「うぐ……」
何だか永琳が反抗的だった。こちらに向けられた背中からは不機嫌さが滲み出ている。その上、妙に鋭い。
「だ、だって、いつも来てたのがいきなり来なくなると気になるじゃない?」
「彼女が来なくなってからもう半月になりますが」
「……そ、そうだったかしら?」
最後に会ったのは、あの日。妹紅が私を拒んだ日。
それからもう半月もたっていたのか。
――悪い。
あの言葉は今も胸に残っている。
正直ショックだった。馬鹿な、とも思った。
私の誘いを断ることに何の利もないはずなのに、それでも妹紅は私の手を取らなかった。
妹紅は選んだのだ。私よりもあの半獣を――それに連なる里の人間を。
その先に何が待っているか、わかっていたはずなのに。
「一つお聞きしたいのですが」
淡々とした声に、現実に引き戻される。
「彼女に会って、姫は一体何をしたいのですか?」
「な、何って……」
私は妹紅に会って何をしたいんだろう?
そこまで考えてなかった。
「どうせ何も考えていなかったのでしょう? 姫はよく思いつきだけで行動しますから」
うん、まあ確かに。いちいち勘に障る物言いだけど反論のしようもなかった。その私の思いつきで一番迷惑しているのは永琳だろうし。
「ですから、行くなら御自分の足で行ってください。兎たちの使っている地図があれば、子供でも行ける場所です」
だから、この永琳の発言は予想外のことだった。
反抗的だったし、不機嫌だったし、絶対に反対されると思っていたからだ。
きっと渡された地図を手にした私は、とても間抜けな顔をしていたことだろう。
「断っておきますけど、私が同行できないのはさっき倒れた兎たちの治療をするためです。……まさか忘れていたわけではありませんよね?」
「ううん、忘れてない忘れてない」
――ごめん、すっかり忘れてた。
「それならいいのですが。……それに、姫がやりたいと言ったなら、私はやめろなんて言いませんよ」
言われてみればそうだった。
永琳はいつも私のために動いてくれた。今考えれば無茶なことも嫌な顔一つせずにやってくれた。見返りなど何もないのに、ただ私のためだけに。
それを思うと、与えられるだけの自分が情けないという気持ちになってくる。
「ねえ、永琳」
「何でしょうか?」
「ありがとう。貴方がいてくれて、本当に助かるわ」
「……」
永琳は呆気にとられた顔をしていた。
む、私がお礼を言うのがそんなに珍しいのだろうか。否定はしないけど。
「何よ。私は思ったことを正直に言っただけよ?」
「……いえ、その言葉だけで私には十分すぎるほどです」
「そう? それじゃ、行ってくるわね」
「はい。道中、お気をつけて」
永琳はそう言って微笑んだ。
こんな永琳の顔、久しぶりに見た。
永琳が嬉しいなら私も嬉しい……けど、嬉しそうな顔をしながらも、永琳の言葉には複雑な響きが混じっていた様な気がする。
どうしてだろう?
◇◇ ◇◇
莱の玉の枝を一振り。それだけで、私に襲いかかってきた獣は跡形もなく消滅した。
やれやれだ。どうして私が獣風情の相手をしなければならないのか。こいつらの退治はイナバたちの仕事なのに。それも一度や二度ではない。初めは珍しいからと遊んでやる気にもなったけど、こう何度も続くといい加減飽きがくるというものだ。
(……それにしても妙ね)
ここはこんなに妖怪の多い所だっただろうか。
そんなことをふと思った。
地図を見ると、目的地にだいぶ近づいたようなのだが……それに比例するように妖怪が増えている気がする。付け加えるなら、彼らは何かに怯えているようだった。怯えた獣は攻撃的になるし、何より気配がそれを如実に物語っている。
またそうでなければ、わざわざ縄張りを避けて歩いている私に襲いかかってくるはずがない。
彼らは何をそんなに恐れているのだろうか?
一つ確かなことは、この先にろくでもないものが待ち受けているということだ。
「……まったく、私も相当な好き者よね」
嘆息しながらもう一度、蓬莱の玉の枝を振る。
また一匹の獣が消滅した。
◇◇
一言で言えば、そこはとても“静か”だった。
あれから何匹かの獣を退治してやっとたどり着いた妹紅の家は、妙な静けさに包まれていた。家だけではない、辺り一帯が、と言うべきか。
現にこの近くには、妖怪はおろか動物や妖精の気配すら感じ取ることができないのだ。
すべてはこの家を中心に。
動けるものはこの場を去り、動けないものは嵐が過ぎ去るのを待つ小鳥のように、ひたすら息を殺して耐えている。それに耐えられなかったらしい動物の死骸や、枯れ落ちた木々も相当数見受けられたが。
「……さて」
戸の前に立って考える。
この家の周りを一回りして思ったことは、ここがまるで『檻』のようだということ。
戸も窓も隙間なく閉められている。戸締まりなんてものはどこの家でも同じだけど、でも私にはそれが、外からの侵入を防ぐためではなくて、中にある何かを外に出さないためのものに見えたのだ。
だから少しの間、私は迷った。
この板切れ一枚隔てた向こう側に、見てはいけないものがある。
そんな気がしたからだ。
(ま、答えは決まっているんだけどね)
私は軽く拳を握ると、控え目に戸を叩いた。
おかしい。
手が痛くなってきた。
思えば、もうかれこれ一時間近く戸を叩いているのではないだろうか。
……ドンドン。
改めて戸を叩いてみても返事はない。
……ドンドンドンドンドン。
少し強めに叩いてみてもやはり返事はない。
何だか苛々してきた。
「ちょっと、居るんでしょ? 開けなさいよ!」
……ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン!
獣に襲われた、服が汚れた、お腹が空いた。これで無駄足を踏んだとあってはたまらない。
当初の目的も忘れて、私はムキになって戸を叩き続けた。
「あー……もう駄目」
どのくらい叩き続けていただろうか。
いい加減立っている元気もなくなって、私はずるずると地面に座り込んだ。赤くなった手をさすりながら、戸に寄りかかって膝を抱える。
いつもは屋敷の中にいたから気づかなかったけれど、最近の夜は意外と冷える。
膝を寄せて丸くなると結構暖かい。反面、何だか惨めだ。
いっそのこと勝手に入ってしまおうか?
なんて考えまで浮かんでくる始末。
(駄目駄目。いくら何でもそれは出来ないわ)
地上に逃れたとはいえ、私は月の姫なのだ。他人の家に無断で上がり込むなど言語道断。相手が妹紅ならなおのこと。
――最近のお姫様は空き巣の真似事をするようになったのか?
言いながら大口開けて笑う顔までリアルに想像出来て、そんなことを考える自分が本当に惨めに思えてきた。
「……永琳を呼ぼうかしら」
夜道の一人歩きは危険である。というか歩きたくない。飛んで帰るのも面倒くさい。こんな時こそ、頼れる従者の出番ではないだろうか。
どんなに忙しくても永琳は永琳だ。きっと私のために飛んできてくれるに違いない。
そうと決まれば実行あるのみ。
立ち上がりかけたその時、家の中で何かが動く気配がした。
(……何よ。やっぱり居るんじゃない)
この勝負、私の粘り勝ちとしておこう。
――それはさておき。
こんな時間に訪ねてきた私を見たら妹紅はどんな顔をするのだろう?
驚くのか、喜ぶのか、気になるところではあるけれどその前に。
こんなみっともない格好をしてはせっかくの私の美しさが台無しだ。
手早く身だしなみを整えてから鏡でチェック。ちょっと見えづらいけど……うん、完璧。
それから改めて戸を叩いたそのとき、
「慧音!!」
勢いよく戸が開かれた。
「……」
「……」
無言のまま、私たちはしばらく見つめ合っていた。
私は驚きに目を見開いて、妹紅は期待に目を輝かせて。
しかし。
「……何だ、お前か」
妹紅はがっかりしたというか、明らかに失望した声でそう言うと中へと戻ってしまった。
戸が閉まる。
「…………は?」
一人残された私は状況が理解出来ないまま固まっていた。
が、時間が経ち冷静になるにつれ、徐々に怒りがこみ上げてくる。
「ちょっと……」
別にもてなしてくれというわけじゃない。
誠意を尽くして出迎えろというわけでもない。
普通に、こんな格好をした私を笑って出迎えてくれればそれでよかった。昔からの友人にするように。
それを、あんな目で人を見て――
「――ふっざけんじゃないわよ!」
頭の中が真っ白になって、気づけば私は戸を蹴り倒していた。
が、戸の向こう側を見た瞬間、私の怒りは消えてしまった。
それどころではなかった、と言った方が正しいかもしれない。
中は血で染まっていた。
壁も、床も、塗りたくったように血で汚れている。
生き物の気配はない。それどころか、むしろ拒絶しているような空気さえ感じ取れる。
見たことはないが、地獄というものがあるのなら、きっとこんな所なのだろう。
私はそんなことを思った。
静かに足を踏み入れる。
その瞬間、私は意外にも、自分の考えが的を射ていたことを知った。
ここは地獄だ。
死にたくても死ねない、それでも死にたい。理想《死》と現実《不死》とが絡み合い、呪いとなってこの場を汚している。
どうりでこの一帯が静かだったわけだ。こんなものにあてられては、人間はおろか妖怪でさえ発狂してしまうだろう。
そして、その中心に倒れている妹紅は、何十回……いや、何百回自分を殺したのだろうか。飛び散った血は乾き切る前に新しい血で塗りつぶされて混ざり合い、どろどろと粘りついていた。
呼吸するだけで肺の奥まで血の臭いが染み込んで、まるで全身が血溜まりに浸かっているような気にさえなってくる。
(……あまり長居したい場所ではないわね)
そうと決まればさっさと退散しよう。
転がっていた(どうやったかは知らないが、妹紅は自分で自分の首を刎ねたらしい)妹紅の頭を拾い上げて、倒れたままの体を背負う。ついでに手に握られていた太刀も持って行くことにした。
血に濡れた妹紅の体は重かった。私は肉体労働は苦手なのに酷いことをしてくれる。
内心愚痴りながら、ずるずると妹紅を引きずるようにして家を出る。
外の空気を思い切り吸い込む。それだけで生き返ったような気がした。
◇◇
――ガサガサ。
しばらくして。不意に聞こえた物音に私は足を止めた。
風に乗って流れてくる獣の臭い……妹紅によって縄張りを追い出された獣だろうか。
苦労して訪ねた家の主は死んでいて、帰り道には獣の群。しかも頼りの従者もいない。
もう最悪。これ以上落ちるところがないというところまで落ちた気分だ。
「それもこれもみんな貴方のせい。わざわざ付き合ってあげる私はなんて心が広いんでしょう」
などとふざけてみたところで、事態は一向に良くならないのだけど。
「……本当に、世話の焼ける娘」
私の手には蓬莱の玉の枝。これが今現在、私の持てる戦力の全て。
対して相手はというと、竹藪の中から出るわ出るわ。あっという間に囲まれてしまった。
控えめに見て二十はいるだろうか? しかもこの尋常ならざる気配。おそらくこの内には妖怪――俗に言う妖獣が混じっているはずだ。
普通の獣と違って滅多に集団行動を取らない妖獣がこれほど集まるとは……どうやら妹紅は、彼らに『絶対に生かしてはおけない存在』と判断されたらしい。
無理もない話だが、どうでもいいことだ。私にこんな雑魚共に関わっている暇はない。
私の為すことはただ一つ。
この出来の悪い、愛すべき娘を連れて帰ること。
私の家に。私の永遠亭に。
それを邪魔するものは例え誰であろうと許さない。
私の意思を感じ取ったか、彼らの殺意が今度は私に向けられる。
笑ってしまう。たかが獣風情の爪と牙で永遠を殺せると本気で思っているのか。身の程知らずにも程がある。が、いろいろの捌け口が欲しかったところだしちょうどいい。
――せいぜい足掻いて、楽しませてちょうだいね。
◇◇ ◇◇ ◇◇
「あら、お帰りなさい、姫。遅かったですね」
私を出迎えた永琳はごくごく普通にそう言った。
「……それだけ?」
「そうですねぇ……服も体もずいぶんと汚れているみたいですし、湯浴みの用意をさせますね」
「……」
「……他に何か?」
「…………もういいわ」
よっこいせ。私は担いでいたものと、腰の帯に括りつけていたものを放り出し、手にしたものを床に置いた。
そのまま廊下を進んで行くと、出迎えのイナバたちが先を競って逃げていく。
「……ね? これが普通の反応なわけよ」
後ろを振り返って永琳に言ってやる。
ついでに「あんたどっかおかしいんじゃないの?」と目で伝えておいた。
「私はほら、天才ですから」
私が放り出したものを担ぎながら永琳はそんなことを言った。
どうやら「自分は天才だから普通と反応が違うのは当たり前です」と言いたいらしい。
「……だからって。主人が血まみれで死体担いで生首ぶら下げて抜き身の刀持って帰ってきたら、もうちょっと何かあるんじゃない?」
言葉にすることで改めて事態の異常さを伝えてみる。
「そうですか? 私はまたてっきり、姫が新しい趣味に目覚めたのかと。個人的には、人死には後始末が面倒なので控えて頂きたいのですが」
しかし無駄だった。彼女に普通の言語は通じない。天才とはかくも恐ろしいものか。
「私を何だと思ってるのよ……」
「まあ冗談はさて置き、いったい何があったのですか? まさか本当に彼女を殺して死体を持ち帰ったとか?」
「……もうやだー……疲れたからお風呂まで連れてってー」
「はいはいわかりました」
ごろんと横になった私を抱え上げて、永琳は歩き出した。
なんだかとても嬉しそうだった。
◇◇
「……後はお願い」
それだけ言って私は戸を閉じた。正直な話、このまま風呂場にいたら吐いてしまいそうだった。
昔は妹紅をぐちゃぐちゃに潰して、返り血を浴びても笑っていたような気がする。やはり月日が経って関係も変われば感じ方も違ってくるということか。
鏡に映った私の顔は死人のように白くなっていた。
(私って根性ないなぁ……別に欲しいとも思わないけど)
ごろん、と寝転がる。
ひんやりした床が心地よかった。
そもそも妹紅の体を綺麗にしようと言い出したのは私だった。
血の臭いが酷いこともあったが、誰だって知った顔が血だるまになっているのを放っておこうとは思わないだろう。
だが、予想に反して妹紅の体はいくら洗っても綺麗にならなかった。
まるで血が固まって体になっているのではないか、そう思えるくらいの血がこびり付いていたのだ。
血の池に浸かっているような錯覚。肺の奥まで血の臭いが染み込んでくるような……妹紅の家の中と同じ感じがした。
私はそれに耐えられなかったのだ。
(本当に……格好悪いわ)
結局私は、永琳が綺麗に洗われた妹紅を背負って出て来るまでそうしていた。
◇◇
私たちは異端だ。不老不死であるという時点で、あらゆるものと一線を画す存在だ。如何に幻想郷が全てを受け入れようとも、その事実は変わらない。
妖怪のように長い寿命を持つもの。妖精のように自然を起源とするもの。神という、信仰によりその存在を保つもの。
彼らにも『死』や『無』といった終わりはある。
そういった意味では、彼らも人間と同じ存在だろう。
しかし私たちにはそれがない。
始まりはあっても終わりがない。
私たちの時間は止まったまま。
不老不死を手にした瞬間から、もう二度と動き出すことはない。
そんな私たちが生きるには、この幻想郷はあまりに平和で、残酷だった。
ここでは誰もが死と正面から向き合っている。ありのままに、運命を拒むことなく死んでいく。
月の人間のように生に執着するあまり、自らを作り替えることもない。
まるで私たちをあざ笑うように生を謳歌し、死に、また新たな生を受ける。
言いようのない孤独感、疎外感。
自分と同じ姿をしたものが死に、生まれるたびに、自分が彼らとは全く違うものであることを思い知らされる。
それなら人里を離れ、妖怪兎たちに囲まれて暮らしている方がましだった。
『彼女らは自分とは違う生き物なのだから』。
そう思えば幾分か気が安らいだ。死に行く姿を見ることさえ苦痛にならなかった。
今では絶えて久しいそんな感情が、昔の私にはあったのだ。
そしておそらく、それは妹紅の中にも。
だとすれば、妹紅は知ったのだ。自分と近しい者が老いて、死んでいくことへの恐怖を。
それは共に過ごした時間が長ければ長いほど、失ったときに重くのしかかってくる。ならば、半獣と二人で過ごした歳月は、藤原妹紅という一人の人間を押し潰すに十分な長さだったのだろう。
……………………
………………
…………
「だから私はあの日、一緒暮らしましょうって言ったのよ……」
妹紅は何も答えない。
永遠の術を解いたにもかかわらず――体は再生を終えているのに――妹紅の目に光は戻らなかった。今も虚ろな目で天井を見上げている。
心が壊れてしまったのだろうか?
生きようとする意志の感じられない瞳はまるで作り物のよう。血の気の失せた白い肌と相まって、妹紅は本物の人形のように見えた。
蓬莱の人の形。私への憎しみを糧に生きて、その憎しみも枯れ果てて、今度は友愛を支えに生きて。そして、それさえも失った。
「……本当に、可哀想な娘」
頬に手を添えたその時、妹紅の口がかすかに動いたような気がした。
「妹紅? 起きたの?」
様子を見ようと妹紅の顔を覗き込んだ私は、胸ぐらを掴まれて引き倒された。
誰か、とは問うまでもない。この部屋には私と妹紅の二人しかいないのだから。
「『可哀想』だって……?」
私を見下ろす妹紅は、ずいぶんと懐かしい目をしていた。
憎しみに染まりきった目。初めて会った頃を思い出す目だ。
「お前はまたそうやって私を哀れむのか?」
「ええ。今の貴方は本当に可哀想……」
「――黙れ!」
妹紅の手が、私の首にかかる。以前より骨張った指が首に食い込む……あんなに綺麗だった指が。
苦しさよりも、私はそれを悲しいと感じていた。
「私を……私を哀れむな!」
首にかけられた手にさらに力が込められる。
痛い。苦しい。でも、抵抗しようという気は起こらなかった。
私を憎むことでもう一度動き出せるのなら、それも構わないか。例え始まりがそれだったとしても、きっとまた、妹紅を変えてくれる存在が現れるはずだから。
そんなことを思いながら、私は目を閉じた。
しかし、終わりはいつまでたってもやって来なかった。代わりにぽつぽつと滴が落ちてくる。
「……私を哀れむな。哀れむくらいならどうして助けてくれなかった」
泣いているのだろうか。妹紅の声が震えていた。
そして、首にかけられた手からはどんどん力が抜けていく。
「お前は私の欲しい物をみんな持っているくせに……お前は狡い……卑怯だ。周りを弄んで、飽きたら捨てるくせに……それなのにどうして私を放っておいてくれなかった! 私は……私は……」
言葉が途切れる。私が目を開いてとっさに手を伸ばしたのと、妹紅が倒れかかってくるのはほとんど同時だったと思う。
受け止めた体は嘘のように軽く、血の気の失せた顔で妹紅は気を失っていた。
◇◇
「生きているのが不思議な状態ですね」
妹紅を診た永琳は、私にそう言った。
栄養失調、疲労、ストレス。
このどれか一つでも普通の人間ならとうに死んでいるらしい。
それでよく動けたものだと永琳は驚いていた。
言われてみればそうだ。あの状況を考えれば、妹紅が一日三食きちんと食事をしていたはずがない。きっと眠ることさえしていなかったのだろう。
蓬莱の薬は飢えも渇きも疲れも癒してはくれない。その中で自分を殺して、殺して、殺して……死なないとわかっているはずなのに殺し続けて。
一体、妹紅に何があったのだろう。何が妹紅にそこまでさせたのだろう。
原因はおそらく、半獣が死んだことにあると思う。永琳の見立てでもまず間違いないということだし、あの場にいなかったことが何よりの証拠だろう。
しかし。
それだけでこうもなるものなのか?
ただ半獣が死んだだけならば、あの惨状の説明がつかないのだ。
――半獣の後を追って死のうと考えた?
それはないか。
理由云々以前にあの半獣がそんなことを許すとは思えないし、それは妹紅だって同じだろう。好きこのんで友人を悲しませるほど、ねじ曲がった性格はしていないはずだ。
でも、それでも妹紅は自分を殺し続けた。
いったい何のために?
わからない。
全知全能の存在でもなければ、他人の過去を知ることなど出来るはずもない。
(――あ、でも、それなら……)
ふと思いついた考えが一つ。
といっても、あまりに馬鹿馬鹿しい仮説ではあるのだけれど。
まあ、はっきりしていることと言えば。
あんな格好で出迎えられたら半獣は卒倒していただろう、ということか。
「ねえ、そう思わない?」
「……」
私の問いに、妹紅は目を逸らすことで答えた。……いや、違うか。目を逸らしたのではなくて、単純に私のことを見ていないのだろう。
……何か嫌な予感がする。
そう思って伸ばした手の先で、血が噴き出した。
妹紅が自分の指を首に突き刺し、血管を引き千切ったからだ。
呆然としている私の目の前で血の染みがどんどん大きくなっていく。
もう助からない。
私は何も出来ないまま、自分の血で赤く染まりながら微笑んでいる妹紅を見ている。
ギリ、と。
強く歯を食いしばる音が聞こえる。
それが自分のものだと気づいた頃には、妹紅は息絶えていた。
いらいらする。
体を赤く染めて、しかし微笑んでいる妹紅は――まるで死ぬことを喜んでさえいるように見える。
あの頃とは違う。相手を殺すでもなく、相手に殺されるでもなく、自分自身を殺すことに喜びを感じている。
そのことがどうしようもなく私を苛立たせる。
私たちにとって、命に価値なんて無いはずなのに。
無限にある命を幾ら失っても、どうせ生き返ることに変わりはない。
だから妹紅もいつか、死ぬことに意味はないと気づくだろう。
それまで待てばいいだけの話。
でも。それは私の欲しい『今』ではない。
そして、私の欲しい『今』を手に入れるためには、待っているだけでは駄目なのだ。
そのためにはどうすればいい?
わからない……妹紅を元に戻すためにどうすればいいか、その答えは私の中には存在しないから。
そんな私に出来ることと言えば、妹紅が目を覚ますまで手を握っていることくらいだった。
◇
握っていた手に力がこもる。
顔を向けるとこちらを見上げる妹紅と目が合った。
「……なんだ、見間違いじゃなかったんだな」
「当たり前でしょ。私を見間違える者がいるものですか。ついでに言うと――」
今度は私の方が早かった。
馬乗りになりながら、もう片方の手を上から押さえつける。
「これ以上、私の部屋を汚さないでもらえるかしら?」
「……離せ」
「断るわ。それから、意味のないことはやめなさい」
「意味がない……?」
「ええ。不老不死の貴方がいくら死んだところでまた蘇ってしまうだけ。知らないとは言わせないわ。百年以上、私と殺し合いを続けた貴方には」
「……ふん」
つまらなそうに言って、妹紅は顔を背けた。といっても、私の言葉を理解したからでないことは明らかだった。
このままではまた、妹紅は自分を殺そうとするだろう。
何としてでも止めさせなければならない。
でもどうやって?
答えはまだ出てこない。もしかしたら一生かけても出てこないかもしれない。
それでも考える。そうしなければ私はせっかく築き上げた『今』を手放してしまうことになるから。
しかし、普段使うことのない頭から出てくるのは形にならない言葉ばかり。おおよそ説得とはかけ離れた文字の羅列。
――「ごり」という音が耳の奥に響く。
痛みと共に、唐突に意識が引き戻された。
目の前では口の周りを血に濡らした妹紅が何かを吐きだしている。
体の一部が欠けたような感覚。布団の上に転がったそれは、紛れもなく私の指。喉まで出かかった悲鳴をどうにか飲み込む。
そんな私を妹紅は冷めた目で見ていた。
「無理するなって。痛いだろ? お前をそんな目に遭わせた私を殺したいだろ?」
「嫌よ。私は貴方のことが心配で……」
「止してくれ。迷惑だよ、そんなの」
「――」
その言葉を聞いたとき、頭の中でぷつんと何かが切れる感じがした。
ぱん、と乾いた音が響く。
「心配して何が悪い!」
? 私は何を言っているんだろう?
「ふざけるな! どうして私がお前に――」
体が勝手に動く。私は返す手で妹紅の頬を張っていた。
「私がお前を心配することに理由が必要か!」
妹紅の胸ぐらを掴んで引きずり起こす。
喰いちぎられた指の痛みなど気にならなかった。
呆然としている妹紅を見ていると次から次へと言葉が出てきた。
意味のあることから無いことまで沢山あったけど、途中から自分でも何を言っているのかわからなくなった。
ただ、胸の内に溜まったもやもやを吐き出すように、私はわめき続けた。
………………
…………
……
「何でお前が泣くんだよ……」
言葉が出てこなくなった頃、妹紅はそんなことを言った。
私は何か言い返そうとしたけれど、しゃくりあげるような声しか出せなかった。妹紅の言うとおり、私は泣いていたのだ。
「……うるさい」
掠れた声で言って、私は妹紅の胸に顔を埋めた。これ以上こんな顔を見せるのも見られるのも嫌だったから。
というか、思い返してみればずいぶんと恥ずかしい言葉を口にしていたような気がする。
「うるさいって……あれだけ騒いだ奴の言うことか。それにずいぶん好き勝手言ってくれたな。聞いてるこっちの方が恥ずかしかったぞ」
うあ、やっぱり言ってたか。よく覚えてないけど。
顔が熱い。きっと耳まで赤くなっているに違いない。でもってこいつはそれを見て笑っているんだろう。
そう思うと腹が立ってきた。
「でも……」
(……でも?)
「嬉しかった。私のために泣いてくれて。……ありがとう」
「な――」
びっくりした拍子に手を離してしまったらしい。口を開いた瞬間、妹紅の体が倒れた。
「それから指、悪かった」
「……別にいいわよ。こんなのすぐに治るし」
他にどう言えばいいのかわからなかったので、適当な答えを返しておく。
とはいえ全くの嘘というわけではない。妹紅や永琳の持つ不老不死自体が永遠の力のコピーなのだから、オリジナルである私なら指がなくなるくらいすぐに治ってしまうのだ。
妹紅は「そっか」と言ったきり黙ってしまった。
天井を見る目は以前のように穏やかで、私は内心ほっと胸を撫で下ろす。それから妹紅の上に乗ったままだということに気づいて急いで離れた。
「……ねえ」
「ん?」
問い返す妹紅を見てわずかに躊躇ったあと、私は「何があったの?」と聞いていた。
何故だろう。私は聞くなら今しかないと思っていた。
「……」
妹紅は何も言わない。視線を宙にさまよわせて、何か考えているようだった。
と、途端に不安が押し寄せてくる。
「い、言いたくないなら無理には聞かないわ。別に興味ないし」
言ってから後悔した。これじゃ気になって仕方がないと言っているようなものだ。
そんな私が可笑しかったのか、妹紅は声をあげて笑った。
「悪い悪い。……どう説明したものかって考えてたんだ」
恨みがましい目を向ける私にそう言って、妹紅はふと、真面目な顔になった。
――私はね、慧音を殺したんだ。
妹紅が何を言っているのかわからない。
誰が、誰を殺したって?
呆然とする私に妹紅は寂しそうに笑って言った。
◆◆
あれはいつだったかな。
最近のような気もするし、ずいぶんと昔のような気もする。
慧音が自分で動けなくなってからしばらくしてからのことだ。
もう寝たきりみたいな感じで、慧音は私が世話をしてやらないと食事だって満足にできない状態だったんだ。
その頃には私も慧音を助けることは半ば諦めていてさ「ああ、私はこのまま慧音が死んでいくのを見ているしかないんだな」って思ってた。
慧音はそんな私を見て「しょうがない奴だな」って笑ってたんだ。本当は喋ることだって辛いはずなのに。
……うん、私は本当にしょうがない奴だった。
誰だっていつかはいなくなる。
それを認められなかったんだから。
起こりもしない奇跡をずっと待っていたんだ。朝起きると全部が夢で、慧音は何事もなかったみたいに元気で……そんな奇跡を。
だから慧音はそんな私に愛想を尽かしたのかもしれない。
ある晩、ふと目を覚ますと隣に寝ていたはずの慧音がいなくなっていたんだ。もう動くことなんてできないはずなのに。
私は飛び起きると慧音を探しに行った。
慧音はすぐに見つかった。
でも、そこにいたのは私の知っている慧音じゃなかった。
角と牙を生やして、赤い目をして……本物の妖怪にしか見えなかった。
駆け寄る私に慧音は言ったよ。「お前の肝をよこせ」って。そして私に襲いかかってきた。
あんなに必死で、感情を剥き出しにする慧音は見たことがなかった。
死にたくなかったんだろうな、きっと。
気がつくと私は地面に押し倒されていた。
目の前には苦しそうな慧音の顔。……もう、動くことさえ辛かったんだと思う。
そう思うと抵抗する気力さえ沸いてこなかった。
私が死んで、代わりに慧音が生きる。それだけのことだって。
でも、本当はそうじゃなかった。
慧音のためなら死んでも構わない。そう思ったはずなのに。慧音の牙が皮膚を食い破った瞬間、私の体の中から炎が吹き出した。
一瞬だったよ。本当に、瞬きするくらいの間だった。
慧音の体が炭になって、灰になって消えるまでにそれくらいの時間しか掛からなかった。
ずっと一緒にいたのに。消えるのは一瞬だった。
◆◆
「あとはお前が見たとおりだよ」妹紅はそう言って話を終えた。
それであの有様か。……きっと妹紅は自分を許すことが出来なかったのだ。友人のために命を捨てる決心をして、しかし死を目前にして自らの体がその決心を裏切ったことが。
そのとっさの行動こそが、自分の本心だったと妹紅は思ったのだろうか?
それは『死にたくない』『生きていたい』という、誰もが持っている当然の欲求だ。そんなことに罪の意識を持つ事なんてない。
だってそうじゃないか。あの半獣もそれに従って、友人であるはずの妹紅に襲いかかったのだ。
だから妹紅は悪くない。むしろ裏切られた側、被害者だ。
でも、私は二人が共に過ごしてきた時間を知らない。使いに出したイナバから聞いたり、妹紅の口から聞いていた程度に過ぎない。
その私が何を言えるというのだろう? 「貴方は悪くない。悪いのは襲いかかってきた半獣の方だ」とでも?……そんなこと言えるはずもない。
話すことがなくなったのか、妹紅はずっと黙っている。
私は何を話していいのかわからず、やはり黙っていた。
重苦しい沈黙。
以前はこんな事はなかったのに、と思う。
ほんの一月前までは、言葉にしなくても妹紅の考えていることや思っていることがわかっていた。
だから例え言葉を口にしなくても安心していられた。
でも今は違う。
藤原妹紅という人間がわからない。何を考えて、どこを見て、何をしようとしているのか。言葉なしでは何一つとしてわからない。
それが私をたまらなく不安にさせる。
息苦しさを覚えて、私は服をきつく握りしめていた。
「なあ、輝夜」
「――な、何?」
まるでタイミングを見計らったように妹紅に声を掛けられて、私は裏返った声で返事をしていた。
どくどくどくと、何もしていないのに心臓の鼓動が早くなっていく。握った服に汗が染み込んで、けれども体の内側は氷のように冷えていく。
予感、といえばいいのか。私にとって良くないことが起こる、そんな気がした。
「私は……生きていていいのかな?」
言葉が出てこなかった。
「そんなの当たり前じゃない」言葉は頭には浮かぶ。でも、口に出そうとするとそれは煙のように消えてしまう。
言ってしまえ。言ってしまえ。言ってしまえ。その一言で妹紅は救われる。
頭の中でもう一人の私が言う。しかし同時に、「でも」と私は考えてしまうのだ。
もしも私が今、永琳や妹紅をこの手に掛けてしまったとしたら。それが理由などない、利己的なものだったとしたら。
私は自分が生きていることを許せるのだろうか、と。
そんなことわかりたくもないし、知りたくもない。それに、どちらにしろ私たちはこの先も生きていくしかないのだから。
私と同じことを考えているのか、妹紅はそれ以上何も言おうとはしなかった。
「いいに決まっているでしょう? それとも貴方はこの子を未来永劫、独りにするつもりなのかしら?」
だからこの声は私でも妹紅のものでもなく。加えて言うなら私たちに向かってこんな事を言えるのは、この屋敷には一人しかいなかった。
私たちは二人揃って声の方を見る。
「彼女の言ったとおりね。千年以上を生きてきたというのに貴方は子供のまま。自分に都合の悪いことからは目を背け、人の思いにも気づかない。それでいて自分のしたことに耐えきれず安易な逃げに走って、そして今またその答えを、自分を救ってくれた相手に求めている。狡いのは貴方、卑怯なのも貴方よ」
永琳の言葉には容赦がなかった。そして妹紅を見下ろす目はどこまでも冷たい。
らしくない。ぼろぼろの服を着た、薄汚れた姿もそうだけど、いつになく多弁なこともそう。冷静沈着、という言葉が何よりも似合う永琳とは思えなかった。
対する妹紅は真っ青な顔をしている。言葉の一つ一つに打ちのめされているような、そんな印象を受けた。
しかし。
「でも」
と続けた時、永琳の目にはさっきまでの冷たさは欠片も残っていなかった。
代わりに……どう言えばいいのか。慈愛、だろうか。その目には暖かい光が宿っていた。
「そんな貴方だからこそ、奇跡は起こったのかもしれないわね」
そう言って永琳は膝をつき、腕に抱きかかえていたものを妹紅に渡した。
妹紅は渡されたそれを抱えて呆然としていた。かと思えば嬉しいのか悲しいのか、何ともいえない表情をした後、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。
何があったのか。
近づこうとした私を永琳が遮る。
「駄目です」
「ちょっと永琳……?」
私は永琳と正面から向き合っていた。本当に久しぶりに。
こんな事はいつ以来だろうかと、頭の隅で思う。
「これ以上は駄目です。姫……これからは私のことも見てください。そうでないと私は、もうどうにかなってしまいそうです」
今にも泣きそうな顔で。
懇願するような目で。
震える声で。
永琳はそう言った。
(……ああ、そうか)
さっきの言葉は、少なくとも半分は私に向けての言葉でもあったらしい。
すっかり忘れていた。長い間、私は永琳とこうして向かい合うことさえしていなかったのだ。誰よりも大切な、半身とも言える従者だったはずなのに。
やれやれだ。これでは私も、まだまだ子供だ。
「永琳」
両手を広げる。言葉に出来ない感情を、言葉にしたら壊れてしまいそうな思いを込めて。
「姫……!」
永琳はほとんど飛びつく感じで抱きついてきた。おかげで私はバランスを失って畳の上に倒れてしまう。
普通なら文句の一つも出そうなものだったけど、不思議と私は幸せだった。
久しぶりに感じる永琳の重みから来るのか、それとも、それこそ子供のように泣きじゃくる永琳を見ることが出来たからか。
どちらにせよ、離れていたものがまた一つになる充実感、それは何にも勝る幸せだと思った。
けれど。
それとは別のところで、体にぽっかりと穴が開いたような感覚があることも事実だった。
例えばいつも一緒にいた誰かがいなくなってしまったような、そんな感覚。
それはおそらく……互いに進む道が分かれたということだろう。
でも、私はこう思う。
それはきっと悪いことではないのだと。
大丈夫。分かれた道も、いつかまた交わる日が来る。
だから今は、再び手にしたこの幸せを逃がさないように、精一杯抱きしめよう――。
最後の最後に思わぬところで曲がってゴールした感が。
輝夜が泣きじゃくる姿を想像したらちょっとヒートエンドおこしそうになりました。
しかし四ヶ月は長かった・・・w
三作目も楽しみにしています。