1
遅い入浴を済ませ、後はベッドに入るだけと言う状態で、今日一日の出来事を振り返り、私、アリス・マーガトロイドは溜め息をついた。
うざったい残暑が終わり、季節は秋だ。涼しげな秋の夜風が、細く空けた窓から吹いて来る。だが、そんな風も、今の私の熱を冷ましてはくれない。
部屋の照明を一段落として薄暗くなった部屋で、私はベッドの横にあるランプの作り出す憂鬱な光に照らされる壁をじっと凝視している。
苛立ちが胸を駆け巡るのが解る。私は無意識の内に拳を固めていた。
今日、私はいつもの通りに生活するつもりだった。
いつもの様に朝起きて食事を摂り、人形達の服を編んで紅茶飲む。昼食を摂った後、毎日と言う訳では無いけれど、いつもの様に神社へ向かった。
すべてが同じ。変わり栄えこそしないが、どこか満ち足りた、平穏無事な日常。
その筈だったのに。
(アイツが出て来て……)
そう、アイツだ。心の中に、いつも人を小馬鹿にした様な、アイツの顔が浮かび上がる。神社で霊夢とお茶を飲んでいた時、何の前触れも無く、アイツは現れた。偉そうに従者を侍らせ、余裕たっぷりの笑みを浮かべて。そして、私の事を馬鹿にしたのだ。
『妖怪の癖に、しょっちゅう人間と一緒に居るのは、人間時代の未練かしら?未練なんか残すなら、魔法使いになんかならなければよかったのに』
『まあ、魔法使いになるような奴は、皆どっかしら変よねぇ。変人である事が条件みたいなんだもの。泥棒だったり白黒だったり。引き篭もりだったり書痴だったり』
『孤独に耐えられずに人形で周囲を埋め尽くし、それでも足りないからこうして人間の側に居る、極度の寂しがり屋だったり。魔法使いは本当に、変よね』
怒りで身体がカッと熱くなる。私は激情に駆られて、乱暴に自室の壁を蹴った。
「誰が寂しがり屋ですって!?私は、私が楽しいと思う事をしているだけよ!霊夢とお茶をする事だって、人形達を作るのだって、そう。霊夢とは昔からの付き合いで、その……仲良くしたいし。人形達は趣味と実益を兼ねてる訳だし。なのに、何でそれが寂しがり屋なのよ!?ふざけるんじゃないわよ、あの女!」
まったく忌々しい。あんな奴に、私の何が解ると言うのか。
確かに、ずっと一人で居る事には耐えられないだろう。意思、自我を持っている以上、永きに渡る絶対の孤独に耐え得る者は存在しない。だから寄り添う者を求める。
私もそうだ。これでも魔法使いをやっている身だから、精神力には一応自信がある。人間よりは孤独にだって耐えられるだろう。だが、それは永遠じゃない。300年も独りで居れば、確実に発狂するだろう。その点で言えば、私はおろか、意志を持つ存在ならば、妖怪とて例外では無い筈だった。
だから、大局的に見て私が寂しがり屋と言っても、それは間違いでは無い。意思を持った存在に、永遠の孤独を耐える術は無いのだ。
「けれど、アイツが言ったのはそうじゃない……。私が、僅かな孤独でも耐えられない、人間の尺で測った寂しがりだと言ったのよ……」
つまりは、私を馬鹿にしたのだ。「一瞬でも孤独に耐えられない寂しがり屋」「脆弱な精神の情けない奴」と。
アイツがそう言った訳じゃない。しかし、私は見た。私を馬鹿にした時の、アイツの目を。哀れむ様な色。私を、可哀想だと思っている表情。
それをアイツは、同性の私でさえ偶に見惚れるくらいの美貌に載せて向けて来たのだ。
悔しいが、アイツは綺麗だ。美人だし、子供の様に無邪気に微笑むその表情は可愛くさえある。そんな、人間離れして妖怪も羨む様な美しい顔に、私を哀れみ、その哀れみを掛ける自身への優越感の様な、優しげで嬉しそうな表情を載せて私を愚弄したのだ。
「馬鹿にして……!アンタなんか大嫌い。顔も見たくないわ」
かつて、彼女の美しさに見惚れて憧れた事があった自分を思い出し、その憧れの対象にあの様な侮辱を受けたと考えると、怒りはいよいよ頂点に達しそうだ。
過去と言えば、私は何度も何度もあの女にからかわれていた事を思い出した。
事ある毎に私へ難癖を付け、私を愚弄し、嘲笑したのだ。
更に、かつてアイツに、私が精魂込めて作り上げた人形をプレゼントした事まで思い出し、怒りは臨界を越えた。
アイツは私がプレゼントした人形を馬鹿にして、私をも馬鹿にしたのだ。その時からアイツと私は犬猿の仲になったのである。
「私の馬鹿!間抜け!阿呆……!」
自分の愚かさに、余計に怒りの炎が大きくなる。どうしてあの時人形を渡したりしたんだろう……!
そして何より、今日だ。これが今、私を怒りに駆り立てている原因だった。
今日、アイツは私を寂しがり屋の根性無しと哀れみ罵った挙句、怒って用意もロクにしないまま挑んだ弾幕勝負で、私を負かしたのである。
敗北については、怒りに我を忘れて用意と用心を怠った、私の完全な落ち度だ。だが、それで感情が納得出来るほど私は枯れていない。何より、勝った後のアイツの言葉が気に入らなかった。
私は地団駄を踏んで拳を振り上げた。許せない。怒りで髪の毛が逆立ちそうだった。怒髪天を衝くとはこの事を言うのだろう。
アイツへの怒りと、自分への情けなさ、悔しさで怒りは更に燃え上がり、私は形振り構わずに暴れだしたい衝動に駆られた。臨界は当に超え、メルトダウンを起こして理性と言う大地に深い大穴を穿つ。
私はベッドから枕を取り上げ、アイツへの怒りを腕に込めて力の限りに壁へ叩き付けようとした。
と、その時だ。
「……?」
視界の隅で、黒い小さな影が疾った。
それは小柄な猫ほどの大きさだったが、あまりに速い動きだった為に、残像でそんな大きさに見えたのかも解らない。
慌てて視線で追おうとしたが、その影は既に消えていて、部屋の中を見回し、探査系の魔法を使ってみても、私の他に何者も存在しなかった。
きっと、気のせいだろう。
怒りで何か、そう、例えばランプの光で出来た影が、ちょっとした私の動きで揺らめいただけなのかも知れない。
きっと、ただの気のせいだ。私はそう結論付けると部屋の照明を落とした。
気のせいのおかげで、いつの間にか怒りの炎も小さくなっていて、私は苦笑した。
頭に血が上っている状態では眠れない。気のせいに感謝するべきか。
ともすれば肌寒ささえ感じさせかねない夜風を警戒し、身体を冷やさない為に私は窓をそっと閉じると、ベッドへ潜り込んだ。
静寂が部屋を支配し、秋の虫が涼やかな音を出している。
「今度会ったら酷いんだからね……!」
私はそう呟いて寝返りを打った。
怒りで暫くの間寝付けなかったが、ベッド脇に居る大きな熊の縫いぐるみを手元に引き寄せて、そいつの腹に何度もボディブローを打ち込んでいる内に怒りも和らぎ、私はいつしか眠っていた。
あまりの寝苦しさに、私は布団を跳ね飛ばして半身を起こした。
酷い寝汗だ。いったいどうしてこんなに汗をかいている?そして、この部屋の温度。
「暑いな……いったい、どうしたのよ」
今は秋の筈だ。寝る前に閉めた窓からは、涼しい風が入って来ていたし、部屋の温度もこんなに暑くなかった。
これでは真夏の夜じゃないか。
私は汗でグッショリとなったパジャマの上着を脱ぎ捨てた。キャミソールが一緒に脱げそうになり慌てて直す。
ズボンも脱いで、少々はしたないが下着だけになる。
それでも尚、部屋の中は暑かった。うだるような暑さが襲って来るのだ。私は堪らず窓を全開にした。
どっと、熱帯夜特有の生温かい風が部屋に流れ込み、私の頬を撫でる。
馬鹿な!今は秋の筈だ。これでは本当に、夏の夜だ。
そう言えば、眠る前には聞こえていた筈の虫の音も、今は聞こえない。
私は寝室を飛び出した。
(そんな馬鹿な!これ、どう言う事よ!?)
おかしい。この気温はどう考えても異常だ。
「私が寝た時間は確か……十二時丁度よね。今は……」
混乱して寝室を飛び出した間抜けさを呪った。あそこには目覚まし時計も、普通に壁に掛けた時計もあったじゃないか。
(過ぎちゃった事はしょうがない。ええと、時計、時計は……)
足を止めると、そこは居間だった。居間には大きな柱時計がある。私が人形達に造らせた自慢の大時計だ。永遠亭に住んでいる連中に教えて貰った技術を導入し、衛星なんとかで誤差修正をする完璧な時計だ。紅魔館の時計台とまったく同じ動きで、向こうも正確な時計だと言うので、同じ技術を使っているのだろうか。それとも別の技術か?
実に興味深い話だったが、今はそれどころではない。私は時計の針が指し示す時間を目で追った。
「そんな」
時刻は十二時三十分。
この急激な気温の変化が自然現象だとは、どうにも考えられない事だった。
おかしい。いくらなんでもこの状態は変だ。
寝苦しい熱帯夜と、何が起きたのか解らない興奮と混乱で昂ぶった精神の相乗効果で眠れそうに無かったところを無理矢理に眠り、暑さに耐えられず目覚めた朝。私は外の世界の状況に愕然とした。
暑い。暑いのだ。
私の家は、木々が鬱蒼と生い茂った魔法の森の奥にあるので、言うほど暑くは無く、ましなのだが、それでも暑い。
上空へ出てみれば、太陽は眩しく輝きその存在をアピールし、大気を焦がしていた。まさに夏の陽射しである。
それだけではない。
私はジージーと言う音に、自分の聴覚を疑った。
蝉が鳴いているのだ!
「嘘でしょ……!これじゃあ、本当に、夏じゃない」
あり得ない。そんな馬鹿な。
秋の筈だ。暦は九月半ばに差し掛かり、暑さが過ぎ去った事に小さな喜びを噛み締めていたのだ。
魔法使いの私にとって、気温の変化は人間ほど大きな問題ではない。だが、それでも暑いものは暑いし、寒ければ寒い。
ようやく終わったと思った暑さが、また戻って来た。それだけでもショックだったが、今はそんな平和ボケしたショックを感じている状況ではない。
夏だ。陽射しが、気温が、蝉が、雄弁に物語っている。今、幻想郷は夏なのだ。
「嘘よ!もう、夏は過ぎたの。終わったのよ!それなのに……いったい、これはどう言う事よ!」
訳が解らない。いったいこれはどう言う事だ?
「また、誰か……異変でも起こしたって言うの?」
それならば、別に騒ぎ立てる事も無いだろう。異変は、この幻想郷ではそれこそ頻繁に起こっている事なのだから。犯人となる妖怪が居て、霊夢がそれを退治して終わる。
いつもと同じ事だ。だが。
「おかしいわ……。これが、妖怪の起こした異変なら、何かしら妖気とか、怪しい気が漂ってる筈なのに」
そうなのだ。この状況が妖怪の起こした異変ならば、何かしらの痕跡がある筈なのだ。だが、それが見当たらない。
私は魔法や幻視を駆使して、探知出来る範囲すべてを探ってみた。結果は、何も無い。
巧妙にカムフラージュしているのだろうか?それとも、妖怪ではない、別の何かだろうか?
(考えていても仕方が無い、か……。霊夢に相談してみよう)
この異常な状況を、彼女が放置する筈が無い。
私は朝食を食べるのも忘れ、人形を引き連れて神社へ飛んだ。
早朝での訪問にも拘らず、霊夢は嫌そうな顔をせずに私を出迎えてくれた。
「で?朝っぱらから血相を変えて飛んで来て、何があったのよ」
面倒臭そうな表情で言いながらも、どこか楽しそうな色が混じった声で彼女は聞いてくる。
そんな霊夢の態度に小さな嬉しさを感じつつも、私は彼女が何も慌てていない事に違和感を覚えた。
「何って……。何か変じゃない?」
「変?何がよ。まあ、あんたがこうして、朝からウチでお茶を飲んでるのは珍しいけど」
違う。確かにこの行動は、普段なら絶対にしないと思うが、今はそれを言っているのではない。
「この暑さよ!」
私は声を大きくして言った。
「昨日の夜、十二時過ぎくらいから、まるで真夏の様な気温に変わってしまったじゃない。今だって、外は夏そのものよ?変じゃない」
私は外を指差してそう言った。
この状況はどう見ても異常だ。だと言うのに、霊夢はいきなり笑い出した。腹を抱えて可笑しそうに笑うのだ。
「何が可笑しいのよ」
「はは……だって、アリス……あんた、いきなり何を言い出すのよ……あははは」
「何って……」
「暑いのは当たり前でしょう?まだ七月の半分くらいよ」
「え?」
何を言っているのだろう。
私は霊夢の顔をじっと見つめてしまった。今、貴女は何て言った?
「ちょっと、何を言っているのよ霊夢。冗談はよして。今は九月でしょう?もう秋なのよ」
私は言った。霊夢め、冗談を言うならもう少し上手くやって欲しいものだ。この状況では笑うに笑えない。
「グータラしてて頭がボケちゃったんじゃない?これだから貴女は……霊夢?」
霊夢がぽかんとした表情で私を見ている。いったいどうしたのだろうか。
「霊夢?」
「え?ああ、何?」
「何をボケてるのよ。今の月の話をしていたのよ。貴女が七月だなんて言い出すから……」
私がそう言った時だ。
霊夢が呆れた様な、哀れむ様な表情で、私を見た。
そして、奥の柱に画鋲で留められたカレンダーを指しながらこう言ったのだ。
「アリス、夏風邪でも引いたの?そりゃちょっと気が早いんじゃない?……いい?今日は七月十九日。九月でも無ければ秋でもないわ。夏はこれからなの。素麺と麦茶が美味しい季節よ。熱でボケてるんだったら大人しく寝てなさいよね。そこの上海にメッセンジャーやらせれば、まあ看病くらい行ってあげるわよ……アリス?おーい」
霊夢が何か言っていたが、最後まで聞いていられなかった。
馬鹿な。霊夢は何を言っている?今は9月、季節は秋の筈だ。
だが、霊夢の態度、言葉から、私を騙そうとしている様な気配は感じられない。
そして、彼女が指した日捲り式のカレンダーに記された数字が私を金縛りにする。
七月十九日。
嘘だ。信じられない。信じられる訳が無かった。今が、七月?夏だと言うのか?
「アリス?ねえ、しっかりしてよ……本当に大丈夫?永琳呼ぼうか?」
夢だ。悪夢だ。だが、肌を焼くこの空気の熱さ、陽射し。そして心配そうに私の肩を揺すり、私が熱病に掛かっているのではないかと、私の額に自分の額を押し付けて、私の熱を測ろうとしている霊夢の肌の感触、肌に間近で感じられる彼女の息遣いが、夢を見ているのではなく現実の世界に居ると言う事を、私に思い知らせた。
(そんな……!?それじゃあ、私は二ヶ月前に戻ってしまったと言うの?)
ありえない。そんな馬鹿な事があって堪るものか。これではまるでタイムスリップじゃないか。
そんな高度な魔法や力など、私は知らない。時間を操る能力を持ったメイドや月の姫にだって、過去へ遡る芸当は不可能だ。少なくとも本人達からそう聞いている。
だが、霊夢が嘘をついている様には思えない。そして、私がいるこの世界。すべてが、現実だと訴えていた。
五感すべてが、そして第六感さえも、すべてが「夢ではない」と突き付ける。要求があれば第七感を働かせてみたって構わない。だが、結果は同じだろう。
私は混乱した思考の渦に囚われ、意味の無い反射行動で霊夢の顔をカレンダーを交互に見比べる事しか出来なかった。
それから私は、霊夢以外の知り合いに聞き込みをしたり、質問した相手の家にあるカレンダーを見たりした。新聞の日付も確認したが、結果はすべてが、今日が七月十九日だと示していた。
呆然としたまま家へ帰った時、既に世界は夜だった。私は何もする気が起きず、ベッドへ倒れこむ。
「嘘よ……夢なら覚めてよ。こんな、こんな馬鹿げた現実……認めてやるもんですか……!」
否定しても変わらない現実。悪夢は何時まで経っても覚めなかった。
倒れ伏したベッドの上で、私は乾いた笑みを浮かべ、掠れた声で笑った。馬鹿げている。何で私がこんな目に。笑いながら、涙が零れた。悲しみよりも、怒りと悔しさ、そして何より、状況に追いつけない混乱。
意味の解らない涙で頬と枕を濡らし、私はいつしか眠りに落ちて行った。
目が覚めたら、元の世界に戻れる様に願いながら。
2
目が覚めても、そこは悪夢の世界のままだった。
私は遅めの朝食を摂り、これからどうするかを考える事にした。
(もしかしたら、私自身に強力な幻惑の魔法が掛けられていて、私は幻の中を彷徨っているのかも知れない)
希望が持てそうな推測だったが、仮にそんなものを私に仕掛けたとして、犯人に何のメリットがあると言うのだろうか。
私はこの七月から、元の時間、即ち九月の間(ここで思い出したが、私がこの状況に襲われた日は九月二十日だった)まで、特に何かをしていた訳ではない。
暑さに辟易しながら人形達の服を作り、新作の人形の案を膨らませ、後は霊夢達とお茶をしたり、誘われるままに彼女達と宴会をしたり、神社へ泊り掛けで遊びに行った程度だ。
つまり、魔法使いの私をも欺ける様な大魔法を、何もしていない私に使う意味が、どう考えても無いのだ。ただの嫌がらせにしたって、これでは非効率だろう。
「とりあえず、もう暫く調べてみよう。魔法ならパチュリーに聞けば解るかも知れないし、時間の話だから咲夜に聞いてもいいわね」
時間を操るメイド、十六夜 咲夜。彼女からは以前に、「時間の逆行は無理だ」と聞いている。しかし、何かしらの情報を得る事が出来るかも知れないではないか。
行こう。私は食後のお茶を飲みながらそう考えた。
頭の中に紅魔館の連中の顔が浮かぶ。不健康そうな魔女に、私を見る目付きがたまに怪しいメイド、傷だらけの門番。そして。
「……性格極悪ロリータ吸血鬼」
私を馬鹿にする嫌味な吸血鬼。レミリア・スカーレットだ。
神社でアイツと鉢合わせると、その日の気分は最低になる。何しろ上から見ろ下視線で話す上に、事ある毎にチクチク嫌味や侮蔑の言葉を吐き、私の神経を逆撫でして楽しんでいる奴なのだ。
、アイツが住む紅魔館へ出向くのは少々気が引けるが、今は我侭を言っていられる状況じゃない。今なら、アイツは眠っている筈だ。よしんば起きていたとしても、門番にメイド長を出すように言えば、会わずに済むだろう。
私は朝食の後片付けを済ませると、すぐに仕度し紅魔館へと向かった。
僅かばかりの希望を抱いて悪魔の館へ向かった私だが、そこに希望は無かった。
咲夜は、時間を遡る事など、少なくとも自分の能力ではとても不可能だと言った。
「そんな夢みたいな事が簡単に出来たら、白黒の盗癖を修正するよう教育するわ」
希望的な情報を少なからず期待していた私は落胆した。やはりそう簡単に、この異常事態を解明する手掛かりは見つからないのか。
「そんな馬鹿な事考える暇があったら、少しは魔女っぽくしなよ。貴女の人形遊びや、何てーの?そう言った可愛いお話とかは、見たり聞いたりしてて楽しいけどさぁ」
帰り際にレミリアに出会って、ドン底の気分の底が抜け、気力を奮い立たせるのに一時間も無駄にした。
その後、永遠亭にも足を運んだが、答えはやはり同じだった。
「月まで行けば、或いはそんな事を可能にする装置もあるかもね。とりあえず私には無理よ。それにしても、そんな子供じみた発想を持って私に会いに来るなんて……。魔法使いらしくないわね。ウェルズでも読んだのかしら?今の貴女みたいな考えの持ち主は歓迎するわ、今度ゆっくり話しましょ」
時間の逆行など、夢想なのだ。あり得ない、荒唐無稽で馬鹿げた話。普通はそうなのだ。
だが、私にとっては現実に起こった事態であり、馬鹿げた空想の話が、今の私を取り巻くすべてだった。
それからも私は、この世界が幻覚ではないか、夢なのではないかと必死に調べ回った。だが、すべては徒労に終わり、私は何の答えも得られぬまま一週間を過ごした。
いや、唯一解った事がある。それは、この馬鹿げた、ありえない事態が今の私にとっての現実だと言う事だ。
何人かに、私の身に起こった事を話したが、誰にも相手にされる事は無かった。私が必死になればなるほど、最初の霊夢の様に私を心配するか、気味悪そうに見るのである。
この状況下では、異常なのは私に起きた異変ではなく、異変を訴えている私自身なのだ。
「夢でも見たんだろ?タイムスリップなんて無理だ無理。先ずは宇宙旅行が先だぜ、アリス」
魔理沙は心配半分、からかい半分と言った調子でそう言った。他の連中の答えも大体似通っていて、私が未来の夢を見て、寝惚けただけだと言った。
本当に、夢を見たのでは?
出会う者すべてが、そして確認し得る暦すべても、私が異常だと、悪い夢を見たのだと宣告しているかの様に思えた。
だが、本当にそうだろうか?
あの記憶、私が過ごした約二ヶ月すべては夢で、私はようやく夢から覚めたと言うのか。
否。そんな事は無い。絶対に認められない。私は確かに九月のあの日までを過ごして来た。その証拠に、あの日に到るまでの間、つまりこの七月の間と八月の間の記憶を私は持っている。その記憶が夢だと言われればそうかと納得しそうだが、一週間後の今日、つまり二十六日に起きた事についての記憶がある事で、私は自分の感覚、記憶が正しい事を知り、夢を見ていたのではないと言う確証を得た。
この日、私は朝早くに尋ねて来た霊夢と魔理沙の二人と一緒に向日葵畑へ遊びに行ったのだ。そして、そこに住んでいる風見 幽香と、霊夢が作って来た弁当を囲んで談笑して一日を過ごした。
その記憶を、私は鮮明に覚えていた。彼女達三人の言葉、私達が交わした会話のいくつか、弁当の中身と味付け。私が美味しいと褒めた霊夢の手作りコロッケの味に、褒められた霊夢が照れ笑いを浮かべて私を小突く仕草、魔理沙が「自分が採って来た」とやたら自慢する、弁当の中の茸料理を全員に勧める台詞、幽香がふざけ半分に私にしなだれかかって来た時の、彼女の体温、髪から微かに漂う良い匂いまで。私はすべて知っていた。いや、覚えていたのだ。
結果として悪い夢だが、予知夢としては上等な夢だったのか。そう考える事も出来たが、それにしたって出来過ぎている。こんなにもリアルな内容の夢など、あって堪るものか。私は魔法使いだがエスパーでは無い。
やはり私の身に起こった異変は、確かにあったのだ。私は本当に二ヶ月前の世界に来てしまったのだ。
(けれど、もしも本当に、私が夢を見ていただけだとしたら、どうだろうか)
もしもそうなら、記憶に残っているいくつかの出来事は、すべて私が知っている通りの結果になる筈だ。
そこで私は、七月の最後に起こる、魔理沙との喧嘩の末に生じた弾幕勝負で手を抜いてみる事にした。
記憶の通りならば、私は魔理沙に勝っている。手を抜いても勝つ筈だった。
だが、手を抜いた勝負に、私は敗北した。
記憶とは異なる結果。
記憶が未来の予知だとすれば、私は勝っていたのだ。それが負けた言う事は。
(予知夢じゃない。やはり私は過去へ戻されてしまったんだ!)
疑問は確証へと変わった。今度こそ揺るがない確証だ。私は過去へと来てしまったのだ。
この確証が完璧になったのは、次の日だ。
霊夢と戯れにしたじゃんけん。勝敗の結果を私は知っていたので、私は記憶に従い霊夢に勝つ手を出した。記憶では、私は霊夢に負けているのだが、勝ってしまった。
(私は確かに過去へ戻された。そして、行動次第で結果が変わっている……これは予知夢を見た訳じゃない事の証明になる。そう、私は本当に、過去の世界へ来たんだ……!!)
もう、どうもこうも無い。
元の時間に戻りたかったが、その方法は二ヶ月かそこいらで見つかるとは思えない。だが、時間はこうして着実に進み、私の記憶にある九月二十日に近付いている。
(元に戻る方法なんか探さずとも、勝手に元に戻るんだわ……。なら、それまでの間、私は普通に過ごせばいいんだ。その間に起こる問題や不愉快な出来事を記憶として知っているから、そこそこ快適に過ごせるってオマケ付きでね)
その考えに到ると、私の気持ちは途端に楽になった。慌てる事は無いのだ。記憶を頼りに、この二ヶ月を楽しんでやろうじゃないか。そう思った。
実際、楽しい事だらけだった。不快な出来事を回避しつつ、私が違う行動を取る事で別の結末に遭遇する事にもなり、私を飽きさせなかった。
大まかな流れは変わらないものの、些細な変化が起きるので、私はこの状況を楽しんでいた。
私が元居た、あの日が来るまで。
3
昼食後。
午後の気だるい雰囲気の中で紅茶を飲んでいた私は、霊夢への謝罪とその後の埋め合わせをどうするかで頭を悩ませていた。
今日は神社へ遊びに行く予定があるのだが、私はパスするつもりでいた。
記憶で知っているのだ。その日は私が嫌いな奴が二人も神社へ現れる事を。
一人目は常に尊大な態度を取り、私に見下した視線で物を言う吸血鬼、レミリア・スカーレット。
そして、もう一人。
その容姿に一瞬でも惹かれた事が許せないほどに、大嫌いな女。
すきま妖怪、八雲 紫。
思い出すだけでも虫唾が走る。私がこの状況へ陥ったあの日に、私を愚弄し地を舐めさせたのは紫だ。
(あんな奴……もう顔も見たくない)
不死に近いこの生の間、それは叶わぬ願いだろう。だが、少なくともこの「二ヶ月前の間」と言う状況下ならば、その願いを叶えられる。
アイツは神社へ行くと出てくるのだから、行かなければいいのだ。
そしてアイツが出てくる日を外せば、私は不愉快な思いをせずに神社へ遊びに行ける。
「とりあえず、今日はパスしましょう。……事前に言っておけば良かったかな」
記憶で知っていても、偶に忘れてしまい、結局記憶の通りに痛い目を見る事も少なからずあった。今回も解っていながら次善の策を打てなかった事に内心舌打ちする。
最近は楽しい事ばかりだったので、うっかり忘れていたのだ。レミリアにも紫にも出会っていなかったのですっかり注意を怠ってしまった。完全な手落ちだ。
だが、それよりももっと深刻にならざるを得ない事情が私にはあった。
今日は九月二十日。私がこの異常な事態に遭遇したあの日なのだ。
何が起こるか解らないので霊夢を巻き込みたくなかったし、あの日に起きた紫との争いも回避したい。
今日は神社へ行かずに一日中一人で居るのが得策だと思う。
「上海、霊夢に「今日は行けなくなった、ごめんね」って伝えて来てくれる?」
私は上海人形に、「今日は遊びに行けない」とメッセージを持たせ、神社へ送るつもりだった。
だが、上海が今まさに家の窓から飛び立とうとしたその時、来客を告げるベルが家の中に響き渡ったのだ。
「上海、ちょっと待っててね」
どうにも上海を独りで飛び立たせる事に不安があったので、私は待機命令を出して彼女を待たせた。
自分の心配性と、人形に対して抱いている親心に内心苦笑しつつ、私は扉越しに訪問者の名を尋ねた。
「アリス?私よ、霊夢。開けて頂戴」
霊夢だった。どうやら彼女の方から遊びに来てくれたらしい。
(おかしいな……こんな事は無かった筈よ)
彼女が私の家に遊びに来る事は珍しい。そして珍しいからこそ印象に残る。私が戻された二ヶ月間の間の記憶に、霊夢が遊びに来てくれた記憶は無い。
一瞬私は戸惑ったが、すぐにある事を思い出した。
(この時間は、既に私が知っていた時間と大きな差は無いけれど、細かい所は違っている……。私が違う行動を取ったから、その影響で、他の人の動きも変わったのかも)
何かの本で読んだ事がある。タイム何とかと言った気がするが、思い出せないのでこの際、気にしない事にした。今は霊夢を迎え入れなければ。
「アリス?居ないの?」
「今開けるわ」
今までと同じだ。僅かな変化を愉しめばいいと、私はそう思って扉の錠を外し、開け放った。
「お茶を飲みに来てあげたわよ」
視界に鮮やかな紅白の色彩が飛び込んで来る。
「いらっしゃい、霊夢……?」
紅白と一緒に、見慣れない色も飛び込んで来た。その色は、紫色の……。
「はぁ~い。お久し振りね、アリスさん」
私が嫌いな、あの女。
「八雲……紫……」
何故だ?何故、この女がここに居る!
「いやん、そんなに余所余所しく呼ばないでよぅ」
「まー、こんなオマケが付いて来てる訳だけど。今大丈夫よね?」
「オマケだなんてヒドイわー。そう思うわよね、アリス。ね?ヒドイわよね~」
冷静になれ!私は自身にそう命じた。さっき自分で確認したばかりじゃないか。「変化がある筈だ」と。
この日、私が元居た世界では、私は神社へ遊びに行き、そこでこの紫と、レミリアに鉢合わせするのだ。だが、過去に戻された私はそれを知っていて、そうなる事を嫌って神社へ出掛けるのを止めたのだ。その結果、霊夢がこうして私の家を訪ねて来たのだ。
恐らく、私がこの日に霊夢と何かしらの会合を行う事は、非常に発生の確率が高い、何かしらの運命の様なものなのかも知れない。
私は運命論を信じていなかったが、こうなると考えを多少改めたくなる。
「お邪魔するわよ」
「アリスの家に入るのは初めてね。お邪魔しまぁす」
まったく、こいつらは。
「勝手に入らないでよ。まあ入れてあげるけどさ」
遠慮ぐらいして欲しいものだ。
「とりあえず麦茶頂戴、暑いのよ」
「ちょっと待ってなさいよ」
「アリス、私にもー」
「はいはい……!」
つい語気を荒げてしまう。向こうも、私が嫌っている事を知っていると思うのであまり気にならないが、余計な事で争いを起こしたくはない。
三人分の麦茶をグラスに注ぎながら、努めて平素でいようと心に決める。
(あれ?三人?)
そこで気が付いた。
霊夢と、忌々しいが紫と出会うのが運命(仮)だとして、それならばもう一人居てもいい筈なのだ。
私が知っているこの日、本来ならば神社に居る日で、霊夢、紫と一緒に居る吸血鬼。
(レミリアが、居ない)
別に居て欲しい訳ではない。むしろ会いたくないぐらいだ。だが、確かに、私が知っているこの日には、アイツも居た筈だ。今この状況が、あの日の再現を神社でなく私の家で行われているのだとすれば、レミリアもここに居る筈なのだ。
(おかしい……。後から来るのかしら?この状況があの日の再現だとすればアイツが居る筈なのに)
それとも、あの日の再現ではないのだろうか。私の行動が何かしらの影響を与えて、霊夢と紫が私の家に遊びに来ると言う事態を引き起こしただけなのか。
そうならば、今からでも神社へ行けば、アイツが来るかも知れない。私が神社へ行こうと言い、結果的に今日を神社で過ごせば、あの日の再現になる。
「煎餅持って来てあげたわよ。感謝しなさーい」
「って、それは私が手土産に持って来たモノでしょう。霊夢は手ぶらでしょ」
ええい、考えていても解らない。別に良いではないか。私はアイツが好きではないし、会いたくない。ただでさえ嫌いな紫が居るのに、余計に嫌な奴と自分を会わせる必要は無いだろう。
私はレミリアの事を忘れて、霊夢と紫に、盆に載せた麦茶を差し出した。
私達は暫くの間、菓子を摘みながら世間話に興じていたが、不意に紫が席を立った。
(何をするつもり……?)
魔理沙の様に家の物を漁って持ち帰りはしないだろうと思うが、相手は嫌味で意地悪な紫だ。私に対していつも嫌な事をするコイツが、いったい何をしでかすのか。
私は警戒し、紫の歩いて行った先を見た。そこは人形達を飾った飾り棚がある。
「この娘達……」
紫はじっと、棚の中の人形達を見つめながら呟く様に言った。
「皆、貴女が作ったのよね、アリス?」
「ええ、そうだけど」
当然だろう。私の家にある人形達はすべて私が作り、生み出した子供達だ。趣味として、魔法の研究として、人形師の二つ名に恥じぬ様愛情を込めて作り上げた傑作達だ。
それが何だと言うのか。
(どうせケチを付けたり、私に「人形ばかり作って~」とか言って、私に嫌がらせをするつもりでしょうけど)
どれもこれも、今までの経験から予測される、彼女からの嫌がらせだ。
紫の性格上、どんな嫌がらせが来るのか、完璧な予測を立てる事は不可能だろう。だが、嫌がらせ自体に警戒をしておく事は出来る。予め覚悟をしておけば、激情に駆られても冷静さを取り戻すチャンスが増えると言うものだ。
私は次の紫の言葉、態度がどんなものであろうと、すぐに我を忘れないように戒めた。
「そう……」
紫の口から溜め息が漏れた。感嘆の色。
「凄いのね……。いくら生きていても、知識を持っていても、妖力があっても」
紫が私に振り返る。その表情は自嘲と、そして、私に向けられた暖かな感情。
「私には、貴女の様に何かを作り出せる力は無い。こんな風に、新しい命を産み出せるなんて……。素敵よ、アリス」
「え、あ……うん。ありがと……?」
「……紫、熱でもあるの?」
私と霊夢は呆気に取られて紫を見ていた。特に私は、目の前の紫が偽者だとさえ思った。
(そんな、ありえないわ!紫の奴が、私の事を褒めるなんて)
そんな私の心の内などお構い無しに、紫は人形達を見つめ、しきりに私に話し掛けてくる。
「この娘達に名前はあるの?」
「あら、そっくり。この娘達は姉妹かしら。どっちがお姉さん?」
「羨ましいわ。私には無い……いいえ、他の誰でも、貴女の様な力は持っていないでしょうね。こんなに素敵な子供達を産めるのだもの」
「ねぇねぇ、今度、私にも人形の作り方を教えて頂戴。縫いぐるみでも良いわ。何か作ってみたいの……」
訳が解らない。
一体、この女は何を考えているんだ?私をこんなに持ち上げて、人形達を楽しそうに、愛しそうに眺めて。
(私を浮かれさせて、後でからかうつもりなんだわ)
そうだ、きっとそうに違いない。何て嫌な女だ。
私は半ば勝手に決め付けて、紫を睨んだ。
そんな私の視線に気付かず、彼女はまるで小さな子供の様にはしゃいでいた。
「前からずっと、こんな風にじっくり、ゆっくり見てみたかったの」
卓の上の上海を、じっと眺めて紫はそう呟いた。
その表情は優しく……。
「アリス」
紫が私の名を呼ぶ。
「よければ、私に教えてくださらない?本気なの」
何よ。
「貴女みたいに、素敵な人形を、私も作ってみたいわ……」
何よ何よ何なのよ。
その、私を慕うかの様な眼差しは。
「ダメ、かしら」
私の中で、予期せぬ紫の行動で麻痺していた警戒心が動き出す。
騙されてはいけない。コイツは存在自体がインチキなのだ。嘘。そう、嘘が服を着て歩いている様な、信用してはいけない妖怪。
この言葉も、その表情も、態度も、全部私を騙す演技なのだ。そうに違いない。
こんなにも真摯な態度で、疑えず、本心から言っていると思わせるからこそ、信用ならない。そう言う女なのだ、コイツは。
「人形だけじゃないの。もっと貴女と話してみたいと、前から……」
黙れ。
「いい加減にしたらどうなの!?」
私は紫の言葉を遮って、彼女を怒鳴り付けた。
「本当は私の事を馬鹿にしている癖に!そうやって見え透いた世辞を並べて、私を浮かれさせて影で嘲笑おうったって、そうはいかないわ」
「ちょ、アリス?落ち着きなさい……!」
「霊夢は黙ってて!こいつは私を見下して馬鹿にしてるのよ!ちょっと力があるからって、高いとこから見下ろして、私の事をずっと馬鹿にして来たのよ!」
霊夢が止めるのも構わず、私は続けた。
嫌いな奴が目の前で、私をコケにしようとしたのだ。もう止まらない。言うだけ言ってやる。
「私が人形を作っているのを、あんたが何て言ったか忘れちゃいないでしょうね?『寂さを紛らわせる為のお人形ごっこ』!私の事は『寂しがり屋の甘ったれたガキ』!」
私の中に、紫に受けた侮辱のすべてがありありと浮かび上がり、私は怒り狂った。
「馬鹿にして!ふざけるんじゃないわよ、この年増!嘘吐き!」
紫の表情が強張るのが見えた。唇が動きを見せる。きっと嫌味な反撃をするつもりだ。言わせてやるものか。
「最低よ。あんたなんて大嫌いだわ!!」
霊夢が何かを叫んだ。きっと、私にもう止めるように言う注意だ。だが、止めない。こいつには「やり過ぎ」でいいのだ。
今まで散々馬鹿にされ続けて来た鬱憤、怒りが一気に爆発したのだ。止められる訳が無い。
更に今日が九月二十日だと言う事が、私が元居た時間で、紫に受けた侮辱を思い出させて、余計に怒りの炎へ油を注ぐ。
同じ日に二回も私の心の逆鱗へ触れた紫に、容赦する気にはなれなかった。
「あ、アリス……」
紫が私を呼ぶ。答えなど罵声で良い。
「五月蝿い!気安く呼ばないで。馴れ馴れしいのよ」
私はありったけの敵意と嫌悪の情を込めて、冷たく言い放った。
「出てって。そしてもう二度と私の前に現れないで」
「あ……」
「アリス!いくら何でも言い過ぎよ……」
知った事か。理屈もへったくれも無い。私は感情だけで怒鳴りまくった。本気でもう二度と会いたくないと思った。
「さっさと出て行って!」
玄関の方向に指を突き付け、私は怒鳴った。一刻も早くこの女を家から追い出したい。
「……お邪魔しました」
紫の声は震えていた。弱々しく、生気の感じられない声音。
(どこまでもふざけた奴だわ……!)
どうせ演技に決まっている。霊夢の同情でも得て、私を後で嬲る気なんだ。そうに違いない。こいつならそれくらいやりかねないと思う。
夜の闇の様に暗く翳った顔を伏せ、紫は逃げる様に去って行った。「すきま」を使わず扉から出て行った。
「アリス、あんた、ちょっと言い過ぎよ」
霊夢が咎める様に言った。
「アレだって、一応女の子よ?純情じゃないけど。あの様子じゃ相当傷付いたんじゃないかしら」
「……そんなワケないでしょ。霊夢だって知ってる筈よ、あいつの性格や考え方。あれくらいでへこむ様な奴だったら、今頃私はあいつと仲良くなってるわよ」
「あんたが紫に色々言われてたのは知ってるけどさ」
「解ってるならいいでしょ。私だって言いたいわよ」
傍から見れば、今回は私が悪いのかも知れない。その様に見えると私も思っている。だが、私は自分が悪いとは、微塵も思ってはいなかった。
溜まりに溜まった怒りを爆発させただけだ。仕返しはエイのお化けみたいな名前をした昔の王様だって認めている。
「でもさ、あいつ、すっごくショック受けてたみたいよ」
「霊夢、騙されてるわよ。あいつは嘘や演技が上手いんだから。嘘八百どころか一万と二千よ。悪さも八千ぐらいしてるわ」
「悪さは一億と二千超えてると思うけど。でもねぇ……」
「何よ」
「私に妖怪の嘘は通じないのよ」
4
私は静まり返った寝室で、備え付けの机に座ってぼうっとしていた。
何もする気になれない。寝てしまいたかったが、睡魔は私を襲撃する気が無いようだ。
無気力でいながら眠れもしない原因は解っている。昼間の一件に他ならない。
『私に妖怪の嘘は通じないのよ』
霊夢の声が何度も何度も心の中で繰り返される。
(嘘が通じない、ですって?それじゃあ……)
逃げ出す様にして去って行った紫の顔が思い出される。あれが嘘でも演技でもないと、霊夢は言うのだ。
(そんな馬鹿な。ありえないわ)
あの紫が、あの女が、私の言葉で傷付いただと?そんな事があり得るものか。相手はあの八雲 紫だ。誰よりも嫌らしく、嘘吐きで、根性は曲がるどころか螺旋を描いて悪夢の先まですっ飛んでいる様な女なのである。
そんな奴が、私が何か言った程度で傷付いたりへこむ訳が無いのだ。
しかし、霊夢は「紫は傷付いた」と言うのだ。そして彼女は帰り際にこう言い残して去って行った。
『あいつ、泣いてたわよ。涙は流してなかったけど、心の中でね』
信じられる訳が無い。私がタイムスリップをした事よりも信じられない事だった。馬鹿げている!
(それに、仮にあいつが傷付いたとして……そんなの勝手過ぎるわ。私の事を散々なじっておいて、反撃されたら自分はあっさり折れるなんて……ふざけてる)
傷付く覚悟も無いのに力を振るうなど、腐り果てた根性じゃないか。嬲り殺しにされる猛獣を干渉して悦に浸る、腐り肥えた人間と同じ行為だ。そんなもの、私は断じて許さない。私に対してそれをするならば、必ず報復してやる……。
そう、許せない。信じられない。紫のあの表情が本当でも嘘でも、どちらにしろ私の心を掴むのは怒りだ。
だがそれは、私を、この無気力な状態にしている原因の、ほんの半分でしかない。
今、私を強く支配しているもの。それは、自己嫌悪だった。
やはり、昼間の私はやり過ぎだったと、今になって思うのだ。私らしくないとも言えるし、単純にやり過ぎた事に嫌気が差したと言ってもいい。確かに私の怒り、鬱憤は相当のものだ。だが、あんな風に直接的な表現で深々と刺すのは、オーバーキルかも知れないと思ったのだ。
目には目を、と言う言葉があるが、自分がした事は、傷付けた相手の傷口に、塩と辛子を塗り込む手酷い仕打ちだったのではないかと思えて仕方が無い。
甘いのかも知れない、と思うが、それで行為を正当化出来るかと言えば答えはNOだ。やはり私には出来ない。
「いい子ちゃん、ね……。そんな気は無いんだけど、偽善ぶってるわよね、コレは」
それとも、嫌いな紫と同じ様な、嫌な奴になるのが嫌だから、そう思っているのかも知れない。
まあ何にせよ、私は昼間の自分に心底嫌気が差しているのが現状だった。そして、尚も燻る怒りと、霊夢の言っていた「紫が泣いた」と言う言葉が私の中で渦巻き、結果として私を無気力にし愚鈍にしているのだ。
(あいつが泣こうが、知ったこっちゃ無いわよ……。あいつは嫌な奴なの。敵って言ってもいいわ。そんな奴が泣いたって別にいいじゃない……何で、私がこんなにあいつを気にしなきゃいけないのよ)
駄目だ駄目だ駄目だ。
私はそれ以上考えたくなかった。自分が甘かろうが辛かろうがどうでもいい。こんな事で頭を悩ませたくない。
「寝よう……」
それがいい。眠くないが、横になっていればその内眠れるだろう。
私は時計を見た。
時刻は十二時を過ぎている。
そこで私は、今日、正確には昨日が、私がタイムスリップした問題の日、つまり九月二十日だと言う事を思い出した。
(もしも、今夜も同じ事が起きたら……)
また、同じ時間を過ごさねばならない。それはゾッとする考えだ。もしかしたら、今みたいな思いを、或いは更に嫌な思いをする破目になるかも知れないし、ずっとタイムスリップを繰り返して、九月二十一日に進めないのだとしたら、それはもっと深刻な事態ではないか。
(これは、簡単に眠れないわ……!異変が起きても打ち破れる様に身構えていないと)
また過去に戻るのは御免だ。私は徹夜も辞さない覚悟で椅子から立ち上がった。
珈琲を淹れる為である。睡魔に耐えるにはカフェインが必要だと思ったからだ。
その時だった。
立ち上がり、扉の方へと向き直る瞬間、視線は机の正面に据え付けられた飾り棚から扉へと移るのだが、その視線が黒い影を捉えたのだ。
出現場所は解らなかったが、黒い影がベッドの下へ恐ろしい速さで潜り込むのが確かに見えた。
驚異的な速度だったが、魔法使いの目は捉えたものを逃さない。確かに私は黒い何かを視認した。
瞬間、雷に撃たれた様な閃きが私を貫いた。
タイムスリップ……私が今のこの時間の流れに戻された、あの日、九月二十日。あの夜に私は、この怪しい黒い影を見たじゃないか。
思えばこの影こそ、タイムスリップと言う異変が始まる前兆だったのではないのか?私が影を見てから就寝し、目覚めた時にはタイムスリップしていたとなると、この影こそ最も疑うべき存在ではないだろうか?「君の後ろに黒い影」とは良く言ったものだ。
魔法使い特有の高速思考がその結論を出す直前、私は雷光の如き速さで指を打ち鳴らした。
ベッドの脇に座っている大きな熊の縫いぐるみ、「インペリアルくん」の瞳がギラリと輝き、その野太い腕に相応しい怪力でベッドを片手で跳ね除けた。
重たいベッドが床に叩き付けられ、派手な音を立てて床をへこませベッドの一部を損壊させるが、ここは魔法の森、隣の白黒の家までは距離と木々が音を遮断し、近隣の迷惑にはならない。
ベッドのあった場所に黒い影を見つけた瞬間、私は自己最高記録では無いかと思うほどの速度で腕を振るった。
瞬時に指先から魔力で編んだ人形操作用の糸を生み出し、黒い影を絡め取る。
相手も速いが、最小の動き、加えて指先ならば神速すら超える自信がある私の指の方が速かった。糸は私の指先の延長だ。しっかりと獲物を捕らえた感触が伝わり、私はそいつを思い切り締め上げた。
「にゃぁああ!!」
黒い奴が悲鳴を上げた。まるで猫の様な悲鳴だった。私は捕らえたそいつを凝視した。
「猫の様な」ではなく、そいつは猫だった。全身が艶やかな漆黒の毛で覆われた、小柄な猫。そいつの尻尾は二つあった。
「猫又!って事は……貴女は、式神の……!」
「そ、そうだよー、橙だよぅ。痛い、放して……」
黒猫が、猫耳を生やした少女の姿に変わる。鮮やかな朱の衣装が薄暗い部屋の中で目に映える。
「何で貴女がここに居るのよ」
私は橙に詰め寄った。彼女はじたばたともがくが、私は糸を締め付けて、「動くな」と無言でプレッシャーを掛ける。
「ごめんなさいー!もう勝手に入ったりしないから許して……」
「そりゃ、不法侵入は悪い事だからやられちゃ困るし、もう二度としないって言うなら、勝手に入った事は許してあげなくも無いけど……。私が聞いてるのは、何で貴女が私の部屋に居るのかってことよ」
私は早口で捲くし立てた。何故、彼女が私の部屋に?一体何の目的が……。
「そ、それはその……」
「言いなさい。言わないと……」
指に力を込めると、橙の身体を締め付ける糸が、彼女の柔い肌に食い込む。この糸は力の加減でヒヒイロカネだって切断出来る鋼線にも変わるのだ。妖怪の肉だって断てる。
「やああー!痛い痛い痛いーっ!」
「白状しなさい!今、私は凄く機嫌悪いのよ。悪いけど手加減出来そうに無いからね……。大人しく答えた方がいいわよ」
嘘だ。だが相手に白状させるにはブラフも必要だろう。私が知っている限り、この娘相手ならば、この程度の脅しですぐに白状すると踏んでいた。だが。
「だめなの」
「え?」
「私が喋っちゃったら、もっと嫌われちゃう……!だから、絶対喋れないもん!」
涙を瞳の端に浮かべながら橙は叫ぶ様に言った。意志の強さが表情にはっきりと表れている。
「嫌うってねぇ……。別に私は貴女の事嫌ってないわよ。別段好きでもないけどさ」
「私の事じゃないもん……」
「意味解らないわよ。貴女の事は嫌いじゃないけど、勝手に家に入り込んで私を困らせてるし、嫌ってもいいのよ」
私は力を込めた。糸を食い込ませ、身体を裂かない様に加減しながら痛みだけを与える。
「痛い痛い!」
「喋りなさい!」
やめて!
不意に、虚空から声がした。
私が話すから、橙を放してあげて……
くぐもった声だ。だが、どこかで聞いた覚えがある。そう、この声は。
「ゆ、紫様……」
「!?……紫ですって?」
驚きの余り、思わず声が裏返る。何故、紫が出てくる?
私が驚きで硬直した瞬間、目の前の空間に裂け目が生まれ、異なる空間、つまりは「すきま」が開かれた。中から姿を現したのは、紫だ。
「……こんばんは」
彼女は私をチラッと見た後、すぐに顔を伏せてしまった。その表情は悲しげで、暗い。
「お願い、橙を放して。この娘は私の命令に従っただけなの」
「そりゃ、式神なんだからそうでしょうよ。で、ちゃんと説明してくれるんでしょうね」
語気を荒げて私は言った。不愉快な相手を見て、怒りの炎が勢いを取り戻しつつある。
私は橙を解放してやった。自由になった橙は紫の元に駆け寄り、彼女にひしと抱き付く。
可哀想な事をしたかな、と思いながら、理性は冷ややかな視線で二人を見つめる。橙を解放した事で、この二人はさっさと逃げ出すかも知れない。
(まあ、それでも別にいいかな。真相を聞きだしたいのは勿論だけど、紫なんかと長く話なんてしたくないし)
冷めた視線で見つめる私をよそに、二人は優しく抱き合っていた。
「ごめんなさい、橙。私の為に……」
「いいんです……。それよりも……」
「大丈夫。もう、覚悟は決めたから。……ほら、藍が待ってるから、貴女は先に帰っていなさい」
紫は橙の頭を撫で、もう一度抱き締めると、橙を「すきま」の中へ入れた。そして、橙の姿が消えると、紫は「すきま」を閉じた。
「あら、逃げないのね」
嫌味たらしく私は口元を吊り上げて笑みを浮かべ、そう言った。
「悪人が犯行を見られたら、逃げるのが常だと思ったんだけど。それとも口封じに目撃者を殺す?簡単に殺されてやらないけどね」
「悔いて自首する犯罪者だっているのよ」
「へぇ……」
何が「悔い」だ。私は信用なるものか、と言いたいのを飲み込み、先を促した。どんな事でも、一応は聞いておくべきだと思ったからだ。
「ごめんなさい」
紫は私に向かって深々と頭を下げてそう言った。
「先ずは、橙の事だけど……。あの娘には、時間の境界を操作する為の増幅器を、ここに設置させたの」
時間の境界?それの操作だって?
「極短い範囲の時間の流れを操作する為の呪物。時間の境界、それも過去に遡る事なんて初めてだったから、力をどう使って良いのか解らなくって……。それで、目的遂行の為の術式を刻んだ呪物でアシストして、境界の操作を行ったの。あの娘はそれの設置だけにしか関わっていないから、どうか許してあげて。悪いのは私だけだから」
何が何だか解らない。時間の境界?その操作の為に、ブースト機能を持たせた器具をこの部屋に置いた?
私は視線をベッドがあった位置に素早く走らせた。ベッドを支える四つの足、その足が接する床の部分に、小さ過ぎて読めない文字の羅列が、まるで蟻の行列の様にビッシリと書き込まれた札が貼り付けてあった。
「いつの間に……」
「貴女がこの時間の流れに来る前の、今夜よ。正確には、元居た時間での、昨日、午前零時ね」
「何ですって?」
その日は私が、黒い影、つまり、橙を見た時間ではないか。と言う事は……?
(影を見たのが、タイムスリップする前の今夜で、その影、橙が仕掛けたのが、「時間操作」の為の呪物。そして、「時間の境界の操作」と言う、紫の言葉……)
その時、またしても雷の様な閃きが私を襲った。
「そうか……!私がこんな……タイムスリップして、今の状況に陥れられたのは、貴女達のせいだったのね!?」
「そうよ。私が行った境界操作で、貴女は時間を遡り、過去へ戻った。そして貴女は自分の時間を作り直すことになったの」
「何て事をしてくれたのよ……ッ」
激しい怒りと憎悪が、心の中で荒れ狂った。全身がカッと熱くなり、髪の毛は逆立ちそうだ。
「じゃあ何?私はあんた達のくだらないマネのせいで、こんな目に遭ったって言うの!?ふざけんじゃないわよ!!何の目的があって私にこんな事したのよ!いつもみたいな嫌がらせ?それとも実験かしら?どっちにしても許せないわ。絶対に許してやるもんですか……!!」
私は吼えた。そうだ、許せる訳が無い。二度も私を不愉快な目に遭わせただけじゃない。どんな目的にせよ、私は私の時間を玩具にされたのだ。断じて許す訳にはいかない。
「ごめんなさい……」
「謝ってすむものですか!妖怪が謝るだけで事が済めば、霊夢は廃業よ!あんた、ここまで来て私を馬鹿にしているの!?」
そうだ、相手は紫だ。もしかしたら、これも計算づくで、私を怒らせて楽しんでいるのだとしても、おかしくはない……。
「違うわ!!」
紫が顔を上げて叫んだ。私の表情に浮かんだ、疑いの色を見抜いたらしい。
「私、そんな事しない……。貴女を憎らしいとか、嫌がらせしたいなんて、思った事無い……」
そう言うと紫は泣き出してしまった。大粒の涙を零し、頼り無げにすすり泣く姿に、私は言葉を失った。
「ごめん……ごめんなさい……」
「ちょ、ちょっと……。嘘泣き?騙されないわよ……」
「う、嘘じゃない……ごめんなさい……ああ、ああ……」
私は頭を掻くより他に無かった。これではどちらが悪者なのか解ったものじゃない。
「い、いいから、ほら。これで涙拭きなさいよ……」
箪笥からハンカチを取り出し、紫に差し出した。
「え……いい、の?」
「さっさと受け取りなさいよ。……今回は信じてあげるから」
癪な気分と、恥ずかしい気分が合わさった様な、何とも言えない気分になり、私はそっぽを向いた。怒りも憎悪も一瞬で鎮火してしまった気分だ。
「あ、ありがとう……うう」
紫の声が心無しか、僅かに明るくなった。横目で様子を窺うと、涙を流しながらも彼女は微笑んでいた。優しげな、本当に嬉しそうな笑顔だった。
私は訳が解らなくなってきていた。紫は嘘しか言わない筈だ。少なくとも私は何度も騙され、馬鹿にされ、苦汁を舐めさせられた。信用出来る奴じゃない。だと言うのに、今の紫は信用してもいい気がするのである。
(いいわよ、もう。さっき言った通り、今回はその涙、信じてあげるわ……)
私は紫が泣き止むまで待ってやる事にした。
「ほら、珈琲。砂糖とミルクは自分でやってね」
「ありがとう……」
私は珈琲カップを紫に手渡し、角砂糖の入った小瓶とミルクの入った小瓶を指差す。
私達は居間に移動していた。寝室では壊れた床やベッドの修繕と掃除に、人形達が当たっている。
「で、私が過去に戻されたのは貴女の仕業って事は解ったわ。不愉快な出来事もあったし、何より勝手に時間を玩具にされて滅茶苦茶怒ってるけれど。戻された期間に、特に重要な出来事……研究とかは無いし、大局的に見れば二ヶ月なんて少ないから、少しは容赦してやってもいいわ。こうして、謝ってるし」
その謝罪が嘘でなければね、と心の中で付け加えておく。信用するとは思ったものの、完全に信用出来る訳じゃない。私はそこまでお人好しでは無いのだ。
「何故、私を過去に戻したりしたの?」
とりあえず、それが知りたかった。何故、私なのか。
「実験なら、自分や自分の式にやらせればいいでしょ。他人の私を実験台にするのは酷い話だと思うんだけど」
「実験なんかじゃないわ……」
「じゃあ、何よ」
「それは……」
紫が口篭る。同時に、目を伏せた。気のせいか、頬に朱が差している。
「それは私が説明しましょう」
「誰!?」
「この声は……藍!?」
紫が弾かれた様に名前を呼ぶと、窓から手を振る八雲 藍の姿が見えた。何故か鼻を手で押さえている。
「……アレに聞いた方が良さげね?」
「え、あ、ちょ……!ら、藍!帰りなさい!喋っちゃ駄目ぇー!」
「いいえ紫様。今の貴女は非常に、ええ、これでもかと言うくらい、御可愛らしくて……。この藍、ここに到る二ヶ月の間、鼻血が止まりませんでした。なので、これ以上御可愛らしくなされると私の生命が危険なのです。だから喋っちゃいます」
「……OK。今開けるわ」
なるほど、鼻を押さえているのは鼻血だからか。
私は妙に納得した自分に苦笑し、玄関の扉を開けてやった。
「失礼。ふん!」
藍が気合を入れた。
「これで鼻血は当分の間、止まる」
「ああ、そう……」
呆れた。これがあの、最強クラスの妖獣である九尾なのか。どうやら式になると、どんな奴でも威厳が下がって妙に人間臭く、そして変なキャラになるらしい……。
「ら、藍……」
居間から紫が顔を覗かせる。その表情は羞恥で真っ赤だ。
「紫様、お話しますからね」
「あああー!や、止めてよ藍!恥ずかしいわ!!やめ……んがんぐ!?」
「紫様拘束用ボールギャグです。少し黙っててください」
「ふがぁー!」
「あんたら、コントしに来たのなら帰って頂戴……」
私は半ば本気でそう言った。
5
じたばたと暴れる紫を、寝室から呼び寄せた「インペリアルくん」に羽交い絞めにさせた私は、今度は藍と向かい合う事になった。
「で、真相は何なのかしら?」
苛立ちで眉が吊り上がっているのが解る。私は自分に冷静になるよう言い聞かせながら、藍に質問した。
「では順に話すよ。先ずは時間操作の件だね。確かに、勝手にこちらが、お前さんを過去に戻してしまった事は、悪い事だ。怒られて当然だし、謝罪の気持ちもあるよ。許して欲しい」
藍はそう言うと、深々と頭を下げた。
「……今は謝るとか、そう言うのは抜きで良いわ。私が聞きたいのは、何故私を過去に戻したのか、だけど」
「うん、それなんだけどね。……紫様、御覚悟を」
藍が紫を見る。つられて私も紫を見ると、彼女は顔を真っ赤にしてふがふがと暴れていた。
ギャグを加えて羞恥で真っ赤になった紫の姿に、何か黒いものが湧き上がるが、私はそれを押し殺して冷静に振舞おうとした。
「そんなに恥ずかしい事なのかしら」
私はそれが何なのか想像してみたが、答えは出なかった。
「そりゃあ、恥ずかしいさ」
ニヤニヤしながら藍は言った。
「だって紫様は、お前さんと仲直りがしたかったんだから」
私は絶句した。ついでに紫は、耳まで真っ赤になった。
「な、何ですって?」
辛うじて声が出た。私は半ば混乱気味だった。
仲直りがしたい?何故だ?
「戻る前のお前さんと紫様は、神社で酷く喧嘩をしたじゃないか」
藍は言った。その顔はニヤけっぱなしだ。私の反応や、茹蛸の様に真っ赤になった紫の様子が面白くて堪らないらしい。
「紫様は、あれを酷く気にしてらっしゃってね。「あんなつもりじゃなかったのに」と、家に帰って来て泣き腫らしてたんだ」
私はもう一度紫を見た。私の視線に気が付いた紫は、観念した様に暴れるのを止めて、大人しくなった。顔は赤いままで、グスグスとべそをかいている。始末の悪い事に、加えたギャグから涎が溢れ、フローリングの床を汚していた。
その姿は異様なまでに私の嗜虐心をそそったが、今はそんな場合ではない。
邪念を振り払い、後で掃除させないといけないな、と思いつつ、とにかく話を聞かねば、と言う一心で、私は何とか平素を保つ事に腐心する。
「それで、だ。仲直りしたくても、話を聞く限りじゃ、お前さんとの仲はほぼ絶望的。そこで私は二つの提案を出した。一つは白沢に頼み、喧嘩の事実を「無かった事」にする方法。もう一つは喧嘩をする以前の状態に戻り、喧嘩を未然に防ぐ方法。前者の方が楽なんだけど、それじゃあお前さんの記憶や感情を操作する事になるんで、紫様は頑として受け入れなかった。そこで後者の、やり直しを選んだのさ」
「記憶と感情は弄ってないけど、私の時間は弄ったじゃない」
「うん、まあ……。悪かったよ。……で、だ。続き、いいかな」
私は無言で頷いた。まだ、何で紫が私と仲直りをしたいのかが解らないので、情報を知っていそうな藍の話を、とにもかくにも聞いてみようと思ったのだ。
「仲直りがしたいから、紫様は初めての技に挑戦し、お前さんを過去に戻し、自分も戻ったのさ。私達も一緒にね。無論、実際にやる前にテストはしたよ。私は一年前に飛ばされて苦労したっけなぁ。ええと、何処まで話したかな」
「時間を戻した理由ね。ま、それについては、それで納得してあげる」
納得出来る訳が無いだろう!しかし、今ここで話の腰を折っても意味が無い。
藍は満足そうに頷いた。
「理解が速くてよろしい。橙に見習わせたいね」
「猫と一緒にしないでよ。これでも知識の追求やってる魔法使いよ。それで、次の質問いいかしら」
「どうぞ」
「仲直りって言うけどさ、私と紫は元々仲が良くないわよ」
私と紫の仲は最悪だと言って良い。あいつはずっと私の事を馬鹿にしていたし、私はそれであいつが嫌いだった。
その事を藍に告げると、彼女は指を振り、悪戯っぽく微笑みながら喋り出した。
「アリスくん、君は気になる相手についついキツく当たったり、意地悪した事は無いかな?」
「何よ、それ。それって、気になる人の気を、何でも良いから引きたいって言う子供の心理じゃない」
そう、まるで子供だ。兄弟が出来て、新しい家族に構ってばかりの親の注意を、駄々を捏ねて引こうとするのに近い。極端な例では怒られてでもいいから構って貰いたいと言う……。
「その通りさ。紫様はね、お前さんが好きなんだよ」
藍があっさりと、とんでもない事を告げた。
「どの程度の好きかまでは解らんがね。あの方はお前さんが気になって気になってしょうがないのさ。だけど恥ずかしくてそんな事を正直に言えない。言えないから仲良くなりたくてもなれない。だからお前さんとの仲は疎遠になる。そこで紫様は、とにかくお前さんの注意を引きたくて、色々とチョッカイ出したり嫌味を言ったりしてたんだ。まったく行動が子供過ぎるよ。まあそこが可愛いんだけどね……はぁはぁ」
「えーと……」
顔が赤くなっているのが解る。正面に居る紫を直視出来ない。
「貴女、私と友達に、なりたかったの?」
何とかそれだけを言うと、顔を真っ赤にしたまま、紫は頷いた。
「もう、随分前だけど……」
紫がぼそぼそと呟く様に喋り始める。
「私に、お人形、くれたわよね」
「ええ、そう、だったわね……」
いつだったか、神社に遊びに来ている連中の内の誰かが、私に人形を作ってくれとせがんだのがきっかけだった。私はそいつの注文通り、遊びに来ている連中全員にそれぞれの姿をした人形を贈ったのだ。
その時神社に来ていた紫にも、私は人形を贈った。私が紫と喧嘩するようになったのはこの時からだったと思い出す。
「私は要らないって言ったのよね……」
「ええ、そうね。あの時私は、自分の腕を嘗められたと思って苛っと来たわ」
当時を思い出し、私は拳を握った。
「違うのよ……そんなつもりで言ったんじゃないの」
紫が慌てた様子で否定した。
では、何だと言うのか……。
「あの時はね、ちょっと気恥ずかしかったの。私みたいなのが、その……可愛い人形を貰うなんて。でも、本当は嬉しかったわ。けどね、あの時は周りに人がいっぱい居て、その、体裁とかを気にして断ったの」
「ふぅん……」
「でも、貴女は要らないって言った私にも、ちゃんと人形を作って持って来てくれたわよね。私、凄く嬉しかったわ……。だって、あの中で一番可愛くて、出来が良かったんですもの」
確かに紫にあげた紫人形の出来は、私があの時作った人形の中で最高の出来だった。
(嘗められた、と思ったから、「ならば最高のものをくれてやろうじゃないか」って思って、それを実行しただけなんだけどね……)
傷付けられたプライドの為だ、とは、この雰囲気では言い出し難い。
「でもさ、嬉しかったー、とか言う割に、あの時の貴女は私の事も人形の事も馬鹿にしたわよねぇ?」
やはり当時の情景が思い出され、私の中に怒りの念が鎌首をもたげ始めた。
「貰って、凄く嬉しかったから……その。…………つい、嬉しいやら恥ずかしいやらを誤魔化して、その……」
紫はそう言ってもじもじと指をこすり始めた。頬を赤らめ、顔を伏せたまま上目遣いで私をちらちらと見上げてくる。
その様がとても可愛らしいのだ。
「そ、それからずっと、貴女と仲良くなりたいなって、思ってたのよ?でも、恥ずかしくって、面と向かって会うと、恥ずかし過ぎて、憎まれ口叩いて誤魔化して……」
ついに顔を抑え、紫は蹲ってしまった。余程恥ずかしいらしい。
だが恥ずかしいのは私もそうだ。嗜虐心をそそる、その態度で「ずっと好きでした」と言われている様なものなのだ。愛の告白ではない……と言うかそんなものなどされた事も無いが、恐らくこれと同じか、それ以上に恥ずかしいのだろうと、ふやけた思考でそう思った。
「それで、ずっと「友達になりましょう」って言えないまま、どんどん貴女との溝は広がって、ついに喧嘩して……」
過去に戻される前の、九月二十日の事だ。
「私、アレで貴女と絶交しようと思ってたんだけど?」
「う……」
「……で、貴女も、私が凄く怒ってるって思って、これはもう復縁は難しいかな?と思って、今回の騒ぎを起こしたと。これでいいのかしら?」
「そう、です……」
呆れた話だ。
私の事を一方的に好きになって不器用なアプローチを繰り返し、挙句失敗して仲が完全に拗れそうになったから、過去に戻してやり直す事を考えるとは……。
「貴女、私よりずっと長生きなのに、すっごい馬鹿ね」
「返す言葉も無いわぁ……」
そう、馬鹿な奴だ。
けれど。
「でも、そこまで慕われちゃ、悪い気もしないわよ」
私は笑った。
蹲った紫に手を差し伸べてやる。
「偉く迷惑を被ったし、手間も時間も無駄にかけまくってるけど……まあ、努力は無駄にならなくてよかったじゃない」
「え……」
紫が私を見上げた。
私は彼女を飛びっきりの笑顔で迎えてやる。
「こうして、貴女の気持ちはしっかりと受け取りました。素直じゃない大きな女の子の気持ちをね」
「あ……!」
「こんな事言って関係を始めるのって、絵的に美しくないんだけど……肝心なのはハートよね。紫……私達、友達になりましょう」
言って、私は彼女の手を取った。弱々しく震える細い指に自分の指を絡め、しっかりと手を握る。
「いい、の……?」
信じられない、と言った風に、紫が私を見つめてくる。だが、その表情は喜びと幸福で溢れていた。
「乙女に二言は無いのよ。今までの事はこれから返して貰うとして。ともかく私は、貴女と仲良くする事に決めたの。これからは友達と言う事で、いいわよね?」
私は微笑んでそう告げた。その言葉に、紫の表情は花が咲いた様に明るくなる。
「うん……!ありがとう……アリス……!」
感極まった、とばかりに紫は私に抱きついて来た。柔らかな膨らみが私の胸に押し付けられ、紫の細い腕が私の背中に回される。
私は、まるで幼い子供の様に抱きつき、甘えて、泣きじゃくる紫の頭を優しく撫でながら、彼女をそっと優しく抱き締めてやった。
まったく、とんだ異変だった。苦労したし、不愉快な事もたくさんあったが、結果がこれでは笑うしかない。
困った奴で私よりもずっとお姉さんの筈の、この新しい友人との今後を想像し、私は笑みを漏らした。
きっと今までよりずっと騒がしく、大変で、そして楽しくなるに違いないだろう……。
私は紫を優しく抱き締めながら、今夜は一緒に寝ようかな、などと考えるのだった。
「んぐんぐんぐぐぐぐ。んがが、んぬぬぬ、ハァハァ(良かったですね、紫様。それにしても……アリスも可愛いなぁ。これからは一緒に居る事も多くなりそうだし……。ハーレム!ハァハァ)」
「……その前に、あそこで涎ダラダラ垂れ流してる変態をどうにかしようと思うのだけれど」
「アリスの好きにしていいわよ」
先程の仕返しにと、紫にギャグを咬ませられた藍。仕置き中にも拘らず、不埒な事をのたまう式に、裁断が下されようとしている。
「インペリアルくん」の巨大な掌が、涎を垂れ流す天狐の頭を強く強く握り締めた。
【終われ】
紫の内心が原作の印象とは離れているという部分が、もう少し上手く説明していただけたらと思いました。
次回作も期待しております。
後半はもう読むに耐えない文でした。ニヤニヤが止まらなすぎて。
もうほんと目に毒!どうしてゆかりんはこう純愛が似合うんですかね。
かっわいいよ!かっわいいよ!ゆっかりんりん!
と、絶賛?で終わっときたいのですが、レミリアの存在がわけわからないです。
ぞんざいに扱いすぎで、これだと本当にただの嫌キャラです。
こんな扱いにするくらいなら、最初の争いも紫にしとけばよかったのにと思います。
というか、紫が超純情であると発覚した時、ああこれはレミリアも
最後の最後かあとがきで純情発覚するんじゃないかなと思ってたんですが……
序盤であれだけインパクトのある出し方をしといたのですから、
何かしら本筋に関わるべきか、オチあたりに出すべきでしょう。
悪い意味で期待を裏切られた感じがしました。
そこの部分で結構減点。
話としては本当に好きなので、次回作も期待しております。
大好物のレイアリktkrとか思いながら読み始めたのですが裏切られました。勿論いい意味で。
紫が完全に乙女で新鮮、というか萌えました。
ただ、復活されたばかりのせいか多少荒削り感が致しました。前作の『Broken doll』が余りに良作(私の中では名作)すぎて、比較してしまった部分もあるとは思いますが。
何はともあれGJ!次回作も激しく期待しております。
追伸:私もレミリア分の補足に飢えた内の一人です。
器がでっかいというか、必要に応じて拡張していけるというか。
今ごろこまっちゃんに挨拶してた
ゆかりんかわいいよ!テラ少女!
レミリア分はあとがきで補充されたと俺は思っている
「傷だらけの門番」では?
拘束されているゆかりんに欲情してしまいました。
記憶を引き継いだままループしてもどんどん絶望的になるだけのような気が。
怒らせたその日を何とかしたいっていうのは分からないでもないけど、苦労してまでこんなことする前にきちんと謝ろうぜゆかりん。
あんたがそこまでしたくなるアリスならきっと許してくれるだろうからさー。
読み直してみたら、序盤のあれはどうみても紫ですよね・・・
なんでれみりゃだと思ってしまったんだろ。途中で出てきたからかな・・・
えらそうなこと言ってすみません;
個人的には前半のタイムトラベルと後半のニヤニヤを、別々の話で完成させた方が良かったんじゃと思いました。
全体的に見て話の持っていきかたが多少強引かなと感じたので。
でも話の内容は惹き込まれるものがあり楽しく読ませていただきました。モチロン後半ニヤけっぱなしでw
次も期待しているので頑張ってくださいね。
式がいい味出してますな。
エイのお化け……ハンブラビのことかー。
アクエリオンネタにちょっとニヤリ。
この組み合わせは全く持って新しい!!
紫より前にレミリアの名前を明示してあったのもあって更にドツボに嵌ってしまいました
あと藍は最高でしたw
レミリアも紫と同じような理由でアリスに、って展開を期待してた。
純情なゆかりんかわいいよ
気になったところは幾つかあるのですが、先に述べられている方がいらっしゃる様なのでこれ以上は蛇足でしょう。
ともかくなんだか見たこと無いゆかりんが可愛いです。これは藍様じゃなくなって鼻血で出血性ショック死起します。微笑ましくてケシカランですw
紫側がアリスを思う気持ち(何故好きになった等)が記されてなかったので、その辺りも上手くストーリーに組み込めていたら話に説得力が増したと思ふ。
もう一度ぐらい逆行があると、時間ネタの威力がさらに発揮されたかもしれません。
次回に期待。
少女香漂うお話だ~。
どれくらいイイかと言うと、夜中の4時にご近所への迷惑も考えつつ静かに激しく身悶えるほどかな!
陰謀めいた前半からの急展開が楽しめました。
ただ他の方も言われているように、レミリアがただの嫌なヤツ扱いなのはいただけないかなと…
余談ですが、愛知では9月21日にまだ蝉が鳴いてました…
こんなゆかりんなどいない!
…が、実にイイw
楽しく読ませていただきました。
二段オチで、実は「レミリアもアリスを…」というオチを勝手に妄想してます。
(鼻血で)失血死しそうじゃないか!
もっとやれ!
アリス好きの期待をっ・・・裏切らないっ・・・!
話的にニヤニヤしまくれたので全部相殺。
こんなにかわいいゆかりんは見たことねぇ。
かっわいいよーかっわいいよーゆk
少女趣味的な意味でアリなのかもしれない。アリアリアーリヴァルテ
人間臭い変わり者の妖怪アリスに興味を惹かれる紫。いいじゃないか
藍の台詞の内容はどうにかして紫自信に頑張ってもらいたかったです。羞恥プレイ!
しかしゆかりん受けとは予想外、でも良かった。
他の作品も読ませて頂きますね。
藍が、ドキュメンタリーの説明しよう!みたいな役で、急に登場してしまって、雰囲気が壊れちゃったかなと思いました。
やや性急すぎたかも。
それ以外はGOOD!