ペーパームーンシンドローム ~夢幻の月への傾倒
夜、満月がようやく山の端から姿を見せた頃、私は一人外で月を眺めていた。
日が経つにつれ、確実に月の仲間と交信できる頻度が落ちてきている。
今晩も、まだ私は仲間からのメッセージを受け取れずにいた。
「イナバ」
不意に後ろから声がかかる。他者とは明らかに異なる、高圧的な波長。
私は、内心焦ったが、それを悟られないように平静を保ちつつ、その声の主、蓬莱山輝夜の方を振り向いた。
「姫、満月の夜には外にお出にならないようにと、師匠に申し付けられていたのでは?」
「いいのよ、たまには」
と、姫は悪戯に成功した子供のようにくすくすと笑った。そして、私の隣に立ち、満月に目を向けた。
速やかに咎め、永遠亭にお連れするべきだろうが、私との交信すら滞る現状で、姫を連れ戻しに月が使者をよこすことはないだろう。
そう考え、それ以上追及しないことにした。
外に限らず、私は月の夜に姫と会うのが苦手だった。畏縮してしまうからだ。
心なしか、月が満ちるにつれ、姫はその美しさを増す気がする。初めて見る満月の下の姫の相貌は、もはや凄絶とさえ思えた。
「連絡はつかないの?」
「はい。今夜は、もう無理かもしれません」
「ふーん」
どうでもよさそうにそう言ってから、姫は口を閉ざした。
私はなにか話題を探したが、結局なにも思いつかず、月との交信を再開した。
しばらくの間、静寂が辺りを包む。実際は何分かだろうが、私にはそれが一時間は続いたように感じられた。
「今宵の満月は綺麗ね」
唐突に姫が言った。
「月はいつでも同じではないのですか?」
「いいえ。満月は、昇るたびに少しずつ違う表情を見せるの。星明りの下で見ると、判りやすいでしょう?」
「そう、ですか」
戸惑いつつ、私は目を凝らして、今まで見てきた満月との違いを探してみる。しかし、私には全く同じにしか見えなかった。
「私には判らないようです」
「そう。貴方は、月を見慣れていないのね」
私は、月の見える日は延々と月の仲間と連絡を取ろうと試みている。
月を見てきた時間は、誰よりも長いと思うが、そういう意味ではないのだろう。
確かに、月を愛でるという心理は、私には理解できなかった。
私が月を見ていて感じるのは、一抹の郷愁と、罪の意識だけだった。
「私には、月を美しいと思う感情さえ解りませんから」
「ああ、そうかもしれないわね」
姫は薄く微笑んで、私にこう尋ねた。
「なぜ、地上の民が月を愛でるのか、解る?」
「……いえ」
「月が遠いからよ」
たまに、私には姫や師匠の言っていることが理解できないことがある。
とりわけ今回は全く意味が解らない。遠いから、月が好き?
「イナバ、貴方は誰が好き?」
「えっと、姫や師匠や、てゐとか、永遠亭の兎達はみんな好きですが」
「あら、ありがとう」
姫に嬉しそうに言われて、急に恥ずかしくなり、私は目を伏せた。
「貴方が今言った者たちを好きなのは、一つには一緒にいる時の自分が好きだからでしょう?」
「まあ、そうかもしれません」
「地上の民は、手に入らない物にほど、強く惹かれる。
それは、手に入らないと分かりながら、なお思いを馳せる、憐れな自分が好きだからなのよ。
いつも夜空を朧げに照らし、傍にありながら、決して触れることは叶わない。だからこそ、月を美しいと感じるの」
「地上の民は、そこまで愚かなのですか?」
「そうね。けど、それは月の民も同じよ。今の私には、月がとても愛しい」
そう言って、姫は私の目を直視した。鼓動が速まり、息が乱れる。胸をかきむしりたくなる衝動に駆られる。
けど、位相をずらすことも、目を逸らすこともできなかった。
今宵の満月以上に、その瞳は狂気を湛えていたから。
「地上の民は、その感情を素直に表現することができるの。月の民は、それが下手なだけ。
貴方は、前は月に住んでいて、月に住む仲間と連絡をとっている。
そして、月で犯した過ちを、片時も忘れることができずにいる。
その魅力が理解できないのは、今も月に心を囚われたままだから」
まるで、全てを見透かしたような姫の言葉に、反感を覚えながらも、私は何も言い返せなかった。
言葉を紡ぐどころか、途方もない眩暈に襲われ、気を抜けば立っていられなくなりそうだった。
「罪が重すぎて、どこにも進めないのね、イナバ。
けど貴方は優しいから、それを忘れることもできない」
「わ、たしは……」
ついに私は、地面に膝から崩れ落ちてしまった。涙が、とめどなくあふれる。
「一人しか、乗れなかったんです。みんな、私を逃がそうとしてくれて、それで……」
姫は、泣きじゃくる私を、地面に膝をつき優しく抱きしめてくれた。
意外にも、その温もりは、今まで私を抱きしめてくれた人達のものとなんら変わらなかった。
私の涙が、姫の着物を染めていく。
「大丈夫。永遠に罪を背負うのは、不死者だけ。今は償えなくても、貴方の罪は死とともに裁かれるわ。
その時まで貴方が悔やみ続けて生きることを、貴方のために命を使ってくれた者が望んでいると思う?」
「でも、もう謝ることもできないんです。
せめて、みんなが私を貶していてくれれば、命を絶つこともできたのに。
最期は、みんな微笑んでくれた。あの笑顔が毎晩夢に出てくるんです」
泣き濡れた私の頬に、姫はそっと手を添えて、言った。
「なら、私の傍にいなさい、レイセン。貴方の罪は、私が背負ってあげる」
そして、姫は立ち上がり、着物についた土を手で払った。
「貴方のせいで、着物が汚れちゃったわ」
「あ、すみません、私……」
慌てふためく私に、姫は軽く笑いかけた。
「冗談よ。そうやって、たまに思い出して泣いてあげなさい。少しは楽になるわ。
そして、気が向いたら一緒にお月見をしましょう。幻想郷は素敵な所よ」
そう言って、未だへたりこんだままの私を置き去りにし、姫は永遠亭に向かって歩き出した。
私は、その姿が見えなくなるまで、お礼も言わず呆然と見ていることしかできなかった。
ようやく涙がとまった頃には、満月は私の真上まで昇っていた。
さっきのは、いつもの姫の気紛れだったのだろうか。
しかし、確かに今夜の涙は、私のために命を落としたみんなのために、初めて流したものだった。
だからといって、急に私の罪が軽くなるわけじゃない。依然、贖罪の術はわからないまま、私は立ち上がり、月を見上げた。
やはり、なにも変わらない普段の姿のままの満月。しかしそれは、さっきより少しだけ薄いように感じられた。
夜、満月がようやく山の端から姿を見せた頃、私は一人外で月を眺めていた。
日が経つにつれ、確実に月の仲間と交信できる頻度が落ちてきている。
今晩も、まだ私は仲間からのメッセージを受け取れずにいた。
「イナバ」
不意に後ろから声がかかる。他者とは明らかに異なる、高圧的な波長。
私は、内心焦ったが、それを悟られないように平静を保ちつつ、その声の主、蓬莱山輝夜の方を振り向いた。
「姫、満月の夜には外にお出にならないようにと、師匠に申し付けられていたのでは?」
「いいのよ、たまには」
と、姫は悪戯に成功した子供のようにくすくすと笑った。そして、私の隣に立ち、満月に目を向けた。
速やかに咎め、永遠亭にお連れするべきだろうが、私との交信すら滞る現状で、姫を連れ戻しに月が使者をよこすことはないだろう。
そう考え、それ以上追及しないことにした。
外に限らず、私は月の夜に姫と会うのが苦手だった。畏縮してしまうからだ。
心なしか、月が満ちるにつれ、姫はその美しさを増す気がする。初めて見る満月の下の姫の相貌は、もはや凄絶とさえ思えた。
「連絡はつかないの?」
「はい。今夜は、もう無理かもしれません」
「ふーん」
どうでもよさそうにそう言ってから、姫は口を閉ざした。
私はなにか話題を探したが、結局なにも思いつかず、月との交信を再開した。
しばらくの間、静寂が辺りを包む。実際は何分かだろうが、私にはそれが一時間は続いたように感じられた。
「今宵の満月は綺麗ね」
唐突に姫が言った。
「月はいつでも同じではないのですか?」
「いいえ。満月は、昇るたびに少しずつ違う表情を見せるの。星明りの下で見ると、判りやすいでしょう?」
「そう、ですか」
戸惑いつつ、私は目を凝らして、今まで見てきた満月との違いを探してみる。しかし、私には全く同じにしか見えなかった。
「私には判らないようです」
「そう。貴方は、月を見慣れていないのね」
私は、月の見える日は延々と月の仲間と連絡を取ろうと試みている。
月を見てきた時間は、誰よりも長いと思うが、そういう意味ではないのだろう。
確かに、月を愛でるという心理は、私には理解できなかった。
私が月を見ていて感じるのは、一抹の郷愁と、罪の意識だけだった。
「私には、月を美しいと思う感情さえ解りませんから」
「ああ、そうかもしれないわね」
姫は薄く微笑んで、私にこう尋ねた。
「なぜ、地上の民が月を愛でるのか、解る?」
「……いえ」
「月が遠いからよ」
たまに、私には姫や師匠の言っていることが理解できないことがある。
とりわけ今回は全く意味が解らない。遠いから、月が好き?
「イナバ、貴方は誰が好き?」
「えっと、姫や師匠や、てゐとか、永遠亭の兎達はみんな好きですが」
「あら、ありがとう」
姫に嬉しそうに言われて、急に恥ずかしくなり、私は目を伏せた。
「貴方が今言った者たちを好きなのは、一つには一緒にいる時の自分が好きだからでしょう?」
「まあ、そうかもしれません」
「地上の民は、手に入らない物にほど、強く惹かれる。
それは、手に入らないと分かりながら、なお思いを馳せる、憐れな自分が好きだからなのよ。
いつも夜空を朧げに照らし、傍にありながら、決して触れることは叶わない。だからこそ、月を美しいと感じるの」
「地上の民は、そこまで愚かなのですか?」
「そうね。けど、それは月の民も同じよ。今の私には、月がとても愛しい」
そう言って、姫は私の目を直視した。鼓動が速まり、息が乱れる。胸をかきむしりたくなる衝動に駆られる。
けど、位相をずらすことも、目を逸らすこともできなかった。
今宵の満月以上に、その瞳は狂気を湛えていたから。
「地上の民は、その感情を素直に表現することができるの。月の民は、それが下手なだけ。
貴方は、前は月に住んでいて、月に住む仲間と連絡をとっている。
そして、月で犯した過ちを、片時も忘れることができずにいる。
その魅力が理解できないのは、今も月に心を囚われたままだから」
まるで、全てを見透かしたような姫の言葉に、反感を覚えながらも、私は何も言い返せなかった。
言葉を紡ぐどころか、途方もない眩暈に襲われ、気を抜けば立っていられなくなりそうだった。
「罪が重すぎて、どこにも進めないのね、イナバ。
けど貴方は優しいから、それを忘れることもできない」
「わ、たしは……」
ついに私は、地面に膝から崩れ落ちてしまった。涙が、とめどなくあふれる。
「一人しか、乗れなかったんです。みんな、私を逃がそうとしてくれて、それで……」
姫は、泣きじゃくる私を、地面に膝をつき優しく抱きしめてくれた。
意外にも、その温もりは、今まで私を抱きしめてくれた人達のものとなんら変わらなかった。
私の涙が、姫の着物を染めていく。
「大丈夫。永遠に罪を背負うのは、不死者だけ。今は償えなくても、貴方の罪は死とともに裁かれるわ。
その時まで貴方が悔やみ続けて生きることを、貴方のために命を使ってくれた者が望んでいると思う?」
「でも、もう謝ることもできないんです。
せめて、みんなが私を貶していてくれれば、命を絶つこともできたのに。
最期は、みんな微笑んでくれた。あの笑顔が毎晩夢に出てくるんです」
泣き濡れた私の頬に、姫はそっと手を添えて、言った。
「なら、私の傍にいなさい、レイセン。貴方の罪は、私が背負ってあげる」
そして、姫は立ち上がり、着物についた土を手で払った。
「貴方のせいで、着物が汚れちゃったわ」
「あ、すみません、私……」
慌てふためく私に、姫は軽く笑いかけた。
「冗談よ。そうやって、たまに思い出して泣いてあげなさい。少しは楽になるわ。
そして、気が向いたら一緒にお月見をしましょう。幻想郷は素敵な所よ」
そう言って、未だへたりこんだままの私を置き去りにし、姫は永遠亭に向かって歩き出した。
私は、その姿が見えなくなるまで、お礼も言わず呆然と見ていることしかできなかった。
ようやく涙がとまった頃には、満月は私の真上まで昇っていた。
さっきのは、いつもの姫の気紛れだったのだろうか。
しかし、確かに今夜の涙は、私のために命を落としたみんなのために、初めて流したものだった。
だからといって、急に私の罪が軽くなるわけじゃない。依然、贖罪の術はわからないまま、私は立ち上がり、月を見上げた。
やはり、なにも変わらない普段の姿のままの満月。しかしそれは、さっきより少しだけ薄いように感じられた。
素敵な物語をごちそうさまでした
もう少し掘り下げることができればより良い出来になったかと。
ちなみに後書きにはおおいに共感します。
遠いからこそ夢馳せる幻想郷というのもロマンチックでいいじゃないですか。