あ、と思ったときには背中をしたたかに打ちつけていた。
圧迫された肺が空気を押し出し、ルナチャイルドはぐぇっと可愛らしくない呻き声を漏らす。
痛みのあまり海老反ったまま転がり回り、無意識に背中へ手を伸ばそうとするが痛みには届かず、大きく口を開けるも息は吸い込めず、ぎゅっと閉じた瞼からは涙が溢れる。ひとしきり悶えた挙句に、大きく喘いでべそをかきながらも、ルナチャイルドはようやく止まった。
横になりながら反らした背中をそろそろと丸めてみる。途端、裂かれるような鋭い刺激が背中を走った。
「……ッ!」
予想を越えた強い痛覚に、またもルナは息を止める。じんわりと痛みがほどけていくのを、目をつぶり、ただただ堪える。
たっぷり二十も数えたろうか。ようやく痛みが和らいで、ルナは目をしばたたかせてゆっくりと上半身を起こした。そこで、彼女はやっと己の置かれている状況を把握する。
周囲は暗かった。乏しい光の中、闇に目が慣れてくると、うっすらとではあるが周囲は見て取れた。
そこで目に入るのは、黒い土の壁。
座り込んだ地面を見れば、これまた黒々とした泥の中。
見上げていくと、どこまでもどこまでも壁が続き、おとがいが地面と平行になるほどに見上げてようやくぽっかりと丸く開いた穴が見えた。穴の向こうはどんよりと濁った灰色の空。
ああ、あそこから落ちたんだ。
ルナは怒るでもなく悲しむでもなく、ただぼんやりとそう思った。疼く背中のため思考がはっきりしなかった。
どれくらい高いのだろう。そう思って、あらためて自分の位置から天を見上げる。
高い。
人間の大人二人が肩車をしてもなお穴の淵には届きそうに無い。それほどに、高い。
あの高さから落ちたのだ。もし人間だったなら骨を折るか、当たり所によっては命を失うかもしれない。ルナチャイルドは妖精ゆえに生身の生き物に比べれば身は軽い。だからこそ、こうして大した怪我もなく済んだのだろう。
いや、そうでもないか。
背中の痛みに、ルナは顔をしかめる。
まともに背中から落ちた。なにぶん背中のことで見ることはできないが、痛みの具合から羽の根元のあたりかと見当をつける。
ただの打ち身なのか、傷が付いたのか。痛みの具合からして、何かで切ったのかもしれない。羽に痛覚は無いが、羽の根元は急所だ。わずかの傷でも酷く痛い。
羽を動かそうとすると、またも痛みが跳ねて、くぅ、と呻いた。
これでは、飛べない。
その思いは、腹の底からじわりと染み出してぎゅうと胸を締め付ける。それは、とりもなおさずこの穴の中から出られないことを意味した。なまじ普段は羽に頼っているだけに、高いところへ自力で登るのはほとんど経験が無い。自らの非力を知るルナは、この土壁を見るだけで、これは無理だと嘆息した。
ああ、なんでこんなことになっちゃったんだろう。
そこで、ルナチャイルドは今日の記憶を振り返る。
外は生憎の曇り空だった。森の近くを根城とする三妖精。サニーミルク、スターサファイア、ルナチャイルドは、毎日何かしら遊ぶネタを探して暮らしている。たいていはどんな小さなことでも楽しめるお気楽な三匹なのだが、今日はたまたま良いネタがなかった。加えてこの天気では妖精も気が滅入る。
そんな時に、スターが言ったのだ。
「獲物が来たよ」
スターサファイアは動くものの気配がわかる。こういったネタ探しと偵察にはもってこいなのだ。
こうして、いそいそと三匹で出かけた先には、なるほど、スターの言うとおり獲物が居た。
特に特徴も無い普通の人間の男だった。日頃、人間といえば神社の巫女や黒白の魔法使いしか見かけない彼女らにとって、これは格好の獲物。
山菜でも採りにきたか。籠を担いで道を歩く男を見て、サニーは言った。これは珍しいお客様だ。スターも言った。丁重にもてなしましょう。もちろんルナも同調した。そうしましょう。そうしましょう。
いつものとおり、サニーが風景を歪め、ルナが音を消し、スターが導く方向へと迷わせた。木にぶつかり、根っこに足をとられ、危うく川へ落ちそうになるその様を見てさんざんに皆で笑い転げたのだが、人間がついに気付いて烈火のごとく怒った。三人は泡を食って逃げ出したが、運悪くルナは飛んでいるところを木の枝にぶつかった。
ルナの記憶は、そこで途切れる。
そういえば、背中の痛みで気付かなかったが、頭もじんわりと痛い。
頭を探ると、おでこからやや上のあたりにコブができていた。かなり派手にぶつけたのだろう。落ちるところを覚えていないので、そこで気を失ってしまったらしい。
すると、気絶して落ちた先にこの穴があったのだろうか。
「運が悪いにも程があるわ……」
ルナは、はぁとため息をついた。これまでもしょっちゅう、転んだりぶつかったりというのはあるのだが、今回のケースは初めてだ。
自分らを追っかけていた人間は穴の上にいるのだろうか。
サニーやスターはまだ逃げ続けているのだろうか。
自力で上がれない以上、誰かに助けてもらう必要があるが、もし人間がまだ近くにいるなら、しばらくはこの穴に隠れていた方が良いかもしれない。
今日、この穴に落ちただけでも不運だというのに、この上人間に痛めつけられてはかなわない。ここでほとぼりが冷めるのを待とう。そのうち、サニーやスターが助けに来てくれるだろう。
「……来てくれるよね?」
ちょっと自信がない。薄情者揃いの三月精なのである。
ルナはゆっくりと立ち上がった。彼女の真珠色のスカートは、泥を吸ってだらしなく彼女の足にまとわりつく。そのぬめる肌触りにルナは口元を歪めた。普段空を飛ぶ彼女は、こうした泥の感触に馴染まない。
なお不快なことに、立ち上がると靴がずぶずぶと半分ほども泥に沈んだ。ルナの眉が逆立つ。帰ったらお風呂に入ってお洋服を洗濯して、ああもう靴も洗わなくちゃ。ちゃんと汚れが落ちるかしら。
とりとめないそんなことを考えながら、ルナは外壁に向かって歩き出した。
しばらくここから出られない。それがほぼ決定的になったので、ここを探検しようという腹だった。
穴の底は、人間の子どもほどのルナチャイルドにとっては十分に広かった。
端から端まで、ルナの足で十歩ほど。一時の隠れ家としては手頃な広さだったが、住環境は最悪だった。底は一面泥で埋まっていて、その下は石ころや砂利が見え隠れする。歩き難いことこの上ない。
空気は淀んでいて、風の一つも起こらない。かすかに饐(す)えた臭いがして、肌に粘るような湿気があった。
正直なところ、長居はしたくないところだった。
どうにか這い上がれるところはないかと、ぐるりと壁に沿って歩く。しかし、土壁はどこまでいっても土壁で、のっぺりとして手足をひっかけるところが見当たらない。
これはどうにもお手上げだ、と何度目かのため息を吐いて天を見上げる。
そこで、気付いたことがあった。
土壁が緩やかにカーブを描いている。せり上がるようにして穴の淵へ続いていた。
ということは、地面の穴の大きさは底よりも小さいらしいということだ。もし、仮にこの壁を這い登れたとしても、途中で落ちてしまうだろう。
「壷の中ってこんな感じかしら」
そうひとりごちて、ふと何かが頭に引っかかった。
似たようなものを見たことがあるのだ。
違う状況で。
ただし、今のルナチャイルドにとっては愉快ではない連想。
似ていると、思ったのだ。
ある日のことだ。彼女ら三妖精は外の世界の本を拾った。
神社は幻想郷の端に接しているせいか、その近くには外界の物がたまに落ちていることがある。そういったアイテムは、好奇心旺盛で常に刺激を求めている妖精達にとってはまたとない貴重な遊び道具となるのだ。
早速家に持ち帰って本を開いた。サニー、スター、ルナが顔をくっつけ合って、一冊の本を覗き込む。
今回のそれは、子ども向けの植物図鑑だった。表紙は日焼けして色褪せていたし、赤黒い染みも付いて酷くボロボロだったが、中身は意外に綺麗だった。
様々な花が写真付きで多く紹介されていた。その一つ一つを指さしては、「これ知ってる」とか「あ、きれいな花!」などとはしゃぐ。
その図鑑は、どうやら世界中の植物について扱っていたらしい。熱帯の植物なども載っていた。この幻想郷ではけして見ることがかなわない花々。艶やかで派手な色彩の蘭を初めて見たルナ達は、俄然盛り上がる。
そうした中に、それがあった。
図鑑には花以外も載っていた。そこで彼女らは見たことのない形の植物を見る。
「何これ?」
「へんな形」
「ツボ?」
花の写真以外はたいてい無視していたのだが、その形の特異さが目を引いた。
それは、要するに緑色の壷だ。
つるりとしてやや縦に伸びた表面。肉厚の開口部。
ウツボカズラといった。
「うわ、これ虫を食べるんだって!」
サニーが叫ぶ。
「食べるって植物でしょ、これ」
ルナの問いに、スターが答えた。
「この壷の中に、消化液が入ってるんだって。中に落ちた虫がそれで溶けて、栄養になるって」
「うわあ、なんか気持ち悪い!」
三妖精の意見が一致した。ユーモラスな形のくせに、やることがえげつない。
「これって、落ちた虫はヒサンだよね」
「うわ、言わないでよ! 想像しちゃうじゃない!」
「だから、想像しちゃうじゃないの!」
その嫌な連想を吹き払うように、ルナチャイルドは叫んだ。
違う違う。絶対違うんだから。
ウツボカズラなんかに似てないんだってば。
この中には消化液なんか入ってないし、私は虫じゃないもの。
この泥は消化液なんかじゃないもの。ただの泥だもの。溶けるわけないじゃない。
考えまいとするほど、そのことを思い出した。
不安は振り払ってもなおくすぶって、違うのだとわかっても、ただでさえ嫌な泥が更に嫌になった。いまや泥のぬるりとした感触は、肌が粟立つほどに気持ちが悪い。
さきほど歩いた中で見つけた、比較的泥が少ない部分に自然と場所を移す。できるだけ素肌に泥を付けたくなかった。そういう意味では、彼女の裾の長いドレス様のスカートは歩いているだけで泥に汚れて都合が悪い。
しばらく考えた末に、ルナは服を脱いだ。脱ぐときに背中がまたも激しく痛み、その何度目かの苦痛をルナは唇をかみしめて堪えた。
どうにか下着だけになって服の背中のあたりを見ると、やはり血の痕があった。妖精でも傷つけば血を流す。ただ、生き物のそれと比べて妖精の血は薄い。血痕は時が経てば消えてしまう。それだけ妖精というのはうつろいやすい存在(もの)だということなのだろう。
が、ルナ達妖精自身にとっては便利なことだ。なにしろ、怪我で服に血がついても染みにならない。
血は背中の羽を出す部分からじっとりと背中一面に広がっていた。だが、血は既に止まっている様子で、服が裂けていないところを見ると、傷自体は小さいのかもしれない。
そのことに、ルナチャイルドは少しだけほっとする。
体に付いた泥を、入念に脱いだ服で拭う。服を下に敷くと、ひとまずは落ち着けるスペースができた。
さて、これからどうしよう。
穴に落ちてから、それなりに時間は経った。経ったように思う。
普段、妖精は時計などを持ち歩かず、時間を特に意識しないものだが、それでも今回に限っては時間が気になった。
もうあの人間の男は近くにいないかな。
サニーとスターはもう逃げ切ったかな。
私がいなくなったから、音は消せなかったはずだけど。
ルナが悩んでいるのは、助けを呼ぶか否かだった。
この穴から助け出してくれるなら、別にサニーやスターでなくてもいいのだ。この際、あの巫女や魔法使いでも構わないと思っている。
ただ、あの人間の男に捕まるのでなければ。
結局、あの人間が近くにいるかどうかが問題なのだが、耳を澄ませても深い穴の底からでは地面の様子がわからない。
天を見上げる。太陽でも見えていれば少しは時間の目安になっただろうが、この穴の底からの視界ではそれもかなわない。彼女らが人間に悪戯を仕掛けたのは昼前だったか。今日はあいにくの曇り空だが、明るさは先刻と大して変わらない。遅く見積もっても昼過ぎあたりではないかと思う。
ううん、と腕を組んで唸ったが、妖精というのは性分として待つのが苦手だ。
つまり、悩む前から結論は出ているのだった。
よし、と決めて天を睨む。大きく息を吸い込んで、叫んだ。
「おーい!」
一度声を出すと、勢いがついた。
「だーれーかー!」
それだけで今の鬱屈した気分が多少晴れた。
「たーすーけーてー!」
とにかく叫ぶ。今のルナに出せるだけのありったけの大声で呼ぶ。
「サニー! スター! だれかいないのー!」
ひとしきり叫んで、ルナは応えを待った。
耳に集中して、遠い穴の向こうの音を捉えようとする。
だが、応えは無い。
静かだった。
鳥のさえずり一つ聞こえない。
足りないか。この程度じゃダメみたい。
そう思って、さらに大声を張り上げる。
「おぉぉーい!!」
「だぁーれぇーかぁー!!」
今の不安を払いのけるように、叫ぶ。
だが、応えは無い。
穴の向こうは遥かに遠く、彼女の声が届いているのか確かめる術(すべ)はない。
だから、彼女は叫ぶことしかできない。
助けを呼ぶことしかできない。
しかし、応えるもののいないその関係は、この穴の中が、外からいかに隔絶されたところかを尚更のようにルナに知らしめた。
大丈夫だ。誰かが助けてくれるに決まってる。
頭をぶんぶんと振って、弱気を捨てる。
たまたま、近くにいないだけよ。
だって昼間だもの。妖怪は少ないけど、妖精はたくさんいるし。
気を取り直して、もう一度、息を吸う。
「だぁーれぇーかぁー!!」
もっと大きく。もっと大きく!
「へんじをしてぇーっ!」
まだまだ、もっともっと!
「おーねーがーいーっ!!」
あらん限りの大声で
「おぉーねぇーがぁーいぃぃぃぃ!!」
ぜいぜいと喘いで、耳を澄ます。
だが、
応えは、無い。
まだ足りないのだろうか。
まだ届かないのだろうか。
大声を出しすぎて、ルナは目の前が暗くなる。玉のような汗が彼女の丸い頬を滑り落ち、彼女の自慢の縦ロールが揺れる。
それでも、息をなんとか整えて、汗を手で拭って、天を睨む。
「たァーすーけーてぇぇぇぇぇっ!!」
誰も返さない。
「でられなーいーのーっ!!」
ルナの言葉は届かない。
いつしか、ルナの口元が、目元が歪んでいく。
「ここからだしてぇぇぇーっ!!」
山彦すら返らないそれは、
じわり、じわりと、
「でーらーれーなーいーのぉぉぉぉぉッ!!」
それまで押さえ込んでいた不安が、
「へんじをしてよぉぉぉぉぉぉっ!!」
増幅していく。
「たすけてよぉぉぉぉぉぉっ!!」
増幅していく。
「うぇぇん! さーにーっ! すーたーっ!」
叫ぶ声には、愚図ついて湿ったものが混じる。
「うわああああああああんん!!」
大声で泣く。
もう体面も意地も無い。
既に限界だったのだ。
元より小さい子どものメンタリティしか持たないルナチャイルドにとって、
「うわああああああああんん!!」
それは、耐えるに厳しい不安だったのだ。
いったん溢れた涙はもう止まらなかった。
誰かに傍にいてほしい。
誰かに抱きしめてほしい。
ただ、それだけを求めて泣く。
それは、もう人間の赤ん坊と変わらなかった。
しかし、
それだけ大声で泣いても、
叫んでも、
誰も応えてはくれなかった。
穴に落ちた女の子の話をしよう。
それは不幸な事故だった。
山道に慣れぬ彼女が道に迷い、暗い足元に穴があったことに気付かなかった。
ただ、それだけだ。
だが、それだけのことが、彼女の運命を決めてしまった。
穴は深かった。穴に落ちた彼女は奇跡的に大きな怪我をしなかったが、それでも自力で登るのは不可能だった。
当然、彼女は助けを呼ぶ。
それこそ必死になって、己の全ての力を振り絞って、出し切って、助けを求める。
だが、助けは来なかった。
彼女が力尽きるほどに願ったのに叶わなかった。
これは、そんな可哀想な女の子の話。
「穴に落ちたのよ」
それは誰の言葉だったか。
眩しいほどの月明かりの下で、長い髪を風になぶられるままに流して、彼女は言ったのだ。
「助けを求めても、誰も気付かなかった。誰も助けられなかった」
その声は、ひどく揺らいでいて、聞いていて酔いそうだった。
どうしてこんなに揺れているのだろう。まるで水の中で聞いてるみたい。それが気になって、言葉の中身は残らなかった。
「そういう、事故よ」
そう言って、彼女は天の月を見上げる。
その横顔を見て、どうしてそんなに寂しそうな目をしているのかと思った。
月明かりがあまりにも眩しすぎるといった風に、その長い睫毛を半分ほどに閉じて、その奥の瞳が今にも泣き出しそうで。
「それがなんだっていうのよ」
ああ、思い出した。
ようやっと、ルナチャイルドは気付く。
これはかつての記憶。
確か、この間の十六夜のことだ。
よく晴れた夜だった。
ルナチャイルドは、いつものように夜の散策に出かけたのだ。
月の光の妖精であるルナチャイルドは、元々夜が活動の主体だ。普段はサニー達に合わせているものの、やはり本来の彼女はこうした月夜を好む。
特に十六夜は月から何かが落ちてくる。それが楽しみで、林を縫って飛ぶルナの顔はつい綻んでしまうのだ。
そんな夜に、彼女に出会った。
「こんばんは」
鬱蒼とした木々の陰から、木洩れの月光を浴びた彼女が声をかけたのだった。
腰まで届く長い髪。幻想郷では珍しいブレザーとプリーツスカート。特徴的な頭の耳と、何よりも彼女の証である紅い瞳。
鈴仙。自称月のウサギ。
面識はあるが、そうしょっちゅう出会う相手ではない。ましてやこんな夜中に。
「そう警戒しなくてもいいじゃない。何もしないわよ」
ほらほら、と空手を振って見せて鈴仙が苦笑する。
その様子を木の陰に隠れて伺いつつ、ルナはじっとりと鈴仙を睨む。
「な、何の用よ」
つい声が上擦ってしまうのは仕方が無い。
そんなルナを見て、やれやれと腰に手を当てて、鈴仙は言う。
「違うでしょ。夜の挨拶は?」
「……こんばんは」
よろしい、という風に彼女は頷く。子ども扱いされて少しむっとしたルナだったが、その会話のおかげで緊張がほぐれた。
「ちょっとお話したいんだけど、いい?」
既に主導権を握られた側としては、イヤとも言えない。それに、実際危ないわけでもないらしい、と判断する。
恐る恐る鈴仙に近づくルナに、鈴仙は微笑みかけつつ言葉を続ける。
「あなた達って、いつもこのあたりで遊んでるの?」
いつも、といえばいつもになるか。しかし、日によって遊びに行く場所は変わる。神社の周辺が多いが、この辺りもテリトリーと言えばそうだろう。
曖昧にルナは頷く。
「そう、いつもどんな遊びをしてるの?」
当り障りのない会話が続く。
鈴仙の意図が読めないながらも、言葉を交わすうちにルナの口は自然と滑らかになった。
サニーがいつも寝坊助なこと。スターのおかげでいつも酷い目に遭うこと。珈琲は美味しいけれど、飲むのが自分だけだから豆を挽くのが面倒なこと。新聞に載ったのはいいけど、自分はいつも怪我しているとこばかりで見栄えが悪い、などなど。
とりとめのない、風で流れて散ってしまうくらい中身の無い、それでいて意外にもルナにとっては楽しい会話だった。
ふと話が途切れて、二人で天の月を眺めていた時。
鈴仙は、ぽつりと言った。
「しばらく、この辺りには来ないほうがいいわ」
唐突すぎて、何を言っているのかとルナは思った。
ルナの戸惑いに構わず、鈴仙は言葉を続ける。
「少し前に、薬売りに里へ行ったんだけど」
鈴仙が住まう屋敷は、薬屋を営むという。たびたび鈴仙は里へ薬を売りに出るらしいのだが、
「そこでね、お葬式があってたの」
女の子だという。
「そうね、背格好はちょうどあなたくらいの子らしいわ」
ありふれた平屋建ての家に鯨幕がかかっていた。弔問の客は一様に喪服に身を包み、俯いてその家の玄関をくぐる。かすかに香る線香。すすり泣く声。喪主の男はその女の子の父親か。巌のような顔を歪めて、ぐいと引き締めた唇の強さが男の悲嘆の深さを物語っていたという。
ルナは、鈴仙がなぜその話をするのかわからなかった。どういう反応を返せばよいのか。妖精の身には葬式は無縁だ。だから、その話はルナには正直ピンとこない。
だが、それでもただ話を聞いているだけでは落ち着かなかった。胸の奥がむず痒い気分を持て余して、ルナは尋ねる。
「その子は、なぜ、死んだの?」
その問いに、鈴仙は答えた。ルナを見て。
「穴に落ちたのよ」
淡々とした物言いが、なぜかルナの心に刺さる。
「助けを求めても、誰も気付かなかった。誰も助けられなかった」
どうしてそんな話をするのだろう。
「そういう、事故よ」
鈴仙が視線をルナから外して月を見る。
その挙措が、わけもなくルナの心をざわめかせた。
「それがなんだっていうのよ」
つい反射的に、そんな言葉が口をついた。
ルナ自身が戸惑うほどに、強い口調で。
鈴仙は応えなかった。
ただ、黙って月を見上げる。
その横顔が、なぜそんなにも悲しそうなのか。なぜそんな話をするのか。
しかし、ルナは答えを読み取ることもできず、やはり黙って彼女を見て待つのみだった。
風が吹いた。鈴仙の長い髪がたなびき、ルナは帽子を押さえる。
そして、鈴仙は再びルナを見て、笑いかけた。
「話し込んじゃったわね。私はもう帰るわ」
ルナから離れて、鈴仙はふわりと浮き上がる。
「ま、待ってよ。そんな唐突に」
自然に、ルナは追いすがる。
「なんで、私にそんな話をするの?」
鈴仙は宙からルナを見下ろして、儚げに微笑んだ。
そして、
「月にゆかりのある者の誼み、かな」
そんな言葉を残して、そのまま夜闇に溶けるようにして消えた。
残されたルナは、彼女が消えた辺りをただ呆然と見つめる。
「……な、なんだってのよ……」
名状しがたい居心地の悪さを振り払うように口を尖らせる。しかし、それでもその場を離れがたい彼女は、そのまま立ち尽くすしかなかった。
「あっ痛……」
きしむ体の痛みで目が覚めた。
「あー……」
ぼんやりした視界が形をなして判断できるようになるまでしばし。
眠っちゃったのか。
ルナチャイルドはようやく現実を認識する。
さんざんに叫び、泣き疲れてそのまま眠ってしまったらしかった。
右腕を下にして寝ていたらしく、右腕と右頬は下に敷いた服ごしにゴツゴツと石が食い込んで痛い。背中は傷めているから無意識にこういう姿勢になったのだろう。
我ながら、よくこんなところで眠れたものだわ。
内心呆れるが、久しく忘れていた笑いをルナに取り戻させた。口元を綻ばせる程度ではあったが、それでもいくらか気分が良くなる。
起きるのも面倒だ。しばらくこのままでいよう。
そう決めて、目を閉じる。どうせ今のままでは状況は変わらないのだ。
ふと、足に違和感があった。ぬるりとまとわりつく泥の感触。
そうか。服の上に寝てるから、足が出ちゃうんだ。
泥には今でも慣れないが、いちいち起きてどうにかするのも面倒くさい。
今までこれで眠ってたんだから、これでいいや。と、寝起きの頭はなげやりな判断を下す。
ただ、目は閉じていても、頭は次第にクリアになっていく。
まぶたの裏には、先ほどまで見ていた夢の残滓がよぎる。
しばらく、この辺りには来ないほうがいいわ。
その言葉を思い出す。
今の今まで、すっかり忘れていたのだ。先の夢を見るまでは。
あの月ウサギの警告の意味。
「ここが、その穴ってことかしら」
そうなのかもしれない。
ある女の子がこの穴に落ちて、誰にも助けられないまま死んでしまった。
人間の大人ですらここから登るのは容易ではないだろう。ましてや子どもでは。
だが。
本当に、それだけのことだろうか?
妖精は空を飛べる。普通なら、穴に落ちることなど無い。仮に落ちたとしても、羽さえ無事なら脱出は容易だ。今回のルナチャイルドのケースが特殊なのだ。
本来、警告されるようなことではない。
それだけではない。
何か意味があるのだ。
自分が忘れているもの。見落としているものがあるのだ。
ルナは横になったまま、目を瞑って考える。
元来、妖精は忘れっぽい。昨日のことすらまともに覚えていないことだってあるのだ。
だが、それでも思い出さなくてはならない。
何か、鍵があるはず。多分、手がかりは自分の中にある。そうでなくては、鈴仙の警告は意味をなさない。
もし、この辺りでその女の子が穴に落ちて死んだとしよう。
では、なぜその女の子はこんなところまで来たのか。
里から神社までの道からは外れている。木の実や山菜を取るためだとしても、子どもの足からすると里からはやや遠い。
何のために、こんなところまで来たのか。
その目的は何だろう。
誰かに会いに来た? しかし、その誰かって誰? そもそも人間の大人ですらろくに見かけないというのに。
単に道に迷ったのか。迷子になった。それが一番ありそうな気がする。
それがなんだっていうのよ。
ぞわりと、背筋を冷たいものが撫でる。
なぜそんな言葉を思い出すのだろう。
なぜ自分は鈴仙にあんなことを言ったのだろう。
ルナは自問しつつ、その答えに慄く。
まさか。まさか、そんなことが。
今日は久しぶりに巫女や魔法使い以外の人間を見た。
では、
その前は何時見たのかしら?
「まさか!」
ぎゅうと拳を握り締めて、その考えを否定しようとする。
だって、覚えてないもの。知らないもの。
ああ、でも、それは忘れているだけかもしれない。それがルナには恐ろしい。
もし、道に迷ったのではなく。
迷 わ さ れ た の だ と し た ら。
「違う!」
全力で否定する。
違う。違う。違う。私達のせいじゃない。私達以外にも妖精はいるもの。
知らず、頭を抱えるようにして耳を塞ぐ。
まるで、そうすれば心の声が聞こえないといわんばかりに。
だが、一度浮かんだ考えは、意識するほどにその輪郭を整えていく。
妖精は刹那的で享楽的だ。あまり物事を深く考えない彼女達は、自らの行いがどういう結果を迎えるのかを予想しない。
人間とみればちょっかいを出すのは、もはや性分ともいうべきものだ。
それこそ、
惑わせて穴に落とすなんて、造作もないこと。
だが、普段穴に落ちたことの無い妖精達は、その穴がどれほどの深さかを意識しない。
罠に引っかかるその間抜けぶりを見て笑いたいだけの彼女達は、そこまで考えない。
人間から見れば、その悪戯が極めて危険なことだとは、思いもよらない。
なぜなら、自分達にとっては危険じゃないのだから。
だから、穴に落ちたらそこでお仕舞い。
ああ、楽しかったね、で次の獲物を探すのだ。
そう、まるであの時のように――。
「違う!」
ルナは叫ぶ。否定すれば過去は無くなるとばかりに。
覚えてはいない。鈴仙が言う女の子のことは本当に知らない。
しかし、忘れているだけかもしれない。そして、それはおそらく、そのとおりなのだ。
妖精は忘れっぽい。それは、すなわち罪を知らぬということ。
だが、人間は覚えている。
しつこく根深く、自分達に起こった悲劇を覚えている。
そして、願っているのだ。断罪の日を。
伺っているのだ。反撃の機会を。
いつしか、ルナの歯が震えてかちかちと音を鳴らす。
きっとあの男は、その女の子の父親なのだ。
ルナはそう直観する。
復讐に来たのだ。妖精達に。私達に。ルナチャイルドに!
この辺りに来たのも、多分、その犯人の妖精を特定するため。
わざと妖精に惑わされに来たのだ。自ら囮になって、捕まえるために。
そして、
「だから、この穴なんだ……」
ルナチャイルドはついにそのことに思い至る。
そうだ。木の枝にぶつかって気絶して穴に落ちるなんてあるわけない。
気絶したあと、その男に羽で飛べないように傷を付けられて、穴に放り込まれたのだ。
彼の娘と同じ目に遭わせる為に。
ぶるり、と体を震わせる。
単純に痛めつけるだけでは飽き足らないのだ。
その怨念の凄まじさに、ルナは総毛立つ。
サニーは、スターは、どうなっただろうか。
あの男が、そう簡単に復讐を諦めるとは思えない。あの二人にも危険は及ぶだろう。
「やっぱり、早くここから出なくちゃ……!」
ルナですら、このままで済むのか怪しい。もう、あれからだいぶ時間が経ってしまった。
男が穴の近くにいるのかはわからない。しかし、このままこの穴にいるのは、ほぼ間違いなく最悪の選択肢だ。
なんとかして、ここから脱出しなければならない。
半ば衝き動かされるように、ルナは起き上がる。何か考えがあるわけではない。ただ、その肌に絡みつく危機感から、動かざるをえないのだ。
焦燥が身を駆るままに、立ち上がる。
立ち上がろうと、した。
「え?」
バランスを崩して、そのまままともに前から倒れる。
派手に泥水を飛ばして、転倒する。
「あっツゥ……! なんだってのよ、もう!」
毒づきながら身を起こして、もう一度立とうとして、
その時に、気付く。
「……あれ?」
ルナチャイルドの足が、
無くなっている。
「……え?」
呆けたように、ルナは足の先を見る。
両足とも、膝から下が、無くなっている。
「……あ?」
ルナの認識が追いつかなかった。
痛くもない。痒くもない。それなのに。
「な……んで」
脳裏によぎる。
先ほどまで、足のそのあたりは泥に浸かっていたことを。
「ま……さ、か」
先ほどまで彼女が足を置いていた泥の先には、
彼女の靴が、残っている。
「ヒャ……あッ……」
悲鳴が出てこない。あまりに大きい衝撃は、呼吸すら止める。
気付けば、全身泥まみれだった。
「ヒ……イ、イヤァァァァァッッ!!」
走って、彼女がいた服の上まで戻ろうとする。だが、足の無いことを体で認識しないままのルナは、またも転倒し、泥を浴びてさらに悲鳴を上げる。
泥の中でもがき、体は反射的に起き上がろうとして、また倒れる。倒れたルナは、せめて泥の付いていない石の上だけでも、と石に手をかけて。
その石に穴が開いていることに気付いた。
気付いてしまった。
そして、ようやっと、それが石でないことを、知る。
厚い雲が、わずかに切れて、中天の日光が差し込む。
その光が、それまで暗くてわからなかった、穴の底を照らした。
ルナチャイルドは知る。
今まで、自分がどこにいたのかを。
その泥の中に埋もれていたのは、
夥しい、骨の山。
「キアアアアアアアアッッ!!」
ルナは手にした髑髏を力いっぱい放る。投げられた髑髏は、コツンと他の髑髏に当たり、口を開けて転がった。
「いやぁぁァッ!! イヤアアアッ!!」
ルナはあがく。
この穴からの脱出を望んであがく。
何度も転びながら、それでもやっと壁まで辿り着き、ほとんど恐慌に駆られるままに土壁を引っ掻いた。
だが、ぬるぬると滑る壁は彼女の小さな爪では捕まえられない。当然だ。ウツボカズラは獲物を逃さない。
それでも懸命に壁を掻いて、つるりと滑ってまた転んだ。
いつの間にか、手首から先は溶けて無くなっていて、それを見たルナの正気がさらに失われた。
ごめんなさい。ごめんなさい。
悲鳴を間断なく上げ続けて、いつしかルナは謝罪を心に繰り返す。
きっと、ここは彼女達妖精の罪の証。
彼女達に落とされた犠牲者達の墓標。
ごめんなさい。ごめんなさい。
きっと待っていたのだ。待ち構えていたのだ。
愚かにも罪を知らぬ者共が罠にかかるのを、首を長くして。
ごめんなさい。ごめんなさい。
ルナは謝る。心の底から悔いる。もう許してと願う。
だが、周りの骨は鎮まらない。怨嗟を泥に変えて、ルナをじわりじわりと呑みこんでいく。もう、ルナの胸の辺りまで泥が迫っていた。まだ下半身は残っているのか、それとも溶けてしまったのか。それは既にルナの知るところではない。もう肘の上あたりしか残らぬ腕を振り回して、なおもルナは叫ぶ。
数多の骨が、彼女の肩に、顔に、髪に掴みかかる。きっと、その中には例の女の子もいるのだろう。力を振り絞って逃れようとしても、がっちりと食い込んで離れない。支えるもの無く、引きずり込まれるままに鼻の下まで浸かって、悲鳴を上げることすらできなくなった。彼女がかつて知らぬ恐怖を表せるのは、引きつって大きく見開かれたその目しかない。
仰向けに引き倒されて、彼女が最後に見たのは。
こことは別世界かと思わせる、円く切り取られた、青い空。
……。
…………。
歌が聞こえる。
…………。
何の歌だろう?
…………。
よく聞き取れない。
…………。
でも、聞いていると何だか楽になる。
体が軽くなって、暖かい。
…………。
誰かが話している。
…………。
…………。
誰だろう。
…………ね。
もう…………?
知っている声。
ええ…………。…………わね。……るんじゃ……?
…………というには…………。……し……すぎて……。
誰だっけ?
…………わね。…………いたらすぐに…………と…………たんだけど。
あなたは…………ら? 私が……で……。
ううん、わかんないや。
何もかもがどうでもいい感じ。
…………!
あ、痛い!
…………ド!
そんなに揺らさないで!
何なのよ、もう。
…………ド!
うるさいなあ。何が……。
「起きなさい! ルナチャイルド!!」
「うわあっ!」
その一喝で、ルナチャイルドは目を醒ました。
鼻が付くほどに近い位置で、誰かの瞳がルナを見る。
「あ、気付いた」
そう言って、その人物は少しだけ顔を離す。すると、やっと誰なのかがわかった。
「こんばんは」
と彼女が笑いかける。
「ほら、夜の挨拶は?」
「……こんばんは」
ルナが応えると、彼女、鈴仙は、よろしい、という風に頷いた。
挨拶をしたところで、今が夜であることに気付いた。天には息が止まるほど冴え冴えとした、満月。
上半身を起こして、辺りを見回す。穴の底ではなかった。鬱蒼とした林の中。青い下生えを分けるようにして、ルナは寝ていたのだった。服は無くて、素っ裸だった。しかし、身体のどこにも痛みは無い。
「……どうして?」
その問いに、ルナの横手から誰かが答えた。
「そこの月ウサギが助けたのよ」
声の方を見ると、そこには紅白鮮やかな衣装の娘が腕を組んで立っていた。
神社の巫女である。
憮然とした様子の巫女から鈴仙へ視線を戻す。鈴仙は、呆れたようにルナを見て頷いた。
「ちゃんと忠告したでしょう。もしかしたらと思って来てみたら……」
そう言って笑う。
その笑顔につられるように、
「あ、ありがとう」
ルナの口から、自然と、感謝の言葉が滑り出た。
助かったのか。
ルナは、安堵はするものの、まだどことなく実感は薄い。
助かった。本当に、助かったのか。あの穴の底から。
数多の白骨。体を呑みこむ泥。そして、溶けていく自分。
思い返すだけでも肌が粟立つ。恐怖の残滓は未だ新しく、知らず、ルナは自らをきつく抱き締める。
だが、降り注ぐ月光が、生還したルナを暖かく祝福した。ルナチャイルドは月の光の妖精。月の光がある限り、彼女は自らの姿が保てる。多分、損なわれた身体が月光を浴びて回復したのだ。その光の柔らかさを肌で感じながら、ルナはあらためて感謝を心に込める。
ありがとう。
「落ち着いた? それなら、ちょっと訊きたい事があるんだけど」
そう言いつつ、霊夢はルナのところへ歩み寄った。ルナの前にしゃがんで、座るルナと視線を合わせる。
普段、緩やかに縁側でお茶を飲むだけの霊夢の眼が、いつになく鋭かった。その瞳を直視できず、ルナは思わず顔を伏せる。
そんなルナの様子に構うことなく、霊夢は続けた。
「私は、元々別件でここに来たの。一応、事情はだいたいわかってるんだけどね。後は確認だけ」
霊夢の言葉にも、普段の彼女には見られない色が見えた。
おそらく、彼女は怒っている。
「とりあえず、全部話しなさい。あんたが知ってること。経験したこと全部」
有無を言わさない口調の霊夢を前に、ルナは抗うことなどできなかった。
いつものように遊びに出かけたこと。男を見つけて、いつものように悪戯をしかけたこと。男に追いかけられて逃げ出したこと。その後、記憶が飛んで、穴に落ちたこと。そして、穴の底での身も心も凍る恐ろしい出来事。
ルナは自分が知る限りのことを、訥々と語った。霊夢はルナの話にほとんど口を挟まなかったが、ルナが穴の底で白骨に襲われたことを聞いてぼそりと呟いた。
「やっぱり、コドクか。まったく、アナクロにも程があるわ……」
その言葉には、霊夢らしからぬ苦さが滲んだ。
やがて、ルナが全てを語り終えると、しばしの沈黙が下りる。
ルナは俯いたまま。霊夢も、そして鈴仙も言葉を発さない。
さあっと風が吹いて、葉擦れの音が風の道に沿って流れていった。風は三人の髪をなぶり、霊夢が手にした幣束が、かさかさと音を立てる。
風が過ぎて、音が止んだ頃、霊夢がぽつりと言った。
「あんたは、自分がやったことがわかってる?」
その言葉が、ルナの心を弾く。弾かれるままに体を震わせて、ルナはいっそう深く俯いた。
「わかってる?」
重ねて問われて、ルナは無言で頷いた。
ルナ達に、悪意は無かった。ただの遊びだった。しかし、それでも罪は罪。
穴に落ちた女の子は死んだのだ。ルナは助かったが、その子は助からなかった。
ルナと同じように、精一杯助けを呼んで、なんとか登ろうと頑張って、それでも叶わなかった。
同じ経験をしたルナは、今だからこそわかる。その不安が。その寂しさが。その痛みが。その恐怖が。
わかるがゆえに、ルナは言葉も無く唇を噛み締めて、涙を零した。
霊夢は、声を殺して泣くルナを、ただ黙って見つめる。
「ねえ、反省してるようだし、許してやったら?」
鈴仙の言葉にも霊夢は応えない。
やがて、泣き続けるルナをそのままにして、くるりと背を向けて離れた。
そして、言う。
「本来なら、私があんたをぶっ飛ばす役目なんだけどね」
振り向いてルナを見る霊夢の眼からは、険が消えていた。
「実は今、あんたに構ってる場合じゃないのよ。どっかのバカがやらかしたことの始末をつけなきゃなんないの」
霊夢は、幣束でルナの後方を示した。顔を上げたルナは、慌てて涙を掌で擦ってそちらを見る。
そこには異様なものがあった。
無造作に地面に突き立った木の棒が、円状に並んでいた。それらを注連縄が囲み、御札が幾重にもべたべたと貼ってある。明らかに、やっつけ仕事くさい。
そして、それらが囲む真ん中に、
穴が、あった。
「コドクのツボよ。あんたが穴の底で見たのは、贄に使われた動物の骨。本来、贄の怨念をまとめあげて呪詛としてぶつける装置だけど……」
術者が死んでるから暴走してるわ、と霊夢は呟く。その表情は、苦い。
「おかげさまで、見境なく取り込んで食べようとして危険なのよ。一応、適当に結界を張ってるけど、これだけ強いともっとちゃんとした封印が要る。『散らす』にはさらに時間が必要だわ。浄化するまで十年かかるか百年かかるか」
霊夢は首をすくめた。
「まあ、そんなわけで、私は忙しいの。あんたも痛い目に遭ったし、あとは勝手に反省でも後悔でもしてちょうだい。ただ――」
これだけは覚えておいて、と霊夢は表情をあらためた。
一人の人間の死が、これだけのことを為すきっかけになる。より多くの血を呼ぶことがある。
それだけは、忘れないでほしい、と彼女は言った。
霊夢と別れて、家路につく。
霊夢はこれから徹夜で例の穴を封印するのだという。
夜の森を、鈴仙と並んで歩く。鈴仙はルナを家まで送ると言ったのだ。ルナは初めは断ったが、鈴仙は譲らなかった。
結局、ルナが折れて今に至る。
「歩いて大丈夫?」
鈴仙の気遣いに、ルナは無言で頷く。羽は飛べるまでに回復していたが、しばらくはまだ、ゆっくりと月の恩恵を受けて歩きたい気分だったのだ。
服は穴の底だったので、鈴仙が上着を貸してくれた。ルナにとってはサイズが大きすぎて、袖には届かないし膝まで隠れたが、それでも裸よりはマシに違いない。
ルナは裸足でとぼとぼと歩きながら、まだ現実感の乏しい心を持て余していた。
身体は回復していたが、心は疲れている。霊夢の言葉が頭の中で反響して、ルナ自身の言葉は形にならなかった。
無言が続く。本来妖精はお喋りなものだが、さすがに今のルナには億劫だった。
「少し、話をしてもいいかな」
鈴仙が沈黙を切った。
「いや、話を聞いてほしいだけ。あなたには知っておいてもらいたいの」
意図を図りかねて、ルナは鈴仙を見上げる。そのルナに寂しく微笑みながら、鈴仙は話し出す。
あの女の子は、どういった少女だったのかを。
「その女の子はね。元々病気にかかってたの。そんなに長くは生きられないって言われてたわ」
彼女の両親も、そして女の子本人もその運命を受け入れて諦めていたらしい。
だが、最近開業した永遠亭の診療所が、その状況を変えた。そこで処方される薬で、彼女の病は治る見込みが出てきたのだ。
「まあ、毎日定期的に薬を飲まないとダメなんだけどね。それでも、確実に死ぬというのに比べれば大した問題じゃない」
そう、問題じゃないはずだった。
その事が起こらなければ。
彼女は、穴に落ちた。
たまたま、天気が良かった。
たまたま、綺麗な花を見かけた。
病気で床に臥せることの多かった少女が、薬のおかげで久しぶりに外に出られた。
その歓びが、不慣れな山道を誤らせた。
様々な偶然が重なったのだ。
それは、残酷な運命の悪戯。
もし、妖精が自然の具現だというのなら、彼女の運命は決まっていたということなのか。
「穴に落ちても、幸いあの子は怪我はしなかった。普通なら、助けるのが多少遅れたって大丈夫なんだけど」
彼女は、定期的に薬を飲まなければ身体が保てない。
一日が過ぎて、彼女が見つかった時には、既に事切れていた。
「病気が治るって喜んでた矢先だったからね。あの子のお父さんもお母さんも、それはもう悲しんで……」
やがて、彼女の死に妖精が関わっていることが明らかになる。
「『幻想郷縁起』って知ってる? 最近、出た本なんだけど、それにはあなた達のことも載ってるの」
悲嘆が、憎悪に変わった。
思いをぶつける対象ができたことで、人が変わった。
希望に満ちた日常を奪った相手への復讐が、彼女の両親の新しい生き方となった。
「半分、正気を失ってたかな。あなたには分かる? 人間は、ああなっちゃうと本当に怖い。どんな妖怪なんかより、世界で一番怖いのは人間だよ」
そう、それはそうだ。ルナも蒼白な顔で頷く。
今になってわかる。
穴の底に渦巻いていた怨念の深さの一端を。
「でもねぇ」
鈴仙は、そこで、ふぅと息をついた。
そして、やれやれといった風に肩をすくめる。
「結局、あれだけのことをした術は失敗したの」
え?
ルナは聞き違いかと思った。
『失敗』? 成功ではないのか。現に自分は……。
「霊夢が言っていたでしょう。術者が死んだって。あれはとても強力な呪いがかけられる術らしいんだけど、術者が扱いきれないと術者に呪いが返るらしいわ。もっとも、彼はそのことを覚悟してたみたいだけど」
元々、素人が執念だけで独学で為したものだ。成功の見込みは少ないという。
「でも、途中までは上手くいってたのよ。あなた達、いつか本を拾ったでしょう?」
それは、子ども向けの植物図鑑。
「あれはね。元々、病気がちで外に出られないあの子のために、父親が森の外れのお店で買ってきたものなの。今回はあれが呪術の最初の鍵」
コの血を付けて、獲物が罠にかかるのを待ったという。
「あれを呼び水にしてね。全員捕まえて、穴に閉じ込める計画だったんだけど」
彼女達の力の源である光を遮ることで、身体が復活しないようにするのだという。
あれ?
鈴仙の言葉に、ルナは違和感に気付く。
光を遮る?
あの穴は、確かに光は乏しかったが、それでも穴は閉じていなかったはず。
「でも、失敗しちゃった。あなたで最後だったんだけど、彼は途中で力尽きたわ」
おかしい。
ルナは、心がざわつくのを感じる。
なぜ、
鈴仙はそんなことを知っているのだろう?
いや、待て。
「私で最後!? じゃあ、サニーとスターは!?」
鈴仙はルナに応えなかった。
おかしい。
なぜ、鈴仙の口元には笑みがあるのだろう?
ルナの頭の中を、ぐるぐると言葉が回転する。
そうだ。
ルナは木に頭をぶつけて気を失っていたのだ。
穴に落とされた記憶は、ルナには無い。
いったい、どれくらい長く、彼女は気を失っていたのだろう?
「罪というのは、その重みを知らないと罪であることがわからないわ。そう思わない? 私は、最近説教くさい裁判長の人に会って、そのことに気付かされたの。その重みを知らないままに罰せられても、意味がないのよ」
なぜ、鈴仙はそんなことを言うのだろう?
ルナの歩みが止まる。
鈴仙を見上げたまま、彼女は後退る。
「一番の予定外は霊夢だわ。一応、ことが終わった後とはいえ、あの穴に気付いて封印しに来るなんて」
ルナは彼女に背を向けて走り出す。
彼女から服を借りていたことを思い出し、その服が彼女の手の内であるように思えて、ルナは悲鳴をあげてブレザーを脱ぎ捨てる。
「おかげで、最後にもう一仕事しなくちゃならなくなった。霊夢が『残った』あなたに気付いたら、あなたを助けるでしょうからね」
悲鳴を上げて走る。
だが、ルナの声は消えていて、鈴仙の声だけが耳に届いた。
そのことで、一つ知ったことがある。
穴の底で、あれほどに助けをもとめて、誰も助けに来なかった理由を。
誰かが、
彼女の声を消していたのだとすれば。
なぜ。
なぜ、こんなことをするのか。
ルナは涙で歪んだ視界の中で、声にならぬ叫びを上げる。
「罪を背負う、月にゆかりのある者の誼み、かな」
ルナの足が、空を踏む。
あ、と思った時には世界が反転していた。
絶望的な浮遊感と落下感。
とっさに何かを掴もうと延ばした手には何も触れず、支えるものの無い体が倒れて落ちる。
ああ、いつもこういうことをしてたんだな。
心のどこかで諦めた自分が、そのことに気付いて苦笑する。
仰向けになって落ち続けるルナチャイルドを、天空の満月だけが見ている。
とありますが
身体が復活しないようにする
もしくは
身体を復活させないようにする
の方がより良いかと思います
いろいろ深いですね。
良い作品ありがとうございます。
しかし二転、三転、どころか四転、五転する構成に、目を逸らす事もできず引き込まれました。お見事です。
あーなんか久々に満足できた気がする。
本当にありがとうございましたw
あれ、ひょっとしてこの事件の黒幕はうどんげなのでしょうか?
でも普通の妖精でも弾幕程度は扱えるのに、それより力の強い三妖精が人間相手に恐れをなす必要があるのかな?
もしかしてその女の子は鈴仙の知り合いで復讐に加担?
人を呪わば穴二つ、もしかしてこの後れいせんも……
うーむ、この何ともいえない余韻…空恐ろしくなる描き方でした…
面白かったです。
息の詰まる壺の中の幻燈に惹き込まれました。ウドンゲの動機がもう少し明示されていると良かったと個人的には思いましたが、その点は作者様が意図的にぼやかしている様な気もします。ウーム。
うどんげこえー。
>ああ、いつもこういうことをしてたんだな。
ということを気づかせるための、鈴仙による幻覚だと思いたい
じゃあないと怖すぎて(;´Д`)
ほっとさせといて、また引きずり落とすとかもう
誤字情報:
分かれる→別れる
これは良作ホラー。
つーかマジ怖い
ありがとうといいたい
ここでこういったタイプの作品を読めるとは思いませんでした。こういう話は大好きです。ありがとう
すっごい面白かったです。
お気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、この話は元々コンペ用に考えたものです。
コンペには間に合いませんでしたが、その分、いろいろと材料足したり煮詰めたりできたので、作品としては良くなったと自負しています。
鈴仙の動機がわかりにくいというご指摘ですが、『怖さ』を求めるために、あえて明確には書いてません。鈴仙から見るとわかりやすい話になるんですが。
そんなわけで、細かい理屈はおいといて、「怖い」と感じていただけたなら、作者としては満足です。
どうもありがとうございました。
面白かったです。
誰の視点かによって物語の見方が変わるな。
最後のオチまでの流れが見事。
それにしてもホラーは読みたくないのに……途中でホラーかなあ?とうすうす気づいていたのに、やめられませんでした。
いやー怖かったです。
それで全体がすぱっと繋がった。
それが行き過ぎだと気づいたときには、もう遅かったんですね。