月の”声”が聞こえる。
遠く遠く、高く高く、空よりもずっと上にあるそこからの”声”が聞こえる。
耳を背ける事は出来ない。その”声”を聞くのに必要なのは耳では無いからだ。
月の”声”が聞こえる。
それはもうずっと昔に聞いた一つの意思。それは私たちへなのか、私へなのか。今もずっと聞こえる。
ウラギリモノ
ずっとずっと、私には聞こえる――
*
「――げ。優曇華?」
「……あ」
ハッと鈴仙は顔を上げる。そこには首を傾げた永琳がいた。急に現れたような錯覚に見舞われるが、永琳は先ほどからずっとそこにいた。勿論鈴仙も。
上の空の返事を返す鈴仙の額に、そっと永琳の手が添えられる。
「熱は無いわね。……どうしたの、ボーっとして」
「い、いえ。すみません。少し考え事を」
誤魔化す様な笑顔を浮かべる鈴仙に対し、永琳は少し考える素振りを見せる。
ここ数日、鈴仙の様子がおかしい事に気づかなかったと言えば嘘になる。家事中や薬品調合を教えている最中、食事時にも彼女は何処か遠いところを見ているような目をする。
その理由にも大体想像はついていた。
今まで月の使者と幻想郷の住民の両者から隠れ忍び生きてきたのだ。それが永夜事件後、急に両者から解放された。前者からは使者は来ず、後者は恐れる必要すらない住人だった。
そして幻想郷は”外”から隠れ忍ぶには最適の場所だとわかった。幻想郷では誰とどのように接しても身の危険はさほど無い。
するとどうだろう。毎日何かに怯えるように(まぁ永琳も輝夜もそれほどではないが)過ごしてきたのが急に解放される。それなりに充実した毎日を送っていくうちに、鈴仙の中では段々と大きくなっていく後ろめたい感情があるだろう。
月を裏切った自分がこんな楽しく過ごしていていいのか、と。
こればっかりは時間が解決してくれるのを待つしかない。
溜息を一つ、永琳は席を立った。
「優曇華、今日はここまでにしときましょう。少し外の空気でも吸ってくるといいわ」
「え? あ、はい」
やはり何処か上の空に、鈴仙はゆっくりと部屋を出て行く。どうしたものかと考えながら本などを片付けていると、コンコンとノックの音が転がった。
「どうぞ」と返すと、地上の兎、てゐがひょっこりと顔を出した。
「あら、どうしたの?」
「ええと……その、鈴仙さまのことで少し……」
言いづらそうに何度か口を開けたり閉じたりする。永琳は答えに急がず、てゐのペースを待った。
やがて歯切れが悪くも、少しずつ話しはじめる。
「昨日……いえ、本当は結構前からなんですが、うーん……ここ最近、鈴仙さま夜遅くに、よくそばの竹林で空を……いえ、月を見上げてるんです」
「あら……」
「その、最近鈴仙さま様子がおかしいじゃないですか?何かあったのかなって……」
てゐの話はそれで終わりなのか、そこで終わる。永琳もまた「ふむ」と呟き黙り始めた。
永琳は考える。もしかしたら、また月から何か”声”が届いたのかもしれない。鈴仙に限って裏切る事なんて無いとは思う。けれど、
「……よし、決めた」
「え?」
てゐの疑問には答えず、永琳はビシっと扉を指差した。
「てゐ、ちょっと姫を呼んできてちょうだい」
「? はい」
疑問符を浮かべながらもてゐは扉の向こうへ消える。
永琳はカーテンを開け、差し込む光に目を細めながらも空を見上げた。
そこにあるのは太陽。幻想郷の澄み渡った青空、その何処にも月を見つけることは出来なかった。
*
鈴仙は若干項垂れながら帰路についていた。
最近になって急に月の事が気になり始め、しまいには幻聴まで聞こえるようになってしまった。
過去にたった一度聞いてしまった裏切り者という言葉。今はもう月からの声は全く聞こえないのだ。
それでも聞いてしまう。気がつくと月を見上げている。何も聞こえないはずなのに聞こえる。恨みと怒りと哀しみの混じる声。鈴仙は許しを乞う事も、言い訳を言える事も無く、ただただその声を受ける。
そして考えてしまう。
もし、
もし今からでも二人を連れて帰れば、許してもらえるだろうか。
月の住民は受け入れてくれるだろうか。自分は友を裏切ったわけではない。組織を、国を裏切ったわけではない。星を裏切ったのだ。
一方幻想郷は住みづらいわけではない。むしろ心地いい場所である。姫も師匠も、自分も心から笑い合える素晴らしい所だ。そんな所を捨てて……否、幻想郷を”裏切って”、二人を連れて帰る?
(私は……何度裏切れば……許されるの……?)
その許される相手もわからない。けれど罪を持ったのは事実である。
そして考えている全てが自分の保身だけであることに自己嫌悪する。
許して欲しいから裏切る、それではいつまで経っても罪は消えない。しかし一度裏切ってしまった。ならばどうする。
「あら優曇華、おかえり」
ハッと顔を上げると、いつの間にか永遠亭についていた。またボーっとしていたのだと自分にウンザリしながらも、己の師匠に頭を下げる。否、下げようとした。
どうにも永琳はこれから出かけようとしていたようだ。それはわかる。しかし、その横に輝夜が居る事に気づいた。
「姫もお出かけですか?」
「ええ、ちょっと巫女のところまで」
永琳が返す。輝夜は眠そうに欠伸をしていた。
留守番よろしくねと言い残し、永琳と輝夜はすたすたびゅーんと行ってしまった(びゅーんは急に飛んで行った為)。
珍しい事もあるなぁと思いつつも、永遠亭に戻る。
永遠亭内はやけにガランとしていた。長い廊下には必ず地上兎の何匹かは見るのだが、今日はいない。恐らくてゐが集会でもかけているのだろう。
ふと、てゐの顔が頭によぎる。もし月に帰るとしたら、彼女はどうする。彼女はどうなる。
今までお世話になりました、はいさようなら。そんなわけにはいかないだろう。しかし連れて行くこともまた不可能。
更に考える。輝夜も永琳も幻想郷を気に入っている。もし連れて帰るなら、二人とも力ずくで、と言う事になるだろう。
「……無理、だよね。そう……無理なんだ」
もう少しポジティブに生きたい。溜息をつきながら、鈴仙は自分の部屋に戻った。
*
その日の夜、鈴仙は轟音で目を覚ました。
何事かと飛び起き、手早く服を着替え廊下に出る。
「!?」
廊下はすでに惨事であった。負傷した兎たちがゴロゴロと転がっており、とにかく家の中はボロボロである。
鈴仙は自分の波長を操り、まずは冷静になる。自分が今どうすべきか考える。結果、まずは輝夜の部屋に向かった。
「姫!」
障子を開ける。そこに輝夜の姿は無かった。かわりに荒れ果てた部屋が見える。
すぐに鈴仙は体の向きを変え、永琳の部屋へ向かう。
スパン、と勢いよく障子を開けると、そこに永琳はいた。ただし、腕を負傷していた。
「し、師匠!? 一体何が……」
「ッつ……う、優曇華……姫を……」
「え……」
「姫を、お願い……止めて、ここに……」
鈴仙は最初言っている意味がわからなかった。しかし「止めて」と言われたからには、そうなのだろう。
「ひ、姫がこんなことを……?」
永琳は何も返さなかった。それを肯定と取り、鈴仙は迷う。
輝夜を追うべきか否か。いくらなんでも追った所で一人では敵わない、そう考えていた。そして仲間はほとんど負傷している。
しかし選択肢を選ぶほど時間が無いのか、再度轟音が響く。外からだった。
鈴仙はその音を聞くと同時に駆け出した。廊下を曲がり、わざわざ扉まで行くのももどかしく、壁に開いた大きな穴から外に出る。空には丸々とした月が一つ、そしてその元に七色の弾幕を放つ黒髪の姫。
「あらイナバ。貴女は無事だったのね」
「な、何でこんなことを……!」
「何で?」
明るい月が輝夜の背中にあるので、表情は見づらい。しかし、その口が笑っているのが見えた。
クスクスと、着物の袖で口元を隠す。
「しいて言うならつまらなくなって来たの。ちょっとした刺激が欲しくなったのよ」
「そ、そんなこと……」
「そんなこと? 貴女にわかるかしら、蓬莱人の感情が」
鈴仙は言葉を飲む。普段から何を考えているかわからないとは言え、急にこんなことを始めるなんてそれこそ思いもしなかった。
キョロキョロと辺りを見回し、竹林が大分荒れているのを見る。
しかしそこで一つ希望が見えた。幻想郷でここまで暴れれば、少なくとも巫女が動くはず。
そんな鈴仙の考えを読み取ったかのように輝夜が口を開く。
「博麗に期待してるのかしら。無駄な事よ、昼間永琳と何をしにいったのかしらね?私は」
「っ! そ、そんな……。でも、じゃあ師匠も――」
共犯という言葉が出るより早く、輝夜が口を開いた。
「私が裏切ったのよ。全部ぶっ壊してやろうと思って」
そう言った輝夜は、笑顔だった。大人を出し抜いた子供のように誇らしげな、汚れの無い笑顔。
そして輝夜はそっと細い指を袖から出した。その人差し指と中指に挟まれているのは、一枚のカード。
「ねぇイナバ? 幻想郷では手っ取り早い決着のつけ方があるわね?」
「あ――」
「私に勝ったら、何でも言う事聞いてあげるわよ」
刹那、輝夜は声高く宣言した。
「難題『龍の頸の玉』!」
五色の光が輝夜を覆うようにして現れ、更にその光から龍の牙の如く鋭い弾幕が鈴仙目掛けて飛ぶ。
鈴仙は地を蹴り、低空飛行のまま竹林に潜った。まともにやりあっては勝てる相手ではない。
細い弾幕は笹の葉に打ち消されるが、一筋太い牙のような弾幕は竹をへし折り鈴仙を追う。最も、目くらましの小さな弾幕さえ消えてしまえば避けるのは容易い。一つ二つ、軽々と避け、更に目で輝夜を捕らえておく。
手元には数枚のスペルカード。それを一目で確認し、竹林を抜け出すべく空に高く飛ぶ。
しかし輝夜は全て見切っていたのか、彼女を覆う光は更に強くなっていた。
「抜け出せたと思った?残念ね。神宝『ブリリアントドラゴンバレッタ』!」
「なっ!?」
強化された龍の顎の玉がさらに打ち出される。振り返れば先ほど避けた弾が軌道を変え、鈴仙を追ってきている。
やむを得ず、鈴仙はスペルカードを取り出した。
「狂視『狂視調律(イリュージョンシーカー)』!」
宣言と共に鈴仙の姿が二重にも三重にもぶれる。輝夜の目にはそう映ったはずだ。
位相をずらし、輝夜の視界から実体である鈴仙を消したのだ。彼女の目に映るのは残像だけ。
そして鈴仙の撃った弾幕はブリリアントドラゴンバレッタの光を的確に打ち抜く。鈴仙の実体は地面まで降り、一つ目のスペルを突破された輝夜の出方を窺った。
輝夜はスペルを破られたにも関わらず相変わらず笑顔を浮かべていた。余裕の表れか、それとも楽しいのか。恐らく両方だろう。
「波長を操られると厄介ね。何処にいるか全くわからなくなっちゃうもの」
そんな事を言いつつ、もうすでに鈴仙を見つけている。鈴仙もまた見つかっている事に気づいていた。
能力を使っても騙せるのはほんのわずかだ。ちょっとした対策を打たれるだけで全てが通らなくなってしまう。
輝夜は鈴仙に聞こえるように少し大きな声で話す。
「そうねぇ、じゃあこうしましょう。精密な狙いはやめて、大雑把に」
ポンと両の手を合わせると、二枚のスペルカードが姿を現した。
それを見て鈴仙はすぐに駆け出した。その場にいたら押しつぶされるからだ。
「難題『仏の御石の鉢』と『火鼠の皮衣』!」
鈴仙から一歩遅れて雨のような弾幕が降り注ぐ。砕けぬ意思の別称を持つ前者のスペルは絶え間なく対象に降り注ぐ弾幕。根気よく避け続けなくてはいけない。反対に焦れぬ心の別称を持つ後者のスペルは空一面を覆う炎がゆっくりと地面に降りてくる。抜け穴が無く見えるが、触れるその直前まで焦らずに居れば自ずと穴が見えてくる。
その二つを同時に避ける事が可能かと言えば、
「これは……つらい……!」
振り続ける弾幕が止むのはほんの刹那。そんな中冷静に炎の壁から穴を見つけるのは並みの精神力では無理だ。
しかし、鈴仙ならば不可能ではない。
恐らく輝夜もわかっていてやっているのだろう。
すぅっと鈴仙は息を吸い、両の耳を立てる。聞こえる。一つ一つ弾幕の波長が。聞こえる。炎の壁がほんの少し開くのを。
最後に、自分の波長をほんの少し長くした。気持ち悪いぐらいに冷静になった頭で、その炎の穴に二つの弾を放つ。弾は無事炎の壁を抜け、空へと向かった。
当たるかどうかは確認しない。すぐに駆けなければ被弾するのは自分である。
やがてパキンと言う音と共に雨のような弾幕と炎の壁が消えた。鈴仙は地面に尻餅をつき、肩で息をしながら輝夜を見上げる。そこには両手に持ったスペルカードを撃ち抜かれた輝夜が呆然としていた。
「……思ったよりやるわね。こんなにも性格に打ち抜くなんて」
「ハッ……ハアッ……!」
喉の奥がへばり付く様な感覚。飛べるのにも関わらず飛ばなかったのは火鼠の皮衣をギリギリまで引きつけたかったからである。結果、スペルは打ち破ったが激しく体力を消耗することになった。
そんな鈴仙のことなど知った事ではないのか、輝夜は更にスペルカードを出す。
スペル宣言の前に鈴仙が口を開いた。
「何故、」
「?」
「……何故、師匠まで裏切ったんですか」
鈴仙の言葉に輝夜は不愉快そうに眉を歪める。
「さっき言ったじゃない。全部ぶっ壊してやろうと思って」
「本当に、それだけですか……?」
「……そうねぇ、じゃあどんな理由があれば裏切っていいのかしら」
輝夜の言葉に鈴仙は黙る他無かった。
裏切っていい理由なんて無い事は自分がよく知っていたからだ。
「私のこと恨んでるかしら? 恨んでるわよねぇ、裏切るって、そういうことだもの」
「う、恨まれる事……?」
「そうよ。自分の願望のために裏切るの。全部自分のためよ。裏切ってまでやりたい事があるからよ」
「……」
自分は何で月を裏切った?何がしたくて月を裏切った?
それは……
「姫と、師匠が笑ったから……二人が、笑い合える場所を守りたかったから……」
「?」
鈴仙の呟きは輝夜に聞こえない。しかし鈴仙は思い出した。自分が月を裏切った理由を。
生きる死ぬの概念が消えうせるほどの退屈な毎日を二人に与えるぐらいならば、感情を押し出す事の出来るこの幻想郷で暮らそう。幻想郷で暮らす輝夜と永琳を見て、鈴仙はそう誓った。
あまりにも日常になりすぎて忘れてしまったのか。結果、その日常は壊れてしまった。月を裏切ってまで手に入れた日常がすっかり崩れ落ちてしまった。
「もう……戻れないなら……」
鈴仙は立ち上がる。輝夜にはその赤い瞳が一層強く輝いていることだけが確認できた。
次の瞬間、鈴仙はキッと輝夜を見据えた。輝夜もまた受けて立つ様に、真正面から見返す。
「姫……貴女を、連れて帰る」
「……」
「そうだった……長い間忘れてた。それが私の任務。私の仕事。貴女を連れて帰るために、私はここにきたんだ」
輝夜はつまんなそうな顔のままスペルカードを取り出した。
鈴仙もまたスペルカードを取り出す。
「連れて帰る? 生死の価値の無い日常に戻るなんて真っ平ごめんね。難題『燕の子安貝』!」
「私は私の任務を遂行するまで!懶符『生神停止(アイドリングウェーブ)』!」
互いに互いを全方向から囲うスペル。互いに避けるだけの持久戦、そう聞けば体力の落ちた鈴仙は不利である。
しかし鈴仙には能力がある。そしてもう一つ確信がある。輝夜は弾幕ごっこでは能力は使わない。輝夜の能力はこのスペルカードルールでは大して意味の持たない能力だ。
ならば同じタイプのスペルでは絶対的な差が無い限りは、
「えっ!?」
「取った!」
輝夜に勝ち目は無い。輝夜のスペルカードは、またもや鈴仙に打ち抜かれていた。
流石に冷や汗の見える輝夜に対し、鈴仙もまた体力は限界であった。全方向から撃たれる弾幕を避けている事には代わりが無いのだから。
「参ったわね。難題がこんなにポンポンと取られちゃうなんて」
「ハッ……ハッ……、か、勝てば、言う事聞いてもらえるんでしたよね」
輝夜はうんざりしたような、または呆れたような顔で鈴仙を見た。
「そんなに連れて帰りたいの?」
「私の、任務ですから」
話しても無駄、輝夜の表情からそんなことが窺えた。事実鈴仙は自分の意思を曲げるつもりは毛頭無い。今度こそは。
そして輝夜は最後のスペルカードを取り出した。鈴仙もそれを見て、一枚のスペルカードを持つ。
「最後の難題よ。何もかも桁違い、精々頑張ってね」
輝夜は最後の難題を宣言した。
「難題『蓬莱の弾の枝』!」
虹色の弾幕が夜の空に広がる。輝夜のスペルカードを直接打ち抜こうにも、鈴仙と輝夜の間に立ちふさがるようにして虹色の壁が立っていた。
横から抜けようにも、輝夜の視界に居る以上虹色の弾幕が鈴仙を何処までも追尾する。
ならばまず、視界から消える事。
鈴仙は力を振り絞り、再度竹林に潜った。
「脱兎の如くね。でも無駄よ、片っ端で薙ぎ倒すわ」
竹を薙ぎ倒し、次々に地面に突き刺さっていく弾幕。
輝夜がやりすぎたかなと思うころにはすっかり土煙に竹林が飲みこまれていた。
弾幕の数を減らし、輝夜は周囲を警戒する。いつの間にか移動をしているかもしれない、鈴仙ならば不可能ではない。
「月眼『月兎遠隔催眠術(テレメスメリズム)』」
鈴仙のスペルカード宣言は背後から聞こえた。声から距離を察し、輝夜は振り向き様に虹色の弾幕を打ち抜く。宣言が終わる頃には弾幕が届く、輝夜は勝利を確信した。
しかし、背後には誰もいなかった。
「振幅を増やしました。遠くでも、近くに聞こえますね?」
今度は真下から声がした。まさかまだ地にいるとは思わなかった輝夜はすぐに視線を落とす。
そしてそこには、竹林と、誰もいない地面。
振幅、つまり鈴仙は声を操作している。その事を理解すると同時に輝夜の視界がフッと暗くなった。
月に影がさしたか。そう感じた時、今日は雲一つ無かった事を思い出す。
ならば、月と自分の間にあるのは、いるのは――
「終わりです」
「――っ!」
輝夜が月を見上げると、完全に弾幕の準備が整った鈴仙がいた。鈴仙と輝夜の間に、虹色の壁は無い。
自分よりも高く飛んでいるとは。輝夜は最後に自分の迂闊を呪った。
パキン
虹色の弾幕が、姿を消す。
「ぐっ!」
何発かの弾幕に被弾し、輝夜が地面に落ちる。鈴仙もそれを追って地面に降りようとして、バランスを失った地面に倒れた。
よく見れば鈴仙の服もボロボロで、何十発もの弾幕をかすったのだろうと言うことがわかる。
フラフラと立ち上がった鈴仙は、輝夜に右手を伸ばした。
「……私の勝ちです。姫、貴女を連れて帰る」
「……月でも何でも、好きにしなさいな」
「え?」
「……え?」
疑問符を浮かべる鈴仙に疑問符で返す輝夜。
輝夜はガバッと上半身を起こし、鈴仙を見据える。
「ちょ、貴女私を連れて帰るって」
「え、ええ。言いました」
「月でしょ?」
「永遠亭です」
輝夜は何かを考えるかのように月を見上げ、しばらくすると視線を戻して同じ調子で問い掛けた。
「だって貴女さっき任務がどうたらこうたら」
「ええ。さっき師匠に姫を連れて帰って来いって言われまして」
輝夜は何かを考えるかのように月を見上げ、しばらくすると視線を戻して同じ調子で問い掛けた。
「でもほら、私お家とかここら一帯吹き飛ばしちゃったし」
「……はい、全部壊れちゃいました。でもやり直せます。壊れたものを直すには時間がかかりますが、絶対に」
輝夜は何かを考えるかのような素振りを見せ、真面目な顔で鈴仙に問い掛ける。
「月を裏切る事になるわね」
「はい。裏切ってでも手に入れたいものを思い出しました」
フッと、輝夜は微笑む。鈴仙も釣られて微笑む。
はぁー、と大きく息を吐き、輝夜はブツブツと呟き始めた。
「なんか、ちょっと台本と違うけど。まぁ結果オーライよね」
「え?」
今度は鈴仙が疑問符を先にあげる番になった。鈴仙はどういうことかと輝夜を見る。
しかし輝夜の視線が鈴仙より後ろにあることに気づき、鈴仙はくるりと振り向いた。
そこには微笑んだ永琳がいた。けろっとしている。怪我も見当たらない。
「師匠! 怪我は大丈夫ですか!?」
「ええ、嘘だもん」
パチクリと、鈴仙は一度瞬きをした。そのまま思考が追いつかないのか、黙ったままの鈴仙の後ろで輝夜が立ち上がる。パンパンと着物についた土を適当に払い、くぁと欠伸をする。
「あー、もう。疲れた。寝よう」
「え、え?」
「お疲れ様でした姫。ちょっとやりすぎです」
「え、あの」
「久々に体動かすといいものね。でも筋肉痛が怖いわ……」
「え、えー?」
キョロキョロと輝夜と永琳を交互に見る鈴仙の頭上に、ピッと境界線が入った。
「おつかれさまー」
「あらスキマ妖怪」
輝夜が素っ気無く返す。境界線から上半身だけ現れたのは紫である。
紫はバッと扇を広げ、口元を隠す。
「あらあら、こぼれ弾幕の被害拡大を減らしてあげたのに」
「ふぅん、気が効くわね」
「私も博麗には逆らえないのよ」
「え、博麗って……え?」
「そろそろ説明してあげたらどうかしら」
紫の言葉に輝夜は面倒くさそうに「えー」と洩らす。
代わりに永琳が口を開いた。
「優曇華、貴女を試させて貰ったわ」
「た…試す?」
「最近様子がおかしかったでしょ? 月との事でもやもやしてたんじゃないかしら」
鈴仙は視線を落とした。耳がへにょっている。わかりやすいなぁ、と永琳は口に出さず思った。
「そこで貴女が追い詰められたとき、月と幻想郷のどちらを選ぶか試させてもらったわ」
「……じ、じゃあウサギ達がボロボロだったのも」
「演技ね」
「師匠が負傷してたのも」
「演技ね」
「姫が永遠亭を半壊させたのも」
「やりすぎた演技ね」
「やりすぎちゃった」
てへ、と輝夜。きっと眠いのだろう。深夜のテンションは人をおかしくする。
へなへなと力を失い倒れそうになる鈴仙を、そっと永琳が抱きしめる。鈴仙の耳がピンとしたのを三人は見逃さなかった。
鈴仙が何かを言うより早く、永琳が呟いた。
「貴女が月を裏切ってでもここを選んでくれてありがとう。嬉しかったわ」
最初は背筋を伸ばしていた鈴仙だが、その言葉を聞くと永琳に体重を預けた。
顔は隠れてしまっていて誰にも見えなかったが、小さく震える肩だけは確認できた。
*
ごしごしと目元を拭ってから鈴仙は顔を上げた。
そしていくつか気になることを口にする。
「ところで、結局神社には何をしに行ったんですか?」
「ああ、それね。大体わかると思うけど、ちょっと夜うるさくなるけど気にしないでってお願いをしに」
ちょっとどころではない。永遠亭周辺の竹林は大体吹っ飛んでいる。
鈴仙も流石に冷や汗を流し、辺りを見回しながら言う。
「よ、よくあの巫女が許してくれましたね」
「あら。お賽銭投げて筍の差し入れを持ってったら二言返事だったわよ」
鈴仙は再度涙腺が緩みそうになった。巫女の生活苦な意味で。
恐らくこの場に紫がいるのも巫女の差し金だろう。さきほどそんなことを言っていた。
その紫は相変わらずスキマからやる気無さそうに上半身だけ出し、睡魔に襲われ首がガクンガクンなってる輝夜を支えているようだった。
「ええと……それと、永遠亭はどうするんでしょう」
「今てゐ率いる地上兎部隊が全力で修理してるわ。二日もすれば修復できるでしょう。大丈夫、雨風が凌げる程度はまだいけるわ」
「師匠の実験道具とかは……」
「壊れやすい貴重品らは昼間のうちに里の寺小屋に預けてきたわ」
そこまで言うと永琳は「さてと」と立ち上がる。
鈴仙もそれに続き、ついでに輝夜を起こす。
「残りは明日……もう日付変わってるわね……もとい一度寝てからにしましょう。姫も臨界点突破よ」
「おおう、寝てないわよ」
「寝てる人は得てしてそう言うものです。八雲さんも夜遅くまでありがとうございました」
「……」
「八雲さん?」
「おおう、寝てないわよ」
「……」
別れを告げると紫はにゅるん(他に表現方法はありそうだが、これが一番しっくりくる)とスキマの向こうに消え、やがて境界線も消えた。
永琳は結局ダウンした輝夜を背負い、永遠亭へ向かった。鈴仙もそれに続く。
そして鈴仙はたった一度だけ月を見上げた。
「……さようなら」
そう呟き、永琳の後を追う。
もう許しを誰かに求めたりはしない。
その代わり裏切ってまでも手に入れた日常を、彼女は手放さない。
もう二度と。
遠く遠く、高く高く、空よりもずっと上にあるそこからの”声”が聞こえる。
耳を背ける事は出来ない。その”声”を聞くのに必要なのは耳では無いからだ。
月の”声”が聞こえる。
それはもうずっと昔に聞いた一つの意思。それは私たちへなのか、私へなのか。今もずっと聞こえる。
ウラギリモノ
ずっとずっと、私には聞こえる――
*
「――げ。優曇華?」
「……あ」
ハッと鈴仙は顔を上げる。そこには首を傾げた永琳がいた。急に現れたような錯覚に見舞われるが、永琳は先ほどからずっとそこにいた。勿論鈴仙も。
上の空の返事を返す鈴仙の額に、そっと永琳の手が添えられる。
「熱は無いわね。……どうしたの、ボーっとして」
「い、いえ。すみません。少し考え事を」
誤魔化す様な笑顔を浮かべる鈴仙に対し、永琳は少し考える素振りを見せる。
ここ数日、鈴仙の様子がおかしい事に気づかなかったと言えば嘘になる。家事中や薬品調合を教えている最中、食事時にも彼女は何処か遠いところを見ているような目をする。
その理由にも大体想像はついていた。
今まで月の使者と幻想郷の住民の両者から隠れ忍び生きてきたのだ。それが永夜事件後、急に両者から解放された。前者からは使者は来ず、後者は恐れる必要すらない住人だった。
そして幻想郷は”外”から隠れ忍ぶには最適の場所だとわかった。幻想郷では誰とどのように接しても身の危険はさほど無い。
するとどうだろう。毎日何かに怯えるように(まぁ永琳も輝夜もそれほどではないが)過ごしてきたのが急に解放される。それなりに充実した毎日を送っていくうちに、鈴仙の中では段々と大きくなっていく後ろめたい感情があるだろう。
月を裏切った自分がこんな楽しく過ごしていていいのか、と。
こればっかりは時間が解決してくれるのを待つしかない。
溜息を一つ、永琳は席を立った。
「優曇華、今日はここまでにしときましょう。少し外の空気でも吸ってくるといいわ」
「え? あ、はい」
やはり何処か上の空に、鈴仙はゆっくりと部屋を出て行く。どうしたものかと考えながら本などを片付けていると、コンコンとノックの音が転がった。
「どうぞ」と返すと、地上の兎、てゐがひょっこりと顔を出した。
「あら、どうしたの?」
「ええと……その、鈴仙さまのことで少し……」
言いづらそうに何度か口を開けたり閉じたりする。永琳は答えに急がず、てゐのペースを待った。
やがて歯切れが悪くも、少しずつ話しはじめる。
「昨日……いえ、本当は結構前からなんですが、うーん……ここ最近、鈴仙さま夜遅くに、よくそばの竹林で空を……いえ、月を見上げてるんです」
「あら……」
「その、最近鈴仙さま様子がおかしいじゃないですか?何かあったのかなって……」
てゐの話はそれで終わりなのか、そこで終わる。永琳もまた「ふむ」と呟き黙り始めた。
永琳は考える。もしかしたら、また月から何か”声”が届いたのかもしれない。鈴仙に限って裏切る事なんて無いとは思う。けれど、
「……よし、決めた」
「え?」
てゐの疑問には答えず、永琳はビシっと扉を指差した。
「てゐ、ちょっと姫を呼んできてちょうだい」
「? はい」
疑問符を浮かべながらもてゐは扉の向こうへ消える。
永琳はカーテンを開け、差し込む光に目を細めながらも空を見上げた。
そこにあるのは太陽。幻想郷の澄み渡った青空、その何処にも月を見つけることは出来なかった。
*
鈴仙は若干項垂れながら帰路についていた。
最近になって急に月の事が気になり始め、しまいには幻聴まで聞こえるようになってしまった。
過去にたった一度聞いてしまった裏切り者という言葉。今はもう月からの声は全く聞こえないのだ。
それでも聞いてしまう。気がつくと月を見上げている。何も聞こえないはずなのに聞こえる。恨みと怒りと哀しみの混じる声。鈴仙は許しを乞う事も、言い訳を言える事も無く、ただただその声を受ける。
そして考えてしまう。
もし、
もし今からでも二人を連れて帰れば、許してもらえるだろうか。
月の住民は受け入れてくれるだろうか。自分は友を裏切ったわけではない。組織を、国を裏切ったわけではない。星を裏切ったのだ。
一方幻想郷は住みづらいわけではない。むしろ心地いい場所である。姫も師匠も、自分も心から笑い合える素晴らしい所だ。そんな所を捨てて……否、幻想郷を”裏切って”、二人を連れて帰る?
(私は……何度裏切れば……許されるの……?)
その許される相手もわからない。けれど罪を持ったのは事実である。
そして考えている全てが自分の保身だけであることに自己嫌悪する。
許して欲しいから裏切る、それではいつまで経っても罪は消えない。しかし一度裏切ってしまった。ならばどうする。
「あら優曇華、おかえり」
ハッと顔を上げると、いつの間にか永遠亭についていた。またボーっとしていたのだと自分にウンザリしながらも、己の師匠に頭を下げる。否、下げようとした。
どうにも永琳はこれから出かけようとしていたようだ。それはわかる。しかし、その横に輝夜が居る事に気づいた。
「姫もお出かけですか?」
「ええ、ちょっと巫女のところまで」
永琳が返す。輝夜は眠そうに欠伸をしていた。
留守番よろしくねと言い残し、永琳と輝夜はすたすたびゅーんと行ってしまった(びゅーんは急に飛んで行った為)。
珍しい事もあるなぁと思いつつも、永遠亭に戻る。
永遠亭内はやけにガランとしていた。長い廊下には必ず地上兎の何匹かは見るのだが、今日はいない。恐らくてゐが集会でもかけているのだろう。
ふと、てゐの顔が頭によぎる。もし月に帰るとしたら、彼女はどうする。彼女はどうなる。
今までお世話になりました、はいさようなら。そんなわけにはいかないだろう。しかし連れて行くこともまた不可能。
更に考える。輝夜も永琳も幻想郷を気に入っている。もし連れて帰るなら、二人とも力ずくで、と言う事になるだろう。
「……無理、だよね。そう……無理なんだ」
もう少しポジティブに生きたい。溜息をつきながら、鈴仙は自分の部屋に戻った。
*
その日の夜、鈴仙は轟音で目を覚ました。
何事かと飛び起き、手早く服を着替え廊下に出る。
「!?」
廊下はすでに惨事であった。負傷した兎たちがゴロゴロと転がっており、とにかく家の中はボロボロである。
鈴仙は自分の波長を操り、まずは冷静になる。自分が今どうすべきか考える。結果、まずは輝夜の部屋に向かった。
「姫!」
障子を開ける。そこに輝夜の姿は無かった。かわりに荒れ果てた部屋が見える。
すぐに鈴仙は体の向きを変え、永琳の部屋へ向かう。
スパン、と勢いよく障子を開けると、そこに永琳はいた。ただし、腕を負傷していた。
「し、師匠!? 一体何が……」
「ッつ……う、優曇華……姫を……」
「え……」
「姫を、お願い……止めて、ここに……」
鈴仙は最初言っている意味がわからなかった。しかし「止めて」と言われたからには、そうなのだろう。
「ひ、姫がこんなことを……?」
永琳は何も返さなかった。それを肯定と取り、鈴仙は迷う。
輝夜を追うべきか否か。いくらなんでも追った所で一人では敵わない、そう考えていた。そして仲間はほとんど負傷している。
しかし選択肢を選ぶほど時間が無いのか、再度轟音が響く。外からだった。
鈴仙はその音を聞くと同時に駆け出した。廊下を曲がり、わざわざ扉まで行くのももどかしく、壁に開いた大きな穴から外に出る。空には丸々とした月が一つ、そしてその元に七色の弾幕を放つ黒髪の姫。
「あらイナバ。貴女は無事だったのね」
「な、何でこんなことを……!」
「何で?」
明るい月が輝夜の背中にあるので、表情は見づらい。しかし、その口が笑っているのが見えた。
クスクスと、着物の袖で口元を隠す。
「しいて言うならつまらなくなって来たの。ちょっとした刺激が欲しくなったのよ」
「そ、そんなこと……」
「そんなこと? 貴女にわかるかしら、蓬莱人の感情が」
鈴仙は言葉を飲む。普段から何を考えているかわからないとは言え、急にこんなことを始めるなんてそれこそ思いもしなかった。
キョロキョロと辺りを見回し、竹林が大分荒れているのを見る。
しかしそこで一つ希望が見えた。幻想郷でここまで暴れれば、少なくとも巫女が動くはず。
そんな鈴仙の考えを読み取ったかのように輝夜が口を開く。
「博麗に期待してるのかしら。無駄な事よ、昼間永琳と何をしにいったのかしらね?私は」
「っ! そ、そんな……。でも、じゃあ師匠も――」
共犯という言葉が出るより早く、輝夜が口を開いた。
「私が裏切ったのよ。全部ぶっ壊してやろうと思って」
そう言った輝夜は、笑顔だった。大人を出し抜いた子供のように誇らしげな、汚れの無い笑顔。
そして輝夜はそっと細い指を袖から出した。その人差し指と中指に挟まれているのは、一枚のカード。
「ねぇイナバ? 幻想郷では手っ取り早い決着のつけ方があるわね?」
「あ――」
「私に勝ったら、何でも言う事聞いてあげるわよ」
刹那、輝夜は声高く宣言した。
「難題『龍の頸の玉』!」
五色の光が輝夜を覆うようにして現れ、更にその光から龍の牙の如く鋭い弾幕が鈴仙目掛けて飛ぶ。
鈴仙は地を蹴り、低空飛行のまま竹林に潜った。まともにやりあっては勝てる相手ではない。
細い弾幕は笹の葉に打ち消されるが、一筋太い牙のような弾幕は竹をへし折り鈴仙を追う。最も、目くらましの小さな弾幕さえ消えてしまえば避けるのは容易い。一つ二つ、軽々と避け、更に目で輝夜を捕らえておく。
手元には数枚のスペルカード。それを一目で確認し、竹林を抜け出すべく空に高く飛ぶ。
しかし輝夜は全て見切っていたのか、彼女を覆う光は更に強くなっていた。
「抜け出せたと思った?残念ね。神宝『ブリリアントドラゴンバレッタ』!」
「なっ!?」
強化された龍の顎の玉がさらに打ち出される。振り返れば先ほど避けた弾が軌道を変え、鈴仙を追ってきている。
やむを得ず、鈴仙はスペルカードを取り出した。
「狂視『狂視調律(イリュージョンシーカー)』!」
宣言と共に鈴仙の姿が二重にも三重にもぶれる。輝夜の目にはそう映ったはずだ。
位相をずらし、輝夜の視界から実体である鈴仙を消したのだ。彼女の目に映るのは残像だけ。
そして鈴仙の撃った弾幕はブリリアントドラゴンバレッタの光を的確に打ち抜く。鈴仙の実体は地面まで降り、一つ目のスペルを突破された輝夜の出方を窺った。
輝夜はスペルを破られたにも関わらず相変わらず笑顔を浮かべていた。余裕の表れか、それとも楽しいのか。恐らく両方だろう。
「波長を操られると厄介ね。何処にいるか全くわからなくなっちゃうもの」
そんな事を言いつつ、もうすでに鈴仙を見つけている。鈴仙もまた見つかっている事に気づいていた。
能力を使っても騙せるのはほんのわずかだ。ちょっとした対策を打たれるだけで全てが通らなくなってしまう。
輝夜は鈴仙に聞こえるように少し大きな声で話す。
「そうねぇ、じゃあこうしましょう。精密な狙いはやめて、大雑把に」
ポンと両の手を合わせると、二枚のスペルカードが姿を現した。
それを見て鈴仙はすぐに駆け出した。その場にいたら押しつぶされるからだ。
「難題『仏の御石の鉢』と『火鼠の皮衣』!」
鈴仙から一歩遅れて雨のような弾幕が降り注ぐ。砕けぬ意思の別称を持つ前者のスペルは絶え間なく対象に降り注ぐ弾幕。根気よく避け続けなくてはいけない。反対に焦れぬ心の別称を持つ後者のスペルは空一面を覆う炎がゆっくりと地面に降りてくる。抜け穴が無く見えるが、触れるその直前まで焦らずに居れば自ずと穴が見えてくる。
その二つを同時に避ける事が可能かと言えば、
「これは……つらい……!」
振り続ける弾幕が止むのはほんの刹那。そんな中冷静に炎の壁から穴を見つけるのは並みの精神力では無理だ。
しかし、鈴仙ならば不可能ではない。
恐らく輝夜もわかっていてやっているのだろう。
すぅっと鈴仙は息を吸い、両の耳を立てる。聞こえる。一つ一つ弾幕の波長が。聞こえる。炎の壁がほんの少し開くのを。
最後に、自分の波長をほんの少し長くした。気持ち悪いぐらいに冷静になった頭で、その炎の穴に二つの弾を放つ。弾は無事炎の壁を抜け、空へと向かった。
当たるかどうかは確認しない。すぐに駆けなければ被弾するのは自分である。
やがてパキンと言う音と共に雨のような弾幕と炎の壁が消えた。鈴仙は地面に尻餅をつき、肩で息をしながら輝夜を見上げる。そこには両手に持ったスペルカードを撃ち抜かれた輝夜が呆然としていた。
「……思ったよりやるわね。こんなにも性格に打ち抜くなんて」
「ハッ……ハアッ……!」
喉の奥がへばり付く様な感覚。飛べるのにも関わらず飛ばなかったのは火鼠の皮衣をギリギリまで引きつけたかったからである。結果、スペルは打ち破ったが激しく体力を消耗することになった。
そんな鈴仙のことなど知った事ではないのか、輝夜は更にスペルカードを出す。
スペル宣言の前に鈴仙が口を開いた。
「何故、」
「?」
「……何故、師匠まで裏切ったんですか」
鈴仙の言葉に輝夜は不愉快そうに眉を歪める。
「さっき言ったじゃない。全部ぶっ壊してやろうと思って」
「本当に、それだけですか……?」
「……そうねぇ、じゃあどんな理由があれば裏切っていいのかしら」
輝夜の言葉に鈴仙は黙る他無かった。
裏切っていい理由なんて無い事は自分がよく知っていたからだ。
「私のこと恨んでるかしら? 恨んでるわよねぇ、裏切るって、そういうことだもの」
「う、恨まれる事……?」
「そうよ。自分の願望のために裏切るの。全部自分のためよ。裏切ってまでやりたい事があるからよ」
「……」
自分は何で月を裏切った?何がしたくて月を裏切った?
それは……
「姫と、師匠が笑ったから……二人が、笑い合える場所を守りたかったから……」
「?」
鈴仙の呟きは輝夜に聞こえない。しかし鈴仙は思い出した。自分が月を裏切った理由を。
生きる死ぬの概念が消えうせるほどの退屈な毎日を二人に与えるぐらいならば、感情を押し出す事の出来るこの幻想郷で暮らそう。幻想郷で暮らす輝夜と永琳を見て、鈴仙はそう誓った。
あまりにも日常になりすぎて忘れてしまったのか。結果、その日常は壊れてしまった。月を裏切ってまで手に入れた日常がすっかり崩れ落ちてしまった。
「もう……戻れないなら……」
鈴仙は立ち上がる。輝夜にはその赤い瞳が一層強く輝いていることだけが確認できた。
次の瞬間、鈴仙はキッと輝夜を見据えた。輝夜もまた受けて立つ様に、真正面から見返す。
「姫……貴女を、連れて帰る」
「……」
「そうだった……長い間忘れてた。それが私の任務。私の仕事。貴女を連れて帰るために、私はここにきたんだ」
輝夜はつまんなそうな顔のままスペルカードを取り出した。
鈴仙もまたスペルカードを取り出す。
「連れて帰る? 生死の価値の無い日常に戻るなんて真っ平ごめんね。難題『燕の子安貝』!」
「私は私の任務を遂行するまで!懶符『生神停止(アイドリングウェーブ)』!」
互いに互いを全方向から囲うスペル。互いに避けるだけの持久戦、そう聞けば体力の落ちた鈴仙は不利である。
しかし鈴仙には能力がある。そしてもう一つ確信がある。輝夜は弾幕ごっこでは能力は使わない。輝夜の能力はこのスペルカードルールでは大して意味の持たない能力だ。
ならば同じタイプのスペルでは絶対的な差が無い限りは、
「えっ!?」
「取った!」
輝夜に勝ち目は無い。輝夜のスペルカードは、またもや鈴仙に打ち抜かれていた。
流石に冷や汗の見える輝夜に対し、鈴仙もまた体力は限界であった。全方向から撃たれる弾幕を避けている事には代わりが無いのだから。
「参ったわね。難題がこんなにポンポンと取られちゃうなんて」
「ハッ……ハッ……、か、勝てば、言う事聞いてもらえるんでしたよね」
輝夜はうんざりしたような、または呆れたような顔で鈴仙を見た。
「そんなに連れて帰りたいの?」
「私の、任務ですから」
話しても無駄、輝夜の表情からそんなことが窺えた。事実鈴仙は自分の意思を曲げるつもりは毛頭無い。今度こそは。
そして輝夜は最後のスペルカードを取り出した。鈴仙もそれを見て、一枚のスペルカードを持つ。
「最後の難題よ。何もかも桁違い、精々頑張ってね」
輝夜は最後の難題を宣言した。
「難題『蓬莱の弾の枝』!」
虹色の弾幕が夜の空に広がる。輝夜のスペルカードを直接打ち抜こうにも、鈴仙と輝夜の間に立ちふさがるようにして虹色の壁が立っていた。
横から抜けようにも、輝夜の視界に居る以上虹色の弾幕が鈴仙を何処までも追尾する。
ならばまず、視界から消える事。
鈴仙は力を振り絞り、再度竹林に潜った。
「脱兎の如くね。でも無駄よ、片っ端で薙ぎ倒すわ」
竹を薙ぎ倒し、次々に地面に突き刺さっていく弾幕。
輝夜がやりすぎたかなと思うころにはすっかり土煙に竹林が飲みこまれていた。
弾幕の数を減らし、輝夜は周囲を警戒する。いつの間にか移動をしているかもしれない、鈴仙ならば不可能ではない。
「月眼『月兎遠隔催眠術(テレメスメリズム)』」
鈴仙のスペルカード宣言は背後から聞こえた。声から距離を察し、輝夜は振り向き様に虹色の弾幕を打ち抜く。宣言が終わる頃には弾幕が届く、輝夜は勝利を確信した。
しかし、背後には誰もいなかった。
「振幅を増やしました。遠くでも、近くに聞こえますね?」
今度は真下から声がした。まさかまだ地にいるとは思わなかった輝夜はすぐに視線を落とす。
そしてそこには、竹林と、誰もいない地面。
振幅、つまり鈴仙は声を操作している。その事を理解すると同時に輝夜の視界がフッと暗くなった。
月に影がさしたか。そう感じた時、今日は雲一つ無かった事を思い出す。
ならば、月と自分の間にあるのは、いるのは――
「終わりです」
「――っ!」
輝夜が月を見上げると、完全に弾幕の準備が整った鈴仙がいた。鈴仙と輝夜の間に、虹色の壁は無い。
自分よりも高く飛んでいるとは。輝夜は最後に自分の迂闊を呪った。
パキン
虹色の弾幕が、姿を消す。
「ぐっ!」
何発かの弾幕に被弾し、輝夜が地面に落ちる。鈴仙もそれを追って地面に降りようとして、バランスを失った地面に倒れた。
よく見れば鈴仙の服もボロボロで、何十発もの弾幕をかすったのだろうと言うことがわかる。
フラフラと立ち上がった鈴仙は、輝夜に右手を伸ばした。
「……私の勝ちです。姫、貴女を連れて帰る」
「……月でも何でも、好きにしなさいな」
「え?」
「……え?」
疑問符を浮かべる鈴仙に疑問符で返す輝夜。
輝夜はガバッと上半身を起こし、鈴仙を見据える。
「ちょ、貴女私を連れて帰るって」
「え、ええ。言いました」
「月でしょ?」
「永遠亭です」
輝夜は何かを考えるかのように月を見上げ、しばらくすると視線を戻して同じ調子で問い掛けた。
「だって貴女さっき任務がどうたらこうたら」
「ええ。さっき師匠に姫を連れて帰って来いって言われまして」
輝夜は何かを考えるかのように月を見上げ、しばらくすると視線を戻して同じ調子で問い掛けた。
「でもほら、私お家とかここら一帯吹き飛ばしちゃったし」
「……はい、全部壊れちゃいました。でもやり直せます。壊れたものを直すには時間がかかりますが、絶対に」
輝夜は何かを考えるかのような素振りを見せ、真面目な顔で鈴仙に問い掛ける。
「月を裏切る事になるわね」
「はい。裏切ってでも手に入れたいものを思い出しました」
フッと、輝夜は微笑む。鈴仙も釣られて微笑む。
はぁー、と大きく息を吐き、輝夜はブツブツと呟き始めた。
「なんか、ちょっと台本と違うけど。まぁ結果オーライよね」
「え?」
今度は鈴仙が疑問符を先にあげる番になった。鈴仙はどういうことかと輝夜を見る。
しかし輝夜の視線が鈴仙より後ろにあることに気づき、鈴仙はくるりと振り向いた。
そこには微笑んだ永琳がいた。けろっとしている。怪我も見当たらない。
「師匠! 怪我は大丈夫ですか!?」
「ええ、嘘だもん」
パチクリと、鈴仙は一度瞬きをした。そのまま思考が追いつかないのか、黙ったままの鈴仙の後ろで輝夜が立ち上がる。パンパンと着物についた土を適当に払い、くぁと欠伸をする。
「あー、もう。疲れた。寝よう」
「え、え?」
「お疲れ様でした姫。ちょっとやりすぎです」
「え、あの」
「久々に体動かすといいものね。でも筋肉痛が怖いわ……」
「え、えー?」
キョロキョロと輝夜と永琳を交互に見る鈴仙の頭上に、ピッと境界線が入った。
「おつかれさまー」
「あらスキマ妖怪」
輝夜が素っ気無く返す。境界線から上半身だけ現れたのは紫である。
紫はバッと扇を広げ、口元を隠す。
「あらあら、こぼれ弾幕の被害拡大を減らしてあげたのに」
「ふぅん、気が効くわね」
「私も博麗には逆らえないのよ」
「え、博麗って……え?」
「そろそろ説明してあげたらどうかしら」
紫の言葉に輝夜は面倒くさそうに「えー」と洩らす。
代わりに永琳が口を開いた。
「優曇華、貴女を試させて貰ったわ」
「た…試す?」
「最近様子がおかしかったでしょ? 月との事でもやもやしてたんじゃないかしら」
鈴仙は視線を落とした。耳がへにょっている。わかりやすいなぁ、と永琳は口に出さず思った。
「そこで貴女が追い詰められたとき、月と幻想郷のどちらを選ぶか試させてもらったわ」
「……じ、じゃあウサギ達がボロボロだったのも」
「演技ね」
「師匠が負傷してたのも」
「演技ね」
「姫が永遠亭を半壊させたのも」
「やりすぎた演技ね」
「やりすぎちゃった」
てへ、と輝夜。きっと眠いのだろう。深夜のテンションは人をおかしくする。
へなへなと力を失い倒れそうになる鈴仙を、そっと永琳が抱きしめる。鈴仙の耳がピンとしたのを三人は見逃さなかった。
鈴仙が何かを言うより早く、永琳が呟いた。
「貴女が月を裏切ってでもここを選んでくれてありがとう。嬉しかったわ」
最初は背筋を伸ばしていた鈴仙だが、その言葉を聞くと永琳に体重を預けた。
顔は隠れてしまっていて誰にも見えなかったが、小さく震える肩だけは確認できた。
*
ごしごしと目元を拭ってから鈴仙は顔を上げた。
そしていくつか気になることを口にする。
「ところで、結局神社には何をしに行ったんですか?」
「ああ、それね。大体わかると思うけど、ちょっと夜うるさくなるけど気にしないでってお願いをしに」
ちょっとどころではない。永遠亭周辺の竹林は大体吹っ飛んでいる。
鈴仙も流石に冷や汗を流し、辺りを見回しながら言う。
「よ、よくあの巫女が許してくれましたね」
「あら。お賽銭投げて筍の差し入れを持ってったら二言返事だったわよ」
鈴仙は再度涙腺が緩みそうになった。巫女の生活苦な意味で。
恐らくこの場に紫がいるのも巫女の差し金だろう。さきほどそんなことを言っていた。
その紫は相変わらずスキマからやる気無さそうに上半身だけ出し、睡魔に襲われ首がガクンガクンなってる輝夜を支えているようだった。
「ええと……それと、永遠亭はどうするんでしょう」
「今てゐ率いる地上兎部隊が全力で修理してるわ。二日もすれば修復できるでしょう。大丈夫、雨風が凌げる程度はまだいけるわ」
「師匠の実験道具とかは……」
「壊れやすい貴重品らは昼間のうちに里の寺小屋に預けてきたわ」
そこまで言うと永琳は「さてと」と立ち上がる。
鈴仙もそれに続き、ついでに輝夜を起こす。
「残りは明日……もう日付変わってるわね……もとい一度寝てからにしましょう。姫も臨界点突破よ」
「おおう、寝てないわよ」
「寝てる人は得てしてそう言うものです。八雲さんも夜遅くまでありがとうございました」
「……」
「八雲さん?」
「おおう、寝てないわよ」
「……」
別れを告げると紫はにゅるん(他に表現方法はありそうだが、これが一番しっくりくる)とスキマの向こうに消え、やがて境界線も消えた。
永琳は結局ダウンした輝夜を背負い、永遠亭へ向かった。鈴仙もそれに続く。
そして鈴仙はたった一度だけ月を見上げた。
「……さようなら」
そう呟き、永琳の後を追う。
もう許しを誰かに求めたりはしない。
その代わり裏切ってまでも手に入れた日常を、彼女は手放さない。
もう二度と。
お姫様がんばりすぎwでも綺麗だったー
弾幕戦の途中、うどんげが最初にスペルカードを打ち抜いたところの姫のセリフです
「ハッ……ハアッ……!」
ここだな