1.
リグル・ナイトバグがある日の黄昏、なにか不安な夢から目を覚ますと、自分が寝床でただの人間に変わっていることに気づいた。
今まさに妖怪の時間を迎え、夜道を行こうと思い身を起こすと、どうにも部屋の様子がおかしい。空気全体が澱んでいるような違和感がある。
リグルにとって最も重要な感覚器官である、手入れを怠ったことのない触角に手を伸ばすと、其処には何も無かった。
「あれ?」
寝ぼけ眼をこすり、ためしに背中にも手を伸ばすと、其処には羽も甲殻も無く、華奢な肩甲骨が浮き彫りになっていて、不快な人間の体温を発していた。
暫しの沈黙の後に、絶叫が響き渡った。
2.
四半刻ほど、混乱と不安の渦に飲み込まれていたが、生来単純な虫の妖怪であったリグルは楽天的な性格でもあったため、取り敢えずその身を元に戻す方法を模索することにした。
思考能力の然程発達していない彼女でも、答えには辿り着けた。怪しげな術を使う医者が住まうとされる永遠亭に向かうことにした。
「よし、出発」
一度決めると早い。早速、寝床にしている巨大な樹のウロから外に出て空を見上げるとそろそろ月もかかっていた。輝ける月が「大丈夫」と言ってくれたように感じ、リグルは第一歩を踏み出した。
「あいて」
そして、生まれて初めて石に躓いて転んだ。暗いから見えなかったのだが、今まで触覚で感知していたために全く問題は無かった筈のものだった。
リグルは起き上がって、夜の森という場所が、今の自分にとっては一筋縄ではいかない場所になっていることを理解した。飛べないし足元も見えない。
不意に、奇妙に不安な予感が鎌首を擡げたが、ただでさえ嫌な気分になっていたリグル・ナイトバグは努めてそれを無視した。
3.
これもまた生まれて初めて、足元に気をつけて歩くということをしていると、声が聞こえてきた。能天気な声は聞き覚えがあるもので、訳の分からない状況に叩き込まれていたリグルに安堵を齎した。
月夜を見上げると、両手を広げて空を飛ぶ金髪の少女が見えた。リグルの友人である妖怪のルーミアだった。能天気な顔に救われた気分になっていると、ルーミアもリグルを見つけたようだった。
リグルが手を振ると、ルーミアは真っ直ぐに急降下して、リグルを、自分の能力で作り出した闇で包み込んだ。
「こんばんは、ルーミア。私よ。リグルよ」
「リグル? 嘘だよ。人間のにおいがするもん!」
酷く嫌な予感がした。
「友達の名前を騙るなんて、悪い人間だよ。
それに、夜に出歩いてる人間は食べても良いって巫女が言ってたよ」
「ルーミア、冗談だよね?」
「冗談じゃないよー」
首筋に妖怪の息遣いを感じた。鼻を突く涎の香りは、捕食者のそれだった。
リグルは声にならない悲鳴を上げて、何も見ないで駆け出した。
ルーミアは追いかけて来たが、自分の闇の外が見れていないので樹にぶつかり、最終的にリグルは彼女を引き離すことに成功した。
4.
今日何度目になるか分からない初めてとして、足がぼろぼろになったということが挙げられた。
走り捲くったリグルは、森が自分の領域ではなく、完全に敵対的な何かになっていることを漸く思い知った。
だから、赤々と輝く屋台の提灯ですら希望の光に見えた。
その提灯には「焼八目鰻」と大書きしてある。友人の経営する店だった。
「ミスティア!」
「あら、リグルじゃないの。あれ、リグルじゃない?」
疎らな客が飛び込んできたリグルを一瞥して、酒と焼八目鰻に戻る。店主の、鳥の羽を持った歌姫ミスティア・ローレライだけがリグルに眼を向け続けた。
「触覚と羽はどうしたのよ」
「なくなっちゃったんだ」
「あはは! 丸で人間みたいよ。本当にリグルなの?」
「笑い事じゃないよ! 私は本当にリグルよ!」
「本当にそうなら、スペルカードを使ってみせてよ」
此処に至ってリグルは、ミスティアが本気で、自分をリグル・ナイトバグを騙る人間ではないかと疑っていることに気付いた。
仕方が無いので、用意しておいたスペルカードを取り出して発動させる。
「灯符『ファイアフライフェノメノン』!」
何も起きなかった。全身から力が抜けているようだった。
「あれ?」
「リグルならちゃんと仕える筈よ。あなた、やっぱり偽物だね!」
「ち、違うよ!」
「そういう悪い人間は、食材にしてやろうかしら!」
「ひゃあ!」
ルーミアの一件もあって神経過敏になっていたリグルは、椅子を蹴飛ばしたことにも気付かず全力で逃げ出した。
5.
もう何処をどう走ったかも解らず、完全に迷った。
擦り傷と切り傷だらけの足を引きずると、痛みが走った。
「こんなの悪い夢よ……」
友と頼む二人に捕食されかけ、魔力も失い、リグルの楽天的な精神も完全に参ってしまっていた。今にも泣き出してしまいたかった。蟲の王だというプライドだけが支えだった。
殆ど惰性で足を進めると、一際開けた場所に出た。霧の湖だった。名前の通りに湖に立ち込める霧が月光を孕み、幻想的な光景を演出していた。
悪夢に訪れた僅かな光り輝く光景に、リグルの心は慰められた。しかしそれも、背後の茂みで物音がするまでだった。
「きゃあ!?」
驚いて、振り向きながら尻餅をつくと、物音の主は声を発した。
「あれ? リグル? 何でこんなとこいんの?」
これも聞き覚えのある声だった。
「チルノ……?」
「怪我してる? また巫女にやられたんでしょ。最強のあたいと違うんだから、鍛えなきゃダメよ」
からからと笑う蒼い氷精は、リグルを捕食もしないし、気遣っていると言えなくもない言葉を発してくれた。
「妖精のあんたに、言われたくないわよ」
久方ぶりの安堵に、軽口も漏れた。家を出てから、笑顔になれたのは初めてだった。
「チルノちゃん? どうしたの?」
「大ちゃん。リグルだよ」
続いて、チルノと同じほどの背丈の、緑の髪の妖精が表れる。チルノの友人の大妖精だった。
妖精の割りに頭が回る大妖精は、困惑顔を見せた。
「リグルちゃん? 本当に? 触覚がないけど……」
「え!? あ、本当だ!!」
チルノが驚く。リグルは、気付いてなかったのかよ、と思った。
「でもリグルって言ってるからリグルだって。絶対。あたい間違えたこと無いもん」
「チルノ……」
顔と声でしか人物を見分けていない浅慮ぶりに助けられていることを承知した上でも、その言葉はリグルにとっては有難いものだった。
「……わけわかんないけど、人間みたいな体になっちゃったんだ」
「……うん。信じるわ。大変ね」
チルノ同様悪戯好きながらも比較にならないほどしっかりした大妖精にそう言われると、安堵も一層濃くなった。同時に、これから永遠亭に行かなければという思いが再びわきあがった。
「でもリグルちゃん怪我してるわ。休んでいかないと」
「うん。そうさせてもらえると有難いわ」
「あ、羽も無い!」
気付くの遅いよと思いながら、気付いた上で何かするわけでもないチルノに、リグルは笑みを堪え切れなかった。
6.
しばし休ませてもらい、経緯と永遠亭に行く旨を告げると、案の定チルノは「あたいも行く!」と叫んだ。大妖精も反対はしなかった。
「チルノちゃんなら、そこらの妖怪にだって負けないし……一人よりもいいと思うわ」
リグルとしても断る理由は無かったので、三人で連れ立って永遠亭へ行くこととなった。足はチルノに冷やして貰っても痛かったので、大妖精が、背負っていくわ、と言ってくれた。
談笑などしながら一里も進んだ頃、不意に月が翳った。
「見つけた~」
三人が声の聞こえた上方を見上げると、真っ黒な球状の塊が降りてくる所だった。
「ルーミアだ! 見つかった!!」
リグルは焦った。
「さっき襲われたんでしょう? 逃げないと!」
大妖精は機敏だった。
「おー、ルーミア。散歩かー?」
チルノは何も解っていなかった。
「その悪い人間ちょーだい!」
「むむむ。あたいはリグルを永遠亭まで届けるんだよ!」
「なら弾幕勝負なのかー」
「上等よ!」
何も解っていなくても役に立つチルノがなし崩し的に弾幕勝負をルーミアに挑み、激しい魔力のぶつかりあいが始まった。
月の光が夜を貫き、冷気が闇すら凍らせた。
「チルノちゃんがひきつけているうちに!」
「う、うん」
派手なぶつかり合いの音を背中に、リグルと大妖精は全速力でその場を離脱した。
7.
「あった! あそこだ!」
漸く見えた永遠亭は、希望の光そのものだった。
大妖精はリグルを背負ったまま全速力で飛び込んだ。
「急患ですか? って、あれ、珍しい顔ぶれね」
受付前で息を切らせていると、頭に長い耳を生やした受付の妖怪兎がきょとんとした顔で見つめて来た。
この鈴仙・優曇華院・因幡は、永遠亭の妖兎たちのリーダーで、狂気を操る程度の力を持っており、底が知れない不気味な印象がある。
何処と無く面白がっているように感じたのは、自分の穿ちすぎだと己に言い聞かせながら、リグルは用件を告げた。
体が人間みたいになって困っている。
八意永琳の力を借りたい。
「はーい、ちょっと待っててください」
妖怪が人間になるという前代未聞の椿事にも、妖怪兎は冷静を崩さなかった。そのまま奥へ行き、やがてリグルの名前が呼ばれた。
診察室に入ると、見たこともない道具に囲まれ、医師・八意永琳が椅子に座っていた。
「いらっしゃい。人間になってしまったのですって?」
「そうなのよ! 体は弱弱しくてきもちわるいし、友達からは襲われるし……何とかできないの!?」
永琳は何故か、楽しそうに笑っていた。
「怖かった?」
「こ……怖くなんかなかったけど! 何をにやにやしているの!」
「いいえ。そう、怖くなかったのね。流石と言うべきかしら。貴女は勇気があるわ」
何だか話が噛みあっていないように思えたが、永琳はそ知らぬ振りで話を続けた。
「薬は出しますわ」
「えっ、本当に!?」
「ええ。妖怪に戻りたいのでしょう? 人間は嫌なのよね」
「そうよ! その通り! お願いよ!」
「解りましたわ」
一か八かの思いだったが、それが報われ、リグルの疑念も吹っ飛んだ。
「どうぞこちらの寝台に横になって」
「うん」
言われるがままに横になると、意外と寝心地は良かった。全てが解決することに安心して、リグルはゆっくり眼を瞑る。
「少し疲れたのでしょう。いい夢を、ね」
「ええ。でも、どんなお薬なのかしら?」
胡蝶夢丸というのよ、と永琳は答え、丸薬と水をリグルに含ませた。リグルの意識は暗転していった。
8.
リグルが何かきらきらした夢から眼を覚ますと朝だった。いつも起きるのは黄昏時なので、リグルにとっては新鮮だった。日の光で宙を舞う埃が見えたからか、喉のいがらっぽさを感じて咳き込んだ。
落ち着いてから恐る恐る頭に手を伸ばすと、艶やかな触覚がきちんと備わっていた。背中にも、蟲の羽がきちんと生えていた。
心底からホッとして胸を撫で下ろし寝台から降りると、足の痛みも消えていた。
「流石ね、いい仕事をするわ」
それにしても昨晩の態度は腑に落ちなかったが、結果がよければ問題は無い。
朝早いからか、診察室から受付まで行っても誰とも会わなかった。手持ち無沙汰にきょろきょろ見ると、意外と永遠亭は掃除が行き届いておらず、またあちこち朽ちていることに気付いた。
「月人のお屋敷なんて言ってもたいしたこと無いのね。それにしても人の気配がないけれど、御代はどうしたものかしら。請求が来てからでいいわよね」
屋敷から外に出ても、結局誰にも会わなかった。伸び放題の竹だけが送り出してくれた。
羽の調子を確かめようと暫く飛んでみると、体の調子は頗るつきによいことが解った。
そのまま少し飛んでいくと、聞き覚えのある声がした。
「そーなのかー」
ルーミアの声だった。茂みの向こうの開けた場所で、誰かと遊んでいるようだった。多分チルノかミスティアだろう、もう襲われることも無いし混ぜて貰おうか、と思いリグルは近付いていった。そう言えばチルノにお礼もしなければいけない。
「ルーミア! 昨日は散々な眼に合わせてくれたわね。でも、永遠亭でちゃんと直してもらったわよ。これで、私が本物のリグルってわかったでしょ!」
出て行くと、金髪の少女は振り向いて、硬直した。向こう側にいたのはミスティアとチルノで、ミスティアもルーミアと同じような反応をした。チルノだけは「おー」と声を返した。
ルーミアが口を開いた。
「ばけもの!!」
「え?」
ルーミアの顔は、彼女が一度も浮かべたことが無い恐怖という感情に塗りつぶされていた。
続いてミスティアも叫ぶ。
「出たあ!」
「妖怪だー!!」
そのまま二人は全速力で走り去る。その背中を呆然と見詰めて、リグルはあることに気付いた。
ミスティアの背中に、羽が無い。
「え? ちょっと待ってよ、どういうこと?」
「リグルー」
近付くチルノに目を向けると、彼女がいつも発している筈の寒さが全く感じられないことにも気付いた。氷の羽も無かった。
「ちる、の……?」
「永遠亭って、あんな誰も住んでないお屋敷で何してたのさ? さては、一人かくれんぼね! あたい負けないよ!」
リグルは呆然とした。
「ねえ、私のこの触覚、どう思う?」
「え!? あ、本当だ!! 触覚とかある!!」
やっぱり気付いてなかったのかよ、と思いながら、へなへなと力が抜けて座り込んだ。
「永遠亭の連中は?」
「えー? あのおやしき、ずーっと前から廃墟じゃない。何言ってるのさ、リグル」
「鈴仙は?」
「誰?」
「てゐは?」
「誰?」
「永琳は?」
「新しい友達? あたいにも教えてよ!」
「…………」
ぼうっと、自分が今来た道を見返した。誰もいない場所から自分は来たらしかった。
そうしていると、また声が聞こえてきた。
『妖怪ってのはこっちか!』
『チルノはまた一人で残ってるのか!』
『子供たちが危ない、ぶち殺してしまおう!』
人の里の男の声、それも、物凄く大人数だった。リグルは震え上がった。
「リグル?」
『妖怪が出たのよ! リグルちゃんの振りをしてるけど、触覚とか羽があったから解ったの!』
『チルノちゃんが危ないから、やっつけてよ!』
ルーミアとミスティアが、大人たちに自分を殺せと言ってるのが聞こえた。
リグルははじかれたように駆け出した。里の連中とは逆方向だった。
チルノが名前を呼んでいたが、立ち止まれるはずもなかった。
「なんで……こんな……!? 一体私が、何をしたっていうのよ! 一体何がどうなってるのよ!!」
全速力で逃げた。でも、今人の里から逃げ切れても、何か抗いようの無いものがすぐさま背中に追いついてきそうだった。
「……すけて……」
気付けばリグルは涙を流していた。
「誰か、助けてよお!! お願いだよ!!」
絶叫は森に虚しく木霊し、しかしそれも追いかける『探せ』『殺せ』の声にあっという間に飲み込まれ、落ちた雫は踏み潰されてしまった。
0.
「へえ~、この薬で悪夢が見れるんだって? でも、蟲の王の私が、どんなものが出てきた所で怯える筈が無いね!」
「そんなことありません。師匠の薬は本当に凄いのよ!」
「むきにならなくてもいいわよ、ウドンゲ。実際に試してもらえばいい」
「効果ないと思うけどね。私は蟲の王よ、蟲の王。悪夢は見せる側なのよ」
「どうだか。胡蝶夢丸・ナイトメアタイプ妖怪用でも一番キツいレベルのこれなら、夢中の夢さえ見られるかもね。あなたが寝言で、泣いて助けを求めたら師匠の勝ちよ!」
「あはは! そんなことなるわけないわ!」
「むぅ~~……」
「どうなるか楽しみね。でもね、ウドンゲ。胡蝶夢丸がきいてる頃には、この会話も忘れているわ。だって、ススキと解った幽霊なんて、面白くも何ともないでしょう?」
「こんなもの効かないから大丈夫よ! ほら、飲み込んだわ。後はどうすればいいの?」
「あら、もう飲んでしまったのね。後は横になって眠るだけでいいわ。お休みなさい。いい夢を」
リグル・ナイトバグがある日の黄昏、なにか不安な夢から目を覚ますと、自分が寝床でただの人間に変わっていることに気づいた。
今まさに妖怪の時間を迎え、夜道を行こうと思い身を起こすと、どうにも部屋の様子がおかしい。空気全体が澱んでいるような違和感がある。
リグルにとって最も重要な感覚器官である、手入れを怠ったことのない触角に手を伸ばすと、其処には何も無かった。
「あれ?」
寝ぼけ眼をこすり、ためしに背中にも手を伸ばすと、其処には羽も甲殻も無く、華奢な肩甲骨が浮き彫りになっていて、不快な人間の体温を発していた。
暫しの沈黙の後に、絶叫が響き渡った。
2.
四半刻ほど、混乱と不安の渦に飲み込まれていたが、生来単純な虫の妖怪であったリグルは楽天的な性格でもあったため、取り敢えずその身を元に戻す方法を模索することにした。
思考能力の然程発達していない彼女でも、答えには辿り着けた。怪しげな術を使う医者が住まうとされる永遠亭に向かうことにした。
「よし、出発」
一度決めると早い。早速、寝床にしている巨大な樹のウロから外に出て空を見上げるとそろそろ月もかかっていた。輝ける月が「大丈夫」と言ってくれたように感じ、リグルは第一歩を踏み出した。
「あいて」
そして、生まれて初めて石に躓いて転んだ。暗いから見えなかったのだが、今まで触覚で感知していたために全く問題は無かった筈のものだった。
リグルは起き上がって、夜の森という場所が、今の自分にとっては一筋縄ではいかない場所になっていることを理解した。飛べないし足元も見えない。
不意に、奇妙に不安な予感が鎌首を擡げたが、ただでさえ嫌な気分になっていたリグル・ナイトバグは努めてそれを無視した。
3.
これもまた生まれて初めて、足元に気をつけて歩くということをしていると、声が聞こえてきた。能天気な声は聞き覚えがあるもので、訳の分からない状況に叩き込まれていたリグルに安堵を齎した。
月夜を見上げると、両手を広げて空を飛ぶ金髪の少女が見えた。リグルの友人である妖怪のルーミアだった。能天気な顔に救われた気分になっていると、ルーミアもリグルを見つけたようだった。
リグルが手を振ると、ルーミアは真っ直ぐに急降下して、リグルを、自分の能力で作り出した闇で包み込んだ。
「こんばんは、ルーミア。私よ。リグルよ」
「リグル? 嘘だよ。人間のにおいがするもん!」
酷く嫌な予感がした。
「友達の名前を騙るなんて、悪い人間だよ。
それに、夜に出歩いてる人間は食べても良いって巫女が言ってたよ」
「ルーミア、冗談だよね?」
「冗談じゃないよー」
首筋に妖怪の息遣いを感じた。鼻を突く涎の香りは、捕食者のそれだった。
リグルは声にならない悲鳴を上げて、何も見ないで駆け出した。
ルーミアは追いかけて来たが、自分の闇の外が見れていないので樹にぶつかり、最終的にリグルは彼女を引き離すことに成功した。
4.
今日何度目になるか分からない初めてとして、足がぼろぼろになったということが挙げられた。
走り捲くったリグルは、森が自分の領域ではなく、完全に敵対的な何かになっていることを漸く思い知った。
だから、赤々と輝く屋台の提灯ですら希望の光に見えた。
その提灯には「焼八目鰻」と大書きしてある。友人の経営する店だった。
「ミスティア!」
「あら、リグルじゃないの。あれ、リグルじゃない?」
疎らな客が飛び込んできたリグルを一瞥して、酒と焼八目鰻に戻る。店主の、鳥の羽を持った歌姫ミスティア・ローレライだけがリグルに眼を向け続けた。
「触覚と羽はどうしたのよ」
「なくなっちゃったんだ」
「あはは! 丸で人間みたいよ。本当にリグルなの?」
「笑い事じゃないよ! 私は本当にリグルよ!」
「本当にそうなら、スペルカードを使ってみせてよ」
此処に至ってリグルは、ミスティアが本気で、自分をリグル・ナイトバグを騙る人間ではないかと疑っていることに気付いた。
仕方が無いので、用意しておいたスペルカードを取り出して発動させる。
「灯符『ファイアフライフェノメノン』!」
何も起きなかった。全身から力が抜けているようだった。
「あれ?」
「リグルならちゃんと仕える筈よ。あなた、やっぱり偽物だね!」
「ち、違うよ!」
「そういう悪い人間は、食材にしてやろうかしら!」
「ひゃあ!」
ルーミアの一件もあって神経過敏になっていたリグルは、椅子を蹴飛ばしたことにも気付かず全力で逃げ出した。
5.
もう何処をどう走ったかも解らず、完全に迷った。
擦り傷と切り傷だらけの足を引きずると、痛みが走った。
「こんなの悪い夢よ……」
友と頼む二人に捕食されかけ、魔力も失い、リグルの楽天的な精神も完全に参ってしまっていた。今にも泣き出してしまいたかった。蟲の王だというプライドだけが支えだった。
殆ど惰性で足を進めると、一際開けた場所に出た。霧の湖だった。名前の通りに湖に立ち込める霧が月光を孕み、幻想的な光景を演出していた。
悪夢に訪れた僅かな光り輝く光景に、リグルの心は慰められた。しかしそれも、背後の茂みで物音がするまでだった。
「きゃあ!?」
驚いて、振り向きながら尻餅をつくと、物音の主は声を発した。
「あれ? リグル? 何でこんなとこいんの?」
これも聞き覚えのある声だった。
「チルノ……?」
「怪我してる? また巫女にやられたんでしょ。最強のあたいと違うんだから、鍛えなきゃダメよ」
からからと笑う蒼い氷精は、リグルを捕食もしないし、気遣っていると言えなくもない言葉を発してくれた。
「妖精のあんたに、言われたくないわよ」
久方ぶりの安堵に、軽口も漏れた。家を出てから、笑顔になれたのは初めてだった。
「チルノちゃん? どうしたの?」
「大ちゃん。リグルだよ」
続いて、チルノと同じほどの背丈の、緑の髪の妖精が表れる。チルノの友人の大妖精だった。
妖精の割りに頭が回る大妖精は、困惑顔を見せた。
「リグルちゃん? 本当に? 触覚がないけど……」
「え!? あ、本当だ!!」
チルノが驚く。リグルは、気付いてなかったのかよ、と思った。
「でもリグルって言ってるからリグルだって。絶対。あたい間違えたこと無いもん」
「チルノ……」
顔と声でしか人物を見分けていない浅慮ぶりに助けられていることを承知した上でも、その言葉はリグルにとっては有難いものだった。
「……わけわかんないけど、人間みたいな体になっちゃったんだ」
「……うん。信じるわ。大変ね」
チルノ同様悪戯好きながらも比較にならないほどしっかりした大妖精にそう言われると、安堵も一層濃くなった。同時に、これから永遠亭に行かなければという思いが再びわきあがった。
「でもリグルちゃん怪我してるわ。休んでいかないと」
「うん。そうさせてもらえると有難いわ」
「あ、羽も無い!」
気付くの遅いよと思いながら、気付いた上で何かするわけでもないチルノに、リグルは笑みを堪え切れなかった。
6.
しばし休ませてもらい、経緯と永遠亭に行く旨を告げると、案の定チルノは「あたいも行く!」と叫んだ。大妖精も反対はしなかった。
「チルノちゃんなら、そこらの妖怪にだって負けないし……一人よりもいいと思うわ」
リグルとしても断る理由は無かったので、三人で連れ立って永遠亭へ行くこととなった。足はチルノに冷やして貰っても痛かったので、大妖精が、背負っていくわ、と言ってくれた。
談笑などしながら一里も進んだ頃、不意に月が翳った。
「見つけた~」
三人が声の聞こえた上方を見上げると、真っ黒な球状の塊が降りてくる所だった。
「ルーミアだ! 見つかった!!」
リグルは焦った。
「さっき襲われたんでしょう? 逃げないと!」
大妖精は機敏だった。
「おー、ルーミア。散歩かー?」
チルノは何も解っていなかった。
「その悪い人間ちょーだい!」
「むむむ。あたいはリグルを永遠亭まで届けるんだよ!」
「なら弾幕勝負なのかー」
「上等よ!」
何も解っていなくても役に立つチルノがなし崩し的に弾幕勝負をルーミアに挑み、激しい魔力のぶつかりあいが始まった。
月の光が夜を貫き、冷気が闇すら凍らせた。
「チルノちゃんがひきつけているうちに!」
「う、うん」
派手なぶつかり合いの音を背中に、リグルと大妖精は全速力でその場を離脱した。
7.
「あった! あそこだ!」
漸く見えた永遠亭は、希望の光そのものだった。
大妖精はリグルを背負ったまま全速力で飛び込んだ。
「急患ですか? って、あれ、珍しい顔ぶれね」
受付前で息を切らせていると、頭に長い耳を生やした受付の妖怪兎がきょとんとした顔で見つめて来た。
この鈴仙・優曇華院・因幡は、永遠亭の妖兎たちのリーダーで、狂気を操る程度の力を持っており、底が知れない不気味な印象がある。
何処と無く面白がっているように感じたのは、自分の穿ちすぎだと己に言い聞かせながら、リグルは用件を告げた。
体が人間みたいになって困っている。
八意永琳の力を借りたい。
「はーい、ちょっと待っててください」
妖怪が人間になるという前代未聞の椿事にも、妖怪兎は冷静を崩さなかった。そのまま奥へ行き、やがてリグルの名前が呼ばれた。
診察室に入ると、見たこともない道具に囲まれ、医師・八意永琳が椅子に座っていた。
「いらっしゃい。人間になってしまったのですって?」
「そうなのよ! 体は弱弱しくてきもちわるいし、友達からは襲われるし……何とかできないの!?」
永琳は何故か、楽しそうに笑っていた。
「怖かった?」
「こ……怖くなんかなかったけど! 何をにやにやしているの!」
「いいえ。そう、怖くなかったのね。流石と言うべきかしら。貴女は勇気があるわ」
何だか話が噛みあっていないように思えたが、永琳はそ知らぬ振りで話を続けた。
「薬は出しますわ」
「えっ、本当に!?」
「ええ。妖怪に戻りたいのでしょう? 人間は嫌なのよね」
「そうよ! その通り! お願いよ!」
「解りましたわ」
一か八かの思いだったが、それが報われ、リグルの疑念も吹っ飛んだ。
「どうぞこちらの寝台に横になって」
「うん」
言われるがままに横になると、意外と寝心地は良かった。全てが解決することに安心して、リグルはゆっくり眼を瞑る。
「少し疲れたのでしょう。いい夢を、ね」
「ええ。でも、どんなお薬なのかしら?」
胡蝶夢丸というのよ、と永琳は答え、丸薬と水をリグルに含ませた。リグルの意識は暗転していった。
8.
リグルが何かきらきらした夢から眼を覚ますと朝だった。いつも起きるのは黄昏時なので、リグルにとっては新鮮だった。日の光で宙を舞う埃が見えたからか、喉のいがらっぽさを感じて咳き込んだ。
落ち着いてから恐る恐る頭に手を伸ばすと、艶やかな触覚がきちんと備わっていた。背中にも、蟲の羽がきちんと生えていた。
心底からホッとして胸を撫で下ろし寝台から降りると、足の痛みも消えていた。
「流石ね、いい仕事をするわ」
それにしても昨晩の態度は腑に落ちなかったが、結果がよければ問題は無い。
朝早いからか、診察室から受付まで行っても誰とも会わなかった。手持ち無沙汰にきょろきょろ見ると、意外と永遠亭は掃除が行き届いておらず、またあちこち朽ちていることに気付いた。
「月人のお屋敷なんて言ってもたいしたこと無いのね。それにしても人の気配がないけれど、御代はどうしたものかしら。請求が来てからでいいわよね」
屋敷から外に出ても、結局誰にも会わなかった。伸び放題の竹だけが送り出してくれた。
羽の調子を確かめようと暫く飛んでみると、体の調子は頗るつきによいことが解った。
そのまま少し飛んでいくと、聞き覚えのある声がした。
「そーなのかー」
ルーミアの声だった。茂みの向こうの開けた場所で、誰かと遊んでいるようだった。多分チルノかミスティアだろう、もう襲われることも無いし混ぜて貰おうか、と思いリグルは近付いていった。そう言えばチルノにお礼もしなければいけない。
「ルーミア! 昨日は散々な眼に合わせてくれたわね。でも、永遠亭でちゃんと直してもらったわよ。これで、私が本物のリグルってわかったでしょ!」
出て行くと、金髪の少女は振り向いて、硬直した。向こう側にいたのはミスティアとチルノで、ミスティアもルーミアと同じような反応をした。チルノだけは「おー」と声を返した。
ルーミアが口を開いた。
「ばけもの!!」
「え?」
ルーミアの顔は、彼女が一度も浮かべたことが無い恐怖という感情に塗りつぶされていた。
続いてミスティアも叫ぶ。
「出たあ!」
「妖怪だー!!」
そのまま二人は全速力で走り去る。その背中を呆然と見詰めて、リグルはあることに気付いた。
ミスティアの背中に、羽が無い。
「え? ちょっと待ってよ、どういうこと?」
「リグルー」
近付くチルノに目を向けると、彼女がいつも発している筈の寒さが全く感じられないことにも気付いた。氷の羽も無かった。
「ちる、の……?」
「永遠亭って、あんな誰も住んでないお屋敷で何してたのさ? さては、一人かくれんぼね! あたい負けないよ!」
リグルは呆然とした。
「ねえ、私のこの触覚、どう思う?」
「え!? あ、本当だ!! 触覚とかある!!」
やっぱり気付いてなかったのかよ、と思いながら、へなへなと力が抜けて座り込んだ。
「永遠亭の連中は?」
「えー? あのおやしき、ずーっと前から廃墟じゃない。何言ってるのさ、リグル」
「鈴仙は?」
「誰?」
「てゐは?」
「誰?」
「永琳は?」
「新しい友達? あたいにも教えてよ!」
「…………」
ぼうっと、自分が今来た道を見返した。誰もいない場所から自分は来たらしかった。
そうしていると、また声が聞こえてきた。
『妖怪ってのはこっちか!』
『チルノはまた一人で残ってるのか!』
『子供たちが危ない、ぶち殺してしまおう!』
人の里の男の声、それも、物凄く大人数だった。リグルは震え上がった。
「リグル?」
『妖怪が出たのよ! リグルちゃんの振りをしてるけど、触覚とか羽があったから解ったの!』
『チルノちゃんが危ないから、やっつけてよ!』
ルーミアとミスティアが、大人たちに自分を殺せと言ってるのが聞こえた。
リグルははじかれたように駆け出した。里の連中とは逆方向だった。
チルノが名前を呼んでいたが、立ち止まれるはずもなかった。
「なんで……こんな……!? 一体私が、何をしたっていうのよ! 一体何がどうなってるのよ!!」
全速力で逃げた。でも、今人の里から逃げ切れても、何か抗いようの無いものがすぐさま背中に追いついてきそうだった。
「……すけて……」
気付けばリグルは涙を流していた。
「誰か、助けてよお!! お願いだよ!!」
絶叫は森に虚しく木霊し、しかしそれも追いかける『探せ』『殺せ』の声にあっという間に飲み込まれ、落ちた雫は踏み潰されてしまった。
0.
「へえ~、この薬で悪夢が見れるんだって? でも、蟲の王の私が、どんなものが出てきた所で怯える筈が無いね!」
「そんなことありません。師匠の薬は本当に凄いのよ!」
「むきにならなくてもいいわよ、ウドンゲ。実際に試してもらえばいい」
「効果ないと思うけどね。私は蟲の王よ、蟲の王。悪夢は見せる側なのよ」
「どうだか。胡蝶夢丸・ナイトメアタイプ妖怪用でも一番キツいレベルのこれなら、夢中の夢さえ見られるかもね。あなたが寝言で、泣いて助けを求めたら師匠の勝ちよ!」
「あはは! そんなことなるわけないわ!」
「むぅ~~……」
「どうなるか楽しみね。でもね、ウドンゲ。胡蝶夢丸がきいてる頃には、この会話も忘れているわ。だって、ススキと解った幽霊なんて、面白くも何ともないでしょう?」
「こんなもの効かないから大丈夫よ! ほら、飲み込んだわ。後はどうすればいいの?」
「あら、もう飲んでしまったのね。後は横になって眠るだけでいいわ。お休みなさい。いい夢を」
途中、永琳が出てきた辺りでもしかしたら…と、オチに予想がついてしまいました。
自分的には、紫を登場させた方が読む側としては、もう少しこの話しの可能性にというか、「永琳じゃなく、紫が?」など不確定要素でこの先どうなるのだろう?面白くなるかなぁと思いました。
あとは文章の書き方ですかね。会話文も多いけど、その分。背景とかリグル視点なので、彼女が見ている物、感じた物について書いても良いかもしれないです。
例えば、作中の一文で「人の里の男の声、それも、物凄く大人数だった。リグルは震え上がった」ですが、「人の里の男の声、それも、予想もつかないぐらい物凄く大人数の会話が聞こえた。リグルは自分が(どう思い、何を感じたのか)~で、震え上がった」とか、一言付け加えるだけでちょっと変わります。
まぁ、お節介が過ぎましたが、これからも頑張ってください
胡蝶夢丸すげぇ。
の悪夢の中でも悪夢でないチルノって最強ね
普段仲の良い友達に信じてもらえないだけでなく、
命を狙われるというのは想像しがたい恐怖でしょうなあ・・・
途中でオチに気づきましたが、まぁ「悪夢」というオチにする以上
ある程度はしょうがないことですね。
次回も期待しています。
薬符「胡蝶夢丸ナイトメア」
でしたね。