「あ、妹紅さんだ」
よく晴れた日。買い物に来た人々で賑わう人の里の大通りでの誰かの一言に、その場の何人かが周囲を探すように見回した。
「あ、本当だ。妹紅さーん! こないだは、ありがとうございましたー!」
「妹紅さん、お陰で親父も助かったよ!」
「妹紅さん、うちの娘も元気になったよ。そうそう、いい胡瓜が入っとるよ。食っていかんかねー」
数人から声をかけられた少女が立ち止まり、軽く笑みを返した。
「大したことじゃないから気にしないでよ」
振り向く仕草に合わせて翻る長い白髪。里の人間とは決定的に異なる、竜のように紅い瞳。
見紛うことなき不死鳥使い・藤原妹紅は、あれからちょくちょく人の里を訪れるようになっていた。
きっかけは、少年を送り届けた後のことであった。
大切な一人息子を助けられた母親は、泣いて喜び、妹紅に何度も何度も礼を言ったのだ。
その時、妹紅は言葉を返せなかった。
新鮮な感覚。
不可思議な感慨。
妹紅は、望まれて生まれてきた存在ではなかった。
更に大罪を犯し、全てから隠遁するように生きてきた。
ゆえに、他人から感謝されたのは、これが生まれて初めてのことだったのだ。
「ありがとうございます。ありがとうございます……」
「ありがとう、妹紅さん!」
その言葉が胸に染み入るようだった。じぃんと痺れたようになってしまって、動けない。
なんとか、ああ、とか、うん、とか返す妹紅を、慧音は少し不思議そうに見ていたが、やがて少年と病身である母親が去ると、不意に表情を改めた。
「妹紅どの」
「あ……ああ、なんだ」
「勝手は承知で、頼みがある」
「なんだ?」
「……今宵のようなことは、二度や三度ではないのだ。あの子は、貴女と会えて運がよかったが、帰らなかった者もいる。
妹紅どのは、竹林のことをよく知る上に、腕も立つ様子。もし、永遠亭に向かう者がいたら、助けてやってはくれないだろうか。
本来なら私が人々を守りたいのだが……残念ながら私はこの場所について明るいとは言えないし、全ての人間に目を行き届かせることもできない。
どうか、手が届くときでいい。彼らを助けてやってくれないか」
要は、見知らぬ者のために体を張れと言うことだ。
即答はしかねる内容だった。
「いいよ」
「本当か!」
だが気付けば、すぐさま諾の返事を送っていた。
誰かに、何かを、真剣に頼まれるということも、初めての経験だったからだろうか。
それだけではなかった。
脳裏を過ぎるのは、つい先刻までのあの言葉。あの言葉がまた聞けるなら、悪くない。そう思っている自分に、妹紅自身が驚く。
それに。
「ありがとう、妹紅どの」
その言葉を発しているのが笑顔の上白沢慧音だと意識すると、絶対に、断ることなどできなかったのだ。
里の人々は、最初こそ怪訝な顔をする者が多かったものの、くだんの少年やその母親の実体験や里の守護者上白沢慧音のお墨付き、更に実際に永遠亭まで護衛を受けた人物が帰ってくるに至って、確固たる信頼を築くに至った。
今日も寺子屋の前を通りかかると、少年から妹紅の武勇伝を聞いていた子供たちが話を聞こうと、慧音の制止も無視して妹紅を取り囲む。この慧音が経営する寺子屋の子供たちは、最初の当事者である少年と慧音が両方いることもあって、里でも特に妹紅に関わろうとするのだった。
「妹紅さん本物!? 生妹紅さん!?」
「夜雀やっつけたんでしょ!?」
「妖怪やっつけるなんてすげー!!」
「巫女より強いの!?」
「火の鳥出して火の鳥!!」
「お前たち、妹紅どのが困っているぞ。それからまだ授業時間だ!」
子供たちの間での妹紅人気は凄まじいものがあり、中には、あなたはあの竹林に巣食っていた忍者集団の末裔でしょう、しらばっくれないでください、などと訳の分からない妄想を強硬に主張する少女まで存在した。
そんな風に好奇心旺盛な少年少女にもみくちゃにされながらも、妹紅は決して悪い気分ではなかった。
「全く……しょうがない。妹紅どの、すまないな。子供たちはやんちゃでな」
苦笑いしながらの慧音の謝罪。言葉のはしばしから、自分に対する気遣いと、子供たちに対する愛情が滲んでいる。
妹紅は、子供と一緒にいる慧音が好きだった。厳しい厳しいと言われているが、一番優しい顔をするのがその時だと知っていた。
同時に、その顔を見ていると、何故だろう、たまらなく苦しくなることがあったが、それは何かの間違いだと自分に言い聞かせた。
里の人たちの、子供たちの、そして慧音の笑顔。
自分が受け入れられることが、こんなにも心地いいことだとは思わなかった。ずっと求めて、遥か昔に果てた筈の夢。
此処で、今のままの暮らしが続けば――
「妹紅さんって、正義の味方ーって感じだよね!」
瞬間、子供の無邪気な言葉に、棘で刺されたような感覚を覚えた。
「そうだよね。優しいし。慧音先生みたいに怒らないしさ」
ちくり。
「私、妹紅さんみたいなお姉ちゃん欲しかったなぁ」
ちくり。
「そう言えば、妹紅さんの家族って? きっと妹紅さんみたいに優しい人だよね」
ちくり。
「……妹紅さん?」
心配げな声に我に返る。あの夜助けた少年が、不安顔で覗き込んでいた。
「ああ、少しぼうっとしたなあ。今日はそろそろ帰ろう。みんなの元気に当てられたよ」
「え~~? もう? 早いよ!」
笑って軽口を返し、意地悪な顔を作ってみせると、不満を漏らしながらも少年は安堵したようだった。
「いい加減にしろ、お前たち! 妹紅どのにも都合というものがあるんだぞ」
「えー、でもさー」
「怒るぞ!」
「も、もう怒ってるよ先生!」
響き渡った慧音の怒声に、慌てて席に戻る子供たち。怒れる慧音の恐ろしさを体で理解しているのであろう。
「妹紅どの。失礼したな」
「気にしないでよ」
「全く……お前たちも謝るんだ」
「気にしちゃいないよ。それじゃあね」
妹紅はそのまま飄々とした様子を装い去っていく。いつものように。
だが、慧音はその背から、暫く目を離さなかった。
夜。半分の月の光が、人の里を優しく包んでいる。
その大通り。子供たちのいない寺子屋の前に人影があった。
妹紅が上白沢亭を訪れるのは、これが初めてのことである。
「慧音……いるか?」
「妹紅どのか?」
聞こえた声に安堵する。引き戸が開き、慧音が顔を出した。
「これは珍しい。どうぞ。今は茶しか出せないが……」
「ああ、気にしなくていい。寄らせてもらうよ」
居間に通され、茶を出される。何度か訪れた様子では、確かに慧音は里の人々に慕われていたが、邸宅は殊更豪華というわけではなく、逆にそれが落ち着く雰囲気を醸していた。
出された茶を啜る。妹紅には用件があったが、その前に慧音が口を開いた。
「それにしても、里の人々も皆、貴女に感謝している。私も心配事が大分減った。貴女のお陰だ」
慧音の自分を褒めるような言葉に、再び、胸が痛んだ。
「大したことじゃないよ。あの程度の妖怪なら、なんてことないしね」
「いや。正直、あの話を受けて貰えるとは思わなかった。余りに自分勝手な願いだからな。
子供たちも喜んでいる。妹紅どのは、優しく、自分たちの話を聞いてくれるとな」
ずきん。
「里の人々も、皆、貴女を慕い、頼っている。人徳というものだろう」
ずきん。
「どうだろう。妹紅どのさえよければ、里に住んでしまってもいいのではないだろうか。
貴女の清浄な炎は、希望の象徴のようなものだ。皆も――」
ずきん――。
「慧音。もういいよ、その話は」
「おっと……喋りすぎたか。すまん。普段、客人として誰かを迎えることは少なくてな。少し調子に乗ってしまったか」
強い調子の遮りの言葉に、慧音は眼を瞬かせ、一度口を閉じた。
「……では改めて聞こう。何用で来られたのだ?」
「聞きたいことがあってね」
慧音は首を傾げ、
「何だ?」
妹紅は、その質問を発するまでに、意志の力を要した。
今の関係は悪くない。決して悪くない。慧音とも、里の人々とも。
今から自分が問う言葉は、それが崩れてしまうことを恐れ、一度も話題に出したことのない出来事についてのものだった。
「前の、満月の夜のことだ」
「満月――」
「慧音、お前は私を、どうして守ったんだ?」
もう、彼女が自分を守ろうとしたことについては疑いようもない。慧音の人となりならば納得できるし、そこまでして輝夜が嘘をつく必要もない。
問題は、その理由だった。
もしその理由が、慧音の「勘違い」だとしたら。今の関係を破壊することになりかねない問いかけだった。
だがもう限界だったのだ。
「……知っていたのか」
「永遠亭の連中から聞いたよ。私を守ったんだろう?」
「別に隠すつもりはなかったのだがな。結局私は、あの二人に敗北し、貴女を守れなかった」
「それはいい」
もしその理由が、慧音の「勘違い」だとしたら。自分は、慧音を欺き続けていることになるのでは?
「何故、私を守ろうとしたんだ」
「それは……貴女が、人間だからだよ。乱暴者の巫女と、隙間妖怪が高速で向かう以上、決闘が起きるのは必至。しかも連中ときたら、何を企んでいるか知れたものじゃないだろう」
「私が、人間だから、か」
「そうだ」
慧音は、私を「力はあるけれど普通の善意ある人間」程度に見ているから、そう言っているのでは?
そうではない。
そうではないんだ。
「違う!!」
突然の大声に、慧音は目を瞠り、妹紅を見つめる。
「違う、とはどういうことだ。貴女は人間だろう」
「そうだけれど、そうじゃない」
その視線の先で、告白というよりも懺悔のように、妹紅は俯いて言った。
「私は、蓬莱の薬を飲んだ人間なのよ」
千年単位の昔。かの永遠亭の姫君・蓬莱山輝夜によって、貴族の父に恥をかかされた少女は復讐を誓い、輝夜去りし後、彼女が養父母に送った蓬莱の薬を、人を殺してまで強奪した。
意趣返しのつもりだったのだ。
だが、白髪紅眼の異形の上に、殺人者にまで成り果てた望まぬ子の末路など知れたもの。それまでも生があること自体が情けの賜物であったのだ。少女は敢え無く切り捨てられた。
そして死を恐れた少女は蓬莱の薬を含み――死ねなくなった。元々の激情と、全てを失った虚無のみを抱えた少女は、容姿の変わらぬ姿に不審を抱かれぬよう各地を転々とした。
最後に辿り着いたのは幻想郷。此処で漸く少女は安寧を得た。
怨敵と見定めていた蓬莱山輝夜との再会と戦い。皆が先に逝く中でも永遠に終わらぬ安心を与え、同時に「死ぬかも知れない」という思いを呼び起こしてくれる。
刺激と安堵。それは生の実感に他ならない。輝夜の手で、妹紅はそれを得た。
つまり、全ての発端であり憎悪の対象である筈の輝夜の慈悲によって、妹紅は心の天秤を安定させることができたのだった。
「何と薄汚い人間だ……罪を犯してただ一人、不幸を気取ってのうのうと、敵の手に縋り生きながらえる!!」
妹紅は拳を握り締めた。皮膚が破れ血が流れたが、あっという間にそれも塞がる。
「それでもいいと思っていた。もう、これでいいと思っていたんだ。なのに……」
あの日、現れた上白沢慧音は、輝夜のような適切にして歪んだやり方ではなく、何も知らぬが故に堂々と、絡まった妹紅の思いという糸を真正面からぶった切ってしまった。
「……お前は、私を、何の打算も無く守ると言った。何の計算も無い笑みを見せた。何の衒いも無く正当に怒り、何の見返りも無いのに、気高く生きている……お前を見てると、辛いんだ。私に無いもの全部、お前は持ってる。
それに、この里の連中と来たら、私のことを……優しいだの、何だの、と……」
ワーハクタク。人ではないが、人を守る妖怪。
彼女は、妹紅を、諦めていた世界にあっという間に引きずり込んでしまった。
だから忘れかけてしまった。自分は人間だ。永遠の命を持つ人間だ。同時に、罪を犯した人間なのだ。
「……すまないな。八つ当たりだ。だが、分かっただろう。私はこういうヤツだ。子供たちに優しいなんて言われる価値も、お前に守られる意味も、無かったんだよ」
妹紅は力なく立ち上がる。
「……妹紅、」
「悪かった。邪魔したな」
慧音が何か言おうとしたが、妹紅は先んじてその口を塞ぐと、駆けるように慧音の家を後にした。
言葉の先を聞くのが怖かった。
清廉潔白、誠実で、人間の守護者。あの綺麗な瞳に、薄汚い自分がどう映ったのか、それを聞くのが怖かった。
後ろで慧音が何か叫んでいるのが聞こえたが、何も聞かずに唯走った。月が滲み、どうしようもない後悔の念が心臓を締め付けた。
死にそうに胸が苦しかった。
「どうせ死ねやしない」
妹紅は口元にだけ笑みを浮かべ、他の部分をくしゃくしゃにして、走り続けた。
(続く)
よく晴れた日。買い物に来た人々で賑わう人の里の大通りでの誰かの一言に、その場の何人かが周囲を探すように見回した。
「あ、本当だ。妹紅さーん! こないだは、ありがとうございましたー!」
「妹紅さん、お陰で親父も助かったよ!」
「妹紅さん、うちの娘も元気になったよ。そうそう、いい胡瓜が入っとるよ。食っていかんかねー」
数人から声をかけられた少女が立ち止まり、軽く笑みを返した。
「大したことじゃないから気にしないでよ」
振り向く仕草に合わせて翻る長い白髪。里の人間とは決定的に異なる、竜のように紅い瞳。
見紛うことなき不死鳥使い・藤原妹紅は、あれからちょくちょく人の里を訪れるようになっていた。
きっかけは、少年を送り届けた後のことであった。
大切な一人息子を助けられた母親は、泣いて喜び、妹紅に何度も何度も礼を言ったのだ。
その時、妹紅は言葉を返せなかった。
新鮮な感覚。
不可思議な感慨。
妹紅は、望まれて生まれてきた存在ではなかった。
更に大罪を犯し、全てから隠遁するように生きてきた。
ゆえに、他人から感謝されたのは、これが生まれて初めてのことだったのだ。
「ありがとうございます。ありがとうございます……」
「ありがとう、妹紅さん!」
その言葉が胸に染み入るようだった。じぃんと痺れたようになってしまって、動けない。
なんとか、ああ、とか、うん、とか返す妹紅を、慧音は少し不思議そうに見ていたが、やがて少年と病身である母親が去ると、不意に表情を改めた。
「妹紅どの」
「あ……ああ、なんだ」
「勝手は承知で、頼みがある」
「なんだ?」
「……今宵のようなことは、二度や三度ではないのだ。あの子は、貴女と会えて運がよかったが、帰らなかった者もいる。
妹紅どのは、竹林のことをよく知る上に、腕も立つ様子。もし、永遠亭に向かう者がいたら、助けてやってはくれないだろうか。
本来なら私が人々を守りたいのだが……残念ながら私はこの場所について明るいとは言えないし、全ての人間に目を行き届かせることもできない。
どうか、手が届くときでいい。彼らを助けてやってくれないか」
要は、見知らぬ者のために体を張れと言うことだ。
即答はしかねる内容だった。
「いいよ」
「本当か!」
だが気付けば、すぐさま諾の返事を送っていた。
誰かに、何かを、真剣に頼まれるということも、初めての経験だったからだろうか。
それだけではなかった。
脳裏を過ぎるのは、つい先刻までのあの言葉。あの言葉がまた聞けるなら、悪くない。そう思っている自分に、妹紅自身が驚く。
それに。
「ありがとう、妹紅どの」
その言葉を発しているのが笑顔の上白沢慧音だと意識すると、絶対に、断ることなどできなかったのだ。
里の人々は、最初こそ怪訝な顔をする者が多かったものの、くだんの少年やその母親の実体験や里の守護者上白沢慧音のお墨付き、更に実際に永遠亭まで護衛を受けた人物が帰ってくるに至って、確固たる信頼を築くに至った。
今日も寺子屋の前を通りかかると、少年から妹紅の武勇伝を聞いていた子供たちが話を聞こうと、慧音の制止も無視して妹紅を取り囲む。この慧音が経営する寺子屋の子供たちは、最初の当事者である少年と慧音が両方いることもあって、里でも特に妹紅に関わろうとするのだった。
「妹紅さん本物!? 生妹紅さん!?」
「夜雀やっつけたんでしょ!?」
「妖怪やっつけるなんてすげー!!」
「巫女より強いの!?」
「火の鳥出して火の鳥!!」
「お前たち、妹紅どのが困っているぞ。それからまだ授業時間だ!」
子供たちの間での妹紅人気は凄まじいものがあり、中には、あなたはあの竹林に巣食っていた忍者集団の末裔でしょう、しらばっくれないでください、などと訳の分からない妄想を強硬に主張する少女まで存在した。
そんな風に好奇心旺盛な少年少女にもみくちゃにされながらも、妹紅は決して悪い気分ではなかった。
「全く……しょうがない。妹紅どの、すまないな。子供たちはやんちゃでな」
苦笑いしながらの慧音の謝罪。言葉のはしばしから、自分に対する気遣いと、子供たちに対する愛情が滲んでいる。
妹紅は、子供と一緒にいる慧音が好きだった。厳しい厳しいと言われているが、一番優しい顔をするのがその時だと知っていた。
同時に、その顔を見ていると、何故だろう、たまらなく苦しくなることがあったが、それは何かの間違いだと自分に言い聞かせた。
里の人たちの、子供たちの、そして慧音の笑顔。
自分が受け入れられることが、こんなにも心地いいことだとは思わなかった。ずっと求めて、遥か昔に果てた筈の夢。
此処で、今のままの暮らしが続けば――
「妹紅さんって、正義の味方ーって感じだよね!」
瞬間、子供の無邪気な言葉に、棘で刺されたような感覚を覚えた。
「そうだよね。優しいし。慧音先生みたいに怒らないしさ」
ちくり。
「私、妹紅さんみたいなお姉ちゃん欲しかったなぁ」
ちくり。
「そう言えば、妹紅さんの家族って? きっと妹紅さんみたいに優しい人だよね」
ちくり。
「……妹紅さん?」
心配げな声に我に返る。あの夜助けた少年が、不安顔で覗き込んでいた。
「ああ、少しぼうっとしたなあ。今日はそろそろ帰ろう。みんなの元気に当てられたよ」
「え~~? もう? 早いよ!」
笑って軽口を返し、意地悪な顔を作ってみせると、不満を漏らしながらも少年は安堵したようだった。
「いい加減にしろ、お前たち! 妹紅どのにも都合というものがあるんだぞ」
「えー、でもさー」
「怒るぞ!」
「も、もう怒ってるよ先生!」
響き渡った慧音の怒声に、慌てて席に戻る子供たち。怒れる慧音の恐ろしさを体で理解しているのであろう。
「妹紅どの。失礼したな」
「気にしないでよ」
「全く……お前たちも謝るんだ」
「気にしちゃいないよ。それじゃあね」
妹紅はそのまま飄々とした様子を装い去っていく。いつものように。
だが、慧音はその背から、暫く目を離さなかった。
夜。半分の月の光が、人の里を優しく包んでいる。
その大通り。子供たちのいない寺子屋の前に人影があった。
妹紅が上白沢亭を訪れるのは、これが初めてのことである。
「慧音……いるか?」
「妹紅どのか?」
聞こえた声に安堵する。引き戸が開き、慧音が顔を出した。
「これは珍しい。どうぞ。今は茶しか出せないが……」
「ああ、気にしなくていい。寄らせてもらうよ」
居間に通され、茶を出される。何度か訪れた様子では、確かに慧音は里の人々に慕われていたが、邸宅は殊更豪華というわけではなく、逆にそれが落ち着く雰囲気を醸していた。
出された茶を啜る。妹紅には用件があったが、その前に慧音が口を開いた。
「それにしても、里の人々も皆、貴女に感謝している。私も心配事が大分減った。貴女のお陰だ」
慧音の自分を褒めるような言葉に、再び、胸が痛んだ。
「大したことじゃないよ。あの程度の妖怪なら、なんてことないしね」
「いや。正直、あの話を受けて貰えるとは思わなかった。余りに自分勝手な願いだからな。
子供たちも喜んでいる。妹紅どのは、優しく、自分たちの話を聞いてくれるとな」
ずきん。
「里の人々も、皆、貴女を慕い、頼っている。人徳というものだろう」
ずきん。
「どうだろう。妹紅どのさえよければ、里に住んでしまってもいいのではないだろうか。
貴女の清浄な炎は、希望の象徴のようなものだ。皆も――」
ずきん――。
「慧音。もういいよ、その話は」
「おっと……喋りすぎたか。すまん。普段、客人として誰かを迎えることは少なくてな。少し調子に乗ってしまったか」
強い調子の遮りの言葉に、慧音は眼を瞬かせ、一度口を閉じた。
「……では改めて聞こう。何用で来られたのだ?」
「聞きたいことがあってね」
慧音は首を傾げ、
「何だ?」
妹紅は、その質問を発するまでに、意志の力を要した。
今の関係は悪くない。決して悪くない。慧音とも、里の人々とも。
今から自分が問う言葉は、それが崩れてしまうことを恐れ、一度も話題に出したことのない出来事についてのものだった。
「前の、満月の夜のことだ」
「満月――」
「慧音、お前は私を、どうして守ったんだ?」
もう、彼女が自分を守ろうとしたことについては疑いようもない。慧音の人となりならば納得できるし、そこまでして輝夜が嘘をつく必要もない。
問題は、その理由だった。
もしその理由が、慧音の「勘違い」だとしたら。今の関係を破壊することになりかねない問いかけだった。
だがもう限界だったのだ。
「……知っていたのか」
「永遠亭の連中から聞いたよ。私を守ったんだろう?」
「別に隠すつもりはなかったのだがな。結局私は、あの二人に敗北し、貴女を守れなかった」
「それはいい」
もしその理由が、慧音の「勘違い」だとしたら。自分は、慧音を欺き続けていることになるのでは?
「何故、私を守ろうとしたんだ」
「それは……貴女が、人間だからだよ。乱暴者の巫女と、隙間妖怪が高速で向かう以上、決闘が起きるのは必至。しかも連中ときたら、何を企んでいるか知れたものじゃないだろう」
「私が、人間だから、か」
「そうだ」
慧音は、私を「力はあるけれど普通の善意ある人間」程度に見ているから、そう言っているのでは?
そうではない。
そうではないんだ。
「違う!!」
突然の大声に、慧音は目を瞠り、妹紅を見つめる。
「違う、とはどういうことだ。貴女は人間だろう」
「そうだけれど、そうじゃない」
その視線の先で、告白というよりも懺悔のように、妹紅は俯いて言った。
「私は、蓬莱の薬を飲んだ人間なのよ」
千年単位の昔。かの永遠亭の姫君・蓬莱山輝夜によって、貴族の父に恥をかかされた少女は復讐を誓い、輝夜去りし後、彼女が養父母に送った蓬莱の薬を、人を殺してまで強奪した。
意趣返しのつもりだったのだ。
だが、白髪紅眼の異形の上に、殺人者にまで成り果てた望まぬ子の末路など知れたもの。それまでも生があること自体が情けの賜物であったのだ。少女は敢え無く切り捨てられた。
そして死を恐れた少女は蓬莱の薬を含み――死ねなくなった。元々の激情と、全てを失った虚無のみを抱えた少女は、容姿の変わらぬ姿に不審を抱かれぬよう各地を転々とした。
最後に辿り着いたのは幻想郷。此処で漸く少女は安寧を得た。
怨敵と見定めていた蓬莱山輝夜との再会と戦い。皆が先に逝く中でも永遠に終わらぬ安心を与え、同時に「死ぬかも知れない」という思いを呼び起こしてくれる。
刺激と安堵。それは生の実感に他ならない。輝夜の手で、妹紅はそれを得た。
つまり、全ての発端であり憎悪の対象である筈の輝夜の慈悲によって、妹紅は心の天秤を安定させることができたのだった。
「何と薄汚い人間だ……罪を犯してただ一人、不幸を気取ってのうのうと、敵の手に縋り生きながらえる!!」
妹紅は拳を握り締めた。皮膚が破れ血が流れたが、あっという間にそれも塞がる。
「それでもいいと思っていた。もう、これでいいと思っていたんだ。なのに……」
あの日、現れた上白沢慧音は、輝夜のような適切にして歪んだやり方ではなく、何も知らぬが故に堂々と、絡まった妹紅の思いという糸を真正面からぶった切ってしまった。
「……お前は、私を、何の打算も無く守ると言った。何の計算も無い笑みを見せた。何の衒いも無く正当に怒り、何の見返りも無いのに、気高く生きている……お前を見てると、辛いんだ。私に無いもの全部、お前は持ってる。
それに、この里の連中と来たら、私のことを……優しいだの、何だの、と……」
ワーハクタク。人ではないが、人を守る妖怪。
彼女は、妹紅を、諦めていた世界にあっという間に引きずり込んでしまった。
だから忘れかけてしまった。自分は人間だ。永遠の命を持つ人間だ。同時に、罪を犯した人間なのだ。
「……すまないな。八つ当たりだ。だが、分かっただろう。私はこういうヤツだ。子供たちに優しいなんて言われる価値も、お前に守られる意味も、無かったんだよ」
妹紅は力なく立ち上がる。
「……妹紅、」
「悪かった。邪魔したな」
慧音が何か言おうとしたが、妹紅は先んじてその口を塞ぐと、駆けるように慧音の家を後にした。
言葉の先を聞くのが怖かった。
清廉潔白、誠実で、人間の守護者。あの綺麗な瞳に、薄汚い自分がどう映ったのか、それを聞くのが怖かった。
後ろで慧音が何か叫んでいるのが聞こえたが、何も聞かずに唯走った。月が滲み、どうしようもない後悔の念が心臓を締め付けた。
死にそうに胸が苦しかった。
「どうせ死ねやしない」
妹紅は口元にだけ笑みを浮かべ、他の部分をくしゃくしゃにして、走り続けた。
(続く)