ふと、永琳の部屋で一輪の花を見つけた。
赤く、奇妙な形をした花だった。
地獄の底から救いを求める手のようにも見えて、少し気味が悪い。
「気味が悪い……そうか、いつのまにか私も花に感情を抱くようになったのね」
遠い目で、天井を見上げる。
今は夜。
屋敷が無かったら、きっとそこには無慈悲に美しい月が浮かんでいることだろう。
感情に流されることなく、ただ黙々と時間が流れる冷酷な世界。
月に花は咲いていなかった。
思い出される景色は、白と灰色でできた二色の世界。
竹よりも高く伸びた高層建築物が立ち並ぶ都に、花など咲く余地はなかった。いや、そもそも咲く必要などなかった。
花は、見る人の感情を揺れ動かす鑑賞の道具。娯楽という概念が発達していない月では、花を見て楽しむという行為事態が存在しない。
せいぜい、薬師が材料として栽培していたくらいか。
ひょっとすると、この花も元は月で栽培していた花なのかもしれない。なにしろ、奇妙だし。
「……訊いてみようかしら」
これが月の花だからといって、別にどうこうなるわけでもない。
単なる興味なのだが、どうしてだか輝夜にはその真偽が気になった。
月に花は無いと言っておきながら、あることを期待している自分。
よもや、永琳がこれを鑑賞目的で栽培していたと、そんな台詞を聞きたいのだろうか。
有り得ない。永琳に限って、それはない。
言うとしても、この花の遺伝子情報を書き換えて新しい生物兵器を作ろうと思ってたんです、とかそんな感じだろう。
無論、そんな研究をしていたなんて聞いた覚えはないのだが。
などという事を考えていたら、ふと、手に違和感を覚えた。
「……いつのまに」
思わず、自分に呆れる。
あれほど奇妙だと言っていたのに、気が付けば輝夜はその花を手にとっていたのだ。
無意識の行動とはいえ、花を愛でる趣味があったとは知らなかった。自分のことなのに。
「奇妙なのに、どうしてかしら。妙に惹かれるのよねえ、この子」
手の平を添えると、花が震えた。
思わず握りしめたい衝動に駆られ、慌てて手を離す。
突然の破壊衝動。どうしたことか。
特にイライラするようなことが、あったわけでもないのに。
自分の手のひらを見つめながら、輝夜は小首を傾げた。
そしてハッと顔をあげ、花をよく見て、気がついた。
「ああ、道理で」
愛しいけど壊したい。
近づきたいけど、殺したい。
彼女に相対する時だけ、輝夜の心は矛盾を抱える。
何故だかわからないが、輝夜はいつのまにかその花と彼女を、同一視して見てしまっていたようだ。
「そうね、だったらいっそ妹紅の花とでも呼びましょうか」
赤い花弁と、妹紅の炎が被って見えたのか。
安直である。それならトマトも妹紅の野菜と名付けるべきだ。
なんにしろ、もう少しこの花について知らないといけない。
そもそも、月の花なのか地球の花なのかさえわからないのだ。
おそらくは地球の花だろうか、万に一つの可能性で月製のものという可能性もあるし。
「即決は禁物か。やっぱり永琳に聞いてみましょう」
聞き込みをするからには、やっぱり本物が無いと困る。
摘み取ろうとする手が、一瞬ほど躊躇う。
しかし少しだけ躊躇った後、輝夜は気持ちいいほどの勢いで花を摘み取った。
これも妹紅と一緒。
傷つけたくない心もあるが、最後の最後には結局殺してしまうのだ。
手の中の花は花弁を垂らし、心なしかぐったりとしているように見えた。
すん、すん、という音があちこちから聞こえてくる。
風が漏れてきているのかと思ったが、すれ違う兎達を観察している内に、音の正体に気がついた。
鼻をすする音だ。
人間の形態をした兎達は、何歩か歩くごとに鼻をすすっている。
そういう歩き方がブームなわけでもあるまい。
試しに輝夜も鼻をすすりながら歩いてみたが、楽しくも何ともなかった。
だとしたら、何だ?
輝夜は手近なところにいた兎をひっつかまえ、鼻をすする理由を訊いてみた。
「なんかわからないんですけど、すん、朝起きたら急に鼻水が……すん」
会話をしていても、所々で鼻をすする。
好きでやっているわけじゃない事はわかったが、原因は結局わからずじまいだった。
とはいえ。
「変な事件の原因は、大抵幾つかの連中の仕業でカタがつくのよねえ」
今回の場合は舞台が舞台だし、さしずめ永琳の薬が原因か。
試薬を誤って川に流してしまい、大変なことになった事例もあるし。
食事にも混入していたのかもしれない。
昨日の晩ご飯に出てきた、あの緑色のスープなんか妖しいではないか。
「あ、姫様!」
立ち止まって考え事をしている輝夜に、背後から声をかける兎がいた。
鈴仙・優曇華院・イナバである。
……多分。
「なに? その格好?」
「いや、これは師匠が強制させたんです。私は嫌だって言ったんですけど」
赤い瞳は黒く染まり、ピンク色の唇は真っ白に覆われている。
単にサングラスとマスクをつけただけなのだが、目と口が隠れているだけで、こうも妖しくなるのものなのかと。
「ひょっとして、それって兎達が鼻をすすっているのと関係あり?」
「どうなんでしょう。私にはそういった症状があるませんし、鼻をすすってるのも極一部の兎だけですし」
兎を選ぶのだとしたら、何か条件があるのだろうか。
まあ、考えていてもわかるわけがない。
こういうのは、作った本人に聞くのが一番だろう。
「ところで、永琳を見なかった?」
「師匠なら、さっき部屋に戻るって」
「そう。入れ違いになったみたいね」
えてして、この手のタイミングというのは合わないものである。
永琳の部屋へ戻ろうとして、ふいに輝夜は動きを止めた。
「そういえば、私に何か用? 急に呼び止めたりして」
ウドンゲは頬を掻きながら、大したことじゃないんですけど、と言いながら輝夜の手を指した。
「それ、何ですか?」
自分の手に視線を落とす。
永琳の部屋から採ってきた花があった。
「ちょっと興味があって、永琳の部屋から摘んできたのよ」
「はあ、師匠の部屋から……」
相づちを打ちながらも、ウドンゲの顔色は悪い。
余計な事を聞かなきゃよかった、という顔だ。
だが、今更後悔したところで遅かった。
「どうりで見覚えがあると思いました」
「それは永琳の部屋で? それとも月で?」
輝夜の言葉に、ウドンゲはキョトンとしたかと思うと、呆れたような顔で言った。
「嫌ですねえ、姫様。月に花なんてあるわけないじゃないですか。師匠の部屋に決まってます」
「そう……よね」
ウドンゲの答えにガッカリしている自分に驚く。
どうして、そこまで月に花があって欲しいのか。
あったところで、何が変わるというわけでもなし。
せいぜい、月の人間にも花を愛でる心があったのかという新たな驚きぐらいなものだ。
「変な事を訊いたわね。忘れてちょうだい」
早々に話を切り上げ、そそくさと輝夜は退散する。
突然の質問か、その態度にか。
ウドンゲは首を傾げて、走り去る輝夜の背中を見つめていた。
「姫、殴りますよ」
「殴ってから言うことないじゃない!」
部屋に戻ってきていた永琳は、輝夜の手の中にある花を見るや否や、いきなり拳を頭の上に振り下ろした。
防御する暇さえなかった。
「大切に育てていたというのに。せめて何か言ってからにしてください。また花を摘まれちゃ溜まったものじゃない」
残りの花の様子を見ながら、永琳は諫めるように言った。
ここまで怒られると、さすがの輝夜も悪いことをしたような気になってくる。
誰がどう見ても、悪い事をしたというのに。怒られて気づくなど、子供のような月の民であった。
「まあ、大事なのは球根ですから。ここまで成長したのなら花が引きちぎられても、大した影響はないでしょう」
「花はどうでもいいの?」
「ええ、そうです。花はあくまで観賞用。球根は生薬として役立つんです」
だとしたら、どうして殴られないといけなかったのか。
不満はあるが、言ったらまた殴られそうだったので止めた。
「ちょうど良い具合に患者も増えてきましたし、そろそろ使ってもいいかなと思っていたところです」
「患者って、ひょっとして兎達? そういえば、今度は何をしたのかしら?」
棚から小さなスコップを取り出し、永琳は苦笑いしながら鉢の土を掘り起こす。
「いや……別に意図があってのことじゃないんですよ。ちょっと、免疫力の弱い兎が感染したぐらいで。タチの悪い花粉症だと思ってもらえれば」
何に感染したというのか。
まあ聞かずとも、おおよその見当はつくが。
「やっぱり、あなたの仕業だったのね」
形勢逆転とばかりに責めるが、後処理をするのも永琳なのである。
摘んだら摘みっぱなしの輝夜とはわけがちがう。
「一応はまだ感染していない兎にサングラスとマスクの着用を義務づけていますが、それも一時的なものでしょう。根本的に解決しないと」
「それがその球根?」
「いえ、これも一時的な療法に過ぎません。鼻炎を治す程度の能力です」
便利な植物である。
面妖な面構えをしているくせに。
「あっ」
「どうしました、姫?」
ふと、永琳を捜していた目的を思い出した。
そうか、私はこの花について訊きたいことがあったのだ。
「ねえ、永琳。ひょっとして、この花って月で栽培したものじゃないわよね?」
恐る恐る、訊いてみる。
作業をする手がピタリと止まった。
永琳はこちらに顔を向け、呆気にとられたような顔で口を開く。
「いえ、違いますけど。元より、ココへは満足な準備をして来たわけではありませんから。栽培をしていた植物はありますけど、全部月へ置いてきてしまいました」
そうだった。別に永琳は自力で地球へとやってきたわけではないのだ。
他の月の民と同じようにして、やってきたのだ。
万全の準備などしようものなら、どう考えても地球へ残る気なのではと疑われる。
だから何も持たず、彼女は地球へと降りてきた。
「とすると、これはやっぱりココの花なのね」
「はい、そうですけど。……姫?」
なんとなく、これだけ同じ事を考えていると、その理由に思い当たっても不思議はない。
要は寂しかったのだ。
未練があるわけでもない、月へ戻りたいわけでもない。
あそこにあるのは永遠の退屈。いるだけで地獄の世界に、どうして戻りたいものか。
それでも、唯一の故郷が灰色と白だけというのは些か寂しいものがある。
せめて、一輪の花ぐらいあればいいのに。
くだらない感傷だ。
どんなに取り繕ったところで、故郷の無機質さが変わることはないのだから。
「良かったら、その花はあげます。観賞用としても、もう使い物になりませんし。それに、姫にはピッタリの花だと思いますよ」
「私? どちらかというと、妹紅に似ていると思うけど」
「あの娘にですか? まあ確かに、花言葉を考えれば合ってるといえば合ってますね」
「どんな花言葉なの?」
永琳は視線を天井に向け、思い出すようにして言った。
「確か……愉快、華麗、富と誇り。そんな感じだっと記憶しています」
愉快といえば愉快かもしれない。永遠という時間の中で、妹紅ほど輝夜の人生を愉快にしてくれ者はいない。
華麗と言われれば頷くかもしれない。乱暴な風貌と口調だが、時折、気品や華麗さが滲みでることがある。
富と誇りは言うまでもあるまい。妹紅の生い立ちを考えれば、その二つとは切っても切り離すことができない。
なるほど。確かに合ってる。
「じゃあ、私に似合っているというのは? 華麗かもしれないけど、愉快でもないし富もないわよ」
「富や誇りというのは、その花の花言葉ですから。私が思ったのは、もっと別の意味での花言葉です」
「どういうことかしら?」
スコップを傍らに置きながら、永琳は悪戯を思い付いた子供のような笑顔を浮かべた。
「その花、オニユリの花言葉は愉快、華麗、富と誇り。ですけど、ユリにはユリの花言葉があるんです」
オニユリというらしい、この花は。
どうにも物騒な名前の花だ。
紅魔館の吸血鬼姉妹を思い起こさせる。
「さしずめ、傲慢、我儘、無鉄砲といったところかしら」
自虐的な発言に、永琳は笑いを深めた。
特に面白いことを言ったつもりはないのだが、そうまで笑われると腹が立つ。
「違います。ユリの花言葉は威厳、純粋、無垢」
「純粋に無垢? この私が? はっ、馬鹿も休み休み言いなさい。どんなに心の清い人間だって、永遠という時間を過ごせば汚れていく。時間ほど残酷で汚らわしいものはないのよ。純粋や無垢なんて、私とは最も縁遠い言葉ね」
心からの言葉だったが、永琳には届かなかったらしい。
笑顔はいまだに崩れる気配すらみせない。
「さっきから、何がおかしいのかしら?」
ちょっと苛立った声で、そう追求する。
「いえいえ、姫は立派に純粋で無垢ですよ。だって……」
永琳は輝夜の手の中の花を指さした。
オニユリという名前の花だった。
「月に花があってほしいと願うことの、なんと純粋無垢なことでしょう」
見透かされていたらしい。
さすがは月の頭脳。無駄に頭が良いわけではない。
輝夜はそっぽを向いて、永琳と顔を合わせないようにした。
拗ねたから、というわけではない。
「照れる姫も可愛いですよ」
ただ、オニユリのように真っ赤になった顔を見られたくないだけのことだ。
でも、奇麗な作品なので俺は好きですよ
この話を書く発端がひねくれてみた結果だとしても、とてもとても良い話。
まるでこの作品における輝夜のようですね。
うん、面白かったですw
さくっと読めて小気味よい作品でした
ただもうちょっとふくらましていただけると更に妄想が広がってグッドです。
ここまで上手い後書きは初めてでした。(笑)
うん、まごうことなき百合だ。