私は今、メリーと喧嘩をしている。
長期的な意味で、ではない。
まさに今、ここメリーの部屋で、彼女を罵倒しているのだ。
「メリーのばか。ばかばか」
メリーに抱きついて。
その胸に顔をうずめて。
「……ばか」
声が弱く、震えているのが自分でも判った。
「あ……えっと、うん……」
解っているのかいないのか、メリーは中途半端な返事をしたきり、戸惑った様子で立ちすくんでいる。
解ってないかもしれない。なにしろ私はさっきから「ばか」しか言えていないのだから。
でも、事情の説明もなにも後回しにして、今はただこうしていたかった。
まだまだ暑い盛りだというのに、メリーの懐の暖かさは心地良かった。抱きつかれている方は暑苦しいかもしれないが、構うものか。
だって、メリーが悪いんだから。
「メリーの、」
――ふわり、と。
なおも言い募ろうとしたところで、不意に後ろ髪を撫でられる感触。
「ごめんね」
「……んっ……」
解っているのか、いないのか。
もう解ったのかもしれない。メリーは頭のいい子だから。
とにかく、その手は優しかった。
思わず息が漏れ、それがまた無闇に恥ずかしくて、私はますますメリーの胸に頭を押しつける格好になる。
ああ、情けない。
いい匂い。
それで、
なんでこんな事になってるんだっけ……。
――― ◇―◇―◇ ―◇◇◇― ――◇
チェスをしたのだ。
今週最後の講義が終わって、大学の近くのいつもの店で、メリーとお茶を飲みながら。
テーブルのすぐ横の窓辺に、おそらくはただの飾りのつもりで置かれていたのだろう、古びたチェス板にメリーが興味を示したのがきっかけだった。
せっかくだから、夕食を賭けて勝負しようということになった。
私もメリーも自炊はできるけど、得意なレシピはそれぞれ違うから、お互いの作るものが結構新鮮な味わいだったりする。
敗者が勝者に手料理を振る舞うという取り決めのもと、私の黒とメリーの白の戦いが始まった。
『今夜は腕を振るってもらうわ、境界の流人!』
『今夜のメニューを考えておくことね、星をみるひと!』
……で、勝ったのは私だった。
専攻がまるで違うわりに二人の実力はほとんど拮抗していたが、とにかく今回は私が勝った。
それから店を出て、スーパーに寄って、特売品に対するメリーの見解とお献立に関する私の希望が丁々発止。買い込んだ食材を半分づつ下げて、意気揚々とメリーの部屋に向かったのだ。
エプロン姿のメリーが、キッチンでくるくると働き始めた。
私も少しは手伝ったけど、そのうちにする事もなくなり、手近なクッションを抱えてごろごろしていた。
メリーがエプロン着けると若奥様みたいでいいなあ私だと食堂のおばちゃんになっちゃうのよね――などと考えながらその後ろ姿を眺め、次第に具体的になってくるいい匂いに浸っているうちに、
トロリと眠くなって、
――気が付いたら、メリーが消えていた。
クッションから顔を上げ、髪を手で整えながらきょろきょろと周りを見渡したとき、そう広くない部屋のどこにもメリーの姿はなかった。
薄手のカーテンの向こうからは薄めた血のような夕陽だけが差し込み、夢うつつに頬に感じていた風は張り詰めたように止まっていた。
キッチンを見れば、包丁もまな板も出しっぱなしだった。火の消えたコンロの上、鍋から立ち昇る湯気だけが視界の中で動いていた。
耳に響くのは、背後の壁時計が秒を刻む音だけ。
置いて行かれた、と思った。
寝起きの茫洋とした頭の中で、どこか隅っこの方だけがせわしなく動き始めていた。
メリーには結界の、世界の隙間を見る眼がある。
意のままにというわけではないけど、その境界の向こう側に足を踏み入れる力もある。
異世界を訪問したというメリーの「夢」の話は何度も聞かされていたし、その度に私は思ったものだ。私の知らない間に一人で旅行を楽しんでくるなんて、と。
だけど。
だからって。
私の目の前で消えてしまわなくたっていいではないか。
メリーは行ってしまった。私一人を置いて。
考えがそこまで至った、そのときだった。
最悪の、まったく最悪のタイミングで、窓の外のひぐらしが一斉に鳴いた。
いっぺんに蝉が大嫌いになった。
蝉なんて死刑だ。
人の寂寥感を猛烈にあおる、そのためだけに唄い上げられる鎮魂歌のような響きに、じっとしていられなくなって駆け出した。
こんな狭い部屋の中で。
トイレ。
押し入れ。
バスルーム。
メリーはどこだ。
いるわけがない。
私を置いて行ってしまったのだから。
この世のどこよりも、遠い場所に。
膝が崩れ落ちそうになり、
涙が溢れそうになり、
叫びだしそうになって、
『ただいま。なにやってるの蓮子』
振り返ったら、メリーがいた。
玄関で靴を脱ぎかけていて、手には小さなレジ袋を下げていた。
『蓮子?』
……なにか買い忘れた材料があって、それを調達に行った。
私が眠っていたので、そのまま起こさずに部屋を出た。
そんなことはすぐに理解した。私の頭だってそう悪いものじゃない。
でも、心が追いつかなかった。
あと五秒早く来てくれれば我慢できたのに。そんなことを思いながら目に涙が滲んでくるのを感じ、そんな自分の顔を見られたくなくて、咄嗟にメリーの懐に飛び込んで、メリーは驚いて袋を落として――。
それで、今はこの体たらく。
ああ、情けない。
暖かい。
――― ◇―◇―◇ ―◇◇◇― ――◇
「ごめんね」
メリーはもう一度私を撫でて、もう一度謝った。
そうだそうだ、メリーが悪い。
私の早合点はあったにせよ、黙っていなくなったという点で罪は変わらないのだ。
メリー猛省すべし。
「落ち着いた?」
「……ん」
起こしてくれれば良かったのに。
いつも一人で行っちゃうんだから。
私の途切れ途切れの抗議に、メリーはいちいちうんうんと頷いていた。
結局、五分ほども抱き合っていただろうか。
ひとまず私の気も済んだので、被告を解放してやることにする。
「買い忘れたのが卵や豆腐じゃなくて良かったわ」
袋を床から拾い上げ、メリーは再びキッチンに立った。
コンロに再び火が入り、料理の匂いが漂い始める。
窓の外は、夜空の色が半分混じった、柔らかな夕陽。
涼やかな風と、ひぐらしの声。
悪くないな、と思った。
――― ◇―◇―◇ ―◇◇◇― ――◇
それにしても。
側にいたはずの人が目を覚ますと消えていた――という状況が、ここまで「くる」ものだとは思わなかった。
どうにも精神的に弱っちくなってしまったコンディションから抜け切れず、これはもう一晩寝て起きないことには完全復活は見込めないと判断した私は、そのままメリーの部屋に泊まっていくことを申し出た。
実に不甲斐ない話だが、さらに面白くないのはメリーの振る舞いである。
彼女は私の不調を見てとるや、やけににこにこしながら私の口にスプーンを運んだり、ことさらに優しい言葉をささやきながら私の頭を撫でたりするのだ。
「はーい蓮子、ばんざいしてー」
今だってそうだ。
雛鳥のような気分で夕食を終え、二人でお風呂に入る段になっても、メリーのスイッチは入ったままだった。
妙に音程が高くて間延びした――要するにペットや幼児に呼びかけるような声を出しながら、上機嫌で私の背中を流している。
まったく、人を馬鹿にしている。
ばんざーい。
「~♪」
鼻唄。泡ぶく。湯気がもうもう。
まあ、今のこの状態は居心地が悪いかといえば、決してそうではないのだけど。
このままでは沽券にかかわるのだ。なにかの沽券に。
それで私はさっきから、どうにかしてメリーに一矢報いる機会を窺っているのである。
「はい、綺麗になったわ」
「……ありがと。なんだか今日のメリーってお母さんみたいだよね」
「今日の蓮子が子供っぽいのよ」
「今日だけよ。今日だけ」
「そうね。今日だけ」
「んー、ままー」
「ちょっ……こら蓮子、出ない出ない、出ないから」
「――あ、ちょっと出た」
「えぇっ!? う、嘘ぉっ!?」
「うそウサ」
「――――……、」
「(・∀・)」
「宇佐見ィ――――ッ!!」
ぎゃーぎゃー
バシャバシャ
モニャモニャ
――― ◇―◇―◇ ―◇◇◇― ――◇
「――ねえ蓮子。私ね、」
「ん?」
「さっき出掛ける前に、一応あなたを起こす努力はしたのよ?」
「そうなの?」
「ええ。ただ蓮子が気持ち良さそうに寝ていたから、ごく穏当で古典的な方法を試してみたんだけど」
「どんな方法?」
「あれで目覚めてくれない蓮子も気が利かないわよねぇ」
「だからどんな方法?」
―終―
大好きだ。
ニヤニヤ・・・・・・あれかな??
良い話だった、何だか心がスーッとした。
全く想定していなかったネタだったので吹きました。
○メリー ●蓮子
ですね!
メリーは王子様。
少し物足りなくも感じるけど、冗長になるよりは良いか。
文章が実に乙女していて素晴らしいのです。感性で書かれたのか、計算ずくで書かれたなら……すごいなこれ。ひぐらしが鳴きだすシーンとか実に秀逸。
やっぱり王子サマの?
最近秘封倶楽部の2人が大好きでたまらない私にとっては至高の逸品でした。
ごちそうさまです。
文章量自体はそれほど多くは無いのに、一つの物語として成立しているかのような出来に感じられました。
吹いた、主に砂糖を吹いた
ちゅっちゅ
だな
吸ったのか!?
ただ甘いだけでなく文章としても面白い