少年と妹紅の二人が永遠亭に辿り着いたのは、夜も大分更け、月が中天に差し掛かろうという頃合である。
件の薬師、八意永琳は少年が母の病状を告げるや、ろくに受け答えすらせずに丸薬を処方した。安堵すると同時に、「尋常ならざる薬師というにはさぞかし気難しいに違いない」と思い込んでいた少年は、余りに難なく事が進み、肩透かしを食らったような気分だった。
妹紅は何故か、ずっと厳しい顔であった。永遠亭の主であるという、何処ぞの姫君かと思わせるほどの気品を備えた少女が様子を見に来た時に至っては、彼女を殆ど睨みつけてさえいた。永遠亭の主――名を輝夜と言うらしい少女は、それに気づいていながら意に介した風もなかった。
そして帰り際。輝夜は悪戯な笑みを浮かべて妹紅を呼び止めた。
「何よ」
「先日の肝試しは楽しめたかしら?」
「……散々よ」
馬鹿馬鹿しい、という顔で踵を返した妹紅だったが、続いた言葉に足を止める。
「二対二、というのも新鮮だったのではない?」
「二対二? 何のことだ? ボケたのか」
思わず振り向く。
「私がボケてるなら貴女もボケてるわよ」
「私はボケてない。私はあの二人をまとめて、一人で相手したんだ」
輝夜は、益々笑みを深めて話を続けた。
「それじゃ、あなたを守ろうと出てきたワーハクタクは何者かしら」
「なんだ、それは? 私は知らないよ」
「つまり、霊夢の話に出てきたワーハクタクは、貴女に断りなく加勢してたのね。ルール違反だわ」
「……ルールも何も、あんたが勝手にけしかけたんでしょ」
「その妖怪、貴女には指一本触れさせないとか何とか、大分張り切ってたみたいよ。本当に心当たりないの? やっぱりボケてるんじゃない?」
「知らないしボケてない。ワーハクタクなんて会ったこともないんだから」
「そう。分かったわ」
それじゃ、と輝夜は引っ込んだが、妹紅はずっと難しい顔を崩さなかった。
虫の鳴き声以外響くことなき静寂が破られる。
「妹紅さん。さっきのことなんだけど……」
「さっき? どのさっき?」
少年が口を開いたのは、帰り道も半ばにさしかかり、元から少ない双方の会話が完全に途切れた頃である。
妹紅は、ぼろぼろだった少年を背負って軽快に走っていたが、速度を緩めて声を聞き取り易くする。
「ワーハクタクが、どう、っていう」
「ああ……あんなの、あいつのいつもの口からでまかせ。偉そうに見えて口八丁なんだから」
「そうじゃなくて。俺、そのワーハクタクって慧音先生じゃないかと思うんだ」
「慧音?」
突然具体的な人名を出され、妹紅が面食らった顔をした。少年は言葉を続ける。二人の会話に立ち入れず気後れしていたが、ずっと引っかかっていたのである。
「そう。上白沢慧音先生。先生は、寺子屋の先生なんだけど、母さんや祖母ちゃんたちは、白澤(はくたく)様って言って、ありがたがってるんだ」
輝夜の本当とも嘘ともつかない胡乱な話から、急に実体を持ち出したワーハクタクの姿に、妹紅は戸惑いを隠せない。
「先生は、厳しいし説教くさいし怒ったときの頭突きがすっごい痛いけど、子供とか、子供だけじゃなくて里のみんなを大切にしてる、すっごくいい人なんだ」
「…………」
朧ながら人物像を掴むも、一つの疑問が頭を擡げる。
白澤――その出現は国にとっての瑞兆とされ、森羅万象の知識に通じ、妖異悪鬼の類を退ける聖獣。その係累に連なる者が人の里を守るのは理解できる。
しかし、輝夜の話が本当だとするなら、何故、自分を守ったのか? 己は、認めたくはないが怪力乱神の類に位置する存在であろうに。
「矢張り、与太話か」
少年に聞こえぬようぽつりと呟き、妹紅は足を速める。
「え、何?」
「なんでもない。そろそろ丑の刻だ。急ぐよ」
少年の興味を突き放すように、そう言ったときである。
突然、妹紅から全く等距離の三点に、巨大な力が顕現した。更にその三点同士も等距離であり、丁度妹紅を重心にした正三角形を結ぶような位置取りである。三は聖数であり霊的に高い力を持つ――この国を作った造化の神も三柱であった。更に、呪術的に調和の取れた正多角形の形を正確精密に再現する――何者かの仕掛けとすれば、使い手は手練であろう。妹紅は一度足を止め、周囲の気配を探った。
「止まれ、妖怪! その子を返してもらおう!」
そして力を入れて探し当てるまでもなく、声の主は堂々と姿を現した。
空中に浮かぶ姿は、まだうら若い少女であった。妹紅のそれに似ているが色合いの異なる青味がかった白髪を夜風に靡かせ、特徴的な部分としては、燈篭の上部か博士帽を思わせる、妙に仰々しい帽子を被っていた。その身から放つ霊圧は高く、夜雀を一蹴した妹紅が我知らず身構えるほどであった。
「産霊『ファーストピラミッド』――おとなしくその子を返すならば良し、断るのならば、力づくで取り返させて貰おう」
瞳に炯々と使命感を灯らせ、二人を見下ろす少女の言。その声は、言葉の内容とは裏腹に、庇護の精神に満ちた厳かな空気すら宿していた。間違っても夜雀の仲間か何かが、獲物を取り返しに来たのでは無かろう。危険な竹林に足を踏み入れた少年を守りに来た者に相違ない。いや、もし少年の言葉が正しければ、彼女こそ――
「違うよ! 妹紅さんは、俺のこと夜雀から助けてくれて、永遠亭まで連れてってくれたんだよ!」
「何……?」
少年が、妹紅の背から降りて叫ぶ。
「本当だよ――慧音先生!」
嗚呼、矢張り。
先ほどの少年の話した人となりならば、教え子が危険区域に足を踏み込むことを是とする筈がない。独走した少年を追ってきたのだろう。
「その上、怪我した俺をここまでおぶってきてくれたんだ! 恩人なんだ!」
「……本当か?」
「本当よ」
妹紅が首肯を見せると、宙の少女――ワーハクタク、上白沢慧音その人は酷く慌てた表情になり、妹紅の前に素早く降り立った。同時に、三つの力も消えうせる。
「これは、失礼なことをしてしまった! 教え子の恩人を、あろうことか妖怪と間違え、脅すなど……申し訳ない」
「いや……いい。まだ、特に何かされたわけじゃないし、勘違いするのも当然でしょう」
すまん、かたじけない、と慧音は頭を下げ、それから少年に視線を移す。一転、その瞳には怒りが宿った。少年の表情が、恐怖に歪んで半笑いのようになった。
「あ、あの、せんs」
「……こんな危険な真似をしてよいと思っているのか!」
「ひぃ!?」
響き渡る大音声。少年への一喝に、夜の鳥たちが、驚いてばさばさと飛び立つ。妹紅も内心、飛び上がらんばかりに驚いていた。
「母君のお体を心配するのは当然だが……夜の迷いの竹林に足を踏み入れるなど、自殺行為だと分からぬ年ではないだろう。何故、私に相談しなかった!?」
「だ、だって……もう、動転してたし……慧音先生は、行かせてくれないと思って……」
「莫迦者!」
「!」
ごつん、と重い音。少年が、額に躊躇い手加減一切無しの盛大な頭突きを受けていた。妹紅としては呆気に取られるほか無い。教え子を容赦なく叩くことと、本当に頭突きなんだ、という二点において。
「い、いたたた……」
「考えてみろ。お前に万が一のことがあったら、ご家族や友人がどれだけ悲しむと思うのだ。言ってくれれば、私だって力になろうものを……」
慧音は其処で溜息を一つ吐き、それから、今自分で痛めつけたばかりの少年の頭を優しく撫でた。
「……よく無事に戻ってきた」
「先生……」
月光よりも柔らかく透明な笑顔に、少年の堪えきれぬ嗚咽が重なる。
その光景に、妹紅は、太陽のような――直接見てはいけないものを直視したが如きやるせない思いに囚われ、顔を背けた。
どれくらい、そうしていただろうか。
「すまぬ」
不意に呼ばれ、柄にもなく慌てて顔を向けると、寝息を立てる少年を、慧音が背負っていた。
「此度は、本当に世話になった。ありがとう……それから、申し訳ない」
「いや、気にすることはないよ。気まぐれと偶然が重なった結果だから」
「そんなことは無い! この礼とお詫びは、必ず」
生真面目な瞳で見つめられ、紅妹は「別にいいよ」の言葉を告げられない。
「そうだ。そのためにも、改めて名を名乗ろう。私は、上白沢慧音。里で寺子屋を開いている。……貴女の名を聞いてもよいか?」
笑顔の申し出に、何故か頬が熱くなるのを感じた。
「藤原妹紅」
「良い名だな」
簡潔すぎる名乗りにも、慧音は一層笑みを深め、――何故か妹紅はその笑顔に、胸の痛みを感じた。
これが、迷いの竹林の不死鳥使いと、人の里の守護者ワーハクタクの最初の邂逅であった。
(続く)
件の薬師、八意永琳は少年が母の病状を告げるや、ろくに受け答えすらせずに丸薬を処方した。安堵すると同時に、「尋常ならざる薬師というにはさぞかし気難しいに違いない」と思い込んでいた少年は、余りに難なく事が進み、肩透かしを食らったような気分だった。
妹紅は何故か、ずっと厳しい顔であった。永遠亭の主であるという、何処ぞの姫君かと思わせるほどの気品を備えた少女が様子を見に来た時に至っては、彼女を殆ど睨みつけてさえいた。永遠亭の主――名を輝夜と言うらしい少女は、それに気づいていながら意に介した風もなかった。
そして帰り際。輝夜は悪戯な笑みを浮かべて妹紅を呼び止めた。
「何よ」
「先日の肝試しは楽しめたかしら?」
「……散々よ」
馬鹿馬鹿しい、という顔で踵を返した妹紅だったが、続いた言葉に足を止める。
「二対二、というのも新鮮だったのではない?」
「二対二? 何のことだ? ボケたのか」
思わず振り向く。
「私がボケてるなら貴女もボケてるわよ」
「私はボケてない。私はあの二人をまとめて、一人で相手したんだ」
輝夜は、益々笑みを深めて話を続けた。
「それじゃ、あなたを守ろうと出てきたワーハクタクは何者かしら」
「なんだ、それは? 私は知らないよ」
「つまり、霊夢の話に出てきたワーハクタクは、貴女に断りなく加勢してたのね。ルール違反だわ」
「……ルールも何も、あんたが勝手にけしかけたんでしょ」
「その妖怪、貴女には指一本触れさせないとか何とか、大分張り切ってたみたいよ。本当に心当たりないの? やっぱりボケてるんじゃない?」
「知らないしボケてない。ワーハクタクなんて会ったこともないんだから」
「そう。分かったわ」
それじゃ、と輝夜は引っ込んだが、妹紅はずっと難しい顔を崩さなかった。
虫の鳴き声以外響くことなき静寂が破られる。
「妹紅さん。さっきのことなんだけど……」
「さっき? どのさっき?」
少年が口を開いたのは、帰り道も半ばにさしかかり、元から少ない双方の会話が完全に途切れた頃である。
妹紅は、ぼろぼろだった少年を背負って軽快に走っていたが、速度を緩めて声を聞き取り易くする。
「ワーハクタクが、どう、っていう」
「ああ……あんなの、あいつのいつもの口からでまかせ。偉そうに見えて口八丁なんだから」
「そうじゃなくて。俺、そのワーハクタクって慧音先生じゃないかと思うんだ」
「慧音?」
突然具体的な人名を出され、妹紅が面食らった顔をした。少年は言葉を続ける。二人の会話に立ち入れず気後れしていたが、ずっと引っかかっていたのである。
「そう。上白沢慧音先生。先生は、寺子屋の先生なんだけど、母さんや祖母ちゃんたちは、白澤(はくたく)様って言って、ありがたがってるんだ」
輝夜の本当とも嘘ともつかない胡乱な話から、急に実体を持ち出したワーハクタクの姿に、妹紅は戸惑いを隠せない。
「先生は、厳しいし説教くさいし怒ったときの頭突きがすっごい痛いけど、子供とか、子供だけじゃなくて里のみんなを大切にしてる、すっごくいい人なんだ」
「…………」
朧ながら人物像を掴むも、一つの疑問が頭を擡げる。
白澤――その出現は国にとっての瑞兆とされ、森羅万象の知識に通じ、妖異悪鬼の類を退ける聖獣。その係累に連なる者が人の里を守るのは理解できる。
しかし、輝夜の話が本当だとするなら、何故、自分を守ったのか? 己は、認めたくはないが怪力乱神の類に位置する存在であろうに。
「矢張り、与太話か」
少年に聞こえぬようぽつりと呟き、妹紅は足を速める。
「え、何?」
「なんでもない。そろそろ丑の刻だ。急ぐよ」
少年の興味を突き放すように、そう言ったときである。
突然、妹紅から全く等距離の三点に、巨大な力が顕現した。更にその三点同士も等距離であり、丁度妹紅を重心にした正三角形を結ぶような位置取りである。三は聖数であり霊的に高い力を持つ――この国を作った造化の神も三柱であった。更に、呪術的に調和の取れた正多角形の形を正確精密に再現する――何者かの仕掛けとすれば、使い手は手練であろう。妹紅は一度足を止め、周囲の気配を探った。
「止まれ、妖怪! その子を返してもらおう!」
そして力を入れて探し当てるまでもなく、声の主は堂々と姿を現した。
空中に浮かぶ姿は、まだうら若い少女であった。妹紅のそれに似ているが色合いの異なる青味がかった白髪を夜風に靡かせ、特徴的な部分としては、燈篭の上部か博士帽を思わせる、妙に仰々しい帽子を被っていた。その身から放つ霊圧は高く、夜雀を一蹴した妹紅が我知らず身構えるほどであった。
「産霊『ファーストピラミッド』――おとなしくその子を返すならば良し、断るのならば、力づくで取り返させて貰おう」
瞳に炯々と使命感を灯らせ、二人を見下ろす少女の言。その声は、言葉の内容とは裏腹に、庇護の精神に満ちた厳かな空気すら宿していた。間違っても夜雀の仲間か何かが、獲物を取り返しに来たのでは無かろう。危険な竹林に足を踏み入れた少年を守りに来た者に相違ない。いや、もし少年の言葉が正しければ、彼女こそ――
「違うよ! 妹紅さんは、俺のこと夜雀から助けてくれて、永遠亭まで連れてってくれたんだよ!」
「何……?」
少年が、妹紅の背から降りて叫ぶ。
「本当だよ――慧音先生!」
嗚呼、矢張り。
先ほどの少年の話した人となりならば、教え子が危険区域に足を踏み込むことを是とする筈がない。独走した少年を追ってきたのだろう。
「その上、怪我した俺をここまでおぶってきてくれたんだ! 恩人なんだ!」
「……本当か?」
「本当よ」
妹紅が首肯を見せると、宙の少女――ワーハクタク、上白沢慧音その人は酷く慌てた表情になり、妹紅の前に素早く降り立った。同時に、三つの力も消えうせる。
「これは、失礼なことをしてしまった! 教え子の恩人を、あろうことか妖怪と間違え、脅すなど……申し訳ない」
「いや……いい。まだ、特に何かされたわけじゃないし、勘違いするのも当然でしょう」
すまん、かたじけない、と慧音は頭を下げ、それから少年に視線を移す。一転、その瞳には怒りが宿った。少年の表情が、恐怖に歪んで半笑いのようになった。
「あ、あの、せんs」
「……こんな危険な真似をしてよいと思っているのか!」
「ひぃ!?」
響き渡る大音声。少年への一喝に、夜の鳥たちが、驚いてばさばさと飛び立つ。妹紅も内心、飛び上がらんばかりに驚いていた。
「母君のお体を心配するのは当然だが……夜の迷いの竹林に足を踏み入れるなど、自殺行為だと分からぬ年ではないだろう。何故、私に相談しなかった!?」
「だ、だって……もう、動転してたし……慧音先生は、行かせてくれないと思って……」
「莫迦者!」
「!」
ごつん、と重い音。少年が、額に躊躇い手加減一切無しの盛大な頭突きを受けていた。妹紅としては呆気に取られるほか無い。教え子を容赦なく叩くことと、本当に頭突きなんだ、という二点において。
「い、いたたた……」
「考えてみろ。お前に万が一のことがあったら、ご家族や友人がどれだけ悲しむと思うのだ。言ってくれれば、私だって力になろうものを……」
慧音は其処で溜息を一つ吐き、それから、今自分で痛めつけたばかりの少年の頭を優しく撫でた。
「……よく無事に戻ってきた」
「先生……」
月光よりも柔らかく透明な笑顔に、少年の堪えきれぬ嗚咽が重なる。
その光景に、妹紅は、太陽のような――直接見てはいけないものを直視したが如きやるせない思いに囚われ、顔を背けた。
どれくらい、そうしていただろうか。
「すまぬ」
不意に呼ばれ、柄にもなく慌てて顔を向けると、寝息を立てる少年を、慧音が背負っていた。
「此度は、本当に世話になった。ありがとう……それから、申し訳ない」
「いや、気にすることはないよ。気まぐれと偶然が重なった結果だから」
「そんなことは無い! この礼とお詫びは、必ず」
生真面目な瞳で見つめられ、紅妹は「別にいいよ」の言葉を告げられない。
「そうだ。そのためにも、改めて名を名乗ろう。私は、上白沢慧音。里で寺子屋を開いている。……貴女の名を聞いてもよいか?」
笑顔の申し出に、何故か頬が熱くなるのを感じた。
「藤原妹紅」
「良い名だな」
簡潔すぎる名乗りにも、慧音は一層笑みを深め、――何故か妹紅はその笑顔に、胸の痛みを感じた。
これが、迷いの竹林の不死鳥使いと、人の里の守護者ワーハクタクの最初の邂逅であった。
(続く)
妹紅が慧音の笑顔に胸を痛めたとき、
なぜか私もドキドキしてしまいました。
前回は確かに詰まりすぎていたと主観的に思います。
今回の方が見やすくて良かったです。
点数は後ほどつけさせていただきます。