「ほら、そこは攻めすぎよ。あんまり深く行きすぎると、あとで竹箆返しを食らうわ」
「へえ……。さすが、お姫様ね。遊戯には精通してるわけだ」
「『にも』よ……はい王手。さあ、これはどうかわすのかしら?」
「えーっと……はい」
「残念、一時凌ぎね。はい、王手」
「……負けました」
「引き際を見極めるのは上手いわね。勿体無い、勿体無い。ねえアリス、そうは思わない?」
「鈴仙、何かすることは無いの?」
「あるにはあるけど、お気遣い無く。それに師匠とか姫様が許さないわよ。客人に我が家のことをやらせるなんて」
お言葉だけありがたく頂いておくわ。
うっすらと微笑を投げかけて、狂気のウサギは布団を担いで退室した。常識を持つ非常識人が犇くここ永遠亭では数少ない、常識を以って行動する奴といえよう。
さて、と。何もやることが無い、なんて久しく無かった。真紅の館では「使われた」のに、一転ここでは私が「使う」身分らしい。おつかいと出歯亀妖怪は言っていたが、ますますあいつの意図が不透明だ。
「いよいよ、一段ときな臭くなってきたわね」
まあ依頼人が元々きな臭い。それからいずるモノもそうであって当然か。
一度引き受けたからには全うせねばなるまい。しかし現状、何をすればいいのかわからないのが難点だ。
「ねえ上海、どう思う?」
人形は答えない。ただ、首を横に振るだけ。当たり前だけど。
「うーん」
畳に寝そべり天井をじっと見つめると、余計なものがゆるゆるとどこかへ流れていくような、心地よい集中を感じることが出来る。
「……ふぅ」
ふと、睡魔がやって来た。私は腕を掴まれて引き摺られていくが、抵抗する理由も無い。脳が睡眠を欲しているのだ、従ってしまえ。
霧雨魔理沙は自由奔放に空を飛び、友人の家へと突っ込んでいっては嵐のように去っていく。まるで台風、と霊夢は揶揄するが、当の本人は気にするどころか「力強い自然現象に喩えられるなんて私も出世したもんだぜ」と意に介さない。
もっとも、台風は通り過ぎた後に爪痕その他諸々を残すが、魔理沙は足跡だけなので、少しばかりは対象を労わっているのかもしれない。
「そういや霊夢、アリスが永遠亭にいるんだってさ」
穏やかな夕暮れ刻、お茶を啜っていた霊夢は湯飲みを置いてから、
「へえ」
さほど興味がないのか、お代わりを注いだ。
「私が思うに、何か弱みを握ってるんだな、ありゃ。ほとんど輝夜と遊んで一日過ごしてるっていうぜ」
「あ、そう。でも、弱みを握られたぐらいで永遠亭の連中が好き勝手を許すとは思わないけど?」
「……そうだ、きっと幻想郷が滅亡するぐらいの大事になりそうな弱みなんだよ!」
持論を曲げる気はないらしい。はちゃめちゃな理論展開だが、なぜか魔理沙は得意気だ。
「しかし最近、あいつ忙しないと思わないか? レミリアのとことか輝夜のとことかさ」
「いいことじゃない。働き者は人から好かれるわよ」
自分のことは棚上げらしい。二杯目のお茶はゆっくりとなくなっていく。
「それだと霊夢、お前は嫌われ者って寸法になるが」
「好きとか嫌いとか、最初に言い出したのは誰なのかしら。そのせいでわたしは磨り減っていくってのに」
「へえ。お前も一応は妙齢か」
「そういうことにしておいてくれると助かるわ」
意味ありげな視線に気付かず、「何のこっちゃ」と首を傾げる友人を今度は満面の笑みで見やり、急須を傾ける霊夢だった。
「目が覚めたかしら、お人形さん」
「……ええ、ばっちり。今まで生きてきた中で、三番目に最悪な寝起きをありがとう」
いつのまにか被っていなかった布団が被せられ、方角まで正しい方向に向けられていた。我が家では「気が違った」「連中」の襲撃に備える為、常に防御の体制を崩さないのだが、この三日でここまで緩んだか、アリス・マーガトロイド。情けないぞ私。
目覚めは私の言ったように最悪なものだった。いつから月の姫君がいたかはわからないが、じっと顔を見られ続けるのは外圧を齎す。快眠とは程遠い一時だ。
「あら、私よりもイナバの瞳が良かったかしら?」
「ええ。そっちの方がまだ正常に狂えるもの」
「これは手厳しい。ちなみに後学の為に訊いておくけど、一番最悪な目覚めは何かしら」
「ここで初めて起きた日よ」
「あら、それじゃあ二番目はその次の日ね。快適な眠りを約束するはずが、まったく逆ときたもんだ。永遠亭の代表として謝辞を述べさせていただくわ」
礼を言う場面ではないというのに、月の民の考えることはまったくもってさっぱりだ。こんなのすら受け入れる幻想郷の懐の深さには恐れ入る。
「で、今は? 朝なの?」
「夜よ。あなたは二時間ばかり寝ていたわ」
「……まさか、その間ずっと見ていたんじゃないでしょうね」
「さぁねぇ?」
艶のある黒髪を指先で弄りながら、輝夜は妖しさを隠そうとせずに微笑んだ。
「まったく、蓬莱人にはろくな奴がいないわね」
「ろくな奴じゃないから蓬莱人、よ。永琳然り、妹紅然り。ああ、不老不死で不死身なんてろくなもんじゃないわ。将棋を指し合える相手も満足にいないんだから」
確かに。銀色の薬師は理由をつけて他の奴に押し付けるだろうし、藤原妹紅に至っては輝夜と目が合った瞬間にあらゆる方法での殺し合いが始まるに違いない。
「いっそのこと妹紅との間にルールを設けたら? 例えば将棋で負けた方を好きな方法で殺すとか」
「あら、私も嫌われたものね。まあそれは置いといて、いい案だわ。でもねアリス、ルールってものを設けるとして、私がまず提案をしたとしましょうか。そうするとあいつも代案を持ちかけるでしょうね。対抗心だけで。
それで、どっちの案にするかで殺し合い。
勝った方の案に決定して、修正するか否かで殺し合い。
修正する方向で決定、さあ、どこを直すかで殺し合い。
修正箇所も決まったところでさあ実践、と思いきや、内容を書き留めるべきか否かで殺し合い。
紙をどれにするか?
書く道具は?
道具の色は?
縦書きか横書きか?
保存方法は?
破った際の罰は?
どの程度なら許容範囲か?
将棋台の材質は?
駒の材質は?
もう挙げるとキリがないからやめるけど、暗黙のルールが既にあるのよアリス。
私たちは、全てを殺し合いで解決する、ってね。
血腥過ぎて、逆に清潔感さえ漂ってくるとは思わないかしら。賛同者がいるって、心強いのよ」
そんな眩しい笑顔でぞっとすることを言うな。あいにく、私は狂っていないのだ。引き込もうとしないでもらいたい。
懊悩していると、先程の狂気を帯びた笑顔ではなく、無邪気を貼り付けた顔が鼻の先まで接近している。そして麗しの姫君から一言、
「ねえアリス、こんな気分の時、外で満月を噛み砕くとぐっすり眠れるの」
お誘いを頂いた。
「……要するに散歩に付き合わせる為に私を起こしたと」
「身も蓋もない言い方ね。育ちがわかるわよ」
「悪かったわね」
なんだかひどい言われようだ。まあ狂人に言われたところでなんともないけど。
「まあ適度な運動になるだろうし、付き合ってやるわ」
「話がわかる奴は大抵の場合、好かれるわ。あなたは私が嫌いなんだろうけど、私はあなたが好きよ」
「あんたが嫌いなのは退屈だけでしょうが」
「ごもっとも」
襖を開いて空を見上げると、お誂え向きに満月が君臨していた。いつかの偽物ではない本当の満月が、タイミングを見計らったかのように輝いている。
黄金色の圧力を身に受けると、月の存在を実感する。
ああ、こんなの、噛み砕けるものか。
「ああそうだ、ひとつ訂正ね。
満月は噛み砕くものじゃなくて、飲み干すもの」
そう、それが正しい。
「やあアリス、なんだか久し振りだね。噂によれば、永遠亭でぐうたらしていたとか」
「……その噂の発信源は?」
「魔理沙が烏天狗に喋っていたぞ」
人間にもろくな奴がいない。私がどれだけあそこで心労を重ねたのか、三日に渡って愚痴ってやろうか。途中で音を上げても解放してやるものか。ゴシップを自ら生み出すことの罪を身を以って知るがいい。
「噂によれば、永遠亭の弱みを握って恐怖政治を強いているとか、ウサギたちを人形のように操ってお偉方を困らせているとか、無理やり押しかけて堂々と居座りでかい顔をして真昼間から酒をかっ食らっているとか、散々だぞ」
「……霖之助さん、魔理沙は今どこにいるのかしら」
「あいつもああ見えて自衛に長けているからな。ここ三日ほど姿を見ていないんだ、すまない」
今度見掛けたら遠慮なくぶっ飛ばそうっと。
「……まあいいわ。別にそれで立ち直れなくなるほど弱いわけじゃないし」
永遠亭に一週間滞在していた時の方がダメージはでかい。何しろ、周りは狂人だらけなのだ。狂わなかった私を誰か評価してくれ。
・ ・ ・ ・ ・ ・
『一週間、何をせずとも大丈夫な生活を送ってみて、どうだった?』
ふと思い出す。別れ際、見送りに来た八意永琳は不適に笑い、その姿からまるで八雲紫のような胡散臭さを感じ取った。
ああ、こいつら、つるんでやがったな。
理解するのに時間は要らなかった。薬師も私の表情からそれを読み取ったのか、今度は見惚れるほどの満面の笑みを浮かべた。
『聡明だこと』
お褒めの言葉、どうもありがとう。それだけ言って、私は永遠亭から遠ざかった。
ようやく、私は八雲紫の手のひらに乗ったか。
『何かをしないと生きていけない』。
『何をせずとも生きていける』。
相反する、正反対の時間を私に過ごさせたのは、改めて理解させる為だろう。だが答えを急ぐ必要はないので今は考えない。でも、いずれは出さなければならないだろう。
はてさて、私はどちら寄りか?
「……霖之助さん、将棋は打てるかしら?」
「ああ、まあそれなりには」
「それじゃあ一局、お相手願えない? 永遠亭でやってから、ちょっと面白く思えるようになったのよ」
「そうか、わかった。実はここ三日、相手がいなくてね。いい時に来てくれた。ちょっと待っててくれ、道具を持ってくる」
「ええ」
霖之助さんが奥に引っ込んだ。途端、店内は静かになる。
そうなると、静かな竹林を連想し、それについて考えざるを得ない。
月の姫は王将の周りを固める戦法を好んだ。成る程、育ちがわかるってもんだ。
『将棋を指す相手も満足にいない』。
将棋でなくとも、一方通行では何もかも成立しない。そうなると、自分を知っている奴が一人でも増えるのは歓迎すべきことなのだろう。それは輝夜だけではなく、万人に共通すると思う。
「お待たせ」
店主が持ってきた古ぼけた台と駒を見て思う。
「それじゃあ始めましょうか」
まあ、たまには、打ちに行ってやるか。
続く
着の身着のまま風のまま。……自分でも何を言ってるのかわからんぜ。