1
「お花見がしたいわ」
「……お花見、ですか?」
そう切り出されたのは、食事を下げるべく地下室に来た時だった。唐突な言葉に、十六夜咲夜は怪訝な表情を浮かべる。
此処は紅魔館の奥深く、館主の妹たるフランドール・スカーレットの居室である。鎖が鉄扉を閉ざし石壁が四方を覆うこの室に悪魔の妹は住んでいる。
並の人間ならば狂いかねないほど閉鎖的な部屋だが、フランドールは変わりもなく日々を過ごしていた。吸血鬼にとっては時間の流れも空間の閉鎖性も意味をなさないのかもしれないと、咲夜はふと思う。
とはいえ、生活を送っている限りは食事もするし動き回りもする。そこに伴う雑事に当たるのが、咲夜を筆頭とするメイドたちの役目だ。
「フランドール様、お口が」
「ん」
食後の口元を拭うと、清潔なナプキンが真っ赤に染まった。床や壁の所々にも赤い染みが飛沫となって散っている。紅魔館の名に相応しい装いとはいえ、そろそろ大掃除をしなければならないだろう。
それはさておき――
「何故また急にお花見などと仰るのです」
訝しげに問う。
フランドールが突飛なことを聞いてくるようになったのは最近のことだ。紅魔館や白玉楼が遠因となった幾つかの事変を経て、フランドールにも友人や知人が出来た。彼女たちが此処まで遊びに来ることも時折ある。その度に何を吹き込まれるものか、妙な知識に基づいてこれがやりたいあれが欲しいと言い出すことも珍しくなくなっている。咲夜にしても、紅魔館のメイドとして出来る限りのことはするつもりだった。
それにしても、盛夏にお花見とは――
「美鈴が教えてくれたの。みんなで騒いでとっても楽しいって」
嗚呼と、咲夜は天を仰いだ。
華人小娘・紅美鈴。人民服とチャイナドレスが融合した衣装をトレードマークとし、紅魔館の門番をつとめる感情豊かな妖怪である。その性格からフランドールの相手をすることも多い。時にあることないことを吹き込むのが珠に瑕だが、情操教育の観点から咲夜は黙認していた。今回ばかりはそれが裏目に出たらしい。
「フランドール様、確かに花見は一般的な祭事です。神社や山々で毎年行われてはおりますが、執り行う季節は春、愛でるのは桜の樹。今月ただいまでは、時季外れと言わざるを得ませんわ」
「……出来ないの?」
「申し訳御座いませんが――」
「そうなんだ……」
きらきらと目を輝かせていた様から一転、フランドールは答えを聞くと寂しげに俯向く。背中に生えた八色十六葉の羽根も垂れ下がり、意気消沈の態だ。
「あの、フランドール様――」
思わず咲夜が声をかけると、フランドールは物哀しげに首を振る。
「ううん、いいよ、咲夜。そうだよね、急にお花見がしたいって言っても無理だよね。お姉さまやパチュリーにはお願いしにくいし、美鈴はちょっと頼りない。だから咲夜に言ってみたんだけど……我が儘になっちゃった」
「フランドール様……」
「そんな顔しないで。咲夜に我が儘を言ったのがばれたら、お姉さまにまた怒られちゃう。大丈夫よ、美鈴やパチュリーにお話をたくさん聞かせて貰うから。それで……我慢するから」
そう言って、フランドールは目を伏せた。
小さな姿だった。
孤独な少女が、いや、少女にすらなりきれぬ幼子がそこにいた。
その刹那。
己の心に言い知れぬ感情が沸き上がるのを咲夜は覚え――
「フランドール様!」
「な、何!?」
確たる決意を持って名を呼んでいた。フランドールが、ぴくりと身を震わせる。
咲夜の心は瞬く間に燃え立っていた。
仮にも、フランドールは咲夜の主たるレミリア・スカーレットの妹君である。主に等しいとまでは言わねど、忠義を尽くしてしかるべき相手だ。レミリアにとって最愛の血族たる少女が抱いた望み一つかなえることも出来ずに、紅魔館のメイドを名乗ることが出来ようか。
ましてや咲夜は幾百のメイドを一手に束ねる完全で瀟灑な従者である。フランドールの願いを何としても叶えねばならなかった。それこそが、メイドたちの規範たるメイド長のつとめであろう。
「お任せください。花見の支度を必ずや調えて参ります」
「……本当に?」
おそるおそる、といった様でフランドールが顔を上げる。紫紺の双眸を見詰める深紅色の瞳に、咲夜は力強く頷いた。
「メイドに二言は御座いません。この十六夜咲夜の名に賭けてお約束いたします」
「やった! 咲夜、大好き!」
「ふ、フランドール様!?」
フランドールがぴょこんと跳ね起き、咲夜に抱きついた。今泣いた烏が何とやら、暗く沈んでいた表情は明るく輝き満面の笑みを浮かべている。迷子の子供が母親を見つけた時のような変わりようだった。
慈愛に満ちた瞳で小さな身体を抱き留め、咲夜は僅かに眉根を寄せる。
――さて、どうしたものか。
2
「――というわけなのだけど」
「咲夜さん、安請け合いしすぎですよ……」
紅美鈴の声は呆れかえっていた。
時は早朝、咲夜が夜の勤めを終えて足を向けたのは紅魔館の門口である。フランドールの難問に対する妙案が無いかと、門番である美鈴に声をかけたわけだ。
メイド服を一分の隙もなく纏った咲夜と、伸びやかな四肢を人民服に包んだ美鈴の取り合わせは、二人の健康的な美貌も相まって朝焼けに良く映えている。
「夏ですよ夏。それも日がな一日かんかん照りの真っ盛り、油断すると氷精が半分熔けて出来損ないのアイスキャンディーになるような真夏日続きじゃないですか。桜を肴のお花見なんて無理ですよ」
「そうはいうけどね、元々はあなたのせいなのよ。駄目じゃない、フランドール様を焚き付けるようなこと教えたら」
「う……反省してます……」
身を竦め恐縮する美鈴。考えてみれば人間相手に恐縮する妖怪というのも妙なものだが、何故かこのような関係が続いている。
「それで、何か良い考えはないかしら?」
「うーん、難しいですね……」
美鈴はしばらく首を捻っていた後、何か思いついたかぽんと手を叩く。
「今の季節を春にしてしまうとかどうですか?」
「どうやってやるの、そんなこと」
「咲夜さんなら、時間を弄るのはお手の物でしょうし」
「無理ね。時間を巻き戻すことは出来ないのよ」
咲夜の答えはにべもない。時を自在に操る咲夜といえど、時間逆行だけは手に余る。
「じゃあ、四季の境を曖昧にして貰って」
「却下」
言下に切り捨てる。言葉を遮られ悄然とする美鈴に向かい、咲夜は呆れたように指を振った。
「スキマ妖怪を頼るのはこの際禁止。些細なことであれ借りを作りたい相手じゃないわ」
「でもそうなるとお手上げです。咲夜さん、何か案はあるんですか?」
「無いわ。だからあなたに聞いているんじゃない」
「それじゃ堂々めぐりですよ……」
「そうなのよね……」
僅かに目を細め、咲夜は思考を振り絞る。無論のこと、外面は悠揚迫らず余裕綽々の態だ。難題に困り果てているようにはとても見えない。
一方で、美鈴の様子は対照的だ。手を腰に当てたかと思うと外して回し、宙の一点を見詰めた次には視線を彷徨わせ、表情をくるくると変えながら唸っている。まるで百面相であり、見ていて飽きない。
しばしの沈黙があって
「そうだ」
美鈴がふと顔を上げた。生き生きとした大きな瞳が咲夜に向けられる。
「何か思いついたの?」
「はい。フランドール様はお花見をご所望なんですよね」
「ええ」
「花を咲かせることは出来ませんが、代用品なら用意出来るかも知れませんよ。満足していただけるかはちょっと解りませんけどね」
「代用品、か……」
手段ではあった。
要するに、フランドールにお花見と同質の楽しさを味わって貰えばいいのだ。桜を咲かせる策が無い以上、美鈴の代案に任せてみるのも良いかもしれない。
「手ではあるわね。取りあえず、その案を聞かせて頂戴」
「……あの、言わないと駄目ですか?」
「私が相談したのだし、無理強いはしないけれど……言えない理由でもあるの?」
「その、フランドール様のためなのは当然なんですけど、どうせなら咲夜さんも驚かせてみたいなー、なんて……」
照れたような上目遣いの美鈴に、咲夜は微笑を禁じ得ない。片や妖怪、片や人間、過ごした歳月には相当な隔たりがあるはずだが、この二者には仲の良い姉妹のようなところがあった。言うまでもなく、咲夜が姉だ。
「そういうことなら仕方ないわね。楽しみにしてるわよ」
「やった! 腕が鳴ります」
美鈴が溌剌と手を打ち鳴らす。
「支度にはどれくらいかかるのかしら」
「今すぐでも大丈夫ですよ。咲夜さんは心配せず、お花見の食事や飲み物をお願いします」
「ええ、そうするわ。準備が終わったら知らせに来て。お嬢様とフランドール様には私から伝えておきます」
「了解です。大船に乗ったつもりでいてくださいね」
豊かな胸元を自信満々に叩く様に、一抹の不安が過る。
美鈴は基本的に優秀だ。だが、時折手痛い失策をしでかしてしまう傾向がある。不注意や不用意であるというより、不幸の星の下にあるというべきか。良かれと思った行動から、己の意に反する結果を招いてしまうことが少なくない。
「じゃ、行ってきますね」
「お願いね」
快活に手を振って、美鈴は支度をすべく走り出し。
どうなることかと、咲夜はこっそり溜息をついたのだった。
3
その日の晩。
レミリア、パチュリー、咲夜、それにフランドールと、紅魔館を支える者たちが庭に勢揃いしていた。レミリアとフランドールは並んで椅子に座り、その傍らには咲夜が控えている。少し距離を開けて、魔導書を読み耽るパチュリーの姿。吸血鬼と魔女とメイド、半月に浮かび上がる少女たちはそれぞれが独自の美しさを醸し出していた。
「咲夜、まだー?」
「止めなさい、フラン。はしたないわ」
フランドールが待ちくたびれて足をばたつかせ、レミリアがそれをたしなめる。その様を微笑ましそうに横目で見、パチュリーが魔導書を閉じた。
「美鈴はどうやって桜を咲かせるつもりなのかしら」
「庭の樹樹を利用するのは間違いないところでしょうが、私も子細は聞いておりません」
「枯木ばかりなのにどうするつもりなのかしらね」
レミリアが半ば呆れて言う。
枯木ばかり、というのは文字通りの意味だ。紅魔館の庭は自然豊かでありながら物寂しい。若草が萌える豊かな土壌を有するにも関わらず、鳥の音は聞こえず、樹樹の多くは一年を通して枯れている。主が吸血鬼である影響なのかもしれなかった。桜の樹も例外ではなく、無数に立ち並んでいながらもその全てが丸裸だ。夏の桜特有の緑葉も一枚とて付いていない。
「何にせよ、そろそろだと思いますわ。もう少しだけお待ち下さいませ」
朱の液体が入ったグラスをレミリアとフランドールに手渡す。レミリアが優雅に頷き、杯を傾けた時――
「お待たせしました!」
威勢の良い声が空から降ってきた。
見上げれば、桜の枯れ木の間に人民服の門番がふわりと浮かんでいる。帽子に冠した「龍」の文字が月光を照り返し誇らかに輝いていた。
「あら、美鈴にしては派手な登場だこと。私を差し置いて、随分と目立っているじゃない」
「お、お嬢様? いえ、これは演出といいますか、折角なので少しは盛り上げようかと思っただけでして……」
レミリアがうっそりと口元を吊り上げる。美鈴は意気揚々から一転、しどろもどろだ。
「冗談よ。さ、始めなさい。待ちくたびれたわ」
「美鈴、早くー」
レミリアに続いてフランドールが美鈴を急き立てる。仕草は妙に子供めいていて、声音も甘えるかのようだ。見た目は少女か少女未満としか言えないが、フランドールの精神はそこまで幼くない。外見相応の娘のように振る舞っているのは、これから起こることへの期待と、家族同然の面々に囲まれているという気安さゆえかもしれなかった。
「では……」
こほんと咳払いして、美鈴は両足を肩幅に開く。胸の前で腕を交差させ
「破ッ!!」
気合一閃、腹の底から叫んだ。
咲夜の身体に痺れが走った。音の波が空気を裂いたせいだった。
人体を揺らすに留まらず、音波は樹樹を、館の外壁を振動させる。
音だけではない。四方に放たれ音波を追随したのは、目にも見えるほど濃厚な氣の塊だ。氣を自在に操るのは、美鈴のお家芸である。氣の塊は宙を進むにつれて千切れ、離れ、変色しながらより微細な塊へと分解してゆく。
「思ったより器用なことするわね」
「ふふ、咲夜さん、面白いのはこれからですよ」
不敵に笑う。
いつしか美鈴を取り囲む空間は桜色に染まっていたた。
桜色に発色しているのは、氣の塊から形成された微少な弾の群れ、つまりは弾幕だ。幻想郷では馴染み深い、共通言語にも等しいものである。
その弾幕が、美鈴を取り囲んでいた。主と同じく重力を無視したゆたう様子は、まるで踊っているかのようだ。
「これを、こうして……っと」
号令でもかけるように美鈴が手を降ると、弾幕は意志を持った集団であるかのように一点に向かい動き出す。目的地は、無論桜の樹だ。
ぴたり、ぴたりと、弾が取り付くにつれて、桜の枝は見る間に雅な桃色に染まる。芸が細かいことに、米粒型の弾幕は五つ毎に集合して花弁を象っていた。
へえ、とレミリアが声を漏らす。
「スペルカードとは考えたわね」
「はい、このために彩符を改良発展させたスペルカード、その名も『極彩颱風・改』です!」
「少しは捻った方がいいと思うわ」
パチュリーがぼそりと呟くが、誰も聞く者はいない。枯木を覆う弾幕に魅入られていたからだ。美鈴の弾幕およびスペルカードは常に装飾的で色彩豊かだが、此度のそれはいつにも増して華やかだった。
見る見る間に、弾幕は満開の桜を象ってゆく。その様を見届け、美鈴は満足そうに頷くと、地へと降りフランドールへ歩み寄った。
「いかがでしょうか?」
「驚いたわ。こんなことも出来たんだ」
フランドールは目を丸くして美鈴に笑いかける。その表情に、美鈴は相好を崩した。
「フランドール様のそんなお顔が見られるなんて。頑張った甲斐がありましたよ」
「美鈴は凄いね。ちょっと見直しちゃった。あんな弾幕見たことないもの」
フランドールは嬉しそうに美鈴の袖に取りすがる。上機嫌そのものだ。
「いやだなあ、フランドール様、そんなに褒められたら照れちゃうじゃないですか」
邪気のない笑顔と賞賛に、美鈴は頬を染め、頭をかきながら身をくねらせる。
「これって、あれでしょ」
「ええ、これがお花――」
お花見、と言いかけた言葉の半ば、フランドールは満面の笑みを絶やさず美鈴を見上げ。
「弾幕ごっこでしょ?」
そう言った。
「――はい?」
空気が凍った。
予想を裏切る一言に、美鈴は硬直し、ぱくぱくと口を開閉する。まるで酸欠の金魚だ。そんな美鈴には目もくれず、フランドールは手を後ろに組んでくるくるとスキップしながら言葉を続ける。
「最近美鈴遊んでくれなかったもんね。まだかなってずっと思ってたけど、我慢してて良かった! 弾幕ごっこは久しぶりだし、とっても嬉しいわ」
「あのー、咲夜さん……」
跳ね回るフランドールをよそに、機械音でも立てそうなぎこちない仕草で美鈴は咲夜に目を向けた。
「フランドール様にお花見って説明しました?」
「え? 美鈴が内緒にしておきたいみたいだったし、具体的に何をするかは説明していないわよ」
「えーと、美鈴が凄い楽しいことしてくれるって言ってたよね」
ひょいと顔を突きだしフランドールが言葉を挟む。
「……それだけですか?」
「うん!」
「咲夜さん、私を殺す気ですかっ!?」
笑顔のフランドールとは対照的に、美鈴は半分涙目だ。
咲夜は腕を組み、首を捻る。
「そんなつもりはなかったけれど……失敗だったかしら」
「大失敗です! フランドール様が弾幕ごっこと勘違いしたらどうするんですか、というか実際勘違いしてますし! フランドール様とそんなことしたら無事ですむわけがないですよ!? お願いですから、ちゃんと説明しておいてください……」
「ねえ」
くいと、美鈴の袖が引っ張られる。
「大体咲夜さんはいつもそうです。何をしても完璧なのに、ごくたまに、それも私が関わっている事でうっかりをやらかすものですから、そのとばっちりが……」
「ねえってば」
くいくい。
「今大事な話をしてるんです。私が生きるか死ぬかの瀬戸際ですから、ちょっと待って――」
「め・い・り・ん」
その声に、美鈴の動きが停止した。
軽やかな声である。無邪気で愛らしい、親しい友達を誘い招くような声。大の大人でもその愛くるしさに参ってしまうことだろう。
だが、その実は死の宣告であることを美鈴は知っている。
見たくはない。
だが、見ないわけにはいかない。
油の切れた機械どころか故障寸前のブリキ人形のような動きでフランドールへと目を向ける。
花のような笑みがそこにあった。
百人が百人見惚れてしまうような笑顔だった。
「いえ……ですからその……」
先ほどまでは照れで真っ赤だった顔を蒼白とし、美鈴が後退る。じりじりと、フランドールがそれを追う。
一歩下がれば二歩前進。二歩なら三歩。美鈴が後退にするにつれ、距離は縮まりゆく。
やがて
「――遊ぼ?」
牙を剥きだし、フランドールが笑いかけた。広げた小さな手の中に眩い光が集約されてゆく。
「ちょ、ちょっと待ってくださいフランドール様! これはですね、弾幕を桜の花に見立てたのであって、そう、いわば幻想郷伝統の見立て芸、田遊び大橋さても南京玉すだれ……って、何でそんなに笑顔で迫ってくるんですかおまけに羽根がぴこぴこして手が光っててるしそれってもしかしてスペルカードじゃ……ああ、お嬢様もパチュリー様も避難してるし二人ともひどいですお願いですから止めていえだからフランドール様笑顔が怖いのでちょっと待っやめて止めてやめて止めてそんな凄いのは駄目です死んじゃいますからああもう咲夜さん助けてーー!!」
閃光。
そして爆音。
レーヴァテインの赤光が夜空を切り裂いて走り。
門番は紅魔館の夜空に星と舞った。
4
「美鈴は大丈夫?」
「あの娘は頑丈が取り柄です。自室で寝込んではいますが、大きな怪我はありませんわ」
「門の番はどうしているのかしら」
「メイドを数名回しておきました。余程強力な人間や妖怪が無理に立ち入ろうとしない限り、問題は無いものかと」
「そ」
頷き、パチュリーはティーカップにゆったりと口を付けた。
庭での狂騒から数刻、昼間の紅魔館は大図書館で、パチュリー・ノーレッジがティータイムを楽しんでいた。その傍らに佇み、咲夜が給仕を行っている。
昼日中だというのに大図書館は薄暗く、天窓から僅かに差し込む光線の中で粒子が舞っている。珍書奇書が山と積み上げられた図書館は、古書特有の灰色に乾いた匂いに満たされていた。その中にあって、カップからは柑橘類の爽やかな香りが立ち上る。
「美味しいわね、これ。レモンマートルみたいだけど、少し味が違うわ」
「紅魔館で育てたレモンマートルのハーブに、香霖堂から仕入れた緑茶をブレンドしております。お口にあえばよろしいのですが」
「気に入ったわ。後で入れ方を教えて頂戴」
「はい」
パチュリーは満足げだ。成程、図書館で本に囲まれ、上質なティータイムを楽しむとくれば幸いこれに過ぐるものはないだろう。いつもの仏頂面も心無しか柔らかである。
「ところで、咲夜――」
「何でしょうか」
ティーカップをソーサーに置き、パチュリーは咲夜を見上げる。
「お花見の件、まだ解決していないようね」
「……おわかりですか」
「表情が硬いもの。心配事がある時はいつもそうよ。咲夜は意外と顔に出るのよね」
「お嬢様にも言われたことがありますわ」
咲夜は微苦笑する。紅魔館の主たちの観察眼は意外なほど細やかで温かだ。それはつまり、彼女らにとって咲夜は従者であり家人でもあるということなのだろう。
「何か良案はあるの?」
「残念ながら。パチュリー様は、花を咲かせるような魔術などご存じではありませんか」
「無いこともないけれど――」
パチュリーは天井まで聳える書棚に視線を移す。
「そのための本は魔理沙が持っていったままなのよね」
「またですか」
「またよ。100年もすれば返してくれるでしょう。それより、図書館を少し探してみたらどうかしら。何かの助けにはなるかもしれないわよ」
「そうですわね――」
大図書館の名は伊達ではない。今日のおかずから宇宙の真理まで、ありとあらゆる事柄に関する書物が収められているという。ここならば、夏にお花見を行うという難題を解決する手がかりがあるかもしれなかった。図書館の規模を考えれば片手間で出来ることではないが、時間の消費は咲夜にとってさしたる問題にならない。
「では、書棚を少々お借りしてよろしいでしょうか」
「構わないわ。私は奥にいるから、何か解らないことがあれば聞いて頂戴」
「有り難うございます」
ご馳走様とハーブティーを干して立ち去るパチュリーに一礼し、咲夜は大図書館の一角へと足を向けた。
数時間後。
咲夜は本の山に埋もれていた。木目の細かい椅子に腰掛け、閲覧用の机に無数の古書を積み上げ、片端から目を通してゆく。碧眼は鋭く文字を辿り、手はさらに素早く頁を繰る。無論、素早いだけではない。古紙が一枚捲られる度に、咲夜の怜悧な頭脳は情報を的確に取捨選別していた。文法も表記法も多様な古文字を相手にしていることを考えれば、驚くべき語学力と理解力である。
だが
「……やっぱり、きりがないわね」
首を振って書を閉じる。目的の情報を見つけることが出来ねば、優れた才も宝の持ち腐れだ。
自分で注いだ紅茶に手をのばすと一口。鼻腔を包み込む柔らかな芳香にほっと息をつきながら咲夜は思案する。
問題は本の多さだ。書名と分類からある程度は選別したが、それにしても異常な量だった。パチュリーが一年中引きこもっているのも道理、知識を求めるものなら世界が終わっても退屈することはあるまいと思わせるほどだ。時間はさしたる問題でないとはいえ、咲夜の体力がもたないであろうことは明白だった。
――餅は餅屋か。
心中で呟く。
効率的な検索と情報収集のため、パチュリーと小悪魔に助力を求めるべきだろう。そう判断し、咲夜が椅子をひいて立ち上がったその拍子。
とん、と。
軽い衝撃が伝わった。
見れば、ひかれた椅子の脚が床の本を直撃してしまっている。平積みの本が音を立てて崩れ、図書館の床に散らばり転がった。
「……」
自分らしくない不注意に咲夜は少し憮然とする。メイドたるもの、常に四方八方に気を配っていなければならないのだ。薄暗い洋燈 を頼りに本を読み続けたせいで、集中力が削がれているのかもしれない。
散乱した書を腰をかがめて拾おうとして、咲夜は崩れた本の一冊が大きく開いていることに気がついた。
大冊だ。サイズは縦横共に三十センチを越えるフォリオ版、装丁は上品なフルモロッコと、かなり手間がかかっている。開いた頁にはCryptoEntomologyとあった。
「未知昆虫学、か」
題字と本の形状からして、博物図鑑の類であろう。日本語で記されていない所を見ると、外の世界から流れ着いてきたものかもしれない。指先で触れると、歳月を感じさせるように薄く積もった埃が舞った。
何故か心惹かれるものがあり、懐から出した手袋をはめて机の上に置き、頁を開いた。と――
「へえ……」
咲夜は思わず感嘆の声を漏らす。
収載された図版は見事の一言に尽きた。雄大な森を背景に、極彩色の蝶が空を舞っている。それも一匹や二匹ではない。幻想郷でも見かけぬような特異な蝶たちが群れを成す様が刻まれていた。
銅板と思しい彩色画はきらびやかにして精緻だ。嗜好品の域を超え、芸術品に達していると言えよう。資料的にも芸術的にも高い価値を有する一冊であることが窺い知れる。
「凄いわ。でも――」
昆虫図譜がいかに見事とはいえ、当面は全く不要のものである。真夏のお花見を実現するのに役立つ方法が書いてあるはずもないからだ。
図書館の本には定位置がある。再度積み上げておくか、どこかの棚に仕舞うかパチュリーに聞かねば――
そう思いながら何とはなしに数頁を捲ったところで、咲夜の手がぴたりと止まった。
描かれているのは一枚の図だ。真夏の赤い薔薇の周りに、見たこともない独特の色合いをした蝶が舞っている。
手彩色の銅板刷り、手間のかかった美麗な一葉ではあるが、今の咲夜にとって有用なものであるはずがない。
だが、咲夜の直感に訴えかけるものがあった。手が止まったのもそのためである。今までの経験から、咲夜は自分の感にはかなりの信頼をおいていた。
図版を凝視する内に、咲夜の双眸は細まり、爛々と輝き出す。漠然とした直感でしかなかったものが、確かな形を取りつつあった。
碧眼が図鑑の一葉を数分間見詰め続け
――これだ。
脳髄に電流が走った。
炸裂し直ぐに消え去ろうとする思念を捕らえると、咲夜の鋭利な頭脳は高速で回転を始める。混沌たる、漠然とした思いつきでしかなかった想念は多方面から検討され、抽象から具象へと練り上げられ、適宜修正を加えられ具体案へと昇華されてゆく。
数分を経ず、咲夜の脳裏には完全な青写真が出来上がっていた。頤 に指先当て、その実行可能性を思案する。
「……いけそうね」
一人頷く。
そうと決まれば長居は無用だ。咲夜は図鑑を閉じると、改めて整理整頓にかかる。
棚から取り出され積み上げられた書籍を全て定位置に戻すのは当然のこと、埃をはらっておくことも忘れない。一瞬の乱れなく忽ちに掃除整頓をこなし立ち去る姿は、瀟洒そのものだった。
5
「咲夜、どこまで行くの?」
「もう少しですわ、フランドール様。お嬢様も少々お待ち下さいませ」
「ええ。楽しみにしているわ」
「どうぞお任せ下さい。紅魔館のメイド長の名に恥じない業をお見せいたします」
深夜、足音も立てずにメイド長が粛々と歩む。言葉を交わしながら後に続くのは、レミリア、パチュリー、美鈴、そしてフランドール、紅魔館を家とする四人だ。一行は紅魔館の外周を辿り、裏庭へと向かっていた。
こうして見ると奇妙な取り合わせである。メイド服にドレス、魔女のローブに人民服と、服装一つとっても統一性が全く見当たらない。それにも関わらず違和感はなく、調和すら感じさせる。五人の間にうっすらと漂う柔らかな空気ゆえだろうか。
やがて館の角に差し掛かる。ここを回れば裏庭である。咲夜は皆へと振り向き、曲がる道へと腕を差し伸ばした。
「――どうぞ、こちらへ」
レミリアやフランドールから見れば、進む先が丁度死角となる形だ。何が待っているのかと、期待に満ちた様子で少女たちは裏庭へと踏み込む。
「凄い……!」
途端に美鈴が歓声を上げた。驚嘆に満ちた声だった。
桜が咲いていた。
一面の満開だった。
枯れたままである筈の樹樹は誇らしげに枝を広げ、目も眩むほど鮮やかな桜色を纏っている。枝の先端から根元まで、本物と見紛うばかりの桜の花が咲いていた。
花だけではない。花の欠片だろうか、微細な粒子が大気に散乱し、庭園を桜色に染めている。
美鈴が作り出した弾幕の花も見事だったが、その比では無い。春爛漫の白玉楼でもこうはいかないだろうと思わせるものがある。
「いかがでしょうか、フランドール様?」
「……」
答えはなかった。
フランドールは夜桜に見入ってた。
口をぽかんと開け、童女の眼差しでただ呆然と立ちつくしていた。
フランドールのしなやかな金髪が夜風にゆらめく。風に吹かれた桜色の粒子が少女を取り巻き、月光を散らして輝いた。
「綺麗ね、フラン」
「うん……」
すいと、その傍らにレミリアが寄り添う。
お嬢様も姉なのだな――と思いながら咲夜は二人から少し離れた。邪魔をしては悪かろう。
「いかがです、パチュリー様?」
「見事なものね。それにしても、咲夜」
パチュリーに近寄り声をかける。紫色の魔女は桜の幹を撫でていた。小柄で影を纏うパチュリーには、夜桜が良く似合う。普段から眠たげな瞳は一層弛緩し、茫漠とした印象を強めていた。
「これ、大変だったでしょう。お疲れ様」
「有り難うございます。流石はパチュリー様、仕掛けはお見通しですわね」
口元に手を当て、咲夜ははにかむ。
「でも、私一人で準備したわけではありません。メイドの皆が良く働いてくれましたわ」
「優秀だこと。ボーナスの一つも出してあげたらどうかしら」
「検討しておきます」
上機嫌な咲夜と、いつもの仏頂面ではあるがどことなく楽しそうなパチュリー。談笑していると、レミリアの声が届いてきた。いつの間にか近くに来ていたらしい。
「良い趣向ね。見事だわ」
「これはお嬢様。恐悦至極に存じます」
咲夜は振り向くと優美に一礼する。
「フランドール様はいかがなされましたか?」
「フランは美鈴と走り回ってるわ。余程嬉しかったみたい」
「お喜びいただけたようで安心しましたわ」
「ま、咲夜に任せたのだから心配してなかったけどね。それより――」
レミリアの瞳が好奇心にきらりと光った。
「仕掛けということは、当然本物の花ではないのでしょう。なら、正体は何なのかしら。説明して頂戴」
「心得ました。では」
咲夜は主へと微笑みかけ、手首を捻って指を鳴らした。鋭い破裂音が空気を高く裂く。
瞬間。
「……!」
誰かが息を呑んだ。
花々が散った。
いや、宙に飛び立った。
夜空に広がり伸びた枝を彩っていた花弁は、一枚、また一枚と剥落し、夜空に浮かぶ月をめがけて舞い上がる。数は数百数千はあろうか、花弁は空を飛び、桜色の鱗粉を散らしながら羽根をはためかせる。
そう。
花弁と見えたのは、無数の蝶だった。
枝から飛び立った蝶の群れは桜色した羽根を広げ、去り行くことなく樹樹の周囲に舞っている。
蝶が散らした鱗粉が月明かりを受けて桜色に発光している。大気を覆っていた粒子の正体はこれだった。
「これは……」
さしものレミリアも言葉がないのか、目を丸くして絶句していた。
桜の様相は刻一刻と移ろう。蝶の群れが動き続けているためだ。満開から七分咲きへ、七分咲きから五分咲きへ、そしてまた満開へ。一瞬たりとも留まることなく転変を繰り返す姿は、この世のものとも思えない。
「……こんな蝶がいたのね」
「私も知ったのはつい先日のことです。この趣向を思いついたのもその時ですわ。メイドの皆で集めました。真昼の野山を駆け回ったのは久しぶりです」
「昼間に採っていたの? 無理は駄目よ、ただでさえいつ寝ているか解らないようなのに」
「睡眠などどうにでもなりますわ。皆様にお喜びいただける方が大事ですもの。でも――」
咲夜は嬉しそうに目を細める。
「ご心配くださり、有り難うございます」
「礼など言わなくていいわ。従者の体を案ずるのも主人の義務よ」
レミリアがぶっきらぼうに言い放つ。照れ隠しだろうか、心なしか頬が赤い。
「それにしても――綺麗ね」
「はい、本当に」
咲夜の心は満たされていた。
余計な言葉をかわさず、己の居場所である館の皆と、花を、蝶を愛でている。これに勝る幸せがあるだろうか。
しんしんとした静寂 の内に時が過ぎてゆく。
ひとひら、ふたひら、盛夏の空に桜が舞い踊る。
どれほどの間桜を眺めていただろうか。
「お嬢様、咲夜さん」
美鈴の声が物思いを破った。
振り向くと、フランドールを囲み美鈴とパチュリーが桜の下に座し、重箱を広げていた。重箱の中身はお花見には付きものの食事とお酒、それにスカーレット姉妹専用の朱のワイン。準備は万端だ。
「支度、出来ましたよ。フランドール様もお待ちかねです」
「ええ、すぐ行くわ」
答え、レミリアへと手を差し伸べる。
「お嬢様、参りましょう」
「そうね」
楽しげな声が聞こえる。
桜の下ではしゃぐフランドールの声だ。
一点の曇りも無く随喜に満ちたそれに、レミリアがふと足を止めた。
「咲夜」
「何でしょうか」
「フランのあんな笑顔、久しぶりに見たわ」
「私もです。あのように笑っていらっしゃる方が素敵ですわね」
「咲夜」
「はい」
「……ありがとう」
「……勿体ないお言葉です」
そして主従は手と手を取り合って、桜の下へと向かう。
今夜の花見は、またとなく心楽しいものとなりそうだった。
(了)
「お花見がしたいわ」
「……お花見、ですか?」
そう切り出されたのは、食事を下げるべく地下室に来た時だった。唐突な言葉に、十六夜咲夜は怪訝な表情を浮かべる。
此処は紅魔館の奥深く、館主の妹たるフランドール・スカーレットの居室である。鎖が鉄扉を閉ざし石壁が四方を覆うこの室に悪魔の妹は住んでいる。
並の人間ならば狂いかねないほど閉鎖的な部屋だが、フランドールは変わりもなく日々を過ごしていた。吸血鬼にとっては時間の流れも空間の閉鎖性も意味をなさないのかもしれないと、咲夜はふと思う。
とはいえ、生活を送っている限りは食事もするし動き回りもする。そこに伴う雑事に当たるのが、咲夜を筆頭とするメイドたちの役目だ。
「フランドール様、お口が」
「ん」
食後の口元を拭うと、清潔なナプキンが真っ赤に染まった。床や壁の所々にも赤い染みが飛沫となって散っている。紅魔館の名に相応しい装いとはいえ、そろそろ大掃除をしなければならないだろう。
それはさておき――
「何故また急にお花見などと仰るのです」
訝しげに問う。
フランドールが突飛なことを聞いてくるようになったのは最近のことだ。紅魔館や白玉楼が遠因となった幾つかの事変を経て、フランドールにも友人や知人が出来た。彼女たちが此処まで遊びに来ることも時折ある。その度に何を吹き込まれるものか、妙な知識に基づいてこれがやりたいあれが欲しいと言い出すことも珍しくなくなっている。咲夜にしても、紅魔館のメイドとして出来る限りのことはするつもりだった。
それにしても、盛夏にお花見とは――
「美鈴が教えてくれたの。みんなで騒いでとっても楽しいって」
嗚呼と、咲夜は天を仰いだ。
華人小娘・紅美鈴。人民服とチャイナドレスが融合した衣装をトレードマークとし、紅魔館の門番をつとめる感情豊かな妖怪である。その性格からフランドールの相手をすることも多い。時にあることないことを吹き込むのが珠に瑕だが、情操教育の観点から咲夜は黙認していた。今回ばかりはそれが裏目に出たらしい。
「フランドール様、確かに花見は一般的な祭事です。神社や山々で毎年行われてはおりますが、執り行う季節は春、愛でるのは桜の樹。今月ただいまでは、時季外れと言わざるを得ませんわ」
「……出来ないの?」
「申し訳御座いませんが――」
「そうなんだ……」
きらきらと目を輝かせていた様から一転、フランドールは答えを聞くと寂しげに俯向く。背中に生えた八色十六葉の羽根も垂れ下がり、意気消沈の態だ。
「あの、フランドール様――」
思わず咲夜が声をかけると、フランドールは物哀しげに首を振る。
「ううん、いいよ、咲夜。そうだよね、急にお花見がしたいって言っても無理だよね。お姉さまやパチュリーにはお願いしにくいし、美鈴はちょっと頼りない。だから咲夜に言ってみたんだけど……我が儘になっちゃった」
「フランドール様……」
「そんな顔しないで。咲夜に我が儘を言ったのがばれたら、お姉さまにまた怒られちゃう。大丈夫よ、美鈴やパチュリーにお話をたくさん聞かせて貰うから。それで……我慢するから」
そう言って、フランドールは目を伏せた。
小さな姿だった。
孤独な少女が、いや、少女にすらなりきれぬ幼子がそこにいた。
その刹那。
己の心に言い知れぬ感情が沸き上がるのを咲夜は覚え――
「フランドール様!」
「な、何!?」
確たる決意を持って名を呼んでいた。フランドールが、ぴくりと身を震わせる。
咲夜の心は瞬く間に燃え立っていた。
仮にも、フランドールは咲夜の主たるレミリア・スカーレットの妹君である。主に等しいとまでは言わねど、忠義を尽くしてしかるべき相手だ。レミリアにとって最愛の血族たる少女が抱いた望み一つかなえることも出来ずに、紅魔館のメイドを名乗ることが出来ようか。
ましてや咲夜は幾百のメイドを一手に束ねる完全で瀟灑な従者である。フランドールの願いを何としても叶えねばならなかった。それこそが、メイドたちの規範たるメイド長のつとめであろう。
「お任せください。花見の支度を必ずや調えて参ります」
「……本当に?」
おそるおそる、といった様でフランドールが顔を上げる。紫紺の双眸を見詰める深紅色の瞳に、咲夜は力強く頷いた。
「メイドに二言は御座いません。この十六夜咲夜の名に賭けてお約束いたします」
「やった! 咲夜、大好き!」
「ふ、フランドール様!?」
フランドールがぴょこんと跳ね起き、咲夜に抱きついた。今泣いた烏が何とやら、暗く沈んでいた表情は明るく輝き満面の笑みを浮かべている。迷子の子供が母親を見つけた時のような変わりようだった。
慈愛に満ちた瞳で小さな身体を抱き留め、咲夜は僅かに眉根を寄せる。
――さて、どうしたものか。
2
「――というわけなのだけど」
「咲夜さん、安請け合いしすぎですよ……」
紅美鈴の声は呆れかえっていた。
時は早朝、咲夜が夜の勤めを終えて足を向けたのは紅魔館の門口である。フランドールの難問に対する妙案が無いかと、門番である美鈴に声をかけたわけだ。
メイド服を一分の隙もなく纏った咲夜と、伸びやかな四肢を人民服に包んだ美鈴の取り合わせは、二人の健康的な美貌も相まって朝焼けに良く映えている。
「夏ですよ夏。それも日がな一日かんかん照りの真っ盛り、油断すると氷精が半分熔けて出来損ないのアイスキャンディーになるような真夏日続きじゃないですか。桜を肴のお花見なんて無理ですよ」
「そうはいうけどね、元々はあなたのせいなのよ。駄目じゃない、フランドール様を焚き付けるようなこと教えたら」
「う……反省してます……」
身を竦め恐縮する美鈴。考えてみれば人間相手に恐縮する妖怪というのも妙なものだが、何故かこのような関係が続いている。
「それで、何か良い考えはないかしら?」
「うーん、難しいですね……」
美鈴はしばらく首を捻っていた後、何か思いついたかぽんと手を叩く。
「今の季節を春にしてしまうとかどうですか?」
「どうやってやるの、そんなこと」
「咲夜さんなら、時間を弄るのはお手の物でしょうし」
「無理ね。時間を巻き戻すことは出来ないのよ」
咲夜の答えはにべもない。時を自在に操る咲夜といえど、時間逆行だけは手に余る。
「じゃあ、四季の境を曖昧にして貰って」
「却下」
言下に切り捨てる。言葉を遮られ悄然とする美鈴に向かい、咲夜は呆れたように指を振った。
「スキマ妖怪を頼るのはこの際禁止。些細なことであれ借りを作りたい相手じゃないわ」
「でもそうなるとお手上げです。咲夜さん、何か案はあるんですか?」
「無いわ。だからあなたに聞いているんじゃない」
「それじゃ堂々めぐりですよ……」
「そうなのよね……」
僅かに目を細め、咲夜は思考を振り絞る。無論のこと、外面は悠揚迫らず余裕綽々の態だ。難題に困り果てているようにはとても見えない。
一方で、美鈴の様子は対照的だ。手を腰に当てたかと思うと外して回し、宙の一点を見詰めた次には視線を彷徨わせ、表情をくるくると変えながら唸っている。まるで百面相であり、見ていて飽きない。
しばしの沈黙があって
「そうだ」
美鈴がふと顔を上げた。生き生きとした大きな瞳が咲夜に向けられる。
「何か思いついたの?」
「はい。フランドール様はお花見をご所望なんですよね」
「ええ」
「花を咲かせることは出来ませんが、代用品なら用意出来るかも知れませんよ。満足していただけるかはちょっと解りませんけどね」
「代用品、か……」
手段ではあった。
要するに、フランドールにお花見と同質の楽しさを味わって貰えばいいのだ。桜を咲かせる策が無い以上、美鈴の代案に任せてみるのも良いかもしれない。
「手ではあるわね。取りあえず、その案を聞かせて頂戴」
「……あの、言わないと駄目ですか?」
「私が相談したのだし、無理強いはしないけれど……言えない理由でもあるの?」
「その、フランドール様のためなのは当然なんですけど、どうせなら咲夜さんも驚かせてみたいなー、なんて……」
照れたような上目遣いの美鈴に、咲夜は微笑を禁じ得ない。片や妖怪、片や人間、過ごした歳月には相当な隔たりがあるはずだが、この二者には仲の良い姉妹のようなところがあった。言うまでもなく、咲夜が姉だ。
「そういうことなら仕方ないわね。楽しみにしてるわよ」
「やった! 腕が鳴ります」
美鈴が溌剌と手を打ち鳴らす。
「支度にはどれくらいかかるのかしら」
「今すぐでも大丈夫ですよ。咲夜さんは心配せず、お花見の食事や飲み物をお願いします」
「ええ、そうするわ。準備が終わったら知らせに来て。お嬢様とフランドール様には私から伝えておきます」
「了解です。大船に乗ったつもりでいてくださいね」
豊かな胸元を自信満々に叩く様に、一抹の不安が過る。
美鈴は基本的に優秀だ。だが、時折手痛い失策をしでかしてしまう傾向がある。不注意や不用意であるというより、不幸の星の下にあるというべきか。良かれと思った行動から、己の意に反する結果を招いてしまうことが少なくない。
「じゃ、行ってきますね」
「お願いね」
快活に手を振って、美鈴は支度をすべく走り出し。
どうなることかと、咲夜はこっそり溜息をついたのだった。
3
その日の晩。
レミリア、パチュリー、咲夜、それにフランドールと、紅魔館を支える者たちが庭に勢揃いしていた。レミリアとフランドールは並んで椅子に座り、その傍らには咲夜が控えている。少し距離を開けて、魔導書を読み耽るパチュリーの姿。吸血鬼と魔女とメイド、半月に浮かび上がる少女たちはそれぞれが独自の美しさを醸し出していた。
「咲夜、まだー?」
「止めなさい、フラン。はしたないわ」
フランドールが待ちくたびれて足をばたつかせ、レミリアがそれをたしなめる。その様を微笑ましそうに横目で見、パチュリーが魔導書を閉じた。
「美鈴はどうやって桜を咲かせるつもりなのかしら」
「庭の樹樹を利用するのは間違いないところでしょうが、私も子細は聞いておりません」
「枯木ばかりなのにどうするつもりなのかしらね」
レミリアが半ば呆れて言う。
枯木ばかり、というのは文字通りの意味だ。紅魔館の庭は自然豊かでありながら物寂しい。若草が萌える豊かな土壌を有するにも関わらず、鳥の音は聞こえず、樹樹の多くは一年を通して枯れている。主が吸血鬼である影響なのかもしれなかった。桜の樹も例外ではなく、無数に立ち並んでいながらもその全てが丸裸だ。夏の桜特有の緑葉も一枚とて付いていない。
「何にせよ、そろそろだと思いますわ。もう少しだけお待ち下さいませ」
朱の液体が入ったグラスをレミリアとフランドールに手渡す。レミリアが優雅に頷き、杯を傾けた時――
「お待たせしました!」
威勢の良い声が空から降ってきた。
見上げれば、桜の枯れ木の間に人民服の門番がふわりと浮かんでいる。帽子に冠した「龍」の文字が月光を照り返し誇らかに輝いていた。
「あら、美鈴にしては派手な登場だこと。私を差し置いて、随分と目立っているじゃない」
「お、お嬢様? いえ、これは演出といいますか、折角なので少しは盛り上げようかと思っただけでして……」
レミリアがうっそりと口元を吊り上げる。美鈴は意気揚々から一転、しどろもどろだ。
「冗談よ。さ、始めなさい。待ちくたびれたわ」
「美鈴、早くー」
レミリアに続いてフランドールが美鈴を急き立てる。仕草は妙に子供めいていて、声音も甘えるかのようだ。見た目は少女か少女未満としか言えないが、フランドールの精神はそこまで幼くない。外見相応の娘のように振る舞っているのは、これから起こることへの期待と、家族同然の面々に囲まれているという気安さゆえかもしれなかった。
「では……」
こほんと咳払いして、美鈴は両足を肩幅に開く。胸の前で腕を交差させ
「破ッ!!」
気合一閃、腹の底から叫んだ。
咲夜の身体に痺れが走った。音の波が空気を裂いたせいだった。
人体を揺らすに留まらず、音波は樹樹を、館の外壁を振動させる。
音だけではない。四方に放たれ音波を追随したのは、目にも見えるほど濃厚な氣の塊だ。氣を自在に操るのは、美鈴のお家芸である。氣の塊は宙を進むにつれて千切れ、離れ、変色しながらより微細な塊へと分解してゆく。
「思ったより器用なことするわね」
「ふふ、咲夜さん、面白いのはこれからですよ」
不敵に笑う。
いつしか美鈴を取り囲む空間は桜色に染まっていたた。
桜色に発色しているのは、氣の塊から形成された微少な弾の群れ、つまりは弾幕だ。幻想郷では馴染み深い、共通言語にも等しいものである。
その弾幕が、美鈴を取り囲んでいた。主と同じく重力を無視したゆたう様子は、まるで踊っているかのようだ。
「これを、こうして……っと」
号令でもかけるように美鈴が手を降ると、弾幕は意志を持った集団であるかのように一点に向かい動き出す。目的地は、無論桜の樹だ。
ぴたり、ぴたりと、弾が取り付くにつれて、桜の枝は見る間に雅な桃色に染まる。芸が細かいことに、米粒型の弾幕は五つ毎に集合して花弁を象っていた。
へえ、とレミリアが声を漏らす。
「スペルカードとは考えたわね」
「はい、このために彩符を改良発展させたスペルカード、その名も『極彩颱風・改』です!」
「少しは捻った方がいいと思うわ」
パチュリーがぼそりと呟くが、誰も聞く者はいない。枯木を覆う弾幕に魅入られていたからだ。美鈴の弾幕およびスペルカードは常に装飾的で色彩豊かだが、此度のそれはいつにも増して華やかだった。
見る見る間に、弾幕は満開の桜を象ってゆく。その様を見届け、美鈴は満足そうに頷くと、地へと降りフランドールへ歩み寄った。
「いかがでしょうか?」
「驚いたわ。こんなことも出来たんだ」
フランドールは目を丸くして美鈴に笑いかける。その表情に、美鈴は相好を崩した。
「フランドール様のそんなお顔が見られるなんて。頑張った甲斐がありましたよ」
「美鈴は凄いね。ちょっと見直しちゃった。あんな弾幕見たことないもの」
フランドールは嬉しそうに美鈴の袖に取りすがる。上機嫌そのものだ。
「いやだなあ、フランドール様、そんなに褒められたら照れちゃうじゃないですか」
邪気のない笑顔と賞賛に、美鈴は頬を染め、頭をかきながら身をくねらせる。
「これって、あれでしょ」
「ええ、これがお花――」
お花見、と言いかけた言葉の半ば、フランドールは満面の笑みを絶やさず美鈴を見上げ。
「弾幕ごっこでしょ?」
そう言った。
「――はい?」
空気が凍った。
予想を裏切る一言に、美鈴は硬直し、ぱくぱくと口を開閉する。まるで酸欠の金魚だ。そんな美鈴には目もくれず、フランドールは手を後ろに組んでくるくるとスキップしながら言葉を続ける。
「最近美鈴遊んでくれなかったもんね。まだかなってずっと思ってたけど、我慢してて良かった! 弾幕ごっこは久しぶりだし、とっても嬉しいわ」
「あのー、咲夜さん……」
跳ね回るフランドールをよそに、機械音でも立てそうなぎこちない仕草で美鈴は咲夜に目を向けた。
「フランドール様にお花見って説明しました?」
「え? 美鈴が内緒にしておきたいみたいだったし、具体的に何をするかは説明していないわよ」
「えーと、美鈴が凄い楽しいことしてくれるって言ってたよね」
ひょいと顔を突きだしフランドールが言葉を挟む。
「……それだけですか?」
「うん!」
「咲夜さん、私を殺す気ですかっ!?」
笑顔のフランドールとは対照的に、美鈴は半分涙目だ。
咲夜は腕を組み、首を捻る。
「そんなつもりはなかったけれど……失敗だったかしら」
「大失敗です! フランドール様が弾幕ごっこと勘違いしたらどうするんですか、というか実際勘違いしてますし! フランドール様とそんなことしたら無事ですむわけがないですよ!? お願いですから、ちゃんと説明しておいてください……」
「ねえ」
くいと、美鈴の袖が引っ張られる。
「大体咲夜さんはいつもそうです。何をしても完璧なのに、ごくたまに、それも私が関わっている事でうっかりをやらかすものですから、そのとばっちりが……」
「ねえってば」
くいくい。
「今大事な話をしてるんです。私が生きるか死ぬかの瀬戸際ですから、ちょっと待って――」
「め・い・り・ん」
その声に、美鈴の動きが停止した。
軽やかな声である。無邪気で愛らしい、親しい友達を誘い招くような声。大の大人でもその愛くるしさに参ってしまうことだろう。
だが、その実は死の宣告であることを美鈴は知っている。
見たくはない。
だが、見ないわけにはいかない。
油の切れた機械どころか故障寸前のブリキ人形のような動きでフランドールへと目を向ける。
花のような笑みがそこにあった。
百人が百人見惚れてしまうような笑顔だった。
「いえ……ですからその……」
先ほどまでは照れで真っ赤だった顔を蒼白とし、美鈴が後退る。じりじりと、フランドールがそれを追う。
一歩下がれば二歩前進。二歩なら三歩。美鈴が後退にするにつれ、距離は縮まりゆく。
やがて
「――遊ぼ?」
牙を剥きだし、フランドールが笑いかけた。広げた小さな手の中に眩い光が集約されてゆく。
「ちょ、ちょっと待ってくださいフランドール様! これはですね、弾幕を桜の花に見立てたのであって、そう、いわば幻想郷伝統の見立て芸、田遊び大橋さても南京玉すだれ……って、何でそんなに笑顔で迫ってくるんですかおまけに羽根がぴこぴこして手が光っててるしそれってもしかしてスペルカードじゃ……ああ、お嬢様もパチュリー様も避難してるし二人ともひどいですお願いですから止めていえだからフランドール様笑顔が怖いのでちょっと待っやめて止めてやめて止めてそんな凄いのは駄目です死んじゃいますからああもう咲夜さん助けてーー!!」
閃光。
そして爆音。
レーヴァテインの赤光が夜空を切り裂いて走り。
門番は紅魔館の夜空に星と舞った。
4
「美鈴は大丈夫?」
「あの娘は頑丈が取り柄です。自室で寝込んではいますが、大きな怪我はありませんわ」
「門の番はどうしているのかしら」
「メイドを数名回しておきました。余程強力な人間や妖怪が無理に立ち入ろうとしない限り、問題は無いものかと」
「そ」
頷き、パチュリーはティーカップにゆったりと口を付けた。
庭での狂騒から数刻、昼間の紅魔館は大図書館で、パチュリー・ノーレッジがティータイムを楽しんでいた。その傍らに佇み、咲夜が給仕を行っている。
昼日中だというのに大図書館は薄暗く、天窓から僅かに差し込む光線の中で粒子が舞っている。珍書奇書が山と積み上げられた図書館は、古書特有の灰色に乾いた匂いに満たされていた。その中にあって、カップからは柑橘類の爽やかな香りが立ち上る。
「美味しいわね、これ。レモンマートルみたいだけど、少し味が違うわ」
「紅魔館で育てたレモンマートルのハーブに、香霖堂から仕入れた緑茶をブレンドしております。お口にあえばよろしいのですが」
「気に入ったわ。後で入れ方を教えて頂戴」
「はい」
パチュリーは満足げだ。成程、図書館で本に囲まれ、上質なティータイムを楽しむとくれば幸いこれに過ぐるものはないだろう。いつもの仏頂面も心無しか柔らかである。
「ところで、咲夜――」
「何でしょうか」
ティーカップをソーサーに置き、パチュリーは咲夜を見上げる。
「お花見の件、まだ解決していないようね」
「……おわかりですか」
「表情が硬いもの。心配事がある時はいつもそうよ。咲夜は意外と顔に出るのよね」
「お嬢様にも言われたことがありますわ」
咲夜は微苦笑する。紅魔館の主たちの観察眼は意外なほど細やかで温かだ。それはつまり、彼女らにとって咲夜は従者であり家人でもあるということなのだろう。
「何か良案はあるの?」
「残念ながら。パチュリー様は、花を咲かせるような魔術などご存じではありませんか」
「無いこともないけれど――」
パチュリーは天井まで聳える書棚に視線を移す。
「そのための本は魔理沙が持っていったままなのよね」
「またですか」
「またよ。100年もすれば返してくれるでしょう。それより、図書館を少し探してみたらどうかしら。何かの助けにはなるかもしれないわよ」
「そうですわね――」
大図書館の名は伊達ではない。今日のおかずから宇宙の真理まで、ありとあらゆる事柄に関する書物が収められているという。ここならば、夏にお花見を行うという難題を解決する手がかりがあるかもしれなかった。図書館の規模を考えれば片手間で出来ることではないが、時間の消費は咲夜にとってさしたる問題にならない。
「では、書棚を少々お借りしてよろしいでしょうか」
「構わないわ。私は奥にいるから、何か解らないことがあれば聞いて頂戴」
「有り難うございます」
ご馳走様とハーブティーを干して立ち去るパチュリーに一礼し、咲夜は大図書館の一角へと足を向けた。
数時間後。
咲夜は本の山に埋もれていた。木目の細かい椅子に腰掛け、閲覧用の机に無数の古書を積み上げ、片端から目を通してゆく。碧眼は鋭く文字を辿り、手はさらに素早く頁を繰る。無論、素早いだけではない。古紙が一枚捲られる度に、咲夜の怜悧な頭脳は情報を的確に取捨選別していた。文法も表記法も多様な古文字を相手にしていることを考えれば、驚くべき語学力と理解力である。
だが
「……やっぱり、きりがないわね」
首を振って書を閉じる。目的の情報を見つけることが出来ねば、優れた才も宝の持ち腐れだ。
自分で注いだ紅茶に手をのばすと一口。鼻腔を包み込む柔らかな芳香にほっと息をつきながら咲夜は思案する。
問題は本の多さだ。書名と分類からある程度は選別したが、それにしても異常な量だった。パチュリーが一年中引きこもっているのも道理、知識を求めるものなら世界が終わっても退屈することはあるまいと思わせるほどだ。時間はさしたる問題でないとはいえ、咲夜の体力がもたないであろうことは明白だった。
――餅は餅屋か。
心中で呟く。
効率的な検索と情報収集のため、パチュリーと小悪魔に助力を求めるべきだろう。そう判断し、咲夜が椅子をひいて立ち上がったその拍子。
とん、と。
軽い衝撃が伝わった。
見れば、ひかれた椅子の脚が床の本を直撃してしまっている。平積みの本が音を立てて崩れ、図書館の床に散らばり転がった。
「……」
自分らしくない不注意に咲夜は少し憮然とする。メイドたるもの、常に四方八方に気を配っていなければならないのだ。薄暗い
散乱した書を腰をかがめて拾おうとして、咲夜は崩れた本の一冊が大きく開いていることに気がついた。
大冊だ。サイズは縦横共に三十センチを越えるフォリオ版、装丁は上品なフルモロッコと、かなり手間がかかっている。開いた頁にはCryptoEntomologyとあった。
「未知昆虫学、か」
題字と本の形状からして、博物図鑑の類であろう。日本語で記されていない所を見ると、外の世界から流れ着いてきたものかもしれない。指先で触れると、歳月を感じさせるように薄く積もった埃が舞った。
何故か心惹かれるものがあり、懐から出した手袋をはめて机の上に置き、頁を開いた。と――
「へえ……」
咲夜は思わず感嘆の声を漏らす。
収載された図版は見事の一言に尽きた。雄大な森を背景に、極彩色の蝶が空を舞っている。それも一匹や二匹ではない。幻想郷でも見かけぬような特異な蝶たちが群れを成す様が刻まれていた。
銅板と思しい彩色画はきらびやかにして精緻だ。嗜好品の域を超え、芸術品に達していると言えよう。資料的にも芸術的にも高い価値を有する一冊であることが窺い知れる。
「凄いわ。でも――」
昆虫図譜がいかに見事とはいえ、当面は全く不要のものである。真夏のお花見を実現するのに役立つ方法が書いてあるはずもないからだ。
図書館の本には定位置がある。再度積み上げておくか、どこかの棚に仕舞うかパチュリーに聞かねば――
そう思いながら何とはなしに数頁を捲ったところで、咲夜の手がぴたりと止まった。
描かれているのは一枚の図だ。真夏の赤い薔薇の周りに、見たこともない独特の色合いをした蝶が舞っている。
手彩色の銅板刷り、手間のかかった美麗な一葉ではあるが、今の咲夜にとって有用なものであるはずがない。
だが、咲夜の直感に訴えかけるものがあった。手が止まったのもそのためである。今までの経験から、咲夜は自分の感にはかなりの信頼をおいていた。
図版を凝視する内に、咲夜の双眸は細まり、爛々と輝き出す。漠然とした直感でしかなかったものが、確かな形を取りつつあった。
碧眼が図鑑の一葉を数分間見詰め続け
――これだ。
脳髄に電流が走った。
炸裂し直ぐに消え去ろうとする思念を捕らえると、咲夜の鋭利な頭脳は高速で回転を始める。混沌たる、漠然とした思いつきでしかなかった想念は多方面から検討され、抽象から具象へと練り上げられ、適宜修正を加えられ具体案へと昇華されてゆく。
数分を経ず、咲夜の脳裏には完全な青写真が出来上がっていた。
「……いけそうね」
一人頷く。
そうと決まれば長居は無用だ。咲夜は図鑑を閉じると、改めて整理整頓にかかる。
棚から取り出され積み上げられた書籍を全て定位置に戻すのは当然のこと、埃をはらっておくことも忘れない。一瞬の乱れなく忽ちに掃除整頓をこなし立ち去る姿は、瀟洒そのものだった。
5
「咲夜、どこまで行くの?」
「もう少しですわ、フランドール様。お嬢様も少々お待ち下さいませ」
「ええ。楽しみにしているわ」
「どうぞお任せ下さい。紅魔館のメイド長の名に恥じない業をお見せいたします」
深夜、足音も立てずにメイド長が粛々と歩む。言葉を交わしながら後に続くのは、レミリア、パチュリー、美鈴、そしてフランドール、紅魔館を家とする四人だ。一行は紅魔館の外周を辿り、裏庭へと向かっていた。
こうして見ると奇妙な取り合わせである。メイド服にドレス、魔女のローブに人民服と、服装一つとっても統一性が全く見当たらない。それにも関わらず違和感はなく、調和すら感じさせる。五人の間にうっすらと漂う柔らかな空気ゆえだろうか。
やがて館の角に差し掛かる。ここを回れば裏庭である。咲夜は皆へと振り向き、曲がる道へと腕を差し伸ばした。
「――どうぞ、こちらへ」
レミリアやフランドールから見れば、進む先が丁度死角となる形だ。何が待っているのかと、期待に満ちた様子で少女たちは裏庭へと踏み込む。
「凄い……!」
途端に美鈴が歓声を上げた。驚嘆に満ちた声だった。
桜が咲いていた。
一面の満開だった。
枯れたままである筈の樹樹は誇らしげに枝を広げ、目も眩むほど鮮やかな桜色を纏っている。枝の先端から根元まで、本物と見紛うばかりの桜の花が咲いていた。
花だけではない。花の欠片だろうか、微細な粒子が大気に散乱し、庭園を桜色に染めている。
美鈴が作り出した弾幕の花も見事だったが、その比では無い。春爛漫の白玉楼でもこうはいかないだろうと思わせるものがある。
「いかがでしょうか、フランドール様?」
「……」
答えはなかった。
フランドールは夜桜に見入ってた。
口をぽかんと開け、童女の眼差しでただ呆然と立ちつくしていた。
フランドールのしなやかな金髪が夜風にゆらめく。風に吹かれた桜色の粒子が少女を取り巻き、月光を散らして輝いた。
「綺麗ね、フラン」
「うん……」
すいと、その傍らにレミリアが寄り添う。
お嬢様も姉なのだな――と思いながら咲夜は二人から少し離れた。邪魔をしては悪かろう。
「いかがです、パチュリー様?」
「見事なものね。それにしても、咲夜」
パチュリーに近寄り声をかける。紫色の魔女は桜の幹を撫でていた。小柄で影を纏うパチュリーには、夜桜が良く似合う。普段から眠たげな瞳は一層弛緩し、茫漠とした印象を強めていた。
「これ、大変だったでしょう。お疲れ様」
「有り難うございます。流石はパチュリー様、仕掛けはお見通しですわね」
口元に手を当て、咲夜ははにかむ。
「でも、私一人で準備したわけではありません。メイドの皆が良く働いてくれましたわ」
「優秀だこと。ボーナスの一つも出してあげたらどうかしら」
「検討しておきます」
上機嫌な咲夜と、いつもの仏頂面ではあるがどことなく楽しそうなパチュリー。談笑していると、レミリアの声が届いてきた。いつの間にか近くに来ていたらしい。
「良い趣向ね。見事だわ」
「これはお嬢様。恐悦至極に存じます」
咲夜は振り向くと優美に一礼する。
「フランドール様はいかがなされましたか?」
「フランは美鈴と走り回ってるわ。余程嬉しかったみたい」
「お喜びいただけたようで安心しましたわ」
「ま、咲夜に任せたのだから心配してなかったけどね。それより――」
レミリアの瞳が好奇心にきらりと光った。
「仕掛けということは、当然本物の花ではないのでしょう。なら、正体は何なのかしら。説明して頂戴」
「心得ました。では」
咲夜は主へと微笑みかけ、手首を捻って指を鳴らした。鋭い破裂音が空気を高く裂く。
瞬間。
「……!」
誰かが息を呑んだ。
花々が散った。
いや、宙に飛び立った。
夜空に広がり伸びた枝を彩っていた花弁は、一枚、また一枚と剥落し、夜空に浮かぶ月をめがけて舞い上がる。数は数百数千はあろうか、花弁は空を飛び、桜色の鱗粉を散らしながら羽根をはためかせる。
そう。
花弁と見えたのは、無数の蝶だった。
枝から飛び立った蝶の群れは桜色した羽根を広げ、去り行くことなく樹樹の周囲に舞っている。
蝶が散らした鱗粉が月明かりを受けて桜色に発光している。大気を覆っていた粒子の正体はこれだった。
「これは……」
さしものレミリアも言葉がないのか、目を丸くして絶句していた。
桜の様相は刻一刻と移ろう。蝶の群れが動き続けているためだ。満開から七分咲きへ、七分咲きから五分咲きへ、そしてまた満開へ。一瞬たりとも留まることなく転変を繰り返す姿は、この世のものとも思えない。
「……こんな蝶がいたのね」
「私も知ったのはつい先日のことです。この趣向を思いついたのもその時ですわ。メイドの皆で集めました。真昼の野山を駆け回ったのは久しぶりです」
「昼間に採っていたの? 無理は駄目よ、ただでさえいつ寝ているか解らないようなのに」
「睡眠などどうにでもなりますわ。皆様にお喜びいただける方が大事ですもの。でも――」
咲夜は嬉しそうに目を細める。
「ご心配くださり、有り難うございます」
「礼など言わなくていいわ。従者の体を案ずるのも主人の義務よ」
レミリアがぶっきらぼうに言い放つ。照れ隠しだろうか、心なしか頬が赤い。
「それにしても――綺麗ね」
「はい、本当に」
咲夜の心は満たされていた。
余計な言葉をかわさず、己の居場所である館の皆と、花を、蝶を愛でている。これに勝る幸せがあるだろうか。
しんしんとした
ひとひら、ふたひら、盛夏の空に桜が舞い踊る。
どれほどの間桜を眺めていただろうか。
「お嬢様、咲夜さん」
美鈴の声が物思いを破った。
振り向くと、フランドールを囲み美鈴とパチュリーが桜の下に座し、重箱を広げていた。重箱の中身はお花見には付きものの食事とお酒、それにスカーレット姉妹専用の朱のワイン。準備は万端だ。
「支度、出来ましたよ。フランドール様もお待ちかねです」
「ええ、すぐ行くわ」
答え、レミリアへと手を差し伸べる。
「お嬢様、参りましょう」
「そうね」
楽しげな声が聞こえる。
桜の下ではしゃぐフランドールの声だ。
一点の曇りも無く随喜に満ちたそれに、レミリアがふと足を止めた。
「咲夜」
「何でしょうか」
「フランのあんな笑顔、久しぶりに見たわ」
「私もです。あのように笑っていらっしゃる方が素敵ですわね」
「咲夜」
「はい」
「……ありがとう」
「……勿体ないお言葉です」
そして主従は手と手を取り合って、桜の下へと向かう。
今夜の花見は、またとなく心楽しいものとなりそうだった。
(了)
めーりんじゃねーの?
美鈴、報われなくたっていいじゃない。フランの笑顔が報酬さ
訂正させていただきました。ご不快の念を招きましたこと、お詫び申し上げます。
ほのぼのした
こんなに面白い作品を読んだのは久々でした。
美鈴、少々報われなかったけど、発想が凄いよ。咲夜さんはやっぱり瀟洒だよ。妹様の可愛さは犯罪級で御座います。
仕掛けにもう一ひねり欲しかったかな……と?
でもビジュアルの美しさを十分に惹き立たせる文章で、あまり細かい事は気にせずに、素直にこの夏桜を堪能させて戴きました。
とても面白かったです。