「慧音ー。来たよー」
家の引き戸が開かれ、藤原妹紅がひょっこりと顔を出した。
「ああ、いらっしゃい」
妹紅を自宅に誘ったのは私だ。彼女はいつも一人でいる癖にとても危なっかしく、そのためたまにでいいから私のうちにこいと言っておいたのだ。
断るようならこちらから訪ねようと思っていたのだが、意外にもこうして頻繁に妹紅は顔を見せに来るので、妖怪のこともよく知っている妹紅は、私にとってもよい話し相手となってくれていた。
「はあー」
「こら、家を訪ねてきて早々に寝転ぶんじゃない」
「いいじゃない、安心して寝られるのってここだけなんだから」
納得はできなかったが、理解はできるので大目に見ることにした。しかし次にやったらしっかりと説教してやろう。そのほうが妹紅のためにもなるはずだ。
妹紅は自ら他人とは接しようとはしないが、私が見る限り、人付き合いはうまい方だ。うちを訪ねてくる子供たちとも遊んでくれていることもあるし。それもそうだろう、私とは生きてきた時間と経験の量がまったく違うのだから。
「ほら、お茶だ。菓子はちょうど父兄の方が持ってきてくださった羊羹があったから、それでいいな?」
「ありがと。あれ、慧音の分は?」
「……先ほど少し食べたからな、遠慮しておくよ」
「ふーん。じゃあ」
すぐさま手をつけようとする妹紅の手を掴む。
「きちんと手を合わせて」
妙な視線を受けながら、しかし、妥協はしない。どんな食べ物も、人の労力あってこそのもの。挨拶は何より大事なものである。
「……いただきます」
「よしよし」
二人縁側に座り茶をすする。
夕暮れ時、ヒグラシの鳴き声と橙に染まる人里は普段と同じように心を落ち着かせてくれた。
ここに居を構えて早幾星霜、景色も緩やかにだがだいぶ変化していった。
初めてここに住み始めたときと比べて、驚くほど変化があった。それらの変化をいつでも思い出せるよう、私は歴史を作っている。
この場合の歴史は事件と呼べるものでは到底ないが、しかし、未来ではこの風景すら過去になる。だからこそ、残していかなけらばならないのだ。
私は歴史を司る妖怪であり、そして歴史が好きな人間でもあるのだから。
目の前を通る道を、若い男が通り過ぎるのを見ていると、妹紅が、
「そういえば慧音が男と一緒にいることってあんまり見たことないわね。人里に長く住んでるんだから付き合ってる人がいてもおかしくないのに」
「おいおい、私は半獣だぞ」
「でも恋愛が一番身近なのは慧音だと思うのよね。巫女や魔法使いはあんなだし、妖怪は言わずもがな。私も一応人間だけれど、そういったことには興味はないし」
「ふふ、確かにな」
巫女は妖怪と戯れながら一人でのほほんと暮らしているし、魔法使いは、そもそも人間にあまり興味がないからこそあのような森で暮らしているのだろうから。
しかし、あの人間達と同じにされては困る。
「私も、恋をしたことぐらいあるさ」
「へぇっ!」
「な、なんだ」
妹紅が身を乗り出して顔を覗き込んでくるので、少し体を引いてしまった。
手に持った茶碗からちゃぽんという音がこぼれる。
「興味あるなあ。聞かせてくれない?」
「それは……」
そういった話は軽々しく周りに話すものでもないと思うし、面白いものでもないだろう。
「だめ?」
私は小さくため息をつきながら、私自身の歴史をつむぎ始めた。
私も妹紅ほどではないが、人間よりは大幅に長生きである。それにワーハクタクとなる以前は人間だったためか、恋愛に関しては他の人間と似たようなものだ。
初恋はいくつだったか忘れたが、だいぶ幼かった頃だったはずだ。そのときはうまく声をかけることすらできず、恋愛にまで発展しなかった。
他にも一度か二度はそんなことがあった。
そうした幼少時代を経て、私も成人した。そんなある日、私は一人の少年を拾ったのだ。
道端に倒れていた少年は、一目で外の世界の人間だと見当がついた。着物が幻想郷に住む者たちのものと明らかに違っていたからだ。
何かの力が働いてこちらに飛ばされて、当てもなく歩き回ったのだろう。素足で歩いたためにそこらじゅう傷だらけになっており、息はあるようだが衰弱しきっていている。
急ぎ連れ帰り、床につかせて改めて少年の顔を見てみると、まだ十も超えていないような幼子だった。これほどの状態になるまでに、一体どれほどの不安が彼を襲ったか、想像するだけで胸が痛んだ。
数日後、看病の甲斐もあり、少年は元気を取り戻した。しかし、問題はここからだった。
「ここはどこ? 僕の家は? お父さんお母さんは!?」
「恐らく……君の家もご両親も、この世界ではどこにも存在していないだろう」
うつむきながら、蚊のなくような声で私は告げた。
「どういうこと? よくわからないよ!」
「もう、お父さんやお母さんに会えないということだ」
それからはもう大変だった。なんでだどうしてだと叫び、暴れようとする少年を何とか押さえつけ、宥めながら寝かしつけたとき、すでに亥の刻が過ぎていた。
翌日から、少年はしばらく家の隅のほうに引きこもるようになり、食事もたびたび拒否した。ようやく家から出て歩き回るようになったかと思うと、どうやら自宅を探していたらしく、日が落ちたのに帰ってこないため急いで捜しに行った。
空を飛んで家に連れ戻し、少しばかり話をしようと思ったが、泣き止まないため断念せざるを得ず、できることといったら彼の着物を繕うことしかできなかった。
この状態が落ち着き始めるまで、満月が3回ほど現れただろうか。
「それでも、何とか落ち着いたんだ」
「ああ。落ち着いたというより捜しても無駄だということがわかったんだろう。こちらとしても、落ち込んだままの姿を見るのはつらかったからな。悪いとは思ったが、いくらか安堵したのも確かだよ」
「で、それからその子、どうしたの?」
「その頃はもうわたしも村の人々との交流もいくらかあったし、半獣の私の元で育てるよりも普通の人間の家庭で生活していく方がいいだろうと、その少年に相談したんだよ」
しかし、彼はこの家がいいと譲らなかった。最終的に私が折れて、彼と同居することになったのだ。
「その子、名前は?」
「桂木 光といった」
「ヒカル……綺麗な名前じゃない」
「私もそう褒めたのだが、彼はそうなのかと、首をかしげていたよ」
「よく名前の意味が分かってなかったのね」
「無理もないさ」
己の名を深く考えるには、少年はまだ幼かった。もちろん、ここがもといた世界ではなく幻想郷と呼ばれる場所だということ、両親に会えないこと、家に帰れないことも、完全には理解していなかったが、しかし、時を経るたびに、彼、光はそれらを納得し、時には私の家事を手伝いながら、順調に成長していった。
「この頃からだな、気持ちに余裕ができていたんだろう、私のことも気遣ってくれるようになったんだ」
私でも怪我はするし病気にもなる。光は当然私の事をワーハクタクと知っていたが、だからと言って接し方が他の人間と変わることは決してなかった。
私としては、他の人間と関わっていく内に、私のことを恐れて離れていくのではと思っていたこともあったために、とても嬉しかった。
例えば。
「ほら、料理ならおれが作るから慧音はゆっくり休んでいてくれ」
ことことと音を立てるなべをかき回しながら、光はそういった。
声変わりも済み、ともに暮らしていたためか私と似たような喋り方になった光は、なんだろう、体調管理等には妙に厳しかった。
だが、私も女だ。
「男性に、台所を任せるわけにも、いかない」
そういった仕事は、女が担当するべきものだ。それでなくとも、力仕事に関しては光に任せきりになってきているというのに。
「そこまでいうなら、頼まれてくれないか?」
「なにをだ?」
「これ、額から落とさないようにな」
そういって、光は私の額に濡らした布を静かにおいた。
「ご、ごまかすんじゃない」
「あまり騒ぐと落ちるぞ」
動くに動けなくなり、不満だらけではあったが、やむなく、光に任せることにせざるを得ず、そのまま横になっているしかなかった。
「ぷっ」
「わ、笑うな妹紅」
「え? はは、ここは笑うところでしょう?」
「違う!」
「慧音って昔からそんな性格だったんだね」
「どういう意味だ!」
笑われたのだ、顔が赤くなっているのもそのせいだ。間違いない。違うというのなら、全部なかったことにしてやる!
「ごめんごめん……クッ」
ゴン!
「いっ……」
「お返しだよ」
どうやら笑いが止まらないようなので、荒療治になってしまったが頭突きで直してやった。
「あうー、あいかわらずけーねの頭突きはきくわ」
「それはどうも」
一応突いたところをさすってやる。
「それで、光とはどうなったの? なんだか同棲生活みたいになってきたみたいだけど、恋愛かといわれるとねえ」
それはそうだ。いくら私が年をとるのが遅いからといっても、恋愛に発展するなど予想できるはずがなかった。なにせ、私は光の事を育てた本人であり、光のことは息子のように思っていたのだから。
決定的かどうかはわからないが、親愛から恋愛に変わったのは、あの時だろう。
ある日、隣の村から数人の男達が訪ねてきた。その者達は各々の意見を遠慮なく喋っていたのでとりあえず代表者のものに話を聞くと、
「私達の村で神隠しがおこった。このあたりでよく見かける妖怪の類と行ったらあんたくらいしかいない」と、私が人攫いを起こしたから、取り戻すついでに退治しに来たと言った。
「なにそれ、言いがかりもいいところじゃない」
「原因がわからず、しかし怪しいものが近くにいるとき、人はそれを犯人としたがる習性があるからな。私も半獣だ、昔はよくあることだったのさ」
一気に私を倒そうにも、私がどのような力を持っているかもわからないし、この家にさらわれた人間がいる可能性も考えて私を[訪ねて]来たのだろうが、皆手には武器を持ち、今にも飛び掛ってきそうな雰囲気だった。
このときばかりは村の人間も助けには来てくれない。力では何とか私が勝てるだろうが、そのときは手加減できない。満月の力がないときの私は人間とほぼ変わらないのだから。
しかし、今回は違った。
「光がかばってくれたのね」
「ああ」
「よく聞く話ではあるけれど」
「だからこそ嬉しかったんだ」
誰かを守る。そう、例えば、妖怪から人間を。妖怪から自分を。人間から自分を。
守り手はいつも自分だった。他人を守り、自分を守る。
守ってもらったのは、覚えている中で初めてだった。
武器を持った大勢の男衆をあいてに、何の武器を持たず、必死に私の事を話してくれた光。
その姿に、私は久しく忘れていた恋心というものを思い出したのだった。
「なんだか、うらやましいわね」
「そうか?」
「あーもうなにその笑い。ムカつく!」
だが、やはりそれだけでは納得してくれず、「妖怪と住むものの話など信じられるか」といわれ、さすがに武器は使われなかったが光は暴力を振るわれてしまい、体中あざだらけになってしまった。
「なんなんだあいつら……殴りたいだけ殴って帰っちまいやがった」
布団の中でうめく光。
それもそうだろう、私に文句をいいに来たはずなのに、光に当り散らしてそのまま帰ってしまったのだ。
これにはさすがの私も怒りが収まりきらず、我を忘れて弾幕をはりかけたのだが、それを止めてくれたのも、やはり光だった。
もしあのままだったら、ごっこではすまない弾幕で暴力の限りを尽くし、村からも追い出されるような惨事になってしまっていたかもしれない。
「すまない……本当にすまない」
身代わりになってしまった光に、なんと謝罪すればいいのかわからなかった。
「慧音が謝る必要なんて何一つないだろう! くそ、ふざけやがって!」
よく見ると、光は泣いていた。傷が痛むのだろうかと手を出そうとすると、
「頼む、放っておいてくれ」
今にも消えてしまいそうなか細い声で光は言った。
「悔しかったんでしょうね。慧音の前でぼろぼろになるまでやられて」
「それに、何度もいつかのように[なんでだ]と呟いていた」
光は私のためにも悔しがってくれていたのだ。なぜ、慧音なのだと。
このときほど、私は人の愛情を嬉しく思ったことはなかった。先ほどの怒りなど薄くかすんでしまうくらいに。
「もういい。泣き止んでくれ、光」
「だって、だって」
「それで私には十分だ。な?」
涙でくしゃくしゃになってしまった幼子のような顔に、私は口付けをしたのだ。
「といった感じだ」
「なに、終わり? ここからって感じじゃない」
ここからは話すことは何もない。光は人間、しかし私はワーハクタク、妖怪だ。だから、その愛情を受け取り、恋をして、それで終わりだ。私が終わらせた。それ以上踏み込んではだめだと。
真の意味での最後は、あっけないものだった。光は病が原因で46歳で死んだ。葬式を済ませたあと、鏡で自分の顔を見たけれど、随分と老けたように見えたが、やはり光とは比べ物にならないほど若いままだった。
「……そっか」
「あの老け込んだ顔は今でも思い出せる。だが、あれに達するまであと何年かかるか予想がつかないよ」
「大丈夫、私がしっかり見ててあげる」
「そうか、それは心強い」
やはり夕暮れは短い。すでに太陽は沈み、星々が姿を現し始めている。その下で妹紅はうっすらと光って見えた。
「じゃ、そろそろお暇するわ」
「またいつでもくるといい」
裏手の竹林まで見送る。
「あ、そうだ」
「?」
「その光って子の墓、どこにあるの?」
「向こうに見えるだろう。あそこの奥から3番目のがそうだ」
「わかった。またね」
そういって妹紅の姿は消えていった。
翌日、光の墓には一輪の花と、一枚の羽がひっそりと供えられていた。
私も、負けじと新しく花を供えたのは秘密だ。
家の引き戸が開かれ、藤原妹紅がひょっこりと顔を出した。
「ああ、いらっしゃい」
妹紅を自宅に誘ったのは私だ。彼女はいつも一人でいる癖にとても危なっかしく、そのためたまにでいいから私のうちにこいと言っておいたのだ。
断るようならこちらから訪ねようと思っていたのだが、意外にもこうして頻繁に妹紅は顔を見せに来るので、妖怪のこともよく知っている妹紅は、私にとってもよい話し相手となってくれていた。
「はあー」
「こら、家を訪ねてきて早々に寝転ぶんじゃない」
「いいじゃない、安心して寝られるのってここだけなんだから」
納得はできなかったが、理解はできるので大目に見ることにした。しかし次にやったらしっかりと説教してやろう。そのほうが妹紅のためにもなるはずだ。
妹紅は自ら他人とは接しようとはしないが、私が見る限り、人付き合いはうまい方だ。うちを訪ねてくる子供たちとも遊んでくれていることもあるし。それもそうだろう、私とは生きてきた時間と経験の量がまったく違うのだから。
「ほら、お茶だ。菓子はちょうど父兄の方が持ってきてくださった羊羹があったから、それでいいな?」
「ありがと。あれ、慧音の分は?」
「……先ほど少し食べたからな、遠慮しておくよ」
「ふーん。じゃあ」
すぐさま手をつけようとする妹紅の手を掴む。
「きちんと手を合わせて」
妙な視線を受けながら、しかし、妥協はしない。どんな食べ物も、人の労力あってこそのもの。挨拶は何より大事なものである。
「……いただきます」
「よしよし」
二人縁側に座り茶をすする。
夕暮れ時、ヒグラシの鳴き声と橙に染まる人里は普段と同じように心を落ち着かせてくれた。
ここに居を構えて早幾星霜、景色も緩やかにだがだいぶ変化していった。
初めてここに住み始めたときと比べて、驚くほど変化があった。それらの変化をいつでも思い出せるよう、私は歴史を作っている。
この場合の歴史は事件と呼べるものでは到底ないが、しかし、未来ではこの風景すら過去になる。だからこそ、残していかなけらばならないのだ。
私は歴史を司る妖怪であり、そして歴史が好きな人間でもあるのだから。
目の前を通る道を、若い男が通り過ぎるのを見ていると、妹紅が、
「そういえば慧音が男と一緒にいることってあんまり見たことないわね。人里に長く住んでるんだから付き合ってる人がいてもおかしくないのに」
「おいおい、私は半獣だぞ」
「でも恋愛が一番身近なのは慧音だと思うのよね。巫女や魔法使いはあんなだし、妖怪は言わずもがな。私も一応人間だけれど、そういったことには興味はないし」
「ふふ、確かにな」
巫女は妖怪と戯れながら一人でのほほんと暮らしているし、魔法使いは、そもそも人間にあまり興味がないからこそあのような森で暮らしているのだろうから。
しかし、あの人間達と同じにされては困る。
「私も、恋をしたことぐらいあるさ」
「へぇっ!」
「な、なんだ」
妹紅が身を乗り出して顔を覗き込んでくるので、少し体を引いてしまった。
手に持った茶碗からちゃぽんという音がこぼれる。
「興味あるなあ。聞かせてくれない?」
「それは……」
そういった話は軽々しく周りに話すものでもないと思うし、面白いものでもないだろう。
「だめ?」
私は小さくため息をつきながら、私自身の歴史をつむぎ始めた。
私も妹紅ほどではないが、人間よりは大幅に長生きである。それにワーハクタクとなる以前は人間だったためか、恋愛に関しては他の人間と似たようなものだ。
初恋はいくつだったか忘れたが、だいぶ幼かった頃だったはずだ。そのときはうまく声をかけることすらできず、恋愛にまで発展しなかった。
他にも一度か二度はそんなことがあった。
そうした幼少時代を経て、私も成人した。そんなある日、私は一人の少年を拾ったのだ。
道端に倒れていた少年は、一目で外の世界の人間だと見当がついた。着物が幻想郷に住む者たちのものと明らかに違っていたからだ。
何かの力が働いてこちらに飛ばされて、当てもなく歩き回ったのだろう。素足で歩いたためにそこらじゅう傷だらけになっており、息はあるようだが衰弱しきっていている。
急ぎ連れ帰り、床につかせて改めて少年の顔を見てみると、まだ十も超えていないような幼子だった。これほどの状態になるまでに、一体どれほどの不安が彼を襲ったか、想像するだけで胸が痛んだ。
数日後、看病の甲斐もあり、少年は元気を取り戻した。しかし、問題はここからだった。
「ここはどこ? 僕の家は? お父さんお母さんは!?」
「恐らく……君の家もご両親も、この世界ではどこにも存在していないだろう」
うつむきながら、蚊のなくような声で私は告げた。
「どういうこと? よくわからないよ!」
「もう、お父さんやお母さんに会えないということだ」
それからはもう大変だった。なんでだどうしてだと叫び、暴れようとする少年を何とか押さえつけ、宥めながら寝かしつけたとき、すでに亥の刻が過ぎていた。
翌日から、少年はしばらく家の隅のほうに引きこもるようになり、食事もたびたび拒否した。ようやく家から出て歩き回るようになったかと思うと、どうやら自宅を探していたらしく、日が落ちたのに帰ってこないため急いで捜しに行った。
空を飛んで家に連れ戻し、少しばかり話をしようと思ったが、泣き止まないため断念せざるを得ず、できることといったら彼の着物を繕うことしかできなかった。
この状態が落ち着き始めるまで、満月が3回ほど現れただろうか。
「それでも、何とか落ち着いたんだ」
「ああ。落ち着いたというより捜しても無駄だということがわかったんだろう。こちらとしても、落ち込んだままの姿を見るのはつらかったからな。悪いとは思ったが、いくらか安堵したのも確かだよ」
「で、それからその子、どうしたの?」
「その頃はもうわたしも村の人々との交流もいくらかあったし、半獣の私の元で育てるよりも普通の人間の家庭で生活していく方がいいだろうと、その少年に相談したんだよ」
しかし、彼はこの家がいいと譲らなかった。最終的に私が折れて、彼と同居することになったのだ。
「その子、名前は?」
「桂木 光といった」
「ヒカル……綺麗な名前じゃない」
「私もそう褒めたのだが、彼はそうなのかと、首をかしげていたよ」
「よく名前の意味が分かってなかったのね」
「無理もないさ」
己の名を深く考えるには、少年はまだ幼かった。もちろん、ここがもといた世界ではなく幻想郷と呼ばれる場所だということ、両親に会えないこと、家に帰れないことも、完全には理解していなかったが、しかし、時を経るたびに、彼、光はそれらを納得し、時には私の家事を手伝いながら、順調に成長していった。
「この頃からだな、気持ちに余裕ができていたんだろう、私のことも気遣ってくれるようになったんだ」
私でも怪我はするし病気にもなる。光は当然私の事をワーハクタクと知っていたが、だからと言って接し方が他の人間と変わることは決してなかった。
私としては、他の人間と関わっていく内に、私のことを恐れて離れていくのではと思っていたこともあったために、とても嬉しかった。
例えば。
「ほら、料理ならおれが作るから慧音はゆっくり休んでいてくれ」
ことことと音を立てるなべをかき回しながら、光はそういった。
声変わりも済み、ともに暮らしていたためか私と似たような喋り方になった光は、なんだろう、体調管理等には妙に厳しかった。
だが、私も女だ。
「男性に、台所を任せるわけにも、いかない」
そういった仕事は、女が担当するべきものだ。それでなくとも、力仕事に関しては光に任せきりになってきているというのに。
「そこまでいうなら、頼まれてくれないか?」
「なにをだ?」
「これ、額から落とさないようにな」
そういって、光は私の額に濡らした布を静かにおいた。
「ご、ごまかすんじゃない」
「あまり騒ぐと落ちるぞ」
動くに動けなくなり、不満だらけではあったが、やむなく、光に任せることにせざるを得ず、そのまま横になっているしかなかった。
「ぷっ」
「わ、笑うな妹紅」
「え? はは、ここは笑うところでしょう?」
「違う!」
「慧音って昔からそんな性格だったんだね」
「どういう意味だ!」
笑われたのだ、顔が赤くなっているのもそのせいだ。間違いない。違うというのなら、全部なかったことにしてやる!
「ごめんごめん……クッ」
ゴン!
「いっ……」
「お返しだよ」
どうやら笑いが止まらないようなので、荒療治になってしまったが頭突きで直してやった。
「あうー、あいかわらずけーねの頭突きはきくわ」
「それはどうも」
一応突いたところをさすってやる。
「それで、光とはどうなったの? なんだか同棲生活みたいになってきたみたいだけど、恋愛かといわれるとねえ」
それはそうだ。いくら私が年をとるのが遅いからといっても、恋愛に発展するなど予想できるはずがなかった。なにせ、私は光の事を育てた本人であり、光のことは息子のように思っていたのだから。
決定的かどうかはわからないが、親愛から恋愛に変わったのは、あの時だろう。
ある日、隣の村から数人の男達が訪ねてきた。その者達は各々の意見を遠慮なく喋っていたのでとりあえず代表者のものに話を聞くと、
「私達の村で神隠しがおこった。このあたりでよく見かける妖怪の類と行ったらあんたくらいしかいない」と、私が人攫いを起こしたから、取り戻すついでに退治しに来たと言った。
「なにそれ、言いがかりもいいところじゃない」
「原因がわからず、しかし怪しいものが近くにいるとき、人はそれを犯人としたがる習性があるからな。私も半獣だ、昔はよくあることだったのさ」
一気に私を倒そうにも、私がどのような力を持っているかもわからないし、この家にさらわれた人間がいる可能性も考えて私を[訪ねて]来たのだろうが、皆手には武器を持ち、今にも飛び掛ってきそうな雰囲気だった。
このときばかりは村の人間も助けには来てくれない。力では何とか私が勝てるだろうが、そのときは手加減できない。満月の力がないときの私は人間とほぼ変わらないのだから。
しかし、今回は違った。
「光がかばってくれたのね」
「ああ」
「よく聞く話ではあるけれど」
「だからこそ嬉しかったんだ」
誰かを守る。そう、例えば、妖怪から人間を。妖怪から自分を。人間から自分を。
守り手はいつも自分だった。他人を守り、自分を守る。
守ってもらったのは、覚えている中で初めてだった。
武器を持った大勢の男衆をあいてに、何の武器を持たず、必死に私の事を話してくれた光。
その姿に、私は久しく忘れていた恋心というものを思い出したのだった。
「なんだか、うらやましいわね」
「そうか?」
「あーもうなにその笑い。ムカつく!」
だが、やはりそれだけでは納得してくれず、「妖怪と住むものの話など信じられるか」といわれ、さすがに武器は使われなかったが光は暴力を振るわれてしまい、体中あざだらけになってしまった。
「なんなんだあいつら……殴りたいだけ殴って帰っちまいやがった」
布団の中でうめく光。
それもそうだろう、私に文句をいいに来たはずなのに、光に当り散らしてそのまま帰ってしまったのだ。
これにはさすがの私も怒りが収まりきらず、我を忘れて弾幕をはりかけたのだが、それを止めてくれたのも、やはり光だった。
もしあのままだったら、ごっこではすまない弾幕で暴力の限りを尽くし、村からも追い出されるような惨事になってしまっていたかもしれない。
「すまない……本当にすまない」
身代わりになってしまった光に、なんと謝罪すればいいのかわからなかった。
「慧音が謝る必要なんて何一つないだろう! くそ、ふざけやがって!」
よく見ると、光は泣いていた。傷が痛むのだろうかと手を出そうとすると、
「頼む、放っておいてくれ」
今にも消えてしまいそうなか細い声で光は言った。
「悔しかったんでしょうね。慧音の前でぼろぼろになるまでやられて」
「それに、何度もいつかのように[なんでだ]と呟いていた」
光は私のためにも悔しがってくれていたのだ。なぜ、慧音なのだと。
このときほど、私は人の愛情を嬉しく思ったことはなかった。先ほどの怒りなど薄くかすんでしまうくらいに。
「もういい。泣き止んでくれ、光」
「だって、だって」
「それで私には十分だ。な?」
涙でくしゃくしゃになってしまった幼子のような顔に、私は口付けをしたのだ。
「といった感じだ」
「なに、終わり? ここからって感じじゃない」
ここからは話すことは何もない。光は人間、しかし私はワーハクタク、妖怪だ。だから、その愛情を受け取り、恋をして、それで終わりだ。私が終わらせた。それ以上踏み込んではだめだと。
真の意味での最後は、あっけないものだった。光は病が原因で46歳で死んだ。葬式を済ませたあと、鏡で自分の顔を見たけれど、随分と老けたように見えたが、やはり光とは比べ物にならないほど若いままだった。
「……そっか」
「あの老け込んだ顔は今でも思い出せる。だが、あれに達するまであと何年かかるか予想がつかないよ」
「大丈夫、私がしっかり見ててあげる」
「そうか、それは心強い」
やはり夕暮れは短い。すでに太陽は沈み、星々が姿を現し始めている。その下で妹紅はうっすらと光って見えた。
「じゃ、そろそろお暇するわ」
「またいつでもくるといい」
裏手の竹林まで見送る。
「あ、そうだ」
「?」
「その光って子の墓、どこにあるの?」
「向こうに見えるだろう。あそこの奥から3番目のがそうだ」
「わかった。またね」
そういって妹紅の姿は消えていった。
翌日、光の墓には一輪の花と、一枚の羽がひっそりと供えられていた。
私も、負けじと新しく花を供えたのは秘密だ。
もうちょっと長い方が良かったですかね。