◆Caution!!◆
作者独自の解釈、設定を採用し、その濃度はかなり濃いので注意してください。
魔法の森の朝は、暗い。
鬱蒼と生い茂る木々が朝陽を遮り、高い湿度が森の雰囲気を陰鬱にする。
魔法の森の木々は冬でも青々としており、枯れ木など殆ど存在しない。
「魔法」の森だから、木の一本、草の一つ取っても奇妙で出鱈目なのである。
早朝には朝霧も生じる為、ただでさえ暗い森は一層の陰りを見せている。
季節が冬と言うことや、寒気も手伝って、より酷く、寂しい世界を作り上げていた。
朝が訪れても、しつこく夜の世界を引きずろうとしている……そんな空気を醸し出す。
それが、人や、力の弱い妖怪を、魔法の森が寄せ付けない要因の一つだと言っても、あながち間違いでは無いだろう。
幽かな陽光がカーテンの隙間から射し込み、暗い部屋に暖かな明かりが生まれる。
光に照らされて浮かび上がる影絵の空間。
そこは壁に据え付けられた飾り棚や、箪笥の上、本棚の上と、無数の人の形が並ぶ部屋。
この部屋だけではなく、それはこの家の至る所に存在していた。
大小、そして多様な種類の人形達。
その数は千、否、万を数えるだろうか。
そのすべてが皆女性の姿をしているのは、彼女等の生みの親、つまり製作者の趣味なのだろう。
無数の人形達が住まう、人形屋敷とでも呼べるような、そんな世界。
大量の人形達は、臆病な者には恐怖感さえ与える程の存在感を放っている。
だが、よく見ればそうではないこと気がつくだろう。
人形達は無機物でありながら生き生きとしていた。
「物にも魂が宿る」と言う言葉は、嘘ではない。
愛され、大切にされているモノには魂に近い「何か」を得るのだ。
どの人形も、作り手の愛情が込められた「生きている」人形だった。
生きている、と言っても、別に「生物のように生きている」訳ではない。
作り手であり、所有者である、この家の主人に心の底から愛されているのだった。
モノである筈の彼女達を、このように魅せる、彼女らに込められた想い。
愛情とは深く、強いものなのである。
──ここは人形達の住む家の、その奥にある一室。
可愛らしい造りの家具や小物入れが綺麗に配置された小さな部屋だ。
その部屋の奥に置かれた、洒落た造りのベッド。
頭を壁に向けて、潜る様に布団を頭まで被って、安らかな寝息を立てている人物が居る。
この家の唯一の生命であり、この家と、この家に住まう人形達の主人である。
陽が徐々に昇り、部屋に入り込む明かりが大きく強くなり始めた時。
居間にある大きな柱時計が、家の主人に目覚めの時間が来たことを、古ぼけた鐘の音で告げた。
同時に、部屋の中に涼しげな音が響き渡る。
枕元にある小さな目覚まし時計が涼しい音を立てて、主人を夢の世界から呼び戻した。
布団の中から白く細い腕が伸びて、勤めを果たす目覚まし時計を押さえ付けた。
やはり白く、綺麗な白い指がわきわきと動いて、鳴り響く目覚ましを掴むと、それを布団の中に引きずり込んでしまう。
ガチャンと小気味の良い音を立てて目覚ましの勤めを終わらせると、また布団から腕を出し、律儀に元の場所に戻した。
それから少しの間の後。
布団がもぞもぞと動き、可愛らしい、小さな欠伸が聞こえてきた。
ガバっと布団が撥ね退けられ、青いナイトキャップを目深に被った少女が欠伸をしつつ姿を現した。
寝ぼけ眼をこすり、しつこく出てくる欠伸を噛み殺して、大きく伸びをする。
艶やかな美しい金髪に、白磁の様に滑らかで、白く透き通るような美しい肌。
しなやかで均整の取れた肢体。
まるで人形のような、美しく可愛らしい少女。
この家の主人、七色の人形遣い、アリス・マーガトロイドである。
何度も欠伸をしながら、青いワンピース風のパジャマをのろのろした動作で脱いでいく。
上着を脱ぐ途中で、白いレースのキャミソールが上着に引っ掛かり、白い身体が露になりかけた。
臍から胸までが一瞬、生まれたままの姿を晒してしまう。
外気に晒されたアリスの肌はきめ細やかで、色こそ白いが病弱なイメージは無く、むしろ健康に輝いていた。
彼女は慌ててキャミソールを戻したが、ちらりと零れた桜色を見た者は棚に置かれた人形達だけだった。
寝起きで意識と身体がぼんやりとしていても、この時だけは機敏だった。
アリスはどこまでも乙女なのだ。
その後は特に何事も無く、彼女はいつもの青いドレスに着替えて洗面所へのろのろと向かった。
まだ意識がはっきりとせず、身体も気だるさにつつまれて、鈍いことこの上ない。
アリスは低血圧なので、朝は弱いのである。
洗面所にようやく辿り着き、鏡を覗き込んだのは、寝室から出た時から10分も過ぎた後だった。
アリス・マーガトロイドは魔法使いだ。
元々は人間であり、修行して魔法使いへとなった身である。
……本来、魔法使いには睡眠も食事も必要無い。
彼女は人間の身から修行して魔法使いになったので、捨食の魔法で食事を摂る必要は無くなっているのだ。
だが、アリスは食事も睡眠もする。
その、本来必要無い行為、生活を、彼女は人間の時と同じ生活をずっと続けているのだ。
実を言うと、人間の行う生活は、人間以外の者にとって、とても贅沢で魅力的なものなのだ。
人間には解りそうで、全然解らないことなのだが、人間の生活の在り方は意外と良い物なのである。
睡眠も食事も、その愉しみ、素晴らしさについて本当に理解している人間は殆ど居ない。
何とも勿体無い話だ。
そして、そのことに気が付き、それを愉しんでいるアリスは、贅沢なのである。
冷たい水で顔を洗い、眠気を落としてさっぱりした後は、髪に櫛を入れて寝癖を治していく。
寝癖を治す整髪料は自身で調合した物しか使わない。
森で手に入る薬草を煮詰めて作った、天然素材の髪に優しい代物だ。
人間の里で買えば楽に手に入るのだが、下手な物を使えばたちまち髪が台無しになってしまう。
信頼出来るものを手に入れたければ自分で作ることが一番だとアリスは考えている。
髪は女の命であると、アリスは思っていた。
そして、彼女は自分の、艶やかで美しい金髪に誇りを持っている。
それを守るのは当然だと、彼女は強く信じていた。
僅かに湿った髪に、最後に軽く櫛で梳かしながら、アリスは以前に香霖堂で見かけた外の世界の道具を思い出した。
それは温風で髪を乾かす機械だった。
髪をすぐに乾かせると聞けば便利そうだが、そんな物を使えば髪が傷んでしまうとアリスは思った。
その道具のことを思い出し、自分は絶対に使うまいと、アリスは改めて思ったのだった。
髪を整えて、ヘッドドレスをつけると、アリスは鏡の前で微笑んだ。
乱れ無し、今日もいつもの自分だ。
朝のこの瞬間は、身嗜みを整えるのと同時に自身の健康をチェックする作業も兼ねている。
体調は、良好。
肌の色も問題無い。
すべてを終えると、アリスは台所へと向かった。
朝食の準備の為だ。
アリスは台所の中央に立つと、短く深呼吸をすると、ごく小さな声で素早く呪文を唱えた。
唱え終わると、アリスの指先に魔法の光が燈り、魔力で編まれた幾条もの細い糸が指先に顕現する。
そして彼女が指を動かすと、一瞬の間をおいて、家の奥の方から無数の人形達が飛んで来た。
人形達はそれぞれが凝った刺繍やフリルのついたエプロンを身に付けていた。
中には割烹着姿の人形も居り、そのバリエーションは見る者を飽きさせない。
アリスの指先から伸びる糸は、一本一本に彼女の意思を人形に伝える機能を持っている。
この糸で人形を操作するのだが、別に糸そのものを操作する必要は無い。
糸は魔法で動くからだ。
彼女が指を動かすのは昔からの癖と、見た目の為である。
アリスの人形達は通常、命令を与えればその内容を忠実に、かなりの精度でこなす事が出来る。
現に、料理担当以外の別の人形達は既に与えられた命令「掃除、洗濯」を家の各所で始めている。
だが、料理のように微妙な加減が必要な「職人的な動作」をこなすことは未だ不可能だった。
だから、作業内容によっては直接操者が命令を下し操作せねばならない。
この、欠点と言える点を改善し、より精度の高い作業をこなせる人形を作ることが現在のアリスの目標だった。
そして、それらを克服した上で、完全自律型の人形を作成することが、アリスの最大の夢であり真の目標なのだ。
アリスが指先を動かすと、彼女の意思が人形達に伝わり、人形達はそれぞれの配置に付いて行く。
おたまや鍋、フライパンと調理器具を器用に操り、運ばれてくる野菜や肉を鮮やかに調理していった。
人形達に分担で作業させているが、料理の腕はアリス自身のものである。
指先が器用なアリスは、料理も得意なのだ。
料理はたちまち完成し、豪華な朝食が食卓に並んだ。
和と洋が混ざった、外の世界では流行らしいメニューだ。
そして、白い茶碗に盛られた、ほかほかと湯気を立てる白米と、朱塗りのお椀からやはり湯気を立てている味噌汁。
今朝のメニューはハムエッグにほうれん草の炒め物だ。
更に、新鮮な野菜たっぷりのサラダと、胡瓜の漬物も用意する。
ほんのりと漂う、食欲を誘う香りがアリスの鼻をくすぐった。
アリスは料理の出来に満足すると、早速食事にすることにする。
一口一口、良く噛み、味わって朝の食事を愉しんだ。
朝はゆっくり過ごしてから動くのがいい。
忙しなく動き回るのは、朝方の穏やかな空気に失礼だとアリスは思うのだった。
食後、アリスは勤めを果たした人形達に感謝の意を込めて、彼女等の手入れを始めた。
道具を扱う者は、その道具を大切にしなければならない。
──アリスは、人形達を物として大事に扱っていた。
それは主と道具の関係として、これ以上無いほどの関係だ。
道具は道具として、その与えられた存在意義を最大限に尊重する。
それがアリスの「物に対する愛情」だった。
物に与えられた存在意義。
それが物理的な奉仕であっても、心を癒す愛玩の対象としてでも、それは役目に違い無い。
そして、彼等が与えられた使命をこなせば、それに感謝をするのは当然だとアリスは考える。
生きているかいないか等は関係無い。
誰かから、何かから、自分が何らかの施しを受ければ感謝するのが当然だとアリスは思うのだった。
時刻が正午を過ぎ、昼食を摂った後。
アリスは日課である人形制作に没頭していた。
今は人形達に着せる衣服を縫っている。
彼女の人形が纏う衣服は、すべて彼女の手作りであり、そのすべてが手縫いだった。
機械を使えば早く、効率も良く作業が進むのだが、アリスはそれを使おうとはしなかった。
────人間と違い、魔法使いに寿命の概念は殆ど存在しない。
殺されたりでもしない限り、死ぬことはそうそう無い。
彼女にとって、時間は無限に存在していると言えるのだ。
その無限の時間、特に急ぐ意味も必要も無い。
機械を使った早い作業よりも、手で直接時間をかけて行う作業の方が、アリスは好きだった。
彼女は長く時間をかける行為を好んでいた。
何しろ時間は無制限にある。
それが、無限の時のもたらす退屈をしのぐ為の、無意識の行為だとも気付かずに。
作業に没頭している内に陽は落ち、夜の帳が降りて来る。
アリスは手を止めると、立ち上がって伸びをし、肩をほぐして、人形に紅茶を淹れさせた。
美味しそうな香りが鼻腔をくすぐり、昼から今まで何も飲んでいなかったことをアリスに思い出せた。
柔らかな唇をカップにつけて、火傷しないように少しずつ啜っていく。
熱い液体が喉を通り、身体がほっと熱くなる。
気付かない内に大分身体が冷えていたようだ。
熱い紅茶の味が舌にも身体にも心地好い。
不意に、寒気がアリスを襲う。
冬の夜の寒風が家の中に入り込んでいたのだ。
人形達が換気の為に開け放した窓を閉じ、カーテンを引いて夜に備えることにした。
アリスの指示で家中の人形達が一斉に夜へ向けて戸締りをし始める。
暗くなった外を見て、アリスはあることを思い出した。
月にニ、三度、博麗神社で開かれる宴会が、今夜あるのだ。
毎度毎度、変わり者の人間やら妖怪やら亡霊やらが集まって馬鹿騒ぎするだけの集まり。
だが、それが楽しくて価値のあることだとアリスは知っている。
きっと楽しいだろう。
行けば皆と楽しく酒を飲み交わし、料理を食べ、面白可笑しく過ごせるに違いない。
しかし。
アリスに宴会へ出掛ける気は無かった。
彼女も宴会に呼ばれていたが、それは前回の参加者全員に呼び掛けられた、云わば社交辞令である。
特に、彼女が参加しなければならないと言われているわけではなかった。
要するに、行かなくてはならない理由は無いのだ。
アリス自身も、特に行きたいとは思っていなかった。
行きたくないわけではないのだが、行きたいと思うほどでもない。
──それに、自分が行かずとも宴会は滞り無く進むと思う。
そこに私が居る必要性は皆無だ。
そう、アリスは考えた。
自分は必要無い。
誰からも求められていない。
居ても居なくても関係の無い存在、それが自分。
別に、それが悲しいとは思わない。
今までずっと一人でこうしてきた。
悲しいとか辛いとか、そんな感情は枯れてしまったと思う。
ただ、たとえ悲しくなくても辛くなくても、自分が不要な場所に自分を置いて、面白いわけが無い。
行っても惨めな思いをするだけだ。
だから、行かない。
道具と同じだ。
必要の無い存在は、必要とされない場所に存在してはならない。
無意味だ。
不必要だ。
無価値だ。
そんな場所に、自分を置く必要など無いのだ。
自分の居場所はこの家だけ。
それでいい。
飲みかけの冷めた紅茶を啜り、今この瞬間にも神社へと集まっている者達のことを思い浮かべてみる。
その中に、自分が会いたいとも、話したいとも思う者はいない。
あそこに居る者達に自分は必要とされていないし、自分も必要としていない。
孤独な女だと言えば聞こえは悪いが、今までずっと一人で居た自分にとってそれは自然なことだと思う。
誰とも深く関わらないし、関わろうとも思わない。
一人で居ることは彼女にとって当たり前なのだ。
今更変わるとは思えないし、変わるつもりも無かった。
誰からも必要とされず、誰も必要としない。
それが自分、アリス・マーガトロイドと言う魔法使いだと、アリスは結論付けた。
それからアリスは、宴会のことを忘れて、作業を続けることにした。
後一時間ほどしたら、夕食の支度を始めなければと考えながら、人形のドレスを編み上げて行く。
冷めた紅茶も飲み干し、切りのいい所まで作業を進めようと考えた時、カタカタと言う物音にアリスは顔を上げた。
風が窓を叩く音だ。
木々は枝を大きくざわめかせていて、強めの風が吹き始めたことをアリスに教える。
今夜は冷え込むかも知れない。
人形達に暖房の準備をさせる為、アリスは作業を中断し、人形達に指示を出していくのだった。
ある日の昼下がり。
何時もの様に日課である人形作り──この日はぬいぐるみだった──に精を出している最中のことだった。
不意に、アリスの耳に、彼女の集中を乱す雑音が飛び込んで来た。
コンコンと乾いた音が規則的に響いて来る。
家の扉を叩く音だ。
それはこの家を訪ねて来た来客が、自身の到着をこの家の主に伝える行為。
アリスは作業を中断し、目だけで壁に掛かっているカレンダーを見る。
そして今日の日付を確認すると、アリスは眉を顰め、溜息を漏らした。
家の外からは、早くも応対を要求する声が聞こえてきていた。
澄んだ、よく通る少女の声。
幻想郷に住まう者なら、一度以上は必ず聞くことになるその声の持ち主の名は、博麗 霊夢。
鮮やかな紅白の衣装を身に纏った少女は、アリスが顔を出すのを少しだけ不機嫌そうな顔で待っていた。
魔法の森は人も妖怪も寄せ付けないが、それが絶対と言うことは無い。
傲慢で、強い妖怪は割と普通に入って来れるし、迷い人は迷ったから迷い込む。
そして、普通の人間も、普通では無い人間も、やはりやって来る。
普通の人間に至っては、魔法の森に住んでさえいるほどだ。
多少なりとも人妖の出入りがある魔法の森だから、そこに住むアリスの家にも当然、そこそこの人妖の出入りはあった。
迷い人が自分の家に迷い込んで来た事は以前にもあったし、身の程知らずの駆け出し魔法使いが喧嘩を売りに来る事もある。
それはさして珍しいことでも無いが、滅多にある事でも無いので、それについてアリスは何の疑問も持っていなかった。
だが……「客」となると話が別になる。
彼女にとって「客」とは、彼女に「いきなり事を構えに来た」以外で用事があって訪ねて来るものを指す。
また、彼女の作る人形を目当てに来る「客」とも違う。
人形が目的の相手は、アリスの中では、また別の分類として分けられている。
彼女にとっての「客」は、悪意のある訪問と、人形関連──所謂ビジネス目的以外の目的で訪れるものを指すのだ。
──そして、そのような相手は、自分にはいないと彼女は考えていた。
利害関係以外で自分と関わり合いを持ったり、自分を必要とする存在など居る筈がないとアリスは思っている。
故に、自分目当ての来客があると、アリスはまるで天然記念物か絶滅危惧種に遭遇したかのような気持ちになるのだ。
彼女にとって、来客とは自分に縁の無い、夢の世界の住人のような意味合いの言葉だった。
親交と呼べるほどの付き合いのある相手が、アリスにはいない。
少なくとも、彼女自身はそう信じている。
それだけに、週に一度、必ず彼女の家に訪ねて来るこの少女に、アリスは強い戸惑いを抱いていた。
何故、この少女は自分に会いに来るのだろうか?
上がり込むなり、当然のようにお茶と菓子を要求して来た霊夢に、律儀にも対応しながらアリスは考えていた。
霊夢とは古くからの知り合いだが、友人関係と呼べるほど深く付き合っているつもりは無い。
単なる顔見知り……そう考えるのが妥当だと、アリスは考えていた。
そんな関係の筈の霊夢が、何故、週に一度、こうして自分を訪ねて来るのか?
アリスにはそれが解らなかった。
ただ。
霊夢が訪ねて来る事を、アリスは不快に思うことは無かった。
くすぐったいような、不思議な感覚。
どう対処していいのかが解らない、釈然としない気持ち。
この気持ちを、アリスは理解出来ずにもどかしく思いながらも、心のどこかで心地良く感じていた。
霊夢の、暖かな微笑や、時折見せる優しさが、アリスを暖かい気持ちにさせる。
彼女といると、心が安らぐ。
安心感にも似た、奇妙な気持ち。
どこか満ち足りた気がするこの時間が、アリスは好きだった。
この気持ちの正体こそ解らないが、それは些細な問題に感じられる。
胸に渦巻く気持ちの正体が解らぬまま、今日もアリスは霊夢とお茶を飲んで過ごすのだった。
規則正しい生活と言うものは、何かに縛られた者がする行為だ。
例えば、決められた時間に起床すると言う行為は、時間に縛られていると言えるだろう。
そもそも「規則」正しいと言う言葉自体が、規則、即ちルールに縛られると言うことを意味している。
規則正しい生活をしないと言うことは、何かに縛られることから脱却したと言えなくもない。
人の理から脱したアリスが、朝の決まった時間に、目覚ましを掛けてまで起床する必要は無いのだ。
だが、今日も目覚まし時計は、定められた起床の時刻が来たことを主に伝える為、その勤めを果たす。
アリスはいつものように目覚ましを止め、のろのろとベッドから這い出て着替えを始める。
彼女が時間を決めて起きるのは、彼女の、彼女が決めた考えの為だ。
時間に追われているわけではないが、寝坊して時間を無為に使うことも無いと思っているのである。
別に、昼間は寝て、夜に起き出しても構わないのだが、彼女は朝起きて夜に寝ることに拘った。
そうしないのは人間時代の名残だろうか。
規則正しくは無く、自分の決めた規則に従って動く自分。
自分に従う自分は果たして本当に自由なのだろうか?
寝惚けた頭でそんなことを考えながら、アリスの一日は始まる。
◆
本当に、すべてに、何にも縛られない為にはどうすればいいのだろうか?
その答えは単純で、残酷で、望む者には魅惑的。
…………それは、自分を消してしまうこと。
◆
その日、アリスは久し振りに外へ行こうと考えていた。
アリスの夢は完全自律する人形を作り上げることだ。
操者を必要とせず、与えられた命令を遂行する為に自ら思考し行動する、完全なる従僕。
あらゆる命令を完璧にこなし、機械の精密さと生きている者の持つ匠の業を行使出来る、究極の人形。
その完成は未だ遠く、ヒントすら見えていない状況だったが、彼女はめげずに研究と試行の日々を過ごしていた。
自らが所有する、膨大な量の資料を読み解くことも、目標へ到る為の一つの手段だった。
だがアリスは、最近になってその作業に限界を感じ始めていた。
魔法使いの所有する書物の量は、人智を超えるものがある。
それは人間の魔法使いであっても生粋の魔女であっても変わらない。
だが、蔵書の量には個人差がある。
アリスは自分の持つ、人形に関する資料が尽きかけている事を知っていた。
また、気分転換も必要だと感じてもいた。
いつまでも同じ状態では心身共にくたびれてしまうのは人間であっても魔法使いであっても変わらない。
このままでは作業が滞ってしまう。
そこでアリスは、暫くの間、資料集めに精を出すことにした。
彼女は幻想郷でも屈指の蒐集家である。
欲しいものがあればどこまでも追いかけるし、また、欲しいものを見つける才能も並外れていた。
欲しいものは手に入れる。
その為ならば全力を尽くすのだ。
資料探しと同時に、動き回ることで気分も晴れるだろう。
一石二鳥だとアリスは思う。
彼女は決意を固めると、家を勢い良く飛び出した。
久し振りの外出に、興奮しているのかも知れないと、アリスは思うのだった。
アリスは先ず、操者無しで動く人形がいるという噂がある鈴蘭畑へと足を運ぶことにした。
その人形は操者無しで動き、更には自分で考え行動すると言う。
以前から興味があったので、この機会に確かめてみようと思ったのだ。
期待に胸を膨らませ、アリスは鈴蘭畑を目指して、冷たい風を切り、飛んで行った。
聞いた通りの道程を辿り、正午過ぎにアリスは鈴蘭畑の丘に辿り着いた。
魔法の森からの距離は、それほど離れてはいないのだが、予想外に時間が掛かったことにアリスは軽く憤った。
魔理沙からの情報だったが、やはり彼女を信用したのが間違いだったのか。
この分では、噂の人形の存在も怪しいというものだと、アリスは思った。
アリスは苛々した気持ちを何とか押さえ付けると、周囲を軽く見回してみた。
降り立つ前から解ってはいたが、見渡す限り緑一色だ。
鈴蘭の花の白はどこにも無い。
彼女は最初、場所を間違えたかと思った。
だが、落ち着いて考えると、冬に鈴蘭の花が咲いているわけが無い。
改めて周囲を見渡すと、なるほど、足元の植物は皆鈴蘭だった。
どうやら場所に間違いは無さそうだった。
まだ少し残っている苛立った気分を切り替えると、早速周囲を歩き回ってみることにしたのだった。
暫く周囲を歩き回っていると、遠くに白い色が見つけることが出来た。
……鈴蘭の花である。
季節は冬だったが、如何なる道理か、鈴蘭の花は美しく咲いているのである。
咲いている範囲こそ小さな規模だったが、それなりの力を持つ者が、そこに存在することの証明としては十分だ。
目当ての人形が近い事が解ると、アリスは迷うこと無く、鈴蘭が咲き誇る領域へと足を踏み入れて行った。
いくらも歩かぬ内に、アリスは件の存在、メディスン・メランコリーに出会うことが出来た。
鈴蘭の花の中で、無邪気に転がったり踊ったりして遊んでいたので、アリスは苦も無く彼女を見つけることが出来たのだ。
可愛らしい、少女の姿を模った人形だ。
一見すると人形には見えないが、アリスには彼女が人形だとすぐに解った。
メディスンの中にある魂が、妖力を纏って人の姿に化けているのだ。
その妖力のおかげか、メディスンは人形らしからぬ命の輝きを放っていた。
彼女は一つの生命、妖怪と呼んでも差し支えないだろう。
外見は、恐らく10代に入るか否かと言った位の少女を模している。
光沢のある綺麗な金髪に、真紅のリボンが良く似合っていた。
全体的に暗めの色調の衣服が、周囲に咲く鈴蘭の白のおかげで印象的に映えており、アリスの美的感覚を上機嫌にする。
しげしげと自分を見つめてくるアリスに対し、彼女の存在に気付いたメディスンは無言のまま後退りした。
見知らぬ相手が突然自分の領域に現れたのだから、当然の反応だろう。
邪念の無い瞳を警戒の色で薄く染め上げて、メディスンはアリスをじっと見つめていた。
メディスンの表情にありありと浮かぶ警戒の色を見て、アリスは彼女の心情をすぐに悟った。
普通、知らない相手が突然目の前に現れれば警戒するのが当然だ。
それをしないのは、思考が余程おめでたく出来ているか、馬鹿のどちらかだろう。
……このまま警戒されて逃げられてしまうのは不味い。
労力が無駄になるし、再び彼女に会うのも難しくなってしまう。
攻撃でもされたら更に面倒だ。
──この出会いを良いものして、今後起こり得るトラブルを発生させないようにする。
アリスはそう結論すると、努めて優しい表情を浮かべて、驚かせたことを先ず謝った。
幼い相手に接するのは苦手だな、とアリスは思ったが、それは表に出さず、微笑んでみせた。
実際、メディスンには会いたかったのだし、それが叶って嬉しかったので、その笑みが作り笑いにならずに済んだのは幸いだった。
突然現れて驚かせたことを詫び、自分はたまたま迷い込んでしまったと言うことを努めて優しく丁寧に説明した。
それは嘘だったが、双方、要らぬ警戒や争いを回避する為の必要悪だとアリスは思っていた。
アリスなりの優しさである。
彼女は事前の情報で、このメディスンはまだ生まれたばかりの存在で、知識や経験が幼いと知っていたのだ。
ならば、いたずらに刺激しないよう、必要の無い情報は与えないことにしようにしようと考えたのである。
アリスの配慮の甲斐があってか、メディスンはアリスを信用したようだった。
そしてメディスンは警戒を解くと、アリスに向かって微笑んでみせた。
巧く彼女の警戒を解き、打ち解けられたことに、アリスは内心でガッツポーズを取った。
人付き合いは苦手だが人形相手はお手の物なのだ。
暫く会話をしている内に、メディスンと打ち解けたアリスは、メディスンを仔細に観察し始めた。
無邪気に笑い、踊り回るメディスンの調子に合わせながら、彼女の外から内まで、可能な限りの正確さで調べて行った。
その身体、動力となっているもの、魂の形、彼女に使われている技術等等。
霊視や魔力感知の魔法、探査系の魔法を、メディスンに見つからない様に高速で展開、起動して行く。
また、メディスンが懐いてきた為、彼女の口からも情報を得ることが出来そうだった。
メディスンがこうもあっさりと懐いたのは、人形遣いであるアリスならではのことだろう。
はしゃぎ回るメディスンに適当に付き合いながら、アリスは興味の赴くままにメディスンを観察し、調べ上げていった。
空が赤く染まり、夜の帳が落ちかけた頃。
魔法の森を目指して飛ぶアリスの表情は失望に曇っていた。
……メディスンに出会ったのは時間の無駄だった。
彼女は、メディスンはアリスの目指す「自律稼動する人形」とは程遠い存在だと思ったからだった。
理由は二つ。
一つは、彼女を動かし、命を与えた毒の存在。
アリスが目指す人形の完成形は、精巧な技術と魔法の合わさった、完璧なメカニズムの結晶だ。
独自の理論と技術で動き、その構造、システムはアリスに完全に把握されていなければならない。
毒と言う、魔法も理論も無いもので動く人形など、アリスの作ろうとする人形の参考にはならない。
時間をかければ、毒の秘密も解るかも知れない。
だが、それはアリスの導き出したシステムとは言えない。
自分自身の手で導き開発したものでなくては認められない。
要するに、得体の知れない、かつ自分が関わらない存在で動くものを、自分の作品に取り入れたくないと言うことだ。
彼女の、人形師としてのプライドがそれを許さないのだ。
──それよりも、二つ目の理由の方が彼女にとっては大きかった。
それは、メディスンの言葉だった。
彼女は人形の解放を目指していると語った。
解放、それは即ち「人形」の、「主」からの離反、造反に他ならない。
人形は、道具だ。
物だ。
どんなに言葉を尽くそうと、これは変わらない。
そしてアリスは、その道具達を愛し、大切にしている。
主と道具の理想形。
道具は主に従うものであり、それが存在価値なのだ。
それを否定するメディスンの考えに、アリスは憤りを感じた。
彼女に対してではなく、その言葉の意味するところ、即ち主と道具の関係の破壊に対してだ。
道具──人形は、主に従ってこそ人形たりえるのである。
たとえ自律して動けたとしても、主の命に背くような存在は最早、道具でも人形でもない。
それはアリスが求めるものとは完全に違うものだ。
アリスにとって、メディスンは研究対象としての価値はゼロとなった。
彼女を形作る技術も、自分の技術よりも低いもので参考にはならなかった。
悪い相手では無いので、会えばまた話もするだろうが、アリスから会いに行くことも話しかけることも、今後無いだろう。
完全に興味を無くしたアリスは、鈴蘭の花を観賞出来たことをせめてもの成果として、次の行き先を考えることにしたのだった。
アリスが鈴蘭畑から帰った翌日に足を運ぶことにしたのは、魔女、パチュリー・ノーレッジの住まう魔法図書館だった。
蔵書が豊富に過ぎる魔法図書館ならば、アリスの目当ての品が見つかるかも知れないと踏んだのだ。
恐らくパチュリーは、蔵書を譲ってくれることは無いだろうが、閲覧するだけならば大丈夫だろう。
閲覧も出来ないのに図書館では、名前が泣くと言うものだ。
勝手に結論付けると、アリスは図書館へと向かった。
事情を説明すると、紅魔館の門番である紅 美鈴はアリスをあっさりと通してくれた。
美鈴と話している最中に、いつも門前で弾幕勝負を始める魔理沙の顔が浮かび、アリスは苦笑いした。
礼節を持ってきちんと話せば、解らない相手でもないのだから、一々強引に押し通る必要は無いのだ。
魔理沙のせいで要らぬ仕事を増やしている美鈴に、アリスは軽く同情しつつ奥へと歩を進めるのだった。
図書館に着くと、すぐさまアリスは、用件をパチュリーに話した。
話を聞いたパチュリーは、アリスが求めている、人形に関する記述のある魔道書の棚に彼女を案内してくれた。
意外にも親切なパチュリーの態度に軽く驚きながら、アリスは大量の蔵書が納まる本棚の森を歩いて行く。
目的の区画に辿り着くと、パチュリーが軽く手を打ち鳴らした。
すると、アリスの正面に見える本棚の影から、この図書館に住まう小悪魔がヒョッコリとその姿を現した。
小悪魔はパチュリーから指示を受けると、アリスに協力すると言ってきた。
アリスはパチュリーの計らいに感謝すると、本を探す箇所の分担を小悪魔と話し合って決めていく。
分担する箇所を決めると、アリスと小悪魔は必要な資料の選別に没頭していった。
――それから数時間。
アリスが何十冊目かの本を開いた時だった。
彼女の隣で選別作業を手伝っていた小悪魔が、一冊の本を差し出してきた。
それは薄汚れた緑色の表紙で、ページもかなり劣化していたが、そこは魔道書。
魔力でコーティングされた本はまだまだ読める状態にあった。
アリスは小悪魔から本を受け取ると、早速ページを捲って中を検めた。
ボロボロのページを何枚か捲った時。
彼女の目に、「自律する人形」の記述が飛び込んで来る。
それこそは、アリスが求めて止まない、人形の記述だった。
アリスは興奮した。
そこに書かれた内容は、アリスの中に存在していた理論を根底から覆すものばかりだった。
本のタイトルは「完全なる従者の誕生」。
人形の作り方、必要な儀式、魔法、それらの詳しい方法がいくつも記載され、アリスはたちまち夢中になった。
もっと詳しく、じっくりと読みたい。
その旨をパチュリーに伝えると、あっさりと持ち出しの許可を出してくれた。
どうやらアリスは魔理沙よりも信用されているらしい。
アリスはパチュリーに何度も礼を言い、愉悦の表情を隠そうともせずに、図書館を後にしたのだった。
その日から、アリスは家に閉じ篭りがちになった。
図書館から借りてきた本を読み、研究をすることに無我夢中になったのだ。
食べることも寝ることも忘れ、狂ったように研究を続けて行く。
そうさせるだけの魅力が、力が、この本にはあった。
完全な自立型人形を完成させることさえ出来れば、他はどうでも良く感じられたのだ。
本の内容は全能ではなかったが、今まで集めてきた知識を合わせれば新たな位階へと進める事は確信出来る。
魔法使いとして、人形師として、何より自分の中にある望みと夢が叶う。
それが、アリスを狂的に研究と試行の日々に駆り立てるのだ。
家から一歩も出ずに、誰とも口を聞かず、関わらず、アリスは研究に没頭した。
他人が入り込む余地など、無い。
邪魔なだけだ。
それに……。
……どうせ自分は、自分以外には無価値な存在なのだから。
必要とされていない自分が、わざわざ別の場所に行く必要は無い。
自分が必要とされること、それは他者との繋がり。
自分はそれを持っていないと信じているアリスに、価値のある場所など無かった。
本の内容は、基本的な人形の設計に始まり、超人的な技術の記述まで、人形制作の奥義とも呼べるものばかりだった。
愛玩用のぬいぐるみに、観賞用の精巧な人形、からくりを仕込んだもの、戦闘や暗殺など、外法な目的の為の人形。
人形の種類ごとにそれぞれの奥義が正確に記され、アリスは深い感銘を受けた。
人形制作の技術には詳しいつもりだったが、更に奥があることをアリスは思い知らされた。
だが、それほどの本でも、残念ながらアリスが目指す「完全自律型人形」の製法は記載されていなかった。
しかし、目指すものへのヒントと成り得る情報は、彼女が過去に出会ったどんな資料よりも有力で、量も豊富だった。
その中でも、特にアリスの印象に残ったものがある。
気に入ったわけではなく、気に入らない方法だった。
自律型を作るにはある意味で最も簡単な方法だったが、その方法と、結果、生み出されるものに強い嫌悪感を抱いたのだ。
それは、魔法で生物の精神を破壊、もしくは封印し、その生物に捨食の魔法をかけ、その上で特別な魔法をかけることで完成する。
特別な魔法とは、対象に他者からの命令を受諾、実行させるもので、ある種の洗脳に近い物だ。
これをかけられると対象の意志は消え去り、言われたことをするだけの操り人形と化してしまう。
本によれば、昔の魔法使いが自分の家を守る為に、掴まえた人間や妖怪にこれを施して衛兵として起用していたらしい。
与えられた命令を忠実に実行する上、身体が身体だけに「人間的な」要求を満たせる便利な代物らしかった。
更に最大の利点として、生き物、人間で言うならば主人に対する忠誠心を植え付けることが可能だった。
これによって、より確実に命令を実行させられる能力を付加出来るのだ。
加えて洗脳状態の心に高度分析能力を付与する魔法をかけておけば、この人形は完全となる。
与えられた目標を遂行する為に自ら思考し、行動させることが出来るようになるのだ。
それは文字通りの完全自律行動のシステムを完成させた、一つの理想形だった。
忠誠心と分析能力により、与えられた目標の完遂に向けて思考し、完璧以上の結果を導き出すのだ。
ただ、ボディに生体を使用している為、破損時の補修や管理調整に難があるのが欠点だった。
扱いが普通の人形と違い、どうしても面倒になってしまうのだ。
完全自律型と言えど、万能ではないのである。
だが、その欠点に関して、アリスが特に気にすることはなかった。
思考させられるのなら、管理調整の為の知識と技術を教えてやればいいのだ。
教育の手間は掛かるが、これなら調整の難しさと面倒さをある程度緩和出来る。
万能にはならないが、それに近い「万能のつもり」は達成出来るのだ。
そもそも万能など存在し得ない、と言うのがアリスの持論だった。
万能なものが存在するなら、すべてのものが無価値で無意味なものに成り下がる。
そんな存在が許されるわけは無い。
許す許さないなど哲学的な話を持ち出さずとも、そんなものは絶対に存在しないのだから、この話自体が意味を持たない。
ともかく、この「人形」の持つ欠点を、アリスは気にしなかった。
もっとも、この方法を自分がとることは無いだろう、とアリスは思ったので、このことについては忘れることにした。
生きている者を玩具にするような真似はしたくなかったし、手間も労力も自分の手に負えるものではない。
何より、単純に好みで無いというのが最大の理由だった。
ただ、仮に、この方法で作られた人形が手に入ったとしたら、他の人形達と同じように扱う気ではいた。
生まれはどうあれ、素材が何であれ、人形に変わりは無いのだから。
ただ、手に入ることは多分無いだろうし、作るつもりも無論、無い。
どうでもいい話ではあるし、忘れるつもりの話題でもあったが、アリスは律儀にそんなことを思うのだった。
自分でも細かい性格だな、と苦笑しつつ、アリスは研究を続けることにした。
無心に本のページを捲っていると、遠くに自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がして、アリスは顔を上げた。
視界が一瞬、眩む。
本ばかり読んだり研究ばかりして、眼が近くの物を見ることに慣れ過ぎていたのだ。
距離感を掴むのに、一瞬だが間を空けてしまう。
ようやく、通常の視力が戻って来ると、アリスは声がした方に向き直る。
そこには、仏頂面でこちらを睨んでいる霊夢の姿があった。
先程の声は霊夢だったのかと、アリスは呆けた表情で霊夢を見る。
霊夢は不機嫌な表情で、自分が何度も呼びかけたのに気付かず本を読み耽っていたアリスを責めた。
夢中になっていて気が付けなかったのだ。
アリスは素直に霊夢に謝り、霊夢もそれを受け入れてその場は治まった。
その後は特に何事も無く、二人はいつもの様に過ごした。
やがて陽は落ち、空が赤く染まる頃。
霊夢は帰り際に、二日後に神社で宴会があると言い残し、去っていった。
去っていく霊夢の姿を見送るアリスの瞳には、どこか冷たい光が宿っていた。
──その夜。
アリスの家から、明かりが消えることは無かった。
そして二日後。
アリスは宴会の席に現れ無かった。
次の日も、その次の日も、アリスは家から一歩も出ず、誰も彼女の姿を見ることは、無かった。
魔法の森の静寂を、異音が引き裂く。
硝子の割れ散る音に、陶器が砕ける音。
小さな破裂、否、爆発音に、何か木材が圧し折れる不快な音。
悲鳴と、怒号。
ヒステリックに叫ぶ少女の声と、やり場の無い怒りで染まった少女の声が、互いを罵り合い、その度に何かが爆ぜる音が響き渡る。
音と声の正体は、アリスと霊夢の二人だ。
アリスの家の壁を壊し、家の中と外で弾幕の応酬を繰り広げているのである。
アリスの顔には、狂気に近い表情が浮かび、裏返りそうなほどに声を張り上げて霊夢に罵詈雑言の限りをまくし立てた。
対する霊夢も、怒りに染まったその形相は、まるで鬼の様だ。
アリスを罵り、拳を振り上げ大地を踏み鳴らす。
喧嘩である。
二人の少女はいがみ合い、敵意を剥き出しにして暴れていた。
怒りで甲高くなった声でアリスが人形達に命令を下すと、彼女の周囲に浮かぶ人形達が密集隊形を組む。
アリスは全力を出すことを嫌う性格だが、彼女から滲み出る怒りと殺気は本気そのものだった。
主人の命令を忠実に実行する人形達が、霊夢に向けて一斉に魔力弾やレーザーを放ち、手にした武器を構えて突撃を掛けた。
しかし、人形達が行動を起こす前に、霊夢の放った無数の針が飛び道具を放つ人形すべてに突き刺さる。
発射口を潰され、あるいは射角と弾道をずらされ、人形達は吹き飛び、壊れ、叩き落されてしまう。
近接戦を挑んだ人形達も、針や御札の弾幕に尽く撃墜され、運良く弾幕を抜け切った人形も蹴りや突きで撃破された。
一切の無駄も無く、アリスの攻撃は完璧に防がれてしまう。
怒りの表情の裏に、極めて冷静な思考が、霊夢の表情に隠されている。
アリスの行動を先読みし、的確に捌いているのだ。
それが、アリスを更に激昂させる。
爆炎が草木を焦がし、霊力弾が大地を穿つ。
互いに攻撃する度に、相手を罵倒し、その度に興奮し、怒りの炎を大きくしていく。
アリスの攻撃を捌き切った霊夢が、牽制の霊力弾を十数発放つ。
向かって来る霊力弾を、アリスは魔力弾で迎撃した。
いくつかは相殺したが、数発が捌き切れず、アリスの周囲に着弾し、土砂を巻き上げる。
自分の攻撃は尽く潰され、相手の攻撃はこうも自分の防御を突き破る……。
気に入らない!!
思い通りにならず、アリスは怒りのボルテージを更に増した。
霊夢に向けて、ヒステリックに喚き散らしながら魔力の衝撃波を叩き付ける。
術式も法も無い、感情のままに繰り出される暴力。
その威力は粗暴で、そして凶暴だ。
しかし、編まれていない魔法では、霊夢に通用する筈も無く、それは霊夢の気合だけで霧散した。
攻撃とも呼べない、稚拙な力。
馬鹿にしているのかと、霊夢が嘲りを込めた笑みをアリスにぶつけた。
互角の勝負を繰り広げているかに見える両者だったが、その差は徐々に、そして明確になって来ていた。
霊夢の表情に余裕があるのに対し、アリスには焦りと苛立ちしか無い。
全力で攻撃するアリスに対し、霊夢はその実力を半分も出していないのだ。
完全に霊夢の優勢である。
怒りに身を任せて暴れるアリスに対し、激しく怒ってはいても、芯の冷静さを保っている霊夢。
アリスが猛れば猛るほど、攻撃は雑になり、尽く読まれ、潰され、手痛い反撃を受ける。
激しい想念は心も身体もすり減らし、アリスは気力、体力共に限界に近付いていた。
呼吸は乱れ、汗と、思い通りにならない状況への悔しさから滲み出る涙で視界は歪む。
──その歪みが、アリスに致命的な隙を生んでしまった。
視界が歪んだその刹那、霊夢の姿が掻き消える。
ぐにゃりと歪んだ視界の中で、霊夢の紅白を追うもその姿は見つからず。
アリスが次に、霊夢を捉えた時。
それは鳩尾に重い衝撃を感じ、意識が遠退く瞬間だった。
◇
事の始まりは、アリスが霊夢を無視し続けた事だった。
宴会の席にアリスが現れないことは珍しいことでもないのだが、誰もその姿を目撃していないと言うのは、少し異常だった。
活発に動き回るタイプではないが、引き篭もりと言う訳ではない。
彼女を知る者なら誰もが、最近のアリスはおかしいと思うだろう。
霊夢もその一人だった。
むしろ、週に一度、アリスの家に必ず遊びに行く霊夢には、それが気にならない筈はなかった。
恥ずかしいので公言していないが、知り合いは多くても友人は少ない霊夢にとって、アリスは何にも替え難い友人なのだ。
家から一歩も出ずに何かをしているアリスが気になり、霊夢は何度も彼女の家を訪ねた。
食事を摂っているか、ちゃんと寝ているか、おかしなことは無いか。
魔法使いは食事も睡眠も不要な事を知らない霊夢は、それが気になって仕方がなかった。
病的に研究に勤しむアリスの様子を見て、流石の霊夢も心配になったのだ。
アリスは一つのことに打ち込むと、他が目に入らなくなり、無茶をして根を詰め過ぎる性格だ。
霊夢はそれが解っていたので、無茶をしていないかと様子を見に行っていたのだ。
そんな霊夢を、研究に夢中になっていたアリスは鬱陶しく思えてならなかった。
霊夢にとって不幸だったのは、アリスが夢中になっているものが、彼女の、最大の夢の為の研究だったことだ。
アリスを心配した霊夢の思いやりは、アリスにとっては夢を阻む枷にしかならなかったのである。
始めこそ霊夢の訪問に応対していたが、回を重ねる毎にアリスは苛立ち、霊夢への対応もいい加減なものになっていった。
やがてアリスは、毎日のように訪ねて来る霊夢を、暫くの間出入りを禁じて追い返してしまった。
霊夢はそんなアリスの態度に憤慨したが、彼女の性格を考慮しその場は引き下がった。
一途で、好きなものや大事なことには頑なな彼女の性格を、霊夢は理解していたからだった。
それから二週間後の今日。
魔法使いは食事も睡眠も必要無いが、不死身でなければ、永久に動ける訳でもない。
動き続ければ体力は尽きるし、疲労も溜まっていく。
見るからに痩せ細り、頬もこけて変わり果てたアリスの姿に、彼女の様子を見に訪れた霊夢はショックを受けた。
状況を理解した霊夢は、アリスに研究を一時中断するよう説得した。
根を詰め過ぎないように、少しの間休息を取るようにと。
だがそれは、研究への狂的な意欲に取り付かれていたアリスにとって「自分の邪魔をする」行動に他ならなかった。
そして無自覚の内に極限状態に陥っていたアリスの思考は、「邪魔」をする霊夢を「敵」と判断したのだ。
敵対対象に取る行動は古今東西唯一つしかない。
撃退だ。
自分の身を案じてくれた霊夢に、アリスは襲い掛かった。
そして。
◇
夜の闇と静寂に包まれたマーガトロイド邸。
滅茶苦茶に散らかった家の中で、アリスは打ちひしがれた表情で呆然と座り込んでいた。
その瞳は昏く沈み、全身から生気が抜け落ちて、まるで死人のような姿だ。
今のアリスを支配するのは、闇。
光を失った瞳で、アリスは穴の開いた天井を仰ぎ見る。
夜空には黄金の円盤が、アリスの瞳とは対照的に美しく輝いていた。
今の自分とまるで正反対のその姿に、彼女は涙で瞳を濡らした。
溢れる涙は頬を伝い、煤と埃まみれのドレスを濡らす。
だが、悲しいかな。
その涙の意味を、アリスは理解していなかった。
心を支配する闇の本当の意味を、彼女は解らないのだ。
衣擦れの様な、幽かな声で、アリスはある少女の名前を声に出した。
……霊夢。
憎い、少女の名前。
自分の邪魔をした、大嫌いな霊夢。
彼女の心に、冷たい表情の霊夢が浮かび上がる。
そして、思い出される霊夢の言葉。
自分を罵る言葉。
感情に任せて飛び出した、悪口。
それはアリスをとても嫌な気持ちにさせた。
言葉が不愉快、という意味ではなく、霊夢にその言葉を言われたと言う事に対し、いたたまれない気持ちになったのだ。
けれど、それよりも。
その罵りの中に混じって飛び出した、別の言葉が、彼女の心を深く抉った。
霊夢は自分を解らず屋と言い、そして、研究が大事ならずっと一人でやっていろと言った。
そして、口を聞きたくないと、顔も見たくないと、絶交だと。
そこまで思い出した時、アリスは胸がズキリと痛むのを感じた。
それ以上思い出すことを、アリスの心は拒絶したのだ。
胸が、心が、苦しい。
何故、こんな思いをするのか?
解らない。
解らないが……。
暫く考えてみたが、答えは浮かばない。
──もう、いい。
今日は、疲れた。
寝よう。
寝て、忘れてしまおう。
胸の痛みの原因を究明することを諦めて、アリスはのろのろと腰を上げるのだった。
家の破損具合は相当な物だったが、建て直しが必要なほどではなかった。
アリスは応急処置として魔法の結界を家に張り巡らせた。
こうしておけば外敵の侵入は防げるし、外から寒い空気も入ってこない。
それを済ませた後、彼女は幽鬼のような足取りで寝室に入り、着替えずにそのままベッドへ倒れ込んだ。
幸い、寝室は無傷だったが、彼女にそれを確認する余裕は無い。
極度の疲労の為か、意識はすぐに薄れて行く。
気力も体力も、そして魔力も、全部空っぽだった。
閉じた瞳から、熱いものが流れ落ちるのを感じながら、アリスは深い眠りへと落ちていった。
その熱さも、理解出来ぬまま。
目覚めは最悪の気分だった。
煤と埃、汗と血で身体と服は酷い有様だった。
やはり埃まみれの髪はボサボサで、汚れたままの服で寝てしまった為に服は皺だらけだ。
おまけにベッドの布団も服についた汚れが移り、酷い有様だった。
明るくなって改めて解ったことだが、家の破損も酷い。
眠ったことでいくらか回復した魔力を使って、アリスは人形達に家の修繕を命じた。
次に、奇跡的に無事だった浴室で、身体の汚れを落とす為にシャワーを浴びることにする。
熱いシャワーが、くたびれた身体に心地良い。
しかし──
シャワーの湯とは違う、熱い水が頬を伝うのを彼女は感じた。
身体の汚れは洗い流せても、心に残った苦しさは落ちない。
この苦しい気持ちは何なのだ?
もやもやと渦巻く釈然としない気持ち。
心が重く、苦しく、痛い。
──涙の意味は?
解らない。
それが解っているのなら、こんな思いはしていない。
気が付いた時、アリスはシャワーの雨に打たれるようにして蹲り、嗚咽を漏らしていた。
その翌日。
アリスは虚ろな表情で応接間の椅子に座っていた。
彼女の、光の無い瞳は、彼女が座る位置と丁度向かいの席をじっと見つめている。
そこは、霊夢がアリスの家へ遊びに来た時に必ず座る、定位置だ。
指定席と呼べなくも無い。
他の誰かが一緒に居る時も、霊夢は必ずその席を選び、譲らなかった。
自分と、向かい合わせになるその席を。
彼女の思考を、心を埋め尽くすのは霊夢のことばかりだった。
霊夢の笑顔。
霊夢の怒った顔。
霊夢の声。
霊夢の仕草。
浮かんでは消える、霊夢の姿。
何故、彼女のことばかりが心を支配するのか。
どうして気になるのか。
あんなに喧嘩したのに。
解らなかった。
理解出来ない。
何故。
アリスは霊夢のことを憎んだ。
自分の邪魔をした霊夢。
何度と無く横槍を入れ、ついに昨日は自分をボロボロに痛めつけて絶交を言い放った、憎い少女。
そう、憎い筈なのだ。
敵の筈なのだ。
それなのに。
解らない。
理解出来ないその思いは苛立ちとなり、やり場の無い怒りへと姿を変える。
白くなるまで硬く握り締めた指の間から、紅が滲み出ていることに気付かないまま少女は拳を卓に振り下ろした。
その次の日。
アリスは部屋の隅で膝を抱えて俯いていた。
美しかった瞳は光を失って淀み、表情は深い影で覆われ、全身から生気が抜け落ちた、まるで屍のような姿だ。
暗い影を落として重く沈んだ彼女の心は、昨日と同じく霊夢のことで埋め尽くされていた。
何故、こんなにもあの少女のことが気になるのか?
いくら考えても、アリスには解らなかった。
鬱陶しい相手。
研究の邪魔をした忌々しい存在。
それなのに。
頭を振り、頭の中から霊夢の姿を振り払おうとしてみたが、霊夢の存在はアリスの頭から離れることが無い。
霊夢の言葉が何度も何度も心の中で響き渡り、アリスの心を掻き乱す。
──あの時。
霊夢は確かに「絶交」と言う言葉を口にし、その言葉を聞いて、アリスは清々したと思った。
邪魔な相手が自ら、自分とはもう関わらないと宣言したのだ。
清々して当然だと、アリスは思う。
それは、今も変わらない……変わらない、筈だ。
だと言うのに。
アリスの心は晴れず、むしろ暗く曇っていた。
気力は殺がれ、何もする気にもなれず。
考えることは霊夢のことばかり。
何故、こんなにも霊夢のことを考えるのか。
答えの出ない思考を繰り返し、今日も彼女にとって無意味な一日が過ぎて行く。
その次の日。
アリスは自宅の傍の木々を使い、藁人形に五寸釘を打ち付けた。
釈然としない苛立ち。
心を支配する霊夢の幻影。
したい、と言う欲求を嘲笑う、己の無気力。
釘を打ち込む、打ち込む、打ち込む、打ち込む。
苛立ちを、怒りを、憎悪を、何だか解らないものをすべて、釘と槌に込めて、打ち込む、打ち込む、打ち込む。
槌は変形し、ひしゃげ、握りは圧壊し、釘は楔となり槍となって木を貫き、木端を撒き散らして壊され、倒れた。
周辺の木々を、手持ちの釘が尽きるまで打ち抜き、釘が尽きた後は折った木々を火炎の魔法で焼き尽くした。
壊すことで不毛な喜びが芽を出し、それに酔ってみようとしてみた。
爆ぜる木片と揺らめく炎の影に、霊夢の虚像を見た気がして、アリスは吼え狂い、絶叫した。
酔えない。
そんなことは無理だった。
苛立ちは治まらず、彼女の心に闇を落としていく。
その次の日。
家中の食器を叩き割り、鏡を砕いて家具を壊した。
苛立ちは治まらない。
暴れれば暴れるほど、壊せば壊すほど。
心の闇は大きく強くなっていった。
それは酷く不快で、苛付いて。
そして、怖く、悲しい。
その次の日も、その次の日も、それは変わらず、より酷さを増して行く。
研究の邪魔をされたことに対する怒りと憎しみは、いつしか自分の中の理解不能な感情に対する怒りに摩り替わっていた。
怒りの理由を求め、怒りの矛先を探し、その夜、アリスは一睡もせずに暴れ続けた。
それから数週間後の夜。
薄暗い部屋の中、アリスは膝を抱えて部屋の片隅に座り込んでいた。
まるで見えない幽霊のような雰囲気で、注意深く部屋を探さなければ、存在を見落としてしまいそうだ。
憔悴の色が濃く浮き出た表情は暗く、光を失い淀んだ瞳はまるで硝子球のような、無機質なイメージを抱かせる。
ただ、今の彼女の表情は、虚ろではない。
深い悲しみと、孤独が、暗い顔に一層の影を落としていた。
◇
──この数週間、アリスはずっと霊夢のことだけを考えていた。
霊夢の幻影と言う、心の闇。
理解しようがしまいが、心を支配する霊夢の幻影が消えることは無かったから、ならばずっと考えてみようと思ったのだ。
自分の邪魔をした霊夢。
その彼女を排斥しようとした自分。
告げられた、「絶交」の二文字。
絶交。
もう、会わない、口を聞かない、関わらない。
それで構わなかった筈だ。
望んだ筈だ。
それだと言うのに。
考えれば考えるほどに、思えば思うほどに、心の闇が、彼女にある感情を呼び起こし、心を穿った。
悲しみと、孤独感。
霊夢を思うほどに、心は悲しみと寂しさで一杯になった。
何故?
解らない。
憎んだ筈だ。
嫌いだった筈だ。
そんな相手に、どうしてこんな感情を抱くのか?
解らなかった。
その答えを求め、アリスはひたすらに考えた。
霊夢への憎悪はこれまでの時間が少しずつ消し去っていった。
だが、代わりに生まれた、自分にも理解出来ない感情への苛立ちと怒り、それがアリスを苦しめる。
そしてその苦しみの渦中には、霊夢が存在しているのだ。
何故、霊夢なのか?
アリスは記憶を手繰り、知識を絞り、感じるままに思考の迷宮に挑み続けた。
しかし、いくら考えてみても、納得のいく答えは出ない。
それでも、アリスは考え続けた。
己の心の内に渦巻く感情の正体、そして、霊夢の幻影の正体を。
何故、彼女のことを思う度、悲しくなるのか。
この、胸を締め付ける寂しさはいったい?
そう、「霊夢」を思うと感じる、この気持ち。
はっきりとしているのは、自分が、悲しいと、寂しいと感じることだ。
何故か。
霊夢は私にとって、何なのだ?
それが最初の週に考え付いた、次の思考へのステップだった。
それからアリスは、霊夢が自分にとって何なのか、それを考え始めた。
最初に思い付くのは、彼女が週に一度は必ず自分の家に遊びに来ていたと言うこと。
他愛の無い世間話やお互いの近況報告、料理の話や、時にはカードゲームに興じたりもした。
お茶や菓子を楽しみ、時には食事を共にし、酒を飲み交わしたこともあった。
楽しい時間を共有し、時に喧嘩し、いがみ合った事もあるが、霊夢と居た時間はとても満ち足りていた。
そう、楽しくて、満たされていたのだ。
それに気が付いた時、途方も無い喪失感と深い悲しみが彼女を襲った。
楽しかった記憶。
霊夢と過ごした、満たされた時間。
彼女が居なければ知ることは無かった、誰かと一緒に過ごせる喜び、楽しみ。
いがみ合った事もあった。
口喧嘩だってしたし、弾幕ごっこも幾度と無くしてきた。
そしてそれ以上に笑い合い、話し、同じ時を過ごしてきたのだ。
霊夢との思い出が甦った時、アリスは同時に、自分を襲った喪失感の正体を理解した。
彼女は失ってしまったのだ。
楽しい時間を、満たされた、暖かな時間を。
そして、それらを与えてくれた少女を。
アリスの心に、霊夢から言い渡された「絶交」の二文字が深々と突き刺さった。
絶交。
もう二度と、霊夢と関わらない。
それは即ち、あの楽しかった時間を永久に失うと言う事に他ならない。
彼女が感じた喪失感は、それを失ってしまったことに対してのものだったのだ。
そして、失ったことに対する心の慟哭が、胸を刺す悲しみの正体だった。
自分は、失いたくなかったのだ。
あの暖かな時間を。
彼女を。
そして、それを失ったことに悲しんでいるのだ。
アリスは驚愕した。
自分が誰かに、そんな想いを抱いていたことなど考えられもしなかったからだ。
アリスは今までずっと一人ぼっちだった。
誰とも深く関わらず、孤独に生きてきたと信じている。
他人が自分に踏み込んだ感情を、興味を抱いて関わり合いになる筈が無いと、ずっと思っていた。
そして自分も、他人に興味を持てなかったし、関わり合いになろうとはしなかった。
彼女は外側からも内側からも一人ぼっちの筈だったのだ。
だがそれは、彼女の思い込みが作り上げた嘘の世界だった。
自分は、誰かに興味を持っていないだなんて、嘘だったのだ。
関心が無いのなら、誰かと関わり合いになりたくないのなら、この、霊夢に対する気持ちは、未練は何だ?
少なくとも自分は、霊夢に対して何らかの価値を見出し、興味を持っている。
そして、彼女を失うことを悲しむこの感情は、自分が霊夢に好意的な感情を抱いている事の証拠ではないか?
ささやかな好意かも知れない。
友情に満たないものかも知れない。
それでも、霊夢に対して好意的な感情を持っていることは変わらない。
いつも遊びに来る霊夢。
自分を家の外へ連れ出したこともあったと、思い出が甦る。
時に優しく、時に厳しく、まるで親しい友人のように自分へ接してくれた霊夢。
表層では冷たく感じられることもあったが、自分に接してくれる時の彼女は、自分には何より優しく感じられた。
その優しさを感じた自らの心を、アリスは気付けずにいたのだ。
自身の孤独が、皮肉にも孤独から解放してくれる存在を否定していたのである。
アリスは雷に撃たれたかのような気持ちになった。
驚愕、そして後悔。
自分は一人なんかじゃなかったのだ。
それなのに、自分がしたことは。
今にして思えば、霊夢は自分に何と言っていたのか?
彼女は、霊夢は。
自分の身を案じ、気遣ってくれた彼女のことを、私は。
彼女の思いやりを、この手で。
捨てた。
自分は孤独などではなかった。
そう思い込んでいただけ。
そして、その愚かな思い込みが、取り返しの付かないことをしてしまった。
あの暖かみを、優しさを。
気付いた時には何もかもが遅過ぎたのだ。
少女は嘆き、絶叫した。
◇
いくら振り返ろうとも、後悔をしようとも、過ぎ去った時が戻ることは決して無い。
自分の心を真に理解した時には遅過ぎたのだ。
薄暗い部屋の隅で、アリスは乾いた薄笑いを浮かべた。
自嘲の笑みだった。
──私は一人などではなかった。
差し伸べられていた手に、気付けなかった。
それどころか、その手を払い、手を差し伸べてくれた少女を拒絶したのだ。
そして少女は、そんな自分に絶交の二文字を残して去っていった。
否、去っていったのではない。
自分が、遠ざけたのだ。
失って初めて気付いた、自分の心。
自分の本当の気持ち、欲求。
そして、それらの根源に位置する少女の存在。
大事な事の筈だった。
気付けた筈だった。
だが、自分は気付かなかった。
愚かな思い込みが瞳を曇らせ、そのことに気付くことが出来なかった。
それを今更。
ようやく自覚した時には既に遅く、自分は大切なものを失ってしまった後だった。
失ってしまったものに対する喪失感と、後悔の念。
彼女は打ちのめされ、絶望に打ちひしがれた。
そして、悲しみ、打ちのめされている自分が酷く滑稽に思えたのだ。
大事なものを見失っていた愚者が、今更何を、と。
愚かな自分には、悲しみ、後悔する資格すらありはしない。
乾いた嘲笑を顔に貼り付けたまま、薄暗い部屋でアリスは哭き続けた。
あれからどれくらいの時間が過ぎたのか。
何日?
何週間?
何ヶ月?
年を越えてしまったかも知れない。
それとも実はまだ、一秒も過ぎてはいないのかも知れない。
時間の流れが酷く曖昧に感じられて、どれほどの時間が過ぎたのかが解らない。
だが、それも別に、どうでもいいことだなと思う。
今の自分には、たとえどんなことだろうと、どうでもよかった。
何もする気が起きないし、何かを考えることもしたくない。
後悔と絶望感で自身をいたぶることぐらいしか、今のアリスに出来る事は無かった。
寝ても覚めても霊夢のことしか考えられなかった。
そして彼女を失った後悔と絶望の無限ループ。
今まで気付いてもいなかったと言うのに、今になって彼女のことを想う度に、彼女を失った後悔が増していく。
自分は彼女に酷いことをして、その前はずっと、どうでもいいと思っていたのにも関わらずだ。
失ってはじめて気が付いた分際が、失ったことに後悔し悲しむなどと、何て傲慢なのだろうか?
そしてそんな自分は、霊夢を、そして霊夢と居た時間を取り戻したいと考えている。
何て傲慢で、何て嫌な女なのだろうか。
そんな資格、自分には無いと言うのに。
だが、そうやって自責と自虐の念にまみれてみても、押し寄せる後悔と絶望感に押し潰されても。
失った、霊夢との時間を求める心は止まらなかった。
自分が彼女へ抱いていた本当の気持ちは、何だったのだろうか。
彼女との時間を大切にしたいと想っていた自分の本心に気が付いた今、こんなにも彼女を想うこの気持ちは。
失ってしまったものへ対しての、未練と執着心だろうか。
気付かないうちに、自分は彼女に何かしらの好意を──例えば、友情の念を抱いていたのか。
どちらかかも知れないし、両方かも知れない。
あるいはどちらでもないかも知れない。
そして、そのどちらかだとしても、アリスは自分が傲慢で浅ましい女だとしか思えなかった。
浅ましい執着でも、気付かぬ内に抱いていた好意でも、そんなことを彼女に対して抱く資格は、自分には無い。
だが、霊夢のことを想う資格は無いと自分に言い聞かせても、無駄だった。
彼女を想う度、喪失感、後悔、絶望がアリスを責め、そしてその度に彼女への想いは強くなる。
それがアリスの心にとって、地獄の業火に実を焼かれるよりも激しい痛みと責め苦を与えるのだ。
いっそ、霊夢のことを嫌いになれればと、何度も思った。
霊夢は自分へ絶交を告げた。
ならば、彼女は自分の事を嫌いな筈だろう。
自分も霊夢を嫌いになれば、それで諦めも付くのではないか?
それは魅力的な解決策だとアリスは思った。
こんなに苦しいのならば、諦め、忘れることが出来れば、楽になれるのではないか?
確かに、悩むことを止めればそれで終わるだろう。
だが、そんなことが出来れば苦労はしない。
嫌いになれる筈が無かった。
忘れられるわけが無い。
消えてしまいたかった。
嫌いになれる筈が無くても、嫌いになりたい。
忘れられなくても、忘れてしまいたい。
一切合財を捨てて、消えて無くなりたかった。
だが、そんなことは出来る筈も無い。
死んでしまえばいいのだろう。
実際、自殺も考えた。
だが、自らの命を絶てるほど、アリスは臆病に出来ていなかった。
魔法使いの精神は不安定に見えて、実際、不安定なことが多いが、根本的な、芯の部分は非常に頑丈だった。
頑丈でなければ膨大な量の知識や意思を汲み、読み、干渉し、操る魔法の力を行使することは出来ないからだ。
魔法使い特有の芯の強さが、アリスに自殺をさせなかった。
ほとんど無意識だったが、自ら命を絶つ手前で、精神が自殺願望を押さえ付けているのである。
複雑な心理状態にあったアリスに、そのことが理解できる筈も無かった。
自殺してしまいたいと思う表層の意識が深い部分の意思に拒否させられることで、アリスは自分を臆病で卑怯だと思い込んだ。
深まる自己嫌悪と、押しかかる後悔、心を支配する、諦めきれない霊夢の存在。
アリスの精神は、半ば壊れかけていた。
崩壊は、時に小さなことから徐々に訪れることもある。
失って初めて気が付いたという事実から、彼女の精神は悲観的な思考にずぶずぶと堕ちていった。
すべて自分が悪いと、アリスはそう思い込み、自己嫌悪の深みへとはまっていったのだ。
後悔と自己嫌悪、そして霊夢。
偏執的なまでに心を埋め尽くす、それらの存在にアリスの心は蝕まれ、壊れていった。
静寂に包まれた夜。
まるで幽霊屋敷のような、不気味な世界に変貌してしまった家の片隅で、アリスは蹲り、右手の爪で左腕を掻き毟っていた。
落ち窪んだように見える眼窩は、隈と合わさって暗い影を作り、深い空洞を思わせる。
半開きの口からは、霊夢の名前と彼女への謝罪の言葉、そして己への呪詛が、何度も何度も繰り返し吐き出された。
精神の崩壊はゆっくりと、だが確実に進行している。
腕を掻き毟る自傷行為と、心の一端を声にして吐き出すことで、アリスの本能は自己の崩壊を辛うじて防いでいた。
だが、何とか正気を保ってはいるものの、アリスの心は既に廃人に近い状態だった。
このままではいずれ、彼女は狂ってしまうだろう。
だが、無情にも時は、すべてのものに等しく流れていく。
崩れていく精神に、時の流れは、停止するという慈悲を与えてはくれない。
やがて夜が明け、朝の陽射しが家の中を照らし出しても、その光がアリスの影を拭う事はなかった。
朝陽が昇って暫く経つと、家中の人形達が一斉に動き始めた。
それぞれが与えられた命令に従い、忠実に職務を果たす為にだ。
活発に動き始めた人形達の姿が、アリスの瞳に映り込む。
アリスの視覚は心理的な影響で、ほぼ何も映さない状態に陥っていたが、人形達は別だった。
自分の生き甲斐であった人形達だけは、心が微かに反応を示したのだ。
光の無い瞳が、食い入るように人形達を凝視する。
久し振りに戻ってきた、僅かばかりの理性。
その理性が人形達を捉え、アリスに久し振りの思考を始めさせた。
それからアリスは口元に自嘲の笑みを作った。
引きつった笑みだった。
「もの」である筈の人形達が、生きている自分よりも生き生きと動いている……。
忙しなく動き回る人形達の姿が今の自分と対照的に思え、そう感じた感性が、自分自身への皮肉だと思えたのだ。
くるくると、楽しんでいるかのように生き生きと動き回る人形達に比べ、今の自分ときたら。
蹲り、後悔に打ちひしがれて何もせず朽ちていくだけの、血が詰まったくだらない肉塊じゃないか。
死んだ方がマシな、つまらない屑。
それが私だ。
だが、それに比べて、あの人形達は。
またいつもの自己嫌悪。
したくも無いのにしてしまう、何てくだらなくて、惨めで、嫌な衝動。
否定したい。
もういい、疲れた。
何も考えたく無い。
だが、アリスがいくらそう願っても、湧き上がる暗い情念を拭う事は叶わなかった。
ならば、せめて。
せめて、少しは違うことを考えよう。
湧き上がる嫌悪感から逃れ、気を紛らわせる為のダミー。
それを求めて、アリスは視線を躍らせた。
しかし、視界に入ってくるものはすべて、自分が知り尽くしている、自分の持ち物だけ。
当たり前だ、ここは私の家、私の部屋。
あの本は何度も読んだし、作りかけの人形も服も無い。
食事は摂りたくないし、そもそもまとまな生活をする気になれない。
駄目だった。
気を紛らわせるものなんて、無い。
いつものように、この嫌悪と後悔に押し潰されるのを待つだけ。
嫌だ。
逃げ出したい。
もう、何もかも忘れてしまいたい。
でも、どうせ逃げられはしないだろう。
ならば、せめて、気を紛らわせるぐらいはしたい。
焼け石に水だろうと構うものか。
アリスは必死に、逃げの対象を探した。
瞳は見るも無残に血走り、半開きの口から荒い息を吐いて、首を振りながら四つん這いで蠢く姿は、あまりにも痛々しい。
彼女を知る者がこの姿を見たら、きっと悲しむだろう。
しかし、そんな自分の姿など知る由も無いアリスは、ゼエゼエと息を切らしながら部屋を徘徊した。
部屋中、家中を視線だけで物色していく。
手は這って移動するだけで精一杯で、物に伸ばす余裕は無い。
強いストレスでガリガリにやせ細った腕と指は枯れ木のようだった。
本、茶筒、裁縫道具、箪笥、花瓶、時計。
駄目だ、どれも駄目だ。
興味を惹かれる物が無い。
何も無い、何も無い、何も無い。
自分の家は自分が一番知っている。
ここに、自分の気分を逸らしてくれる物など無いのだ。
解っている、だが解っていても、アリスは求め続けた。
昼を過ぎ、夜になっても探し続けた。
何か、何か無いのか。
視線の腕は何も掴めず見つけられず、虚空を彷徨うばかり。
見つかるのは興味を惹かれぬ、己の持ち物。
そして、主人がこのような状況にあっても変わらず動き続ける人形達。
人形。
忙しなく動いていたアリスの視線が止まった。
視線の先には、人形。
自分が精魂込めて作り上げた、可愛い可愛い子供達。
自慢の作品。
趣味であり、生き甲斐であり、実益も兼ねて、家族の代わりで、友で。
彼女のアイデンテティ。
七色の魔法使いにして人形遣い、アリス・マーガトロイドを示す記号。
忘れていた。
もう何日、人形達に触れていなかったのだろう。
意識すらしていなかった。
大事なことの筈なのに。
そう、大事な。
──その時だった。
アリスは、身体に電撃が走ったかのような錯覚を覚えた。
大事なものという言葉。
大事なもの。
大事。
失いたくないもの。
失ってはいけないもの。
暗闇に閉ざされた心に、霊夢の姿が浮かんだ。
そうだ。
自分は、失ってしまった。
大事なものを。
大事だと言うことに気付かずに、自らの手で捨て去ってしまったのだ。
再び、後悔と絶望感がアリスに襲い掛かった。
失いたくなかった。
失いたくない。
大事なものを失いたくない。
乾いた頬に、熱い涙が伝わった。
もう、嫌だ。
忘れたい。
もうこんな思いはたくさんだ。
アリスは床に這いつくばり、嗚咽を漏らした。
消えてしまいたい。
何もかも忘れて、楽になりたかった。
涙が止まらない。
久し振りに感情を取り戻したことを、アリスは強く後悔した。
動かなければよかったと。
気を紛らわすだなんて、何を生意気な。
こんな思いをするのなら、あのままでいればよかった。
そう思った瞬間、アリスは突然、自分の身体が鉛のように重くなったような感覚に襲われた。
全身に力が入らない。
身体も心も、あらゆることに対して、どうでもいいと叫んで動かなくなってしまったかのような、そんな感覚。
動かそうと思っても身体は反応せず、動かそうと言う意思も、吹けば飛ぶような、希薄なものだった。
その内に、別に動かさなくてもいいじゃないか、という思いが湧き上がり、動かそうと試みていた指の緊張を解いてしまう。
もう、何もかもがどうでもいい。
このまま動けないのなら、それもいいだろう。
朽ちてしまえ。
幸い、瞼を閉じることは出来るみたいだった。
ゆっくりと瞼を閉じていくと、そこは何も無い真っ暗闇だった。
大事なものを失い、何も無い自分に相応しい世界だろう。
瞳を閉ざして間も無く、眠気がやってくるのを感じた。
アリスは睡魔に抗わず、徐々に意識を手放していく。
このまま永遠に目覚めなくてもいい、そう願った。
意識が途切れ、完全に闇の中へと飲まれる、その瞬間だった。
身体を揺さぶられる感覚に、消えかかっていたアリスの意識が形を取り戻していく。
いったい、何だというのだろう。
このまま眠らせて欲しいのに。
揺さぶりは続いている。
それは小さな力だ。
小さい手で、自分の腕を揺さぶっているのだ。
規則的な揺らし方。
いったい何が自分を揺さぶっている?
アリスは眠りを妨げる存在を、瞳を閉じたまま払い除けようと手を伸ばした。
こんな時に動くなんて、と思い、軽い嫌悪感を抱きながら手探りで自分を揺さぶっている存在を探し当てる。
それはすぐに見つかった。
柔らかな絹と、繊細に編み込まれたレースの感触。
小さくて華奢な、精巧さを感じさせる手触り。
魔法でコーティングされた、人肌のような柔らさを持つこの感触。
アリスは目を見開いた。
そのまま勢い良く起き上がり、すぐに自分が寝ていた場所へと視線を向けた。
そこには。
応急セットや薬箱を抱えた人形達が居た。
それぞれが白衣を引っ掛けていたり、どこから持ち出して来たのか、聴診器や注射器を構えている人形も居る。
彼女達の格好を見て、アリスは、この人形達が何をしているのかを理解した。
この人形達は、アリスが体調を崩したり怪我をした時に面倒を見てくれたり応急処置を施してくれる役目を持っているのだ。
アリスがそのように命令を与えた人形達。
恐らくは倒れ、生命力が低下していた主人に反応して、彼女を助けるべく動き出した、と言うところだろうか。
アリスは人形達を見つめた。
彼女達に表情はない。
主人が心配だから動いた訳ではなく、命令通りに動いただけだと、その無表情だが、端正で美しい顔が物語っていた。
人形達は、極論すれば、道具だ。
どんな目的で扱うにしても、「使う」「もの」である以上、それは道具と言っていいだろう。
余計な事を考えず、与えられた命令、使命を忠実に実行するだけの存在。
そこに意思、自己と言う物は存在しない。
あるのは与えられた命令、使命、存在意義。
意思が無いから悩まないし、自己を持たないから余計な事を考えず、何も得ない代わりに何も失わない。
ある意味で完全な、自己完結を成し得ている存在。
得るものを持たないから失わない。
悩めないから悩まない。
苦しみも何も感じないから、苦しむことも無い。
──道具。
何も感じず、考えず、苦しまない。
命令を与えられ、それをこなすだけの存在。
アリスは、自分の傍にいた人形を抱え、その人形をじっと見つめて考えていた。
人形達は自分が今味わい、感じている苦痛、悩み、絶望を感じることは永遠に無い。
人形達が道具としての人形達である限り、絶対に感じることの無い苦しみ。
アリスは人形達が羨ましいと思った。
人形達のように自分に意思が無ければ、ただの道具であれば。
こんな、苦痛を味わうことも、大事なものを失うこともない。
初めから存在しないのだから。
人形達の頭を撫でながら、いつしかアリスは彼女達に羨望の眼差しを向けていた。
何も感じない、何も考えない。
心を持たず、意思を持たず、ただ命令に従い存在するだけの道具。
──私も、そうなれたらいいのに。
きっとそれは素敵な事に違いない。
心が無ければ何も感じないで済む。
考えないから悩まない。
行動しないから後悔しない。
何も望まないから絶望しない。
ああ、そうか、そうなんだ。
何て素晴らしい。
アリスの瞳に、淡い光が燈った。
燈った光は、闇色。
ぐるぐると渦巻く、暗い狂気。
道具になってしまおう。
人形になってしまえ。
もう、こんな気持ちはうんざりだ。
逃げたい、逃げ出したい。
嫌だ。
忘れたい。
人形になってしまえば、それが出来ると思う。
こんな心なんて、いらない。
アリスは笑い出した。
声が枯れるまで、狂ったようにゲラゲラと笑った。
──否。
それは狂気そのものだったのかも知れない。
アリスの記憶の中に、自分が望む結果を導き出せる存在が浮かび上がる。
それは忘れるつもりで記憶の奥底に閉じ込めていたもの。
それを使えば、自分はこの苦しみから解放されるだろう。
好みではない方法なのが癪だったが、この際手段を選ぶつもりは無い。
素晴らしい、素晴らしいことじゃないか。
終わる。
終わるんだ。
何もかも終わるんだ。
アリスは笑った。
笑い続けた。
涙を零しながら。
いつまでも。
その夜は、新月だった。
月明かりの無い空に、小さな流れ星が一つ、ひっそりと流れた。
空が零した涙のような。
◇
冷たく、乾いた風が境内を抜けていく。
周囲の木々から落ちたものや、外から飛ばされて来た枯葉が石畳に散らばり、積もっては吹き飛ばされを繰り返していた。
ぶ厚い枯葉の絨毯で、石畳が見えなくなってしまっている。
夕方と言うこともあり、今日の博麗神社は普段よりも暗く見える上、憂鬱そうな雰囲気まで放っていた。
掃除しないだけで、雰囲気はガラリと変わるものだ。
普段の神社を知る者が今の神社に訪れれば、あまりのギャップに場所を間違えたかと思うだろう。
母家の軒先で、巫女は何もせずに俯き、呆けていた。
足元には竹箒が放り出され、彼女が掃除の途中だったことを語っている。
手にした湯飲みから、熱い湯気と共に上質の茶の香りが立ち上っているが、彼女がそれに口をつける気配は無い。
全身から漂う苛々した雰囲気と、何もしたく無いという無気力、どうにでもなれと言う、いい加減な気持ちが霊夢を包んでいた。
瞳をとろんとさせているが、瞳の奥の色は苛立ちでピリピリとしている。
彼女の口から深い溜め息が漏れた。
まったく何もやる気が起きない。
霊夢が怠惰な性格なのは周知の事実だが、今の彼女は殊更に無気力だった。
否、気力が無いのではない。
あらゆることに興味が持てないのだ。
彼女の心はあることで埋め尽くされて、他ののことが入り込む余地を失っているのである。
霊夢の心を埋め尽くすもの。
それは、彼女の友人である魔法使いの少女だった。
冷静な風を装って、その癖に激情家で、冷たそうな癖に優しくて、傍に居ると安心出来て、楽しい、そんなあの娘。
照れ臭いから面と向かって言ったことは無いが、一番の友達だと思っている、人形の好きなあの少女。
霊夢の心はアリスのことでいっぱいだった。
思い出すのはアリスと喧嘩をしたあの日のこと。
言うことを聞かず、殴りかかってきたアリスと喧嘩して、つい力の加減を間違え、彼女を倒してしまった。
そして、倒れて尚も向かって来るアリスに、自分は「大嫌いだ」、「絶交だ」と言い放って逃げるように帰ったのだ。
霊夢は後悔していた。
解っていたのだ。
アリスは頑固で一途で、人形のことになるとそれが尚更に強くなる。
彼女が夢中になっている時に、それに水をさすような事をすれば、結果は火を見るよりも明らかだと言うことも解っていた。
だが、それでも霊夢は心配せずにいられなかったのだ。
痩せ細り、瞳だけがギラギラと輝いて、疲れ切っているのに無理をして研究を続けるアリスを見ていられなかった。
休んで欲しかった。
休ませたかった。
ボロボロになって、磨り減っていく彼女を見たくなかった。
そして、それ以上に。
研究よりも、人形よりも、自分を見て欲しかった。
遊びに行っても本ばかり読んで相手をしてくれない。
誘いに行っても研究が忙しいと断られる。
どんなに話しかけみても、自分に見向きもしてくれない。
悔しかった。
頑なで、一途で、解らずやのアリス。
どんなに想っても、声をかけても、振り向いてくれない、聞いてもくれない。
私は何なのだろう?
友達だと思っているのは私の独りよがりなのだろうか?
面と向かって言ったことは無いから、独りよがりでも別にいい。
霊夢が我慢ならなかったのは、自分自身でも呆れるくらいに身勝手な理由。
嫉妬。
霊夢はアリスの身体を心配する以上に、アリスが夢中になっている研究に、人形に嫉妬した。
人形相手に嫉妬したなど、口が裂けても言えないが、その思いを否定する気にはなれなかった。
だから、言ってしまったのだ。
伝わらない思い。
伝わらない苛立ちが爆発し、そして。
霊夢は頭を振って追憶を振り払った。
言ってしまったことを今更後悔しても遅い。
謝ろうと思った。
自分が悪いことをしたとは思わないが、こう言う場合は謝ってしまった方が何かと楽だ。
色々と罵声を浴びせてしまったし、「絶交」など、何よりも言ってはいけない言葉だと思うから、と自身を納得させる。
仲直りしたかった。
どうしても、また前のように楽しく過ごせる関係に戻りたい。
自分がアリスと仲直りをしたいと思っていることに気が付いたのは、喧嘩別れをしたその夜のことだ。
それからと言うもの、寝ても覚めても考えるのはアリスのことばかりで、何も手が付かない状態になってしまった。
思いはストレスへと変わり、苛立って、霊夢は最低な気分で日々を過ごす羽目になってしまったのだ。
暫くは喧嘩した手前、霊夢も意地を張って気分が悪いのを我慢していたのだが、それもそろろ限界だった。
もうこんな気分は嫌だ。
自分が言った「絶交」の言葉を取り消して、仲直りしたい。
頭の中はアリスのことでいっぱいだった。
速く仲直りしてこの気持ちを解消したいと思った時、霊夢はあることに気が付いて驚いた。
それは、暫くの間アリスと顔を合わしていないだけで、自分の気持ちが深く沈みこんでしまったことだった。
いつの間にか、アリスの存在が自分の中で大きくなっていたのだ。
気付いていなかっただけで、自分はアリスのことを大変好いていたらしい。
週に一度は遊びに行っていたし、会いたいとも感じていたから、なるほど、気付いてしまえば合点がいく。
一度自覚すると、後は今まで意識していなかった分を埋めるかのようにアリスのことが気になりだして仕方が無い。
益々仕事や家事、その他諸々が手に付かなくなり、最近では朝起きて、気付いたら夜だった、なんてこともあったぐらいだ。
このまま行けば、その内記憶さえ飛びそうになるかも知れない。
霊夢は決意した。
意地を張るのはやめて、謝ってしまおう。
そして仲直りしよう。
気になりだしたら、長いこと会っていない事が寂しく感じてしょうがない。
嫌な気分を払う為、寂しさを埋める為、何より元の仲に戻る為に、霊夢はアリスに仲直りの相談をしに行く決意を固めた。
決意が固まると、霊夢は自分の心の内が幾分か軽やかになったのを感じて、苦笑した。
存外、自分も単純だと。
明日、謝りに行って仲直りしよう、そう考えて空を見上げると、陽はすっかり落ちて黒一色だった。
いつの間にか夜になっていたようだ。
自分の時間の感覚が鈍っていることに呆れつつ、霊夢は夕食の献立を考え始めた。
ふと、何気なく空を見上げると、その夜は月が出ていないことに気が付いた。
月の無い夜空にどこか寂しさを覚えたが、霊夢は気にせずに家の中へと入っていく。
落ちた流れ星には、気付かない。
◇
翌日。
霊夢は家の茶箪笥から選んだ一番上等な和菓子と、里の店へ早朝に押しかけて購入した高級な緑茶の葉を手土産に家を出た。
目指すのは当然、魔法の森の奥にあるアリスの家。
急がず、しかしそれなりに速く、霊夢は飛んだ。
顔を合わせたらすぐに謝ろう。
謝って、仲直りして、また一緒にお茶を楽しみ、無駄話に興じるあの関係に戻るんだ。
霊夢は決意を新たに、魔法の森へと飛び続けた。
重く沈みこんでいた心と身体が嘘のように軽いと、霊夢は飛びながら思っていた。
そして、仲直りをしようと決意しただけでこんなにも心が晴れやかになることに苦笑するのだった。
やはり、自分で思っていた以上にアリスを意識していたらしい。
仲直りのついでに、改めて友達の宣言をしよう。
膨らんで行く今後の期待に胸を躍らせ、霊夢は速度を少しづつ上げていった。
やがて、見覚えのある屋根が木々の向こうに見えてくる。
久し振りに見るマーガトロイド邸の、変わらない姿に霊夢は溜息を漏らした。
何も変わっていない。
暫く訪れていなかっただけなのに、10年以上も経ってしまったかのような懐かしさが込み上げて、霊夢は苦笑した。
随分と入れ込んだものだ、と霊夢は思う。
時間にしてまだ一ヶ月も過ぎていないと言うのに、この感慨は。
苦笑いが止まらない。
霊夢は頭を振って、今憶えた思いを忘れることにした。
懐かしさなど、これから自分がアリスにする話の前では暗過ぎて、景気が悪くなりそうだと思ったからだ。
霊夢は気持ちを切り替えることにした。
アリスの家の裏に回り込むと、そこにある窓の硝子で自分の姿をサッと確認する。
その窓は本棚で塞がれており年中締め切られているので、鏡の代わりに使えるのだ。
アリスも知らない、霊夢だけの秘密の鏡である。
十分とは言えないが、代用品としてはまずまずの使い勝手なので、霊夢は遊びに来た時、たまにここを使うことがあった。
窓硝子に映りこんだ自分の姿を念入りに確認していく。
顔色は普通、髪も寝癖は無く、手入れも万全。
密かに自慢な黒髪も健康的で瑞々しい。
トレードマークの大きなリボンも曲がっておらず、服も皺は無い。
異常無し、いつも通りの自分だ。
最後にニコッと微笑んで、霊夢は玄関へと小走りに急いだ。
笑顔もバッチリ、これなら上手くいけそうだと、霊夢は思った。
扉の前で深呼吸をする。
ノックの為に伸ばした腕がピクンと、止まった。
短い逡巡。
扉を開けて、その先に待っているアリスはどんな顔をしているだろう?
やはり怒っているだろうか。
虫を見るような目で見られるかもしれない。
弾幕が飛んでくるかもしれないし、扉を開けてくれさえしないかもしれない。
不安と恐怖が一瞬心を掠める。
だが、ここで怖気付いては何も始まらない。
霊夢は自分の頬叩いて不安と恐怖を追い払った。
小気味良い音が響き、乾いた痛みが気を引き締める。
今度は躊躇う事無く、霊夢は腕を振り下ろした。
一回、二回、三回。
乾いた音が周囲に響く。
さあ、ノックはした。
次は訪ねて来たのが自分だと言うことを告げねば。
努めて冷静に、上擦りそうな声音を何とか押さえ付けて、霊夢は名乗りと挨拶を扉越しにアリスへと向けて叫んだ。
霊夢の声が止むと、周囲に静寂が訪れる。
急に静まり返ったような気がして、霊夢は緊張した。
ノック、そして声を掛けてから20秒が過ぎた。
駄目か?
やはり、無視しているのだろうか。
ならばこの場で謝るべきか。
次に取るべき行動について高速で思考を巡らせ始めた時だった。
音も無く目の前の扉が開かれ、霊夢はぎょっとした。
刹那、緊張が極限に高まり、心臓が大きく鼓動を打つ。
視線を扉の前、開かれた空間へと滑らせる。
視線が移動するその動きが酷く鈍重に感じられ、霊夢は苛立った。
何を恐れている?
堂々と正面から彼女を見ろ!
中から懐かしい友がその姿を表したのだ。
さあ、その顔を見ろ。
そして、謝れ。
声をかけろ、笑え。
視線を上げるその瞬間が酷く、長く感じられた。
一瞬が永遠に変わってしまったような。
止まっていない筈なのに、止まってしまったかのような、そんな時間の流れ。
徐々に視線がアリスの姿を捉えていく。
純白のストール。
白くて細い首。
ぷっくりとして柔らかそうな、薄紅色の唇。
形の良い鼻。
美しく澄んだ湖のように深い、碧い瞳。
サラサラと美しく輝く金の髪。
人形のように美しく、可愛らしい少女が、そこに立っていた。
見慣れていた筈の少女の姿に、しかし霊夢は、見惚れていた。
久し振りに見たアリスは同性である霊夢が見ても、ぞっとするような美しさを持っていた。
多分に精神的なものも混じっていたのだろうが、それを加味したとしても、霊夢にはアリスが綺麗だと思えたのだ。
まるで人形か、芸術品のような。
霊夢は仔細にアリスを観察した。
いや、魅入っていたと言うべきか。
久し振りに見る彼女の姿に見惚れている自分に気付き、霊夢は慌てて頭を振って正気を戻した。
今は見惚れている場合ではない。
確かに、久し振りに見たアリスは美しかったが、今はそれについて思いを巡らせる時ではないのだ。
霊夢は気を引き締めなおし、改めてアリスを見つめた。
至高の芸術品のような美しいアリスの顔。
精巧に作り込まれた人形のような、一切の乱れの無い表情。
霊夢は彼女の碧い瞳を覗き込むように見つめ、彼女の名前を呼んだ。
アリスは、答えない。
何故か微笑を浮かべて霊夢を見ているだけだった。
アリスの名前を口にした瞬間、気恥ずかしさがドッと心の中を埋め尽くした。
しかも、アリスは微笑んでいるのだ。
霊夢は挨拶と謝罪を早口で一気にまくし立てた。
喧嘩した相手が、自分に向かって微笑んでいる……その事態に霊夢の思考は平静さを保てなかった。
その上、その微笑がこの上なく美しく、可愛らしいのだ。
霊夢はアリスの返事を待たず、一方的に喋り続けた。
自身の動揺を紛らわせる為、必要以上にだ。
内心、まずいと思いつつも霊夢は喋るのを止めなかった。
アリスに見惚れている自分を認めたくなかったのだ。
一瞬でも心を奪われたことを、何故かは解らないが認めたくなかったらだ。
アリスが同性の自分から見ても可愛いと言う事は以前から自分も認めていた。
だが、今の彼女は何だ?
彼女を見ていると、そのまま引き込まれそうになる。
魅入ってしまうのだ。
アリスを見ていると、霊夢は熱に浮かされたように魅入ってしまう。
心を奪われてしまいそうになるのだ。
まるで、完璧な芸術品に感動する心境のような……。
…………。
……?
……芸術?
その時だ。
霊夢は、先程から自分が、「芸術品」という単語ばかりを連想していることに気が付いた。
人形、芸術品、作りもの。
何故だ?
何故、そんな。
「物」に対しての感情を、何故、彼女に抱く?
霊夢は喋るのを止め、アリスの顔をもう一度見つめた。
そこには、変わらず美しいアリスの顔がある。
こちらへ向かって微笑んでいる。
自分が喋り過ぎたことに不快感を抱いているのかとも思ったが、どうやらそれは無いようだった。
だが……。
アリスは、喋らなかった。
いくら待てども、彼女は口を開かず、微笑を浮かべているだけだ。
否。
本当に笑っているのか?
その瞳は、自分を見ているのか?
巫女としての感が、何より霊夢という少女が持つ鋭い感性が、敏感に感じ取った違和感を強い警戒の念へと変える。
霊夢は再度、アリスの名前を呼んでみた。
アリスの返事、彼女の声を聞くことを期待しての行為。
しかし……ただ微笑を浮かべ続けるのみで、アリスは返事をしなかった。
一切の挙動を見せずに自分を見つめてただ笑うだけ。
その微笑みに、霊夢は冷たいものを感じた。
アリスの表情は、微笑みの形をとっているだけだった。
瞳も口元も、完璧に微笑みの表情を取っている。
そう、「完璧に」、寸分の狂いも無く。
生気が、感じられない。
霊夢は思わず後退りした。
目を大きく見開いて、表情を凍りつかせたままアリスを凝視する。
アリス……否、アリスの形をした何かが、目の前に居る!
どんなに気配を探ってみても、霊感を働かせてみても、目の前のアリスからは何も感じられない。
だと言うのに。
見た目はアリスそのもので、幻視を使って彼女を視ても、結果はアリスだとしか思えない。
けれど、違う。
違うのだ。
目の前に居るアリスは、自分の知っているアリスではない。
何かが決定的に違うのだ。
生気が感じられないと言うこともある。
だが、生きているという感じが僅かばかりだが霊夢には感じられた。
そんな馬鹿なことがあるものか。
生気が無いのに「生きている」など!
目の前に居るアリスが、アリスでは無いという考えがどんどん大きく膨らんで行く。
──ひょっとしたら、このアリスは、アリスが自分を驚かせる為に作った、精巧な人形なのではないか?
そんな突拍子も無い考えが浮かぶ。
だが、人形にしてはいささか出来が完璧過ぎる。
アリスの腕前を知らないわけではないが、これほどまでに本人と同じ姿、雰囲気を持つ人形を作れるとは思えない。
そもそも、人形なのかさえ疑わしい。
しかし、と霊夢は思う。
目の前に居るこの「アリス」から感じられる、自分が知っている「アリス」の雰囲気に混じった、この感覚。
彼女の家に飾ってある人形とそっくりな、この雰囲気。
人形。
そう、人形なのだ。
まるで人形を見ているかのような。
まさか、という思いと、自分の感覚を信じろという思いが霊夢の中で交錯する。
目の前の彼女は、本当に彼女ではなく、人形なのだろうか?
もしも人形だとしたら。
恐ろしく精巧なその人形に、霊夢は背筋が冷たくなるのを感じた。
──これが、人形ならば。
得体の知れない嫌悪感と。
──これは、外れてはならない道のもので。
嫌悪に混じる、得体の知れないものに対する恐怖感。
──存在してはいけない、そういうもの。
巫女としての感覚が、霊夢に訴え始めた。
これは、いてはならないものだと。
だが、霊夢はその訴えを無意識の内に黙殺した。
黙殺したが……思考が混乱し、まともな考えが出来なくなっている。
人形のようなアリス。
これはアリスなのか?
人形なのか?
解らない。
不気味だ。
何かがおかしい。
決定的に、致命的に。
霊夢はもう一度、アリスの名前を呼んだ。
今度こそ、自分に返事をしてくれることを願って。
彼女の口から、今までのは演技だったと聞かせて欲しかった。
それだけが唯一、思考がままならない霊夢が求めたものだった。
アリスは、動かない。
反応しない。
ただ微笑んでいる、ように見せるだけ。
霊夢は呼んだ。
今度は大きな声で。
アリスは、動かない。
霊夢は叫んだ。
この現実が幻影ならば、嘘ならば、覚めてしまえと願って。
アリスは──
レ イ ム
微笑みの形に「固定」されていたアリスの口が、動いた。
動いて、声を出した。
喋った。
そして、自分の名前を呼んだ。
霊夢と。
自分の名前を口にされた瞬間、霊夢の背筋に走る冷たいものが急速に、その温度を下げた。
──違う。
この娘は。
これは。
キリキリと音が聞こえそうな、ぎこちない動作でアリスが首を傾げて見せた。
そして、片言の言葉を、その綺麗な唇から紡ぎだす。
イ ラ ッ シ ャ イ マ セ
魔法の森に少女の悲鳴が木霊した。
◆
──気が付いた時、霊夢は自分の部屋で頭を抱えて震えていた。
あれは、アレは一体、何だ。
アリスは、どこへ消えたのか。
解らない。
霊夢は自分が何故震えているのか、いつここに帰ってきたのかも解らず震え続けた。
自分を震えさせているものの正体も解らない。
ただ、得体の知れない恐怖と、嫌悪の感情だけは理解出来た。
アレは。
巫女の勘だけではない。
もっと原始的な、そう、生理的なレベルで、霊夢はあの「アリス」に激しい嫌悪の情を抱いていた。
認めない。
あれが「アリス」の筈が無い。
霊夢は熱に浮かされたように何度もそう呟いた。
◇
翌日の正午。
母家の縁側に青ざめた顔で座る霊夢を囲むように立ち、霧雨 魔理沙と十六夜 咲夜は深刻な表情で俯いていた。
冬空の下、風は身を裂くように冷たかったが、彼女達は意に介していないようだ。
霊夢ほどではないが、二人の少女の顔色も、心なしか青い。
二人は霊夢から、彼女が昨日出会ったアリス──のようなものについての話を聞かされたのだ。
二人とも霊夢に用があったようだが、彼女の話を聞いてそれをすっかり忘れてしまったようだった。
霊夢が出会った、おかしな様子のアリス。
まるで人形のようなのに、本人のような気もする、不思議な存在。
あれはいったい、何なのか。
考えていても解らないが、考えざるを得ない、その存在についての疑問。
そしてあのアリスに自分が感じた、激しい嫌悪感。
思い返す度に恐怖と入り混じった嫌悪の情が燃え盛り、霊夢の心を締め上げる。
魔理沙と咲夜も、最近まったく姿を見せないアリスのことをそれなりに気にしていたので、霊夢の話に少なからず不安を抱いた。
幻想郷では鬼でも跨いで通る博麗の巫女が嫌い、恐れるもの。
魔理沙はどれだけ外道なものなのかと思い、咲夜はそれほど外道なものなのだろうと勝手に解釈する。
姿を見せないアリスが、いったいどのようにしてここまで霊夢をへこませたのか。
二人は逆らい難い好奇心と、僅かな「怖いもの見たさ」で、霊夢から更に詳しい話を聞きだそうとした。
だが、霊夢はぶつぶつと歯切れの悪い言葉を口にするだけで多くを語ろうとしなかった。
霊夢はアリスのことについてあまり話したくなかったのだ。
だが、それは無理な話だった。
二人が訪ねて来て、「元気が無い」と言われた時に、うっかり口を滑らせてしまったのだ。
霊夢の完全な失態である。
霊夢が逃げようとしても諦めず、二人はしつこく食い下がった。
あからさまに隠されれたり、届きそうで届かない状況は誰にだって不愉快で鬱陶しい。
魔理沙と咲夜は欲求に任せてぐいぐいと霊夢に詰め寄った。
そんな二人の勢いに押された霊夢は、仕方なく昨日の出来事を語れるだけ語ることにしたのだった。
もう一度アリスの家に行こう、と言ったのは咲夜だった。
余程興味を惹かれたのか、咲夜は積極的にアリスに会いに行くことを霊夢に薦めるのだ。
魔理沙も咲夜に調子を合わせ、霊夢に、会いに行こうと説得する。
自分達だけで行けばいいと霊夢は思ったが、断る気力が湧かず、結局同行することを承諾した。
アリスの家に着いた三人は、家から出てきたアリス(?)の挙動に戦慄した。
壊れたカラクリ人形がキリキリと音を立ててギクシャクと動くかのように、アリス(?)が動いて三人を出迎えたのだ。
イラッシャイマセ、と馬鹿丁寧に、そして余所余所しい態度。
その上、その声は何の感情も篭っていないのだ。
霊夢は、アリス(?)を見るのが辛いのか、ずっと視線を落として俯いたままだった。
常に変わらずそこにあると思っていたものが、目を離していた隙に壊れていたとしたら。
気付いていなかった好意的な気持ちを自覚した直後に、今のアリス(?)を見たショックは当分抜けそうに無いようだ。
そんな霊夢とは対照的に、アリス(?)の声を聞いた魔理沙は、魔法で作り上げた魔法生命特有の無機質な声を思い出していた。
魔法生命とは、文字通り魔法、魔術の類で擬似的な命、魂を、本来ならばそれらを持たない器に与えて出来るものを指す。
用いる魔法や術者のレベルにもよるが、生物で言う単細胞生物から人間並の高度な生命体もある程度自由に生み出せる。
魔理沙が思い浮かべたのは、そうした魔法生命の中でも「下の上」レベルの粗末な魔法生命だった。
アリス(?)の挙動や片言の言葉が、単純な命令しかこなせない低レベルの魔法生命に酷似していたからだ。
一方の咲夜も、アリス(?)の様子がおかしいことを瞬時に見抜いていた。
職業上、生きているものとそうでないものの違いに敏感な彼女は、アリス(?)から感じられる雰囲気の正体を掴めた気がした。
生き物のようで生き物ではない……異質で、生理的な嫌悪感を催すその雰囲気。
──高度で外法な魔道の臭い。
今、目の前にいる彼女は、「アリスであってアリスでない」と、咲夜は確信に近い物を得ていた。
最初に行動を起こしたのは咲夜だった。
しげしげとアリス(?)を観察する魔理沙と、俯いたままの霊夢を放置し、彼女は一人マーガトロイド邸に入り込んだ。
足を踏み入れる前に、念を入れて気配を探ることを忘れない。
家の中からこれと言った気配を感じることは無かった。
だからと言って油断は出来ないし、気を緩めていい理由にもならない。
今のこの家は、未踏のダンジョンと考えても差し支えないほどに不気味だった。
家の中はシンと静まり返り、物音は奥にあると思しき時計の動く音だけだ。
外で見た、アリスと思しき不気味な雰囲気少女と、家の中の静寂。
警戒するには十分過ぎる世界だ。
いつ、何が出てきてもいいように、咲夜は慎重に歩を進めて行く。
家の中へ一人入って行く咲夜を見た魔理沙は、自分も一緒に行こうと思って駆け出した。
呆然と立ち尽くしているアリス(?)の手を引きながらである。
酷く落ち込んだ顔をした霊夢を気遣っての行為だった。
アリス(?)を連れて咲夜の後を追って家に入った魔理沙は、奥の居間に入ろうとしている咲夜を呼び止めた。
結局何事も起こらず、無事に家の奥へと侵入を果たした咲夜は不意に掛けられた声に過敏に反応した。
そんな咲夜の様子に、逆に驚いた魔理沙は思わず深い溜め息を漏らす。
魔理沙を横目で睨んだ後、咲夜は居間の中を見回した。
綺麗に片付けられた、ごく普通の空間。
埃一つ落ちていない、その行き届いた環境に、咲夜は感嘆の、魔理沙は居心地の悪そうな溜め息を漏らした。
ひとしきり眺めた後、咲夜は部屋の中で何かを探し始めた。
その後を魔理沙もついていく。
居間にも小さな本棚があり、そこには魔道書も収まっていたが、魔理沙はそれを物色する気にはなれず、無視した。
酷く落ち込んだ霊夢のことを思い出し、普段の調子が出せそうにない。
そんな魔理沙を軽くからかいながら、咲夜はテキパキと捜索を続けて行く。
咲夜が探しているのは、アリスが最近手にした筈の、魔法の道具だった。
今、魔理沙が連れているアリス(?)から感じられる、アリスとは別の魔力の残滓、残り香。
これと、アリスの魔力の残滓が付着しているものに、このアリス(?)の謎を解く鍵があると踏んだのだ。
本来、魔法に詳しくない筈の咲夜が、何故こんな方法を知っているのか。
それは、自分が世話をする魔女の命令に従わねばならないという境遇から得た、ちょっとした探し物の方法だった。
魔女の「あの時使ったあれを持って来い」等と言う難しい命令をこなす内に覚えていった、経験の賜物なのだ。
感覚を研ぎ澄まし、自身に潜在する魔力を高めて、咲夜は部屋の中を隅々まで探した。
本棚は……無い。
飾り棚も、ハズレだ。
居間には存在しないのだろうか。
念の為にもう一度居間を探そうと思った時、魔理沙が咲夜に声を掛けた。
探すならば、実験室だろう、と。
咲夜の、物探しの腕前を見ながら、魔理沙は感心すると共に、やはり犬じゃないかと思っていた。
実験室からは、咲夜が求めていた、「つい最近のアリスの魔力の残滓」が付着した品々がポンポンと出てきたからだ。
中には滅茶苦茶に突っ込まれた機材の箱からピンポイントで抜き出されたものもあり、咲夜の捜索能力の高さを伺わせる。
探し始めてから10分が過ぎた頃。
咲夜は一冊の本を手に取った。
その本のタイトルは。
◇
深い霧に包まれた湖の先にある、血の色そのものの館、紅魔館。
その紅魔館の中にある魔法図書館。
埃っぽくて薄暗く、林立する本棚のせいで窮屈な印象を与える日陰の世界は、普段は主人である魔女とその従者の二人しか居ない。
たまに使用人や館の主人、泥棒も居るが、今日のように大勢が押しかけるようなことは滅多に無いことだ。
図書館の主であるパチュリーに従者の小悪魔、咲夜、魔理沙、霊夢、そして。
虚ろな微笑を顔に貼り付けたまま、カクカクと壊れた操り人形のように踊り回る、アリス・マーガトロイド「だった」少女。
普段、この図書館には存在しない顔ぶれが何故、今この場に集っているのか。
その原因であり理由のすべてである少女は、声を立てずにケタケタと笑って狂った踊りを続けている。
そんな彼女を、霊夢は悲しげな瞳で見つめていた。
魔理沙は不機嫌な顔で明後日の方向を睨み、咲夜は霊夢を心配そうに見つめている。
パチュリーはそんな彼女達を困った顔で見回していた。
──あの日、咲夜がアリスの家の実験室から見つけ出した本は「完全なる従者の誕生」。
この図書館でアリスが見つけ、求め、パチュリーが貸し出しを許可した魔道書。
アリスが最後に「魔法的な何か」を行使した痕跡のあるアイテム。
それを調べることで、今目の前で踊っている少女が、何故こんな状態になってしまったのか、その謎が解るかも知れない。
本を見つけた咲夜は霊夢と魔理沙にそう言って、魔法に詳しい人物を探すことにした。
と言っても、彼女達の知り合いで高度な魔法使いと言えば数えるほどしか存在しない。
パチュリーの存在に気付くのにさして時間は掛からなかった。
ちなみに魔理沙は、魔道書の中身が読めなかったので早々に候補から外されてしまった。
彼女が不機嫌な顔でいるのは、自身の不甲斐無さに腹を立てているのだろう。
ともあれ、彼女達が知り得る魔法使いで最も優れているパチュリーに白羽の矢が立ったというわけだ。
魔道書の解析と、アリス(?)の謎の究明の依頼。
自分の所に話が持ち込まれた時、パチュリーは面倒だから断ろうと思った。
顔見知りだし仲が悪いわけでもないが、特別仲が良いわけでもない。
誰だって、特別親しい相手や断れない関係でも無い限り、面度な事に進んで手を出す事は無いだろう。
パチュリーも例外ではなく、面倒ごとには関わらないようにしようと思っていた。
だが、アリスの痛々しい姿と、悲痛な表情の霊夢を見ている内にいたたまれない気持ちになり、渋々ながら引き受けることにしたのだ。
自分も存外、人が好いなと思い、パチュリーは苦笑した。
お人好しの魔女など、聞いた事も無い。
まだまだ魔女としては浅いと思いながら、パチュリーは解読と分析に必要な本の選別を、思考の中で始めていた。
集中出来ないから、と理由を付けて霊夢達を図書館から追い出し、パチュリーは書斎に篭った。
鍵をしっかりと掛け、あらかじめ淹れさせておいた熱い紅茶を一口啜る。
机に向かうと、彼女は早速、魔道書との格闘を始めた。
魔道書の記述は難解な魔法用語で埋め尽くされていたが、「まだ」100歳とは言え、魔女であるパチュリーには容易に解読可能な内容だった。
この程度ならあの娘でも読めるだろうと、今回の騒動の原因である人形遣いの少女を思い出す。
彼女にとってアリスは、特に親しい関係では無い。
ただ、宴会の時などで、魔法に関する深い話が出来る唯一の存在だったので、姿を見せなくなった頃から気にはなっていた。
何か大掛かりな実験でもしているのだろうと、深く気にしないようにしていたのだが。
まさか、あんな状態になって再会することになろうとは、流石のパチュリーも予想出来なかった。
彼女の友人ならば、あるいは察知出来たかも知れないが。
まあ、起きてしまった事は仕方が無い。
今は、ついつい引き受けてしまった、知り合いの頼みを叶えてやる事に集中すべきだろう。
400歳と395歳年上の友人以外の、他の誰かの頼みを聞く事は久し振りだ。
たまにはこんなこともいいだろうと、彼女は思う。
丁度、退屈しそうな所だったし、いい退屈しのぎになりそうではないか。
それに、魔法の話や本の話をする相手にもそろそろ戻って来て貰わないと、退屈で枝毛が増えてしまいそうだった。
髪の手入れは嫌いではない、と言うより好きな方だからいいのだが、やはり枝毛は気になる。
やはり、あの少女には早々に元に戻って貰わなければなるまい。
アリスがあのままならば、恐らく霊夢の、あの悲痛な表情は永く変わらないだろう。
そうなると宴会を開く事は無理になるし、我侭な友人も不機嫌になって暴れるかも知れない。
霊夢は彼女のお気に入りなのだ。
「夜の王」の通り名を持つ彼女が暴れれば十中八九、自分にも何かしらの「とばっちり」が飛んで来る。
そしてそれは、大概にして面倒事と相場が決まっているのだ。
急いでやらねば。
鋼どころかどこぞの伝説に出てくるヒヒイロカネも真っ青の精神を持つと思われた霊夢の、あの表情。
親愛なる筋金入りの我侭大魔神の吸血鬼。
一方は壊れそうで、一方は色々と壊しそう。
猶予は、無い。
パチュリーは残りの紅茶を一気に飲み干した。
冷めた紅茶は彼女の好みではない。
味わいながら飲むには、淹れたての熱い紅茶でなければ。
微温い液体が喉を通るのを感じながら、パチュリーは意識を集中させた。
意識を研ぎ澄まされた槍の穂先のように鋭角化し、思考の中にいくつもの「栞」作り上げていく。
「栞」で区切られた思考は、それぞれが独立して思慮、思考を可能とする。
細分化された意識領域を、それぞれ高速で働かせる為に、パチュリーは精神を集中させていった。
本の内容の確認。
想定される実践結果の推測。
自らの、この100年で蓄え培って来た知識と知性の展開、応用。
無限に広がる可能性を、有限に絞り込み、「∞」を「1」へと近付ける。
導き出された答え、その先。
更なる解法を貪欲に求めろ。
「栞」で区切った思考で、それぞれの作業を一斉に開始する。
紫の魔女は思考の世界に没入した。
◆
──暗い。
見渡す限りの漆黒で、暗い。
夜だろうか。
この暗さは、何も見えない昏らさは、闇だろうか。
何も感じない。
何も聞こえない。
何も無い。
ここは、どこだろう。
ここは、何なのだろう。
ふつふつと湧き上がる疑問。
ここは何処で、何故何も感じないのか。
そして、今、考えている自分は、何なのか。
名前は?
そもそも、自分は、誰で、何なのだ?
何かを思い出そうともしてみたが、無理だった。
思い出せない。
いや、そもそも自分に何かがあったのかさえ疑わしい。
忘れたのではなく初めから無いのではないか。
解らない。
解らないが。
──至極、どうでもいい気がする。
自分が誰で、何だっていいじゃないか。
記憶があろうが無かろうが、忘れていようが、どうでもいい。
湧き上がった疑問も、例えば、自分の知らない場所で誰かが何かをしたと言う事を人伝に聞いて知った、その程度の認識しか持てない。
そんな、知らない場所で知らない誰かが何をしたって別にどうでもいいじゃないか。
場所も、その人も、その人が何をしたかも解らないことなど、知っても仕方が無い。
興味を持てないし、持ちたくも無い。
否、それすらどうでもいい。
何も無くていい。
自分には何も無くていい。
何も無い。
無い。
この、「自分」と言う概念だって、無くていい。
いらない。
興味無い。
何もかもどうでもいい。
消えてしまおうと思う。
そうすれば、どうでもいいと思う事さえなくなる。
何も感じず、何も思わず、何も考えず、何も無くなるのだ。
素晴らしいじゃないか。
無だ。
無になろう。
何もかもが煩わしい。
全部、消えて、楽に。
自分なんて、いらない。
「私」なんて。
──だと言うのに。
何かが、私の中で引っ掛かる。
それが何なのか、解らない。
それが私の中に苛立ちを生まれさせる。
そして。
何かが、誰かが、私を呼ぶのだ。
聞こえない。
そして、その誰かが呼ぶ、私の名前が、私には解らない。
けれど、その名前が私だということは、何故か理解出来た。
声は聞こえない。
けれど、聞こえる。
私の中に響く。
その声無き声が、私を呼び、留まらせ、私を私で無くさせる邪魔をする。
違う。
私を、求めてくれている。
この、何も無い、私を。
私は。
私は。
◆
パチュリーが図書館に引き篭もってから二日が過ぎた。
その間、アリスは紅魔館に預けられ、霊夢はそんなアリスの傍から離れず、この二日間を彼女と過ごした。
何度も何度も彼女に話し掛けては返事が返ってこないことに落胆し、またそれを繰り返す。
彼女の名前を呼び、二人で過ごした思い出を語り、一人で笑ったり泣いたり怒ったりする霊夢の姿は健気で、悲しいものがあった。
アリスはカクカクと不気味な動きで走り回ったり、一日中動かずに微笑浮かべているだけで霊夢の呼びかけに一切反応しない。
咲夜はそんな霊夢を見て、パチュリーに一刻も早く謎を解いて欲しいとひたすら願った。
何が出来るか解らないし、何も出来ずとも、霊夢達の傍に居てやりたい。
あるいは魔理沙のように、謎の手掛かりや、アリスを元に戻す方法を求めて動き回りたい。
しかし、自分はメイド長としての仕事がある。
持ち場を離れることは許されない。
だから、こうして仕事の合間を縫って見守り、すべてが上手く行って終わるようにと願うしか出来ないのだ。
だが、そんな咲夜を嘲笑うかのようにまた一日が過ぎ、その日も何の収穫も報告も無いまま終わっていく。
咲夜が悔しさを噛み殺しているその間も、霊夢は病的にアリスの名前を呼び続けていた。
彼女が返事をしてくれる事を願って。
そんな二人を、今も見守っていた咲夜だったが、一匹の妖精メイドに呼ばれて普段のメイド長としての顔に戻った。
そう、今は仕事の最中だ。
メイド長である自分がサボれば、実質、紅魔館の機能は停止する。
ほとんど役に立たない妖精メイドに期待してはいけないのだ。
中には勤労で、役に立つ者も居るが、数が少ない為に労働力としては、やはり当てにならない。
彼女に声を描けてきたのは、そんな数少ない「使える」妖精メイドだった。
咲夜は用件を手短に話すように命じた。
如何に「使える」妖精メイドでも妖精に変わりは無い。
下手に話し込むと延々話が続くので、注意が必要なのだ。
咲夜が命じると、メイドは咲夜に近付いて早口で耳打ちした。
図書館の主が呼んでいる、と。
霊夢とアリスを連れて、咲夜が図書館の入り口へやって来ると、そこには顔色の悪いパチュリーが小悪魔に支えられて立っていた。
そんなに疲れているのなら、わざわざ出迎えなくてもいいのに、と咲夜は思ったが、口にも表情にも出さない。
傍らの霊夢は、不安げな表情でアリスとパチュリーの顔を交互に見ていた。
呼ばれたということは、何か解ったのだろうか?
期待と不安が入り混じった表情で、霊夢はパチュリーが喋るのを待った。
自然と緊張している自分に、咲夜は苦笑いを浮かべそうになるが、それを噛み殺して我慢する。
今のこの場には、どんな笑顔も存在してはいけない──そんな気がする。
やがて、徐々に顔色が悪くなって今にも気絶しそうな表情のパチュリーが、咳き込みながら口を開いた。
口を開いて──。
泡を吹いて倒れてしまった。
◇
気力と体力の限界に達して気絶したパチュリーだったが、小悪魔に、頭部へ手刀を右斜め45度の角度で打ち込まれ、辛うじて復活した。
用意された肘掛け椅子に倒れるように座り込み、ゼェゼェと息をする。
何とか復活したものの、パチュリーが限界であることに変わりは無い。
見かねた咲夜が、身体に障ってはならないと、休むように薦めた。
しかし、彼女はそれを拒んだ。
パチュリーとしては、用件を片付けてから休みたいのだ。
寝覚めは良い方に限る。
自分が昏睡している間に事態を解決させる為に、パチュリーは奮起した。
身体はふらふらするし、視界はぼやけて、集中しないと意識が保てないが、何とか我慢する。
だが、痛みは流石に堪え切れなかった。
頭部の、実に妙な位置に鈍痛が走るのだ。
誰かが気絶しかけた自分を気付けたのだろう。
ジロリと集まった面々を見渡すと、彼女の横で明後日の方を向いている小悪魔を見つけた。
犯人は、この小生意気な従者だろう。
目覚めの後はたっぷりと苛め抜いてやろうと、ぐらぐらする心の中で誓う。
射殺すような視線で自らに気付けを行った小悪魔を睨みつけた後、パチュリーは解析結果の報告に入る事にした。
彼女が最初に語ったのは、咲夜が持ち帰った魔道書の内容についてだった。
本のタイトルは「完全なる従者の誕生」。
魔法で作り、動かす、マジックアイテムとしての人形について書かれた本である。
記述内容は基本的な人形制作の技術に始まり、高度な技術、奥義と呼べるものまで、実に膨大な量だ。
その中でも奥義に当たる部分に、この本をアリスが持ち出した動機が隠されている(貸し出された本だと言うことは説明済みだった)。
その内容とは、制御、管理、操作を必要としない完全自律する人形を作り出す為の理論だった。
アリスの夢は自律して動く人形の制作と完成である。
パチュリーの話を聞いている内にそのことを思い出した霊夢は、あの喧嘩の根の部分を理解出来たような気がした。
あの時既に、アリスは完全自律する人形の制作、または理論の組み立てに入っていて、自分はそんな彼女の邪魔をしていたのかも知れない。
だとすれば、あの喧嘩で悪いのは、自分じゃないか。
改めて、今度は心から謝ろう。
霊夢はそう決意して、パチュリーの話に再び集中する。
自律して動く人形の完成を夢見る者達、アリスにとって、本に記述されている内容は、まさに宝のように思えただろう。
だが、現実はそんなに甘くなかった。
記述されている理論はすべて、一歩惜しかったり、机上の空論に近いものしかなかったのだ。
つまり、どれも不完全な理論だった。
ただ、使えない、役に立たないかと言えば答えは否だ。
どの理論もそのままでは役に立たないが、それらを元に、更に研究を重ねることで更なる発展が望めそうなものだったのだ。
要するに、参考書のような働きをしてくれるのである。
本の内容に関して喋り終えたパチュリーは、小悪魔が持ってきた水を一気に呷り、理解出来たかと一同に質問した。
咲夜は無言で頷く。
霊夢も、魔道書がどう言った内容なのかは理解出来たので、咲夜に倣って頷いてみせる。
質問が無い事を確認すると、パチュリーは咳き込みながら話の続きを始めた。
魔道書には自律する人形の制作に関する理論が複数記述されているのだが、それらを総て話すつもりは無いと、パチュリーは言った。
事態に関する事以外は話すだけ時間の無駄である。
ここに集っている、アリスを除く全員がそれを理解していたが、彼女は一応、そう断った。
──今度の事態に触れる箇所。
それは「傀儡の呪法」と呼ばれる魔法技術だった。
手順は先ず、対象となる生物の精神を破壊、または封印し、真っ白な状態に初期化する。
次に、破壊、または封印する事で精神、人格などを初期化し、専用の魔道式を初期化した領域に挿入し、展開する。
挿入される魔道式は、高度な思考能力や命令をスムーズに実行させる為に必要な擬似人格、忠誠心を纏めて圧縮したものだ。
式が展開されると、対象は術者の意図した通りの人格、思考能力を持った、ある意味での操り人形、即ち傀儡となるのである。
高度な思考能力と、命令を忠実に実行し、絶対に逆らわないようにする忠誠心。
加えて擬似人格による作り物の感情に主人への情、例えば愛情などを組み込んでおけば、その傀儡は主人を絶対に裏切らない。
その他に、思考能力の部分に自己管理機能と高速演算可能な能力を持たせればどんな状況下でも有効に活動させることも可能だ。
加えて高度な思考能力と擬似人格の相乗効果で、大目標を設定すればそれを完璧以上の結果で成し遂げようとする。
主人を想えばこそ、より最良の結果を導き出すと言うわけだ。
学習能力を付加すれば簡単な命令を一つ与えるだけでも「主人の為に」積極的に様々な結果を出すことも出来る。
決して逆らわず、しかし意思を持って行動し、多くの命令を必要としない道具。
理想的な、道具と道具を扱う者の関係。
この呪法はそれを実現可能にする。
ただ、それだけではただの洗脳と大して変わらない。
違うのは手間が掛かることと、処理能力が高くなる事、洗脳が解ける心配が殆ど無いと言う差だけだ。
ここまでの話を聞いて、霊夢と小悪魔は酷く表情を険しくしていた。
咲夜も平素を装っているが、内心穏やかでは無い。
特に霊夢は、話の内容と「傀儡の呪法」に激しい嫌悪と怒りを感じていた。
洗脳し、操る。
何とも傲慢で、禍々しく、おぞましい。
意思を奪い、身体を奪って、その者の存在価値を弄び、尊厳を踏み躙る。
生きているものを道具に変える。
道具とは、即ち、物だ。
この呪法は、「生きている」と言う「価値」を殺し、破壊し、そのものを生きた屍に変えるのである。
あまりにも外道で、邪悪な魔法。
とても許せるものではない。
この呪法の開発者がこの場にいれば、霊夢は躊躇わずにその者を叩きのめすだろう。
霊夢から湧き上がる怒りの気配に、以前彼女に酷い目に遭わされた小悪魔は怯えた。
咲夜からも、言い様の無い苛立ちに似た気配が幽かに溢れ、場が重く息苦しい雰囲気に包まれてしまう。
彼女達ほど嫌悪感を抱いていなかったが、パチュリーも、好みとしては嫌いなものだった。
魔法も突き詰めれば外道の世界のものだ。
魔女たる自分がそれを嫌うなど、自分の存在を否定するようなものじゃないか。
彼女はそれ以上、好みについて考えるのを止める事にした。
今は話を続ける事が優先だったし、何よりこの体調では、ネガティブな思考を続ける気力も無い。
幸い、何とか自制した咲夜が先を促してくれたので、パチュリーは再び咳き込みながら話し始めた。
霊夢も自身を何とか押さえ付け、話しに集中することにする。
洗脳とあまり変わりが無いと言うと、聞こえは最悪だ。
だが、結果として自由に操る事が出来る以上、「人形」としては完成形と言えなくも無い。
思考能力と擬似人格も搭載する為、「自律する」と言う点もクリアしていると言えるだろう。
一見、完璧に見える「傀儡の呪法」の理論。
だが、パチュリーが最初に言ったように、本に記述されている理論は、その総てが不完全なのだ。
では、この理論を完璧にするには?
何が足りていないのか。
この理論の欠点。
それは呪法の対象が生物であると言う事だった。
生物である以上、肉体には当然寿命があり、それを超えれば使えなくなる。
その上、老衰によって身体能力は低下していく為、長期の利用は不可能だ。
また、身体を維持する為に食事を摂らなければならず、睡眠、排泄など、道具と呼ぶには不要な要素が多数出てくる。
生きた身体の為に、壊れたら修理、ともいかない。
使い勝手がいいかと言えば、決してそうではないのだ。
これが、この理論の不完全な理由だった。
ただ、寿命と言う耐久性に関しては、術者が、平均して100年以上生きられない人間であるならば欠点とは言えない。
あくまで「魔法使い」がこの呪法を利用すると言う観点から見ての欠点だ、とパチュリーは言った。
悠久の時を生きる魔法使い、魔女には、100年足らずで使えなくなる道具は邪魔でしかないからだ。
今まで黙って話を聞いていた霊夢だったが、ここに来て初めて口を開いた。
今までの話とアリスにどんな関係があるのか、と。
先程からパチュリーが話している事は本の内容と、その中の一節についての解説だけで、アリスについては一切触れていないのだ。
本題はまだか、と霊夢はパチュリーに問い詰めた。
霊夢にとっては難解な魔法の講釈よりも、アリスがどうなってしまったのかを知る事の方が遥かに大事だったからだ。
今にも食って掛かりそうな、鬼気迫る表情で霊夢はパチュリーに詰め寄った。
パチュリーはゼェゼェと息をしながら、そんな霊夢を見つめていたが、やがて彼女に向かって小さく微笑んで見せた。
本題はこれからだ、と。
パチュリーは霊夢に、自分が話した内容をもう一度思い出すように言った。
それがアリスに起こった事を理解し易くしてくれると言うのだ。
霊夢は戸惑ったが、パチュリーに要点だけを述べれば良いと言われ、先程のパチュリーの話の内容を思い出してみることにした。
魔道書の内容、自律する人形へのヒントとなる記述。
その内の一つをパチュリーが紹介した。
「傀儡の呪法」と呼ばれるそれは、人を道具へと変えてしまうおぞましいものだが、欠点を抱えている……。
霊夢は一言一言確認するかのように、自分が思い出した内容を口に出していった。
人形、道具、欠点。
生きている者を道具にしてしまう外道の技。
霊夢がパチュリーの指示通りに、彼女の話の要点を言うと、パチュリーは青い顔で満足そうに微笑んだ。
そして、一枚の畳まれた紙を取り出し、それを霊夢に手渡して──。
白目を剥いて気絶した。
倒れたパチュリーは完全にダウンし、小悪魔が手刀を打ち込んでも拳を突き込んでも、もう目を覚まさなかった。
ならばと、小悪魔がパチュリーを持ち上げてタイガードライバーの体勢に入ったのを、咲夜が慌てて止めさせる。
何故か残念そうな顔の小悪魔だったが、今度は何かの呪文を唱え始めた。
彼女の周囲に稲妻が生まれ、バチバチと物騒な音を立て始める。
電気ショックで無理矢理起こそうと言うのだ。
だが、次の瞬間、小悪魔は足を抱えて悶絶していた。
どうやら時を停められている間に、咲夜からアキレス腱固めを受けたらしい。
真面目な話の腰を折る恐れのある小悪魔を、咲夜は容赦無く黙らせたのだ。
咲夜が指を鳴らすと、妖精メイド達が現れ、悶絶する小悪魔とダウンしたパチュリーを、どこかへ連れ去って行く。
パチュリーは医務室へ、悪ふざけの過ぎた小悪魔は反省房だろうか。
ドタバタと騒がしい中で、霊夢はそんなやりとりを無視して手渡された紙を広げ、そこに書かれた文章に目を通し始めた。
咲夜もやって来て、肩越しに内容へ目を走らせる。
そこには以下のような文章が、神経質そうな字体で綴られていた。
■
【アリス・マーガトロイドの容態について】
私が説明した内容が真実だと仮定して、この内容を読みなさい。
出来ないのなら読むのを止める事。
何故、彼女がこんなことになったのか、その動機は、私には解らない。
ただ解る事は、彼女が自分自身に「傀儡の呪法」を施したと言う事だけだ。
■
その文章を目にした瞬間、霊夢の瞳は大きく見開かれ、息を飲み込んだまま呼吸を忘れたかのように、彼女は硬直した。
アリスが、自分に、「傀儡の呪法」をかけた……?
馬鹿な。
あんな、生きているものを操り人形に、道具に変えてしまう、おぞましい邪法に、アリスが手を出したなんて。
彼女の性格は、自分が一番良く理解しているつもりだ。
彼女の好みも、流儀も、嫌いな事も。
自分の知っているアリスが、「傀儡の呪法」に手を出すだなんて!
しかも。
それを自分自身に。
一体、何故?
心臓が早鐘を打ち、鼓動で聴覚が塞がれる。
瞳は開かれているだけで何も映しておらず、怒りのような、悲しみのような、理解不能の激情が霊夢の全身を貫いた。
馬鹿な、そんな馬鹿なことが。
ありえない。
あのアリスが?
嘘だ。
いや、きっと何かあったんだ。
そうだ、そうに違いない。
尋常ならざる様子の霊夢に気が付いた咲夜が、彼女の肩を揺さ振って正気に戻すまで、霊夢は激情の渦に飲まれていた。
信じられない気持ちと、嫌悪、怒り、そして何がどうなっているのか解らない自分への苛立ち。
そんな霊夢をなだめて、咲夜は紙に書かれた続きを読む事を提案した。
先ずは読んでしまおう。
それから考えても遅くは無い。
説得の末、霊夢は何とか落ち着きを取り戻した。
爆発しそうな、言いようの無い感情をどうにか押さえ付け、霊夢は先を読むことに集中する。
咲夜もそれに倣い、二人は一緒に読むことに没頭していった。
■
彼女が自分自身に「傀儡の呪法」を施した理由、動機は、上でも述べた通り、私には解らない。
だが、彼女の、今の状態は呪法を施した結果ではないのか、と考えるのが、妥当だと思う。
呪法が記述された本を彼女が私から借りた事、彼女の状態から推測して、ほぼ間違いは無いだろう。
ただ、それが成功した、とは思えない。
あの呪法が成功しているのなら、今頃彼女は、擬似人格と高度な思考能力を搭載した人形として活動している筈だ。
だが、今の彼女は何も出来ず、言葉も片言で、まるで廃人だ。
人格消去の段階か、挿入する魔道式が不完全だったかのどちらかだと考えるが、呪法は失敗したと思われる。
結果、彼女は今のような、哀れな姿になってしまったのだろう。
ただ、成功していたら、それはそれで哀れな姿になっていた筈だ。
成功せずに失敗した事に、幸運を感じずにはいらなれない。
私個人は、あの呪法を認めはしても好きではないので、成功しなかったことに喜びを感じるが、それはどうでもいい。
問題は、失敗による影響だ。
どの部分で失敗したのか、私はそれが気になった。
そこで、霊夢が寝ている間にアリスを調査することにした。
「傀儡の呪法」は対象の精神に影響する魔法なので、彼女の精神について、探査系の魔法を使い、精神の情報を読み取る事にしたのだ。
結果として、解った事は二つ。
一つは、呪法は失敗では無く、不完全だったと言う事。
彼女は自我と記憶を深層意識の奥深くに封印し、表の部分を初期化したのだが、その上に置くべき魔道式を用意し忘れたらしい。
莫迦なのか、または慌てていたのかは知らないが、このおかげで呪法は不完全に終わったと言う事だ。
二つ目、これが最も重要な事だが、アリスが回復するかどうか。
結論は、可能である。
幸いにも彼女は挿入するべき魔道式を挿入し忘れた。
これにより、人格に魔道式が溶け込み分離不可能になると言う事態に陥らずに済んだのである。
不幸中の幸い、と言えるか。
また、人格情報を破壊せず、封印しただけと言うのも幸いだった。
断片化した情報の回収作業などを話しても解らないだろうから書かないが、とにかく魔法的な手間はそう掛からないようだ。
問題は封印の解除に時間がかかりそうだという事ぐらい。
時間をかけて解除していかなければ、破損する恐れがあるからだ。
解除の方法は、非効率だが彼女自身に呼びかけ続け、自我を彼女自身に取り戻させるしかない。
彼女の自我を、彼女の意思で取り戻させる事が出来れば、何の問題も無く彼女を元に戻せるだろう。
『追記』
アリスの片言や挙動不審な行動は、初期化された人格に周囲の人形の行動が影響された結果、生まれたものだと思う。
彼女が「傀儡の呪法」の不完全さを克服しようとしたのなら、魔法使いの身体に施すのが一つの正解だと私は考えている。
食事などの要らぬ手間が完全に省けるし、寿命の概念も気にする必要は無いからだ。
以上。
恐らく私は暫く会えないだろうが、問題無いだろう。
むきゅー。
■
霊夢は最後まで読んでいられなかった。
治る。
アリスが、元に戻る。
彼女を元に戻せる、この一節を目にした瞬間、他の事がどうでもよく思えた。
嬉しさで胸が一杯になり、思わず涙ぐんでしまう。
顔を上げると、咲夜がにっこりと微笑んでいた。
彼女はアリスの手を取り、霊夢にアリスの手を握らせて、ここから早く連れ出してしまえ、と囁いた。
アリスの心に呼びかけることが出来るのは霊夢だけだと、咲夜は知っている。
治せる方法が解っていて、それが今すぐにでも出来るのならば、やらない手は無いだろう。
二人にはいつもの日常に戻って欲しい。
そう願って、咲夜は霊夢とアリスを見送った。
目を覚ましたらパチュリーに礼を言ってくれと言って、霊夢はアリスを連れて紅魔館を後にした。
二人を見送った後、まだ残っている仕事を思い出し、咲夜は溜め息を漏らした。
倒れたパチュリーの介抱も余計に増えて、今日は忙しそうだ。
だが、不思議と身も心も軽い。
今日はさっさと仕事を片付けて、のんびりしようと思う。
大きく伸びをして、彼女は自分の日常へと戻って行った。
◇◆◇
暗く、憂鬱な冬が終わり、幻想郷に春が訪れる。
冬の妖精達と春の妖精達が入れ替わって、春の訪れを幻想郷に告げるのだ。
暖かくなった事で陽気になった、年中存在する妖精達も一緒になって騒ぎ立て、冬が終わった事を強く意識させる。
ある者にとっては寒いだけだった冬が、ある者にとっては元気の出る冬が、ある者にとっては悲しい思いをした冬が、終わったのだ。
明けない夜は無いように、明けない冬も無い。
冥界の亡霊姫や竹林に住む月の姫が悪戯をしたこともあったが、自然の営みと流れを変える事は何者にも出来ないのだ。
冬を越えた草木も、冬眠から目覚めた動物達も、やはり冬眠していたすきま妖怪も目を覚まし、春のうららかな陽射しを享受していた。
春は誰にも必ず訪れる。
それを感じているかいないか、感じられないか。
その差があるとしても。
春は必ず訪れる。
季節が変わっても、ここ博麗神社には相変わらず、参拝客の姿は無い。
神社に続く道から境内まで、満開の桜が美しく咲き誇っているが、それを楽しんでいる者は一人もいなかった。
ただ、近々祭りがある為、複数の人が出入りしている形跡はちらほらと見え、まったくの無人地帯ではない事を証明している。
普段は見えなくても、忘れ去られているようで忘れられていない場所。
いつも変わらず、そこに存在する場所。
それが、博麗神社だった。
だが、この春はいつもと違うところがいくつかあった。
一つは、普段からは考えられないほどの静けさだ。
人の姿は絶えていても、変わらずいつも、そこに居る筈の妖怪達まで、今の神社には存在していないのだ。
不気味なほど静かな神社に、祭りの準備に訪れた人間達は場所を間違えたかと思ったほどだった。
もう一つは、博麗神社にもう一人の住人が増えた事である。
博麗神社の巫女である霊夢と揃いの巫女装束を身に付けた、金髪の美しい、人形のような少女。
寡黙なのか、喋らず、表情も乏しい彼女は儚げで、どこか神秘的な雰囲気を纏っていた。
そんな彼女の傍には、常に霊夢の姿がある。
霊夢はどこか憂いを帯びながらも幸福そうな雰囲気を持ち、彼女を知る相手には、まるで人が変わったかのように見えた。
二人の持つ雰囲気の影響か、神社は不思議な雰囲気の場所となり、久し振りに神社へと訪れた者を驚かせた。
まるで、まともな御利益がありそうな神社になってしまったと、寺子屋の女史が呟いたほどに。
正午を過ぎた頃、空を飛ぶ箒に跨った白黒の服に身を包んだ少女が、博麗神社の境内に降り立った。
博麗神社を訪れれば二日に二度は見れる顔だ。
霧雨 魔理沙である。
彼女は石畳を軽く蹴った後、母屋へと足を向けた。
手にした紙袋を振り回し、境内を自分の部屋のような雰囲気で歩いて行く。
何度も訪れている場所であり、今ではここの住人並に勝手を知り尽くしているのだ。
いくらも歩かぬ内に、魔理沙は母屋の縁側で茶を飲んでいる霊夢を見つけた。
霊夢の方も魔理沙に気が付いたらしく、彼女は面倒臭そうな顔で魔理沙を迎える。
魔理沙が霊夢の隣に腰を下ろすと、母屋の奥から一人の少女が姿を現した。
霊夢と揃いの巫女装束に身を包んだ、金の髪の寡黙な少女。
彼女の名前は、アリス・マーガトロイド。
霊夢の親友で、魔理沙の悪友で、今は、物言わぬ人形になってしまった、悲しい少女。
物言わぬアリスは無表情のまま、盆に湯飲みを載せて歩いて来て、霊夢の隣に腰を下ろした。
魔理沙には一瞥もくれないまま、霊夢に対して茶菓子の用意を始める。
──紅魔館で行われた、真相究明の集いの後。
あれからすぐ、アリスは霊夢が引き取った。
主人の居ないまま黙々と働き続ける人形達がいる家に、霊夢はアリスを一人置いていきたくなかったのだ。
主人が居らず、その奉仕も使命も、すべてが無意味になってしまった人形達と、彼女達が住む空間は、死んだ世界である。
アリスと言う主人が居て、はじめて意味を成す世界なのだ。
死んでいる世界に、今のアリスを置き去りにする事が霊夢には耐えられなかったのである。
彼女は物言わぬアリスを連れて帰り、一緒に暮らす事にした。
アリスをあの場所に置いておけなかったし、何よりパチュリーの言っていたたことを、霊夢は忘れなかった。
自我を失ってしまったアリスへの呼びかけ。
彼女の心に訴えかけて、彼女に心を取り戻させること。
それが、唯一アリスの心を元に戻し、元気な彼女に再び会う為の方法だった。
霊夢はアリスを家に連れ帰った日から、毎日を彼女と過ごし、話し掛け続けた。
来る日も来る日も話し掛け、アリスが返事をしてくれるのを、アリスが微笑んでくれる事をひたすらに願って話し掛け続けた。
霊夢だけでなく、魔理沙も含めて神社にやって来る少女達は皆、アリスに向かって話し掛け続けた。
帰っておいで、また遊ぼう。
貴女にもう一度会いたい。
願いを込めて、何度でも、いつでも。
毎日一緒に居る霊夢は、アリスに様々なことを語り、時には彼女を連れ出して、ずっと傍に居続けた。
アリスが寂しくないように、片時も離れず。
そんな霊夢の献身と、他の少女達の声がアリスに届いたのか。
最近になって、アリスに小さな変化が起こったのだ。
名前を呼んで語り掛ければ、その相手の方に何らかの反応を示すようになった。
自分に対して話し掛けていること、自分が呼ばれていることを解るようになったのである。
相手の事も認識出来るようで、頭を強く撫で付ける魔理沙には距離を取り、髪を梳いてくれる咲夜には嬉しそうに反応を示す。
記憶自体は僅かながらに残っていたようで、紫などが声を掛けた時に彼女の名前を呼んだりもする。
また、いつも傍に居て優しくしてくれる霊夢を特に慕っている様子で、自分から霊夢の傍に居ようとすることもしばしばあった。
今もこうして霊夢に茶菓子を出す行為も、彼女が自発的に行っているものなのだ。
魔理沙が自分の分を要求すると、アリスは不機嫌そうな表情を見せ、奥へと引っ込んで行った。
嫌われたものだと魔理沙は苦笑いし、霊夢は呆れたように魔理沙を見る。
だが、その表情はすぐに優しい微笑みに変わった。
変わっていない。
今のアリスと魔理沙の関係は、昔の彼女達の関係と変わっていないのだ。
魔理沙が悪ふざけをしてアリスを怒らせ、顔を合わせれば喧嘩ばかりしていたあの頃と、同じ。
アリスは喋れずに、今は記憶も自我も失っているけれど、二人の関係は変わらず、今もこうして仲違いをしている。
変わらない関係。
アリスは変わっていない。
今は心を無くしていても、彼女は彼女なのだ。
それが何だか嬉しく思えて、霊夢は自分でも気付かない内に笑っていた。
笑って、涙を流した。
絶対に、アリスの心を取り戻してみせる。
もう一度アリスに会いたい。
その為には、どんなことだってしようと思う。
紅魔館から帰ったあの日、心に誓った決意をもう一度。
紙袋から手土産らしき紙包みを引っ張り出している魔理沙に気付かれぬように涙を拭い、霊夢は空を見上げた。
何日だろうと、何年だろうと構うものか。
私は絶対に、もう一度アリスに会うんだ。
心地良い風が吹き抜けて行く春の青空に、霊夢は願いと決意を叫ぶようなイメージを広げた。
もう一度、必ず。
あの笑顔に会うんだ。
魔理沙が飛び上がって悲鳴を上げた。
どうやら、アリスは魔理沙のお茶を極端に熱くして差し出したらしい。
魔理沙は火傷した手に息を吹きかけながら、怒りの形相でアリスを睨んで八卦路を取り出す。
盆と、何故かおたまを構えて魔理沙と対峙するアリスの頭を叩き、霊夢は魔理沙に手を冷やすように言うのだった。
◇◆◇
例えどれだけの時が過ぎても、変わらない風景と言うものは存在する。
そんな場所は、細部の変化はあったとしても、その場所がその場所足り得る、大事な要素は変わらないものだ。
そう、例えば。
参拝客が一人も居ないところなどが。
その日は朝から強い北風が吹き、外を行く者達を尽く震えさせた。
夕方ともなると冷え込みは一層厳しくなり、寒さに弱い者は家に閉じ篭っている事だろう。
──今年の冬は特に冷え込む。
烏天狗の新聞屋が言っていた事を、霊夢は境内を掃除をしながら思い出していた。
最近になって天気予報の真似事を始めたらしいのだ。
10年も続けていると、流石の天狗も普通の新聞を書くだけでは飽きるてしまうらしい。
──あれから、10年が経った。
季節は移ろい、朝が来て夜が来る。
同じ繰り返しの中で、それぞれが新しい、違う時間を過ごして、喜び、悲しみ、怒って、笑った。
異変もたまにあったりしたが、深く残る傷が出来る事も無く、誰もが違う明日を迎えられると信じて疑わず、日々を過ごしている。
彼等は知らないのだ。
明日が来ないものの存在を。
止ってしまったものの存在を。
時はすべてのものに等しく流れる絶対不変のものだが、何事にも例外が存在するように、時の流れから置き去りにされてしまうものもいる。
誰もが明ける夜を過ごせるわけではないのだ。
10年経っても、明けない夜。
霊夢は、そんな、止まってしまった彼女と同じように、自分の時間を止めていた。
背は伸び、髪も伸びて、身体も大人になった霊夢は、目を見張るほどの美しい女性へと成長した。
力も以前より遥かに高くなり、巫女としての仕事振りも成功率100%の凄腕となり、一人前の巫女になったのである。
だが、心は今も10年前の少女のままだった。
霊夢はずっとアリスの傍に居続けた。
どんな時も彼女から決して離れず、この10年間、彼女と共に過ごしてきた。
アリスは、まだ、喋らない。
霊夢がどれだけ彼女に語り掛けても、彼女と共に日々を過ごしても、彼女は喋らないままだった。
変化が無かったわけではなく、今では喜怒哀楽の表情を薄っすらとだが出すようになり、霊夢の言葉を明確に理解出来るようにもなった。
身体も成長し、美しかったその姿は更に美しいものになり、二人が並べば老若男女、妖怪も見惚れるほどの麗女となったのだ。
だが、彼女の本当の心は、まだ彼女に帰って来てはいない。
アリスの心は未だ、深い深い闇の中を彷徨っているのか。
そう考えると、霊夢は胸がはちきれそうな痛みを覚える。
今も彼女は一人ぼっちなのか。
身体はこんなにも近くにあるのに、心はそこに無い。
箒を片付け、霊夢はアリスの名を呼んだ。
すると間も無くして、神社の裏を掃除していたアリスが嬉しげな表情で駆け寄って来た。
心と記憶を無くした、真っ白な人格。
無垢な子供のような彼女を見て、霊夢は瞳に熱い物が込み上げて来るのを感じる。
ダメだ。
もう、幾度と無く見ている、アリスのその表情。
疑いもせず、自分を母のように、姉のように慕うその純真で無垢な、アリスであってアリスではない彼女の姿。
何度見ても、その姿は霊夢に深い悲しみを与えた。
どうしてアリスは戻って来れないのだろう?
私の力が足りないのだろうか?
それとも、私だからアリスは怒って、出てこないのではないか?
己の無力さ、自身への疑念、このままもう二度と、自分は彼女に会えないのではないかと言う恐怖。
それらがどうしようもなく深い悲しみとなって霊夢を襲うのだ。
そんな悲しみに押し潰されないように、霊夢はアリスの身体を抱き締める。
こうしていれば、少なくとも彼女に一番近付けると思う。
自分が取れる一番の方法で、霊夢は悲しみと恐怖を紛らわせて、再びアリスの心へ呼び掛け続けるのだ。
帰って来て欲しい、もう一度貴女に会いたい、と。
けれど、霊夢の心も限界だった。
常にアリスのことだけを一番に考えていた霊夢は、孤独だった。
誰かが周りに居ても、一番居て欲しい人がそこには居ない。
どんなに望んでも、焦がれても、駄々を捏ねようとも、居ない。
姿はそこにあるのに、望めばこうして抱き寄せられるのに、彼女の心は、そこには無い。
人の心は、永遠の孤独に耐えれない。
いつかは折れ、砕けて、壊れてしまう。
霊夢は泣いた。
大きな声を上げて、泣いた。
アリスを力一杯抱き締めて、哭いた。
もう、駄目そうだった。
今の霊夢の世界には、アリスしか居ない。
それなのに、そのアリスも居ないのだ。
もう駄目だ。
耐えられない。
ごめんなさいアリス。
私はもう駄目だ。
貴女に会いたいのに、貴女はこんなにも近くに居るのに、貴女の心は、ここには居ない。
壊れてしまいそうだった。
何もかもが音を立てて崩壊していきそうな、そんな感覚。
それが怖くて、悲しくて、悔しくて、霊夢はアリスを抱き締めた。
霊夢の動きに合わせて、アリスも霊夢を抱き締め返す。
いつも自分がそうすると、アリスはこのように真似をして、自分を慰めてくれた。
けれど、それも今は意味が無い。
むしろ、真似でしかない、反射的な動作でしかないその行為に、霊夢は深い悲しみと絶望感を覚えた。
彼女じゃない、彼女ではない。
もう、私は。
そんな霊夢の行動に、物言わぬアリスは霊夢の身体を抱き締め返した。
いつも彼女が、自分へとする行為。
その行為に対して自分も同じ事をすると、彼女は喜んだ。
大好きな彼女。
れいむ。
初期化された人格の上に築かれた、酷く幼いその人格は、自分を抱き締めるこの女性が大好きだった。
優しくしてくれるから、ただそれだけではなかった。
彼女と一緒に居ると、それだけで理解出来ない嬉しさや安心感、幸福感が自分を包むのだ。
それが自分は大好きで、それを与えてくれる彼女がもっと大好きだった。
そんな、大好きな彼女が。
れいむが。
今、泣いている。
大粒の涙を流し、声を上げて、自分を抱き締めて。
彼女の中に、霊夢について回った先で、怪我をして泣いていた子供の姿が思い出された。
れいむはどこか痛いのだろうか?
いつも、自分がこうして抱き締められた時、こうして自分も抱き締め返せば、彼女は嬉しそうに微笑んでくれるのに。
抱き締められるのも抱き締め返すのも、その結果に見せてくれる彼女の微笑みも、全部大好きなのに。
どうしてれいむは泣いているんだろう。
泣き続けているのだろう。
胸が、痛む。
ズキズキと痛む。
れいむの悲しい顔を見ていると、酷く胸が痛む。
大好きなれいむ。
悲しませたくない。
泣かせたくない。
どうすればいいんだろう?
わたしはどうすればいいんだろう。
胸が、痛い。
……違う。
もっと奥、そう。
心が、痛い。
どすれば、いいんだろう。
わたしは、どうしたいの。
その時だった。
自分でも解らない内に、アリスは霊夢の身体を強く、強く抱き締めた。
自分の方が霊夢より背が高いので、彼女の顔を自らの豊満な胸に埋めるようにして抱き締めたのだ。
何故か、自分は知っている。
どんな風に抱き締めればいいのか、どんな風に彼女に接してやれば良いのかを。
愛しむような表情と手つきで、アリスは霊夢の顔を見つめ、頭を撫でた。
白く美しい指で、霊夢のきめ細やかな麗しい黒髪を梳いていく。
何故かは解らない。
解らないけれど、こうすればいいと、自分は知っている。
何故だろう。
けれど、理由など、どうでもいい。
彼女はいつしか泣き止んで、じっと自分を見上げている。
れいむが泣くのを止めた。
それが、嬉しい。
嬉しくて、アリスは霊夢を再び強く抱き締めた。
そうしたいと思ったからだ。
いつものように、霊夢が嬉しがるからではなく、自分が彼女を抱き締めたいと思ったから。
それは、アリスが10年の間で初めて感じた、明確な欲求。
そうしたいと願った、意思。
自身の感情。
アリスは初めての感覚に戸惑いを覚えながらも、その欲求を、願いを、心の赴くままに実行した。
れいむがわたしの腕の中でもぞもぞと動く。
苦しいのだろうか。
アリスはそう判断して腕の力を少しだけ緩めた。
拘束が緩んだ霊夢が、アリスをもう一度、見上げる。
熱い涙を零しながら、じっと、アリスの瞳を覗き込む。
アリスは、そんな霊夢にドキリとした。
鼓動が熱く、早くなる。
胸の中が、心が、熱い。
忘れていたような、熱い何かが、心の中で動き出すかのような。
忘れていた?
何を?
わたしは?
解らない。
解らないけれど、それはきっと……。
自分を見上げる霊夢の口が、静かに動くのをアリスは見つめていた。
それは酷く緩慢な動きに感じられた。
永遠に続くかのような、長い時間に感じられる。
霊夢の口が、ある形を取り、彼女の口からある音が零れてくる。
ア リ ス
アリス。
わたしの名前。
霊夢がそう呼ぶから、私はアリス。
そう思ってた。
けど。
頭の中で、心の中で、何かが、カチリと音を立てて動いた気がした。
キリキリと何かが巻かれ、そう、これはネジの音。
何のネジ?
人形を動かす為の。
ううん、違う。
人形じゃない。
ネジじゃない。
これは、鍵。
わたしの心の鍵。
何かがわたしの中で動き出す。
長い間眠っていた、何かが。
それがだんだん大きくなっていく。
それはとても懐かしい感じがして、暖かくて。
わたしは、それが放つ光のようなものに飲まれていった。
心地が良い。
やっと。
誰かの声がする。
もう、大丈夫。
わたし?
ようやく、自分の意思を持てた。
自分の想いを、出す事が出来た。
あれは、貴女がしたかったこと?
貴女と私。
私達がそうしたいと想って、それをしただけ。
貴女は、わたし?
そう。
私はわたし。
私達は。
そっか。
じゃあ……。
還りましょう、私に。
あの人が呼んでいるから。
大好きなあの人が。
10年も傍に居てくれて、今、壊れそうなあのお莫迦さんのところへ。
そして、私はゆっくりと目を覚ました。
何て言えばいいだろう?
解らない。
解らないから、名前を呼ぼう。
霊夢。
博麗 霊夢。
莫迦でお人好しで冷たそうな感じの癖に底抜けに優しい、私の、大好きな、誰より一番大好きな、最高の友達の名前を。
作者独自の解釈、設定を採用し、その濃度はかなり濃いので注意してください。
魔法の森の朝は、暗い。
鬱蒼と生い茂る木々が朝陽を遮り、高い湿度が森の雰囲気を陰鬱にする。
魔法の森の木々は冬でも青々としており、枯れ木など殆ど存在しない。
「魔法」の森だから、木の一本、草の一つ取っても奇妙で出鱈目なのである。
早朝には朝霧も生じる為、ただでさえ暗い森は一層の陰りを見せている。
季節が冬と言うことや、寒気も手伝って、より酷く、寂しい世界を作り上げていた。
朝が訪れても、しつこく夜の世界を引きずろうとしている……そんな空気を醸し出す。
それが、人や、力の弱い妖怪を、魔法の森が寄せ付けない要因の一つだと言っても、あながち間違いでは無いだろう。
幽かな陽光がカーテンの隙間から射し込み、暗い部屋に暖かな明かりが生まれる。
光に照らされて浮かび上がる影絵の空間。
そこは壁に据え付けられた飾り棚や、箪笥の上、本棚の上と、無数の人の形が並ぶ部屋。
この部屋だけではなく、それはこの家の至る所に存在していた。
大小、そして多様な種類の人形達。
その数は千、否、万を数えるだろうか。
そのすべてが皆女性の姿をしているのは、彼女等の生みの親、つまり製作者の趣味なのだろう。
無数の人形達が住まう、人形屋敷とでも呼べるような、そんな世界。
大量の人形達は、臆病な者には恐怖感さえ与える程の存在感を放っている。
だが、よく見ればそうではないこと気がつくだろう。
人形達は無機物でありながら生き生きとしていた。
「物にも魂が宿る」と言う言葉は、嘘ではない。
愛され、大切にされているモノには魂に近い「何か」を得るのだ。
どの人形も、作り手の愛情が込められた「生きている」人形だった。
生きている、と言っても、別に「生物のように生きている」訳ではない。
作り手であり、所有者である、この家の主人に心の底から愛されているのだった。
モノである筈の彼女達を、このように魅せる、彼女らに込められた想い。
愛情とは深く、強いものなのである。
──ここは人形達の住む家の、その奥にある一室。
可愛らしい造りの家具や小物入れが綺麗に配置された小さな部屋だ。
その部屋の奥に置かれた、洒落た造りのベッド。
頭を壁に向けて、潜る様に布団を頭まで被って、安らかな寝息を立てている人物が居る。
この家の唯一の生命であり、この家と、この家に住まう人形達の主人である。
陽が徐々に昇り、部屋に入り込む明かりが大きく強くなり始めた時。
居間にある大きな柱時計が、家の主人に目覚めの時間が来たことを、古ぼけた鐘の音で告げた。
同時に、部屋の中に涼しげな音が響き渡る。
枕元にある小さな目覚まし時計が涼しい音を立てて、主人を夢の世界から呼び戻した。
布団の中から白く細い腕が伸びて、勤めを果たす目覚まし時計を押さえ付けた。
やはり白く、綺麗な白い指がわきわきと動いて、鳴り響く目覚ましを掴むと、それを布団の中に引きずり込んでしまう。
ガチャンと小気味の良い音を立てて目覚ましの勤めを終わらせると、また布団から腕を出し、律儀に元の場所に戻した。
それから少しの間の後。
布団がもぞもぞと動き、可愛らしい、小さな欠伸が聞こえてきた。
ガバっと布団が撥ね退けられ、青いナイトキャップを目深に被った少女が欠伸をしつつ姿を現した。
寝ぼけ眼をこすり、しつこく出てくる欠伸を噛み殺して、大きく伸びをする。
艶やかな美しい金髪に、白磁の様に滑らかで、白く透き通るような美しい肌。
しなやかで均整の取れた肢体。
まるで人形のような、美しく可愛らしい少女。
この家の主人、七色の人形遣い、アリス・マーガトロイドである。
何度も欠伸をしながら、青いワンピース風のパジャマをのろのろした動作で脱いでいく。
上着を脱ぐ途中で、白いレースのキャミソールが上着に引っ掛かり、白い身体が露になりかけた。
臍から胸までが一瞬、生まれたままの姿を晒してしまう。
外気に晒されたアリスの肌はきめ細やかで、色こそ白いが病弱なイメージは無く、むしろ健康に輝いていた。
彼女は慌ててキャミソールを戻したが、ちらりと零れた桜色を見た者は棚に置かれた人形達だけだった。
寝起きで意識と身体がぼんやりとしていても、この時だけは機敏だった。
アリスはどこまでも乙女なのだ。
その後は特に何事も無く、彼女はいつもの青いドレスに着替えて洗面所へのろのろと向かった。
まだ意識がはっきりとせず、身体も気だるさにつつまれて、鈍いことこの上ない。
アリスは低血圧なので、朝は弱いのである。
洗面所にようやく辿り着き、鏡を覗き込んだのは、寝室から出た時から10分も過ぎた後だった。
アリス・マーガトロイドは魔法使いだ。
元々は人間であり、修行して魔法使いへとなった身である。
……本来、魔法使いには睡眠も食事も必要無い。
彼女は人間の身から修行して魔法使いになったので、捨食の魔法で食事を摂る必要は無くなっているのだ。
だが、アリスは食事も睡眠もする。
その、本来必要無い行為、生活を、彼女は人間の時と同じ生活をずっと続けているのだ。
実を言うと、人間の行う生活は、人間以外の者にとって、とても贅沢で魅力的なものなのだ。
人間には解りそうで、全然解らないことなのだが、人間の生活の在り方は意外と良い物なのである。
睡眠も食事も、その愉しみ、素晴らしさについて本当に理解している人間は殆ど居ない。
何とも勿体無い話だ。
そして、そのことに気が付き、それを愉しんでいるアリスは、贅沢なのである。
冷たい水で顔を洗い、眠気を落としてさっぱりした後は、髪に櫛を入れて寝癖を治していく。
寝癖を治す整髪料は自身で調合した物しか使わない。
森で手に入る薬草を煮詰めて作った、天然素材の髪に優しい代物だ。
人間の里で買えば楽に手に入るのだが、下手な物を使えばたちまち髪が台無しになってしまう。
信頼出来るものを手に入れたければ自分で作ることが一番だとアリスは考えている。
髪は女の命であると、アリスは思っていた。
そして、彼女は自分の、艶やかで美しい金髪に誇りを持っている。
それを守るのは当然だと、彼女は強く信じていた。
僅かに湿った髪に、最後に軽く櫛で梳かしながら、アリスは以前に香霖堂で見かけた外の世界の道具を思い出した。
それは温風で髪を乾かす機械だった。
髪をすぐに乾かせると聞けば便利そうだが、そんな物を使えば髪が傷んでしまうとアリスは思った。
その道具のことを思い出し、自分は絶対に使うまいと、アリスは改めて思ったのだった。
髪を整えて、ヘッドドレスをつけると、アリスは鏡の前で微笑んだ。
乱れ無し、今日もいつもの自分だ。
朝のこの瞬間は、身嗜みを整えるのと同時に自身の健康をチェックする作業も兼ねている。
体調は、良好。
肌の色も問題無い。
すべてを終えると、アリスは台所へと向かった。
朝食の準備の為だ。
アリスは台所の中央に立つと、短く深呼吸をすると、ごく小さな声で素早く呪文を唱えた。
唱え終わると、アリスの指先に魔法の光が燈り、魔力で編まれた幾条もの細い糸が指先に顕現する。
そして彼女が指を動かすと、一瞬の間をおいて、家の奥の方から無数の人形達が飛んで来た。
人形達はそれぞれが凝った刺繍やフリルのついたエプロンを身に付けていた。
中には割烹着姿の人形も居り、そのバリエーションは見る者を飽きさせない。
アリスの指先から伸びる糸は、一本一本に彼女の意思を人形に伝える機能を持っている。
この糸で人形を操作するのだが、別に糸そのものを操作する必要は無い。
糸は魔法で動くからだ。
彼女が指を動かすのは昔からの癖と、見た目の為である。
アリスの人形達は通常、命令を与えればその内容を忠実に、かなりの精度でこなす事が出来る。
現に、料理担当以外の別の人形達は既に与えられた命令「掃除、洗濯」を家の各所で始めている。
だが、料理のように微妙な加減が必要な「職人的な動作」をこなすことは未だ不可能だった。
だから、作業内容によっては直接操者が命令を下し操作せねばならない。
この、欠点と言える点を改善し、より精度の高い作業をこなせる人形を作ることが現在のアリスの目標だった。
そして、それらを克服した上で、完全自律型の人形を作成することが、アリスの最大の夢であり真の目標なのだ。
アリスが指先を動かすと、彼女の意思が人形達に伝わり、人形達はそれぞれの配置に付いて行く。
おたまや鍋、フライパンと調理器具を器用に操り、運ばれてくる野菜や肉を鮮やかに調理していった。
人形達に分担で作業させているが、料理の腕はアリス自身のものである。
指先が器用なアリスは、料理も得意なのだ。
料理はたちまち完成し、豪華な朝食が食卓に並んだ。
和と洋が混ざった、外の世界では流行らしいメニューだ。
そして、白い茶碗に盛られた、ほかほかと湯気を立てる白米と、朱塗りのお椀からやはり湯気を立てている味噌汁。
今朝のメニューはハムエッグにほうれん草の炒め物だ。
更に、新鮮な野菜たっぷりのサラダと、胡瓜の漬物も用意する。
ほんのりと漂う、食欲を誘う香りがアリスの鼻をくすぐった。
アリスは料理の出来に満足すると、早速食事にすることにする。
一口一口、良く噛み、味わって朝の食事を愉しんだ。
朝はゆっくり過ごしてから動くのがいい。
忙しなく動き回るのは、朝方の穏やかな空気に失礼だとアリスは思うのだった。
食後、アリスは勤めを果たした人形達に感謝の意を込めて、彼女等の手入れを始めた。
道具を扱う者は、その道具を大切にしなければならない。
──アリスは、人形達を物として大事に扱っていた。
それは主と道具の関係として、これ以上無いほどの関係だ。
道具は道具として、その与えられた存在意義を最大限に尊重する。
それがアリスの「物に対する愛情」だった。
物に与えられた存在意義。
それが物理的な奉仕であっても、心を癒す愛玩の対象としてでも、それは役目に違い無い。
そして、彼等が与えられた使命をこなせば、それに感謝をするのは当然だとアリスは考える。
生きているかいないか等は関係無い。
誰かから、何かから、自分が何らかの施しを受ければ感謝するのが当然だとアリスは思うのだった。
時刻が正午を過ぎ、昼食を摂った後。
アリスは日課である人形制作に没頭していた。
今は人形達に着せる衣服を縫っている。
彼女の人形が纏う衣服は、すべて彼女の手作りであり、そのすべてが手縫いだった。
機械を使えば早く、効率も良く作業が進むのだが、アリスはそれを使おうとはしなかった。
────人間と違い、魔法使いに寿命の概念は殆ど存在しない。
殺されたりでもしない限り、死ぬことはそうそう無い。
彼女にとって、時間は無限に存在していると言えるのだ。
その無限の時間、特に急ぐ意味も必要も無い。
機械を使った早い作業よりも、手で直接時間をかけて行う作業の方が、アリスは好きだった。
彼女は長く時間をかける行為を好んでいた。
何しろ時間は無制限にある。
それが、無限の時のもたらす退屈をしのぐ為の、無意識の行為だとも気付かずに。
作業に没頭している内に陽は落ち、夜の帳が降りて来る。
アリスは手を止めると、立ち上がって伸びをし、肩をほぐして、人形に紅茶を淹れさせた。
美味しそうな香りが鼻腔をくすぐり、昼から今まで何も飲んでいなかったことをアリスに思い出せた。
柔らかな唇をカップにつけて、火傷しないように少しずつ啜っていく。
熱い液体が喉を通り、身体がほっと熱くなる。
気付かない内に大分身体が冷えていたようだ。
熱い紅茶の味が舌にも身体にも心地好い。
不意に、寒気がアリスを襲う。
冬の夜の寒風が家の中に入り込んでいたのだ。
人形達が換気の為に開け放した窓を閉じ、カーテンを引いて夜に備えることにした。
アリスの指示で家中の人形達が一斉に夜へ向けて戸締りをし始める。
暗くなった外を見て、アリスはあることを思い出した。
月にニ、三度、博麗神社で開かれる宴会が、今夜あるのだ。
毎度毎度、変わり者の人間やら妖怪やら亡霊やらが集まって馬鹿騒ぎするだけの集まり。
だが、それが楽しくて価値のあることだとアリスは知っている。
きっと楽しいだろう。
行けば皆と楽しく酒を飲み交わし、料理を食べ、面白可笑しく過ごせるに違いない。
しかし。
アリスに宴会へ出掛ける気は無かった。
彼女も宴会に呼ばれていたが、それは前回の参加者全員に呼び掛けられた、云わば社交辞令である。
特に、彼女が参加しなければならないと言われているわけではなかった。
要するに、行かなくてはならない理由は無いのだ。
アリス自身も、特に行きたいとは思っていなかった。
行きたくないわけではないのだが、行きたいと思うほどでもない。
──それに、自分が行かずとも宴会は滞り無く進むと思う。
そこに私が居る必要性は皆無だ。
そう、アリスは考えた。
自分は必要無い。
誰からも求められていない。
居ても居なくても関係の無い存在、それが自分。
別に、それが悲しいとは思わない。
今までずっと一人でこうしてきた。
悲しいとか辛いとか、そんな感情は枯れてしまったと思う。
ただ、たとえ悲しくなくても辛くなくても、自分が不要な場所に自分を置いて、面白いわけが無い。
行っても惨めな思いをするだけだ。
だから、行かない。
道具と同じだ。
必要の無い存在は、必要とされない場所に存在してはならない。
無意味だ。
不必要だ。
無価値だ。
そんな場所に、自分を置く必要など無いのだ。
自分の居場所はこの家だけ。
それでいい。
飲みかけの冷めた紅茶を啜り、今この瞬間にも神社へと集まっている者達のことを思い浮かべてみる。
その中に、自分が会いたいとも、話したいとも思う者はいない。
あそこに居る者達に自分は必要とされていないし、自分も必要としていない。
孤独な女だと言えば聞こえは悪いが、今までずっと一人で居た自分にとってそれは自然なことだと思う。
誰とも深く関わらないし、関わろうとも思わない。
一人で居ることは彼女にとって当たり前なのだ。
今更変わるとは思えないし、変わるつもりも無かった。
誰からも必要とされず、誰も必要としない。
それが自分、アリス・マーガトロイドと言う魔法使いだと、アリスは結論付けた。
それからアリスは、宴会のことを忘れて、作業を続けることにした。
後一時間ほどしたら、夕食の支度を始めなければと考えながら、人形のドレスを編み上げて行く。
冷めた紅茶も飲み干し、切りのいい所まで作業を進めようと考えた時、カタカタと言う物音にアリスは顔を上げた。
風が窓を叩く音だ。
木々は枝を大きくざわめかせていて、強めの風が吹き始めたことをアリスに教える。
今夜は冷え込むかも知れない。
人形達に暖房の準備をさせる為、アリスは作業を中断し、人形達に指示を出していくのだった。
ある日の昼下がり。
何時もの様に日課である人形作り──この日はぬいぐるみだった──に精を出している最中のことだった。
不意に、アリスの耳に、彼女の集中を乱す雑音が飛び込んで来た。
コンコンと乾いた音が規則的に響いて来る。
家の扉を叩く音だ。
それはこの家を訪ねて来た来客が、自身の到着をこの家の主に伝える行為。
アリスは作業を中断し、目だけで壁に掛かっているカレンダーを見る。
そして今日の日付を確認すると、アリスは眉を顰め、溜息を漏らした。
家の外からは、早くも応対を要求する声が聞こえてきていた。
澄んだ、よく通る少女の声。
幻想郷に住まう者なら、一度以上は必ず聞くことになるその声の持ち主の名は、博麗 霊夢。
鮮やかな紅白の衣装を身に纏った少女は、アリスが顔を出すのを少しだけ不機嫌そうな顔で待っていた。
魔法の森は人も妖怪も寄せ付けないが、それが絶対と言うことは無い。
傲慢で、強い妖怪は割と普通に入って来れるし、迷い人は迷ったから迷い込む。
そして、普通の人間も、普通では無い人間も、やはりやって来る。
普通の人間に至っては、魔法の森に住んでさえいるほどだ。
多少なりとも人妖の出入りがある魔法の森だから、そこに住むアリスの家にも当然、そこそこの人妖の出入りはあった。
迷い人が自分の家に迷い込んで来た事は以前にもあったし、身の程知らずの駆け出し魔法使いが喧嘩を売りに来る事もある。
それはさして珍しいことでも無いが、滅多にある事でも無いので、それについてアリスは何の疑問も持っていなかった。
だが……「客」となると話が別になる。
彼女にとって「客」とは、彼女に「いきなり事を構えに来た」以外で用事があって訪ねて来るものを指す。
また、彼女の作る人形を目当てに来る「客」とも違う。
人形が目的の相手は、アリスの中では、また別の分類として分けられている。
彼女にとっての「客」は、悪意のある訪問と、人形関連──所謂ビジネス目的以外の目的で訪れるものを指すのだ。
──そして、そのような相手は、自分にはいないと彼女は考えていた。
利害関係以外で自分と関わり合いを持ったり、自分を必要とする存在など居る筈がないとアリスは思っている。
故に、自分目当ての来客があると、アリスはまるで天然記念物か絶滅危惧種に遭遇したかのような気持ちになるのだ。
彼女にとって、来客とは自分に縁の無い、夢の世界の住人のような意味合いの言葉だった。
親交と呼べるほどの付き合いのある相手が、アリスにはいない。
少なくとも、彼女自身はそう信じている。
それだけに、週に一度、必ず彼女の家に訪ねて来るこの少女に、アリスは強い戸惑いを抱いていた。
何故、この少女は自分に会いに来るのだろうか?
上がり込むなり、当然のようにお茶と菓子を要求して来た霊夢に、律儀にも対応しながらアリスは考えていた。
霊夢とは古くからの知り合いだが、友人関係と呼べるほど深く付き合っているつもりは無い。
単なる顔見知り……そう考えるのが妥当だと、アリスは考えていた。
そんな関係の筈の霊夢が、何故、週に一度、こうして自分を訪ねて来るのか?
アリスにはそれが解らなかった。
ただ。
霊夢が訪ねて来る事を、アリスは不快に思うことは無かった。
くすぐったいような、不思議な感覚。
どう対処していいのかが解らない、釈然としない気持ち。
この気持ちを、アリスは理解出来ずにもどかしく思いながらも、心のどこかで心地良く感じていた。
霊夢の、暖かな微笑や、時折見せる優しさが、アリスを暖かい気持ちにさせる。
彼女といると、心が安らぐ。
安心感にも似た、奇妙な気持ち。
どこか満ち足りた気がするこの時間が、アリスは好きだった。
この気持ちの正体こそ解らないが、それは些細な問題に感じられる。
胸に渦巻く気持ちの正体が解らぬまま、今日もアリスは霊夢とお茶を飲んで過ごすのだった。
規則正しい生活と言うものは、何かに縛られた者がする行為だ。
例えば、決められた時間に起床すると言う行為は、時間に縛られていると言えるだろう。
そもそも「規則」正しいと言う言葉自体が、規則、即ちルールに縛られると言うことを意味している。
規則正しい生活をしないと言うことは、何かに縛られることから脱却したと言えなくもない。
人の理から脱したアリスが、朝の決まった時間に、目覚ましを掛けてまで起床する必要は無いのだ。
だが、今日も目覚まし時計は、定められた起床の時刻が来たことを主に伝える為、その勤めを果たす。
アリスはいつものように目覚ましを止め、のろのろとベッドから這い出て着替えを始める。
彼女が時間を決めて起きるのは、彼女の、彼女が決めた考えの為だ。
時間に追われているわけではないが、寝坊して時間を無為に使うことも無いと思っているのである。
別に、昼間は寝て、夜に起き出しても構わないのだが、彼女は朝起きて夜に寝ることに拘った。
そうしないのは人間時代の名残だろうか。
規則正しくは無く、自分の決めた規則に従って動く自分。
自分に従う自分は果たして本当に自由なのだろうか?
寝惚けた頭でそんなことを考えながら、アリスの一日は始まる。
◆
本当に、すべてに、何にも縛られない為にはどうすればいいのだろうか?
その答えは単純で、残酷で、望む者には魅惑的。
…………それは、自分を消してしまうこと。
◆
その日、アリスは久し振りに外へ行こうと考えていた。
アリスの夢は完全自律する人形を作り上げることだ。
操者を必要とせず、与えられた命令を遂行する為に自ら思考し行動する、完全なる従僕。
あらゆる命令を完璧にこなし、機械の精密さと生きている者の持つ匠の業を行使出来る、究極の人形。
その完成は未だ遠く、ヒントすら見えていない状況だったが、彼女はめげずに研究と試行の日々を過ごしていた。
自らが所有する、膨大な量の資料を読み解くことも、目標へ到る為の一つの手段だった。
だがアリスは、最近になってその作業に限界を感じ始めていた。
魔法使いの所有する書物の量は、人智を超えるものがある。
それは人間の魔法使いであっても生粋の魔女であっても変わらない。
だが、蔵書の量には個人差がある。
アリスは自分の持つ、人形に関する資料が尽きかけている事を知っていた。
また、気分転換も必要だと感じてもいた。
いつまでも同じ状態では心身共にくたびれてしまうのは人間であっても魔法使いであっても変わらない。
このままでは作業が滞ってしまう。
そこでアリスは、暫くの間、資料集めに精を出すことにした。
彼女は幻想郷でも屈指の蒐集家である。
欲しいものがあればどこまでも追いかけるし、また、欲しいものを見つける才能も並外れていた。
欲しいものは手に入れる。
その為ならば全力を尽くすのだ。
資料探しと同時に、動き回ることで気分も晴れるだろう。
一石二鳥だとアリスは思う。
彼女は決意を固めると、家を勢い良く飛び出した。
久し振りの外出に、興奮しているのかも知れないと、アリスは思うのだった。
アリスは先ず、操者無しで動く人形がいるという噂がある鈴蘭畑へと足を運ぶことにした。
その人形は操者無しで動き、更には自分で考え行動すると言う。
以前から興味があったので、この機会に確かめてみようと思ったのだ。
期待に胸を膨らませ、アリスは鈴蘭畑を目指して、冷たい風を切り、飛んで行った。
聞いた通りの道程を辿り、正午過ぎにアリスは鈴蘭畑の丘に辿り着いた。
魔法の森からの距離は、それほど離れてはいないのだが、予想外に時間が掛かったことにアリスは軽く憤った。
魔理沙からの情報だったが、やはり彼女を信用したのが間違いだったのか。
この分では、噂の人形の存在も怪しいというものだと、アリスは思った。
アリスは苛々した気持ちを何とか押さえ付けると、周囲を軽く見回してみた。
降り立つ前から解ってはいたが、見渡す限り緑一色だ。
鈴蘭の花の白はどこにも無い。
彼女は最初、場所を間違えたかと思った。
だが、落ち着いて考えると、冬に鈴蘭の花が咲いているわけが無い。
改めて周囲を見渡すと、なるほど、足元の植物は皆鈴蘭だった。
どうやら場所に間違いは無さそうだった。
まだ少し残っている苛立った気分を切り替えると、早速周囲を歩き回ってみることにしたのだった。
暫く周囲を歩き回っていると、遠くに白い色が見つけることが出来た。
……鈴蘭の花である。
季節は冬だったが、如何なる道理か、鈴蘭の花は美しく咲いているのである。
咲いている範囲こそ小さな規模だったが、それなりの力を持つ者が、そこに存在することの証明としては十分だ。
目当ての人形が近い事が解ると、アリスは迷うこと無く、鈴蘭が咲き誇る領域へと足を踏み入れて行った。
いくらも歩かぬ内に、アリスは件の存在、メディスン・メランコリーに出会うことが出来た。
鈴蘭の花の中で、無邪気に転がったり踊ったりして遊んでいたので、アリスは苦も無く彼女を見つけることが出来たのだ。
可愛らしい、少女の姿を模った人形だ。
一見すると人形には見えないが、アリスには彼女が人形だとすぐに解った。
メディスンの中にある魂が、妖力を纏って人の姿に化けているのだ。
その妖力のおかげか、メディスンは人形らしからぬ命の輝きを放っていた。
彼女は一つの生命、妖怪と呼んでも差し支えないだろう。
外見は、恐らく10代に入るか否かと言った位の少女を模している。
光沢のある綺麗な金髪に、真紅のリボンが良く似合っていた。
全体的に暗めの色調の衣服が、周囲に咲く鈴蘭の白のおかげで印象的に映えており、アリスの美的感覚を上機嫌にする。
しげしげと自分を見つめてくるアリスに対し、彼女の存在に気付いたメディスンは無言のまま後退りした。
見知らぬ相手が突然自分の領域に現れたのだから、当然の反応だろう。
邪念の無い瞳を警戒の色で薄く染め上げて、メディスンはアリスをじっと見つめていた。
メディスンの表情にありありと浮かぶ警戒の色を見て、アリスは彼女の心情をすぐに悟った。
普通、知らない相手が突然目の前に現れれば警戒するのが当然だ。
それをしないのは、思考が余程おめでたく出来ているか、馬鹿のどちらかだろう。
……このまま警戒されて逃げられてしまうのは不味い。
労力が無駄になるし、再び彼女に会うのも難しくなってしまう。
攻撃でもされたら更に面倒だ。
──この出会いを良いものして、今後起こり得るトラブルを発生させないようにする。
アリスはそう結論すると、努めて優しい表情を浮かべて、驚かせたことを先ず謝った。
幼い相手に接するのは苦手だな、とアリスは思ったが、それは表に出さず、微笑んでみせた。
実際、メディスンには会いたかったのだし、それが叶って嬉しかったので、その笑みが作り笑いにならずに済んだのは幸いだった。
突然現れて驚かせたことを詫び、自分はたまたま迷い込んでしまったと言うことを努めて優しく丁寧に説明した。
それは嘘だったが、双方、要らぬ警戒や争いを回避する為の必要悪だとアリスは思っていた。
アリスなりの優しさである。
彼女は事前の情報で、このメディスンはまだ生まれたばかりの存在で、知識や経験が幼いと知っていたのだ。
ならば、いたずらに刺激しないよう、必要の無い情報は与えないことにしようにしようと考えたのである。
アリスの配慮の甲斐があってか、メディスンはアリスを信用したようだった。
そしてメディスンは警戒を解くと、アリスに向かって微笑んでみせた。
巧く彼女の警戒を解き、打ち解けられたことに、アリスは内心でガッツポーズを取った。
人付き合いは苦手だが人形相手はお手の物なのだ。
暫く会話をしている内に、メディスンと打ち解けたアリスは、メディスンを仔細に観察し始めた。
無邪気に笑い、踊り回るメディスンの調子に合わせながら、彼女の外から内まで、可能な限りの正確さで調べて行った。
その身体、動力となっているもの、魂の形、彼女に使われている技術等等。
霊視や魔力感知の魔法、探査系の魔法を、メディスンに見つからない様に高速で展開、起動して行く。
また、メディスンが懐いてきた為、彼女の口からも情報を得ることが出来そうだった。
メディスンがこうもあっさりと懐いたのは、人形遣いであるアリスならではのことだろう。
はしゃぎ回るメディスンに適当に付き合いながら、アリスは興味の赴くままにメディスンを観察し、調べ上げていった。
空が赤く染まり、夜の帳が落ちかけた頃。
魔法の森を目指して飛ぶアリスの表情は失望に曇っていた。
……メディスンに出会ったのは時間の無駄だった。
彼女は、メディスンはアリスの目指す「自律稼動する人形」とは程遠い存在だと思ったからだった。
理由は二つ。
一つは、彼女を動かし、命を与えた毒の存在。
アリスが目指す人形の完成形は、精巧な技術と魔法の合わさった、完璧なメカニズムの結晶だ。
独自の理論と技術で動き、その構造、システムはアリスに完全に把握されていなければならない。
毒と言う、魔法も理論も無いもので動く人形など、アリスの作ろうとする人形の参考にはならない。
時間をかければ、毒の秘密も解るかも知れない。
だが、それはアリスの導き出したシステムとは言えない。
自分自身の手で導き開発したものでなくては認められない。
要するに、得体の知れない、かつ自分が関わらない存在で動くものを、自分の作品に取り入れたくないと言うことだ。
彼女の、人形師としてのプライドがそれを許さないのだ。
──それよりも、二つ目の理由の方が彼女にとっては大きかった。
それは、メディスンの言葉だった。
彼女は人形の解放を目指していると語った。
解放、それは即ち「人形」の、「主」からの離反、造反に他ならない。
人形は、道具だ。
物だ。
どんなに言葉を尽くそうと、これは変わらない。
そしてアリスは、その道具達を愛し、大切にしている。
主と道具の理想形。
道具は主に従うものであり、それが存在価値なのだ。
それを否定するメディスンの考えに、アリスは憤りを感じた。
彼女に対してではなく、その言葉の意味するところ、即ち主と道具の関係の破壊に対してだ。
道具──人形は、主に従ってこそ人形たりえるのである。
たとえ自律して動けたとしても、主の命に背くような存在は最早、道具でも人形でもない。
それはアリスが求めるものとは完全に違うものだ。
アリスにとって、メディスンは研究対象としての価値はゼロとなった。
彼女を形作る技術も、自分の技術よりも低いもので参考にはならなかった。
悪い相手では無いので、会えばまた話もするだろうが、アリスから会いに行くことも話しかけることも、今後無いだろう。
完全に興味を無くしたアリスは、鈴蘭の花を観賞出来たことをせめてもの成果として、次の行き先を考えることにしたのだった。
アリスが鈴蘭畑から帰った翌日に足を運ぶことにしたのは、魔女、パチュリー・ノーレッジの住まう魔法図書館だった。
蔵書が豊富に過ぎる魔法図書館ならば、アリスの目当ての品が見つかるかも知れないと踏んだのだ。
恐らくパチュリーは、蔵書を譲ってくれることは無いだろうが、閲覧するだけならば大丈夫だろう。
閲覧も出来ないのに図書館では、名前が泣くと言うものだ。
勝手に結論付けると、アリスは図書館へと向かった。
事情を説明すると、紅魔館の門番である紅 美鈴はアリスをあっさりと通してくれた。
美鈴と話している最中に、いつも門前で弾幕勝負を始める魔理沙の顔が浮かび、アリスは苦笑いした。
礼節を持ってきちんと話せば、解らない相手でもないのだから、一々強引に押し通る必要は無いのだ。
魔理沙のせいで要らぬ仕事を増やしている美鈴に、アリスは軽く同情しつつ奥へと歩を進めるのだった。
図書館に着くと、すぐさまアリスは、用件をパチュリーに話した。
話を聞いたパチュリーは、アリスが求めている、人形に関する記述のある魔道書の棚に彼女を案内してくれた。
意外にも親切なパチュリーの態度に軽く驚きながら、アリスは大量の蔵書が納まる本棚の森を歩いて行く。
目的の区画に辿り着くと、パチュリーが軽く手を打ち鳴らした。
すると、アリスの正面に見える本棚の影から、この図書館に住まう小悪魔がヒョッコリとその姿を現した。
小悪魔はパチュリーから指示を受けると、アリスに協力すると言ってきた。
アリスはパチュリーの計らいに感謝すると、本を探す箇所の分担を小悪魔と話し合って決めていく。
分担する箇所を決めると、アリスと小悪魔は必要な資料の選別に没頭していった。
――それから数時間。
アリスが何十冊目かの本を開いた時だった。
彼女の隣で選別作業を手伝っていた小悪魔が、一冊の本を差し出してきた。
それは薄汚れた緑色の表紙で、ページもかなり劣化していたが、そこは魔道書。
魔力でコーティングされた本はまだまだ読める状態にあった。
アリスは小悪魔から本を受け取ると、早速ページを捲って中を検めた。
ボロボロのページを何枚か捲った時。
彼女の目に、「自律する人形」の記述が飛び込んで来る。
それこそは、アリスが求めて止まない、人形の記述だった。
アリスは興奮した。
そこに書かれた内容は、アリスの中に存在していた理論を根底から覆すものばかりだった。
本のタイトルは「完全なる従者の誕生」。
人形の作り方、必要な儀式、魔法、それらの詳しい方法がいくつも記載され、アリスはたちまち夢中になった。
もっと詳しく、じっくりと読みたい。
その旨をパチュリーに伝えると、あっさりと持ち出しの許可を出してくれた。
どうやらアリスは魔理沙よりも信用されているらしい。
アリスはパチュリーに何度も礼を言い、愉悦の表情を隠そうともせずに、図書館を後にしたのだった。
その日から、アリスは家に閉じ篭りがちになった。
図書館から借りてきた本を読み、研究をすることに無我夢中になったのだ。
食べることも寝ることも忘れ、狂ったように研究を続けて行く。
そうさせるだけの魅力が、力が、この本にはあった。
完全な自立型人形を完成させることさえ出来れば、他はどうでも良く感じられたのだ。
本の内容は全能ではなかったが、今まで集めてきた知識を合わせれば新たな位階へと進める事は確信出来る。
魔法使いとして、人形師として、何より自分の中にある望みと夢が叶う。
それが、アリスを狂的に研究と試行の日々に駆り立てるのだ。
家から一歩も出ずに、誰とも口を聞かず、関わらず、アリスは研究に没頭した。
他人が入り込む余地など、無い。
邪魔なだけだ。
それに……。
……どうせ自分は、自分以外には無価値な存在なのだから。
必要とされていない自分が、わざわざ別の場所に行く必要は無い。
自分が必要とされること、それは他者との繋がり。
自分はそれを持っていないと信じているアリスに、価値のある場所など無かった。
本の内容は、基本的な人形の設計に始まり、超人的な技術の記述まで、人形制作の奥義とも呼べるものばかりだった。
愛玩用のぬいぐるみに、観賞用の精巧な人形、からくりを仕込んだもの、戦闘や暗殺など、外法な目的の為の人形。
人形の種類ごとにそれぞれの奥義が正確に記され、アリスは深い感銘を受けた。
人形制作の技術には詳しいつもりだったが、更に奥があることをアリスは思い知らされた。
だが、それほどの本でも、残念ながらアリスが目指す「完全自律型人形」の製法は記載されていなかった。
しかし、目指すものへのヒントと成り得る情報は、彼女が過去に出会ったどんな資料よりも有力で、量も豊富だった。
その中でも、特にアリスの印象に残ったものがある。
気に入ったわけではなく、気に入らない方法だった。
自律型を作るにはある意味で最も簡単な方法だったが、その方法と、結果、生み出されるものに強い嫌悪感を抱いたのだ。
それは、魔法で生物の精神を破壊、もしくは封印し、その生物に捨食の魔法をかけ、その上で特別な魔法をかけることで完成する。
特別な魔法とは、対象に他者からの命令を受諾、実行させるもので、ある種の洗脳に近い物だ。
これをかけられると対象の意志は消え去り、言われたことをするだけの操り人形と化してしまう。
本によれば、昔の魔法使いが自分の家を守る為に、掴まえた人間や妖怪にこれを施して衛兵として起用していたらしい。
与えられた命令を忠実に実行する上、身体が身体だけに「人間的な」要求を満たせる便利な代物らしかった。
更に最大の利点として、生き物、人間で言うならば主人に対する忠誠心を植え付けることが可能だった。
これによって、より確実に命令を実行させられる能力を付加出来るのだ。
加えて洗脳状態の心に高度分析能力を付与する魔法をかけておけば、この人形は完全となる。
与えられた目標を遂行する為に自ら思考し、行動させることが出来るようになるのだ。
それは文字通りの完全自律行動のシステムを完成させた、一つの理想形だった。
忠誠心と分析能力により、与えられた目標の完遂に向けて思考し、完璧以上の結果を導き出すのだ。
ただ、ボディに生体を使用している為、破損時の補修や管理調整に難があるのが欠点だった。
扱いが普通の人形と違い、どうしても面倒になってしまうのだ。
完全自律型と言えど、万能ではないのである。
だが、その欠点に関して、アリスが特に気にすることはなかった。
思考させられるのなら、管理調整の為の知識と技術を教えてやればいいのだ。
教育の手間は掛かるが、これなら調整の難しさと面倒さをある程度緩和出来る。
万能にはならないが、それに近い「万能のつもり」は達成出来るのだ。
そもそも万能など存在し得ない、と言うのがアリスの持論だった。
万能なものが存在するなら、すべてのものが無価値で無意味なものに成り下がる。
そんな存在が許されるわけは無い。
許す許さないなど哲学的な話を持ち出さずとも、そんなものは絶対に存在しないのだから、この話自体が意味を持たない。
ともかく、この「人形」の持つ欠点を、アリスは気にしなかった。
もっとも、この方法を自分がとることは無いだろう、とアリスは思ったので、このことについては忘れることにした。
生きている者を玩具にするような真似はしたくなかったし、手間も労力も自分の手に負えるものではない。
何より、単純に好みで無いというのが最大の理由だった。
ただ、仮に、この方法で作られた人形が手に入ったとしたら、他の人形達と同じように扱う気ではいた。
生まれはどうあれ、素材が何であれ、人形に変わりは無いのだから。
ただ、手に入ることは多分無いだろうし、作るつもりも無論、無い。
どうでもいい話ではあるし、忘れるつもりの話題でもあったが、アリスは律儀にそんなことを思うのだった。
自分でも細かい性格だな、と苦笑しつつ、アリスは研究を続けることにした。
無心に本のページを捲っていると、遠くに自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がして、アリスは顔を上げた。
視界が一瞬、眩む。
本ばかり読んだり研究ばかりして、眼が近くの物を見ることに慣れ過ぎていたのだ。
距離感を掴むのに、一瞬だが間を空けてしまう。
ようやく、通常の視力が戻って来ると、アリスは声がした方に向き直る。
そこには、仏頂面でこちらを睨んでいる霊夢の姿があった。
先程の声は霊夢だったのかと、アリスは呆けた表情で霊夢を見る。
霊夢は不機嫌な表情で、自分が何度も呼びかけたのに気付かず本を読み耽っていたアリスを責めた。
夢中になっていて気が付けなかったのだ。
アリスは素直に霊夢に謝り、霊夢もそれを受け入れてその場は治まった。
その後は特に何事も無く、二人はいつもの様に過ごした。
やがて陽は落ち、空が赤く染まる頃。
霊夢は帰り際に、二日後に神社で宴会があると言い残し、去っていった。
去っていく霊夢の姿を見送るアリスの瞳には、どこか冷たい光が宿っていた。
──その夜。
アリスの家から、明かりが消えることは無かった。
そして二日後。
アリスは宴会の席に現れ無かった。
次の日も、その次の日も、アリスは家から一歩も出ず、誰も彼女の姿を見ることは、無かった。
魔法の森の静寂を、異音が引き裂く。
硝子の割れ散る音に、陶器が砕ける音。
小さな破裂、否、爆発音に、何か木材が圧し折れる不快な音。
悲鳴と、怒号。
ヒステリックに叫ぶ少女の声と、やり場の無い怒りで染まった少女の声が、互いを罵り合い、その度に何かが爆ぜる音が響き渡る。
音と声の正体は、アリスと霊夢の二人だ。
アリスの家の壁を壊し、家の中と外で弾幕の応酬を繰り広げているのである。
アリスの顔には、狂気に近い表情が浮かび、裏返りそうなほどに声を張り上げて霊夢に罵詈雑言の限りをまくし立てた。
対する霊夢も、怒りに染まったその形相は、まるで鬼の様だ。
アリスを罵り、拳を振り上げ大地を踏み鳴らす。
喧嘩である。
二人の少女はいがみ合い、敵意を剥き出しにして暴れていた。
怒りで甲高くなった声でアリスが人形達に命令を下すと、彼女の周囲に浮かぶ人形達が密集隊形を組む。
アリスは全力を出すことを嫌う性格だが、彼女から滲み出る怒りと殺気は本気そのものだった。
主人の命令を忠実に実行する人形達が、霊夢に向けて一斉に魔力弾やレーザーを放ち、手にした武器を構えて突撃を掛けた。
しかし、人形達が行動を起こす前に、霊夢の放った無数の針が飛び道具を放つ人形すべてに突き刺さる。
発射口を潰され、あるいは射角と弾道をずらされ、人形達は吹き飛び、壊れ、叩き落されてしまう。
近接戦を挑んだ人形達も、針や御札の弾幕に尽く撃墜され、運良く弾幕を抜け切った人形も蹴りや突きで撃破された。
一切の無駄も無く、アリスの攻撃は完璧に防がれてしまう。
怒りの表情の裏に、極めて冷静な思考が、霊夢の表情に隠されている。
アリスの行動を先読みし、的確に捌いているのだ。
それが、アリスを更に激昂させる。
爆炎が草木を焦がし、霊力弾が大地を穿つ。
互いに攻撃する度に、相手を罵倒し、その度に興奮し、怒りの炎を大きくしていく。
アリスの攻撃を捌き切った霊夢が、牽制の霊力弾を十数発放つ。
向かって来る霊力弾を、アリスは魔力弾で迎撃した。
いくつかは相殺したが、数発が捌き切れず、アリスの周囲に着弾し、土砂を巻き上げる。
自分の攻撃は尽く潰され、相手の攻撃はこうも自分の防御を突き破る……。
気に入らない!!
思い通りにならず、アリスは怒りのボルテージを更に増した。
霊夢に向けて、ヒステリックに喚き散らしながら魔力の衝撃波を叩き付ける。
術式も法も無い、感情のままに繰り出される暴力。
その威力は粗暴で、そして凶暴だ。
しかし、編まれていない魔法では、霊夢に通用する筈も無く、それは霊夢の気合だけで霧散した。
攻撃とも呼べない、稚拙な力。
馬鹿にしているのかと、霊夢が嘲りを込めた笑みをアリスにぶつけた。
互角の勝負を繰り広げているかに見える両者だったが、その差は徐々に、そして明確になって来ていた。
霊夢の表情に余裕があるのに対し、アリスには焦りと苛立ちしか無い。
全力で攻撃するアリスに対し、霊夢はその実力を半分も出していないのだ。
完全に霊夢の優勢である。
怒りに身を任せて暴れるアリスに対し、激しく怒ってはいても、芯の冷静さを保っている霊夢。
アリスが猛れば猛るほど、攻撃は雑になり、尽く読まれ、潰され、手痛い反撃を受ける。
激しい想念は心も身体もすり減らし、アリスは気力、体力共に限界に近付いていた。
呼吸は乱れ、汗と、思い通りにならない状況への悔しさから滲み出る涙で視界は歪む。
──その歪みが、アリスに致命的な隙を生んでしまった。
視界が歪んだその刹那、霊夢の姿が掻き消える。
ぐにゃりと歪んだ視界の中で、霊夢の紅白を追うもその姿は見つからず。
アリスが次に、霊夢を捉えた時。
それは鳩尾に重い衝撃を感じ、意識が遠退く瞬間だった。
◇
事の始まりは、アリスが霊夢を無視し続けた事だった。
宴会の席にアリスが現れないことは珍しいことでもないのだが、誰もその姿を目撃していないと言うのは、少し異常だった。
活発に動き回るタイプではないが、引き篭もりと言う訳ではない。
彼女を知る者なら誰もが、最近のアリスはおかしいと思うだろう。
霊夢もその一人だった。
むしろ、週に一度、アリスの家に必ず遊びに行く霊夢には、それが気にならない筈はなかった。
恥ずかしいので公言していないが、知り合いは多くても友人は少ない霊夢にとって、アリスは何にも替え難い友人なのだ。
家から一歩も出ずに何かをしているアリスが気になり、霊夢は何度も彼女の家を訪ねた。
食事を摂っているか、ちゃんと寝ているか、おかしなことは無いか。
魔法使いは食事も睡眠も不要な事を知らない霊夢は、それが気になって仕方がなかった。
病的に研究に勤しむアリスの様子を見て、流石の霊夢も心配になったのだ。
アリスは一つのことに打ち込むと、他が目に入らなくなり、無茶をして根を詰め過ぎる性格だ。
霊夢はそれが解っていたので、無茶をしていないかと様子を見に行っていたのだ。
そんな霊夢を、研究に夢中になっていたアリスは鬱陶しく思えてならなかった。
霊夢にとって不幸だったのは、アリスが夢中になっているものが、彼女の、最大の夢の為の研究だったことだ。
アリスを心配した霊夢の思いやりは、アリスにとっては夢を阻む枷にしかならなかったのである。
始めこそ霊夢の訪問に応対していたが、回を重ねる毎にアリスは苛立ち、霊夢への対応もいい加減なものになっていった。
やがてアリスは、毎日のように訪ねて来る霊夢を、暫くの間出入りを禁じて追い返してしまった。
霊夢はそんなアリスの態度に憤慨したが、彼女の性格を考慮しその場は引き下がった。
一途で、好きなものや大事なことには頑なな彼女の性格を、霊夢は理解していたからだった。
それから二週間後の今日。
魔法使いは食事も睡眠も必要無いが、不死身でなければ、永久に動ける訳でもない。
動き続ければ体力は尽きるし、疲労も溜まっていく。
見るからに痩せ細り、頬もこけて変わり果てたアリスの姿に、彼女の様子を見に訪れた霊夢はショックを受けた。
状況を理解した霊夢は、アリスに研究を一時中断するよう説得した。
根を詰め過ぎないように、少しの間休息を取るようにと。
だがそれは、研究への狂的な意欲に取り付かれていたアリスにとって「自分の邪魔をする」行動に他ならなかった。
そして無自覚の内に極限状態に陥っていたアリスの思考は、「邪魔」をする霊夢を「敵」と判断したのだ。
敵対対象に取る行動は古今東西唯一つしかない。
撃退だ。
自分の身を案じてくれた霊夢に、アリスは襲い掛かった。
そして。
◇
夜の闇と静寂に包まれたマーガトロイド邸。
滅茶苦茶に散らかった家の中で、アリスは打ちひしがれた表情で呆然と座り込んでいた。
その瞳は昏く沈み、全身から生気が抜け落ちて、まるで死人のような姿だ。
今のアリスを支配するのは、闇。
光を失った瞳で、アリスは穴の開いた天井を仰ぎ見る。
夜空には黄金の円盤が、アリスの瞳とは対照的に美しく輝いていた。
今の自分とまるで正反対のその姿に、彼女は涙で瞳を濡らした。
溢れる涙は頬を伝い、煤と埃まみれのドレスを濡らす。
だが、悲しいかな。
その涙の意味を、アリスは理解していなかった。
心を支配する闇の本当の意味を、彼女は解らないのだ。
衣擦れの様な、幽かな声で、アリスはある少女の名前を声に出した。
……霊夢。
憎い、少女の名前。
自分の邪魔をした、大嫌いな霊夢。
彼女の心に、冷たい表情の霊夢が浮かび上がる。
そして、思い出される霊夢の言葉。
自分を罵る言葉。
感情に任せて飛び出した、悪口。
それはアリスをとても嫌な気持ちにさせた。
言葉が不愉快、という意味ではなく、霊夢にその言葉を言われたと言う事に対し、いたたまれない気持ちになったのだ。
けれど、それよりも。
その罵りの中に混じって飛び出した、別の言葉が、彼女の心を深く抉った。
霊夢は自分を解らず屋と言い、そして、研究が大事ならずっと一人でやっていろと言った。
そして、口を聞きたくないと、顔も見たくないと、絶交だと。
そこまで思い出した時、アリスは胸がズキリと痛むのを感じた。
それ以上思い出すことを、アリスの心は拒絶したのだ。
胸が、心が、苦しい。
何故、こんな思いをするのか?
解らない。
解らないが……。
暫く考えてみたが、答えは浮かばない。
──もう、いい。
今日は、疲れた。
寝よう。
寝て、忘れてしまおう。
胸の痛みの原因を究明することを諦めて、アリスはのろのろと腰を上げるのだった。
家の破損具合は相当な物だったが、建て直しが必要なほどではなかった。
アリスは応急処置として魔法の結界を家に張り巡らせた。
こうしておけば外敵の侵入は防げるし、外から寒い空気も入ってこない。
それを済ませた後、彼女は幽鬼のような足取りで寝室に入り、着替えずにそのままベッドへ倒れ込んだ。
幸い、寝室は無傷だったが、彼女にそれを確認する余裕は無い。
極度の疲労の為か、意識はすぐに薄れて行く。
気力も体力も、そして魔力も、全部空っぽだった。
閉じた瞳から、熱いものが流れ落ちるのを感じながら、アリスは深い眠りへと落ちていった。
その熱さも、理解出来ぬまま。
目覚めは最悪の気分だった。
煤と埃、汗と血で身体と服は酷い有様だった。
やはり埃まみれの髪はボサボサで、汚れたままの服で寝てしまった為に服は皺だらけだ。
おまけにベッドの布団も服についた汚れが移り、酷い有様だった。
明るくなって改めて解ったことだが、家の破損も酷い。
眠ったことでいくらか回復した魔力を使って、アリスは人形達に家の修繕を命じた。
次に、奇跡的に無事だった浴室で、身体の汚れを落とす為にシャワーを浴びることにする。
熱いシャワーが、くたびれた身体に心地良い。
しかし──
シャワーの湯とは違う、熱い水が頬を伝うのを彼女は感じた。
身体の汚れは洗い流せても、心に残った苦しさは落ちない。
この苦しい気持ちは何なのだ?
もやもやと渦巻く釈然としない気持ち。
心が重く、苦しく、痛い。
──涙の意味は?
解らない。
それが解っているのなら、こんな思いはしていない。
気が付いた時、アリスはシャワーの雨に打たれるようにして蹲り、嗚咽を漏らしていた。
その翌日。
アリスは虚ろな表情で応接間の椅子に座っていた。
彼女の、光の無い瞳は、彼女が座る位置と丁度向かいの席をじっと見つめている。
そこは、霊夢がアリスの家へ遊びに来た時に必ず座る、定位置だ。
指定席と呼べなくも無い。
他の誰かが一緒に居る時も、霊夢は必ずその席を選び、譲らなかった。
自分と、向かい合わせになるその席を。
彼女の思考を、心を埋め尽くすのは霊夢のことばかりだった。
霊夢の笑顔。
霊夢の怒った顔。
霊夢の声。
霊夢の仕草。
浮かんでは消える、霊夢の姿。
何故、彼女のことばかりが心を支配するのか。
どうして気になるのか。
あんなに喧嘩したのに。
解らなかった。
理解出来ない。
何故。
アリスは霊夢のことを憎んだ。
自分の邪魔をした霊夢。
何度と無く横槍を入れ、ついに昨日は自分をボロボロに痛めつけて絶交を言い放った、憎い少女。
そう、憎い筈なのだ。
敵の筈なのだ。
それなのに。
解らない。
理解出来ないその思いは苛立ちとなり、やり場の無い怒りへと姿を変える。
白くなるまで硬く握り締めた指の間から、紅が滲み出ていることに気付かないまま少女は拳を卓に振り下ろした。
その次の日。
アリスは部屋の隅で膝を抱えて俯いていた。
美しかった瞳は光を失って淀み、表情は深い影で覆われ、全身から生気が抜け落ちた、まるで屍のような姿だ。
暗い影を落として重く沈んだ彼女の心は、昨日と同じく霊夢のことで埋め尽くされていた。
何故、こんなにもあの少女のことが気になるのか?
いくら考えても、アリスには解らなかった。
鬱陶しい相手。
研究の邪魔をした忌々しい存在。
それなのに。
頭を振り、頭の中から霊夢の姿を振り払おうとしてみたが、霊夢の存在はアリスの頭から離れることが無い。
霊夢の言葉が何度も何度も心の中で響き渡り、アリスの心を掻き乱す。
──あの時。
霊夢は確かに「絶交」と言う言葉を口にし、その言葉を聞いて、アリスは清々したと思った。
邪魔な相手が自ら、自分とはもう関わらないと宣言したのだ。
清々して当然だと、アリスは思う。
それは、今も変わらない……変わらない、筈だ。
だと言うのに。
アリスの心は晴れず、むしろ暗く曇っていた。
気力は殺がれ、何もする気にもなれず。
考えることは霊夢のことばかり。
何故、こんなにも霊夢のことを考えるのか。
答えの出ない思考を繰り返し、今日も彼女にとって無意味な一日が過ぎて行く。
その次の日。
アリスは自宅の傍の木々を使い、藁人形に五寸釘を打ち付けた。
釈然としない苛立ち。
心を支配する霊夢の幻影。
したい、と言う欲求を嘲笑う、己の無気力。
釘を打ち込む、打ち込む、打ち込む、打ち込む。
苛立ちを、怒りを、憎悪を、何だか解らないものをすべて、釘と槌に込めて、打ち込む、打ち込む、打ち込む。
槌は変形し、ひしゃげ、握りは圧壊し、釘は楔となり槍となって木を貫き、木端を撒き散らして壊され、倒れた。
周辺の木々を、手持ちの釘が尽きるまで打ち抜き、釘が尽きた後は折った木々を火炎の魔法で焼き尽くした。
壊すことで不毛な喜びが芽を出し、それに酔ってみようとしてみた。
爆ぜる木片と揺らめく炎の影に、霊夢の虚像を見た気がして、アリスは吼え狂い、絶叫した。
酔えない。
そんなことは無理だった。
苛立ちは治まらず、彼女の心に闇を落としていく。
その次の日。
家中の食器を叩き割り、鏡を砕いて家具を壊した。
苛立ちは治まらない。
暴れれば暴れるほど、壊せば壊すほど。
心の闇は大きく強くなっていった。
それは酷く不快で、苛付いて。
そして、怖く、悲しい。
その次の日も、その次の日も、それは変わらず、より酷さを増して行く。
研究の邪魔をされたことに対する怒りと憎しみは、いつしか自分の中の理解不能な感情に対する怒りに摩り替わっていた。
怒りの理由を求め、怒りの矛先を探し、その夜、アリスは一睡もせずに暴れ続けた。
それから数週間後の夜。
薄暗い部屋の中、アリスは膝を抱えて部屋の片隅に座り込んでいた。
まるで見えない幽霊のような雰囲気で、注意深く部屋を探さなければ、存在を見落としてしまいそうだ。
憔悴の色が濃く浮き出た表情は暗く、光を失い淀んだ瞳はまるで硝子球のような、無機質なイメージを抱かせる。
ただ、今の彼女の表情は、虚ろではない。
深い悲しみと、孤独が、暗い顔に一層の影を落としていた。
◇
──この数週間、アリスはずっと霊夢のことだけを考えていた。
霊夢の幻影と言う、心の闇。
理解しようがしまいが、心を支配する霊夢の幻影が消えることは無かったから、ならばずっと考えてみようと思ったのだ。
自分の邪魔をした霊夢。
その彼女を排斥しようとした自分。
告げられた、「絶交」の二文字。
絶交。
もう、会わない、口を聞かない、関わらない。
それで構わなかった筈だ。
望んだ筈だ。
それだと言うのに。
考えれば考えるほどに、思えば思うほどに、心の闇が、彼女にある感情を呼び起こし、心を穿った。
悲しみと、孤独感。
霊夢を思うほどに、心は悲しみと寂しさで一杯になった。
何故?
解らない。
憎んだ筈だ。
嫌いだった筈だ。
そんな相手に、どうしてこんな感情を抱くのか?
解らなかった。
その答えを求め、アリスはひたすらに考えた。
霊夢への憎悪はこれまでの時間が少しずつ消し去っていった。
だが、代わりに生まれた、自分にも理解出来ない感情への苛立ちと怒り、それがアリスを苦しめる。
そしてその苦しみの渦中には、霊夢が存在しているのだ。
何故、霊夢なのか?
アリスは記憶を手繰り、知識を絞り、感じるままに思考の迷宮に挑み続けた。
しかし、いくら考えてみても、納得のいく答えは出ない。
それでも、アリスは考え続けた。
己の心の内に渦巻く感情の正体、そして、霊夢の幻影の正体を。
何故、彼女のことを思う度、悲しくなるのか。
この、胸を締め付ける寂しさはいったい?
そう、「霊夢」を思うと感じる、この気持ち。
はっきりとしているのは、自分が、悲しいと、寂しいと感じることだ。
何故か。
霊夢は私にとって、何なのだ?
それが最初の週に考え付いた、次の思考へのステップだった。
それからアリスは、霊夢が自分にとって何なのか、それを考え始めた。
最初に思い付くのは、彼女が週に一度は必ず自分の家に遊びに来ていたと言うこと。
他愛の無い世間話やお互いの近況報告、料理の話や、時にはカードゲームに興じたりもした。
お茶や菓子を楽しみ、時には食事を共にし、酒を飲み交わしたこともあった。
楽しい時間を共有し、時に喧嘩し、いがみ合った事もあるが、霊夢と居た時間はとても満ち足りていた。
そう、楽しくて、満たされていたのだ。
それに気が付いた時、途方も無い喪失感と深い悲しみが彼女を襲った。
楽しかった記憶。
霊夢と過ごした、満たされた時間。
彼女が居なければ知ることは無かった、誰かと一緒に過ごせる喜び、楽しみ。
いがみ合った事もあった。
口喧嘩だってしたし、弾幕ごっこも幾度と無くしてきた。
そしてそれ以上に笑い合い、話し、同じ時を過ごしてきたのだ。
霊夢との思い出が甦った時、アリスは同時に、自分を襲った喪失感の正体を理解した。
彼女は失ってしまったのだ。
楽しい時間を、満たされた、暖かな時間を。
そして、それらを与えてくれた少女を。
アリスの心に、霊夢から言い渡された「絶交」の二文字が深々と突き刺さった。
絶交。
もう二度と、霊夢と関わらない。
それは即ち、あの楽しかった時間を永久に失うと言う事に他ならない。
彼女が感じた喪失感は、それを失ってしまったことに対してのものだったのだ。
そして、失ったことに対する心の慟哭が、胸を刺す悲しみの正体だった。
自分は、失いたくなかったのだ。
あの暖かな時間を。
彼女を。
そして、それを失ったことに悲しんでいるのだ。
アリスは驚愕した。
自分が誰かに、そんな想いを抱いていたことなど考えられもしなかったからだ。
アリスは今までずっと一人ぼっちだった。
誰とも深く関わらず、孤独に生きてきたと信じている。
他人が自分に踏み込んだ感情を、興味を抱いて関わり合いになる筈が無いと、ずっと思っていた。
そして自分も、他人に興味を持てなかったし、関わり合いになろうとはしなかった。
彼女は外側からも内側からも一人ぼっちの筈だったのだ。
だがそれは、彼女の思い込みが作り上げた嘘の世界だった。
自分は、誰かに興味を持っていないだなんて、嘘だったのだ。
関心が無いのなら、誰かと関わり合いになりたくないのなら、この、霊夢に対する気持ちは、未練は何だ?
少なくとも自分は、霊夢に対して何らかの価値を見出し、興味を持っている。
そして、彼女を失うことを悲しむこの感情は、自分が霊夢に好意的な感情を抱いている事の証拠ではないか?
ささやかな好意かも知れない。
友情に満たないものかも知れない。
それでも、霊夢に対して好意的な感情を持っていることは変わらない。
いつも遊びに来る霊夢。
自分を家の外へ連れ出したこともあったと、思い出が甦る。
時に優しく、時に厳しく、まるで親しい友人のように自分へ接してくれた霊夢。
表層では冷たく感じられることもあったが、自分に接してくれる時の彼女は、自分には何より優しく感じられた。
その優しさを感じた自らの心を、アリスは気付けずにいたのだ。
自身の孤独が、皮肉にも孤独から解放してくれる存在を否定していたのである。
アリスは雷に撃たれたかのような気持ちになった。
驚愕、そして後悔。
自分は一人なんかじゃなかったのだ。
それなのに、自分がしたことは。
今にして思えば、霊夢は自分に何と言っていたのか?
彼女は、霊夢は。
自分の身を案じ、気遣ってくれた彼女のことを、私は。
彼女の思いやりを、この手で。
捨てた。
自分は孤独などではなかった。
そう思い込んでいただけ。
そして、その愚かな思い込みが、取り返しの付かないことをしてしまった。
あの暖かみを、優しさを。
気付いた時には何もかもが遅過ぎたのだ。
少女は嘆き、絶叫した。
◇
いくら振り返ろうとも、後悔をしようとも、過ぎ去った時が戻ることは決して無い。
自分の心を真に理解した時には遅過ぎたのだ。
薄暗い部屋の隅で、アリスは乾いた薄笑いを浮かべた。
自嘲の笑みだった。
──私は一人などではなかった。
差し伸べられていた手に、気付けなかった。
それどころか、その手を払い、手を差し伸べてくれた少女を拒絶したのだ。
そして少女は、そんな自分に絶交の二文字を残して去っていった。
否、去っていったのではない。
自分が、遠ざけたのだ。
失って初めて気付いた、自分の心。
自分の本当の気持ち、欲求。
そして、それらの根源に位置する少女の存在。
大事な事の筈だった。
気付けた筈だった。
だが、自分は気付かなかった。
愚かな思い込みが瞳を曇らせ、そのことに気付くことが出来なかった。
それを今更。
ようやく自覚した時には既に遅く、自分は大切なものを失ってしまった後だった。
失ってしまったものに対する喪失感と、後悔の念。
彼女は打ちのめされ、絶望に打ちひしがれた。
そして、悲しみ、打ちのめされている自分が酷く滑稽に思えたのだ。
大事なものを見失っていた愚者が、今更何を、と。
愚かな自分には、悲しみ、後悔する資格すらありはしない。
乾いた嘲笑を顔に貼り付けたまま、薄暗い部屋でアリスは哭き続けた。
あれからどれくらいの時間が過ぎたのか。
何日?
何週間?
何ヶ月?
年を越えてしまったかも知れない。
それとも実はまだ、一秒も過ぎてはいないのかも知れない。
時間の流れが酷く曖昧に感じられて、どれほどの時間が過ぎたのかが解らない。
だが、それも別に、どうでもいいことだなと思う。
今の自分には、たとえどんなことだろうと、どうでもよかった。
何もする気が起きないし、何かを考えることもしたくない。
後悔と絶望感で自身をいたぶることぐらいしか、今のアリスに出来る事は無かった。
寝ても覚めても霊夢のことしか考えられなかった。
そして彼女を失った後悔と絶望の無限ループ。
今まで気付いてもいなかったと言うのに、今になって彼女のことを想う度に、彼女を失った後悔が増していく。
自分は彼女に酷いことをして、その前はずっと、どうでもいいと思っていたのにも関わらずだ。
失ってはじめて気が付いた分際が、失ったことに後悔し悲しむなどと、何て傲慢なのだろうか?
そしてそんな自分は、霊夢を、そして霊夢と居た時間を取り戻したいと考えている。
何て傲慢で、何て嫌な女なのだろうか。
そんな資格、自分には無いと言うのに。
だが、そうやって自責と自虐の念にまみれてみても、押し寄せる後悔と絶望感に押し潰されても。
失った、霊夢との時間を求める心は止まらなかった。
自分が彼女へ抱いていた本当の気持ちは、何だったのだろうか。
彼女との時間を大切にしたいと想っていた自分の本心に気が付いた今、こんなにも彼女を想うこの気持ちは。
失ってしまったものへ対しての、未練と執着心だろうか。
気付かないうちに、自分は彼女に何かしらの好意を──例えば、友情の念を抱いていたのか。
どちらかかも知れないし、両方かも知れない。
あるいはどちらでもないかも知れない。
そして、そのどちらかだとしても、アリスは自分が傲慢で浅ましい女だとしか思えなかった。
浅ましい執着でも、気付かぬ内に抱いていた好意でも、そんなことを彼女に対して抱く資格は、自分には無い。
だが、霊夢のことを想う資格は無いと自分に言い聞かせても、無駄だった。
彼女を想う度、喪失感、後悔、絶望がアリスを責め、そしてその度に彼女への想いは強くなる。
それがアリスの心にとって、地獄の業火に実を焼かれるよりも激しい痛みと責め苦を与えるのだ。
いっそ、霊夢のことを嫌いになれればと、何度も思った。
霊夢は自分へ絶交を告げた。
ならば、彼女は自分の事を嫌いな筈だろう。
自分も霊夢を嫌いになれば、それで諦めも付くのではないか?
それは魅力的な解決策だとアリスは思った。
こんなに苦しいのならば、諦め、忘れることが出来れば、楽になれるのではないか?
確かに、悩むことを止めればそれで終わるだろう。
だが、そんなことが出来れば苦労はしない。
嫌いになれる筈が無かった。
忘れられるわけが無い。
消えてしまいたかった。
嫌いになれる筈が無くても、嫌いになりたい。
忘れられなくても、忘れてしまいたい。
一切合財を捨てて、消えて無くなりたかった。
だが、そんなことは出来る筈も無い。
死んでしまえばいいのだろう。
実際、自殺も考えた。
だが、自らの命を絶てるほど、アリスは臆病に出来ていなかった。
魔法使いの精神は不安定に見えて、実際、不安定なことが多いが、根本的な、芯の部分は非常に頑丈だった。
頑丈でなければ膨大な量の知識や意思を汲み、読み、干渉し、操る魔法の力を行使することは出来ないからだ。
魔法使い特有の芯の強さが、アリスに自殺をさせなかった。
ほとんど無意識だったが、自ら命を絶つ手前で、精神が自殺願望を押さえ付けているのである。
複雑な心理状態にあったアリスに、そのことが理解できる筈も無かった。
自殺してしまいたいと思う表層の意識が深い部分の意思に拒否させられることで、アリスは自分を臆病で卑怯だと思い込んだ。
深まる自己嫌悪と、押しかかる後悔、心を支配する、諦めきれない霊夢の存在。
アリスの精神は、半ば壊れかけていた。
崩壊は、時に小さなことから徐々に訪れることもある。
失って初めて気が付いたという事実から、彼女の精神は悲観的な思考にずぶずぶと堕ちていった。
すべて自分が悪いと、アリスはそう思い込み、自己嫌悪の深みへとはまっていったのだ。
後悔と自己嫌悪、そして霊夢。
偏執的なまでに心を埋め尽くす、それらの存在にアリスの心は蝕まれ、壊れていった。
静寂に包まれた夜。
まるで幽霊屋敷のような、不気味な世界に変貌してしまった家の片隅で、アリスは蹲り、右手の爪で左腕を掻き毟っていた。
落ち窪んだように見える眼窩は、隈と合わさって暗い影を作り、深い空洞を思わせる。
半開きの口からは、霊夢の名前と彼女への謝罪の言葉、そして己への呪詛が、何度も何度も繰り返し吐き出された。
精神の崩壊はゆっくりと、だが確実に進行している。
腕を掻き毟る自傷行為と、心の一端を声にして吐き出すことで、アリスの本能は自己の崩壊を辛うじて防いでいた。
だが、何とか正気を保ってはいるものの、アリスの心は既に廃人に近い状態だった。
このままではいずれ、彼女は狂ってしまうだろう。
だが、無情にも時は、すべてのものに等しく流れていく。
崩れていく精神に、時の流れは、停止するという慈悲を与えてはくれない。
やがて夜が明け、朝の陽射しが家の中を照らし出しても、その光がアリスの影を拭う事はなかった。
朝陽が昇って暫く経つと、家中の人形達が一斉に動き始めた。
それぞれが与えられた命令に従い、忠実に職務を果たす為にだ。
活発に動き始めた人形達の姿が、アリスの瞳に映り込む。
アリスの視覚は心理的な影響で、ほぼ何も映さない状態に陥っていたが、人形達は別だった。
自分の生き甲斐であった人形達だけは、心が微かに反応を示したのだ。
光の無い瞳が、食い入るように人形達を凝視する。
久し振りに戻ってきた、僅かばかりの理性。
その理性が人形達を捉え、アリスに久し振りの思考を始めさせた。
それからアリスは口元に自嘲の笑みを作った。
引きつった笑みだった。
「もの」である筈の人形達が、生きている自分よりも生き生きと動いている……。
忙しなく動き回る人形達の姿が今の自分と対照的に思え、そう感じた感性が、自分自身への皮肉だと思えたのだ。
くるくると、楽しんでいるかのように生き生きと動き回る人形達に比べ、今の自分ときたら。
蹲り、後悔に打ちひしがれて何もせず朽ちていくだけの、血が詰まったくだらない肉塊じゃないか。
死んだ方がマシな、つまらない屑。
それが私だ。
だが、それに比べて、あの人形達は。
またいつもの自己嫌悪。
したくも無いのにしてしまう、何てくだらなくて、惨めで、嫌な衝動。
否定したい。
もういい、疲れた。
何も考えたく無い。
だが、アリスがいくらそう願っても、湧き上がる暗い情念を拭う事は叶わなかった。
ならば、せめて。
せめて、少しは違うことを考えよう。
湧き上がる嫌悪感から逃れ、気を紛らわせる為のダミー。
それを求めて、アリスは視線を躍らせた。
しかし、視界に入ってくるものはすべて、自分が知り尽くしている、自分の持ち物だけ。
当たり前だ、ここは私の家、私の部屋。
あの本は何度も読んだし、作りかけの人形も服も無い。
食事は摂りたくないし、そもそもまとまな生活をする気になれない。
駄目だった。
気を紛らわせるものなんて、無い。
いつものように、この嫌悪と後悔に押し潰されるのを待つだけ。
嫌だ。
逃げ出したい。
もう、何もかも忘れてしまいたい。
でも、どうせ逃げられはしないだろう。
ならば、せめて、気を紛らわせるぐらいはしたい。
焼け石に水だろうと構うものか。
アリスは必死に、逃げの対象を探した。
瞳は見るも無残に血走り、半開きの口から荒い息を吐いて、首を振りながら四つん這いで蠢く姿は、あまりにも痛々しい。
彼女を知る者がこの姿を見たら、きっと悲しむだろう。
しかし、そんな自分の姿など知る由も無いアリスは、ゼエゼエと息を切らしながら部屋を徘徊した。
部屋中、家中を視線だけで物色していく。
手は這って移動するだけで精一杯で、物に伸ばす余裕は無い。
強いストレスでガリガリにやせ細った腕と指は枯れ木のようだった。
本、茶筒、裁縫道具、箪笥、花瓶、時計。
駄目だ、どれも駄目だ。
興味を惹かれる物が無い。
何も無い、何も無い、何も無い。
自分の家は自分が一番知っている。
ここに、自分の気分を逸らしてくれる物など無いのだ。
解っている、だが解っていても、アリスは求め続けた。
昼を過ぎ、夜になっても探し続けた。
何か、何か無いのか。
視線の腕は何も掴めず見つけられず、虚空を彷徨うばかり。
見つかるのは興味を惹かれぬ、己の持ち物。
そして、主人がこのような状況にあっても変わらず動き続ける人形達。
人形。
忙しなく動いていたアリスの視線が止まった。
視線の先には、人形。
自分が精魂込めて作り上げた、可愛い可愛い子供達。
自慢の作品。
趣味であり、生き甲斐であり、実益も兼ねて、家族の代わりで、友で。
彼女のアイデンテティ。
七色の魔法使いにして人形遣い、アリス・マーガトロイドを示す記号。
忘れていた。
もう何日、人形達に触れていなかったのだろう。
意識すらしていなかった。
大事なことの筈なのに。
そう、大事な。
──その時だった。
アリスは、身体に電撃が走ったかのような錯覚を覚えた。
大事なものという言葉。
大事なもの。
大事。
失いたくないもの。
失ってはいけないもの。
暗闇に閉ざされた心に、霊夢の姿が浮かんだ。
そうだ。
自分は、失ってしまった。
大事なものを。
大事だと言うことに気付かずに、自らの手で捨て去ってしまったのだ。
再び、後悔と絶望感がアリスに襲い掛かった。
失いたくなかった。
失いたくない。
大事なものを失いたくない。
乾いた頬に、熱い涙が伝わった。
もう、嫌だ。
忘れたい。
もうこんな思いはたくさんだ。
アリスは床に這いつくばり、嗚咽を漏らした。
消えてしまいたい。
何もかも忘れて、楽になりたかった。
涙が止まらない。
久し振りに感情を取り戻したことを、アリスは強く後悔した。
動かなければよかったと。
気を紛らわすだなんて、何を生意気な。
こんな思いをするのなら、あのままでいればよかった。
そう思った瞬間、アリスは突然、自分の身体が鉛のように重くなったような感覚に襲われた。
全身に力が入らない。
身体も心も、あらゆることに対して、どうでもいいと叫んで動かなくなってしまったかのような、そんな感覚。
動かそうと思っても身体は反応せず、動かそうと言う意思も、吹けば飛ぶような、希薄なものだった。
その内に、別に動かさなくてもいいじゃないか、という思いが湧き上がり、動かそうと試みていた指の緊張を解いてしまう。
もう、何もかもがどうでもいい。
このまま動けないのなら、それもいいだろう。
朽ちてしまえ。
幸い、瞼を閉じることは出来るみたいだった。
ゆっくりと瞼を閉じていくと、そこは何も無い真っ暗闇だった。
大事なものを失い、何も無い自分に相応しい世界だろう。
瞳を閉ざして間も無く、眠気がやってくるのを感じた。
アリスは睡魔に抗わず、徐々に意識を手放していく。
このまま永遠に目覚めなくてもいい、そう願った。
意識が途切れ、完全に闇の中へと飲まれる、その瞬間だった。
身体を揺さぶられる感覚に、消えかかっていたアリスの意識が形を取り戻していく。
いったい、何だというのだろう。
このまま眠らせて欲しいのに。
揺さぶりは続いている。
それは小さな力だ。
小さい手で、自分の腕を揺さぶっているのだ。
規則的な揺らし方。
いったい何が自分を揺さぶっている?
アリスは眠りを妨げる存在を、瞳を閉じたまま払い除けようと手を伸ばした。
こんな時に動くなんて、と思い、軽い嫌悪感を抱きながら手探りで自分を揺さぶっている存在を探し当てる。
それはすぐに見つかった。
柔らかな絹と、繊細に編み込まれたレースの感触。
小さくて華奢な、精巧さを感じさせる手触り。
魔法でコーティングされた、人肌のような柔らさを持つこの感触。
アリスは目を見開いた。
そのまま勢い良く起き上がり、すぐに自分が寝ていた場所へと視線を向けた。
そこには。
応急セットや薬箱を抱えた人形達が居た。
それぞれが白衣を引っ掛けていたり、どこから持ち出して来たのか、聴診器や注射器を構えている人形も居る。
彼女達の格好を見て、アリスは、この人形達が何をしているのかを理解した。
この人形達は、アリスが体調を崩したり怪我をした時に面倒を見てくれたり応急処置を施してくれる役目を持っているのだ。
アリスがそのように命令を与えた人形達。
恐らくは倒れ、生命力が低下していた主人に反応して、彼女を助けるべく動き出した、と言うところだろうか。
アリスは人形達を見つめた。
彼女達に表情はない。
主人が心配だから動いた訳ではなく、命令通りに動いただけだと、その無表情だが、端正で美しい顔が物語っていた。
人形達は、極論すれば、道具だ。
どんな目的で扱うにしても、「使う」「もの」である以上、それは道具と言っていいだろう。
余計な事を考えず、与えられた命令、使命を忠実に実行するだけの存在。
そこに意思、自己と言う物は存在しない。
あるのは与えられた命令、使命、存在意義。
意思が無いから悩まないし、自己を持たないから余計な事を考えず、何も得ない代わりに何も失わない。
ある意味で完全な、自己完結を成し得ている存在。
得るものを持たないから失わない。
悩めないから悩まない。
苦しみも何も感じないから、苦しむことも無い。
──道具。
何も感じず、考えず、苦しまない。
命令を与えられ、それをこなすだけの存在。
アリスは、自分の傍にいた人形を抱え、その人形をじっと見つめて考えていた。
人形達は自分が今味わい、感じている苦痛、悩み、絶望を感じることは永遠に無い。
人形達が道具としての人形達である限り、絶対に感じることの無い苦しみ。
アリスは人形達が羨ましいと思った。
人形達のように自分に意思が無ければ、ただの道具であれば。
こんな、苦痛を味わうことも、大事なものを失うこともない。
初めから存在しないのだから。
人形達の頭を撫でながら、いつしかアリスは彼女達に羨望の眼差しを向けていた。
何も感じない、何も考えない。
心を持たず、意思を持たず、ただ命令に従い存在するだけの道具。
──私も、そうなれたらいいのに。
きっとそれは素敵な事に違いない。
心が無ければ何も感じないで済む。
考えないから悩まない。
行動しないから後悔しない。
何も望まないから絶望しない。
ああ、そうか、そうなんだ。
何て素晴らしい。
アリスの瞳に、淡い光が燈った。
燈った光は、闇色。
ぐるぐると渦巻く、暗い狂気。
道具になってしまおう。
人形になってしまえ。
もう、こんな気持ちはうんざりだ。
逃げたい、逃げ出したい。
嫌だ。
忘れたい。
人形になってしまえば、それが出来ると思う。
こんな心なんて、いらない。
アリスは笑い出した。
声が枯れるまで、狂ったようにゲラゲラと笑った。
──否。
それは狂気そのものだったのかも知れない。
アリスの記憶の中に、自分が望む結果を導き出せる存在が浮かび上がる。
それは忘れるつもりで記憶の奥底に閉じ込めていたもの。
それを使えば、自分はこの苦しみから解放されるだろう。
好みではない方法なのが癪だったが、この際手段を選ぶつもりは無い。
素晴らしい、素晴らしいことじゃないか。
終わる。
終わるんだ。
何もかも終わるんだ。
アリスは笑った。
笑い続けた。
涙を零しながら。
いつまでも。
その夜は、新月だった。
月明かりの無い空に、小さな流れ星が一つ、ひっそりと流れた。
空が零した涙のような。
◇
冷たく、乾いた風が境内を抜けていく。
周囲の木々から落ちたものや、外から飛ばされて来た枯葉が石畳に散らばり、積もっては吹き飛ばされを繰り返していた。
ぶ厚い枯葉の絨毯で、石畳が見えなくなってしまっている。
夕方と言うこともあり、今日の博麗神社は普段よりも暗く見える上、憂鬱そうな雰囲気まで放っていた。
掃除しないだけで、雰囲気はガラリと変わるものだ。
普段の神社を知る者が今の神社に訪れれば、あまりのギャップに場所を間違えたかと思うだろう。
母家の軒先で、巫女は何もせずに俯き、呆けていた。
足元には竹箒が放り出され、彼女が掃除の途中だったことを語っている。
手にした湯飲みから、熱い湯気と共に上質の茶の香りが立ち上っているが、彼女がそれに口をつける気配は無い。
全身から漂う苛々した雰囲気と、何もしたく無いという無気力、どうにでもなれと言う、いい加減な気持ちが霊夢を包んでいた。
瞳をとろんとさせているが、瞳の奥の色は苛立ちでピリピリとしている。
彼女の口から深い溜め息が漏れた。
まったく何もやる気が起きない。
霊夢が怠惰な性格なのは周知の事実だが、今の彼女は殊更に無気力だった。
否、気力が無いのではない。
あらゆることに興味が持てないのだ。
彼女の心はあることで埋め尽くされて、他ののことが入り込む余地を失っているのである。
霊夢の心を埋め尽くすもの。
それは、彼女の友人である魔法使いの少女だった。
冷静な風を装って、その癖に激情家で、冷たそうな癖に優しくて、傍に居ると安心出来て、楽しい、そんなあの娘。
照れ臭いから面と向かって言ったことは無いが、一番の友達だと思っている、人形の好きなあの少女。
霊夢の心はアリスのことでいっぱいだった。
思い出すのはアリスと喧嘩をしたあの日のこと。
言うことを聞かず、殴りかかってきたアリスと喧嘩して、つい力の加減を間違え、彼女を倒してしまった。
そして、倒れて尚も向かって来るアリスに、自分は「大嫌いだ」、「絶交だ」と言い放って逃げるように帰ったのだ。
霊夢は後悔していた。
解っていたのだ。
アリスは頑固で一途で、人形のことになるとそれが尚更に強くなる。
彼女が夢中になっている時に、それに水をさすような事をすれば、結果は火を見るよりも明らかだと言うことも解っていた。
だが、それでも霊夢は心配せずにいられなかったのだ。
痩せ細り、瞳だけがギラギラと輝いて、疲れ切っているのに無理をして研究を続けるアリスを見ていられなかった。
休んで欲しかった。
休ませたかった。
ボロボロになって、磨り減っていく彼女を見たくなかった。
そして、それ以上に。
研究よりも、人形よりも、自分を見て欲しかった。
遊びに行っても本ばかり読んで相手をしてくれない。
誘いに行っても研究が忙しいと断られる。
どんなに話しかけみても、自分に見向きもしてくれない。
悔しかった。
頑なで、一途で、解らずやのアリス。
どんなに想っても、声をかけても、振り向いてくれない、聞いてもくれない。
私は何なのだろう?
友達だと思っているのは私の独りよがりなのだろうか?
面と向かって言ったことは無いから、独りよがりでも別にいい。
霊夢が我慢ならなかったのは、自分自身でも呆れるくらいに身勝手な理由。
嫉妬。
霊夢はアリスの身体を心配する以上に、アリスが夢中になっている研究に、人形に嫉妬した。
人形相手に嫉妬したなど、口が裂けても言えないが、その思いを否定する気にはなれなかった。
だから、言ってしまったのだ。
伝わらない思い。
伝わらない苛立ちが爆発し、そして。
霊夢は頭を振って追憶を振り払った。
言ってしまったことを今更後悔しても遅い。
謝ろうと思った。
自分が悪いことをしたとは思わないが、こう言う場合は謝ってしまった方が何かと楽だ。
色々と罵声を浴びせてしまったし、「絶交」など、何よりも言ってはいけない言葉だと思うから、と自身を納得させる。
仲直りしたかった。
どうしても、また前のように楽しく過ごせる関係に戻りたい。
自分がアリスと仲直りをしたいと思っていることに気が付いたのは、喧嘩別れをしたその夜のことだ。
それからと言うもの、寝ても覚めても考えるのはアリスのことばかりで、何も手が付かない状態になってしまった。
思いはストレスへと変わり、苛立って、霊夢は最低な気分で日々を過ごす羽目になってしまったのだ。
暫くは喧嘩した手前、霊夢も意地を張って気分が悪いのを我慢していたのだが、それもそろろ限界だった。
もうこんな気分は嫌だ。
自分が言った「絶交」の言葉を取り消して、仲直りしたい。
頭の中はアリスのことでいっぱいだった。
速く仲直りしてこの気持ちを解消したいと思った時、霊夢はあることに気が付いて驚いた。
それは、暫くの間アリスと顔を合わしていないだけで、自分の気持ちが深く沈みこんでしまったことだった。
いつの間にか、アリスの存在が自分の中で大きくなっていたのだ。
気付いていなかっただけで、自分はアリスのことを大変好いていたらしい。
週に一度は遊びに行っていたし、会いたいとも感じていたから、なるほど、気付いてしまえば合点がいく。
一度自覚すると、後は今まで意識していなかった分を埋めるかのようにアリスのことが気になりだして仕方が無い。
益々仕事や家事、その他諸々が手に付かなくなり、最近では朝起きて、気付いたら夜だった、なんてこともあったぐらいだ。
このまま行けば、その内記憶さえ飛びそうになるかも知れない。
霊夢は決意した。
意地を張るのはやめて、謝ってしまおう。
そして仲直りしよう。
気になりだしたら、長いこと会っていない事が寂しく感じてしょうがない。
嫌な気分を払う為、寂しさを埋める為、何より元の仲に戻る為に、霊夢はアリスに仲直りの相談をしに行く決意を固めた。
決意が固まると、霊夢は自分の心の内が幾分か軽やかになったのを感じて、苦笑した。
存外、自分も単純だと。
明日、謝りに行って仲直りしよう、そう考えて空を見上げると、陽はすっかり落ちて黒一色だった。
いつの間にか夜になっていたようだ。
自分の時間の感覚が鈍っていることに呆れつつ、霊夢は夕食の献立を考え始めた。
ふと、何気なく空を見上げると、その夜は月が出ていないことに気が付いた。
月の無い夜空にどこか寂しさを覚えたが、霊夢は気にせずに家の中へと入っていく。
落ちた流れ星には、気付かない。
◇
翌日。
霊夢は家の茶箪笥から選んだ一番上等な和菓子と、里の店へ早朝に押しかけて購入した高級な緑茶の葉を手土産に家を出た。
目指すのは当然、魔法の森の奥にあるアリスの家。
急がず、しかしそれなりに速く、霊夢は飛んだ。
顔を合わせたらすぐに謝ろう。
謝って、仲直りして、また一緒にお茶を楽しみ、無駄話に興じるあの関係に戻るんだ。
霊夢は決意を新たに、魔法の森へと飛び続けた。
重く沈みこんでいた心と身体が嘘のように軽いと、霊夢は飛びながら思っていた。
そして、仲直りをしようと決意しただけでこんなにも心が晴れやかになることに苦笑するのだった。
やはり、自分で思っていた以上にアリスを意識していたらしい。
仲直りのついでに、改めて友達の宣言をしよう。
膨らんで行く今後の期待に胸を躍らせ、霊夢は速度を少しづつ上げていった。
やがて、見覚えのある屋根が木々の向こうに見えてくる。
久し振りに見るマーガトロイド邸の、変わらない姿に霊夢は溜息を漏らした。
何も変わっていない。
暫く訪れていなかっただけなのに、10年以上も経ってしまったかのような懐かしさが込み上げて、霊夢は苦笑した。
随分と入れ込んだものだ、と霊夢は思う。
時間にしてまだ一ヶ月も過ぎていないと言うのに、この感慨は。
苦笑いが止まらない。
霊夢は頭を振って、今憶えた思いを忘れることにした。
懐かしさなど、これから自分がアリスにする話の前では暗過ぎて、景気が悪くなりそうだと思ったからだ。
霊夢は気持ちを切り替えることにした。
アリスの家の裏に回り込むと、そこにある窓の硝子で自分の姿をサッと確認する。
その窓は本棚で塞がれており年中締め切られているので、鏡の代わりに使えるのだ。
アリスも知らない、霊夢だけの秘密の鏡である。
十分とは言えないが、代用品としてはまずまずの使い勝手なので、霊夢は遊びに来た時、たまにここを使うことがあった。
窓硝子に映りこんだ自分の姿を念入りに確認していく。
顔色は普通、髪も寝癖は無く、手入れも万全。
密かに自慢な黒髪も健康的で瑞々しい。
トレードマークの大きなリボンも曲がっておらず、服も皺は無い。
異常無し、いつも通りの自分だ。
最後にニコッと微笑んで、霊夢は玄関へと小走りに急いだ。
笑顔もバッチリ、これなら上手くいけそうだと、霊夢は思った。
扉の前で深呼吸をする。
ノックの為に伸ばした腕がピクンと、止まった。
短い逡巡。
扉を開けて、その先に待っているアリスはどんな顔をしているだろう?
やはり怒っているだろうか。
虫を見るような目で見られるかもしれない。
弾幕が飛んでくるかもしれないし、扉を開けてくれさえしないかもしれない。
不安と恐怖が一瞬心を掠める。
だが、ここで怖気付いては何も始まらない。
霊夢は自分の頬叩いて不安と恐怖を追い払った。
小気味良い音が響き、乾いた痛みが気を引き締める。
今度は躊躇う事無く、霊夢は腕を振り下ろした。
一回、二回、三回。
乾いた音が周囲に響く。
さあ、ノックはした。
次は訪ねて来たのが自分だと言うことを告げねば。
努めて冷静に、上擦りそうな声音を何とか押さえ付けて、霊夢は名乗りと挨拶を扉越しにアリスへと向けて叫んだ。
霊夢の声が止むと、周囲に静寂が訪れる。
急に静まり返ったような気がして、霊夢は緊張した。
ノック、そして声を掛けてから20秒が過ぎた。
駄目か?
やはり、無視しているのだろうか。
ならばこの場で謝るべきか。
次に取るべき行動について高速で思考を巡らせ始めた時だった。
音も無く目の前の扉が開かれ、霊夢はぎょっとした。
刹那、緊張が極限に高まり、心臓が大きく鼓動を打つ。
視線を扉の前、開かれた空間へと滑らせる。
視線が移動するその動きが酷く鈍重に感じられ、霊夢は苛立った。
何を恐れている?
堂々と正面から彼女を見ろ!
中から懐かしい友がその姿を表したのだ。
さあ、その顔を見ろ。
そして、謝れ。
声をかけろ、笑え。
視線を上げるその瞬間が酷く、長く感じられた。
一瞬が永遠に変わってしまったような。
止まっていない筈なのに、止まってしまったかのような、そんな時間の流れ。
徐々に視線がアリスの姿を捉えていく。
純白のストール。
白くて細い首。
ぷっくりとして柔らかそうな、薄紅色の唇。
形の良い鼻。
美しく澄んだ湖のように深い、碧い瞳。
サラサラと美しく輝く金の髪。
人形のように美しく、可愛らしい少女が、そこに立っていた。
見慣れていた筈の少女の姿に、しかし霊夢は、見惚れていた。
久し振りに見たアリスは同性である霊夢が見ても、ぞっとするような美しさを持っていた。
多分に精神的なものも混じっていたのだろうが、それを加味したとしても、霊夢にはアリスが綺麗だと思えたのだ。
まるで人形か、芸術品のような。
霊夢は仔細にアリスを観察した。
いや、魅入っていたと言うべきか。
久し振りに見る彼女の姿に見惚れている自分に気付き、霊夢は慌てて頭を振って正気を戻した。
今は見惚れている場合ではない。
確かに、久し振りに見たアリスは美しかったが、今はそれについて思いを巡らせる時ではないのだ。
霊夢は気を引き締めなおし、改めてアリスを見つめた。
至高の芸術品のような美しいアリスの顔。
精巧に作り込まれた人形のような、一切の乱れの無い表情。
霊夢は彼女の碧い瞳を覗き込むように見つめ、彼女の名前を呼んだ。
アリスは、答えない。
何故か微笑を浮かべて霊夢を見ているだけだった。
アリスの名前を口にした瞬間、気恥ずかしさがドッと心の中を埋め尽くした。
しかも、アリスは微笑んでいるのだ。
霊夢は挨拶と謝罪を早口で一気にまくし立てた。
喧嘩した相手が、自分に向かって微笑んでいる……その事態に霊夢の思考は平静さを保てなかった。
その上、その微笑がこの上なく美しく、可愛らしいのだ。
霊夢はアリスの返事を待たず、一方的に喋り続けた。
自身の動揺を紛らわせる為、必要以上にだ。
内心、まずいと思いつつも霊夢は喋るのを止めなかった。
アリスに見惚れている自分を認めたくなかったのだ。
一瞬でも心を奪われたことを、何故かは解らないが認めたくなかったらだ。
アリスが同性の自分から見ても可愛いと言う事は以前から自分も認めていた。
だが、今の彼女は何だ?
彼女を見ていると、そのまま引き込まれそうになる。
魅入ってしまうのだ。
アリスを見ていると、霊夢は熱に浮かされたように魅入ってしまう。
心を奪われてしまいそうになるのだ。
まるで、完璧な芸術品に感動する心境のような……。
…………。
……?
……芸術?
その時だ。
霊夢は、先程から自分が、「芸術品」という単語ばかりを連想していることに気が付いた。
人形、芸術品、作りもの。
何故だ?
何故、そんな。
「物」に対しての感情を、何故、彼女に抱く?
霊夢は喋るのを止め、アリスの顔をもう一度見つめた。
そこには、変わらず美しいアリスの顔がある。
こちらへ向かって微笑んでいる。
自分が喋り過ぎたことに不快感を抱いているのかとも思ったが、どうやらそれは無いようだった。
だが……。
アリスは、喋らなかった。
いくら待てども、彼女は口を開かず、微笑を浮かべているだけだ。
否。
本当に笑っているのか?
その瞳は、自分を見ているのか?
巫女としての感が、何より霊夢という少女が持つ鋭い感性が、敏感に感じ取った違和感を強い警戒の念へと変える。
霊夢は再度、アリスの名前を呼んでみた。
アリスの返事、彼女の声を聞くことを期待しての行為。
しかし……ただ微笑を浮かべ続けるのみで、アリスは返事をしなかった。
一切の挙動を見せずに自分を見つめてただ笑うだけ。
その微笑みに、霊夢は冷たいものを感じた。
アリスの表情は、微笑みの形をとっているだけだった。
瞳も口元も、完璧に微笑みの表情を取っている。
そう、「完璧に」、寸分の狂いも無く。
生気が、感じられない。
霊夢は思わず後退りした。
目を大きく見開いて、表情を凍りつかせたままアリスを凝視する。
アリス……否、アリスの形をした何かが、目の前に居る!
どんなに気配を探ってみても、霊感を働かせてみても、目の前のアリスからは何も感じられない。
だと言うのに。
見た目はアリスそのもので、幻視を使って彼女を視ても、結果はアリスだとしか思えない。
けれど、違う。
違うのだ。
目の前に居るアリスは、自分の知っているアリスではない。
何かが決定的に違うのだ。
生気が感じられないと言うこともある。
だが、生きているという感じが僅かばかりだが霊夢には感じられた。
そんな馬鹿なことがあるものか。
生気が無いのに「生きている」など!
目の前に居るアリスが、アリスでは無いという考えがどんどん大きく膨らんで行く。
──ひょっとしたら、このアリスは、アリスが自分を驚かせる為に作った、精巧な人形なのではないか?
そんな突拍子も無い考えが浮かぶ。
だが、人形にしてはいささか出来が完璧過ぎる。
アリスの腕前を知らないわけではないが、これほどまでに本人と同じ姿、雰囲気を持つ人形を作れるとは思えない。
そもそも、人形なのかさえ疑わしい。
しかし、と霊夢は思う。
目の前に居るこの「アリス」から感じられる、自分が知っている「アリス」の雰囲気に混じった、この感覚。
彼女の家に飾ってある人形とそっくりな、この雰囲気。
人形。
そう、人形なのだ。
まるで人形を見ているかのような。
まさか、という思いと、自分の感覚を信じろという思いが霊夢の中で交錯する。
目の前の彼女は、本当に彼女ではなく、人形なのだろうか?
もしも人形だとしたら。
恐ろしく精巧なその人形に、霊夢は背筋が冷たくなるのを感じた。
──これが、人形ならば。
得体の知れない嫌悪感と。
──これは、外れてはならない道のもので。
嫌悪に混じる、得体の知れないものに対する恐怖感。
──存在してはいけない、そういうもの。
巫女としての感覚が、霊夢に訴え始めた。
これは、いてはならないものだと。
だが、霊夢はその訴えを無意識の内に黙殺した。
黙殺したが……思考が混乱し、まともな考えが出来なくなっている。
人形のようなアリス。
これはアリスなのか?
人形なのか?
解らない。
不気味だ。
何かがおかしい。
決定的に、致命的に。
霊夢はもう一度、アリスの名前を呼んだ。
今度こそ、自分に返事をしてくれることを願って。
彼女の口から、今までのは演技だったと聞かせて欲しかった。
それだけが唯一、思考がままならない霊夢が求めたものだった。
アリスは、動かない。
反応しない。
ただ微笑んでいる、ように見せるだけ。
霊夢は呼んだ。
今度は大きな声で。
アリスは、動かない。
霊夢は叫んだ。
この現実が幻影ならば、嘘ならば、覚めてしまえと願って。
アリスは──
レ イ ム
微笑みの形に「固定」されていたアリスの口が、動いた。
動いて、声を出した。
喋った。
そして、自分の名前を呼んだ。
霊夢と。
自分の名前を口にされた瞬間、霊夢の背筋に走る冷たいものが急速に、その温度を下げた。
──違う。
この娘は。
これは。
キリキリと音が聞こえそうな、ぎこちない動作でアリスが首を傾げて見せた。
そして、片言の言葉を、その綺麗な唇から紡ぎだす。
イ ラ ッ シ ャ イ マ セ
魔法の森に少女の悲鳴が木霊した。
◆
──気が付いた時、霊夢は自分の部屋で頭を抱えて震えていた。
あれは、アレは一体、何だ。
アリスは、どこへ消えたのか。
解らない。
霊夢は自分が何故震えているのか、いつここに帰ってきたのかも解らず震え続けた。
自分を震えさせているものの正体も解らない。
ただ、得体の知れない恐怖と、嫌悪の感情だけは理解出来た。
アレは。
巫女の勘だけではない。
もっと原始的な、そう、生理的なレベルで、霊夢はあの「アリス」に激しい嫌悪の情を抱いていた。
認めない。
あれが「アリス」の筈が無い。
霊夢は熱に浮かされたように何度もそう呟いた。
◇
翌日の正午。
母家の縁側に青ざめた顔で座る霊夢を囲むように立ち、霧雨 魔理沙と十六夜 咲夜は深刻な表情で俯いていた。
冬空の下、風は身を裂くように冷たかったが、彼女達は意に介していないようだ。
霊夢ほどではないが、二人の少女の顔色も、心なしか青い。
二人は霊夢から、彼女が昨日出会ったアリス──のようなものについての話を聞かされたのだ。
二人とも霊夢に用があったようだが、彼女の話を聞いてそれをすっかり忘れてしまったようだった。
霊夢が出会った、おかしな様子のアリス。
まるで人形のようなのに、本人のような気もする、不思議な存在。
あれはいったい、何なのか。
考えていても解らないが、考えざるを得ない、その存在についての疑問。
そしてあのアリスに自分が感じた、激しい嫌悪感。
思い返す度に恐怖と入り混じった嫌悪の情が燃え盛り、霊夢の心を締め上げる。
魔理沙と咲夜も、最近まったく姿を見せないアリスのことをそれなりに気にしていたので、霊夢の話に少なからず不安を抱いた。
幻想郷では鬼でも跨いで通る博麗の巫女が嫌い、恐れるもの。
魔理沙はどれだけ外道なものなのかと思い、咲夜はそれほど外道なものなのだろうと勝手に解釈する。
姿を見せないアリスが、いったいどのようにしてここまで霊夢をへこませたのか。
二人は逆らい難い好奇心と、僅かな「怖いもの見たさ」で、霊夢から更に詳しい話を聞きだそうとした。
だが、霊夢はぶつぶつと歯切れの悪い言葉を口にするだけで多くを語ろうとしなかった。
霊夢はアリスのことについてあまり話したくなかったのだ。
だが、それは無理な話だった。
二人が訪ねて来て、「元気が無い」と言われた時に、うっかり口を滑らせてしまったのだ。
霊夢の完全な失態である。
霊夢が逃げようとしても諦めず、二人はしつこく食い下がった。
あからさまに隠されれたり、届きそうで届かない状況は誰にだって不愉快で鬱陶しい。
魔理沙と咲夜は欲求に任せてぐいぐいと霊夢に詰め寄った。
そんな二人の勢いに押された霊夢は、仕方なく昨日の出来事を語れるだけ語ることにしたのだった。
もう一度アリスの家に行こう、と言ったのは咲夜だった。
余程興味を惹かれたのか、咲夜は積極的にアリスに会いに行くことを霊夢に薦めるのだ。
魔理沙も咲夜に調子を合わせ、霊夢に、会いに行こうと説得する。
自分達だけで行けばいいと霊夢は思ったが、断る気力が湧かず、結局同行することを承諾した。
アリスの家に着いた三人は、家から出てきたアリス(?)の挙動に戦慄した。
壊れたカラクリ人形がキリキリと音を立ててギクシャクと動くかのように、アリス(?)が動いて三人を出迎えたのだ。
イラッシャイマセ、と馬鹿丁寧に、そして余所余所しい態度。
その上、その声は何の感情も篭っていないのだ。
霊夢は、アリス(?)を見るのが辛いのか、ずっと視線を落として俯いたままだった。
常に変わらずそこにあると思っていたものが、目を離していた隙に壊れていたとしたら。
気付いていなかった好意的な気持ちを自覚した直後に、今のアリス(?)を見たショックは当分抜けそうに無いようだ。
そんな霊夢とは対照的に、アリス(?)の声を聞いた魔理沙は、魔法で作り上げた魔法生命特有の無機質な声を思い出していた。
魔法生命とは、文字通り魔法、魔術の類で擬似的な命、魂を、本来ならばそれらを持たない器に与えて出来るものを指す。
用いる魔法や術者のレベルにもよるが、生物で言う単細胞生物から人間並の高度な生命体もある程度自由に生み出せる。
魔理沙が思い浮かべたのは、そうした魔法生命の中でも「下の上」レベルの粗末な魔法生命だった。
アリス(?)の挙動や片言の言葉が、単純な命令しかこなせない低レベルの魔法生命に酷似していたからだ。
一方の咲夜も、アリス(?)の様子がおかしいことを瞬時に見抜いていた。
職業上、生きているものとそうでないものの違いに敏感な彼女は、アリス(?)から感じられる雰囲気の正体を掴めた気がした。
生き物のようで生き物ではない……異質で、生理的な嫌悪感を催すその雰囲気。
──高度で外法な魔道の臭い。
今、目の前にいる彼女は、「アリスであってアリスでない」と、咲夜は確信に近い物を得ていた。
最初に行動を起こしたのは咲夜だった。
しげしげとアリス(?)を観察する魔理沙と、俯いたままの霊夢を放置し、彼女は一人マーガトロイド邸に入り込んだ。
足を踏み入れる前に、念を入れて気配を探ることを忘れない。
家の中からこれと言った気配を感じることは無かった。
だからと言って油断は出来ないし、気を緩めていい理由にもならない。
今のこの家は、未踏のダンジョンと考えても差し支えないほどに不気味だった。
家の中はシンと静まり返り、物音は奥にあると思しき時計の動く音だけだ。
外で見た、アリスと思しき不気味な雰囲気少女と、家の中の静寂。
警戒するには十分過ぎる世界だ。
いつ、何が出てきてもいいように、咲夜は慎重に歩を進めて行く。
家の中へ一人入って行く咲夜を見た魔理沙は、自分も一緒に行こうと思って駆け出した。
呆然と立ち尽くしているアリス(?)の手を引きながらである。
酷く落ち込んだ顔をした霊夢を気遣っての行為だった。
アリス(?)を連れて咲夜の後を追って家に入った魔理沙は、奥の居間に入ろうとしている咲夜を呼び止めた。
結局何事も起こらず、無事に家の奥へと侵入を果たした咲夜は不意に掛けられた声に過敏に反応した。
そんな咲夜の様子に、逆に驚いた魔理沙は思わず深い溜め息を漏らす。
魔理沙を横目で睨んだ後、咲夜は居間の中を見回した。
綺麗に片付けられた、ごく普通の空間。
埃一つ落ちていない、その行き届いた環境に、咲夜は感嘆の、魔理沙は居心地の悪そうな溜め息を漏らした。
ひとしきり眺めた後、咲夜は部屋の中で何かを探し始めた。
その後を魔理沙もついていく。
居間にも小さな本棚があり、そこには魔道書も収まっていたが、魔理沙はそれを物色する気にはなれず、無視した。
酷く落ち込んだ霊夢のことを思い出し、普段の調子が出せそうにない。
そんな魔理沙を軽くからかいながら、咲夜はテキパキと捜索を続けて行く。
咲夜が探しているのは、アリスが最近手にした筈の、魔法の道具だった。
今、魔理沙が連れているアリス(?)から感じられる、アリスとは別の魔力の残滓、残り香。
これと、アリスの魔力の残滓が付着しているものに、このアリス(?)の謎を解く鍵があると踏んだのだ。
本来、魔法に詳しくない筈の咲夜が、何故こんな方法を知っているのか。
それは、自分が世話をする魔女の命令に従わねばならないという境遇から得た、ちょっとした探し物の方法だった。
魔女の「あの時使ったあれを持って来い」等と言う難しい命令をこなす内に覚えていった、経験の賜物なのだ。
感覚を研ぎ澄まし、自身に潜在する魔力を高めて、咲夜は部屋の中を隅々まで探した。
本棚は……無い。
飾り棚も、ハズレだ。
居間には存在しないのだろうか。
念の為にもう一度居間を探そうと思った時、魔理沙が咲夜に声を掛けた。
探すならば、実験室だろう、と。
咲夜の、物探しの腕前を見ながら、魔理沙は感心すると共に、やはり犬じゃないかと思っていた。
実験室からは、咲夜が求めていた、「つい最近のアリスの魔力の残滓」が付着した品々がポンポンと出てきたからだ。
中には滅茶苦茶に突っ込まれた機材の箱からピンポイントで抜き出されたものもあり、咲夜の捜索能力の高さを伺わせる。
探し始めてから10分が過ぎた頃。
咲夜は一冊の本を手に取った。
その本のタイトルは。
◇
深い霧に包まれた湖の先にある、血の色そのものの館、紅魔館。
その紅魔館の中にある魔法図書館。
埃っぽくて薄暗く、林立する本棚のせいで窮屈な印象を与える日陰の世界は、普段は主人である魔女とその従者の二人しか居ない。
たまに使用人や館の主人、泥棒も居るが、今日のように大勢が押しかけるようなことは滅多に無いことだ。
図書館の主であるパチュリーに従者の小悪魔、咲夜、魔理沙、霊夢、そして。
虚ろな微笑を顔に貼り付けたまま、カクカクと壊れた操り人形のように踊り回る、アリス・マーガトロイド「だった」少女。
普段、この図書館には存在しない顔ぶれが何故、今この場に集っているのか。
その原因であり理由のすべてである少女は、声を立てずにケタケタと笑って狂った踊りを続けている。
そんな彼女を、霊夢は悲しげな瞳で見つめていた。
魔理沙は不機嫌な顔で明後日の方向を睨み、咲夜は霊夢を心配そうに見つめている。
パチュリーはそんな彼女達を困った顔で見回していた。
──あの日、咲夜がアリスの家の実験室から見つけ出した本は「完全なる従者の誕生」。
この図書館でアリスが見つけ、求め、パチュリーが貸し出しを許可した魔道書。
アリスが最後に「魔法的な何か」を行使した痕跡のあるアイテム。
それを調べることで、今目の前で踊っている少女が、何故こんな状態になってしまったのか、その謎が解るかも知れない。
本を見つけた咲夜は霊夢と魔理沙にそう言って、魔法に詳しい人物を探すことにした。
と言っても、彼女達の知り合いで高度な魔法使いと言えば数えるほどしか存在しない。
パチュリーの存在に気付くのにさして時間は掛からなかった。
ちなみに魔理沙は、魔道書の中身が読めなかったので早々に候補から外されてしまった。
彼女が不機嫌な顔でいるのは、自身の不甲斐無さに腹を立てているのだろう。
ともあれ、彼女達が知り得る魔法使いで最も優れているパチュリーに白羽の矢が立ったというわけだ。
魔道書の解析と、アリス(?)の謎の究明の依頼。
自分の所に話が持ち込まれた時、パチュリーは面倒だから断ろうと思った。
顔見知りだし仲が悪いわけでもないが、特別仲が良いわけでもない。
誰だって、特別親しい相手や断れない関係でも無い限り、面度な事に進んで手を出す事は無いだろう。
パチュリーも例外ではなく、面倒ごとには関わらないようにしようと思っていた。
だが、アリスの痛々しい姿と、悲痛な表情の霊夢を見ている内にいたたまれない気持ちになり、渋々ながら引き受けることにしたのだ。
自分も存外、人が好いなと思い、パチュリーは苦笑した。
お人好しの魔女など、聞いた事も無い。
まだまだ魔女としては浅いと思いながら、パチュリーは解読と分析に必要な本の選別を、思考の中で始めていた。
集中出来ないから、と理由を付けて霊夢達を図書館から追い出し、パチュリーは書斎に篭った。
鍵をしっかりと掛け、あらかじめ淹れさせておいた熱い紅茶を一口啜る。
机に向かうと、彼女は早速、魔道書との格闘を始めた。
魔道書の記述は難解な魔法用語で埋め尽くされていたが、「まだ」100歳とは言え、魔女であるパチュリーには容易に解読可能な内容だった。
この程度ならあの娘でも読めるだろうと、今回の騒動の原因である人形遣いの少女を思い出す。
彼女にとってアリスは、特に親しい関係では無い。
ただ、宴会の時などで、魔法に関する深い話が出来る唯一の存在だったので、姿を見せなくなった頃から気にはなっていた。
何か大掛かりな実験でもしているのだろうと、深く気にしないようにしていたのだが。
まさか、あんな状態になって再会することになろうとは、流石のパチュリーも予想出来なかった。
彼女の友人ならば、あるいは察知出来たかも知れないが。
まあ、起きてしまった事は仕方が無い。
今は、ついつい引き受けてしまった、知り合いの頼みを叶えてやる事に集中すべきだろう。
400歳と395歳年上の友人以外の、他の誰かの頼みを聞く事は久し振りだ。
たまにはこんなこともいいだろうと、彼女は思う。
丁度、退屈しそうな所だったし、いい退屈しのぎになりそうではないか。
それに、魔法の話や本の話をする相手にもそろそろ戻って来て貰わないと、退屈で枝毛が増えてしまいそうだった。
髪の手入れは嫌いではない、と言うより好きな方だからいいのだが、やはり枝毛は気になる。
やはり、あの少女には早々に元に戻って貰わなければなるまい。
アリスがあのままならば、恐らく霊夢の、あの悲痛な表情は永く変わらないだろう。
そうなると宴会を開く事は無理になるし、我侭な友人も不機嫌になって暴れるかも知れない。
霊夢は彼女のお気に入りなのだ。
「夜の王」の通り名を持つ彼女が暴れれば十中八九、自分にも何かしらの「とばっちり」が飛んで来る。
そしてそれは、大概にして面倒事と相場が決まっているのだ。
急いでやらねば。
鋼どころかどこぞの伝説に出てくるヒヒイロカネも真っ青の精神を持つと思われた霊夢の、あの表情。
親愛なる筋金入りの我侭大魔神の吸血鬼。
一方は壊れそうで、一方は色々と壊しそう。
猶予は、無い。
パチュリーは残りの紅茶を一気に飲み干した。
冷めた紅茶は彼女の好みではない。
味わいながら飲むには、淹れたての熱い紅茶でなければ。
微温い液体が喉を通るのを感じながら、パチュリーは意識を集中させた。
意識を研ぎ澄まされた槍の穂先のように鋭角化し、思考の中にいくつもの「栞」作り上げていく。
「栞」で区切られた思考は、それぞれが独立して思慮、思考を可能とする。
細分化された意識領域を、それぞれ高速で働かせる為に、パチュリーは精神を集中させていった。
本の内容の確認。
想定される実践結果の推測。
自らの、この100年で蓄え培って来た知識と知性の展開、応用。
無限に広がる可能性を、有限に絞り込み、「∞」を「1」へと近付ける。
導き出された答え、その先。
更なる解法を貪欲に求めろ。
「栞」で区切った思考で、それぞれの作業を一斉に開始する。
紫の魔女は思考の世界に没入した。
◆
──暗い。
見渡す限りの漆黒で、暗い。
夜だろうか。
この暗さは、何も見えない昏らさは、闇だろうか。
何も感じない。
何も聞こえない。
何も無い。
ここは、どこだろう。
ここは、何なのだろう。
ふつふつと湧き上がる疑問。
ここは何処で、何故何も感じないのか。
そして、今、考えている自分は、何なのか。
名前は?
そもそも、自分は、誰で、何なのだ?
何かを思い出そうともしてみたが、無理だった。
思い出せない。
いや、そもそも自分に何かがあったのかさえ疑わしい。
忘れたのではなく初めから無いのではないか。
解らない。
解らないが。
──至極、どうでもいい気がする。
自分が誰で、何だっていいじゃないか。
記憶があろうが無かろうが、忘れていようが、どうでもいい。
湧き上がった疑問も、例えば、自分の知らない場所で誰かが何かをしたと言う事を人伝に聞いて知った、その程度の認識しか持てない。
そんな、知らない場所で知らない誰かが何をしたって別にどうでもいいじゃないか。
場所も、その人も、その人が何をしたかも解らないことなど、知っても仕方が無い。
興味を持てないし、持ちたくも無い。
否、それすらどうでもいい。
何も無くていい。
自分には何も無くていい。
何も無い。
無い。
この、「自分」と言う概念だって、無くていい。
いらない。
興味無い。
何もかもどうでもいい。
消えてしまおうと思う。
そうすれば、どうでもいいと思う事さえなくなる。
何も感じず、何も思わず、何も考えず、何も無くなるのだ。
素晴らしいじゃないか。
無だ。
無になろう。
何もかもが煩わしい。
全部、消えて、楽に。
自分なんて、いらない。
「私」なんて。
──だと言うのに。
何かが、私の中で引っ掛かる。
それが何なのか、解らない。
それが私の中に苛立ちを生まれさせる。
そして。
何かが、誰かが、私を呼ぶのだ。
聞こえない。
そして、その誰かが呼ぶ、私の名前が、私には解らない。
けれど、その名前が私だということは、何故か理解出来た。
声は聞こえない。
けれど、聞こえる。
私の中に響く。
その声無き声が、私を呼び、留まらせ、私を私で無くさせる邪魔をする。
違う。
私を、求めてくれている。
この、何も無い、私を。
私は。
私は。
◆
パチュリーが図書館に引き篭もってから二日が過ぎた。
その間、アリスは紅魔館に預けられ、霊夢はそんなアリスの傍から離れず、この二日間を彼女と過ごした。
何度も何度も彼女に話し掛けては返事が返ってこないことに落胆し、またそれを繰り返す。
彼女の名前を呼び、二人で過ごした思い出を語り、一人で笑ったり泣いたり怒ったりする霊夢の姿は健気で、悲しいものがあった。
アリスはカクカクと不気味な動きで走り回ったり、一日中動かずに微笑浮かべているだけで霊夢の呼びかけに一切反応しない。
咲夜はそんな霊夢を見て、パチュリーに一刻も早く謎を解いて欲しいとひたすら願った。
何が出来るか解らないし、何も出来ずとも、霊夢達の傍に居てやりたい。
あるいは魔理沙のように、謎の手掛かりや、アリスを元に戻す方法を求めて動き回りたい。
しかし、自分はメイド長としての仕事がある。
持ち場を離れることは許されない。
だから、こうして仕事の合間を縫って見守り、すべてが上手く行って終わるようにと願うしか出来ないのだ。
だが、そんな咲夜を嘲笑うかのようにまた一日が過ぎ、その日も何の収穫も報告も無いまま終わっていく。
咲夜が悔しさを噛み殺しているその間も、霊夢は病的にアリスの名前を呼び続けていた。
彼女が返事をしてくれる事を願って。
そんな二人を、今も見守っていた咲夜だったが、一匹の妖精メイドに呼ばれて普段のメイド長としての顔に戻った。
そう、今は仕事の最中だ。
メイド長である自分がサボれば、実質、紅魔館の機能は停止する。
ほとんど役に立たない妖精メイドに期待してはいけないのだ。
中には勤労で、役に立つ者も居るが、数が少ない為に労働力としては、やはり当てにならない。
彼女に声を描けてきたのは、そんな数少ない「使える」妖精メイドだった。
咲夜は用件を手短に話すように命じた。
如何に「使える」妖精メイドでも妖精に変わりは無い。
下手に話し込むと延々話が続くので、注意が必要なのだ。
咲夜が命じると、メイドは咲夜に近付いて早口で耳打ちした。
図書館の主が呼んでいる、と。
霊夢とアリスを連れて、咲夜が図書館の入り口へやって来ると、そこには顔色の悪いパチュリーが小悪魔に支えられて立っていた。
そんなに疲れているのなら、わざわざ出迎えなくてもいいのに、と咲夜は思ったが、口にも表情にも出さない。
傍らの霊夢は、不安げな表情でアリスとパチュリーの顔を交互に見ていた。
呼ばれたということは、何か解ったのだろうか?
期待と不安が入り混じった表情で、霊夢はパチュリーが喋るのを待った。
自然と緊張している自分に、咲夜は苦笑いを浮かべそうになるが、それを噛み殺して我慢する。
今のこの場には、どんな笑顔も存在してはいけない──そんな気がする。
やがて、徐々に顔色が悪くなって今にも気絶しそうな表情のパチュリーが、咳き込みながら口を開いた。
口を開いて──。
泡を吹いて倒れてしまった。
◇
気力と体力の限界に達して気絶したパチュリーだったが、小悪魔に、頭部へ手刀を右斜め45度の角度で打ち込まれ、辛うじて復活した。
用意された肘掛け椅子に倒れるように座り込み、ゼェゼェと息をする。
何とか復活したものの、パチュリーが限界であることに変わりは無い。
見かねた咲夜が、身体に障ってはならないと、休むように薦めた。
しかし、彼女はそれを拒んだ。
パチュリーとしては、用件を片付けてから休みたいのだ。
寝覚めは良い方に限る。
自分が昏睡している間に事態を解決させる為に、パチュリーは奮起した。
身体はふらふらするし、視界はぼやけて、集中しないと意識が保てないが、何とか我慢する。
だが、痛みは流石に堪え切れなかった。
頭部の、実に妙な位置に鈍痛が走るのだ。
誰かが気絶しかけた自分を気付けたのだろう。
ジロリと集まった面々を見渡すと、彼女の横で明後日の方を向いている小悪魔を見つけた。
犯人は、この小生意気な従者だろう。
目覚めの後はたっぷりと苛め抜いてやろうと、ぐらぐらする心の中で誓う。
射殺すような視線で自らに気付けを行った小悪魔を睨みつけた後、パチュリーは解析結果の報告に入る事にした。
彼女が最初に語ったのは、咲夜が持ち帰った魔道書の内容についてだった。
本のタイトルは「完全なる従者の誕生」。
魔法で作り、動かす、マジックアイテムとしての人形について書かれた本である。
記述内容は基本的な人形制作の技術に始まり、高度な技術、奥義と呼べるものまで、実に膨大な量だ。
その中でも奥義に当たる部分に、この本をアリスが持ち出した動機が隠されている(貸し出された本だと言うことは説明済みだった)。
その内容とは、制御、管理、操作を必要としない完全自律する人形を作り出す為の理論だった。
アリスの夢は自律して動く人形の制作と完成である。
パチュリーの話を聞いている内にそのことを思い出した霊夢は、あの喧嘩の根の部分を理解出来たような気がした。
あの時既に、アリスは完全自律する人形の制作、または理論の組み立てに入っていて、自分はそんな彼女の邪魔をしていたのかも知れない。
だとすれば、あの喧嘩で悪いのは、自分じゃないか。
改めて、今度は心から謝ろう。
霊夢はそう決意して、パチュリーの話に再び集中する。
自律して動く人形の完成を夢見る者達、アリスにとって、本に記述されている内容は、まさに宝のように思えただろう。
だが、現実はそんなに甘くなかった。
記述されている理論はすべて、一歩惜しかったり、机上の空論に近いものしかなかったのだ。
つまり、どれも不完全な理論だった。
ただ、使えない、役に立たないかと言えば答えは否だ。
どの理論もそのままでは役に立たないが、それらを元に、更に研究を重ねることで更なる発展が望めそうなものだったのだ。
要するに、参考書のような働きをしてくれるのである。
本の内容に関して喋り終えたパチュリーは、小悪魔が持ってきた水を一気に呷り、理解出来たかと一同に質問した。
咲夜は無言で頷く。
霊夢も、魔道書がどう言った内容なのかは理解出来たので、咲夜に倣って頷いてみせる。
質問が無い事を確認すると、パチュリーは咳き込みながら話の続きを始めた。
魔道書には自律する人形の制作に関する理論が複数記述されているのだが、それらを総て話すつもりは無いと、パチュリーは言った。
事態に関する事以外は話すだけ時間の無駄である。
ここに集っている、アリスを除く全員がそれを理解していたが、彼女は一応、そう断った。
──今度の事態に触れる箇所。
それは「傀儡の呪法」と呼ばれる魔法技術だった。
手順は先ず、対象となる生物の精神を破壊、または封印し、真っ白な状態に初期化する。
次に、破壊、または封印する事で精神、人格などを初期化し、専用の魔道式を初期化した領域に挿入し、展開する。
挿入される魔道式は、高度な思考能力や命令をスムーズに実行させる為に必要な擬似人格、忠誠心を纏めて圧縮したものだ。
式が展開されると、対象は術者の意図した通りの人格、思考能力を持った、ある意味での操り人形、即ち傀儡となるのである。
高度な思考能力と、命令を忠実に実行し、絶対に逆らわないようにする忠誠心。
加えて擬似人格による作り物の感情に主人への情、例えば愛情などを組み込んでおけば、その傀儡は主人を絶対に裏切らない。
その他に、思考能力の部分に自己管理機能と高速演算可能な能力を持たせればどんな状況下でも有効に活動させることも可能だ。
加えて高度な思考能力と擬似人格の相乗効果で、大目標を設定すればそれを完璧以上の結果で成し遂げようとする。
主人を想えばこそ、より最良の結果を導き出すと言うわけだ。
学習能力を付加すれば簡単な命令を一つ与えるだけでも「主人の為に」積極的に様々な結果を出すことも出来る。
決して逆らわず、しかし意思を持って行動し、多くの命令を必要としない道具。
理想的な、道具と道具を扱う者の関係。
この呪法はそれを実現可能にする。
ただ、それだけではただの洗脳と大して変わらない。
違うのは手間が掛かることと、処理能力が高くなる事、洗脳が解ける心配が殆ど無いと言う差だけだ。
ここまでの話を聞いて、霊夢と小悪魔は酷く表情を険しくしていた。
咲夜も平素を装っているが、内心穏やかでは無い。
特に霊夢は、話の内容と「傀儡の呪法」に激しい嫌悪と怒りを感じていた。
洗脳し、操る。
何とも傲慢で、禍々しく、おぞましい。
意思を奪い、身体を奪って、その者の存在価値を弄び、尊厳を踏み躙る。
生きているものを道具に変える。
道具とは、即ち、物だ。
この呪法は、「生きている」と言う「価値」を殺し、破壊し、そのものを生きた屍に変えるのである。
あまりにも外道で、邪悪な魔法。
とても許せるものではない。
この呪法の開発者がこの場にいれば、霊夢は躊躇わずにその者を叩きのめすだろう。
霊夢から湧き上がる怒りの気配に、以前彼女に酷い目に遭わされた小悪魔は怯えた。
咲夜からも、言い様の無い苛立ちに似た気配が幽かに溢れ、場が重く息苦しい雰囲気に包まれてしまう。
彼女達ほど嫌悪感を抱いていなかったが、パチュリーも、好みとしては嫌いなものだった。
魔法も突き詰めれば外道の世界のものだ。
魔女たる自分がそれを嫌うなど、自分の存在を否定するようなものじゃないか。
彼女はそれ以上、好みについて考えるのを止める事にした。
今は話を続ける事が優先だったし、何よりこの体調では、ネガティブな思考を続ける気力も無い。
幸い、何とか自制した咲夜が先を促してくれたので、パチュリーは再び咳き込みながら話し始めた。
霊夢も自身を何とか押さえ付け、話しに集中することにする。
洗脳とあまり変わりが無いと言うと、聞こえは最悪だ。
だが、結果として自由に操る事が出来る以上、「人形」としては完成形と言えなくも無い。
思考能力と擬似人格も搭載する為、「自律する」と言う点もクリアしていると言えるだろう。
一見、完璧に見える「傀儡の呪法」の理論。
だが、パチュリーが最初に言ったように、本に記述されている理論は、その総てが不完全なのだ。
では、この理論を完璧にするには?
何が足りていないのか。
この理論の欠点。
それは呪法の対象が生物であると言う事だった。
生物である以上、肉体には当然寿命があり、それを超えれば使えなくなる。
その上、老衰によって身体能力は低下していく為、長期の利用は不可能だ。
また、身体を維持する為に食事を摂らなければならず、睡眠、排泄など、道具と呼ぶには不要な要素が多数出てくる。
生きた身体の為に、壊れたら修理、ともいかない。
使い勝手がいいかと言えば、決してそうではないのだ。
これが、この理論の不完全な理由だった。
ただ、寿命と言う耐久性に関しては、術者が、平均して100年以上生きられない人間であるならば欠点とは言えない。
あくまで「魔法使い」がこの呪法を利用すると言う観点から見ての欠点だ、とパチュリーは言った。
悠久の時を生きる魔法使い、魔女には、100年足らずで使えなくなる道具は邪魔でしかないからだ。
今まで黙って話を聞いていた霊夢だったが、ここに来て初めて口を開いた。
今までの話とアリスにどんな関係があるのか、と。
先程からパチュリーが話している事は本の内容と、その中の一節についての解説だけで、アリスについては一切触れていないのだ。
本題はまだか、と霊夢はパチュリーに問い詰めた。
霊夢にとっては難解な魔法の講釈よりも、アリスがどうなってしまったのかを知る事の方が遥かに大事だったからだ。
今にも食って掛かりそうな、鬼気迫る表情で霊夢はパチュリーに詰め寄った。
パチュリーはゼェゼェと息をしながら、そんな霊夢を見つめていたが、やがて彼女に向かって小さく微笑んで見せた。
本題はこれからだ、と。
パチュリーは霊夢に、自分が話した内容をもう一度思い出すように言った。
それがアリスに起こった事を理解し易くしてくれると言うのだ。
霊夢は戸惑ったが、パチュリーに要点だけを述べれば良いと言われ、先程のパチュリーの話の内容を思い出してみることにした。
魔道書の内容、自律する人形へのヒントとなる記述。
その内の一つをパチュリーが紹介した。
「傀儡の呪法」と呼ばれるそれは、人を道具へと変えてしまうおぞましいものだが、欠点を抱えている……。
霊夢は一言一言確認するかのように、自分が思い出した内容を口に出していった。
人形、道具、欠点。
生きている者を道具にしてしまう外道の技。
霊夢がパチュリーの指示通りに、彼女の話の要点を言うと、パチュリーは青い顔で満足そうに微笑んだ。
そして、一枚の畳まれた紙を取り出し、それを霊夢に手渡して──。
白目を剥いて気絶した。
倒れたパチュリーは完全にダウンし、小悪魔が手刀を打ち込んでも拳を突き込んでも、もう目を覚まさなかった。
ならばと、小悪魔がパチュリーを持ち上げてタイガードライバーの体勢に入ったのを、咲夜が慌てて止めさせる。
何故か残念そうな顔の小悪魔だったが、今度は何かの呪文を唱え始めた。
彼女の周囲に稲妻が生まれ、バチバチと物騒な音を立て始める。
電気ショックで無理矢理起こそうと言うのだ。
だが、次の瞬間、小悪魔は足を抱えて悶絶していた。
どうやら時を停められている間に、咲夜からアキレス腱固めを受けたらしい。
真面目な話の腰を折る恐れのある小悪魔を、咲夜は容赦無く黙らせたのだ。
咲夜が指を鳴らすと、妖精メイド達が現れ、悶絶する小悪魔とダウンしたパチュリーを、どこかへ連れ去って行く。
パチュリーは医務室へ、悪ふざけの過ぎた小悪魔は反省房だろうか。
ドタバタと騒がしい中で、霊夢はそんなやりとりを無視して手渡された紙を広げ、そこに書かれた文章に目を通し始めた。
咲夜もやって来て、肩越しに内容へ目を走らせる。
そこには以下のような文章が、神経質そうな字体で綴られていた。
■
【アリス・マーガトロイドの容態について】
私が説明した内容が真実だと仮定して、この内容を読みなさい。
出来ないのなら読むのを止める事。
何故、彼女がこんなことになったのか、その動機は、私には解らない。
ただ解る事は、彼女が自分自身に「傀儡の呪法」を施したと言う事だけだ。
■
その文章を目にした瞬間、霊夢の瞳は大きく見開かれ、息を飲み込んだまま呼吸を忘れたかのように、彼女は硬直した。
アリスが、自分に、「傀儡の呪法」をかけた……?
馬鹿な。
あんな、生きているものを操り人形に、道具に変えてしまう、おぞましい邪法に、アリスが手を出したなんて。
彼女の性格は、自分が一番良く理解しているつもりだ。
彼女の好みも、流儀も、嫌いな事も。
自分の知っているアリスが、「傀儡の呪法」に手を出すだなんて!
しかも。
それを自分自身に。
一体、何故?
心臓が早鐘を打ち、鼓動で聴覚が塞がれる。
瞳は開かれているだけで何も映しておらず、怒りのような、悲しみのような、理解不能の激情が霊夢の全身を貫いた。
馬鹿な、そんな馬鹿なことが。
ありえない。
あのアリスが?
嘘だ。
いや、きっと何かあったんだ。
そうだ、そうに違いない。
尋常ならざる様子の霊夢に気が付いた咲夜が、彼女の肩を揺さ振って正気に戻すまで、霊夢は激情の渦に飲まれていた。
信じられない気持ちと、嫌悪、怒り、そして何がどうなっているのか解らない自分への苛立ち。
そんな霊夢をなだめて、咲夜は紙に書かれた続きを読む事を提案した。
先ずは読んでしまおう。
それから考えても遅くは無い。
説得の末、霊夢は何とか落ち着きを取り戻した。
爆発しそうな、言いようの無い感情をどうにか押さえ付け、霊夢は先を読むことに集中する。
咲夜もそれに倣い、二人は一緒に読むことに没頭していった。
■
彼女が自分自身に「傀儡の呪法」を施した理由、動機は、上でも述べた通り、私には解らない。
だが、彼女の、今の状態は呪法を施した結果ではないのか、と考えるのが、妥当だと思う。
呪法が記述された本を彼女が私から借りた事、彼女の状態から推測して、ほぼ間違いは無いだろう。
ただ、それが成功した、とは思えない。
あの呪法が成功しているのなら、今頃彼女は、擬似人格と高度な思考能力を搭載した人形として活動している筈だ。
だが、今の彼女は何も出来ず、言葉も片言で、まるで廃人だ。
人格消去の段階か、挿入する魔道式が不完全だったかのどちらかだと考えるが、呪法は失敗したと思われる。
結果、彼女は今のような、哀れな姿になってしまったのだろう。
ただ、成功していたら、それはそれで哀れな姿になっていた筈だ。
成功せずに失敗した事に、幸運を感じずにはいらなれない。
私個人は、あの呪法を認めはしても好きではないので、成功しなかったことに喜びを感じるが、それはどうでもいい。
問題は、失敗による影響だ。
どの部分で失敗したのか、私はそれが気になった。
そこで、霊夢が寝ている間にアリスを調査することにした。
「傀儡の呪法」は対象の精神に影響する魔法なので、彼女の精神について、探査系の魔法を使い、精神の情報を読み取る事にしたのだ。
結果として、解った事は二つ。
一つは、呪法は失敗では無く、不完全だったと言う事。
彼女は自我と記憶を深層意識の奥深くに封印し、表の部分を初期化したのだが、その上に置くべき魔道式を用意し忘れたらしい。
莫迦なのか、または慌てていたのかは知らないが、このおかげで呪法は不完全に終わったと言う事だ。
二つ目、これが最も重要な事だが、アリスが回復するかどうか。
結論は、可能である。
幸いにも彼女は挿入するべき魔道式を挿入し忘れた。
これにより、人格に魔道式が溶け込み分離不可能になると言う事態に陥らずに済んだのである。
不幸中の幸い、と言えるか。
また、人格情報を破壊せず、封印しただけと言うのも幸いだった。
断片化した情報の回収作業などを話しても解らないだろうから書かないが、とにかく魔法的な手間はそう掛からないようだ。
問題は封印の解除に時間がかかりそうだという事ぐらい。
時間をかけて解除していかなければ、破損する恐れがあるからだ。
解除の方法は、非効率だが彼女自身に呼びかけ続け、自我を彼女自身に取り戻させるしかない。
彼女の自我を、彼女の意思で取り戻させる事が出来れば、何の問題も無く彼女を元に戻せるだろう。
『追記』
アリスの片言や挙動不審な行動は、初期化された人格に周囲の人形の行動が影響された結果、生まれたものだと思う。
彼女が「傀儡の呪法」の不完全さを克服しようとしたのなら、魔法使いの身体に施すのが一つの正解だと私は考えている。
食事などの要らぬ手間が完全に省けるし、寿命の概念も気にする必要は無いからだ。
以上。
恐らく私は暫く会えないだろうが、問題無いだろう。
むきゅー。
■
霊夢は最後まで読んでいられなかった。
治る。
アリスが、元に戻る。
彼女を元に戻せる、この一節を目にした瞬間、他の事がどうでもよく思えた。
嬉しさで胸が一杯になり、思わず涙ぐんでしまう。
顔を上げると、咲夜がにっこりと微笑んでいた。
彼女はアリスの手を取り、霊夢にアリスの手を握らせて、ここから早く連れ出してしまえ、と囁いた。
アリスの心に呼びかけることが出来るのは霊夢だけだと、咲夜は知っている。
治せる方法が解っていて、それが今すぐにでも出来るのならば、やらない手は無いだろう。
二人にはいつもの日常に戻って欲しい。
そう願って、咲夜は霊夢とアリスを見送った。
目を覚ましたらパチュリーに礼を言ってくれと言って、霊夢はアリスを連れて紅魔館を後にした。
二人を見送った後、まだ残っている仕事を思い出し、咲夜は溜め息を漏らした。
倒れたパチュリーの介抱も余計に増えて、今日は忙しそうだ。
だが、不思議と身も心も軽い。
今日はさっさと仕事を片付けて、のんびりしようと思う。
大きく伸びをして、彼女は自分の日常へと戻って行った。
◇◆◇
暗く、憂鬱な冬が終わり、幻想郷に春が訪れる。
冬の妖精達と春の妖精達が入れ替わって、春の訪れを幻想郷に告げるのだ。
暖かくなった事で陽気になった、年中存在する妖精達も一緒になって騒ぎ立て、冬が終わった事を強く意識させる。
ある者にとっては寒いだけだった冬が、ある者にとっては元気の出る冬が、ある者にとっては悲しい思いをした冬が、終わったのだ。
明けない夜は無いように、明けない冬も無い。
冥界の亡霊姫や竹林に住む月の姫が悪戯をしたこともあったが、自然の営みと流れを変える事は何者にも出来ないのだ。
冬を越えた草木も、冬眠から目覚めた動物達も、やはり冬眠していたすきま妖怪も目を覚まし、春のうららかな陽射しを享受していた。
春は誰にも必ず訪れる。
それを感じているかいないか、感じられないか。
その差があるとしても。
春は必ず訪れる。
季節が変わっても、ここ博麗神社には相変わらず、参拝客の姿は無い。
神社に続く道から境内まで、満開の桜が美しく咲き誇っているが、それを楽しんでいる者は一人もいなかった。
ただ、近々祭りがある為、複数の人が出入りしている形跡はちらほらと見え、まったくの無人地帯ではない事を証明している。
普段は見えなくても、忘れ去られているようで忘れられていない場所。
いつも変わらず、そこに存在する場所。
それが、博麗神社だった。
だが、この春はいつもと違うところがいくつかあった。
一つは、普段からは考えられないほどの静けさだ。
人の姿は絶えていても、変わらずいつも、そこに居る筈の妖怪達まで、今の神社には存在していないのだ。
不気味なほど静かな神社に、祭りの準備に訪れた人間達は場所を間違えたかと思ったほどだった。
もう一つは、博麗神社にもう一人の住人が増えた事である。
博麗神社の巫女である霊夢と揃いの巫女装束を身に付けた、金髪の美しい、人形のような少女。
寡黙なのか、喋らず、表情も乏しい彼女は儚げで、どこか神秘的な雰囲気を纏っていた。
そんな彼女の傍には、常に霊夢の姿がある。
霊夢はどこか憂いを帯びながらも幸福そうな雰囲気を持ち、彼女を知る相手には、まるで人が変わったかのように見えた。
二人の持つ雰囲気の影響か、神社は不思議な雰囲気の場所となり、久し振りに神社へと訪れた者を驚かせた。
まるで、まともな御利益がありそうな神社になってしまったと、寺子屋の女史が呟いたほどに。
正午を過ぎた頃、空を飛ぶ箒に跨った白黒の服に身を包んだ少女が、博麗神社の境内に降り立った。
博麗神社を訪れれば二日に二度は見れる顔だ。
霧雨 魔理沙である。
彼女は石畳を軽く蹴った後、母屋へと足を向けた。
手にした紙袋を振り回し、境内を自分の部屋のような雰囲気で歩いて行く。
何度も訪れている場所であり、今ではここの住人並に勝手を知り尽くしているのだ。
いくらも歩かぬ内に、魔理沙は母屋の縁側で茶を飲んでいる霊夢を見つけた。
霊夢の方も魔理沙に気が付いたらしく、彼女は面倒臭そうな顔で魔理沙を迎える。
魔理沙が霊夢の隣に腰を下ろすと、母屋の奥から一人の少女が姿を現した。
霊夢と揃いの巫女装束に身を包んだ、金の髪の寡黙な少女。
彼女の名前は、アリス・マーガトロイド。
霊夢の親友で、魔理沙の悪友で、今は、物言わぬ人形になってしまった、悲しい少女。
物言わぬアリスは無表情のまま、盆に湯飲みを載せて歩いて来て、霊夢の隣に腰を下ろした。
魔理沙には一瞥もくれないまま、霊夢に対して茶菓子の用意を始める。
──紅魔館で行われた、真相究明の集いの後。
あれからすぐ、アリスは霊夢が引き取った。
主人の居ないまま黙々と働き続ける人形達がいる家に、霊夢はアリスを一人置いていきたくなかったのだ。
主人が居らず、その奉仕も使命も、すべてが無意味になってしまった人形達と、彼女達が住む空間は、死んだ世界である。
アリスと言う主人が居て、はじめて意味を成す世界なのだ。
死んでいる世界に、今のアリスを置き去りにする事が霊夢には耐えられなかったのである。
彼女は物言わぬアリスを連れて帰り、一緒に暮らす事にした。
アリスをあの場所に置いておけなかったし、何よりパチュリーの言っていたたことを、霊夢は忘れなかった。
自我を失ってしまったアリスへの呼びかけ。
彼女の心に訴えかけて、彼女に心を取り戻させること。
それが、唯一アリスの心を元に戻し、元気な彼女に再び会う為の方法だった。
霊夢はアリスを家に連れ帰った日から、毎日を彼女と過ごし、話し掛け続けた。
来る日も来る日も話し掛け、アリスが返事をしてくれるのを、アリスが微笑んでくれる事をひたすらに願って話し掛け続けた。
霊夢だけでなく、魔理沙も含めて神社にやって来る少女達は皆、アリスに向かって話し掛け続けた。
帰っておいで、また遊ぼう。
貴女にもう一度会いたい。
願いを込めて、何度でも、いつでも。
毎日一緒に居る霊夢は、アリスに様々なことを語り、時には彼女を連れ出して、ずっと傍に居続けた。
アリスが寂しくないように、片時も離れず。
そんな霊夢の献身と、他の少女達の声がアリスに届いたのか。
最近になって、アリスに小さな変化が起こったのだ。
名前を呼んで語り掛ければ、その相手の方に何らかの反応を示すようになった。
自分に対して話し掛けていること、自分が呼ばれていることを解るようになったのである。
相手の事も認識出来るようで、頭を強く撫で付ける魔理沙には距離を取り、髪を梳いてくれる咲夜には嬉しそうに反応を示す。
記憶自体は僅かながらに残っていたようで、紫などが声を掛けた時に彼女の名前を呼んだりもする。
また、いつも傍に居て優しくしてくれる霊夢を特に慕っている様子で、自分から霊夢の傍に居ようとすることもしばしばあった。
今もこうして霊夢に茶菓子を出す行為も、彼女が自発的に行っているものなのだ。
魔理沙が自分の分を要求すると、アリスは不機嫌そうな表情を見せ、奥へと引っ込んで行った。
嫌われたものだと魔理沙は苦笑いし、霊夢は呆れたように魔理沙を見る。
だが、その表情はすぐに優しい微笑みに変わった。
変わっていない。
今のアリスと魔理沙の関係は、昔の彼女達の関係と変わっていないのだ。
魔理沙が悪ふざけをしてアリスを怒らせ、顔を合わせれば喧嘩ばかりしていたあの頃と、同じ。
アリスは喋れずに、今は記憶も自我も失っているけれど、二人の関係は変わらず、今もこうして仲違いをしている。
変わらない関係。
アリスは変わっていない。
今は心を無くしていても、彼女は彼女なのだ。
それが何だか嬉しく思えて、霊夢は自分でも気付かない内に笑っていた。
笑って、涙を流した。
絶対に、アリスの心を取り戻してみせる。
もう一度アリスに会いたい。
その為には、どんなことだってしようと思う。
紅魔館から帰ったあの日、心に誓った決意をもう一度。
紙袋から手土産らしき紙包みを引っ張り出している魔理沙に気付かれぬように涙を拭い、霊夢は空を見上げた。
何日だろうと、何年だろうと構うものか。
私は絶対に、もう一度アリスに会うんだ。
心地良い風が吹き抜けて行く春の青空に、霊夢は願いと決意を叫ぶようなイメージを広げた。
もう一度、必ず。
あの笑顔に会うんだ。
魔理沙が飛び上がって悲鳴を上げた。
どうやら、アリスは魔理沙のお茶を極端に熱くして差し出したらしい。
魔理沙は火傷した手に息を吹きかけながら、怒りの形相でアリスを睨んで八卦路を取り出す。
盆と、何故かおたまを構えて魔理沙と対峙するアリスの頭を叩き、霊夢は魔理沙に手を冷やすように言うのだった。
◇◆◇
例えどれだけの時が過ぎても、変わらない風景と言うものは存在する。
そんな場所は、細部の変化はあったとしても、その場所がその場所足り得る、大事な要素は変わらないものだ。
そう、例えば。
参拝客が一人も居ないところなどが。
その日は朝から強い北風が吹き、外を行く者達を尽く震えさせた。
夕方ともなると冷え込みは一層厳しくなり、寒さに弱い者は家に閉じ篭っている事だろう。
──今年の冬は特に冷え込む。
烏天狗の新聞屋が言っていた事を、霊夢は境内を掃除をしながら思い出していた。
最近になって天気予報の真似事を始めたらしいのだ。
10年も続けていると、流石の天狗も普通の新聞を書くだけでは飽きるてしまうらしい。
──あれから、10年が経った。
季節は移ろい、朝が来て夜が来る。
同じ繰り返しの中で、それぞれが新しい、違う時間を過ごして、喜び、悲しみ、怒って、笑った。
異変もたまにあったりしたが、深く残る傷が出来る事も無く、誰もが違う明日を迎えられると信じて疑わず、日々を過ごしている。
彼等は知らないのだ。
明日が来ないものの存在を。
止ってしまったものの存在を。
時はすべてのものに等しく流れる絶対不変のものだが、何事にも例外が存在するように、時の流れから置き去りにされてしまうものもいる。
誰もが明ける夜を過ごせるわけではないのだ。
10年経っても、明けない夜。
霊夢は、そんな、止まってしまった彼女と同じように、自分の時間を止めていた。
背は伸び、髪も伸びて、身体も大人になった霊夢は、目を見張るほどの美しい女性へと成長した。
力も以前より遥かに高くなり、巫女としての仕事振りも成功率100%の凄腕となり、一人前の巫女になったのである。
だが、心は今も10年前の少女のままだった。
霊夢はずっとアリスの傍に居続けた。
どんな時も彼女から決して離れず、この10年間、彼女と共に過ごしてきた。
アリスは、まだ、喋らない。
霊夢がどれだけ彼女に語り掛けても、彼女と共に日々を過ごしても、彼女は喋らないままだった。
変化が無かったわけではなく、今では喜怒哀楽の表情を薄っすらとだが出すようになり、霊夢の言葉を明確に理解出来るようにもなった。
身体も成長し、美しかったその姿は更に美しいものになり、二人が並べば老若男女、妖怪も見惚れるほどの麗女となったのだ。
だが、彼女の本当の心は、まだ彼女に帰って来てはいない。
アリスの心は未だ、深い深い闇の中を彷徨っているのか。
そう考えると、霊夢は胸がはちきれそうな痛みを覚える。
今も彼女は一人ぼっちなのか。
身体はこんなにも近くにあるのに、心はそこに無い。
箒を片付け、霊夢はアリスの名を呼んだ。
すると間も無くして、神社の裏を掃除していたアリスが嬉しげな表情で駆け寄って来た。
心と記憶を無くした、真っ白な人格。
無垢な子供のような彼女を見て、霊夢は瞳に熱い物が込み上げて来るのを感じる。
ダメだ。
もう、幾度と無く見ている、アリスのその表情。
疑いもせず、自分を母のように、姉のように慕うその純真で無垢な、アリスであってアリスではない彼女の姿。
何度見ても、その姿は霊夢に深い悲しみを与えた。
どうしてアリスは戻って来れないのだろう?
私の力が足りないのだろうか?
それとも、私だからアリスは怒って、出てこないのではないか?
己の無力さ、自身への疑念、このままもう二度と、自分は彼女に会えないのではないかと言う恐怖。
それらがどうしようもなく深い悲しみとなって霊夢を襲うのだ。
そんな悲しみに押し潰されないように、霊夢はアリスの身体を抱き締める。
こうしていれば、少なくとも彼女に一番近付けると思う。
自分が取れる一番の方法で、霊夢は悲しみと恐怖を紛らわせて、再びアリスの心へ呼び掛け続けるのだ。
帰って来て欲しい、もう一度貴女に会いたい、と。
けれど、霊夢の心も限界だった。
常にアリスのことだけを一番に考えていた霊夢は、孤独だった。
誰かが周りに居ても、一番居て欲しい人がそこには居ない。
どんなに望んでも、焦がれても、駄々を捏ねようとも、居ない。
姿はそこにあるのに、望めばこうして抱き寄せられるのに、彼女の心は、そこには無い。
人の心は、永遠の孤独に耐えれない。
いつかは折れ、砕けて、壊れてしまう。
霊夢は泣いた。
大きな声を上げて、泣いた。
アリスを力一杯抱き締めて、哭いた。
もう、駄目そうだった。
今の霊夢の世界には、アリスしか居ない。
それなのに、そのアリスも居ないのだ。
もう駄目だ。
耐えられない。
ごめんなさいアリス。
私はもう駄目だ。
貴女に会いたいのに、貴女はこんなにも近くに居るのに、貴女の心は、ここには居ない。
壊れてしまいそうだった。
何もかもが音を立てて崩壊していきそうな、そんな感覚。
それが怖くて、悲しくて、悔しくて、霊夢はアリスを抱き締めた。
霊夢の動きに合わせて、アリスも霊夢を抱き締め返す。
いつも自分がそうすると、アリスはこのように真似をして、自分を慰めてくれた。
けれど、それも今は意味が無い。
むしろ、真似でしかない、反射的な動作でしかないその行為に、霊夢は深い悲しみと絶望感を覚えた。
彼女じゃない、彼女ではない。
もう、私は。
そんな霊夢の行動に、物言わぬアリスは霊夢の身体を抱き締め返した。
いつも彼女が、自分へとする行為。
その行為に対して自分も同じ事をすると、彼女は喜んだ。
大好きな彼女。
れいむ。
初期化された人格の上に築かれた、酷く幼いその人格は、自分を抱き締めるこの女性が大好きだった。
優しくしてくれるから、ただそれだけではなかった。
彼女と一緒に居ると、それだけで理解出来ない嬉しさや安心感、幸福感が自分を包むのだ。
それが自分は大好きで、それを与えてくれる彼女がもっと大好きだった。
そんな、大好きな彼女が。
れいむが。
今、泣いている。
大粒の涙を流し、声を上げて、自分を抱き締めて。
彼女の中に、霊夢について回った先で、怪我をして泣いていた子供の姿が思い出された。
れいむはどこか痛いのだろうか?
いつも、自分がこうして抱き締められた時、こうして自分も抱き締め返せば、彼女は嬉しそうに微笑んでくれるのに。
抱き締められるのも抱き締め返すのも、その結果に見せてくれる彼女の微笑みも、全部大好きなのに。
どうしてれいむは泣いているんだろう。
泣き続けているのだろう。
胸が、痛む。
ズキズキと痛む。
れいむの悲しい顔を見ていると、酷く胸が痛む。
大好きなれいむ。
悲しませたくない。
泣かせたくない。
どうすればいいんだろう?
わたしはどうすればいいんだろう。
胸が、痛い。
……違う。
もっと奥、そう。
心が、痛い。
どすれば、いいんだろう。
わたしは、どうしたいの。
その時だった。
自分でも解らない内に、アリスは霊夢の身体を強く、強く抱き締めた。
自分の方が霊夢より背が高いので、彼女の顔を自らの豊満な胸に埋めるようにして抱き締めたのだ。
何故か、自分は知っている。
どんな風に抱き締めればいいのか、どんな風に彼女に接してやれば良いのかを。
愛しむような表情と手つきで、アリスは霊夢の顔を見つめ、頭を撫でた。
白く美しい指で、霊夢のきめ細やかな麗しい黒髪を梳いていく。
何故かは解らない。
解らないけれど、こうすればいいと、自分は知っている。
何故だろう。
けれど、理由など、どうでもいい。
彼女はいつしか泣き止んで、じっと自分を見上げている。
れいむが泣くのを止めた。
それが、嬉しい。
嬉しくて、アリスは霊夢を再び強く抱き締めた。
そうしたいと思ったからだ。
いつものように、霊夢が嬉しがるからではなく、自分が彼女を抱き締めたいと思ったから。
それは、アリスが10年の間で初めて感じた、明確な欲求。
そうしたいと願った、意思。
自身の感情。
アリスは初めての感覚に戸惑いを覚えながらも、その欲求を、願いを、心の赴くままに実行した。
れいむがわたしの腕の中でもぞもぞと動く。
苦しいのだろうか。
アリスはそう判断して腕の力を少しだけ緩めた。
拘束が緩んだ霊夢が、アリスをもう一度、見上げる。
熱い涙を零しながら、じっと、アリスの瞳を覗き込む。
アリスは、そんな霊夢にドキリとした。
鼓動が熱く、早くなる。
胸の中が、心が、熱い。
忘れていたような、熱い何かが、心の中で動き出すかのような。
忘れていた?
何を?
わたしは?
解らない。
解らないけれど、それはきっと……。
自分を見上げる霊夢の口が、静かに動くのをアリスは見つめていた。
それは酷く緩慢な動きに感じられた。
永遠に続くかのような、長い時間に感じられる。
霊夢の口が、ある形を取り、彼女の口からある音が零れてくる。
ア リ ス
アリス。
わたしの名前。
霊夢がそう呼ぶから、私はアリス。
そう思ってた。
けど。
頭の中で、心の中で、何かが、カチリと音を立てて動いた気がした。
キリキリと何かが巻かれ、そう、これはネジの音。
何のネジ?
人形を動かす為の。
ううん、違う。
人形じゃない。
ネジじゃない。
これは、鍵。
わたしの心の鍵。
何かがわたしの中で動き出す。
長い間眠っていた、何かが。
それがだんだん大きくなっていく。
それはとても懐かしい感じがして、暖かくて。
わたしは、それが放つ光のようなものに飲まれていった。
心地が良い。
やっと。
誰かの声がする。
もう、大丈夫。
わたし?
ようやく、自分の意思を持てた。
自分の想いを、出す事が出来た。
あれは、貴女がしたかったこと?
貴女と私。
私達がそうしたいと想って、それをしただけ。
貴女は、わたし?
そう。
私はわたし。
私達は。
そっか。
じゃあ……。
還りましょう、私に。
あの人が呼んでいるから。
大好きなあの人が。
10年も傍に居てくれて、今、壊れそうなあのお莫迦さんのところへ。
そして、私はゆっくりと目を覚ました。
何て言えばいいだろう?
解らない。
解らないから、名前を呼ぼう。
霊夢。
博麗 霊夢。
莫迦でお人好しで冷たそうな感じの癖に底抜けに優しい、私の、大好きな、誰より一番大好きな、最高の友達の名前を。
ヤンデレ気味のアリスも良い物ですが、
最後がハッピーエンドになってほっとしました。
作者様GJ!
アリス、霊夢
2人に幸あれ。
長いお話でしたが一気に読めました。
時間を経つのを忘れて・・・
ごちそうさまでした
一応誤字らしきものを挙げておきます。
そしてメディスンは警戒を解くと、微アリスに向かって微笑んでみせた
あれは、貴女がしたいかったこと?
気持ちとしては満点+500点あげたいくらい。
ラスト以外台詞無しで、文章による情景や心情の描写が丁寧で、チカラのある小説だと思いました。
小悪魔の非道さには噴きましたw 霊夢とアリスには幸福を。
ところで聞きたいことが
普段は主人である魔女一人しか居ない。・・・・子悪魔は普段図書館にいないんですか?
一応、文中に『図書館に住まう小悪魔』という文があるのですが
たいへん面白っかったです^^ごちそうさまでした^^
良い物語をありがとうございました!
これはよいレイアリ。
ハッピーエンドが嬉しくてしょうがない。
シリアス部分の評価は自分が今更書くまでもないだろう出来だと思うよ!
しかし濃いのはいいが読んでて疲れた(勿論良い意味で)
むきゅー
例えると猫を知ってる人に「猫とはどういう生態で~」ってのを一から十まで説明してるような感じ。
猫は猫で簡単に済ませてしまってもいいんじゃないかなー。
作品としてはなぜ霊夢が数ある知人(?)の中からアリスが気になったかってのがほとんど説明されてなかったので、最後まで首を傾げながら読んだ。
アリスサイドから霊夢が気になったって想いは存分に伝わってきたんだけどね。一人通ってくれた相手だし。
鳥肌がたった。
霊夢視点がもっとあったら、もっと良かったのかも知れない。
素晴らしかった。
私如きではとても出来ません。アリスマーガトロイドと云うキャラクターを表現する上で、ここまで出来るものなのかと。私には愛がないのかと一瞬疑ってしまうほどの密度。心情描写の一つ一つが、一文一文が私の心を貫きました。
かなり選好みが出てしまいそうではあるのですが、一キャラクターを表現しようとするその気概、愛情は三つも四つも抜きん出ているように感じられます。
冗談じゃこんな凄まじいもの書けません。
結局私如きが何を言いたいかといえば、凄い。尊敬します。素晴らしい。
長い間レイアリ派でいて、これほど嬉しい事はない。
深く掘り下げているのに、
読者視点から物思わす内容が秀逸でした。
良い作品をありがとうございます。
大変素晴らしかったです。
どうかこれからもレイアリを大いに盛り上げていって下さい!
シリアスな空気をものともしないパチェと小悪魔は最高w
友情って素晴らしいですね。
最後は本当に安心しました。
説明の細かさが逆に丁度良いくらいのお話でした。
ハッピーエンドで本当に良かった…!
堪能させていただきました。
アリスが壊れていく様は痛々しくて苦しかったけど、霊夢が最後まで頑張ってくれてハッピーエンドに辿り着けた時の感動は素晴らしく涙が出そうになりました。
素晴らしいレイアリをありがとう。
ディ・モールト・ベネ
文章量の膨大さに負けない大作をありがとうございました。
とりあえずアリスは霊夢にごめんなさいしないとね。
>返事などある筈も無いのに、この期に及んでまだ、希望を捨てきれない自分が滑稽に思える
返事できるんじゃなかったのか。と思いました。
後、10年経ってもアリスの方が背が高いことに疑問
それ以外は文句なしです