迎えが来たら、あんたはあたいのことを忘れてしまう。
そんなあんたに、あたいが残せるものはあるのかな。
ずっとずっと考えてるけど、まだそれは見つからない。
あと少ししか、一緒にいられないのに。
☆ ★ ☆
迎えが来るまで後3日――――
2日目と3日目は特に何事もなく過ぎ去った。
別れの時が近づいていることが分かっていても、二人で過ごした時間は満ち足りたものだった。
ただし何事も、とは言っても、そこには並々ならぬ苦労はあった。
何せ相手は自分のことも世界のこともよく分かっていない赤子。
そしてその面倒を見るのがチルノというだけでも、察せられることだろう。
すれ違う奴すれ違う奴、みんなが冷やかしの言葉を口にするが、そんなことで怯むチルノじゃない。
それに面倒はちゃんと見ているのだ。
冷やかされたところで、胸を張って言い返すことができる。
たかが一週間だ。
自分にだって母親の代わりが務まるということを、幻想郷中に知らしめてやる。
色々あっても、それくらいの大口が叩けるほど、チルノには自信がついていた。
だから今日も、昨日一昨日と同じように過ぎ去るものとばかり思っていたのだ。
☆
生活の基準を子どもに合わせるのに慣れたチルノは、太陽が昇りかける早朝に目を覚ました。
子どもが起きて、ご飯をせがみだす前に準備をするためだ。
すっかり母親としての行動が板に付き始めている。
ただ一番の本音を言うと、あの泣き声だけはいつまで経っても耐えられないからなのだが。
いつものように野草と魚のすり身を作ってきたチルノは、子どもが起き上がるのを待っていた。
しかし、いつまで経っても起きる気配がない。
すでに太陽は昇りきり、昨日までならすでに食べ終えていても良い頃合いだ。
さすがに心配になり、チルノは横になったままの子どもに顔を近づける。
「おーい、お腹減らないの?」
呼びかけてみるが反応はない。
ただ荒い寝息が返ってくるだけだ。
(荒い?)
チルノはもう一度顔を近づけじっくりと観察してみる。
よくよく見ると頬が赤い。
暑さの所為だとばかり思っていたが、なんだかそんな感じじゃなさそうだ。
「ね、ねぇ。どうしたのよ」
ゆさゆさと揺すってみるが、これまた反応がない。
嫌な予感がする。
チルノは寝かせていた子どもを持ち上げて、びっくりした。
「熱っ」
氷の妖精だから体温のあるものをそう感じるとか、そういうわけではない。
明らかに昨日抱っこした時とは、体温が違いすぎている。
「だ、大丈夫なの?」
大丈夫じゃないのは明らかだ。
しかし今までにない変化に、チルノは混乱してしまっている。
「そうだ、あの紙!」
ポケットからクシャクシャになった注意書きを取り出して目を通す。
体が熱くなった時の対処法は……そんな項目はどこにもない。
書いてあるのは食べられる物や、苦手な物といった基本的なことだけ。
まったく使えない注意書きを地面に叩き付けて、また慌てふためく。
「どうしようどうしようどうしよう!」
きょろきょろと周囲を見回したり、あれこれ手を動かしたりしてみるが、そんな動作には何一つ意味はない。
焦りはさらに焦りを生み、さらにどつぼにはまっていくチルノ。
どうすればいい。
どうしたらいい。
教えて欲しいけど、教えてくれる者はここにはいない。
自分で考えろ?
そんなのできない。
そうだ。大妖精が言っていたじゃないか、簡単な事じゃないって。
それはこういうことだったんだ。
いざというとき、何もできてないじゃないか……
「え?」
その時、誰かに指を握られ、チルノは我に返る。
見ると子どもが、その小さな手で賢明に握っていたのだ。
チルノの手も小さいが、その指しかぎゅっと握れない小さな手。
その手が熱を持って自分に助けを求めている。
「ま……ま」
うなされながら紡がれた言葉は、確かに助けてと言ったように聞こえた。
その一瞬で、チルノの瞳に決意が宿る。
「……やってやろうじゃない」
☆
3日も時間があったのに、何も切っ掛けが掴めずに終わってしまった。
大妖精はそれをまた悔やんで、溜息を吐く。
湖の側で膝を抱えて、小石を投げては湖面に描かれる波紋を眺めていた。
そんなことをさっきから意味もなく続けている。
あれから何度もチルノの噂を耳にした。
こんな面白いゴシップは久しぶりと、みんなが口にする話も、今の大妖精にとっては苦痛でしかない。
もっと早くに仲直りできていたなら、今頃チルノと一緒にてんやわんやしていたのだろうか。
今更考えても仕方がない。今考えるべきは、どうやって仲直りするかだ。
「あれ? チルノ……ちゃん?」
ふと湖の彼方に青い影を見つけ、大妖精は立ち上がる。
なにやら猛スピードでこっちに向かってきている。
まだ仲直りの術は考えついていない。
今会っても何を離せばいいのか分からない。
大妖精はひとまず木陰に隠れて、様子を見ることにした。
しかしチルノは自分に用があったわけではないのか、湖を越えて行ってしまった。
大妖精は木陰から出てきて、その小さくなっていく後ろ姿を見送る。
一瞬しか見られなかったが、チルノの表情は真剣で鬼気迫る気迫に満ちていた。
あんなチルノを見るのはいつ以来か。
「何かあったのかな。たしかあっちにあるのって……」
☆
迷いの竹林と呼ばれる鬱蒼と竹が立ち並ぶ林。
半端な森よりもずっと迷いやすいため、人が近づくことは滅多にない。
しかしそんな辺鄙なところに住居を構える奇特な人間がいた。
その中には人里にも、妖怪の山にもない特殊な技術をもった天才がいて、
その手に掛かればどんなに具合が悪くても、たちどころに治ってしまうという。
そんな噂が流れているのが、この永遠亭だ。
しかし迷いの竹林の中でも特に奥に位置しているため、そう易々と近づくことはできない。
そんな奥まった所に立つ日本家屋に、一匹の妖兎が降り立った。
夕暮れに沈む太陽を背に、大きな籠を背負い疲れた様子でその玄関をくぐる。
「ただいま戻りました~。今日の売れ行きは上々でしたよ」
この屋敷の住人の一匹、鈴仙・優曇華院・イナバは籠を降ろしながら結果を報告する。
その報告を聞いているのは、実質屋敷の権力を握っている八意永琳だ。
表向きは蓬莱山輝夜という少女が主ということになっているが、彼女の元教育者である永琳の方が、
その立場や持ち前の頭脳を用いて、ここ永遠亭の一切を取り仕切っていると言っても良い。
「お疲れ様。売り上げはいつものように、私の部屋まで運んでおいて。
あと夕餉の支度もできているから、輝夜も呼んできて食事にしましょう」
「はい。もうお腹ぺこぺこですよ~」
そう言って笑う鈴仙に、永琳も微笑を浮かべる。
だがその目から突如笑みが消える。
そして面倒くさそうに、肩をすくめながら呟いた。
「……ただ食事の前に、お客の相手をしなきゃいけないようね」
「客? こんな時間にですか?」
いち早く気配を察した永琳に、鈴仙も気構えをしながら尋ねる。
「時間なんて関係ないわ。特にこの永遠亭においてはね」
「はぁ、まぁそうですけど。それにしても誰でしょう。波長はかなり短いですね」
鈴仙は耳をピンと立てて、近づいてくる者の波長を探る。
その波長によって、相手の正体に目星が付けられるのだ。
「これだけ短いのは、妖精の類だと思うんですが……」
「妖精か。でもこんな所にわざわざ一人でやって来るなんて、ただの妖精じゃあなさそうね」
「あ、あともう一つ波長が……。短くも長くもないんですが、凄くか弱いです」
なんなんだろうと、考えを巡らせる鈴仙をよそに、永琳は玄関へと向かった。
相手の正体がなんであれ、ここで面倒を起こされるのは問題だ。
戸を開けて、外で相手が来るのを待つ。
しばらくすると、招かれざる客がその姿を現した。
「お願いがあるの!」
「いきなりやってきて、お願いとは随分不躾ね」
その正体があのチルノだと分かって、永琳は完全に緊張を解く。
しかし、その背中に背負っている子どもを見て、その表情に再び怪訝が宿る。
「……入りなさい。話はそれから聞くわ」
☆
客間に通されたチルノは、落ち着きなく首を動かしていた。
子どもは、様子を診ると言って永琳が連れて行ってしまったので、ここにはチルノ一人しかいない。
そうして一人にされてから早30分。
ここで待てと言われて、待っているがそろそろその我慢も限界だ。
「ぅぅ、いつまで待たせるつもりよ」
そろそろ様子を見に行こうかと立ち上がった瞬間、部屋の入り口が開かれた。
しかし入ってきたのは、永琳ではなくその弟子、鈴仙だった。
どうやらチルノを客人として認め、茶でも持ってきたようだ。
立ち上がっているチルノを見て、鈴仙はその意味するところをくみ取る。
「立ち上がってどこにいくつもりだったの?」
「そんなの決まってるわ。あの子の所よ」
「もう少し待ってれば、師匠がすぐに連れてきてくれるわよ」
「そう言ってもうずいぶん経ってるじゃない」
短気ねぇと苦笑しながら、鈴仙はチルノの前に茶を差し出す。
とりあえずそれでも飲んで落ち着けと。
「慌てたってしょうがないわよ。そんなに待つのが苦なら私と話でもしない?」
「話すことなんかないもん」
「私は聞いてみたいけどね。なぜ妖精のあなたが妖怪の子どもを連れてきたのか」
鈴仙はただ茶を持ってきたわけではない。
永琳から、診断の邪魔をされると面倒だから足止めをしておけと、そう言われたのだ。
しかしこのチルノという妖精はかなり強情で、なかなか気をこちらに向けてくれない。
「……ねぇ、あんたの師匠に任せたら本当に大丈夫なの?」
「え?」
突然話を振られて、鈴仙はきょとんとする。
見るとチルノは、急に大人しくなって俯いてしまっていた。
「あたいじゃ、どうにもできなかった」
助けようと、そう決めたけど、結局何もできなかった。
だから誰かに頼るしかないと。
そこで思い出したのが、なんでも治してくれる天才のいる屋敷。
なんとかして辿り着いたけれど、本当に治してくれるのか。
「大丈夫よ。そこは心配しなくて良いわ。なんてったって、私の師匠だもの」
「本当っ!?」
「本当よ。だから、ちょっとは落ち着いて待ってなさいって」
落ち込んでいたかと思ったら、急に元気になるチルノ。
波長が極端に短いのも、これを見ていると頷ける。
そこへ診断を終えた永琳が、子どもと共にやってきた。
チルノはすぐに駆け寄り、結果を尋ねる。
「で、どうなの? 治るの? 治せるの?」
「安心なさい。ただの風邪よ。薬を飲ませて安静にしていればすぐに良くなる。
今はその場しのぎに熱冷ましを飲ませてあるわ」
その言葉に、チルノは心底安心した表情を浮かべた。
そんなチルノに、永琳は徐に話しかける。
「だけどまだその薬はできていないの。天狗の薬は人間とは違うから」
「でも、作れるんでしょ?」
心配そうに詰め寄るチルノ。
しかし永琳は慌てず騒がず、にっこり微笑みを返し、その焦りを落ち着かせる。
「もちろん。ただ今日はもう遅いし、その子と一緒に泊まっていきなさい」
「いいの?」
「どうせ薬ができたら、またここに来なきゃいけないじゃない」
永琳はそう言うと、鈴仙に部屋を一つ開けてくるように伝えた。
さらに後で自分の部屋に来るように、とも付け加えて。
鈴仙が出て行った部屋にはチルノと永琳と、眠った子ども。
その可愛らしい寝顔に微笑みを向けながら、永琳はチルノに尋ねた。
「そういえば、まだこの子の名前を聞いてなかったわね」
「名前?」
そういえば決めてない。
世話をするのに一生懸命で、そんなことに気が回らなかったのだ。
そもそも呼ぶ必要もないから、気付かなかったという理由の方が大きいだろうが。
「急いで決める必要はないわ。私だって別に必要ないもの」
そう言って、軽く子どもの頭を撫でると永琳は立ち上がる。
そして薬を作るからと、部屋を出て行った。
子どもを見ると、かなり落ち着いた様子で寝息を立てている。
それでもまだ体がほのかに熱く、完治はしていないことがわかる。
でも、きっと治してくれるはずだ。あの兎だって言っていたじゃないか。
「……大丈夫。絶対治してくれる」
チルノは自身に言い聞かせるように呟いた。
☆
その夜。
そろそろ日付が変わるか変わらないかといった時刻に、チルノはふと目が覚めた。
慣れない柔らかな寝床が合わなかったのか。
まぁいい、もう一度寝直そうと、チルノはまた横になる。
しかしその耳に何やら話し声らしいものが聞こえ、また体を起こす。
こんな時間に誰が話をしているのか。
気になってしまったチルノは、隣で眠っている子どもを起こさないように部屋を抜け出した。
真っ暗な廊下に出ても、誰の気配もしない。
だがよく見ると、向こうに灯りの付いた部屋を発見する。
どうやら声はそこから聞こえてきたらしい。
興味本位でチルノはその部屋に近づいてみた。
すると中からは永琳と鈴仙の二人の声が聞こえてきた。
どうやら薬を作っているらしく、チルノには理解できない単語が飛び交っている。
しかしせっかく来たのだ、少し様子を窺っても面白いかもしれないと、チルノはその場に止まることにする。
「それにしても、師匠が妖精を助けてあげるなんて、どういう風の吹き回しですか」
「別に。私を医者として頼ってくるなら妖精も人間も変わらないわ」
「本当にそれだけですか?」
「そういうことにしておきなさい。それよりウドンゲ、その右から二つめの薬草を取ってちょうだい」
「これですか? はい。……それで結局風邪の原因は何だったんです」
「あくまで予想だけど、あの子はずっとあの妖精と一緒にいたのよね」
「えぇたぶん」
「それが原因でしょうね」
え?
「それはどういう……」
「それくらい察しなさい。あのチルノという妖精は自分でも分かってないうちに
周囲に冷気をばらまき続けている。人間が汗を掻いたり、息をしたりと同じ感じでね」
「その冷気にあてられたと?」
「四六時中、あの子と一緒にいたならあり得ない話じゃないでしょう」
「なるほど。でもこの話はチルノには言わない方がいいでしょうね」
「そうね。ただこのままで一緒にいさせると、また同じ事が起きるかもしれない」
あれ?
チルノは全身の力が抜けるのを感じた。
二人の言っていることが本当だったなら、あの子の具合が悪くなった原因は自分ということだ。
それに今永琳が言ったように、治っても自分と一緒にいたらまた同じ事になってしまう。
あと2日。
もう自分はあの子の側にはいない方がいいのだろうか。
チルノはよろよろと立ち上がると、部屋に戻ることなく、永遠亭からその姿を消した。
☆
あたいがあんたにあげられるもの。
そんなもの最初からなかったんだ。
どうせもうすぐ迎えがきて、あんたは本当のママの所に行くんだから。
そしたら、あたいのことも忘れてしまうんだろう。
そんなあんたにあげられるものなんか、あたいには一つもない。
それに、もう一緒にはいられないんだから。
☆ ★ ☆
チルノが姿を見せなくなった霧の湖周辺。
遊びの邪魔になるチルノが離れていることで、他の妖精達は大喜びで遊んでいた。
そんな中にいて、大妖精だけは相変わらず浮かない顔のままだった。
昨日チルノの姿を見かけたまではよいものの、思わず隠れてしまって、
せっかくの機会なのに、自分から棒に振ってしまった。
そのことがまた自己嫌悪に繋がって、よりいっそう彼女の表情を暗くしている。
いつになったら仲直りできるのだろう。
そのことが頭の中をぐるぐるもやもやして、無邪気に遊ぶ気になど到底なれもしない。
そんな大妖精をよそに、妖精達は黄色い声でお喋りに花を咲かせていた。
「そういえばチルノが妖怪の子どもを拾ったじゃない?」
「知ってる知ってる。やっぱり変な子だよね」
「でもちゃんと世話してるって聞いたけど」
「そんなの今の内だけよ。すぐに飽きて放り出すに決まってるわ」
などと、口々に勝手なことばかり言っている。
しかしそれに怒った所で、それはただの八つ当たりだ。
大妖精は怒鳴りそうになるのをぐっと堪え、その場を離れようとした。
「そうそう、さっきチルノを見たって子がいたよ」
「まだ子どもの世話やってた?」
「うぅん。チルノ一人で、子どもは背負ってなかったって」
その話に、思わず大妖精は振り返る。
そしてその話をしている妖精達に詰め寄り、真剣な様子で尋ねた。
「ねぇその話、もっと詳しく教えてくれない?」
☆
永遠亭で聞きたくなかった話を聞いてしまったチルノ。
勢いに任せて飛び出してきて、もう今更戻ることはできない。
戻ったところで、もうあの子の側に自分はいてはいけないのだし。
それにどうせ、あとちょっとしたら迎えが来てしまう。
そうなればこの“母親ごっこ”も終わりだ。
それならいっそ、このまま離れたままでいた方が別れやすい。
ごろんと横になって、真っ青な空を仰ぐ。
久しぶりの一人きり。
隣から聞こえてくる健やかな寝息も、今はもうない。
「チルノちゃんっ!?」
しかし、代わりに耳に届いたのは、驚きに満ちた親友の声だった。
いきなりのことにチルノも飛び起きて、声のした方を向く。
そこには急いできたのか、肩で息をしている大妖精が居た。
ケンカしていたことも、チルノにとってはすでに過去のことだ。
子どもと過ごしている内に、チルノの方の怒りはすっかり冷めてしまっている。
ただ、今は大妖精の相手をする気にもなれないでいた。
だから気のない適当な言葉しか掛けられなかった。
「あぁ、大妖精か」
「大妖精か、じゃないよ。あの子はどうしたの」
なんだそのことを聞きに来たのか、とチルノは溜息を吐く。
言いたくはないが、言わなきゃいつまでも居座るに違いない。
そういう子だということを、チルノは誰よりも知っている。
「あの子はここにはいないよ」
「……どうして」
「永遠亭に置いてきた」
「だからどうしてっ!」
なんでそんなに怒ってるのよ。
「別に関係ないじゃん。それにあの子は、あたいとは一緒に居ない方が良いんだ」
パシンッ
乾いた音が静かな森に響き渡る。
チルノはしばらくしてから、じんじんと熱くなった頬を触って何が起こったのかを考える。
目の前には凄く怒った顔をした大妖精。
だけどその目には涙が溜まっている。
その手も真っ赤になっていて、それだけの力で叩かれたのだということを、チルノはようやくになって理解した。
「な、何すんのよ!」
「チルノちゃんこそ、なにしてるのよ!」
叩かれたことに激昂するが、よりいっそうの迫力をもった大妖精に逆に怯まされてしまう。
しかしどうして大妖精が怒っているのか、チルノには理解できないでいた。
叩かれた理由だって全然わからない。
「チルノちゃんはあの子のママなんでしょ?」
「そうだけど……もう、そうじゃないもん」
「それ、どういうこと?」
チルノは大妖精に話してなかったことを全て話した。
文から、一週間後に迎えに来るからその間は面倒をみるようにと言われたこと。
元の親の所に戻ると、もう自分のことは母親としては見てくれないこと。
そんな中、あの子が高熱を出してしまったこと。
永遠亭に連れて行くと、その原因は自分だったということ。
だったらもう自分など側にいない方が良いんだと、そう思って子どもを置いてきたこと。
「そんなの、勝手すぎるよ」
顔を上げると、大妖精と目があった。
その目は表情以上に怒りを湛えていて、下手をするとまた頬の一つや二つを叩きそうな雰囲気を醸している。
「離れた方が良いって、それはチルノちゃんが勝手に思ってるだけじゃない」
「でも、あの子はあたいと一緒にいたから風邪を引いたのよ!」
「それでも、そうだったとしても、あの子にとってのママはチルノちゃんなんだよ」
「でもあたいは……本当のママじゃない」
「まだチルノちゃんがママだよ。お迎えが来るまではチルノちゃんがママじゃなきゃダメなんだよ?」
「大妖精……」
チルノはようやく、大妖精が怒っている理由を悟った。
大妖精が、あれだけ母親代わりが務まるのかと忠告をしていたのは、
どんなことがあっても、それができるのかと聞いていたのだ。
それを自分は文句だと受け取って、真面目に聞かなかった。
それで、自分はできないと言って逃げ出したのだ。
「大妖精。あたい……」
謝ろうと口を開き書けた瞬間、その言葉を遮るように、上空から大声が降ってきた。
「やっと見つけたーっ」
二人が見上げると、まず目に入ったのはスカートの中だった。
さらに上に目線をやると、特徴的な兎耳を揺らしながら、鈴仙がこちらを見下ろしていた。
当の本人はスカートの中など気にしない様子で、こちらに向かって疲れた表情を浮かべている。
「まったく、いきなりいなくなるんだから……」
「あんた、なんでここに?」
「あなたがいなくて、あの子が泣きやまないのよ。さっさと戻ってきてくれない?」
「え? あ、え?」
鈴仙が言ったことがまだ信じられないのか、嬉しくて言葉が出ないのか、
目を瞬かせているだけのチルノに、大妖精は自分のことのように嬉しがって、その背を押した。
「ほら、チルノちゃん」
大妖精の笑顔を見ている内に、チルノはようやく何が起こっているのかを理解した。
あの子はずっと待っている。
自分勝手に飛び出してきた自分を、ずっと待ってくれているのだ。
チルノの目つきが変わった。
その瞳には、今までにない決意が込められている。
改めて自分が母親をやらなくてはならないという思いが湧き上がってきたらしい。
“ごっこ”などと誤魔化していたのも、ただ逃げていただけなのだ。
「大妖精。あたい、行くよ」
「うん。もう、ちゃんと最後まで頑張らなきゃダメだよ」
二人の事情を知らない鈴仙は、よくわからず首を傾げている。
ともかく、チルノが戻ってきてくれるのならそれで良いと、特に言及はしなかった。
「それじゃあ戻るよ」
「そうね。できるだけ早く戻ってくれると助かるわ」
そう言って鈴仙は、永遠亭とは反対の別の方向に行こうとする。
その行動にチルノは首を傾げる。
「あれ、あんたは戻らないの? あそこはあんたの家なんでしょ」
「私はもう一つ、別件があるからね」
「別件?」
きょとんとするチルノに、鈴仙は永琳から申しつけられた、もう一つの用事を話した。
「実はあの子の薬の材料が足りなくてね。あなたと一緒に探して来いって、お師匠様から言いつけられたのよ」
「え、それじゃ、あの子は」
「今は他の薬でなんとかしているけど、ちゃんとしたものを飲ませないことにはね」
あの子はまだ苦しんでいる。
その原因を作ったのは、他ならぬ自分。
あの子はずっと待っている。
それは母親である自分。
「大妖精。あたい、やっぱりまだ戻れない」
大妖精は何も言わない。優しい瞳で頷くだけだ。
鈴仙もなんとなく事の次第を察したのか、困ったように肩をすくめる。
しかしそこには、仕方がないと最初から諦めているような潔さがあった。
「本当はさっさと戻って欲しい所なんだけどね」
「さっさと探して戻ればいいのよ。で、何を探せばいいわけ? どこにあんの?」
「そうね、早く見つけてあなたも一緒に連れ帰ることにするわ」
鈴仙とチルノは程なくして、その足りない材料を求めて飛び立っていった。
その二つの後ろ姿を、大妖精は微笑みを浮かべながら見送っていた。
その顔には、ここ数日浮かべていたような、暗い翳りが欠片もなかったのは言うまでもない。
あとは、チルノ自身が頑張るしかない。
☆
昼でも暗い魔法の森。
じめじめとしていて、夏場になると特にその不快度指数は上がる。
しかし今はこの森に用があるのだ。
汗で服がへばりつくあの嫌な感触を我慢しながら、チルノは鈴仙と手分けして例の材料を探していた。
「どう? 見つかった?」
「全然。本当にこの森にあるの?」
「私だって知らないわよ。お師匠様があるって言っていただけだもの」
そんな鈴仙の言葉に、チルノは溜息を吐く。
かれこれ数時間は探しているというのに、目当ての材料の手掛かりすら見つからないのだ。
あるのかどうかを疑いたくなるのも無理はない。
ちなみに彼女たちが探しているのは、月の光を溜め込む特殊な性質を持った花だ。
いつもは蕾の状態で溜め込んだ月光が外に漏れないようにし、
夜になって月明かりに照らされると、その花を開いて月光を溜め込むのだ。
その開いた花が月明かりと同じ色をしているので、そのまま“月光花”と呼ばれている。
月光は妖怪の力に作用する。
その力を溜め込んだ花は、妖怪に対する薬として絶好の材料となるわけだ。
ただし蕾の状態は、他の花と変わらない姿をしているため、見つけるのは困難を極める。
「もうすぐ夜か……夜になれば花が咲いて見つけやすくなるわよ、きっと」
「それなら良いんだけど。じゃああたいは向こうを探してくるよ」
「うん、なら私はこっちを探すから。見つけたらすぐに報せてね」
再び散会して、個々の探索に戻る二人。
空は紫色が混じりだし、橙との境界に一番星が上がっていた。
☆
そんな星が一つしかない空は、1時間も経たないうちに無数の輝きが瞬いていた。
今日は三日月で、月明かりもどこか心細い。
その細い弧が、まるで嫌らしい笑みを浮かべているようにすら思えてくる。
「っだーっ!」
先程から何回あげたか分からない雄叫びで、やり場のない苛立ちを発散させながら
チルノはただひたすらに月光花を探し続けていた。
いつもの彼女なら、とっくに根をあげているに違いないほどの時間が経っているが、
それでもなお、探すのを止めようとしないのは、それだけの決意があるということなのだろう。
ただその決意とは裏腹に、月光花はなかなかその輝きを見つけさせてくれない。
鈴仙から何もアクションがないし、向こうもまだ見つけてはいないようだ。
たかが花一輪探すだけで、この重労働。
しかし、そのたかが一輪であの子は助かるのだ。
大妖精と交わした約束。
そして自分自身の決意。
今、その二つがチルノを動かし続けている。
本当にここにあるのか。
そんなことを疑うことすら、最早考えられないほどにチルノの集中力は高まっていた。
光る物なら何でも近づき、そのたびに違う物しか見つからず肩を落とす。
草を掻き分け、ぬかるんだ湿地にも足を踏み入れ、泥だらけになりながらも探し続けるチルノ。
だがその体力もそろそろ限界だ。
集中力も気合いだけでは限度があり、さっきから目蓋も落ちかかっている。
しかしその時、その目に静謐だが温もりを感じる光が映る。
ぼんやりとした曖昧な光だが、それは今まで見つけた紛い物の光とは違う。
「あ、あれ……」
ゆっくりと確実に光に向かって歩を進める。
だがその足取りは重く、なかなか思うように進めない。
その足がぬかるみに取られて、盛大に転び泥に顔を埋めてしまう。
土と水が混じった、嫌な舌触りに顔を歪めながらも、おかげで少し気合いが戻った。
「あと……すこし、なんだからぁーっ」
月が嗤っていようが、泥を食おうが、もう気にしない。
目の前にあるその光を手にすることだけを考えればいい。
一歩、また一歩と歩を進め、ようやくその手が光に届い――――
☆ ★ ☆
ごめんね、待たせちゃって。
ごめんね、苦しい思いをさせちゃって。
だけど、もうすぐ戻るから。
戻ったら、花を探してる時に思いついたプレゼントをあげる。
あんたがあたいを忘れちゃっても大丈夫なプレゼント。
あんたは気に入ってくれるかな。
☆
「とったぁーっ! ……って、あれ?」
高らかに言い放ったのと同時に、猛烈に感じる違和感。
それは刹那にして変貌した視界だったり、その視界を照らす光の眩しさだったり、
体を包む柔らかな感触だったり、すっきりとした寝起きだったり。
気付くとチルノは、布団の上で寝かされていたのだ。
きょろきょろと周囲を見渡すが、自分と布団以外には何もない。
だがこの部屋の造りには見覚えがあった。
「ここは……ウサギの家?」
間違いない。ここは永遠亭の一部屋だ。
場所はわかった。
しかしどうして自分がそこで寝かされていたのか。
「そうだ、月の花!」
唐突に当初の目的を思い出して、確かに掴んだはずの右手を見やる。
しかしその手は何も掴んではいなかった。
「あ、れ?」
あれは夢だったのか。
いや、その手にはしっかりとした手応えがまだ感じられる。
「あぁ、やっと起きた?」
そこへ桶と手ぬぐいを持って、鈴仙がやってきた。
チルノはすぐに、なんで自分がここにいるのか、月光花はどこにやったのか、
何よりあの子はどうなったのか、と質問攻めにする。
その勢いに気圧されながらも、鈴仙は一つ一つ丁寧に教えてくれた。
「昨日の夜、あなたがいつまで経っても帰ってこないから、こっちから迎えに行ったのよ」
すると泥の上で倒れているチルノを見つけ、永遠亭まで連れ帰ったのだ。
ただその手には、しっかりと月光の輝きを纏う花が握られていた。
ちゃんと見つける物は見つけたは良いが、そこで糸が切れてしまったのだろう。
「安心しなさい。薬は完成して、あの子はすっかり良くなったわ」
「本当っ!?」
その言葉を聞いて、チルノはガバッと体を起こす。
その為に戻ってきたのだ。治ったと聞いて、自分が寝ていては元も子もない。
「あっ、ちょっと!」
制止する鈴仙の言葉も耳には届かない様子で、部屋を出て行ってしまった。
☆
「ここっ?」
いない。
「じゃあ、ここかっ」
いない。
「ここだぁっ」
いない。
いない、いない、いない、いない、いない、いない、いない…………。
「っはぁっ、はぁっ……ここ?」
いつくもの扉を開けてみるが、ここにもやっぱりいなかった。
永遠亭中の部屋を回りきったと思えるほど、沢山のふすまを開いても、
どこにもあの子の姿を見つけることができない。
流石にくたくたになって、座り込むチルノ。
そこへ丁度永琳が通りかかり、チルノは重い腰を上げて詰め寄った。
「ねぇあんた! あの子は一体どこにやったのよ」
隠し立てすると承知しない、という雰囲気を全身から出すチルノ。
だが永琳はなんてことはないといった具合に、あっさりと告げた。
「あの子なら、烏天狗の新聞屋が迎え来て連れて行ったわよ」
あれ、とチルノは考える。
確か鈴仙は、自分が倒れていたのを連れ帰ったのは、昨日の夜だと言っていた。
そこから両手の指を折りながら、ひぃ、ふぅ、みぃと数えていく。
何回数えても、まだ1日残っているじゃないか。
あと1日は一緒にいられるはずだったのに、なんでもう迎えに来たりしたんだ。
「ねぇ、なんでよっ!」
「いや、私になんでって言われてもね」
「まだ1日あるのよ!? あと1日はあたいがあの子のママなのよっ!?」
「そう言われても……」
永琳は文がやって来たときの会話を思い出していた。
「なるほど、チルノさんはまだ眠ってるわけですか」
「えぇ、ウドンゲの話だとかなり疲れているみたいだから」
「それは好都合です」
「いいの? あの子、起きたときにその子がいないとわかったら」
「明日彼女から直接受け取るとしても、渋られるに決まってます」
「そりゃ……そうね」
「再刷込薬は、大体5日もあれば完成します。別に一週間ぎりぎりまで預けていなくても、
機会を見計らって、こちらが一方的に返したもらった方が良いんですよ」
「私は別にどっちだって構わないけど……起きたときに言っても良いのよね」
「えぇ、問題はありません。もう迎えが来たことが分かったら、彼女も諦めるでしょう」
そうは言っていたが、チルノはどう見ても諦めてはいない。
「あんの、ブンブン烏っ。あたいに断りなく連れ戻すなんて、良い度胸してるじゃない」
まるで背後にゴゴゴ……という擬音が見えそうなほど、チルノは冷気を周囲にまき散らせていた。
近くにいる永琳が肌寒さを感じる程、チルノの感情は昂ぶりを見せている。
このままここで暴れられると、永遠亭にとってはあまり好ましくはない。
永琳はチルノの感情をこれ以上昂ぶらせないように、慎重に言葉を選びながら話しかけた。
「でも、あの子はもう本当の母親の所に戻ったんでしょう?」
「それがどうしたってのよ」
「天狗が言っていた薬が使われたら、もうあなたはあの子の母親でもなんでもなくなるんじゃない?」
チルノは母親であることに執着しているようだが、そうする理由はもうなくなったのだ。
今更そのことで激怒したって何も意味がない。
「そんなこと……わかってるもん」
「だったら――」
「だけど、最後の1日まであたいはあの子のママなのっ」
チルノは強く言い放つと、永遠亭から飛び出ていった。
一気に騒がしくなり、一気に静まりかえる屋敷の中。
呆気にとられている永琳の下に、ようやく鈴仙が駆けつけた。
「お師匠様、大丈夫ですか」
「えぇ、なんともなかったわ。それにしても……」
「お師匠様?」
彼方を見つめて微笑みを浮かべる永琳を、鈴仙は不思議そうに見る。
(あの子、とても良い顔をしていたわね)
チルノのあの言葉を直接聞いた永琳だからこそ、彼女の決意がどこまで本気なのかを知り得たのだ。
☆
天狗は、妖怪の山にその里があるという。
それ以外にも河童やら神様やらがごろごろしているこの山に、普通別の地域の妖精が近づくことはない。
だがそんなことを気にして、近づくか近づくまいかを考える程、チルノの思考は複雑ではなかった。
そこにあの子がいる。
なら行くしかないじゃないか。
これぞチルノの生きる道。
「天狗ーっ、烏ーっ、なんでも良いから出てこーいっ!」
わめき声と冷気をぶちまけながら、妖怪の山を飛び回るチルノ。
天狗の里が何処にあるのかわからない以上、こうして適当に飛び回るしか見つける術はない。
夏の陽射しの暑さもものともせずに、チルノはただひたすらに飛び続ける。
その時、急に視界が木の葉で覆われた。
気付くと周囲が竜巻によって囲まれている。
強風と木の葉で全く周囲の様子が見えない。
「なんなのよ、これは……」
すると風の向こうから、低い声が聞こえてきた。
「天狗を捜している奇妙な妖精がいると聞いてきたが、お前のことか」
その声は高圧的で逆らうことを許さない様に感じられる。
だがチルノだって偉そうな態度なら引けを取らない。
「この風はあんたの仕業? さっさと出しなさいよ」
「だめだ。妖怪の山に害なす輩を野放しにはできない」
「だったら力ずくでも出てやるわ!」
いつまで経っても観念しようとしないチルノに、声の主も相手をするのが面倒になってきたのだろう。
「なるほど、痛い目をみないと分からないようだな」
最終通告としか取れない言葉で、チルノをさらに脅しにかかる。
だがそれでもチルノは怯まない。
いつもの負けず嫌いの上に、今は決意と約束が上乗せされているのだ。
その頑固っぷりは、ちっとやそっとのことでは破れるはずもない。
「痛い目を見るのはあんたのほ、う……よ、よ、よ?」
ただし本人が倒れてしまっては、頑固も何もあったものではないのだが。
どうやら暑さによるダメージが今になって、襲ってきたらしい。
ぐるぐる回る視界の中、チルノは空が遠ざかっていくのを見送りながら、その意識を落とした。
☆
顔に冷たい感触を受け、チルノは目を覚ます。
目に映ったのは硬くゴツゴツとした岩肌。
そこからまた水滴が垂れてきて、顔を濡らす。
気がつくと、冷たく薄暗い牢屋に寝かされていた。
体を起こすと、全身に激痛が走る。
どうやらあのまま落ちて、そのまま捕まってしまったようだ。
格子に手を掛けて、がちゃがちゃとやってみるがびくともしない。
どうにかして出られないかと考えていると、向こうの方から足音が近づいてくるのが聞こえた。
これはしめたと、チルノは身構える。
事情を話すか、強引にどうにかするかして、さっさとこんな所からはおさらばしなくては。
「おや、気がついたようですね」
「あ、あんたは!」
しかし現れた者の正体かわかると、どうにかしようと考えていた思考も吹き飛んでしまう。
まさかここにきて文と再会するとは思っていなかったのだ。
話によると、どうやらここは天狗の里の牢屋らしい。
まるで何も付けていない釣り針に、魚の方から食い付いてくれたような幸運である。
ただしその幸運も上手く釣り上げなければ、外されてしまう。
自分はまだ牢屋の中なのだ。出してもらえなければ話にならない。
「白狼天狗から、気の強い妖精が烏天狗を捜していると聞いて……もしやとは思ったのですが」
案の定あなたでしたか、と文は肩をすくめる。
こうなることを少なからず予想していたらしい。
チルノとは何度か面識があるのだ、その行動を予想することも妖精相手なら容易いはずだ。
だが相手が予想していようといまいと、チルノには関係がない。
はやくここから出せ。今はそれだけだ。
「さっさと出しなさいよ!」
「出したら、あなたはどうするつもりですか」
「え?」
あまりにも一転した鋭利な口調に、チルノも思わず聞き返してしまう。
文の顔からは笑みが消え、まるで刃物のような鋭い目つきでこちらを見ている。
「もう一度聞きましょう。ここから出ることができたら、あなたはどうするんですか」
それは聞いているという尋ね方ではない。
問い詰めているといった方が正しい物言いだ。
「答えによっては……」
「あの子に会いに行く」
チルノは臆すことなく、はっきりと告げた。
強がって言っているわけではない。
体はちっとも震えていないし、その声には落ち着きすら感じる。
「会いに行って……どうするつもりです。連れ戻すんですか」
文の言葉にチルノは首を振る。
「じゃあ、どうして会うんですか。もうあの子は再刷込の薬を飲んでいます。
次に会うときは、あなたのことは覚えてはいない。関係はもうなくなってるんですよ」
「それでも会う」
会って最後にやらなきゃいけないことがある。
今日はまだ、約束の一週間の最後の1日。
あの子がどうであれ、自分が母親役を頼まれた期間には違いない。
どうしても会うまでは帰らないというチルノ。
そんな彼女にきつい視線を向けていた文だったが、しばらくすると表情が和らぎ、
いつもの誰に対しても人の良い営業的な顔に戻っていた。
チルノのことを試していたらしい。
「仕方ありませんね。そこまで言うなら会わせてあげます。どうやら連れ戻しにきたわけでもなさそうですし」
「本当っ」
「力ずくで連れ戻す気なら、こちらもそれ相応の対応をするつもりでしたけどね。
今の話を聞いた限りは大丈夫なようですから。ただし変な真似はしないで下さいよ」
「わーかってるって」
一抹の不安を残しながらも、文は格子扉の鍵を開ける。
意気揚々と出てきたチルノに、文は早速案内しようとするが、その前にチルノが口を開いた。
「そうだ。もう一つだけ、お願いがあるんだけど……」
☆
とある家の前まで案内されたチルノ。
ここが本当の母親が住んでいる場所らしい。
「すみませーん。射命丸ですー」
ドアを叩きながら文が来訪を報せる。
するとしばらくして、中の方から「どうぞ」と促す声が聞こえてきた。
「何度も言うようですが、くれぐれも変な気は起こさないで下さいよ」
「だからわかってるってば、しつこいなぁ」
そうは言われても相手がチルノだと、やはり心配になる。
別に何か企んだりできるとは思っていない。
だが単純故に、いきなり想定外の行動を取る可能性が拭いきれないからだ。
(ま、今更うだうだしてても仕方はないんですけどね)
文も覚悟を決めて、扉を開いた。
「いらっしゃい」
中では文よりもずっと年上に見える、たおやかな女性の烏天狗が待っていた。
物腰や表情がとても柔らかで、その面立ちはまさしく母親のそれだ。
彼女の腕の中ではあの子どもが、安らかな寝息を立てている。
その顔は自分の背中で眠っていたときと何も変わっていない。
ただそれは、もうあの子の母親が自分ではなくなったことの証拠でもある。
しかし着ているものは、ボロ布じゃなく暖かそうな服を着させてもらっている。
それにちょうど食事を済ませたあとの昼寝なのか、近くには食器が残っていた。
その中身は、自分が作ったような不味そうな飯とは、比べものにならない。
「あんたが、その子の本当のママ?」
「そうよ。あなたが娘の世話をしてくれた妖精さんね」
「妖精さんじゃないわ。チルノよ」
「そう、チルノさんね」
すると女性は深々と頭を下げた。
され慣れないことにチルノは思わず戸惑ってしまう。
「ありがとう。この子に代わって、私の分と一緒にお礼を言うわ」
「べ、別にお礼なんて……」
ふいと横を向くチルノの仕草が、あまりにもぎこちなくて、側で見ている文は思わず苦笑を漏らす。
「それで、危険を冒してまで会いに来てくださった用件は何ですか?」
先程の文とは違って、ちゃんと“聞いている”口調で女性が本題に入る。
だからチルノも、ちゃんと“答え”を口にする。
それがここにきた目的であり、今しなければならないことだから。
深呼吸をして息を整えると、チルノはまっすぐ女性の目を見ながら、徐に話し始めた。
「あたいは……今でもその子のママだって思ってる。わかってるよ? わかってるけど、でもそう思ってる。
だからあんたに、これだけは言っておきたいの。その子をもう二度と離さないで。
あんたが、ずっと一緒にいてあげて。もうあたいがママにならなくて良いようにして」
女性はただ静かに、チルノが言葉を紡ぎ終えるのを待っていた。
文も余計な茶々は入れず、少し離れたところで二人の様子を見守っている。
その手が文花帖に伸びることはない。本当にただ見ているだけ。
「あたいには、おいしいご飯も、あったかい服もあげらんない。
こんなちゃんとした家もない。それに……一緒にいたら風邪だって引かせちゃう。
だから、あたいよりあんたの所に居た方がその子も幸せなんだ。
あたいにできないことを、あんたなら全部できる。だから、ずっと一緒にいて」
いつしか、チルノの声は震えていた。
あのチルノが、別の誰かを認めようと必死に言葉を発しているのだ。
自分より、相手の女性の方が母親として相応しいと認めるのは、そう簡単なことじゃない。
涙だって流していても不思議ではないが、それもぐっと堪えている。
そして、言いたいことは言い終えたのか、全力疾走した後のような荒い息遣いを繰り返すチルノ。
そんなチルノに、今度は女性の方が口を開いた。
「わかりました。もう二度と娘を手放したりはしません。母親として約束します」
それは先程と同じ優しい声だったが、そこに含まれる強さはチルノと同じくらい決意が秘められている。
その約束という言葉に、チルノも満足したように頷き返した。
「絶対よ」
「えぇ、絶対」
小さな育ての親と、大きな生みの親は、一つの約束を挟んで見つめ合う。
しばらくそうしていたかと思うと、チルノはポケットから一枚の紙を取り出して女性に渡した。
そして女性がそれを開いて見る前に、逃げ出すようにして家から飛び出していってしまったのだ。
その表情は見えなかったが、きっと泣いて笑っていたに違いないと、文にはそう思えてならなかった。
☆
チルノが出て行った扉を見ていた文だが、チルノ以上に彼女が渡した物が気に掛かる。
牢屋でお願いと言われて、紙とペンを渡したのだが、これを書くためだったのだ。
別に見るなとも言われていないし、書いた本人はもういない。
「いったい、何が書いてあったんですか?」
まさかあのチルノに限って、誓約書のようなものを突きつけるはずはない。
チルノが何かを書くというのは、文にも想像のできなかったことだ。
文が興味津々に尋ねると、女性はとても嬉しそうな笑みを浮かべて答えた。
「もう一人のお母さんからの、贈り物よ」
そう言ってチルノから渡された紙を見せる。
「……なんですか、これは」
内心わくわくしながら見せてもらった文だったが、一瞬でその表情が怪訝に曇る。
そこにはまるてミミズがのたうち回ったような、乱雑な線で数文字の平仮名が書かれていた。
見る者によれば、字とすら認識されないかもしれない。
かろうじて文は認識することができたが、その意味するところがわからないでいた。
そこに書かれていた言葉、それは――
『さ い き よ う』
“さいきよう”というのは、きっと「最強」と考えて間違いないだろう。
だが、ここでそんなものをわざわざ書いて渡す必要がどこにあるだろうか。
しかもそれをもらった女性は、嬉しそうに微笑んでいる。
それはこの意味を理解できているからこその反応だ。
同じ子どもの母親同士、何か通じるものがあったのかもしれない。
「教えてください。これはいったい何なんですか」
「だから、言ったでしょう。“贈り物”だって」
「これのどこが贈り物ですかっ」
思わず大声でつっこんでしまい、文は慌てて手の平で口を押さえる。
しかし母親の腕の中は安心できるのか、子どもが起きる気配はなく、ホッと胸を撫で下ろす。
「この言葉のどこが贈り物なんですか」
改めて小声で尋ねる文に、女性は胸元からペンを取り出してその紙に何やら書き足し始めた。
そして再び文に見せる。
そこにはチルノの字とは、似ても似つかない柔らかな書体で――
『命名
さ い き よ う
彩 杏 』
そう書かれていた。
チルノが名付けた読みをもらって、字を当てたのだ。
これには文もぽかんとしてしまい、それを理解すると思わず笑いを溢してしまう。
「こ、これは……なるほど」
ただその笑いは侮蔑を込めた嘲笑ではない。
いかにもなチルノらしさが滲み出ていて、それにどうにも優しさを感じてしまったのだ。
確かに、この子がチルノのことを忘れてしまっても名前ならずっと残る。
チルノがこの子の母親代わりだったという証。
それに、なんとなく文にはチルノがこの言葉を名前に選んだ理由が分かった気がした。
チルノは自分自身が覚え続けるつもりで名付けたのだろう。
絶対に忘れない、自分が大好きな言葉を。
もう会うことはないかもしれない。
だがもし次に会うことがあったとき、例えこの子が覚えていなくても、自分だけは――
☆
短いようで長い一週間が、ようやく終わりを迎えようとしている。
薄闇に浮かぶ半月と、無数の星空の下、チルノは霧の湖を目指して飛んでいた。
その顔に表情はない。
呆然としていて、ただ本能で住処を目指しているだけに見える。
やることを全てやり終え、喪失感にでも襲われているのか。
しかし突然その目に光が戻る。
まるでそこを通るのが分かっていたように、チルノを待っている者がいたからだ。
「おかえり、チルノちゃん」
「大妖精……」
小首を傾げて、にっこりと微笑む大妖精。
「頑張ったね、お疲れ様」
全てを労ってくれるその一言に、チルノの我慢は瓦解した。
猛スピードで抱きつくと、その胸元に顔を埋めて肩を震わせる。
大妖精は漏れてくる嗚咽にも微笑みを浮かべて、その頭を優しく撫でた。
誰もいない夜の空。
半月を背景に浮かぶ影からは、とても冷たくて、とても暖かい輝きがこぼれ落ちていた。
《終幕》
ありがとうございます。最高です。
頑張るチルノと、そんな彼女と接する周囲の人妖達がとてもよかったです。
…この言葉に凄く重みを感じました。
今の世の中、自分勝手な理由で平気で自分の子供を見捨てたり死なせたりする親がいます。
でも彼女はその幼い姿でありながらも、短い間だったけど最後まで母親として立派に役目を果たしました。
親になるという事は物凄く責任が重く、覚悟がいる事だと自分は思っています。
素敵な話をありがとうございました
ありがとう。
この発言になんとなく違和感が。
いいお話でした。
儚月抄では、永琳は輝夜にタメ口なんだぜ!
きっとその名に恥じぬ強く良い子に育つことでしょう。
心温まる物語でした。
チルノ良いよ良いよチルノ
これは間違いなく泣ける
これ以上のファクターを挟もうと思えば恐らくいくらでも挟めるとは思うのですが、必要最低限のエピソード数だったことがむしろ奏功した感じ。良い意味で飾りっ気のない素朴さが、物語の温かみをよく引き出していると思います。
素直な気持ちで読むことが出来ました。良作でした。
それぞれ一言ずつではありますがレスさせてもらいますね。
>脇役さん
意外なキャラが意外なことをするのが良いんだと言ってみたりw
>名前が無い程度の能力さん(一人目)
でしょう?
>逢魔さん
涙はこれで拭いときィ!つハンカチ
>名前が無い程度の能力さん(二人目)
冷たい手の人は心が温かいんですよ。
>浜村ゆのつさん
母の愛に心打たれない人はいませんw
>思想の狼さん
そうですね。親であることは、それだけで大変です。
>名前が無い程度の能力さん(三人目)
あなたもこれで拭いときィ!つハンカチ
>名前が無い程度の能力さん(四人目)
儚月抄の影響で二人のイメージに微妙な変化が生じてます。
>名前が無い程度の能力さん(五人目)
一つ下のコメントへのフォローありがとうございますw
>時空や空間を翔る程度の能力さん
でも大体名前に込められた思いとは裏腹に育っちゃうんですよね(ォィ)
>ぽぽーいさん
その汁はきっと心の汗ですよw
>反魂さん
こういう話はだらだら行くより、直球ど真ん中が良いですね。
>夢電さん
どういたしましてw
評価のみの方もありがとうございました。
次回への励みとしてきっちりと受け取っておきます。