日が傾き、全てが朱と闇の曖昧な色に染まる時間。
日が沈む事で、空は幻想的な世界を映し出していた。
生憎今は土砂降りの雨である。
先ほどまで見えていた幻想的な空は一寸も見えず、今は薄暗い雨雲が空を低く見せていた。
そんな土砂降りの雨の中、曇天よりも黒く、暗い闇が神社へと降りてくる。
「む……?」
こんな雨の中何を考えているんだ?
実体の幽かな私ですら、水が頬を伝うのだから、闇の中の妖怪はずぶ濡れだろう。
縁側に降り立った闇の中から、案の定ずぶ濡れになった少女が現れた。
しかし、その表情は――笑顔。
その笑顔で妖怪少女の考えが分かってしまい、思わず笑ってしまう。
「くくくッ、そうか……、会いたいから……」
何かを成し遂げる為には、達成する為の行動力と、それを支える強い意志が必要である。
誰だって神社に行く事はできる。
しかし、普通なら雨に濡れてまで行こうとは思わないだろう。
日を改めればいいだけの話だ。
ただ、あの妖怪少女は土砂降りの雨に負けない、強い意志を持っていたというだけだ。
「……意志、か」
自分はどうだろうか?
薄れてきている記憶を手繰り寄せ、過去を思い出してみる。
始まりは突然で唐突だった。
平和な日常を否定され、迫害され、滅ぼされた。
その理不尽な世に復讐する為だけに、世に残り、存在し続けた。
あぁ、あの頃は――、苛烈だった。
「――ふふん」
思わず自嘲する。
しかし、今はどうだろう――?
こちら側に来てからの私は……
目の前の神社との騒動。
そして敗北。
全ての発端であり、今の私の全てがそこにある。
全ての人間を呪う正当な理由があったにも関わらず、
いつの間にか邪気も失せてしまい、鳥居に腰掛け暢気に眺める始末。
認めたくは無いが、私は腑抜けてしまったのだろうか?
「……いいや、違う」
自問し、それを否定し、拳を握り締める。
まだ私には力はある。
薄れてしまったのは、――意志だ。
意志の力無くして、行動する力は生まれない。
強固な筈の意志が薄れたのは、判っていた事を解ってしまったからだ。
誰もが信念を持ち、それを信じて行動する。
それを即ち正義と言う。
自らの正義に対し、障害となって抗い、妨げるモノこそが悪である。
どんな正義も、より大きく、多数の支持を得た正義から見れば、押し潰される悪でしかない。
それが嫌ならば、自らの正義を妥協し、大きな正義に拠り縋るしかない。
力無き正義は力有る正義に淘汰されるのが真実だ。
永い年月が過ぎた今となっては、
私の正義は、同じ永い年月の末、強固で揺ぎ無い存在となった彼らの正義には敵う筈も無い。
そう、理解してしまったのだ。
「うん……?」
雨に打たれて思案していると、途端に周囲が暗くなる。
「どうして……、暗いんだ?」
確かに曇天で暗かったが、この暗さはそれとは違う。
「まるで――、夜じゃないか……」
さらに異変は続く。
「ッ!?」
急に発生した巨大な威圧感に襲われる。
発生源はどうやら神社の母屋からだが……
「これは……、神霊ッ!?」
威圧感は神性を帯びていた。
人々に信仰され、敬われ、恐れられる事で、神霊の威厳はより大きくなる。
これが大きければ大きいほど、神霊の格――神性は高くなり、更なる信仰を得る。
彼女も、恐れられている点では神霊に近く、畏怖の対象である為に祟神の素質がある。
そんな彼女だからこそ、威圧感の正体に即座に気がついたのだ。
「しかし、異常すぎる……」
神社だから、神霊が気まぐれに出てくる事もあるだろうが、神霊はもっと希薄である。
発生している神性の質と量は尋常ではなかった。
多数の神霊が突然顕れたとしか言い様が無い。
霊夢が何かやらかしたのだろうか?
しかし、あの娘に限ってそんな面倒な事はしないだろう。
「じゃあ、何故……?」
まさか、あの――?
ここで思案するよりも、実際に見た方が早いねぇ……
『―――』
「……やめておこう」
急に気が変わった。
そんな意味の無い好奇心を満たすよりも、今はこの神性を浴び続けよう。
ここまで巨大で確かな神性に触れる機会なんて二度とないだろう。
実体でない幽体には馴染みやすいのか、霊気が充実してゆくのが判る。
「ふふ……、素晴しい」
気分が高揚し、思わず口元が緩む。
「これだけの力があれば……」
神性に触れるという幸運。
幸運が私に与えてくれたモノは希望だった。
希望は心に勇気を与え、勇気は意志を強靭にする。
そして、強靭な意志は、行動する力を体に与える。
――そうだ。
私は今こそ、私の正義を示すのだ。
「そうと決まれば……、準備が必要か……」
力が増加しただけでは不十分だ。
彼らの正義に拮抗し、打ち破るには力だけでは足りない。
明確な大儀、象徴が必要である。
「アレが見つかれば良いけど……」
どうやら私の幸運はその力を使い果たしては居なかったようだ。
「ハハハッ、なんだ、この地にあるじゃないか!」
高まった神性がその存在を知らせてくれたのだ。
在ると判れば後は動くのみ。
「さて……、私だけではいささか手が足りないか……」
雨足が遠のく中、鳥居の上でそう呟いた。
§ § §
あれだけ激しく降り注いでいた雨がだったが、今ではもう止んでいた。
暗い魔法の森の中、無数にできた水溜りを可能な限り避けながら少女――アリスは先を急いでいた。
「もう、これだから外は嫌なのよ……」
幾つめかの避けきれない水溜りを踏みつけ、バシャリと水を跳ねさせて文句を呟く。
アリスの向かう先は、同じ魔法使いで、同じ森に住む霧雨魔理沙の家だった。
こんな雨の中、顔見知りでソリの合わない犬猿の中である少女にわざわざ会いに行くのには理由があった。
「どうせまた気がついてないんでしょうけど……」
自分とは違い、アウトドアな魔法使いである魔理沙は異変に敏感ではあるが、その重要性をまったく判っていない。
いつぞやの月が欠けたときなんかは自分の魔道書を提供する事でやっと動いたのだ。
異変とは文字通り、普段とは異なる変化をもたらしているのだ。
ならば正しい姿に修正しなければならない。
あの巫女や魔理沙自身が異変に素早く気がつけるのなら、すぐさま行動を起すべきなのに。
「あぁもう!」
バシャリと水を跳ねてアリスは声を荒げる。
「なんで私が迎えに行かなきゃいけないのよ!」
たまには私を誘いに来てもいいのに……
そんな事を思いつつ先を急ぐと、森が急に開け、一軒の家が姿を現す。
霧雨魔法店。
魔理沙の家だ。
ノックをして魔理沙を呼び出す。
「魔理沙、居るんでしょ!」
暫くすると部屋の置くからゴソゴソと音がして扉が開かれる。
「あー、こんな時間に何のようだ? 呼んだ覚えは無いんだがな」
研究中だったのか、魔理沙は妙に不機嫌である。
「あんたねぇ、異変が起こってるのよ?」
「異変? どんな?」
カチン、ときた。
「ほら、空を見てみなさいよッ、これが異変じゃなくて何て言うのよ?」
私が空を指差すと、魔理沙が釣られて見上げる。
しかし、期待した返事は返ってこなかった。
「んん……、なんとも無いぜ?」
「……そんなッ」
思わず空を見上げて、思考が停止する。
――アレ、確かに異変だったと思うんだけど……
「……どんな異変だったかしら」
首をかしげる。
「おいおい、引きこもりすぎておかしくなったか?」
「そ、そんな筈ないでしょ!」
確かに何かあったと思ったんだけど……
う~ん……
まるで狐に摘まれたよな、胡散臭い嘘に騙されたような……
「まぁいいや、どうせ上がってくんだろ?」
お茶くらいだしてやるぜ、と魔理沙が招き入れてくれる。
「う、うん……」
その言葉に甘えさせてもらう。
魔法で濡れた髪やスカートを瞬時に乾かして玄関を上がろうとすると、背後で扉がノックされる。
「魔理沙、お客さんよ」
「うん? 今日は誰も呼んでないんだけどなぁ」
玄関に戻った魔理沙が扉を開けると、珍しい人物が立っていた。
「やぁ魔理沙。それに……、アリスも、久しぶりだねぇ」
そいつは本当に珍しい人物だった。
そして、私にとっては嫌な思い出しか無い人物。
私を負かしてメイドとして扱った相手に嫌味を篭めてそれに応える。
「えぇ、随分と久しぶりね」
魔理沙は師匠的存在の彼女に敬愛を込めて。
「お久しぶりだぜ、――魅魔様」
何がおかしいのか、名を呼ばれた魅魔はくぐもった笑いを漏らした。
「ふふ、二人とも元気だったかい?」
§ § §
あぁ、これは夢なんだ。
直感で理解できる。
でも折角の夢なら幸せな夢が良い。
こんな何も無い真っ暗な夢なんて気味が悪い。
足場の無い真っ暗な空間でぽつんと一人佇みながら、そんな事を思う。
クスクス。
誰かが笑う。
「誰?」
私が声の正体を望むと、薄暗い目の前に誰かが現れる。
その誰かはとても禍々しい気配を発していた。
暗闇の中、目を凝らしてよく見てみる。
鏡で毎朝見ている顔がそこにあった。
「――私?」
私の目の前に現れた私は、クスクスと笑う。
「何がそんなに可笑しいの?」
目の前の私はその問いには答えず、足も動かさず滑るように私に近寄る。
通常、人は自分の周囲に領域を持つ。
その領域内に踏み込まれれば、本能的に離れようとする。
本能が踏み込んだ存在を警戒しているからである。
しかし、今の私はどのようにすればこの空間で移動できるかが判らない。
後ずされないまま、鼻先がぶつかるほど接近される。
胸焼けのような嫌悪感が私を包み込む。
「――ッ」
もう一人の私の手が、私の胸に触れる。
「あっ」
触れた手がずぶり、と体の中へと埋没し、臓器ではない、もっと不確かな何かを掴む。
「――ぁッ」
『ねぇ、どうして――××××?』
その後に続いて紡がれた言葉は、私の心を大きく揺さぶる。
揺さぶられた心はどうしようもない不安を私に抱かせる。
「あ、ぁ……」
私の怯えを悟ったように、もう一人の私が優しく微笑む。
『大丈夫、私が――』
§ § §
朝には早すぎ、深夜と言うには遅い時間。
「う……、んゅ……」
眠い目を擦り、艶やかな黒髪の少女がゆっくりと体を起す。
少女はこの屋敷の姫である。
普段なら日が昇ってから従者に優しく声を掛けられ、優雅に目覚めるのだが……、この日は違った。
微かに聞えたうめき声で目が覚めてしまったのだ。
「くぅ……」
また聞えた。
この寝室には少女と共に暮らす永琳の二人だけである。
少女――輝夜はすぐ隣で眠る永琳に近寄り、顔を覗きこむ。
「凄い汗……」
額には汗が滲み、険しい表情をしていた。
「えーりん、……どうかしたの?」
「ぁ……、ぅ……ッ」
永琳の浮かべる苦悶の表情に、ただ事ではないと察知した輝夜はその体を揺する。
「永琳、永琳、ねぇ、大丈夫?」
揺さぶられた永琳はカッと目を見開いて、荒々しい呼吸を整える。
「――はぁ、はぁッ」
輝夜は恐る恐る永琳の顔を除きこむ。
「永琳、うなされてたけど……、大丈夫?」
「ぁ……、姫……」
半身を起して永琳は優しく微笑む。
「えぇ、大丈夫ですよ」
そう言う彼女の額にはまだ汗が浮かんでいた。
輝夜も、永琳も蓬莱の薬を服用した蓬莱人である。
その体は不老不死で、怪我如きでは痛がる事はあっても、苦しむことは無い。
そして、病気に掛かる事も無い。
なら、その蓬莱人が苦しむとすれば――精神的な事である。
「怖い夢でも見たの?」
その問いに永琳は素直に答える。
「……見たような気はするのですが……」
永琳は思い出せなかった。
しかし、輝夜はその事を特に気にしなかった。
「思い出せない事は、思い出さなくてもいい事なんじゃない?」
輝夜の言葉に、永琳は頷く。
「そう……、ですね」
「じゃあ、怖い夢にうなされる永琳の為に、私が一緒に寝てあげる」
輝夜はクスクスと笑いながら永琳の布団にもぐりこむ。
「ふふ、それは心強いです」
おどけて見せた輝夜に、永琳は微笑み返すのだった。
§ § §
灯されたランプの火が、風もないのに揺らめく。
紅魔館の地下にある、幻想郷最大の図書館。
そこは、書き記された膨大な知識が留まり眠る為の空間。
少なすぎる灯りと、時を刻む秒針の音が煩く思えるほどの静寂が支配する知識の墓場。
そこに百年の魔女は――寝ていた。
連日に及ぶ寝ずの研究と実験により、魔女――パチュリーの疲労はピークに達していた。
それも無理は無いだろう。
何せ某妖怪の賢者の扱う、理不尽な程便利な「境界操作」の解析がテーマなのだから。
いかに知識の魔女といえどその成果は芳しくなく、疲労だげが溜まる一方だった。
しかし、それでも研究はやめられない。
それは親友であるレミリアの「月旅行」の願いを叶える為。
外の世界の大魔術は失敗してしまったけれど、月に攻め入ったと噂されるあの妖怪の能力なら、きっと……
そう、静に意気込んでいたが、今は魔導書を枕にしていた。
しかし、眠る少女の顔色は、異常なほど白かった。
普段から日の光を浴びない為に白い肌であるが、今はまるで病気の様に青白くなっていた。
疲労だけでは説明できない顔色だった。
今にも脈を止めそうな程である。
その生気を感じられない体が急に強張り、苦悶の表情を浮かべる。
突如目を見開いたかと思うと跳ねるように顔を上げる。
「――ッ、ハァ、ハァッ」
一体、なんだったの……?
パチュリーは自問する。
悪夢の一つや二つは見るが、あそこまで嫌悪感のある夢は初めてだった。
それでいて……記憶には残って、いない……?
「はぁ……っ」
嫌悪感と息苦しさだけが残っているのだ。
「……根をつめすぎたのかしら」
きっとそうに違いない。
あぁ、頭痛まで……
「そういえばまともに寝たのは何日前だったかしら……」
パチュリーは痛む頭を抑えながら、何日かぶりにベッドへ向かうのだった。
§ § §
冥界にある、白玉楼の朝は早い。
なにせ主人である西行寺幽々子が早起きなのだから。
従者である妖夢は主人よりもさらに早く起床する。
「んーッ、ふぅ……」
清々しい朝、冷たい水で顔を洗って眠気を払拭する。
「さて……」
立て掛けて置いた楼観剣を握ると、鞘から抜いて上段に構える。
少女の体躯には長すぎる刀身ではあったが、それを軽々と構えたまま、微動だにしない。
精神を集中し、少女は刀を振り下ろす。
少女の細い腕では、止める事すら侭ならず、刀身の重量でバランスを崩しそうだが――
ヒュン、と風を切る音がして、長すぎる刀身は見事に正眼で停止する。
「おかしい……」
一振りで、自身の状態がいつも通りでないことを察知する。
やっぱり、今朝見た夢が原因なのかしら?
もう一人の自分に迫られるという奇怪な夢。
「吉凶を察知するという、夢見の類かしら?」
剣術の腕を磨く妖夢は、あいにく妖術に関してはあまり詳しくは無い。
主人である幽々子ならば詳しいだろうが、今のままでは相談できないでいた。
相談したくとも、夢の内容をこれ以上は思い出せないのだ。
「むぅ……、……よしッ」
解らない事は解らない。
思い出せないなら思い出さなくて良い。
単純明快な答えを出し、頭を切り替える。
刀を鞘に納めると、屋敷から主人の声がした。
「ようむ~、ごはんよー」
「はい、幽々子様」
私は返事をして屋敷へ戻る。
普通、主人と従者が同じ卓で食事を摂る事は異常である。
主人と従者の差別化は立場上お互いに必要な事である。
しかし、白玉楼の主人である幽々子はそういった認識が甘いのか、妖夢を食事に誘う事が多かった。
食卓に着くと、珍しいことに箸に手をつける前に幽々子が口を開く。
「ご飯の後は庭掃除だったわよね?」
「はい、それが何か……?」
「妖夢、お庭の掃除が終わったら次の宴会の事を聞いてきてちょうだい」
「宴会の事、ですか」
「えぇ、宴会の事」
§ § §
幻想郷のどこかにあると言われるその屋敷。
主人である八雲紫と、その式と、式の式が住んでいる。
紫の式であり、大妖怪でもある九尾の狐の藍は、自らの式である橙と至福に満ちた朝食を摂っていた。
ちなみに、八雲紫は夜に出かけたきり帰ってきていない。
主従の関係ならば、勝手に朝食を摂るなどキツイお叱りがある所だが、式神は道具扱いである。
主人の指示に忠実に従って仕事をこなしていれば、案外自由だったりする。
二人で焼き魚をメインにした朝食を摂っていると
「――って、どこにあるかわかります?」
可愛い可愛い式である橙が興味深そうにそんな事を聞いてきた。
橙はまだ式としても妖怪としても幼く未熟である。
でも、橙はいいこだ。
今回の様に判らない事があればちゃんと私に聞いてくれる。
主である私がしっかり教育して、立派な式にしてあげないとッ
「ん~、判るけれど、どうしてだい?」
紫様の変わりに幻想郷を駆けずり回って働いているので、大抵の事は知っていたりする。
「えっとね藍さま、夢で見たんですけど、それが気になっちゃって」
ふむ、夢見……か?
「夢の中でソレを見て来いといわれたのかい?」
「う……、良く判らないです……」
もしかして橙にその素質が開花しつつあるのかもしれないな。
吉凶の判断は後から教えればいいか。
「そうか、なら後で教えてあげるから見に行くといい」
それに、アレは危険なものでもないし、断りを入れておけば大丈夫だろう。
「わぁッ、藍さまありがとうッ」
橙が嬉しそうに微笑んでくれる。
あぁ、今日はなんていい朝なんだろう……
至福に浸っていると、ちゃぶ台の上座の空間が音も無く裂ける。
瞬間、藍の至福の時間は終焉を向かえる。
九尾の狐をも式として使役する主人が帰還したのだ。
隙間妖怪である彼女は、どんな場所にもどんな時間にも現れ、消え去る事ができる。
玄関を潜るなんて事はまずありえない。
「ふぁぁ……、らん~、ただいまー」
「お帰りなさいませ、紫様」
「お帰りなさい、紫さま」
あくびと共に、裂けた空間から現れたのは、どこか胡散臭い少女。
紫は気だるそうにちゃぶ台に着く。
つまり、朝食にすると言う意味。
「少々お待ち下さい」
それを察した藍は言われるまでも無く台所へと向かう。
「ん~」
眠そうな返事が返ってくる。
はぁ、橙に教えるのはもう少し遅くなりそうね……
§ § §
永遠亭のとある一室。
「――うわぁッ」
鈴仙は布団を跳ね飛ばして飛び起きた。
「はぁ、はぁ……、夢?」
寝汗で張り付いた前髪を手で掻きあげて、鈴仙はそう呟く。
なんとも気味の悪い夢を見た。
体に手を突っ込まれて……、それから……
「えぇっと……、どんな夢だったかしら?」
まぁ、思い出せないのなら無理に悩む必要は無いわね。
「そういえば時間……、げぇ!?」
思わず策に嵌められた様な声が出る。
もうこんな時間!?
普段ならもう朝食を済ませている時間じゃない。
「は、早く着替えなきゃ師匠に叱られる!」
毎朝、毎夕と一日に二度薬の行商に行くのが鈴仙の仕事の一つである。
これは、彼女の師である八意永琳から与えられた仕事である為、完遂できなければ当然御仕置きが待っている。
「兎に角急がなきゃ」
乱れた布団を直す事も忘れ、鈴仙はパジャマに手を掛ける。
上下を一気に脱ぎ捨てて、いつものブラウスを羽織る。
タイは……、後回しでいいや。
とりあえず後はスカートさえ履けば……、ギリギリで間に合う!
しかし、頭でそう思っていても、体は追いついてくれない。
焦れば焦るほど、ブラウスのボタンが閉めれなくなる。
って掛け違えてる!?
「あぁ、そんなぁ!」
§ § §
朝食を終えた鈴仙は自室でがっくりと項垂れていた。
なにせ朝食として出されたのは人参一本。
控えめに抗議してみれば、師匠には笑顔で切り返される。
「ゆっくり寝られて良かったわね」
ま、まぁ、ペナルティが朝食抜きってのはまだマシな方ね……
躓いて薬品をぶちまけた時は胡蝶丸ナイトメアの試飲だったし……
あの時の事は、思い出すだけで身震いする。
「……はぁ」
と、とりあえず師匠のお手伝いに行かなきゃ……
部屋を出て師匠の元に向かうと、意外な事を言われる。
「あぁ、今日は他の事を頼みたいの」
「他の事、ですか?」
「えぇ、はいコレ」
そう言って渡されたのは、薬箱。
「あれ? 薬の行商は明日の筈じゃあ……」
「違うわよ。置き薬の配達よ」
なるほど、お使いって訳ね。
薬箱を受け取る。
「判りました。 で、どこにですか?」
「博麗神社よ」
博麗、神社。
「――ッ」
その名前を耳にしたとたん、言いようの無い不快感が私を襲う。
「……どうかしたの?」
「い、いえ……、配達に行ってきます……」
何なの……、この、感じ……?
重い足枷でも付けられたような足取りで、鈴仙は永遠亭を出る。
永遠亭を出ればそこは空を覆い隠すほど生い茂る竹林が広がる。
成長の早い竹林では目印になるものは無く、空を飛べば迷う事は必至である。
面倒でも徒歩で竹林を出るしかない。
「ふぅ……」
竹林を歩いている間も先ほどの不快感は消えなかった。
不快感が続くお陰で、気分も沈んでくる。
「は、早く終わらせて、師匠に相談しよう……」
しかし、竹林を出る頃には不快感は明確なモノへと変化していた。
「――ッ」
胃がキリキリと痛み、焦燥感が沸き起こる。
言いようの無い不安感と脅迫感。
無性に何かをしなければならないという衝動に駆られる。
「うぅ、なにこれ……」
人間の里で薬でも……、そう思ったとたんズキリした胃の痛みと共に、脳裏にアノ言葉が響き渡る。
『ねぇ、どうして――仲間を見捨てたの?』
「――ッ!」
心臓を鷲掴みにされたようなショックを受ける。
途端に、脳裏に仲間達の顔が鮮明に浮かび、鈴仙の赤い瞳からは大粒の涙が零れ落ちる。
「あ……ッ、ぁ、あぁ……」
私は涙で濡れた顔を両手で覆う。
わ、私は、私は……、仲間達を……
故郷を……、捨てて――
今更、自分のした許されざる大罪を再認する。
裏切りと逃避。そして忘却。
それは、閻魔様に説教をされた事でもあった。
「うぁ……、アァァッ」
どうして、どうして私はあの時逃げ出して――ッ
自責の念に駆られ、鈴仙の心はは後悔に押し潰されそうになる。
しかし、夢で紡がれたもう一つの言葉が、鈴仙の心を救う。
『大丈夫、私が――、助かる方法を教えてあげる』
ぁ……、そうだ……
私は助かる方法を、知っている……
今の私に出来る事がある……
散っていった仲間達に、報いる方法。
「――仇を、討たなきゃ……」
逃げ出して、忘れて、平穏に過してきた私には、もう、それしか……
「そうだ、仇を討つんだ……」
覆っていた両手を下ろし、ゆっくりと顔をあげる。
その目からはもう涙は流れていない。
そこにあるのは、決意の表情。
目的は、復讐。
「でも、里の人間は……、違う」
彼らは幻想に生きる人間達である。
ならば、誰が――
「あ……、居るじゃない……」
幻想郷で無い場所に住むアイツが……
アイツこそ……
薬箱を乱暴に捨てると、鈴仙は地を蹴り空に舞い上がる。
目指す先は、東の果て。
§ § §
「あの娘、大丈夫かしら……」
鈴仙が出て行った後、永琳は一人呟く。
寝坊のペナルティを与えた張本人でありながら、それでも一応気に掛けていた。
朝食抜きで使いに行かせて途中で倒れられては困ってしまう。
「やっぱり、新薬の実験の方に戻そうかしら?」
鈴仙本人が聞いたら文字通り、脱兎の如く逃げ出しただろう。
また今度ミスを犯したら考える事にし、永琳は手帳を開く。
「えっと今日は……」
置き薬は弟子に任せた。
往診予定は入ってない。
新薬研究も急ぐ必要は無い。
「何も無いわね」
ぱたりと手帳を閉じると、主人である輝夜の予定を思い出す。
「うん、そろそろね」
席を立ち、手早く外出の準備を済ませて部屋を出る。
すると、廊下で兎を連れたてゐにばったりと出くわした。
「あれ、お出かけですか?」
「えぇ、ちょっと竹林にね」
「竹林って、今日は確か姫さまが……」
「ふふ、だからよ」
「ふぅん……?」
てゐの頭を撫でて別れると、永琳は永遠亭を後にした。
§ § §
鈴仙の向かった先――幻想郷の東の果て――には神社が佇む。
厳密に言えば、神社は幻想郷と外界の狭間、境界の上にある。
竹林を飛び立ち、人里の上空を飛び越え、獣道を疾駆し、鈴仙は神社へと至っていた。
仲間の、仇……ッ
逸る気持ちを抑えて標的を探す。
「見つけたッ」
大鳥居の上に降り立ち、周囲を見わたすと、その標的は簡単に見つかった。
幻想郷唯一の巫女さん――博麗霊夢。
巫女である彼女が神社に居るのは道理であり、
彼女こそ、唯一幻想郷でない場所に居る人間であった。
「あら、珍しいわね?」
霊夢が暢気に声を掛けてくる。
そんな様子に、フツフツと怒りが沸いてくる。
こんな奴等に、私の仲間達が……ッ
ぎゅっと拳を握り締める。
「……何怖い顔してるのよ?」
「なんて暢気な奴ッ」
その一言に鈴仙は激高する。
握り締めた拳から人差し指を伸ばし、腰に構えると同時に妖気の銃弾をお見舞いする。
暢気で惚けた普通の巫女ならば、この早撃ちを避けることすらできない。
が、霊夢は普通ではなかった。
「うわッ」
激高した瞬間に、霊夢はその場から飛び退って撃たれる前に回避したのだ。
「くッ、勘の鋭い奴……」
放たれた銃弾は霊夢の持っていた竹箒の柄を打ち抜き、使用不能にしただけだった。
「ちょっと、なにするのよ!」
巫女の抗議に構う義理なんてない。
このまま畳み掛けるッ
間髪入れず、飛び退いた霊夢を指差し、直径一メートル程の魔法陣を指先に展開する。
「くらえッ」
霊夢に向けた魔法陣から無数の銃弾が豪雨の如く放たれ、文字通り弾幕を展開する。
「うわわッ」
霊夢は悲鳴をあげながらも地を蹴り大きく飛んで銃弾の雨を避けると、そのまま空中に浮遊する。
「空への回避は予測済み……ッ」
飛び上がった霊夢に向けて左手で指差し魔法陣を展開すると、再び銃弾の豪雨を浴びせる。
「ったく、そっちがその気なら……ッ」
霊夢は二度目の弾幕もひらりと避けながら、四枚の御札を放り投げる。
この御札は博麗の護符であるが、威力は大した事は無い。
この護符の真価は、相手を自動で追尾する能力があるという事。
神話の武器にも数多く登場する追尾能力は、単純であるが故に強力だ。
霊夢の放った護符はクルクルと回転しながら、鳥居から飛びのいた私を追尾し、迫る。
幸いにして、この護符の追尾性能は神話に謳われる武器程の必中性能は持ち合わせていない。
対象に向かう道中は追尾するが、対象を通り過ぎてしまえばその追尾性能は消滅してしまう。
そこが狙い目である。
「これもおまけよ!」
霊気で編まれた退魔の針が回避先に向けて連射される。
護符とは違い、威力に優れるこの銀の針は直撃すれば並みの妖怪の戦闘能力を奪うには十分な代物だ。
護符で追い込み、針で仕留める。
単純であるが故に堅実なこの手段に対し、私は自らの能力を行使する。
対象は自分自身。
鈴仙――月の兎――の赤い瞳が仄かに輝く。
「――位相は、ずれる」
対象の位相をずらす事で干渉できなくなる。
周囲の空間が突然ぶれた様に見える。
すると、間近に迫っていた護符は全て、私の体をすり抜ける。
その直後、追撃に放たれた無数の針も同様にすり抜けてゆく。
「あぁッ」
霊夢が呆気に取られている隙に距離をあけて能力を解除し、位相を戻す。
ぶれて見えていた空間が元に戻る。
「ふん、あんなたの攻撃は当たらないわよ!」
「そういえばあんたの能力は波を操作して狂わせる……、だったわね」
「判っていても、あなたじゃ対処できないでしょ?」
「さぁ、どうかしらね?」
霊夢の掌で陰陽玉が回転を始める。
「強がらない方がいいわよ?」
三度、霊夢を指差し銃弾の豪雨を放つ。
「あんたの弾幕は正直すぎるのよ」
直線しか描かない銃弾は射線からずれれば当然当たらない。
そんな皮肉を言いつつ、霊夢は最小の動きで弾幕を避ける。
……避けたなッ
私はココに来て、この弾幕の真価を発揮させる。
――散符「朧月花栞(ロケット・イン・ミスト)」
赤い目を光らせ、銃弾一発一発の位相を個別にずらし、
射線を直進していた銃弾が不規則に広げた所で位相を元に戻す。
放たれた弾幕の密度と範囲を変化させるこの工程こそが、散符「朧月花栞」の真価である。
そしてその効果範囲は、霊夢の取った回避運動をカバーするのに十分。
「工夫は良いけど、まだまだね」
しかし、この奇策すら霊夢には通用しない。
弾幕にかすりながら密度の薄い部分を直感で探し出し、縫うようにして回避してゆく。
「まだだッ!」
瞳の力がある限り私には被弾しない優位はあるが、霊夢に主導権を握られる訳にははいけない。
こちらには勝算が二つあるんだ。
攻め続けている限り勝機は、ある。
散符を右手で維持しながら、左手でパチリと指を弾く。
すると、二人の左右後方の四箇所の空間に魔法陣が現れる。
――懶符「生神停止(アイドリングウェーブ)」
四方に配置された妖気塊から、大量の銃弾が放射状に撃ち出される。
この全方位弾幕も瞳の力でズレを生じさせ、霊夢の可動範囲をさらに制限する。
今度こそ、今度こそ霊夢と言えども避けきれないだろう。
お得意の結界で防ぐのなら、その瞬間に結界の位相をずらすだけで霊夢は詰む。
これが私の勝算である。
しかし、霊夢は銃弾の嵐の中飛び続ける。
結界で防ぐ必要なんて無いといわんばかりに避ける。避けて、避けて、避け続ける。
四方八方からの銃弾にかすり、衣服を裂かれながらも霊夢は紙一重で迫り来る銃弾を避けきっている。
「――な、なんて奴……」
ほんの一瞬、僅かにできた安全地帯に身を滑り込ませ、止まる事無く次の空間へ。
その動き、判断の早さはきっと思考ではない。
神掛り的な直感。
その狂気じみたその回避行動に畏怖さえ覚えてしまう。
「で、でも、これで終わり……」
両手でしっかりと霊夢に狙いを定め、指先に妖気を集中させる。
妖気を練り上げいくつもの狂気の波を圧縮した魔弾――メタフィジカルマインド
この特別な弾丸こそ、私の二つ目の勝算である。
直撃しなくとも、爆発し、周囲を巻き込むタイプである。
紙一重で避けるしかない状況に追い込んだ今、霊夢に対し絶対の切り札になる。
銃弾を避け、一瞬の安置に入った霊夢と視線が重なる。
「――ッ!」
見られたッ
でも、もう遅い!
その一瞬の後、銃弾が次々に霊夢へと襲い掛かり、動きを制限する。
――今ッ
「ぁぁあああッ」
私の指先から撃ち放たれた魔弾は伸縮を繰り返しながら、霊夢に吸い込まれるように――
霊夢が紙一重で避けようとした次の瞬間、魔弾は盛大に爆発。
真っ赤な狂気領域を広範囲に展開する。
あの領域に触れるのは、満月光線を直視するようなもの。
肉体の機能はもちろん、精神すらも高濃度の狂気によってズタズタに狂わされる。
展開された狂気を見て、緊張しきっていた私の体が弛緩する。
「か……、勝った……」
展開された狂気領域を眺めて私の目には歓喜の涙が溢れ、零れる。
「やった、やった……、こ、これで、仲間達の仇が……、私の贖罪……」
「ふぅん、そんな理由で私を襲ったのね……」
「……え?」
聞き覚えのある声が背後から聞える。
私は逃げる事を忘れていた。
姿を消す事も、位相をずらす事も、すっかり忘れ、
反射的に、その存在を確認しようと振り向いてしまった。
視界の端に、紅色と白色が映る。
そんな馬鹿な……
その瞬間まで、しっかりと巫女の姿は確認していた。
避けられない距離で爆発し、避けられない範囲に効果を及ぼすというのに……
私の背後に存在しえないその人物を確認するまで、私の動きは止まらない。
体を声の方に向けつつ、視界の中にしっかりとその存在を確認する。
私は此処に至って漸く理解する。
彼女は単純に、私の背後に移動したのだ。
しかし、瞬間移動ならば、消える瞬間が必ず存在する。
その一瞬を見逃す私ではない。
つまり、消える瞬間すら無い――零時間移動。
爆発と同時に、私の背後に移動し終えれば私は錯覚を起すし、霊夢には何の影響も与えない。
気がつけば霊夢の腕は私の腹部に伸びており、その手元は霊気の光球が渦巻いている。
「しま――ッ!?」
何もかもが遅かった。
理解も、能力行使も、何もかも。
手元で渦巻いていた光球が爆発的に巨大化する。
――宝符「陰陽宝玉」
莫大な霊気の渦に飲み込まれ、私の意識はそこでぷっつりと途切れた。
§ § §
地面に落下し、動かなくなったのを確認して、霊夢は漸く安堵の溜息を吐く。
「ふぅ」
横たわる鈴仙の傍らに降り立つと、気絶している事を確認する。
「まったく、罪は閻魔様の説教を受けなきゃ消えないって聞いてないのかしら……」
それにしても……
霊夢はそっと鈴仙の顔を除き込む。
「……気のせいだったのかしら?」
現れた時の鈴仙の険しい表情。
その瞳に良くないモノを見た気がしたけれど……
「まぁいいや……」
そう言いながら、鈴仙を担ぎ起す。
すると、母屋の方からひょっこりと顔を出す人物が。
「……なにかあったの?」
眠そうな顔をしたルーミアだった。
彼女は昨夜雨の中遊びに来てそのまま泊まっていったのだ。
その泊まっている間に一騒動あったりしたけど、終わった事だからいいか。
宵闇の妖怪であるルーミアは日光が苦手だったりする。
その為朝食を済ませた後、二度寝してた筈だけど……
「あら、起しちゃったかしら?」
こっくりと頷くと、担いだ鈴仙をじっと見つめる。
「食べ物じゃないからね」
「兎にk……」
間に流れる僅かな沈黙。
「うぅ、早いよ……」
「あんたが何を考えてるかなんて大方予想がつくわよ」
からかいながら、鈴仙を担いで母屋へ向かい、鈴仙を降ろす。
「よっと……、この娘の看病お願い」
「うん、……霊夢?」
鈴仙をルーミアに任せて、私は境内の方に駆け出す。
鳥居の方角から異常なまでの殺気が放たれている。
今にも爆発しそうな張り詰めた空気。
「境内で暴れてなければいいんだけど……」
境内に向かうと、既に彼女は居た。
「ハァ……ッ、ハ、ぁ……」
抜き身の刀をぶら下げて、呼吸を荒げて私を見据える。
「あら、幽々子のお使い……、って訳じゃなさそうね」
冥界は白玉楼の庭師兼剣術指南役、魂魄妖夢。
傍らには彼女の半身である大きな幽霊が狂ったように飛び回っている。
よく見れば、少女の体も小刻みに震えていた。
そいて、妖夢の瞳にまたしても、良くないモノ……
「まったく、鈴仙といいあんたといい、一体何の恨みがあって……」
私の問いに、妖夢は口を開く。
が、その語りは問いに答える風ではなく、独り言の様な呟きだった。
「わた、わたし、は……ッ、もう、な、泣かせない……」
泣かせない?
幽々子の事……、では無さそうね。
一体どういう……
「か、かたな……、は……ヒトを、斬る為の……もの……」
あぁ、つまりそういう事……
武器――道具には本来目的がある。
槍弓は狩猟の為の道具である。
鳥獣の爪牙よりも遠い間合いから、自身が傷つく事無く、攻撃する為の道具。
同じ刃物でも、短刀は切り削る為の道具であるのに対し、刀剣は人を殺傷する為に生まれた『武器』である。
それなのに、自分は人を斬ってないから、折角の刀が可哀相である。
という事かしら?
……冗談じゃないわ!
体の震えがピタリと止まり、妖夢は手にした刀を握り締める。
「か、カタナ、泣かせ、ないッ!」
「そんなふざけた理由でッ」
妖夢は姿勢を低く取ると、猛然と駆け出し、間合いを詰める。
「くッ」
咄嗟に退魔針を連射し、妖夢の突進を牽制する。
しかし、妖夢もその程度の事は想定済みである。
優れた瞬発力を生かして地を蹴り、針の射線から身をずらす。
針をやり過ごした妖夢は瞬く間に一足一刀の間合いに詰め寄る。
「シィィイッ」
奇怪な雄たけびと共に放たれる大振りの横薙ぎ。
しかし、霊夢は妖夢の頭上を飛び越えて事無きを得る。
構えられた刀の位置により、見てからでは避けられないその斬撃を振るわれる前に避けたのだ。
「直線しか描けない針じゃ止められないか……」
何よりも厄介なのは、あの瞬発力。
こちらの射撃が避けられれば、先程の様に一瞬にして一足一刀の間合いにまで接近を許す事になる。
「……やっかいね」
滞空したまま距離を離し、護符を投げつける。
振り向く妖夢が体勢でも崩してくれれば……
そう思って試みたが、彼女の半身である大きな幽霊が上手くカバーに入る。
迫り来る護符を弾幕で撃ち落し、妖夢本体が再度地を蹴る。
「ォオ――ッ」
今度は突進の援護に半霊が弾幕を展開する。
「ちぃッ」
思わず舌打ちしてしまう。
唯単に人斬りに狂ってるだけじゃないみたいね……
本当に、刀に血を吸わせる為に狂ってるのなら、援護射撃なんか指示しない。
というより、予め避けそうな方向に向けて弾幕を敷くなんて考え付かない筈。
それでも、まだまだ霊夢に焦りは無い。
肩口に構えたまま突っ込んでくる妖夢に陰陽玉を投げつける。
手の中でビー玉程度だった幾つかの玉が、投げ放たれた瞬間、巨大化して妖夢の進路を遮る。
これを回避するなら、大きく動くしかなく、私は更に距離を空けられる。
もしこれを防ぐなら……
「――ァアッ」
目前の人間を遮られた妖夢は怒気を込めて、楼観剣を一閃させる。
たった一振りで視界を覆い、小さな妖夢を押しつぶす筈だった陰陽玉の群れがズタズタに引き裂かれ、霧散する。
――防ぐなら、私の勝ち。
陰陽玉が切り裂かれたと同時に、私は霊気を編んで刃と成す。
退魔の針よりも、更に攻撃に特化した調伏の刃――エクスターミネーション
退けるだけでなく、屈服させる力を持つ赤い刃。
この一撃ならば、半霊の弾幕をたやすく打ち破り、妖夢を戦闘不能に追い込むことが出来る。
形成された調伏の赤き刃が、刀を振り切った妖夢に向けて放たれる。
「グ――ッ」
動作後の硬直を狙われた事に妖夢は驚愕したが、腰に挿した白楼剣を咄嗟に引き抜き、迫る刃を斬り弾く。
「あー、そうだった、二本あったんだ……」
そんな妖夢もどうにか防いだという程度で、即座に反撃には移れないようだ。
それでも、まるで憎悪の対象の様に私を睨み付ける。
半身の弾幕を掻い潜って私は空中へと逃れる。
「まったく、やっかいな娘ね……」
眼下では、妖夢が二刀を構えなおしている。
本来の二刀流に戻った妖夢は攻防を同時に行える。
先ほどの様な不意打ちは、もう通用しないだろう。
「ァアッ」
妖夢自身もそれが判っているのか、真っ直ぐ私に向かってくる。
「あぁ、もうッ」
退魔の針をばら撒くも、牽制にすらならない。
それでも、間合いにさえ入らなければ十分対処できる。
逆に妖夢は間合いにさえ入れば私を斬れると……
「つまり……」
妖夢が針を斬り払っている隙に、半霊の弾幕を縫うように避けて地上に降りる。
妖夢は愚直なまでに、私を真っ直ぐに追いかけてくる。
迎撃に放った調伏の刃を、妖夢は軽々といなし、一足一刀の間合いに、ついに踏み込む。
「シィイイイッ」
大上段と真横に二刀を構えたまま、妖夢が踊りかかる。
「――踏み込んだわねッ」
周囲に正方形の結界が重なり合うように二つ、瞬く間に展開される。
愚直なまでに踏み込んでくるのならば、撃たなくても、置いておけば良い。
二刀で斬るなら、二重に張り巡らせば良い。
向こうは同時に処理できるのは左右両手の二つまで。
ならばこちらは、左右の手が塞がるのを待てば良い。
私は用意しておいた御札に記された回路を即座に起動し、籠められた術式を解放する。
――夢符「二重結界」
重なり合う二つの結界が展開される。
「さぁッ、結界を斬ってみなさ……」
しかし、今の妖夢は、私が考えるよりも愚直であり、単純だった。
上段と真横に構えた筈の刀が、振り下ろされる過程で一本の刀に融合しているではないか。
莫大な幽気が渦巻く長大な刀による斬撃。
――断迷剣「迷津慈航斬」
それは刀と言うには大きすぎた。
その様はまるで城門を叩き割る為の攻城兵器である。
妖夢は結界ごと、ただの一刀で私を斬るつもりだった。
「って、うわぁッ」
呆気に取られた私は結界が紙切れの様に斬られるのを見て、大慌てで零時間移動で空中に逃れる。
しかし、大斬撃をやり過ごした直後。
零時間移動で移動したというのに、通常ならば判る筈の無い出現位置に白銀に煌く刃が飛来する。
剣術でも武道でも、達人は気配を読めるようになるという。
周囲の気配を敏感に感じ取り、把握する事で死角を無くす。
これこそ、八方眼という特技だった。
迫り来る白刃に、私は思わず息を呑む。
「ッ!?」
視認に比べて正確さに欠けたのか、袖を切り裂かれただけで済んだのは幸いだった。
しかし、喜ぶ暇は無い。
霊夢がバランスを崩している間に、空中の半霊が疾駆し、地上の妖夢は楼観剣を掲げ、幽気を迸らせる。
――魂魄「幽明求聞持聡明の法」
体勢を立て直した頃には、疾駆していた半霊が人化し、投擲された白楼剣を掴み、楼観剣を構えた妖夢が猛禽の如き素早さで間合いを詰めてくる。
先ほどの投擲は、これが目的――ッ!?
「ァァアア――ッ」
「―――ッ」
二人の妖夢は愛刀の渇きを満たす為、修羅の如く霊夢に迫る。
前後に挟まれ、霊夢は絶体絶命である。
が、霊夢は一筋の光明を見出していた。
「刀を分けたのは――、失敗だったわねッ」
霊夢の周囲に巨大な八卦図が浮かび上がる。
妖夢はさせまいと神速の踏み込みを持って凶刃を振るう。
その刹那、莫大な量の霊気が光となって八卦図から放たれる。
――神技「八方鬼縛陣」
妖夢は光の奔流に飲み込まれ、振るわれた凶刃は霊夢に届く事は無かった。
「まったく、刀に振り回されるなんて……、何の為の剣術よ……」
眩く光る八卦図の中央で、霊夢は金属の落ちる音を二つ、耳にした。