#この作品は、お絵かき掲示板2731、SEVEN OUT氏の作品を元にして書かせて頂いた物です。
#独自解釈による描写が多分に含まれておりますので、ご注意下さい。
◆◇◆
いつからかその屋敷には、風が吹き込むようになっていた。
命の香りをまるで感じさせない、乾いた風が。
西行寺屋敷は、蜃気楼のように、その輪郭をぼうと浮き上がらせている。
人里から離れた、小高い丘の上に立っている屋敷だ。いつから人の気配が消えたのか、知る者はいない。
屋敷に近付くことすら畏れる民達には、まだそこが栄華を保っているものと思っている者も多い。
いずれにせよ西行寺家は、人々にとっては、茫漠たる羨望の的であった。今も変わりなく。
それが故に、その実情は、誰も知るまい。
そこに留まる、たった一人の少女のことも――
誰も、知るまい。
◆◇◆
夏の、ある暑い昼。
西行寺家門前に、一人の少年が立っている。まだ元服も済ませていないであろう小さな体躯を、熱気を孕んだ
風が撫でる。
少年の禿(かむろ)頭が、陽光を受け銀に輝く。そして、彼の傍に浮いている大きな霊魂は、吹く風にその尾
をなびかせた。
少年は、人であり霊であった。名を魂魄妖忌という。
妖忌は、剣で名を上げようと思っていた。京で鳴らした武蔵坊と、それを倒した義経のように。
とは言えどうしたものかと腕を持て余していたところ、里で西行寺の噂を聞いたのだ。なんでも、かつて武勇
を誇った士を祖に持つ武家のお屋敷なのだそうだ。
武家と懇意になれば、出世の足がかりになると思ったのだ。或いは、お偉いの剣術指南もやらせて貰えるかも
知れない、と。そう思うと、妖忌はいてもたってもいられなくなり、すぐ件の屋敷へ足を運んだのだった。
巨大な門を前にして、妖忌は今後の身の振りについて算段を巡らす。
最初はせいぜい小間使い程度に甘んじる。それから機会を伺い、己の業前の程を見せつけ、そして――
面倒くさくなった。
頭を振る。元々考えるのは得意でないのだ。何であれ、まずはこの屋敷に取り入らなければ話にならない。細
かいことは後に回すとする。
妖忌は腹を決め、息を大きく吸った。
「頼もうッ!」
張り上げた声が門を突き、屋敷まで轟く。
こだまする我が声を聞きながら、妖忌は屋敷に対して妙な違和感を覚え、僅かに首を傾けた。妖忌の半分の霊
体もどこかおかしいと思っているようで、尾を変な具合にゆらめかせていた。
門が、開かない。
半人と半霊とで顔を見合わせる。それから待ち続けても、門は開かず、その向こうから人が寄る気配さえ感じ
られなかった。
「頼もーうッ!!」
念のためもう一度、妖忌は大声で呼びかけた。声がわんわん響いていき、しかし、やはり返事はない。
そもそも声が響きすぎていた。人がいれば、先程の自分の声もある程度人体に吸い込まれ掻き消えてしまうだ
ろう。しかし、さっきの声も今のそれも、誰にも邪魔されることなく屋敷中を跳ね回り、こだまとなって妖忌の
耳にも帰って来たのだ。
妖忌はいよいよこの屋敷の異常を疑いだした。或いは、と思い、門に手をかけ、軽く押してみる。
門は重々しい手応えだけを妖忌に与え、予想以上にあっさりと開いた。
「……入るぞ?」
誰に断るでもなく、勝手に出た言葉だが、半霊がこくりと頷いた。
正面から屋敷に入り込む妖忌。見咎める者もおらず、床を踏みしめる音だけがいやに響いた。
「お頼み申す! 誰かおら、おられぬか!」
あらかじめ勉強しておいた言葉遣いで、たどたどしくも呼びかける。やはり、返事は無い。
歩きながら、妖忌は辺りに視覚と聴覚を巡らし、半霊はその第六感を研ぎ澄ませる。これでも集中力には覚
えがあるし、幽霊の霊感は、当然だが、かなり鋭い。
床を這う一匹の蟻だろうと、察知する自信はあった。
が、掠りもしない。目には何も映らないし、耳は何の音も捉えないし、霊感はぴくりとも反応しなかった。
「いないのかー!」
せっかく練習したのも忘れ、言葉がだんだんぞんざいになってくる。
無理もあるまい。妖忌は焦っていた。状況から考えて出る結論は一つだが、そう考えたくはなかった。
返事は無い。声だけが空しく、廊の奥へと跳ねてゆく。
「ぅおらァー!!」
だんだん腹が立ってきた。
鞘に収めたままの刀をぶんぶん振り回しながら、勇ましく廊を闊歩する妖忌。まるで今から悪鬼羅刹の類を退
治しに行く勇士の体(てい)である。
半霊がお前何やってる控えろとばかりに尻尾で背中をばしばし叩く。が、構うものか、どうせ誰も見ていやし
ないのだ。むしろ見て欲しいぐらいである。
そうして、広い屋敷の廊を一通り歩いた。気がつけば一周しており、そこは最初に自分が踏み込んだ、廊の三
叉路だった。ここを左に曲がれば、出口となる。
ぜえはあと息を切らせ、妖忌は汗を拭った。結局は汗をかいただけで終わったわけだ。妖忌はついに、頭の中
でとっておいた結論を引っ張り出した。
この屋敷には、誰も、いない。
晴れた昼下がり、陽光を存分に取り入れる造りでありながら、屋敷は恐ろしいほどに虚ろだった。
改めて中庭に目を遣ると、雑草や庭木の葉が生え放題になっていた。蝉の鳴き声がどこか遠くから聞こえるが、
ここからではない。屋敷は至って静かに、たった一人の来訪者を包み込んでいる。
「……ちッ」
周囲に感覚を巡らすのを止め、舌打ちを一つ。
「何だってんだ、一体!」
妖忌は独り吐き捨て、足取りも荒々しく、角を左に曲がる。こんな所にいても、何の得も無い。
武家貴族たる身分の者に己の技を見せ、それから出世の足がかりを得るつもりだったというのに、いざ赴くと
空き家だったのだからハズレもいいところである。
外から見て屋敷の実情などわかろう筈もないが、幾らかでも期待した自分が馬鹿だったと、妖忌は憤った。
半霊は少々落ち着かない様子で周囲をきょろきょろしながら、妖忌に続く。
いよいよ外に出ようかという時、その半霊が空中にぴたりと停止した。
「……おい、どうしたんだよ? まさか出たくないなんて言うんじゃねえだろうな」
己が半分の様子を察知し、妖忌は面倒くさげに振り返る。しかし、半霊は出て行くことを渋るでもない様子で、
そうではないと全身を横に振る。
訝しげに眉根を寄せる妖忌。半霊の尻尾がぴんと水平に立ち、ある一転を指した。
半霊が示す先は、中庭の、ある大きな庭木の脇である。
「あぁ……?」
そこには、何も無かった。
「勘弁しろよお前、いやな時に呆けやがって」
おかしい、確かにあそこにいた筈だが――。
半霊はまだ気になる様子で、もどかしげに身をよじらせる。だが妖忌は、この屋敷にほとほと嫌気が差してい
た。早く出て行きたかったのである。
だから特に半霊に構うでもなく、とっとと出て行こうと足を動かし、
「ぐえ!」
半霊の尻尾に、首を巻かれて止められた。目を白黒させる。
「ンの、てめ、何をッ……!」
妖忌が文句も言い終えぬ内に、半霊は強引にその首を引っ張り、中庭へと顔を向かせる。
妖忌は何がなんだかわからないまま、誰もいない中庭を見た。
誰もいない。筈だった。
夏の桜を、見た気がした。
妖忌の息が止まった。締められているからではない。半霊の拘束は緩んでいる。
少女がいた。
広い中庭に於いても大きな部類に入るであろう庭木、その木の傍に、音もなく佇んでいる少女の姿が、ある。
髪は目の覚めるような桜色。遠目からでもわかる、きめ細やかな白い肌。深く高貴な、紫色の衣。透き通った
大きな目は、深い森の湖畔のような静けさを湛え、どことも知れぬ虚空を見つめている。
半霊に示される前に妖忌は中庭を見た筈だし、その時はあの庭木の傍には風しかなかった。
にも関わらず、いつからそこにいたのか、という疑問は欠片ほども浮かばなかった。
妖忌は、桜色の髪をした少女の姿に、声も無く見入った。
「…………綺麗、だ」
何を言っているんだ、と、心の中の冷静な部分が、己をなじる。だが事実、妖忌にはそれしか言えなかった。
美しかった。
或いは彼が名のある歌人のように言葉巧みだったならば、少女の佇まいを何かに例えて、どのようにでも表
現出来たかも知れない。
妖忌は、まだ世の誰も名を知らぬ、ちっぽけな剣客である。
だから、少女を表す言葉を、他には一切知らない。
と。少女に見とれる妖忌の尻を、半霊がぺしりと叩いた。目を覚ませ、とでも言うように。
――そうだ。
妖忌は我に返り、一つ深呼吸をする。
そう、本来訝しむべきなのだ。
ここは無人の屋敷の筈だ。妖忌と半霊の感覚が確かならばそれは間違いない。
ここがもし人の気配で賑わう、在りし日の屋敷であったなら、少女のその高貴な姿は、広い庭にも相応しく見
えたろう。だが、今は状況が違いすぎる。ぼんやりと立っている少女は、明らかに異様であった。
妖忌はそのまま、中庭へと降りる。随分と図々しい真似だが、憚る道理も無いものだ。
じゃり、と地を踏む音を聞き、少女はようやく妖忌の存在に気付いたようだった。その澄んだ目を滑るように動
かし、妖忌を見る。
ずん、ずん、と大股で近付く妖忌。その足取りはどこかぎこちないが、誰だろうとナメられては困るのだ。
少女は、突然の闖入者の厚かましい足取りにも、動じた様子は無かった。ただ表情もなく、ぼんやりと妖忌を
見ている。妖忌は息を吸った。
「……んむ」
詰まる。
何を言っていいのかさっぱりわからなかった。
要するに言いたいことは、俺は俺だがお前は誰だ? ということなのだが、それを上手く表現する言葉が浮か
ばないのである。
少しだけ、間が生まれ、
「あなたは……?」
鈴を転がすような声が、妖忌に届く。
先だって声を発したのは少女の方だった。
妖忌はまた少し固まりかけるが、すぐに気を取り直して返答する。
「ああ、俺は、ここの――」
ここの、何だろうか。使用人になる望みはとっくに絶たれているし、だとすれば完全な部外者である。少女が
この屋敷の関係者であったとするなら――その可能性は高い――下手なことを言えば警戒されるだろう。が。
ろくに考えもせず、妖忌は言う。
「け、剣士だ! 修行に来た!」
背後で心なしか、半霊の温度が下がった気がする。
――しょうがねえだろそれしか言えねえんだから。
振り返り、肩越しの視線で妖忌はそう訴える。
「……剣士さま?」
「ああ、そうだ。全国津々浦々、剣を磨く為に歩き回って、今はここにいるってわけだ」
修行の旅の途中だったことは間違いない。故郷はもはや、山や里を幾つも越えた、遥か向こうである。
問題は、その剣士が、こんなところで何をしてるんだというところだが。
少女はそんなものを気にしてはいないようだった。
「ぜんこく……」
遠慮がちに、少女は妖忌の姿を眺める。彼女の目にはどこか興味深げな色があった。
そしてその視線は徐々に妖忌の背後へと流れ、少女は少しだけ目を円くする。半霊に気付いたのである。
「これは……?」
「これか? ……これは、」
妖忌が言うより、早く。
少女は半霊に近寄り、その輪郭に白い手を這わせ。
「不思議なことも……。この御霊は、あなたなのですね」
澄んだ声で、そう呟いてみせた。
「……!」
その声だけが、妙にはっきりと耳に響いた。
妖忌は言葉を失う。半霊もまた、気でその驚愕を語っていた。
霊魂は、妖忌のもう一つの姿である――今まで一目でそれを見破った者など、誰一人としていなかったのだ。
悪霊にでも憑かれたか、或いは式神か。他人が半霊を見た感じの印象と言えば概ねそんなもので、どれほど
勘の鋭い人間であろうとも、この霊魂が彼自身だとは、自ずから気付くことはなかったのだ。今まで、誰も。
だからこそ妖忌は悟った。この少女が一体何者であるかはわからないが、只者ではない、と。或いは一種の
神通力を持った、神霊妖魔の類やも知れぬ、と。
風が何気も無く、両者の髪をさわりと浮かしていく。
「…………なあ」
少女が、何気なく顔を上げた。
「お前は――」
問おう、とした。
こんな屋敷に何故、という領域にある疑問では、もはやなかった。この少女は何者なのか。妖忌は純粋に、
それを知らなくてはならないと思い始めていた。
少女に相変わらず表情は無かったが、その目は柔らかく妖忌を捉えている。
――お前は、一体。
「わたしは、幽々子」
妖忌の心を読み取ったように、少女は己を指す。
その声色は、たった一人に囁くようで、且つ、多くの民に教えを下すようでもあった。
「西行寺の、一人娘にございます」
「一人娘――」
娘がいたのか、と、妖忌はおかしなことを意外に思った。
両親は一体どこへ行ったのか。何故、屋敷に一人でいるのか。
その疑問を妖忌が口にする前に、もう一度生ぬるい風が吹いた。幽々子は、その風を追うように顔を動かし、
視線をどこかの空へと飛ばす。
そしてまた、思い出したように、淡々と言葉を紡ぐ。
「剣士さま……旅の疲れを癒されるのであれば、ここで数日夜を明かしても構いません。ただし」
言い終えぬまま、幽々子は、思い出したように妖忌に背を向けた。
そのまま、妖忌を振り返ることもなく、屋敷の中へと足を進める。
「――あまり長居は、なされぬよう……」
続きの言葉は、少々の躊躇いを挟んで発せられたように、妖忌には思えた。
その背に何と声をかければいいのか、妖忌は逡巡した。
――ああ。そうだ。
「妖忌」
妖忌は幽々子の背中を真っ直ぐに見つめながら、言う。
幽々子の足が、ぴたりと止まった。
「俺は妖忌だ。魂魄、妖忌」
「こんぱく……ようき……」
ぽそり、と口からその名をこぼし。それでも、振り返らず。
幽々子は音も無く、廊の奥へと消えていった。
◆◇◆
妖忌は結局、屋敷を出ていきはしなかった。
この屋敷を出世の足がかりにするという目的はとっくに諦めているが、かといって早々にここを立ち去るつも
りでも無くなっていた。
西行寺幽々子の存在が、妖忌の足を止めていた。誰もいない屋敷に、たった一人で住み続ける娘のことが。
妖忌がそういった気がかりを振り払って出て行こうとしたことも何度かあったが、そういう時は必ず半霊が渋
った。その逆のこともあった。
気がつけば、もうこの屋敷で結構な日数を過ごしていた。
にも関わらず、あの後、彼女とはあまり会っていない。自分から会いに行ったことはまったく無い。
お武家様の娘という身分にある幽々子に、幾らか畏まる思いは、確かにある。だが、あるにせよ、それが全て
ではない。それを気にするような環境でもあるまい。
ただ、何となく憚られるような感触があったのだ。幽々子の放つ、雰囲気によるものなのかも知れない。
屋敷に留まるといってもやることが無いから、殆どの時間は中庭で剣の修練を積んでいた。
ついでに庭木の余計に思える部分を切ったら、これが思っていたより上手くいって、気が付けば妖忌はいつも
庭で剣を振っていた。調子に乗ったのである。
時折縁側に目を移すと、そこに幽々子が座っていることがあった。
言葉を交わすこともあった。妖忌が幽々子に聞きたいことがあれば、妖忌から口を開いた。逆に幽々子が話し
かけてくることもあった。概ね、他愛の無い世間話だった。それも二言三言の言葉の応酬で、まともな会話には
なり得なかった。
関わりといえば、それだけだ。お互いどこかで線引きが為されていたのかも知れない。少なくとも、妖忌はそ
うだった。
幽々子は微笑むでもなく、静かな瞳で、妖忌を見つめていた。その眼には、どこか諦念を思わせる穏やかさが
あった。奇妙な人間関係であった。
ある日――その時は、妖忌が幽々子に聞く番だった。
「なあ。前から聞きたかったんだけどよ」
「……?」
「姫さんは、どうしてここにいる? なんで一人なんだ?」
姫さん、というのは、妖忌が試行錯誤の末に考えた幽々子の呼び名である。呼び捨てはまずい、様付けも何か
違うし、姫とだけ呼ぶのは気障(きざ)すぎる、と。
幽々子は何も言わなかったし、それでいいのだと思った。もっとも幽々子の場合、何と呼んでも嫌な顔ひとつ
しないのだろうが。
ともあれ、妖忌の質問である。さりげなく聞いてはみたが、初めて会った頃からずっと気になっていたことだ。
庭木の枝を一本切り落とし、妖忌は刀を鞘に収めて、幽々子の話が始まるのを待った。
やがて、幽々子はぽつりぽつりと話し始める。
「お母上は……病で逝かれてしまい、お父上もご出家なされました」
「他の奴らは?」
「下人(しもうど)達も既に此処を去ったのでしょう。気がつけば、誰も居りませんでした」
その事実に、妖忌は気分を悪くした。病死した母はともかくとして、娘を置いて出家した父親は薄情に過ぎる。
下人の者達も主の一人娘が残っているのに勝手に出ていくとは、忠誠心が足りないのではないか、と。
「良いのです」
またも妖忌の心の内を見透かしたように、幽々子は続ける。
縁側に腰を下ろしたまま、幽々子は中庭全体を見回した。大分さっぱりしたが、一流の庭師の業とは到底遠い
その様相に、妖忌は少し気恥ずかしくなった。
「……わたしは、此処に縛られているのやも知れません」
幽々子はふと、雫のように言葉を落とした。
「縛られている……?」
「はい。いずれにせよ、わたしがこの屋敷を離れることは無いように思います。だって――」
それから先、幽々子は何も言わなかった。ややあって、再び俯く。彼女が何を言わんとしているのか、妖忌に
はわからない。
ただ。妖忌が感じることは、一つ。
――辛気くせえ。
「俺はな、一度バカでっかいイノシシとやり合ったことがある」
「ん……」
唐突に語り始めた妖忌を、幽々子は伏目がちに見上げる。
「小山くらいある奴さ。フゴフゴうるせーんで鼻っ面蹴っ飛ばしてやったら火みてえに怒り出したんだ」
妖忌は、身振り手振りを交えて当時の様子を語ってみせた。少しぎこちないながら、なるべく滑稽に見えるよ
うに。いつかどこかで出会った、話し上手の里人を思い出しつつ。
「あの野郎木も岩も全部吹っ飛ばして突っ込んできやがって、本気でやられちまうと思ったよ。でもイノシシ程
度に勝てねえようじゃ一人前の剣士は名乗れねえんだ、俺はとうとう腹ァ括って、真っ向からイノシシ野郎に立
ち向かった。あとはもう、躯と刀(ヤッパ)のぶつかり合いさ」
話している内に、妖忌はだんだんその事を思い出して熱くなってきた。そう、あれは激しい戦いだった。イノ
シシとの激闘を語って聞かせながら、妖忌は両腕のみで刀をぶんぶん振り回す真似事をして見せる。
すんでの所で、イノシシの突撃を回避したこと。
斬り付けたら肉が思いのほか硬く、危うく反撃で返り討ちに遭いそうになったこと。
足場にしようと駆け上った木ごと、体当たりでぶっ倒されたこと。
一瞬の差で、こちらが先に急所を突いたこと――
「――ようやくやっつけたと思ったら日が暮れてやがって、しょうがねえからそいつを焼いて食っちまったよ。
ま、イノシシ野郎にとっちゃあ、相手が俺なのが運の尽きだったのさ」
話すことに熱中していた妖忌はここでようやく息をつき、思い出したように幽々子の顔を窺った。その眼と、
幽々子の眼がかち合った。
「……ふふっ」
氷が溶けるように、幽々子は顔を綻ばせた。それは波紋の無い湖のような顔に浮かぶ、始めての笑みだった。
口元を軽く押さえ、上品にくすくす笑う幽々子。
その笑顔に、妖忌は見惚れた。それこそ、桜の花のような笑顔に。
「妖忌殿は、とても愉快な道中をお過ごしになられたのですね」
「あ、ああ……」
妖忌は曖昧に頷く。気の利いた返しでもするべきだったのかも知れないが、今の彼にはそれしか出来なかった。
気づけば、先ほどまでの暗い空気は消えてなくなっていた。こればかりは我ながら良くやったもんだ、と妖忌
はぼんやりした頭のまま思った。
幽々子がささやかな笑い声をあげていた時間は短いものだったろうが、妖忌にとっては随分長い時に思えた。
「……その」
不意に切り出され、妖忌は我に返る。
幽々子は縁に座ったまま、遠慮がちに妖忌を見上げている。それでも目を合わせられずにいるようで、妖忌は
鼻や口の辺りに視線を感じた。
「じ、実は、わたしも、前から聞きたいことがあったのです」
幽々子はつっかえながら言う。戸惑いのような感情を匂わせるその表情もまた、妖忌が初めて見るものだった。
黙って続きを待っていると、何かくすぐったいものを感じた。が、とにかく、いつもすまし顔だった幽々子が
これほどまでに露骨にもじもじやっているのだ。きっとただの質問ではあるまい、何が飛び出してくるやらと、
妖忌は心の中で身構えた。
幽々子はやがて、決意したように妖忌の目を見る。
「旅のお話を、もっと聞かせては頂けませんか……?」
妖忌は拍子抜けした。
「旅の……てえと。さっきのみてえな、か?」
「は、はいっ」
妖忌にとってみれば何のことも無い仕事である。要するに自分の経験を語って聞かせればいいのだから。話し
方の上手下手はあるが、それはそれだ。
ただ、そんなことを、緊張した面持ちで要求する幽々子が可笑しくなった。
「な……何か、おかしなところがあったのですか?」
ふと、恐る恐るといった塩梅で幽々子が尋ねる。ム、と思って頬を触ると、知らず知らずのうちに顔が緩んでい
たようだ。妖忌は苦笑する。相手の顔を見るばかりで、自分がどんな表情をしているのかわからないのでは世
話も無い。
「いや、何でもない。……いいぜ、じゃあ他の話もしてやる」
「あ……」
幽々子の顔が輝く。
その顔に、また妖忌は心が潤う思いだった。最初こそ得体の知れない存在だったが、こうして見ると、幽々子
は大人びているだけで、平民の少女達と何ら変わりのない女の子に思えた。
「あとは、そうだな、イノシシの他に……」
刀を立て、柄尻に両手を置く妖忌。何とはなしに空を見上げると、中天高く昇った太陽の光が目を刺した。雲
が、ぷかぷかと泳いでいる。
泳ぐ、と言えば、そうだ。
「一つ前の夏にな。海に行ったんだけどよ」
「はいっ」
語り出す妖忌。幽々子は、身を乗り出すようにしてそれを聞く。
こういった形で己の旅の経験が活かされるなど、妖忌は今まで考えもしなかった。だから、新鮮な気分だった。
そうして記憶を手繰り寄せながら、思い出せる限りの話を聞かせる。幽々子が心から興味深げに、面白そうに
聞くものだから、妖忌までも、自分の旅が本当はこんなに面白かったのだと思えるようになってきた。
お互いに熱中して、気が付けば、日が傾いていた。
「……暮れですね」
ふと、幽々子が、西の空を見上げて呟く。穏やかで、満ち足りた顔だった。妖忌もそれに合わせて西を見ると、
もう陽は山の彼方へ沈み、紫色の光を残すばかりとなっていた。
「そう、だな」
時間が経つのを忘れてしまっていた。頷き、幽々子を振り返る妖忌。
彼女は既に立ち上がり、柔らかい表情で妖忌を見ていた。
「本当に、面白いお話を聞かせていただきました。誰かの話をこんなにも愉快に感じたのは、お母上が物語を語
り聞かせて下さった時以来です」
朱の光に照らされたその姿は、この世ならざるものの持つような幽玄の美しさを以って、妖忌の目に映った。
暫しの間、二人は見つめあった。沈黙が降りたが、不快なものではなかった。ややあって幽々子は、ふわりと
首を動かし、東の空を見上げる。月が姿を現す方角だ。
「今宵は――望月です、ね」
おもむろに、幽々子は呟く。その声色は、妖忌に言うようでも、自身に言い聞かせるようでもあった。どこか、
憂いのような色がその声にはあった。
「その前に、このような時を過ごせたのなら――」
言うことの意味が、よくわからなかった。
妖忌がそれを追求する前に、幽々子はぺこりと一礼する。
「付き合わせてしまって、お疲れになられたでしょう。ゆっくりお休みください」
そして、廊の奥へと歩き去っていった。取り残された妖忌は、独り頭を掻く。
幽々子のことが今まで以上に気になり始めていた。人間味を感じさせない態度の裏には、確かに年相応の少女
の姿があることがわかったのだ。ならば、それを敢えて覆い隠す必要はあったのだろうか? ましてや、彼女が
住んでいた空間は、妖忌が来るまで他に誰一人としていなかった無人の屋敷なのだ。今更、体裁を気にしなけれ
ばならない理由が、妖忌には思い浮かばない。
その横で、半霊がくるりと回った。
「うるせえな。わかってんよそんなこと」
半霊の主張することは、妖忌自身もよくわかっていることだ。いずれにせよ、この屋敷を離れられない要因は、
幽々子にある。彼女が有する謎が、足を重くしている。
それを問いたださなくては、この先一歩も進めまい、と。そんなことは、妖忌もよくわかっているのだ。
しかしいずれにせよ、既に今日という日は終わろうとしている。聞くならば明日だろう。それまでに、言うべ
きことを整理しておこう、と妖忌は心に決めた。
太陽は、音も無く沈んでゆく。
◆◇◆
西行寺家の近辺は、夜になっても水を打ったように静かだ。
夏である今も、虫の鳴き声一つ聞こえない。不気味なほどに。その静けさ故に、妖忌はむしろ、寝入ることが
出来ない時がしばしばあった。
そしてこの夜も、なかなか寝付けなかった。中庭に面した適当な部屋に陣取って、適当に引っ張り出した布団
でも、寝心地は上等だった。が、耳を刺す静寂のせいで、落ち着いていられないのだ。またか、と、妖忌は半ば
ウンザリする思いで頭から布団を引っかぶる。
どうやらそうではないらしいと気付いたのは、布団に入ったまま半刻ほど経過した時だ。
いつもなら、そうしていれば、いずれまどろみに沈む。しかし今の妖忌の目は、異常なほど冴えている。
神経が、興奮しているのだ。刀を構え、敵と対峙している時のように。
妖忌自身にそのつもりは全く無い。とっとと寝てしまいたいとすら思っていた。だが、昂ぶる感覚がそれを許
さなかった。布団を引き下げ顔を出すと、部屋の天井付近を、半霊が所在なげに飛び回っていた。
「……お前もか。そうだよな」
半霊の、即ち妖忌の霊感が、ある種の警報のようなものを発している。一体何が起こるのか、見当もつかない。
とにかく体を起こし、枕もとの刀を握る妖忌。冷たい鞘は幾らかの安心を与えてくれたが、同時に、なりを潜めて
いた闘争心も沸き起こった。屋敷で静かに暮らしていて、久しく忘れていた感覚だ。
妖忌が最も信頼しているものに、己の霊感がある。旅の中で、幾つもの修羅場を潜ってきたが、それらの中で、
彼の霊感はいつも彼自身を助けてきた。先んじて危険を察知していたからこそ、切り抜けられた死線もある。
妖忌は頭の中で幾つかの仮定を立てた。賊が忍び入るか。猛獣が突っ込んでくるか。妖怪が襲ってくるか。
そして、それら仮定の中の敵の全てに啖呵を切る。来るなら来い、片っ端からぶった斬ってやる――
暗い部屋の中、妖忌は刀を片手に、周囲にあらゆる感覚を張り巡らせた。
ふと。
ささやかな足音を、聞いた。
息を止め、素早い身のこなしで障子に背を寄せる妖忌。音は縁側から届いてくる。どの瞬間にも抜刀出来るよ
うに、右手は刀の柄を強く握る。
どうやら、足音から察するに、一人のようだ。それが人か妖かまではわからない。霊感は尚も妖忌の神経を刺
激し続けている。先ほどよりも、強く。
足音は、床を歩むものから、地面を踏むそれに変わった。中庭に下りたようだ。妖忌は細心の注意を払いつつ
障子紙に穴を開け、片目で外を窺う。
そこには幽々子がいた。
「……姫さん……?」
妖忌は眉をひそめた。
幽々子は寝巻き姿のまま、中庭の中心にふらりと立つ。見慣れた姿に気を緩めかける妖忌だったが、霊感の警
報は収まるところを知らなかった。
幽々子は頼りなげな佇まいで、どことも知れぬ虚空を見つめている。その光景は妖忌に、幽々子を始めて見た
時を思い出させたが、その時とは決定的に違うものが一つある。
それは、気配だ。
妖忌の霊感をぞわぞわと騒がす得体の知れない感覚と、幽々子の纏う超然としたそれだ。その気配の故に、妖
忌は迂闊に動けず、じっと庭の様子を窺うしかなかった。その位置から、幽々子の表情は見えない。
幽々子は、不意にその手を、闇の空へと掲げる。
妖忌は息を呑んだ。
空気が変わり、幽々子の手の先の中空から、蝶の姿が現れた。翅の色は黒く、黒揚羽に似ているが、それとは
比べ物にならないほど、蝶は美しく宙を舞った。その様は不気味ですらあった。
冷たい汗が流れる。蝶がこの世のものではないことは一目でわかった。
ややあって、中庭の宙に、仄かな光が生じる。蝋燭の炎のように夜闇に滲むその光達は、やがて形を成してい
き、幽々子の目の前へと現れ出でる。
一つの、大きな人魂である。妖忌の半霊と同じく。
霊感が、ひときわ強くざわめいた。妖忌は極限まで張り詰められた緊張の中で、食い入るように人魂を見つめ
る。半霊は、己の同族の気配に身をわななかせている。
蝶に導かれるように出現した人魂は、幽々子の眼前を静かに浮遊している。常人ならば、気も狂わんばかりに
恐怖するであろう光景である。幽々子はその正面にいながら、微動だにせず佇んでいる。
さざなみのように、人魂が揺らめいた。
その時、幽々子はぎこちなく頷いたようだった。
そして妖忌は見た。
蒼白い光と共に、空中へ現れた手が、幽々子へ伸びるのを。
「――ッ!!」
瞬間、妖忌は刀を抜き、障子を蹴破って外へ飛び出していた。
本能的に感じた不吉がそうさせた。彼の頭の中にある考えは只一つ、即ち――あの人魂を、斬り潰す。
まともに思索を巡らすことはもはや出来なくなっていた。判断力は吹き飛び、これから行われるであろう何か
を、阻止する為だけに。それは、生命の危険を感じたときの感覚によく似ていた。
「姫さんッ!!」
「――え」
幽々子が、振り返る。夢から覚めたように、何が起こったのかわからないという顔で。妖忌は構わずその手を
掴み、力強く引き寄せた。ひどく軽い手ごたえに、ほんの一瞬戸惑ったが、それでも妖忌は幽々子の身を自分の
背で隠す。
そして片手で刀を構え、中庭に浮かぶ人魂を睨もうとした。――が。
もはや中庭には、何も無かった。光の跡すらも。あとは天高く、煌々と輝く満月があるばかりとなっていた。
「……消えやがった……?」
妖忌は刀を下げ、訝しげに辺りを見渡す。
霊感はもう何も捉えず、妖忌の中のざわめきもすっかり収まってしまった。が、それで正解だったのかも知れ
ない。もし妖忌が飛び出さなかったら、あの後にどうなったのか――考えたくもない。妖忌の感覚からすれば、
良い方に転ぶとはとても思えなかった。
しかし同時に、妖忌は確信していた。霊は、幽々子の蝶、ひいては幽々子自身が導いたのだということを。そ
して幽々子は、霊の声を聞くことが出来るのだ、と。そういった強い霊感があるのなら、半霊の正体を一目で見
破ったことも合点がいく。
何故彼女がそんな能力を持っているのか、また何故人魂と対面していたのか、疑問は残る。だが今は、彼女が
無事だったことを喜ぶべきだろう。左手に、幽々子の手の感触がある。それで十分だろう。
妖忌が振り向き、その様子を窺おうとしたのとほぼ同時だった。
掴む手の感触が、するりと離れたのは。
「……見てしまったのですね」
消え入るような声で、幽々子は言う。深く俯いており、その表情はうかがい知れない。
「姫さん……?」
その様子に戸惑いを感じつつも、再び手を伸ばす妖忌だったが、幽々子はゆるやかに首を振った。そうして、
一歩、二歩と後ずさり、やがてぎしりと音を立て、縁に上がる。
足取りは頼りなく、今にも倒れてしまいそうだった。妖忌は慌てて、その身を支えようと、幽々子に近づきか
ける。だが、その暇を与えないかのように、幽々子はまた、言葉を紡ぐ。
「貴方には気付いて欲しくなかった。……このような様、見せたくはありませんでした」
俯いたまま、幽々子は、己の両手を見たようだった。その白い手に、黒い蝶の姿が重なって見える。まるで先
程の光景が確かなものであると主張するように。
「せめて月が満ちるまでに、立ち去って頂けるよう祈っておりました」
その声は、震えていた。
「――明日の朝、お発ち下さい。もう、おわかり頂けたでしょう。ここは死霊の庭。留まったところで、わたし
と死霊に惑わされるばかり」
そして、ようやく顔を上げる。
幽々子は、微笑んでいた。
その顔は、ぎこちなく歪んでいる。無理をしているのだ。悲しいくせに、今にも泣き出しそうなくせに、無理
矢理そんな笑顔を作り上げているのだ。
「だから、どうか貴方は、貴方の旅を――」
そこまで言い、幽々子は、耐えられなくなったように身を翻す。
「――……」
妖忌は、それを止めなかった。その手を掴もうと思えば出来た筈なのに、体を動かせなかった。
わからなかったのだ。
幽々子の悲しい微笑に、何を言えばよかったのかが。
◆◇◆
朝が来る。敷いた布団は結局使わぬまま、妖忌は夜が明けるまで、板の間にあぐらをかいていた。
目の前には、そう多くもないが、まとめた荷物が置いてある。荷造りは夜の間に終わっている。妖忌はそれを
見ながら、ずっと考えていた。今後自分がどうするべきかということを。
冷静に考えてみれば、妖忌がここにいたところで何の得がある筈もない。それでも足を止めるのは、幽々子の
謎に対する好奇心のようなものがあったからだ。
その謎は、満月の夜に解けた。
普通の人間ならそうもいくまいが、妖忌は半人半霊だ。霊的現象など珍しくもなんともなかった。幽々子は、
亡霊を呼び出すことが出来る、というだけで十分なのだ。つまり、亡霊と幽々子との間に、何らかの因果関係が
あるのだ。幽々子をこの屋敷に縫いとめているのは、その因果なのだろう。亡霊がかつて生きていた頃に何があ
ったのかはわからない。或いは、幽々子のその特異な能力の故に生まれた因果なのかも知れなかった。
そうしてまとめてみれば、何のことはない、ただの幽霊屋敷なのだった。
一つだけ、悲しげな少女がいるという点を除けば。
半霊は静かに、妖忌の傍に浮かんでいる。結論を、妖忌に任せるように。
妖忌は立ち上がる。
「行くか」
その頭の中には、ずっと、あの泣きそうな笑顔が焼き付いている。
見捨てて去るなど、真っ平ごめんだった。
西行寺屋敷は広く、全ての部屋を開けて探すのは時間がかかりすぎる。
だから妖忌は、手っ取り早い手段をとることにした。
まず妖忌は、最南端に位置する空き部屋の前に立った。それから右足に力を込め、その戸を、
どんっ、
と蹴っ飛ばすのだ。
勿論本当に戸が吹き飛んでしまわないように加減はする。とにかくそうやって反応を確かめるというわけだ。
そうと決まれば、あとは簡単な作業だった。
一つ二つ三つと、文字通りどんどん戸を蹴っていく。それでもやはり屋敷は広く、幽々子がどこにいるのかわ
からない為、屋敷内をかなり走り回ることになった。疲労も馬鹿にならないが、今それを止めるわけにはいかな
かった。そして何十番目かの空き部屋の扉を、どんっ――
「ぴ!?」
その何十番目の扉、小さな物置の中で、何かが鳴いた。
ここだ。
妖忌はむしろ驚いた。こんなちっぽけな物置に引き篭もっていることが意外だったのだ。
ともかく、息を整え、中にいる幽々子に声をかける。
「あー……姫さん。俺だ」
じり、と、中の幽々子が身じろぎするのを感じた。
「……まだ、ここにおられたのですか」
返ってきた言葉は、暗く沈んでいた。恨みがましいようにも聞こえた。
「気になってさ。なんつうか、もうちょい、話とか――」
「話すことなどありません」
ぴしゃりと打ち切られる。妖忌はむうと唸り、頬を掻く。もともと、会話の機転は鈍い方だ。加えて女の子の
扱いも心得ていない。この場は、妖忌にとって、鉄火場よりも遥かに厄介なものだった。
幽々子はそう言ったきり、押し黙っている。こちらから働きかけないことには、仕様が無いだろう。
「そうもいかねえよ、あんなもん見せられたんだ」
「お去り下さい」
取り付く島も無い返しに、妖忌は少しカチンと来た。
「あのな、俺はあんたを心配してるんだぜ。だから、その、顔くらいだな」
少しだけ、間が空く。
「――皆、行ってしまいました」
返事を聞き、妖忌は、幽々子の声が震えていることに気付いた。
皆――という言葉は、この屋敷にはひどく不似合いなものに思えたが、かつてはここにも人のぬくもりが確か
にあったのだ。
「……使いの者達は、きっとわたしを恐れたのでしょう。……逃げていきました」
だがそれらの一切はすべて消えてなくなり、後には虚無と亡霊だけが、澱のように残ってしまった。
幽々子の独白は、声は、そのことを最も端的に示していた。一体、何の因果があってこうなったのか。西行寺
屋敷の現状は、一人の少女が背負うには、余りにも重すぎるものだった。
「だから……あなたも、行ってしまえばいいのです。こんな場所にいるのは、もう、わたしだけで……」
幽々子は、聞き分けのない子供のように、妖忌を突き放す。
「……」
妖忌はというと、イラついていた。
何をそんなにうじうじしているのか。
助けを求めればいいではないか。
「お前な、何でそんなに、一人でどうにかしようと思っていやがる」
「……あなたに、何が出来るというのですか……!」
妖忌の頭に熱が昇る。だんだん腹が立ってきた。
幽々子の、何でも拒絶して、一人で抱え込もうとするその姿勢に。
素直に何とかしてやると言い出せないでいる自分にも。
「……おいっ!」
「どうせあなたも、恐れているのでしょう!」
――ぶちんっ。
妖忌の中の何かが、とうとうキレた。
「こ、ん、の……ッ!!」
妖忌は、拳を、ぎゅうと強く握った。
「ふざけんじゃねえっ! 俺は半人半霊だ、お前の操る悪霊なんか怖くねえぞ!!」
怒りに任せ、その拳で扉を強く叩く。蹴りとは違った衝撃に扉が揺れ、その向こうで、幽々子がビクリと身を
竦ませたのを感じた、が、構うものか。
大体幽々子には前から気に入らないところがあったのだ。自分と変わらない外見の子供のくせに、やけに大人
びていて、全て諦め受け入れているような、その態度だ。
「さっさとソコから出てこいよ!!」
気に入らないと言えば、出て行ったらしいここの者達も気に入らない。連中にはつまるところ根性ってものが
無かったのだ。幽々子はまだ子供で、もっと弱くてもいいのに、もっと誰かに頼ってもいいのに、その前に逃げ
出してしまった連中がどうしても腹立たしかった。幽々子は、助けて、の一言も言えなかったのだ。
自分は違う。ただ意地になっているだけかも知れない。実際、何が出来るのかなんてわからない。何も出来な
いのかも知れない。だが、それでもいい。
扉を叩き続ける。中にいる幽々子の目を覚ましたかった。自分がここにいることを示したかった。
「もうあんなことにはならねえ、二度とだ!」
こうなったら引き下がらない。こっちも我を貫き通すまでだ。
妖忌は誓った。
自分だけは、この少女を見捨てない。
絶対に、見捨ててやるものか。
「俺がっ! お前のことっ! 守ってやるからっ!!」
――だから。あんな顔で、笑うな。
妖忌は心の中で、同時に、そう叫んだ。
「それともまさかお前、俺のことナメてん、の――!?」
次の言葉は、言えなかった。
扉が開いて、幽々子が飛び込んできたのだ。
突然のことに、妖忌はまともに受け止めてやることも出来ず、バランスを崩す。すぐ後ろは中庭の地面だ。
「な、なっ!」
妖忌は幽々子ごと中庭に落ち、背中をしたたかに打つ。痛みも感じなかった。頭の中が真っ白になっている。
「――寂しかった……!」
幽々子は、泣いていた。
生まれ落ちた時のように、声をあげて泣いていた。
「寂しかったよう……っ!」
その声を聞き、妖忌はやっと我に返る。これが本心なのだ。今まで押し殺してきた、幽々子の本当の気持ちだ。
妖忌にしがみつき、その胸に顔をうずめ、幽々子は赤子のように泣き続けた。
そんな幽々子を見下ろしながら、妖忌は何も言えなかった。どんな言葉も、浮かばなかった。
だから、その小さな体がこぼれ落ちてしまわぬように、しかと支えておくことしか出来なかった。
◆◇◆
それから暫く経ち、ようやく落ち着きを取り戻した幽々子は、広い部屋の中心に静かに座していた。
向かい合って座る妖忌は、そこが幽々子の私室であると、案内されて知った。
「『あれ』は」
そうして、幽々子は話を始める。その眼は、まだ僅かに赤い。
「昨夜より前から、わたしのもとへ度々その姿を現していました。雲の無き夜の丑三つに、気配を感じるのです。
そうして、夢の中にいるような心持で、外に出ると、そこに……」
幽々子の体が、僅かに震えた。
「恐ろしいのでは、ありません……ただどうしてか、あれを見ると、不思議な懐かしさと悲しさを感じます。わ
たしは、あれが何者であるかすら聞かされていないのに……」
幽々子は、饒舌だった。誰にも言えぬ不安と不可解を、ずっと抱えていたのだろう。
妖忌は腕を組み、黙ってそれを聞いていた。すべてを聴き止めるつもりだった。
「あの蝶は? その手から出てるみたいだったぜ」
幽々子は、己の手に目を落とす。
「……よく、わかりません。物心がついた時から、見ていたように思います。……わたしがこの世ならぬものを
見る時は、いつもあの蝶がおりました」
――先天的な異能か。
と、妖忌は頷く。時たま、ほんの時たま、そういった霊的なものに深く関わる能力を持ってこの世に生まれ落
ちる者が出る。或いは半人半霊である魂魄の系譜も、そういった能力を持つ者から始まったのかも知れない。
霊を見ることができ、霊の干渉に強く影響される者。
そう、干渉だ。
「……昨日、あいつ、お前に何をしようとしてたんだ?」
最も重要な質問だった。
あの感覚を、妖忌は鮮明に覚えている。この世全ての不安が一緒くたに押し寄せてきたような、強烈な怖気。
その質問に、幽々子は浅く頷いた。恐らくは、訊かれると思っていたのだろう。
幽々子は、すぅ、と息を吸う。
「――わたしは、あの夜、死ぬ筈でした」
何を言ったのか、妖忌は一瞬、理解出来なかった。
「あなたが来る前の夜、あれが来て、言いました。『次に月が満ちたる夜、迎えに来る』――と。だから、昨夜、
わたしはあれと共に冥途を辿る筈だったのです。……あなたが、来てくれなければ」
ぽそり、ぽそり、と語る幽々子。
淡々としたその様子に、妖忌の頭にまた血が昇る。
「何で早く言わなかった! 死んじまうとこだったんだぞっ!」
言いようの無い憤りに駆られ、妖忌は幽々子に食って掛かるようにして怒鳴った。言い切ってしまった後で我
に帰り、きつい物言いだったかと後悔したが、幽々子はその言葉を受け止めて尚、静かな様子だった。もう、頭
の中で結論は出ている。そんな佇まいだった。
「……死んでしまってもいいと、思っておりました。お母上に先立たれ、お父上に捨てられたこの身。……現世
に留まっていたところで、何の意味があろうか、と」
まるで懺悔するかのように、幽々子は言う。それは、まだあどけなさの残る少女が考えるには、余りにも悲し
いことだった。妖忌はようやく、出会ったばかりの頃の、幽々子の顔にあった諦念の意味を知る。
「十六夜――今宵の丑三つ、あの霊はまた来ます。今度こそ、私を連れて行く為に」
続いて発せられた言葉は、妖忌にとってはさほど意外なものではなかった。それほど強い執着があるというこ
とだ。それこそ、憑り殺そうとするほどに。
妖忌は少し考え、先程の幽々子の言葉を思い出し、言う。
「お前さ、思っていた、って言ったよな。……それじゃあよ、今は?」
それが、最も大事な事だ。
妖忌は、幽々子を守ると言った。あの言葉は嘘ではない。今は収められた刀が、どう動くか。それは、幽々子
の言葉にかかっている。妖忌は、返しの言葉をじっと待った。
幽々子は、答える言葉を選ぶように、僅かに俯く。
「わたしはまだ、大きな猪も、海も、この目で見たことがありません」
妖忌が語った、旅の話。あの時ばかりは、幽々子は目を輝かせていた。
山を駆ける獣のことを。広大な海を、自由に泳ぐ魚のことを。幽々子はずっと、手の届かない絵物語のように
感じていたのだろう。
「ずっと、ここから出たことが無かったから。……外に何があるかなんて、何も知らなくて。見てみたい、って
思いました。あなたの話を、聞いてから」
見れば、幽々子は、その両手を硬く握り締めていた。膝元の服の布を掴み、手が白くなるほど強く。
「だから」
きっと顔を上げ、妖忌の顔を正面から向き合う。
瞳の中には、決意があった。
「――死ぬのは、いやです……!」
その瞳を真っ直ぐに見据え、妖忌は、強く頷いた。
「……わかった」
もう、迷いは無かった。
◆◇◆
日が沈み月が出て、夜もいよいよ更けてきた頃、妖忌は中庭に面した幽々子の部屋の前であぐらをかいていた。
視線は真っ直ぐ、中庭の宙を睨む。
幽々子は、妖忌が背にしている部屋の中に居る。敷かれた結界の中、今も静かに座しているだろう。妖忌はも
ともと結界術式の展開が得手ではないため、あまり強力なものではないが、無いよりはずっといい。
妖忌の横で、半霊が辺りに感覚を張り巡らせている。半霊が直感した気配は妖忌にも直接伝わる。集中してい
る今ならば、地に落ちる葉の気配すら感じ取ることが出来るだろう。
夜空を見上げると、十六夜月が、闇に穴を空けていた。
月が姿を消してゆく、終わりの始まりの夜だ。死者が生者を誘うには、うってつけに思えた。
幽々子の顔を思い出す。
最初に見た、諦観を抱いた無表情を。
旅の話を聞かせた時に見せた、輝く瞳を。
満月の夜、あどけなさの残る目許に現れた、深い悲しみを。
妖忌の体に懸命にしがみついて泣きじゃくった、あの泣き顔を。
握った手に、知らず、力がこもる。静かな光を注ぐ月に目を移し、深く息を吐く。
ふと。
風の感触が、変わった。
「……!」
つま先から頭頂まで、一気に駆け上る悪寒。死霊の気配。闇に現れる、淡い光。その光は、冷たかった。半分
までそれらと同類である妖忌は、しかし己の半身とは決定的に違うものを光から感じていた。
それは、触れれば凍えそうな、完全な死の匂いだ。
形として現れた死の光を前に、妖忌は眼を瞑る。両腰に刷いた二振りの刀。その感触をしかと確かめ、己の霊
感を研ぎ澄ますように集中し、縁から中庭の地面に降り立つ。
そして、開く。
蒼白く発光する霊魂が、妖忌の目の前にあった。
妖忌の動きに呼応するように、人魂が蠢く。
『――何奴か』
妖忌は確かに、その声を聞いた。腹の底を震わすような、男の声だった。
「魂魄妖忌」
『聞かぬ名だ』
「るせえ。もうちょいすりゃ天下に知られる名前になんだよ」
強気に出ているが、男の声を聞く度に、妖忌は背に走る冷たいものを感じていた。死霊の退治は初めてではな
かったが、これほどまでに強い存在感を持つものとは初めて出会った。
つまり、それだけ強靭な意志があるということである。
「てめえこそ何だってんだ――『ここ』は、死んだ奴が出てきていい場所じゃねえんだぞ!」
ともすれば震えが走りそうな身をどうにか押さえつけ、勇ましく声を張り上げる。
しかし、人魂は一歩も退かず、むしろ感心そうに、ほぅと声を漏らした。
『幽明を心得るか。童にしては殊勝なことよ……然れども』
ゆらりと、人魂が揺らめく。
同時に、淡い光が収束し、眩いばかりに輝く。
『冥府へ還るより先に、為すべき事がある』
再び光が戻った時、人魂は、人型をとっていた。
妖忌より頭二つ三つは大きな偉丈夫。貴族風の出で立ちに、腰に太刀を刷き、頭には黒の烏帽子。
男は、ず、と、にじるように足を踏み出した。
『通すが良い。姫様は其処に居られるのであろう』
姫様、という、その呼び方。
「……てめえ、まさか――ッ!」
視界の隅に、銀光を捉える。
瞬間、反射的に飛びすさる妖忌。銀の閃き――男の持つ太刀が、妖忌が立っていた場所の、首の位置を鋭く薙
ぎ払った。
『あまり煩わせるようであるなら、うぬを斬り捨てたのち、姫様のもとへ向かうのみ』
「野郎……!」
首元に寒気を感じながら、妖忌は言う。
「――てめえ、ここにいた奴だろう。そんな男が、どうして姫さんを殺さなきゃならねえ……!」
ほんの少しでも判断に遅れがあれば、妖忌の首は綺麗に刎ね飛ばされていただろう。太刀筋は、鋭い。とすれ
ば、かつては護衛の手練であったろうか。
男は、妖忌の問いに、さも当然のように答える。
『如何にも。それがしは、かつてはこの西行寺に仕えし者よ』
「じゃあ何でだ!」
死霊の太刀の刃は冷たく、月下で妖しく輝いた。
『姫様の御身は、もはや天涯の孤独。母君様はお隠れになられ、父君様はお家を捨てなさり――現世に、頼むと
ころ無し』
迷いの無い動きで、男は構えを取る。正眼。
『なれば母君様のおられる冥土へと、我が手にてお導き申し上げるが最期の忠義……!』
ぎり、と妖忌は強く歯を噛み締めた。
男は、本気だ。本気で、幽々子を殺そうとしている。かつて自分が仕え、守らんとした少女を。
妖忌の胸に、言いようの無い憤りが湧き上がってくる。
「ふざけんじゃねえぞ……! 守るもんを殺すのが、忠義であってたまるかッ!!」
それは決定的な否定であり、戦意の表明であった。
妖忌と男の間に、糸のように張り詰めた緊張が走る。
『わかるまい。うぬが如き小童には』
もはや、言葉は無い。
妖忌は、己が刀の柄を握る。右手は、刃渡り三尺にも及ぶ野太刀へ。左手は、刃渡り一尺七寸の小太刀へ。
二つの刃がすらりと鞘を滑り、月光のもとにその刀身を晒した。
そして月色に煌くそれらを手に、妖忌は構えを取る。二刀を駆使する、魂魄の構えを。
「魂魄家に伝わりし霊刀、『白楼』……妖(あやかし)より授かりし剛刀、『楼観』!」
守るべきを守り、斬るべきを斬る。
その固い決意が、胸に沸き起こった熱いものが、どこから来るのかは、妖忌自身にもわからない。
正義のような立派なものではない。忠誠も違う。喜怒哀楽のどれに属するかもわからぬ、不可解な感情だった。
ただ不可解ながらも、妖忌はその中で、確かなものを感じた。
「斬れぬものなど――思いつかねェッ!!」
――負けぬ、と。
◇
甲高い金属音が外から鳴り響いた時、始まった、と幽々子は身を強張らせた。その前に何かしら会話している
ようだったが、何を言っているかまではよく聞こえなかった。
ひどく緊張している。だが、不思議と恐怖は無かった。
妖忌の敷いた結界が、床を蒼く発光させている。妖忌は、守る、と言ってくれた。その言葉を思い出すと、怖
いものは無くなる。
幽々子には、何も出来ない。だからせめて、妖忌を信じようと心に決めた。
しかし。幽々子は、妖忌を信じる一方で、心の中に引っ掛かるものを感じていた。
妖忌の他に聞こえてきた、もう一つの声。
やはり何を言っていたのかはわからない。
ただその声を、どこかで、聞いた気がしていたのだ。
◇
閃光が走り、妖忌の顔の紙一重のところを刃が掠める。銀の前髪が何本か切られ、宙を舞う。
それが地に落ちる前に、真っ向から振り下ろされた刃が迫る。速い。咄嗟に白楼で受け、妖忌は左の腕がみし
りと軋むのを感じた。足が地にめり込むような錯覚を覚える。
しかしそこで退く妖忌ではなかった。生きている右腕を振り上げ、楼観を振るったのだ。弧を描き、男の胴へ
と走る刃――しかし。
「ッぅぐ!」
妖忌の体は後方に吹き飛んでいた。空いた自分の胴に、男の蹴りが飛んだのだ。蹴り足が視界の隅に見えた瞬
間、体を僅か後方に浮かしていたのが幸いし、気を失うほどの痛打ではなかったが。
咄嗟に受身を取り、互いの間合いから外れた位置で立ち上がる妖忌。
男の剣は鋭く、力は強かった。剣を受け、未だ左腕は痺れている。先程は体が支えたから良かったものの、迂
闊に片手で受ければ、刀を弾き飛ばされかねない。
並の使い手ではない。少しでも気を抜いたら、それが最期だ。全身の急所に、ちりちりと熱を感じる。
妖忌は振り返ることなく、後ろの部屋に控える幽々子の姿を思った。ここで斬られれば、彼女もまた殺されて
しまうのだ。これより一歩たりと後ろに退くわけにはいかなかった。
ならばその刃、如何にして躱(かわ)すか。妖忌は大きく息を吸う。
そのまま両足に力を込め、強く地を蹴る。踏み込みで足元の土が弾け、妖忌は半霊と共に、高速で地を疾駆す
る。男は動じることなく、静かに下段の構えをとった。
その構えと初動から、妖忌はそれが喉元を狙った突きであると直感した。
月光を跳ね返し、男の剣閃が走る。
妖忌は反射的に白楼を走らせ、迫る刃の横腹に、外へ払うように叩き付けた。直線の軌道は僅かにぶれる――
が、男の太刀は流れず、止まらない。
十分だった。
妖忌はその勢いのまま己の体を右側に流し、すんでのところで刺突を回避。喉のすぐ横を轟風が過ぎる。
しかし、男の目が、鋭く妖忌を捉えた。突き出されたその刃が電光のように閃き、蛇のようなうねりすら見せて
妖忌に追随したのだ。突きから即座に刃を返し斬りかかるその速度、技量一つのみによるものとはとても言え
ぬ芸当である。
「ッ!」
息を止め、白楼に楼観を重ねてそれを受ける妖忌。耳を刺す金属音が高鳴り、妖忌の両腕に途轍もない衝撃が
かかる。
直後に、大岩を乗せたような重圧。――鍔迫りだ。男はこのまま妖忌を押し斬るか、さもなくば地に張り付け
て潰すつもりだ。その尋常ならぬ膂力なら、決して不可能ではない。
「こ……の……ッ!!」
必死で耐える妖忌。みり、と体が軋む。腕力の差もさることながら、絶望的なのは、その体格差だ。男は妖忌
より遥かに勝る体格を活かし、徐々に上から押さえつけにかかっているのだ。
両の手は刃を防ぐことに懸命で、それでも、男の刃は徐々に受けの刃を押し、妖忌に迫りつつある。
もはや、反撃の手段は――いや。
手は、ある。
両腕の筋肉が叫びをあげる中、妖忌は奥歯を強く噛み締め、集中を乱すことなく念じる――
『――グ!』
直後に、鈍い打撃音。細い棒のようなものが伸び、男の下顎をまともに叩き上げたのだ。
鞘である。腰に巻いた楼観の鞘を、半霊が男の顎目掛け、突き上げたのだ。
予期せぬ打撃に男の力が緩み、そこにまばたきほどの空白が生じる。
そして妖忌の右腕は、楼観はまだ生きている。
――貰った!
楼観の刃が滑り、男の体を逆袈裟に斬り上げる。手応えを得たり。斬られた男の傷口から蒼白い霊気が血液の
ように噴出する。並の霊ならば一太刀で十も滅する強烈な斬撃。それを一身に受けたのであれば、まともに形を
保っていられる筈も無い。
じきに霧消するであろうと、妖忌は研ぎ澄ました集中を拡散させかける――が。
『……むぅ!』
苦しげな呻きをあげた男は、しかし消えることなく、その太刀を突き出した。
「――!? おぐっ!」
直撃を回避出来たのは奇跡と言ってよい。
いち早くそれに気付いた半霊が、妖忌の首に尾を巻きつけ、全力で間合いの外へと引っ張ったのだ。
思い切り引っ張られた慣性のまま妖忌は地面に放り出され、咳き込んで立ち上がる。斬った男は、苦しそうに
呻いていながら、未だに消える気配は無い。
信じがたいことに、その傷口が、徐々に塞がりつつあった。
「執念か……!」
妖忌は歯噛みする。
霊体である以上、そこに肉体の制約は無い。限界の無くなった魂は、執念だとか恨みだとか、そういった強い
念の力で、幾らでも強力になれるのだ。常人が怨霊に太刀打ちできない理由の最たるものがそれである。特殊な
能力を持つ者でない限り、肉体という縛りのある生者は、強烈な執念を持つ霊に打ち勝つことは出来ない。
まさに、それだった。幽々子に対する強い執着が、彼の魂を、並の霊十体分以上の密度にしているのだ。或い
は、あの膂力と太刀捌きもそれによるものなのかも知れない。あれは、訓練によって到達しうる領域を明らかに
逸脱している。
執念を、断たねばならない。妖忌は左手の白楼を見遣る。魂魄の宝刀。ありとあらゆる迷いを斬る、世に二つ
とない大業物。
しかし、妖忌の腕――特に左腕の感覚は、殆ど無くなっている。男の剛剣を幾度も受ければ、こうもなろう。
呼吸を整えながら、彼我の距離を計る。目算で、三間ほど。
地を二度も蹴れば、剣風の吹き荒れる、互いの間合いの内である。この腕では、男の剣をまともに受けること
は覚束ない。そして、既に二合の交錯を経たのだから、男の方も、妖忌の業前を理解しているところだろう。
となれば、勝負が決まるのは、次の一合だ。
妖忌は、利き手である右手に白楼を持ち替えた。
『持ち手を替えたな』
低く、男が言う。
『その小太刀、並の業物ではなかろう。この世のものならぬ霊気が身に迫りよるわ』
妖忌は、何も言わない。代わりに、白楼に己の霊力のありったけを込める。白楼の刀身は、それが男の言葉に
対する答えであるかのように、白く発光した。
妖忌は、楼観を左手に控え、牙を剥く獣のように、白楼を構える。
男は、泰然と下段。
じり、と地を踏み締める。夜の空気が粘性を帯びたように感じられる。風の冷たさは、鋼鉄のそれに似ている。
妖忌は己の中でぴんと張り詰めたものを感じながら、意識を鋭敏化させてゆく。夜風の音も、空気の感触も、
全ては感覚の地平へ消え去り、目が、耳が、霊感が、対手である男と、その銀光を放つ刃を鮮明に捉える。
張り詰めたものが断ち切れた瞬間、二名の剣士は、ほぼ同時に、己の全速をもって踏み込んだ。
交錯は一瞬だった。
ほんの僅かな差、妖忌は男より速く駆け――それでも、間合いの広さで、男が刹那の領域を制した。
白楼が、回転しながら宙を舞う。
「しまッ……!」
消えた柄の感触を、まだ手の内に残したまま。
妖忌は、白楼を弾き飛ばした太刀の、その柄頭を、鳩尾に叩き込まれた。
◇
ここを動くなと、妖忌は言った。しかし今、幽々子は、部屋と中庭を隔てる戸の前に立っている。
嫌な予感がしていた。剣戟の音が、何かとても不吉なものに聞こえてきてしまったのだ。部屋で大人しく座って
いてはいけないと、幽々子の中の直感のようなものが告げていた。
そしてあの声。幽々子の記憶が正しければ、あの声は。
幽々子は恐る恐る戸を開け、中庭の様子を覗き見る。
予感は、正しかった。
幽々子は、驚愕に眼を見開いた。
そこにいたのは一人の男と、崩れ落ちる妖忌の姿だったのだ。
幽々子は呆然とその様を見た。男の顔は、やはり記憶の中の声の持ち主と合致していた。かつて、西行寺にい
た者。護衛として、幼い頃から自分の側にいた者。
幽々子は確信した。男が、自分のもとに現れた死霊の正体であると。そして己が感じていた奇妙な懐かしさの
理由も。
その男が、太刀を振り上げた。幽々子に気付かず、倒れ伏した妖忌を、冷えた目で見下ろしながら。
「――『伊勢』っ!」
咄嗟に、幽々子は男の名を叫んだ。そうしなければ妖忌が殺される。幽々子は、男の瞳の中にゆらめく殺意を
確かに見たのだ。
男は、弾かれたように顔を上げる。
『おお……!』
男は、もはや倒れている妖忌もすっかり忘れたように、幽々子を見詰めた。それは確かに、懐かしい『伊勢』
という者の顔であった。しかし、何かが違った。
もはや僅かに震えている膝を必死で押さえつつ、幽々子は捻り出すように言葉を続ける。
「……あなただったのね」
男は、真っ先に幽々子の前から姿を消した者である。
その理由は何か。いつの間に命を落としたのか。妖忌へのとどめを止められたことに安堵を覚えたが、疑問は
幾らでも浮かんだ。
男は妖忌をすり抜け、太刀を鞘に収めて、その場に跪いた。
『まずは、今まで我が正体を隠していたことをお詫び申し上げまする。いらぬ混乱を招いてはならぬと思うてお
りました故、どうかお許し賜りますよう』
そう言い、男は深く頭を下げる。
その口ぶり、大袈裟にも思える身の振り方。『伊勢』そのものである。
幽々子も、中庭の地に降りる。妖忌が心配だった。許されるなら、駆け寄ってしまいたい。しかし、眼前で跪
くこの男が、それを許すとは思えなかった。男にとって、妖忌は敵なのだ。
「あの方は……」
「生きているの?」という質問は、口から先を出なかった。はっきりとそう尋ねることが怖かった。
男は肩越しに妖忌を振り返り、僅かに顔をしかめる。
『まだ息を止めてはおりませぬが……水月を突き申した。動くこともありますまい。斯様な不届き者、この手で
討つべきにはありましょうが、本懐を遂げる前に余計な気力を使うもまた悪し。それがしが此処におめおめと舞
い戻りし由は、ひとえに姫様をお迎えする為に他ならず』
そう言い、男は幽々子に向き直り、立ち上がった。
『さあ、往きましょう。あそこには――母君様も、おられまする』
――お母上。
その言葉で、幽々子の心が、大きく揺れた。にわかに、かつて人の温かみがあった頃の西行寺の光景を思い出
す。父がおり、母がいた、過去の情景を。優しかった母の笑顔を。十年と少ししか生きていない幽々子にとって
は、母に甘える時間が余りに少なすぎた。
「お母上が……」
『左様にございまする。母君様も、姫様のことを待っておられるでしょう』
――お母上に、逢える。
それだけの、ただそれだけのことで、幽々子の心は麻痺した。
自身の意思の与り知らぬまま、幽々子の足が一歩前に動いた。まるで、催眠の呪をかけられたように。早くし
て自分の前から消えた、母に逢いたい。それだけが心の中にあった。
『さあ』
男が、右手を差し出す。
頭の中に、愛しき母の顔を思い出しながら、幽々子はぼんやりとその手へ、己の右手を伸ばした。
そして、男の手を間近で見た。
「……っ!!」
幽々子の意識が一気に覚醒する。男の手がそうさせた。男の手は、白く冷え切り、幽々子の中の霊感を叩く、
死者の手だったのだ。
男は、既に死んでいるのだ。死者の手は、生者を誘う手だ。命を奪う手なのだ。
反射的に幽々子は、差し伸べられた男の手を振り払った。
男は目を見開いた。
「わ……わたしはっ」
はっきりと形を以って突き出された『死』を前に、幽々子はかつてないほどの恐怖を覚えた。人魂と向き合
っていた時の感覚と、それは遥かに違った。
幼い頃から側にいて、自分を守ってくれていた手が、今は――死んでいる。
「わたしは……!」
幽々子は震える声で、懸命に声を絞り出す。
死んだ者は、生きている者とは決定的に違うのだ。幽々子は、妖忌の真っ直ぐな目を思った。
守ると言ってくれたこと。旅の話。想像の中の世界にしか無かった、海や山や、動物達のこと。
全てに命の輝きがある。幽々子はそれに、強く強く憧れた。諦めていた日々に、届きそうな気がしていた。
それが、心を繋ぎ止めた。だから幽々子は、男の手を取れなかった。
生きることを、願った。
「わたしは、生きたいっ!!」
叫びが、夜にこだまする。
男は黙っていた。何か信じがたいものを見るような目で、幽々子をじっと見詰めていた。
『……左様にございまするか』
男は、右手を下ろし、俯いた。
やがて、漏れる声。それは、地の底から響いてくるような、呪いのような男の声だった。
『……おいたわしや、姫様……』
「……!」
幽々子の顔が青褪める。男の声には、怨嗟があった。生前の男からは想像も付かない、色濃い殺意を宿した声
だったのだ。
そして何より。下ろした男の右手は、そのまま太刀の柄に下りていたのだ。
『誑かされたのですな、あの小童に!』
男は、顔を上げる。
その瞳はひどく濁っていた。殆ど狂気と言ってよいほどの妄執が、眼球いっぱいに詰まっていたのだ。
瞳孔が完全に開いたその瞳は、まさしく、地獄よりの亡者と言うべき様。
「伊勢……!?」
『もはや問答は無用、貴方様の中の迷い、それがしが断ち切って差し上げましょうぞ!』
男は、抜刀する。その口元には裂けるような笑みすら浮かんでいた。
狂気の眼が幽々子の顔をまともに捉える。同時に男は、幽々子めがけて一直線に駆け出していた。刀を上段に
振りかぶり、真っ向から頭を断ち割る為に。
「――っ」
幽々子は動かなかった。膝が、言うことを聞かない。全身が冗談のように震えている。
ただ、正面から伊勢を見据えた。
そうして、妖忌を信じた。不可思議な、確信と共に。
◇
耳に届いた叫びは、確かに幽々子のものだった。
その声が耳に届き、妖忌の意識は覚醒した。
――姫さん。
幽々子を呼んだつもりだったが、出したつもりの声はただの細い息だった。あんなに出るなと言ったのに、出
てきてしまったのか。
体が動かない。水月をやられてしまったようだ。足に力が入らず、腕はさっきから感覚が無かった。その上、
頼みの綱である白楼は、弾き飛ばされて地面に突き刺さっている。
幽々子を守る術は、もう。
「――じゃ――ぞ」
掠れた声で、呟く。欠けるほど強く歯を食いしばる。
「冗談じゃねぇぞ……!!」
左手に、まだ楼観がある。それだけでは、勝ち目は極めて薄い。だがそれでもいい。
幽々子は、死にたくないと――生きたい、と言ったのだ。ならば自分はどうすべきか。決まっている。守るの
だ。あの時、幽々子に告げたように。絶対に、何があっても、意地でも。自身に刻んだ、それは誓いだった。
力を入れると、鉛を流し込まれたかのような痛みが全身を苛む。ともすれば、それだけで意識が危ういほどの
激痛である。しかし妖忌は、尚も立ち上がろうと、足に、腕にありったけの力を込める。
幽々子の顔を頭に浮かべる。そうだ、あの顔に、また笑顔を。妖忌は強く幽々子を思った。旅の物語は、まだ
まだ残っている。話していないことだって山ほどある。見せたい景色だって、数え切れないほどあるのだ。
だから、死なせない。死なせるものか。
戦える。
「――ぉおッ!!」
短く、空を裂く咆哮。
次の瞬間に痛みは霧散し、妖忌は、自分自身すらも想像していなかった超高速で地を疾駆していた。それは奇
しくも、男が幽々子に襲い掛かったのと、同時。
――霊は、強い念の力で、幾らでも強力になる。男がそうであるように。
妖忌の身は半人半霊。半分だがその分だけ、限界を超越した力で。
まばたき一つする時には、既に妖忌は、幽々子と男の間に割って入っていた。
止まらず、振り下ろされる太刀。躊躇無く、妖忌は楼観を頭上に掲げ、それを受ける。完全に止め切れず、楼
観が押され、その峰が妖忌の額をしたたかに打ち、血がしたたる。だが、怯まない。
『おのれ……ッ!!』
男の憎悪の声が、低く妖忌の鼓膜を打つ。そしてまた、凄まじいまでの重圧。男は今度こそ、妖忌をその膂力
で圧し斬るつもりなのだ。
「妖忌殿っ!」
続いて、すぐ背後から幽々子の声。
肩越しの強い視線で答え、妖忌は、口の中で、呟くように呪言を紡ぐ。並の聴覚では聞き取れぬほどの速度。
それは、魂魄家に伝わりし法、己が霊に働きかける呪。一句たりとて違(たが)えば、発現すること叶わぬ奥
義。今まで一度も、成功したことの無い術だった。だが、今この時なら。
半霊が、風のように駆ける。地に刺さったまま、淡い光を放つ白楼へ。
流れるように呪言を繋げながら、妖忌は、無音の世界へと意識を収束させてゆく。紙縒りの如く。岩を穿つ、
一滴の水が如く。
研ぎ澄まされた意識の鋭さが、頂点に、達した、
瞬間。
「――『聡明』ッ!!」
妖忌は、裂帛の気合と共に、呪言を結ぶ句を叫んだ。
刹那の後、白光と共に地に現れる『妖忌』の姿。手には白楼、眼光鋭く。
――『幽明求聞持聡明ノ法』。
『何……!』
後方で風に晒されているであろう小太刀から、強烈な気配が生じ、男が驚愕に呻く。その声が空気を震わせる
よりも速く、もう一人の妖忌は踏み込んでいた。白楼を腰だめに構え、白く輝く残像を引き。
迷いを断ち斬る、一閃――。
◇
夜に、静寂が戻る。
幽々子は、仰向けに倒れた妖忌の側に座り、心配げに見下ろしている。意識はあるが、体がまったく動かない
ようだ。二振りある刀の両方が、今は無造作に地面に転がっている。半身である霊も、本来の姿に戻り、二人の
周囲をゆっくりと旋回している。
「目ェ、覚めたかよ」
荒い息を整え、妖忌はそう言った。
妖忌と幽々子、二人の前には、僅かに透けた男が、静かに佇んでいた。伊勢である。
『……夢中を、彷徨う心地であった』
妖忌の言葉に、伊勢が答える。もはや剣呑な気配は立ち消えていた。声色も幾らか柔らかい。その心に、狂気
じみた幽々子への執着は無くなっていた。
白楼にて斬られたということもあるが、それより。
『魂魄妖忌、と申したか』
「ああ」
『貴公がいつからここに居るのかわからぬが……姫様を守らんとする気概、見事であった』
伊勢が妄執を捨て去ることが出来たのは、一番に、妖忌のことを認めたからに他ならない。
かつて伊勢が生きていた頃、命に代えても幽々子を守ろうとしていたあの頃と比較しても、妖忌の気迫は全く
遜色の無いものだったのだ。
『姫様』
伊勢の呼びかけに、顔を上げる幽々子。
『姫様を斬らんとするなど、我がことながら何と恐ろしいことを……。如何な言葉を用いても、申し開き出来ま
せぬ。もしまだ命があったならば、自らこの首をば斬り落としてでもお詫び申し上げる他ありませぬが、それす
らも出来ぬ体たらく。今はただ、この身が情けなや』
「……伊勢」
幽々子は、ふ、と柔らかく微笑んだ。
「もう、いいの。それだけわたしを心配してくれていたって事だもの。昔と同じ伊勢に戻ってくれて、嬉しい」
『……勿体無きお言葉』
伊勢は、幽々子に深々と頭を下げた。それはやはり、少し真面目すぎて大袈裟な、伊勢そのものの身振りだっ
た。幽々子は少し可笑しくなった。なにか、不思議な気分だった。
「ね、伊勢」
不意に、幽々子が切り出す。その声色は、神妙だった。
「あなたは……どうしてここを離れたの? いつ、命を失くしてしまったの?」
『……』
伊勢は、何も言わない。
「伊勢」
『……旅を。旅を、しておりました』
「旅を――」
そこまで言い、幽々子は目を見開く。
伊勢という霊の意思を、読んだのだ。それも、高い霊感故か。
「――お父上を、捜してくれていたの?」
『……仰る通りにございまする。然れども、道半ばにて倒れ、この有様』
「そんな……! どうして言ってくれなかったの!」
『言えば、お止めになりましょう。……ご出家なされても、あの御方は姫様の父君。世俗との関わりを絶ちたる者
は追わぬことがならいなれど、せめて一目でもまた会って頂きたいと思ったが故』
それから三月と経たず、他の者も皆逃げ去ってしまった理由は、容易に想像出来る。
屋敷にいる者は皆、噂話であれども、幽々子の生まれ持った能力のことを知っていた。それをただでさえ気味
悪く思っていたところで、母は死に、父は去り、唯一残った娘の、護衛であった者も失踪。そういったことが相
次いで起こってしまえば、その理由を幽々子の霊感が故と見た者がいてもおかしくない。
そこからは、転がる雪球のようなものだ。
誰かが幽々子を恐れて去り、それを知った誰かが、また幽々子を恐れる。
誰だって、この世ならぬものに関わりたくはない。
伊勢は、悔しそうに呻いた。
『……まこと情けなや。屋敷を去りて後、斯様なことになるのなら、決して姫様のお側を離れることは無かった
というに』
「……伊勢……」
伊勢は、最初から最後まで、幽々子のことを案じていたのだ。
そう思うと幽々子は、胸の奥に、こみ上げてくるものを感じた。
『然れども。それがしが姫様を案ずる心、今も変わらず。我が身もはや、陽が昇りたる前に冥途を往くが定めな
れど――。姫様。それがしに仰られたこと、本心よりと見て、よろしいですな?』
我を失っていた伊勢に、生きたい、と言ったこと。
その言葉に、嘘は無かった。幽々子は、生きることを心から願っている。
「ええ。……生きたいわ、わたしは。まだ見ていないものが、沢山あったって気付いたの。この方の、お陰で」
伊勢と幽々子の視線が、倒れっぱなしの妖忌に降りる。
妖忌は驚いたような顔をして、それから人差し指で頬を掻きつつ、視線はどこかの虚空を見る。
「……何だよ」
「あなたが教えてくれました」
「あ、改めて言うんじゃねぇよ。恥ずかしい奴だな」
妖忌は、照れている。それがわかると急に可笑しくなって、幽々子はまたくすりと笑った。伊勢もまた、僅
かに微笑んだ気がした。気がした、だけだが。
『――魂魄妖忌』
「ン」
伊勢の呼びかけに、妖忌が応える。泳がせていた眼を戻し、伊勢をしっかりと見据える。
「……あんたは、何も心配しなくていい。姫さんは、俺が守るよ」
『指一つ動かぬ身で、何を言うか』
「んだと――」
冗談めかしてそう言う伊勢に対し、妖忌は上半身を起こそうともがくが、少しも持ち上がらない。幽々子はそ
れを手伝い、妖忌の体を支えた。
妖忌はようやく身を起こし、あぐらをかいた。
「けッ。こんなんじゃ格好がつかねぇや」
『……よい。よくぞあの時、立てたもの。――なれば、姫様の御身、貴公に預ける』
伊勢は、はっきりとそう言った。
託したのだ。命を賭して守ろうとし、死して尚その身を案じ続けた少女のことを。
己の全てを乗せるに値する、使命を。
「……ああ」
幽々子は何も言わず、二人を見比べる。妖忌は、毅然としていた。伊勢を見返すその眼には、一切の迷いが無
かった。まるで、美しく輝き、影に光をもたらす刃のように。
『では、もはやこの伊勢、現世に思い残すことありませぬ』
伊勢の声からは、気負いというものが、全て無くなっているようだった。
一切が抜け落ちたような、ひどく透明な顔をしていた。
「……逝くの?」
『長居は、無用。死霊など、もとより現世へ留まっていてはならぬものです』
「そう……」
伊勢は、不器用ながらも、笑んだ。
それは生前、幽々子を褒めるときや、慰めるときに見せる笑みだった。
急に目頭が熱くなり、幽々子は眼を伏せる。
『――。では、これにて……』
「……待って、伊勢」
人魂に戻りかけた伊勢を、呼び止める幽々子。
何かと伊勢が問う前に、両手を、す、と差し出す。
「手を、握って欲しいの」
伊勢は目を丸くして幽々子の手を見たが、やがて寂しげに首を振る。
『それがしの手は、既に死屍たるもののそれ。ご気分を害されるのみと思われまするが――』
「いいの」
『……姫様?』
幽々子は、顔を上げた。最後に、伊勢という者の顔を、目に焼き付けておこうと。
「だって……これで、本当に最後なんでしょう?」
不思議な気分だった。
つい先程は、あれほどまでに冷たく感じられた手が、今もそうであるとは思えない。だからというわけではな
いが、せめてその手の感触を、確かめておきたいと幽々子は思った。
伊勢は逡巡した後、諦めたように苦笑し、両手で幽々子の手を包む。
幽霊の手は、やはり、冷たかった。
だが。
「冷たいけど、なんだか、温かいわ」
『何を仰られるやら』
ごつごつして硬く、大きな手は、それでも優しかった。それは確かに、幽々子が幼い頃から知る手だった。
暫しの沈黙の後に、伊勢が口を開く。
『先つ頃までは、あれほど小さくあられたお手が』
独白のようだった。
覚えている。幽々子がまだ、今よりずっと小さかった頃。手を引いて、屋敷の探検に付き合ってくれた時。
時折せがむと、やたらに恐縮しながら、頭を撫でてくれた時。
あの頃の幽々子の手は本当に小さくて、伊勢が両手で握れば、すっかり包み込まれてしまう程だった。
だが、今は違う。伊勢の手から、幽々子の指がちょこんと飛び出ている。幽々子はそれを、誇らしく思った。
『――大きくなられましたなあ、姫様。まこと、大きくなられましたなあ』
ぎゅ、と、伊勢の手に僅かな力が篭もる。
「……うん」
幽々子もまた、その手を握り返した。ひどく、穏やかな気分だった。
やがて、伊勢の体が淡く白い光を放つ。
『……さ。それがしは、そろそろ逝かねばなりませぬ』
もう、時間だ。
急速に伊勢の姿は薄れ、光の結晶と変じていく。
『あちらで母君様の御目にかかることがありますれば、お伝えて申し上げておきましょう。姫様のご心配は、ご
無用なりと――』
「伊勢」
手を握ったまま、幽々子は言う。
「ありがとう。あなたのことは、きっと忘れないわ」
口にしてみれば、何と工夫の無いありきたりな言葉だろう。だが、それ以上の一言を幽々子は知らない。いく
ら言葉に凝ってみても、言い表せない心を、たった一言に全て込めた。
光を見ていると、不思議なほど心が安らいだ。もはや、伊勢という男の姿は、その輪郭すらも判然としない。
だが、幽々子は見た。
その光の向こうで、伊勢が、微笑んだのを。
光は、風に吹かれた花弁のように舞い上がり、空へと吸い込まれていく。
幽々子の手は、もう何も握ってはいない。
煌く月はとても眩しく、それが、出口のように見えた。
「……もう」
今まで黙っていた妖忌が、不意に呟く。
ぐし、と鼻をすするような音が聞こえたのは、気のせいだろうか。
「迷うんじゃねえぞ……」
幽々子は、振り返らなかった。
きっと妖忌は、涙を流してくれているから。
そして、幽々子の頬にも、音も無く温かい涙が伝う。
月は、全てを見下ろしていた。
優しく二人を照らす月光に、幽々子は静かに、その目を閉じた。
◆◇◆
蝉の鳴かない、大きな屋敷。
一人の少女が、一つの大きな人魂と向き合っていた。
少女は人魂に手を当て、形の良い桜色の唇から、何かの言葉を吐く。すると、その手から淡く輝く蝶が現れ、
人魂を包む。人魂は、蝶に導かれるようにして、ゆっくり空へと上がっていった。
最後に少女は、人魂に向けて、優しく笑みかけた。
次の瞬間、人魂の姿は、もうどこにも無くなっていた。
「真っ昼間からも出てくるようになったのか」
声に、少女――幽々子は中庭の中腹を見る。
その様子を見ていた妖忌は、あきれたように庭の木々を弄っている。
「ええ。この時期は、迷い込みやすいの」
「そういうもんかねえ」
あの夜からまた四季の巡りを重ね、何度目かの夏になった。
年を経るにつれ、幽々子は美しく成長していった。背もすっかり妖忌を追い越している。少女が大人になる、
今がその境界なのだろうと、妖忌は思う。
そして体の成長だけではない。幽々子の能力もまた、ある種の進化をしていた。つまり、霊に対し鋭い感覚を
持つ、というだけでなく、迷う霊を『蝶』で黄泉路へと導くことが出来るまでに至ったのだ。先程したように。
成仏できない霊は、時々迷い込んでくる。蝉の生命力の感じられない屋敷に、惹かれるものを感じるのだろう
か。しかし、幽々子いわく、そういった霊は沢山いるらしい。屋敷へ迷い込んでくるのはごく一部で、外にはま
だまだいるのだろうという。
妖忌はというと、子供の姿のままだった。多少の変化がないではないが、やはり、初めて出会った時とほぼ同
じ姿だ。半身半霊の成長は、人よりずっと遅い。
幽々子がそれをからかって、妖忌は本当に大きくならないわねえ、と言ったことがある。妖忌はそれに、うる
せえすぐに追い越してやるから待ってろ、と返した。幽々子は嬉しそうに頷き、待ってる、と言った。
幽々子は縁に座ったまま、妖忌のやることを見ていた。
暇潰しで始めた庭いじりはやがて趣味になり、趣味はやがて習慣になり、習慣はいつの間にか仕事になった。
すぱ、と余計な枝を切り落とす。何年も続けているから、手際もだいぶ良くなった。さっぱりした庭は、妖忌
の小さな誇りだった。
「ねえ、妖忌」
「ん? どうした?」
「花の名前は、言える?」
幽々子はにこにこしながら、そう聞いた。
妖忌は地面に目を落とす。そこには、色とりどりの花が咲いている。いつも手入れしている花々だ。
「簡単だろ。これがアジサイで」
「それは菖蒲」
「……これがナデシコ」
「それは薊」
「…………いいんだよ別に庭師は余計なモンさえ切ってりゃ」
ぷい、と妖忌はそっぽを向き、庭木に目を移した。
「もう、何年かなぁ」
不意に、幽々子が言う。
妖忌は振り返った。
「伊勢のことか?」
「……そう、それもあるけど。妖忌がここに来て、何年かなぁって」
あの夜の翌日、裏に、ささやかながら伊勢の墓を立てていた。体はそこにはあるまいが、それが、死者に尽く
せる最大の礼儀だからだ。
妖忌は納刀し、なんとはなしに空を見上げる。
「覚えてねぇけど、随分になるな」
「そうね」
この屋敷には相変わらず、妖忌と幽々子の二人しか居ない。二人きりで暮らしてきた。
だが。妖忌は思う。だが、そろそろ。
夏の空は、目が覚めるほどに青い。手を伸ばせば、吸い込まれそうな気がした。白い雲が、彼方の山の向こう
へと流れていく。妖忌は少しだけ、空に見惚れた。
ふと、幽々子が口を開く。
「雲はね、妖忌。どうして飛べるか知ってる?」
「雲? ……さあ。何でなんだかな」
見れば、幽々子も空を見上げていた。眩しそうに目を細め、門も土塀も無い青空を。
「雲は風を信じてるの。だから、風に導かれて飛んでいけるのよ」
「……なんだそりゃ」
「知らない。今考えたもの」
幽々子は立ち上がり、妖忌を見て、悪戯っぽく笑った。
雲は、風を信じる。
幽々子にしてみれば、それは本当にただの思い付きから出た言葉だったのかも知れない。
「――行くか?」
だから、妖忌の言葉も、ただの思い付きなのかも知れない。わからない。ただ、その一言は、妖忌が想像の中
でいずれ言おうと思っていた言葉と、似ていた。
幽々子の顔は、穏やかだった。
「どこへ?」
――どこへ、か。
目的地など始めからこれっぽっちも考えていない。ただ、行くのだ。どこへ行くかは、後から決めればいい。
「その、なんだ、あれだ。雲だよ、雲」
「連れて行ってくれるの?」
妖忌は、幽々子と向き合った。妖忌は庭の中腹に、幽々子は縁に立っている。初めて会った頃と、まったく逆
の立ち位置だった。
妖忌は幽々子に歩み寄る。それ以上何も言わず、右手を真っ直ぐに差し伸べた。
「ん」
いつだって、歩き出すことは出来た。もしかしたら、幽々子はそれを待っていたのかも知れない。妖忌も言い
出す機を窺っていたつもりだったが、皆まで言うのは、何だか気恥ずかしかった。
妖忌の手と顔を見比べ、幽々子は、少しだけ照れ臭そうに笑う。
「……うん」
そして、その手を、握り返した。
◇
蝉の鳴かない屋敷の門を、二人の人影が出る。
「いいのかよ、何も持たなくて」
腰に差した二刀の位置を確かめながら、妖忌は問う。
幽々子は、軽い旅装束を身に纏うだけで、荷物らしい荷物は何も持っていなかった。
「いいの。旅は身一つでやるもんだって、あなたもいつか言ってたじゃない」
「まあ、そうだけどよ」
「それにね」
幽々子は振り返り、門と、その向こうの屋敷を見る。
「思い出は、全部置いていこうと思うの。いつかまた、ここに帰ってきた時の為に」
「……そうか」
妖忌は旅に慣れている。何年も過ごした屋敷を去ることに名残惜しさを感じはするが、出発の心構えはすぐに
出来る。だが幽々子はどうなのだろうと、妖忌は気掛かりに思っていた。何せ、生まれてから今までずっと生き
てきた世界との決別だ。寂しさの一言では言い表せない感情があるだろう、と。
だが、屋敷を見る幽々子は、毅然としていた。だから、きっと何の心配も要らない。
「――行って参ります」
屋敷に向かい、幽々子は深々とお辞儀をする。声が、屋敷に染み込むように響いてゆく。
返事は無い。だが、それで良いのだろう。静かに佇む屋敷は、一つの大きな墓標であるかのように、ちっぽけ
な二人の前に横たわっている。ふと屋敷の中から、心地のよい風が吹き、空に散っていった。
二人を見送る者は、誰もいない。――いない筈だ。だが。
幽々子はくるりと振り返り、躊躇うことなく、足を踏み出した。妖忌もその背を追うように歩き出し、幽々子
の横に並ぶ。
幽々子は、笑っていた。とても嬉しそうに。視線は真っ直ぐ前を向き、振り返ることもなく。
「あのね、妖忌。伊勢が、見ていてくれたわ」
「……ああ。そうだな」
門の奥で二人を見送っていた、ある男の姿は、気のせいではあるまい。
夏の、ある暑い昼。
流れる雲を追うように、少年と少女が歩いている。
空はどこまでも高く、青く、風を遮るものは、何も無かった。
おじいちゃんの若い頃がこれ以上となく素敵です!!
個人的な好みコメントですみません
いいものを読ませてもらいました。
もっとじっくり書けていたらかなりの名作だったと思う
全体の雰囲気がしっとりと優しくて素敵。
どうか二人の旅が楽しい物でありますように…