「それじゃあね、阿求ちゃん」
「ええ、また今度」
手を振ってきた少女に手を振り返し、私は空を見る。
すっかり茜色に染まった空に、ほわほわと雲が浮かんでいる。そんな雲も茜色、所々に星が見え始めていた。
西の空には宵の明星、人間の時間はもうすぐおしまいだ。これからは妖怪の時間…といっても、里にいる限りそんな怖い目には遭わないはずだけど。
なにはともあれ、里の家々から炊事の煙が上がっていて、鴉もかぁかぁ鳴いている。よって私もそろそろ帰らなければならない。これでも里の名家であるからして、少しでも帰りが遅くなると色々と煩いのだ、お手伝いさんが。
「だって可愛いもんね、阿求ちゃん」
「そう、可愛いから…ん?」
なにやら『小さい』を省かれたような言葉が耳に入った私は、ふと顔を上げる。誰だよ?っていう感じで。
そこには、にこにこと笑みを浮かべた少女がいた。悪意がないというか何も考えていないというか…そんな顔。私は、表情を変えずに腕を組む。
「…楓、何であなたがここにいるの?たった今別れなかったっけ?」
とがった私の言葉にも、少女は笑みを崩さない。何を言われても気にしないような、そんなほわほわ笑顔。
彼女の名は楓、里の花屋の娘。何でか知らないけど私にやたらとかまってくる、寺子屋に来ないの?とか。行ってもしょうもないから行かないのに…
今日も、里長の所でさんざん幻想郷縁起についていろいろと説明、続いてありがた~いお話をたっぷりどっさり頂戴して、かたもこりこり気疲れたっぷりで出てきた所を捕まったのだ。泣きっ面に蜂とはよく言ったものだ。
そして延々と登校拒否問題についてのお説教を喰らった…ようやく解放されたと思ったのに。
そう、そして、彼女とはさっき…というか、たった今手を振って別れたはずだ。それがなぜ今私と話しているのか…
「反対側に届け物があるの忘れてた」
そう言って楓はぺろりと舌を出す。年相応の可愛い仕草が自然に出てくるのが羨ましい、私なんてこないだ同じ事をしたら無理矢理布団に入れられ、額に氷嚢をのせられた。礼式を重んじる名家の娘というのもなかなかに不自由だ。
「だって阿求ちゃん普段笑いが黒いもん、可愛く笑ったら何か企んでるか気が違ったかと思われるに決まってるよ」
「私は黒くない」
失礼なことを言った彼女を睨む、この身も心も清らかな私のどこに黒いものがあるというの?神聖な大蝦蟇様の池だってこれほどには清くない、蓮の花だって咲いていよう。
でも、彼女は相変わらずにこにこと笑っている。迫力が足りないのかしら?ついでに思考が読まれている気がする。幻想郷縁起に書いた方がよいかもしれない、妖怪の分類に。
「黒いよ?」
「黒くない」
「腹黒」
「だから黒くない」
「真っ黒」
「違う」
「心の底まで真っ黒」
「違うったら違う」
「白いよ」
「だから白く…あ」
「あははっ、阿求ちゃん可愛いっ!」
抱きしめられて、頭を撫でられる、可愛くないと言おうとしたものの、それは事実に反するのでやめておいた。それにしてもこんな単純な言葉遊びにひっかかるなんて我ながらまだまだだ。
「可愛いよ、普段からこんな風に笑っていればいいのに」
「む~」
なんでか頭を往復する手のひらが気持ちよくて、私は黙り込んだ。髪型が乱れると言いかけたけど…まぁいいか、どうせもう帰るだけだし。今日は里長の所でさんざん幻想郷縁起の説明をさせられて疲れてしまったのだ。
そんな思考の間にも、楓の行動は加速する。撫でるのにリズムをつけるな!
「可愛い可愛い♪」
なんか小動物扱いされている気がして腹が立ってきた。
「一家に一匹あきゅーちゃん♪お腹が真っ黒素直な子♪」
されてるし、単位匹だよ。
「変な歌歌わない、しかもお腹が真っ黒素直な子って何?」
突っ込みどころは数あれど、ひとまず意味的におかしい所に突っ込んだ。
「阿求ちゃん」
笑顔で返された、なんかもー疲れた。鴉の鳴き声がばかぁーばかぁーに聞こえる、鳥にまで馬鹿にされたか…
おのれ、明日の夕食は焼き鳥にしてやる。
「行こうか」
茜色の空は長く続かない、だんだんと藍色へと変わっていく。二色の空が頭上に広がる。その不思議な空の下、楓の声が聞こえた。
楓の頬に、少しだけ夕焼けがついて、茜色に染まっていた。
「うん」
私は、しばらくして返事を返した、歩き出す。変化は早い、もう空は半分くらい藍色だった、なんとなく黒とは言いたくない。
「黒くないし」
「そこは否定しないのね…」
「うん、黒いのは阿求ちゃん」
「もういいわ、黒くて」
「うん」
「…否定しないのね」
「うん」
小さなずだ袋を持った楓が、楽しそうに隣を歩く。ステップをふむ度に、袋がぴょこぴょことはねる、二つのおさげも一緒に舞って、明るいリズムをふりまいている。何で楽しそうなのかは知らないけど…でも、この子はなぜかいつも楽しそうだ。
ホント、里の子どもは気楽でいいわ…
「あ、袋持って」
「え…」
その時、なんの脈絡もなくずだ袋が渡された。あまり質のよくない布の感触があって、腕に重みがかかる。思わず受け取ってしまったけど、一体何?
「疲れちゃった~分かれ道まで持ってて」
訝しむ私の視線に、何の悪気も感じられない声が聞こえてきた。こら、御阿礼の子を荷物持ちに使うとは何事か!
「ほら、私阿求ちゃんと違って肉体労働だったから、腕疲れちゃって。あ、それ中身大事なものだからなくさないでね」
でも、鋭さを増した私の視線にも、彼女は動じない。そんなことを言ってう~んと伸びをしていた、完全になめられてる気がする。あと大事なものなら他人にまかせるな!
「あ、壊れ物じゃないし、阿求ちゃんは友達だし、他人じゃないよ?」
矢継ぎ早に言葉が届く、むむ…
「あのねぇ…」
「ほら、分かれ道まで半分位だから。友達なら苦労も笑顔も半分こ♪」
渋い顔して言いかけた私の言葉は、軽やかな言葉によって、あっという間に遮断された。ええい、勝手な。
「笑って誤魔化してもダメ、だったら私の気苦労も半分持っていってよ…」
そう、耳の遠いお爺さん相手に、何度も説明をさせられた私の気苦労は誰が背負ってくれるのか…ついでに、二刻の間正座してお話を拝聴する羽目になったし、さらに付け加えると里長三分の一位寝てたし!寝るなよ!!
「気苦労は背負えないからね、残念残念♪」
「うわ、腹立つ」
口笛を吹いて、手を後ろに回した彼女は実に楽しげで軽やかだ。周囲の田んぼでは、蛙だって楽しげで、不機嫌なのは私だけ、世の中は不条理極まりない。
この袋を放り投げてもいいような気がするけど、そんな事はしないと信じているんだろう。ええいもう、本当に腹立たしい。
私は、妖怪にも対等に渡り合う自信はある…ただし言葉で…でも、この子にはいつも言い負かされている気がする。なんでだろ。
こっちは人でありながら妖怪と対等に話す存在、御阿礼の子だってのにもう!
あと、思考が完全に読まれている、こやつは特殊能力を持っているに違いない、やはり幻想郷縁起に分類が必要だ。種族花屋の娘、人間友好度高、危険度高…なんでやねん。
「阿求ちゃんあんまり一人でぶつぶつ言っていると危ない人みたいだよ?危ない人だけど」
そんなことを考えていたら、不安げな瞳が私を覗き込んでいた。可哀想な視線で見ないで欲しい…
「口に出していたとは迂闊…」
でも謎は全て解けた、これからは思考を口に出さないように気をつけよう。
あと言っておくが私は危なくない、常識と良識を兼ね備えた才色兼備な里の花、九代目阿礼乙女とはこの稗田阿求のことだ。
「じゃあうちに飾ってあげるね、枯れないように」
「枯れんわ!」
「あのね、それで今日は春告精が来てくれたおかげで大入り満員だったの」
楓は身振り手振りを交えて話している。里のあぜ道にぺたぺたと響く足音、薄闇の中でも、この周囲だけは明るさが三倍増しだった。
「ああ、それで今日は里が春っぽかったんだ」
そういえば、もう夏に向かっているはずなのに涼しかった。
暑くもなく、寒くもない、優しい風が頬を撫でて、降りそそぐ日射しにも灼くような力は感じない、なにもかもが穏やかで、思わず意味もなく楽しくなってくるような…そんな一日。
「春っぽいって何?」
楓が首を傾げる。
私は、目の前にその象徴を見つけ、黙って彼女を指さした。首はますます傾く、疑問の大きさによってその傾斜角度が変わるらしい、面白い。
「む、やっぱり阿求ちゃん黒いよ」
そして、一瞬の間を置き、頬を膨らませた楓。私は彼女に笑みを送る、今度は思いっきり悪人っぽく。
そんなに黒黒言うならちょっと黒っぽくなってやろうじゃないの。
「ふふふ…稗田家に逆らった者の末路を思い知らせてくれよう、市中引き回しの上生きたままお風呂で釜ゆでに…」
「あ、阿求ちゃん黒くない」
「ここで否定するのっ!?」
思わず突っ込んでしまった、何で今までの可憐な私の言動を否定しておきながら、私らしからぬこの言葉が黒くないの?
「あはは、だって…」
楓は空を見上げて笑う、頬が青白く輝いた。いつの間にかそこにはまんまるな月がある、話していたら気がつかなかった…いつの間にか夢中になっていたのかしら。
「冗談を言っている阿求ちゃんは黒くないよ?」
ちょこっとおくのは小さな間、素直に私を見つめて、楓は言う。真っ黒な瞳がこちらを見ていた、吸い込まれそうな位真っ黒な瞳。
私は、彼女のこんな瞳が苦手だ。防壁を張れない、私は御阿礼の子なのに…
「冗談ではなく稗田家に伝わる秘伝の風呂煮込み術が…」
思わず、冗談めかして答えるけど…無理だ、この子には勝てない、わかっている。
そう、幻想郷縁起を書いていてすら、この子のペースに巻き込まれたのだから、こんな会話で真っ向から対抗できるはずなんてないのだ。
でも、つい言い返してしまう、否、言い返さなければならない。だって私は御阿礼の子だから。里の子とは違うのだから…
「お煮染め?阿求ちゃんお料理できたっけ?」
「風呂で作ってどうするのよ!」
私の重い思考とは別に、会話はとことん弾んでいる、そのまま弾んで夜空に飛んでいってしまいそうだ、打ち上げ花火。
どかんときれいに花が咲き、あっというまに消えていく…
やっぱりダメだ…完全に相手のペースにはまっている。なんでだろう…なんでこの子には勝てないんだろう。
私はそう思いつつも抵抗をやめない、実に不思議な事だけど、この子に言い負かされるのが楽しかった。
「名家の娘は料理などせずとも…」
「つまりできないんだね阿求ちゃん」
「む…それはまぁ…そうとも言うけど」
「そうとしか言わないよ?阿求ちゃん」
「む…む~」
まもなく、戦いは予測された結末へと辿り着く。私は天を仰いで慨嘆した。
空にはまんまるお月様、地にはまんまる笑顔。こいつらには敵う気がしない、欠けることない二つのまるに、私はとうとう降参、ため息をついた。
「あ~もういいや、家帰って寝よ」
ぐいっと背伸びをする、なぜかとても気持ちがよかった。手のひらに感じた風は、少しだけ夜の雰囲気を纏っていた。涼しくて、でも暖かさを残していて、まるで何かが出てくるみたいなそんな小さな…
「うん、それがいいよ。寝る子は育つっていうしね♪」
不安感は吹っ飛ばされた、ええい、まだ言うか。この子の笑顔じゃ妖怪も逃げるに違いない。寄ってくるのは春告精位なものだろう、この春っ娘め。
ふと気がつけば別れは近い。視線の先、道の向こう、ぼんやりと分かれ道が見えていた。もうそろそろ里のはずれだ、田んぼでは蛙がゲコゲコとうるさい、今度大蝦蟇様に苦情を持ち込もう。騒音公害だ。
それにしても、一人で来るときにはずいぶん長く感じるのに、今日は不思議と短い時間だった気がする。
「じゃ、今度こそまたね、阿求ちゃん」
「はいはい、転生したらね」
楓が足を止め、言った、お下げがぴくりと動く。私は手を振ってそれに応じた、嫌なことを言ったはずなのに、楓の顔が楽しそうに変化する。
「あははっ!再会の時には花束でも贈るよ。私死んでるけど」
「彼岸花でも贈ってくれるの?」
「どうしよっかなー。ま、花屋の娘に任せなさい!」
楓はどんと胸を叩く、本気でやる気っぽくて怖い。
転生…その時引き継がれるのは『稗田』としての記憶だけ、『阿求』としての記憶が引き継がれることはない。きっと、楓の事は忘れているだろう。
でも、諦めに似た心で受け入れているそんな事も、何故かこの子と話していると普通に乗り越えられそうな気がしてくる。
ずっと先、転生祝いにと、幽霊になった楓が花を渡しに来る。神聖な御阿礼の神事も、この子にかかればただの喜劇になりそうだ。
…まぁあんなかたっくるしいこと、喜劇にしてもらった方がよさそうだけど。
そんなことを考える私の脳内に、あらぬ光景が浮かんできた…
厳かな神事の最中、突如として乱入する楓幽霊。
とんだ闖入者に神事は中断、悲鳴と怒声がその場を包む中、よくわからない花を大量に持った楓幽霊が、ほわほわと空を飛んできて言うのだ。
「阿求ちゃん、再会のお祝いだよ!」
ぼはっとばかりに花が舞い、小さな御阿礼の子は目をぱちくりさせながら花に埋まる。記憶なんてどこにもない、阿求なんて名前しか知らない、目の前の幽霊は名前も知らない。
だけど、きっと『私』の欠片がこう言うはずだ。
「やると思った…」
呆れた声に笑顔を混ぜて、見守る大人は何がなんだかわからない。御阿礼の子は、自分が何を言ったかさっぱりなはずだ。
もちろん神事はやり直し、新たな御阿礼の子が行う初仕事は、前代未聞の御阿礼の神事やりなおしを記憶すること。これじゃあグレそうだ。
幻想郷縁起も、あらぬ当て字で書かれるに違いない。嫌騒狂怨偽とか書かれたらどうしよう。
…それはそれで面白いかも知れない。
「今のうちから見繕っておくよ、じゃ」
と、私の思考はあっさりさっぱり遮断された。
最後まで明るく言って、返事も聞かずに楓は駆けていく。月の光に照らされた、小さな身体の後ろから、小さな影がついていく。薄闇の中、二つのお下げが踊っていた。
「うん、またね」
ゆっくりゆっくり…そんな後ろ姿に、私は小さく別れを告げて、向きを変える。屋敷はすぐそこでぼんやりと光っている、闇にふわふわと浮いている。歩いたところでそんなに時間はかからない。
一瞬月が雲に消え、ぼんやり暗くなった道の先、背筋に少し寒さを感じて、私は静かに歩き出した。
屋敷までの道のりはもう八割方歩き終えている、あとはさほどの距離もない。蛙の歌を聞きながら歩けば、すぐに着くだろう。
「遠いなぁ」
そうでもなかった、全然着かない、案外屋敷は遠い。思わずため息をついてしまった。
近いはずなのに遠い、手が届く位の距離にいるはずなのに、屋敷はなかなか近づいてこない。
この関係…何かと似ているのは気のせい?
里から分かれ道までの距離に比べれば、格段に短いはず…それなのになかなかたどり着かないというのは、妖精かなんかに化かされているのかもしれない。そうに違いない。そんなわけないか。
「はぁ」
ため息一つ空へと向かい、周りの田んぼはゲーコゲコ、髪飾りは揺れている。今日もずいぶんと平和だった。
里の中にいる限り、妖怪に襲われることなんてまずない。
里から出たところで、余程の事がなければ襲われることはない。
それが今の幻想郷。外の世界がどうかは知らないけれど、そちらに比べても、多分、人間にとってそれなりに安全だと言えるだろう。
そして、そんな世界を作るのには、私も一役買っている。
非力な私達人間に安全を届ける為、そして、いつか人妖が本当に仲良く過ごせるように…その架け橋となるように…
それはもうそこに見えている未来、むしろ、現実になりつつある未来。
今代の幻想郷縁起はできたし、あとは私はやることがない。せいぜい、頼まれたときに幻想郷縁起を解説しにまわるだけ、それと、まもなく来るであろう死へ向けての準備をするだけか。
「あ~あ」
ぐいっと伸びをした、相変わらず周囲は暗い。ため息ばかりついていたせいで、月にまで見放されたのかしら?月は雲に隠れて明かりを消していた。森の闇が少し怖い。少しだけ歩調が速まる。
それにしても本当に楓が羨ましい、どうしたらあんなに素直に生きていけるんだろう?どうしたらあんなに楽しげな日々を過ごせるんだろう…いつか、私もあの子みたい素直に笑って…
「はぁ」
今日はため息ばかりだ。
私は、もう一度その数を増やして思考を閉ざした。結局の所無意味なこと、私はあの子みたいになれないし、あの子は私みたいにはなれないんだろう。
お互いの立場…結局それは自分一人じゃどうしようもないのだから…
そんなことを考えている内に、少しは距離を稼いでいたらしい。月も顔を出していた。
闇に浮かんでいたはずの灯りが、暗い屋敷と共に地に降りている。なだらかな傾斜がある道を歩いて、ちょっとした高台にある屋敷に辿り着けば、今日はもうおしまい。
楓が見たら「このお金持ちめー」とか言って頬を引っ張ってきそうなふわふわの布団にくるまって、広い部屋で寂しく寝るだけ。ほんとにやるからなー楓…この整った頬が弛みきってしまったらどう責任とってくれるのかしら?
思わずふにふにと頬をつまむ。楓みたいな里の子と違って、一応名家の娘である私は、頬だってふくよかだ。ちなみに太っているのではないということだけは言っておこう。
でも、そんな豊かな生活の代わりに色々と制約があったりするのだ。
もしかすると、大体の事が自由なこの幻想郷においては、私が最も不自由なのかもしれない。
あーあ、あの子は私の事を羨ましがっているのかな、いや、そんなわけないか、むしろ同情してるのかな…あんなにかまってくるのは…
闇のせいか、妙な思考が頭を巡る。
「ええいっ飛んでけっ!!」
むしゃくしゃしたので近くの小石を思いっきり蹴り飛ばした。八つ当たり。
それはぐんぐん高度を上げて、楓みたいなお月様へと飛んでいく。落としちゃえ。
絶対届かない距離だけど、ぐんぐんと空を昇ってく。あ、消えた。
「帰って寝よ、ふわふわの布団だ、羨ましかろ、ふふふ…」
消えた小石にお別れを、そしてどこかの楓に一言告げて、森の闇より黒く笑い、私は再び歩き出す。
果たして羨ましいのはどちらなのか、ふかふかの布団で一人で眠る私なのか、はたまた藁布団に家族でくるまる楓なのか、それは実に分かりやすかった。
「御阿礼の子…か」
ふと呟く。
役目を負うのは辛いこと、充実感と同時に義務感、周囲から気遣われると同時に遠ざけられる。生まれた時からそんなだったから、今更変えようがないし、変える気もない。
だけど、たまには楓みたいに好き勝手に野山を駆け回ってみたい。楓は楓で苦労があるのだろう、だけど、やっぱり隣のお弁当は美味しそうに見えるのだ。
もしかすると、あの子が私に色々と話しかけてくるのは、そんな私の気持ちを知っているからかもしれない。
同じ位の歳の子ども同士、少しだけ、ほんの少しだけ『普通の子』になれるように…
もしかすると、このずだ袋だって、その為に持たせてくれたのかもしれない。
「ま、あの子の事だから普通に疲れたから押しつけただけの可能性もあるけど…」
楓の、どうにも心の底が見えない、だけど悪意がないのはわかる不思議な表情、そんなものが思い浮かんで、腹が立つやら悔しいやら、そんな自分がちょっぴり幸せなのがまた悔しい、あと…
「渡すの忘れてた…」
すっかり手に馴染んでいる楓の袋。あやつめ…預けたまんま別れてどうする?
ちなみに、私のせいではない。
私は幻想郷の記憶こと稗田阿求、見たものを忘れることはない。
しかし、見たものは忘れなくても、それを思い出さないと活用出来ないわけであって…
まぁ、結局の所幻想郷縁起を作る為だけの能力であるからして、実生活ではあまり役に立たないのである。
そう、そして今回の件は、それを考えなかった楓の責任だ。私に責任なぞあるはずがない、ないったらない。
でも、私が心清らかな証として忘れ物を届けてあげるのは…まぁやぶさかではない。
本当に心が清らかならそんな打算はしないだろうと言われそうだけど無視。
そしてしばしの逡巡。
すっかり景色は夜、薄闇に覆われて人気のない田んぼの景色。あるのは蛙っ気とか虫っ気とかだけだ。
家に帰ってもやることはない、ご飯を食べて、お風呂に入って…寝るだけ。家に帰らないとやっぱりやることはないし、どちらかというとやられそうだ。ご飯にされる…ことはさすがにないだろうけど。
楓がどこに行ったか知らないけど、さすがにあの子でも途中で気がついて私を追ってきているに違いない。逆に歩けばすぐに出会えるだろう、そうじゃなくても、まぁあの二股で蛙合唱団の活動でも鑑賞していればいっか。
っていうか、このまま歩いて行ったら、また腹黒だのなんだのと言われそうな気がする。きわめつき、忘れっぽいなんて言われた日には、いくらこじつけだとはいえ御阿礼の子として立つ瀬がない。
まして、楓の口からあの天狗にその事がばれたら、今度の文々。新聞に『九代目御阿礼の子に健忘症疑惑!?今代幻想郷縁起、早くも精度に疑問の声が』なんていう衝撃的な見出しが踊りそうだ。
それにそうなれば楓の事だ、おもしろがってあることないこと言いふらしそうだし…やはりお風呂で煮込んで口封じをするしかないか…でも殺したって死にそうにないしなぁ。
と、それはさておき、あんなイエローペーパーの記事を信じる人妖は少ない…とは思うけど、さすがに愉快な気はしない。記事にならないように、ちょっと気をつけることにしよう。
「よし」
私はくるっと逆を向くと、今来た道を歩き出した。
仕方がない、楓にこの袋を届けてやるか。とことんあの子に振り回されている気がするけど…ええいっ腹立つ。
「てやっ!」
八当たりとばかりに、楓のずだ袋をぶんぶかと振り回す。宵闇の中、くるくると回る楓袋、どうだ!御阿礼の子の力思い知ったか!
「ふえっ!?」
首に巻き付かれた…けほ。
少しだけ早足で、私は夜道を進む。
私はどこぞの妖怪や、それと同じような人間達と違ってか弱い乙女なのである。いくら里の中とはいえ、さすがに夜道は怖い。
さすがに何かに襲われることはないだろうけど…でも、妖怪の中には里で悪さをする輩が皆無なわけではないし、まして獣の類には、里も山中も変わりがないのだ。絶対とは言い切れない。
「それに普通に怖いし…」
きょろきょろと左右を見回す。
向かって左には田んぼ、そして左側には鬱蒼と茂る森がある。正確には、しっかりと刈り払われている里山で、昼間はよく薪を取りに行ったりするような場所なのだけど、夜ともなればその表情は一変、真っ暗森になっているのだ。
そこは、何が出てくるのかわからない、不気味な空間。少なくとも、人間が入るべき世界じゃない。
何が出る、出ないは別として、こんな所を一人で歩くのは、あまり気持ちがいいものではなかった。
確かに私は妖怪に襲われることはあまり考えられない。あちこち、幻想郷縁起の為にうろついても、不安を感じる事はない。御阿礼の子は幻想郷での、それなりに重要な役割を持っている…それは、妖怪達も知っているのだ。そして、私を襲うことは、幻想郷の大物妖怪を敵に回す可能性すらあるということも。
とはいっても、やはり生理的に怖いものは怖い。私だって、人間でありかよわき乙女なのである。
「楓め…まだ気づかないのかしら?」
私はこの出来事の元凶に文句をつけると、また少し歩調を速めて歩き出した。
道が分かれている、田んぼの中にある分かれ道。
蛙の声に混じって、何かの虫の声も聞こえる…涼やかな場所。私はそこで足を止めた。
何だかんだ言って、結局二股まで戻ってきてしまった、楓と別れた道の分岐。ここは、周囲に比べて少しひらけている。森が少しだけ遠のいて、ちょっと安心。
私は、適当な石を見つけると、ゆっくりと座る。着物を通して、固い感触があって、少し冷たさを感じた。
身体にあたる風には、少し寒さが増していて、夜空には星が増えていた。蛙の声は変わらない、たくさんの星が輝く下に、げこげこげこげこ鳴いていた。
道の隣に用水路、ゆっくり流れる水面には、月がゆらゆら浮かんでて、小さな水音が響いてる。
その時、暗い水面に蛙が跳ねて、月はほわんとゆらめいた。水面の星はかき消えて、光の流れが現れた。
「楓め…さては私が追ってくるのを待っているとか…」
しばらくして呟く。ありえない話じゃない、いつもあの子にはそうやって押しきられるのだ。にこにこ笑顔に押しきられるといった方がいいのかもしれない。
長い年月を重ねた妖怪と、人間ではあるけど、妖怪以上に癖のある連中とばかり付き合っていたせいで、裏の駆け引きはそれなりに巧くなったと思う。
でも、逆に、あんな素直に、真っ正面からぶつかられると、どうしても力を受け流せないのだ。里の子の中でも、私にあそこまで構ってくるのはあの子位…つまり、私にとっての唯一の苦手人物だったりするのである。認めたくないけど。
さて、ため息を重ねる間にも、空はすっかり夜色で、そこには月と星がのんびり浮かんでいた。何を気にする事もなく、ただ夜空にゆったりと…
変な事に悩んでいる自分がバカみたいだ。もういいや。
「地の果てまで追いかけていって、あのおとぼけ笑顔に、こいつを叩きつけてやるわ!」
私はそう言って立ち上がった。そう、勢い余って星に頭をぶつけないかっていう位思いっきり。
それにしても、今の私の言葉を誰かに聞かれたら、気が違ったか、もしくは偽阿求だとか思われそうだ。普段の私は、おとなしく清楚可憐な乙女として名高いのだから。
でもまぁ一人だからいいだろう、私の発言を聞いていたのは、多分田んぼの蛙と森の虫位なものなののはず。
私は、よしと一声腕まくりして、楓が消えた道へと進んでいった。
楓が歩いていった道をずんずん歩く。
彼女がどこに向かったのかは知らないけど、ひとまずこの道が途切れるか、分かれるかする所までは行ってみよう。
こちらの道も田んぼと里山の境目を縫うように進んでいた。何よりも正確な私の脳内地図によれば、この先は里から離れていくはずなのだけど…?やっぱり楓は妖怪?
さすがにそれはなだろうと思いつつも、気になることには変わりない。
でも、なんかわくわくしてきた。
稗田は常に好奇心を歓迎する。無論、その当主である私だってそうだ。
たった一つのずだ袋を残し、夜道に消えた花屋の娘、彼女が向かったのはどこか?そしてその正体とは?驚愕の事実が今明らかに!?
…う~ん、これじゃあどっかの文々。新聞になってしまうわね、少し自重しよう。なんていったって、こちらはあんな弱小新聞と違って、伝統と格式を重んじる幻想郷縁起の編纂者なのだ。
記事の精度や品位には定評があるのだから…あるよね?こんなに頑張ってるんだし…これであんなのと同列に扱われたら泣くしかない。
ちなみに、向こうは向こうで幻想郷縁起にかぁかぁ文句をつけているらしいけど、知った事じゃない。
嫌なくらい足取りは軽快だ。
里の中にいるときは、あちこちの目を気にしないといけないから、結構おとなしめにしているつもりだけど、こんな風に一人でいるときは、結構好きにしていられる。
あ~あ、不思議、気疲れが吹き飛んで、身体の疲れも全然感じない。
小川にかかる石橋越えて、お地蔵様を横に見て、てくてくてくてく私は進む。その時、行く先に小さな何かが転がって、小さな影になっているのが目に入った。
「ん?」
浮かんだ疑問を声にして、ゆっくりと近づく。月明かりのおかげで地面はほのかに明るくて、どうにかそれを見ることができた。
そこには小さな草鞋がかたいっぽ、仲間と主においていかれて、寂しく地面に転がっていた。
「楓の…草鞋?」
それを手に取り、私は呟く。
どこにでもあるような子ども用の草鞋、だけど、楓はそれに押し花をつけて飾っている。おかげで見分けがつきやすい。
さすが花屋の娘、こんな所でも宣伝を忘れない、あっぱれ商売人の鏡だ。それともただ子どもなだけ?
まぁたぶん、かわいいからとかなんとかそんな理由でつけているんだろう。そういう所に気を回しているあたり、ぼけているように見えても、あの子もちゃんと女の子しているな、と思う。私?そりゃもう言うまでもなく。
と、それはさておき、楓はなんで草鞋を片方置いていったのかしら?予備でも持っていて落としたとか…もしくは私が追いかけてきたのを見計らって、私が取ったとたんトラップ発動とか?突然巨大な籠が降ってきたりしないよね…
わけのわからない思考を、首を振って無理矢理吹き飛ばす。楓はそんなことはしない、私はやるかもしれないけど。
落とし物…?ぽい捨て?もしそうなら幻想郷縁起に書いてやる。でも、楓がそんなことするとはあんまり考えられないしなぁ…
思考はぐるぐると巡って、結論はなかなか出てこない。でも、やがて小さな不安に行き着いて、私は思考を止めた。
「どうしたんだろう…」
一つの仮定は大きな不安になって、私は自分を抱いて独語した。
田んぼを渡る風がさっと頬をかすめて、森へと消えていく。冷たい風が、また不吉な想像を置いていった、不安がまた膨らむ。
「まさか…ね」
大きさを増した不安を振り払おうと、もう一度独り言、でもそれは振り切れない。どうしたんだろう、何でこんなに不安になってるんだろ…?
ゆっくりと、視線をずらす…
月はまた雲に隠れて、星の光は弱々しい。道は暗く、風は冷たい。鼓動が速まっている、息が荒い。何を慌てているの?楓が襲われているとでも考えているの?
まさか…そんなはずはない、ここは里の中…妖怪がこの中で暴れることなんて考えられない。あり得ない、人間と妖怪のバランスを…幻想郷のバランスを保つために、妖怪の賢者の庇護下に置かれているのだ、誰が好きこのんで紫様のような大物とぶつかることを望もうか。
でも例外はある。
変なことを考える自分の思考がとてつもなく嫌だ。なんだ、やっぱり腹黒じゃないか私。友達が酷い目に遭っていると考えてるの?
妖怪だって色々だ、中には…
「やめてっ!!」
思わず叫んだ。自分の耳を押さえる、でも声は聞こえてくる、ああもう私のバカ!何で悪い方向にばかり思考を…
獣に襲われる事だってある、里の中だって安全だとは言い切れない。
「ああもうっ!」
自分で自分をぽかぽか叩いた。これじゃ危ない人だ、楓の言っていた通りになってしまう。
ないないあり得ない、何で草履一つからここまで妙な想像をしなければならないのか…暗闇は人の精神に影響を及ぼすって話もあるし、そのせいね、うん。
こんな所を楓に見られたら、里中の物笑いの種になるわ。絶対言いふらすし!
きっとそこら辺の藪に隠れてほわほわ笑っているに違いない!楓の方が腹黒よ!!
こんなに心配かけやがったあげく、突然阿求ちゃん可愛いとか言ってくるに違いない。いや、それはまぁ否定し得ない事実ではあるけど、楓に言われると子ども扱いされてそうでなんか腹立つ。
「まぁ阿求ちゃん可愛いけど」
ほらほら…ん?
「そして面白いよ」
「それは違う!」
きょろきょろ。
なんかあらぬ声が聞こえた気がするわ…具体的に言うと楓の声が…
「こら、出てきなさい」
両手を腰に当てて、精一杯威厳を出す。照れ隠しとかそういうのではない、ないよ?私があんな子の心配なんてするわけがない、そうそう、御阿礼の子は常に沈着冷静、どんな相手、事態を相手にしても動じないのだ。
太陽の畑で妖精に驚かされてた?え、えっとあれは…その、フィクション、幻想郷縁起をおもしろおかしくする為、ちょっとした虚構を混ぜたのだ。これでみんなが高嶺の花と思っていた私を身近に感じてくれるだろう…なんか違う?
読者を楽しませ、幻想郷縁起を親しみやすくするというのもよい編纂者の務めなのだから。
「あの時半泣きになって帰ってきたって聞いたけど。服泥だらけにして…お手伝いさん達が言いふらしてたよ」
「う…」
くっ!みんなおとなしそうな顔をして、実は面従腹背の輩であったか…やはり、これからはお手伝いさんにしっかりと教育をせねばなるまい。具体的には私がいかに可愛くて
有能な子であるかを。
ところで…
「楓、どこにいるのよもう!」
ぶんぶんと腕を振り回す。
声はすれども姿は見えず…楓には、姿は見えないけどどこにでもいるイメージがあるけど、ひとまず声をかけてきたら姿も同時に見えているはずなのだけど…
妖精にでも騙されたかしら?
「違うよ?」
「む…」
黙って周囲を見回すけど、やっぱり姿は見えない…どこ?
また風が吹いて、髪が揺れて、熱くなっていた頭を冷やす。思考が落ち着いてきて、私は息を整えた。
「楓、冗談はそろそろ…」
「冗談じゃないよー阿求ちゃんのせいだからね」
かみあっているようでかみ合っていない会話…楓の声は、怒っているようで全然尖っていなかった。
さっきから、月は雲に隠れたり再び顔を出したりしている。また雲に隠れた、暗さが増す。
「あのね…」
「阿求ちゃんが…」
わざわざ人が追いかけてきてやったというのになんて事をいってくれやがるのか、だけど、抗議しかけあ私の声は、楓の声に打ち消される。
「阿求ちゃんがもうちょっと早く来てくれれば…」
その時、ふと視界に変なものが映った…服の切れ端?あの柄は…
「私襲われずに済んだのに…」
「か…楓?」
楓の姿はどこにも見えない、どういうこと?冗談にしてもたちが悪いよ…楓…楓…
「もう、家に帰られなくなっちゃったじゃない」
何で…何で帰れないの?
「阿求ちゃんもこっちに来なよ、案外居心地がいいよ?」
でも、私のごちゃごちゃになった頭なんて気にしないように、楓の声は言う。他人の状況を考えないのは、いつも通りの楓だった。
「て…転生の準備まだできてないし」
転生の準備ができていたらいいのかと言われそうだ…いいような気もする。特にやることもないような気がするし、楓がいるなら暇しなさそうだし…でも…
思考が全然まとまらない。楓…そうしちゃったの?実は楓じゃなくて妖精の悪戯とか?本人は荷物のことなんてすっかり忘れていて目的地に着いているとか?
ほら…だって楓が襲われるとかあんまり想像できないし…
「大丈夫大丈夫♪」
「あ…あのね…ひぁっ!?」
脳天気な声に続いて、私の悲鳴。
声は慌ててる、身体は固まっている、だけど思考は変に冷静だった。
足首が何かにつかまれた?冷たい…どろどろした手みたいなのに…
「は…う…」
ぺたりと地面に尻餅をついた。
これが俗に言う腰が抜けたとかいう状況なのだろうか?
着物を通して伝わる土の感触を感じながら、私は変な事に感動していた。
「あ…」
その時もう一度楓の声、何かに怯えたような声…足首からあの感触が消えた。そして、また楓の声が聞こえた。
「戻ってきた…」
「え…」
何が?
そう言いかけた私の声は一瞬で止まった。足首の感触に気を取られて気がつかなかった…背後に、何かの気配がある。
人間じゃない、特別な力を持たない私にだってわかる。人間が、こんな…こんな強烈な圧迫感を持っているはずがない。
「ごめんね」
「ほぇ」
楓の声、だけど出てきたのは我ながら情けない返事だった。腰が抜けて、しかもこんな返事なんてしているのがばれたら、もう里中どころか幻想郷中の物笑いの種になってしまう。いや、もうばれてるけど。
「戻ってくるなんて思わなかったんだ…巻き添えにしちゃった」
巻き添え?何の?
「でも、こうなったのも阿求ちゃんが荷物持ってっちゃったせいだから痛いのも半分こっていうことで。あれ?どっちかっていうと倍なのかな…痛いのは減らないし」
あ、だから何が…
「お前もか」
「え?」
その時、怒ったような、苛立ったような声が聞こえて、私は思わず問い返す。これは楓の声じゃない…楓にこんな威圧感はない。それに多分…
人間の声じゃない。
楓の声は消えていた。楓もこいつに…?
「お前もか」
また声が聞こえた。
風は止まっていた、森は静かだった、用水路の水音だけが響いていた。月と星は、煌々と夜空に輝いていた。もうすっかり夜だった。
少しだけ落ち着いた。
「何がですか?」
問い返す。どんな状況でも好奇心は失わない、それはささやかな稗田の矜持だ。
相手が一瞬考えるような間があった。でも、それは長く続かない。この間が終わったとき、私も楓と同じ目に遭うと思った。
「だから…」
また声が聞こえた。苛立ちが増したような…そんな声。私は身構えた。
「だからお前も忘れたのかと言っている!!」
夜を揺るがす怒声に振り向いた。
森道空田んぼ…他に何も見えない…いや、何かが私に突進…
「きゃ!?」
そしておなかに凄まじい衝撃、思わず息が出来なくなる。何かとてつもなく堅いもので抉られるような…そして奇妙な浮遊感。
一瞬の後、私は空を飛んでいた、夜の空気は冷たかった、世界がぐるぐるとまわって…そして、真っ暗になった。
「阿求ちゃん、大丈夫?阿求ちゃん?」
「う…いたた…」
聞き慣れた声に、私は視界を取り戻す。目の前には心配そうにこちらをみる楓の顔がある、私の言葉を聞いて、安心したみたいに笑顔になった。
そしておなかが痛い、とっても痛い。でも、痛いということは死んではいないらしい。
「何があったの?」
そう言いながら私は状況を確認する。周囲はひんやりと冷たい…水?身体が半分くらいやわらかな泥に埋まっていて、うまく動けない。
ここは…
「田んぼ?」
こくこく
私の声に楓が頷く。こっちも半分泥に埋まりながらも無事っぽい。
そして、意外と泥が暖かくて、不思議と気持ちよかった。あとおたまが服に入ってくる、こらつつくな!私は食べ物じゃない!!
「妖怪に吹っ飛ばされた?」
今度は頷かない、楓はちょっと首を傾げて、少し考える。
月が雲に隠れて、また出てくるまでの時間、私は答えを待った。別に急ぐ事でもないし…
「妖怪じゃ…ないよ」
少しだけ時間が過ぎて、楓が口を開いた。
「じゃあ何?」
人語を解する獣とか?それはあんた妖怪だ。
楓は難しい顔をして黙り込む。困り顔が水面に映って、やっぱり難しい表情をしていた。時がのんびりと流れていた。
「…慧音先生」
しばらくして、楓がゆっくりと口を開く。なんか言いにくそうに。
「は?」
「だから慧音先生」
この花屋の娘はとうとう頭に花でも咲いたのか?何で里の守護者たる上白沢様がかよわい御阿礼の子他一名を襲わなければならないのか、ありえない。
でも、そんな私の声に、楓はぷっくり頬を膨らませて言った。
「違うよー阿求ちゃんみたいに真っ黒な花なんて咲かせてないもん」
誰が黒い花など咲かせるか!
「阿求ちゃん」
即答かよ…
「こほん」
咳払い、こんにゃろめの話術にのせられると、話が進まなくなる。悔しいが、でたらめな事には目をつぶり、要点を聞こう。
「何で上白沢様が楓と、私を襲わなきゃならないの?」
「阿求ちゃんが登校拒否だから」
うっわ真面目に答える気ゼロだよこの子、ぷいとかってそっぽ向きやがった。このまま田んぼに植えてやろうかしら?いや、もう植えられてたか、そもそも何でうらわかき乙女が二人、田植えされなきゃならないのかしら。
「っていうのは冗談で宿題忘れちゃったの、阿求ちゃんに渡した袋の中に入ってたのに…」
今度は真面目な顔して言う楓、だけど、何で宿題を忘れた位であんな目に…
「慧音先生、満月の夜は気が立ってるんだよね…」
楓がそう言ってぼんやりと空を見た。あ、なんか疲れた顔してる。この子にしては珍しい。
そして、私もその視線を追った。
黒い空に白い月、まんまるゆっくり輝いている。満月の夜、人も妖怪もその力を受ける、半獣も例外ではない。
「そうなんだ」
「うん」
私の答えに短い返答。
そうか、そういえば宿題を忘れると恐ろしい罰が待っていると楓が言っていた、頭突きとか。そして、この道の先にあるのは上白沢様の家だ。
…あの堅いのは角だったか、確かに、上白沢様は満月の夜に白沢になる。
これは幻想郷縁起に追記しないといけない、満月の夜に彼女の元を訪れるのはやめるようにと…角の生えた頭突きは痛い。
謝っても許してやらん、こんな可愛い御阿礼の子他一名を田んぼ送りにするなんて…稗田の歴史に上白沢様は介入できないし…ふふふ。
「もー阿求ちゃんが持ってきてくれてたら大丈夫だったのに」
私がそんな事を考えている間に、楓はそう言って頬を膨らませる、ぷくぷくぷくぷく…まんまるに。
「あんたが私に預けたのが悪い」
言い返した。
楓の頬がますます丸くなる。あんたはリスか!
「むむ…阿求ちゃん黒いよ?」
「黒くない」
「あの森よりも…」
「黒くない」
「あの空よりも…」
「黒くない」
「あの月よりも…」
「黒くない」
「それはそうかも」
「む…」
確かに、黒い月があったら嫌だ。なんか不気味…
そう思って月を見たら、我関せずと丸かった。楓を見たら、くすくすくすくす笑ってた。
「あ~あ、もういいや」
私はそう言って畦によりかかった、草が首筋をつついてくすぐったい。
草と土が服はどろどろでぼろぼろ、確かにこれは家に帰れないわ。
お手伝いさんが見たら何事かと思うだろう。中身ごと洗濯桶に放り込まれるかもしれない、まぁそれはそれで楽しいかも。
御阿礼の子だって、たまには羽目を外したいのだ。
「てやっ!」
「きゃっ!?」
そんなことを考えていたら、突然泥をぶつけられた。あ~もう、口に入った!苦いしがりがりする!!
「羽目を外したかったんでしょ?阿求ちゃん♪」
楽しげな声が聞こえてくる。
目の前ではほわほわならぬにやにや笑顔の楓がいた。こんにゃろめ…また思考を読んだな。
「そうね…」
私はそう言ってにっこりと笑う、森から鳥が飛び立った。…こら、何に怯えた?
「くらえっ!」
「甘いよっ阿求ちゃんっ!秘技蛙返しっ!!」
「ふきゃっ!?蛙投げるなっ!!楓めっ大蝦蟇様の池に放り込んでやるっ!!」
「阿求ちゃんさっきからカニ投げてるじゃない!痛いっはさまれたっ!!」
「ふふふ第二撃…って痛っ!痛いっはさまれた!?」
「阿求ちゃん意外とバカ…よーしタニシ攻撃!」
「誰がバカよ誰が!ってタニシ痛い!?か弱い乙女に何するのよっ!!」
「その言葉そっくり返すよ阿求ちゃん、てやっ!!」
「やったな!こっちだってっ!!」
ぼっちゃんぽちゃんぺたぺたがじがじこんごんげし
蛙飛び交いタニシが直撃、蟹ががじがじ挟んでくる。今外れたのは蝦蟇蛙?それとも大きな雨蛙?
楓も私も泥まみれ、毒を喰らわば皿まで、泥を被らば頭まで。田んぼに落ちて泥まみれになっちゃったのだから、もうこの際とことんまでいっちゃっても気にしない。
どろんこまみれになりながら、私と楓は田んぼでさんざん暴れていた。
「疲れたねー阿求ちゃん」
楓が言った。
「ええ、もう色々な意味で疲れたわ」
私は答えた。
あれからどれくらい経っただろう。まんまるなお月様が、ますます明るく輝いている頃、私と楓は並んで空を眺めていた。
火照った体が、だんだんと冷やされていく。早く帰らないと風邪ひくかしら…ひくだろうなぁ。
「でも面白かったねー」
楓が笑う。泥を落とそうと、さっき小川でばちゃばちゃ遊…水浴びをしたせいで、どろんこだった顔はすっかり白くなっている。
「ま、そうかも」
私も答える。横を向いて…
正面を見ると、笑顔が楓にばれそうで恥ずかしかったから。
「ばれてるよ?阿求ちゃん」
「む…」
楓が笑っていた、私の口はへの字になった。
口に出す癖を直さなければならない、これじゃあ乙女の秘密もなにもあったもんじゃない。
「あはは、言ってなかったよ?阿求ちゃんの考えてることは大体分かるの。ほら、それに阿求ちゃんのにやにやが水面に映ってる…」
楓はそう言って田んぼを指さす。ああ、確かにそっぽを向いて、照れながらも笑っている阿礼の乙女の顔が見えるわね。
っていうか楓…思考を読んでるってことは…
「やっぱ妖怪じゃん」
「そうかも♪」
楓はそう言うと草むらにごろんと転がった。ホント、風邪引かないかなぁ…いや…
「…バカじゃないからね」
ちょっと真剣な視線…
「だから人の思考を読まない」
じとっと睨んでくる楓にそう言い返した。もう、こんな所にびちょびちょなまんま転がっているのを見つかったら、お手伝いさんになんて言われる事か…
あ、でもなんか気持ちよさそう…
「いいや」
私も転がった。身体中に草の感触、柔らかで、尖っていて、とてもいい気持ち。視界がぐんと広くなって、夜空が一杯に広がった。こんなに広い空は久しぶりな気がした。
そして、隣にほにゃっとして暖かな何かが寄ってくる。楓だ。
「阿求ちゃんは腹黒だからねぇ、たまにはこうやって素直になった方がいいよ」
楓が言った、不思議と腹は立たない。
「さっき阿求ちゃん楽しそうだったし、はしゃいじゃいなよ」
後が怖いし、人目も天狗目も怖いんだけど…
「うん、元気一杯だったもん。笑顔が輝いていたね、爛々と」
いや、その表現はどうかと思うけど…でも…
「まぁたまには…ね」
私はそう言って空を見た。星がたくさんとお月様が一つ、楓が手を握ってきた、暖かい。
きっと、この子がいつも楽しく笑っているのは、こうやって色々なものに嫌な気持ちを吸い取ってもらっているからなのかもしれない。そして、楽しい気持ちをまた返しているんだろう。そして、私にも分けてくれている…
毎日毎日遊んで、怒られても…それでもまた遊んでる。そんな日常は楽しそう。目的もなくばたばた騒ぐのも、きっと楽しいに違いない。
私は?
幻想郷縁起は書き終わった、役目は終わった…ならどうするの?
せっかくだし、やっぱり目的もなく遊ぶのもいいかもしれない、楓みたいにはしゃいでもいいかもしれない。
役目は果たしたんだから、もう『阿求』になったっていいじゃない。
楓はそれをわかって言っていたのかも…う~んわかんないけど。
「ね、楓」
空を見たまま言った。返事はない、だけどきっと聞いてくれているだろう。
「今日は楽しかったよ」
木の葉が一枚飛んできて、あっという間に消えていく。
「ありがとう」
小川でぽちゃんと蛙が跳ねた。小さな水音が聞こえてきた。
「また遊んでね」
流れ星一つ、夜空の真ん中流れていった。
「流れ星にお願い…か」
星がどこかに消えたとき、私はのんびり独り言。
楓は答えてくれなかったけど、上手い具合に流れ星。小さな願い、きっとかなえてくれるだろう。まぁ、こんな願いはしなくても大丈夫そうだけど。
「ね、楓…」
「楓…?」
「すぅ…」
「寝てるし…」
気がつけば隣で小さな寝息、私の手を握ったまんま、楓はすやすや寝息を立てていた。
「あ~あ、風邪ひくぞ」
ずいぶん絞ったけど、服はまだ湿っている。動くのをやめたら、結構寒かった。
楓はすっかりすやすやと寝息を立てている。
夏風邪はバカがひく…そんな言葉の由来はこんな所にあるのかもしれない、そんな事を思いながら、私は楓をゆすった。
「起きないと置いてくぞ~」
「ふにゅ…阿求ちゃん黒い~」
「寝言でまで言うか」
「けど優しい~」
「う…」
「可愛いよ~」
「ま、まぁそれは…」
「大好き~」
「…まぁ私も」
「お団子~」
「…あんた起きてるでしょ」
「あ、ばれた」
楓はそう言ってがばっとはね起きる。こやつめ…おかげでずいぶんと恥ずかしい事を言ってしまったではないか…
そんな私に楓は笑う。
「それじゃあ今日はお開き、明日、寺子屋でね」
にっこり笑って楓は言った。そしてう~んとのびをする。髪に星が輝いて、そのままぽとりと地面に落ちた。
「だから私は…」
「…お星様にお願いしなくても私がかなえてあげるから♪」
「はっ!?」
そんな楓はいたずら笑顔、しまったまずったうかつだった。
「ね」
笑顔の脅迫、意図してやっているのかそうじゃないのか、どちらにしろ私が答えられる言葉はたった一つだけ。
「わかったわよ…」
「決まりっ!迎えに行くね明日っ!!」
きらきら髪を光らせて、楓はきらきら笑顔で言った。
まぁたまにはいいかもしれない、上白沢様には色々と言いたいこともあるし、ついでだからそこの田んぼの惨状もどうにかしてもらわないとダメだし…
「それじゃあ今度こそまた明日っ!!」
楓はそう言うなり立ち上がり、とてとてと家に駆けていった。今日何度目の別れの挨拶だろう、それに、家に帰るんなら二股まで一緒なのに…あと袋忘れてる。
そんな私の向こうでは、どうやらそれに気づいたらしく、ぱたぱた戻ってくる楓の姿。髪から星を振りまいて、夜の道を駆けてくる。
「さっと…」
私もゆっくり身を起こす、暗い夜道に影が伸びた。あ~あ、屋敷に帰ったらどう説明しよう…そうだ、妖精にばかされたことにしよう、二人揃って。こういうときに妖精の存在は便利だ。
「阿求ちゃん!やっぱり途中まで一緒に帰ろ」
息を弾ませ楽しげに楓が言った。髪からまたぽたぽたと滴が落ちる。
「いいよ」
楓にそう答え、私はのんびり歩き出す。
「わ、待って」
楓が隣についてくる。てくてくてくてくついてくる。
田を渡る風は気持ちよく、空ゆく星がまた一つ。
小川に星が落ちていて、蛙がすいすい泳いでる。
星空にもう雲はなく、大きく丸いお月様、私達を見下ろして、のんびり空に浮かんでる。
耳にとびいる蛙の合唱、そして聞こえる楓の声。
平和で楽しいこの今を、私はのんびり楽しんでいた。
『おしまい』
「ええ、また今度」
手を振ってきた少女に手を振り返し、私は空を見る。
すっかり茜色に染まった空に、ほわほわと雲が浮かんでいる。そんな雲も茜色、所々に星が見え始めていた。
西の空には宵の明星、人間の時間はもうすぐおしまいだ。これからは妖怪の時間…といっても、里にいる限りそんな怖い目には遭わないはずだけど。
なにはともあれ、里の家々から炊事の煙が上がっていて、鴉もかぁかぁ鳴いている。よって私もそろそろ帰らなければならない。これでも里の名家であるからして、少しでも帰りが遅くなると色々と煩いのだ、お手伝いさんが。
「だって可愛いもんね、阿求ちゃん」
「そう、可愛いから…ん?」
なにやら『小さい』を省かれたような言葉が耳に入った私は、ふと顔を上げる。誰だよ?っていう感じで。
そこには、にこにこと笑みを浮かべた少女がいた。悪意がないというか何も考えていないというか…そんな顔。私は、表情を変えずに腕を組む。
「…楓、何であなたがここにいるの?たった今別れなかったっけ?」
とがった私の言葉にも、少女は笑みを崩さない。何を言われても気にしないような、そんなほわほわ笑顔。
彼女の名は楓、里の花屋の娘。何でか知らないけど私にやたらとかまってくる、寺子屋に来ないの?とか。行ってもしょうもないから行かないのに…
今日も、里長の所でさんざん幻想郷縁起についていろいろと説明、続いてありがた~いお話をたっぷりどっさり頂戴して、かたもこりこり気疲れたっぷりで出てきた所を捕まったのだ。泣きっ面に蜂とはよく言ったものだ。
そして延々と登校拒否問題についてのお説教を喰らった…ようやく解放されたと思ったのに。
そう、そして、彼女とはさっき…というか、たった今手を振って別れたはずだ。それがなぜ今私と話しているのか…
「反対側に届け物があるの忘れてた」
そう言って楓はぺろりと舌を出す。年相応の可愛い仕草が自然に出てくるのが羨ましい、私なんてこないだ同じ事をしたら無理矢理布団に入れられ、額に氷嚢をのせられた。礼式を重んじる名家の娘というのもなかなかに不自由だ。
「だって阿求ちゃん普段笑いが黒いもん、可愛く笑ったら何か企んでるか気が違ったかと思われるに決まってるよ」
「私は黒くない」
失礼なことを言った彼女を睨む、この身も心も清らかな私のどこに黒いものがあるというの?神聖な大蝦蟇様の池だってこれほどには清くない、蓮の花だって咲いていよう。
でも、彼女は相変わらずにこにこと笑っている。迫力が足りないのかしら?ついでに思考が読まれている気がする。幻想郷縁起に書いた方がよいかもしれない、妖怪の分類に。
「黒いよ?」
「黒くない」
「腹黒」
「だから黒くない」
「真っ黒」
「違う」
「心の底まで真っ黒」
「違うったら違う」
「白いよ」
「だから白く…あ」
「あははっ、阿求ちゃん可愛いっ!」
抱きしめられて、頭を撫でられる、可愛くないと言おうとしたものの、それは事実に反するのでやめておいた。それにしてもこんな単純な言葉遊びにひっかかるなんて我ながらまだまだだ。
「可愛いよ、普段からこんな風に笑っていればいいのに」
「む~」
なんでか頭を往復する手のひらが気持ちよくて、私は黙り込んだ。髪型が乱れると言いかけたけど…まぁいいか、どうせもう帰るだけだし。今日は里長の所でさんざん幻想郷縁起の説明をさせられて疲れてしまったのだ。
そんな思考の間にも、楓の行動は加速する。撫でるのにリズムをつけるな!
「可愛い可愛い♪」
なんか小動物扱いされている気がして腹が立ってきた。
「一家に一匹あきゅーちゃん♪お腹が真っ黒素直な子♪」
されてるし、単位匹だよ。
「変な歌歌わない、しかもお腹が真っ黒素直な子って何?」
突っ込みどころは数あれど、ひとまず意味的におかしい所に突っ込んだ。
「阿求ちゃん」
笑顔で返された、なんかもー疲れた。鴉の鳴き声がばかぁーばかぁーに聞こえる、鳥にまで馬鹿にされたか…
おのれ、明日の夕食は焼き鳥にしてやる。
「行こうか」
茜色の空は長く続かない、だんだんと藍色へと変わっていく。二色の空が頭上に広がる。その不思議な空の下、楓の声が聞こえた。
楓の頬に、少しだけ夕焼けがついて、茜色に染まっていた。
「うん」
私は、しばらくして返事を返した、歩き出す。変化は早い、もう空は半分くらい藍色だった、なんとなく黒とは言いたくない。
「黒くないし」
「そこは否定しないのね…」
「うん、黒いのは阿求ちゃん」
「もういいわ、黒くて」
「うん」
「…否定しないのね」
「うん」
小さなずだ袋を持った楓が、楽しそうに隣を歩く。ステップをふむ度に、袋がぴょこぴょことはねる、二つのおさげも一緒に舞って、明るいリズムをふりまいている。何で楽しそうなのかは知らないけど…でも、この子はなぜかいつも楽しそうだ。
ホント、里の子どもは気楽でいいわ…
「あ、袋持って」
「え…」
その時、なんの脈絡もなくずだ袋が渡された。あまり質のよくない布の感触があって、腕に重みがかかる。思わず受け取ってしまったけど、一体何?
「疲れちゃった~分かれ道まで持ってて」
訝しむ私の視線に、何の悪気も感じられない声が聞こえてきた。こら、御阿礼の子を荷物持ちに使うとは何事か!
「ほら、私阿求ちゃんと違って肉体労働だったから、腕疲れちゃって。あ、それ中身大事なものだからなくさないでね」
でも、鋭さを増した私の視線にも、彼女は動じない。そんなことを言ってう~んと伸びをしていた、完全になめられてる気がする。あと大事なものなら他人にまかせるな!
「あ、壊れ物じゃないし、阿求ちゃんは友達だし、他人じゃないよ?」
矢継ぎ早に言葉が届く、むむ…
「あのねぇ…」
「ほら、分かれ道まで半分位だから。友達なら苦労も笑顔も半分こ♪」
渋い顔して言いかけた私の言葉は、軽やかな言葉によって、あっという間に遮断された。ええい、勝手な。
「笑って誤魔化してもダメ、だったら私の気苦労も半分持っていってよ…」
そう、耳の遠いお爺さん相手に、何度も説明をさせられた私の気苦労は誰が背負ってくれるのか…ついでに、二刻の間正座してお話を拝聴する羽目になったし、さらに付け加えると里長三分の一位寝てたし!寝るなよ!!
「気苦労は背負えないからね、残念残念♪」
「うわ、腹立つ」
口笛を吹いて、手を後ろに回した彼女は実に楽しげで軽やかだ。周囲の田んぼでは、蛙だって楽しげで、不機嫌なのは私だけ、世の中は不条理極まりない。
この袋を放り投げてもいいような気がするけど、そんな事はしないと信じているんだろう。ええいもう、本当に腹立たしい。
私は、妖怪にも対等に渡り合う自信はある…ただし言葉で…でも、この子にはいつも言い負かされている気がする。なんでだろ。
こっちは人でありながら妖怪と対等に話す存在、御阿礼の子だってのにもう!
あと、思考が完全に読まれている、こやつは特殊能力を持っているに違いない、やはり幻想郷縁起に分類が必要だ。種族花屋の娘、人間友好度高、危険度高…なんでやねん。
「阿求ちゃんあんまり一人でぶつぶつ言っていると危ない人みたいだよ?危ない人だけど」
そんなことを考えていたら、不安げな瞳が私を覗き込んでいた。可哀想な視線で見ないで欲しい…
「口に出していたとは迂闊…」
でも謎は全て解けた、これからは思考を口に出さないように気をつけよう。
あと言っておくが私は危なくない、常識と良識を兼ね備えた才色兼備な里の花、九代目阿礼乙女とはこの稗田阿求のことだ。
「じゃあうちに飾ってあげるね、枯れないように」
「枯れんわ!」
「あのね、それで今日は春告精が来てくれたおかげで大入り満員だったの」
楓は身振り手振りを交えて話している。里のあぜ道にぺたぺたと響く足音、薄闇の中でも、この周囲だけは明るさが三倍増しだった。
「ああ、それで今日は里が春っぽかったんだ」
そういえば、もう夏に向かっているはずなのに涼しかった。
暑くもなく、寒くもない、優しい風が頬を撫でて、降りそそぐ日射しにも灼くような力は感じない、なにもかもが穏やかで、思わず意味もなく楽しくなってくるような…そんな一日。
「春っぽいって何?」
楓が首を傾げる。
私は、目の前にその象徴を見つけ、黙って彼女を指さした。首はますます傾く、疑問の大きさによってその傾斜角度が変わるらしい、面白い。
「む、やっぱり阿求ちゃん黒いよ」
そして、一瞬の間を置き、頬を膨らませた楓。私は彼女に笑みを送る、今度は思いっきり悪人っぽく。
そんなに黒黒言うならちょっと黒っぽくなってやろうじゃないの。
「ふふふ…稗田家に逆らった者の末路を思い知らせてくれよう、市中引き回しの上生きたままお風呂で釜ゆでに…」
「あ、阿求ちゃん黒くない」
「ここで否定するのっ!?」
思わず突っ込んでしまった、何で今までの可憐な私の言動を否定しておきながら、私らしからぬこの言葉が黒くないの?
「あはは、だって…」
楓は空を見上げて笑う、頬が青白く輝いた。いつの間にかそこにはまんまるな月がある、話していたら気がつかなかった…いつの間にか夢中になっていたのかしら。
「冗談を言っている阿求ちゃんは黒くないよ?」
ちょこっとおくのは小さな間、素直に私を見つめて、楓は言う。真っ黒な瞳がこちらを見ていた、吸い込まれそうな位真っ黒な瞳。
私は、彼女のこんな瞳が苦手だ。防壁を張れない、私は御阿礼の子なのに…
「冗談ではなく稗田家に伝わる秘伝の風呂煮込み術が…」
思わず、冗談めかして答えるけど…無理だ、この子には勝てない、わかっている。
そう、幻想郷縁起を書いていてすら、この子のペースに巻き込まれたのだから、こんな会話で真っ向から対抗できるはずなんてないのだ。
でも、つい言い返してしまう、否、言い返さなければならない。だって私は御阿礼の子だから。里の子とは違うのだから…
「お煮染め?阿求ちゃんお料理できたっけ?」
「風呂で作ってどうするのよ!」
私の重い思考とは別に、会話はとことん弾んでいる、そのまま弾んで夜空に飛んでいってしまいそうだ、打ち上げ花火。
どかんときれいに花が咲き、あっというまに消えていく…
やっぱりダメだ…完全に相手のペースにはまっている。なんでだろう…なんでこの子には勝てないんだろう。
私はそう思いつつも抵抗をやめない、実に不思議な事だけど、この子に言い負かされるのが楽しかった。
「名家の娘は料理などせずとも…」
「つまりできないんだね阿求ちゃん」
「む…それはまぁ…そうとも言うけど」
「そうとしか言わないよ?阿求ちゃん」
「む…む~」
まもなく、戦いは予測された結末へと辿り着く。私は天を仰いで慨嘆した。
空にはまんまるお月様、地にはまんまる笑顔。こいつらには敵う気がしない、欠けることない二つのまるに、私はとうとう降参、ため息をついた。
「あ~もういいや、家帰って寝よ」
ぐいっと背伸びをする、なぜかとても気持ちがよかった。手のひらに感じた風は、少しだけ夜の雰囲気を纏っていた。涼しくて、でも暖かさを残していて、まるで何かが出てくるみたいなそんな小さな…
「うん、それがいいよ。寝る子は育つっていうしね♪」
不安感は吹っ飛ばされた、ええい、まだ言うか。この子の笑顔じゃ妖怪も逃げるに違いない。寄ってくるのは春告精位なものだろう、この春っ娘め。
ふと気がつけば別れは近い。視線の先、道の向こう、ぼんやりと分かれ道が見えていた。もうそろそろ里のはずれだ、田んぼでは蛙がゲコゲコとうるさい、今度大蝦蟇様に苦情を持ち込もう。騒音公害だ。
それにしても、一人で来るときにはずいぶん長く感じるのに、今日は不思議と短い時間だった気がする。
「じゃ、今度こそまたね、阿求ちゃん」
「はいはい、転生したらね」
楓が足を止め、言った、お下げがぴくりと動く。私は手を振ってそれに応じた、嫌なことを言ったはずなのに、楓の顔が楽しそうに変化する。
「あははっ!再会の時には花束でも贈るよ。私死んでるけど」
「彼岸花でも贈ってくれるの?」
「どうしよっかなー。ま、花屋の娘に任せなさい!」
楓はどんと胸を叩く、本気でやる気っぽくて怖い。
転生…その時引き継がれるのは『稗田』としての記憶だけ、『阿求』としての記憶が引き継がれることはない。きっと、楓の事は忘れているだろう。
でも、諦めに似た心で受け入れているそんな事も、何故かこの子と話していると普通に乗り越えられそうな気がしてくる。
ずっと先、転生祝いにと、幽霊になった楓が花を渡しに来る。神聖な御阿礼の神事も、この子にかかればただの喜劇になりそうだ。
…まぁあんなかたっくるしいこと、喜劇にしてもらった方がよさそうだけど。
そんなことを考える私の脳内に、あらぬ光景が浮かんできた…
厳かな神事の最中、突如として乱入する楓幽霊。
とんだ闖入者に神事は中断、悲鳴と怒声がその場を包む中、よくわからない花を大量に持った楓幽霊が、ほわほわと空を飛んできて言うのだ。
「阿求ちゃん、再会のお祝いだよ!」
ぼはっとばかりに花が舞い、小さな御阿礼の子は目をぱちくりさせながら花に埋まる。記憶なんてどこにもない、阿求なんて名前しか知らない、目の前の幽霊は名前も知らない。
だけど、きっと『私』の欠片がこう言うはずだ。
「やると思った…」
呆れた声に笑顔を混ぜて、見守る大人は何がなんだかわからない。御阿礼の子は、自分が何を言ったかさっぱりなはずだ。
もちろん神事はやり直し、新たな御阿礼の子が行う初仕事は、前代未聞の御阿礼の神事やりなおしを記憶すること。これじゃあグレそうだ。
幻想郷縁起も、あらぬ当て字で書かれるに違いない。嫌騒狂怨偽とか書かれたらどうしよう。
…それはそれで面白いかも知れない。
「今のうちから見繕っておくよ、じゃ」
と、私の思考はあっさりさっぱり遮断された。
最後まで明るく言って、返事も聞かずに楓は駆けていく。月の光に照らされた、小さな身体の後ろから、小さな影がついていく。薄闇の中、二つのお下げが踊っていた。
「うん、またね」
ゆっくりゆっくり…そんな後ろ姿に、私は小さく別れを告げて、向きを変える。屋敷はすぐそこでぼんやりと光っている、闇にふわふわと浮いている。歩いたところでそんなに時間はかからない。
一瞬月が雲に消え、ぼんやり暗くなった道の先、背筋に少し寒さを感じて、私は静かに歩き出した。
屋敷までの道のりはもう八割方歩き終えている、あとはさほどの距離もない。蛙の歌を聞きながら歩けば、すぐに着くだろう。
「遠いなぁ」
そうでもなかった、全然着かない、案外屋敷は遠い。思わずため息をついてしまった。
近いはずなのに遠い、手が届く位の距離にいるはずなのに、屋敷はなかなか近づいてこない。
この関係…何かと似ているのは気のせい?
里から分かれ道までの距離に比べれば、格段に短いはず…それなのになかなかたどり着かないというのは、妖精かなんかに化かされているのかもしれない。そうに違いない。そんなわけないか。
「はぁ」
ため息一つ空へと向かい、周りの田んぼはゲーコゲコ、髪飾りは揺れている。今日もずいぶんと平和だった。
里の中にいる限り、妖怪に襲われることなんてまずない。
里から出たところで、余程の事がなければ襲われることはない。
それが今の幻想郷。外の世界がどうかは知らないけれど、そちらに比べても、多分、人間にとってそれなりに安全だと言えるだろう。
そして、そんな世界を作るのには、私も一役買っている。
非力な私達人間に安全を届ける為、そして、いつか人妖が本当に仲良く過ごせるように…その架け橋となるように…
それはもうそこに見えている未来、むしろ、現実になりつつある未来。
今代の幻想郷縁起はできたし、あとは私はやることがない。せいぜい、頼まれたときに幻想郷縁起を解説しにまわるだけ、それと、まもなく来るであろう死へ向けての準備をするだけか。
「あ~あ」
ぐいっと伸びをした、相変わらず周囲は暗い。ため息ばかりついていたせいで、月にまで見放されたのかしら?月は雲に隠れて明かりを消していた。森の闇が少し怖い。少しだけ歩調が速まる。
それにしても本当に楓が羨ましい、どうしたらあんなに素直に生きていけるんだろう?どうしたらあんなに楽しげな日々を過ごせるんだろう…いつか、私もあの子みたい素直に笑って…
「はぁ」
今日はため息ばかりだ。
私は、もう一度その数を増やして思考を閉ざした。結局の所無意味なこと、私はあの子みたいになれないし、あの子は私みたいにはなれないんだろう。
お互いの立場…結局それは自分一人じゃどうしようもないのだから…
そんなことを考えている内に、少しは距離を稼いでいたらしい。月も顔を出していた。
闇に浮かんでいたはずの灯りが、暗い屋敷と共に地に降りている。なだらかな傾斜がある道を歩いて、ちょっとした高台にある屋敷に辿り着けば、今日はもうおしまい。
楓が見たら「このお金持ちめー」とか言って頬を引っ張ってきそうなふわふわの布団にくるまって、広い部屋で寂しく寝るだけ。ほんとにやるからなー楓…この整った頬が弛みきってしまったらどう責任とってくれるのかしら?
思わずふにふにと頬をつまむ。楓みたいな里の子と違って、一応名家の娘である私は、頬だってふくよかだ。ちなみに太っているのではないということだけは言っておこう。
でも、そんな豊かな生活の代わりに色々と制約があったりするのだ。
もしかすると、大体の事が自由なこの幻想郷においては、私が最も不自由なのかもしれない。
あーあ、あの子は私の事を羨ましがっているのかな、いや、そんなわけないか、むしろ同情してるのかな…あんなにかまってくるのは…
闇のせいか、妙な思考が頭を巡る。
「ええいっ飛んでけっ!!」
むしゃくしゃしたので近くの小石を思いっきり蹴り飛ばした。八つ当たり。
それはぐんぐん高度を上げて、楓みたいなお月様へと飛んでいく。落としちゃえ。
絶対届かない距離だけど、ぐんぐんと空を昇ってく。あ、消えた。
「帰って寝よ、ふわふわの布団だ、羨ましかろ、ふふふ…」
消えた小石にお別れを、そしてどこかの楓に一言告げて、森の闇より黒く笑い、私は再び歩き出す。
果たして羨ましいのはどちらなのか、ふかふかの布団で一人で眠る私なのか、はたまた藁布団に家族でくるまる楓なのか、それは実に分かりやすかった。
「御阿礼の子…か」
ふと呟く。
役目を負うのは辛いこと、充実感と同時に義務感、周囲から気遣われると同時に遠ざけられる。生まれた時からそんなだったから、今更変えようがないし、変える気もない。
だけど、たまには楓みたいに好き勝手に野山を駆け回ってみたい。楓は楓で苦労があるのだろう、だけど、やっぱり隣のお弁当は美味しそうに見えるのだ。
もしかすると、あの子が私に色々と話しかけてくるのは、そんな私の気持ちを知っているからかもしれない。
同じ位の歳の子ども同士、少しだけ、ほんの少しだけ『普通の子』になれるように…
もしかすると、このずだ袋だって、その為に持たせてくれたのかもしれない。
「ま、あの子の事だから普通に疲れたから押しつけただけの可能性もあるけど…」
楓の、どうにも心の底が見えない、だけど悪意がないのはわかる不思議な表情、そんなものが思い浮かんで、腹が立つやら悔しいやら、そんな自分がちょっぴり幸せなのがまた悔しい、あと…
「渡すの忘れてた…」
すっかり手に馴染んでいる楓の袋。あやつめ…預けたまんま別れてどうする?
ちなみに、私のせいではない。
私は幻想郷の記憶こと稗田阿求、見たものを忘れることはない。
しかし、見たものは忘れなくても、それを思い出さないと活用出来ないわけであって…
まぁ、結局の所幻想郷縁起を作る為だけの能力であるからして、実生活ではあまり役に立たないのである。
そう、そして今回の件は、それを考えなかった楓の責任だ。私に責任なぞあるはずがない、ないったらない。
でも、私が心清らかな証として忘れ物を届けてあげるのは…まぁやぶさかではない。
本当に心が清らかならそんな打算はしないだろうと言われそうだけど無視。
そしてしばしの逡巡。
すっかり景色は夜、薄闇に覆われて人気のない田んぼの景色。あるのは蛙っ気とか虫っ気とかだけだ。
家に帰ってもやることはない、ご飯を食べて、お風呂に入って…寝るだけ。家に帰らないとやっぱりやることはないし、どちらかというとやられそうだ。ご飯にされる…ことはさすがにないだろうけど。
楓がどこに行ったか知らないけど、さすがにあの子でも途中で気がついて私を追ってきているに違いない。逆に歩けばすぐに出会えるだろう、そうじゃなくても、まぁあの二股で蛙合唱団の活動でも鑑賞していればいっか。
っていうか、このまま歩いて行ったら、また腹黒だのなんだのと言われそうな気がする。きわめつき、忘れっぽいなんて言われた日には、いくらこじつけだとはいえ御阿礼の子として立つ瀬がない。
まして、楓の口からあの天狗にその事がばれたら、今度の文々。新聞に『九代目御阿礼の子に健忘症疑惑!?今代幻想郷縁起、早くも精度に疑問の声が』なんていう衝撃的な見出しが踊りそうだ。
それにそうなれば楓の事だ、おもしろがってあることないこと言いふらしそうだし…やはりお風呂で煮込んで口封じをするしかないか…でも殺したって死にそうにないしなぁ。
と、それはさておき、あんなイエローペーパーの記事を信じる人妖は少ない…とは思うけど、さすがに愉快な気はしない。記事にならないように、ちょっと気をつけることにしよう。
「よし」
私はくるっと逆を向くと、今来た道を歩き出した。
仕方がない、楓にこの袋を届けてやるか。とことんあの子に振り回されている気がするけど…ええいっ腹立つ。
「てやっ!」
八当たりとばかりに、楓のずだ袋をぶんぶかと振り回す。宵闇の中、くるくると回る楓袋、どうだ!御阿礼の子の力思い知ったか!
「ふえっ!?」
首に巻き付かれた…けほ。
少しだけ早足で、私は夜道を進む。
私はどこぞの妖怪や、それと同じような人間達と違ってか弱い乙女なのである。いくら里の中とはいえ、さすがに夜道は怖い。
さすがに何かに襲われることはないだろうけど…でも、妖怪の中には里で悪さをする輩が皆無なわけではないし、まして獣の類には、里も山中も変わりがないのだ。絶対とは言い切れない。
「それに普通に怖いし…」
きょろきょろと左右を見回す。
向かって左には田んぼ、そして左側には鬱蒼と茂る森がある。正確には、しっかりと刈り払われている里山で、昼間はよく薪を取りに行ったりするような場所なのだけど、夜ともなればその表情は一変、真っ暗森になっているのだ。
そこは、何が出てくるのかわからない、不気味な空間。少なくとも、人間が入るべき世界じゃない。
何が出る、出ないは別として、こんな所を一人で歩くのは、あまり気持ちがいいものではなかった。
確かに私は妖怪に襲われることはあまり考えられない。あちこち、幻想郷縁起の為にうろついても、不安を感じる事はない。御阿礼の子は幻想郷での、それなりに重要な役割を持っている…それは、妖怪達も知っているのだ。そして、私を襲うことは、幻想郷の大物妖怪を敵に回す可能性すらあるということも。
とはいっても、やはり生理的に怖いものは怖い。私だって、人間でありかよわき乙女なのである。
「楓め…まだ気づかないのかしら?」
私はこの出来事の元凶に文句をつけると、また少し歩調を速めて歩き出した。
道が分かれている、田んぼの中にある分かれ道。
蛙の声に混じって、何かの虫の声も聞こえる…涼やかな場所。私はそこで足を止めた。
何だかんだ言って、結局二股まで戻ってきてしまった、楓と別れた道の分岐。ここは、周囲に比べて少しひらけている。森が少しだけ遠のいて、ちょっと安心。
私は、適当な石を見つけると、ゆっくりと座る。着物を通して、固い感触があって、少し冷たさを感じた。
身体にあたる風には、少し寒さが増していて、夜空には星が増えていた。蛙の声は変わらない、たくさんの星が輝く下に、げこげこげこげこ鳴いていた。
道の隣に用水路、ゆっくり流れる水面には、月がゆらゆら浮かんでて、小さな水音が響いてる。
その時、暗い水面に蛙が跳ねて、月はほわんとゆらめいた。水面の星はかき消えて、光の流れが現れた。
「楓め…さては私が追ってくるのを待っているとか…」
しばらくして呟く。ありえない話じゃない、いつもあの子にはそうやって押しきられるのだ。にこにこ笑顔に押しきられるといった方がいいのかもしれない。
長い年月を重ねた妖怪と、人間ではあるけど、妖怪以上に癖のある連中とばかり付き合っていたせいで、裏の駆け引きはそれなりに巧くなったと思う。
でも、逆に、あんな素直に、真っ正面からぶつかられると、どうしても力を受け流せないのだ。里の子の中でも、私にあそこまで構ってくるのはあの子位…つまり、私にとっての唯一の苦手人物だったりするのである。認めたくないけど。
さて、ため息を重ねる間にも、空はすっかり夜色で、そこには月と星がのんびり浮かんでいた。何を気にする事もなく、ただ夜空にゆったりと…
変な事に悩んでいる自分がバカみたいだ。もういいや。
「地の果てまで追いかけていって、あのおとぼけ笑顔に、こいつを叩きつけてやるわ!」
私はそう言って立ち上がった。そう、勢い余って星に頭をぶつけないかっていう位思いっきり。
それにしても、今の私の言葉を誰かに聞かれたら、気が違ったか、もしくは偽阿求だとか思われそうだ。普段の私は、おとなしく清楚可憐な乙女として名高いのだから。
でもまぁ一人だからいいだろう、私の発言を聞いていたのは、多分田んぼの蛙と森の虫位なものなののはず。
私は、よしと一声腕まくりして、楓が消えた道へと進んでいった。
楓が歩いていった道をずんずん歩く。
彼女がどこに向かったのかは知らないけど、ひとまずこの道が途切れるか、分かれるかする所までは行ってみよう。
こちらの道も田んぼと里山の境目を縫うように進んでいた。何よりも正確な私の脳内地図によれば、この先は里から離れていくはずなのだけど…?やっぱり楓は妖怪?
さすがにそれはなだろうと思いつつも、気になることには変わりない。
でも、なんかわくわくしてきた。
稗田は常に好奇心を歓迎する。無論、その当主である私だってそうだ。
たった一つのずだ袋を残し、夜道に消えた花屋の娘、彼女が向かったのはどこか?そしてその正体とは?驚愕の事実が今明らかに!?
…う~ん、これじゃあどっかの文々。新聞になってしまうわね、少し自重しよう。なんていったって、こちらはあんな弱小新聞と違って、伝統と格式を重んじる幻想郷縁起の編纂者なのだ。
記事の精度や品位には定評があるのだから…あるよね?こんなに頑張ってるんだし…これであんなのと同列に扱われたら泣くしかない。
ちなみに、向こうは向こうで幻想郷縁起にかぁかぁ文句をつけているらしいけど、知った事じゃない。
嫌なくらい足取りは軽快だ。
里の中にいるときは、あちこちの目を気にしないといけないから、結構おとなしめにしているつもりだけど、こんな風に一人でいるときは、結構好きにしていられる。
あ~あ、不思議、気疲れが吹き飛んで、身体の疲れも全然感じない。
小川にかかる石橋越えて、お地蔵様を横に見て、てくてくてくてく私は進む。その時、行く先に小さな何かが転がって、小さな影になっているのが目に入った。
「ん?」
浮かんだ疑問を声にして、ゆっくりと近づく。月明かりのおかげで地面はほのかに明るくて、どうにかそれを見ることができた。
そこには小さな草鞋がかたいっぽ、仲間と主においていかれて、寂しく地面に転がっていた。
「楓の…草鞋?」
それを手に取り、私は呟く。
どこにでもあるような子ども用の草鞋、だけど、楓はそれに押し花をつけて飾っている。おかげで見分けがつきやすい。
さすが花屋の娘、こんな所でも宣伝を忘れない、あっぱれ商売人の鏡だ。それともただ子どもなだけ?
まぁたぶん、かわいいからとかなんとかそんな理由でつけているんだろう。そういう所に気を回しているあたり、ぼけているように見えても、あの子もちゃんと女の子しているな、と思う。私?そりゃもう言うまでもなく。
と、それはさておき、楓はなんで草鞋を片方置いていったのかしら?予備でも持っていて落としたとか…もしくは私が追いかけてきたのを見計らって、私が取ったとたんトラップ発動とか?突然巨大な籠が降ってきたりしないよね…
わけのわからない思考を、首を振って無理矢理吹き飛ばす。楓はそんなことはしない、私はやるかもしれないけど。
落とし物…?ぽい捨て?もしそうなら幻想郷縁起に書いてやる。でも、楓がそんなことするとはあんまり考えられないしなぁ…
思考はぐるぐると巡って、結論はなかなか出てこない。でも、やがて小さな不安に行き着いて、私は思考を止めた。
「どうしたんだろう…」
一つの仮定は大きな不安になって、私は自分を抱いて独語した。
田んぼを渡る風がさっと頬をかすめて、森へと消えていく。冷たい風が、また不吉な想像を置いていった、不安がまた膨らむ。
「まさか…ね」
大きさを増した不安を振り払おうと、もう一度独り言、でもそれは振り切れない。どうしたんだろう、何でこんなに不安になってるんだろ…?
ゆっくりと、視線をずらす…
月はまた雲に隠れて、星の光は弱々しい。道は暗く、風は冷たい。鼓動が速まっている、息が荒い。何を慌てているの?楓が襲われているとでも考えているの?
まさか…そんなはずはない、ここは里の中…妖怪がこの中で暴れることなんて考えられない。あり得ない、人間と妖怪のバランスを…幻想郷のバランスを保つために、妖怪の賢者の庇護下に置かれているのだ、誰が好きこのんで紫様のような大物とぶつかることを望もうか。
でも例外はある。
変なことを考える自分の思考がとてつもなく嫌だ。なんだ、やっぱり腹黒じゃないか私。友達が酷い目に遭っていると考えてるの?
妖怪だって色々だ、中には…
「やめてっ!!」
思わず叫んだ。自分の耳を押さえる、でも声は聞こえてくる、ああもう私のバカ!何で悪い方向にばかり思考を…
獣に襲われる事だってある、里の中だって安全だとは言い切れない。
「ああもうっ!」
自分で自分をぽかぽか叩いた。これじゃ危ない人だ、楓の言っていた通りになってしまう。
ないないあり得ない、何で草履一つからここまで妙な想像をしなければならないのか…暗闇は人の精神に影響を及ぼすって話もあるし、そのせいね、うん。
こんな所を楓に見られたら、里中の物笑いの種になるわ。絶対言いふらすし!
きっとそこら辺の藪に隠れてほわほわ笑っているに違いない!楓の方が腹黒よ!!
こんなに心配かけやがったあげく、突然阿求ちゃん可愛いとか言ってくるに違いない。いや、それはまぁ否定し得ない事実ではあるけど、楓に言われると子ども扱いされてそうでなんか腹立つ。
「まぁ阿求ちゃん可愛いけど」
ほらほら…ん?
「そして面白いよ」
「それは違う!」
きょろきょろ。
なんかあらぬ声が聞こえた気がするわ…具体的に言うと楓の声が…
「こら、出てきなさい」
両手を腰に当てて、精一杯威厳を出す。照れ隠しとかそういうのではない、ないよ?私があんな子の心配なんてするわけがない、そうそう、御阿礼の子は常に沈着冷静、どんな相手、事態を相手にしても動じないのだ。
太陽の畑で妖精に驚かされてた?え、えっとあれは…その、フィクション、幻想郷縁起をおもしろおかしくする為、ちょっとした虚構を混ぜたのだ。これでみんなが高嶺の花と思っていた私を身近に感じてくれるだろう…なんか違う?
読者を楽しませ、幻想郷縁起を親しみやすくするというのもよい編纂者の務めなのだから。
「あの時半泣きになって帰ってきたって聞いたけど。服泥だらけにして…お手伝いさん達が言いふらしてたよ」
「う…」
くっ!みんなおとなしそうな顔をして、実は面従腹背の輩であったか…やはり、これからはお手伝いさんにしっかりと教育をせねばなるまい。具体的には私がいかに可愛くて
有能な子であるかを。
ところで…
「楓、どこにいるのよもう!」
ぶんぶんと腕を振り回す。
声はすれども姿は見えず…楓には、姿は見えないけどどこにでもいるイメージがあるけど、ひとまず声をかけてきたら姿も同時に見えているはずなのだけど…
妖精にでも騙されたかしら?
「違うよ?」
「む…」
黙って周囲を見回すけど、やっぱり姿は見えない…どこ?
また風が吹いて、髪が揺れて、熱くなっていた頭を冷やす。思考が落ち着いてきて、私は息を整えた。
「楓、冗談はそろそろ…」
「冗談じゃないよー阿求ちゃんのせいだからね」
かみあっているようでかみ合っていない会話…楓の声は、怒っているようで全然尖っていなかった。
さっきから、月は雲に隠れたり再び顔を出したりしている。また雲に隠れた、暗さが増す。
「あのね…」
「阿求ちゃんが…」
わざわざ人が追いかけてきてやったというのになんて事をいってくれやがるのか、だけど、抗議しかけあ私の声は、楓の声に打ち消される。
「阿求ちゃんがもうちょっと早く来てくれれば…」
その時、ふと視界に変なものが映った…服の切れ端?あの柄は…
「私襲われずに済んだのに…」
「か…楓?」
楓の姿はどこにも見えない、どういうこと?冗談にしてもたちが悪いよ…楓…楓…
「もう、家に帰られなくなっちゃったじゃない」
何で…何で帰れないの?
「阿求ちゃんもこっちに来なよ、案外居心地がいいよ?」
でも、私のごちゃごちゃになった頭なんて気にしないように、楓の声は言う。他人の状況を考えないのは、いつも通りの楓だった。
「て…転生の準備まだできてないし」
転生の準備ができていたらいいのかと言われそうだ…いいような気もする。特にやることもないような気がするし、楓がいるなら暇しなさそうだし…でも…
思考が全然まとまらない。楓…そうしちゃったの?実は楓じゃなくて妖精の悪戯とか?本人は荷物のことなんてすっかり忘れていて目的地に着いているとか?
ほら…だって楓が襲われるとかあんまり想像できないし…
「大丈夫大丈夫♪」
「あ…あのね…ひぁっ!?」
脳天気な声に続いて、私の悲鳴。
声は慌ててる、身体は固まっている、だけど思考は変に冷静だった。
足首が何かにつかまれた?冷たい…どろどろした手みたいなのに…
「は…う…」
ぺたりと地面に尻餅をついた。
これが俗に言う腰が抜けたとかいう状況なのだろうか?
着物を通して伝わる土の感触を感じながら、私は変な事に感動していた。
「あ…」
その時もう一度楓の声、何かに怯えたような声…足首からあの感触が消えた。そして、また楓の声が聞こえた。
「戻ってきた…」
「え…」
何が?
そう言いかけた私の声は一瞬で止まった。足首の感触に気を取られて気がつかなかった…背後に、何かの気配がある。
人間じゃない、特別な力を持たない私にだってわかる。人間が、こんな…こんな強烈な圧迫感を持っているはずがない。
「ごめんね」
「ほぇ」
楓の声、だけど出てきたのは我ながら情けない返事だった。腰が抜けて、しかもこんな返事なんてしているのがばれたら、もう里中どころか幻想郷中の物笑いの種になってしまう。いや、もうばれてるけど。
「戻ってくるなんて思わなかったんだ…巻き添えにしちゃった」
巻き添え?何の?
「でも、こうなったのも阿求ちゃんが荷物持ってっちゃったせいだから痛いのも半分こっていうことで。あれ?どっちかっていうと倍なのかな…痛いのは減らないし」
あ、だから何が…
「お前もか」
「え?」
その時、怒ったような、苛立ったような声が聞こえて、私は思わず問い返す。これは楓の声じゃない…楓にこんな威圧感はない。それに多分…
人間の声じゃない。
楓の声は消えていた。楓もこいつに…?
「お前もか」
また声が聞こえた。
風は止まっていた、森は静かだった、用水路の水音だけが響いていた。月と星は、煌々と夜空に輝いていた。もうすっかり夜だった。
少しだけ落ち着いた。
「何がですか?」
問い返す。どんな状況でも好奇心は失わない、それはささやかな稗田の矜持だ。
相手が一瞬考えるような間があった。でも、それは長く続かない。この間が終わったとき、私も楓と同じ目に遭うと思った。
「だから…」
また声が聞こえた。苛立ちが増したような…そんな声。私は身構えた。
「だからお前も忘れたのかと言っている!!」
夜を揺るがす怒声に振り向いた。
森道空田んぼ…他に何も見えない…いや、何かが私に突進…
「きゃ!?」
そしておなかに凄まじい衝撃、思わず息が出来なくなる。何かとてつもなく堅いもので抉られるような…そして奇妙な浮遊感。
一瞬の後、私は空を飛んでいた、夜の空気は冷たかった、世界がぐるぐるとまわって…そして、真っ暗になった。
「阿求ちゃん、大丈夫?阿求ちゃん?」
「う…いたた…」
聞き慣れた声に、私は視界を取り戻す。目の前には心配そうにこちらをみる楓の顔がある、私の言葉を聞いて、安心したみたいに笑顔になった。
そしておなかが痛い、とっても痛い。でも、痛いということは死んではいないらしい。
「何があったの?」
そう言いながら私は状況を確認する。周囲はひんやりと冷たい…水?身体が半分くらいやわらかな泥に埋まっていて、うまく動けない。
ここは…
「田んぼ?」
こくこく
私の声に楓が頷く。こっちも半分泥に埋まりながらも無事っぽい。
そして、意外と泥が暖かくて、不思議と気持ちよかった。あとおたまが服に入ってくる、こらつつくな!私は食べ物じゃない!!
「妖怪に吹っ飛ばされた?」
今度は頷かない、楓はちょっと首を傾げて、少し考える。
月が雲に隠れて、また出てくるまでの時間、私は答えを待った。別に急ぐ事でもないし…
「妖怪じゃ…ないよ」
少しだけ時間が過ぎて、楓が口を開いた。
「じゃあ何?」
人語を解する獣とか?それはあんた妖怪だ。
楓は難しい顔をして黙り込む。困り顔が水面に映って、やっぱり難しい表情をしていた。時がのんびりと流れていた。
「…慧音先生」
しばらくして、楓がゆっくりと口を開く。なんか言いにくそうに。
「は?」
「だから慧音先生」
この花屋の娘はとうとう頭に花でも咲いたのか?何で里の守護者たる上白沢様がかよわい御阿礼の子他一名を襲わなければならないのか、ありえない。
でも、そんな私の声に、楓はぷっくり頬を膨らませて言った。
「違うよー阿求ちゃんみたいに真っ黒な花なんて咲かせてないもん」
誰が黒い花など咲かせるか!
「阿求ちゃん」
即答かよ…
「こほん」
咳払い、こんにゃろめの話術にのせられると、話が進まなくなる。悔しいが、でたらめな事には目をつぶり、要点を聞こう。
「何で上白沢様が楓と、私を襲わなきゃならないの?」
「阿求ちゃんが登校拒否だから」
うっわ真面目に答える気ゼロだよこの子、ぷいとかってそっぽ向きやがった。このまま田んぼに植えてやろうかしら?いや、もう植えられてたか、そもそも何でうらわかき乙女が二人、田植えされなきゃならないのかしら。
「っていうのは冗談で宿題忘れちゃったの、阿求ちゃんに渡した袋の中に入ってたのに…」
今度は真面目な顔して言う楓、だけど、何で宿題を忘れた位であんな目に…
「慧音先生、満月の夜は気が立ってるんだよね…」
楓がそう言ってぼんやりと空を見た。あ、なんか疲れた顔してる。この子にしては珍しい。
そして、私もその視線を追った。
黒い空に白い月、まんまるゆっくり輝いている。満月の夜、人も妖怪もその力を受ける、半獣も例外ではない。
「そうなんだ」
「うん」
私の答えに短い返答。
そうか、そういえば宿題を忘れると恐ろしい罰が待っていると楓が言っていた、頭突きとか。そして、この道の先にあるのは上白沢様の家だ。
…あの堅いのは角だったか、確かに、上白沢様は満月の夜に白沢になる。
これは幻想郷縁起に追記しないといけない、満月の夜に彼女の元を訪れるのはやめるようにと…角の生えた頭突きは痛い。
謝っても許してやらん、こんな可愛い御阿礼の子他一名を田んぼ送りにするなんて…稗田の歴史に上白沢様は介入できないし…ふふふ。
「もー阿求ちゃんが持ってきてくれてたら大丈夫だったのに」
私がそんな事を考えている間に、楓はそう言って頬を膨らませる、ぷくぷくぷくぷく…まんまるに。
「あんたが私に預けたのが悪い」
言い返した。
楓の頬がますます丸くなる。あんたはリスか!
「むむ…阿求ちゃん黒いよ?」
「黒くない」
「あの森よりも…」
「黒くない」
「あの空よりも…」
「黒くない」
「あの月よりも…」
「黒くない」
「それはそうかも」
「む…」
確かに、黒い月があったら嫌だ。なんか不気味…
そう思って月を見たら、我関せずと丸かった。楓を見たら、くすくすくすくす笑ってた。
「あ~あ、もういいや」
私はそう言って畦によりかかった、草が首筋をつついてくすぐったい。
草と土が服はどろどろでぼろぼろ、確かにこれは家に帰れないわ。
お手伝いさんが見たら何事かと思うだろう。中身ごと洗濯桶に放り込まれるかもしれない、まぁそれはそれで楽しいかも。
御阿礼の子だって、たまには羽目を外したいのだ。
「てやっ!」
「きゃっ!?」
そんなことを考えていたら、突然泥をぶつけられた。あ~もう、口に入った!苦いしがりがりする!!
「羽目を外したかったんでしょ?阿求ちゃん♪」
楽しげな声が聞こえてくる。
目の前ではほわほわならぬにやにや笑顔の楓がいた。こんにゃろめ…また思考を読んだな。
「そうね…」
私はそう言ってにっこりと笑う、森から鳥が飛び立った。…こら、何に怯えた?
「くらえっ!」
「甘いよっ阿求ちゃんっ!秘技蛙返しっ!!」
「ふきゃっ!?蛙投げるなっ!!楓めっ大蝦蟇様の池に放り込んでやるっ!!」
「阿求ちゃんさっきからカニ投げてるじゃない!痛いっはさまれたっ!!」
「ふふふ第二撃…って痛っ!痛いっはさまれた!?」
「阿求ちゃん意外とバカ…よーしタニシ攻撃!」
「誰がバカよ誰が!ってタニシ痛い!?か弱い乙女に何するのよっ!!」
「その言葉そっくり返すよ阿求ちゃん、てやっ!!」
「やったな!こっちだってっ!!」
ぼっちゃんぽちゃんぺたぺたがじがじこんごんげし
蛙飛び交いタニシが直撃、蟹ががじがじ挟んでくる。今外れたのは蝦蟇蛙?それとも大きな雨蛙?
楓も私も泥まみれ、毒を喰らわば皿まで、泥を被らば頭まで。田んぼに落ちて泥まみれになっちゃったのだから、もうこの際とことんまでいっちゃっても気にしない。
どろんこまみれになりながら、私と楓は田んぼでさんざん暴れていた。
「疲れたねー阿求ちゃん」
楓が言った。
「ええ、もう色々な意味で疲れたわ」
私は答えた。
あれからどれくらい経っただろう。まんまるなお月様が、ますます明るく輝いている頃、私と楓は並んで空を眺めていた。
火照った体が、だんだんと冷やされていく。早く帰らないと風邪ひくかしら…ひくだろうなぁ。
「でも面白かったねー」
楓が笑う。泥を落とそうと、さっき小川でばちゃばちゃ遊…水浴びをしたせいで、どろんこだった顔はすっかり白くなっている。
「ま、そうかも」
私も答える。横を向いて…
正面を見ると、笑顔が楓にばれそうで恥ずかしかったから。
「ばれてるよ?阿求ちゃん」
「む…」
楓が笑っていた、私の口はへの字になった。
口に出す癖を直さなければならない、これじゃあ乙女の秘密もなにもあったもんじゃない。
「あはは、言ってなかったよ?阿求ちゃんの考えてることは大体分かるの。ほら、それに阿求ちゃんのにやにやが水面に映ってる…」
楓はそう言って田んぼを指さす。ああ、確かにそっぽを向いて、照れながらも笑っている阿礼の乙女の顔が見えるわね。
っていうか楓…思考を読んでるってことは…
「やっぱ妖怪じゃん」
「そうかも♪」
楓はそう言うと草むらにごろんと転がった。ホント、風邪引かないかなぁ…いや…
「…バカじゃないからね」
ちょっと真剣な視線…
「だから人の思考を読まない」
じとっと睨んでくる楓にそう言い返した。もう、こんな所にびちょびちょなまんま転がっているのを見つかったら、お手伝いさんになんて言われる事か…
あ、でもなんか気持ちよさそう…
「いいや」
私も転がった。身体中に草の感触、柔らかで、尖っていて、とてもいい気持ち。視界がぐんと広くなって、夜空が一杯に広がった。こんなに広い空は久しぶりな気がした。
そして、隣にほにゃっとして暖かな何かが寄ってくる。楓だ。
「阿求ちゃんは腹黒だからねぇ、たまにはこうやって素直になった方がいいよ」
楓が言った、不思議と腹は立たない。
「さっき阿求ちゃん楽しそうだったし、はしゃいじゃいなよ」
後が怖いし、人目も天狗目も怖いんだけど…
「うん、元気一杯だったもん。笑顔が輝いていたね、爛々と」
いや、その表現はどうかと思うけど…でも…
「まぁたまには…ね」
私はそう言って空を見た。星がたくさんとお月様が一つ、楓が手を握ってきた、暖かい。
きっと、この子がいつも楽しく笑っているのは、こうやって色々なものに嫌な気持ちを吸い取ってもらっているからなのかもしれない。そして、楽しい気持ちをまた返しているんだろう。そして、私にも分けてくれている…
毎日毎日遊んで、怒られても…それでもまた遊んでる。そんな日常は楽しそう。目的もなくばたばた騒ぐのも、きっと楽しいに違いない。
私は?
幻想郷縁起は書き終わった、役目は終わった…ならどうするの?
せっかくだし、やっぱり目的もなく遊ぶのもいいかもしれない、楓みたいにはしゃいでもいいかもしれない。
役目は果たしたんだから、もう『阿求』になったっていいじゃない。
楓はそれをわかって言っていたのかも…う~んわかんないけど。
「ね、楓」
空を見たまま言った。返事はない、だけどきっと聞いてくれているだろう。
「今日は楽しかったよ」
木の葉が一枚飛んできて、あっという間に消えていく。
「ありがとう」
小川でぽちゃんと蛙が跳ねた。小さな水音が聞こえてきた。
「また遊んでね」
流れ星一つ、夜空の真ん中流れていった。
「流れ星にお願い…か」
星がどこかに消えたとき、私はのんびり独り言。
楓は答えてくれなかったけど、上手い具合に流れ星。小さな願い、きっとかなえてくれるだろう。まぁ、こんな願いはしなくても大丈夫そうだけど。
「ね、楓…」
「楓…?」
「すぅ…」
「寝てるし…」
気がつけば隣で小さな寝息、私の手を握ったまんま、楓はすやすや寝息を立てていた。
「あ~あ、風邪ひくぞ」
ずいぶん絞ったけど、服はまだ湿っている。動くのをやめたら、結構寒かった。
楓はすっかりすやすやと寝息を立てている。
夏風邪はバカがひく…そんな言葉の由来はこんな所にあるのかもしれない、そんな事を思いながら、私は楓をゆすった。
「起きないと置いてくぞ~」
「ふにゅ…阿求ちゃん黒い~」
「寝言でまで言うか」
「けど優しい~」
「う…」
「可愛いよ~」
「ま、まぁそれは…」
「大好き~」
「…まぁ私も」
「お団子~」
「…あんた起きてるでしょ」
「あ、ばれた」
楓はそう言ってがばっとはね起きる。こやつめ…おかげでずいぶんと恥ずかしい事を言ってしまったではないか…
そんな私に楓は笑う。
「それじゃあ今日はお開き、明日、寺子屋でね」
にっこり笑って楓は言った。そしてう~んとのびをする。髪に星が輝いて、そのままぽとりと地面に落ちた。
「だから私は…」
「…お星様にお願いしなくても私がかなえてあげるから♪」
「はっ!?」
そんな楓はいたずら笑顔、しまったまずったうかつだった。
「ね」
笑顔の脅迫、意図してやっているのかそうじゃないのか、どちらにしろ私が答えられる言葉はたった一つだけ。
「わかったわよ…」
「決まりっ!迎えに行くね明日っ!!」
きらきら髪を光らせて、楓はきらきら笑顔で言った。
まぁたまにはいいかもしれない、上白沢様には色々と言いたいこともあるし、ついでだからそこの田んぼの惨状もどうにかしてもらわないとダメだし…
「それじゃあ今度こそまた明日っ!!」
楓はそう言うなり立ち上がり、とてとてと家に駆けていった。今日何度目の別れの挨拶だろう、それに、家に帰るんなら二股まで一緒なのに…あと袋忘れてる。
そんな私の向こうでは、どうやらそれに気づいたらしく、ぱたぱた戻ってくる楓の姿。髪から星を振りまいて、夜の道を駆けてくる。
「さっと…」
私もゆっくり身を起こす、暗い夜道に影が伸びた。あ~あ、屋敷に帰ったらどう説明しよう…そうだ、妖精にばかされたことにしよう、二人揃って。こういうときに妖精の存在は便利だ。
「阿求ちゃん!やっぱり途中まで一緒に帰ろ」
息を弾ませ楽しげに楓が言った。髪からまたぽたぽたと滴が落ちる。
「いいよ」
楓にそう答え、私はのんびり歩き出す。
「わ、待って」
楓が隣についてくる。てくてくてくてくついてくる。
田を渡る風は気持ちよく、空ゆく星がまた一つ。
小川に星が落ちていて、蛙がすいすい泳いでる。
星空にもう雲はなく、大きく丸いお月様、私達を見下ろして、のんびり空に浮かんでる。
耳にとびいる蛙の合唱、そして聞こえる楓の声。
平和で楽しいこの今を、私はのんびり楽しんでいた。
『おしまい』
楓ちゃん可愛いね楓ちゃん。
ふたりの会話が絶妙!
あっきゅんが良い感じに黒くて面白かったです^^
しかし、幻想郷縁起の使い方上手いですね~見習いたいです。
あと、翌日、慧音先生は、やはりあっきゅんに平謝りなんでしょうか?w
以後の作品も楽しみにさせていただきます^^
良かった、途中からけーね先生がcaveする話かt(ryu
>名前が無い程度の能力様
ちょっとだけホラー…な雰囲気が出せたなら幸いです。そういうのがどうしても苦手でorz
>二人目の名前が無い程度の能力様
おおっ、毎回和んで頂けるとはありがたいお言葉です。
楓は調子に乗りすぎたので、そう言って頂けて一安心ですw
>デク様
過分なお言葉、ありがとうございます。
まだまだつたない文章ですが、もっと読みやすくなれるように頑張りたいと思いますw
>ドライブ様
からかわれている阿求は、自分で書いていてお気に入りだったりしますw毒舌で、何事にも動じないように見えても、きっと苦手な子がいたりすると思うのですよ。
>華月様
黒くなりすぎず~清らかすぎず~を目指していたので、そう言って頂けますとw
そして、お察しの通り、慧音先生は平謝りで阿求にいいように遊ばれていたという後日談を想像していたりしますw
>>以後の作品も楽しみにさせていただきます^^
わわ、恐縮です。ご満足頂けるように、精一杯頑張りますw
>蝦蟇口咬平様
ああ、最初はこんなキャラじゃなかったのにorz
満月の夜の慧音先生は、暴力教師になるそうなのでその想像はあながち間違いでは…ん?何だあの角がある影…(通信不能)
ところでこの二人が泥レスの末にネチョネチョし始める姿を幻視してしまったんですがどうしましょう?
>不安を感じるはない。
"事"がぬけてるのではないかと。
ご指摘とご感想ありがとうございました。誤字の方修正いたしました…orz
>>ところでこの二人が泥レスの末にネチョネチョし始める姿を幻視してしまったんですがどうしましょう?
私の技量ではネチョネチョが書けないので、どうか自力でSSにして下さい(無礼orz)ww
求聞史紀であった「妖精の仕業にしておけば恥をかかずに済む」っていうやつ、
あれは本人の経験談だったのかも。
楓ちゃんもいいキャラでした。