☆
「う、嘘……嘘でしょ……?」
彼女の右手を両の手で握る。冷たい。
「……嘘だわこんなのっ! パチュリー! 中国! ねえ!」
救いを請う目でレミリアは叫ぶ。だが二人は顔を合わせない。
「や、やだ……嫌だ……。嘘って言ってよ、ねえ……ねえ……」
哀願の口調で呟く。
レミリアの声が止まった。
「…………やだ」
咲夜の呼吸も止まった。
「や、やだ……。いやだよ……いやだよ、さくやぁ」
堰を切ったようにレミリアの双眸から涙が溢れた。
強く手を握った。
握り返してはくれない。
レミリアは咽び泣く。
――――押し殺した声が届く。
☆
時は少し遡る。
それは紅魔館で起きた、とある日の出来事だった。
☆
パチュリー・ノーレッジは彼女の相貌に表すことはなかったが、少なからず驚愕していた。
眼前にいる十六夜咲夜は手持ち無沙汰なのか、図書館の蔵書を適当に取り出しては、ぺらぺらと斜め読みをし、またすぐに元の棚に戻す。その行為を繰り返す。本を乱雑に扱うな、と注意したかったが、驚愕が彼女の意志を挫く。
何も感じていないのに何で驚いているの? と聞かれるのも癪だが、驚いているのに他者に相手にされないのもまた癪――そんな事をパチュリーは痛感した。
少しは「あなたが驚くなんて珍しい」とか、気に掛けてもいいではないか。残念である。
むすっとしながら、
「咲夜」
「はい?」
「……私は驚いているわ」
「そうなんですか? その事に私が驚きましたわ」
「今すぐここから放り出すわよ」
「冗談ですよ。それにまだ返答を貰っていませんしね」
咲夜は腰に手を当て苦笑。
けれど、そこまで驚くことはないんじゃないかしら、の一言は飲み込んでおく。
「――そうね。とりあえず甘えをなくす事が大前提」
「大前提が無謀ですわ」
「話を最後まで聞きなさい――」
☆
一通りパチュリーが助言を終えると、咲夜はおざなりに礼を言い、図書館を立ち去っていった。
さて、一体自体はどう転ぶのやら。そんな事を――無表情のままで――思いながら、パチュリーは再び読書にふける。
☆
露骨になってきたのは最近の事だった。
咲夜の悩みの種は、彼女が仕える主人、レミリア・スカーレットにあった。
レミリアは400年を生きる吸血鬼だが、咲夜が見るかぎり、精神的成長の兆しは現われない。悠久の時を生きる存在の性だろうか。
☆
「さくやー」
「はい。なんでしょう、お嬢様」
「甘い物が欲しいの」
「かしこまりました」
程なくして、レミリアの前に咲夜特製特大のショートケーキが置かれる。幾度かケーキを口に運ぶと、
「甘い物飽きたわ」
「そうですか」
余ったケーキは中国に上げるか、と咲夜は思った。
☆
「さくやー」
「はい。なんでしょう、お嬢様」
「この本読んで」
「かしこまりました」
差し出された本はパチュリーが読みそうな、難解な書物だった。そもそも読めない文字さえ出てくる。咲夜が必死に嘘の読み方で音読するのも虚しく、
「あきたー」
「そうですか」
☆
「さくやー」
「……はい」
「手品が見たいわ」
「……はい」
鮮やかな数々の手品もやはり一蹴される。
「もー飽きたわ」
「そうですか……」
☆
「さくやー」
「……………………はい」
「昼寝したいの」
「……………………はい」
案の定、
「飽きたー」
睡眠も……?
☆
レミリアは妙に飽きっぽい。可愛げがあるといえばそれも確かなのだが――盲信だろうか――このまま放置していては、他でもないレミリア自身にツケが回ってくるだろう。
その危機を感じた咲夜は、先程パチュリーに珍しく相談事を持ちかけたというわけである。
どうやら彼女はあの無表情で驚愕していたらしく、何故か機嫌が悪かったが、あの無表情から何を読み取れというのだろうか。
「さて、本当に大丈夫なのかしら」
最も心配していたのは、レミリアの常識。そして自身の生命だった。
――ほんっとうに大丈夫なのかしら……。正直、遺言の準備が必要だと思うわ。
主人の悪癖を改善するためだけで命を落とすのは殉職なのだろうか、と極端な想像をしたくもなる。咲夜は嘆息を隠せなかった。気付かれた時のことを考えると、胃が痛くなりそうだ。
――必要なものは、中国ね。
☆
中国、急な事情で貴方に助力をお願いしたいの。
「挨拶も抜きにしてそれですか……」
油断は禁物ね。私の命が天秤にかけられているんだから、この任務には。
「いや、任務とか命とか、そんな大袈裟な」
ああ、勿論貴方の命も例外なく、ね?
「……今の一言で現実味が沸いた自分が嫌ですよ……」
☆
程なくして、準備は滞りなく整った。
現在、咲夜はレミリアと一緒に本を読んでいる。直に彼女は飽きだすだろう。
「さくや、これつまんないわ」
さあきた、と咲夜は思う。
「お嬢様。私から苦言を申し上げますが、一度、一つの物事に集中してみてはいかがですか?」
レミリアは訝しげな視線を向けた。
「なあに、さくやが私に命令するの?」
「命令ではございません。推奨です」
「随分と物を言うようになったわね」
「ですから、私はお嬢様の為を思ってですね――」
「そんな事はどうでもいいの。それに、私がさくやの言う事を黙って聞く理由が全くもってないわ」
咲夜は一刹那、空白を空ける。
「一つ――」
「うん?」
「ありますわ。それもお嬢様が殊に困ってしまう重大な理由が」
はっ、とレミリアは鼻であしらう。
「私が咲夜の言うことを聞く理由が? へえ、言ってみなさいよ」
後戻りはできない。あとはただ――何処まで貫き通せるかである。咲夜は必死に込み上げてくる〝笑い〟を飲み込んで、
「私――最近体の調子がおかしくて……」
「ふうん」
「……きっと精神的なものなんです。誰もメイド長の私の言う事を聞いてくれなくて……なんだか心臓が痛いんです」
「ふ、ふぅん」
「もう、お嬢様の怠惰癖に……私、堪えられません……!」
仰々しく泣いてみせる咲夜。
うっ、とレミリアはうろたえる。しかし相貌は未だ険しい。
「しょ、しょうがないじゃないっ。さくやは私の従者なんだから」
「ですから……。私はお嬢様の身を思って……」
ハンカチまで取り出して泣く始末である。
「ちょ、ちょっと、そんなに泣く事ないじゃないっ」
「もう……辛くて、駄目なんです……!」
ようやくレミリアの相貌が困惑し、あたふたするそれに変わった。
「分かった、分かったから、さくや泣くのやめてよ……ねえ」
「は、はい……。申し訳ありません、取り乱してしまって」
レミリアの心中では内省の念が生まれていた。咲夜に罪はない。にも関わらず今も謝罪をするのは咲夜である。私はこれで良いのだろうか、そう思った。
「ご…ごめん、なさい」
機嫌の悪い声に聞こえたかもしれない。
それとも最後は尻つぼみになってしまったかもしれない。
咲夜はこちらに顔を向け、涙を拭いた後、ゆっくりと笑った。
少し照れくさい。
「それでは、私はまた仕事がありますので」
「うん――」
そうして咲夜は扉の向こうに消える。
レミリアは一人になる。
まだ、終わらない。
☆
それから一時間――
レミリアにとっては、突然の事だった。
ばたばたばたばた!!
「――何かしら?」
廊下に響く、余裕を感じさせられない足音。
ばたばたばたばた!!
その足音がレミリアの佇む部屋の前で止まった。
えっ? と疑問に思う。同時に盛大な音と伴って扉が開かれる。
現れたのは、紅美鈴だった。
珍しく顔色が真っ青で、事の深刻さを物語っている。
「な……なに? 何が起きたの?」
嫌な予感がした。心拍数が次第に増していった。
美鈴は唇を震わせて、
「さ…………咲夜さんが――――」
続きは、聞けなかった。否、聞きたくなかった。
心拍数が感じられなくなった。世界から音が消失した。そして猛烈な寒気が襲った。
「レ、レミリア様――」
一瞬だった。
既にしてレミリアの姿は消え、後から風だけが美鈴を通り抜けた。
☆
『心臓が痛いんです――』
美鈴曰く、パチュリーが彼女の持つ知識と蔵書を総動員した結果、咲夜は現在、心臓の病気――ではなかった。急速進行形の神経の病だった。数々の初期症状がそれを如実に裏付けていた、そう言っていた。
☆
亜音速とも言える速度で紅魔館内を駆けるレミリア。
恥も外聞も捨てて、そのままの速度で咲夜のいる部屋の扉に突撃する。派手な音を立て、豪奢な造りの扉が崩壊する。
「さくやは……っ?」
叫んだ。
いた。
ベッドに眠る姿は、見紛う事なき咲夜のものだった――外見だけは。
美鈴とパチュリーが横に呆然として立ち尽くしている。
咲夜が本来持つ気丈さは何処にもなく、生気を感じさせられなかった。
ふっ、と遠退きそうになる意識を引き戻し、レミリアは咲夜の元へ駆け寄る。
「さ……さくや?」
微かに胸は上下している。
だが、どちらにしろ、彼女の容態が危険だという事実も明確だった。
背を悪寒が走りぬけ、一瞬で体が冷えた。
「う、嘘……嘘でしょ……?」
彼女の右手を両の手で握る。冷たい。
「……嘘だわこんなのっ! パチュリー! 中国! ねえ!」
救いを請う目でレミリアは叫ぶ。だが二人は顔を合わせない。
「や、やだ……嫌だ……。嘘って言ってよ、ねえ……ねえ……」
哀願の口調で呟く。
レミリアの声が止まった。
「…………やだ」
咲夜の呼吸も止まった。
「や、やだ……。いやだよ……いやだよ、さくやぁ」
堰を切ったようにレミリアの双眸から涙が溢れた。
強く手を握った。
握り返してはくれない。
レミリアは咽び泣く。
――――押し殺した声が届く。
☆
最初、レミリアは誰からの声なのか判明できなかった。
押し殺した声が届く。
少しずつ音階が上がり始める。――息がある。
高音の声はやがて笑声になった。
レミリアは咲夜の顔を見る。
――動いている。
「ついに……引っかかりましたね!」
現実だとは思えなかった。
だが現実の彼女はベッドから起き上がり、美鈴とパチュリーの横に並ぶ。
「死んだフリ、ですよ!」
二人は不謹慎だとは思いつつ、苦笑を隠せない。
レミリアは驚愕が隠せない。
「お嬢様の怠惰癖を治すにはこれしかなかったんですよ」
「そうね。心臓の病も演技。息も止めていただけ」
「わ、私は止めましたよ……?」
レミリアは口を開かなかった。
咲夜はその様子に気付く。
「お、お嬢様」
その時、レミリアの両の手が強く握られ、何か不可視の力が溢れた――そんな気がした。
「レミリア――。咲夜……まずいわ、あれはかなり怒っているわ。はやく謝罪しなさい」
「ああああぁぁ、だから怒るって言ったじゃないですか」
レミリアの肩が震え、三人の緊張が張り詰める。
「……」
「お、お嬢様……。も、申し訳なかったです。その、いつも私の言う事を聞いてくれなかったので……えっと」咲夜は強がりを止めた。「ああぁ、お嬢様、ごめんなさい。まさかそこまで驚いて、怒るとは……すみません、本当にすみません」
レミリアの震える肩。
張り詰める緊張の中――重々しく口を開く。
「――――――――嘘で……、嘘でよかった」
「え……?」
レミリアの幼い口からは滔々と言葉が漏れる。
「さくやが死ぬなんて……私には堪えられない。それにパチュリーも中国もフランも小悪魔も……幻想郷の皆が悲しむ……。さくやのいない紅魔館なんて意味がない……」
涙と言葉は溢れる。
普段とは異なる、威厳のある口調。
しかしその内容は純粋な幼さだった。
「私は――どんなにさくやが不治の病でも、さくやが嫌がっても、下劣な手段を使ってでも、絶対にさくやを生きさせるつもりだった……」
それだけ話し、再びレミリアは涙を流す。
「お嬢様……」
心からのレミリアの吐露に、咲夜は内省の念と共に、目を少し赤くする。
「お嬢様……すみません、すみません……」
美鈴とパチュリーはその場の空気を察し、部屋から去っていく。
「ほら中国、行くわよ」「はあ……」
☆
――私は勘違いしていた。
咲夜は、ただただ涙を拭うレミリアの頭に触れる。
――お嬢様は400年の歳月を生きているけれど〝子供〟なのだ。
撫でた。とても咲夜の何倍もの歳月を生きる吸血鬼とは思えない、弱さと幼さを感じた。
――私は、本当に愚かだったわ。
「お嬢様、私は、ここにいます」
――私は、お嬢様に仕える従者のはずだったのだから。
「うん……いるわ」
――お嬢様を悲しませる? 愚かだわ、愚かすぎる。
「申し訳ありませんでした」
「うん……。私も、本は最後まで読むわ」
「はい」
「集中してみるわ」
「はい」
「さくや」
「はい」
「何だか眠くなったわ」
「はい」
「そこにいて」
「はい」
☆
それは紅魔館で起きた、とある日に出来事だった。
月は変わらず、紅魔館と、そこに住む嘘つきと正直者に、等しく月光を投げかける。
いつの間に美鈴はレミリアを追い越したのかとw
あと何で咲夜が平仮名なんでしょう?
まぁ、その方がこのレミリアには合っているように思いますけど。
あともう少し足りない気がします
元ネタと関係しているのかもしれないけど