どうかご注意下さい。
深い深い山の奥、昏い昏い森の中。
日中でもなお薄暗いその中に、館が人目を避けるように建っていた。
窓は割れ壁は剥げ落ち、凡そ人の住んでいる様子は見られない。
だから、その窓辺に佇む少女はきっと人ではなかったのだろう。
赤い部屋を背負い立つ少女は、部屋よりも月よりも、血よりも紅かったのだ。
「ク、ククク……赤い、朱い紅い! 何もかも赫く染まればいいんだ! アッハハハハハハ!」
エミリアはある国の王女である。厳格ながらも民の信頼を得ている父、いつも微笑みを絶やさない優しい母に囲まれ、最近では妹も生まれた。
まだ幼いながらも思慮深い性格、年の割に端正な顔立ち。その愛くるしい容姿に国民は惜しみない賛辞を贈った。
城では毎晩のようにパーティが開かれ、着飾った人々で満ちていた。彼らは、パーティそのものもそうだが、何より王女に会うのを楽しみにしていた。
『色白な王女が白いドレスを着ると、大理石すらも霞んでしまう』
彼らは実しやかに流れる噂に心を躍らせ、王女を一目見ようと城に赴いてはその美しさに感嘆の溜息を漏らすのだった。
王国には争いもなく、街には水が溢れ、小鳥が囀る。人々は皆陽気だった。彼らは事あるごとに祭りを開き、神々に平和と豊穣を感謝した。
――つまり、その国は黄金の時代を迎えていたのだ。
だが、栄華は長く続かなかった。
どんなに強固な土台があろうと、崩れるのは一瞬だ。
それはエミリアが十二歳の誕生日を迎える晩の事だった。
城内に小火が出た。勿論火はすぐに消され、被害というほどの被害は出なかったのだが、その小火が『有り得ない』ものだと分かると、途端に城内は騒然とした。
周囲には火の気もなければ引火するようなものもない。城壁の隅とは言え、城の中なら棄て煙草も有り得ない。ならば、放火しかない。
大した事件ではなかったが、久々に起きた事件に警備隊は躍起になった。このままでは王国警備隊の威信に関わる。
平和ボケしていたのかもしれない。彼らは無能にも全員を犯人捜索に駆り出したのだ。
それが犯人の目的であるとも知らずに。
高い高い塔の上、暗い暗い闇の中。
エミリアは目を覚ました。窓の外は未だ暗い。こんな時間に目覚めるのは珍しい。
身震いを一つすると、半開きの瞼を擦りながら窓を閉める。
――と、思い返せば、寝る前に窓はちゃんと閉めたはずだ。
いや、それよりも――いま、目が覚めたのは、異質な物音が聞こえたからではなかったか――?
「誰ッ!?」
窓から離れた壁に、それは立っていた。
姿が見えなくても分かるほどの異質な雰囲気、不気味な静けさ。そして、おぞましいほどの恐怖。
不意に、その上体がグラリと揺れた。
「ひッ!」
「こんばんは、可愛らしいお嬢さん。……見たまえ、今宵は月が見事だ」
一歩、また一歩。
それはゆっくりと歩み寄ってくる。
そして、窓辺に立ったそれは遂に月光の下にその姿を曝け出した。
痩身長躯、黒い翼に長い犬歯。その異様な姿は御伽噺に聞く悪魔そのものだった。
月の方を向いたまま、その目がエミリアを見下ろした。
「こんな夜は生娘の血に限る。そうは思わんかね?」
「――で? それからどうなったの?」
「血を吸われたに決まってるじゃない。その後吸血鬼になったんだから」
あっけらかんとした表情でレミリアは答えた。
扇子をハタハタと扇ぐその腕やワンピースから覗く首筋は、やはり白かった。
「ふぅん、生まれつき吸血鬼って訳じゃなかったのね」
「……いや、最初から吸血鬼みたいなものよ」
「……? まぁいいわ。それで? 噛まれた時はどんな感じだったの?」
「そうね……」
月は未だ高い。
レミリアは扇子を閉じて再び語り始めた。
世界は反転し、目の前は闇一色。
それが月明かりの差し込む窓辺から離れたせいだと気付いたのは、首筋に痛みが走ってからだった。
牙は柔らかい皮膚を、硬い血管を易々と食い破って侵入してきた。
杭を打ち込まれたかのような痛み。体は必死に異物の存在を警告する。
「あっ……グッ……」
気管が圧迫されて呼吸すらままならない。
次第に四肢が弛緩してくる。闇すらも見えなくなり、手先から体温が失われていく。
少女は徐々に冷たい骸になりつつあった。
「おや、これはいけない。久々のご馳走でね、ついつい飲みすぎてしまった」
近くなのか、遠くなのか。どこかで男の声がしたような気がする。
硬い板の感触が、床に伏している事を教えてくれた。
ゴロリ、と体が半回転する。もうどうでもいい。
口の中に何かが入ってくる。とても熱い。冷たい体にこれは熱すぎる。
喉の奥に入ってくるが、もう咽る事も嚥下する事すらも出来ない。
その熱い液体は徐々に喉から体内に入っていった。
「フフ、君に適性があれば良き同胞となるだろう。楽しみにしているよ」
何か聞こえる。意味が分からない。
体が熱い。さっきまであんなに冷たかったのに。
心臓の音が煩い。さっきまで聞こえもしなかったのに。
手が痛い。足が痛い。目も肺も口も背中も痛い。全身が痛い。
骨が軋む音がする。そんな音聞いた事なんてないけれど、きっとこの音は骨が軋む音だ。
「た、たす……だれ、か……」
必死に声を上げてみても、自分にすら聞こえない。
遥か遠くには部屋のドア。あの外には衛兵がいる。
あの外にさえ出られれば。
でもドアはあんなに遠くて、手を伸ばしても届かなくて。
床の板は冷たくて、寝ていると気持ちが良かった。
早く明けて欲しいと渇望した夜は、明けると同時に世界を一変させた。
分かっている。動けるようになると同時に姿見で確認している。
こんなに赤い目をして、こんなに黒い翼をつけていて、こんなに長い犬歯を持っていては大騒ぎになるのも無理はないだろう。
もう、既にこの身は人ではないのだ。
父は全く話を聞きつけなかった。
民の為だ云々と仰ってエミリアを迫害した。
母も何も言わなかった。
ただ、汚らわしい物でも見るように、侮蔑の視線を寄越しただけだった。
妹とは会わせても貰えず、エミリアは城を追われた。
まだ手にかけなかっただけマシだったのだろうか。
それとも、衆目に晒すのが目的だったのか。
だとしたら、それはこの上ない処罰だったに違いない。
民衆はいつかの賛辞の代わりに罵詈雑言を、美しい花束や美味しいお菓子の代わりに沢山の石をくれたのだから。
城下町を捨てて郊外にある町へ行っても扱いは同じだった。
町の住民は炎天下を歩かされた体に容赦なく棒を振るってくれた。
今にして思えば、よく死ななかったものだと思う。
体は痣だらけで、白い部分を探すほうが困難だった。
どうしてこんな目に遭わないといけないのだろう。
どこで間違ったのだろうか。
何か悪い事をしたのだろうか。
いくら考えてみても答えは出なくて、後から後から涙だけが溢れ出てきた。
「はぁ……難儀な人生ねぇ」
「人じゃないってのに。まぁ、昔の話だよ」
「んで、なに? 社会から弾き飛ばされて結界を越えたとでも言うの?」
「何よ、この結界ってそんなに簡単に越えられるものなの?」
「まぁ迷って越えてくる人もいるくらいだしね」
霊夢はお茶葉を替えてくる、と席を立った。
……冗談ではぐらかしたが、この先は彼女には言い辛い。
人である彼女にとっては、この先は『罪』にあたる。
悪魔の生き様など、人には到底理解出来ないだろう。
「緑茶でいいー?」
「霊夢の血がいいー」
「大蒜の絞り汁ね」
「やめてー」
人を噛む事だけはしたくなかった。
それをすると、自分でも自分を悪魔だと認めてしまうから。
外見こそ変わってしまったが、心だけは人のままでいる事。
それがエミリアに出来る精一杯の、唯一の抵抗だった。
昼の間は森の木陰で体を休め、夜になると食べ物を探して歩いた。
背中に羽があるという事は飛べるのかも知れない。でも、人は空なんて飛べない。
エミリアは人だ。人なのだ。
例えここで朽ちたとしても、人であれたのなら構わない。
いや、寧ろ人である内に自ら生を閉ざした方がいいのかも知れない。
このまま生き永らえた所で、限界が来るのは目に見えている。
なら、エミリアは人として死のう。
そう決めた時、ふと、妹の顔が頭をよぎった。
いつも後ろを付いて回っていた可愛い妹。
せめて、最後にお別れくらい言っても、罰は当たらないだろう。
もう、エミリアには彼女しか居ないのだから。
城は見慣れた場所のはずなのに、どこか余所余所しさと冷たさを感じさせた。
それが夜ともなれば尚更だ。
前回の件で城の警備は厳しくなっている。とても入り込めそうにはなかった。
飛べば楽なのだろう。妹に会う為だ、一度くらい飛んだっていいじゃないか。
……いや、やはりダメだ。飛んで会いに行っては、何の為に行くのか分からない。
そうだ、これなら。
あの男と同じ方法を使うのは癪だが、他に方法はない。
一目妹に会えたのなら、もう城を抜け出す努力は要らないのだ。その場で果てればいい。
幸いにして松明はここかしこに灯っている。その一本でも拝借するとしよう。
そして牛舎の枯れ草にでも放り込めば結構な騒ぎになるだろう。
そうすれば、警備は手薄になるはず。城に入り込めばこっちのものだ。
エミリアは松明に手を伸ばした。
「前と同じ手を食うと思ったか、愚か者めが」
目が見えない。目隠しのせいだ。
声だけで父の声と分かる。だが、姿を見る事とは禁じられているらしい。
それは構わない。元より父の姿を見に来た訳ではない。
「お前は既に追放された身。何故かくも無様な姿で戻ってきた」
「……妹に……フランに会わせて下さい」
「妹? ……フン、フランなどと言う者はもうこの世には居らん」
「ッ!? な、何故ですかッ!」
「いつまたお前の様な異形に成り果てるやも知れぬ。余は王として、民の生活を脅かすような後顧の憂いは絶っておかねばならぬ」
「ク……その、亡骸は……どこに……」
「そのような事を聞いてどうする。何れお前も後を追う。無駄話はここまでだ」
「煩いッ! 言えッ!」
目隠しを焼き払い、その目は見開かれ、紅く染まる。
エミリアは自覚していないが、既に彼女は吸血鬼としての力を行使している。
他者を操る力である。
「フランは……山の……洋館に……」
皆まで聞く必要はなかった。
場所だけを聞き取るとエミリアは窓ガラスを割って空へ翔けた。
少しでも時間が惜しい。疾く、フランの元へ。
最早、人であるかどうかなど気にする必要はない。
最愛の彼女は死んでしまっているのだ。
涙が邪魔で何度も視界が霞む。
拭おうとして、未だ両手の戒めを受けたままである事に気付いた。
――人ではない者に、こんな戒めなど意味がないのに。
深い深い山の奥、昏い昏い森の中。
日中でもなお薄暗いその中に、館が人目を避けるように建っていた。
窓は割れ壁は剥げ落ち、凡そ人の住んでいる様子は見られない。
その中に、月光の差し込むその中に。
フランは静かに横たわっていた。
最期まで神に祈っていたのだろうか、両手は硬く組まれている。
エミリアはその体を、そっと抱き起こした。
……とても軽い。妹はこんなに軽かっただろうか。
そして、それが自身の吸血鬼化に伴う力の増大によるものだと知った彼女は絶望するのだ。
自分はこんなにもバケモノなのか、と。
どれだけ時間が経ったのだろうか。外が騒がしい。
段々と明かりが近づいてくる。煩い。こんな時にまで邪魔をするな。
「居たぞ! やれーッ!」
周りに松明が投げられる。先に何かを投げておいたのかも知れない。火の回りが異常に早い。
煩い。煩い煩い。熱い。邪魔だ。熱い。煩い。熱い。邪魔だ。
――死ねば、いいのに。
「で、出てきたぞーッ!」
「怯むなーッ!」
「こ、こいつッ!」
切られたから、切り返した。
相手は、簡単に潰れた。
血がまるで噴水のように……背筋が、ゾクゾクする。
あんなに血が、血が、チガ――!
「ひぅッ、た、助けてくれ! この通りだ!」
何かが目の前に出てきたから潰した。
「い、イヤだ! 俺、俺はまだ死にたくない!」
何かが逃げようとしてたから潰した。
みんな、片手を振るうだけで潰れていく。
潰す度に何かが満たされていく。
今までに覚えた事のない快楽だった。
扉まで辿り着いた男の首を後ろから刎ねる。
すると、ホラ、あんなに血飛沫が。
舌を出して口で受ける。あぁ、こんなにも美味。
暫く遊ぶと皆居なくなってしまった。
血が目に入ってくる。赤い、世界が赤い。どこもかしこも赤い。
赤い月、朱い部屋、紅いエミリア。
――既に、エミリアは死んだ。あの晩に彼女は死んだ。
なら、私は誰だ? 純白を称えられたエミリアはもうこの世には居ない。紅に埋もれて死んだのだ。
……なら、私は紅を冠するエミリア、レミリアだ。
「ク、ククク……赤い、朱い紅い! 何もかも赫く染まればいいんだ! アッハハハハハハ!」
「……ねぇ、さま……」
何故、こんなタイミングで彼女は目覚めたのだろう。
目覚めるのは不思議ではない。私もかなりの血を流した。
部屋の中に横たわっていた彼女にその血がかかった事は想像に難くない。
だが、何故このタイミングなのだ。
これでは、私は、彼女まで――!
「キレイ、お姉さま……」
「ッ! ……キレイ?」
予想外の言葉だった。思わず動きが止まる。
フランは、きっと体が痛んでいるのだろう、顔を歪ませながらも無理に笑って見せた。
「お姉さまはいつも、白い、お召し物を着て、らしたけれど、私は、きっと、赤いドレスも、お似合いになる、って」
「……そう。貴女も、よく似合っているわよ、フラン……」
そうだった。彼女だけは私の味方だ。
フランの手から、シロツメクサの指輪が落ちる。十歳の誕生日にエミリアがプレゼントしたものだ。
硬く握られていたそれはもう原型を留めていないが、それでも私はそれを拾い上げて彼女の指に嵌め込んだ。
「さぁ、フラン。貴女は今日からお人形よ。私の、私だけの、大切な大切なお人形」
「そう、すれば、おねぇ、さまと、いっしょに、いら、れる、の……?」
「えぇ、貴女はずっと私と一緒よ。私の知らないところになんてどこにも行かせないわ」
もう、返事すら苦しいのだろう。
彼女は無言で微笑んだ。
だから、私は彼女を抱き締める。ずっと一緒に居る為に。
さぁ、行きましょう、フランドール=スカーレット――。
翌日、その国では一軒の洋館が忽然と姿を消したという。
白い姫とその妹の存在は誰もが忘れ、奇妙な事件は再び話題に上ることはなかった。
(でも、今じゃあ血の反動で暴走するし、ちょっと気も触れちゃったのよねぇ……ま、そこが可愛い所でもあるんけど)
湯呑みの底に残った濃いお茶を飲み干すと、レミリアはトテトテと台所に向かう。
「れーむー、お夜食まだー?」
「だから何でウチで食べるのよ。偶には私があんたの家に呼ばれるとかないの?」
「そっか、それでもいいわよ。フランも入れて三人で食べましょうか」
「えぇ? 本気で今から行くの? ハァ、ま、偶にはいいか」
(了)