Coolier - 新生・東方創想話

わが楽園、そは汝のもの -The Paradise in their Course- (前編)

2007/07/13 11:39:18
最終更新
サイズ
52.55KB
ページ数
1
閲覧数
691
評価数
5/19
POINT
860
Rate
8.85
#本作にはオリジナルキャラクターが登場します。また、一部キャラクターに独自設定が適用されております。その旨、ご了承の上でお読み頂ければ幸いです。












 その日、その時、始めから私には分かっていたのかもしれない。
 それが終わってしまうことを。なんでもない日常が、仲間と共に過ごした平凡な日々が。

 幼き日々には、きっと誰もが無邪気に信じていたに違いない。平凡な毎日はいつまでもいつまでも続いてゆくと。
 でも、それはいとも簡単に失われてしまう。そして失って始めて気が付くのだ。何気なく過ごしたその一瞬が、本当はかけがえのない時間であったのだと。
 そう、大切なことはいつでも、それを無くしてから気付くのだ。



  ※ ※ ※






わが楽園、そは汝のもの -The Paradise in their Course-






「まったく、何だって私が呼んだ覚えもない、招かれざる客に、お茶まで淹れてあげなきゃいけないのよ」
「おいおい、今日はちゃんと手土産を持って来たじゃないか」
「あのね。変な茸とか、怪しいお菓子もどきとか、いらないから」

 昼下がりの神社の境内では、いつものように楽しげな会話が交わされていた。いつもと変わらない、日常の風景。何度となく繰り返された平和な情景。

「実は、なんだかここへ来なきゃいけない気がしてね」
「どうせお茶が飲みたくなったとか、そんなんでしょ」
「まあ、いいじゃないか」
「……ま、そうね」

 小半時も経っただろうか、いつの間にか厚くなった雲が、太陽を覆い隠し始めていた。光は鈍く注ぎ、境内の鳥居の影が霞んで曖昧となる。やっとお茶を淹れてきた紅白の衣装をまとう楽園の素敵な巫女、博麗霊夢は、黒白の服を着た普通の魔法使いの傍らに腰を下ろす。と、何故か再び霊夢は腰を浮かし、不安そうに辺りを見回した。
「どうした、一雨来そうか?」
「いいえ、そうではないの。結界が……」
「??」

 つられて黒白の魔法使いも視線を上げる。もっとも、彼女には紅白の巫女のような異変を感知する能力は無い。ただそこには朦朧とした影の伸びた境内があるだけだった。
 だが、彼女は暫くして階を登ってくる姿があることに気付く。
(……なあんだ。それにしても、ここはやっぱり色んなモノを惹きつけるな)
 神社へ現れたのは、魔法の森に棲む魔法使いだった。だが、ここではそんなことは特に怪しいことでも不思議なことでも無い。博麗の巫女は誰に対しても分け隔てが無いことで有名だ。特に用事があるわけでもないのに色々な人間が――時には妖怪さえも――ここへやってくる。

「……ーい、まりさぁー。霊夢ー」
 金髪碧眼の魔法使いが呼びかける。両手に持っているのはティーセットだろうか。

「家からあんなものをずっと抱えてきたのか?暢気な奴だな」
 黒白の魔法使いがそんな軽口を叩いて、挨拶を返そうとしたその時だった。
「!!」
 目にも留まらぬ速さで彼女の鼻先をかすめていったものがあった。
 彼女が、その行く先を見届けるよりも早く、境内に陶器の砕ける音が響き渡った。


  ※ ※ ※


 白地に紺の染め付けのカップが宙を舞う。お揃いで集めたティーポットと三脚のカップ。

「ああ、折角の自慢のティーセットだったのに。
 ……そう言えば、私は何のためにここへ来たのだったのかしら?」

 足下で砕け散るカップやポットを視界の端で追いながら、アリスは考えていた。

「……あれ、私はどうしちゃったの?」
 彼女には自分に一体何が起こったのか、理解することができなかった。
 手に力が入らない、周りが暗くてよく見えない。いつの間に夕方になってしまったのだろう。

「ああ、途中で雨が降りそうになって……」

「でも、降り出す前に、着くことが出来て……」

 暗い。そしてやけに静かだ。それなのに、どこか遠くの鳥の声だけが鮮明に聞こえてくる。
 やがて膝が折れ、景色が暗転する。

「どうして、こんなことに」
 最後に彼女の目に入ったのは、胸に深々と突き刺さった無数の針。

「……上等の紅茶が手に入って、……だから霊夢達と一緒に。……あれ?、そもそも私は紅茶なんて持っていたかしら……」

 疑問と混乱のうちに意識は途絶え、青い衣の魔法使いは崩れ落ちた。


  ※ ※ ※


「お、おい。どういうことなんだ?」
「……………」
「なあ、何かの冗談だよな?そうだろ?」

 博麗の巫女は何も答えずに更に針を打ち込んだ。針加持に用いる霊気を込めた針である。

「アリスっ。おい、霊夢!何とか言えよ」

 巫女は魔法使いに背を向けると、社殿の遙か上の虚空を凝視した。そして自分に言い聞かせるように呟いた。
「……………。とうとう、始まったの?」


「霊夢っ!!」
 普通の魔法使いが巫女に掴みかかろうとしたその時。二人は風を切り裂いて飛び来たる者に気が付いた。

「……博麗の巫女にお伝えする儀、これあり」

 それは、現世とは異質の冷気をまとった、幽世からの幼き使者であった。彼女は息を切らせながらも、深刻な様子で堅い文句を列べ始めた。気ばかり焦るのか、呂律が回っていない。

「まあまあ、妖夢、何か重要な伝言なのかもしれないけど、そう鯱鉾張ってたんじゃ何を言っているのか分からない。さ、落ち着いていつものように話せよな」
 冥界からの使者に目もくれず、無言で虚空を睨む霊夢に代わって黒白魔が応じる。

「はい、す、すみません」
 優しく声を掛けられて、冥界の白玉楼の庭師、魂魄妖夢はようやく落ち着きを取り戻したようだった。

「幽々子様から、緊急の、そしてとても大切な伝言を承って参りました。あの幽々子様が、真面目な様子でおっしゃったことです」
「で、内容は?」
 いつもなら一言二言突っ込んで妖夢をからかう黒白魔も、さすがに今回はそうはしなかった。

「境界に異常あり!」

 半人半霊は、叩き付けるように言葉を発する。
「冥界と顕界との境界に異常が発生しています。放置するとこの世界の秩序が保てなくなります」

 それを聞いた魔法使いが、ややほっとしたように言う。
「それは、以前にもあったことじゃないか」
 確かその時は、白玉楼の主人たる西行寺幽々子と、スキマ妖怪の八雲紫が何かくだらないことを企んで、余計な騒ぎを起こしたのだった。結局博麗の巫女が動いて、何となく解決したはずである。魔法使いがそう言うと、妖夢はぶんぶんと音がしそうな程首を振って、言葉を継ぐ。
「いえ、……実は幽々子様が憂慮されているのは、そのことではないのです。私には良く理解できなかったのですが、幽々子様はこの異常が何かを隠匿するための囮ではないかと考えておいででした」
「囮ぃ~?」
 魔法使いは首を傾げる。
「何だ?そりゃ」

「で、その何かについて、幽々子はどう考えていたのかしら?」
 訝しげな黒白を制すると、始めて巫女が口を開く。
「博麗大結界ではないか、と」
「大結界をどうこうするのに、何でそんな囮なんて使う必要があるんだよ?大体全部あのスキマのせいなんじゃないか?」
 魔法使いが口を挟む。

「えーと、紫様とは連絡がつきません」
「あやしいなぁ」
「……………。妖夢、幽々子はどの程度持ちこたえられるって?」
「あ、そうでした。巫女は必ず時間を聞くだろうとおっしゃって……。えと、『良くて一日、ただしこれが時間稼ぎを目的としているなら、時間は関係ない。私は力になれない』と。このまま伝えれば解るとおっしゃったのですが、私には何のことやら……」
「……なるほど。それであなたを寄越した訳ね」
「??」

 冥界の使者が沈黙したことで、ようやく魔法使いは現状を思い出す。神域の入口で倒れている仲間、……だったものを。
「そうだ。そんなことより妖夢、お前今すぐ永遠亭の永琳を呼んできてくれないか?……今なら、まだ」
 白黒の魔法使いの言葉を遮り、紅白の巫女がぴしゃりと言う。
「無駄よ。多分、……いえ、まず間違いなく永遠亭へは辿り着けない」
「……そんな」
「妖夢、あなたは多分冥界にも戻れない。……幽々子と引き離すのが目的なのか、それとも真面目なあなたをからかいたくなったのか……」
「どういう事なのでしょうか?」
「とにかく、あなたも私たちと同じ遊戯に招待されたのよ。もっとも強制的に、だけどね」

 状況を理解できないまま、妖夢は辺りを見回す。そして今になって始めて、倒れている魔法使いの存在に気が付いた。妖夢は震える声で尋ねる。
「ここで、何があったんです?」
「それは……」
 口ごもる黒白を遮って、紅白の巫女は語る。
「あれは既にあなた達の知っているアリスでは無かったの。あれは、よく分からないけれども、うちの結界を害するための“何か”をここへ持ち込むために送り込まれたのよ」

「何だ。じゃあ、あれは贋物ってことか!」
嬉しそうに応えた魔法使いに対して、巫女は冷たく言い放つ。
「違うわ。偽物とか、本物とか、そういうことではないの。あれはアリスだったもの。多分、アリス本人の意識も知らない、上位人格の類が仕掛けられていたのだと思うわ」
「そんな、それじゃあアリスは何も知らないのに……」
「結界を護るのが私の役目。……………。でも、境内には入れてしまった。もしかしたら……」

「アリス……」
 魔法使いには巫女の声は届いていないようだった。動かない“アリスだったもの”から目を背け、魔法使いは誰に対するという訳でもなく尋ねる。
「博麗大結界に手を出す奴なんて、幻想郷の中にいるとは思えないけどな」
「……私もそう思うのですが」
 幼い庭師が同意する。彼女の主を含めて、この地には強大な力を持った者は多い。しかし、人妖共にみんな今の秩序に充分以上に馴染み、満足しているはずである。そもそもその存在自体、結界があればこそであるとも言えるのだから。

「博麗大結界に何かあったら、この世界が成り立たなくなってしまうからな。紅魔館の連中とか、紫とか、幽香とか、皆黙ってないだろ?永遠亭だって……」
「早い話が永遠亭は隔離されたの。月人達はそういった術を知っている。どうやったかまでは分からないけれど、きっと逆にそれを利用されたのね。おそらく、永遠亭の中にいる者は、今幻想郷に何が起こっても気付かないでしょう」
「そう、……なのか」
「……ええ。白玉楼も同じようなものよ。どうやら、あちこちに仕掛けがあったようね。結界が乱れているわ。紫がこれに気付いていないはずはないから、多分……」

 勘が鋭くない普通の黒魔術少女も、ようやく辺りの雰囲気の変化に気付いた。見慣れたはずの風景が僅かに歪み、混沌の欠片が平穏な空気の中に紛れ込んでいるようだ。何か、大切なものが、手の指の間から、零れ落ちてゆく、そんな感じだった。
 この今の状況は何なんだろう?彼女は考える。ほんの数刻前まで、いつもと何も変わらない、平凡な日だったはずなのに。

 ―――本当に?

 隣の霊夢を見る。そして半人半霊の庭師……。彼女たちは本当に、いつも知っている二人なのだろうか?思考が止まる。そして何か、取り返しのつかないことが起きている、そんな考えが頭をよぎる。だが二人の表情からはなにも読み取れない。
 そして、倒れているアリ――、!!。……何も無い?そんなはずは―――。

「危ない!まりさっ」
 霊夢の声に反応する間もなく、黒白の魔法使いは弾かれたように吹き飛ばされる。地面へと叩き付けられ、全身に痛みが走る。それでもすぐに彼女は痛みに堪えて視線を上げる。そこには。

「痛っ。……ア、アリス!」

 彼女の視線の先には、両腕をだらりと下げ、さながら幽鬼の如き立ち姿のアリスがあった。次の瞬間、七色の光が弾け、弾幕となって白黒の魔法使いへと殺到する。慌てて避けたところを打撃が襲う。

「どうしたんだよ。アリス。まあ、やったのは霊夢だし、ほら、何て言うか、いつものことだろ」
 痛みをこらえ、必死に白黒は呼びかける。だが答えはなく、ただ次々と弾幕が展開されるばかり。弾幕の合間に繰り出される打撃を避けるための間を取りながら、黒白は更に呼びかける。
「なあ、機嫌直せよ」

「駄目です!」
 そこに割って入ったのは、抜刀した妖夢だった。
「私にも分かります!あれはもう“弾幕ごっこ”じゃありません!」

 そして妖夢は地面を踏みしめると、アリスに向かって突っ込んでいった。妖夢は弾幕をかい潜って肉薄し、相手の胴に向かって渾身の力で刀身を打ち込んだ。
 その刹那、アリスは生き物にはあるまじき角度に体を折り曲げて、斬撃をかわした。全身全霊で刀を振るった妖夢は、本来有り得ないかわされ方をしたせいで、体勢をほんの少し崩す。その無防備となった頭部に、やはり有り得ない角度から蹴りが入る。
 打撃をまともに受けた妖夢が派手に撥ね飛ばされる。

「なんだありゃ。あんな動き、有り得ない……」
 その動きは、とても人の形をした生き物が可能なものとは思えなかった。きりきりと首が回転し、胴体の向きを無視して三人の方へ顔を向ける。そして、

「……死んでくれる?」

 それはアリスの声で囁いた。


  ※ ※ ※


「言ったでしょう。あれはもう唯操られているだけ」
「で、でも」
 躊躇する様子を見透かしたかのように、“それ”は一気に距離を詰め、黒白に迫る。避ける間もなく、彼女は腹部に強い衝撃を受ける。息ができない。
 力が抜け、膝をついた魔法使いの胸ぐらを捕まえ、“それ”は、空いた手を挙げた。
 (こんな近距離で弾幕を打ち込まれたら、流石にお仕舞いかな……)
 苦しい息の中で普通の魔法使いはぼんやりと考える。目の前の“アリスだったもの”の顔は、生気の失せた白磁のようで、かつて暖かい光を湛えていた瞳にも、今やガラス玉のような無機的な輝きがあるばかり……。

「まりさっ。何やってるのよ!」
 巫女の声が遠く聞こえる。
 普通の魔法使いは覚悟を決めて目を閉じた。だが、“それ”は手を挙げたまま、あたかも凍り付いたように動きを止めた。
 再び目を開いた彼女は、“それ”の人工的な瞳の中に、僅かに揺らめく命の炎を見た気がした。

「アリス!」
 動きを止めた“それ”は必死に何かを伝えようとしていた。
「…りさ、お願い。私を……」
 唇が震え、声が絞り出される。
「……しは、気付いたの。私は、……この世界を壊すために作られた。……でも、私は、……郷が好き。……当は、……夢が、……さが、みんなが好きだった。だから、お願い……」

 軋むような音がして、アリスの関節がねじ曲がる。止まっていた手が、ゆっくりと動き出す。
「何を莫迦なことを言っているんだ」

 アリスの声は、もはや囁き声となった。
「……を、壊す道具にな……は嫌。……お願い、わた………、あ……なた……に………ら……」

 壊れた人形の様に表情が消え、見開かれたままの目から涙が零れ落ちる。それを見た魔法使いは目を閉じ、拳を握りしめる。

「わあああああああああああああああ」

 歪んだ空気が凝る、薄明るい境内で一際輝いたのは、妖怪も恐れる程度の威力を誇る、黒白魔の魔砲。
あとに残るは、……糸の切れた壊れた一体の人形。



  ※ ※ ※



 二人連れの少女は、玄関の前に立つ瀟洒な少女に声を掛ける。

「それじゃあ咲夜、こっちは任せるわね」
「お伴せずに宜しいのですか?」
「なんだか今日は不安なの、誰かがここに残った方が良い気がするのよ」
「パチュリー様も大丈夫なんですか?」
「…今日は曇っているし、最近は調子も悪くないから大丈夫。……多分」

 完全で瀟洒な従者は、空を見上げ、呟く。
「神社なんて放っておけばよいと思うのですが」

 そんなメイド長の言葉を無視すると、永遠に紅き幼き月、レミリア・スカーレットは傘を抱えて外へ出る。
「じゃ、よろしく」
 敢えて軽く何気ない雰囲気で声を掛けながら、彼女は考える。今日はなんだか視野が暗い。空も、空気も、なんだか見通されるのを拒んでいるようだ。どこかで、何か不吉なことが進んでいる。

 (……何かある)
 そんな時、よく彼女は従者を連れて出歩いた。でも、何故か今度は咲夜を伴うことが躊躇された。それがなぜなのか、彼女は自分でも不思議に思った。
 (ま、多分神社に行けば、何か解るでしょ)
 時々変なことは起きていたし、それでもいつも何とかなっていたのだ。それに、何か事件があるのなら、それに参加しない手はない。自信家の吸血鬼はそうも思っていたのだ。

 だが、彼女は気付いていなかった。運命の車輪が、既に彼女の外側で回り始めていたことに。



  ※ ※ ※



 里は殺気立っていた。不安が不安を呼び、いや増す疑心が人々を苛立たせた。
 誰かが叫んでいる。
「妖怪を殺せ!半獣も人妖も敵だ」

 いつの頃からか、里に広まった噂があった。
 (博麗神社は妖怪に乗っ取られた)
 (博麗の巫女とその一派は、妖怪と結んで普通の人間を滅ぼそうとしている)
 (里にもその一派が紛れ込んでいるそうだ)
 (やらねば、やられる)

 それは強大な力を持つ妖怪におびえる人々の心に忍び込み、次第に成長していった。
 (人間の世を取り戻すべきだ)
 (人を助け、邪悪な人外を滅ぼす神様がいるそうだ)
 (人外さえいなければ、きっと良い世界になる)
 (博麗神社はいらぬ)
 (巫女もいらぬ)

 そしてその日、遂にそれは爆発した。何かにおびえた人々は、遂に誰かの一言によって行動を開始したのだ。おびえる者は次第に集まり、やがて集団となることでおびえや恐れは敵意へと変化した。敵意は最もわかりやすい対象、自分達ではない“奴ら”へと向かった。

 標的は一軒の建物。そこは、一人の人外が、里人に学問を教える場として使っている建物であった。

 館の中には人影が三つ。稗田家の当主と館の主の歴史喰い、そして人里を尋ねて来ていた蓬莱人、藤原妹紅。
 稗田家の当主、阿礼乙女は先刻不穏な状況に気付き、ここへ知らせに来ていたのだ。しかし、その後の僅かな時間で館の周囲に集まってきた人間達は殺気立ち、既に話が通じるような状況では無くなっていた。彼女は館を出る時機を失った。

「困ったものね」
「困ったものだな」

 阿礼乙女と歴史喰いはため息をつく。
「妖怪を恐れる気持ちは分からないでもないが、自分達の中の異分子に、それをぶつけても仕方ないだろうに」

 一方でやや激しい調子で妹紅は言う。他の二人の、特に敵意の対象になっている者の、手ぬるい他人事のような感想に不満があるようだ。
「妖怪と人間の共存による世界の秩序を説いたら、妖怪の手先ってか。なんと短絡的で愚かな」

「仕方ないさ。人間は一人一人では弱いもの、自分達の外側に“奴ら”を作ることで連帯感を維持しているんだ。自分達の枠組みが曖昧では不安だからな」
「自分達の存在意義を確かめるためには、“自分達以外”を定義する事が必要、ということなのでしょうね」

 だが、それを聞いて妹紅は思う。
 (そんなこと言っている場合ではないだろう)

 当初遠巻きに館を囲んでいた人間達は、その数を増すと共に次第にその包囲を狭め、今やまさに突入せんばかりになっていた。群衆からは殺気が立ち上り、その重苦しい雰囲気は、明らかに館の中まで入り込んできていた。
 人間達は手に手に得物を持ち、松明を持っていた。薄曇りの中、松明の出す煙が辺りに満ち、館の周りにさながら黄昏れ時の如き空気を生み出していた。

「どうやらこれは、件の災厄の一部のようだ。一連の流れに“作為”が感じられる。そうは思わないか?」
 煙る空を眺めながら、館の主は言う。

「そうですね。確かにそんな気がします。でも、以前とは形式が異なるように思いますが」
「規範を変更したのだろう。だとすると、もっと早くに博麗神社へ行くべきだったな」
「結界が閉じられているかもしれません」
「否、人間の里との間は開いていると思う。私はむしろ開いているからこそ、この騒乱が起きたのだと思う」

 会話に取り残された妹紅が苛立たしげに割り込む。
「悠長に話をしている場合ではないぞ。外の連中、今にも火を掛けんばかりだ」

 紺青の服をまとった歴史喰いは、空に向けていた目線を下へ落とす。そして門扉の外側へ思いを巡らす。その部屋からは見ることは出来ないが、その先には人間達の暮らす里がある。彼女が長年人間と共に暮らした里が。彼女は目を閉じ、しばし里での様々な出来事を思い出す。やがて何かを決意した彼女はゆっくりと立ち上がる。

「もう良いだろう。時間もない。外の者達の標的は私だ。二人とも、巻き込んで済まなかったな。ここを出るがいい。二人なら里人も手を出すまい」
「何を言う、唯の人間が何人いようと、私とお前の力があれば、囲みを破ることなんて、茶を淹れるより簡単だろう?」
 妹紅が不満を表明する。

「里の者を傷つけたり、私と一緒に逃げたりしたら、二人がこれから里で生きてゆくのに支障があろう?」
「馬鹿な、悪いのは今外にいる、誰かの戯言に踊らされている愚かな人間達だ。私はお前さんを置いていく気はない」

 阿礼乙女も異議を唱える。
「あなたの力は人間の里にまだ必要です。なんとか三人で助かる方法を考えましょう」

 だが、それに対する答えは、静かではあったが、一切の異議を拒否するものであった。
「駄目だ。これはもう既定の道筋なのだ。動き出してしまった以上、私たちと里人、皆が助かる道は閉ざされた」

「そうだ、白沢の能力があるじゃないか」
 しばしの沈黙の後、やや弾んだ声で妹紅が再び語りかける。
「この里の歴史を少しだけ改変すれば良いんだ。そうだ、“なかったこと”にすれば良いんだよ」

 だが、知識と歴史を司る館の主は頭を振る。
「私はその力は使わない。人間も妖怪も皆、自分の意志で生きていると信ずればこそ、不安な未来に立ち向かえるのだ。過去を改竄することで、今生きている者の歴史を奪い、現在と未来を変えてしまうことは、全ての生命に対する冒涜に他ならない」

 どこからかぱちぱちと木のはぜる音が聞こえてくる。遂に火が付けられたらしい。心持ち温度が上がり、部屋の中に薄く白い煙が忍び込んできた。
「そんなことはない。みんなが又元のように暮らせるんだ。余所者や人間以外に対する考え方と、ここ何日か、ほんの僅かな時間を変更するだけじゃないか」
「………………」
「もし、そうしないのなら、私はなんと思われても良い。館の周りの人間どもを皆殺しにしてでも、一緒に行く」

 明らかに部屋の温度が上がり始めていた。黒い煙が天井を這い、視野の片隅にちらちらと真っ赤なものが見え始めた。館の主は僅かに微笑むと、二人に語りかけた。
「……仕方ないな。では約束してくれ。妹紅、これ以上罪を重ねるな、お前さんは人間なのだから。そして、里の騒ぎが収まったら、博麗神社へ行ってくれないか。多分、妹紅の力が必要だ」
「……承知!」
「それから稗田殿、………人間の里を頼む」
「――――え?」


 突然もの凄い力で二人は館の外へ放り出された。人を超える力を持つ妹紅でさえ、何が起こったのか認識する間もなかった。
 そして二人の目の前で、瞬く間に館は炎に包まれ、崩れ落ちた。
 妹紅は慌てて館へ引き返そうとして気付く。彼女が能力を使ったことに。

 彼女は自分の存在ごと、歴史を抹消したのだった。そこに残ったのは、燃え落ちた主のない館。

 いつの間にか雨が降り出していた。

 館を取り囲んでいた人間達が、ぽつりぽつりと減り始める。おそらく、何のために集まっていたのか、覚えていないのだろう。その館が元々何だったのかさえ、忘れているのかもしれない。

 誰もいなくなった館の前、子供が雨の中で一人泣いていた。
「先生は?先生はどこ?」
 妹紅はただ、子供を抱きしめる。すぐにこの子供も、ここが何だったのか忘れてしまうだろう。そう、全てが“なかったことに”なってしまうのだ。

 腕の中で泣き疲れて眠ってしまった子供を、そっと阿礼乙女に預けると、妹紅は歩み始める。
「博麗神社へ行くよ。あいつとの約束だからな。それから人間の里を頼む」

 阿礼乙女は、子供を袖で雨から遮りつつ頷く。
「それから、無理な願いかもしれないし、私が言うのも何だが、あいつのことも忘れてやってくれないか」
「……………。ええ、それが彼女の望みならば」
「……ありがとう」

 雨に煙る蓬莱人の後ろ姿を見送りながら、幻想郷の記憶は考える。
 (人の本質が変わらない限り、歴史は繰り返すだろう。自分と異なる者を認められない人間の存在は、決して“なかったこと”にはできない)
 (……それでも、明日を信じるしかない。それが儚い夢だとしても。今日よりも、明日が良くなるだろうと。次の機会には、きっと人間は自分で過ちに気が付くだろう、と)
 そして自嘲気味に呟く。
「でも、それだってこの世界にちゃんと明日が来れば、の話なんだけどね」



  ※ ※ ※



 虚空を睨んでいた巫女が声を洩らす。
「来る!!」

 その声に合わせ、アリスの傍らにしゃがみ込んでいた黒白の魔法使いも、ようやく立ち上がる。続いて、参道を挟んだ向かい側では、魂魄妖夢が刀を構え直す。

「あらら、折角の仕掛けが台無しね」

 予想外の位置から声が聞こえた。
 紅白、白黒、庭師の視線は、暫くあちこちを彷徨った後、一点に集まった。そこは社殿の直上。それはまさに境界上に現れたのだ。

「こ、こんな近くに!」
 社殿のすぐ前にいた霊夢が慌てて後退する。

「アリスちゃんは私が造った中では、優秀なお気に入りだったのに……。うーん、反抗期だったのかしら」

「お前、何者だ!アリスに何をした!」
 感情を必死に押さえつけながら、魔法使いは尋ねる。だが、声の主はそれには答えず、博麗の巫女へと視線を向ける。

「造ったって、……神様にでもなったつもり?」
 切っ先を相手へと向け、よりよい位置を得るためにじりじりと移動しつつ、妖夢が言う。

「申し遅れました。私がこの世界の造物主、神よ。この幻想郷は、私が創ったの」

「あなたは!」
「お久しぶりね。神の犬さん」

 そう言うと、魔界の神、神綺は神社の上空から辺りを睥睨する。その目は重力を発するかのように、周囲の空気を重くさせ、圧迫感を生み出す。可憐な見た見た目とは裏腹に、彼女の存在は周囲を無条件に威圧した。

「…あれが、脅威?」
 いつの間にか、境内の端に現れた二つの影。それは永遠に幼き月と図書館の魔女。
「私はここが気に入っているのに、何なのよ、あれは。何者だろうと、私の邪魔はさせないよ」

「レミリア!パチュリー!」
 普通の魔法使いが二人に気付き、声を上げる。

 神綺は突然闖入した吸血鬼の居丈高な要求に、呆れたように応じる。
「ふふん、相変わらず我が儘なのね」
 それでも魔界の神は巫女から視線を外さない。巫女の方を向いたまま、紅魔館の二人へと言葉を掛ける。
「遅かれ速かれ、お前達も来ると思ってたわ、悪魔さん。組合せがちょっと意外だったけど、順番が僅かに前後する程度ね」

「…この混乱は何?何の目的でこんな仕掛けを?」
 パチュリーが尋ねる。
「…神社だけじゃないわ。人間の里もおかしかったわ。いえ、他にもたくさんの歪んだ雰囲気を感じる。…これは、皆あなたが仕組んだことなの?」

 さも面白そうに、魔界の神は応える。
「私が仕掛けた?ふふふ、それは少し違くてよ。私は唯、この世界に入ったひびにちょっと楔を打ち込んだだけよ。私がしたことは単なるきっかけ、破滅の本質はこの世界そのものに内包されているのだわ」

「…あなたは、破滅を望むの?」

 魔界の神は続ける。
「混沌の縁に成り立つ危うい秩序、脆い均衡の上の偽りの平穏。それでいて平凡で代わり映えのしない日々。私はそんなものはもう飽き飽きしたのよ。
 だから、全部やり直すことにしたの。つまらない世界は壊して白紙に戻す。そして零から新しい世界を再構成するわ。
 でもね、ただ消してしまうのは簡単だけど。それでは面白くないわ。だから、あなた達登場人物自身の手で、世界を終わらせて見たかった。私の創った小さな世界、そこに配置されたたくさんの登場人物、そのそれぞれが、突然の世界の終わりに際してどんな行動を取るのか、何を考えるのか、興味を引かれるでしょ?空虚な仮面は外れ、皆が己の本心に向き合うことになる。
 しかもその終わりが、自分達自身で引き起こしたことだったら、ねえ。」
 神は笑う。

「悪趣味だな」
「…趣味が悪い」
 二人の魔法使いが、同時に感想をもらす。

「悪趣味?何を言っているのかしら。そもそもここは私の創った世界、私のもの。何をしようと私の自由。それにね、いい、いわば運命の一部を、あなた達に任せた訳でもあるのよ?登場人物に過ぎないあなた達に、物語を紡ぐことを許してあげた訳。むしろ感謝されてしかるべきではないかしら?」

「その運命すら、与えられたものでしょうが!」
 せせら笑う魔界の神に向かって、紅白の巫女が叫ぶ。

「まあねぇ。所詮私のものなのだから、方向性くらい決めさせて貰うけどねぇ」

「くだらないおしゃべりはもう沢山だわ」
 会話を断ち切るようにそう言うと、レミリアはゆっくりと羽根をはばたかせる。そして彼女は小さな身体を大地から浮かび上がらせ、魔界の神、神綺と対峙する。
「御託など、聞く耳は持たないわ!私はまだこの世界で遊ぶよ!私は運命を操るもの、誰の掣肘も受けはしない。決めたわ。パチェ、私はアレを排除する!」
 ようやく神綺は、ゆっくりと巫女から紅い悪魔へと視線を移す。

「ふん、たかがヒヨッコの吸血鬼の癖に」

「雨が降りそうだし、長く遊ぶつもりはないわ」
 背後に静かなる魔女を従え、緋色の世界は力を解放する。

「黒いのとそこの庭師!あなた達はアレを誘導しなさい。場所はパチェが弾幕で指定するわ。そこに私が最大火力のグングニールをお見舞いしてやる!霊夢はちゃんと結界を保持してればいいわ!」
 レミリアには充分な勝算があった。確かに目の前にいるものの力は量り難い。それでも、地の利、攻撃力、速度、正確性、いかなる要素を考慮しても、この場にいる面々が協力すれば、彼女の知る限りこれに敵う者など幻想郷にいるとは思えなかったのだ。彼女が見通す運命には、敗北など存在しない。

「ちぇっ、そんなにうまくいくかな?」
 パチュリーが属性魔法を駆使して弾幕を重ねて行く。そこにできる穴を残る二人で埋めてゆくのだ。精緻でいかにも理詰めの構成だ。だが、魔女の作る美しい織物のような弾幕を見つつ、黒白の魔法使いは思う。余りにも明快に構築されすぎている。

「バレバレなんじゃないか?」
「…分かっていても誘導されれば結果は同じ。過程は問題ではないわ」
 穴を塞ぐための弾を撃ちつつ、妖夢が言う。
「うまくいっているようですよ?」

 神綺は弾幕の意図を知ってか知らずか、すいすいと弾をかわしつつもレミリアの照準する場所に近づきつつあった。
「これで、お終いよ!!」
 待ちかまえていた紅い悪魔が力を放とうとしたその瞬間。

「■■■!!!」

 言葉にならない言葉を発して、彼女は墜ちた。


「愚かねぇ」
 墜落してゆく永遠に幼き月を見ながら、神綺は楽しそうに笑う。
「誘導されたのはどちらだったのかしら」

「レミィ!!」
 パチュリーの声が悲鳴のよう響き渡る。
 永遠の月の背中から胸まで突き通したのは、鈍く輝く銀のナイフ。

「まさか!?そんな、たった一撃で」
「嘘だろ?」
 皆が振り返った時、そこには金色の眼をした狩人が一人。



「……神綺さま」
「ふふふ。さすがね。完璧に時宜を得た登場だわ」
 華奢で瀟洒なメイドは、立ちすくむ少女達の傍らを静かに通り過ぎ、ふわりと浮くと、神の右手へと昇る。ゆっくりと振り返った彼女は、いつもと同じ笑顔を浮かべる。極めて職業的なその表情からは、何の感情も見いだせない。

「…咲夜!あなた、何故?…そ、それじゃあ館に残った者達は!?」
 パチュリーがその場にへたり込む。

「…そんな、そんなことって」
「咲夜……、どうして、何故なんだよ」
「え?え?一体どうなってるんですか?」
 少女達に動揺が走る。最も信頼できると思っていた人物が、実は相手側の駒だったのだから。もう、誰も信じられない。お互いの顔を見つつ、誰もが思う。……もしかしたら彼女も?

 従者を従え魔界の神は嘯く。
「これは私の仕掛けた楔の一つ。紅き館を砕く銀色の鍵」

「鍵?それでは……」
 そんな楽園の巫女を見て、神は嗤う。
「何をそんなに驚いているのです?こんな楽しい機会は中々ないのよ?まったく、私の鍵が一つだけの訳がないでしょう」


 運命に導かれ、吸血鬼を狩る者。この世界を壊す二つ目の鍵。


  ※ ※ ※


 神の下に静かに佇む神の僕は、あたかもずっと昔からそうだったかのように、そこにしっくりと収まっていた。
 その振る舞いは、どこまでも優雅で、どこまでも完璧で。
 だが、その眼差しは、主以外の意見を決して入れることの無い、厳しく冷たいものだった。

 その冷徹な人の形が声を発する。
「ああ、そうでした。忘れていましたわ。神綺様、あちらに連れが」
 咲夜の言葉に合わせるように、灯籠の影から駆け出した者達があった。地味な姿、震える足。

「神綺さま!」
 その者達は口々に魔界の神の名を唱えた。それを見た巫女が思わず声を掛ける。

「あんた達は、人間の里の……。どうしてここへ?」

 人間達は横目で巫女を睨みつけ、吐き捨てる。
「裏切り者の博麗の巫女に言うことなど無い!」
「神綺さま。御意の通り、里で行動を起こしまして御座います」
「これで、人の世を取り戻せるのでしょうか」
「妖怪に脅かされることのない、電信や汽車もある、そんな開化した人間の世界を」

「おい、霊夢。こいつら、何を言ってるんだ?」
「この人達は、外の世界から迷い込んできた人達よ。この世界で生きることを選んだのだと、思っていたのだけれど……」
 沈んだ調子で彼女は応える。人間達の中には、かつて彼女が妖怪から救ってあげたことのある者も含まれていたのだ。

人間達は、自らの言葉に酔い、興奮する。
「里の人外は皆殺しです」
「ご覧下さい、あの煙がその印です」
「間もなく、里の者達も駆け付けましょう」

「何だって!」
 普通の魔法使いは慌てて人間の里の方角へ目を凝らす。低い雲のために暗くなりつつある空の中に、確かに立ち上る煙が見えた。
「何てこと!おい、霊夢!!」
「―――――。そうか、彼らが三つ目の鍵なのね」

「その通り」

 人間達の言葉に頷いていた神が告げる。
「異質な者との共存など幻。私はそれを教えてあげたのよ」

「里にも力を持つ者が居る。暴徒が何人いようと敵わないんじゃないか?」
 人間の里の方向では、もはや曇天の中でも黒煙がはっきりと見分けられるようになっていた。その煙を凝視しつつ、黒魔術少女は必死に反論する。巫女は無言のままだ。

「里の内で殺し合いが起こるのもまた一興。どちらの側が生き残るのか、興味があるわ」
「殺さずに制圧することだってできるさ」
「それはどうかな?どちらにせよ、人と妖の間はお仕舞いだわね。幻想郷の均衡は崩れるわ」
「……………」

「さあ、この神社へやってくるのは、妖怪を憎む人間?それとも人殺しの妖怪かしら?」

 流れ着いた者、畏れを忘れ、狭量と独善をもたらす者。信頼と均衡を崩す、三つ目の鍵。


  ※ ※ ※


 博麗神社に重苦しい空気が流れる。神も人も、人ならざる者も、誰も動かず、一言も発さない。曇天の空に対応するかのように、辺りの空気も重く沈む。灰色の空と湿った風が不吉な予感を呼び、更なる不安を募らせる。

「やあぁぁ!」
 遂にしびれを切らした半人半霊が、魔界の神へと斬りかかる。ただひたすら真っ直ぐに、風よりも、音よりも速く。周囲の空気が震え、刀身の放つ鈍い光が軌跡を描く。
 それを受け止めるは、華奢な腕に握られた細身のナイフ。浅い角度で斬撃を受けると、僅かな力で外側に向けて刀身を弾き出す。妖夢は間髪を入れず、外へと向かわされた力を回転力へと変え、二刀目の攻撃を繰り出す。今度は弧を描く刃が側面から従者を襲う。
「もらった」
 だが次の一瞬、そこには既に咲夜の体はなく、妖夢の渾身の連撃は空しく空を切る。
「危ない!」
 いつの間にか背後から妖夢の首筋に迫っていたナイフの群れを、巫女の結界が跳ね返す。

「あんた、何度も同じようなことしないでよ。危なっかしいったらないわ。示現流じゃあるまいし、最初の攻撃をかわされたらどうするかくらい、考えときなさい」
 こんな時なのに、霊夢は小言を言っている。魔法使いは苦笑しつつ、次の攻撃の準備を整える。こんな悪夢は早く終わりにしよう。それぞれが異なる角度から弾幕の網を張って追い込み、一気に仕留めるのだ。

 一方で、手元のナイフを数えながらメイド長は言う。
「ここは神綺様の手を煩わせるまでもありません。私が軽く始末しておきますので、神綺様はどうかお下がり下さい」
「ま、私が相手をしてやってもいいんだけれど、見ているのも楽しいわ。取り敢えずお任せしようかしら」

 湿気のためか、ぼんやりと周囲の風景が霞み、少女達の影が滲んで曖昧になる。やがてぽつり、ぽつりと雨が降り出して来た。空はいよいよ暗い。

 咲夜の側面に回り込みつつ、黒白は雨に濡れる日陰の少女に声を掛ける。
「パチュリー、仕方がない。やるしかないんだ。頼む」

 パチュリーは頷く。
「…やむを得ないわ。…咲夜、悪いけどあなたを排除して、そこな神様に退場願うわ」
 意を決した様に自分に言い聞かせると、動かない大図書館は再び呪文を唱え始めた。
 彼女を中心にして沢山の光が浮かび上がる。光はやがて幾何学模様を描く様に動き始める。精緻な模様は捉えた相手を決して逃さない魔法の罠。黒白の一撃必殺の魔法とは方向性は違うが、厄介で強力なことに変わりはない。
 霊夢が更に結界を作り出し、相手の行動範囲を圧迫する。
 そのまま逃げ続けていても、詰むのは時間の問題だ。もし、無理に突破を図れば庭師と黒魔術少女の強力な攻撃が待っている。静謐な魔女は次々と魔法を重ねて行く。属性が異なるそれぞれの光弾は相互作用を起こし、更に複雑な動きを見せる。おそらく作り出している者以外にその動きを見切れる者は居ないだろう。
 だが、誰もが従者を補足したと思った瞬間、彼女は思いもよらない形で打開を図った。
 時空を切り裂いた紅魔館のメイドは弾幕の中心、日陰の少女の目前へと現れたのである。
 二つの影が重なり、庭師も黒白も思わず攻撃を躊躇する。余りにも距離が近い。

「パチュリー様」
 メイド長はいつものように笑いかける。
「呪文が途切れないのに驚きましたわ。いつも唱えきれない、とかおっしゃっていたのは嘘だったのですね」
 メイド長がナイフを煌めかせると同時に、パチュリーは自分に向かって疾風の魔法を叩き付ける。そして風の力を利用して、ぎりぎりナイフの照準から逃れる。だが。
「パチュリー様、そちらは御自分の弾幕の中ですわ」

 魔法の幾何学模様が消えた境内に現れたのは、倒れた魔女と微笑む従者。
「お嬢様がお待ちですよ」

「パチュリー!」
 近づこうとする少女達を弾幕で牽制しつつ、咲夜は魔女に近づく。
 そして近距離から必殺のナイフを打ち込んだ。

「なっ!」
 驚く咲夜の声が聞こえる。同時に大きな魔力の発現を感じ、パチュリーは恐る恐る目を開いた。不思議なことに彼女の体にナイフは刺さっていなかった。
「どうして……」
 咲夜の視線をたどり、彼女は気付く。蒼く揺らめく炎をまとい、宙に浮いた彼女の魔導書に、深々とナイフが突き刺さっていることに。
 それは彼女が一番大切にしていた魔導書だった。数え切れない程頁をめくり、記述を加え、肌身離さず持ち歩いた。誰かと顔を合わしている時間より、図書館に籠もっている時間の長かった彼女には、他の何よりも身近な存在だった。
 本を包む炎が一層大きく燃え上がる。攻撃の意図を察した瀟洒なメイドは、迷わず上空へ場所を移動した。

「…わたしの」
 パチュリーは言葉を詰まらせ、ナイフを受けた魔導書を抱き寄せる。ナイフは魔を滅する銀のナイフ。本の輪郭が光の粒に変わり、ぼやけてゆく。
「……一番の友達だった」
 魔女の言葉を聞き届けたのか、魔導書はひときわ蒼く輝くと、細かな光の欠片となって飛び散った。


  ※ ※ ※


 ぱちぱちぱち。

 魔界の神は面白そうに手を叩いている。
「面白いわぁ。こんな光景はなかなか見られるものじゃないわ。
 それにしても咲夜も大したことはないわね」
 言葉を受けた“本物”の神の犬は、再び魔女達に立ち向かう。
「面目次第も御座いません。すぐに片づけます」

 間もなく魔女の周りに、そして巫女の周りにも、手品の如く大量のナイフが出現する。空間に満ち満ちた数多のナイフが、まさに動き出そうとしたその時、神社中を包むような熱気と共に現れた紅蓮の炎が、ナイフの群れを包み込んだ。

「……八幡長者のおと娘、よくも立ったり巧んだり」

 ごうごうごう。灼熱の咆吼を上げる炎の柱がナイフを焼く。

「妹紅!」
 ゆっくりと、歌を謡いながら人間の里から続く参道から現れたのは、妖怪と敵対する人間の群れでも、血塗られた妖怪でもなく、たった一人の少女だった。

「……笄落とし、小枕落とし」

「これは意外だわ。あなた、迷いの竹林に居なかったのね。まあいいわ。それで、あなたは暴徒を皆殺しにしてきたのかしら」
「……………」
 魔界の神は暫く遠い目をして、やがて少し驚いたような顔をする。
「へぇ。あんな荒技で……。少々予定と違うわね。でも残念ながら鍵はここに、我が手中にあるわ。総ては想定範囲内。あなた達が何をしようと無駄なことだわ」

 妹紅は、口ずさんでいた歌を止め、魔界の神を見つめる。
「なるほどな。こういう事か」
 不死の少女は口元に微かな笑みを浮かべ、宙を舞う。彼女の周りで炎が燃え上がる。静かに、そして激しく、まるで羽ばたく翼の如く。

「その妄執と共に、灰になるがいい!」


  ※ ※ ※


 蓬莱人の放つ炎と符が、怒濤の如く神綺と咲夜とに襲いかかる。

「好機!」
 それを見た黒白の魔法使いが魔法の弾を次々と繰り出した。

「疾ッ!!」
「…全てを焼き尽くすアシャ・ワヒシュタよ、慈愛溢れるハルワタートよ、母なる大地アールマティよ。無限の叡智を以て汝らに命ず。ズルワーン・アカルナより来たりて私に力を―――」
 他の少女達も神とその僕に迫る。
 蓬莱人の加勢によって、状況に変化が生じたのだ。一転して防戦に追われ始めた咲夜が一歩又一歩と後退する。

 無数の符を縦横に飛ばしつつ、紅白の巫女が言う。
「今ならまだ何とかなるわ。咲夜を黙らせて、魔界の神を叩くわよ」

 それを聞いた黒白の魔法使いは頷く。そうだ、今はこれまでみたいに二人だけなのではない。紅魔館の魔女も、冥界の庭師も、蓬莱の人の形も居る。――今が好機に違いなかった。
「よし、一気にいこう」

 巫女が少女達に役割を振り分ける。
「私が神綺を抑えるわ。パチュリーは援護をお願い。後の三人は最大の魔力で一点突破、咲夜を墜として!」
 そして巫女達は、魔界の神と瀟洒な従者を囲むように散開する。

 まさに攻勢に移らんとしたその時、上空から一つの影が舞い降りた。

 普通の黒魔術少女がその影に気付く。
「お、月の兎……。
 そうか、良かった。永遠亭の間は行き来ができるんだな!永琳も来てくれるんだろ?」

 魔法使いは赤い目の兎を見て安心する。これで大丈夫。蓬莱人が三人もいれば、怖いものはない。この月の兎だって力はある。幻想郷は安泰だ……。
 だが、ふと目を上げると、そこには真っ赤な狂気の光が―――――。


 メイド長に迫ろうとしていた妹紅が異変に気付く。
「どうした?」
 次の瞬間、死角からの攻撃を受け、パチュリーが後退する。
「まり……、きゃあっ」

 黒白の魔法使いがゆっくりと墜落し。包囲網を作り上げていた連携が崩れる。
 すかさず月の兎は、弾丸を巫女に続けざまに撃ち込む。そして間髪を入れずに今度は位相をずらし、襲いかかる蓬莱人の炎を潜り抜ける。

 そして狂気の月の兎は魔界の神の足下へ至り、恭しく礼をする。
「神綺様」

「ウドンゲ、遅かったじゃないの、もう」
「申し訳ありません。術の完成に手間取りまして」
「で、うまくいったんでしょ」
「はい、今や永遠亭は出口と入口が結ばれた無限の回廊、永遠の迷路です。無限蛇の空間が破れることはありますまい」

「ふーん。かつて月から地上へと至った術ねぇ。面白いわ」
 竹林の向こうへと目を遣っていた神綺は、改めて巫女を見つめて言う。
「さて、これで四つ目の鍵もそろったわ」
 口元に笑いが浮かぶ。

「では本格的に踊ってもらおうかしら。死の舞踏を」


 狂気の逃亡者。絶望と裏切りの罪人。この世を壊す四つ目の鍵。



  ※ ※ ※



 頭上で繰り広げられているのは、目くるめく弾幕戦。降り注ぐ光弾や火の粉は大地を穿ち、木々を焦がした。逃げ道を失った人間達は、一塊となってただ震えていた。
 彼らがひたすら想うのは、かつて住まいし故郷の姿。最早夢でしか会うことの叶わぬ遠い家族、……愛しき人。
(帰りたい、帰りたい、帰りたい)
(どうしても、忘れられない)
(せめて、もう一目……)

 そこへ近づく一つの影。
 巫女達の相手を二人の従者に任せた魔界の神が、境内の片隅で震える人間達へと近づいて来たのだ。神は人間達を睥睨し、酷薄な神託を下す。

「お前達は失敗したのよ」

 人間達は恐る恐る顔を上げる。そこに在るは峻酷で無慈悲な神の姿。人智や人情を超越する絶対者の顔。

「人間の里からやってきたのは、人にして人ならざる者。……私の敵だったようね」
「そ、それは……」
 人間達は顔を引きつらせて声を失う。

「さて、価値無き無能な人間どもよ。私はもはやお前達を必要としないわ」
 人間達はかすれた声で、ようやく答える。
「……そんな、偉大なる神よ。どうぞお助け下さい」
「人間の世を」

 しかし、神は冷たく言い放つ。
「私にとっては、お前達がここへ辿り着いたことだけで充分なのよ。役目はそこでお終い。これから再生されるのは、お前達人間の世ではない。私の世界だわ。
 目障りね……、消えなさい」
「お助けを」
「お慈悲を」
 魔界の神は、許しを請う人間達に向かって光の箭を放つ。

 その時、人間の前に立ちはだかり、攻撃を受け止めた者があった。光の箭を薙ぎ払った彼女は、間髪を入れずに炎を神に向かって投げつけた。
 この隙に、人間達は転げるようにして神の前から逃れ、参道の端まで這々の体で辿り着いた。

「あんた。なぜ……??」
 すんでの所で神の罰から逃れた人間達は、自分達をかばった少女を前にして、ただ一様に驚いていた。明らかに巫女や人外の側にある者が、何故敵対した自分達を救ったのか、人間達には理解できなかったのだ。

「ちっ。本当はそんな気分じゃ無いんだけどな」
 魔界の神の方向を向いたまま、蓬莱の人の形は言う。
「あいつと、約束したんだ。もう罪は犯さない、人間を護るってね。それに」
 妹紅は続ける。
「…きっとあいつなら、こうしたに違いない。
 さあ、人間の里に帰れ。里は何も言わず、お前達を受け入れるだろう。私ももう何も言わない。あいつが人間を信じたように、……私も一度だけ信じてやる」
 そう言うと、彼女は再び上空へと飛び去った。

 後には、うなだれたまま座り込んだ人間達が残された。

 絶望と安堵の交錯する中、彼らは何を思うのか。
 妹紅は、彼らが異郷の中でこれからの一生を、どんな思いを抱いて生きてゆくのかに一瞬思いを馳せ、ほんの少しだけ彼らに同情した。



  ※ ※ ※


 
 博麗神社の上空に、人影と弾幕がめまぐるしく交錯する。激しく飛び交う光と影の中、ただ魔界の神と博麗の巫女だけは、微動だにせず向かい合っていた。

 しかし今、黒白の魔法使いが突然倒れ、紅魔の魔女は傷ついた。力関係の均衡が破れ、連携によって得られていた紅白達の優位は失われた。巫女は広がりつつある結界の綻びを繕いつつ、神綺へ対しての臨戦態勢を取り、蓬莱の人の形は傷ついた魔女をかばって兎と交戦中である。

 そんな中、ただ一人で瀟洒な従者に向かい合う、冥界の庭師は必死で考える。
 (今こそ、私が何とかしなくちゃいけない)
 妖夢は少しずつ、咲夜との間合いを詰める。
 (刃物と刃物を用いた斬り合いなら、決して負けない)
 剣術には自信があった。得意とするのは、決して東洋の剣技だけでは無い。西洋の剣術も、短剣の扱いも、総て頭の中に入っている。
 本来短剣は防御に向く。投げナイフの選択肢を取らない以上、相手の攻撃に合わせた迎撃を準備している可能性が高い。
 妖夢は前進しながら腕を僅かに伸ばし、指に力を入れてみせる。普通なら見過ごされる程度の動きだが、立ち合いに慣れた者なら、気付くはずである。案の定、それを攻撃の準備運動と判断した咲夜は迎撃のためにナイフを繰り出してくる。
 (……読み通り)
 迎撃用の剣の捌きは、予想さえしていれば難しくはない。ナイフの刃先を僅かに押し出すように、楼観剣を合わせ、速度を上げて突進する。こうなれば、相手のナイフが逆にガイドとなる。間もなく切っ先は瀟洒な従者の胸元へ吸い込まれる、はずだった。

 (えっ?)
 ナイフに沿い、それを押さえつけて進む切っ先が僅かにぶれる。メイド長の手から離れたナイフは、支持する力を失い、同時に剣の道筋を失わせる。気付くと、メイド長の手には別のナイフが……。
 (しまった!油断した!)
 相手を凌駕する幅広い剣術の知識を持つという自負のために、逆に相手の僅かな動きから、その意図を見抜くことを怠っていた。

 (これは、居合?)
 脇差しをも使う、二段構えの居合術があるという。後の先を取ったつもりが逆だった。今の妖夢は、完全に相手の間合いにいる。しかも、ナイフはメイド長が握っているものだけではなかった。いつの間にか空中に現れた無数のナイフが一斉に半分幻の庭師を襲う。
 それでも、仮にも白玉楼の剣術指南、相手の白刃に身体が反応する。限界まで身体をひねり、短い白楼剣でナイフを受け止める。同時に半身を咲夜の眼前に叩き付ける。
 一方視界を塞がれた咲夜は、無理に攻撃を続けず、呼吸を整える。おそらく妖夢は一旦引いて体制を整え、再び攻勢に出るのだろうと。半身は逃れるための煙幕、補食動物に襲われた、反撃すらできない弱い生き物の行為と同じ。咲夜はそう判断していたのだが……。

「せいっ」
(えっ!斬られた?)
肩口に鋭い痛みを感じ、咲夜は驚く。
(有り得ないわ……。これがあの庭師の行動なの?)

「やっ」
 捕食者の牙から逃れ、逃走したはずの獲物が、そのまま踏み止まって逆に攻撃を加えてきた。半身の影から飛び出した妖夢が剣を振るう。さらに半身を足掛かりとすると、切っ先を真っ直ぐ咲夜に向け、必殺の突きを放つ。
(いけない)
 予想外の行動だったための僅かな対応の遅れが、致命的な危機を招く。もはやナイフで受け止める間も無い。刃に宿る冷たい死が、目前に迫る。
(仕方ないわ)
咲夜は、目を閉じると自分の能力を解放する。

「……時間よ止まれ、汝は美しい」

 今や世界は彼女だけのものだ。だが、時間を止めるのには、大きな力を使う。悔しいが今は攻撃まで手が回らない。
「抜かったわ」
 今や標的を失った剣先を遠目に彼女は呻き、僅かな自分への過信と相手への過小評価を呪う。それでも咲夜は、妖夢の剣をかわし、再び優位な位置に戻ることが出来た。



  ※ ※ ※




 気が付くと、東洋の西洋魔術師は、ただ一人、黒い森の前に立っていた。


 (ここは?魔法の森?)

 辺りは静かで暗い。だが真っ暗なわけではない。頭上にはぼんやりとした光が輝いている。そこは寒くもなく、暑くもない。足下を見るが影はなかった。周囲を満たすその光は、ただ暗闇を排除するだけの力しかないようだった。
 (なんだか疲れたな)
 彼女はため息をつくと、近くにあった倒木に腰掛ける。

 (私は何をしていたんだっけ)
 ああ、頭の中に、鉛が詰まっているようだ。物事を思い出すのが、酷く億劫だ。
 (そうだ、なんだか、問題が起こったんだっけ)
 それは、まるで自分とは全く関係のない、遠い出来事のように思えた。
 (ああ、霊夢と一緒に)
 そこで、彼女は再びため息をつく。
 (私が居ようと、居まいと、結局関係ないのよね)
 きっと、霊夢が異変を収めてくれる。私は居なくたって良いのだ。だから。
 そう、だから私は必死に追いつこうとしてきたんだ。でも。
 (どうせ、無駄なんだ。あれは、天才だからな)
 意識の表層には、諦めと皮肉が浮かぶ。
 (私は霊夢には追いつけない)
 (紅白の巫女には、なれない)

 森はいよいよ暗い。闇と忘却が、何だかとても甘美なものに思える。

 (なんだか、全てがどうでも良くなって来た)
 (こんな所でも、結構安らげる。このまま、ここで眠っているのも悪くはない)
 (私は、必要のない人間なんだから……)


「起きて、お願い」

 誰かが、呼んでいる。
「お願い」
 目の前には、霊夢とアリスの幻。
(可笑しいね。幻だと、なぜわかるんだろう?)
 ぼんやりそんなことを魔法使いは考える。

 アリスの形をしたものが言う。
「あなたは必要な人間よ。みんながあなたを待っているわ」
 続いて霊夢の影が言う。
「あなたは私のかけがえの無い友人で、最高の相棒なんだから!」

 (ん?アリス?)
 (私は何か大切な事を――)

 そして普通の魔法使いの意識は急速に覚醒する。

 霊夢の影はさらに続ける。
「あなたはあなただからこそ価値があるんじゃない」

(ああ、私が霊夢になる必要なんて無いんだ。そんなことは、ずっと解っていたはずなのに)

 暗い森は消え、光が彼女を包む。
(そうだ。私は霊夢にはなれはしない。でも、それは当たり前。私はわたし。私は霊夢じゃないんだもの)


「…しっかりしなさいよ!いつものように皮肉を言ってみなさいよ、さあ。………目を開けて、ねえ、お願い」
 声が聞こえる。私を呼んでいる声が。
「…りさ。…まりさ!」

 普通の魔法使いの意識は光の中で上昇してゆく。まるで深い水底から一気に浮かび上がるかのように……。

「霊夢!アリス!」

 遂に魔法使いは眼を覚ます。そこは弾幕飛び交う博麗神社の境内。慌てて彼女は上体を持ち上げる。
 そこへ、紅魔の魔女の、豊かな髪と小さな身体がもたれ掛かった。

「パチュリー!?」
 そして黒魔術少女は気付く。
「呼んでくれたのは、パチュリーだったのか?」
 だが、弾幕を受けた魔女の答えはなかった。

 (私が弱い心を持っていたせいだ……)
 黒白の魔法使いは唇をかみしめる。
 (もうこれ以上、誰も傷つけさせやしない!)

 普通の黒魔術少女は微かに息をする大図書館の魔女を、弾やナイフを避けつつ社殿の影へと横たえた。
 そして、血の気の失せた手をしっかりと握る。
「待っててくれよ。パチュリー」
 そして空を睨む。

(こんな私でも、きっと出来ることがあるはずだ)

 彼女は箒に乗ると、全速力で飛び出してゆく。己の迷いを振り払うように。



  ※ ※ ※



 石畳の参道を挟み、三度対峙する二人の従者。共に輝く金属を以て互いの生命を削る。
 だが、十六夜咲夜の放つ強力な殺気が、次第に幽人の庭師を圧倒する。獲物を狩る補食生物が持つような、独特の無慈悲で冷たい殺気。それは妖夢の心を少しずつ浸食してゆく。集中が乱れ、背中から恐怖が這い上がってくる。妖夢は冷や汗が流れるのを感じる。次はどう来るのか?おそらく、同じ手は二度は通じない。今度こそやられる……。
 瀟洒なメイドの瞳に吸い寄せられた半分幻の庭師の視線は、彼女の周りに次々と配置されてゆくナイフの光を捉えられていない。妖夢の周囲に銀色の死が満ちる。

 その時、最初の一撃が無数のナイフを吹き飛ばし、次の一撃が正確に瀟洒な従者を襲う。少女達は爆風の中を縦横に駆ける黒い影を見た。

「待たせたな!」

 博麗神社の空に、黒い稲妻が帰ってきた。



 普通の魔法使いの帰還を契機に、四人は再び攻勢に出る。紅白の巫女は、味方の防御を担い、敵の動きを牽制するための陣を敷く。四方八方に放たれる符が、空間を切り裂き、神とその下僕に圧力を掛ける。その合間を縫うように、魔法使いと蓬莱人が強力な弾幕を撃ち込み、半人半霊の庭師が接近して剣技を仕掛ける。
 息をもつかせぬ、流れるような連続攻撃が次々と加えられる。だが、妖夢の斬撃でも、蓬莱人の不死の炎でも、魔法使いの魔砲でも、巫女の力を以てさえ、二人の神の僕を打ち破ることができなかった。

 一息つくために、一旦距離を取った巫女達が見たのは、何もなかったかのように魔界の神の両脇に控える、二人の少女だった。

「何故だ?」
「あいつら、こんなに強かったか?」
 思わずそんな言葉が口をつく。

「これは――」
 それは、誰もが感じた疑問であった。神に仕える二人が発揮している能力は、普段の弾幕ごっこの時の感触と余りにかけ離れている。紅白の巫女は、反撃に転じた相手からの弾幕を護符で相殺しつつ、それに答える。
「これは、魔界の力が干渉しているから。博麗大結界の力が弱まり、逆に外から力が流れ込んでいるの。今のあの二人には、神綺を通してその力が流れ込んでいるのよ。今、結界の力がどんどん弱くなっているの。だから、長引けば長引くほど私たちは不利になってしまうわ。……急がねば」

「結界が弱まるのを、抑えることは出来ないのか?」
 今度は妖夢をかばって咲夜の攻撃に応戦しつつ、妹紅が叫ぶ。
「今の私では、これが精一杯!」
 巫女が返す。

「ちっ」
 蓬莱人は、庭師を引きずるようにして弾とナイフの交錯する空域から逃れ出る。
 時を同じくして黒白と紅白も、神社の南の外れの鳥居の影へと退いた。とにかく一度完全に弾幕を避けきるのだ。空を見上げれば、雨雲はなおも重くたれ込め、しのつく雨が二人を濡らす。

 ふと黒白魔は、紅白の巫女のいつもと違う様子に気が付く。いつもの霊夢なら、もっと単純に、愚直に勝負を賭けるはずだ。だが、今日の霊夢は何か腰の引けたような感じがする。そんな霊夢に不安を感じた普通の魔法使いは、それを振り払うべく巫女に向かって話しかける。

「なあ、何故、どうしてこんなことになったんだ? そもそも鍵とは何なんだ?……何か知ってるんだろ?」
「鍵とは……。外来者。境界を越えて来訪した稀人……」
 濡れた髪と袖を風に靡かせつつ、楽園の巫女は静かに語る。

「外来者?」
「そうよ。鍵とされた者はみんな、いずこからかこの地にたった一人で辿り着いた、いわば侵入者なのよ。いつの間にか森に暮らしていた魔法使い、異界より紅魔館を訪れた狩人。外の世界から“迷い込んだ”人間、そして月の兎」
「―――――」
「皆この博麗大結界を越えてきたの。だから鍵に仕立てられたのね」

 巫女はそう言いながらも思う。彼の者達が、鍵にされたのではなく、始めからこの世界を終わらせる目的を持って送り込まれたのだとしたら?
 予定された滅亡、避けられぬ終わり。
 私たちが自分の意志で行って来たと信じていたことが、既に誰かに決められたことだったとしたら? 他人の意志に沿ったものに過ぎなかったとしたら?
 次々と現れる疑問。……今まで信じて来た、確かだと思っていたものが、全て失われて行く。そんな感覚が突然霊夢を襲う。

「もし、そうだとしたら、……これはずっと以前から決まっていたことだったのかもしれないわ」
「決まっていた?」

 空が泣いている。
 冥い天から落ちてくる冷たい雨が、心まで凍えさせる。

(今、私たちがしていることは、一体何なのだろう)

「何にせよ、外の世界から訪れたいわば“異物”が結界内に入ってしまった時点で、既にこの世界を成立させていた境界は無効化されてしまったのかも……。だとすれば、もう」
 それは傍らの黒白に対してではなく、自分に向けられた言葉。

「閉ざされた世界は、やがて活力を失い、老いてゆっくりと滅びへと向かう。だから、時には外の世界との交流が必要となる。それは時に幸福をもたらす善きモノであり、時には災厄をもたらす悪しきモノ……。それでも、外から訪れるモノは本来世界の維持に寄与するはず……」
「…霊夢?」
「でも、もし訪れたのが、その世界を壊すために送り込まれた者だったとしたら? 世界を救うためには、もうその世界自体を根本から再構成するしか方法が無いのだとしたら?」
「おい、何を言っているんだ。しっかりしてくれよ」

 博麗霊夢は下を向き、声を震わせる。押さえきれない気持ちが、言葉となって溢れ出す。
「今が、その時なのかも。………だとしたらもう、私たちが出来ることなんて、何もない」

 幻想郷に始めて訪れた圧倒的な脅威の前に、霊夢の心は揺れ動く。この世界への疑義は、己の存在意義への疑問へとつながる。

 (これまで私のしてきたことは何だったの?いつも、たった一人で、孤独の中で……)

 霊夢は思う。私は何時も飄々と振る舞ってきた。執着も無く、暢気で達観した、そんな風に。風の吹くまま、水の流れるまま。誰もが私、博麗霊夢をそう見ていたし、自分でもそう考えていた。でも本当はどうだったのだろう。
 霊夢は思う。人も人外も私の周りに集まって来た。私の周囲には常に誰かが居た。……でも、本当は私はいつも独りだった。異変を解くのは当然のこと……。それが博麗の巫女なのだから。疑うこともなく、そう信じて、人知れず空を駆けた日々。誰に認められることもなく、誰に感謝されることもなく。もちろん、そんなものを期待していた訳ではないのだけれど。それでも。

(そこに本当に“私”はいたの?博麗の巫女ではなく、霊夢としての“私”は………)

 世界の創造も、維持も、その終局さえも、計画されたものであるのなら。
(私は単なる世界を維持する機構の一部、ちっぽけな歯車の一つだったのかも知れない)

「私は、ただ割り振られた役割を果たして来ただけなのかも………。博麗の巫女という名の、この世界に組み込まれた部品に割り振られた役割を………」
 紅白の巫女はうつむいたまま、呻くように言葉を継ぐ。心が軋み、声にならない悲鳴を上げる。
「ならば、今私のしていることは、その役割に逆らうこと。滅びが避けられないものなのだとしたら、私は単にみんなの苦しみを長引かせているだけ……」
 今やそこには幻想郷中を暴れ回った博麗の巫女は無く、ただ肩を落として立ちすくむ孤独な少女が一人。そして彼女は差し伸べられた友人の手をも払いのける。

「もう、私には自分が何のために闘っているのか、解らない……」


 そんな紅白の巫女を見て、黒白の魔法使いは優しく語りかける。
「霊夢……。少しだけ、私の話を聞いてくれないか。なあ、こんな状況で、何故みんな立っていられるのだと思う?」
 博麗神社に残る者全員に、疲労の色が濃い。それでも、みなそれぞれが必死に戦い続けていた。傷つき倒れても、何度でも何度でも立ち上がった。

「それはね。霊夢、お前がいるからだよ。霊夢が居てくれるだけで、安心できるんだ。どんなに絶望的な状況にあっても。きっと解決できる。必ず日常を取り戻せる。そう思えるんだ」
 霊夢は顔を上げて、神社の方向を見やる。そこでは、妹紅が、妖夢が、必死で戦い続けていた。
「みんな霊夢を信じてるんだ……。だから」
 (みんなが、私を?)

 普通の魔法使いは、ぽんと、霊夢の肩を叩く。
「頼りにしてるぜ?相棒!」

 (そうだった)

 巫女は思う。
 私が闘ってきたのは、異変を解いてきたのは、義務だからじゃない。それは運命でも、博麗の巫女であるからでも無い。それは。

 (それは、私がそうしたかったから。この幻想郷が好きだったから。この空が、あの里が、人間達が、妖怪達が……。ただ、みんなを護りたかったから)

 こんな簡単なことを、何故忘れていたのだろう。
 (博麗の巫女も、宿命も、関係ない。定めとしてではなく、与えられたわけでもなく、私は、私の意志で闘う。そう、仲間達と共に)

 たとえそれが、誰かによって創られたものに過ぎなくても、………今のこの気持ちは本物だ。

 (私は博麗霊夢、楽園の巫女)

 傍らには、共に歩んできた友がいる。霊夢は眼で頷く。
 そして仲間と自分の両者に呼びかける。

 「行くわよ!」


  ※ ※ ※


 (後編に続く)
はじめまして、元興寺と申します。
投稿は初めての経験となります。
色々と至らない点の多い内容だったかと思いますが、ここまで読んで頂き誠に有難うございました。

思わぬ長文となってしまいましたので、前後編に分割致しました。
後編にてまたお会いできることを願っております。
元興寺
[email protected]
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.530簡易評価
4.70椒良徳削除
初投稿にしては文章に地力がありますな。
ただ、個人的な好みを言わせて頂くなれば、もっとはらわたや血がどばどば出ている方が良かった。
後編に期待ということでこの点数を入れさせてもらいます。
5.80GIL削除
文章力とかも全然わかんない俺でも面白く感じたぜ。

続編待ってますよ。もっとキャラに非情になったらいいと思う。
11.90wkwk削除
こんなに続きが気になる作品は初めてです。w
重ねて言わせて頂くなら、過激な表現を少し取り入れてみれば緊迫感が更に増すと思います。
12.80名前が無い程度の能力削除
>だが、彼女は暫くして階を登ってくる姿があることに気付く。
階段なのかなーと

あまり見ない配役ですね。
なんか新鮮です。
お話も面白いし、後編がものすげー楽しみです。
14.10名前が無い程度の能力削除
 うーん、作品の話自体はものすごく気合入ってると思うのですが……。
 どうも緩急のつくであろう部分が、文章が単調すぎて死んでいる感じがします。どうにもプロットにちょっとだけ肉をつけた、という感があって惜しい。話としてはとても面白く感じるのですが。
15.無評価元興寺削除
沢山のコメント有難うございます。

・御指摘の通り、もう少し突っ込んだ表現が有った方が良かったかもしれません。私の文章力の無さ故に、表現出来ないと削った部分でもあります。この点は今後の課題と致したいと思います。
・「階」は「きざはし」として使用しておりました。誤解を招くような表記をしたことをお詫びします。
・全く御指摘の通りで、お恥ずかしい限りです。文章が説明調で平板となるのは、どうも私の書き癖のようです。今後、又書く機会が有りましたら、是非とも改善致したく思います。