注:登場人物、設定等は序章である「誰がために咲き誇るか 序」を参照いただきたい。
「私も昼寝が好きなのよね」
なぜだろう。とてつもない妖力を持つ妖怪なのに幽々子は心を許していた。何の障害もなく自分に接することができる存在自体が稀有なのである。是非もないのだが……
「それで、八雲―」
「紫、でいいわ」
なぜだろう。ただほんの少しその能力に興味を覚えただけでなのに紫は彼女と打ち解けていた。何の気兼ねも要らない、自然体で話せる相手。それは幽々子が自分に近い存在だと感じたからだろうか。
昨日幽々子の前に現れた大妖怪は、今日も彼女も幽々子の庵で日向ぼっこをしながらお喋りを楽しんでいる。
一
「清明様。今日はどちらに」
「近隣の霊脈を抑えられるだけ抑える。私が出向いたほうが早いだろう」
「では私は西行寺を」
「うむ。調査、及び監視だ。くれぐれも、言動には気をつけてくれ。目を付けられる訳にはいかんのでな」
「御意」
清明と分かれた実伴は宿から西行寺へと向かっていた。なぜか妙な気分である。重いような感じと、軽い感じ。気分が重いのは自分のやっていることの後ろめたさか。自分たちのしていることは西行寺の信頼を裏切る結果になるだろうからだ。気分が軽いのは、単純に幽々子に会えるからだろう。可憐な少女に会えるということで気分が浮ついている自分に気付いた実伴は急に恥ずかしくなった。
そのうちに西行寺に到着する。門では妖忌が待っていた。
「そろそろお見えになる頃かと思っておりました」
「おはようございます。西行妖の調査を行おうと思いまして」
「左様でございますか。ではこちらに」
妖忌が先導する。敷地のあちこちに植わっている桜は、開花の春をただひたすらに待っているかのようだ。葉を落とし沈黙する木々は、寂しくもあり、頼もしくもある。なんとも不思議な感じであった。
やがて、行く手に仰々しい桜が見えてくる。冗談ではないかというほど大きい妖怪桜。残念ながら彼らでは近づける距離が定まっている。それが放つあまりに強い妖力ゆえ、だ。
が、しかし今は西行妖の根元に二つの影が見える。そう。幽々子ならばあそこまで近づけるが二つ……?
実伴が二つ目の影を視認したとき、息をするのを忘れた。
そう、倒すべき妖怪、八雲紫。それが今、無防備に背を晒して立っている。
そのあまりの無防備さに
斬り捨ててしまおうか
などという考えが頭をもたげる。
早まるな……この間合いから斬り付けたところで勝てる可能性は皆無だ。ここからでは、奇襲にすらならない。
そんな葛藤を続ける実伴を尻目に、妖忌が一気に結果以内に踏み込んだ。
「そこな妖怪! 誰の許可を得てお嬢様に近づいておる!」
二人が振り返る。すでに妖忌は抜刀をして今にも紫に斬りかかりそうだ。
「妖忌殿。お待ちくだされ。あれは大妖怪、八雲紫。そなたが立ち向かったところで勝てる相手ではありません」
「勝てるかどうかではない!」
二人が近づいてくる。実伴の心拍数が一気に跳ね上がる。
八雲紫は、自分の姿を見たらどうするだろうか……殺すだろうか……いや、それは……
「妖忌、この人は私の友人よ」
「お嬢様! そ奴は妖怪ですぞ! まさかあなた様ともあろうお方が誑かされたのではございませぬな!」
「妖忌! 口が過ぎますよ!」
幽々子の一喝に竦みあがる妖忌。それもそのはず。妖忌相手に彼女がここまで声を張り上げたことはないのだから。
「友人であることに妖怪も何もないでしょう? それに、人間から見たら私なんて妖怪と変わらないじゃない」
「あいや、お嬢様は人間です! 誰が何といおうとも!」
「なら、紫は私から見れば人間だわ。これでどう?」
「……わかりました。ですが、そこの妖怪が何かしらお嬢様に危害を加えんとしたときは……」
体中から精一杯の殺気を搾り出して妖忌は紡ぐ。
「この妖忌。命を捨ててでも斬り捨てますぞ」
だが、歴戦を自負する実伴ですら圧倒されかねない殺気を叩きつけられてなお、紫は
「……どうぞご随意に」
と優雅に微笑んで見せたのだ。
怖い、と。初めて目の前の妖怪を怖いと実伴は感じた。
あのときは、恐怖を感じるよりも前に妖刀に意思が憑いたかのように刀を振るっていた。だがしかし、理性を以って相対すれば、誰もがこの妖怪に恐怖を抱かずにはいられないのだ。
「それで。そこの人はいまだ柄から手が離せないようね?」
「あ……」
紫に扇で指し示されて初めて実伴は自分が力いっぱい刀の柄を握り締めていたことに気がついた。もしも恐怖に負けて刀を抜いていたら自分の命はなかっただろう。そう思うと、とてつもなく刀を重く感じた。
「お、お前は……」
「初対面の人にお前呼ばわりされたくはないものね」
「何……?」
「名を名乗られたらいかが? あなたは私の名を知っているようだけれど」
初対面。初対面と今この妖怪は言った。
そんなはずはない。あれほどの戦いをした相手を忘れることが出来るのか? その程度の存在なのか、自分たちは?
恐怖、畏怖、怒り、憎悪、様々な感情を内に押し殺しながらも実伴は声を絞り出す。
「九条……実伴と申します」
「なるほど、京都の九条家……」
得心したように頷く紫を見て、実伴は自分の失態を恥じた。
先の戦闘において自分が名乗った記憶はない。ならば。今の名乗りで八雲紫は己の素性を知ることとなるのだ。
妖怪ゆえに思考はわからない。実伴は、九条の実家に迷惑がかかるのではないかと危惧していた。
「あなたが危惧しているようなことはないわよ」
パチン、と扇を閉じて紫は隙間を開く。
「え? それはどういう……」
「興が削げたわ。幽々子、また今度ね」
「ええ。またね、紫」
実伴が混乱しているうちに紫は姿を消してしまった。途端、妖忌は緊張させていた筋肉を弛緩させたが、実伴にそんな余裕はない。
思考を読まれたかのような感覚。己の内を覗かれるかのような感覚。真正面から対峙することにより、未知の恐怖が体に染み付いてしまったのだ。
清明は、このような恐怖を前に微塵も動じないのかと改めて彼の凄まじさを思い知った。
「実伴さん?」
「あ……なんでも、ないです」
「そうですか? 立ち話もなんですから、庵にお越しください。妖忌、お茶の準備を」
「かしこまりました」
「えーっと……」
混乱したまま誘われるがままに実伴は幽々子の庵に招かれた。小さな、しかし一人で暮らすには十分すぎる広さの庵であった。
内装は決して華美ではなく、むしろ地味といっていい。
もともと西行妖の調査に来た実伴は、こうして面と向かい合ってもどうすればいいのかわからなかった。
年頃の娘が進んで男と二人きりになるなどなんと無防備な、とも思ったが、幽々子の境遇に思い至りそれも詮無いことと変に納得したりもした。
「あなたは普段、どんなことをなさっているのですか?」
「普段……そうですね。こうして外を眺めながらお茶を飲んだり、本を読んだり、たまに絵を描いたり歌を詠むことも」
「そういえばお父様は歌聖と呼ばれる西行法師様でしたね」
「私のほうは全然ダメですけれどね」
お茶を啜ってみても実伴に味はわからない。京の九条家といえば名家の一ゆえに茶については詳しいのだが、妙に緊張して味がわからないのだ。
「……外には、出ないのですね」
「それは……仕方がないです」
実伴もそれ以上は何も言わない。彼女の能力についてはよく知っている。こうして対面しているだけでも、緊張感とは別の圧迫感を感じて疲弊する一方なのだから。実は二人は少し距離を置いて対面しているのだが、これはもちろん実伴の為を思ってである。剣士としての実伴の実力は一流以上であるが、陰陽師としての力は清明と比べれば子供のようなものである。
だが、幽々子の苦悩は如何ほどであろうかと実伴は思わずにはいられない。自分などは彼女と接していても肉体的苦痛を多少味わうだけである。一方で彼女はその苦痛の原因であることに精神を痛めているに違いない。
「……あの、京でのお話をしましょうか?」
気がつけば、実伴はこんなことを口走っていた。
知ってもらいたいと思った。外の世界を。人々が息づく世界を。
本当ならば与えられるはずだった場所の空気を、少しでも彼女に知ってもらいたかったのだ。
京の暮らし。京を襲った妖怪。陰陽寮の陰陽師たち。
季節の変化に伴う山々の美しさ。近江にある日本一の湖の雄大さ。
実伴は語り続けた。幽々子は真剣な顔で耳を傾け、時折あどけなく笑った。
何のことはない、普通の風景。そうあるべき少女の姿。
自然のままの笑顔が、そこにはあった。
「やはり、妖怪は退治するんですか?」
実伴が一通り話し終わると幽々子はそう尋ねてきた。恐らく、妖怪退治の話をしたためであろう。八雲紫を友人と呼ぶ彼女が心配するのも当然である。
「人々に危害を加えるのならば、その妖怪は退治します。それが、陰陽師です」
「それなら……」
「正直、私は一度清明様と八雲紫を退治しようとしたことがあります」
「え?」
「完敗でしたけどね。さすがに最強と言われるだけはあります」
話してしまってから実伴は清明の許可なく八雲紫との関係を話してしまったことに気付いたが、もう遅い。むしろ、隠す必要はない、隠したくはないと感じたくらいである。開き直ったと言ったほうがいいだろうか。
「では、彼女も……」
「ええ、人間に危害を加えた……と聞き及んでおります」
「聞き及ぶ?」
「はい。実は私は彼女が具体的にどういったことをしたのか知らされておりません。妖怪誅すべし。この言葉とともに命令が下され清明様と共に戦いましたが……清明様自らが動かれたということはお上かそれに近い人からの要請だったのでしょう。妖怪の中には化けて権力中枢へ取り入ろうとするものもありますから……そういうものに関しては私如きではなんとも……」
「そうですか……」
彼女が一体何を思っているのか実伴にはわからなかった。八雲紫のことだろうか。彼女もまた、人間に危害を加え続ける妖怪であるかもしれないと思って戸惑っているのだろうか。
実伴のそんな考えは、幽々子の一言で霧散する。
「それでは、私も退治されるべきなのでしょう」
何を。
何を言ってるのだろうか。
実伴の中に何か抑えられない怒りがこみ上げてくる。
可憐に笑っていた彼女が。なぜそんなことを言わなくてはならないのか。何が彼女にそんなことを言わせるというのだ……!
「恐れ入りますが!」
「私も、人々を幾人も……いえ、もう数え切れないほど死に追いやっています」
「それは……ですが!」
「人々を傷つけるがゆえに退治されるのが妖怪なら。私も妖怪なのでしょう」
「それでもあなたは―」
「では実伴さん。人間と妖怪の違いは何ですか?」
否定したかった。彼女のそんな考えを全否定して、彼女のその存在を全肯定してやりたかった。
それでも。実伴には彼女の問いに答えることは出来なかった。結局自分が何を言おうとも、幽々子の心は救われないのだろう。
それが悔しかった。だから八雲紫なのか。彼女ならば自分に近しい存在ゆえにわかりあえると……? それでは結局彼女は『人間』としての生を謳歌できないではないか。
儚く笑って欲しいのではない。華のように笑って欲しい。ただ、それだけなのに。それすらも過ぎた願いなのか。
実伴は暗い気持ちで彼女の庵を後にする。別れ際、
「また、京のお話を聞かせてくださいね」
と言われ、自分が彼女のために出来るのはそれくらいなのかと落胆するとともに、なぜこんなに彼女に入れ込んでいるのか不思議に感じたのだった。
「清明様。八雲紫が西行寺幽々子に接触しました」
「……ほう」
「驚かれないのですね」
「いや、展開の早さには驚いている。どのみち彼女らが接触せねばならんかったが……余分な策を弄する必要がなくなったと同時に、これから一層の注意を要することになるな。これから先は綱渡りの如き道となるぞ」
清明ならば幽々子の問いにどう答えるだろう。
実伴はふとそんなことを考える。だがそれは愚問だ。清明の答えはわかりきっている。だがそれは、陰陽師としては必須の矜持でも在る。
「どんな様子だった?」
「は?」
「彼女たちは、だ。特に八雲紫は」
「幽々子嬢は八雲紫のことを『友人』だと。八雲紫の方も満更ではなかったようです。私が遭遇したときも歓談しておりました」
「そうか」
嬉しそうに見えるのは実伴の気のせいだろうか。なぜ、八雲紫が幽々子と親密になることを迎合するのか理解できなかった。西行妖と幽々子を使うのであれば、そのような展開はむしろ阻害となるのでは……
「二日。あと二日でこの地に結界を張り終わる。ちょうどいい位置に霊脈があってな……あと2箇所と大本の西行妖だけだ」
「八雲紫の妨害は?」
「今のところ、ない。する気にもならんだろう。あれはただの増幅機能しかないからな。もっとも表向きは、だが。こと結界に関して言えば、初代清明も私に及ぶまいよ」
清明の考えは実伴にはわからなかったが、どうやら着々と準備は整っているようだ。恐らく、こうして実伴に話していることの他にも二重、三重に防護策を講じているに違いない。
「実伴。この書状を京へ。こっちは早馬で同じく京へ」
「両方早馬でなくてもよいのですか?」
「よい。それより、明日にでも二人で西行妖へ向かうぞ。もう少し時間をかけるつもりだったが、こうも早く奴が出てきたのでは致し方あるまい。保険をかける」
「保険?」
「すべてが整うまで我々の身の安全を確保せねばなるまい。明日はもし襲われたら逃げろ。逃げに徹するならば、なんとかなるだろう」
「御意」
また、幽々子と会わねばならない。実伴は視線を彼女の庵の方角へ向ける。自分が為すこと……為せることは一つだけだろう。あの笑顔をなるべくたくさん引き出す。一人の少女として笑ってもらうのだ。
その気持ちがただの自己満足のためなのか、彼女を利用しようとしていることへの罪悪感なのか。実伴は少し考えてみたが答えは見出せないのだった。
「ねえ、紫」
「何かしら」
「今度その九尾の式神に会わせてよ」
「藍に? 別にいいけど……まだ野生が抜けてないかも」
「いいわよ。尻尾、ふかふかなんでしょ?」
「もう……目的はそれ? 確かに気持ちいいけどね」
今日も紫は幽々子と西行妖のところにいる。ここならば、滅多なことでは邪魔は入らない。また無粋な輩に邪魔をされるのはごめんだ。そう考えるくらい、紫は幽々子の時間を楽しみにしていた。
わずか数日間で彼女たちは驚くほど親密になっていた。馬が合う、という奴だろうか。お互いに、なぜかわからないながらも相手に惹かれていた。
「ねえ……紫は、人を殺したことがある?」
「隠しても仕方がないから言うけど……あるわ」
「なぜ?」
パチン。
紫が扇を閉じる。
「そうね。彼のような輩がいるからかしら」
「彼……?」
「陰陽師が来たようね。幽々子。あの男……安倍清明には気をつけなさい。ある意味あの男のような者こそ……」
「紫、どうしたの?」
「何でもないわ。それじゃあね」
紫が隙間の奥へ消えたのと、清明が西行妖のところに姿を現したのはほぼ同時だった。今日は、実伴を連れてはいない。
「こんばんは、幽々子様」
「こんばんは……足、どうかなさったんですか?」
幽々子が指摘したのは清明が右足を引き摺っていたためだ。雪の上を足を引き摺りながら歩くのは容易なことではあるまい。数日前には怪我をしているようには見えなかったがどうしたのだろうと不思議に思ったのだ。
「恥ずかしながら、雪に足を取られてしまいましてね。滑って転んでこの様ですよおかげで今日も夜になるまで動けなかったのです」
「まあ……お大事になさってください……」
「そういう幽々子様も少々風邪気味ではないですか?」
そう言ってじっと清明は幽々子の目を見つめた。何か妙な胸騒ぎを覚えて幽々子は目を逸らしたが、それでも清明はまだ見続けている。
「大丈夫です」
「そうですか……寒いですからお気をつけて」
彼は幽々子の周りを歩きながらじっくりと西行妖を見て回る。これほど近づいても大丈夫なのは彼の力の強さと、防護結界のお陰である。そも、結界と言うものは空間を区切り、様々な効果を付与するものであるが、彼のように自身の周りすなわち動くものに結界を張ることは実は難しいのだ。
その後、彼は西行妖を見て周り、幽々子と雑談をしていたが幽々子が妖忌に呼ばれ一人になった。
ふぅ、とため息を一つ。引き摺っていた足に溜まっていた雪を払った彼は西行妖を見上げて一人ごちる。
「実伴はどうなるか。さすがに仕掛けては来ないだろうが……私がこちらに来ないといけない以上、結界完成は奴に任せるしかない」
かじかんだ手に息を吹きかける。月が照らす西行妖はまさに妖怪桜に相応しい美しさ。妖の持つ美しさは、人には毒だ。あまりにも美しすぎてひどく、恐ろしい。完璧すぎるのだ。
「見ているか、八雲紫。今日、私が幽々子に会う前に私を殺さなかったことがお前の敗因だ」
西行妖の上空、隙間から八雲紫が眼下を見下ろしている。彼の言葉が聞こえているかどうかは定かではないが、唇をかみ締め、拳は怒りに震えていた。
「連魂の呪……貴様……よくも……」
連魂の呪。自らの魂と相手の魂を一心同体に繋ぐ呪。すなわち清明の死は幽々子の死。幽々子の死は清明の死。自らの命を守るために、清明は幽々子の命を人質に取ったのだ。
上空から見れば幽々子の立っていた場所を中心に綺麗な陣が描かれている。これは、清明が足を引き摺って雪の上に書いたものである。
幽々子が気になってふと上空から様子を伺った紫は、この陣に気付いたが時すでに遅し。呪は、完成してしまっていた。
「どうした? 殺すがいい。小娘一人、どうということはないだろう大妖怪よ。それとも解呪するかね。しかし、貴様が解呪しきるのと私が舌を噛むのと……どちらが早いだろうかね」
幽々子ほどの抵抗力を持つ者に対し鮮やかに呪を完成させ、さらに解呪を見越して呪に対して防護結界まで張るその腕前。まさに安倍清明の名に恥じぬ実力であった。
聞いているかもわからぬ者に対して話しかけ続ける清明の笑みは、とても美しく、恐ろしいものだった。
最後の印を刻み結界を完成させた実伴は清明の元へ急いでいた。幽々子のもとへ単身赴いた清明が心配だったのだ。最悪の予想が実現した場合、自分が行ったところで何かできるとも思わなかったが急がずにはいられなかった。
月はすでに傾き、雪が舞い散り始めていた。寒さが身に染みる中雪道を駆け抜ける彼の目の前に、異様な影が現れる。
月を背に立つその影は、九の尾を誇るように揺らしながら実伴を待っていた。まさに最強の式神、最強の妖狐――八雲藍に他ならない。
「紫様はああおっしゃったが……後患は早いうちに断っておいた方がいい。例え取るに足らぬものでも」
実伴は十分な間合いを取って立ち止まる。藍相手に間合いがどれだけの意味があるかわからないが、用心するに越したことはないという判断だ。
「それに、少々私も暴れたい。式がいくらか落ちるが……人間風情に負けるはずがない」
実伴には逃げる以外の選択肢は残されていない。先に清明に言われたとおりにするしかないのだ。
だがしかし。実伴は逃げない。
逆に低く構えを取って迎撃の姿勢を見せている。
たかだが二十数年。千年を生きる妖怪にとって実伴は確かにちっぽけな存在だろう。
それでも、だ。実伴は抗おうと決めた。あくまで人の身で、妖怪を超えてみせよう。
妖怪だとか、人だとか。どこに境界を引いてどこに属するのか
そんな小難しいことはわからない。
ならば自分はこの刀で斬り開こう。
人妖の境界など、超えてみせる。
それでこそ、幽々子と、紫と同じ場所に立てる気がしたのだ。
先日とは違う。今日は二本佩いている。
実伴はすっかり手になじむようになった相棒たちの柄に手をかけ――
白楼剣と楼観剣を抜刀した。
二へ続く―