魔法の森と平地の狭間にあると言われている香霖堂には、金を払わない客が居着いている。それが果たして客かという論議はさておき、その一人、霧雨魔理沙は今日もまた悠然と店の扉を開く。
「こんな朝早くから店を開けても、客なんか来ないぞー」
営業妨害に等しい挨拶を吐きながら、香霖堂の店主、森近霖之助の来訪を待つ。
通例、常連である魔理沙が訪れれば、自然と霖之助も奥の席から悠然と現れるのだが、今日に限れば店内の何処にも彼の姿は見当たらない。
おかしいなぁ、と薄暗い店内をぐるりと見渡しても、適当に整った棚や壷の隙間に彼が隠れていることもなかった。むーんと腕を組み、勝手知ったる他人の家、居間に踏み込もうと足を踏み出した時。
魔理沙は見た。
「やあ。朝一番に君の可愛い顔を見ることが出来て嬉しいよ、魔理沙」
森近霖之助、に似た生き物の存在を。
時が止まる。が、何か言わなければならない。
「…………あぁ、可愛いぜ」
焦る気持ちが、よく分からない言葉を吐き出した。
後悔するも、時に既に遅し。霖之助らしき男は、白い歯を輝かせながら微笑んでいた。
「うわぁ」
背筋が凍る。
どうしたんだよ、と心配そうに眺める声も妙に高い。
魔理沙が機能停止状態に至っている間も、霖之助じみた男は腰に手を添えて身体をくねらせたまま優雅に佇んでいる。
昨日の霖之助と変わらない服装なのに、瞳が無駄にきらきらしているから何か別の生き物に見えてしまう。
「……えぇと、確か、香霖……で、よかったっけ?」
聞く。
彼は、満面の笑みで頷いた。
「あぁ。俺は、魔理沙がよく知っている森近霖之助だよ」
俺って言った。
こいつ、確実に俺って言いましたよ。
「う……う、嘘だ! 私は、こんな香霖なんて全然知らない!」
「おいおい、どうしたんだよ魔理沙……怒った顔は見たくないな、君は、笑っている顔がいちばん似合うんだからさ」
「うひょあぁぁ! なんだ、なんだこれ! 新手の精神攻撃か! くそ、本物の香霖を返せ! 香霖は、香霖は……!」
声を詰まらせながら、うっすらと白粉を塗っているらしい擬香霖に精一杯の怒りを叩き付ける。
「香霖は、香霖ってやつはな……! 腐ったところで、そんな歯の浮いた台詞なんて絶対に言わないんだよ! 腐っても!」
一気にまくし立て、ぜえぜえと肩で息をする。
腐っているところを強調され、流石の霖之助も落ち込んでいるかと思いきや、彼は、ほろほろと涙を流していた。
魔理沙が、再び停止する。
「ごめん……」
泣いている。
森近霖之助(仮)が、肩を震わせながら大粒の涙を流している。滂沱と、頬を伝う雫を拭うこともなく、見開いたきらきらの瞳は確かに魔理沙を見ていた。
魔理沙は目を逸らした。
見たら石化する。
「俺が……俺の傲慢が、魔理沙の心を傷付けていたなんて……そんなこと、全然知らなかったんだ……」
「いや……私も知らないし……」
「でも、それは言い訳にしかならない。だから……」
霖之助は、唐突に魔理沙の肩をガッと掴む。両手で。
「ひょえあぁ!」
叫ぶ。
魔理沙も、直前まで機能が鈍っていたこともあり、一般人の中でも動きが鈍い部類に入る彼の行動を避けることが出来なかったのだ。
すごく怖い。
仔犬のように、肩がぷるぷると震える。やばい、これはとてつもない危機である。具体的に言うと、貞操の。
それを裏付けるように、店内から心地よい音楽が流れてくる。どこぞの夜雀が歌っているのかと思えば、その正体は店内に置かれた古めかしいラジオだった。
店内を漂う甘いバラードに誘われ、肩を掴む霖之助の力が強くなる。魔理沙はびびる。
「だから、今、君の気持ちに答えを出すよ……」
むー、と唇を尖らせつつ、魔理沙の顔に口を近付ける森近霖之助。ぽい生き物。
霧雨魔理沙、万事休すであった。
「あ、ちょッ、だ、出すな! てか、こっちのが傲慢、うがー! おまえこんなときばっか無駄に力強くなってるんじゃねえよ! 重いわ!」
「むー……」
「聞けよ!」
聞く耳を持たない霖之助に押され、壁にまで寄り切られる。所詮は大人と子ども、男と女、体力には大きな差がある。ここらで一発マスタースパークを撃つのも一手だが、多分、霖之助は高確率で重症になるだろう。
偽物と断定出来るならば、滅殺するのも有効な手段だった。
だが、仮定はいくらでも考えられた。
紫が妙な境界を操ったとか。
永琳が妙な薬を飲ませたとか。
小町が心の距離を縮めたとか。
映姫が白黒はっきりさせたとか。
幽香が恋の花を咲かせたとか。
後半わけがわからなくなってきた。
「わー! わー! 近い! もう近い!」
「森近……」
「あーはいはいそうだなちくしょー! もう嫌がってんだから離れろよ! はーなーれーろー! こんな、強引なのとか嫌だろ!? かと言って、正式に申し込まれたらオーケーだという意味でもない!」
牽制の意味も込めて言い放ち、顔の間に手を差し込む魔理沙。むにゅあーと歪む霖之助の顔が非常に間抜けで噴き出しそうになったが、ここで噴くと一気に押し切られる可能性がある。腹筋に力を込め、アブノーマルな森近の侵攻を水際で食い止める。
おそらく、ここ数ヶ月で最も頑張ってるんじゃなかろうか、と魔理沙は己の自堕落さを省みる。ごめんよわたし、明日からは、もうちょっと張りのある人生を送ってみせるから――。
だから、せめて。
今、この瞬間だけは、明日への扉を開く力を……!
「むぎぎぃ……」
「むぁ、まりさ……」
「んだよ……こっちは手一杯なん……」
「あ、い、し、て、る……」
――ぶはぁッ。
噴いた。
「あはははははは!」
「むぅ……」
霖之助は動じない。
唾を飛ばされながら笑われても、ただ己の信じた道を邁進する。
その行き着く先が特に将来を誓い合ったわけでもない少女の唇(未使用)だというのでなければ、他ならぬ魔理沙もふと目頭が熱くなっていたことだろう。
だが、当事者たる魔理沙は気が気じゃなかった。
笑いのために腹に力が入らず、均衡していた境界が徐々に押され始めている。眼鏡を押しても意味はなく、鼻に指を突っ込んでも、顔が愉快になるばかりだった。
この男、唇以外全く眼中にない。
見慣れた霖之助の顔が、牙を生やした狼に見える。
「ぐぅぅ……」
さしもの魔理沙にも、限界が近付いてきた。
気丈に振る舞いながらも、霧雨魔理沙、その本質は恋色マスタースパーク。やはり初体験は心に決めたひと、と信じて生きてきた。
蓋を開けてみれば、唇しか眼中にない男を前に、土俵際で粘っているのが現実なのだ。絶望した。夢も希望もあったもんじゃない。
泣けてくる。
「やぁ、やだ……やめ、やめて、よ……」
嫌だなぁ、と思いなから、これも人生か、と諦めを促す弱音が心の奥底から沁み出してくる。
ふっ、と力が緩む。
――ごめん、わたし、もう……。
絶望と後悔、悲哀と憤怒、残りは恋の魔法と塩分とが入り混じったなんだかよくわからない涙を流しながら、魔理沙は、霖之助の皮を被った狼の唇を――。
「……ぁ……」
受け入れようとして、視界の端に。
今となっては懐かしい、魔理沙と霖之助が寄り添い合っている写真が――
別になかった。
――ねえのかよ……!
嫌なオチだった。
記憶の中の霖之助も報われない。
「……むぅぅぅ……むぁ、まぁりぃさああ……」
一方、唇しか眼中にない男には、魔理沙の薄い唇しか見えていない。ある意味、尊敬すべき集中力であったが、事此処に至り、魔理沙の内側にもようやく沸々と湧き上がるものがあった。
それは、破壊衝動だった。
もうやだ、こんな世界。
「おまえも、すこし、ひとのはなしを――聞けぇぇッ!」
金的。
あまりに密着していたものだから、魔理沙はやむなく膝による攻撃を選択した。どぅむ、がぅん、という鈍いのか硬いのか判然としない擬態語が響き、次いで、霖之助モドキの瞳がぐるんと回転した。
あ、落ちたな、と魔理沙が察した頃には、糸の切れた操り人形のように、霖之助じみた生き物は呆気なく埃臭い床に転がっていた。ぴくりとも動かない。試しに、もう一度股間を踏んでみたら「ぶぎゃ」と呻いたものの、起き上がる様子は微塵も感じられなかった。
「は……はあぁ……」
いまだに震えている肩を抱き、壁沿いに後退る。がっちり掴まれていた肩にはまだ、男の手のひらが置かれているような感触があった。慣れていたはずの霖之助の手のひらが、これほど忌まわしく感じられる日が来るなんて、思ってもみなかった。
「こ……こわかったよぉ……」
十分に距離を離し、ぺたんと座り込んだ床の上で、魔理沙はしばらく放心状態になっていた。帽子を握り締め、もしあのとき唇を奪われていたら、その仮定を想像しては何度も頭を振る。
頬を伝っていた涙は既に乾き始め、あれほどやかましく鳴り響いていた音楽も、今は綺麗さっぱり消え失せている。静かなものだ。床から伝わる冷気が、脚を少しずつ冷やしている。それも、今は心地よい。
「しかし……」
罅割れかけていた精神を再構築することに何とか成功した魔理沙は、事の真相を確かめるため、意を決して擬似香霖が転がっている場所に向かった。
霧雨魔理沙を、いまだかつてない超弩級の絶望に至らしめた罪は重い。それを、事の元凶に贖ってもらわなくては。
抜き足差し足忍び足の原則を守り、魔理沙は彼の痴態を拝もうとする。
「ふふ……乙女の純潔を弄んだ罪は重いんだ……ぜ……?」
が。
そこに、彼はいなかった。
股間を押さえ、低く呻きながら生死の境を彷徨う哀れな狼(可能なら腹に石を詰めることもやぶさかではない)は、跡形もなく香霖堂の中から姿を消していた。
呆然とする。
溜めに溜めた怒りが、散り散りになって霧散するのを感じる。
「な……! あの野郎、私に黙ってどこをほっつき歩いてんだ……!」
店内を慌しく駆け回り、居住空間を探し回っても影も形も見当たらない。念のため、物置や厠を探索しても結果は空振りだった。
売り場に戻り、閑散とした店内をぐるりと見渡す。その目に宿るものは単なる怒りに留まらない、好奇と畏怖の光だった。
「どこに消えたんだ……? そして誰もいなくなるか、なんて笑えない冗句じゃないだろな……」
金的の例もあるから、見付かれば殺されると考えているのかもしれない。霖之助は引きこもりがちな性格も相まって、薄暗い場所に声もなく留まっていることくらい容易いだろう、と魔理沙は勝手に思っている。
だが、それを差し引いても、和式便所の中にもいないのはおかしい。何か、洋服のボタンを掛け違えているような違和感がある。正体はわからない。わからないからこその違和感だ。
歯噛みする。
元凶に辿り着けず、霖之助が何故あのような奇行に至ったのかもわからない。そも、彼が本物の霖之助だったかどうかさえ怪しい。いっそ何もかも偽物で、これが全て夢の世界なら話は早いのに――。
「だが、そこに依存するのは危険だな……」
精神の死は現実の死に繋がる。思い込みは人を殺す。魔理沙はそれを知っているから、たとえ夢の世界と言えど、唇を奪われてなるものかと意気込んだのだ。
「ううむ……」
香霖堂には誰もいない。
病み上がりの霖之助が、魔理沙から逃げられるほど俊敏に動けるとも思えない。外に逃げたとしたら、追うのは早い方が良い。
ここに留まっていても真実は見えて来ないと悟った魔理沙は、次の一手を打つべく店の扉に手を掛ける。
「――どこに行くんだい……?」
――ふぅッ。
耳たぶに、甘い吐息が吹きかけられる。
呼吸が止まり、感情が止まり、肩に添えられた無骨な手のひらの感触を、脳が理解することを拒む。声色から、背筋に電流が駆け巡るような行為をやってのけた人物の名を推測することも、魔理沙の理性が徹底的に拒絶する。
瞬間、魔理沙は原始的な獣に還っていた。
文字通り、何も考えず、大原則に従いながら反射と行為を続ける、ただそれだけの生き物に。
「――――――――――――――――――――――――、ぃ」
そこから先、魔理沙の記憶は途切れている。
ただ、火事場の馬鹿力に匹敵する絶叫と暴力があったことを、かすれた喉と、腫れた手のひらを見て、未来の霧雨魔理沙は過去に起こった惨劇を思い返すのだった。
そして、起床。
爽快な目覚めに、布団をめくりあげた魔理沙は素直に欠伸をした。
雀の鳴き声がピロートークを想起させ、つまらないこと考えるんだなぁと己のこめかみをぐりぐりと突く。体調は問題ない。ただ、喉と手のひらが痛む。何があったのか、それを思い出そうとすると頭が激しく軋む。身体もがたがたと震え出す始末だ。
「お、おいおい……どうしたんだよ、私は……」
不安げに呟き、呼吸を整える。
小刻みに震える肩を抱き、慎重に、己が体験した事象を思い返す。巡る記憶は走馬灯のように淀みなく流れ、今更ながらあまりの不気味さに全身から鳥肌が立った。
霖之助でありながら、霖之助でないもの。
朴念仁、内向的な引きこもりの一面がものの見事に裏返った人格は、魔理沙の想像を絶していた。恐ろしい。そして、おぞましい。
汗を掻いた手のひらで、寝覚めの顔を拭う。そうでもしなければ、ここが夢か現か判断出来そうになった。
「夢、なのか……?」
ぽつり、と独り言のように呟き、改めて部屋の中を眺める。殺風景な部屋に敷かれた布団は、魔理沙のために用意されたものだろう。見覚えがあった――これは、霖之助の家にあったものだ。
ならば、ここは――。
「何が、夢なんだい」
ぐるりと見渡した部屋の片隅に、眼鏡を掛け、頬に綿を当てた森近霖之助が佇んでいた。
「――ひゃうぅッ!」
魔理沙は跳んだ。
掛け布団を弾きながら転がるように障子を突き破ろうとし、その体力もないから咄嗟にミニ八卦炉を眼前にかざす。
霖之助は、ぽかんと立ち尽くしていた。
「……魔理沙、まだ熱があるんじゃないか」
「それは、こっちの台詞――まだ?」
言葉尻に食いつき、武器を下ろした魔理沙の機微にも気付くことなく、霖之助はあくまで淡々と語り続ける。
「人間の体温には個人差があるんだ。一般的に女性の平均体温は男性のそれより低いから、37.5分と言えども油断してはいけない。風邪は万病のもと、根絶出来ないが故に最強の病として名を連ねる」
威嚇にも似た説得を聞き、魔理沙は不意に額を押さえる。
熱は、ある。ただ、高いか低いかはわからない。起き抜けの頭は胡乱としていて、息が荒いのは急に叫び声を上げてしまったせいだ。風邪かどうかなど、計りようがない。
そも、霖之助のことが先決だ。
確かに、無駄な語りが多いところは普段の彼を彷彿とさせてるが、そう油断させておいて一気にガバッという戦法かもしれない。布団もあるし、いろいろとちょうどいいんじゃないか……と、考えているうちに顔が赤くなってきた。
それでも、追及の手は緩めない。
「……こ、香霖!」
「まぁ、でも」
その精一杯の呼びかけは、霖之助の声に遮られた。
安堵と後悔が入り混じったような、温かい口調で。
「熱は、下がったのかも知れないね。でなければ、そんな乱暴な口の利き方をするはずがないから」
魔理沙は、首の後ろをぽりぽりと掻く。
あちこち身体が痒いのは、褒められているせいか、貶されているせいか。折角だから、両方だということにして、霖之助の澄まし顔を睨み付けることにした。
あぁ、これがいつもの香霖堂だ。
香霖堂ばんざい。
悪夢が晴れれば、安穏と繰り返されていた日常がこんなに愛しくなるものか。新発見だ。
これなら、あの悪夢を味わった甲斐があるというもの――と思ったがやっぱり却下。もうやだあんな悪夢。
ぶるる、と懲りずに震えが来た。
気遣うように、霖之助が魔理沙の傍らに腰を下ろす。
「ほら、食べるといい」
「あぁ、ありがとう」
「……君が素直にお礼を言うのは珍しいね。流星が降るよ」
「そいつはお生憎様だな。でも」
――可愛いだろ? 私みたいで。
ウィンクする。
きょとん、と目を丸くする霖之助の隣にことんと置かれたお盆の上には、霖之助特製のお粥の鍋がちょこんと乗っかっていた。
それはそうとcase2楽しみに待ってます
魔理沙かあいいよ魔理沙。
それにしてもこーりん…(#^ω^)ピキピキ