咲夜さんとの出会いは、私にとって二度目の敗北であった。
そのせいもあってか、当時の事は今でも刻銘に思い出すことができる。不思議なもので、良い思いというのはすぐ忘れてしまうのに、苦い記憶はいつまでもカビのように頭から離れてくれない。
だから私は抗わず、時折、この記憶を懐かしさと共に思い出す。
自分が見えてなかった妖怪と、最強に相応しい吸血鬼と、自分を最強だと信じて疑わない人間のお話を。
はじまりは、いつものように館の庭から。
夜。時計台の鐘が十回鳴った。
昼寝から就寝へと移行しつつあった睡眠を止め、欠伸をしながら身体を起こす。さすがは手入れの行き届いた紅魔館の庭だ。適当に寝そべっただけなのに、寝心地は最高に良かった。
メイド達の視線さえ気にしなければ、これほど快適な寝台もあるまいて。
側に置いていた帽子を手にとる。緑色だから、時折芝生と同化していることもあり、実に見にくい。龍と刻印された星形の装飾があるからいいものの、それさえ無ければいつか土に還るだろう。断言してもいい。
「そうなったら、面白いんだろうけどねえ。帽子を喰らう大地。吸血鬼の館だったら、それぐらいあっても良いだろうに」
帽子をかぶりながら、冗談混じりにそんなことを呟く。
「前はあったんだけど、メイドが根こそぎ食べられちゃって。生活に困るから普通の土に変えたの」
頭の上から声が降りてきた。軽く舌打ちをして、帽子を押さえながら顔を上げる。
案の定、そこには館の主がいた。
どう見ても子供にしか見えない外見の癖に、成熟した妖怪でも太刀打ちできない力を持ち合わせた吸血鬼。弱点さえつかれなければ、最強の種族と言ってもいい。
弱体化したという噂に釣られて美鈴もかつて戦いを挑んだことはあるが、結果は無惨なものだった。相手にすらならなかったのだ。当時は自分こそが大陸最強の妖怪だと自負していたこともあり、その敗北はかなり衝撃的だった。
だからだろうか。放心状態の私は、うっかり館のメイドになることを承諾してしまった。当時はまだメイドの数も少なかったのだ。猫の手ならぬ妖怪の手も借りたいぐらいに。
「あなたが推薦するのなら、また餓鬼の土へ戻してもいいのよ?」
しばらく返事をしないうちに、話は随分と物騒な方へと進んでいた。
餓鬼の土とな。なんとも恐ろしい響きの土である。少なくとも踏んで歩きたくはない。
「そうなったら、また生活に困るだろ。私は料理も洗濯もベッドメイキングも苦手だ」
私の仕事は主に館内への侵入者駆除と、お嬢様の護衛。メイドというよりは門番に近い。 後半はどうでもいいし、必要ないように思えるが、前半はとても大事なお仕事だ。警備がいなければ、ここのメイド達はあっさりと侵入してきた別の妖怪共に殺されてしまうだろう。炊事洗濯の技術はあるくせに、妖怪メイド達はどいつもこいつも腕っ節がなまっちょろい。
まあ、その逆に私は腕が立つけど炊事洗濯はからっきし駄目だ。だから、こうして有事に備えて待機しているというのに、他のメイド達にはさぼっているように見えるのだと言う。見解の違いというやつだろうか。
「知ってるわ。だから、門番にしてあげたじゃない。適材適所。それとも、私の専属のメイドになってみる?」
ふわりと音もなく、紅魔館の主であるレミリアは芝生の上に舞い降りた。
「はっ、ごめんだね! 負けた相手の側に四六時中いるなんて、気が狂いそうになる」
「私は勝って当然の存在だもの。勝負なんて、そんな概念自体が無いのよ」
馬鹿が言えば戯言だが、吸血鬼が言えば事実である。だから尚更腹が立つ。
「それと、何度も言うように私には敬語を使いなさい。あなたの口調は乱暴すぎる。今は愉快だから良いけれど、いつでも私が愉快だとは限らないわ」
「ここにはそんな厳しい規律があるのか?」
「規律なんて無いわよ。あるのは禁忌だけ。私を怒らせることと、地下の部屋へ入ること」
一階二階と広い空間があるくせに、贅沢にもこの館には地下室まであるという。大図書館の方へは一度だけ入ったことがあるが、もう片方は固く鍵が閉められており、中へ入ったことはまだない。
好奇心は疼くものの、長年の勘があの中には猫どころか自分までも殺す存在がいると警鐘を鳴らしていた。こういう時は、近づかないに限る。今までも、これからもその禁忌を犯すことはないだろう。
ただ、後者の禁忌に比べて、前者の禁忌は曖昧すぎる。
「敬語を使ったからって、怒りを避けられるわけでもないだろ。私は好きにさせてもらうよ。せっかくの好待遇なんだ、せいぜい自由にさせてくれや」
「好待遇? 奇妙なことを言うのね。妖怪の相手は疲れないの?」
「私にとっては日常だ。それに食事の心配をしなくてもいい。それだけで好待遇。欲を言えばお嬢様が少し我が儘すぎるのが不満」
「そういうことは本人に直接言いなさい」
「だから本人に言ってるだろ。誰のことだと思ったんだ?」
苦々しい顔でそう呟くと、レミリアはくすくすと笑いながら夜の空へと飛び上がった。
今宵はいつにも増して機嫌が良い。普段なら、もう少し私の言葉に反発してくるというのに。笑って受け流せる余裕があるとは、どういった心境の変化だろう。
レミリアが飛んでいった空へ顔を上げる。
無駄に明るい星空に紛れ、限りなく丸く月が見えた。
満月が近い。
ひょっとすれば、レミリアの機嫌が良い理由はそれなのかもしれない。なにせまぁ、吸血鬼なわけだし。
月で機嫌が変わってもおかしくはない。そう思っていた。
その噂を聞いたのは、本当に偶然からだった。
満月の夜を控えた昼間のこと。目が覚めた私は、小腹の唸り声を静める為に、調理場へと忍び込んでいた。
コンロや食器棚の影に潜み、そのままでも食べられる物を物色する。調理できれば材料を貰うだけで済むのだが、生憎とそういった技術は磨いてこなかった。機会があれば、いつか誰かから教わろうと思う。まあ、ここの妖怪メイドにだけは教わりたくないが。
「本当だって! この前、森の外で捕まえた行商人が言ってたもん」
「えー、でもアイツってば牛の肉を人魚の肉だって売りつけてきたような奴だよ。そのくせ、自分はいつのまにかちゃっかり逃げてるし」
「眉唾だよねぇ」
昼食を過ぎたからだろうか、料理担当のメイド達は暇をもてあましているようだった。暢気にお喋りなどしている。こっちは必死に食べるものを探しているというのに。
彼女達に頼むという手もあったが、また嫌な顔をされるのが関の山だ。その手は既に試しており、お小言を貰うばかりで腹が膨れないことを知っていた。
お喋りの内容を適当に右から左へと聞き流しながら、食材の入った籠を漁る。じゃがいもの籠の裏に、トマトの詰まった箱があった。連中め、こんなところに隠していたのか。
「でもさ、実際に吸血鬼が弱くなったっていう噂は広まってるわけでしょ。現にあの妖怪だってお嬢様に挑みきたわけだし」
トマトに囓りつこうとしたところで、動きを止める。
さて、あの妖怪とは誰のことだろうか。
「寝てばかりのあの子ね。大口叩いていた割に、あっさりとお嬢様に負けちゃって」
「情けないよねえ。それ以前に、馬鹿だよねえ。お嬢様に挑むなんて」
確かめるまでもあるまい。間違いなく、私のことだ。
「じゃあさ、仮に本当だとしても問題ないんじゃない。お嬢様、あんなに強いわけだし」
「そうよねえ。そういえば、アイツったら、土下座しながら三回もお嬢様ごめんなさいって謝ってたもん。ああ、あれは面白かった」
馬鹿を言え、二回しか謝っていない。
いい加減、ここにいることを教えてやろうかと思ったところで、メイドの一人が興味深い単語を耳にした。
「お嬢様のことだから、吸血鬼ハンターが来たって一撃で返り討ちよ」
吸血鬼ハンター。
かつて大陸にいた頃、何度もその名は耳にしたことがある。なにせ、最強に等しい種族の吸血鬼に人間が挑もうと言うのだ。滑稽と嘲りの意味を込めて、その名は妖怪達の間にすぐに広まった。
まあ、有頂天だった頃の私は人間でも吸血鬼ぐらいは倒せるわなと思っていたのだが、今となってはなんと愚かな連中だと嘲り笑うことができる。
その具体的な規模や、戦闘手段は全く知らない。だが、人間の考える手段などタカがしれている。レミリアに敗北した私だが、吸血鬼ハンターごときにひけをとる気はしない。
もしもその話が本当だとしても、まあレミリアの前に辿り着くことすらできないだろう。
なにせ、この私が守っているのだから。
不適な笑みを浮かべながらトマトを囓る。
ヘタは数字を間違えたメイドにぶつけてやった。
満月の影響か、レミリアは夕方には目を覚ました。
「今夜は良い月ね」
「まだ空は赤いだろ」
いつものように芝生の上に寝っ転がっていると、隣にレミリアがやってきた。橙色の太陽がまだ、空にはしぶとく残っている。淡いピンク色の傘が、それからの日光を遮っていた。レミリアは昼間に外出する際に、決まってその傘を持ち歩く。
「どうせ同じよ。月が出たって、空は赤い」
「ああ……それでか」
ようやく、レミリアの機嫌がやたらと良い理由がわかった。
スカーレットという名前のせいか、吸血鬼の特性なのか、レミリアは意味もなく赤という色を好む。
瞳も赤いし、絨毯も赤い。ワインだって赤いのだ。おかげで着ている洋服まで赤くなる。
……最後のは、単に飲み方が幼いだけだとは思うのだが。
「今夜の月は赤いのか?」
月で、赤い、となればレミリアがはしゃがないわけがない。
空を受け止めるように両手を広げ、レミリアは言った。
「赤じゃないわ、紅いのよ」
「それ、文字にしないとわからない類の会話?」
「言葉でもわかるわ。意味が違うもの」
なんと理不尽なお嬢様か。自然と溜息が漏れた。
「吸血鬼にとっちゃ最高の夜になるだろうけど、私にとっちゃ不吉の前触れでしかないんだが。月が紅いなんて、何かよくないことが起こりそうだ」
古来より、月は神聖な象徴として崇められてきた。
その月の色が変わるとなれば、地上でも何か変わったことが起きるはず。それも、血が流れるような不吉なことが。人間達の中には、そう考えるものが少なくなかった。
私は無宗教だが、確かに紅い月を見て幸福の知らせだと喜ぶ気にはなれない。やはり、何かよくない事が起こりそうだと思ってしまう。
現に、レミリアに敗北した日の月も紅かった。
「最高じゃない。満月で、紅くて、不吉なことが起こるなんて、三重の意味で素敵な夜になりそうね」
「ああ、やっぱり変わり者だな、あんた」
「お嬢様と呼びなさい」
「はいはい、お嬢様」
肩をすくめる。明らかに馬鹿した言い方だったが、気分を害した様子はない。よほど、今夜の月が楽しみと見える。
私としては雲で月が隠れるのを祈るばかりだが、そうなれば機嫌を損ねたレミリアがどんな我が儘を言い出すかわからない。
不吉な月が隠れるのと、レミリアの我が儘に付き合うの。どちらが大変かを天秤にかけて、私は改めて晴れることを祈るのであった。
とはいうものの、やはり影響が気になるわけで。
大図書館へと足を運ぶ。
館の中で最も広い空間にして、最も私とは縁遠い場所。それが地下にある大図書館だった。もう片方の地下室に入らないようにと、注意ついでに案内された時以来だった。
別に何か本を借りにきたわけではない。ここの主に用事があるのだ。
林立する本棚を抜けて、十分ほどで目的の魔法使いを発見する。白いテーブルクロスのかかった机に本を置き、年代物の安楽椅子に腰を降ろしていた。
それにしても、相変わらず顔色が悪い。
「あら、門番がこんなところに何の用かしら?」
少し鬱陶しそうにパチュリーは言いながら、手に持っていた本を閉じた。調べ物でもしていたのか、だとしたら邪魔してしまったようだ。
「用事が終わればすぐに出ていく。ちょっと、占って欲しいことがあって」
「魔法使いは占い師じゃないわよ。占いはできるけど」
「どういうことだ?」
「占い師の占いは当たるも八卦、当たらぬも八卦。でも魔法使いの占いは、百発百中」
それではまるで未来予知ではないか。
疑問が顔に出ていたのか、パチュリーは付け加えるように言った。
「でも、百一発目に必ず外す。そうしないと、今度は百発全てが外れてしまうから」
「よくわからないけど、とにかく凄い的中率ってことだ」
「全然違うけど、解釈の仕方は間違ってないわ」
早く出ていって欲しいのか。わざと難解な言い方をしているように思えた。
もっとも、これが地なのかもしれないが。でも、その方が何か嫌だ。
「それで、何を占って欲しいの?」
「今夜、何が起きるのか。できることなら、その詳細も合わせて」
パチュリーは溜息をつきながら、机の下に手をつっこむ。何をするかと思えば、透明な水晶玉を取り出した。常備しているのか。はたまた、これも占いの結果か。
「吉凶だけでいいなら、この場で出せるけど。詳細も必要なのかしら?」
「その方が動きやすい。ちなみに、吉と凶のどちらだ?」
「凶よ」
間髪入れずにパチュリーは答える。予想しえた答えとはいえ、改めて他人から聞かされると言葉に詰まる。
「ただし、何が起こるのかわからない。ほら」
そう言って、水晶玉を突きつけられる。ほらと言われても、水晶玉には何も映っていなかった。
眉をひそめ、水晶玉を指さした。
「これがどうかしたのか?」
「どうもしないのよ。今夜起きることを占ってみたんだけど、結局何も映らなかった。吉凶かさえ、わからない」
「だったら、どうして凶だとわかる。占うことができないんだろ」
「魔法使いが占えないのよ。凶に決まってるじゃない」
何も問題がないのなら、占えないはずがない。占えないということは、何か起こるということで、それが良いことであるわけがなかった。
やはり、月が隠れてしまった方が良かったのか。今更ながらに後悔するが、既に空には月が姿を現していた。
図書館の中にある、たった一つの窓からその姿が見て取れる。
赤よりも紅い月だった。
大図書館を出て、庭へとあがる。レミリアの姿はなく、どこかではしゃいでいるのだと予想した。
メイド達は紅い月に何も感じていないのか、いつものように慌ただしく動いている。何人かが、私に不満そうな視線をぶつけてくる。ああ、私もあんな風に何も知らなければ楽にしていられただろうに。
もはや寝られる気分ではない。
背中から何かが追ってくるような、奇妙な焦燥感が常につきまとっていた。
――瞬間。
「っ!!」
屋敷の正門を見る。そこに人影はなかった。
なかったのだが、確かに強烈な殺気を感じた。門の向こう側からだったのか。いずれにしても、ここに敵意を持つ者が側にいることに間違いはない。
メイド達の視線を振り切り、慎重に身を隠しながら門から表の森を覗いた。
紅魔館の周りは鬱蒼とした森に覆われており、しかも濃い霧が張り巡らされている。この森を抜けられる時点で、ただの雑魚妖怪ではないことが証明されるのだ。いわば、ふるいである。今となっては、私もそのふるいの一部になってしまったわけだが。
「それにしても、自信満々だな」
門が隔てているとはいえ、殺気は壁越しにでも伝わってくる。これほどの殺気を隠しもしないとは、よほど自分の腕に自信があるらしい。かつての自分を幻視するようで、あまり気分は良くない。
噂の吸血鬼ハンターかとも思ったが、少なくともあの森を越えられる人間などいない。いかなる機械も、いかなる身体能力もあの森では役目を果たさない。元々の力に優れた妖怪でもない限り、せいぜい迷って餓死するのがオチだ。
だというのに。
「嘘だろ、おい……」
森から姿を現したのは、れっきとした人間だった。
形だけが人間で、本当は妖怪という奴も多い。現に私もその類だ。だからこそ、同類には鼻が利く。もしもあれが本当は妖怪だとしたら、一発で見抜くことができる。
だから断言できるのだ。あれは、人間だと。
銀色の髪をたなびかせ、青い瞳が館を捉えた。手に持ったナイフは銀色に光り、紅い月からの光など意に介していない様子だ。
対する服は黒一色。まるで夜に同化するように、目立たなく、そして冷たい印象を受ける。暗殺者か、はたまた殺人鬼か。そう思わせるような服を着ていた。そのくせ、下は白いスカート。なんともアンバランスな格好だ。
「ねえ、一つ訊いてもいいかしら?」
その人間は、明らかに私に対して質問をしてきた。ばれているなら隠れていてもしょうがないし、そもそも人間相手に隠れるなど、私の最後の矜持が許さない。いつのまにかずれた帽子を治し、人間の目の前に姿を現す。
「あなたは吸血鬼……って風じゃないわね。さしずめこの館の門番かしら?」
「そういうお前は人間だな。まさか、噂の吸血鬼ハンターじゃあるまいな」
疑問をぶつけておきながら、私はほぼ確信していた。この人間は、吸血鬼ハンターなのだと。
そうでなければ、わざわざこんなところまで来ない。
「こんな辺鄙な片田舎まで噂って届くのね。ご名答。確かに私は吸血鬼ハンターですわ」
「ふん、本当にそんな馬鹿げた人間がいるとは。私にも微塵の親切心があるから教えておくが、大人しく帰った方がいい。お前ごとき、レミリアの相手ではない」
「レミリア……レミリア・スカーレット。紅い悪魔。フランドール・スカーレットの姉」
「フランドール?」
聞き覚えのない単語に首を傾げる。
「知らないなら、あなたの立場もそれほどじゃないということよ。大人しくそこをどきなさい。あなたごとき、私の敵ではない」
オウム返し。挑発的な態度で、人間は私を嘲るように鼻で笑った。
我慢にも限界があるし、そもそも我慢する必要などない。相手が侵入者なら排除するだけのこと。人間が正門から堂々と来るのは初めてだったので戸惑ったが、要は妖怪を相手にするのと変わらない。
問答無用でお帰り願おう。
私は無言で人間へと近づいた。その時間たるや一秒にも満たない。人間が反応できる速度であるはずがなく、私の拳は人間の横腹に突き刺さろうとしていた。
「えっ?」
間抜けが疑問が口から漏れる。何に対しての疑問なのか。
放った拳の先には誰もおらず、私の背中に銀のナイフが突き立てられていた。
「ああ、そうか。吸血鬼じゃないからそれほど効果がないのよね」
人間はいつのまにか私の背後に回っており、ナイフを突き立てながら冷静にそんな判断をしていた。
馬鹿な、ありえない。動きが全く見えなかった。
「くそっ!」
身を捻り、ナイフから身体を離す。傷口が広がってしまったが、このまま接近しているよりかはマシだ。得体の知れない奴を相手にする時は、とりあえず距離をとらないと。
しかし、距離をとればとったで、今度はナイフが飛んできた。銃弾なんかよりも、遙かに速く。反射的に避けたものの、次も避けられるかは自信がない。だから、私は駆けだした。
狙うは、人間の足下に落ちている銀のナイフ。さっきまで私の背中に刺さっていたやつだ。離れる際に地面に落としてしまったのだろう。見たところ、人間は二本のナイフしか持っていなかった。あれを奪えば、もう攻撃することはできなくなる。
ああ、だが待て。もしも、持っているのが二本だけではないとしたら。馬鹿正直に自分の武器の数など、普通見せるだろうか。手に持っている数が、その全てとは考えにくい。
「ご明察。私のナイフは無限なの」
翻ったスカートの下に、幾本ものナイフが準備されているのが見えた。無限とはいかないものの、十や二十はあると考えた方がいい。
「吸血鬼対策は完璧ってか。人間だからって、少し侮ってた。だけど、それでもレミリアには適わない。勿論、私にも」
「それはどうかしら?」
反論するように、持っていた全てのナイフが投擲される。二本の腕で、よくあれだけのナイフを扱えるものだと感心した。
後ろへ下がって一本目をかわすが、まるでそれを予期していたように残りのナイフが私を襲った。
二本目と三本目もかわし、四本目からは拳ではじき、残りはそれぞれ両腕に刺してやった。痛いが、これで無効化できた。ナイフを引き抜き、地面に捨てる。
「もう武器は無いぞ……っと!」
どこに隠していたのか、最後の一本が眉間すれすれまで迫っていた。咄嗟に身を屈め、脚で蹴り落とす。乾いた音がして、ナイフは勢いを失って地面に落ちた。
「一応は、大きい口を叩くだけのことはあるわね。これだけのナイフを捌かれたのは、あなたで二人目よ」
「ちなみに一人目は?」
「私。これぐらいのナイフなら、物の数じゃないわ」
「……自信の大きさならレミリアにも負けてないな」
軽口を叩きながら、腕から流れる血を舐める。硬い鉄の味がした。これを主食にする種族の気がしれない。
「さてと、これで今度こそ武器は無くなったな。無抵抗の相手を嬲る趣味は無いし、黙って帰るなら見逃してもいいぞ」
「紅魔館の門番ってのは随分と甘い妖怪なのね。それに馬鹿。吸血鬼ハンターが、ここまで来て大人しく帰ってくれると思う?」
まあ、冷静に考えれば無理なわけで。よほど不利な状況に追いつめられないと逃走すらしないだろう。だがしかし、武器の無いこの状況は不利ではないのか。私の心を読んだのか、人間はレミリアばりの底意地の悪い笑みを浮かべた。
そして指を鳴らす。すると、もう片方の手にあるはずのないナイフが現れた。
地面を見渡す。その数は全く減っていない。
今度はどこにも隠している様子は無かったし、取り出している気配も無かった。勿論、ナイフを回収する素振りもだ。だというのに、どこから取り出した?
「特技は吸血鬼を狩る事と、種も仕掛けもない小手先のお遊戯ですわ」
「そんな厄介なお遊戯があるか。魔術の類、あるいは錬金術だな」
「手品なんだけど、まあ信じて貰えなくてもいいわ。ちょっと手間をとりすぎた。前座に時間を掛けすぎるのは、主賓にとっても失礼でしょうから。もう、終わりにするわよ」
そう言って、人間は再びナイフを投げ放つ。大口を叩いた割に、やっていることは先ほどまでも何ら変わりない。冷静に対処して、五本のナイフを地面に叩き落とす。
「なるほどな、終わるのはお前か」
最大限の皮肉だったが、人間は意に介した風もない。ナイフの刃のように口を歪め、心底から楽しそうに言った。
「ええ、終わるのは私。そして、終わらされるのはあなた。だって、出会った時からあなたの時間は私のものなのだから」
人間が右の腕を一振りした。
「お返しするわ。あなたの時間にナイフを添えて」
まばたきをする間に、私の世界は一変した。
四方八方に取り囲む銀のナイフ。それら全てが、私に刃先を向けて飛んでくる。死角はなく、逃げ道もない。驚きの声を出すこともなく、その全てが私の身体に突き刺さった。
「殺人ドール。五臓六腑でご賞味あれ」
私は意識を手放した。
ふと目を覚ます。人間が私の肩に刺さったナイフを抜いていた。
「驚いた、あれだけ喰らって生きてられるなんて。私が出会ったどの吸血鬼よりもしぶといわ、あなた」
半ば呆れたように人間は言う。だが、最早私に抵抗する力など残っていなかった。
完敗だ。
それも、二度目の。
一度も二度も同じだという奴はいるが、どう考えてもこの違いは大きい。一度であれば偶然かもしれないが、偶然は二度も起こらない。起こったとすれば、それば必然か当然のどちらか。
「その顔を見る限りでは、二戦目の心配はなさそうね。良かった。ナイフを回収する時間が勿体ないもの」
傲岸不遜な態度だが、敗者の自分には何かを言う権利は無い。ただ、この人間からしてみれば、私などはただの邪魔な壁でしかないのだろう。越えることは難しくないが、手間と労力が掛かって煩わしい。その程度にしか思われていないらしい。
「お前、名前は?」
「死に逝く化け物に語る名前は持ち合わせていないと、普通なら答える所ですけどあなたは生命力も強いし、特別に教えてあげるわ」
名前一つでこの勿体ぶり様。吸血鬼ハンターというのは、どいつもこいつもこんな連中ばかりなのか。だとしたら、なんと恐ろしい集団なのだろう。出会わなかった運命に感謝したい。
「かみづきさくや。神の月を裂く夜と書くの」
そう言いながら、裂夜と名乗った女はナイフの回収を済ませた。
後は語ることなど無いとばかりに、館の中へと向かう。
「自信……無くなっちゃったなあ」
妖怪としてもそれほど強くなく、人間にすら敗北し、門番としての役目すら果たせない。
もしもこんな奴が目の前に現れたのなら、嘲るよりも同情の目を向けてしまうだろう。頑張れよと、肩を叩く恐れすらある。それほど哀れで、情けない奴なのだ。まあ、私のことなのだが。
溜息をつく。
見上げた空には依然として紅い月が煌々と地上を照り続け、まだこの異常事態が終わっていないことを教えてくれていた。
「お嬢様と裂夜。さて、どちらが勝つかと言えば……」
悩むまでもなく、結果は分かりきっている。
「お嬢様なんだろうなあ」
時計台の鐘が十二回鳴る。
いつのまにかレミリアの事をお嬢様と呼んでいる自分に気づき、私は帽子で顔を隠した。誰かが見ているわけでもない。強いていうなら紅い月が地上を見下ろしているが、それを原因と言うにはあまりにも詩的すぎる。柄じゃない。
二度目の敗北が、きっと私を殊勝にしたのだろう。お嬢様どころか人間にも敗北するような奴が、どうして大きな態度をとっていられるのか。
人には身の丈にあった生き方があるように、妖怪にも同じ生き方がある。
私の場合はどうやらそれを間違えていたようで、それからの私はお嬢様という呼称と敬語を使うようになったわけだ。
「神月裂夜か……」
後の十六夜咲夜の名前を口に出しながら、私は少し赤みがかった芝生に寝転がった。
寝よう。
どうせ、もう私にできることなどないのだから。
Next History...
個人的には最高だったかも・・・。
後編にもとても期待してますー
美鈴の設定も面白かったです。
続きに期待しますわ。