血のように紅い紅茶がティーカップに静かに注がれる。
ソーサーがテーブルを離れ、さらにカップがソーサーを離れる。
そして、やがてカップが勢いよく指から離れ――
ガシャーン!
食器の割れる音が響き渡る。
当主の間に敷かれた高価そうなじゅうたんには大きなしみができ、その上にはカップや皿だった物の破片が散らばっている。
それらを片付けようとメイドたちがあわてて駆けつける。
「不味いわ」
上座からそうつぶやく声が響く。
その言葉に、駆けつけた一部のメイドたちが代わりを準備しようと給仕室へ向かおうとする。
しかし、その足は次の言葉によってその場に縛り付けられる。
「いらないわ。こんな不味い紅茶しか出てこないのなら」
声の主は険しい表情のまま立ち上がり、部屋を後にしようとする。
その後姿にメイドの一人が恐る恐る声をかける。
「お嬢様、どちらへ……」
「いつからあんたたちは私にものを尋ねられるようになったのかしら……?」
体の心まで凍りつくような冷たい声をはきながら、主がメイドに視線を向ける。
「も、申し訳ございません!」
「……部屋に閉じこもってる役立たず門番を呼んでおきなさい。やつのほうがよっぽどましな付き人でしょうから」
「でも、彼女はあれ以来食事すら……」
再度喋ろうとしたメイドを主は恐ろしい表情でにらみつけ黙らせる。
すくみあがったメイドたちは、主が出て行く後姿をただ見送るしかできなかった。
「さて……と、今日の採点をしてしまおうか」
日もだいぶ傾き、もうじき紅みを増してくるであろう頃。
慧音は寺子屋で集めたわら半紙をトントンとそろえ、朱墨のふたに手をかける。
とそのとき、なにやら外が騒がしくなったことに気づく。
「なんだ……?」
朱墨をおいて玄関に向かい、引き戸を開けようと手を伸ばす。
しかし、その手は空を切り、手の向こう側には珍客が二名並んでいた。
「久しぶりね」
「こんにちは」
一人は女性としても小柄な体に大きな黒い羽、紅魔館当主レミリア・スカーレット。
一人は女性にしては大柄な体に長い赤い髪、紅魔館門番紅 美鈴。
紅魔館の者が人里に下りてくることはそれほど珍しいことではない。
だが、今回は人物、組み合わせ、出没場所、どれをとっても普段とは違う。
そのことに不審に思った里の人間たちが遠巻きにじっと見つめ、ひそひそと話をしている。
「とりあえず中に入ってくれ。立ち話がなんだとかじゃなく、周囲の目が気になる」
周囲の雑音に苛立ったような表情をするレミリアと、その後ろで主に日光が当たらぬよう日傘を掲げている美鈴に慧音は家の中に入るよう促す。
しかし、日傘をたたみ家に入ろうとした美鈴の目の前で、レミリアは左腕を広げて振り返らずに口を開いた。
「あなたは外で待っていなさい」
「は、はい……」
制された美鈴は慣れない手つきで日傘を丸め、後ろに下がる。
よく見るとこの二人も普段と様子がだいぶ違っていた。
レミリアはいつものように威厳のあるように振舞ってはいるが、明らかに声は力なく、顔もやつれている。
美鈴のほうはさらにひどい。目の周りが腫れぼったくなっており、普段の凛とした顔はかけらもなくなっていた。
「ちょっと待っていろ」
その姿に見かねた慧音はそういって奥に引っ込むと、水を絞った手ぬぐいを持ってきて美鈴に差し出す。
「これを目にあてて冷やすといい。その顔で外で待つのは酷だろう」
「あ、ありがとうございま――」
一度は外に出た美鈴が、差し出された手ぬぐいを受け取ろうとして再度中にはいり、おずおずと手を伸ばした。
だが、その動作の鈍重さに業を煮やしたレミリアが美鈴を怒鳴りつけた。
「美鈴! さっさと外に行ってなさい!」
怒鳴りつけられ大慌てで表に飛び出した美鈴を一瞥し、レミリアはピシャリと乱暴に戸を閉めた。
「ずいぶんと酷い扱いだな」
「あんなのが『今の』うちじゃ一番ましだからね。従者として門番よりも役に立たないメイドしかいない。
しかもそのましなのもとろくて気が利かないときたら苛立つのも当然よ」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、レミリアは出された座布団の上にどかっと腰を下ろした。
紅魔館のメイドたちのほとんどは妖精であり、おのおの自分の世話で手一杯という。
そんな中にいては、本来門番である美鈴が借り出されるのも至極当然な流れといえなくもない。
「それで、今日は何用だ? 日が沈むのを待たずにわざわざ来たのには相応の理由があるんだろう」
自分の愚痴でさらに苛立ちそうになるレミリアに、慧音はなるだけおだやかに訊ねた。
「ああ、そうだったわね……」
その問いに愚痴をやめたが、歯切れの悪くなるレミリア。
しばらく視線を泳がせていたが、やがて決心したようにつぶやいた。
「貴女に折り入って相談……と言うか、依頼よ」
「……なるほど。要は歴史を食え、なかったことにしろということか」
「そういうこと。もちろんその手間に見合うだけの報酬は準備するわ」
レミリアは比較的話のわかる妖怪だ。
置かれている立場から周りを見下した態度を取るものの、相手の力量や妥当性をよく考え交渉する。
そのため、からかうことが目的でない真っ当な交渉は、相手がごねでもしない限りすんなりと決まる。
「断る」
「……なんだって?」
レミリアの表情が険しくなる。
相手が実行可能な物事を妥当な報酬で依頼する、つまりそれは相手の視点まで歩み寄る行動である。
彼女のように高貴と自負するものにとって、それを断られることは屈辱以外の何物でもない。
「美味い歴史は嫌いだ。だから食いたくない」
その断られた理由が相手の主観的なものであったならなおさらだ。
「ふざけるな!」
怒鳴るが早いか、レミリアは慧音に飛び掛り床に押し倒した。
慧音は抵抗することもなく床に組み伏せられるが、鋭い視線をレミリアに投げかける。
「そうやってまた自分の思い通りにならないことを目の前から消そうとする気か」
慧音に一喝され一瞬ひるんだレミリアだが、すぐに険しい表情で慧音を睨み返す。
「う……うるさい! うるさい!!」
レミリアは半狂乱になりながら慧音の胸倉を掴みあげる。
食い込んだ爪でリボンが裂ける。
そして、もう一方の腕を振り上げた。
「……殺すのか、私を」
慧音がつぶやいた一言に明らかに動揺するレミリア。
彼女にとって人妖を殺すことなどごく普通の行動のはずだった。
しかし、このときの彼女にとってはそうではなかった。
「感情だけで暴力に走るとは、ずいぶん人間臭くなったものだな」
「くっ……!」
慧音は押し倒されてからずっと、ただ哀れむ表情をしていた。
そのことにようやく気づいたレミリアは、掴んでいた手を離し腕を下ろした。
日ごろのレミリアからは想像のつかない、泣き出しそうな表情で。
「……本来なら個人の私事を覗くようなことはしないんだが、彼女の歴史を見させてもらった。
もし、彼女がお前に出会う前までの歴史を食えというのなら、何もいわずにそうしていただろう」
「……」
「彼女の辛く、苦く、不味い歴史を私はきっと喜んで食べただろう」
床に押し倒されたまま淡々と話す慧音。
馬乗りになったままじっと聞くレミリア。
「だが、その後の歴史を食べたらどうなる? ようやく心を開いた相手から存在を抹殺されたら――」
人間に忌み嫌われていた一人の少女がいた。
その彼女に手を差し伸べたのが、かつてのレミリア・スカーレットだった。
「……そんなこと、わかってるわよ」
暫く黙って聞いていたレミリアがポツリとつぶやく。
「自分勝手なことだって。でも、そうでもしないと押し潰されてしまいそうなのよ。
……ここに来たのはある意味賭け。苦しくて、逃げたくて、でも逃げたくなくて――そんな葛藤を断ち切るためのね」
「……それでも、もし私が了解したとしても、それをとめる最後の良心は準備していたんだな」
慧音の言葉にレミリアははっとして目を見開いた。
慧音の元を訪れる際に、なぜ付き人に彼女を選んだか。
葛藤による重圧や自尊心で自棄になっていて認めたくなかったが、心の底では殴ってでも止めてほしかった。
その心を代弁するかのように、慧音は小声で、レミリアにしか聞こえないような声で話しかけた。
「まったく、素直じゃないんだな。面と向かっていると反対されても反発する……それが主としての振る舞いだとしてもだ。
わざわざ力づくで止めざるをえなくするなんて、卑怯だぞ」
その言葉を最後にまた暫く黙り込む二人。
やがてレミリアはゆっくりと立ち上がり、慧音に背を向け歩き出す。
しかし、その背中は頼りなく、普段以上に小さく見えた。
「帰るわ」
力ない声をひねり出しながら玄関へと向かう。
慧音はようやく自由になった上半身を起こし、その背中に向かって話す。
「彼女は幸せだな」
一瞬、レミリアの足が止まる。
「愛し、慕っていた者達が取り乱すほどに心酔してくれていたんだから」
「……」
レミリアはその言葉に返事をせず、またゆっくりと玄関へ向かう。
肩が、わずかに震えていた。
「後で献花をしに行くよ」
そのままレミリアは静かに引き戸を開けて出て行く。
「私も残す側だ……忘れられるのは……嫌だ」
彼女の出て行った戸を見つめながら、慧音はつぶやいた。
もうすっかり日も落ち、あたりはだいぶ薄暗くなっていた。
来たときにあれだけいた人間も、夕食時で家に帰ったのだろう、あたりに人気はなかった。
「美鈴、帰るわよ」
家から出てきたレミリアが手ぬぐいに顔をうずめて座っている美鈴に声をかける。
顔を上げた彼女は来たときよりも目を腫らしていた。
「お嬢様……っく、すみません、話を盗み聞きして、しまいました」
外でずっと泣いていたのだろう。
手ぬぐいはくしゃくしゃになり、彼女の上着にまでしみを作っていた。
美鈴はレミリアにすがりつき、しゃくり上げが止まらないままの涙声で言葉を続けた。
「私は、いやです、っく……やさんを、忘れたく、ひっく、ないです。
きっと、忘れたら、何も思わなくなるのかも、ひっく、しれませんけど、
いなかったことに、っく、なって、いままでの思い出が、ひっく、全部、嘘に、なかったことに、なるのは、
ひっく、絶対に、いやです……だから、」
「美鈴……」
そういってまた泣き出した美鈴をレミリアはきゅっと抱擁する。
「ごめんね……」
泣いて、泣いて、泣いた。
その間、レミリアはずっと目を閉じて彼女の頭をなでてやっていた。
ひとしきり泣いてようやく落ち着いた美鈴の顔をぬぐってあげる。
「あ、ごめんなさい、お嬢様……」
「いいのよ」
ばつの悪そうにもじもじしている美鈴を尻目に、レミリアは紅魔館に向かって飛び出した。
それを見て美鈴はあわてて後を追いかけて飛んだ。
暫く二人は黙ったまま飛び続けた。
今宵はいつにもまして月や、星や、虫の鳴き声が美しく、夜に吸い込まれそうに感じられた。
いつもよりも長く感じられた道のりを越え、紅魔館がかすかに見え始めたころ、長く続いた沈黙をレミリアが破った。
「それにしても、私に意見した『従者』は二人目ね」
「え、あ、あれは、その――」
先ほどの涙ながらの訴えのことを突かれ、しどろもどろになる美鈴。
そんな姿を一瞥したレミリアは、心なしか口元がゆがんだように見えた。
弁明しようとあたふたとしている美鈴の言葉をさえぎって、レミリアは言葉を続けた。
「美鈴、今夜は人払いをしておいて頂戴。メイドどもはもちろん、パチェやフランもね。 ……少し泣くわ」
「……!」
当主は決して周囲に弱いところを見せる者ではないということは美鈴もよく理解していた。
そして、その例外に該当した人物がいたことも。
「わかりま――」
美鈴は反射的に返事をしようとするが、すぐにはっとして言葉を詰まらせる。
違う
こうじゃない
彼女ならきっとこう返事するだろう
己に背負わされた運命の重さと課された目標の大きさを噛み締めながら、美鈴は静かに、しかし力強く答えた。
「……畏まりました、お嬢様」
ソーサーがテーブルを離れ、さらにカップがソーサーを離れる。
そして、やがてカップが勢いよく指から離れ――
ガシャーン!
食器の割れる音が響き渡る。
当主の間に敷かれた高価そうなじゅうたんには大きなしみができ、その上にはカップや皿だった物の破片が散らばっている。
それらを片付けようとメイドたちがあわてて駆けつける。
「不味いわ」
上座からそうつぶやく声が響く。
その言葉に、駆けつけた一部のメイドたちが代わりを準備しようと給仕室へ向かおうとする。
しかし、その足は次の言葉によってその場に縛り付けられる。
「いらないわ。こんな不味い紅茶しか出てこないのなら」
声の主は険しい表情のまま立ち上がり、部屋を後にしようとする。
その後姿にメイドの一人が恐る恐る声をかける。
「お嬢様、どちらへ……」
「いつからあんたたちは私にものを尋ねられるようになったのかしら……?」
体の心まで凍りつくような冷たい声をはきながら、主がメイドに視線を向ける。
「も、申し訳ございません!」
「……部屋に閉じこもってる役立たず門番を呼んでおきなさい。やつのほうがよっぽどましな付き人でしょうから」
「でも、彼女はあれ以来食事すら……」
再度喋ろうとしたメイドを主は恐ろしい表情でにらみつけ黙らせる。
すくみあがったメイドたちは、主が出て行く後姿をただ見送るしかできなかった。
「さて……と、今日の採点をしてしまおうか」
日もだいぶ傾き、もうじき紅みを増してくるであろう頃。
慧音は寺子屋で集めたわら半紙をトントンとそろえ、朱墨のふたに手をかける。
とそのとき、なにやら外が騒がしくなったことに気づく。
「なんだ……?」
朱墨をおいて玄関に向かい、引き戸を開けようと手を伸ばす。
しかし、その手は空を切り、手の向こう側には珍客が二名並んでいた。
「久しぶりね」
「こんにちは」
一人は女性としても小柄な体に大きな黒い羽、紅魔館当主レミリア・スカーレット。
一人は女性にしては大柄な体に長い赤い髪、紅魔館門番紅 美鈴。
紅魔館の者が人里に下りてくることはそれほど珍しいことではない。
だが、今回は人物、組み合わせ、出没場所、どれをとっても普段とは違う。
そのことに不審に思った里の人間たちが遠巻きにじっと見つめ、ひそひそと話をしている。
「とりあえず中に入ってくれ。立ち話がなんだとかじゃなく、周囲の目が気になる」
周囲の雑音に苛立ったような表情をするレミリアと、その後ろで主に日光が当たらぬよう日傘を掲げている美鈴に慧音は家の中に入るよう促す。
しかし、日傘をたたみ家に入ろうとした美鈴の目の前で、レミリアは左腕を広げて振り返らずに口を開いた。
「あなたは外で待っていなさい」
「は、はい……」
制された美鈴は慣れない手つきで日傘を丸め、後ろに下がる。
よく見るとこの二人も普段と様子がだいぶ違っていた。
レミリアはいつものように威厳のあるように振舞ってはいるが、明らかに声は力なく、顔もやつれている。
美鈴のほうはさらにひどい。目の周りが腫れぼったくなっており、普段の凛とした顔はかけらもなくなっていた。
「ちょっと待っていろ」
その姿に見かねた慧音はそういって奥に引っ込むと、水を絞った手ぬぐいを持ってきて美鈴に差し出す。
「これを目にあてて冷やすといい。その顔で外で待つのは酷だろう」
「あ、ありがとうございま――」
一度は外に出た美鈴が、差し出された手ぬぐいを受け取ろうとして再度中にはいり、おずおずと手を伸ばした。
だが、その動作の鈍重さに業を煮やしたレミリアが美鈴を怒鳴りつけた。
「美鈴! さっさと外に行ってなさい!」
怒鳴りつけられ大慌てで表に飛び出した美鈴を一瞥し、レミリアはピシャリと乱暴に戸を閉めた。
「ずいぶんと酷い扱いだな」
「あんなのが『今の』うちじゃ一番ましだからね。従者として門番よりも役に立たないメイドしかいない。
しかもそのましなのもとろくて気が利かないときたら苛立つのも当然よ」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、レミリアは出された座布団の上にどかっと腰を下ろした。
紅魔館のメイドたちのほとんどは妖精であり、おのおの自分の世話で手一杯という。
そんな中にいては、本来門番である美鈴が借り出されるのも至極当然な流れといえなくもない。
「それで、今日は何用だ? 日が沈むのを待たずにわざわざ来たのには相応の理由があるんだろう」
自分の愚痴でさらに苛立ちそうになるレミリアに、慧音はなるだけおだやかに訊ねた。
「ああ、そうだったわね……」
その問いに愚痴をやめたが、歯切れの悪くなるレミリア。
しばらく視線を泳がせていたが、やがて決心したようにつぶやいた。
「貴女に折り入って相談……と言うか、依頼よ」
「……なるほど。要は歴史を食え、なかったことにしろということか」
「そういうこと。もちろんその手間に見合うだけの報酬は準備するわ」
レミリアは比較的話のわかる妖怪だ。
置かれている立場から周りを見下した態度を取るものの、相手の力量や妥当性をよく考え交渉する。
そのため、からかうことが目的でない真っ当な交渉は、相手がごねでもしない限りすんなりと決まる。
「断る」
「……なんだって?」
レミリアの表情が険しくなる。
相手が実行可能な物事を妥当な報酬で依頼する、つまりそれは相手の視点まで歩み寄る行動である。
彼女のように高貴と自負するものにとって、それを断られることは屈辱以外の何物でもない。
「美味い歴史は嫌いだ。だから食いたくない」
その断られた理由が相手の主観的なものであったならなおさらだ。
「ふざけるな!」
怒鳴るが早いか、レミリアは慧音に飛び掛り床に押し倒した。
慧音は抵抗することもなく床に組み伏せられるが、鋭い視線をレミリアに投げかける。
「そうやってまた自分の思い通りにならないことを目の前から消そうとする気か」
慧音に一喝され一瞬ひるんだレミリアだが、すぐに険しい表情で慧音を睨み返す。
「う……うるさい! うるさい!!」
レミリアは半狂乱になりながら慧音の胸倉を掴みあげる。
食い込んだ爪でリボンが裂ける。
そして、もう一方の腕を振り上げた。
「……殺すのか、私を」
慧音がつぶやいた一言に明らかに動揺するレミリア。
彼女にとって人妖を殺すことなどごく普通の行動のはずだった。
しかし、このときの彼女にとってはそうではなかった。
「感情だけで暴力に走るとは、ずいぶん人間臭くなったものだな」
「くっ……!」
慧音は押し倒されてからずっと、ただ哀れむ表情をしていた。
そのことにようやく気づいたレミリアは、掴んでいた手を離し腕を下ろした。
日ごろのレミリアからは想像のつかない、泣き出しそうな表情で。
「……本来なら個人の私事を覗くようなことはしないんだが、彼女の歴史を見させてもらった。
もし、彼女がお前に出会う前までの歴史を食えというのなら、何もいわずにそうしていただろう」
「……」
「彼女の辛く、苦く、不味い歴史を私はきっと喜んで食べただろう」
床に押し倒されたまま淡々と話す慧音。
馬乗りになったままじっと聞くレミリア。
「だが、その後の歴史を食べたらどうなる? ようやく心を開いた相手から存在を抹殺されたら――」
人間に忌み嫌われていた一人の少女がいた。
その彼女に手を差し伸べたのが、かつてのレミリア・スカーレットだった。
「……そんなこと、わかってるわよ」
暫く黙って聞いていたレミリアがポツリとつぶやく。
「自分勝手なことだって。でも、そうでもしないと押し潰されてしまいそうなのよ。
……ここに来たのはある意味賭け。苦しくて、逃げたくて、でも逃げたくなくて――そんな葛藤を断ち切るためのね」
「……それでも、もし私が了解したとしても、それをとめる最後の良心は準備していたんだな」
慧音の言葉にレミリアははっとして目を見開いた。
慧音の元を訪れる際に、なぜ付き人に彼女を選んだか。
葛藤による重圧や自尊心で自棄になっていて認めたくなかったが、心の底では殴ってでも止めてほしかった。
その心を代弁するかのように、慧音は小声で、レミリアにしか聞こえないような声で話しかけた。
「まったく、素直じゃないんだな。面と向かっていると反対されても反発する……それが主としての振る舞いだとしてもだ。
わざわざ力づくで止めざるをえなくするなんて、卑怯だぞ」
その言葉を最後にまた暫く黙り込む二人。
やがてレミリアはゆっくりと立ち上がり、慧音に背を向け歩き出す。
しかし、その背中は頼りなく、普段以上に小さく見えた。
「帰るわ」
力ない声をひねり出しながら玄関へと向かう。
慧音はようやく自由になった上半身を起こし、その背中に向かって話す。
「彼女は幸せだな」
一瞬、レミリアの足が止まる。
「愛し、慕っていた者達が取り乱すほどに心酔してくれていたんだから」
「……」
レミリアはその言葉に返事をせず、またゆっくりと玄関へ向かう。
肩が、わずかに震えていた。
「後で献花をしに行くよ」
そのままレミリアは静かに引き戸を開けて出て行く。
「私も残す側だ……忘れられるのは……嫌だ」
彼女の出て行った戸を見つめながら、慧音はつぶやいた。
もうすっかり日も落ち、あたりはだいぶ薄暗くなっていた。
来たときにあれだけいた人間も、夕食時で家に帰ったのだろう、あたりに人気はなかった。
「美鈴、帰るわよ」
家から出てきたレミリアが手ぬぐいに顔をうずめて座っている美鈴に声をかける。
顔を上げた彼女は来たときよりも目を腫らしていた。
「お嬢様……っく、すみません、話を盗み聞きして、しまいました」
外でずっと泣いていたのだろう。
手ぬぐいはくしゃくしゃになり、彼女の上着にまでしみを作っていた。
美鈴はレミリアにすがりつき、しゃくり上げが止まらないままの涙声で言葉を続けた。
「私は、いやです、っく……やさんを、忘れたく、ひっく、ないです。
きっと、忘れたら、何も思わなくなるのかも、ひっく、しれませんけど、
いなかったことに、っく、なって、いままでの思い出が、ひっく、全部、嘘に、なかったことに、なるのは、
ひっく、絶対に、いやです……だから、」
「美鈴……」
そういってまた泣き出した美鈴をレミリアはきゅっと抱擁する。
「ごめんね……」
泣いて、泣いて、泣いた。
その間、レミリアはずっと目を閉じて彼女の頭をなでてやっていた。
ひとしきり泣いてようやく落ち着いた美鈴の顔をぬぐってあげる。
「あ、ごめんなさい、お嬢様……」
「いいのよ」
ばつの悪そうにもじもじしている美鈴を尻目に、レミリアは紅魔館に向かって飛び出した。
それを見て美鈴はあわてて後を追いかけて飛んだ。
暫く二人は黙ったまま飛び続けた。
今宵はいつにもまして月や、星や、虫の鳴き声が美しく、夜に吸い込まれそうに感じられた。
いつもよりも長く感じられた道のりを越え、紅魔館がかすかに見え始めたころ、長く続いた沈黙をレミリアが破った。
「それにしても、私に意見した『従者』は二人目ね」
「え、あ、あれは、その――」
先ほどの涙ながらの訴えのことを突かれ、しどろもどろになる美鈴。
そんな姿を一瞥したレミリアは、心なしか口元がゆがんだように見えた。
弁明しようとあたふたとしている美鈴の言葉をさえぎって、レミリアは言葉を続けた。
「美鈴、今夜は人払いをしておいて頂戴。メイドどもはもちろん、パチェやフランもね。 ……少し泣くわ」
「……!」
当主は決して周囲に弱いところを見せる者ではないということは美鈴もよく理解していた。
そして、その例外に該当した人物がいたことも。
「わかりま――」
美鈴は反射的に返事をしようとするが、すぐにはっとして言葉を詰まらせる。
違う
こうじゃない
彼女ならきっとこう返事するだろう
己に背負わされた運命の重さと課された目標の大きさを噛み締めながら、美鈴は静かに、しかし力強く答えた。
「……畏まりました、お嬢様」
彼女たちにとって、かの女性はそこまでの影響を持つ人間なのだろうか。
肯定が帰ってくるとしたら、それはあまりに人間的な反応なのだろうが……。
彼女らは人間ではないが、どうも人間だ。
コメントありがとうございます
あくまで自分の自分の考えですが
直接の影響は一方的に与えるものではなく、相互に与えるもの
かの女性がそこまでの影響を彼女たちに与えているのであれば、
それは彼女たちがかの女性に何かしらの影響を与え、それが跳ね返り強め合ったもの
彼女らは人間以上に人間臭く
妖怪以上に妖怪染みている
それらを区別すること自体が野暮なことなのかもしれない