紅い館がある。
名は紅魔館。その名の通り紅く、魔の棲む異形の館だ。私はあまりこの館を訪れない。純洋風の造りのこの館は、なぜか自分に合わない気がするのだ。今回訪れたのは有る人物に興味を抱いたからにすぎない。
十六夜咲夜。紅魔館のメイド長。時間を操る程度の能力を持つ人間だ。そう、ただの人間。藍を倒し、私を打ち倒したただの人間。幻想郷に来る前の過去を持たない、否、過去を認識できないその経歴と在り方、能力。それらをひっくるめて私はあの人間に興味を持った。ゆえの訪問。お礼参りなどという無粋なことのためにわざわざ隙間を通って訪れたわけではないのだ。
時刻は丑三つ時を少し超えた。幻想郷は深い眠りについている。それは、平穏という名の夜のみに許されたある種の結界だ。紅魔館も静まり返っている。住人のほとんどは、眠りについているに違いない。だが、彼女は起きている筈だ。その確信はあった。
では隙間を開けよう。楽しみはこれからだ。まだまだ夜は長いのだから。
「誰かしら?」
私が彼女の背後に現れたのと彼女がナイフを鼻先に突きつけたのはほぼ同時だった。
「驚いたわねえ。隙間を開く僅かの間に反応するなんて」
微笑みかけて境界に腰掛ける。その行動を見て即座に間を取り、構える咲夜。一瞬のうちに両の手には8本ものナイフが携えられていた。
「何の用かしら? 仕返し?」
「勘違いしないで。そんなに暇じゃないわよ」
「どうかしら。ずっと寝ているくらいだし」
「寝るのに忙しいのよ」
「ものは言いようね……少し、あの狐に同情するわ」
「式神はね……使役されるから式神なのよ。あなたも給仕しなければメイドではない。私は彼女に『役割』を与えているのよ」
「……で、何の用かしら」
あきれたように溜息をついて彼女は構えを解く。それでも、警戒までは解かれていない。彼女が案じているのは住人……主に主の身か。
「話をしに」
「話……ですって?」
「そう、お話。前は弾幕ごっこでろくに話もできなかったじゃない」
「……本気で?」
「本気よ。少し、貴女に興味が沸いたわ。立ち話も何だから貴女も座ったらどう?」
この提案に彼女は少し困ったような顔をしておずおずとベッドに腰掛けた。もっとも、座る際に「ここ、私の部屋なんだけど」と文句を言ってはいたが。
「いきなりだけど……貴女、過去が認識できないんですって?」
「っ! 誰から聞いたの?」
「誰からも。そんなことは瑣末なことでしょう?」
「人の過去のことを瑣末だなんて……無神経すぎると思うけれど」
ここで私は再び微笑みかける。幽々子は私の笑みを「胡散臭いわよ~?」と言ったことがあるが、それでも構わないと思っている。この笑みは、一種の武器だ。胡散臭くても構わない。そも、妖怪とはあやかし、物の怪。怪異の象徴なれば纏う胡散臭さはむしろ妖怪として正しいものであるといえる。この笑みは、相手の心理を軽く揺らすだろう。こと、このような場合においては。
「そうかしら? 貴女はそういう境遇でこそ『貴女』でいられるのに?」
咲夜はなおも平静を装う。
「どういうことかしら?」
そう、『装っている』。
「気付いてない? だとしたらあまりにも滑稽だわ」
何も知らぬように。何も見ぬように。
「さすがは大妖怪。なんでもご存知のようで。教えてくれるかしら?」
それではまるで、
「過去を忘却することで貴女は『十六夜咲夜』でいられるのよ」
『セルフ』が無いではないか――
時は止まる。もちろん、ただの比喩だ。彼女が時を止めているわけではない。
彼女の表情が、息遣いが、生命のリズムが。そのすべてがほんの数秒間ではあるが止まったかのように錯覚を覚えた。
ゆえに読めない。私の知りたかった彼女のこの瞬間の感情の流れを、叫びを。ただ座して待つしかなかった。時が、動き出すことを。
「何を言うかと思えば……わけがわからないわ」
その反応に少しばかり落胆する。人間として当然、平凡な反応だった。ヒトは自らのキャパシティを超えた情報を前にすると思考を放棄する。彼女も例外ではなかったようだ。
「あなたは『十六夜咲夜』以前の記憶がないことを迎合している。その記憶があると、あなたはお嬢様を慕い、お仕えする『十六夜咲夜』になれないからよ」
「迎合……ですって?」
「そう。お嬢様が望む『咲夜』になるためにはいらないのよ、過去は。『咲夜』が描かれたのは真っ白ななキャンパスの筈だった。けれどそれは下にある絵を白く塗りつぶしただけに過ぎない」
記憶がないことは事実なのだろう。そしてそれが思い出せないことも。
『記憶』はなくてはならないものだ。人間にとって『記憶』はその人をその人たらしめるものである。人格というものは、その者が歩んできた過去の行動や発言、思考を参照した結果生み出されるものにすぎない。もちろん、他者がその人格を照合した結果はじめてその者が認識されるのだが、そんなことは問題ではない。何はさておき、自分の中に人格を形成することが第一なのだ。
では『記憶』がなければどうなるのだろう。無論、人格を形成することは出来ない。つまりは、『虚無』である。他者にとってもその者は照合不能となるわけだから認識はされない。つまりは、『孤独』である。
「過去が無いものは本能的にその在り方に恐怖する。だってそうでしょう? 自分がわからない。他者も自分がわからない。自分には何もない。思考のベクトルがない。そんな人は……生きてはいけないでしょう?」
チックタックチックタック。
時計の音だけが響く。やたら大きく響く。柱時計かそれとも彼女の懐中時計か。本来ならば聞き違える筈のないほど大きさに差の有る両者だが、今このときだけはどちらの音なのかわからない。
異質な空地の中、私は今彼女の内面を暴いている。彼女が自覚すらしていない内面を。ひょっとすると、残酷なことかもしれないが、この程度でどうにかなってしまう存在ならば、それまでだ。私は興味が有る。彼女が煩悶の末に何を思い、何に絶望し、何を見出し、何と答えるか。否、そもそも答えを出せるのか。
「そう……あなたが言いたかったのはそういうこと?」
時計の音を破り、紡がれた言葉には絶望や恐怖、驚愕などという感情は篭っていない。
「そんなことを言うためにこんな時間に、わざわざ?」
むしろ感じ取れるのは熱。そう、熱だ。彼女の言葉からは今、確かに熱を感じるのだ。
「そうよ。このためのだけに、このときのために私はここにいる」
胸が高鳴る。この人間は、私が期待したとおりの人間かもしれない――!
「忘却された『貴女』を顧みることもなく! 記憶の虚無におびえることなく! むしろ前向きに、積極的に『咲夜』という人格を塗り込んでいく滑稽さ、力強さ。貴女は一体何を得たのか。それが知りたいわ」
気が付けば声が大きくなっている。さあ、聞かせて頂戴。人間の、その力強い言葉を……
「私が得たものは――」
懐中時計を左手に、銀色に輝くナイフを右手に。強く胸に抱きしめ彼女は、『十六夜咲夜』は言った。
「『咲夜』という時間、そして約束」
「私のすべてはお嬢様に捧げられた『咲夜』という名の時間に過ぎない。それ以上でも、それ以下でもなく。それだけがただ私の存在意義。私の過去が何であろうと関係ないわ。私はすでに『咲夜』であって『咲夜』ではない。お嬢様がお望みならば私が『咲夜』で有る必要もない。けれど今は『咲夜』。この名を語り貫くためならば、自分の過去などいらない。過去のない恐怖よりも、お嬢様のいない恐怖の方が怖いから」
「そして何よりも、約束を守れないことが怖い。『大丈夫。生きている間は一緒にいますから』。この約束を反故してしまうことが何よりも忌むべきことだから――」
「だから私は過去を埋めるの」
チックタックチックタック
時計の音が戻る。まるで彼女が言葉を紡いでいる間、私たち二人だけがこの空間から乖離されたかのように無音であった。
今の咲夜の言葉は結界だ。己という人間のアイデンティティを展開した強固な結界だ。あまりにも強いそれは、私如きがどうにかできるものではなかったようだ。
「ふふ、ふふふふふ……」
零れた笑みはどちらのものだったろう。気付けば私たちは笑みを浮かべていた。きっと私の今の笑みは胡散臭くなどないに違いない。目的を達した私は、ふと、幽々子にに会って見せてやりたくなった。
「ありがとう。とても有意義なひと時だったわ」
「いえいえ。おもてなしもしませんで。好き放題言うだけ言って帰るようなお客様にお出しするものなどないけれど」
「あらあら。随分嫌われたものね。それでは縁があったらまたいずれ」
隙間を閉じていく。開いた空間がぴったりと何もないかのように跡形もなく。完全に閉じ切る前に、涼やかな彼女の声が耳に届いた。
「それではごきげんよう大妖怪・八雲紫。今度紅魔館をご訪問の際は正門をご利用ください」
隙間を開くとそこは白玉楼であった。
紅魔館から白玉楼まで行くのにさほど時間はかからない。ほんの数秒で移動が可能である。
やはり白玉楼も異界である。丑三つ時などとうに過ぎた今も、幽霊たちが幻想的に戯れている。
中央で舞うは白玉楼主人・西行寺幽々子。私の古い友人だ。
月明かりの下、両の手に携えた扇を幽雅に泳がせ、由良由良と流水のように、蝶のように宙に遊ぶ。独特の光を放つ幽霊たちは付かず離れず、彼女の舞に合わせ踊っているかのように付き添っている。数多の霊を従え、神々しく淡く照らされた幽々子の姿はまさに冥界の姫君に相応しい。彼女を祝福するかのようにひらひらと舞う桜の花びらも、彩を加えてくれる。
まさに異形の光景、埒外の美しさ。普通の人間であれば、その幻想と妖気に当てられて卒倒してしまうに違いない。もっとも、文字通りこの世のものではない美を瞼に焼き付けての卒倒ならば得をしたような感じだが。
「あら、紫。こんばんわ」
「こんばんわ、幽々子」
演舞は終わり、幽々子は浮和浮和と私に近づいてきた。それに付随して幽霊も数体すーっとこっちにやってくる。この幽霊たちは別に彼女に命ぜられてそばにいるわけではないが、ときに彼女はそれらを使役することがある。
「月見酒ってわけではなさそうねぇ」
「そうね……もうすでに傾いてしまっているわ」
空を見れば漆黒の中に煌煌と光る大きな月。なるほど、今日は十六夜の月だったのか。すでに南中を過ぎ傾いてしまっている。 十六夜が咲く夜。今日という日はまさにお誂え向きであったようだ。
「十六夜かぁ……もう少しで臥待月ね」
「そうね……臥待は十九夜だから」
「臥待って『不死待』とも書けると思わない?」
「あら、確かにそうね。でも貴女はもうすでに死んでるから待っても仕方がないわよ」
「そんなことないわよ。不老不死の人間を待っている、ということかもしれないじゃない?」
まさか、彼女は蓬莱人のことを言っているのだろうか。幽々子と彼女たちに面識があるとは思えないが。死を操る程度の能力を持つ彼女にとって、不死である蓬莱人は天敵以外の何者でもない。基本的に白玉楼から出ない彼女が積極的に彼女たちに接触するとは思えないのだ。もっとも、幽々子が彼女たちの存在を認識しているかどうかも妖しいのだが。
「妖夢ちゃんは?」
「寝てるわぁ。寝る子は育つって言うからぐっすり寝てもらって育ってもらわないと」
「……大きく育っても食べられないわよ?」
「失礼ね……いくら私でも妖夢は食べないわよ……」
「どうだか?」
縁側に腰掛けて他愛のない会話を楽しむ。まったく変わらない、私と幽々子の時の過ごし方。これからも、この先も。私たちはこの時間に飽くことなどないのだろう。
「ねえ、幽々子」
「なぁに?」
「あなた、生前の記憶、無いのよね」
「……そうねぇ。無いわ」
「それは――」
とても怖いことじゃないか。そう、咲夜に問いかけた言葉を私が発する前に、
「ええ、怖かったわよ」
幽々子は、思考を先読みしたかのようにぽつりと呟いた。
彼女は淡く私に微笑んでいる。怖い、という言葉とは裏腹に、彼女にその暗さはない。なるほど、咲夜に似ているかもしれない。同じような煩悶を乗り越えた者同士、ということだろうか。暢気に見える彼女だが、その過去はとても悲しいものだ。
その言動の長閑さから皆が彼女を天衣無縫だとか、のんびりしているとか言う。確かにそうだが、彼女は実はとても思慮深いのだ。例え付き合いが短くても、それくらいのことは彼女から感じられる。
「紫が何を言いたいかなんて大体わかるわよ~? 他の妖怪や人間はあまりわからないでしょうけど」
「そう……なら私が何を知りたいかわかるわよね」
「もちろん。何でそんなことを知りたいのかわからないけど……ひょっとしたらあのメイドにこの前負けちゃったのが原因かしら?」
「あらあら。本当にお見通しなのね」
彼女は「んー」と考え事をしているようだ。何せ、彼女がこの白玉楼に住み着くようになってから相当に長い。遥か彼方の記憶の発掘作業はそう簡単なことではないのだ。
「怖かったわねぇ。急にここで幽霊の管理人として暮らせとか言われたときは。なんだか自分が死んでるって自覚はなかったし」
「でしょうね」
「それでも私はまだマシよ。『西行寺幽々子』って名前も、西行寺の一人娘ってこともわかってたから」
確かに。自分を表す記号がわかっているのとわからないのとでは雲泥の差だ。だがしかし。中身の無い記号は、ときに大きな障害となる。なまじ記号があるばかりに、咲夜が『咲夜』となったように新しい自分を構築することで自我の空虚さを回避することが出来ないからだ。
「妖忌も、紫も、私を『幽々子』と呼んだ。そして妖夢も」
つまり、幽々子は『幽々子』がどんな者なのか知らないままにその者として振舞うことを強いられたわけだ。それはそれで、とても怖いことだ。妖怪といえど、精神構造の基本は変わらないのだからそれがどれだけ特異でどれだけ精神的に負担になるか想像することはできる。
「でも……私は『幽々子』を作ることが出来る」
「『幽々子』を……作る?」
「そう、作る。生前の私が何であろうと、私が思うがままに生きるのならばそれは『幽々子』になる。あなたたちが私を『幽々子』と呼ぶのならそれはそれで構わない。私の作り出した『幽々子』とあなたたちが描く『幽々子』が違っても構わない。例えそこに不一致があっても――私はこの手を繋ぐことが出来ると信じている」
「あ……」
私の手に、幽々子の手が重なる。
そうだ。確かにそうなのだ。たとえ幽々子が生前の幽々子でなくとも。私はその手を迷わず握ることが出来るはずなのだ。
そうか。幽々子は私たちの絆を信じることで乗り越えたのか。それにしても何という考えだろう。覚えの無い絆を頼るなど……
否、それくらいしか頼れれるものがなかった、のか。
どのみち、幽々子も咲夜と同じく過去が無いことに恐怖を覚えつつもそれぞれの方法で乗り越え、今では歯牙にもかけていない。
過去は問題ではない。恐ろしいのは未来を見失うことだ。『現在』なんてものは幻想で、そんなものはすぐに過去へと姿を変える。つまり私たちは常に少し前の過去を生きていることになる。
掬っても掬っても汲み切れない過去の連鎖。そしてその連鎖の先には未来がある。過去を振り返ってばかりでは、後ろ向きに歩いていることになる。それでは、見えるものも見えなくなるだろう。
無論、二人とも過去を蔑ろにしているわけではあるまい。過去が持つ重要性……すなわち自己の歴史の重みを正しく認識しているはずだ。ただ、二人とも優先順位が違うだけのこと。過去を掘り返しつつ未来を紡ぐ。二兎を追えないならば一兎に集中するのは当然だ。二人とも、選んだ一兎は未来だったのだ。
「まったく……照れるわね」
「私と紫の仲じゃない。今更なにを照れるって言うのよぅ」
きゅっと握られた手。亡霊は体温が低めだと聞くが、そのときの手の温かみはいつまでも忘れることは無いだろう。
空いた手で隙間を開き、とっておきのお酒を取り出した。もちろん、日本酒である。
「それじゃあ……少し遅い月見酒でも楽しみましょうか?」
「あら。気が利くわねぇ。ついでにお猪口も出してくれるかしら」
「……妖夢ちゃんがいないと何も出来ないのね」
「それも、『幽々子』だもの」
にっこりと笑みを向けられて私は何も言うことが出来なかった。もはや、言葉は無粋なものでしかない。
遅れに遅れた春がやってくる。咲き誇る桜はやがて散り、季節はうつろう。巡り巡る季節の中で私は何度も何度も彼女とともに舞い散る桜を肴にお酒を飲むに違いない。そんな未来を楽しみにしながら、私は今という名の過去を過ごしている。
盃に花びらが舞い降りる。膨大な過去の連鎖の中、この花びらの色だけはせめて覚えておきたい――
名は紅魔館。その名の通り紅く、魔の棲む異形の館だ。私はあまりこの館を訪れない。純洋風の造りのこの館は、なぜか自分に合わない気がするのだ。今回訪れたのは有る人物に興味を抱いたからにすぎない。
十六夜咲夜。紅魔館のメイド長。時間を操る程度の能力を持つ人間だ。そう、ただの人間。藍を倒し、私を打ち倒したただの人間。幻想郷に来る前の過去を持たない、否、過去を認識できないその経歴と在り方、能力。それらをひっくるめて私はあの人間に興味を持った。ゆえの訪問。お礼参りなどという無粋なことのためにわざわざ隙間を通って訪れたわけではないのだ。
時刻は丑三つ時を少し超えた。幻想郷は深い眠りについている。それは、平穏という名の夜のみに許されたある種の結界だ。紅魔館も静まり返っている。住人のほとんどは、眠りについているに違いない。だが、彼女は起きている筈だ。その確信はあった。
では隙間を開けよう。楽しみはこれからだ。まだまだ夜は長いのだから。
「誰かしら?」
私が彼女の背後に現れたのと彼女がナイフを鼻先に突きつけたのはほぼ同時だった。
「驚いたわねえ。隙間を開く僅かの間に反応するなんて」
微笑みかけて境界に腰掛ける。その行動を見て即座に間を取り、構える咲夜。一瞬のうちに両の手には8本ものナイフが携えられていた。
「何の用かしら? 仕返し?」
「勘違いしないで。そんなに暇じゃないわよ」
「どうかしら。ずっと寝ているくらいだし」
「寝るのに忙しいのよ」
「ものは言いようね……少し、あの狐に同情するわ」
「式神はね……使役されるから式神なのよ。あなたも給仕しなければメイドではない。私は彼女に『役割』を与えているのよ」
「……で、何の用かしら」
あきれたように溜息をついて彼女は構えを解く。それでも、警戒までは解かれていない。彼女が案じているのは住人……主に主の身か。
「話をしに」
「話……ですって?」
「そう、お話。前は弾幕ごっこでろくに話もできなかったじゃない」
「……本気で?」
「本気よ。少し、貴女に興味が沸いたわ。立ち話も何だから貴女も座ったらどう?」
この提案に彼女は少し困ったような顔をしておずおずとベッドに腰掛けた。もっとも、座る際に「ここ、私の部屋なんだけど」と文句を言ってはいたが。
「いきなりだけど……貴女、過去が認識できないんですって?」
「っ! 誰から聞いたの?」
「誰からも。そんなことは瑣末なことでしょう?」
「人の過去のことを瑣末だなんて……無神経すぎると思うけれど」
ここで私は再び微笑みかける。幽々子は私の笑みを「胡散臭いわよ~?」と言ったことがあるが、それでも構わないと思っている。この笑みは、一種の武器だ。胡散臭くても構わない。そも、妖怪とはあやかし、物の怪。怪異の象徴なれば纏う胡散臭さはむしろ妖怪として正しいものであるといえる。この笑みは、相手の心理を軽く揺らすだろう。こと、このような場合においては。
「そうかしら? 貴女はそういう境遇でこそ『貴女』でいられるのに?」
咲夜はなおも平静を装う。
「どういうことかしら?」
そう、『装っている』。
「気付いてない? だとしたらあまりにも滑稽だわ」
何も知らぬように。何も見ぬように。
「さすがは大妖怪。なんでもご存知のようで。教えてくれるかしら?」
それではまるで、
「過去を忘却することで貴女は『十六夜咲夜』でいられるのよ」
『セルフ』が無いではないか――
時は止まる。もちろん、ただの比喩だ。彼女が時を止めているわけではない。
彼女の表情が、息遣いが、生命のリズムが。そのすべてがほんの数秒間ではあるが止まったかのように錯覚を覚えた。
ゆえに読めない。私の知りたかった彼女のこの瞬間の感情の流れを、叫びを。ただ座して待つしかなかった。時が、動き出すことを。
「何を言うかと思えば……わけがわからないわ」
その反応に少しばかり落胆する。人間として当然、平凡な反応だった。ヒトは自らのキャパシティを超えた情報を前にすると思考を放棄する。彼女も例外ではなかったようだ。
「あなたは『十六夜咲夜』以前の記憶がないことを迎合している。その記憶があると、あなたはお嬢様を慕い、お仕えする『十六夜咲夜』になれないからよ」
「迎合……ですって?」
「そう。お嬢様が望む『咲夜』になるためにはいらないのよ、過去は。『咲夜』が描かれたのは真っ白ななキャンパスの筈だった。けれどそれは下にある絵を白く塗りつぶしただけに過ぎない」
記憶がないことは事実なのだろう。そしてそれが思い出せないことも。
『記憶』はなくてはならないものだ。人間にとって『記憶』はその人をその人たらしめるものである。人格というものは、その者が歩んできた過去の行動や発言、思考を参照した結果生み出されるものにすぎない。もちろん、他者がその人格を照合した結果はじめてその者が認識されるのだが、そんなことは問題ではない。何はさておき、自分の中に人格を形成することが第一なのだ。
では『記憶』がなければどうなるのだろう。無論、人格を形成することは出来ない。つまりは、『虚無』である。他者にとってもその者は照合不能となるわけだから認識はされない。つまりは、『孤独』である。
「過去が無いものは本能的にその在り方に恐怖する。だってそうでしょう? 自分がわからない。他者も自分がわからない。自分には何もない。思考のベクトルがない。そんな人は……生きてはいけないでしょう?」
チックタックチックタック。
時計の音だけが響く。やたら大きく響く。柱時計かそれとも彼女の懐中時計か。本来ならば聞き違える筈のないほど大きさに差の有る両者だが、今このときだけはどちらの音なのかわからない。
異質な空地の中、私は今彼女の内面を暴いている。彼女が自覚すらしていない内面を。ひょっとすると、残酷なことかもしれないが、この程度でどうにかなってしまう存在ならば、それまでだ。私は興味が有る。彼女が煩悶の末に何を思い、何に絶望し、何を見出し、何と答えるか。否、そもそも答えを出せるのか。
「そう……あなたが言いたかったのはそういうこと?」
時計の音を破り、紡がれた言葉には絶望や恐怖、驚愕などという感情は篭っていない。
「そんなことを言うためにこんな時間に、わざわざ?」
むしろ感じ取れるのは熱。そう、熱だ。彼女の言葉からは今、確かに熱を感じるのだ。
「そうよ。このためのだけに、このときのために私はここにいる」
胸が高鳴る。この人間は、私が期待したとおりの人間かもしれない――!
「忘却された『貴女』を顧みることもなく! 記憶の虚無におびえることなく! むしろ前向きに、積極的に『咲夜』という人格を塗り込んでいく滑稽さ、力強さ。貴女は一体何を得たのか。それが知りたいわ」
気が付けば声が大きくなっている。さあ、聞かせて頂戴。人間の、その力強い言葉を……
「私が得たものは――」
懐中時計を左手に、銀色に輝くナイフを右手に。強く胸に抱きしめ彼女は、『十六夜咲夜』は言った。
「『咲夜』という時間、そして約束」
「私のすべてはお嬢様に捧げられた『咲夜』という名の時間に過ぎない。それ以上でも、それ以下でもなく。それだけがただ私の存在意義。私の過去が何であろうと関係ないわ。私はすでに『咲夜』であって『咲夜』ではない。お嬢様がお望みならば私が『咲夜』で有る必要もない。けれど今は『咲夜』。この名を語り貫くためならば、自分の過去などいらない。過去のない恐怖よりも、お嬢様のいない恐怖の方が怖いから」
「そして何よりも、約束を守れないことが怖い。『大丈夫。生きている間は一緒にいますから』。この約束を反故してしまうことが何よりも忌むべきことだから――」
「だから私は過去を埋めるの」
チックタックチックタック
時計の音が戻る。まるで彼女が言葉を紡いでいる間、私たち二人だけがこの空間から乖離されたかのように無音であった。
今の咲夜の言葉は結界だ。己という人間のアイデンティティを展開した強固な結界だ。あまりにも強いそれは、私如きがどうにかできるものではなかったようだ。
「ふふ、ふふふふふ……」
零れた笑みはどちらのものだったろう。気付けば私たちは笑みを浮かべていた。きっと私の今の笑みは胡散臭くなどないに違いない。目的を達した私は、ふと、幽々子にに会って見せてやりたくなった。
「ありがとう。とても有意義なひと時だったわ」
「いえいえ。おもてなしもしませんで。好き放題言うだけ言って帰るようなお客様にお出しするものなどないけれど」
「あらあら。随分嫌われたものね。それでは縁があったらまたいずれ」
隙間を閉じていく。開いた空間がぴったりと何もないかのように跡形もなく。完全に閉じ切る前に、涼やかな彼女の声が耳に届いた。
「それではごきげんよう大妖怪・八雲紫。今度紅魔館をご訪問の際は正門をご利用ください」
隙間を開くとそこは白玉楼であった。
紅魔館から白玉楼まで行くのにさほど時間はかからない。ほんの数秒で移動が可能である。
やはり白玉楼も異界である。丑三つ時などとうに過ぎた今も、幽霊たちが幻想的に戯れている。
中央で舞うは白玉楼主人・西行寺幽々子。私の古い友人だ。
月明かりの下、両の手に携えた扇を幽雅に泳がせ、由良由良と流水のように、蝶のように宙に遊ぶ。独特の光を放つ幽霊たちは付かず離れず、彼女の舞に合わせ踊っているかのように付き添っている。数多の霊を従え、神々しく淡く照らされた幽々子の姿はまさに冥界の姫君に相応しい。彼女を祝福するかのようにひらひらと舞う桜の花びらも、彩を加えてくれる。
まさに異形の光景、埒外の美しさ。普通の人間であれば、その幻想と妖気に当てられて卒倒してしまうに違いない。もっとも、文字通りこの世のものではない美を瞼に焼き付けての卒倒ならば得をしたような感じだが。
「あら、紫。こんばんわ」
「こんばんわ、幽々子」
演舞は終わり、幽々子は浮和浮和と私に近づいてきた。それに付随して幽霊も数体すーっとこっちにやってくる。この幽霊たちは別に彼女に命ぜられてそばにいるわけではないが、ときに彼女はそれらを使役することがある。
「月見酒ってわけではなさそうねぇ」
「そうね……もうすでに傾いてしまっているわ」
空を見れば漆黒の中に煌煌と光る大きな月。なるほど、今日は十六夜の月だったのか。すでに南中を過ぎ傾いてしまっている。 十六夜が咲く夜。今日という日はまさにお誂え向きであったようだ。
「十六夜かぁ……もう少しで臥待月ね」
「そうね……臥待は十九夜だから」
「臥待って『不死待』とも書けると思わない?」
「あら、確かにそうね。でも貴女はもうすでに死んでるから待っても仕方がないわよ」
「そんなことないわよ。不老不死の人間を待っている、ということかもしれないじゃない?」
まさか、彼女は蓬莱人のことを言っているのだろうか。幽々子と彼女たちに面識があるとは思えないが。死を操る程度の能力を持つ彼女にとって、不死である蓬莱人は天敵以外の何者でもない。基本的に白玉楼から出ない彼女が積極的に彼女たちに接触するとは思えないのだ。もっとも、幽々子が彼女たちの存在を認識しているかどうかも妖しいのだが。
「妖夢ちゃんは?」
「寝てるわぁ。寝る子は育つって言うからぐっすり寝てもらって育ってもらわないと」
「……大きく育っても食べられないわよ?」
「失礼ね……いくら私でも妖夢は食べないわよ……」
「どうだか?」
縁側に腰掛けて他愛のない会話を楽しむ。まったく変わらない、私と幽々子の時の過ごし方。これからも、この先も。私たちはこの時間に飽くことなどないのだろう。
「ねえ、幽々子」
「なぁに?」
「あなた、生前の記憶、無いのよね」
「……そうねぇ。無いわ」
「それは――」
とても怖いことじゃないか。そう、咲夜に問いかけた言葉を私が発する前に、
「ええ、怖かったわよ」
幽々子は、思考を先読みしたかのようにぽつりと呟いた。
彼女は淡く私に微笑んでいる。怖い、という言葉とは裏腹に、彼女にその暗さはない。なるほど、咲夜に似ているかもしれない。同じような煩悶を乗り越えた者同士、ということだろうか。暢気に見える彼女だが、その過去はとても悲しいものだ。
その言動の長閑さから皆が彼女を天衣無縫だとか、のんびりしているとか言う。確かにそうだが、彼女は実はとても思慮深いのだ。例え付き合いが短くても、それくらいのことは彼女から感じられる。
「紫が何を言いたいかなんて大体わかるわよ~? 他の妖怪や人間はあまりわからないでしょうけど」
「そう……なら私が何を知りたいかわかるわよね」
「もちろん。何でそんなことを知りたいのかわからないけど……ひょっとしたらあのメイドにこの前負けちゃったのが原因かしら?」
「あらあら。本当にお見通しなのね」
彼女は「んー」と考え事をしているようだ。何せ、彼女がこの白玉楼に住み着くようになってから相当に長い。遥か彼方の記憶の発掘作業はそう簡単なことではないのだ。
「怖かったわねぇ。急にここで幽霊の管理人として暮らせとか言われたときは。なんだか自分が死んでるって自覚はなかったし」
「でしょうね」
「それでも私はまだマシよ。『西行寺幽々子』って名前も、西行寺の一人娘ってこともわかってたから」
確かに。自分を表す記号がわかっているのとわからないのとでは雲泥の差だ。だがしかし。中身の無い記号は、ときに大きな障害となる。なまじ記号があるばかりに、咲夜が『咲夜』となったように新しい自分を構築することで自我の空虚さを回避することが出来ないからだ。
「妖忌も、紫も、私を『幽々子』と呼んだ。そして妖夢も」
つまり、幽々子は『幽々子』がどんな者なのか知らないままにその者として振舞うことを強いられたわけだ。それはそれで、とても怖いことだ。妖怪といえど、精神構造の基本は変わらないのだからそれがどれだけ特異でどれだけ精神的に負担になるか想像することはできる。
「でも……私は『幽々子』を作ることが出来る」
「『幽々子』を……作る?」
「そう、作る。生前の私が何であろうと、私が思うがままに生きるのならばそれは『幽々子』になる。あなたたちが私を『幽々子』と呼ぶのならそれはそれで構わない。私の作り出した『幽々子』とあなたたちが描く『幽々子』が違っても構わない。例えそこに不一致があっても――私はこの手を繋ぐことが出来ると信じている」
「あ……」
私の手に、幽々子の手が重なる。
そうだ。確かにそうなのだ。たとえ幽々子が生前の幽々子でなくとも。私はその手を迷わず握ることが出来るはずなのだ。
そうか。幽々子は私たちの絆を信じることで乗り越えたのか。それにしても何という考えだろう。覚えの無い絆を頼るなど……
否、それくらいしか頼れれるものがなかった、のか。
どのみち、幽々子も咲夜と同じく過去が無いことに恐怖を覚えつつもそれぞれの方法で乗り越え、今では歯牙にもかけていない。
過去は問題ではない。恐ろしいのは未来を見失うことだ。『現在』なんてものは幻想で、そんなものはすぐに過去へと姿を変える。つまり私たちは常に少し前の過去を生きていることになる。
掬っても掬っても汲み切れない過去の連鎖。そしてその連鎖の先には未来がある。過去を振り返ってばかりでは、後ろ向きに歩いていることになる。それでは、見えるものも見えなくなるだろう。
無論、二人とも過去を蔑ろにしているわけではあるまい。過去が持つ重要性……すなわち自己の歴史の重みを正しく認識しているはずだ。ただ、二人とも優先順位が違うだけのこと。過去を掘り返しつつ未来を紡ぐ。二兎を追えないならば一兎に集中するのは当然だ。二人とも、選んだ一兎は未来だったのだ。
「まったく……照れるわね」
「私と紫の仲じゃない。今更なにを照れるって言うのよぅ」
きゅっと握られた手。亡霊は体温が低めだと聞くが、そのときの手の温かみはいつまでも忘れることは無いだろう。
空いた手で隙間を開き、とっておきのお酒を取り出した。もちろん、日本酒である。
「それじゃあ……少し遅い月見酒でも楽しみましょうか?」
「あら。気が利くわねぇ。ついでにお猪口も出してくれるかしら」
「……妖夢ちゃんがいないと何も出来ないのね」
「それも、『幽々子』だもの」
にっこりと笑みを向けられて私は何も言うことが出来なかった。もはや、言葉は無粋なものでしかない。
遅れに遅れた春がやってくる。咲き誇る桜はやがて散り、季節はうつろう。巡り巡る季節の中で私は何度も何度も彼女とともに舞い散る桜を肴にお酒を飲むに違いない。そんな未来を楽しみにしながら、私は今という名の過去を過ごしている。
盃に花びらが舞い降りる。膨大な過去の連鎖の中、この花びらの色だけはせめて覚えておきたい――
ご指摘の通り、かなり冗長になってます。それが自分の癖だと言うことは重々承知なのですがなんとも……
受けは悪いでしょうが、中だるみするでしょうが後味はせめてよく仕上げようとは思っています
書きたいことが多すぎて上手くまとめられませんね……修行が足りません