目に映るのは抜けるような青空で。
鼻につくのは服やら何やらが焦げる嫌な匂いで。
聞こえてくるのは普通の魔法使いの、勝ち誇った笑い声。
もう何度も何度も繰り返されてしまって、そのせいで憶えてしまった予定調和な結末。
かつて天才と呼ばれた私にはあまり似つかわしくないはずのその結末が、何故だろう、嫌いではなかったような気がする。
だからだろうか、この予定調和を私は受け入れてしまっていて、これから先もずっと繰り返されていくのだろうと思い込んでいた。
そんな筈はないとどこかでとっくに気付いていたはずなのに。
まったく。
目に映るのは抜けるような青空で。
鼻につくのは服やら何やらが焦げる嫌な匂いで。
だけど、何も聞こえない。
不思議に思って体を起こせば、魔理沙はこっちを砂でも噛まされたような顔でねめつけていた。
魔理沙のそんな顔を、私は見たことがなかったから、
「どうしたのよ。そんな顔して」
自然そんな言葉が口を衝いて出た。
魔理沙は答えない。
ただ黙って、そのままの表情でこっちをじっと睨み付けるだけ。
まるでそれが答えだとでもいうかのように。
「ねぇホントにどうしたのよ。ただでさえ変な顔が更に変になってるわよ」
不安に駆られて、私は言葉を紡ぐ。
いつものように軽く悪態をついて、それを魔理沙が軽く返してくれるのを期待して。
でも、魔理沙は押し黙ったまま、こちらを睨むだけだ。
怒りすら滲む三白眼に敵意をむき出しにして、納得いかないとでも言いたげな顔。
でも、私には本当に分からない。
何で魔理沙がそんな顔をするのか。
さっきの弾幕ごっこはいつものように魔理沙が勝ったのだ。
負けたのならともかく、勝って何でそんな顔をしなくちゃいけないのか。
私には、分からない。
「おい、アリス」
魔理沙が口を漸く開いてくれる。
でも、その言葉は石のように硬い。
だから、私は石を投げつけられたみたいに一瞬身構えてしまう。
「何よ」
さっきまでの重い空気に耐えかねていた私は、すぐに返事を返す。
いつもの調子で軽く返事が出来たはずだ。
それなのに魔理沙は一瞬顔を歪める。
「お前さ」
魔理沙の言葉は硬いだけじゃなくて、いつもの軽口からは考えられないほど重い。
だから、私は言葉を返さず、頷くだけだ。
いつもと違う魔理沙の様子に戸惑いながら、その言葉を聞き逃さないために。
―――こんなの、魔理沙には似合わないのにな。
言葉を待つ胸の中を、そんな感想がくるくると廻る。
魔理沙はそんな私をじっと見つめる。
ひずんだ空気が時間を歪めたのか、無言の時間はいつまでも続くかのようだった。
その沈黙を破るように、ふっと息を漏した魔理沙は頭を振る。
そして、黒い三角帽を目深にかぶり直して、
「やっぱいい。悪かったな」
と決まりの悪そうな声で告げ、そそくさと踵を返してしまう。
緊張が解け、ぼうっとした私はだから慌てる。
何と声をかければいいか分からないから。
しかし、魔理沙は容赦なくその歩を進めてしまう。
まるでアクセルとブレーキを同時に踏むように、焦りと躊躇いが頭を交錯する。
どうしていいか分からなくて、それでもとりあえずの挨拶をしようと心に決めて。
言葉を紡ぐ唇は、少し乾いているようだった。
「また今度ね」
―――言えた。いつもどおりに。
その事にちょっと嬉しくなる。
これなら魔理沙も―――。
そんな淡い期待は迷惑だと言わんばかりに。
せっかくの言葉に振り向きもせず、魔理沙は箒にまたがり飛んでいってしまった。
そして、とり残される自分はぽつりと一人。
「しゃんはーい」
くいくいと袖に重みを感じる。
見れば、上海人形が洋服の袖を引っ張っていた。
こちらを見上げる、無機質な瞳に映る私は何だかぼやけているみたい。
「そうね、帰りましょうか」
今日はよく晴れているし、ここは草原。
髪や頬をなでる風は初夏の訪れを告げてくる。
洗濯日和と言ってもいい、気持ちのいい陽気だ。
でも―――、
「魔法使いには、似合わないよね」
そう独りごちて、何となく東の空を見上げながら家路へ向かう。
そう言えば魔理沙が飛んでいったのはあっちだったか。
今日の魔理沙はどうしたんだろう。
私、何かしたっけな―――。
結局、頭の中に浮かぶのは、そんなことばかりだった。
鬱蒼と茂る森を行く。
見上げても、あの抜けるような青空は何処にもない。
見えるのは陽光を遮り、闇に濡れる木々たちのみ。
私、何かしたっけな―――。
問いを繰り返しても答えは出ず、ため息。
薄闇の中、木々の幹の隙間をすすと進む。
行けども行けども、代わり映えのしない木々の群れ。
此処が迷いの森と呼ばれるのも良く分かる。
ひどく没個性な木々は、容易に進路を狂わせる。
薄闇は不安を煽り、湿気は気を立たせる。
そして、姿の見えぬあやかしの類がこの森にはぞろぞろといるのだ。
それこそ人を喰らうようなそれも含めて。
無力なものが、この森に入ればおそらく生きては帰れまい。
それは人であろうと無かろうと同じこと。
「ま、私には関係ないんだけど」
そんなことより、魔理沙は本当にどうしたんだろう。
魔理沙が住んでいるのもこの迷いの森なのに、魔理沙が飛んでいったのは東の方。
家に帰ろうというのならば、見当違いの方向。
じゃあ何があったかなと考えると―――さっきから何度もこのことを考えているのに―――胸がずくりと軋む。
東にあるのは、あの神社。
紅白の巫女の住まう、博麗の神社。
気付くと、胸に右手を当てていた。
服を軽く握り締めながら、その先を考えないようにして。
のどの奥で重く、冷たい何かが膨らむ。
雨が降り始めるときのような、黴臭い匂いが鼻を衝き始める。
迷いの森で、迷いが晴れるはずもないのに。
思考は出口を求めて、さ迷い歩く。
そして、辿り着くのはいつだって望まない答え。
「しゃんはーい」
上海人形が心配そうにこちらを下から覗き込んでいた。
「大丈夫よ」
上海人形が心配するなんて、よほど酷い顔をしていたんだろう。
まだまだ未熟だ、私も。
まったく。
「いつからこんなに弱くなったかなぁ、私」
「あら、最初からじゃなくて?」
突然の声にされど一瞬の驚きを越えるものはない。
それもそのはず、その声は私にとって馴染み深いものだったから。
その声の主の前であれば、奇跡すら当然に成り下がる。
いちいち驚いていたのでは、心臓がいくつあっても足りやしない。
「ご挨拶ね、紫」
言いつつ振り返る。
こんなに薄暗い森だというのに、美しいブロンドの髪を隠すように日傘をさした麗人。
どこか中国風のドレスに包んだ肢体は成熟しきっている癖に、あくまで若々しい。
そのちぐはぐな容姿は、しかし蠱惑的で美しい。
それは同性の私ですらぞっとする程だ。
そんな容姿に全くそぐわない嫌らしい笑みを顔に貼りつけているのもまた彼女らしい。
旧知の友人、八雲紫がそこに傲然と存在していた。
こととここととこと人形たちが茶会の準備をしている。
例の紅茶を紫が持ってきてくれたので、早速二人でお茶をすることにしたのだ。
というか、紫が勝手に相伴に預かろうとついてきたのだが。
「この家って落ち着くのよね、五月蝿いけど」
「五月蝿いから落ち着くのよ」
紫を軽くいなすのも慣れたものだ。
昔はいちいち怒ったり、気にしていたりと大変だったっけなとしみじみ思う。
紫は根っからの妖怪なので、行動原理が人間のそれとは全く違うのだ。
だから、元が人間の私からすれば、性格や口が物凄く悪かったり意味不明に感じられたりする。なまじ紫は他の妖怪に比べれば見た目や所作が人間っぽいので、ついつい忘れてしまいがちなのだけれど。
「落ち着くのはアリスが貧乏性だからね」
「この都会派魔法使いを捕まえておいて、貧乏性とは酷い言い草ね」
キッチンから紅茶の香りが漏れ出してくる。
何度嗅いでも飽きない、いい匂いだ。
「だって、人形は全部アリスが動かしているんでしょう?」
紫が机をとつとつと指で鳴らす。
「そうね」
確かに人形たちはそのほとんどを私が動かしている。
魔法の糸を使って動かしているので、こうしてくつろいでいるようでも意外と忙しい。
かといって人形を使わないよりは万倍仕事が捗るのだけど。
ちなみにあの図書館の魔女から、湖面を泳ぐ白鳥みたいと言われたこともある。
まったく。余計なお世話だ。
「全部自分でやらなきゃ落ち着かないのは貧乏性の証拠」
「そうかな」
「そうよ」
「またまた」
「あらあら」
何を話しているんだか。
やれやれ。
あ―――そうだ。言い忘れていた。
「あ、紅茶ありがとね」
「はいはい、どういたしまして」
相手が妖怪でも礼儀は大事だ。
それに実際のところ、『外』から紅茶を持ってくることが出来るのは紫だけなので、本当にありがたい。
「しゃんはーい」
そこにキッチンから飛んできた上海人形がティーポットとカップを二つ運んでくる。
受け取って、紅茶をカップに注ぎ、紫に渡す。勿論自分の分も忘れずに。
紫は受け取ったカップを手で回しながら、しげしげと見つめる。
「いつも思うのだけど、この紅茶おいしいのかしら?」
紫の言う「この紅茶」とは、私の故郷のそれのことだ。
ブクレシュティではコーヒーの陰に隠れがちだが、紅茶もよく飲まれる。
ブクレシュティの茶葉で淹れたものは、幻想郷で普通飲まれているものに比べると若干渋みがあるのが特徴だ。
といっても、どちらも飲み口はまろやかで味は割と似ている。
勿論幻想郷の紅茶が嫌いなわけではないが、たまにこうして飲みたくなる。
だから、そういう時に紫に頼むようにしているのだ。
まぁ、その度に紫がご一緒するのは役得というかお駄賃というか。
「アンタも毎回飲んでるじゃない」
「前回おいしかったからといって、今回おいしいとは限らないわ」
負け惜しみのような事を紫が言うので、つい笑いがこみ上げる。
「それいつも言ってるわね」
「あら、そうだったかしらね」
その笑いにつられたように、紫も笑ってウインク。
紫との茶会は正直に言って楽しい。
一人で飲む紅茶もいいのだけど、みんなでわいわいと茶会をするのはまた格別―――、
そんなことを考えた瞬間、胸が軋んだ。
あの粗暴な魔法使いの顔が、ふと胸に浮かんだからだろう。
それをその瞳に見透かしたのか、紫はふぅと嘆息する。
「紅茶が冷めてしまうわ。おいしく頂きましょう」
紫の勧めも尤もだと私はカップを取る。
立ち上る柔らかい熱気が髪に当たって、こそばゆい。
「そうね」
水面に一度起こった波紋がなかなか消えないのと同じように。
胸に浮かんだ顔や愚にもつかない想像もまたなかなか消えてはくれない。
またのどの奥で重く、冷たい何かが膨らみ始める。
だから、それを紅茶で流し込む。
味なんて分からない。ただ温かい液体がどくっと喉を通っていくだけ。
「ね、だから言ったでしょう?」
またニヤリと口の端を吊り上げて、紫がよく分からないことを言う。
何よ、と私が返すと紫はしたり顔で、
「前回おいしかったからといって、今回おいしいとは限らないのよ」
なんて嘯くのだ。
まったく。紫には敵わないなとつくづく思う。
それからはくだらないことばかりを喋っていた。
じゃあ普段のお前は内容のあることを話しているのかと言われれば、言葉も無いけど。
そういえば、あの魔女に借りたどの本かに「現代の日常における言語はそのほとんどがバラストである」なんて載ってたっけ。
そんなことをどうでもいいのだけど何となく思ってしまう。
でも、くだらない言葉ばかりを話していた方が幸せかもしれないなとも思う。
だって―――、
「アリス。貴女は本気を『出さない』のではなくて『出せない』んでしょう?」
本気の言葉は、鋭いナイフにも成りえるのだから。
「え?」
瞬間紫が何をいったか分からなかった。
紫の話が唐突に飛ぶのはよくあることなので驚きはしない。
ただその言葉があまりに唐突で、何よりも鋭かったから。
紫は扇を閉じたまま口に当て、そのまま話を続ける。
「だから、ね。貴女は本気を『出せない』のよ。分からない?」
「分からないわね」
「嘘」
口に当てられた扇をばらりと開かれ、笑みの浮かんだ口元が隠される。
飄々としたいつもの語気で言葉を紡ぐ紫の姿は私が見慣れたものと何ら変わらない。
そう、いつも通りのはず。
「じゃあ、聞くわ」
でも、今日はいつもと様子が違う。
いつもはなんと言うかもっと茫洋としているのに、今日はやけに刺々しい。
「何で魔理沙に『いつも』負けるのかしら?」
突如放たれる核心の言葉に心が揺らぐ。
趣味の悪い紫のことだ。今回もどこかで一部始終を眺めていたんだろう。
だから、平静を装って私は笑顔を作ってみせる。
「たまたまじゃない?」
「私は『いつも』と言ったのよ」
紫は扇で隠された口元をそれでも分かるほどの笑みに歪める。
背筋を冷たいものがぞくりと駆け上がる。
まるで獲物を見つけたケモノの笑みだったからだろう。
「この世の全と無にはそれなりに意味がある。意味で不満なら根拠がね」
「だから、何よ」
「魔理沙が何で怒ったのか分からないでしょう?」
図星だった。
だからだろう、ついカッとなって私はまくし立てる。
「えぇ分からないわね。私は人の気持ちが簡単に分かると言えるほど傲慢じゃないし」
「ふふ、そうやって誤魔化すのね」
扇が畳まれ、紫のニヤついた笑みが露わになる。
それに苛立ちが一段と暗く燃え上がる。
「紫、私が一体何を誤魔化すっていうの?何を、どうして誤魔化さないといけないの?」
「それが分からないから、魔理沙の気持ちも分からないのよ」
偉そうにと思う一方で、違和感もまた心の中でぶくぶくと膨れ上がる。
それは紫のこんな好戦的な姿を私が見たことが無いからだろう。
紫は狭間の大妖、あくまでも妖怪だ。
だから、彼女の言動にカチンとさせられることはある。
でも、それは人間の行動原理と妖怪のそれに大きな相違があるからで、それさえ忘れなければ決して許せないものではない。
けど、今日の紫は違う。
「じゃあ貴女には分かるっていうの?」
そうじゃなければ、苛立ちと困惑を隠せずにいる私に、
「えぇ。普通は分かるわ。もちろん霊夢にだってね」
こんな容赦のない言葉を投げかけることは無いはずだ。
さっきの一言で結論した。
今日の紫は確信犯だ。
なら、私も遠慮はしない。
「紫、私が本気を出せないか試してみる?」
自分でも驚くほどの冷たい声が出た。
紫が私に喧嘩を売る理由は分からない。
気まぐれな紫のことだ。私が溜め込んだストレスを発散させてあげようとでも思っているのかもしれないし、それこそ単に気まぐれで弾幕ごっこがしたくなったのかもしれない。
でも、私には売られた喧嘩を断る理由も無ければ、義理も無い。
そして、何より私の魔法使いとしての矜持が許さない。
それに―――苛々していたしね、魔理沙のことで。
丁度良い。
「あら、それは楽しみね。食後の運動くらいにはなるかしら?」
紫は意を得たりといった様子だ。嫌な笑顔が明るく咲きなおす。
「えぇ、それは勿論。フルマラソンくらいの運動にはなるわ」
「フルマラソンどころかウォーキングにもならなかったわね。太っちゃいそう」
うつ伏せに倒れた私に、死者を鞭打つような紫の言葉が響く。
無様としか形容できない敗北を喫したばかりの私に、その言葉は正直酷だ。
私の人形はかわされ、受け流され、跳ね返されと紫に触れることすら出来ず。
紫はその魔術の悉くを遠慮なく、容赦なく私に突き刺した。
これを完敗と言わずして何と言えばいいのか。
勿論あれだけの大敗で無事で済むはずはない。
くまなく全身が痛いのが先ほどの戦いの残滓。
その癖、痣になっているようなところが一つもないのが紫らしいというか。
地面から迷いの森独特の、黴臭い匂いが立ちあがってくる。
その匂いにうんざりして、うつ伏せの体をぐるりと仰向けに返す。
見上げる先に空は無く、視界が薄黒い緑に包まれる。
それがまた陰鬱な気分を加速させる。
紫の姿は私の視界には入らない。
ただ気配で頭の先にいることは分かった。
「ねぇ、アリス。分かったでしょう?」
紫はひょいと腰掛けていた境界から飛び降りつつ、私に追い討ちをかけてくる。
諭すような声色は勝者の余裕の表れなのか、どこか明るいものだ。
「ええ、私が弱いという事なら嫌というほどね」
対する私は横たわる体を起こすのも億劫で、ぼんやりと生返事を返す。
自分の声音は聞くに堪えないほど疲れきっていた。
その声に思わず情けなくなる。
「え、」
私の言葉を聞いてだろうか、紫の口から何故か驚きの声が漏れる。
「アリス、貴女それ本気で言っているの?」
そして、すぐさま怒っているような、呆れたような声で私に詰め寄る。
その様子に今日の魔理沙の姿が何故だか重なって。
背筋が冷たい。唇が乾く。心が沈む。
胸に誰かさんの顔が浮かんでは消えた。まるで蜃気楼。
「ねぇ、アリス聞いてるの?具合でも悪いの?」
怒っていたはずの紫の声に不安が混じる。
私を覗き込む紫の顔が視界に入る。
暗いのでよく分からないが、眉根を寄せて、唇を引き結んでいるみたいだ。
それは心配している証拠で。
あぁ、きっとまた私は酷い顔をしているんだろう。
情けないなぁと心底思う。
私、なにをしてるんだろ―――、
「アリス!!!!!」
いつの間にこんなに近づいたのか、紫の大声が耳元からして、驚きに跳ね起きる。
その刹那、全身を痛みが駆け巡る。
「~~~~~~~!!!」
忘れていた。さっき紫にボコボコにされたばかりだった。
視界が眩暈にぐらりと歪み、白んで明滅する。
状態を整えようと自然と心が呼吸に集中する。
すーくーすーくーと呼気の音がやけに大きく響く。
視界が回復するにつれ、痛みは柔らかい痺れに姿を変え、消えていった。
余裕が出来た意識に紫のことが浮かぶ。
だから、すっと紫に視線を向けた。
少し俯いて、唇に閉じた扇子を押し当てていた紫と目が合う。
「大丈夫?急所は外したつもりだったんだけど」
心配そうな紫な声は胸に痛い。
そんな言葉は彼女に似合わない。だからこそ、重い。
「よく言うわ、ボコボコにしたのは貴女じゃない」
そんな彼女を見るのが辛いから、手をひらひらと踊らせて、軽薄にそんなことを言ってのける。必要以上に深刻にならずに済むように。
紫にはへらへらと笑っていて欲しいのだ。
―――それに半分以上負けた私の責任だし。
そんな風に思うのは実は傲慢かもしれないんだけど。
「よく言うわね。試してみるってけしかけてきたのは貴女じゃない」
その意図を紫も汲んでくれたみたいだ。紫の返事は明るかった。
「よく言うわね」
「本当にね」
そうして二人で笑いあう。そこにはもう険悪さも心配もない。
「あーあ、弾幕ごっこしたら喉が渇いたわ。アリス、お茶しましょ?」
敗者は勝者の我侭に付き合うもの。
それが友人なら尚のこと。
漏れたため息はどこか楽しげだった。
とこ・・・こと・・・と台所から物音がするが、普段に比べれば格段に静かだ。
紫は座っていた椅子の背もたれによいしょともたれ掛かる。
そういうとこ年増よねとは思っても口には出さない。
口は災いの元、だ。
「この家が静かだと落ち着かないものね」
「そう?静かだから私は落ち着くけど」
益体もない事を話しながら、お茶を味わう。
静かなのは私がほとんどの人形を動かしてないからだ。
「結局何でもいいのね、貴女」
「そんなこと無いわ。五月蝿いと頭痛までしてきそうなのよね」
呆れた風の紫にここはきちんと反論しておいた。
そもそも人形を使うのを躊躇わせるほど私に攻撃を叩き込んだのは紫だ。
如何に綺麗に攻撃を打ち込まれたとしても、痛いものは痛い。
それが全身ともなれば、その痛みは推して知るべしというかホントに痛い。
だから、準備は自律駆動の上海人形と蓬莱人形だけに任せた。
面倒なのも五月蝿いのも今だけは勘弁してもらいたい。
紫がキッチンに目を向ける。
「アリス、上海人形たちって糸で操ってるの?」
「そうよ。流石に体中痛いからね、慣れたのしか動かしたくないの」
これは嘘だ。
確かに上海人形と蓬莱人形は私と魔法の糸で繋がってはいるが、それは操る事ではなく、魔力で動く上海人形たちの動力補給を目的としている。
確かに操ることは出来るけど、今は自律駆動させている。
如何に自律駆動とはいえ、あのサイズでは動力源を組み込むことは出来なかった。
魔理沙が持っている、魔力増幅器の八卦炉ですら人形と同じサイズなのだから、人形を動かすに足る魔力発生器となるとこれはもうお手上げだった。
そこで考えられた方法は人形自体のサイズアップか私を動力源とするかのどちらか。
結果として後者を選択したのは、第一にコストパフォーマンス、第二に人形が敵対した場合の対処の容易さなどが挙げられる。
そもそも自律人形を考案したのは試作の意味合いが多分に強い。
だから、上海人形には感情を付与したが、蓬莱人形には付与しなかった。
これは戦闘や家事においてどちらが有利に働くか決めかねたからだが、結果どちらも一長一短であったので二つ作った甲斐はあったと感じている。
まぁ何にせよ、私を動力源とした為に魔法の糸で全ての人形たちは繋がった。
この事が多元的な戦闘を可能としたのだが、この事は誰にも多言できない。
これを明らかにすることがあるとすれば、更なる奥の手を用意できた時だけだろう。
「でも、紫。何でそんなこと聴くの?」
「あら、アリス。私も式を使うのよ。人形遣いの話が参考にならないはずないでしょ?」
紫の言うことも尤もだ。
ただ彼女の場合、式神自体の強さが桁外れだから、それほど参考になるとは思えないが。
「ところでアリス、本当に分からないの?」
慣れてはいるのだが、紫の話は唐突に飛ぶからたまについていけない。
「何がよ」
「貴女が本気を『出せない』ってこと」
紫の口元は笑っているが、目が笑っていない。
「さっき出したじゃない」
これは本音だ。
さっきの弾幕ごっこで私は溜まりにたまった不満を爆発させて、紫にぶつけた。
そこに嘘はないし、それは手合わせした紫が一番よく分かるはずなのだが。
「えぇ、さっきの戦いで鬱憤晴らしに夢中だったわね」
「奥歯にものの挟まった言い方ね」
普段の紫を考えるにいつも通りという気がしないでもないが。
「でも、貴女は本気を出していないわ」
紫は自信ありげな顔で紅茶を啜る。
「じゃあ本気を出すって何よ」
私も紅茶に口をつける。温かいので、口に沁みないのは助かる。
今度は気持ちのいい渋みを堪能できた。
「怒りに任せて全力を振り回すこととは違うわね」
先の弾幕ごっこのことを言っているのだろう。
惨敗を喫した私には辛い一言だ。
「ところでアリス。何か好きなものある?」
紫の話が飛ぶのは慣れっこなのだが、今日はいささか飛び過ぎだ。
話が核心の周りをぐるぐると回っているだけで、何が言いたいのか分からない。
「好きなもの?」
脳裏に様々なものが浮かぶ。
人形、お菓子、お茶会―――そこで思考を打ち切る。
どこかの魔法使いの顔が頭に浮かんだからだ。
今日は魔理沙のことばかりを考えている。
「それはいつものことじゃなくて?」
紫の一言に頬が朱に染まる。
「やっぱり」
紫はニヤリと嫌らしく笑う。
「酷いわね、境界をいじったの?」
境界をいじることであらゆる奇跡を起こす紫だ。
そう考えるのが自然―――、
「別に。誰でも見れば分かるわよ」
・・・妖怪の紫にまで見透かされてしまう自分ってどうなんだろう。
そして、あのバカにも見透かされているんじゃないかと思ってまた顔が熱くなる。
まったく。
都会派魔法使いが聞いて呆れるってものだ。
「―――それに境界をいじるのは今からだしね」
「それってどういう、」
と言いかけて、世界が凍りついた。
紫の笑顔が凄絶に歪んだからだ。
その笑みは「狭間の大妖」の異名の意味を瞬時に私に叩き込む。
神すら見下すような、その狂気の笑みは何故か聖母を思い起こさせた。
一刻も早くその笑みから目を離したいのに、いつまでも見守られていたい。
そんな笑みのできる存在が果たして他にいるのだろうか。
私はその笑みに沈み込む。まるで底なし沼みたいに。
そこで、唐突に―――パチリと音がした。
見れば、紫が指を鳴らしたようだ。
「それじゃお暇するわね」
「あぁ、うん。じゃあね」
あの笑顔に魅入られていたからか、頭が上手く廻らない。
だから、返せるのは生返事だけ。
すると紫がおかしなことを言った。
「アリス、私のもう一つの異名、憶えてる?」
―――もう一つの異名?
呆けた意識がその一言を契機に泥沼から浮き上がる。
思考がくるりくるりと廻り、答えを見つけ出す。
刹那、脳髄にアルコールでもぶち込まれたような悪寒が蠢いた。
「これでアリスは本気を出さないわけにいかなくなったわね」
既に紫の姿は見えず、楽しげな声だけが部屋に響く。
「待ちなさい!紫!」
「じゃあね、アリス。またお茶会しましょう。ついでに弾幕ごっこもね」
「待ちなさいったら!」
響き渡ったのは私の引き攣った声だけだ。
もう返事は返ってこない。
焦りと不安に背筋を撫で回されるのに耐えられなくて、私は家を飛び出す。
そして、アイツを探して幻想郷中を走りまわる。
「何をそんなに慌てているんだ」とあのバカが笑ってくれるならどんなに良かったことか。
そんな幸せな希望と裏腹に、幻想郷の風景は私の不安を具現していた。
―――魔理沙がいない。
博麗神社にも、香霖堂にも、紅魔館にも、白玉楼にもその姿はなく、誰も行方を知らない。
勿論霊夢もその例外ではなかった。
そこに僅かでも安堵を憶えた自分が情けないけど、今はそれどころじゃない。
そして、消えてしまったのは一人ではない。紫もまた何処かに姿を消した。
変わらないはずの幻想郷の日常からすっぽりと二人だけが抜け落ちてしまった。
まるで神隠しにでもあったみたいに―――。
今にして思えば、あれは紫からの宣戦布告だったのだ。
だってそうでしょう?
―――「神隠しの主犯」なんて紫以外にはいないんだから。
鼻につくのは服やら何やらが焦げる嫌な匂いで。
聞こえてくるのは普通の魔法使いの、勝ち誇った笑い声。
もう何度も何度も繰り返されてしまって、そのせいで憶えてしまった予定調和な結末。
かつて天才と呼ばれた私にはあまり似つかわしくないはずのその結末が、何故だろう、嫌いではなかったような気がする。
だからだろうか、この予定調和を私は受け入れてしまっていて、これから先もずっと繰り返されていくのだろうと思い込んでいた。
そんな筈はないとどこかでとっくに気付いていたはずなのに。
まったく。
目に映るのは抜けるような青空で。
鼻につくのは服やら何やらが焦げる嫌な匂いで。
だけど、何も聞こえない。
不思議に思って体を起こせば、魔理沙はこっちを砂でも噛まされたような顔でねめつけていた。
魔理沙のそんな顔を、私は見たことがなかったから、
「どうしたのよ。そんな顔して」
自然そんな言葉が口を衝いて出た。
魔理沙は答えない。
ただ黙って、そのままの表情でこっちをじっと睨み付けるだけ。
まるでそれが答えだとでもいうかのように。
「ねぇホントにどうしたのよ。ただでさえ変な顔が更に変になってるわよ」
不安に駆られて、私は言葉を紡ぐ。
いつものように軽く悪態をついて、それを魔理沙が軽く返してくれるのを期待して。
でも、魔理沙は押し黙ったまま、こちらを睨むだけだ。
怒りすら滲む三白眼に敵意をむき出しにして、納得いかないとでも言いたげな顔。
でも、私には本当に分からない。
何で魔理沙がそんな顔をするのか。
さっきの弾幕ごっこはいつものように魔理沙が勝ったのだ。
負けたのならともかく、勝って何でそんな顔をしなくちゃいけないのか。
私には、分からない。
「おい、アリス」
魔理沙が口を漸く開いてくれる。
でも、その言葉は石のように硬い。
だから、私は石を投げつけられたみたいに一瞬身構えてしまう。
「何よ」
さっきまでの重い空気に耐えかねていた私は、すぐに返事を返す。
いつもの調子で軽く返事が出来たはずだ。
それなのに魔理沙は一瞬顔を歪める。
「お前さ」
魔理沙の言葉は硬いだけじゃなくて、いつもの軽口からは考えられないほど重い。
だから、私は言葉を返さず、頷くだけだ。
いつもと違う魔理沙の様子に戸惑いながら、その言葉を聞き逃さないために。
―――こんなの、魔理沙には似合わないのにな。
言葉を待つ胸の中を、そんな感想がくるくると廻る。
魔理沙はそんな私をじっと見つめる。
ひずんだ空気が時間を歪めたのか、無言の時間はいつまでも続くかのようだった。
その沈黙を破るように、ふっと息を漏した魔理沙は頭を振る。
そして、黒い三角帽を目深にかぶり直して、
「やっぱいい。悪かったな」
と決まりの悪そうな声で告げ、そそくさと踵を返してしまう。
緊張が解け、ぼうっとした私はだから慌てる。
何と声をかければいいか分からないから。
しかし、魔理沙は容赦なくその歩を進めてしまう。
まるでアクセルとブレーキを同時に踏むように、焦りと躊躇いが頭を交錯する。
どうしていいか分からなくて、それでもとりあえずの挨拶をしようと心に決めて。
言葉を紡ぐ唇は、少し乾いているようだった。
「また今度ね」
―――言えた。いつもどおりに。
その事にちょっと嬉しくなる。
これなら魔理沙も―――。
そんな淡い期待は迷惑だと言わんばかりに。
せっかくの言葉に振り向きもせず、魔理沙は箒にまたがり飛んでいってしまった。
そして、とり残される自分はぽつりと一人。
「しゃんはーい」
くいくいと袖に重みを感じる。
見れば、上海人形が洋服の袖を引っ張っていた。
こちらを見上げる、無機質な瞳に映る私は何だかぼやけているみたい。
「そうね、帰りましょうか」
今日はよく晴れているし、ここは草原。
髪や頬をなでる風は初夏の訪れを告げてくる。
洗濯日和と言ってもいい、気持ちのいい陽気だ。
でも―――、
「魔法使いには、似合わないよね」
そう独りごちて、何となく東の空を見上げながら家路へ向かう。
そう言えば魔理沙が飛んでいったのはあっちだったか。
今日の魔理沙はどうしたんだろう。
私、何かしたっけな―――。
結局、頭の中に浮かぶのは、そんなことばかりだった。
鬱蒼と茂る森を行く。
見上げても、あの抜けるような青空は何処にもない。
見えるのは陽光を遮り、闇に濡れる木々たちのみ。
私、何かしたっけな―――。
問いを繰り返しても答えは出ず、ため息。
薄闇の中、木々の幹の隙間をすすと進む。
行けども行けども、代わり映えのしない木々の群れ。
此処が迷いの森と呼ばれるのも良く分かる。
ひどく没個性な木々は、容易に進路を狂わせる。
薄闇は不安を煽り、湿気は気を立たせる。
そして、姿の見えぬあやかしの類がこの森にはぞろぞろといるのだ。
それこそ人を喰らうようなそれも含めて。
無力なものが、この森に入ればおそらく生きては帰れまい。
それは人であろうと無かろうと同じこと。
「ま、私には関係ないんだけど」
そんなことより、魔理沙は本当にどうしたんだろう。
魔理沙が住んでいるのもこの迷いの森なのに、魔理沙が飛んでいったのは東の方。
家に帰ろうというのならば、見当違いの方向。
じゃあ何があったかなと考えると―――さっきから何度もこのことを考えているのに―――胸がずくりと軋む。
東にあるのは、あの神社。
紅白の巫女の住まう、博麗の神社。
気付くと、胸に右手を当てていた。
服を軽く握り締めながら、その先を考えないようにして。
のどの奥で重く、冷たい何かが膨らむ。
雨が降り始めるときのような、黴臭い匂いが鼻を衝き始める。
迷いの森で、迷いが晴れるはずもないのに。
思考は出口を求めて、さ迷い歩く。
そして、辿り着くのはいつだって望まない答え。
「しゃんはーい」
上海人形が心配そうにこちらを下から覗き込んでいた。
「大丈夫よ」
上海人形が心配するなんて、よほど酷い顔をしていたんだろう。
まだまだ未熟だ、私も。
まったく。
「いつからこんなに弱くなったかなぁ、私」
「あら、最初からじゃなくて?」
突然の声にされど一瞬の驚きを越えるものはない。
それもそのはず、その声は私にとって馴染み深いものだったから。
その声の主の前であれば、奇跡すら当然に成り下がる。
いちいち驚いていたのでは、心臓がいくつあっても足りやしない。
「ご挨拶ね、紫」
言いつつ振り返る。
こんなに薄暗い森だというのに、美しいブロンドの髪を隠すように日傘をさした麗人。
どこか中国風のドレスに包んだ肢体は成熟しきっている癖に、あくまで若々しい。
そのちぐはぐな容姿は、しかし蠱惑的で美しい。
それは同性の私ですらぞっとする程だ。
そんな容姿に全くそぐわない嫌らしい笑みを顔に貼りつけているのもまた彼女らしい。
旧知の友人、八雲紫がそこに傲然と存在していた。
こととここととこと人形たちが茶会の準備をしている。
例の紅茶を紫が持ってきてくれたので、早速二人でお茶をすることにしたのだ。
というか、紫が勝手に相伴に預かろうとついてきたのだが。
「この家って落ち着くのよね、五月蝿いけど」
「五月蝿いから落ち着くのよ」
紫を軽くいなすのも慣れたものだ。
昔はいちいち怒ったり、気にしていたりと大変だったっけなとしみじみ思う。
紫は根っからの妖怪なので、行動原理が人間のそれとは全く違うのだ。
だから、元が人間の私からすれば、性格や口が物凄く悪かったり意味不明に感じられたりする。なまじ紫は他の妖怪に比べれば見た目や所作が人間っぽいので、ついつい忘れてしまいがちなのだけれど。
「落ち着くのはアリスが貧乏性だからね」
「この都会派魔法使いを捕まえておいて、貧乏性とは酷い言い草ね」
キッチンから紅茶の香りが漏れ出してくる。
何度嗅いでも飽きない、いい匂いだ。
「だって、人形は全部アリスが動かしているんでしょう?」
紫が机をとつとつと指で鳴らす。
「そうね」
確かに人形たちはそのほとんどを私が動かしている。
魔法の糸を使って動かしているので、こうしてくつろいでいるようでも意外と忙しい。
かといって人形を使わないよりは万倍仕事が捗るのだけど。
ちなみにあの図書館の魔女から、湖面を泳ぐ白鳥みたいと言われたこともある。
まったく。余計なお世話だ。
「全部自分でやらなきゃ落ち着かないのは貧乏性の証拠」
「そうかな」
「そうよ」
「またまた」
「あらあら」
何を話しているんだか。
やれやれ。
あ―――そうだ。言い忘れていた。
「あ、紅茶ありがとね」
「はいはい、どういたしまして」
相手が妖怪でも礼儀は大事だ。
それに実際のところ、『外』から紅茶を持ってくることが出来るのは紫だけなので、本当にありがたい。
「しゃんはーい」
そこにキッチンから飛んできた上海人形がティーポットとカップを二つ運んでくる。
受け取って、紅茶をカップに注ぎ、紫に渡す。勿論自分の分も忘れずに。
紫は受け取ったカップを手で回しながら、しげしげと見つめる。
「いつも思うのだけど、この紅茶おいしいのかしら?」
紫の言う「この紅茶」とは、私の故郷のそれのことだ。
ブクレシュティではコーヒーの陰に隠れがちだが、紅茶もよく飲まれる。
ブクレシュティの茶葉で淹れたものは、幻想郷で普通飲まれているものに比べると若干渋みがあるのが特徴だ。
といっても、どちらも飲み口はまろやかで味は割と似ている。
勿論幻想郷の紅茶が嫌いなわけではないが、たまにこうして飲みたくなる。
だから、そういう時に紫に頼むようにしているのだ。
まぁ、その度に紫がご一緒するのは役得というかお駄賃というか。
「アンタも毎回飲んでるじゃない」
「前回おいしかったからといって、今回おいしいとは限らないわ」
負け惜しみのような事を紫が言うので、つい笑いがこみ上げる。
「それいつも言ってるわね」
「あら、そうだったかしらね」
その笑いにつられたように、紫も笑ってウインク。
紫との茶会は正直に言って楽しい。
一人で飲む紅茶もいいのだけど、みんなでわいわいと茶会をするのはまた格別―――、
そんなことを考えた瞬間、胸が軋んだ。
あの粗暴な魔法使いの顔が、ふと胸に浮かんだからだろう。
それをその瞳に見透かしたのか、紫はふぅと嘆息する。
「紅茶が冷めてしまうわ。おいしく頂きましょう」
紫の勧めも尤もだと私はカップを取る。
立ち上る柔らかい熱気が髪に当たって、こそばゆい。
「そうね」
水面に一度起こった波紋がなかなか消えないのと同じように。
胸に浮かんだ顔や愚にもつかない想像もまたなかなか消えてはくれない。
またのどの奥で重く、冷たい何かが膨らみ始める。
だから、それを紅茶で流し込む。
味なんて分からない。ただ温かい液体がどくっと喉を通っていくだけ。
「ね、だから言ったでしょう?」
またニヤリと口の端を吊り上げて、紫がよく分からないことを言う。
何よ、と私が返すと紫はしたり顔で、
「前回おいしかったからといって、今回おいしいとは限らないのよ」
なんて嘯くのだ。
まったく。紫には敵わないなとつくづく思う。
それからはくだらないことばかりを喋っていた。
じゃあ普段のお前は内容のあることを話しているのかと言われれば、言葉も無いけど。
そういえば、あの魔女に借りたどの本かに「現代の日常における言語はそのほとんどがバラストである」なんて載ってたっけ。
そんなことをどうでもいいのだけど何となく思ってしまう。
でも、くだらない言葉ばかりを話していた方が幸せかもしれないなとも思う。
だって―――、
「アリス。貴女は本気を『出さない』のではなくて『出せない』んでしょう?」
本気の言葉は、鋭いナイフにも成りえるのだから。
「え?」
瞬間紫が何をいったか分からなかった。
紫の話が唐突に飛ぶのはよくあることなので驚きはしない。
ただその言葉があまりに唐突で、何よりも鋭かったから。
紫は扇を閉じたまま口に当て、そのまま話を続ける。
「だから、ね。貴女は本気を『出せない』のよ。分からない?」
「分からないわね」
「嘘」
口に当てられた扇をばらりと開かれ、笑みの浮かんだ口元が隠される。
飄々としたいつもの語気で言葉を紡ぐ紫の姿は私が見慣れたものと何ら変わらない。
そう、いつも通りのはず。
「じゃあ、聞くわ」
でも、今日はいつもと様子が違う。
いつもはなんと言うかもっと茫洋としているのに、今日はやけに刺々しい。
「何で魔理沙に『いつも』負けるのかしら?」
突如放たれる核心の言葉に心が揺らぐ。
趣味の悪い紫のことだ。今回もどこかで一部始終を眺めていたんだろう。
だから、平静を装って私は笑顔を作ってみせる。
「たまたまじゃない?」
「私は『いつも』と言ったのよ」
紫は扇で隠された口元をそれでも分かるほどの笑みに歪める。
背筋を冷たいものがぞくりと駆け上がる。
まるで獲物を見つけたケモノの笑みだったからだろう。
「この世の全と無にはそれなりに意味がある。意味で不満なら根拠がね」
「だから、何よ」
「魔理沙が何で怒ったのか分からないでしょう?」
図星だった。
だからだろう、ついカッとなって私はまくし立てる。
「えぇ分からないわね。私は人の気持ちが簡単に分かると言えるほど傲慢じゃないし」
「ふふ、そうやって誤魔化すのね」
扇が畳まれ、紫のニヤついた笑みが露わになる。
それに苛立ちが一段と暗く燃え上がる。
「紫、私が一体何を誤魔化すっていうの?何を、どうして誤魔化さないといけないの?」
「それが分からないから、魔理沙の気持ちも分からないのよ」
偉そうにと思う一方で、違和感もまた心の中でぶくぶくと膨れ上がる。
それは紫のこんな好戦的な姿を私が見たことが無いからだろう。
紫は狭間の大妖、あくまでも妖怪だ。
だから、彼女の言動にカチンとさせられることはある。
でも、それは人間の行動原理と妖怪のそれに大きな相違があるからで、それさえ忘れなければ決して許せないものではない。
けど、今日の紫は違う。
「じゃあ貴女には分かるっていうの?」
そうじゃなければ、苛立ちと困惑を隠せずにいる私に、
「えぇ。普通は分かるわ。もちろん霊夢にだってね」
こんな容赦のない言葉を投げかけることは無いはずだ。
さっきの一言で結論した。
今日の紫は確信犯だ。
なら、私も遠慮はしない。
「紫、私が本気を出せないか試してみる?」
自分でも驚くほどの冷たい声が出た。
紫が私に喧嘩を売る理由は分からない。
気まぐれな紫のことだ。私が溜め込んだストレスを発散させてあげようとでも思っているのかもしれないし、それこそ単に気まぐれで弾幕ごっこがしたくなったのかもしれない。
でも、私には売られた喧嘩を断る理由も無ければ、義理も無い。
そして、何より私の魔法使いとしての矜持が許さない。
それに―――苛々していたしね、魔理沙のことで。
丁度良い。
「あら、それは楽しみね。食後の運動くらいにはなるかしら?」
紫は意を得たりといった様子だ。嫌な笑顔が明るく咲きなおす。
「えぇ、それは勿論。フルマラソンくらいの運動にはなるわ」
「フルマラソンどころかウォーキングにもならなかったわね。太っちゃいそう」
うつ伏せに倒れた私に、死者を鞭打つような紫の言葉が響く。
無様としか形容できない敗北を喫したばかりの私に、その言葉は正直酷だ。
私の人形はかわされ、受け流され、跳ね返されと紫に触れることすら出来ず。
紫はその魔術の悉くを遠慮なく、容赦なく私に突き刺した。
これを完敗と言わずして何と言えばいいのか。
勿論あれだけの大敗で無事で済むはずはない。
くまなく全身が痛いのが先ほどの戦いの残滓。
その癖、痣になっているようなところが一つもないのが紫らしいというか。
地面から迷いの森独特の、黴臭い匂いが立ちあがってくる。
その匂いにうんざりして、うつ伏せの体をぐるりと仰向けに返す。
見上げる先に空は無く、視界が薄黒い緑に包まれる。
それがまた陰鬱な気分を加速させる。
紫の姿は私の視界には入らない。
ただ気配で頭の先にいることは分かった。
「ねぇ、アリス。分かったでしょう?」
紫はひょいと腰掛けていた境界から飛び降りつつ、私に追い討ちをかけてくる。
諭すような声色は勝者の余裕の表れなのか、どこか明るいものだ。
「ええ、私が弱いという事なら嫌というほどね」
対する私は横たわる体を起こすのも億劫で、ぼんやりと生返事を返す。
自分の声音は聞くに堪えないほど疲れきっていた。
その声に思わず情けなくなる。
「え、」
私の言葉を聞いてだろうか、紫の口から何故か驚きの声が漏れる。
「アリス、貴女それ本気で言っているの?」
そして、すぐさま怒っているような、呆れたような声で私に詰め寄る。
その様子に今日の魔理沙の姿が何故だか重なって。
背筋が冷たい。唇が乾く。心が沈む。
胸に誰かさんの顔が浮かんでは消えた。まるで蜃気楼。
「ねぇ、アリス聞いてるの?具合でも悪いの?」
怒っていたはずの紫の声に不安が混じる。
私を覗き込む紫の顔が視界に入る。
暗いのでよく分からないが、眉根を寄せて、唇を引き結んでいるみたいだ。
それは心配している証拠で。
あぁ、きっとまた私は酷い顔をしているんだろう。
情けないなぁと心底思う。
私、なにをしてるんだろ―――、
「アリス!!!!!」
いつの間にこんなに近づいたのか、紫の大声が耳元からして、驚きに跳ね起きる。
その刹那、全身を痛みが駆け巡る。
「~~~~~~~!!!」
忘れていた。さっき紫にボコボコにされたばかりだった。
視界が眩暈にぐらりと歪み、白んで明滅する。
状態を整えようと自然と心が呼吸に集中する。
すーくーすーくーと呼気の音がやけに大きく響く。
視界が回復するにつれ、痛みは柔らかい痺れに姿を変え、消えていった。
余裕が出来た意識に紫のことが浮かぶ。
だから、すっと紫に視線を向けた。
少し俯いて、唇に閉じた扇子を押し当てていた紫と目が合う。
「大丈夫?急所は外したつもりだったんだけど」
心配そうな紫な声は胸に痛い。
そんな言葉は彼女に似合わない。だからこそ、重い。
「よく言うわ、ボコボコにしたのは貴女じゃない」
そんな彼女を見るのが辛いから、手をひらひらと踊らせて、軽薄にそんなことを言ってのける。必要以上に深刻にならずに済むように。
紫にはへらへらと笑っていて欲しいのだ。
―――それに半分以上負けた私の責任だし。
そんな風に思うのは実は傲慢かもしれないんだけど。
「よく言うわね。試してみるってけしかけてきたのは貴女じゃない」
その意図を紫も汲んでくれたみたいだ。紫の返事は明るかった。
「よく言うわね」
「本当にね」
そうして二人で笑いあう。そこにはもう険悪さも心配もない。
「あーあ、弾幕ごっこしたら喉が渇いたわ。アリス、お茶しましょ?」
敗者は勝者の我侭に付き合うもの。
それが友人なら尚のこと。
漏れたため息はどこか楽しげだった。
とこ・・・こと・・・と台所から物音がするが、普段に比べれば格段に静かだ。
紫は座っていた椅子の背もたれによいしょともたれ掛かる。
そういうとこ年増よねとは思っても口には出さない。
口は災いの元、だ。
「この家が静かだと落ち着かないものね」
「そう?静かだから私は落ち着くけど」
益体もない事を話しながら、お茶を味わう。
静かなのは私がほとんどの人形を動かしてないからだ。
「結局何でもいいのね、貴女」
「そんなこと無いわ。五月蝿いと頭痛までしてきそうなのよね」
呆れた風の紫にここはきちんと反論しておいた。
そもそも人形を使うのを躊躇わせるほど私に攻撃を叩き込んだのは紫だ。
如何に綺麗に攻撃を打ち込まれたとしても、痛いものは痛い。
それが全身ともなれば、その痛みは推して知るべしというかホントに痛い。
だから、準備は自律駆動の上海人形と蓬莱人形だけに任せた。
面倒なのも五月蝿いのも今だけは勘弁してもらいたい。
紫がキッチンに目を向ける。
「アリス、上海人形たちって糸で操ってるの?」
「そうよ。流石に体中痛いからね、慣れたのしか動かしたくないの」
これは嘘だ。
確かに上海人形と蓬莱人形は私と魔法の糸で繋がってはいるが、それは操る事ではなく、魔力で動く上海人形たちの動力補給を目的としている。
確かに操ることは出来るけど、今は自律駆動させている。
如何に自律駆動とはいえ、あのサイズでは動力源を組み込むことは出来なかった。
魔理沙が持っている、魔力増幅器の八卦炉ですら人形と同じサイズなのだから、人形を動かすに足る魔力発生器となるとこれはもうお手上げだった。
そこで考えられた方法は人形自体のサイズアップか私を動力源とするかのどちらか。
結果として後者を選択したのは、第一にコストパフォーマンス、第二に人形が敵対した場合の対処の容易さなどが挙げられる。
そもそも自律人形を考案したのは試作の意味合いが多分に強い。
だから、上海人形には感情を付与したが、蓬莱人形には付与しなかった。
これは戦闘や家事においてどちらが有利に働くか決めかねたからだが、結果どちらも一長一短であったので二つ作った甲斐はあったと感じている。
まぁ何にせよ、私を動力源とした為に魔法の糸で全ての人形たちは繋がった。
この事が多元的な戦闘を可能としたのだが、この事は誰にも多言できない。
これを明らかにすることがあるとすれば、更なる奥の手を用意できた時だけだろう。
「でも、紫。何でそんなこと聴くの?」
「あら、アリス。私も式を使うのよ。人形遣いの話が参考にならないはずないでしょ?」
紫の言うことも尤もだ。
ただ彼女の場合、式神自体の強さが桁外れだから、それほど参考になるとは思えないが。
「ところでアリス、本当に分からないの?」
慣れてはいるのだが、紫の話は唐突に飛ぶからたまについていけない。
「何がよ」
「貴女が本気を『出せない』ってこと」
紫の口元は笑っているが、目が笑っていない。
「さっき出したじゃない」
これは本音だ。
さっきの弾幕ごっこで私は溜まりにたまった不満を爆発させて、紫にぶつけた。
そこに嘘はないし、それは手合わせした紫が一番よく分かるはずなのだが。
「えぇ、さっきの戦いで鬱憤晴らしに夢中だったわね」
「奥歯にものの挟まった言い方ね」
普段の紫を考えるにいつも通りという気がしないでもないが。
「でも、貴女は本気を出していないわ」
紫は自信ありげな顔で紅茶を啜る。
「じゃあ本気を出すって何よ」
私も紅茶に口をつける。温かいので、口に沁みないのは助かる。
今度は気持ちのいい渋みを堪能できた。
「怒りに任せて全力を振り回すこととは違うわね」
先の弾幕ごっこのことを言っているのだろう。
惨敗を喫した私には辛い一言だ。
「ところでアリス。何か好きなものある?」
紫の話が飛ぶのは慣れっこなのだが、今日はいささか飛び過ぎだ。
話が核心の周りをぐるぐると回っているだけで、何が言いたいのか分からない。
「好きなもの?」
脳裏に様々なものが浮かぶ。
人形、お菓子、お茶会―――そこで思考を打ち切る。
どこかの魔法使いの顔が頭に浮かんだからだ。
今日は魔理沙のことばかりを考えている。
「それはいつものことじゃなくて?」
紫の一言に頬が朱に染まる。
「やっぱり」
紫はニヤリと嫌らしく笑う。
「酷いわね、境界をいじったの?」
境界をいじることであらゆる奇跡を起こす紫だ。
そう考えるのが自然―――、
「別に。誰でも見れば分かるわよ」
・・・妖怪の紫にまで見透かされてしまう自分ってどうなんだろう。
そして、あのバカにも見透かされているんじゃないかと思ってまた顔が熱くなる。
まったく。
都会派魔法使いが聞いて呆れるってものだ。
「―――それに境界をいじるのは今からだしね」
「それってどういう、」
と言いかけて、世界が凍りついた。
紫の笑顔が凄絶に歪んだからだ。
その笑みは「狭間の大妖」の異名の意味を瞬時に私に叩き込む。
神すら見下すような、その狂気の笑みは何故か聖母を思い起こさせた。
一刻も早くその笑みから目を離したいのに、いつまでも見守られていたい。
そんな笑みのできる存在が果たして他にいるのだろうか。
私はその笑みに沈み込む。まるで底なし沼みたいに。
そこで、唐突に―――パチリと音がした。
見れば、紫が指を鳴らしたようだ。
「それじゃお暇するわね」
「あぁ、うん。じゃあね」
あの笑顔に魅入られていたからか、頭が上手く廻らない。
だから、返せるのは生返事だけ。
すると紫がおかしなことを言った。
「アリス、私のもう一つの異名、憶えてる?」
―――もう一つの異名?
呆けた意識がその一言を契機に泥沼から浮き上がる。
思考がくるりくるりと廻り、答えを見つけ出す。
刹那、脳髄にアルコールでもぶち込まれたような悪寒が蠢いた。
「これでアリスは本気を出さないわけにいかなくなったわね」
既に紫の姿は見えず、楽しげな声だけが部屋に響く。
「待ちなさい!紫!」
「じゃあね、アリス。またお茶会しましょう。ついでに弾幕ごっこもね」
「待ちなさいったら!」
響き渡ったのは私の引き攣った声だけだ。
もう返事は返ってこない。
焦りと不安に背筋を撫で回されるのに耐えられなくて、私は家を飛び出す。
そして、アイツを探して幻想郷中を走りまわる。
「何をそんなに慌てているんだ」とあのバカが笑ってくれるならどんなに良かったことか。
そんな幸せな希望と裏腹に、幻想郷の風景は私の不安を具現していた。
―――魔理沙がいない。
博麗神社にも、香霖堂にも、紅魔館にも、白玉楼にもその姿はなく、誰も行方を知らない。
勿論霊夢もその例外ではなかった。
そこに僅かでも安堵を憶えた自分が情けないけど、今はそれどころじゃない。
そして、消えてしまったのは一人ではない。紫もまた何処かに姿を消した。
変わらないはずの幻想郷の日常からすっぽりと二人だけが抜け落ちてしまった。
まるで神隠しにでもあったみたいに―――。
今にして思えば、あれは紫からの宣戦布告だったのだ。
だってそうでしょう?
―――「神隠しの主犯」なんて紫以外にはいないんだから。