夜が止まってからもうずいぶん経つ。
まだ月は取り戻せないのだろうか、と頭の片隅で思いつつ、パチュリー・ノーレッジは大図書館内部の自身の部屋で本を読みふけっていた。
ページをめくる手は早く、分厚い本の残りページがみるみる少なくなっていく。
隣にはすでに読み終えた本が、逆隣にはこれから読もうと思っている本が、うずたかく積み上がっていた。
小悪魔は隣にはいない。実を言うと、もう自分の部屋で寝ていたりする。彼女はどうにも早寝早起きが信条らしく、仮にも悪魔としてそれはどうなのか、悪魔とはもっと堕落したものではないのか、とパチュリーに突っ込まれたほどだった。
ただしその後、パチュリー様も飲まず食わず眠らず本ばかり読みまくりの不健康な生活を少しは改めて下さい、ますます喘息が悪化します、と逆に説教された。
ともかくして、今はパチュリー一人しかここにはいない。
しん、とした静寂が部屋を覆う。響いているのは、ページをめくる際に起こる紙の擦れる音のみ。
静寂。
この世でパチュリーが本の次に好きなものの一つ。たまに魔理沙なんかが来たりして騒がしいのも嫌いではないが、やはり、本を読むにあたってはこうでないといけない。集中できるし、何も気にせず本の中の世界に浸れるからだ。
パチュリーは本を読むことと共に、静寂を愛していた。
だが、静寂というのは破られるのが定石である。
コンコン、とこの部屋唯一の扉がノックされた。
「小悪魔、出てちょうだい」
しかし、何も反応はない。
コンコン、とノックは続く。
「小悪魔? どうしたの、早く出なさ……ああ、そっか」
そういえばそうだったと、小悪魔はすでに寝ていることを思い出し、パチュリーは本に栞をはさみ、重い腰を上げ仕方なく扉に向かった。
ごんごん、とノックの音が強くなった。
「もう……誰なのよ。まさか魔理沙じゃないでしょうね」
呟いてから、いやそんなことはありえない、とパチュリーは首を振った。魔理沙ならノックなんて瀟酒な真似はせず、ずかずか入ってきて「おっすパチュリー本もらいにきたぜー」とかいった感じで挨拶するに決まっているからだ。
どんどんどんどん、と連打。どうやらいらだってきているらしい。
「ああもう、今開けるわよ」
パチュリーは扉を開け、外の相手を確認する。
そこにいたのは、妖精が一人。
服装からして、わりとよく見る妖精メイドではない。なら門番隊のほうだろうと、パチュリーは当たりをつけた。
服と手が血で汚れていたことが少し気になったが(当然のごとく扉も血で汚れてしまっていた)、門番隊であるようだし、まあ妖怪でも倒した時の返り血だろう。
「……何の用?」
パチュリーは妖精に向かって聞いた。
だが、妖精は何も言わず、パチュリーの手を無理矢理引っ張った。手の血はまだ乾いてないらしく、ぬるりといやな感触がした。
「あ、ちょ、ちょっと?」
されるがまま、パチュリーは引っ張られた。
そういえば、と一つ奇妙なことに気付いた。
何故、門番隊がここにいるのか、ということだ。
基本的に門番隊は館の中に入らない。というか門番隊が門番を離れては本末転倒だろう。門番隊は基本的に外で過ごし、眠る時も専用の宿舎が別にある。
何か館の方に用があるにしても、その時は必ず美鈴を通すはずだ。彼女は門番隊の隊長、妖精と比べるまでもなく力があるからだ。それはもう、いろいろな意味で。
しかし、考えても理由はわからず、パチュリーはなされるがまま手を引かれ続けた。
着いた場所は大図書館の入口。そこには他にも何人かの妖精がいた。門番隊だけでなく、妖精メイドも混ざっている。
全員、何かを囲んでいる。
そして、パチュリーは皆が囲むそれを見た。
ズタズタになった緑の服を。
真っ赤な血の池に浮かぶ紅い髪を。
その中でぴくりとも動かぬ人の形を。
見るも無惨な重傷を負った、紅美鈴を。
「―っ! そこのあなたっ!」
気付けばパチュリーは一人の妖精を指差し、叫んでいた。もともと大声を出すのが得意ではないのに、何故か自然に出た。
「今すぐ小悪魔を呼んできなさい! そこから出てすぐ右の部屋! 急いで!」
「は、はいっ!」
妖精が慌てて図書館から外に出る。
「あの、私たちは」
「応急処置を続けなさい」
「はい!」
パチュリーの指示に従い、妖精達は止血したり包帯を巻いたりした。
なるほど、こういうことだったのか。
何か強力な妖怪が襲ってきて、美鈴はそれにやられた。
レミリアも咲夜もいない今、頼れるのはパチュリーのみ。
この大図書館の主であるパチュリーなら、美鈴を助ける術も知っているだろうと踏んだのだろう。賢明な判断だ。
やがて、小悪魔がやってきた。眠たそうに目をこすっている。暢気なことだ、こんな状況の中で。
「ふああァ……どうしたんですかパチュリーさ……め、美鈴さんっ!」
事態に気付いて、小悪魔が叫んだ。
「小悪魔! 急いで一番強力な魔術書を持ってきなさい!」
「わ、わかりました!」
主に命令され、小悪魔は本棚の群れへと飛んでいった。
パチュリーの本分は火水木金土日月の魔法を操ることであり、回復魔法はその範疇外である。しかし、それに関する魔術書があればもちろん使うことは可能であり、そうでなくとも、軽い怪我を治したり、自分の喘息の発作を押さえる程度の魔法は習得している。
だが、今の美鈴の傷はその範囲外である。はっきり言って、いつ死んでもおかしくない。
そのため、早く目的の魔術書を探す必要があった。
ゆえに小悪魔を呼んだ。
彼女はすでに、主であるパチュリーよりも図書館の中について詳しい。どこに何の本があるか、そのほぼ全てを把握して記憶している。それに、運動能力や移動速度についても一応は彼女の方が上だ。
ゆえに、目的の本を探すのには、パチュリーが動くよりも彼女が動いた方が早い。
そして、数分のうちに小悪魔が戻ってきた。手には一冊の分厚い黒表紙の本を持っている。
「も、持ってきましたぁ!」
「貸しなさい!」
パチュリーはひったくるようにして小悪魔から本を取り、そして一瞬にして目的のページを開く。
「離れなさい」
皆にそう告げ、そして、詠唱を始める。
言葉でもなく、声でもないものがパチュリーの口から発せられる。
言葉というよりは単語。声というよりは音。
原始的なその一つ一つを、正確に、冷静に、淡々と唱えていく。
そして、魔法が発動する。
美鈴を中心に六芒星の陣が床に現れ、そこから白く淡い光が吹き出した。
光が強さを増すごとに、みるみるうちに美鈴の傷は塞がり、そして、光が収まる頃にはまったく健康としか見えない状態になっていた。
今回使ったのは、新陳代謝を加速させる魔法である。ただ単純に傷を治すのではなく、体がもともと持つ傷を治す力を何十倍にも加速させて無理矢理治させる。
いわば治される側の寿命を削って治したようなものだが、もともとの寿命が長い妖怪にはたいしたものではない。逆に人間相手には、この魔法は使いづらい。ついでに魔力の消費も多い。
なら普通に傷を治す魔法のほうがいいのではないか、と思うが、この場合、それだと問題があった。
たしかにその魔法でも傷は塞がり痛みもなくなるが、血は違う。血は自らで作られるものである。傷を治しただけでは血は戻らない。美鈴はすでに大量の血液を流していたため、傷を治したとしても出血多量で死ぬことになっただろう。
この方法ならば、血液も同時に生成させられるので、その心配はない。
魔法は成功した。後は、間に合ったかどうか。
魔法で傷は治せても、意識は無理矢理には戻せない。魂なら、なおさらだ。
果たして。
「う…………」
美鈴の口から、息が漏れた。
そして、うっすらと目を開ける。
どうやら、完全に成功したようだ。
「隊長ーっ!」
妖精達が泣きながら美鈴に抱きついた。
「……あ……みんな……それに、パチュリー様」
美鈴は皆の姿を確認すると、申し訳なさそうに目を閉じた。
「申し訳、ございません。何分、この夜で妖怪達が凶暴化して……なんとか撃退はできたんですが……」
「言い訳はいいの。あなたはあなたのことだけを考えなさい」
「そう、ですね。……では、そうさせていただきます」
美鈴はむくりと起き上がり、
「助けていただき、ありがとうございます。それでは」
そして、パチュリー達にくるりと背を向ける。
「待ちなさい。どこに行くの」
「どこって……私が行く場所は決まってるじゃないですか」
また、門に。
また、戦うというのか。
「だめよ。まだあなたは治ったばかり、万全とは言えないわ」
「私なら大丈夫です。慣れてますから。……それに、私が行かなくて、どうするんですか」
美鈴の意志は固い。
門番隊隊長としての責務を果たそうという想いが、パチュリーにも伝わる。
「……そう。止めても聞かないのね」
パチュリーは一瞬目を伏せた。何かを考えているように見える。
そして、顔を上げて言った。
「……なら、私も行くわ」
「パ、パチュリー様!?」
小悪魔が驚く。パチュリーが自ら出歩くことを決めるなど、ほとんどありえないからだ。
美鈴も同じように驚いた表情を見せている。
「見てたら、あなただけには任せてられないもの。咲夜もレミィもいないのだし、私が出る他ないわ。……それとも、私が駄目なら、妹様にでも手伝わせる? あの子なら喜々としてやってくれるはずよ」
「そ、それは……」
美鈴はたじろいだ。どうやら本気にしているようだ。
「冗談よ、冗談。……それに、たまには思いっきり魔法も使わないと。そろそろ腕が鈍ってきたかなと思っていたの。ちょうどいいわ」
歩き出そうとして、パチュリーはそうそう、と振り向いた。
「小悪魔、あなたも来なさい。援護と怪我人の救護を頼むわ」
「あ、はい!」
小悪魔はそれに従い、パチュリーの後に付いて行く。
「でもいいのですか、パチュリー様? またいつものように本読んでたと思うんですけど」
「まあ、そうよ。でも……」
パチュリーが答えようとすると、ズゥン……と爆発でもあったのだろうか、鈍い音が図書館に響き渡った。
それを聞いて、パチュリーは少し自虐的に微笑んだ。
「こんな騒がしい中で、読書なんかできないわよ」
夜はまだ永い。
とりあえずは騒ぎを終わらせて、それからゆっくりと本を読もう。
門に向かう途中で、パチュリーはそんなことを思った。
すんなり読めて面白かったです。