「ふわぁ~っ……ねむ……」
小さな体に見合わない、大きくて豪華なベッド。
レミリアは緩慢な動作で身を起こすと、頭上に腕を上げて思い切り背伸びをし、大あくびをかいた。
そして寝ぼけ眼で壁にかかっている大きな時計を見ると、まだ午前中。
普段ならまだまだ寝ている時間だが、今は魔法図書館で面白いことをやっている。
「お嬢様、入ってもよろしいでしょうか?」
「いいわよ~」
部屋の戸が叩かれ、聞き慣れた咲夜の声が聞こえる。
流石は咲夜、レミリアが起きたことに気が付いたらしい。
咲夜はいつだって、どこだって、レミリアが目を覚ますと即座に駆けつけてくれる。
顔を洗い、歯を磨き……身だしなみを整えたレミリアは、咲夜を従えて魔法図書館へと。
長くて紅い廊下を、その小さな歩幅で進んでいく。
「今、丁度面白いことになっていますわ」
「面白いことって?」
「それは見てのお楽しみです、お嬢様」
「まぁ咲夜ったら、焦らし方までパーフェクトなのね」
別にそんなところまでパーフェクトじゃなくていい。
しかもなんか台詞がエロい。
「紫の奴は?」
「ちゃんと早起きして駆けつけてますよ。本当、こういうときは元気ですわね」
「まぁ、豆のときにちゃんと参加できなかったのを悔しがっていたしね」
紫は節分のとき、レミリアに豆をぶつける大会には参加していなかった。
理由は冬眠していたから。そんなもんである。
「さ、二時間目が終わる前にどうぞ……お食事はすぐにお持ちいたします」
「今日は……」
言いかけるレミリアの口を、咲夜は人差し指でそっと塞ぎ、柔らかく微笑んだ。
「納豆の日ですね。それも、生卵をかけたもの……」
「……ふふっ、お願いね」
咲夜には「レミリアが納豆を食べたいタイミング」がわかるそうだ。
そんなところまでパーフェクトでなくては務まらない紅魔館のメイド長。
なのに何故、他のメイドはあれほどバカでも許されるのか、今回の問題はそこにある。
「あ、い、う、え、お……っと」
「あいうえおー」
「ブフッ!!」
「子育て永琳先生……ブフッ!!」
「クッ!!」
「くっ」
永琳が何かを話すたびに、くくりつけられた……もとい、背負われた藍が嬉しそうにそれを復唱する。
そんな永琳の情けない様子は、メイド達のツボらしい。
驚くべきは藍の知能の高さ、少し前は言葉を理解していなかったのに、既に話し始めているのだ。
だがもちろんメイド達はそんなことに気付くはずもない。バカだった。
「藍先生、お願いだから大人しくして……」
「らんせんせいおねがいだからおとなしくして」
「ちょっとここに座ってなさい……」
「ちょっとここにすわってなさいー」
――い、いかん! 八意先生……その椅子は……ッ!!――
ブーッ!!
「ヒッ!?」
「ブフッ!!」
「クッ!? ブフッ!!」
おんぶ紐を外して藍を椅子に座らせた瞬間、教室にまたもあの忌々しい音が鳴り響いた。
藍がでっかいのを一発かましたのかと思った永琳は、驚きのあまり腰を抜かす。
しかし当の藍は、不思議そうな顔で座布団の下を探って、すぐにブーブークッションを引きずり出した。
やはり知能が高い。
(そ、そうよね……美少女からガスは出ないわ)
それは一つの神話。
永琳はホッと胸を撫でおろした。
「ブフーッ! へっぽこ永琳先生だわ!」
「れ、レミリア!?」
紫も腹を抱えて笑っている横で、レミリアは永琳を指差して涙を流しながら笑っている。
陰から見守る慧音は、永琳がそういった心理作戦に翻弄されないことを祈った。
「かっこわるー!! 永琳先生のドキドキ☆レッスン!! ブフッ!!」
「な、なんだかよくわからないけど頭に来るわ……!!」
歯を食いしばり、額に血管を浮かせて憤る永琳。
しかし不意に、そんな永琳の頭を撫でる者があった。
「おこったら、だめ」
「ら、藍!? 貴女、もう言葉の意味を!?」
記憶を取り戻しているのか、はたまた凄まじい速度で学習しているのか……。
その辺は明確でないが、藍は永琳を慰め、あどけない表情でにっこり笑った。
(……危なく、自分を見失うところだったわ)
大笑いする生徒達、しかし橙だけは悲しそうに見つめている。
藍をあんな状態にしてしまったことも悲しいが、自分のことを覚えていないこともまた、悲しかった。
橙の目に涙が浮かび……そしてそれを隠すように、そっと机にうつ伏せた。
藍のおかげで永琳はかろうじて自分を取り戻した。
しかし授業内容は最悪……皆、藍に気を取られて終始笑い転げていた。
「あのバカメイドども……!! 少しはうちの藍を見習ったらどうなの!?」
自分に身をすり寄せる藍の頭を撫でながら、永琳は歯をギリギリと噛み締めている。
それにしても「うちの藍」って。
藍は八雲一家であって、けして永琳の娘ではないのだが……永琳もその気になりつつあるのか。
「まぁ落ち着け、八意先生……私もやられたよ、あの悪魔の椅子に」
「上白沢先生……そういうことは先に言って頂戴!」
「すまない、お前がいきなり藍を背負ってきたことに驚いて、注意するのを忘れていた……」
「しっかりしてよ……!!」
責任の押し付け合い。教師達の歩調が乱れ始めた。
パチュリーのパワーハラスメントも、慧音の頭突きも……生徒達には効果が無い、すぐに立ち直ってしまう。
あまつさえ情けない永琳の姿、おかしくなってしまった藍……手の打ちようがない。
二日目にして早くも進退窮まった。
一方ではむせながらも一生懸命語学を教えるパチュリー。
しかしメイド達は目を開けたまま寝て回避していた。
そう、メイド達は目を開けたまま眠る技術を習得したのだ。
授業を受けたくないあまりに、努力して、くだらない高等技術を身につける。
バカとはそういうものである。
この日最後の授業、担当、八雲藍……。
しかしこんな状態の藍が授業などできるはずもなく、ここは慧音が代打として授業を行った。
もちろん上手く行かない、バカ達による変幻自在の嫌がらせを受け、授業は破綻。
普段あまり使っていないバカ達の脳は、ここぞとばかりに活動し、嫌がらせのアイデアを生む。
外界では、教育を受けられない者を哀れむ風潮があるという。
確かに、そういう考え方もあるだろう。
しかしそれを望まない者がいるのも確かで。
教育を望んで受けられない者は哀れに思えるが、そういう者は真の意味でバカだとは言い切れない。
学力の低さがそのまま品位の無さに繋がると言うことではないだろう。
(こいつらはもっと根本的な問題だ……)
慧音は思う。
昨日の永琳の授業で、メイド達が自分の名前を書くことに興味や憧れを抱いた様子はあった。
しかしそこまでだった、自分の名前の書き方を覚えるや否や、あとはどうでも良くなったのだろう。
単刀直入に言えば、学習意欲が無いのだ。
寺子屋の生徒達は曲がりなりにも……親に行かされている者もいるだろうが、表面上は望んで寺子屋に来ている。
人間は脆い。霊夢や魔理沙、咲夜や妹紅のようなイレギュラーも存在するが、人里に住む普通の人間は概ね脆い。
そのくせ知能や社会はある程度発達しているので、何か特技が無くては生きていけなかったりする。
「結構前に湖で泳いでたら、大きな魚に食べられちゃったよー」
こいつらは妖精。妖精は不死身のようなものだ、消滅しても即座に生まれ変わる。
無鉄砲で暢気で奔放……食事も本来必要としない、ありあまる知能などもっての他だ。
「私なんかガマに丸呑みにされて、目玉をへこまして獲物を押し込む感触を知ってるもん!」
「くっ……流石はチルノ……」
そして厄介なのは、チルノが徐々にリーダーとしての頭角を現し始めていたことであろう。
横に構えるサングラスルーミアも、妖精より少し種族として高位の妖怪、一目置かれる副リーダーだ。
橙だけ妙に大人しいのが気がかりだが、橙攻略の鍵となるのは藍の復活。それさえできれば確実だ。
――まずいわ、一刻も早くチルノ包囲網を完成させなくては……そのためにはルーミアを……――
パチュリーは焦っていた。
ルーミアの不真面目さがチルノのテンションを上げ、同時にメイド達の授業態度を悪くしている節がある。
誰か問題児が居ると真似てしまう者が出てくる。ましてこのメイド達の性分は本能的に不真面目だ。
「こいつがここまでやって許されてるんだから、私も」
という心理。
そして似たような者がつるみ始めるとヤンキーと化すのだ。
――ヤンキーになったら終わりよ……!!――
パチュリーの額を、一筋の汗が流れ落ちる。
封建主義から解放されて、学生の身分となったメイド達の自由さは計り知れない。
それはトップ10に選ばれずに普通にメイドを続けている者達が愚痴をこぼし始めたほどだ。
「なんで私達があいつの世話までしないといけないの?」
そんな声が随所で聞こえ始めた。
それを聞いた咲夜は、自分の体の何倍にも及ぶ体積の洗濯物を抱えたまま、そのメイドに跳び蹴りをしたらしい。
何故なら実際世話してるのは咲夜だったからだ。
他のメイドもやっぱりバカだった。
「ハァ、ハァ……あぁ……これは……」
パチュリーが振り向けば、永琳先生が床で丸まって昼寝中の藍の尻尾を弄んでいる。
顔をうずめたり、体に巻きつけたり……戦意喪失したんだかなんだか知らないが、子育てママは役立たず。
(……動物好きなのかしら)
噂では、夜な夜な鈴仙・U・イナバを呼び寄せて耳を甘噛みしているらしい。
それが慧音によるデマゴーグかどうなのかは、慧音か永琳、はたまた鈴仙しか知らない。
(このままではいけないわ)
真面目すぎてバカに翻弄される慧音。骨抜きになってしまった永琳。
あのブーブークッションには呪いでもかかっているのだろうか。
そして団結する生徒達、バラバラになっていく教師達。
外から眺めてほくそ笑む紫……このまま、滅茶苦茶になってしまうのか。
(やらせない、何が何でも……)
多少不本意だが、美鈴に相談してみよう、健康には詳しそうだし。
咲夜も医学知識はそれなりに持っているようだが、今までパチュリーの喘息対策を考案できていない辺り、当てにはならない。
永琳の力ばかり借りるのもなんだか癪だし……。
パチュリーは本を片手に、美鈴の元へと向かった。
三日目、一時間目。パチュリー。
教室の雰囲気は徐々に悪くなっていく。
特に、パワープレイに走ったパチュリーはメイド達に嫌われていた。
この日も教室に入るなり頭上から黒板消しが……寸での所で回避したが、喘息のパチュリーにチョークの粉は厳しい。
(ヤンキーになりかけているわ……)
徐々に攻撃的になる生徒達のいたずら。
元々妖精はいたずらが大好きな種族、そして頭が弱いため、シャレにならないこともやってしまう。
紅魔館のメイド達は、リーダーチルノに触発されて野性を取り戻しつつあるのかもしれない。
「いい加減に五十音ぐらい読み書きできるようになりなさい。さあ、今日こそは真面目に行くわよ」
「やだ」
「やだ」
「やなこった」
「べーっ、だ」
「おもしろくなーい」
もはやパチュリーを恐れる様子など微塵もない、メイド達はあっかんべーをしている。
「そう……」
それを見たパチュリーは手にしていた本を教卓に置き、そっと目を閉じた。
いつもなら雷が落ちるのに、今日のパチュリーは随分と大人しく引き下がる。
(ついにへし折ってやったわ!)
(もっと優しく教えろってのよ……!)
しおらしいパチュリーを見てメイド達はニヤニヤといやらしく笑う。
慧音はからかいやすいから良い、永琳もすぐに空回りする。藍はガラスのハート、怖くない。
自分達にとっての脅威は、力技をも辞さないパチュリーのみ。
しかしここ最近体調が良くないようだ、初日の反動か、普段よりも咳き込む回数が多い。
流石に魔法は威力がありすぎるから使わないようだし、パチュリーから魔法を取ってしまえば、虚弱な読書少女でしかない。
いくら気が強かろうと敵ではない。徒党を組んだ生徒達に恐れるものは何も無かった。
『パチュリー様……この秘孔は……本当に必要だと思ったときだけ、突くようにしてください』
昨夜、突然尋ねてきたパチュリーに驚きながらも、美鈴は心底心配そうに言った。
あんな情けない門番の力を借りるなんて癪だったが、背に腹は替えられなかった。
『肉体を一時的に活性化します。私が使う分には体が丈夫だから問題ないですけど……。
病弱なパチュリー様がやったら、どんな反動が来るかわかったものじゃありません』
――知ったことじゃないわ――
不意にパチュリーが親指を立てて拳を握る。
生徒達はその奇妙な動きに怯えたが、パチュリーは予想に反し、それを自分の下腹に突き立てた。
そして苦しげに「うっ」と一度呻くと、そのまま床にうずくまって身震いを始める。
一瞬唖然とした生徒達だが、すぐに気を取り直し、ヒソヒソ話を始める。
「何してんの?」
「気でも違ったのかな」
「便秘のツボでも押したんじゃないの?」
なんでこんなときに便秘のツボを押すのか。空気読め。
そんなバカ達の様子を気にも留めず、パチュリーはブルブルと震えながら教卓にしがみついて立ち上がる。
そしてチョーク入れをまさぐり、大きくのけぞった。
「気持ち悪い動きだなぁ」
「ゾンビみたい」
「ゾンビ! ブフッ……ギャッ!?」
「イザベラッ!?」
イザベラの額に光の速度で何かが直撃、そのまま壁代わりの本棚まで吹っ飛ばされた。
勢い良くぶち当たったせいで積まれていた本が落下し、イザベラの身を埋める。
「な、な、な……」
「何が起こったの!?」
生徒達は震えながら、墓のように積み重なった本に注目した。
その背後では、手の上でチョークをコロコロと弄ぶパチュリーが不敵に笑っている。
「授業を受けなさい!!」
「ひ、ひい!? みぎゃっ!!」
「ジェシカーッ!!」
続いてジェシカが吹っ飛ぶ。
その正体は、秘孔を突いて超人化したパチュリーの神速チョーク投げだった。
不敵な笑顔のパチュリーだが、その額には脂汗を浮かべている。チョークを放った右腕が震えている。
「ぱ……パチェ……」
初日とは様子が違う、パチュリーは無理をしているのではないか……。
本棚の陰から眺めていたレミリアが動揺している。ちょっとしたいたずらに翻弄されるぐらいなら大笑いしてやるのだが……。
「パチュリー先生! 何をした!? 授業を止めろ!!」
元気なのに顔色の悪いパチュリー、不審に思った慧音は教室に飛び込んだ。
藍も永琳もまともに機能しなくなった今、頼れるのは紅魔館の住人でもあるパチュリーだけだというのに。
「授業妨害しないで!!」
「パチュ……ぐぅっ!?」
パチュリーを助けに入ったつもりの慧音も、チョーク投げの餌食となって本棚に叩きつけられた。
石頭を誇る慧音も、すさまじい速度で飛んできたチョークの痛みには耐え切れず、意識が遠のいていく。
「なんで……お前がそこまで……」
「甘ったれてんじゃないわよ……」
「な……?」
「こいつらは人間じゃないのよ。人間と同じ教え方で、いつまでも通用するわけがないでしょ」
「ぅ……」
「さっさと手を打たないとこいつらはヤンキーになる……そうなる前に押さえ込まないと」
慧音は遠のく意識の中で、無理に笑顔を作るパチュリーを見たような気がした。
それはまるで「後はよろしく頼む」とでも言っているような表情だった。
慧音が目を覚ましたとき既に授業は終了していて、教壇に倒れているパチュリーの姿があった。
駆けつけた永琳が脈を取ったり、呼吸音を聞いたりしている。
そんな大事になってしまったのか? 慧音はズキズキ痛む頭を抱えながら教壇へと駆け出した。
「や、八意先生! パチュリーは……!?」
「……」
永琳が悲しそうに首を横に振った。
「し、死……!?」
藍に続き二人目の犠牲者……しかもパチュリーは死んでしまったのか。
慧音は目に涙をいっぱい溜め、生徒達を睨み付ける。
「お前達……そこまで冷徹だったのか!! お前達が言うことを聞いていれば、パチュリーは、パチュリーは……!!」
「あ、いや死んではないけど」
「えっ!? ま、紛らわしいな!!」
永琳が言うには、しばらく授業は無理だろうということだった。
しかも「多分筋肉痛ひどくて動けないと思う」というショボい理由だった。
慧音はさらに泣いた、そのあまりの肩透かしに。
あと頭に来たので永琳を何回か殴った。思わせぶりなことをしないでほしい。
「ずーいずーいずっころばーし」
「あははははっ」
休憩時間、暢気に遊ぶ永琳と藍を見て慧音は眉をひそめる。
寺子屋の乗っ取りをもくろんだときの、あの邪悪で強力な永琳はどこへ行ってしまったのだろう。
藍のあまりの無邪気さゆえか、尻尾の心地よさゆえか、すっかり腑抜けてしまった。
パチュリーが身を挺して捨石になったというのに、生徒も永琳も気合が入っていない。
生徒達は少し度肝を抜かれたようだが、天敵パチュリーが去ったことを知って、すぐに元に戻った。
(パチュリー先生……無駄死ににはさせないぞ)
一見すると大人しいイメージ。しかしそれに反し、捨て身技で特攻をかけたパチュリー。
その熱い魂は慧音にしっかりと受け継がれた。でも別に死んではいない。
(しかしチルノ包囲網は失敗だな)
ルーミアを落とすはずのパチュリーが脱落した。永琳はやる気が無いからダメだ。
このまま永琳が負けて、永遠亭での威厳を取り戻せなかったら、藍を攫ってどこかに失踪するのではあるまいか。
そう思わせてしまうほどに永琳の表情は緩みきっている、デレデレだ。
教室を眺めると、チルノを中心に生徒達の輪ができている。
もはやチルノは牙城を築き上げた。本人は意識してないのだろうが、事実としてそんな状態になっている。
「氷漬けのカエルよー!!」
「うおーかっこいいぃ!」
「わ、私もほしいぃ!」
「オサ! オサ!」
チルノが机の上に立って、氷漬けのカエルを両手で掲げていた。
それを取り囲むメイド達が狂喜乱舞している。なんだこの不気味な儀式。オサってなんだ。
(どうすれば、どうすればいい……?)
なんとかこの状況を逆利用できないだろうか?
慧音は目を閉じ、頭の中に収められた歴史を手繰って、これと似た状況、そしてそれの解決策を模索した。
三日目はその後、特筆すべきことは無かった。
授業はもちろん揮わない、慧音はからかわれ、永琳には容赦ない嫌がらせが降り注ぎ……。
藍は言語能力を身に付けたので授業に参加し始めたが無視される。ナメきられていた。
負の変化だけはあった……それは生徒達が今まで以上に攻撃的になり始めたこと。
そんな中チルノがもっとも攻撃的、まさしく弾頭となって教師達への攻撃の指揮を執り始めている。
「あいつらに一泡吹かせたら、この氷漬けのカエルをあげるわ!」
というチルノの言葉……そんな気色悪い物、まったくいらないように思えるのだが……。
一体どういう思考回路なのか、転校生を除いた全生徒達がそれを欲しがった。
ここまでの敵対心を植えつけてしまったのはパチュリーの失策かもしれない。
結局慧音はこれといった対策も思いつかないまま、再び居酒屋に足を運んでいた。
「どうすればいい……」
賑やかな居酒屋で、手酌する慧音の周囲だけ時が止まっているようだった。
両手を握り締め、頭を垂れる……チルノを孤立させるつもりが、孤立したのは自分ではないか。
パチュリーの本気は無駄にしたくない、さりとてどうすれば良いかわからない。
何のためにこんな辛いことをしているのかもわからなくなってきた。
永琳も藍もパチュリーも、皆既に戦意喪失や体調不良で脱落、もう決闘などと誰も口にしない。
開始一週間後からが勝負、だなんて気高い理想も、こんな調子では叶うはずがない。
このまま生徒達に振り回され、紫の策略に踊らされ、最後の試験では全員グランドスラム、全教科平均0点。最悪のドロー。
そうしてプライドだけを傷付けられ、自信を失って寺子屋に帰る羽目になるのだろうか。
「慧音」
飲み物も食べ物も手を付けず、落ち込む慧音に声をかける者があった。
彼女が見た慧音の表情はよほど酷かったのだろう、目を丸くして驚いている。
「何泣きそうな顔してんのよ?」
「……妹紅?」
妹紅は少時慧音から目を離し、筍の入った包みを店主に渡す。いくらかの金銭を渡されたが、それはそのまま突き返した。
それで生計を立てているというものでもないのだろう、竹林に筍採りの人間が入らないようにするための予防策に近いのかもしれない。
「なんか大変そうだね、最近」
「……知恵を貸してくれないか」
「ん? いいけど、あんたみたいに賢くないよ、私は」
意外と、第三者の方が冷静な判断をできるかもしれない。
妹紅は人の多さに少し戸惑いつつも、慧音の横に並んで座った。
妹紅の好む環境ではないだろうが、隣に座って相談に乗ってくれる……そんな些細なことが、言葉にできないほど嬉しかった。
一方永琳は、藍をこっそりと永遠亭に連れ帰っていた。
紅魔館を出るときに、橙が今にも襲い掛かってきそうな形相で永琳を睨んでいた。
「ふふふ、今は耐え忍ぶときよ……」
紅魔館のメイド達の嫌がらせなど……ここに住むてゐに統率されたウサギ達の嫌がらせに比べれば屁でもない。
あの狡猾なてゐの知恵は、チルノの単純な思考とは比較にならないのだ。
鬼に金棒、てゐに豆ランチャー。
あの危険な物件をてゐに握らせたことは、永琳の史上、類を見ない大失敗と言えた。
「藍……」
「永琳様」
藍の言動はまだ幼い、しかし読み書きも発音も完璧になった。
元々穏やかな性格だったのだろう、よく永琳に懐いている。
「ふふ、ごめんなさいね……」
――貴女には布石になってもらうわ――
そろそろ機は熟しただろう。橙の感情が爆発したときが記憶を取り戻すチャンスだ。
紫ではダメだ。藍の記憶が戻れば教師達が有利になることをわかっている、だから必要以上に干渉してこない。
永琳が見るに、他のどの教師よりも紫は賢いだろう、慧音との対決も大切だが、捨て置くわけにはいかない。
(敵を騙すにはまず味方から、だものね)
腑抜けたふりをして慧音を孤立させ、精神的に追い詰めた。
だがこの程度でダメになるようなら対決する価値もない。
そして何より……この状態は望んで作ったもの、慧音にチルノ攻略をさせるための策。
パチュリーの自滅だけは予想外だったが、まぁあの程度なら二~三日で復帰するだろう。
そんな思案をする永琳を、藍は不思議そうな顔で眺めていた。
「永琳様? 何が『ごめんなさい』なんですか?」
「なんでもないわ、貴女はお利口さんね」
利口なんだから、復帰してもらわなくては困る。
教室を完全な状態に整えて……一週間後に、皆で生き残って対決するのだ。
それこそが紫にとってもっとも面白くない展開のはず。
あいつは理由も無く、手の込んだ嫌がらせをしてくる。
それをしっかりと反省させてやらなければいけない。
(さて上白沢先生、立ち上がれるかしら?)
慧音とも戦わないといけない、充実している。
(生徒達の、チルノへの信頼が強まれば強まるほど……有利だと気付くべきよ)
頭を潰してしまえば大人しくなるだろう。
問題は慧音がそれに気付き、チルノを徹底的に叩けるかどうかだ。
慧音が潰れたらチルノも永琳がやってしまえば良い、そして最終的なターゲットは紫に切り替える。
「藍、しっぽ!」
「はい!」
藍は正座する永琳の膝に座り、尻尾をもさもさと動かし始めた。
なんだこのプレイ。
「ふふふふふふふ」
尻尾が気持ち良いのはガチだったらしい。
(ま、橙は任せておきなさい。約束は守るわ)
ともあれ永琳先生の闘志は未だ不滅、果たして慧音はどう動くのか。
四日目。
この日の一時間目は藍。もちろん生徒達は言うことを聞かない。
「上白沢先生」
「ん?」
慧音はまだ精神的にも大丈夫そうだ。
ふとした瞬間に疲れを表情に出すこともあるが、目は死んでいない。
「皮肉なものね」
「何がだ」
永琳は授業を上手に行えなくて慌てる藍を助けもせずに話を続ける。
慧音は昨日と違う様子の永琳を不審に思った。永琳は寺子屋で勝負をしたときのような、鋭い表情になっている。
「丁度一週間……七日目が、満月の夜」
「……そうだな」
「角が生えて、上白沢先生が怖くなる日ね」
「ああ」
「楽しみにしてるわ」
永琳が腑抜けたとばかり思っていた慧音だったが、今の会話の中から不穏な意思を感じ取った。
永琳はまだ諦めていない。いや、諦めるどころか、まだ何か水面下で動いている。
(誘導、されているのかな……)
夕べ妹紅と話し合って導き出された一つの答え。
慧音が腹を決めた……最後の大博打……もしかすると、永琳はそうなるように誘導したのか。
しかし、そうだったら良いと望んでいるような気持ちがある。
まだ諦めていないのは自分だけではないのだということが、警戒に値すると同時に心強くもあった。
「う、うーっ。授業を受けてよ……永琳様に怒られちゃう……」
「やだねー」
「数学教えてよー」
ルーミアは数学をやりたいらしい。
サングラスも板についてきた、なんだか妙にニヒルに見える。
「だって、永琳様は語学をやれって言うんだ……」
「永琳様永琳様言い過ぎだよねー、この人」
「そんなに困ってるなら永琳様に助けを求めればー?」
「怖くないけどねー」
「ねー」
「えーりんえーりん、ブフッ!!」
容赦ない生徒達の言葉、後ろではチルノが胸を張って、偉そうに鎮座している。
勉強などしたくない、残り十日間の学生生活を心行くまで満喫するのだ。
パチュリーの恐れていた生徒達のヤンキー化、結局、阻止は失敗したと言える。
「ひっこめー!」
「言葉覚えたてのくせに生意気よ!」
「う、うぅ……」
藍は目に涙を浮かべ、視線で永琳に助けを求めるが、永琳は無表情のまま動かない。
そして藍を助けない永琳を見て橙が憤っている、歯を食いしばって永琳を睨んでいる。
(何故私が助けなければいけないのかしら? あんたのご主人様でしょう、お門違いだわ)
状況を考えれば永琳が助けるのが妥当な流れだが、それは今回の特殊な条件下に限る。
本来なら紫か橙が助けに行くべきだろう、永琳は藍と橙を突き放し、涼しい表情で笑っている。
橙は紫にも助けを求め、目配せをした。しかし紫も橙と目を合わせようとしない。うすら笑っている。
そう、これは永琳が橙を爆発させるために弄した策。
橙も本来なら生徒達に牙を剥いて藍を助けたいところ……しかし残り十日もあるのだ。
ここで他の生徒達と一戦交えて敵対するのは好ましくない。
特にチルノやルーミアは実力的にも侮れないので、喧嘩をしても勝てるかわからない。その上二対一ではさらに分が悪い。
(私にご主人様を盗られて怒ってたくせに、こういうときは助けないの? それは都合が良すぎないかしら?)
永琳の目はそう物語っている。
橙も涙をこぼし始めた、藍に向かって生徒達からいろんな物が投げつけられる。鉛筆、消しゴム……。
藍は頭を抱えてしゃがみ込み、泣き叫んでいる。言葉を覚えたとはいえ、中身はまだ幼い。
本気で戦えばこんなメイド達ごとき数秒で蹴散らせるだろうが、そこまでの闘志をまだ備えていなかった。
そしてついに教室にその声が響く……永琳の待ち望んでいた声が。
「藍様をいじめないで!!」
その声を聞いたとき、思わず笑みがこぼれた。
ようやく動いたか、式の式……さぁ、八雲藍を元に戻すために、少しドラマを演じてもらおう。
ところが……。
「ふふ、その調子……うぐっ!?」
「らんさまをいじめるなぁあぁぁぁ!!」
「え!? なんで私!? ゴフ!! 痛! 痛い!! あぁん!!」
「らんさまをたすけろおぉぉぉおぉ!!」
橙は意外と賢かった。
生徒達に矛先を向ければ自分の立場が悪くなる……遠回しではあるが、いじめているのは永琳も同じだ。
ならば永琳を懲らしめて、藍の救出に向かわせようと言う考えに至った。
そして橙の小さな拳は永琳のみぞおちにピッタリフィット。
「ゴフ! や、やめ……!! やめなさい!! んぅっ!!」
「おっ! なんか知らないけどあいつの方がイジメ甲斐がありそう! 皆、便乗よ!」
「こっ、コラッ……チルノォォォォォ!!」
しゃがみ込んで泣くだけの藍はなんだか面白くないし、少し可哀想だった。
それに比べて永琳を見ろ、殴られているはずなのに喘ぎ声はエロいし、苦しそうに体をくねらす様子もエロい。
番長チルノの掛け声により生徒達はターゲット変更、皆で永琳を取り囲み、短い足で蹴りを入れ始めた。
「痛い!! かっ、上白沢先生!!」
「……」
「校内暴力よ上白沢先生……ッ!!」
暴力と言ったって生徒達と永琳との実力差は明白だ、あのぐらいで永琳はやられない。
生徒達の短くて細い足、それから繰り出されるキックに効果音を付けるなら「ポコポコ!」と言う程度だ、あまり痛くなさそう。
先ほどの鋭い永琳と今の永琳のギャップに唖然として、慧音は固まっていた。
(かっこわるい……)
「ちょ、調子に乗らないでっ!」
永琳が反撃……と言っても軽く突き飛ばしただけなのだが……最前線で蹴りを入れてる橙が跳ね飛ばされ、床に尻餅をついた。
「きゃっ! 痛っ!」
橙が叫んだその瞬間、永琳の背筋に冷たいものがはしった。
何か嫌な気配が……殺意? そして、その方向には藍が……。
「お前! 今、橙をいじめたろ!!」
(え~……記憶戻るタイミング悪すぎ……)
策士、策に溺れた。
永琳は観念し、床の上に大の字に寝転がった。
良いわ私は蓬莱人、永久の身はこんないじめで滅びはしない……。
そして目を見開き、啖呵を切る。
「かかってきなさい!!」
ある意味かっこ良かった。
「う、うぅ……ごふっ……」
「ご、ごめん……そんな事情があったなんて……」
「いいわよもう……」
生徒達の攻撃はなんてこと無かったが、藍の攻撃は半端じゃなく痛かった。
流石、最強の妖怪八雲紫が誇る最強の妖獣、藍のボディーブローは橙のボディーブローの千倍ぐらい痛かった。
藍は腹部を押さえて口から血を垂らす永琳に土下座して謝罪している。
「橙には言い聞かせておくよ……あ、でも流石蓬莱人ね、本気で殴ったのにその程度だったなんて」
(やっぱり本気で殴ってたのね……殺意を感じたもの)
「あ、あ、それと! 少しだけ記憶が残ってる! すごく優しくて温かい背中に背負われた気がするんだ!」
(コイツ意外と現金だわ……)
以前約束を破ったときにEX慧音に死ぬほど頭突きをされたのも辛かったが、今回も相当だった。
不老不死なのが嫌になるぐらい殴られた、今更藍に弁解の余地など無い。
どいつもこいつも、蓬莱人だと思って無茶してくる、永琳は永久の身を呪った。
「ま、結果オーライじゃないか。よくやってくれた、八意先生」
「上白沢先生……」
――あんたが助けに来てくれれば藍にやられずに済んだかもしれないのに。
永琳はこの世の全てを恨んでしまうかと思った。
こうして四日目になんとか藍復活。
パチュリーは筋肉痛でロボットのような動きになっているが、永琳が特製の湿布を渡したお陰で早めに復帰できそうだ。
実質永琳は慧音より良い働きをしてるはずなのだが、報われていないような気がする。
しかし授業の方は相変わらず、だが再び四人揃ったと言うのは心強い。
「上白沢先生、気をつけて。チルノが今までになく反抗的よ」
「……いいよ、かえって好都合だ」
「……やはり上白沢先生」
「ああ、そろそろチルノをやっつける。連中を大人しくさせるのに有効な手段はそれしかない」
「貴女で大丈夫? フフッ……」
「……」
むしろ慧音は先ほど失態をさらした永琳にだけは任せたくなかったが、黙っておくことにした。
「さて、行ってくる」
「橙に頭突きするなよ」
「わかってる、簡単に許してはもらえないかもしれないが、今は協力してくれ」
「冗談よ、こっちだってそれぐらいわかってるさ」
「ああ」
なんとか藍とも一時停戦に持ち込むことができた。
その際に永琳が間に入って仲を取り持った、ここでも良い働きをしている。
永琳は縁の下の力持ちなのだ。もっと評価されて良い。
生徒の一人が地面に耳を付けて、慧音が本棚の隙間から教室に入ってくるタイミングを探っていた。
その後ろには何やら宙から垂れた縄を掴む生徒が一人……二人は目を見合わせて頷く。
そして地面に耳を付けている方の生徒が手を挙げ、指でカウントダウンする。
3……2……1……。
「よーし授業を……ッ!!」
ゴォーン!!
慧音の頭に巨大な金ダライが落下、それは反動で大きく吹き飛び、地面に転がる。
「やった! 成功よ!」
「金ダライ大作戦、成功っ!」
後ろではルーミアがサングラスをかけたままニヤニヤしている。
この金ダライ作戦はルーミアの発案らしい、ルーミアはチルノの振り上げた手にハイタッチを重ねる。
「ほう、連携をとるようになってきたか。そこまで賢いのに文字の読み書きすらできないとはな」
「っ!?」
慧音は笑っている……生徒達は戦慄した、痛がっている様子も無い。銀閣帽子も脱げることなく立派にそびえ立っている。
そして未だに床でグワングワンと耳障りな音を立てている金ダライは、見るも無残にへこんでいた。
「さ、バカにされないように文字の読み書きを勉強するんだ。私は八意先生ほど優しくはないぞ」
「こ、この……」
圧倒的優位に立っていたと思っていたチルノは、慧音の余裕の表情を見て拳を握り締める。
しかし慧音も揺るがない。反り返るぐらい胸を張り、顎を持ち上げ、威圧的な態度でチルノを見下す。
その様子はまさに「かかってこい」と言わんばかりだった。
同じ「かかってこい」でも八意先生とはかなり違った。
あっちはあっちで別の方向にかっこ良かったが。
「随分と反抗的な顔だな、教師に逆らうか」
「きょ、教師って何よ……」
「そんなこともわからずにここに来ていたのか? お前は何も考えていないんだな」
「う、うぅ……」
「お前の思考能力を育てるために私はここにいる、さぁ授業を受けるんだ」
「い、嫌よっ!!」
「お前のためだ!!」
「そんなの知らないもん!」
本棚の陰では、永琳と藍が手に汗を握ってその動向を見守る。
慧音はわざとチルノを挑発しているのだ。短気な相手にそこまで難しいことじゃなかろうが、ここが肝心……。
「ふん、そんなことでは……」
「なによ……」
「いつまで経っても大ガマに一泡吹かせることなど無理だよ、所詮お前はお山の大将だ」
「ッ!!」
「あれは賢い、神格化されていると言っても良い。お前なんて、彼の食料の虫とそう変わらないさ」
「言ったわね!!」
こうして対立は完全に表面化、他の生徒が立ち上がり、チルノの背後を固め始めた。
藍に説得された橙は動かない。
ルーミアもサングラスをずらして少し慧音の顔を見やっただけで、すぐにサングラスをかけ直した。
後ろに控えている永琳は、それを見て悔しそうに歯噛みをした。
(ちっ……ある意味予想通りではあるけど……やはり天然は難しいわね)
橙はともかく、ここでルーミアがチルノの味方についてくれた方が都合が良い。まとめて叩き潰せる。
結局、生徒達を根こそぎ引きずり出すのには失敗した。そしてルーミアは孤立しても動じなさそうなのが気がかりだ。
(パチュリーに何か策はあるのかしら……)
とはいえ、ルーミア一人だけ更生に失敗したとしてそこまでの痛手ではない。
ここはとりあえず慧音の作戦が上手く行くことを願うのみだ。
「どうもお前達を納得させるには、生易しいやり方ではだめらしいな」
「……」
「お前の得意な分野で勝負してやろう、負けたら大人しく授業を受けてもらうぞ」
「やってやろうじゃないの!」
チルノはスカートの中をごそごそと探ると、いくつかのスペルカードを取り出し、慧音の前に突きつけた。
予想通りの展開、文句無しの展開だ……。
「スペルカード戦よ!」
「……良いだろう、望むところだ」
上手い具合に食いついた、ここでチルノを圧倒すれば他の生徒達も逆らわなくなるはずだ。
力技は本来好まないが……、
『こいつらは人間じゃないのよ。人間と同じ教え方で、いつまでも通用するわけがないでしょ』
そんなパチュリーの言葉は的を射ていたように思う。
しかし頭の悪い連中に権力を振りかざしてもどうしようもなかった。
ならば誰にもわかりやすい、単純な力勝負で決着をつければ……。
「ただし一つ条件がある」
「何よ?」
「勝負は三日後……満月の夜だ」
「別に良いけど、それがどうしたってのよ?」
「満月の夜に私の力は最高潮に達する……お前だって、本気を出してない私に勝ったところで自慢になるまい」
「そういうこと! 良いわよ!!」
――上手に乗せたわね、上白沢先生――
チルノの表情も、警戒心むき出しながらどこか晴れ晴れとしたところがある。
よくわからない教育対決に巻き込まれ、暴れるに暴れられずに鬱憤が溜まっていたのだろう。
その上、毎日偉そうなご高説を賜り、爆発寸前だったに違いない。
それが慧音の方から喧嘩を売ってきたのだから、これは都合が良い。
しかも慧音は本気で来るときた、これを叩き潰せば完全にチルノの天下である。
他の教師がここで傍観に徹すると言うのは、慧音とチルノの対決を認めたということにもなる。
黙っていながら、慧音が負けてからあれやこれやと偉そうなことは言えない状況が出来上がる。
チルノは頭ではそこまで考えていないだろうが、感覚としてそれを掴んでいるのかもしれない。
慧音さえ倒してしまえば、ボイコットするもよし、脱走するもよし……。
(本気を出していいなら……私の方が確実だけれど)
本来、チルノとスペルカード戦をするなら永琳か藍辺りが安全牌であろう。
慧音もEX状態ならば相当な実力だが、永琳から見ればいくらかの不安は残る。
チルノが閻魔や死神と戦った経歴を持つという噂もある。事の真偽は定かでないが、それが本当なら楽観はできない。
(まぁ、ここは譲るわ)
今の慧音が負けるはずもなかろう、永琳は漠然とそう感じ、うっすらと微笑んだ。
それから決戦の日まで、不気味な静寂が続いた。
橙は藍の言うことを聞いて真面目になったし、ルーミアは元々表に出て騒ぐ方でもない。
ほっとけば寝ているだけで、そこまで深刻な害は無かったと言うのが実状である。
大騒ぎしていたのはチルノとその周囲を固めるメイド達だったが、決戦への緊張か、それとも何か考えがあってか、急に大人しくなった。
どうせあと三日だと高をくくって、ナメてかかっているだけかもしれない。
しかしその状況は慧音にとっては好都合だった。
ただでさえ満月が近くて気分が高揚するというのに、決戦を控えているせいかことさらに落ち着かなかった。
変に刺激されたら、決戦前に暴走して何か失敗をすることも考えられたのだ。
もしそうなっても永琳や藍が止めてくれるとは思うが……。
その心配も取りこし苦労、結局不安は現実になることなく、表面上は平穏に決戦の夜を迎えることとなった。
二人の決闘を待ち望んでいたかのように、当日の空には雲ひとつなく、誇らしげな満月が紅魔館を見下ろしていた。
「慧音とチルノねぇ」
「不服そうですね、お嬢様」
「幽々子と紫の決闘とかなら面白いのだけれど」
「それはあまりにも物騒ですわ」
「霊夢と咲夜でもいいわ……あ、でも霊夢とは私がやりたいわね」
「私は霊夢と一戦交えるのは遠慮します。是非お嬢様がどうぞ」
見物の二人は暢気なものである。
門の前を掃除して、適当な広さの決闘場を作った。どうせ空中戦になるだろうからこの決闘場はあまり意味を成さないだろう。
そして先に決闘場に現れたのはチルノ。
腕を組んで、胸を張り、眉を吊り上げて仁王立ちしている。
これが慧音だったら絵になるのだが、チルノがやるとどこか間抜けな愛らしさがあった。どうも締りが悪い。
「遅いわ!!」
「まぁまぁ、まだ時間までは少しあるわ……そう焦らないの」
何故かチルノの横に構える紫が、その頭を手のひらでぽんぽんと叩く。
チルノは不愉快そうに頭を振って逃れたが、それでも紫は怒りもせず、不気味に微笑んでいた。
ふと紫が顔を上げると、門の中から永琳とパチュリーが歩いてきた。
ちなみにパチュリーは筋肉痛も回復し、六日目から授業に復帰している。
「あら、上白沢慧音は棄権かしら?」
「えっ!? なによそれ!!」
白々しい紫と、真に受けるチルノ……永琳とパチュリーはそれを見て自信ありげに笑った。
「そんなわけないでしょう。もう来ているわ」
「時計台の頂上を見なさい」
「時計台……」
二人に言われてチルノが視線を上げると、鋭く尖った時計台の天辺に人影があった。
夜風を受けてスカートと銀髪がたなびいている。そしてその頭部には二本の反り返った角が生えていた。
「まぁ、登場シーンに無駄なコストをかけちゃって、ふふ」
「それは本人に言わないように。興奮しているから」
「チルノ、覚悟なさい……あんたらの年貢の納め時よ」
パチュリーはチルノを一睨み。そしてそっと、夜空に向けて手をかざす。
時計台の頂上では、慧音が今か今かとパチュリーからの合図を待っていた。
レミリアや咲夜の傍らで眺める生徒達も、息を飲んでその瞬間を見守った。
「はじめ……!」
パチュリーが夜空に撃ち上げた火球が大爆発し、辺りを照らす。
それで一瞬ひるんだチルノには構わず、慧音は時計台の頂上を勢い良く蹴り、高速で飛んできた。
しかしワーハクタク時のパワーで思いっきり蹴ったもんだから、時計台の頂上が砕けた。
下の方でメイドが潰されて叫び声が響いた。
それを見た咲夜が震えている。
「ちょっ!? 時計台がーっ!!」
「ま、まぁまぁ咲夜、良いじゃないの……」
「よくありません! 修理するのは私なんですよ!!」
咲夜が人差し指をピンと立てた。
学生寮を造ったときにカナヅチで指を叩き、怪我をしたのだろう。その人差し指には絆創膏が張ってあった。
「誰!? あんないらない演出を提案したのは!?」
「……」
永琳が申し訳なさそうに手を挙げた。
「お前かーッ!!」
永琳の顔面に咲夜の鉄拳がめり込んだ。
――厄年なのかしら……――
美しい放物線を描いて吹っ飛びながら、永琳はそんなことを思う。本当、何やっても裏目に出る。
でも博麗神社は胡散臭いので、あそこに厄払いに行くのは嫌だな、と思った。
「ひぃ! ひぃっ!? うわぁぁっ!!」
「どうしたチルノ!! 待ち望んでいた決闘だぞ!! スペルカードを使って来い! ……さぁっ!!」
「こ、こんなになるなんて聞いてないよ!!」
「今更何を言ってる……!!」
チルノが必死に氷塊を投げつけても、慧音はそれを軽やかに回避、たまに余裕を見せて拳で破砕したりしている。
完全に役者が違ったか……慧音は少し拍子抜けしつつも、本来の目的は今後の授業を円滑に進めるという一点のみ。
大人気ないかもしれないが、ここは油断せずにチルノを徹底的にやり込めなければいけない。
「お前が背を向けようが、私は容赦しないぞ!!」
「こ、このっ!!」
「おっと……危ない危ない」
チルノは徐々に距離を詰められる。どんなに全力で弾幕を張っても、慧音は力ずくで突破してしまう。
何よりも力の差を思い知らせるのは、慧音が一切の弾幕、スペルカードを使用してこないことだった。
弄ばれていることにようやく気付いたチルノは、目の色を変えて弾幕の密度を上げていく。
しかしそれでも慧音には通用しなかった。
両手で氷塊を弾き飛ばし、一歩一歩ゆっくりとチルノを追い詰めていく。
「この程度の弾幕じゃ私は倒れない! 本気のスペルカードを見せてみろ!」
「くっ、くっそーっ!」
ついにチルノがスペルカードに手をかけた。
余裕で勝った方がかっこいい、ということで切り札はとっておきたかったが……。
「フロストコラムス!!」
「来たか!!」
今度は手で氷塊を投げつけるのとは違う。
チルノの魔力が氷の刃となり、群れを成して慧音に襲い掛かった。
「なかなかやる……だがまだ、この程度!!」
「くぅぅぅぅぅぅ!!」
チルノは慧音に向かって両手を広げ、ありったけの魔力を搾り出して攻撃を試みる。
しかし、それでも……幾分引き締まったが、慧音の表情にはまだ余裕が見えた。
両手で足りなくなったのか角で弾き飛ばしたりもしているが、その顔はニヤけている。
そして髪の毛を乱すこともない。
頭の動きに合わせて揺れ動く慧音の銀髪は、まるで月明かりに照らされる川の流れのように流麗で美しかった。
それこそが圧倒的な慧音の優位を思い知らせていた。
「一見荒々しいけど、なんだか上品ですわね」
「角ってどうやったら生えるのかしら、咲夜」
「え……?」
――お嬢様、角が欲しいのですか? ですがその願いばかりは、咲夜にも叶えられそうにありません……。
「お嬢様にはご立派な翼があるではないですか」
「うーん……あのリボンも可愛いわ……むー」
「……」
レミリアと咲夜は相変わらずそんな具合だったが、それ以外は皆表情を強張らせていた。
慧音の勝利を祈る教師達も、逆にチルノの勝利を祈る生徒達も……そして、紫も表情を曇らせていた。
「さて、そろそろ手が届くぞ、頭突き一発で終わらせてやろう」
「な、なんで抜けてくるのよーっ!!」
チルノの攻撃も大したもので、遠くから眺めているメイド達は同じ種族でここまでの力の差があるのかと驚愕していた。
やはりリーダーはチルノ……しかし慧音はさらにその上を行っていた。
距離が縮むにつれチルノの攻撃は激しさを増すが、慧音はところどころかすり傷がある程度で一度も直撃を受けていない。
「よし、捕まえ……っ!?」
「わっ、うわぁぁぁっ!!」
慧音の指先がチルノの鼻に触れた。
圧倒されて半狂乱になったチルノが最後の抵抗として、ひときわ大きな氷の刃を手に持ち、振り下ろした。
そのとき、慧音が突然蹴躓き、大きく姿勢を崩した……。
つんのめった慧音の首の横を、氷の刃がかすめた。
その氷の刃は慧音に致命傷を与えうるものではなかっただろう。
しかしそれが悲劇を生む理由になるとは、誰も思わなかった。
「上白沢先生……?」
「え……?」
「な、何が起こったんだ!?」
一同絶句した、慧音は転倒しながらもチルノの攻撃を避けていたが……。
「……あ」
「……ん?」
慧音は誰かに足を掴まれたような気がして転倒した。
それは紫による妨害だったかもしれないが、その程度で負けると思われるのは困る。
チルノの攻撃なんて、難なく避けたつもり……だったが、起き上がろうとする慧音を見て、チルノが酷く動揺している。
「あれ……?」
立ち上がろうとして地面についた手に、何かが絡みついた。
滑らかな感触、触り慣れているような気がする……慧音は視線を落とし、言葉を失った。
「これは……」
掴み上げたそれは、月明かりを受けて青白く輝いている。
それは慧音の髪の毛。そっと髪を撫でると、左後ろが首の辺りでザックリと切り落とされていた。
「よ、良かった……髪の毛だけか」
「……そうでもないかもしれないわ」
「え?」
それを見た藍は安堵したが、永琳は深刻そうな表情を浮かべている。パチュリーも眉間にしわを寄せていた。
永琳に言われて藍が慧音の方に目をやると、髪の毛を掴んだままうつむいている。
「な、なんだ……?」
「貴女は髪が短いからね、わからないかもしれないけど」
古来、髪は女の命と言う。
慧音は頭が固く、考え方が古い。そんな慧音の髪の毛は……と心配した永琳だったが、不安は的中したらしい。
土にまみれた髪の毛をかき集め、大事そうにすくい上げて……そのまま胸に押し付け、黙り込んでしまっている。
チルノはその異様な空気に呑まれ、身動きをとることすらできずに慧音を見下ろしていた。
「あう、あう……か、かかってきなさいよ……」
「……」
慧音もチルノも、さっきまでの勢いはどこへやら……辺りに漂う居心地の悪い空気に呑み込まれている。
激しい弾幕戦の最中に何かが壊れてしまうのはけして珍しいことではない。
「不慮の事故は覚悟しておく」というルールもある、だからこそ本人が大切にしているような物は狙わないのが粋だが……。
意識していたって、相当な力の差が無ければ事故は起きてしまう、取り返しのつかない事故が起こる。
鈴仙の耳が取れたり、霊夢が付け腋毛を付けられたり、魔理沙の箒が折れたり……そんな事故も起こる。
「決闘は中止にしましょう、上白沢先生……」
「うぅ……あ、あたい悪くないもん……」
「そうね……これは事故だわ」
永琳はチルノの頭を一撫でしてから慧音の肩を抱き、連れて行った。
慧音はその場から立ち去る間も、ずっと大切そうに髪の毛を抱きしめていた。
チルノは周囲に撒き散らしている冷気を抑えると、そのまま呆然と慧音の背を見送った。
他の生徒達もしんみりと静まり返り……髪の長い者は、自分の髪を撫でて考え込んだりしている。
慧音が門の辺りまで歩くと、パチュリーも永琳の反対側から肩を抱き、慧音を慰めた。
「……んー、しかし……」
紫の長髪を梳かすだけで腹一杯な藍は、自分の髪の毛も橙の髪の毛も短くしている。
紫のものを見ているだけに、その美しさは知っているが……そんなに悲しいものなのか、少し釈然としない。
それに慧音が転んだのもあまりに出来すぎている話ではなかろうか。藍は腕組みをしたまま唸った。
「……ん?」
なんとなく横に視線を流すと、紫が突っ立ったまま青ざめてブルブルと震えている。
今までは余裕の表情で笑っていたくせに……その額には大量の脂汗、視線は虚空を漂い、動揺は明らか。
もしや、この人……。
「紫様……」
「な、なにかしら藍? ……貴女も上白沢先生を慰めた方が良いと思うの。そのふさふさな尻尾で」
「……足、掴んだんですか?」
「……」
「……」
「……掴んじゃった、てへっ☆」
やっぱりか。
紫は青い顔に無理矢理笑顔を貼り付け、震える拳を軽く握り、ペロンと舌を出しながら自分の頭を小突いた。
もっと荒れさせて楽しもうとしたら、シャレにならない事故が起きてしまってビビっているようだ。
「……悪ふざけも大概にしてくださいよ……」
「ら、藍!? いつからそんな反抗的になったの!?」
藍は紫にソッポを向いて、不機嫌そうにユサユサと尻尾を揺すりながら紅魔館の門をくぐった。
紫はその背を追うことができなかった。
(ち、チクっちゃダメよ、藍……)
まずい、あまり恨みを買うと決闘が終わった後にこっ酷い復讐をされる恐れがある。
紫もそろそろ安全地帯からずり落ち始めた……このままだと、卒業式の後に春一番をやられるかもしれない。
春一番とは、ヤンキーが卒業した後に「お世話になった」教師達に肉体言語でお礼をすることである。
卒業式があるのかもわからないし、藍達は教師の立場だから少々語弊はあるかもしれないが……。
一方、チルノの周りには数人の生徒達が集まり、声をかけている。
「ち、チルノ……勝ったのかな? 私達……」
「……わかんない」
一言だけそう返し、チルノも学生寮へと戻っていった。
翌日、早めの出勤をした永琳の手には薬瓶が握られていた。
その薬瓶には「モサモサG」と殴り書きされている。そう、永琳特製の育毛剤である。
これを頭にすり込めばきっと慧音の髪の毛は元に戻るはず……。
「自然に伸びた方が良いんじゃないの? 私なら断るわ」
「まぁ、確かにそうかもしれないけれど……」
パチュリーは仕事前の時間を紅茶と読書で過ごしつつ、横に座る永琳にそう言う。
確かに慧音はこういった方法を好まないかもしれないが……あれだけ悲しんでいたのに、薬を隠しておくのも気分が悪い。
永琳はパチュリーの読書机に飾ってある小さなカレンダーを眺め、今日が八日目であることを思い出した。
もう決闘も何も滅茶苦茶になってしまったが、紅魔館での教師生活もこれで折り返し地点まで来た。
「……今日からまともな決闘になるのかしら」
「さぁ? 慧音次第じゃないの?」
「そうね」
ぬるくなった紅茶を胃の腑へ流し込み、パチュリーは教材をまとめて立ち上がった。
そういえば永琳に本を盗まれていたっけ……忙しすぎて失念していた。
まぁ、永琳にとってそれほど有用な本とも思えない。案外、この決闘が終わったら素直に返却してくれるかもしれない。
(なんだか、私もゆるくなってしまったのかしらね)
こんなにも何かに一生懸命になるのは久しぶりな気がする。
そして教室に戻れば、またあの出来の悪い生徒達が待っている。
更生してるのかどうかも不明だが、昨日の様子じゃ大分懲りたのではなかろうか。
「おはよう」
「お、おはよう……」
二人は教室に向かう途中、慧音に遭遇して言葉を失った。
「その髪……」
「どうだ、似合うか?」
向かって右側だけ短いのもかっこ悪いと思ったのか、慧音は髪の毛全体を短くしてしまっていた。
こざっぱりとしたショートヘアー、似合わないことは無いが……。
そんな二人の気も知らず、慧音は子供のように無邪気な笑顔を作る。
「今日から折り返しだ。心機一転、気分を入れ替えて行こうじゃないか」
何も応えることができなかった……そんな二人を尻目に、慧音は時計を見て「おっと」と呟くと、教室へと歩いていった。
薬瓶を見せるのも忘れ、永琳は呆然とその場に立ち尽くした。
生徒達も慧音を見て驚いたのだろう、いつものような反抗的な態度は微塵も見せない。
かと言って髪の毛を凝視するのも悪い気がして、机に彫ったしょうもないラクガキを見つめるでもなく見つめていた。
「おはよう」
「お、おはようございます……」
「……」
「チルノ、挨拶は?」
「ぅ……」
チルノは完全に萎縮してしまっていた、罪の意識があるのだろう。
今までのいたずらは一時的な被害しか無いものだったが、この事故は少し重過ぎる。
借りてきた猫のように、肩をすくめてうつむいている。慧音がチルノの席まで歩くと、さらに縮こまった。
「……ごめんなさい」
そう小さく呟いて、チルノはそのまま一言も発さなくなった。
昨日の、落胆する慧音の姿がよほど効いたのだろう。
慧音もチルノを見下ろして少時考え込んだが……ぐっと拳を握り、それをチルノの頭に軽く振り下ろした。
「痛っ!?」
「ばかもん、朝の挨拶は『おはよう』だろう」
「あ、え? お、おはよう……」
「この髪の毛のことは気にするな。事故だ、仕方がない。私も慢心していた」
そう言って少し悲しそうに、でもチルノを安心させようと、慧音は優しく微笑んだ。
そして罪の意識から解放されたチルノの目に、思わず涙が浮かぶ。
「あたいの……負けよ」
「泣くな、やれやれ……よし、皆聞け!」
慧音の心の広さを見せ付けられたこと、そしてそれに敗北感を感じてしまった悔しさ。
チルノは机にうつ伏せて小さく肩を震わせ始めた。
妖精は無邪気でシャレにならないこともするが、それも単純で素直な精神構造から来るものなのかもしれない。
全てがそういう妖精ばかりではないだろうが、少なくともチルノはそうだったのだろう。
慧音は教壇に立ち、教卓に両手をついて語り始める。
「私の髪の毛などまた伸びる、たまにはこういう気分転換も良いさ」
「……」
「だがお前達とここで一緒に勉強できるのは残り七日間だけだ、取り戻すことはできない」
「……せんせえ……」
「せっかくだ、良い思い出にしたいじゃないか……昨日までのことは忘れて、一緒に学んでいこう」
「先生ーっ!!」
生徒達が皆立ち上がり、慧音に向かって走り出す。
そして慧音の腰に抱きついて泣き始めた。
「先生!! あたし、本当は結構一生懸命やってたの!! でもわかんなくて、それで、それで……」
「ああもういい! わからなければわかるまで付き合ってやるさ!」
「いっつも咲夜さんにこき使われて、ストレスたまってたんです。うあぁぁぁん!!」
そう言ってそのメイドは、涙目でキョロキョロと辺りを見回した。咲夜が居ないのを確認したらしい。
結構邪悪だった。
「しっかり学んで、咲夜を見返してやれるぐらいになればいいんだ!」
慧音もそう言っておいて、そこまで育てるのは一週間じゃ無理だな、と思った。
というか一生かかっても無理だな、と思った。
結構薄情だった。
「せんせえーっ!!」
「な、なによこれ……」
なんだこの茶番は……バカはこうやって手懐ければいいのか……パチュリーは額に滲む汗を拭った。
隣では永琳がワナワナと身を震わせている、慧音がここまでやり手だったとは……。
生徒達が更生した今になって、寺子屋での忌まわしい記憶が蘇る……。
「ヒッ!?」
「ど、どうしたのよ永琳……?」
「今ニヤッてした! 上白沢先生がニヤッてしたの!!」
「ニヤ……?」
慧音が永琳の方を見て邪悪な笑顔でも浮かべたらしい。
……もしかすると計算ずくだったのか? 永琳は慧音の心が見えなくなった。
取り乱し、パチュリーの両肩を掴んで乱暴に揺する……。
パチュリーは鬱陶しく思ったが、鬼気迫る表情の永琳の迫力に圧され、抵抗することを忘れてしまう。
そして……。
「か、髪を切るだけで人気者になれるなら、わわわ、私だってやってやるわよ!!」
「やめなさいよ!! 何してるの!?」
パチュリーが取り押さえるより先に、錯乱した永琳はぶっとい三つ編みを顔の前に持ってきて、手刀で切り落とした。
しかしすぐに髪の毛だけリザレクションした。
「う、うぅっ!! 不死の身が!! この不死の毛が憎い!!」
女の命を超えた永琳の度胸には驚いたが、ほつれてよれよれになった永琳の髪を見てパチュリーは、
(貧乏パーマ……)
としか思わなかった、しかしそれは口にしないことにした。
ついでに言えば咲夜や美鈴もたまにモミアゲだけ貧パになってるな、とか、その程度の感想しか湧かなかった。
三つ編みしている者の宿命なのだろう。
こうして生徒達とのいさかいは消滅……今後は教師同士の対決が始まる。
はて、八雲一家は?
「紫様……」
「ほんとに、ほんとにチクらないで! 藍!!」
紫が図書館の隅っこで、藍に賄賂のいなり寿司を渡していた。
紫様の料理なんて久しぶりだな、と思って口に含んだそれは、米がボッソボソで不味かった。
(料理してませんもんね、紫様……)
大失敗した紫の運命や如何に。
小さな体に見合わない、大きくて豪華なベッド。
レミリアは緩慢な動作で身を起こすと、頭上に腕を上げて思い切り背伸びをし、大あくびをかいた。
そして寝ぼけ眼で壁にかかっている大きな時計を見ると、まだ午前中。
普段ならまだまだ寝ている時間だが、今は魔法図書館で面白いことをやっている。
「お嬢様、入ってもよろしいでしょうか?」
「いいわよ~」
部屋の戸が叩かれ、聞き慣れた咲夜の声が聞こえる。
流石は咲夜、レミリアが起きたことに気が付いたらしい。
咲夜はいつだって、どこだって、レミリアが目を覚ますと即座に駆けつけてくれる。
顔を洗い、歯を磨き……身だしなみを整えたレミリアは、咲夜を従えて魔法図書館へと。
長くて紅い廊下を、その小さな歩幅で進んでいく。
「今、丁度面白いことになっていますわ」
「面白いことって?」
「それは見てのお楽しみです、お嬢様」
「まぁ咲夜ったら、焦らし方までパーフェクトなのね」
別にそんなところまでパーフェクトじゃなくていい。
しかもなんか台詞がエロい。
「紫の奴は?」
「ちゃんと早起きして駆けつけてますよ。本当、こういうときは元気ですわね」
「まぁ、豆のときにちゃんと参加できなかったのを悔しがっていたしね」
紫は節分のとき、レミリアに豆をぶつける大会には参加していなかった。
理由は冬眠していたから。そんなもんである。
「さ、二時間目が終わる前にどうぞ……お食事はすぐにお持ちいたします」
「今日は……」
言いかけるレミリアの口を、咲夜は人差し指でそっと塞ぎ、柔らかく微笑んだ。
「納豆の日ですね。それも、生卵をかけたもの……」
「……ふふっ、お願いね」
咲夜には「レミリアが納豆を食べたいタイミング」がわかるそうだ。
そんなところまでパーフェクトでなくては務まらない紅魔館のメイド長。
なのに何故、他のメイドはあれほどバカでも許されるのか、今回の問題はそこにある。
「あ、い、う、え、お……っと」
「あいうえおー」
「ブフッ!!」
「子育て永琳先生……ブフッ!!」
「クッ!!」
「くっ」
永琳が何かを話すたびに、くくりつけられた……もとい、背負われた藍が嬉しそうにそれを復唱する。
そんな永琳の情けない様子は、メイド達のツボらしい。
驚くべきは藍の知能の高さ、少し前は言葉を理解していなかったのに、既に話し始めているのだ。
だがもちろんメイド達はそんなことに気付くはずもない。バカだった。
「藍先生、お願いだから大人しくして……」
「らんせんせいおねがいだからおとなしくして」
「ちょっとここに座ってなさい……」
「ちょっとここにすわってなさいー」
――い、いかん! 八意先生……その椅子は……ッ!!――
ブーッ!!
「ヒッ!?」
「ブフッ!!」
「クッ!? ブフッ!!」
おんぶ紐を外して藍を椅子に座らせた瞬間、教室にまたもあの忌々しい音が鳴り響いた。
藍がでっかいのを一発かましたのかと思った永琳は、驚きのあまり腰を抜かす。
しかし当の藍は、不思議そうな顔で座布団の下を探って、すぐにブーブークッションを引きずり出した。
やはり知能が高い。
(そ、そうよね……美少女からガスは出ないわ)
それは一つの神話。
永琳はホッと胸を撫でおろした。
「ブフーッ! へっぽこ永琳先生だわ!」
「れ、レミリア!?」
紫も腹を抱えて笑っている横で、レミリアは永琳を指差して涙を流しながら笑っている。
陰から見守る慧音は、永琳がそういった心理作戦に翻弄されないことを祈った。
「かっこわるー!! 永琳先生のドキドキ☆レッスン!! ブフッ!!」
「な、なんだかよくわからないけど頭に来るわ……!!」
歯を食いしばり、額に血管を浮かせて憤る永琳。
しかし不意に、そんな永琳の頭を撫でる者があった。
「おこったら、だめ」
「ら、藍!? 貴女、もう言葉の意味を!?」
記憶を取り戻しているのか、はたまた凄まじい速度で学習しているのか……。
その辺は明確でないが、藍は永琳を慰め、あどけない表情でにっこり笑った。
(……危なく、自分を見失うところだったわ)
大笑いする生徒達、しかし橙だけは悲しそうに見つめている。
藍をあんな状態にしてしまったことも悲しいが、自分のことを覚えていないこともまた、悲しかった。
橙の目に涙が浮かび……そしてそれを隠すように、そっと机にうつ伏せた。
藍のおかげで永琳はかろうじて自分を取り戻した。
しかし授業内容は最悪……皆、藍に気を取られて終始笑い転げていた。
「あのバカメイドども……!! 少しはうちの藍を見習ったらどうなの!?」
自分に身をすり寄せる藍の頭を撫でながら、永琳は歯をギリギリと噛み締めている。
それにしても「うちの藍」って。
藍は八雲一家であって、けして永琳の娘ではないのだが……永琳もその気になりつつあるのか。
「まぁ落ち着け、八意先生……私もやられたよ、あの悪魔の椅子に」
「上白沢先生……そういうことは先に言って頂戴!」
「すまない、お前がいきなり藍を背負ってきたことに驚いて、注意するのを忘れていた……」
「しっかりしてよ……!!」
責任の押し付け合い。教師達の歩調が乱れ始めた。
パチュリーのパワーハラスメントも、慧音の頭突きも……生徒達には効果が無い、すぐに立ち直ってしまう。
あまつさえ情けない永琳の姿、おかしくなってしまった藍……手の打ちようがない。
二日目にして早くも進退窮まった。
一方ではむせながらも一生懸命語学を教えるパチュリー。
しかしメイド達は目を開けたまま寝て回避していた。
そう、メイド達は目を開けたまま眠る技術を習得したのだ。
授業を受けたくないあまりに、努力して、くだらない高等技術を身につける。
バカとはそういうものである。
この日最後の授業、担当、八雲藍……。
しかしこんな状態の藍が授業などできるはずもなく、ここは慧音が代打として授業を行った。
もちろん上手く行かない、バカ達による変幻自在の嫌がらせを受け、授業は破綻。
普段あまり使っていないバカ達の脳は、ここぞとばかりに活動し、嫌がらせのアイデアを生む。
外界では、教育を受けられない者を哀れむ風潮があるという。
確かに、そういう考え方もあるだろう。
しかしそれを望まない者がいるのも確かで。
教育を望んで受けられない者は哀れに思えるが、そういう者は真の意味でバカだとは言い切れない。
学力の低さがそのまま品位の無さに繋がると言うことではないだろう。
(こいつらはもっと根本的な問題だ……)
慧音は思う。
昨日の永琳の授業で、メイド達が自分の名前を書くことに興味や憧れを抱いた様子はあった。
しかしそこまでだった、自分の名前の書き方を覚えるや否や、あとはどうでも良くなったのだろう。
単刀直入に言えば、学習意欲が無いのだ。
寺子屋の生徒達は曲がりなりにも……親に行かされている者もいるだろうが、表面上は望んで寺子屋に来ている。
人間は脆い。霊夢や魔理沙、咲夜や妹紅のようなイレギュラーも存在するが、人里に住む普通の人間は概ね脆い。
そのくせ知能や社会はある程度発達しているので、何か特技が無くては生きていけなかったりする。
「結構前に湖で泳いでたら、大きな魚に食べられちゃったよー」
こいつらは妖精。妖精は不死身のようなものだ、消滅しても即座に生まれ変わる。
無鉄砲で暢気で奔放……食事も本来必要としない、ありあまる知能などもっての他だ。
「私なんかガマに丸呑みにされて、目玉をへこまして獲物を押し込む感触を知ってるもん!」
「くっ……流石はチルノ……」
そして厄介なのは、チルノが徐々にリーダーとしての頭角を現し始めていたことであろう。
横に構えるサングラスルーミアも、妖精より少し種族として高位の妖怪、一目置かれる副リーダーだ。
橙だけ妙に大人しいのが気がかりだが、橙攻略の鍵となるのは藍の復活。それさえできれば確実だ。
――まずいわ、一刻も早くチルノ包囲網を完成させなくては……そのためにはルーミアを……――
パチュリーは焦っていた。
ルーミアの不真面目さがチルノのテンションを上げ、同時にメイド達の授業態度を悪くしている節がある。
誰か問題児が居ると真似てしまう者が出てくる。ましてこのメイド達の性分は本能的に不真面目だ。
「こいつがここまでやって許されてるんだから、私も」
という心理。
そして似たような者がつるみ始めるとヤンキーと化すのだ。
――ヤンキーになったら終わりよ……!!――
パチュリーの額を、一筋の汗が流れ落ちる。
封建主義から解放されて、学生の身分となったメイド達の自由さは計り知れない。
それはトップ10に選ばれずに普通にメイドを続けている者達が愚痴をこぼし始めたほどだ。
「なんで私達があいつの世話までしないといけないの?」
そんな声が随所で聞こえ始めた。
それを聞いた咲夜は、自分の体の何倍にも及ぶ体積の洗濯物を抱えたまま、そのメイドに跳び蹴りをしたらしい。
何故なら実際世話してるのは咲夜だったからだ。
他のメイドもやっぱりバカだった。
「ハァ、ハァ……あぁ……これは……」
パチュリーが振り向けば、永琳先生が床で丸まって昼寝中の藍の尻尾を弄んでいる。
顔をうずめたり、体に巻きつけたり……戦意喪失したんだかなんだか知らないが、子育てママは役立たず。
(……動物好きなのかしら)
噂では、夜な夜な鈴仙・U・イナバを呼び寄せて耳を甘噛みしているらしい。
それが慧音によるデマゴーグかどうなのかは、慧音か永琳、はたまた鈴仙しか知らない。
(このままではいけないわ)
真面目すぎてバカに翻弄される慧音。骨抜きになってしまった永琳。
あのブーブークッションには呪いでもかかっているのだろうか。
そして団結する生徒達、バラバラになっていく教師達。
外から眺めてほくそ笑む紫……このまま、滅茶苦茶になってしまうのか。
(やらせない、何が何でも……)
多少不本意だが、美鈴に相談してみよう、健康には詳しそうだし。
咲夜も医学知識はそれなりに持っているようだが、今までパチュリーの喘息対策を考案できていない辺り、当てにはならない。
永琳の力ばかり借りるのもなんだか癪だし……。
パチュリーは本を片手に、美鈴の元へと向かった。
三日目、一時間目。パチュリー。
教室の雰囲気は徐々に悪くなっていく。
特に、パワープレイに走ったパチュリーはメイド達に嫌われていた。
この日も教室に入るなり頭上から黒板消しが……寸での所で回避したが、喘息のパチュリーにチョークの粉は厳しい。
(ヤンキーになりかけているわ……)
徐々に攻撃的になる生徒達のいたずら。
元々妖精はいたずらが大好きな種族、そして頭が弱いため、シャレにならないこともやってしまう。
紅魔館のメイド達は、リーダーチルノに触発されて野性を取り戻しつつあるのかもしれない。
「いい加減に五十音ぐらい読み書きできるようになりなさい。さあ、今日こそは真面目に行くわよ」
「やだ」
「やだ」
「やなこった」
「べーっ、だ」
「おもしろくなーい」
もはやパチュリーを恐れる様子など微塵もない、メイド達はあっかんべーをしている。
「そう……」
それを見たパチュリーは手にしていた本を教卓に置き、そっと目を閉じた。
いつもなら雷が落ちるのに、今日のパチュリーは随分と大人しく引き下がる。
(ついにへし折ってやったわ!)
(もっと優しく教えろってのよ……!)
しおらしいパチュリーを見てメイド達はニヤニヤといやらしく笑う。
慧音はからかいやすいから良い、永琳もすぐに空回りする。藍はガラスのハート、怖くない。
自分達にとっての脅威は、力技をも辞さないパチュリーのみ。
しかしここ最近体調が良くないようだ、初日の反動か、普段よりも咳き込む回数が多い。
流石に魔法は威力がありすぎるから使わないようだし、パチュリーから魔法を取ってしまえば、虚弱な読書少女でしかない。
いくら気が強かろうと敵ではない。徒党を組んだ生徒達に恐れるものは何も無かった。
『パチュリー様……この秘孔は……本当に必要だと思ったときだけ、突くようにしてください』
昨夜、突然尋ねてきたパチュリーに驚きながらも、美鈴は心底心配そうに言った。
あんな情けない門番の力を借りるなんて癪だったが、背に腹は替えられなかった。
『肉体を一時的に活性化します。私が使う分には体が丈夫だから問題ないですけど……。
病弱なパチュリー様がやったら、どんな反動が来るかわかったものじゃありません』
――知ったことじゃないわ――
不意にパチュリーが親指を立てて拳を握る。
生徒達はその奇妙な動きに怯えたが、パチュリーは予想に反し、それを自分の下腹に突き立てた。
そして苦しげに「うっ」と一度呻くと、そのまま床にうずくまって身震いを始める。
一瞬唖然とした生徒達だが、すぐに気を取り直し、ヒソヒソ話を始める。
「何してんの?」
「気でも違ったのかな」
「便秘のツボでも押したんじゃないの?」
なんでこんなときに便秘のツボを押すのか。空気読め。
そんなバカ達の様子を気にも留めず、パチュリーはブルブルと震えながら教卓にしがみついて立ち上がる。
そしてチョーク入れをまさぐり、大きくのけぞった。
「気持ち悪い動きだなぁ」
「ゾンビみたい」
「ゾンビ! ブフッ……ギャッ!?」
「イザベラッ!?」
イザベラの額に光の速度で何かが直撃、そのまま壁代わりの本棚まで吹っ飛ばされた。
勢い良くぶち当たったせいで積まれていた本が落下し、イザベラの身を埋める。
「な、な、な……」
「何が起こったの!?」
生徒達は震えながら、墓のように積み重なった本に注目した。
その背後では、手の上でチョークをコロコロと弄ぶパチュリーが不敵に笑っている。
「授業を受けなさい!!」
「ひ、ひい!? みぎゃっ!!」
「ジェシカーッ!!」
続いてジェシカが吹っ飛ぶ。
その正体は、秘孔を突いて超人化したパチュリーの神速チョーク投げだった。
不敵な笑顔のパチュリーだが、その額には脂汗を浮かべている。チョークを放った右腕が震えている。
「ぱ……パチェ……」
初日とは様子が違う、パチュリーは無理をしているのではないか……。
本棚の陰から眺めていたレミリアが動揺している。ちょっとしたいたずらに翻弄されるぐらいなら大笑いしてやるのだが……。
「パチュリー先生! 何をした!? 授業を止めろ!!」
元気なのに顔色の悪いパチュリー、不審に思った慧音は教室に飛び込んだ。
藍も永琳もまともに機能しなくなった今、頼れるのは紅魔館の住人でもあるパチュリーだけだというのに。
「授業妨害しないで!!」
「パチュ……ぐぅっ!?」
パチュリーを助けに入ったつもりの慧音も、チョーク投げの餌食となって本棚に叩きつけられた。
石頭を誇る慧音も、すさまじい速度で飛んできたチョークの痛みには耐え切れず、意識が遠のいていく。
「なんで……お前がそこまで……」
「甘ったれてんじゃないわよ……」
「な……?」
「こいつらは人間じゃないのよ。人間と同じ教え方で、いつまでも通用するわけがないでしょ」
「ぅ……」
「さっさと手を打たないとこいつらはヤンキーになる……そうなる前に押さえ込まないと」
慧音は遠のく意識の中で、無理に笑顔を作るパチュリーを見たような気がした。
それはまるで「後はよろしく頼む」とでも言っているような表情だった。
慧音が目を覚ましたとき既に授業は終了していて、教壇に倒れているパチュリーの姿があった。
駆けつけた永琳が脈を取ったり、呼吸音を聞いたりしている。
そんな大事になってしまったのか? 慧音はズキズキ痛む頭を抱えながら教壇へと駆け出した。
「や、八意先生! パチュリーは……!?」
「……」
永琳が悲しそうに首を横に振った。
「し、死……!?」
藍に続き二人目の犠牲者……しかもパチュリーは死んでしまったのか。
慧音は目に涙をいっぱい溜め、生徒達を睨み付ける。
「お前達……そこまで冷徹だったのか!! お前達が言うことを聞いていれば、パチュリーは、パチュリーは……!!」
「あ、いや死んではないけど」
「えっ!? ま、紛らわしいな!!」
永琳が言うには、しばらく授業は無理だろうということだった。
しかも「多分筋肉痛ひどくて動けないと思う」というショボい理由だった。
慧音はさらに泣いた、そのあまりの肩透かしに。
あと頭に来たので永琳を何回か殴った。思わせぶりなことをしないでほしい。
「ずーいずーいずっころばーし」
「あははははっ」
休憩時間、暢気に遊ぶ永琳と藍を見て慧音は眉をひそめる。
寺子屋の乗っ取りをもくろんだときの、あの邪悪で強力な永琳はどこへ行ってしまったのだろう。
藍のあまりの無邪気さゆえか、尻尾の心地よさゆえか、すっかり腑抜けてしまった。
パチュリーが身を挺して捨石になったというのに、生徒も永琳も気合が入っていない。
生徒達は少し度肝を抜かれたようだが、天敵パチュリーが去ったことを知って、すぐに元に戻った。
(パチュリー先生……無駄死ににはさせないぞ)
一見すると大人しいイメージ。しかしそれに反し、捨て身技で特攻をかけたパチュリー。
その熱い魂は慧音にしっかりと受け継がれた。でも別に死んではいない。
(しかしチルノ包囲網は失敗だな)
ルーミアを落とすはずのパチュリーが脱落した。永琳はやる気が無いからダメだ。
このまま永琳が負けて、永遠亭での威厳を取り戻せなかったら、藍を攫ってどこかに失踪するのではあるまいか。
そう思わせてしまうほどに永琳の表情は緩みきっている、デレデレだ。
教室を眺めると、チルノを中心に生徒達の輪ができている。
もはやチルノは牙城を築き上げた。本人は意識してないのだろうが、事実としてそんな状態になっている。
「氷漬けのカエルよー!!」
「うおーかっこいいぃ!」
「わ、私もほしいぃ!」
「オサ! オサ!」
チルノが机の上に立って、氷漬けのカエルを両手で掲げていた。
それを取り囲むメイド達が狂喜乱舞している。なんだこの不気味な儀式。オサってなんだ。
(どうすれば、どうすればいい……?)
なんとかこの状況を逆利用できないだろうか?
慧音は目を閉じ、頭の中に収められた歴史を手繰って、これと似た状況、そしてそれの解決策を模索した。
三日目はその後、特筆すべきことは無かった。
授業はもちろん揮わない、慧音はからかわれ、永琳には容赦ない嫌がらせが降り注ぎ……。
藍は言語能力を身に付けたので授業に参加し始めたが無視される。ナメきられていた。
負の変化だけはあった……それは生徒達が今まで以上に攻撃的になり始めたこと。
そんな中チルノがもっとも攻撃的、まさしく弾頭となって教師達への攻撃の指揮を執り始めている。
「あいつらに一泡吹かせたら、この氷漬けのカエルをあげるわ!」
というチルノの言葉……そんな気色悪い物、まったくいらないように思えるのだが……。
一体どういう思考回路なのか、転校生を除いた全生徒達がそれを欲しがった。
ここまでの敵対心を植えつけてしまったのはパチュリーの失策かもしれない。
結局慧音はこれといった対策も思いつかないまま、再び居酒屋に足を運んでいた。
「どうすればいい……」
賑やかな居酒屋で、手酌する慧音の周囲だけ時が止まっているようだった。
両手を握り締め、頭を垂れる……チルノを孤立させるつもりが、孤立したのは自分ではないか。
パチュリーの本気は無駄にしたくない、さりとてどうすれば良いかわからない。
何のためにこんな辛いことをしているのかもわからなくなってきた。
永琳も藍もパチュリーも、皆既に戦意喪失や体調不良で脱落、もう決闘などと誰も口にしない。
開始一週間後からが勝負、だなんて気高い理想も、こんな調子では叶うはずがない。
このまま生徒達に振り回され、紫の策略に踊らされ、最後の試験では全員グランドスラム、全教科平均0点。最悪のドロー。
そうしてプライドだけを傷付けられ、自信を失って寺子屋に帰る羽目になるのだろうか。
「慧音」
飲み物も食べ物も手を付けず、落ち込む慧音に声をかける者があった。
彼女が見た慧音の表情はよほど酷かったのだろう、目を丸くして驚いている。
「何泣きそうな顔してんのよ?」
「……妹紅?」
妹紅は少時慧音から目を離し、筍の入った包みを店主に渡す。いくらかの金銭を渡されたが、それはそのまま突き返した。
それで生計を立てているというものでもないのだろう、竹林に筍採りの人間が入らないようにするための予防策に近いのかもしれない。
「なんか大変そうだね、最近」
「……知恵を貸してくれないか」
「ん? いいけど、あんたみたいに賢くないよ、私は」
意外と、第三者の方が冷静な判断をできるかもしれない。
妹紅は人の多さに少し戸惑いつつも、慧音の横に並んで座った。
妹紅の好む環境ではないだろうが、隣に座って相談に乗ってくれる……そんな些細なことが、言葉にできないほど嬉しかった。
一方永琳は、藍をこっそりと永遠亭に連れ帰っていた。
紅魔館を出るときに、橙が今にも襲い掛かってきそうな形相で永琳を睨んでいた。
「ふふふ、今は耐え忍ぶときよ……」
紅魔館のメイド達の嫌がらせなど……ここに住むてゐに統率されたウサギ達の嫌がらせに比べれば屁でもない。
あの狡猾なてゐの知恵は、チルノの単純な思考とは比較にならないのだ。
鬼に金棒、てゐに豆ランチャー。
あの危険な物件をてゐに握らせたことは、永琳の史上、類を見ない大失敗と言えた。
「藍……」
「永琳様」
藍の言動はまだ幼い、しかし読み書きも発音も完璧になった。
元々穏やかな性格だったのだろう、よく永琳に懐いている。
「ふふ、ごめんなさいね……」
――貴女には布石になってもらうわ――
そろそろ機は熟しただろう。橙の感情が爆発したときが記憶を取り戻すチャンスだ。
紫ではダメだ。藍の記憶が戻れば教師達が有利になることをわかっている、だから必要以上に干渉してこない。
永琳が見るに、他のどの教師よりも紫は賢いだろう、慧音との対決も大切だが、捨て置くわけにはいかない。
(敵を騙すにはまず味方から、だものね)
腑抜けたふりをして慧音を孤立させ、精神的に追い詰めた。
だがこの程度でダメになるようなら対決する価値もない。
そして何より……この状態は望んで作ったもの、慧音にチルノ攻略をさせるための策。
パチュリーの自滅だけは予想外だったが、まぁあの程度なら二~三日で復帰するだろう。
そんな思案をする永琳を、藍は不思議そうな顔で眺めていた。
「永琳様? 何が『ごめんなさい』なんですか?」
「なんでもないわ、貴女はお利口さんね」
利口なんだから、復帰してもらわなくては困る。
教室を完全な状態に整えて……一週間後に、皆で生き残って対決するのだ。
それこそが紫にとってもっとも面白くない展開のはず。
あいつは理由も無く、手の込んだ嫌がらせをしてくる。
それをしっかりと反省させてやらなければいけない。
(さて上白沢先生、立ち上がれるかしら?)
慧音とも戦わないといけない、充実している。
(生徒達の、チルノへの信頼が強まれば強まるほど……有利だと気付くべきよ)
頭を潰してしまえば大人しくなるだろう。
問題は慧音がそれに気付き、チルノを徹底的に叩けるかどうかだ。
慧音が潰れたらチルノも永琳がやってしまえば良い、そして最終的なターゲットは紫に切り替える。
「藍、しっぽ!」
「はい!」
藍は正座する永琳の膝に座り、尻尾をもさもさと動かし始めた。
なんだこのプレイ。
「ふふふふふふふ」
尻尾が気持ち良いのはガチだったらしい。
(ま、橙は任せておきなさい。約束は守るわ)
ともあれ永琳先生の闘志は未だ不滅、果たして慧音はどう動くのか。
四日目。
この日の一時間目は藍。もちろん生徒達は言うことを聞かない。
「上白沢先生」
「ん?」
慧音はまだ精神的にも大丈夫そうだ。
ふとした瞬間に疲れを表情に出すこともあるが、目は死んでいない。
「皮肉なものね」
「何がだ」
永琳は授業を上手に行えなくて慌てる藍を助けもせずに話を続ける。
慧音は昨日と違う様子の永琳を不審に思った。永琳は寺子屋で勝負をしたときのような、鋭い表情になっている。
「丁度一週間……七日目が、満月の夜」
「……そうだな」
「角が生えて、上白沢先生が怖くなる日ね」
「ああ」
「楽しみにしてるわ」
永琳が腑抜けたとばかり思っていた慧音だったが、今の会話の中から不穏な意思を感じ取った。
永琳はまだ諦めていない。いや、諦めるどころか、まだ何か水面下で動いている。
(誘導、されているのかな……)
夕べ妹紅と話し合って導き出された一つの答え。
慧音が腹を決めた……最後の大博打……もしかすると、永琳はそうなるように誘導したのか。
しかし、そうだったら良いと望んでいるような気持ちがある。
まだ諦めていないのは自分だけではないのだということが、警戒に値すると同時に心強くもあった。
「う、うーっ。授業を受けてよ……永琳様に怒られちゃう……」
「やだねー」
「数学教えてよー」
ルーミアは数学をやりたいらしい。
サングラスも板についてきた、なんだか妙にニヒルに見える。
「だって、永琳様は語学をやれって言うんだ……」
「永琳様永琳様言い過ぎだよねー、この人」
「そんなに困ってるなら永琳様に助けを求めればー?」
「怖くないけどねー」
「ねー」
「えーりんえーりん、ブフッ!!」
容赦ない生徒達の言葉、後ろではチルノが胸を張って、偉そうに鎮座している。
勉強などしたくない、残り十日間の学生生活を心行くまで満喫するのだ。
パチュリーの恐れていた生徒達のヤンキー化、結局、阻止は失敗したと言える。
「ひっこめー!」
「言葉覚えたてのくせに生意気よ!」
「う、うぅ……」
藍は目に涙を浮かべ、視線で永琳に助けを求めるが、永琳は無表情のまま動かない。
そして藍を助けない永琳を見て橙が憤っている、歯を食いしばって永琳を睨んでいる。
(何故私が助けなければいけないのかしら? あんたのご主人様でしょう、お門違いだわ)
状況を考えれば永琳が助けるのが妥当な流れだが、それは今回の特殊な条件下に限る。
本来なら紫か橙が助けに行くべきだろう、永琳は藍と橙を突き放し、涼しい表情で笑っている。
橙は紫にも助けを求め、目配せをした。しかし紫も橙と目を合わせようとしない。うすら笑っている。
そう、これは永琳が橙を爆発させるために弄した策。
橙も本来なら生徒達に牙を剥いて藍を助けたいところ……しかし残り十日もあるのだ。
ここで他の生徒達と一戦交えて敵対するのは好ましくない。
特にチルノやルーミアは実力的にも侮れないので、喧嘩をしても勝てるかわからない。その上二対一ではさらに分が悪い。
(私にご主人様を盗られて怒ってたくせに、こういうときは助けないの? それは都合が良すぎないかしら?)
永琳の目はそう物語っている。
橙も涙をこぼし始めた、藍に向かって生徒達からいろんな物が投げつけられる。鉛筆、消しゴム……。
藍は頭を抱えてしゃがみ込み、泣き叫んでいる。言葉を覚えたとはいえ、中身はまだ幼い。
本気で戦えばこんなメイド達ごとき数秒で蹴散らせるだろうが、そこまでの闘志をまだ備えていなかった。
そしてついに教室にその声が響く……永琳の待ち望んでいた声が。
「藍様をいじめないで!!」
その声を聞いたとき、思わず笑みがこぼれた。
ようやく動いたか、式の式……さぁ、八雲藍を元に戻すために、少しドラマを演じてもらおう。
ところが……。
「ふふ、その調子……うぐっ!?」
「らんさまをいじめるなぁあぁぁぁ!!」
「え!? なんで私!? ゴフ!! 痛! 痛い!! あぁん!!」
「らんさまをたすけろおぉぉぉおぉ!!」
橙は意外と賢かった。
生徒達に矛先を向ければ自分の立場が悪くなる……遠回しではあるが、いじめているのは永琳も同じだ。
ならば永琳を懲らしめて、藍の救出に向かわせようと言う考えに至った。
そして橙の小さな拳は永琳のみぞおちにピッタリフィット。
「ゴフ! や、やめ……!! やめなさい!! んぅっ!!」
「おっ! なんか知らないけどあいつの方がイジメ甲斐がありそう! 皆、便乗よ!」
「こっ、コラッ……チルノォォォォォ!!」
しゃがみ込んで泣くだけの藍はなんだか面白くないし、少し可哀想だった。
それに比べて永琳を見ろ、殴られているはずなのに喘ぎ声はエロいし、苦しそうに体をくねらす様子もエロい。
番長チルノの掛け声により生徒達はターゲット変更、皆で永琳を取り囲み、短い足で蹴りを入れ始めた。
「痛い!! かっ、上白沢先生!!」
「……」
「校内暴力よ上白沢先生……ッ!!」
暴力と言ったって生徒達と永琳との実力差は明白だ、あのぐらいで永琳はやられない。
生徒達の短くて細い足、それから繰り出されるキックに効果音を付けるなら「ポコポコ!」と言う程度だ、あまり痛くなさそう。
先ほどの鋭い永琳と今の永琳のギャップに唖然として、慧音は固まっていた。
(かっこわるい……)
「ちょ、調子に乗らないでっ!」
永琳が反撃……と言っても軽く突き飛ばしただけなのだが……最前線で蹴りを入れてる橙が跳ね飛ばされ、床に尻餅をついた。
「きゃっ! 痛っ!」
橙が叫んだその瞬間、永琳の背筋に冷たいものがはしった。
何か嫌な気配が……殺意? そして、その方向には藍が……。
「お前! 今、橙をいじめたろ!!」
(え~……記憶戻るタイミング悪すぎ……)
策士、策に溺れた。
永琳は観念し、床の上に大の字に寝転がった。
良いわ私は蓬莱人、永久の身はこんないじめで滅びはしない……。
そして目を見開き、啖呵を切る。
「かかってきなさい!!」
ある意味かっこ良かった。
「う、うぅ……ごふっ……」
「ご、ごめん……そんな事情があったなんて……」
「いいわよもう……」
生徒達の攻撃はなんてこと無かったが、藍の攻撃は半端じゃなく痛かった。
流石、最強の妖怪八雲紫が誇る最強の妖獣、藍のボディーブローは橙のボディーブローの千倍ぐらい痛かった。
藍は腹部を押さえて口から血を垂らす永琳に土下座して謝罪している。
「橙には言い聞かせておくよ……あ、でも流石蓬莱人ね、本気で殴ったのにその程度だったなんて」
(やっぱり本気で殴ってたのね……殺意を感じたもの)
「あ、あ、それと! 少しだけ記憶が残ってる! すごく優しくて温かい背中に背負われた気がするんだ!」
(コイツ意外と現金だわ……)
以前約束を破ったときにEX慧音に死ぬほど頭突きをされたのも辛かったが、今回も相当だった。
不老不死なのが嫌になるぐらい殴られた、今更藍に弁解の余地など無い。
どいつもこいつも、蓬莱人だと思って無茶してくる、永琳は永久の身を呪った。
「ま、結果オーライじゃないか。よくやってくれた、八意先生」
「上白沢先生……」
――あんたが助けに来てくれれば藍にやられずに済んだかもしれないのに。
永琳はこの世の全てを恨んでしまうかと思った。
こうして四日目になんとか藍復活。
パチュリーは筋肉痛でロボットのような動きになっているが、永琳が特製の湿布を渡したお陰で早めに復帰できそうだ。
実質永琳は慧音より良い働きをしてるはずなのだが、報われていないような気がする。
しかし授業の方は相変わらず、だが再び四人揃ったと言うのは心強い。
「上白沢先生、気をつけて。チルノが今までになく反抗的よ」
「……いいよ、かえって好都合だ」
「……やはり上白沢先生」
「ああ、そろそろチルノをやっつける。連中を大人しくさせるのに有効な手段はそれしかない」
「貴女で大丈夫? フフッ……」
「……」
むしろ慧音は先ほど失態をさらした永琳にだけは任せたくなかったが、黙っておくことにした。
「さて、行ってくる」
「橙に頭突きするなよ」
「わかってる、簡単に許してはもらえないかもしれないが、今は協力してくれ」
「冗談よ、こっちだってそれぐらいわかってるさ」
「ああ」
なんとか藍とも一時停戦に持ち込むことができた。
その際に永琳が間に入って仲を取り持った、ここでも良い働きをしている。
永琳は縁の下の力持ちなのだ。もっと評価されて良い。
生徒の一人が地面に耳を付けて、慧音が本棚の隙間から教室に入ってくるタイミングを探っていた。
その後ろには何やら宙から垂れた縄を掴む生徒が一人……二人は目を見合わせて頷く。
そして地面に耳を付けている方の生徒が手を挙げ、指でカウントダウンする。
3……2……1……。
「よーし授業を……ッ!!」
ゴォーン!!
慧音の頭に巨大な金ダライが落下、それは反動で大きく吹き飛び、地面に転がる。
「やった! 成功よ!」
「金ダライ大作戦、成功っ!」
後ろではルーミアがサングラスをかけたままニヤニヤしている。
この金ダライ作戦はルーミアの発案らしい、ルーミアはチルノの振り上げた手にハイタッチを重ねる。
「ほう、連携をとるようになってきたか。そこまで賢いのに文字の読み書きすらできないとはな」
「っ!?」
慧音は笑っている……生徒達は戦慄した、痛がっている様子も無い。銀閣帽子も脱げることなく立派にそびえ立っている。
そして未だに床でグワングワンと耳障りな音を立てている金ダライは、見るも無残にへこんでいた。
「さ、バカにされないように文字の読み書きを勉強するんだ。私は八意先生ほど優しくはないぞ」
「こ、この……」
圧倒的優位に立っていたと思っていたチルノは、慧音の余裕の表情を見て拳を握り締める。
しかし慧音も揺るがない。反り返るぐらい胸を張り、顎を持ち上げ、威圧的な態度でチルノを見下す。
その様子はまさに「かかってこい」と言わんばかりだった。
同じ「かかってこい」でも八意先生とはかなり違った。
あっちはあっちで別の方向にかっこ良かったが。
「随分と反抗的な顔だな、教師に逆らうか」
「きょ、教師って何よ……」
「そんなこともわからずにここに来ていたのか? お前は何も考えていないんだな」
「う、うぅ……」
「お前の思考能力を育てるために私はここにいる、さぁ授業を受けるんだ」
「い、嫌よっ!!」
「お前のためだ!!」
「そんなの知らないもん!」
本棚の陰では、永琳と藍が手に汗を握ってその動向を見守る。
慧音はわざとチルノを挑発しているのだ。短気な相手にそこまで難しいことじゃなかろうが、ここが肝心……。
「ふん、そんなことでは……」
「なによ……」
「いつまで経っても大ガマに一泡吹かせることなど無理だよ、所詮お前はお山の大将だ」
「ッ!!」
「あれは賢い、神格化されていると言っても良い。お前なんて、彼の食料の虫とそう変わらないさ」
「言ったわね!!」
こうして対立は完全に表面化、他の生徒が立ち上がり、チルノの背後を固め始めた。
藍に説得された橙は動かない。
ルーミアもサングラスをずらして少し慧音の顔を見やっただけで、すぐにサングラスをかけ直した。
後ろに控えている永琳は、それを見て悔しそうに歯噛みをした。
(ちっ……ある意味予想通りではあるけど……やはり天然は難しいわね)
橙はともかく、ここでルーミアがチルノの味方についてくれた方が都合が良い。まとめて叩き潰せる。
結局、生徒達を根こそぎ引きずり出すのには失敗した。そしてルーミアは孤立しても動じなさそうなのが気がかりだ。
(パチュリーに何か策はあるのかしら……)
とはいえ、ルーミア一人だけ更生に失敗したとしてそこまでの痛手ではない。
ここはとりあえず慧音の作戦が上手く行くことを願うのみだ。
「どうもお前達を納得させるには、生易しいやり方ではだめらしいな」
「……」
「お前の得意な分野で勝負してやろう、負けたら大人しく授業を受けてもらうぞ」
「やってやろうじゃないの!」
チルノはスカートの中をごそごそと探ると、いくつかのスペルカードを取り出し、慧音の前に突きつけた。
予想通りの展開、文句無しの展開だ……。
「スペルカード戦よ!」
「……良いだろう、望むところだ」
上手い具合に食いついた、ここでチルノを圧倒すれば他の生徒達も逆らわなくなるはずだ。
力技は本来好まないが……、
『こいつらは人間じゃないのよ。人間と同じ教え方で、いつまでも通用するわけがないでしょ』
そんなパチュリーの言葉は的を射ていたように思う。
しかし頭の悪い連中に権力を振りかざしてもどうしようもなかった。
ならば誰にもわかりやすい、単純な力勝負で決着をつければ……。
「ただし一つ条件がある」
「何よ?」
「勝負は三日後……満月の夜だ」
「別に良いけど、それがどうしたってのよ?」
「満月の夜に私の力は最高潮に達する……お前だって、本気を出してない私に勝ったところで自慢になるまい」
「そういうこと! 良いわよ!!」
――上手に乗せたわね、上白沢先生――
チルノの表情も、警戒心むき出しながらどこか晴れ晴れとしたところがある。
よくわからない教育対決に巻き込まれ、暴れるに暴れられずに鬱憤が溜まっていたのだろう。
その上、毎日偉そうなご高説を賜り、爆発寸前だったに違いない。
それが慧音の方から喧嘩を売ってきたのだから、これは都合が良い。
しかも慧音は本気で来るときた、これを叩き潰せば完全にチルノの天下である。
他の教師がここで傍観に徹すると言うのは、慧音とチルノの対決を認めたということにもなる。
黙っていながら、慧音が負けてからあれやこれやと偉そうなことは言えない状況が出来上がる。
チルノは頭ではそこまで考えていないだろうが、感覚としてそれを掴んでいるのかもしれない。
慧音さえ倒してしまえば、ボイコットするもよし、脱走するもよし……。
(本気を出していいなら……私の方が確実だけれど)
本来、チルノとスペルカード戦をするなら永琳か藍辺りが安全牌であろう。
慧音もEX状態ならば相当な実力だが、永琳から見ればいくらかの不安は残る。
チルノが閻魔や死神と戦った経歴を持つという噂もある。事の真偽は定かでないが、それが本当なら楽観はできない。
(まぁ、ここは譲るわ)
今の慧音が負けるはずもなかろう、永琳は漠然とそう感じ、うっすらと微笑んだ。
それから決戦の日まで、不気味な静寂が続いた。
橙は藍の言うことを聞いて真面目になったし、ルーミアは元々表に出て騒ぐ方でもない。
ほっとけば寝ているだけで、そこまで深刻な害は無かったと言うのが実状である。
大騒ぎしていたのはチルノとその周囲を固めるメイド達だったが、決戦への緊張か、それとも何か考えがあってか、急に大人しくなった。
どうせあと三日だと高をくくって、ナメてかかっているだけかもしれない。
しかしその状況は慧音にとっては好都合だった。
ただでさえ満月が近くて気分が高揚するというのに、決戦を控えているせいかことさらに落ち着かなかった。
変に刺激されたら、決戦前に暴走して何か失敗をすることも考えられたのだ。
もしそうなっても永琳や藍が止めてくれるとは思うが……。
その心配も取りこし苦労、結局不安は現実になることなく、表面上は平穏に決戦の夜を迎えることとなった。
二人の決闘を待ち望んでいたかのように、当日の空には雲ひとつなく、誇らしげな満月が紅魔館を見下ろしていた。
「慧音とチルノねぇ」
「不服そうですね、お嬢様」
「幽々子と紫の決闘とかなら面白いのだけれど」
「それはあまりにも物騒ですわ」
「霊夢と咲夜でもいいわ……あ、でも霊夢とは私がやりたいわね」
「私は霊夢と一戦交えるのは遠慮します。是非お嬢様がどうぞ」
見物の二人は暢気なものである。
門の前を掃除して、適当な広さの決闘場を作った。どうせ空中戦になるだろうからこの決闘場はあまり意味を成さないだろう。
そして先に決闘場に現れたのはチルノ。
腕を組んで、胸を張り、眉を吊り上げて仁王立ちしている。
これが慧音だったら絵になるのだが、チルノがやるとどこか間抜けな愛らしさがあった。どうも締りが悪い。
「遅いわ!!」
「まぁまぁ、まだ時間までは少しあるわ……そう焦らないの」
何故かチルノの横に構える紫が、その頭を手のひらでぽんぽんと叩く。
チルノは不愉快そうに頭を振って逃れたが、それでも紫は怒りもせず、不気味に微笑んでいた。
ふと紫が顔を上げると、門の中から永琳とパチュリーが歩いてきた。
ちなみにパチュリーは筋肉痛も回復し、六日目から授業に復帰している。
「あら、上白沢慧音は棄権かしら?」
「えっ!? なによそれ!!」
白々しい紫と、真に受けるチルノ……永琳とパチュリーはそれを見て自信ありげに笑った。
「そんなわけないでしょう。もう来ているわ」
「時計台の頂上を見なさい」
「時計台……」
二人に言われてチルノが視線を上げると、鋭く尖った時計台の天辺に人影があった。
夜風を受けてスカートと銀髪がたなびいている。そしてその頭部には二本の反り返った角が生えていた。
「まぁ、登場シーンに無駄なコストをかけちゃって、ふふ」
「それは本人に言わないように。興奮しているから」
「チルノ、覚悟なさい……あんたらの年貢の納め時よ」
パチュリーはチルノを一睨み。そしてそっと、夜空に向けて手をかざす。
時計台の頂上では、慧音が今か今かとパチュリーからの合図を待っていた。
レミリアや咲夜の傍らで眺める生徒達も、息を飲んでその瞬間を見守った。
「はじめ……!」
パチュリーが夜空に撃ち上げた火球が大爆発し、辺りを照らす。
それで一瞬ひるんだチルノには構わず、慧音は時計台の頂上を勢い良く蹴り、高速で飛んできた。
しかしワーハクタク時のパワーで思いっきり蹴ったもんだから、時計台の頂上が砕けた。
下の方でメイドが潰されて叫び声が響いた。
それを見た咲夜が震えている。
「ちょっ!? 時計台がーっ!!」
「ま、まぁまぁ咲夜、良いじゃないの……」
「よくありません! 修理するのは私なんですよ!!」
咲夜が人差し指をピンと立てた。
学生寮を造ったときにカナヅチで指を叩き、怪我をしたのだろう。その人差し指には絆創膏が張ってあった。
「誰!? あんないらない演出を提案したのは!?」
「……」
永琳が申し訳なさそうに手を挙げた。
「お前かーッ!!」
永琳の顔面に咲夜の鉄拳がめり込んだ。
――厄年なのかしら……――
美しい放物線を描いて吹っ飛びながら、永琳はそんなことを思う。本当、何やっても裏目に出る。
でも博麗神社は胡散臭いので、あそこに厄払いに行くのは嫌だな、と思った。
「ひぃ! ひぃっ!? うわぁぁっ!!」
「どうしたチルノ!! 待ち望んでいた決闘だぞ!! スペルカードを使って来い! ……さぁっ!!」
「こ、こんなになるなんて聞いてないよ!!」
「今更何を言ってる……!!」
チルノが必死に氷塊を投げつけても、慧音はそれを軽やかに回避、たまに余裕を見せて拳で破砕したりしている。
完全に役者が違ったか……慧音は少し拍子抜けしつつも、本来の目的は今後の授業を円滑に進めるという一点のみ。
大人気ないかもしれないが、ここは油断せずにチルノを徹底的にやり込めなければいけない。
「お前が背を向けようが、私は容赦しないぞ!!」
「こ、このっ!!」
「おっと……危ない危ない」
チルノは徐々に距離を詰められる。どんなに全力で弾幕を張っても、慧音は力ずくで突破してしまう。
何よりも力の差を思い知らせるのは、慧音が一切の弾幕、スペルカードを使用してこないことだった。
弄ばれていることにようやく気付いたチルノは、目の色を変えて弾幕の密度を上げていく。
しかしそれでも慧音には通用しなかった。
両手で氷塊を弾き飛ばし、一歩一歩ゆっくりとチルノを追い詰めていく。
「この程度の弾幕じゃ私は倒れない! 本気のスペルカードを見せてみろ!」
「くっ、くっそーっ!」
ついにチルノがスペルカードに手をかけた。
余裕で勝った方がかっこいい、ということで切り札はとっておきたかったが……。
「フロストコラムス!!」
「来たか!!」
今度は手で氷塊を投げつけるのとは違う。
チルノの魔力が氷の刃となり、群れを成して慧音に襲い掛かった。
「なかなかやる……だがまだ、この程度!!」
「くぅぅぅぅぅぅ!!」
チルノは慧音に向かって両手を広げ、ありったけの魔力を搾り出して攻撃を試みる。
しかし、それでも……幾分引き締まったが、慧音の表情にはまだ余裕が見えた。
両手で足りなくなったのか角で弾き飛ばしたりもしているが、その顔はニヤけている。
そして髪の毛を乱すこともない。
頭の動きに合わせて揺れ動く慧音の銀髪は、まるで月明かりに照らされる川の流れのように流麗で美しかった。
それこそが圧倒的な慧音の優位を思い知らせていた。
「一見荒々しいけど、なんだか上品ですわね」
「角ってどうやったら生えるのかしら、咲夜」
「え……?」
――お嬢様、角が欲しいのですか? ですがその願いばかりは、咲夜にも叶えられそうにありません……。
「お嬢様にはご立派な翼があるではないですか」
「うーん……あのリボンも可愛いわ……むー」
「……」
レミリアと咲夜は相変わらずそんな具合だったが、それ以外は皆表情を強張らせていた。
慧音の勝利を祈る教師達も、逆にチルノの勝利を祈る生徒達も……そして、紫も表情を曇らせていた。
「さて、そろそろ手が届くぞ、頭突き一発で終わらせてやろう」
「な、なんで抜けてくるのよーっ!!」
チルノの攻撃も大したもので、遠くから眺めているメイド達は同じ種族でここまでの力の差があるのかと驚愕していた。
やはりリーダーはチルノ……しかし慧音はさらにその上を行っていた。
距離が縮むにつれチルノの攻撃は激しさを増すが、慧音はところどころかすり傷がある程度で一度も直撃を受けていない。
「よし、捕まえ……っ!?」
「わっ、うわぁぁぁっ!!」
慧音の指先がチルノの鼻に触れた。
圧倒されて半狂乱になったチルノが最後の抵抗として、ひときわ大きな氷の刃を手に持ち、振り下ろした。
そのとき、慧音が突然蹴躓き、大きく姿勢を崩した……。
つんのめった慧音の首の横を、氷の刃がかすめた。
その氷の刃は慧音に致命傷を与えうるものではなかっただろう。
しかしそれが悲劇を生む理由になるとは、誰も思わなかった。
「上白沢先生……?」
「え……?」
「な、何が起こったんだ!?」
一同絶句した、慧音は転倒しながらもチルノの攻撃を避けていたが……。
「……あ」
「……ん?」
慧音は誰かに足を掴まれたような気がして転倒した。
それは紫による妨害だったかもしれないが、その程度で負けると思われるのは困る。
チルノの攻撃なんて、難なく避けたつもり……だったが、起き上がろうとする慧音を見て、チルノが酷く動揺している。
「あれ……?」
立ち上がろうとして地面についた手に、何かが絡みついた。
滑らかな感触、触り慣れているような気がする……慧音は視線を落とし、言葉を失った。
「これは……」
掴み上げたそれは、月明かりを受けて青白く輝いている。
それは慧音の髪の毛。そっと髪を撫でると、左後ろが首の辺りでザックリと切り落とされていた。
「よ、良かった……髪の毛だけか」
「……そうでもないかもしれないわ」
「え?」
それを見た藍は安堵したが、永琳は深刻そうな表情を浮かべている。パチュリーも眉間にしわを寄せていた。
永琳に言われて藍が慧音の方に目をやると、髪の毛を掴んだままうつむいている。
「な、なんだ……?」
「貴女は髪が短いからね、わからないかもしれないけど」
古来、髪は女の命と言う。
慧音は頭が固く、考え方が古い。そんな慧音の髪の毛は……と心配した永琳だったが、不安は的中したらしい。
土にまみれた髪の毛をかき集め、大事そうにすくい上げて……そのまま胸に押し付け、黙り込んでしまっている。
チルノはその異様な空気に呑まれ、身動きをとることすらできずに慧音を見下ろしていた。
「あう、あう……か、かかってきなさいよ……」
「……」
慧音もチルノも、さっきまでの勢いはどこへやら……辺りに漂う居心地の悪い空気に呑み込まれている。
激しい弾幕戦の最中に何かが壊れてしまうのはけして珍しいことではない。
「不慮の事故は覚悟しておく」というルールもある、だからこそ本人が大切にしているような物は狙わないのが粋だが……。
意識していたって、相当な力の差が無ければ事故は起きてしまう、取り返しのつかない事故が起こる。
鈴仙の耳が取れたり、霊夢が付け腋毛を付けられたり、魔理沙の箒が折れたり……そんな事故も起こる。
「決闘は中止にしましょう、上白沢先生……」
「うぅ……あ、あたい悪くないもん……」
「そうね……これは事故だわ」
永琳はチルノの頭を一撫でしてから慧音の肩を抱き、連れて行った。
慧音はその場から立ち去る間も、ずっと大切そうに髪の毛を抱きしめていた。
チルノは周囲に撒き散らしている冷気を抑えると、そのまま呆然と慧音の背を見送った。
他の生徒達もしんみりと静まり返り……髪の長い者は、自分の髪を撫でて考え込んだりしている。
慧音が門の辺りまで歩くと、パチュリーも永琳の反対側から肩を抱き、慧音を慰めた。
「……んー、しかし……」
紫の長髪を梳かすだけで腹一杯な藍は、自分の髪の毛も橙の髪の毛も短くしている。
紫のものを見ているだけに、その美しさは知っているが……そんなに悲しいものなのか、少し釈然としない。
それに慧音が転んだのもあまりに出来すぎている話ではなかろうか。藍は腕組みをしたまま唸った。
「……ん?」
なんとなく横に視線を流すと、紫が突っ立ったまま青ざめてブルブルと震えている。
今までは余裕の表情で笑っていたくせに……その額には大量の脂汗、視線は虚空を漂い、動揺は明らか。
もしや、この人……。
「紫様……」
「な、なにかしら藍? ……貴女も上白沢先生を慰めた方が良いと思うの。そのふさふさな尻尾で」
「……足、掴んだんですか?」
「……」
「……」
「……掴んじゃった、てへっ☆」
やっぱりか。
紫は青い顔に無理矢理笑顔を貼り付け、震える拳を軽く握り、ペロンと舌を出しながら自分の頭を小突いた。
もっと荒れさせて楽しもうとしたら、シャレにならない事故が起きてしまってビビっているようだ。
「……悪ふざけも大概にしてくださいよ……」
「ら、藍!? いつからそんな反抗的になったの!?」
藍は紫にソッポを向いて、不機嫌そうにユサユサと尻尾を揺すりながら紅魔館の門をくぐった。
紫はその背を追うことができなかった。
(ち、チクっちゃダメよ、藍……)
まずい、あまり恨みを買うと決闘が終わった後にこっ酷い復讐をされる恐れがある。
紫もそろそろ安全地帯からずり落ち始めた……このままだと、卒業式の後に春一番をやられるかもしれない。
春一番とは、ヤンキーが卒業した後に「お世話になった」教師達に肉体言語でお礼をすることである。
卒業式があるのかもわからないし、藍達は教師の立場だから少々語弊はあるかもしれないが……。
一方、チルノの周りには数人の生徒達が集まり、声をかけている。
「ち、チルノ……勝ったのかな? 私達……」
「……わかんない」
一言だけそう返し、チルノも学生寮へと戻っていった。
翌日、早めの出勤をした永琳の手には薬瓶が握られていた。
その薬瓶には「モサモサG」と殴り書きされている。そう、永琳特製の育毛剤である。
これを頭にすり込めばきっと慧音の髪の毛は元に戻るはず……。
「自然に伸びた方が良いんじゃないの? 私なら断るわ」
「まぁ、確かにそうかもしれないけれど……」
パチュリーは仕事前の時間を紅茶と読書で過ごしつつ、横に座る永琳にそう言う。
確かに慧音はこういった方法を好まないかもしれないが……あれだけ悲しんでいたのに、薬を隠しておくのも気分が悪い。
永琳はパチュリーの読書机に飾ってある小さなカレンダーを眺め、今日が八日目であることを思い出した。
もう決闘も何も滅茶苦茶になってしまったが、紅魔館での教師生活もこれで折り返し地点まで来た。
「……今日からまともな決闘になるのかしら」
「さぁ? 慧音次第じゃないの?」
「そうね」
ぬるくなった紅茶を胃の腑へ流し込み、パチュリーは教材をまとめて立ち上がった。
そういえば永琳に本を盗まれていたっけ……忙しすぎて失念していた。
まぁ、永琳にとってそれほど有用な本とも思えない。案外、この決闘が終わったら素直に返却してくれるかもしれない。
(なんだか、私もゆるくなってしまったのかしらね)
こんなにも何かに一生懸命になるのは久しぶりな気がする。
そして教室に戻れば、またあの出来の悪い生徒達が待っている。
更生してるのかどうかも不明だが、昨日の様子じゃ大分懲りたのではなかろうか。
「おはよう」
「お、おはよう……」
二人は教室に向かう途中、慧音に遭遇して言葉を失った。
「その髪……」
「どうだ、似合うか?」
向かって右側だけ短いのもかっこ悪いと思ったのか、慧音は髪の毛全体を短くしてしまっていた。
こざっぱりとしたショートヘアー、似合わないことは無いが……。
そんな二人の気も知らず、慧音は子供のように無邪気な笑顔を作る。
「今日から折り返しだ。心機一転、気分を入れ替えて行こうじゃないか」
何も応えることができなかった……そんな二人を尻目に、慧音は時計を見て「おっと」と呟くと、教室へと歩いていった。
薬瓶を見せるのも忘れ、永琳は呆然とその場に立ち尽くした。
生徒達も慧音を見て驚いたのだろう、いつものような反抗的な態度は微塵も見せない。
かと言って髪の毛を凝視するのも悪い気がして、机に彫ったしょうもないラクガキを見つめるでもなく見つめていた。
「おはよう」
「お、おはようございます……」
「……」
「チルノ、挨拶は?」
「ぅ……」
チルノは完全に萎縮してしまっていた、罪の意識があるのだろう。
今までのいたずらは一時的な被害しか無いものだったが、この事故は少し重過ぎる。
借りてきた猫のように、肩をすくめてうつむいている。慧音がチルノの席まで歩くと、さらに縮こまった。
「……ごめんなさい」
そう小さく呟いて、チルノはそのまま一言も発さなくなった。
昨日の、落胆する慧音の姿がよほど効いたのだろう。
慧音もチルノを見下ろして少時考え込んだが……ぐっと拳を握り、それをチルノの頭に軽く振り下ろした。
「痛っ!?」
「ばかもん、朝の挨拶は『おはよう』だろう」
「あ、え? お、おはよう……」
「この髪の毛のことは気にするな。事故だ、仕方がない。私も慢心していた」
そう言って少し悲しそうに、でもチルノを安心させようと、慧音は優しく微笑んだ。
そして罪の意識から解放されたチルノの目に、思わず涙が浮かぶ。
「あたいの……負けよ」
「泣くな、やれやれ……よし、皆聞け!」
慧音の心の広さを見せ付けられたこと、そしてそれに敗北感を感じてしまった悔しさ。
チルノは机にうつ伏せて小さく肩を震わせ始めた。
妖精は無邪気でシャレにならないこともするが、それも単純で素直な精神構造から来るものなのかもしれない。
全てがそういう妖精ばかりではないだろうが、少なくともチルノはそうだったのだろう。
慧音は教壇に立ち、教卓に両手をついて語り始める。
「私の髪の毛などまた伸びる、たまにはこういう気分転換も良いさ」
「……」
「だがお前達とここで一緒に勉強できるのは残り七日間だけだ、取り戻すことはできない」
「……せんせえ……」
「せっかくだ、良い思い出にしたいじゃないか……昨日までのことは忘れて、一緒に学んでいこう」
「先生ーっ!!」
生徒達が皆立ち上がり、慧音に向かって走り出す。
そして慧音の腰に抱きついて泣き始めた。
「先生!! あたし、本当は結構一生懸命やってたの!! でもわかんなくて、それで、それで……」
「ああもういい! わからなければわかるまで付き合ってやるさ!」
「いっつも咲夜さんにこき使われて、ストレスたまってたんです。うあぁぁぁん!!」
そう言ってそのメイドは、涙目でキョロキョロと辺りを見回した。咲夜が居ないのを確認したらしい。
結構邪悪だった。
「しっかり学んで、咲夜を見返してやれるぐらいになればいいんだ!」
慧音もそう言っておいて、そこまで育てるのは一週間じゃ無理だな、と思った。
というか一生かかっても無理だな、と思った。
結構薄情だった。
「せんせえーっ!!」
「な、なによこれ……」
なんだこの茶番は……バカはこうやって手懐ければいいのか……パチュリーは額に滲む汗を拭った。
隣では永琳がワナワナと身を震わせている、慧音がここまでやり手だったとは……。
生徒達が更生した今になって、寺子屋での忌まわしい記憶が蘇る……。
「ヒッ!?」
「ど、どうしたのよ永琳……?」
「今ニヤッてした! 上白沢先生がニヤッてしたの!!」
「ニヤ……?」
慧音が永琳の方を見て邪悪な笑顔でも浮かべたらしい。
……もしかすると計算ずくだったのか? 永琳は慧音の心が見えなくなった。
取り乱し、パチュリーの両肩を掴んで乱暴に揺する……。
パチュリーは鬱陶しく思ったが、鬼気迫る表情の永琳の迫力に圧され、抵抗することを忘れてしまう。
そして……。
「か、髪を切るだけで人気者になれるなら、わわわ、私だってやってやるわよ!!」
「やめなさいよ!! 何してるの!?」
パチュリーが取り押さえるより先に、錯乱した永琳はぶっとい三つ編みを顔の前に持ってきて、手刀で切り落とした。
しかしすぐに髪の毛だけリザレクションした。
「う、うぅっ!! 不死の身が!! この不死の毛が憎い!!」
女の命を超えた永琳の度胸には驚いたが、ほつれてよれよれになった永琳の髪を見てパチュリーは、
(貧乏パーマ……)
としか思わなかった、しかしそれは口にしないことにした。
ついでに言えば咲夜や美鈴もたまにモミアゲだけ貧パになってるな、とか、その程度の感想しか湧かなかった。
三つ編みしている者の宿命なのだろう。
こうして生徒達とのいさかいは消滅……今後は教師同士の対決が始まる。
はて、八雲一家は?
「紫様……」
「ほんとに、ほんとにチクらないで! 藍!!」
紫が図書館の隅っこで、藍に賄賂のいなり寿司を渡していた。
紫様の料理なんて久しぶりだな、と思って口に含んだそれは、米がボッソボソで不味かった。
(料理してませんもんね、紫様……)
大失敗した紫の運命や如何に。
と言いますか、何で貴方のヘタレ永琳はこんなに面白いんですか。
チルノ、いい子だ……。
しかし紫はホント、歩く迷惑だなぁ。
完結を楽しみにしております!
てか手刀で切るなえーりんwwwww
悪戯大好きなのに加減とか考えないゆかりんが面白い。
あとウドンゲの耳が取れるって緊急事態もいいとこだと想うんですけどw
しかし永琳が、可哀想、、、だがそれがいいww
次回も期待してますよ。できればHappyEndで
ホロリとしてしまったのですが・・・
次回も楽しみにしています!!w
なんというかもうえーりんが完全に万能猫型ロボ状態w
続きの2話も大変楽しみにしております。
悪ふざけのつけがそろそろ回ってきましたね。
そしてパチュリー、無理してんのに即退場で存在感薄すぎるw
これは思いつかなかったw
今までの3話とも楽しく読ませてもらってます。
続きも頑張ってください。
面白いですw
さーて続き続きと。