幻想郷。そこは、幻想に固定された世界。
――そも、幻想とは一体何であろうか。人やもの、あるいは第三者的な、さらには、およそ神的な何かの持つ『意識』の産物なのだろうか。
そう考えると、その世界は、永遠に変革することはないのだろう。
ゆったりとした、常に均一な時間が流れ、固定された空間が流動的に流れる、全き矛盾を抱えた世界なのだろう。
それを果たして、幸せと言うのだろう。
そう。この世界は、永遠に変わらない、永遠のない永遠の世界。
実に素晴らしき、それは幻想の宴――。
という、よくわからない講釈はこれくらいにいたしまして(八意えーりん十七歳より)
「ししょ~。えっと……次の患者さん達なんですけど……どうしましょう?」
「一緒に診ることにしましょう」
「え? いいんですか?」
患者にはプライバシーというものがあるんですよ? そんな言葉を視線に乗せて訊ねてくるのは、ぴょこんと飛び出た二本の耳が特徴的なうさみみナースの鈴仙・優曇華院・イナバ。最近、実に白衣が似合ってきたのだが、そんな彼女を見ていると、永琳は、『もう少し、スカートの丈を切りつめた方がいいんじゃないかしら。かわいくて』と思ってしまう。とはいえ、すでに彼女のスカート丈は限界だ。この先に待つのは無限大だ。故に、ちょっとためらってしまうのはともかくとして。
「いいのよ」
そう、部屋の主である八意永琳は言った。
わかりました、と若干、不服そうな顔ではあるのだが、鈴仙はぺこりと頭を下げると、音もなく部屋を退出していく。そうして、しばらく待っていると、永琳の前の障子が開いて、本日の患者様が三名、肩を並べて案内されてくる。
「はい、こんにちは。皆さん、本日はどのような?」
「……なぁ、永琳。何でこいつらと一緒なんだ……?」
「それはこっちのセリフよ。っていうか、先生。普通、患者って一人一人診察するものなんじゃないの?」
「全く。プライバシーの侵害です」
「でも、病状が同じじゃないですか」
「何!? お前らもか!」
「お前ら『も』? まさか、あんたもなの!?」
「ああ……最悪。よりにもよって、霊夢や魔理沙と同列視されてしまうなんて……」
「それはどういう意味だ、咲夜!」
「そうよ! 事と次第によっちゃ、あなたの疑惑を、この私、博麗霊夢の名にかけて証明してやるわよ!」
「誰が疑惑よ!」
「あらあら。皆さん、お静かに」
「疑惑って言ったら疑惑よ! 最近騒がれなくなってきたけど、この私、博麗の千里眼は全てお見通しなのよ!」
「へっ、その通りだぜ。さあ、きりきり吐くんだな!」
「あ~ら、そうなの? それは持たざるもののひがみと取っていいのかしら」
「何ですって!? 魔理沙よりマシよ!」
「ちょいと待て! 今は聞き捨てならないぜ!」
「あの~、皆さん」
「第一! 世の中、でかければいいってもんじゃないぜ! 掌サイズが好きっていう人間はたくさんいるんだ!」
「それは実に悲しい自慢ね。ああ、やだやだ。虚勢を張るしかできない子って」
「とか言ってるくせに、あんただってそんな大したもんじゃないじゃない」
「あなた達よりはマシだわ」
「こんな言葉を使うのは、自分にもダメージがあるんであれだけどさぁ。五十歩百歩って知ってる?」
「何ですってぇ!?」
「お、やろうってのか!? 面白いぜ! 表に出ろ!」
「ええ、いいわ! 久方ぶりに一発、きついのをお見舞いしてあげようじゃない!」
「私だって、散々バカにされたつけを払ってあげるわ! 金銭的なつけはなかなか払わなくても弾幕のつけはきっちり返す! ついでに倍返し! それが私、博麗霊夢っ!」
「あらあら」
「よし、勝負だ! コンティニューなしで無制限だからな!」
「面白い!」
「勝負してあげようじゃない!」
ずがががががががががががががっ!
「お静かに」
このまま会話文だけで一幕終わってしまいそうな勢いで、喧々囂々たる口げんかをかましていた三人めがけて、永琳は床の間に飾ってあった、愛用の弓矢を手に取ると、目にも留まらぬ速度でそれを連射しまくった。
矢の刺さったところが、『ぶしゅー!』とかいう猛烈な音と共に紫色の煙を上げてでろでろ溶けている光景に、三人の顔が引きつる。
「皆さん、ここは病院ですよ。入院している患者さんもいらっしゃるのですから、マナーはわきまえて、仲良くね♪」
『は、はい……ごめんなさい、永琳先生……』
この期に及んでも全く笑顔を崩さず、声のトーンもこれっぽっちも変わってない永琳が、逆に恐ろしかった。
ちなみに、今し方放った彼女の奥義は、通称、スペルカード『伝説符 皆死ね矢』というのだが、それもともあれとしよう。
「はいはい。それでは、皆様の症状をお聞き致します」
「……ま、魔理沙、どうぞ……」
「い、いや、ここは咲夜に……」
「あ、あら、やっぱり霊夢じゃないかしら? 主人公じゃない」
がくがくぶるぶる怯えまくっている彼女たちが、何でか知らねど、『奥様が』『まあまあ奥様が』『いえいえ奥様こそ』をやっている光景を、のんびり眺めている永琳が放つ――のかどうかは不明だが――無言のプレッシャーに負けたのか、やがて霊夢が『実は――』と訥々と、その少女を語り始めたのだった。
それは、今朝のことだった。
このところ、とことん、幻想郷は平和である。どれくらい平和かというと、へそでお茶を沸かす時間すら取れるほど平和なのだ。もっと簡単に言うと、平和を告げるリリーなんてものが現れて『平和ですよ~』と言ってそうなくらいに平和なのである。
特段、何かのトラブルや異変が起きることもなく、霊夢も、朝起きてご飯食べて境内の掃除して縁側でお茶飲んでお昼ご飯食べてお昼寝してお茶飲んで晩ご飯食べてお風呂入って寝るというリズムを全く崩さずに生活できるほどの日々が、このところ、ずっと続いていた。
その日々に、異変が現れたのは、今朝のことだったのだ――。
続いて魔理沙が語ったのは、やはり彼女も霊夢と同じく、平和を満喫していた時だった。
鋭く、強烈なイメージと共に、彼女の元に異変が降臨した。まさしく、それをたとえるなら『降臨』と言えるほどに唐突で圧倒的だったのだ。
彼女は、その異変を前に驚愕し、恐怖し、恐れおののいた。
そんな折り、この異変を解決する力を持った人が、この幻想郷にいることを思い出した。それで、慌てて永遠亭へとやってきた――。
最後に咲夜が語ったのも、やはり、霊夢と魔理沙の語る内容に似通ったものだった。
ただ、彼女の場合は、時間帯が昨日の夜にさかのぼる。
平和な毎日は、紅魔館の中にも波及し、普段は『お仕事を頑張らない子は、笑顔で紅魔館を全速力競争』なお仕置きの待つこの館の中において、誰一人、お仕置きを受けることなく、ゆったりのんびりと仕事に精を出していた。
たまにはこんな日もいいものね。
そう思っていた咲夜の前に異変が現れたのは、昨日の深夜。一日の仕事を終えて、明日への英気を養おうとした、まさにその時だった。
彼女はその時、無様にも、人目を顧みずに悲鳴を上げた。己では何も出来ぬ事を痛感した――。
「なるほど。大変だったんですね」
「……はい」
「な、なぁ、頼むぜ、永琳先生! 私たちを……私たちを助けてくれ!」
「お願いします!」
彼女たちの語った話を、それぞれのカルテにまとめてから、永琳は、それをぱたんと閉じた。
そして、おもむろに彼女たちを振り返ると、笑顔で告げる。
「はいどうぞ」
なぜか、その『はいどうぞ』の言葉で、彼女の手の上に一冊の本が現れた。かなり、色々と追求したい瞬間だったのだが、とりあえずそれをぐっとこらえて、彼女たちは、その本に視線をやる。
そこに書かれているのは、以下のような一文だった。
『健康な生活』。
「体重増加は、健康な身体活動の産物である場合もありますが、あなた達の場合は違うみたいですしね」
……とまぁ、そういうわけである。
いやいや、これをお読みの諸君。勘違いしないで欲しい。
事、乙女のプライベート三原則の一つに当てはまる、それは『体重』に関する事項全て。それは、彼女たちにとって、何よりも強烈かつ凶悪な『異変』なのだ。
君たちは感じたことがないだろうか。お風呂に入る前に、ほんの興味心から乗った体重計が、あり得ない数字を示した時の絶望感を。しかも、これまで、ほとんどそういった変化に出会ったことのないもの達がそれに出会った瞬間の驚愕と絶望を想像できるだろうか。
そう。それはまさに、彼女たちにはこの世の終わりにも等しい衝撃だったのである。
故に、冷静な判断力を失い、こうして、稀代の名医たる八意永琳の元に駆け込んできたのも、まさしく当然のことなのだ。
ダイエットしろ、怠惰な生活直せ、という根本的ツッコミは、彼女たちには意味をなさないのだ!
「……す、すごい」
「これは……」
「私が、健康増進のための秘訣として、日々の研究の中で考え出した最強のマニュアルです。これに従えば、あなた達にも、あの日の若々しい肉体が戻ってくることは確実ですよ」
ちなみに巻末の『体験談』に書かれている『体験者』の名前が、軒並み、そんなのとは無縁の奴らばっかりだったりするのだが、それはさておこう。彼女たちにとっては、そんな体験者のメッセージなど関係ないのだ。
要は、これが自分たちにとって意味があるか否か。ただ、問題はそれだけに集約する。
これを書いた永琳は、確かに見た目単なるおっとりお姉ちゃん(お姉さん、ではない)だが、医学や薬学に関する知識ならば幻想郷でトップを突っ走る。まさに、『八意の医学は幻想郷一ィィィィィィ!』なのだ。その彼女が、自らの持てる叡智の全てを駆使して記したマニュアルである。
これが成功しないはずがあるだろうか。いいや、ない。あり得ない。
――となれば、それを実行するものの肉体的・精神的な強さに全てはかかってくる。そして、ここにいる三人は、まぁ、色々とぐーたらしまくってる巫女やら反社会的行動をメインとしている魔法使いやら無駄無駄無駄無駄無駄という言葉が何より似合いそうなメイドさんではあるが、恐らく、物事を達成する能力にかけては、やはり幻想郷一。決して、プレイヤーキャラはうろたえないのである。
だから、行ける。
絶対に大丈夫だよ! ――そう、どこかの魔法少女の有名な、最強の魔法が、彼女たちの頭の中に大きな文字となって現れた。
「わかりました、八意先生。わたくし達、頑張ります! 頑張って、必ずや、目指せ目標体重を達成してみせますわ!」
「よし、咲夜! 一緒に頑張ろう! 霊夢もだ!」
「ええ!」
「紅魔館に連れて行って! 私たちに、一番力を与えてくれる人……いや、人? まぁ、いいや、人で。とりあえず、その人が紅魔館にいるでしょう!?」
「いるわ!」
「行くぞ、紅魔館へ! そしてっ!」
『目指せ、体重、マイナス四キロっ!』
輝かんばかりの結束と友情を示して、彼女たちは永琳の前から辞する。そんな彼女たちを、『あらあら』と見送ってから、やってきた、鈴仙とは別のうさみみナースに、以下のようなものを渡す。
『受診料、お一人様、二千円なり』
さて、そんなこんなで、『幻想郷減量大作戦』を決行するために彼女たちがやってきたのは、湖の中央に佇む紅の館である。ちなみにどうでもいいが、霊夢はなぜ、こんなところに館を建てたのかと咲夜に聞いたことがある。その時に返ってきた答えは『お嬢様の気まぐれでしょ?』ということだった。
こんな、アクセス最悪なところに何でとその時は思ったのが、その答えを聞いたことにプラスして、そういや、あたしら飛べたんだっけ、ということを思い出して、以降はよけいなことは聞かないように努めていた。
まぁ、それはそれとして、横にのけておくとして。
「美鈴っ!」
「はいっ!?」
門の前で、今日も一日、門番をやっている彼女の元に、咲夜が鬼気迫る形相で迫っていく。
「ちょっと、あなたに用があるの。よろしいわね?」
「あ、い、いいいや何ですか咲夜さん!? 私、今日は何にもやってませんよ!? サボってませんよ!? 午前中に、侵入者二人くらい撃退しましたよ!?」
「うふふ……そんなことはどうでもいいのよ」
この時、美鈴の頭の中には、『中華風妖怪、紅の館の門前で変死!』という某烏の新聞の見出しが展開されていた。そこには、無惨な惨殺死体となった自分がばっちりと撮影された写真がトップに飾られており、以下、某烏の、どう考えてもお前の想像だろこれ、な記事が展開されているのだ。
泣きたくなった。ついでに、世の中の理不尽に対して、弓をつがえて反旗を翻してやろうと思って、でもそんなことしても終わりなのよね結局、という結論に辿り着き、せめて最後は苦しまずにあの世に送ってもらおうと、覚悟を決めたその時だ。
「あなた、私たちに稽古をつけなさい」
「……へっ?」
「け・い・こ。聞こえなかった? 別に学ばないわよ?」
何を言っているのだかわからなかった。特に後段の下りが。
とりあえず、美鈴は彼女の言葉に目をぱちくりとさせ、ついでに、今になって、咲夜の後ろに霊夢や魔理沙と言った人間が続いているのを確認する。
えーっと、と声を上げて。
「……へっ?」
全く同じ反応を見せてしまう。やっぱり、理解が及ばなかったらしい。当然と言えば当然だが。
「ちょっと、耳、貸しなさい」
「は、はあ」
「実はね――」
ごにょごにょごにょ、と秘密の内緒話。心なしか、咲夜の頬は赤い。
その話を聞いて、ああ、と美鈴は手を打った。
「そうですか。なるほど。わかりました。
でも、それは咲夜さんの、日頃の不摂生が原因だと思いますよ?」
「う、うるさいわね! あなたが、何かと言っちゃ、『新作のお菓子が』とか『お料理の味見をお願いします』とかで、私に食べさせまくるのが悪いんでしょう!?」
人、それを幸せ太りという。
まぁ、それはともあれ、抗議の声を上げる咲夜の後ろでは、『あー、やっぱりねー』『っつーか、あいつは別に太った方がいいんじゃないか?』などというこそこそ話と、「さすがよね、門番長」「ええ、すでにメイド長を手なずけているわ」「子供の名前、考えておいた方がいいと思う?」「私、もうすでに考えついてるのよ」などという、部下達の、ひそひそしてないひそひそ話が響きまくっている。
「う、うるさいうるさいっ! あなた達、仕事をさぼるようなら、紅魔館名物の刑執行よっ!」
「ひぃっ!?」
「そ、それだけはぁっ!」
「……紅魔館名物の刑?」
「何だそりゃ……」
名前だけ聞くと、体に装飾でもされて、そこらに立たされるのかと思ってしまうのだが、あのメイド達の怯えっぷりは演技ではない。恐らく、想像を絶するくらいに恐ろしい刑罰なのだろう。あんまり想像しない方がいいとわかっているのだが、それでも霊夢は好奇心を抑えきれず、逃げ出すのが一歩遅れた相手を一人、捕まえて「それって何?」と聞いてしまう。
「……はい。
紅魔館名物の刑……それは、私たちがメイド服を身につけて――」
「いや、まぁ、そりゃ普段のことだろうし……」
「やってくるお客様達に……」
「うん」
「『お帰りなさいませ、ご主人様』とか言わないといけない刑なんですっ!」
「………………………あーそーふーん」
「あ、何ですかその反応!? あれって結構、きついんですよ!? 何か勘違いした人たちがたくさん来て、何か目が怖いんですよ!? 一度やってみればわかりますよ!」
「いや、まぁ、えっと……」
「一部の子達は楽しんでやってるけどっ! 少なくとも、私にとっては耐えられないっ!」
「……ま、頑張って」
それを、外の世界では『メイド喫茶』というのだと言うことを、後日、霊夢は霖之助から聞いて知ることになるのだが、とりあえず、今はそれは関係ない。
一応、咲夜によってメイド達は、皆、見事に散らされ、門の回りに人気がなくなったところで、美鈴へと、一同の視線は戻る。
「……それで。何で私なんでしょう? 永琳さんに教えてもらった方がいいんじゃ……」
「何言ってるの! あなたの、その色々なパーフェクトっぷりが、今の私たちにとって重要なのよ!」
「他にもパーフェクトな奴らはいるが、奴らはあくまで天然物だからな……。その点、美鈴、お前は天然物でありながら、厳しい環境の中で勝ち上がってきた、まさに勝ち残りなんだ!」
「……どうしよう、この人達の言ってることがわからない……」
「いや……うん、気持ちはわかる」
ちょっぴり冷静になって考えてみると、自分たちは、一体何をやらかそうとしているのか、さっぱりわからなかった。先ほどまでは頭に血が上ってヒートアップしていたが、メイドとのやりとりでクールダウンに成功した霊夢の視線は、外側からの観察者の視線だった。その視線の先に展開されている世界は、まぁ、色々切羽詰まって大変なんだなということはわかるものの、さりとて理解の範疇に当てはまるかと言われると、思わず首をひねってしまう光景そのものである。
「あなたの健康増進方法! そして、スタイルの維持向上の方法! 全てを私たちに伝授してもらうわよ!」
「方法、って……。私は、ただ、単に『よく食べてよく寝てよく動く』を実践してるだけで……」
「じゃあ、何で変化しないんだよ!?」
「……妖怪だから」
「……そりゃそうだわな」
「そんなのは理由にならないぜ!」
「誰かこの人達に理屈を通してください……」
「……ごめん無理」
女の子は、事、『ダイエット』という言葉を前にすると、色々、目の色が変わるものなのだ。
その辺りのことを、美鈴は、今日の経験を通して学ぶことだろう。そして、自分がいかに回りから憧れの視線を持ってみられる存在であるかと言うことを。
とりあえず、彼女は『わかりましたから落ち着いてください』と、いきり立つ咲夜と魔理沙をなだめ、視線を、『仕方ありませんね』と館の方へと向けた。
「回りの方々には知られない方がいいですよね?」
「え、ええ……」
特に、咲夜に関しては。
回りから『パーフェクトメイド』と呼ばれ、紅魔館では尊敬と同時に畏怖される存在でもある彼女が、まさかダイエットに打ち込んでいる姿など、他の誰にも見せられるものではないだろう。恥ずかしいを通り越して、それこそ無様そのものだからだ。
その辺りをしっかり理解しているらしい美鈴は、「じゃあ、こちらへ」と歩いていく。彼女について、紅魔館の裏庭を回っていくと、その先に一軒の建物があった。
「普段は、門番隊のみんなの訓練に使っているんです」
「いつのまにこんなものが……」
「何であなたも知らないのよ」
「そうね……何でなのかしら……」
「……案外いい加減だな、紅魔館……」
んなこと、今さら言わずともわかりきっていることなのだが。
一同を連れた美鈴が、鍵のかかった扉を開けると、中は、だだっ広いだけの空間になっていた。ただし、壁や天井などの材質は相当しっかりしたものを使っているのか、ちょっとくらい騒いだり、弾幕ぶっ放した程度では壊れないだろうという作りにはなっていた。
ドアはちゃんと閉めてくださいね、という美鈴の言葉に従い、最後に扉をくぐった霊夢が、それをしっかりと閉めた上で鍵をかける。
そうして、魔理沙が帽子の中から取りだした、永琳から渡されたダイエットマニュアルを受け取り、美鈴がそれに目を通し始める。その間、一同は、適当にその辺りに腰を下ろして彼女の次の言葉を待った。
「……なるほど、さすがは永琳さん。完璧ですね。ダイエットの基本は、運動と食事」
「そうだなー。咲夜は食い過ぎで太ったんだしな」
けけけけ、と笑いながら、魔理沙。
「あなたは、さしずめ、運動不足かしら? 半引きこもりだし」
「むっかーっ。……でも当たっているだけに何も言えないぜ」
さらりと返される、瀟洒なツッコミに肩を落とし、魔理沙はため息をついた。とりあえず、自分が何で太ったのかという理由はわかっているらしい。
「じゃあ、まずは、そうですね。皆さんの肉体能力を引き上げましょう」
「そんなこと出来るの?」
「簡単に言うと、基礎代謝を引き上げるんです。代謝能力とは、言ってみれば、人間の生活エネルギー。より多くの力を効率的に利用することが出来るようになれば、同じ運動をしても脂肪の減り方などが違ってきます」
「……詳しいわね、あなた」
「そうですか? 基本だと思いますけど」
してみると、自分はその基本も知らなかったのか、と咲夜は内心、しこたま傷ついた。天然というものの破壊力に圧倒されながらも、いやいや、ここでくじけてどうする的な不屈の精神で立ち上がり、その視線を美鈴へと戻した。
「では、今から私が皆さんに、とある方法を教えます」
「方法って何だ?」
「行きますよ」
彼女は、用意を調えた、と言わんばかりに、いつの間にか正座していた三人を立たせると、それぞれの胸元に鋭い突きを入れる。
「め、美鈴! お前、何するんだっ!」
「げほっ! い、いったぁ~……!」
「殺すつもり!?」
「はいストップ。その状態で、大きく、息を深呼吸してみてください」
今にもくってかかりそうな勢いで怒鳴る魔理沙と咲夜を鎮めるように、美鈴は言った。何をわけのわからないことを、と二人は半信半疑だったが、とりあえず、言われたように胸を膨らませる。
――と、
「な、何だ……?」
「これは……!」
その瞬間、確かな変化がそこにあった。
彼女たちを中心に、何かが広がっていくような印象を、その時、唯一参加していなかった――単に、ダメージが大きすぎてうずくまっていただけだが――霊夢は、確かに感じたという。
そう、それはまるで――。
「そのリズムを忘れずに。そして、その呼吸のテンポを速めます。一秒間に十回を目安としてください」
「なぬっ!?」
「それが出来たら、十分間息を吸い続け、次に十分間、息を吐き続けます」
「そんなこと出来るわけないでしょ!?」
「やるのです。やらなければいけません。
いいですか、皆さん。人間の体には、たくさんの未知なるエネルギーが眠っています。私が教え、そして引き出すのは、その『未知の力』なのです。そして、そこから生まれる力は皆さんの肉体を活性化させ、細胞の一つ一つにすら力を与え、ひいては――」
「やめぇぇぇぇぇぇぇっ!」
直後、天井付近の窓ガラスが割れると、紅魔館の名物お嬢様がクレイドルしながら突っ込んできて、ひょいと身をかわした美鈴のせいで、そのまま床に逆さまに突き刺さってむーむー言いながら、じたばたと暴れている。
「えーっと……」
「……よいしょ」
完全に、空気が凍り付いた。その微妙な空気の中、ぱたぱたもがくお嬢様の足を引っ張って、咲夜は彼女を床の上に引っ張り出す。
「ぷはー……し、死ぬかと思ったわ……」
「……壮絶な自爆だわね。それで死んだら」
「末代までの笑いもんだぜ……」
「そ、それはともかく!
美鈴! そんなものをこの子達に教えるのはやめなさいっ!」
「で、ですがお嬢様。ダイエットにおいて必要なのは……」
「そんなものは関係ないわっ! そんな奥義をマスターされたら、最近、とみに急降下しまくっているってことでご近所の奥様達の間でも噂のわたしのカリスマが、さらに落下していくじゃないっ!」
「……自覚してんなら何とかしようとしなさいよ、あんた」
「ともかく、それ禁止! 何か他の技を教えなさいっ!」
「っつか、お前、どこからこの話聞いてたんだ?」
ちっこいお嬢様ことレミリアの言葉は、とりあえず、この館で働く咲夜と美鈴にとっては絶対だった。仕方なく、美鈴が彼女たちに教えようとしていた何事かの奥義は中断され、「じゃあ、ちょっときついかもしれませんけど、基礎的な運動でダイエットすることにしましょう」ということになってしまった。
レミリアは、霊夢や魔理沙は当然として、咲夜にもじろりとにらまれながら、こそこそぱたぱたと、自分で砕いた窓ガラスから退散していく。つくづく、何しに来たのかわからないが、あそこまで彼女が本気になると言うことは、きっと何かがあったのだろう。多分。
「それでは、私が見本を示しますので、私の動きについてきてくださいね」
「はーい」
「じゃ、まずは歩きましょう。その場で足踏みを繰り返してください」
左右にぶつからないように、充分に間を開けてくださいね、との彼女の言葉に従い、それぞれの間を広く取りながら、美鈴に言われた通りの運動を、三人は始めた。
「それが終わったら、ジャンプから左右のステップ」
「これが何になるのかしら」
「私は知らん」
「そうして、体の筋などを大きく伸ばして」
「ん~……! っと。何か普通ね」
「次は腕立てを、私がいいと言うまで、私のリズムに従って繰り返してください」
――そこからが、容赦なかった。
「はい、1,2,1,2,1,2! 声を出して!」
「お、おまっ……! ちょっと早すぎ……!」
「わん、つー、わん、つー、わん、つー! 咲夜さん、遅い!」
「だ、だって、あなた、これ……!」
「はい、次は膝立スクワット! これも私のリズムにあわせて!」
「よ、容赦なさすぎじゃない!?」
確かに、容赦ないといえば容赦のないメニューだった。まずは基本のストレッチ、ということで、その動作のそれぞれが体をあっためるためのメニューだと言うことだが、その段階で、彼女たちの額には玉の汗が浮いている。魔理沙など、もはや体がついて行かなくなってきているのか、「遅いですよ!」と美鈴に怒鳴られる始末だ。
「はい、右、左、右、左! 咲夜さん、脇の締め方が甘い!」
「こ、これ以上やるの!?」
「常に体の筋を意識して! 筋肉を使うと言うことを意識してトレーニングです!」
「は、はいぃ……」
「続いて、腰を落として! はい!」
壁掛けの時計を、霊夢はちらりと見た。運動が始まって、まだ、わずか十分。それなのにすっかりと息が上がってしまっていて、全く、運動に体がついて行かない。
「だぁぁぁっ!」
ついに魔理沙が音を上げた。ぜーはーぜーはーと、無様に床の上で喘ぐ彼女に続いて、霊夢、そして咲夜もギブアップを宣言する。
「皆さんは、全く、体に運動に必要な筋力がついていませんね。ちょうどいいですから、このトレーニングで一緒に身につけちゃいましょう」
「ま、待って……待って、美鈴……。わ、私たち、別にビルドアップするつもりじゃ……」
「当たり前じゃないですか。細くてしなやかな体を作るのが、このトレーニングの意味です」
「じ、じゃあ、もうちょっと緩いメニューにしてくれても……。私が嫌いな言葉は、一番が『努力』で、二番目が『頑張る』なのよ……」
「霊夢さん、それじゃダメですよ。
いいですか? このトレーニングで作り出されるのは、最終的には、戦うための体なんです」
「な、何と戦うんだよ……」
「自分の魂で立ち向かってください。そうすれば、必ず、勝利はあなた達のものになります」
何のことだかさっぱりわからなかった。さっぱりわからなかったが、とりあえず、信じて頑張れば何とかなりそうと言う感じはする。と言うか、ここまでどぎついトレーニングをやらされて、全く何の効果が出ないはずはないだろう。物理的に考えて。
問題は、自分たちがそれについて行けるかどうかというものであるのだが――。
「疲れたら無理をせずに休む。そして、喉が渇いたらしっかりと水を飲む。無理をして得られるものは疲労と失敗のみです」
「あんた、さっきのセリフと違う……」
「私のリズムに合わせることは必要ですけれど、疲れたのなら、無理せずに休んでくれて構いませんよ」
あのリズムでやることが大切なんです、ということらしかった。
言われてみるとわからないことはないのだが、やっぱり、何か理不尽である。しかし、『疲れた? 休みたい? 甘ったれるな!』と言われないだけマシだろうか。
「さあ、しっかり休んで体力が回復できたなら、次のメニューに行きますよ」
『は、は~い……』
「人間、努力は必ず報われます」
そうであるといいのだが。
世の中、そうそううまい話はないというが、しかし、今回ばかりはそれがうまい話になってもらわないと困るというのが本音だろう。
「では、最初の動きを繰り返して! はい! 1,2,1,2!」
「……咲夜。私は思うんだが」
「……ええ。何?」
「美鈴に頼んだの……間違いだったんじゃないか……?」
「私もそう思う……」
「……ごめんね二人とも。でも付き合って……」
『いえっさー……』
ダイエットは、一緒にやる友人、あるいは仲間がいると長続きするという。こんなにきっつい運動を、これからも一人で継続するというのは、確かに無理っぽかった。
彼女たちは、この時、初めて互いに協力することの意義というものを、これから学ぶことになる。共に共通の目的を達成するために努力し、汗を流すことの喜びを知ることになる。数多の苦難と困難の向こうに、目的を達成することの達成感を実感することになるのだ。
――無論、その日がいつやってくるのかは、誰にもわからない。
「一被設置っ!」
その声が、これから、この空間にひたすら響くことになることを、この時、彼女たちは薄々、実感していたのだった――。
「あらやだ」
「師匠?」
霊夢達が八意永琳医療相談所を訪れて、三日後のこと。
永琳のおっとりした声が、彼女の診察室に響いたのは夕方の頃である。そろそろ、影が長くなってくる頃合い、彼女の部屋にお茶を運んできた鈴仙が『どうしたんですか?』という眼差しを向けてくる。
「あら、ウドンゲ。困ったわぁ、どうしましょう」
「いや、あの。話の内容が見えないので、私には……」
「あのね、この前、霊夢さん達が来たでしょう?」
「はい」
「その時に渡した本なのだけど、ちょうど真ん中のページが抜けていたのよ」
「ありゃ」
師匠でも、そんなミスをするんですね、と鈴仙。むしろ、永琳だからやらかした、と言うべきなのだろうが、彼女のことを尊敬しているうさみみ少女には、そんな疑問は思い浮かばなかったらしい。
「そうなのよ。どうしようかしら……」
「重要なものなんですか?」
「うーん……。重要と言えば重要だけど……重要じゃないと言えば重要じゃないわね」
「は?」
「これなのよ」
渡される紙片。それはちょうど、この本に綴じ込むためだったのだろう。隅っこには中途半端なページ番号が振られており、その内容自体も、『前段の流れを受けて』から始まるために、何だか突拍子もないものだった。
以下が、そこに記されている文章を要約したものである。
『ここ、幻想郷の人々、また妖怪の間には、ある特殊な『運動方法』と称するものがある。それが、この幻想郷において、物事を解決するルールとなっている弾幕勝負である。
この弾幕勝負というものを分析すると、以下のようになる。
一:使用する弾幕の種類は数あれど、いずれもその当人が使う『武器』であり、『エネルギー』によってコントロールするものである。
二:弾幕バトルは空中戦がメインであり、三次元的な行動は、それを制御するために莫大な集中力とエネルギーを必要とする。
三:大技であり、決め技でもあるスペルカードは、以上二つの集大成であり、その際に消費されるエネルギー量は想像を絶する。
これらにおいて消費されるエネルギー、つまりカロリー量を計算した結果、弾幕一発の生成に十キロカロリー、スペルカード使用時には四百キロカロリーを消費する。一度の弾幕勝負を三十分継続した場合、消費される総カロリー量は、実に千五百キロカロリーにもなり、これが、幻想郷において『太りづらい体質』を生み出す要因となっているのだろう』
「ああ、なるほど。霊夢さん達の体重が増えたのって、最近の平和な幻想郷が原因だったんですね」
「そうなの。普段なら、三日に一度は弾幕で戦っているでしょう? それがなくなったから、その分、消費されているエネルギーが消費されずに残ってしまったのね」
「じゃ、別にダイエットなんてしなくても、普段通りに弾幕してればやせるんですね」
「ええ。
だから困っているのよ。渡した本には、食事療法とか、基本の運動とか。そういうものしか載せていないから」
「あー、なるほど。それは大変ですね」
困っちゃいましたねー、と鈴仙。全くこれっぽっちも危機感を感じていないセリフである。と言うか、そっちがダイエットの基本であり、こんな特殊な『ダイエット』はダイエットではないからだ。
とはいえ、ダイエットには苦労が伴う。そうした苦労というのは、はっきりと言ってしまえば、別に経験する必要のない代物である。せっかく、幻想郷にいるというアドバンテージがあるのだから、それを生かすような手段があるのなら、そっちを使った方が彼女たちにとっても幸せだろう――そう思い直した鈴仙は、「じゃあ、明日、朝一で霊夢さん達に、この抜けたページを届けてきますね」と言って踵を返した。
「あらあら、困ったわねぇ。私もドジしちゃったかしら」
あんまり困っている様子もなく、右手を頬に当てて、その肘を左手で支える、永琳先生お決まりのポーズで、彼女は、ふぅ、とため息をついたのだった。
「では、今日からは発展メニューに入ります! 皆さん、用意はいいですか!?」
「任せておきなさい!」
「昨日、体重計乗ったら一キロ減っていたからな。このまま目標体重を目指すぜ!」
「美鈴、今日もよろしくね!」
「それでは、基本のストレッチからスタートします!」
『はい!』
その場に響き渡る、霊夢達の声――にプラスして、複数のメイド達の声。
美鈴が、何やら効果的なダイエット方法を知っているらしい、という噂は、いつの間にか紅魔館のメイド達の間に伝わり、彼女の元に『それを教えてください!』とメイド達が詰めかけてきたのだ。やはり、彼女たちも女の子。『体重』というものは気にしていたのである。
今や、門番隊の訓練場は、女の子達の戦いの場に変わっていた。美鈴先生の元、これからたっぷりと汗を流すのだ。
――無論、やせたいのなら弾幕勝負をやれば早いという事実を、彼女たちは知るよしもない。色んな意味で『しなくていい努力』を、彼女たちはすることになってしまったのだが……まぁ、これも何かの縁だと思って頑張ってもらうのが一番だろうか。
「わたしも混ざろうかしら」
「フランもやりたいー。何かたのしそうー」
それを眺める吸血鬼姉妹の姿も見受けられる、そんな紅魔館の午後は、ゆっくりと夜に向かって更けていくのだった。
――そも、幻想とは一体何であろうか。人やもの、あるいは第三者的な、さらには、およそ神的な何かの持つ『意識』の産物なのだろうか。
そう考えると、その世界は、永遠に変革することはないのだろう。
ゆったりとした、常に均一な時間が流れ、固定された空間が流動的に流れる、全き矛盾を抱えた世界なのだろう。
それを果たして、幸せと言うのだろう。
そう。この世界は、永遠に変わらない、永遠のない永遠の世界。
実に素晴らしき、それは幻想の宴――。
という、よくわからない講釈はこれくらいにいたしまして(八意えーりん十七歳より)
「ししょ~。えっと……次の患者さん達なんですけど……どうしましょう?」
「一緒に診ることにしましょう」
「え? いいんですか?」
患者にはプライバシーというものがあるんですよ? そんな言葉を視線に乗せて訊ねてくるのは、ぴょこんと飛び出た二本の耳が特徴的なうさみみナースの鈴仙・優曇華院・イナバ。最近、実に白衣が似合ってきたのだが、そんな彼女を見ていると、永琳は、『もう少し、スカートの丈を切りつめた方がいいんじゃないかしら。かわいくて』と思ってしまう。とはいえ、すでに彼女のスカート丈は限界だ。この先に待つのは無限大だ。故に、ちょっとためらってしまうのはともかくとして。
「いいのよ」
そう、部屋の主である八意永琳は言った。
わかりました、と若干、不服そうな顔ではあるのだが、鈴仙はぺこりと頭を下げると、音もなく部屋を退出していく。そうして、しばらく待っていると、永琳の前の障子が開いて、本日の患者様が三名、肩を並べて案内されてくる。
「はい、こんにちは。皆さん、本日はどのような?」
「……なぁ、永琳。何でこいつらと一緒なんだ……?」
「それはこっちのセリフよ。っていうか、先生。普通、患者って一人一人診察するものなんじゃないの?」
「全く。プライバシーの侵害です」
「でも、病状が同じじゃないですか」
「何!? お前らもか!」
「お前ら『も』? まさか、あんたもなの!?」
「ああ……最悪。よりにもよって、霊夢や魔理沙と同列視されてしまうなんて……」
「それはどういう意味だ、咲夜!」
「そうよ! 事と次第によっちゃ、あなたの疑惑を、この私、博麗霊夢の名にかけて証明してやるわよ!」
「誰が疑惑よ!」
「あらあら。皆さん、お静かに」
「疑惑って言ったら疑惑よ! 最近騒がれなくなってきたけど、この私、博麗の千里眼は全てお見通しなのよ!」
「へっ、その通りだぜ。さあ、きりきり吐くんだな!」
「あ~ら、そうなの? それは持たざるもののひがみと取っていいのかしら」
「何ですって!? 魔理沙よりマシよ!」
「ちょいと待て! 今は聞き捨てならないぜ!」
「あの~、皆さん」
「第一! 世の中、でかければいいってもんじゃないぜ! 掌サイズが好きっていう人間はたくさんいるんだ!」
「それは実に悲しい自慢ね。ああ、やだやだ。虚勢を張るしかできない子って」
「とか言ってるくせに、あんただってそんな大したもんじゃないじゃない」
「あなた達よりはマシだわ」
「こんな言葉を使うのは、自分にもダメージがあるんであれだけどさぁ。五十歩百歩って知ってる?」
「何ですってぇ!?」
「お、やろうってのか!? 面白いぜ! 表に出ろ!」
「ええ、いいわ! 久方ぶりに一発、きついのをお見舞いしてあげようじゃない!」
「私だって、散々バカにされたつけを払ってあげるわ! 金銭的なつけはなかなか払わなくても弾幕のつけはきっちり返す! ついでに倍返し! それが私、博麗霊夢っ!」
「あらあら」
「よし、勝負だ! コンティニューなしで無制限だからな!」
「面白い!」
「勝負してあげようじゃない!」
ずがががががががががががががっ!
「お静かに」
このまま会話文だけで一幕終わってしまいそうな勢いで、喧々囂々たる口げんかをかましていた三人めがけて、永琳は床の間に飾ってあった、愛用の弓矢を手に取ると、目にも留まらぬ速度でそれを連射しまくった。
矢の刺さったところが、『ぶしゅー!』とかいう猛烈な音と共に紫色の煙を上げてでろでろ溶けている光景に、三人の顔が引きつる。
「皆さん、ここは病院ですよ。入院している患者さんもいらっしゃるのですから、マナーはわきまえて、仲良くね♪」
『は、はい……ごめんなさい、永琳先生……』
この期に及んでも全く笑顔を崩さず、声のトーンもこれっぽっちも変わってない永琳が、逆に恐ろしかった。
ちなみに、今し方放った彼女の奥義は、通称、スペルカード『伝説符 皆死ね矢』というのだが、それもともあれとしよう。
「はいはい。それでは、皆様の症状をお聞き致します」
「……ま、魔理沙、どうぞ……」
「い、いや、ここは咲夜に……」
「あ、あら、やっぱり霊夢じゃないかしら? 主人公じゃない」
がくがくぶるぶる怯えまくっている彼女たちが、何でか知らねど、『奥様が』『まあまあ奥様が』『いえいえ奥様こそ』をやっている光景を、のんびり眺めている永琳が放つ――のかどうかは不明だが――無言のプレッシャーに負けたのか、やがて霊夢が『実は――』と訥々と、その少女を語り始めたのだった。
それは、今朝のことだった。
このところ、とことん、幻想郷は平和である。どれくらい平和かというと、へそでお茶を沸かす時間すら取れるほど平和なのだ。もっと簡単に言うと、平和を告げるリリーなんてものが現れて『平和ですよ~』と言ってそうなくらいに平和なのである。
特段、何かのトラブルや異変が起きることもなく、霊夢も、朝起きてご飯食べて境内の掃除して縁側でお茶飲んでお昼ご飯食べてお昼寝してお茶飲んで晩ご飯食べてお風呂入って寝るというリズムを全く崩さずに生活できるほどの日々が、このところ、ずっと続いていた。
その日々に、異変が現れたのは、今朝のことだったのだ――。
続いて魔理沙が語ったのは、やはり彼女も霊夢と同じく、平和を満喫していた時だった。
鋭く、強烈なイメージと共に、彼女の元に異変が降臨した。まさしく、それをたとえるなら『降臨』と言えるほどに唐突で圧倒的だったのだ。
彼女は、その異変を前に驚愕し、恐怖し、恐れおののいた。
そんな折り、この異変を解決する力を持った人が、この幻想郷にいることを思い出した。それで、慌てて永遠亭へとやってきた――。
最後に咲夜が語ったのも、やはり、霊夢と魔理沙の語る内容に似通ったものだった。
ただ、彼女の場合は、時間帯が昨日の夜にさかのぼる。
平和な毎日は、紅魔館の中にも波及し、普段は『お仕事を頑張らない子は、笑顔で紅魔館を全速力競争』なお仕置きの待つこの館の中において、誰一人、お仕置きを受けることなく、ゆったりのんびりと仕事に精を出していた。
たまにはこんな日もいいものね。
そう思っていた咲夜の前に異変が現れたのは、昨日の深夜。一日の仕事を終えて、明日への英気を養おうとした、まさにその時だった。
彼女はその時、無様にも、人目を顧みずに悲鳴を上げた。己では何も出来ぬ事を痛感した――。
「なるほど。大変だったんですね」
「……はい」
「な、なぁ、頼むぜ、永琳先生! 私たちを……私たちを助けてくれ!」
「お願いします!」
彼女たちの語った話を、それぞれのカルテにまとめてから、永琳は、それをぱたんと閉じた。
そして、おもむろに彼女たちを振り返ると、笑顔で告げる。
「はいどうぞ」
なぜか、その『はいどうぞ』の言葉で、彼女の手の上に一冊の本が現れた。かなり、色々と追求したい瞬間だったのだが、とりあえずそれをぐっとこらえて、彼女たちは、その本に視線をやる。
そこに書かれているのは、以下のような一文だった。
『健康な生活』。
「体重増加は、健康な身体活動の産物である場合もありますが、あなた達の場合は違うみたいですしね」
……とまぁ、そういうわけである。
いやいや、これをお読みの諸君。勘違いしないで欲しい。
事、乙女のプライベート三原則の一つに当てはまる、それは『体重』に関する事項全て。それは、彼女たちにとって、何よりも強烈かつ凶悪な『異変』なのだ。
君たちは感じたことがないだろうか。お風呂に入る前に、ほんの興味心から乗った体重計が、あり得ない数字を示した時の絶望感を。しかも、これまで、ほとんどそういった変化に出会ったことのないもの達がそれに出会った瞬間の驚愕と絶望を想像できるだろうか。
そう。それはまさに、彼女たちにはこの世の終わりにも等しい衝撃だったのである。
故に、冷静な判断力を失い、こうして、稀代の名医たる八意永琳の元に駆け込んできたのも、まさしく当然のことなのだ。
ダイエットしろ、怠惰な生活直せ、という根本的ツッコミは、彼女たちには意味をなさないのだ!
「……す、すごい」
「これは……」
「私が、健康増進のための秘訣として、日々の研究の中で考え出した最強のマニュアルです。これに従えば、あなた達にも、あの日の若々しい肉体が戻ってくることは確実ですよ」
ちなみに巻末の『体験談』に書かれている『体験者』の名前が、軒並み、そんなのとは無縁の奴らばっかりだったりするのだが、それはさておこう。彼女たちにとっては、そんな体験者のメッセージなど関係ないのだ。
要は、これが自分たちにとって意味があるか否か。ただ、問題はそれだけに集約する。
これを書いた永琳は、確かに見た目単なるおっとりお姉ちゃん(お姉さん、ではない)だが、医学や薬学に関する知識ならば幻想郷でトップを突っ走る。まさに、『八意の医学は幻想郷一ィィィィィィ!』なのだ。その彼女が、自らの持てる叡智の全てを駆使して記したマニュアルである。
これが成功しないはずがあるだろうか。いいや、ない。あり得ない。
――となれば、それを実行するものの肉体的・精神的な強さに全てはかかってくる。そして、ここにいる三人は、まぁ、色々とぐーたらしまくってる巫女やら反社会的行動をメインとしている魔法使いやら無駄無駄無駄無駄無駄という言葉が何より似合いそうなメイドさんではあるが、恐らく、物事を達成する能力にかけては、やはり幻想郷一。決して、プレイヤーキャラはうろたえないのである。
だから、行ける。
絶対に大丈夫だよ! ――そう、どこかの魔法少女の有名な、最強の魔法が、彼女たちの頭の中に大きな文字となって現れた。
「わかりました、八意先生。わたくし達、頑張ります! 頑張って、必ずや、目指せ目標体重を達成してみせますわ!」
「よし、咲夜! 一緒に頑張ろう! 霊夢もだ!」
「ええ!」
「紅魔館に連れて行って! 私たちに、一番力を与えてくれる人……いや、人? まぁ、いいや、人で。とりあえず、その人が紅魔館にいるでしょう!?」
「いるわ!」
「行くぞ、紅魔館へ! そしてっ!」
『目指せ、体重、マイナス四キロっ!』
輝かんばかりの結束と友情を示して、彼女たちは永琳の前から辞する。そんな彼女たちを、『あらあら』と見送ってから、やってきた、鈴仙とは別のうさみみナースに、以下のようなものを渡す。
『受診料、お一人様、二千円なり』
さて、そんなこんなで、『幻想郷減量大作戦』を決行するために彼女たちがやってきたのは、湖の中央に佇む紅の館である。ちなみにどうでもいいが、霊夢はなぜ、こんなところに館を建てたのかと咲夜に聞いたことがある。その時に返ってきた答えは『お嬢様の気まぐれでしょ?』ということだった。
こんな、アクセス最悪なところに何でとその時は思ったのが、その答えを聞いたことにプラスして、そういや、あたしら飛べたんだっけ、ということを思い出して、以降はよけいなことは聞かないように努めていた。
まぁ、それはそれとして、横にのけておくとして。
「美鈴っ!」
「はいっ!?」
門の前で、今日も一日、門番をやっている彼女の元に、咲夜が鬼気迫る形相で迫っていく。
「ちょっと、あなたに用があるの。よろしいわね?」
「あ、い、いいいや何ですか咲夜さん!? 私、今日は何にもやってませんよ!? サボってませんよ!? 午前中に、侵入者二人くらい撃退しましたよ!?」
「うふふ……そんなことはどうでもいいのよ」
この時、美鈴の頭の中には、『中華風妖怪、紅の館の門前で変死!』という某烏の新聞の見出しが展開されていた。そこには、無惨な惨殺死体となった自分がばっちりと撮影された写真がトップに飾られており、以下、某烏の、どう考えてもお前の想像だろこれ、な記事が展開されているのだ。
泣きたくなった。ついでに、世の中の理不尽に対して、弓をつがえて反旗を翻してやろうと思って、でもそんなことしても終わりなのよね結局、という結論に辿り着き、せめて最後は苦しまずにあの世に送ってもらおうと、覚悟を決めたその時だ。
「あなた、私たちに稽古をつけなさい」
「……へっ?」
「け・い・こ。聞こえなかった? 別に学ばないわよ?」
何を言っているのだかわからなかった。特に後段の下りが。
とりあえず、美鈴は彼女の言葉に目をぱちくりとさせ、ついでに、今になって、咲夜の後ろに霊夢や魔理沙と言った人間が続いているのを確認する。
えーっと、と声を上げて。
「……へっ?」
全く同じ反応を見せてしまう。やっぱり、理解が及ばなかったらしい。当然と言えば当然だが。
「ちょっと、耳、貸しなさい」
「は、はあ」
「実はね――」
ごにょごにょごにょ、と秘密の内緒話。心なしか、咲夜の頬は赤い。
その話を聞いて、ああ、と美鈴は手を打った。
「そうですか。なるほど。わかりました。
でも、それは咲夜さんの、日頃の不摂生が原因だと思いますよ?」
「う、うるさいわね! あなたが、何かと言っちゃ、『新作のお菓子が』とか『お料理の味見をお願いします』とかで、私に食べさせまくるのが悪いんでしょう!?」
人、それを幸せ太りという。
まぁ、それはともあれ、抗議の声を上げる咲夜の後ろでは、『あー、やっぱりねー』『っつーか、あいつは別に太った方がいいんじゃないか?』などというこそこそ話と、「さすがよね、門番長」「ええ、すでにメイド長を手なずけているわ」「子供の名前、考えておいた方がいいと思う?」「私、もうすでに考えついてるのよ」などという、部下達の、ひそひそしてないひそひそ話が響きまくっている。
「う、うるさいうるさいっ! あなた達、仕事をさぼるようなら、紅魔館名物の刑執行よっ!」
「ひぃっ!?」
「そ、それだけはぁっ!」
「……紅魔館名物の刑?」
「何だそりゃ……」
名前だけ聞くと、体に装飾でもされて、そこらに立たされるのかと思ってしまうのだが、あのメイド達の怯えっぷりは演技ではない。恐らく、想像を絶するくらいに恐ろしい刑罰なのだろう。あんまり想像しない方がいいとわかっているのだが、それでも霊夢は好奇心を抑えきれず、逃げ出すのが一歩遅れた相手を一人、捕まえて「それって何?」と聞いてしまう。
「……はい。
紅魔館名物の刑……それは、私たちがメイド服を身につけて――」
「いや、まぁ、そりゃ普段のことだろうし……」
「やってくるお客様達に……」
「うん」
「『お帰りなさいませ、ご主人様』とか言わないといけない刑なんですっ!」
「………………………あーそーふーん」
「あ、何ですかその反応!? あれって結構、きついんですよ!? 何か勘違いした人たちがたくさん来て、何か目が怖いんですよ!? 一度やってみればわかりますよ!」
「いや、まぁ、えっと……」
「一部の子達は楽しんでやってるけどっ! 少なくとも、私にとっては耐えられないっ!」
「……ま、頑張って」
それを、外の世界では『メイド喫茶』というのだと言うことを、後日、霊夢は霖之助から聞いて知ることになるのだが、とりあえず、今はそれは関係ない。
一応、咲夜によってメイド達は、皆、見事に散らされ、門の回りに人気がなくなったところで、美鈴へと、一同の視線は戻る。
「……それで。何で私なんでしょう? 永琳さんに教えてもらった方がいいんじゃ……」
「何言ってるの! あなたの、その色々なパーフェクトっぷりが、今の私たちにとって重要なのよ!」
「他にもパーフェクトな奴らはいるが、奴らはあくまで天然物だからな……。その点、美鈴、お前は天然物でありながら、厳しい環境の中で勝ち上がってきた、まさに勝ち残りなんだ!」
「……どうしよう、この人達の言ってることがわからない……」
「いや……うん、気持ちはわかる」
ちょっぴり冷静になって考えてみると、自分たちは、一体何をやらかそうとしているのか、さっぱりわからなかった。先ほどまでは頭に血が上ってヒートアップしていたが、メイドとのやりとりでクールダウンに成功した霊夢の視線は、外側からの観察者の視線だった。その視線の先に展開されている世界は、まぁ、色々切羽詰まって大変なんだなということはわかるものの、さりとて理解の範疇に当てはまるかと言われると、思わず首をひねってしまう光景そのものである。
「あなたの健康増進方法! そして、スタイルの維持向上の方法! 全てを私たちに伝授してもらうわよ!」
「方法、って……。私は、ただ、単に『よく食べてよく寝てよく動く』を実践してるだけで……」
「じゃあ、何で変化しないんだよ!?」
「……妖怪だから」
「……そりゃそうだわな」
「そんなのは理由にならないぜ!」
「誰かこの人達に理屈を通してください……」
「……ごめん無理」
女の子は、事、『ダイエット』という言葉を前にすると、色々、目の色が変わるものなのだ。
その辺りのことを、美鈴は、今日の経験を通して学ぶことだろう。そして、自分がいかに回りから憧れの視線を持ってみられる存在であるかと言うことを。
とりあえず、彼女は『わかりましたから落ち着いてください』と、いきり立つ咲夜と魔理沙をなだめ、視線を、『仕方ありませんね』と館の方へと向けた。
「回りの方々には知られない方がいいですよね?」
「え、ええ……」
特に、咲夜に関しては。
回りから『パーフェクトメイド』と呼ばれ、紅魔館では尊敬と同時に畏怖される存在でもある彼女が、まさかダイエットに打ち込んでいる姿など、他の誰にも見せられるものではないだろう。恥ずかしいを通り越して、それこそ無様そのものだからだ。
その辺りをしっかり理解しているらしい美鈴は、「じゃあ、こちらへ」と歩いていく。彼女について、紅魔館の裏庭を回っていくと、その先に一軒の建物があった。
「普段は、門番隊のみんなの訓練に使っているんです」
「いつのまにこんなものが……」
「何であなたも知らないのよ」
「そうね……何でなのかしら……」
「……案外いい加減だな、紅魔館……」
んなこと、今さら言わずともわかりきっていることなのだが。
一同を連れた美鈴が、鍵のかかった扉を開けると、中は、だだっ広いだけの空間になっていた。ただし、壁や天井などの材質は相当しっかりしたものを使っているのか、ちょっとくらい騒いだり、弾幕ぶっ放した程度では壊れないだろうという作りにはなっていた。
ドアはちゃんと閉めてくださいね、という美鈴の言葉に従い、最後に扉をくぐった霊夢が、それをしっかりと閉めた上で鍵をかける。
そうして、魔理沙が帽子の中から取りだした、永琳から渡されたダイエットマニュアルを受け取り、美鈴がそれに目を通し始める。その間、一同は、適当にその辺りに腰を下ろして彼女の次の言葉を待った。
「……なるほど、さすがは永琳さん。完璧ですね。ダイエットの基本は、運動と食事」
「そうだなー。咲夜は食い過ぎで太ったんだしな」
けけけけ、と笑いながら、魔理沙。
「あなたは、さしずめ、運動不足かしら? 半引きこもりだし」
「むっかーっ。……でも当たっているだけに何も言えないぜ」
さらりと返される、瀟洒なツッコミに肩を落とし、魔理沙はため息をついた。とりあえず、自分が何で太ったのかという理由はわかっているらしい。
「じゃあ、まずは、そうですね。皆さんの肉体能力を引き上げましょう」
「そんなこと出来るの?」
「簡単に言うと、基礎代謝を引き上げるんです。代謝能力とは、言ってみれば、人間の生活エネルギー。より多くの力を効率的に利用することが出来るようになれば、同じ運動をしても脂肪の減り方などが違ってきます」
「……詳しいわね、あなた」
「そうですか? 基本だと思いますけど」
してみると、自分はその基本も知らなかったのか、と咲夜は内心、しこたま傷ついた。天然というものの破壊力に圧倒されながらも、いやいや、ここでくじけてどうする的な不屈の精神で立ち上がり、その視線を美鈴へと戻した。
「では、今から私が皆さんに、とある方法を教えます」
「方法って何だ?」
「行きますよ」
彼女は、用意を調えた、と言わんばかりに、いつの間にか正座していた三人を立たせると、それぞれの胸元に鋭い突きを入れる。
「め、美鈴! お前、何するんだっ!」
「げほっ! い、いったぁ~……!」
「殺すつもり!?」
「はいストップ。その状態で、大きく、息を深呼吸してみてください」
今にもくってかかりそうな勢いで怒鳴る魔理沙と咲夜を鎮めるように、美鈴は言った。何をわけのわからないことを、と二人は半信半疑だったが、とりあえず、言われたように胸を膨らませる。
――と、
「な、何だ……?」
「これは……!」
その瞬間、確かな変化がそこにあった。
彼女たちを中心に、何かが広がっていくような印象を、その時、唯一参加していなかった――単に、ダメージが大きすぎてうずくまっていただけだが――霊夢は、確かに感じたという。
そう、それはまるで――。
「そのリズムを忘れずに。そして、その呼吸のテンポを速めます。一秒間に十回を目安としてください」
「なぬっ!?」
「それが出来たら、十分間息を吸い続け、次に十分間、息を吐き続けます」
「そんなこと出来るわけないでしょ!?」
「やるのです。やらなければいけません。
いいですか、皆さん。人間の体には、たくさんの未知なるエネルギーが眠っています。私が教え、そして引き出すのは、その『未知の力』なのです。そして、そこから生まれる力は皆さんの肉体を活性化させ、細胞の一つ一つにすら力を与え、ひいては――」
「やめぇぇぇぇぇぇぇっ!」
直後、天井付近の窓ガラスが割れると、紅魔館の名物お嬢様がクレイドルしながら突っ込んできて、ひょいと身をかわした美鈴のせいで、そのまま床に逆さまに突き刺さってむーむー言いながら、じたばたと暴れている。
「えーっと……」
「……よいしょ」
完全に、空気が凍り付いた。その微妙な空気の中、ぱたぱたもがくお嬢様の足を引っ張って、咲夜は彼女を床の上に引っ張り出す。
「ぷはー……し、死ぬかと思ったわ……」
「……壮絶な自爆だわね。それで死んだら」
「末代までの笑いもんだぜ……」
「そ、それはともかく!
美鈴! そんなものをこの子達に教えるのはやめなさいっ!」
「で、ですがお嬢様。ダイエットにおいて必要なのは……」
「そんなものは関係ないわっ! そんな奥義をマスターされたら、最近、とみに急降下しまくっているってことでご近所の奥様達の間でも噂のわたしのカリスマが、さらに落下していくじゃないっ!」
「……自覚してんなら何とかしようとしなさいよ、あんた」
「ともかく、それ禁止! 何か他の技を教えなさいっ!」
「っつか、お前、どこからこの話聞いてたんだ?」
ちっこいお嬢様ことレミリアの言葉は、とりあえず、この館で働く咲夜と美鈴にとっては絶対だった。仕方なく、美鈴が彼女たちに教えようとしていた何事かの奥義は中断され、「じゃあ、ちょっときついかもしれませんけど、基礎的な運動でダイエットすることにしましょう」ということになってしまった。
レミリアは、霊夢や魔理沙は当然として、咲夜にもじろりとにらまれながら、こそこそぱたぱたと、自分で砕いた窓ガラスから退散していく。つくづく、何しに来たのかわからないが、あそこまで彼女が本気になると言うことは、きっと何かがあったのだろう。多分。
「それでは、私が見本を示しますので、私の動きについてきてくださいね」
「はーい」
「じゃ、まずは歩きましょう。その場で足踏みを繰り返してください」
左右にぶつからないように、充分に間を開けてくださいね、との彼女の言葉に従い、それぞれの間を広く取りながら、美鈴に言われた通りの運動を、三人は始めた。
「それが終わったら、ジャンプから左右のステップ」
「これが何になるのかしら」
「私は知らん」
「そうして、体の筋などを大きく伸ばして」
「ん~……! っと。何か普通ね」
「次は腕立てを、私がいいと言うまで、私のリズムに従って繰り返してください」
――そこからが、容赦なかった。
「はい、1,2,1,2,1,2! 声を出して!」
「お、おまっ……! ちょっと早すぎ……!」
「わん、つー、わん、つー、わん、つー! 咲夜さん、遅い!」
「だ、だって、あなた、これ……!」
「はい、次は膝立スクワット! これも私のリズムにあわせて!」
「よ、容赦なさすぎじゃない!?」
確かに、容赦ないといえば容赦のないメニューだった。まずは基本のストレッチ、ということで、その動作のそれぞれが体をあっためるためのメニューだと言うことだが、その段階で、彼女たちの額には玉の汗が浮いている。魔理沙など、もはや体がついて行かなくなってきているのか、「遅いですよ!」と美鈴に怒鳴られる始末だ。
「はい、右、左、右、左! 咲夜さん、脇の締め方が甘い!」
「こ、これ以上やるの!?」
「常に体の筋を意識して! 筋肉を使うと言うことを意識してトレーニングです!」
「は、はいぃ……」
「続いて、腰を落として! はい!」
壁掛けの時計を、霊夢はちらりと見た。運動が始まって、まだ、わずか十分。それなのにすっかりと息が上がってしまっていて、全く、運動に体がついて行かない。
「だぁぁぁっ!」
ついに魔理沙が音を上げた。ぜーはーぜーはーと、無様に床の上で喘ぐ彼女に続いて、霊夢、そして咲夜もギブアップを宣言する。
「皆さんは、全く、体に運動に必要な筋力がついていませんね。ちょうどいいですから、このトレーニングで一緒に身につけちゃいましょう」
「ま、待って……待って、美鈴……。わ、私たち、別にビルドアップするつもりじゃ……」
「当たり前じゃないですか。細くてしなやかな体を作るのが、このトレーニングの意味です」
「じ、じゃあ、もうちょっと緩いメニューにしてくれても……。私が嫌いな言葉は、一番が『努力』で、二番目が『頑張る』なのよ……」
「霊夢さん、それじゃダメですよ。
いいですか? このトレーニングで作り出されるのは、最終的には、戦うための体なんです」
「な、何と戦うんだよ……」
「自分の魂で立ち向かってください。そうすれば、必ず、勝利はあなた達のものになります」
何のことだかさっぱりわからなかった。さっぱりわからなかったが、とりあえず、信じて頑張れば何とかなりそうと言う感じはする。と言うか、ここまでどぎついトレーニングをやらされて、全く何の効果が出ないはずはないだろう。物理的に考えて。
問題は、自分たちがそれについて行けるかどうかというものであるのだが――。
「疲れたら無理をせずに休む。そして、喉が渇いたらしっかりと水を飲む。無理をして得られるものは疲労と失敗のみです」
「あんた、さっきのセリフと違う……」
「私のリズムに合わせることは必要ですけれど、疲れたのなら、無理せずに休んでくれて構いませんよ」
あのリズムでやることが大切なんです、ということらしかった。
言われてみるとわからないことはないのだが、やっぱり、何か理不尽である。しかし、『疲れた? 休みたい? 甘ったれるな!』と言われないだけマシだろうか。
「さあ、しっかり休んで体力が回復できたなら、次のメニューに行きますよ」
『は、は~い……』
「人間、努力は必ず報われます」
そうであるといいのだが。
世の中、そうそううまい話はないというが、しかし、今回ばかりはそれがうまい話になってもらわないと困るというのが本音だろう。
「では、最初の動きを繰り返して! はい! 1,2,1,2!」
「……咲夜。私は思うんだが」
「……ええ。何?」
「美鈴に頼んだの……間違いだったんじゃないか……?」
「私もそう思う……」
「……ごめんね二人とも。でも付き合って……」
『いえっさー……』
ダイエットは、一緒にやる友人、あるいは仲間がいると長続きするという。こんなにきっつい運動を、これからも一人で継続するというのは、確かに無理っぽかった。
彼女たちは、この時、初めて互いに協力することの意義というものを、これから学ぶことになる。共に共通の目的を達成するために努力し、汗を流すことの喜びを知ることになる。数多の苦難と困難の向こうに、目的を達成することの達成感を実感することになるのだ。
――無論、その日がいつやってくるのかは、誰にもわからない。
「一被設置っ!」
その声が、これから、この空間にひたすら響くことになることを、この時、彼女たちは薄々、実感していたのだった――。
「あらやだ」
「師匠?」
霊夢達が八意永琳医療相談所を訪れて、三日後のこと。
永琳のおっとりした声が、彼女の診察室に響いたのは夕方の頃である。そろそろ、影が長くなってくる頃合い、彼女の部屋にお茶を運んできた鈴仙が『どうしたんですか?』という眼差しを向けてくる。
「あら、ウドンゲ。困ったわぁ、どうしましょう」
「いや、あの。話の内容が見えないので、私には……」
「あのね、この前、霊夢さん達が来たでしょう?」
「はい」
「その時に渡した本なのだけど、ちょうど真ん中のページが抜けていたのよ」
「ありゃ」
師匠でも、そんなミスをするんですね、と鈴仙。むしろ、永琳だからやらかした、と言うべきなのだろうが、彼女のことを尊敬しているうさみみ少女には、そんな疑問は思い浮かばなかったらしい。
「そうなのよ。どうしようかしら……」
「重要なものなんですか?」
「うーん……。重要と言えば重要だけど……重要じゃないと言えば重要じゃないわね」
「は?」
「これなのよ」
渡される紙片。それはちょうど、この本に綴じ込むためだったのだろう。隅っこには中途半端なページ番号が振られており、その内容自体も、『前段の流れを受けて』から始まるために、何だか突拍子もないものだった。
以下が、そこに記されている文章を要約したものである。
『ここ、幻想郷の人々、また妖怪の間には、ある特殊な『運動方法』と称するものがある。それが、この幻想郷において、物事を解決するルールとなっている弾幕勝負である。
この弾幕勝負というものを分析すると、以下のようになる。
一:使用する弾幕の種類は数あれど、いずれもその当人が使う『武器』であり、『エネルギー』によってコントロールするものである。
二:弾幕バトルは空中戦がメインであり、三次元的な行動は、それを制御するために莫大な集中力とエネルギーを必要とする。
三:大技であり、決め技でもあるスペルカードは、以上二つの集大成であり、その際に消費されるエネルギー量は想像を絶する。
これらにおいて消費されるエネルギー、つまりカロリー量を計算した結果、弾幕一発の生成に十キロカロリー、スペルカード使用時には四百キロカロリーを消費する。一度の弾幕勝負を三十分継続した場合、消費される総カロリー量は、実に千五百キロカロリーにもなり、これが、幻想郷において『太りづらい体質』を生み出す要因となっているのだろう』
「ああ、なるほど。霊夢さん達の体重が増えたのって、最近の平和な幻想郷が原因だったんですね」
「そうなの。普段なら、三日に一度は弾幕で戦っているでしょう? それがなくなったから、その分、消費されているエネルギーが消費されずに残ってしまったのね」
「じゃ、別にダイエットなんてしなくても、普段通りに弾幕してればやせるんですね」
「ええ。
だから困っているのよ。渡した本には、食事療法とか、基本の運動とか。そういうものしか載せていないから」
「あー、なるほど。それは大変ですね」
困っちゃいましたねー、と鈴仙。全くこれっぽっちも危機感を感じていないセリフである。と言うか、そっちがダイエットの基本であり、こんな特殊な『ダイエット』はダイエットではないからだ。
とはいえ、ダイエットには苦労が伴う。そうした苦労というのは、はっきりと言ってしまえば、別に経験する必要のない代物である。せっかく、幻想郷にいるというアドバンテージがあるのだから、それを生かすような手段があるのなら、そっちを使った方が彼女たちにとっても幸せだろう――そう思い直した鈴仙は、「じゃあ、明日、朝一で霊夢さん達に、この抜けたページを届けてきますね」と言って踵を返した。
「あらあら、困ったわねぇ。私もドジしちゃったかしら」
あんまり困っている様子もなく、右手を頬に当てて、その肘を左手で支える、永琳先生お決まりのポーズで、彼女は、ふぅ、とため息をついたのだった。
「では、今日からは発展メニューに入ります! 皆さん、用意はいいですか!?」
「任せておきなさい!」
「昨日、体重計乗ったら一キロ減っていたからな。このまま目標体重を目指すぜ!」
「美鈴、今日もよろしくね!」
「それでは、基本のストレッチからスタートします!」
『はい!』
その場に響き渡る、霊夢達の声――にプラスして、複数のメイド達の声。
美鈴が、何やら効果的なダイエット方法を知っているらしい、という噂は、いつの間にか紅魔館のメイド達の間に伝わり、彼女の元に『それを教えてください!』とメイド達が詰めかけてきたのだ。やはり、彼女たちも女の子。『体重』というものは気にしていたのである。
今や、門番隊の訓練場は、女の子達の戦いの場に変わっていた。美鈴先生の元、これからたっぷりと汗を流すのだ。
――無論、やせたいのなら弾幕勝負をやれば早いという事実を、彼女たちは知るよしもない。色んな意味で『しなくていい努力』を、彼女たちはすることになってしまったのだが……まぁ、これも何かの縁だと思って頑張ってもらうのが一番だろうか。
「わたしも混ざろうかしら」
「フランもやりたいー。何かたのしそうー」
それを眺める吸血鬼姉妹の姿も見受けられる、そんな紅魔館の午後は、ゆっくりと夜に向かって更けていくのだった。
そして美鈴!その訓練法は吸血鬼の館でやるもんじゃあない!
あと、ちょっと改行で読みにくく感じた箇所が幾つかありました
しかし、波紋は危険すぎwwww
流石に4キロ増えたら地獄ですね。怖くなって体重計乗ってきましたw
「ダイエット」は永遠のテーマですw
グハッアアアアア!何故だ真っ赤な顔した咲夜さんが言ってると思うだけでこう・・・
うーん、レミ様格闘好きだもんなあ
最初は何のことだか分かりませんでしたが、お嬢さまが慌てて突っ込んできた所で意味がわかりました。
というかメイリン波紋使えたのかw
しかし、ダイエットの魔力は恐ろしい。