1
「新しい境目を見つけたの」
「面白そうね。どんな所?」
「森みたいね。雨がしとしとと降り注ぐ中で樹がざわざわと囁き、散り舞う桜を揺すぶって鳥が囀っているような、そんな場所。濃い霧だけが厄介そうだけど、行ってみる?」
「勿論。行ってみましょ」
そんなやり取りがあったのが、少し前のこと。
意気揚揚と結界の裂け目を潜った私たちは
「迷ったわ」
「迷ったわね」
乳白色の霧に覆われた森で、声を重ねていた。右を見ても左を見ても緑と霧ばかりであり、入り口はおろか、来し方行く末を伺う術もない。わざわざ声に出して確かめた通り、二人して完全に迷っていた。
いや、迷ったのではなく、道を見失ったというべきか。迷い子ならば、あちらこちらへうろつけば、来た道へと戻る当てもあろう。だが、失われた道を見つけるのに神頼みでは、いささか心許ない。
「少し休みましょうか」
「賛成。足が痛くなってきちゃったわ」
頷き、体と頭を休めようと手近な岩にもたれかかる。鉱物特有のひんやりした冷たさが、肌着を通して伝わってきた。
肩を揉むと、一日中肉体作業をしていたかのような凝り方だ。強行軍のせいで筋肉はひきつり、お腹が音を鳴らしている。それは相方も同じのようで
「蓮子、何か食べるものない?」
「カロリーメイトならあるわよ」
「用意がいいわね。それで、何味なの」
「チョコバナナ味」
「……そんなのあるんだ」
ブロック状の栄養食を半分に割って手渡す。手元に残った半欠けの塊を口に入れ、かみ砕いて嚥下した。ぼそぼそとした歯触りは味気ないことこの上ないが、縁日の屋台を思わせるしつこい程の甘みは今の私たちには有り難い。
ふう、と。
吐く溜息には疲労の色。全身が重く、気怠げなのが自分でも解る。慣れない地を延々と彷徨っているのだから、当然かもしれない。
足元に注意を向けると、柔らかい感触が伝わってくる。
蹴りつけると、ばふと音がして僅かに匂う微粒子が舞った。何かの胞子のようでもあり、地表を菌類が覆ってでもいるのだろうかと思わせる。確認しようかと思ったが、その気力もなかった。
ここに迷い込んでからどれ程の時間が経過したのだろうか。月も星も見えないのでは、時間と位置を知る特技も使いようがない。何時間か、もしかすると、何日か。腕時計の針は狂ったようにぐるぐると回り続け、ものの役に立たなかった。
回っているのは針だけではない。正しい道行きはどちらか、帰る当てはあるのか、人家があればいいのだがと――私の思考もあちらこちらに飛び散ったかと思えば、次の瞬間には一つどころを当て所もなく回り続けている。
「蓮子、時間と場所はわからないの?」
「さっぱりよ。霧のせいで空は良く見えないし、まだ月も星も出ていないわ。時計はさっきからぐるぐる回るだけだし。完全に迷子ね」
「困ったわねえ」
友人――マエリベリー・ハーン、通称メリーの問いに答える。メリーの声は軽快で、私たちが置かれた状況もさして気にとめていないようだ。いつもこの調子なので、本当に気にしていないのかは判断出来ないが。滑らかな金髪が霧中にあってひときわ鮮やかだった。
「全く、この様子じゃね……」
私は思い切り目を凝らすが、一メートル先も見えない。白い塊がどこまでも広がり、目の届く限りの空間を占有している。
一寸先は闇ならぬ、一寸先は霧だ。霧がたゆたい、集合し、濃密な壁を形作って私達の視界を閉ざす。木の葉のさわさわと揺れる音が耳に届いても、茂っているであろう樹樹は数本しか見えない。五里霧中とはまさしくこのことだろう。
「せめて休める場所は見つけたいわね。出来れば出口も」
何もかもが未知の森で愚図愚図しているわけにはいかない。霧に完全に閉じこめられてしまいでもしたら大事だ。背もたれにしていた岩から身を起こすと、出発するのとメリーが目で問いかけてくる。
ええ、と頷き、手を差し伸べた。逡巡無く、メリーが手を握ってくる。
「はぐれたら終わりだものね」
意図を察してくれる友人は有り難いものだ。メリーの小さな手は柔らかく、どこまでも白い。といっても病的な印象はなく、良質なミルクのような瑞々しさがある。掌から伝わってくる人肌の温かさに、私はそっと息をついた。自分一人でなくて良かったと、つくづく思う。
「蓮子、冷えてるわね」
「あなたの手が温かいから大丈夫よ」
「それだと私だけ損してない?」
「資産の分配は公平にしなきゃ」
「社会主義は好みじゃないんだけど、私」
「万国のプロレタリアートは団結すべきなのよ」
「百年遅れの学生運動でもしてなさい」
他愛もない話をしながら、手に手をとって歩き出す。
見慣れぬ樹木がさわさわと肌に触れ、霧に含まれていた水滴を残してゆく。地面は時に固く、時に柔らかくと気まぐれだ。踏み固められた土と湿地めいた泥が交互に配置されているのかもしれない。土地がこの様子では、樹木の植生はどうなっているのだろうか。興味をそそられたが、狭い視野のせいで、じっくり観察出来ないのが不満だった。それに、体力的にも精神的にもそんなことをしている余裕はない。
出来るだけ体力を無駄遣いしないよう、注意を払って歩いていると――
「――ひゃあっ!」
メリーの頓狂な声が響き渡った。
足を止めて振り返ると、頼りなさげに頭を探る姿が見える。何をやっているのだろうか。
「どうしたのよ、変な声あげて」
「うう、見てよ蓮子。枝に引っかかって、帽子が」
「あら、見事にびりびり」
白い絹の帽子がものの見事に破れていた。細く長い切れ目が走り、ざっくりと口が開いている。鋭い枝が引っかかり引きずられ、帽子を破いてしまったのだろう。裂け目から飛び出た金髪が可愛い。
「これはもう駄目ね。かぶれなくもないでしょうけど、帽子とはちょっと言えないわ」
「意外に高いのよ、それ。あーあ、今月お金無いのに」
「色々と使い過ぎよ。節制しなさいって言ってるでしょ」
万年金穴はお互い様で人のことは言えないのだが、この際置いておく。そもそも財布の中を気にしている状況ではなかろう。
気にするべきはむしろ
「帽子はともかく、怪我はしてない?」
「大丈夫……だと思うわ。この帽子、結構ゆったりしてるから」
「なら良かった。こんな所で怪我でもされたらたまらないしね」
改めて見ると、枝先は相当に鋭い。皮膚にでも刺されば、出血、創傷は避けられないだろう。怪我の一つも無いのが不幸中の幸いだった。黴菌でも入ってしまったら一大事である。
「でも――」
帽子と金髪を見比べる。
「そのままだと、髪の毛が面倒じゃないかしら」
「そうなのよ、絡まったり引っかかったり大変だわ。どうしよう、替えの帽子なんて持ってきてないし」
メリーの髪は私に比べ遙かに豊かで柔らかだ。時々触らせて貰うが、不覚にも羨ましくなってしまうほどである。その分、こんな所を歩くには不便極まりない。友人自慢の髪が痛むのは、私としても望むところではなかった。
「本当に仕方ないわね……はい、これあげるわ」
愛用の黒帽子を頭から取り、かぶせた。
私の帽子はメリーには少し大きく、目の上までをすっぽりと覆い隠す。ただでさえマスコットめいた見た目がますます際立ち、これはこれで可愛い。
「え……でも、いいの?」
「いいのよ。私の髪ならそうそう引っかからないでしょ。帽子はまあ、家に帰れば予備があるしね」
「私のことだし、また駄目にしちゃうかもしれないわよ」
「あげたのだから、破れようが壊れようが構わないわ。それに」
「それに?」
「財産は共有しないといけないしね」
「同じギャグは三回まで」
「ちえっ」
「それはそれとして――」
ふとメリーの表情が緩んだ。ふわりとした笑みだった。
「ありがと、蓮子」
華のような笑顔に、一瞬言葉を失う。
私はこの笑顔に弱い。大変に弱い。
根が素直ではないせいか、こうも陽性に笑われると調子が狂ってしまう。慌てて目を逸らし、威勢良く声を上げた。
「そ、それじゃ行きましょ! 出口は何処かにあるはずよ……多分」
取り繕うような言葉が、わざとらしく思われなければ良いのだが。
声が裏返っていないことを祈りつつ、私はまた歩き出した。
2
「……蓮子、一ついい」
「聞きたくないけどいいわよ」
「私、そろそろ限界なの」
「……奇遇ね。私もよ」
顔を見合わせ溜息をつくと、私たちは地面にへたりこんだ。足下の土は固く乾いており服が泥で汚れるようなことはなさそうだ。湿地帯でもあったならば、進むも戻るもかなわずに立ち往生していただろう。それでも、湿った霧が隙間から忍び込み、衣、肌をじっとりと濡らすのは防ぎようがなかった。纏わりつく水気が体を冷やし、緩慢と、だが確実に体力を奪ってゆく。
私もメリーも体力自慢というわけではない。遠出も散歩も好きだが、暇さえあれば野山を駆け巡るというタイプではないのだ。広い空間を当て所なく歩き続けるのは少々こたえる。
道に迷った時は無闇に動かない方が良いとも言うが、今の場合は動けなくなったという方が正解に近い。そもそも、この空間では原則が適用出来るかどうかも怪しいところだ。私は力なく首を回すと、メリーに声をかける。
「ねえ、何か見つかった?」
「全然駄目ね。境目の一つも見当たらないわ。そっちはどう?」
「こっちもさっぱり。霧は晴れないし、夜に星が出ても、私たちの世界みたいに見えるとは限らないしね」
周辺には豊かな樹樹と濃い霧が延延と続くばかりだ。歩んでいるつもりでも、もしかすると同じ所をぐるぐる回っているのでは無かろうか。そんな疑念が頭をもたげる。
あり得ない想像ではない。遭難者の多くは、目的地に向かっているつもりでも一箇所を彷徨っているだけだという話を聞いたことがある。パン屑を巻いて目印にすべきだったかもしれないが、今となっては手遅れか。
「……夜が来ちゃうわ」
メリーが呟いた。見上げれば、霧を貫いて周辺を照らす陽光がか細くなってきている。この世界でも、昼夜の歩みは嚴然としてあるようだ。
夜が来る――という事実は、あまり考えたくない。
暗闇とは恐ろしいものだ。プロメテウスの贈り物を引くまでもなく、熱と灯とは文化の、生活の礎だ。それだけに、それらを奪われた時の恐怖は根源的であり、理性で抑えられる類のものではない。
率直に言って、夜の森に食料も装備も無い状態で放り出されたら、平然としている自信はなかった。SOSを発信し、大声で叫んだとしても助けが来るはずもない。仮に来たとしても、ここは私たちの世界とは違うのだ。人間が来るとは限らなかった。
これはひょっとして――
「絶体絶命、ってやつね」
「言うまでもなくね」
どうしたものかしら、と答え、そんな言葉を口にしてしまった自分に少し腹が立つ。
どうもこうもないのだ。ぼやいていても状況が一変するわけではない。
具体的な対策をとらねばならない。
それも、早急に。
このまま進むにしても、遠からず陽が落ちるだろう。せめて、腰を下ろしてゆっくりと身を休めることが出来る場所が欲しかった。火をおこして暖をとれることが望ましい。
ポケットを探ると、指先に触れるのは買い物のレシート、ハンカチとポケットティッシュ、それに、小箱に入った燐寸。部室から持ってきたものだ。これは有り難い。
開けた空間を見つけ、火をおこして――と考える内、メリーの声がしないことに気がつく。眠ってしまったのだろうかと思い横を向くと
「メリー?」
宙に目を向け、ぼんやりしている彼女がいた。
「ちょっと、メリーってば!」
「……あ、ごめんごめん」
「どうしたのよ、ぼうっとして」
「考えてみたんだけど」
心ここにあらずとまではいかないが、どこか夢見るような表情でメリーが答える
一見すると呆けているようにしか思えないだろうが、メリーは精神を集中させている時にこのような顔付きになると、私だけは知っている。
実際、メリーの聡明さは折り紙付きだ。知識、観察力、洞察力、思考力、全てにおいて隙がない。捉え処のない、ふわふわした、とぼけたような表情で、本質を言い当てるような所があるのだ。私とは正反対だった。
「蓮子の案も悪くないけど、ちょっと無理がないかしら。夜を過ごせるような場所が都合良く見つかるとは限らないし。それに多分、夜を明かしても状況は変わらないわよ」
「……でしょうね。捜索隊が出ても、ここまでは来てくれないでしょうし」
認めたくないが、その通りだ。
「どうにかして森を出ないといけないわ。出来るなら、元の世界に帰らないと」
だが、どうやって?
そう言いたげなのを察したか、メリーはゆっくりと目をしばたいた。澄んだ碧眼が、私を凝乎と見つめる。
「手はあるわ。結界を操ってみようと思うの」
「……そんなこと出来る?」
メリーは曖昧に頷く。肯定か否定かはっきりしない首の振り方。
「わからない。でも、前から考えてはいたのよ。見ることが出来るなら。触れることが出来るなら。操ることも出来るかもしれない、ってね」
「まあ、突拍子もない話じゃないわね。考えてみれば、結界は文字通り界を結ぶもの。解きほぐすことも出来なくはないか」
「さすが蓮子、理解が早いわ。私たちの世界に通じる裂け目くらいなら、どうにか作れるかもしれないし」
「ね、これだけは確かめておきたいのだけど」
「何?」
「……試したことは、あるのよね?」
「もう、やだなあ。決まってるじゃない」
自信ありげな声に胸をなで下ろしたのも束の間。
「勿論、ぶっつけ本番よ」
信じた私が馬鹿だった。
「大丈夫よ。このマエリベリー・ハーンさんに任せておきなさい」
胸を叩いた手が、ぽよよんと跳ね返る。
本当に大丈夫なのだろうかと、不安がよぎる。
面白い提案ではある。だが、不確定な要素が多すぎるのも確かだ。
このまま脱出する方法を探した方が賢明ではないのか。仮に結界を操れたとしても、そう都合良く私たちの世界に通じる裂け目を作り出せるのか。そもそも、メリーが言うようなことは本当に可能なだろうか。不安と疑問と代案が、脳内で渦を巻く。
「どうするの、蓮子?」
「……そうね」
頭を振って、雑念を振り払う。
私たちに選択の余地はないのだ。未知の森で一晩を過すのはあまりに危険が多すぎる。メリーに頼るのが賢明だろう。
己にそう言い聞かせ、私は彼女の目を見つめる。
「お願い、メリー」
「そうこなくちゃ。任されたわ」
メリーは目を細め、微笑んだ。
おかしなものだ。それだけで、心に巣食っていた多種多様な不安が、雲夢消散してしまうのだから。
――まったく、本当にかなわない。
「ちょっと待ってね、すぐ準備するから」
半ば呆れている私を余所に、メリーは地に転がっていた棒を手に取ると足下の土に線を走らせる。見る見る間に作り上げられるのは、無数の図形。
円形。
四角形。
五芒星。
六芒星、八芒星、曼荼羅模様。
霧の地面に、とりどりの紋様が刻まれてゆく。メリーの手管は流れるようだ。絵や音楽もちょっとしたものだし、芸術的な天分があるのかも知れない。
「上手くいきそう?」
「大丈夫大丈夫。信じてちょうだい」
「信じるしかないんだけどね」
「そういえば」
地面から顔をあげずにメリーが言う。
「帰るのはいいけれど、同じ場所に出られなかった時はどうしようかしら」
「そうね……秘封倶楽部の部室で待ち合わせにしましょ」
「はーい」
明朗に答え、メリーは再び図形を描く作業にと没頭した。カリカリと、土を削る硬質な音だけが響き渡る。
やがて日が地平線にかかり、闇が白い霧を侵食し始めた頃
「はい、完成!」
「待ちくたびれたわよ……」
メリーが立ち上がり、腰を伸ばす。その足下には、複雑怪奇奇妙奇天烈、名状し難い形状の紋様が刻まれていた。
縦長の長方形が横並び二つ合わさり、渦巻き模様や幾何学的な直線がそれぞれの表面を飾っている。左側の長方形に端を発する線を辿ると、それは断続的な跳躍を繰り返して右端に達しているという按配だ。エッシャーの騙し絵、メビウスの輪、非ユークリッド幾何学。そのような言葉が頭に浮かぶ。
「えーと……これ、何?」
「何って、扉に決まってるじゃないの」
「扉……ね。見えないこともないけど、ちょっと無理がないかしら」
「仕方ないわ、イメージとしての扉だもの。結界を直接見るのは難しいからね。こうやって、目に見える形で通路なり扉なりを作っておくと弄りやすいの」
「触媒みたいなものね。目に見えるようにすることで、反応過程が促進されるわけだ」
「そんな所。それじゃ、早速やりましょうか」
「え、もう?」
「だって、もう暗くなってきてるわよ。待っていても何か起こるわけじゃないし。さ、急ぎましょ」
とんとん拍子に話が進む。メリーが会話の主導権を握るとは珍しい。結界や異世界に関しては、彼女の方が専門ということなのだろうか。
戸惑う内に、メリーが私の手を取った。滑らかで柔らかい、可愛い掌。そこから伝わる温かみに、心が落ち着くのが解る。
「始めるわよ」
「始めるのはいいけど、私は何をすればいいのかしら」
「強くイメージして。足下の、この扉が開き、その先に私たちの世界へ続く道が伸びている光景を」
「解ったわ。出来るだけ強く念じるのね」
「そうそう。じゃ、いくわよ」
すう、とメリーが息を吸い込み、長い睫を瞬かせて目を閉じる。一拍置いて、唇から漏れるのは、優しげな囁き。
There were two birds sat on a stone,
Fa, la, la, la, lal, de;
聞き覚えのある詩句が、謡うような柔らかな聲に乗せて紡がれてゆく。確か、マザーグースだったか。イギリスの童謡で、映画や文学にも良く用いられている。なるほど、呪文めいて精神を集中させるには最適だろう。
呪言の羅列は、耳朶に入り込み、鼓膜を揺るがし、内耳神経を経て脳髄を刺激する。
私は音に導かれるように、脳裏に扉を、道を、元の世界を描き出す。最初は周縁部から、徐々に内側へと。マクロからミクロへ、絵を描くように、あるいはジグゾーパズルを組み立てるが如くにイメージを構築する内――
ぐにゃ、と。
視界が歪んだ。
輪郭が崩れゆく中、目に映る森や大地が変容を始めてゆく。
樹樹が、岩が豆腐のようにぐずぐずと溶け崩れ、また再生する。亢進した認知能は、霧を形作る粒子の一つ一つまでを見分けてしまうかのようだ。向精神性の薬物を大量に投与された気分だった。
耳に届くのは、メリーが甘やかに、艶やかに口吟み続ける言の葉。足下がぐらつき、地震かと見下ろせば、唯一安定していた大地までもが蠕動し律動する。頭上で飛び立ったのか、鳥が羽ばたき鋭く啼いた。
One flew away, and then there was one,
Fa, la, la, la, lal, dc;
メリーの声がより一層響く。歌声が空気を覆い尽くす。
イメージを続けながら、聞き惚れていると。
ぽう、と。
私の肩に、赤い、紅い灯火が宿った。
何だろう、と不思議に思う間もなく。
二、三、四、五と。
青、緑、黄、橙、紫。色鮮やかな光が、順々に私たちの体を包んでゆく。
「……メリー、何が起こっているの?」
「私に聞かないでよ。始めてなんだから」
「何だか猛烈に悪い予感がしてきたわ」
「気のせい。ほら、もう少しよ」
「だといいけど……頭がふらふらしてきたし、本当に平気かしら」
「大丈夫大丈夫。さ、蓮子、声合わせて」
「マザーグースでいいのよね。OK」
握る手に力を込める。暖かな手を感じながら、私はメリーに唱和する。
The other flew atter, and then there was none,
Fa, la, la, la, lal, de;
「これで」
「ラストよ!」
And so the poor stone was left all alone,
Fa, la, la, la, lal, de!
声合わせ、叫んだ瞬間。
ぽこん、と。
地面が消失した。
「え?」
一瞬何が起きたか解らなかった。それでも、物理法則は正常に機能する。
体が宙に浮いた。
重力が私を引き寄せた。
確かに、扉は開いた。
足元に、黒々とした穴となって。
「――――!!」
声にならぬ叫びあげ、私は、深い穴の底にと落ちていった。
3
瞼の奥には、奔流する光の渦。
右に渦を巻いたかと思うと、続けて左。目の前で渦と渦とがぶつかり合い、また新たな渦を生成する。鳴門の渦潮を思わせる渦の群れは、一点に存在する何かを巻き取り、荒れ狂い続けている。
渦潮に巻かれているのは、私だ。潮の流れから抜け出そうと抗うも、まるで蟷螂の斧。四方八方に翻弄され、波間に漂う枯葉のように弱い。遠からず破れ、引き裂かれ、水底へと消えてしまいそうなほどに。
刻一刻と、渦の中心へと引き寄せられてゆく。体にはもう力が入らず、ただぐったりとしてされるがままだ。
光の渦に運ばれ続け、やがて、一際大きな渦が私を飲み込もうとし――
「……っ!!」
目を見開くと、鋭い陽光が眼球を刺激した。
背中には柔らかい草の感触。
視界の端には、一面に広がる柔草。
風に乗って楽しげなさざめきと笑い声が聞こえてくる。
此処は何処だろうと瞳を凝らすが、目が急な明るさになかなか慣れてくれない。瞳の奥がちかちかと明滅し、視野は定まったかと思うとまた揺らぐ。瞬きと眼球運動を幾度となく繰り返すうちに、漸く焦点が合ってきた。
声の主は、鞄を手にした青年たちのようだ。私から少し離れた芝生に座り、友人同士で談笑している。
その背後に聳えているのは、コンクリートの建物か。灰に沈んだ外壁と堅牢な造りは、私が日々目にしているものである。
見慣れた風景だ。朝から晩までほぼ毎日のように通っている世界。間延びした、あるいは濃密な時を過すための空間。
つまりここは
「……学校、ね」
大きな安堵の息をつく。
空には太陽が燦燦と輝き、熱を伝えてきている。腕時計を確かめれば、時間は正午、日付は結界に入り込んだ翌日。あの世界に入り込んでから、丸一日近くが経っていたというわけか。
私は、空を見上げて四肢を伸ばしたまま、声をかける。
「何とか帰って来られたわね……」
返事がない。
私と同じように倒れているのだろうか。首を回すのも億劫で、仰向けになったまま言葉を続ける。
「返事くらいしてよ。それとも、疲れて寝ちゃった?」
またも返事がない。
仕方ないな、と上半身を起こした。
「ちょっと、メリーってば」
大きな声で呼びかける。身を起こしたせいで急速に象られた人々の幾人かが振り向いた。少し声が大きすぎたか。
だが、肝心の金髪が立ち現れない。右に左に首を回すが、それらしき姿は欠片もない。
何処にいるというのだ。今、私が見つけなければならないのは、友人の姿だというのに。
「メリー、どこなの?」
立ち上がった。
しん、と。
答える声はない。
授業時間が近いのか、学生たちが丘の真中を通る小径をぱたぱたと駆けてゆく。空は透き通るように青く、目映いほどに白い雲を浮かべていた。
申し分の無い風景だ。
陽光を受けて燦めく金の髪が見当たらないことを除いては。
「えっと……冗談はやめてよね。ちょっと洒落にならないわよ、これ」
独語に返ってくるのは沈黙だけ。しんしんとした静寂が無慈悲に私の耳を打つ。
――落ち着け。
二度三度と深呼吸し、心を静める。
メリーの姿が見当たらないこと自体は、さほど驚くようなことではない。
私があの世界からこの時間、この地点に抜け出ていても、メリーもまた、同じ場所に出現するとは限らないだろう。結界を超えるというのは、ある種の空間跳躍だ。出発点は同じでも、到着点が完全に一致するとは言い切れない。今回のような、急な移動ならなおさらだ。
となれば、向う場所は一つ。
『秘封倶楽部で待ち合わせ』
そう約束したはずだ。遅かれ早かれ、メリーも部室に辿り着いているだろう。
そう思うと、いてもたってもいられない。私は服についた草を払うこともせず、倶楽部に向かって走り出した。
文化系のサークルが集まっている建物、その一階の角に秘封倶楽部の部室はある。
立ち並ぶサークルの扉を横目に、コンクリートの地面を蹴って走る。秘封倶楽部部室のドアノブに手をかけると、抵抗無くくるりと回った。鍵はかかっていないようだ。
中にいるのか――そう願いながら、私は扉を開く。
「メリー!」
ばん、と。扉が壁にぶつかり大きな音を立てる。
そこには、いつも通りの部室があった。
明滅する照明も。
木製の調度と本棚も。
テーブルの上の、お茶道具一式も。
全くもって、日々見慣れた部室だった。
誰もいないことだけを除いては。
「……メリー?」
呼びかけ、足を踏み入れる。ぎし、と足下で床が鳴った。
「どこなの? 私ならともかく、あなたが遅刻なんてルール違反よ」
嫌な予感、いや、確信が胸の内で膨らみ続ける。
だが、私の思考はその確信を否定する。本棚の影に隠れているのかも知れない。私より先に辿り着いていて、驚かせようとしているのかも知れない。あちらこちらと、見て回るも
「……ね、メリー、いるんでしょ? いきなり出てきて、驚かせるつもりなんでしょ? 十分驚いたから、もう出てきてよ」
沈黙。
ただ沈黙。
薄暗い部室に響くのは、私の声だけ。その音は安手の壁から壁へと跳ね返り、狭い部室に充満する。
「メリー、メリーってば! 返事しなさいよ! いるんでしょ!?」
椅子をどかし、テーブルを片付け、本棚の裏を覗き込み、旅行先で買ったお土産をひっくり返す。
無造作に積まれた雑誌や小物も、一つ残らず取り上げ、出来上がった空間を覗き込む。人が入れるスペースではないと解りきっていても。
数十分、いや、数時間はそのようなことを続けただろうか――
「……お願いよ、メリー……」
掠れた声でへたりこみ、戸棚に背を預けた拍子に
ぱふ、と。
その上から落ちてきた何かが、私の視界を覆い隠した。
何だろうかと、手で触れる。
馴染んだ手触り。薄い光が透かす、黒一色。そのまま持ち上げ、手に取ると
「……!」
私は息を呑んだ。
帽子だ。
色、形、手触り、少しだけ擦り切れた縁。
あの森で、メリーに渡した帽子だ。元々は私の愛用の品、何故かやけに古びているが、間違えるはずがなかった。
だけど、何故帽子だけが?
あの時、結界を渡った拍子にメリーの頭からこれだけが落ちたというのだろうか。あり得ないことではないが、帽子がたまたま部室に無事辿り着いたとは考えにくい。誰かが拾って届けてくれたなど、さらにありそうもない。
考えながら帽子を弄んでいたところ。
ひらりと。
その内から一枚の紙片が落ちた。
ノート一枚に満たない小さな紙切れ。元々は白かったであろうそれは、風化したかのように黄色く変色している。
破ってしまわぬよう、慎重に手にとるとそこには
「ごめんね」
と、ただそれだけ。
見覚えのある――いや、ありすぎる筆跡。大学で、部室で、学外で、毎日のように見ている流麗な手跡。
掴む手が震える。
紙片を縦にし、横にし、ひっくり返して灯りに透かす。何回も何回も、繰り返し読んでもその言葉以外は見当たらない。
隣の部室から聞こえる笑い声が、遠い。
電灯の発する音が、やけに耳障りだ。
「何よ、これ」
呟いた。
「何が、ごめんね、よ。あの後、何があってどうなったの? 今、何処にいるの? 解るように説明してよ!」
私の声に、答えはない。
あるはずがない。それでも、言わずにはいられない。
「冗談じゃないわよ! あなた一人だけ置いて私だけ帰りたいとでも思ったの!? メリーならともかく、私だけじゃ迎えにも行けないじゃない。何考えてるのよ、似合わないことしないでよ!!」
怒声の中、視界がぼやける。自分でも何を言っているのか判然としなかった。それでいて、はっきりと理解出来ることがあった。
彼女はここにいない。おそらくは、私と同じ世界に存在しない。故意か事故かは解らないが、あの霧の空間、向こう側にただ一人取り残されている。
メリー。
メリー。
「メリーーーー!!」
私の叫びは虚しく部室に響くだけで――
4
――弦月の薄明りを浴びて、目覚めた。
目脂をこすりながら瞼を開く。視界に飛び込んできたのは、山と積まれ束になった物理学の論文だ。続いて、散乱した三色ボールペンに万年筆。両手は愛用のコンピューターの前で組み合わされ、枕代わりになっていた。
「ふぁ……」
うたた寝をしてしまっていたらしい。二度寝というわけにもいかないので、欠伸をこらえて上半身を起こし、椅子の背にもたれ伸びをする。二、三度と眼をしばたたくと、霞がかった脳もようやく活動を再開してくれた。寝起き特有の浮遊感を、頭を振って追い払う。
あたりは見慣れた光景だ。毎日通う職場なのだから当然か。私から見て左手にはファイルのぎっしり詰まったキャビネット、右手には英独をはじめに諸国の文献が整然と並べられた書棚、目の前にはコンピューターと筆記用具が置かれたスチール製の机。窓からは弓張り月の光が差し込んでいる。私の――つまり、宇佐見蓮子研究室の教授室である。
「……夢、か」
懐かしい夢を見ていたようだ。
論文の〆切と超統一物理学会での講演が重なったせいで、最近は目の回るような忙しさだった。そのせいか、あの夢とも縁遠くなっていたのだが。
いや、忙しさのせいだけではあるまい。安定した生活と社会的地位は、連日連夜の発見と冒険の代償だ。彼女は心躍る日々の象徴だった。冷たく揺るがない、石のような日常を繰り返していてはその残像が薄れるのも当然かもしれない。
――親友の姿が消えてから、もう十年が経つ。
柔らかい金髪が、邪気のない笑顔が、かつては折に触れ記憶に立ち上ったものだ。その度に私は自責の念に苛まれた。何故、ああなってしまったのかと。何故、共に居ることが出来なかったのかと。脇目も振らずに研究に打ち込んだのも、痛みを少しでも忘れるためだったのかもしれない。
無情なもので、年月を経るにつれて心は摩耗していった。今では、彼女のことを思い出すだけで起き上がれなくなるようなことはない。心には何かが突き刺さり、胃には重いものがもたれるが、耐えられないことはなかった。時間に勝る薬は無いというのは、どうやら真実らしい。
それはそれで悲しいことではあるのだろうが。
扉を軽やかに叩く音が思念を破った。檻のように澱み続けようとする思念を払い、平静を装った声を出す。
「開いているわよ」
「失礼します」
眼鏡をかけた娘が扉を開けた。米国から留学してきている大学院生だ。なかなかに優秀で、研究に雑事に頼りになる。綺麗に整えられた金髪の下で、知的な瞳がくるくると動いていた。
「実験データ、纏めておきました。セミナー室のサーバーに入れておきましたから」
「遅くまでありがとう。疲れたでしょうし、もう上がっていいわよ」
「そうさせて貰います。でも――」
学生がじっと私を見つめる。澄んだ蒼い瞳が、記憶の彼方のそれと重なる。
「私より先生がお疲れじゃありませんか? 顔色、悪いですよ」
その言葉に、硝子に映りこんでいる顔を一瞥。
これは驚いた。
瞼は厚ぼったく、目は充血している。肌は青白く、血色が良くない。寝起きで気怠いせいもあり、これでは疲労が溜まっていると勘違いされてしまうだろう。
無論、疲れているせいではない。昔を思いだしたからなのだが、他人に言えるはずもないし、説明するつもりもなかった。曖昧な笑みを浮かべる私を怪訝そうに見て、学生は頭を下げる。
「気をつけてくださいね。先生、働き過ぎですから。じゃ、お先に失礼します」
学生が走り去る。元気な後ろ姿を見送り、私は何となしに息をついた。
心が乱されている。
夢一つでこうまで惑うとは思わなかった。私の中で彼女の消失はまだまだ消化されていないようだ。
当然といえば、当然か。結局、この十年間で彼女以上のパートナー、友人には出会っていない。これからも出会うことはないだろう。半身をもがれたようなものだ。
「……ふう」
キーボードに向かい論文の続きに取りかかってはみたが、一行たりとも進まない。
傍らのコーヒーに口をつけてみれば、冷え切っていて飲めたものではない。湯を沸かして入れ直す気力もなかった。
「駄目ね、これは」
お手上げだ。
仕事の続きも手につきそうにない。仮眠をとろうかと思ったが、この調子ではまた夢を見てしまうのが関の山か。
幸い明日は休日だ。帰ってシャワーでも浴び、お酒でも飲み寝てしまおう。
そうと決まれば後は早い。
椅子から立ち上がり、セミナー室の電気を落とす。実験室の分析機器のスイッチが切れていることを確認した。実験室隣の冷温室だけが、低く重い唸りを上げ続けていた。
黒の帽子と鼠色のコートを壁掛けから降ろし、纏う。
ばたん、と。研究室の扉が閉まる音がうるさかった。
「うわ、寒……」
外は文字通り身を切るような寒さだった。風が、帽子を強くはためかせる。手で押さえていても吹き飛んでしまいそうだ。
風がコートをすり抜け、十二月の冷気を運び込んでくる。研究棟の窓は、珍しく一階から十二階まで真っ暗だ。いつもなら深夜の実験をしている人が一人二人はいるものだが、その様子はない。学校が冬休みに入っているせいだろうか。周りに植えられた草木が、ざわざわと風に揺れている。
私の職場は京都の総合大学だ。先進的な学風で知られており、学生だった頃から超統一物理学に力を入れていた。学問としては大変若い分野で、研究者はあまり多くない。この大学でも私を含め数えるほどだ。
相対性精神学にしても似たようなもの。専門誌に目を通しても、決まった名前が順番に研究成果を発表しているという印象は否めない。
彼女が研究の道に進んでいれば、その一人であったかもしれないが――
――また、か。
思考を無理に断ち切り、溜息をつく。吐き出された息が、白く夜空に溶け込んでゆく。
今夜の私は妙に感傷的だ。
詮無いことだというに、見る物、聞く物、思う物の全てが、マエリベリー・ハーンの面影を押し付けてくる。記憶の引き金に指をかけつづけているかのようだ。気を抜くと追憶の銃弾がこめかみを貫く。
もっとも、記憶とはそういうものだ。完全に失われることはなく、ほんの僅かな切っ掛けで堰を切ったように溢れ出てくる。マドレーヌが失われた時を呼び起こしたように。
夜の学内を二人で気ままに歩いたものだ。目的地はカフェであったり、図書館であったり、互いの家であったりしたが、当てもなく散策することが一番多かった。昨夜の夕食から最新の学術論文まで、題材を選ばずあっちこっちへと話を飛躍させたものだ。目的のない散歩をしていないな、とふと思う。
想念が流れるままに足を動かし続ける。人気のない校内に、襟を立てた私の足音だけが響いていた。
どこまで歩いても、人はおろか猫の子一匹見当たらない。深夜といえど、閑散としすぎだ。こうまで人気がないとさすがに不安になってくる。足を早めると、アスファルトがかつかつと硬質な音を立てた。
十分も歩き続けると、ようやく校門が見えてきた。警備員の詰め所にはうっすらと灯りが点っている。彼らに頭を下げ、門をくぐろうとした時。
「きゃ……!」
ひゅう、と。一際強い風が吹いた。
帽子を押さえる手も間に合わない。深い黒の帽子が、夜空に飛ばされくるくると踊る。茶色の髪が吹き散り広がった。
風が帽子を吹き流す。暗い天空を軽々と舞ってゆく。紙で折られたかのような軽やかさだ。
私は慌ててそれを追いかける。
あれは思い出の品だ。飛ばされたから諦めるというわけにはいかない。
息を荒くしながら後を追う。冬の空気の中、私の吐きだした息が白く凝結し、霧のように漂う。
ひらりひらりと舞っていた帽子は、研究棟の最上階の壁にぶつかり――
「……え、あれ?」
そのまま落ちてくるかと思えば、ふい、と消え去ってしまった。
少なくとも、そう思えた。
窓から中に飛び込んだのだろうか。しかし、最上階の戸締まりは全て確認したはずだ。
どこかに引っかかったとも考えにくい。研究棟の表は滑らかで、出っ張った部分は無い筈だ。突風が吹いて帽子を飛ばしたなどということもなかった。
となれば、研究棟の中に入り込んでしまったのか。窓の閉め忘れがあったに違いないのだろうが、それにしても――
「……探しにいくしかないか」
四の五の考えていても何にもなるまい。あの帽子を無くすわけにはいかないのだから。
幸い、教員の研究棟への出入りは自由だ。入り口に向い、財布の中に入れておいた電子キーを取り出した。扉の鍵に差し込むと、赤いランプが緑に変色し、解錠されたことを知らせてくれる。
――全く、今夜は色々と面倒が多すぎる。
深く息をつくと、私は建物の中へと入っていった。
5
十二階のボタンを押すと、エレベーターの扉が閉まった。がこんと揺れると、上へ向かって動き出す。かご室が吊り上げられ、僅かな震動を伝えてくる。
研究棟のエレベーターは広い。機器の搬入に用いるためだ。一人乗りには余計な空間が多すぎるほどである。深夜ともなればなおさらで、薄暗い白熱灯がかごの中を照らしていた。
エレベーターの壁に背を寄せ、階数を表示しているボタンを見やる。一、二、三と、順番に繰り返す点灯。低い機械音が耳障りで、私は少し眉を寄せた。
(あの時、帽子は――)
風に舞った帽子は、確かに壁にぶつかり消えたように見えた。常識的に考えれば、最上階、つまり十二階の窓に飛び込んだのだろう。
それが、どうにも気に入らない。あの階には私の研究室しかなく、窓が施錠されているのは先程確認したばかりなのだ。職員か学生の誰かが、私の後で来たのかもしれない。だが、それにしては光の一つも漏れていないのが不可解だった。
がこんと。
エレベーターが大きく上下に揺れ、動きを停止する。目的の階に着いたようだ。機械音が鳴りを静め、しんとした静寂だけが耳に届く。自動扉が滑らかに開いた。
広がっているのは闇に覆われた廊下だ。研究棟は実験動物を飼育している階を除くと、全てが同じ造りになっている。電灯のスイッチがある場所も把握していた。スイッチを入れようと、踏み出そうとし――私はぴたと足を止める。
何かが変だ。
廊下には暗闇が堆積している。小さな子供なら怯えそうな程に、暗闇のベールは厚い。いつもの、誰も居ない時の研究棟だ。深夜まで研究室に居残っていたならば、必ず目にする光景だ。
だが、何かが違う。見知っているように思えるが、ここはいつもの研究棟ではない。
――子供の頃、近所の路地で迷ったことがある。見覚えがあり馴染んでいながら、行き先も何もわからない空間は恐ろしく、そして魅力的だった。少しだけ違う世界に迷い込んだ気がしたものだ。今の感覚はそれに近い。
不安を振り払うように、エレベーターの中を一通り見渡す。床、壁、ボタン、階数表示と、一つ一つ点検してゆく。
そこで違和感の理由がはっきりした。
妙な筈だ。
見上げた表示灯には
十三
そんな数字が、ぽつんと点っていたのだから。
「何、これ?」
呟いてしまう。私は確かに十二階のボタンを押したはずだ。エレベーターが故障したかとも思ったが、こんな故障など聞いたこともない。間違った階が表示されることはあるかもしれないが、十二階建ての建物で十三階などということは有り得なかろう。
ならば見間違いかと目をこするが、何度見ても十三は十三のままだ。
「――迷い込んだ、かな」
しばし考え込み、漸く得心した。
あの頃、大学生だった時と同じなのだ。
広がっているのは彼女に手を引かれ、垣間見た狭間の世界だ。
此処は結界の向こう側なのだろう。見るだけで無く内に入り込むなど、本当に久々のことだ。一人になってからは初めてだろうか。
それでも、全く未経験というわけではない。私は結界の破れ目を見ることは出来なかったし、今も出来ないが、手を引かれて尋ねたことは一度二度ではない。
それと解った上でどうすべきか。私はしばし逡巡する。
異界を訪ねるのは嫌いではない。大学生の頃なら迷わずに飛び込んでいただろう。
だが、今ではそう気楽にはいかない。何が待っているか知れたものではないのだ。不用意に飛び込むのは無謀の極みだと、私の理性は告げている。
だが反面、身体の底は興奮に疼いていた。
考えてみれば、元・少女秘封倶楽部としては、ここで引き下がる手はない。忘れていたはずの探求心が、ふつふつと沸き上がってくる。あんな夢を見たせいで、心がまだ騒いでいるのだろうか。
帽子が消え去ったのも、この空間に偶然入り込んだからかもしれない。窓が閉まったままのはずの十二階に飛び込んだというよりは信憑性がありそうだ。
「よし。行きましょ」
声に出して決めると、迷いは一瞬にして消えた。
掌を強く握りしめる。帽子のつばを触りたいところだが、不在では仕方ない。
私はエレベーターを降りると、暗い廊下へと足を掛けた。
冷たいリノリウムの床に足を置くと、エレベーターの閉まる音が聞こえた。視界の内には、窓や扉が一つも見あたらない。人影などあるはずもない。
つまりは、引き返せないということか。誰の――或いは何の所為か知らないが、親切なことだ。もっとも、引き返すつもりはなく、余計なお世話といえば言えた。
十二階の上に存在する十三階。忌まれる数字を有する非在の空間というわけだ。普通なら驚く所なのだろうが、生憎と私は異界の存在にはそれなりに慣れている。
窓もないのに、何処からか月明かりが差し込んできた。黒一面と見えた空間は実の所ほのかに照らされ、のっぺりした灰色の壁を浮かび上がらせている。扉が見あたらないせいもあって、見つめていると目眩を起こしそうだ。
耳に届く音も一つとて無い。床を蹴ると硬質な感触が伝わるものの、足音は柔らかい床に吸い込まれるように消えてゆく。
天井も床も壁も無限に伸びている空間を歩むうちに、私は言いようのない違和感を感じていた。
最初は足音がしないせいだと思っていたのだが、どうやらそれだけではない。明りの届かぬ闇の奥が質量を持ち、むわりと広がっているように感じられるのだ。大気が重くねっとりと纏わりつく。遠くから誰かに見られている錯覚を覚える。
――いや、錯覚ではない。
よくよく目を凝らせば、廊下の一角に、二つの光点が爛々と灯っている。黄金色の輝きは、私の姿を追いかけてきている。
何かが――居る。
さあ、と、光量が増した。
月が四隣を照らし出したせいだった。明りは私を追う者の潜む場所をも暴き立てた。
そこでは
「――狐?」
金色の毛を持つ狐が私を見つめていた。
一目でただの狐ではないと解った。動物園で見たことのあるキタキツネよりも、一回り以上は大きい。瞳には明らかな知性の色がある。何より、金に輝く毛並みの狐など自然に居るはずがなかった。
目と目が交錯する。狐につられて、私も首を傾げた。
それにしても美しい。毛並みは柔らかに流れ、細い切れ長の瞳が私を凝乎と見つめている。昔話には狐に惑わされた男の話が良くあるが、これでは無理もない。誘惑されれば、女の私でもふらふらとついて行ってしまいそうだ。
恋しくば 訪ね来てみよ 和泉なる 信田の森の恨み葛の葉
メリーが好きだった能楽の一節を思い出す。信田妻だったか。この狐も、葛の葉姫のように稲荷神や妖狐の類なのかもしれない。
だから。
「どなたかは存じませぬが、此処は人間の立ち入るべき所ではありません。お引き取り下さい」
狐が口をきいてもあまり意外ではなかった。時代がかった話し方が似合うな、など呑気な感想を抱く余裕があったくらいだ。
「いきなりご挨拶ね。立ち入ったというより、迷い入ったのだけれども」
答える私に、狐をぱちくりと目を瞬いた。神々しかった面相が一転、毒気を抜かれたようになっている。何とも人間くさい。
「……驚かないのですね」
「十二階建ての十三階よ、ここ。狐が喋ったくらいじゃ、今更驚かないわ」
それに、常識外の出来事には慣れている。竹藪を飛ぶ鳳凰や、霧の中に浮かぶ紅い館、鬼や兎が跳ね回る神社の宴会。メリーと共に垣間見た世界に比べれば、狐が人語を操るなど当然にすら思える。そもそも、狐は東洋では霊獣なのだ。
それもそうか――と、狐は呟いた。この空間は音の伝導率に優れるのか、ちょっとした声もはっきりと耳に届く。便利といえば便利だが、隠し事や相談には向かなそうだ。
「失礼致しました。ですが、みだりに入るべき地ではないのは確か。どうしてもご用の向きがあるというならば、私めが伺います」
私は少し考え込み
「ちょっと捜し物をしていて。あなた、帽子を見かけなかった?」
そう答えた。
まずは探し物だ。この狐――声からして女性のようだが――は礼儀正しく、聡明そうである。聞くだけ聞いて損はないだろう。
「帽子ですか。いえ、見てはおりませぬが――」
「困ったわね。多分ここにあると思うのだけれども」
「それほどに大事なものなのでしょうか」
「ええ、大切なものなのよ。思い出の品なの。無くすわけにはいかないわ。邪魔はしないから、探させて貰えない?」
そのために来たのだ。私にとっては五指に入る大事な持ち物だから、真摯に答えた。
まいったな、とでも言いたげに、彼女が前足で頬をかく。ぱたぱたと地を叩く尻尾はまとめて束となっている。九尾の狐か。
「……申し訳ありませんが、矢張りお聞き届けし兼ねます。帽子は見つけ次第、お届けいたしますので――」
「そこを何とか出来ない? あればかりは代えがきかないの」
頑として言い張る私に、狐は眉根を寄せる。心底困っている様子に、少しだけ同情の念が沸いた。
「困りました。不用意に人を迷い込ませたとあっては、番を命じられている意味がない」
意外に頑固だ。このまま話していても、押し問答になるばかりなのは目に見えている。かといって、はいそうですか、と引き下がるのも癪に障る。
むう、と視線を送ると、あちらもまた厳しく見返してきた。私と狐とが睨み合う形になってしまう。
ぴんとした沈黙が張りつめ、静寂がのしかかる。
一分近く睨み合い、私がまた口を開こうとした時のことだった。
「あらあら、藍、駄目じゃない。迷い込んだ方を邪険にするものじゃないわ」
張りのある雅声が静寂を破った。凛として涼やかな声だった。
藍と呼ばれた金狐が、耳を立てて廊下の奥へと答える。
「しかし、紫様――」
「しかしもお菓子もないわ。お客様は大事にしなさいといつも云っているでしょうに」
コツ、コツと。
音のしない空間で足音を立て、声の主が暗闇に浮かび上がる。
「え――?」
その姿に、絶句する。
典麗な女性だった。蠱惑的な肢体を覆うのは、桔梗色したロングドレスだ。裾は真白に彩られ、幾重にも襞を重ねた柔らかなフレア仕立て。長手袋と裾の狭間から覗く肌はただ白い。鹿鳴館の貴婦人かと見紛うばかりの優美な姿である。
妖妃サロメ、人造美女イヴといった「宿命の女」を思わせるのは、一種凄絶なまでの美貌故だろう。断じて、人の持ち得る美では無かった。
もっとも、私が驚いたのはそんなことではない。
女に、似ても似つかぬ少女の面影を見出したからだ。
一見する限りでは別人にしか思えまい。手に扇を持った佇まいは風雅でありながら、ただ居るだけで、場を圧するばかりの威圧感を放っている。彼女は変わり者だったが、人間離れはしていなかった。共通点といえば、豊かな金髪と大きな蒼い瞳、それに豊かな肢体くらいだろう。
それでも。
忘れるはずもない。
見紛うはずもない。
目と目があい、沈黙の帳が降りた。
しんとした世界で、私と彼女の視線が絡み合う。
紫と呼ばれた女は、碧眼を大きく見開き、ぱちぱちと瞬かせている。瞳の奥に、確かな驚きが浮かんでいた。
「もしかして――」
ゆっくりと言葉が紡ぎ出される。私は、努めて冷静に頷く。
「……あなた、蓮子……?」
「もしかしても何もないでしょ。待ち合わせは部室って言ったじゃない。十年の遅刻よ――」
メリー、と。
懐かしい親友に、私は微笑みかけた。
6
メリー――紫と呼ぶべきなのだろうが、私にはこの呼び方がしっくりくる――が壁に手を触れた。魔法のように白い扉が浮かび上がる。招かれ入ると、紅茶の良い香りが漂っていた。
「静かね」
「ここでは時が死んでいるからよ。蓮子、ダージリンはいかがかしら?」
「いただくわ」
琥珀色の芳香を楽しみながら、私は部屋の装いに目を凝らす。栗色のナイトテーブルの上には、古風な真鍮の洋燈。壁掛け鏡には、窓で揺れる紅のシェードが写っている。アームチェアに背を預けると、ふわりと身体が沈み込んだ。テーブルの木目は肌理が細かく、触れると心地良い。
「思い出すわねぇ、倶楽部のお茶会」
「いつも夢の話を聞かされていたわね。紅い館と冬の空。幽冥界の楼閣を過ぎて渡れば三途川。百の鳥居を潜り抜け、瞼に映る狭間の社――」
「夢の話だけじゃないわ。結界の裂け目に飛び込んだこともあったわよ。最初の頃はともかく、途中からは蓮子も随分積極的だったわね」
「あんなチャンスはそうそうないもの。夢を夢のままにしておいては勿体ないわ。現実と夢とを交錯させ、入れ替え、継いで接ぐ。パッチワークみたいだけど、楽しかったわよ」
「最近もそういうことはしているの?」
メリーの問いに私は苦笑してカップを置いた。私が出来るのは星と月の位置から、時間と現在値を知ることだけだ。結界に関してはメリーのようにはいかない。
「さっぱり。本当に疎遠になっていたわ。私一人じゃ、入り口を見つけることも出来ないからね」
「それもそうか――ところでお代わりはどうかしら?」
「今度はアールグレイがいいわ」
メリーが椅子を立ち、ティーポットから紅茶を注いでくれる。無雑作に見えるが、動きの一つ一つは洗練されたそれだ。私でも見蕩れそうになる。
上機嫌なのか、小声で歌を口ずさんでいる。聞き覚えのあるメロディ。倶楽部活動中の、あの時の歌だ。
「マザー・グースね」
「蓮子も覚えているのね。今でも時々唄うの。色々なことを忘れてしまったけれど、歌だけは残っていてくれているわ」
「あの頃はよく唄ったわね。幼い歌だった。今じゃもう無理ね。十年も経てば、何も彼も変わってしまう」
「そうでもないわよ。私は歌も唄うし、踊ることだってあるわ。過した時間は、十年ではきかないけれども」
「やっぱりそうなのね。別れてから過した時間が違うんだ」
メリーが人の域を外れてしまっているのはすぐに理解出来た。人語を解する狐を使役している時点で、人の業とも言えまい。幾ら結界を垣間見る力を持っていたとはいえ、十年や二十年でこうまで変わるはずがなかった。私の問いに、メリーはこくりと頷く。
「ええ。私の方は何十年、何百年。下手をすればそれ以上よ。年月を数えるのはとっくにやめちゃったけどね。そういうのは蓮子の得意分野でしょ」
その通りだ。
時間の流れは均一ではない。浦島効果は誰でも知っているだろう。過剰な重力の中では、時の経過は遅くなる。
メリーの開いた結界で私は現世へと飛ばされ、当の本人は過去の「向こう側」に迷い込んだというのも、十分に有り得る話だ。不思議の国のメリー、夢世紀のリップ・ヴァン・ウィンクルといったところか。
「ところで、メリー」
「なあに、蓮子」
邪気のない瞳に見つめられ、私は口籠もった。そうせざるを得なかった。
それでも、聞かないといけない。
紅茶を口にし、椅子の背にもたれて私はまた口を開く。
「何故、帰ってこなかったの?」
無意味な質問だ。昔のことだ。過ぎ去ったことなのだ。今更聞いてどうなるものでもないけれど、それでも聞いておきたかった。
だが、私の問いかけに、メリーは困ったような表情を浮かべる。
「それは帰りたかったわよ。でも、帰れなかった。結界を操れたのは、あの時だけ。蓮子を送り返して、すぐに閉じちゃったのよ。自由に操れることが出来るようになるまでは、気が遠くなるような年月がかかったわ。そうなった時にはもう、こちらに大事なものがたくさん出来すぎていた」
「部室にあった帽子は?」
「ああ、あれ? 何の説明もなしじゃ蓮子が困ると思って、しばらく前に送っておいたの。ちゃんと部室に届くか心配だったけど、大丈夫だったみたいね」
「メリーにとってはちょっと前でも、私には違ったんだけど……それに『ごめんね』以外にも書き方はあったんじゃないの?」
ついつい恨みがましくなる私に、メリーは苦笑する。
「ごめんなさいね。他に何を書いて良いのか思いつかなかったのよ」
「……まあ、そんなものかもね」
確かに、何があってどうしているか詳しく説明するようなものでもないのだろう。メリーにしてみれば、昔日の出来事だ。くだくだしく書く気にはなれなかったのかもしれない。私が同じ立場でも、そうした可能性は大いにある。
それに――と、メリーは眼を細める。
「あの時のことですら、私にはもう、物凄い昔のことになってしまっていたのよ。いくら私でも、記憶の風化は、感情の摩耗は止められないわ。何も彼もを覚えていたら、神様でも無い限り心がパンクしちゃうもの」
「その割には、私のことはすぐにわかったみたいだけど」
「だって蓮子よ。忘れるわけ無いでしょ」
「……あ、相変らず恥ずかしいこと平気で言うのね……」
心臓に悪いので不意打ちはやめて欲しい。
虚を衝かれた私の表情に、メリーはくすりと笑みを浮かべる。昔のままの柔らかで美しい微笑みに、私は苦笑混じりの溜息をつく。
まあいい。
言いたいこと、聞きたいことは山ほどある。何をしていたのか尋ねたいし、せめて連絡の一つも欲しかったと問い詰めたいし、何より謝りたかった。
でも――
「どうしたの、難しい顔して」
「いや、ね。色々聞きたいことがあったはずなのに、顔を見たらどうでも良くなっちゃったわ」
「ふふ、私もよ。変なところで気が合うのは変わらないみたい」
「お互い様に、ね」
優しげな眼差しが柔らかい。
そう、メリーはどれほどの時を経ても私を覚えていてくれた。
それが、彼女の答えなのだろう。
ティーカップをテーブルクロスに置く。カップとソーサーが触れ合い、澄んだ音色をたてた。それ以上に綺麗な声で、メリーが私に囁く。
「ね、蓮子。せっかくだし、私の世界を見てみるつもりはない?」
「答えるまでもないでしょ。立場が逆なら、あなた、断る?」
「そうよね。それじゃ、久しぶりに秘封倶楽部探検隊と洒落込みましょうか」
メリーは頬杖を付き、悪戯な笑みを浮かべた。
細く長い指が、ぱちりと鳴る。
途端ぐにゃりと、家具が、窓が、室が歪む。
手品のように、大きな鏡が壁に顕現していた。鏡面は波打っており、触れるとぷるぷると震える。鏡は鏡でも、水鏡のようだった。
「一名様ご案内ね。じゃ、行きましょ」
「よろしくね、添乗員さん」
私はメリーと手と手を取って、窓をくぐりぬけた。
――私は空に浮かんでいた。
草木の広がる一帯が眺望出来る。金の稲穂が大地を綾にと縫い取り、茫漠と広がっている。丘の麓に並んでいるのは、茅葺き屋根の人家だろうか。和装の女性たちが井戸端に集まりお喋りに興じている。空は果てしなく広がり、曇り一つ無い青に染まっていた。視界がどこまでも抜けて行く。このまま青の彼方に吸い込まれてしまいそうな錯覚さえ覚えた。
今では消え失せてしまった、古き良き田舎を思わせる風景だ。どこかにありそうで、その実、どこにも在りはしない幻想の故郷。日本の原風景の最大公約数と言えようか。
「ここが幻想郷よ」
メリーの声が聞こえた。いつの間にか彼女の姿は消え、声だけが偏在して私の耳に届いている。
また見下ろせば、手に木の枝を持った子供達が駆け回っている。村はずれの小屋では、台座のような帽子を被った少女が子供たちに漢文を教えていた。あちらこちらの屋根から竈の煙が立ち上り、穀類の良い匂いを運んでくる。
「意外と人がいるのね」
「それほど多くもないけれどね。人だけじゃなく、妖怪も結構いるわよ。本当に偶にだけど、一緒に暮らしている場合もあるわ」
「メリーはどうしてるの?」
「家族とのんびり暮らしてるわ。外に出るのも億劫になっちゃってね。それに、里を離れて暮らしている場合も多いのよ。ほら、あんな風に」
声に従って目を転じる。
霧に覆われた湖に浮かぶ西洋館は、華美な装飾を凝らしたゴシック様式だ。メイド服の少女たちが忙しそうに走り回る中、銀髪の少女がてきぱきと指示を出している。仕事ぶりだけで有能かつ瀟洒であることが見て取れる。あの歳でたいしたものだ。
大きな建築物は西洋館だけではない。竹林の和風建築、幻のように浮かび上がる楼閣と、立派で古風な建物が点在しているようだ。
大小取り合わせて見てゆく中で、一際高い山上の神社が目を惹いた。鳥居と境内は古びてはながら見窄らしさを感じさせない。むしろ、長い年月に耐えてきた風格のようなものがあった。社務所の縁側で、巫女らしき少女が湯呑みを手にして魔女めいた娘と談笑している。微笑ましい景色だった。
「懐かしい風景ね。まるで、私たちが何処かに置いてきてしまったような」
「ええ。蓮子の世界で失われたもの、忘れ去られたものが最後に辿り着く場所。画家が幻視し、詩人が記してきたもう一つの世界ね。妖怪も居るし、人も居る。迷い込んだ、神隠された人も少なくないわ」
「あなたみたいに」
「私のように」
大気が歪み、メリーの姿をとった。金髪をリボンで飾り、大きな日除け傘を手にしている。少しドレスアップしてきたようだ。
「家事に仕事に生活に追われることは無い。望めばしがらみに絡みとられることもない。一部の人にとっては無何有郷 よね、ここ」
「あら、蓮子はそう思うの?」
メリーが日傘をくるくると回しながら軽く問う。微笑みを浮かべてはいるものの、その蒼い瞳は笑っていない。
「まさか。確かに夢の世界かもしれない。でもね、夢には夢の理があるわ。現の理とどちらが良いかなんて、誰にも決められないわよ。幻想と現実は異なる構成原理を持つもの。故にその価値は比較不能。そうじゃない?」
問いかける私に、メリーは静かに頷いた。
「そうよ。幻想郷は理想郷じゃない。いえ、理想郷など何処にもない。この世界はまさしく全てを受け入れる。夢も希望も、過去も未来も、無論、罪も罰も――真善美では立ちゆかぬ、残酷無惨な御伽噺の國よ。でも――」
メリーは言葉を切って眼下を見渡す。その表情は、見たこともないほどに穏やかだった。慈愛に満ちていると言える程だった。
沈黙した。私はあえて先を促す。
「でも?」
「――生きていて楽しい世界ではあるわね」
そう言ってメリーは笑った。極上の微笑みだった。聖母の微笑とは、このようなものなのかもしれない。私にすらこんな表情を見せたことはなかった。少し嫉妬してしまう。
「そっか。メリー、好きなんだ」
「ええ、大好き。だから蓮子には幻想郷を見て貰いたかったの。私が愛する、私たちが暮らしている境界のこちら側を」
言葉が途切れ、沈黙が降りた。
メリーも私も、何を口にするでもなく、ただ幻想郷を眺め続けていた。
数分は黙っていただろうか。もしかすると一時間か二時間かもしれない。
「……それで、続きは?」
「え?」
メリーはきょとんとし、すぐに表情を緩めた。まいったなあ、と言いたそうな様子だった。
何か言い出しかねているのは解っていた。変な所で遠慮してしまうのは昔からだ。言い辛いなら、私から話を振るのが相方の務めというものだろう。
「あーあ、やっぱり蓮子に隠し事は出来ないのね」
「昔からそうでしょ。メリーは嘘はつけない、隠し事は出来ないんだから、素直に言えばいいのよ」
「韜晦は蓮子の専門分野だものね」
口元を隠し、メリーがくすりと笑う。柔らかな笑みをたたえたまま、言葉を続けた。
「蓮子、幻想郷に来ない?」
「そうねえ、さっきから考えていたのだけれど」
「ちょっと待ってよ、蓮子」
「さっきからって何よ。それに、驚かないのね。唐突な提案だと思うけれど」
「予想してたもの。メリー、この世界大好きみたいだしね。だけど――」
「だけど?」
「そんなこと出来るの?」
京都から東京に行くのとはわけが違うように思うのだが。だが、そんな気持ちをよそに、メリーはあっさり頷いた。
「今の私なら、簡単に出来るわ。彼方と此方の境を超えることも、あなたを幻想郷に連れてくることも」
「意外に簡単なんだ」
「ええ、本当に簡単。望むなら、それこそずっと一緒にいることも出来るわ。私と、私の家族達と蓮子と、此方と彼方の狭間に永遠にたゆたう暮らしをね」
「魅力的な提案ね」
「そう思うなら教えて、蓮子。あなたの考えを。答えて、あなたの思いを」
笑みが消えていた。
蒼い瞳が私を見つめていた。
私は――
7
「やめておくわ」
あっさりとそう答えた。我ながらあっけないと思うほどの速さだった。
「そっか。蓮子ならそう言うわよね」
メリーの答えもあっさりしたものだった。私がどう出るか、半ば以上予期していたのだろう。
「あちらの世界に未練があるの?」
「未練とは違うかな。そりゃ、何かと面倒ではあるわよ。毎日が日曜日とはいかない。浮世は憂き世だもの。やるべきことは山積みで、考えるべきことは幾らでもあり、日々はただ無為に過ぎていくようにすら思える」
「……だからこそ、蓮子は」
「ええ。その気になれば意外と世界は楽しいものよ」
「面白き こともなき世を おもしろく――だったかしら」
私の答えに、メリーは句を諳んじる。
「高杉晋作ね」
「奇兵隊好きなのよ」.
じゃあ、と。メリーはどこか挑発的な笑みを浮かべた。
「最近何か、とびきり楽しいことはあったかしら?」
「メリーに会えたじゃない」
ずばりと言い切る。
案の定、大きな瞳を瞬かせてきょとんとしていた。
ストレートな切り込みは今も昔もメリーの専売特許だ。たまには真似しても罰は当たらないだろう。
「切り返しが上手くなったわねえ」
「十年前と同じと思っちゃダメよ」
「それもそうね」
ひとしきりくすくすと笑いあい、私は背筋を伸ばした。体がいつになく軽い。懐かしい親友とのおしゃべりは、矢張りいいものだ。
「それじゃあ、そろそろ戻るわ。会えて嬉しかった」
「あ、ちょっと待って。藍が渡すものがあるみたい」
「藍?」
「さっき会ったじゃない」
「ああ、あの狐さんね」
「何かと頼りになるのよ。掃除洗濯料理もしてくれるし。藍、ちょっと来て」
「承知いたしました」
メリーが呼びかけると、扉を開いてひょっこりと狐が顔を出した。一跳ねして口にくわえていた何かをテーブルに置くと、軽く頭を下げる。私も挨拶を返した。礼儀正しい狐だ。
「どうぞ、こちらを」
「あら、ありがとう」
狐はメリーに寄り添いながら、テーブルから私の帽子を取って渡してくれる。矢張りこの階に迷い込んでいたのか。
帽子をはたくと、もうもうと埃が舞い散った。長い間放っておいたかのようだ。ここでは時間が無意味なのだと、今更ながら納得する。
「まだ、その帽子使ってるのね」
「そりゃあね。あなたが残していったんだもの。大事にしてるわよ。あ、そうだ」
ちょっとしたことを思いつき、私は帽子を持ち替えたところ
「せっかくだし、この帽子を」
「私だと思って――なんて云わないでよ、蓮子」
絶妙のタイミングで言葉を挟んできた。
たまには感傷的なのも良いかと思ったというのに。こうなっては意地を張るしかないではないか。
「言わないわ。そんな感傷的なのは、私には似合わない」
「そうそう、蓮子はそうやって強がってなきゃ。それにね――」
メリーは言葉を切る。
「それに?」
胸に手を当て
「私は幻視の人間、マエリベリー・ハーン。私は境界の妖怪、八雲紫。朝と夜の、彼方と此方の、真実と虚実の、全ての端境こそが私の在るべき場所。だから、いつでも会えるわ。私がそう願うなら。あなたがそう望むなら」
そう言って、メリーは笑った。
十年前と、大学の頃と何一つ変わらなかった。
――もう、限界だ。
堪えていた諸々の感情が溢れ出る。
目薬を大量に差した時のように視界が歪み、メリーの姿がぼやけてしまう。
慌ててそっぽを向いた。我ながら素直ではないが、こればかりは仕方ない。
「あら? もしかして泣いてるの?」
「……何のことかしら」
平静を装ったつもりだが、どこまで実行できているかは大変に怪しい。声は揺れているだろうし、睫毛は濡れているだろう。
何とも、恥ずかしい。
「蓮子も涙脆くなったわねえ」
「目から汗が出たの。私、特異体質だから」
「面倒な体質だこと」
そういうメリーの声も湿っていた。
顔を背けているせいでその姿は見えない。だが、親友の声の調子を判別するくらい簡単だ。
「メリーこそ鼻声じゃない」
「花粉のせいよ。幻想郷に花粉症はないけど」
「何の花粉?」
「蓮の花粉ね」
「人騒がせな蓮ね」
「お互い様だけどね」
声を合わせて笑う。
懐かしかった。たまらないほど慕わしい世界がそこにあった。
「……それじゃ、そろそろ行くわ」
「名残惜しいけど、仕方ないわね」
「惜しくないわよ。いつでも会える、でしょ」
「……ええ、そうね」
「そうよ。ところで、出口はどこ?」
「はいはい、今出すわ」
メリーが手を振ると、非常口が魔法のように現れた。見事なものだ。
「ありがと。それじゃ、さよな……」
お別れを言いかけた私の唇を、メリーの指先が塞ぐ。細い人差し指はやはりほのかに暖かく、気持ち良かった。
「違うでしょ」
「そうだったわね。じゃあ……」
すうと息を吸う。
「またね、メリー」
「ええ。また会いましょう、蓮子」
メリーはまた笑った。
それは、今まで見たこともない、これから見ることもないであろう最高の笑みだった。もしも、私が何も彼も失うことがあっても、この時のメリーを忘れることだけはないだろう。
さあ、未練の時間は終わりだ。
手を振り、くるりと背を向け、非常口の把手を掴む。
隙間から、私が住まう世界が僅かに覗いている。
帰るとしよう。
ぎいと扉を押して開くと、眩しい光が私を包んで――
陽光が優しく眼を覆った。
瞼を開くと、空には太陽、地には林立するビルの群れ。研究棟はすぐ先だ。
冬の大学。この世界での、私の居場所。
寒空の中、私は目を瞬かせて伸びをする。しつこくつきまとい続けていた、眼の、肩の、胃の重さが嘘のように消えていた。
もう悩まされることも、夢を見ることもないだろう。そう確信し、私は研究棟へと歩き出す。アスファルトに跳ね返る足音、風の音、人々のざわめき。その全てが心地良く、明るく美しい。
おはようございますと、道行く生徒が頭を下げてくる。
おはようと挨拶を返しながら、私は手中の帽子をかぶって空を見上げる。
青い空。
白い雲。
緑の草木。
彼方に隣接した、此方の世界。
今ならば解る。幻想の郷は遙かに遠く、そして何よりも近い。
だから、私は彼方を見つめ、あなたに呼びかける。全ての狭間に居るなら、境界の間に在るなら、この声が届くとそう信じて。
メリー。
(了)
「新しい境目を見つけたの」
「面白そうね。どんな所?」
「森みたいね。雨がしとしとと降り注ぐ中で樹がざわざわと囁き、散り舞う桜を揺すぶって鳥が囀っているような、そんな場所。濃い霧だけが厄介そうだけど、行ってみる?」
「勿論。行ってみましょ」
そんなやり取りがあったのが、少し前のこと。
意気揚揚と結界の裂け目を潜った私たちは
「迷ったわ」
「迷ったわね」
乳白色の霧に覆われた森で、声を重ねていた。右を見ても左を見ても緑と霧ばかりであり、入り口はおろか、来し方行く末を伺う術もない。わざわざ声に出して確かめた通り、二人して完全に迷っていた。
いや、迷ったのではなく、道を見失ったというべきか。迷い子ならば、あちらこちらへうろつけば、来た道へと戻る当てもあろう。だが、失われた道を見つけるのに神頼みでは、いささか心許ない。
「少し休みましょうか」
「賛成。足が痛くなってきちゃったわ」
頷き、体と頭を休めようと手近な岩にもたれかかる。鉱物特有のひんやりした冷たさが、肌着を通して伝わってきた。
肩を揉むと、一日中肉体作業をしていたかのような凝り方だ。強行軍のせいで筋肉はひきつり、お腹が音を鳴らしている。それは相方も同じのようで
「蓮子、何か食べるものない?」
「カロリーメイトならあるわよ」
「用意がいいわね。それで、何味なの」
「チョコバナナ味」
「……そんなのあるんだ」
ブロック状の栄養食を半分に割って手渡す。手元に残った半欠けの塊を口に入れ、かみ砕いて嚥下した。ぼそぼそとした歯触りは味気ないことこの上ないが、縁日の屋台を思わせるしつこい程の甘みは今の私たちには有り難い。
ふう、と。
吐く溜息には疲労の色。全身が重く、気怠げなのが自分でも解る。慣れない地を延々と彷徨っているのだから、当然かもしれない。
足元に注意を向けると、柔らかい感触が伝わってくる。
蹴りつけると、ばふと音がして僅かに匂う微粒子が舞った。何かの胞子のようでもあり、地表を菌類が覆ってでもいるのだろうかと思わせる。確認しようかと思ったが、その気力もなかった。
ここに迷い込んでからどれ程の時間が経過したのだろうか。月も星も見えないのでは、時間と位置を知る特技も使いようがない。何時間か、もしかすると、何日か。腕時計の針は狂ったようにぐるぐると回り続け、ものの役に立たなかった。
回っているのは針だけではない。正しい道行きはどちらか、帰る当てはあるのか、人家があればいいのだがと――私の思考もあちらこちらに飛び散ったかと思えば、次の瞬間には一つどころを当て所もなく回り続けている。
「蓮子、時間と場所はわからないの?」
「さっぱりよ。霧のせいで空は良く見えないし、まだ月も星も出ていないわ。時計はさっきからぐるぐる回るだけだし。完全に迷子ね」
「困ったわねえ」
友人――マエリベリー・ハーン、通称メリーの問いに答える。メリーの声は軽快で、私たちが置かれた状況もさして気にとめていないようだ。いつもこの調子なので、本当に気にしていないのかは判断出来ないが。滑らかな金髪が霧中にあってひときわ鮮やかだった。
「全く、この様子じゃね……」
私は思い切り目を凝らすが、一メートル先も見えない。白い塊がどこまでも広がり、目の届く限りの空間を占有している。
一寸先は闇ならぬ、一寸先は霧だ。霧がたゆたい、集合し、濃密な壁を形作って私達の視界を閉ざす。木の葉のさわさわと揺れる音が耳に届いても、茂っているであろう樹樹は数本しか見えない。五里霧中とはまさしくこのことだろう。
「せめて休める場所は見つけたいわね。出来れば出口も」
何もかもが未知の森で愚図愚図しているわけにはいかない。霧に完全に閉じこめられてしまいでもしたら大事だ。背もたれにしていた岩から身を起こすと、出発するのとメリーが目で問いかけてくる。
ええ、と頷き、手を差し伸べた。逡巡無く、メリーが手を握ってくる。
「はぐれたら終わりだものね」
意図を察してくれる友人は有り難いものだ。メリーの小さな手は柔らかく、どこまでも白い。といっても病的な印象はなく、良質なミルクのような瑞々しさがある。掌から伝わってくる人肌の温かさに、私はそっと息をついた。自分一人でなくて良かったと、つくづく思う。
「蓮子、冷えてるわね」
「あなたの手が温かいから大丈夫よ」
「それだと私だけ損してない?」
「資産の分配は公平にしなきゃ」
「社会主義は好みじゃないんだけど、私」
「万国のプロレタリアートは団結すべきなのよ」
「百年遅れの学生運動でもしてなさい」
他愛もない話をしながら、手に手をとって歩き出す。
見慣れぬ樹木がさわさわと肌に触れ、霧に含まれていた水滴を残してゆく。地面は時に固く、時に柔らかくと気まぐれだ。踏み固められた土と湿地めいた泥が交互に配置されているのかもしれない。土地がこの様子では、樹木の植生はどうなっているのだろうか。興味をそそられたが、狭い視野のせいで、じっくり観察出来ないのが不満だった。それに、体力的にも精神的にもそんなことをしている余裕はない。
出来るだけ体力を無駄遣いしないよう、注意を払って歩いていると――
「――ひゃあっ!」
メリーの頓狂な声が響き渡った。
足を止めて振り返ると、頼りなさげに頭を探る姿が見える。何をやっているのだろうか。
「どうしたのよ、変な声あげて」
「うう、見てよ蓮子。枝に引っかかって、帽子が」
「あら、見事にびりびり」
白い絹の帽子がものの見事に破れていた。細く長い切れ目が走り、ざっくりと口が開いている。鋭い枝が引っかかり引きずられ、帽子を破いてしまったのだろう。裂け目から飛び出た金髪が可愛い。
「これはもう駄目ね。かぶれなくもないでしょうけど、帽子とはちょっと言えないわ」
「意外に高いのよ、それ。あーあ、今月お金無いのに」
「色々と使い過ぎよ。節制しなさいって言ってるでしょ」
万年金穴はお互い様で人のことは言えないのだが、この際置いておく。そもそも財布の中を気にしている状況ではなかろう。
気にするべきはむしろ
「帽子はともかく、怪我はしてない?」
「大丈夫……だと思うわ。この帽子、結構ゆったりしてるから」
「なら良かった。こんな所で怪我でもされたらたまらないしね」
改めて見ると、枝先は相当に鋭い。皮膚にでも刺されば、出血、創傷は避けられないだろう。怪我の一つも無いのが不幸中の幸いだった。黴菌でも入ってしまったら一大事である。
「でも――」
帽子と金髪を見比べる。
「そのままだと、髪の毛が面倒じゃないかしら」
「そうなのよ、絡まったり引っかかったり大変だわ。どうしよう、替えの帽子なんて持ってきてないし」
メリーの髪は私に比べ遙かに豊かで柔らかだ。時々触らせて貰うが、不覚にも羨ましくなってしまうほどである。その分、こんな所を歩くには不便極まりない。友人自慢の髪が痛むのは、私としても望むところではなかった。
「本当に仕方ないわね……はい、これあげるわ」
愛用の黒帽子を頭から取り、かぶせた。
私の帽子はメリーには少し大きく、目の上までをすっぽりと覆い隠す。ただでさえマスコットめいた見た目がますます際立ち、これはこれで可愛い。
「え……でも、いいの?」
「いいのよ。私の髪ならそうそう引っかからないでしょ。帽子はまあ、家に帰れば予備があるしね」
「私のことだし、また駄目にしちゃうかもしれないわよ」
「あげたのだから、破れようが壊れようが構わないわ。それに」
「それに?」
「財産は共有しないといけないしね」
「同じギャグは三回まで」
「ちえっ」
「それはそれとして――」
ふとメリーの表情が緩んだ。ふわりとした笑みだった。
「ありがと、蓮子」
華のような笑顔に、一瞬言葉を失う。
私はこの笑顔に弱い。大変に弱い。
根が素直ではないせいか、こうも陽性に笑われると調子が狂ってしまう。慌てて目を逸らし、威勢良く声を上げた。
「そ、それじゃ行きましょ! 出口は何処かにあるはずよ……多分」
取り繕うような言葉が、わざとらしく思われなければ良いのだが。
声が裏返っていないことを祈りつつ、私はまた歩き出した。
2
「……蓮子、一ついい」
「聞きたくないけどいいわよ」
「私、そろそろ限界なの」
「……奇遇ね。私もよ」
顔を見合わせ溜息をつくと、私たちは地面にへたりこんだ。足下の土は固く乾いており服が泥で汚れるようなことはなさそうだ。湿地帯でもあったならば、進むも戻るもかなわずに立ち往生していただろう。それでも、湿った霧が隙間から忍び込み、衣、肌をじっとりと濡らすのは防ぎようがなかった。纏わりつく水気が体を冷やし、緩慢と、だが確実に体力を奪ってゆく。
私もメリーも体力自慢というわけではない。遠出も散歩も好きだが、暇さえあれば野山を駆け巡るというタイプではないのだ。広い空間を当て所なく歩き続けるのは少々こたえる。
道に迷った時は無闇に動かない方が良いとも言うが、今の場合は動けなくなったという方が正解に近い。そもそも、この空間では原則が適用出来るかどうかも怪しいところだ。私は力なく首を回すと、メリーに声をかける。
「ねえ、何か見つかった?」
「全然駄目ね。境目の一つも見当たらないわ。そっちはどう?」
「こっちもさっぱり。霧は晴れないし、夜に星が出ても、私たちの世界みたいに見えるとは限らないしね」
周辺には豊かな樹樹と濃い霧が延延と続くばかりだ。歩んでいるつもりでも、もしかすると同じ所をぐるぐる回っているのでは無かろうか。そんな疑念が頭をもたげる。
あり得ない想像ではない。遭難者の多くは、目的地に向かっているつもりでも一箇所を彷徨っているだけだという話を聞いたことがある。パン屑を巻いて目印にすべきだったかもしれないが、今となっては手遅れか。
「……夜が来ちゃうわ」
メリーが呟いた。見上げれば、霧を貫いて周辺を照らす陽光がか細くなってきている。この世界でも、昼夜の歩みは嚴然としてあるようだ。
夜が来る――という事実は、あまり考えたくない。
暗闇とは恐ろしいものだ。プロメテウスの贈り物を引くまでもなく、熱と灯とは文化の、生活の礎だ。それだけに、それらを奪われた時の恐怖は根源的であり、理性で抑えられる類のものではない。
率直に言って、夜の森に食料も装備も無い状態で放り出されたら、平然としている自信はなかった。SOSを発信し、大声で叫んだとしても助けが来るはずもない。仮に来たとしても、ここは私たちの世界とは違うのだ。人間が来るとは限らなかった。
これはひょっとして――
「絶体絶命、ってやつね」
「言うまでもなくね」
どうしたものかしら、と答え、そんな言葉を口にしてしまった自分に少し腹が立つ。
どうもこうもないのだ。ぼやいていても状況が一変するわけではない。
具体的な対策をとらねばならない。
それも、早急に。
このまま進むにしても、遠からず陽が落ちるだろう。せめて、腰を下ろしてゆっくりと身を休めることが出来る場所が欲しかった。火をおこして暖をとれることが望ましい。
ポケットを探ると、指先に触れるのは買い物のレシート、ハンカチとポケットティッシュ、それに、小箱に入った燐寸。部室から持ってきたものだ。これは有り難い。
開けた空間を見つけ、火をおこして――と考える内、メリーの声がしないことに気がつく。眠ってしまったのだろうかと思い横を向くと
「メリー?」
宙に目を向け、ぼんやりしている彼女がいた。
「ちょっと、メリーってば!」
「……あ、ごめんごめん」
「どうしたのよ、ぼうっとして」
「考えてみたんだけど」
心ここにあらずとまではいかないが、どこか夢見るような表情でメリーが答える
一見すると呆けているようにしか思えないだろうが、メリーは精神を集中させている時にこのような顔付きになると、私だけは知っている。
実際、メリーの聡明さは折り紙付きだ。知識、観察力、洞察力、思考力、全てにおいて隙がない。捉え処のない、ふわふわした、とぼけたような表情で、本質を言い当てるような所があるのだ。私とは正反対だった。
「蓮子の案も悪くないけど、ちょっと無理がないかしら。夜を過ごせるような場所が都合良く見つかるとは限らないし。それに多分、夜を明かしても状況は変わらないわよ」
「……でしょうね。捜索隊が出ても、ここまでは来てくれないでしょうし」
認めたくないが、その通りだ。
「どうにかして森を出ないといけないわ。出来るなら、元の世界に帰らないと」
だが、どうやって?
そう言いたげなのを察したか、メリーはゆっくりと目をしばたいた。澄んだ碧眼が、私を凝乎と見つめる。
「手はあるわ。結界を操ってみようと思うの」
「……そんなこと出来る?」
メリーは曖昧に頷く。肯定か否定かはっきりしない首の振り方。
「わからない。でも、前から考えてはいたのよ。見ることが出来るなら。触れることが出来るなら。操ることも出来るかもしれない、ってね」
「まあ、突拍子もない話じゃないわね。考えてみれば、結界は文字通り界を結ぶもの。解きほぐすことも出来なくはないか」
「さすが蓮子、理解が早いわ。私たちの世界に通じる裂け目くらいなら、どうにか作れるかもしれないし」
「ね、これだけは確かめておきたいのだけど」
「何?」
「……試したことは、あるのよね?」
「もう、やだなあ。決まってるじゃない」
自信ありげな声に胸をなで下ろしたのも束の間。
「勿論、ぶっつけ本番よ」
信じた私が馬鹿だった。
「大丈夫よ。このマエリベリー・ハーンさんに任せておきなさい」
胸を叩いた手が、ぽよよんと跳ね返る。
本当に大丈夫なのだろうかと、不安がよぎる。
面白い提案ではある。だが、不確定な要素が多すぎるのも確かだ。
このまま脱出する方法を探した方が賢明ではないのか。仮に結界を操れたとしても、そう都合良く私たちの世界に通じる裂け目を作り出せるのか。そもそも、メリーが言うようなことは本当に可能なだろうか。不安と疑問と代案が、脳内で渦を巻く。
「どうするの、蓮子?」
「……そうね」
頭を振って、雑念を振り払う。
私たちに選択の余地はないのだ。未知の森で一晩を過すのはあまりに危険が多すぎる。メリーに頼るのが賢明だろう。
己にそう言い聞かせ、私は彼女の目を見つめる。
「お願い、メリー」
「そうこなくちゃ。任されたわ」
メリーは目を細め、微笑んだ。
おかしなものだ。それだけで、心に巣食っていた多種多様な不安が、雲夢消散してしまうのだから。
――まったく、本当にかなわない。
「ちょっと待ってね、すぐ準備するから」
半ば呆れている私を余所に、メリーは地に転がっていた棒を手に取ると足下の土に線を走らせる。見る見る間に作り上げられるのは、無数の図形。
円形。
四角形。
五芒星。
六芒星、八芒星、曼荼羅模様。
霧の地面に、とりどりの紋様が刻まれてゆく。メリーの手管は流れるようだ。絵や音楽もちょっとしたものだし、芸術的な天分があるのかも知れない。
「上手くいきそう?」
「大丈夫大丈夫。信じてちょうだい」
「信じるしかないんだけどね」
「そういえば」
地面から顔をあげずにメリーが言う。
「帰るのはいいけれど、同じ場所に出られなかった時はどうしようかしら」
「そうね……秘封倶楽部の部室で待ち合わせにしましょ」
「はーい」
明朗に答え、メリーは再び図形を描く作業にと没頭した。カリカリと、土を削る硬質な音だけが響き渡る。
やがて日が地平線にかかり、闇が白い霧を侵食し始めた頃
「はい、完成!」
「待ちくたびれたわよ……」
メリーが立ち上がり、腰を伸ばす。その足下には、複雑怪奇奇妙奇天烈、名状し難い形状の紋様が刻まれていた。
縦長の長方形が横並び二つ合わさり、渦巻き模様や幾何学的な直線がそれぞれの表面を飾っている。左側の長方形に端を発する線を辿ると、それは断続的な跳躍を繰り返して右端に達しているという按配だ。エッシャーの騙し絵、メビウスの輪、非ユークリッド幾何学。そのような言葉が頭に浮かぶ。
「えーと……これ、何?」
「何って、扉に決まってるじゃないの」
「扉……ね。見えないこともないけど、ちょっと無理がないかしら」
「仕方ないわ、イメージとしての扉だもの。結界を直接見るのは難しいからね。こうやって、目に見える形で通路なり扉なりを作っておくと弄りやすいの」
「触媒みたいなものね。目に見えるようにすることで、反応過程が促進されるわけだ」
「そんな所。それじゃ、早速やりましょうか」
「え、もう?」
「だって、もう暗くなってきてるわよ。待っていても何か起こるわけじゃないし。さ、急ぎましょ」
とんとん拍子に話が進む。メリーが会話の主導権を握るとは珍しい。結界や異世界に関しては、彼女の方が専門ということなのだろうか。
戸惑う内に、メリーが私の手を取った。滑らかで柔らかい、可愛い掌。そこから伝わる温かみに、心が落ち着くのが解る。
「始めるわよ」
「始めるのはいいけど、私は何をすればいいのかしら」
「強くイメージして。足下の、この扉が開き、その先に私たちの世界へ続く道が伸びている光景を」
「解ったわ。出来るだけ強く念じるのね」
「そうそう。じゃ、いくわよ」
すう、とメリーが息を吸い込み、長い睫を瞬かせて目を閉じる。一拍置いて、唇から漏れるのは、優しげな囁き。
聞き覚えのある詩句が、謡うような柔らかな聲に乗せて紡がれてゆく。確か、マザーグースだったか。イギリスの童謡で、映画や文学にも良く用いられている。なるほど、呪文めいて精神を集中させるには最適だろう。
呪言の羅列は、耳朶に入り込み、鼓膜を揺るがし、内耳神経を経て脳髄を刺激する。
私は音に導かれるように、脳裏に扉を、道を、元の世界を描き出す。最初は周縁部から、徐々に内側へと。マクロからミクロへ、絵を描くように、あるいはジグゾーパズルを組み立てるが如くにイメージを構築する内――
ぐにゃ、と。
視界が歪んだ。
輪郭が崩れゆく中、目に映る森や大地が変容を始めてゆく。
樹樹が、岩が豆腐のようにぐずぐずと溶け崩れ、また再生する。亢進した認知能は、霧を形作る粒子の一つ一つまでを見分けてしまうかのようだ。向精神性の薬物を大量に投与された気分だった。
耳に届くのは、メリーが甘やかに、艶やかに口吟み続ける言の葉。足下がぐらつき、地震かと見下ろせば、唯一安定していた大地までもが蠕動し律動する。頭上で飛び立ったのか、鳥が羽ばたき鋭く啼いた。
メリーの声がより一層響く。歌声が空気を覆い尽くす。
イメージを続けながら、聞き惚れていると。
ぽう、と。
私の肩に、赤い、紅い灯火が宿った。
何だろう、と不思議に思う間もなく。
二、三、四、五と。
青、緑、黄、橙、紫。色鮮やかな光が、順々に私たちの体を包んでゆく。
「……メリー、何が起こっているの?」
「私に聞かないでよ。始めてなんだから」
「何だか猛烈に悪い予感がしてきたわ」
「気のせい。ほら、もう少しよ」
「だといいけど……頭がふらふらしてきたし、本当に平気かしら」
「大丈夫大丈夫。さ、蓮子、声合わせて」
「マザーグースでいいのよね。OK」
握る手に力を込める。暖かな手を感じながら、私はメリーに唱和する。
「これで」
「ラストよ!」
声合わせ、叫んだ瞬間。
ぽこん、と。
地面が消失した。
「え?」
一瞬何が起きたか解らなかった。それでも、物理法則は正常に機能する。
体が宙に浮いた。
重力が私を引き寄せた。
確かに、扉は開いた。
足元に、黒々とした穴となって。
「――――!!」
声にならぬ叫びあげ、私は、深い穴の底にと落ちていった。
3
瞼の奥には、奔流する光の渦。
右に渦を巻いたかと思うと、続けて左。目の前で渦と渦とがぶつかり合い、また新たな渦を生成する。鳴門の渦潮を思わせる渦の群れは、一点に存在する何かを巻き取り、荒れ狂い続けている。
渦潮に巻かれているのは、私だ。潮の流れから抜け出そうと抗うも、まるで蟷螂の斧。四方八方に翻弄され、波間に漂う枯葉のように弱い。遠からず破れ、引き裂かれ、水底へと消えてしまいそうなほどに。
刻一刻と、渦の中心へと引き寄せられてゆく。体にはもう力が入らず、ただぐったりとしてされるがままだ。
光の渦に運ばれ続け、やがて、一際大きな渦が私を飲み込もうとし――
「……っ!!」
目を見開くと、鋭い陽光が眼球を刺激した。
背中には柔らかい草の感触。
視界の端には、一面に広がる柔草。
風に乗って楽しげなさざめきと笑い声が聞こえてくる。
此処は何処だろうと瞳を凝らすが、目が急な明るさになかなか慣れてくれない。瞳の奥がちかちかと明滅し、視野は定まったかと思うとまた揺らぐ。瞬きと眼球運動を幾度となく繰り返すうちに、漸く焦点が合ってきた。
声の主は、鞄を手にした青年たちのようだ。私から少し離れた芝生に座り、友人同士で談笑している。
その背後に聳えているのは、コンクリートの建物か。灰に沈んだ外壁と堅牢な造りは、私が日々目にしているものである。
見慣れた風景だ。朝から晩までほぼ毎日のように通っている世界。間延びした、あるいは濃密な時を過すための空間。
つまりここは
「……学校、ね」
大きな安堵の息をつく。
空には太陽が燦燦と輝き、熱を伝えてきている。腕時計を確かめれば、時間は正午、日付は結界に入り込んだ翌日。あの世界に入り込んでから、丸一日近くが経っていたというわけか。
私は、空を見上げて四肢を伸ばしたまま、声をかける。
「何とか帰って来られたわね……」
返事がない。
私と同じように倒れているのだろうか。首を回すのも億劫で、仰向けになったまま言葉を続ける。
「返事くらいしてよ。それとも、疲れて寝ちゃった?」
またも返事がない。
仕方ないな、と上半身を起こした。
「ちょっと、メリーってば」
大きな声で呼びかける。身を起こしたせいで急速に象られた人々の幾人かが振り向いた。少し声が大きすぎたか。
だが、肝心の金髪が立ち現れない。右に左に首を回すが、それらしき姿は欠片もない。
何処にいるというのだ。今、私が見つけなければならないのは、友人の姿だというのに。
「メリー、どこなの?」
立ち上がった。
しん、と。
答える声はない。
授業時間が近いのか、学生たちが丘の真中を通る小径をぱたぱたと駆けてゆく。空は透き通るように青く、目映いほどに白い雲を浮かべていた。
申し分の無い風景だ。
陽光を受けて燦めく金の髪が見当たらないことを除いては。
「えっと……冗談はやめてよね。ちょっと洒落にならないわよ、これ」
独語に返ってくるのは沈黙だけ。しんしんとした静寂が無慈悲に私の耳を打つ。
――落ち着け。
二度三度と深呼吸し、心を静める。
メリーの姿が見当たらないこと自体は、さほど驚くようなことではない。
私があの世界からこの時間、この地点に抜け出ていても、メリーもまた、同じ場所に出現するとは限らないだろう。結界を超えるというのは、ある種の空間跳躍だ。出発点は同じでも、到着点が完全に一致するとは言い切れない。今回のような、急な移動ならなおさらだ。
となれば、向う場所は一つ。
『秘封倶楽部で待ち合わせ』
そう約束したはずだ。遅かれ早かれ、メリーも部室に辿り着いているだろう。
そう思うと、いてもたってもいられない。私は服についた草を払うこともせず、倶楽部に向かって走り出した。
文化系のサークルが集まっている建物、その一階の角に秘封倶楽部の部室はある。
立ち並ぶサークルの扉を横目に、コンクリートの地面を蹴って走る。秘封倶楽部部室のドアノブに手をかけると、抵抗無くくるりと回った。鍵はかかっていないようだ。
中にいるのか――そう願いながら、私は扉を開く。
「メリー!」
ばん、と。扉が壁にぶつかり大きな音を立てる。
そこには、いつも通りの部室があった。
明滅する照明も。
木製の調度と本棚も。
テーブルの上の、お茶道具一式も。
全くもって、日々見慣れた部室だった。
誰もいないことだけを除いては。
「……メリー?」
呼びかけ、足を踏み入れる。ぎし、と足下で床が鳴った。
「どこなの? 私ならともかく、あなたが遅刻なんてルール違反よ」
嫌な予感、いや、確信が胸の内で膨らみ続ける。
だが、私の思考はその確信を否定する。本棚の影に隠れているのかも知れない。私より先に辿り着いていて、驚かせようとしているのかも知れない。あちらこちらと、見て回るも
「……ね、メリー、いるんでしょ? いきなり出てきて、驚かせるつもりなんでしょ? 十分驚いたから、もう出てきてよ」
沈黙。
ただ沈黙。
薄暗い部室に響くのは、私の声だけ。その音は安手の壁から壁へと跳ね返り、狭い部室に充満する。
「メリー、メリーってば! 返事しなさいよ! いるんでしょ!?」
椅子をどかし、テーブルを片付け、本棚の裏を覗き込み、旅行先で買ったお土産をひっくり返す。
無造作に積まれた雑誌や小物も、一つ残らず取り上げ、出来上がった空間を覗き込む。人が入れるスペースではないと解りきっていても。
数十分、いや、数時間はそのようなことを続けただろうか――
「……お願いよ、メリー……」
掠れた声でへたりこみ、戸棚に背を預けた拍子に
ぱふ、と。
その上から落ちてきた何かが、私の視界を覆い隠した。
何だろうかと、手で触れる。
馴染んだ手触り。薄い光が透かす、黒一色。そのまま持ち上げ、手に取ると
「……!」
私は息を呑んだ。
帽子だ。
色、形、手触り、少しだけ擦り切れた縁。
あの森で、メリーに渡した帽子だ。元々は私の愛用の品、何故かやけに古びているが、間違えるはずがなかった。
だけど、何故帽子だけが?
あの時、結界を渡った拍子にメリーの頭からこれだけが落ちたというのだろうか。あり得ないことではないが、帽子がたまたま部室に無事辿り着いたとは考えにくい。誰かが拾って届けてくれたなど、さらにありそうもない。
考えながら帽子を弄んでいたところ。
ひらりと。
その内から一枚の紙片が落ちた。
ノート一枚に満たない小さな紙切れ。元々は白かったであろうそれは、風化したかのように黄色く変色している。
破ってしまわぬよう、慎重に手にとるとそこには
「ごめんね」
と、ただそれだけ。
見覚えのある――いや、ありすぎる筆跡。大学で、部室で、学外で、毎日のように見ている流麗な手跡。
掴む手が震える。
紙片を縦にし、横にし、ひっくり返して灯りに透かす。何回も何回も、繰り返し読んでもその言葉以外は見当たらない。
隣の部室から聞こえる笑い声が、遠い。
電灯の発する音が、やけに耳障りだ。
「何よ、これ」
呟いた。
「何が、ごめんね、よ。あの後、何があってどうなったの? 今、何処にいるの? 解るように説明してよ!」
私の声に、答えはない。
あるはずがない。それでも、言わずにはいられない。
「冗談じゃないわよ! あなた一人だけ置いて私だけ帰りたいとでも思ったの!? メリーならともかく、私だけじゃ迎えにも行けないじゃない。何考えてるのよ、似合わないことしないでよ!!」
怒声の中、視界がぼやける。自分でも何を言っているのか判然としなかった。それでいて、はっきりと理解出来ることがあった。
彼女はここにいない。おそらくは、私と同じ世界に存在しない。故意か事故かは解らないが、あの霧の空間、向こう側にただ一人取り残されている。
メリー。
メリー。
「メリーーーー!!」
私の叫びは虚しく部室に響くだけで――
4
――弦月の薄明りを浴びて、目覚めた。
目脂をこすりながら瞼を開く。視界に飛び込んできたのは、山と積まれ束になった物理学の論文だ。続いて、散乱した三色ボールペンに万年筆。両手は愛用のコンピューターの前で組み合わされ、枕代わりになっていた。
「ふぁ……」
うたた寝をしてしまっていたらしい。二度寝というわけにもいかないので、欠伸をこらえて上半身を起こし、椅子の背にもたれ伸びをする。二、三度と眼をしばたたくと、霞がかった脳もようやく活動を再開してくれた。寝起き特有の浮遊感を、頭を振って追い払う。
あたりは見慣れた光景だ。毎日通う職場なのだから当然か。私から見て左手にはファイルのぎっしり詰まったキャビネット、右手には英独をはじめに諸国の文献が整然と並べられた書棚、目の前にはコンピューターと筆記用具が置かれたスチール製の机。窓からは弓張り月の光が差し込んでいる。私の――つまり、宇佐見蓮子研究室の教授室である。
「……夢、か」
懐かしい夢を見ていたようだ。
論文の〆切と超統一物理学会での講演が重なったせいで、最近は目の回るような忙しさだった。そのせいか、あの夢とも縁遠くなっていたのだが。
いや、忙しさのせいだけではあるまい。安定した生活と社会的地位は、連日連夜の発見と冒険の代償だ。彼女は心躍る日々の象徴だった。冷たく揺るがない、石のような日常を繰り返していてはその残像が薄れるのも当然かもしれない。
――親友の姿が消えてから、もう十年が経つ。
柔らかい金髪が、邪気のない笑顔が、かつては折に触れ記憶に立ち上ったものだ。その度に私は自責の念に苛まれた。何故、ああなってしまったのかと。何故、共に居ることが出来なかったのかと。脇目も振らずに研究に打ち込んだのも、痛みを少しでも忘れるためだったのかもしれない。
無情なもので、年月を経るにつれて心は摩耗していった。今では、彼女のことを思い出すだけで起き上がれなくなるようなことはない。心には何かが突き刺さり、胃には重いものがもたれるが、耐えられないことはなかった。時間に勝る薬は無いというのは、どうやら真実らしい。
それはそれで悲しいことではあるのだろうが。
扉を軽やかに叩く音が思念を破った。檻のように澱み続けようとする思念を払い、平静を装った声を出す。
「開いているわよ」
「失礼します」
眼鏡をかけた娘が扉を開けた。米国から留学してきている大学院生だ。なかなかに優秀で、研究に雑事に頼りになる。綺麗に整えられた金髪の下で、知的な瞳がくるくると動いていた。
「実験データ、纏めておきました。セミナー室のサーバーに入れておきましたから」
「遅くまでありがとう。疲れたでしょうし、もう上がっていいわよ」
「そうさせて貰います。でも――」
学生がじっと私を見つめる。澄んだ蒼い瞳が、記憶の彼方のそれと重なる。
「私より先生がお疲れじゃありませんか? 顔色、悪いですよ」
その言葉に、硝子に映りこんでいる顔を一瞥。
これは驚いた。
瞼は厚ぼったく、目は充血している。肌は青白く、血色が良くない。寝起きで気怠いせいもあり、これでは疲労が溜まっていると勘違いされてしまうだろう。
無論、疲れているせいではない。昔を思いだしたからなのだが、他人に言えるはずもないし、説明するつもりもなかった。曖昧な笑みを浮かべる私を怪訝そうに見て、学生は頭を下げる。
「気をつけてくださいね。先生、働き過ぎですから。じゃ、お先に失礼します」
学生が走り去る。元気な後ろ姿を見送り、私は何となしに息をついた。
心が乱されている。
夢一つでこうまで惑うとは思わなかった。私の中で彼女の消失はまだまだ消化されていないようだ。
当然といえば、当然か。結局、この十年間で彼女以上のパートナー、友人には出会っていない。これからも出会うことはないだろう。半身をもがれたようなものだ。
「……ふう」
キーボードに向かい論文の続きに取りかかってはみたが、一行たりとも進まない。
傍らのコーヒーに口をつけてみれば、冷え切っていて飲めたものではない。湯を沸かして入れ直す気力もなかった。
「駄目ね、これは」
お手上げだ。
仕事の続きも手につきそうにない。仮眠をとろうかと思ったが、この調子ではまた夢を見てしまうのが関の山か。
幸い明日は休日だ。帰ってシャワーでも浴び、お酒でも飲み寝てしまおう。
そうと決まれば後は早い。
椅子から立ち上がり、セミナー室の電気を落とす。実験室の分析機器のスイッチが切れていることを確認した。実験室隣の冷温室だけが、低く重い唸りを上げ続けていた。
黒の帽子と鼠色のコートを壁掛けから降ろし、纏う。
ばたん、と。研究室の扉が閉まる音がうるさかった。
「うわ、寒……」
外は文字通り身を切るような寒さだった。風が、帽子を強くはためかせる。手で押さえていても吹き飛んでしまいそうだ。
風がコートをすり抜け、十二月の冷気を運び込んでくる。研究棟の窓は、珍しく一階から十二階まで真っ暗だ。いつもなら深夜の実験をしている人が一人二人はいるものだが、その様子はない。学校が冬休みに入っているせいだろうか。周りに植えられた草木が、ざわざわと風に揺れている。
私の職場は京都の総合大学だ。先進的な学風で知られており、学生だった頃から超統一物理学に力を入れていた。学問としては大変若い分野で、研究者はあまり多くない。この大学でも私を含め数えるほどだ。
相対性精神学にしても似たようなもの。専門誌に目を通しても、決まった名前が順番に研究成果を発表しているという印象は否めない。
彼女が研究の道に進んでいれば、その一人であったかもしれないが――
――また、か。
思考を無理に断ち切り、溜息をつく。吐き出された息が、白く夜空に溶け込んでゆく。
今夜の私は妙に感傷的だ。
詮無いことだというに、見る物、聞く物、思う物の全てが、マエリベリー・ハーンの面影を押し付けてくる。記憶の引き金に指をかけつづけているかのようだ。気を抜くと追憶の銃弾がこめかみを貫く。
もっとも、記憶とはそういうものだ。完全に失われることはなく、ほんの僅かな切っ掛けで堰を切ったように溢れ出てくる。マドレーヌが失われた時を呼び起こしたように。
夜の学内を二人で気ままに歩いたものだ。目的地はカフェであったり、図書館であったり、互いの家であったりしたが、当てもなく散策することが一番多かった。昨夜の夕食から最新の学術論文まで、題材を選ばずあっちこっちへと話を飛躍させたものだ。目的のない散歩をしていないな、とふと思う。
想念が流れるままに足を動かし続ける。人気のない校内に、襟を立てた私の足音だけが響いていた。
どこまで歩いても、人はおろか猫の子一匹見当たらない。深夜といえど、閑散としすぎだ。こうまで人気がないとさすがに不安になってくる。足を早めると、アスファルトがかつかつと硬質な音を立てた。
十分も歩き続けると、ようやく校門が見えてきた。警備員の詰め所にはうっすらと灯りが点っている。彼らに頭を下げ、門をくぐろうとした時。
「きゃ……!」
ひゅう、と。一際強い風が吹いた。
帽子を押さえる手も間に合わない。深い黒の帽子が、夜空に飛ばされくるくると踊る。茶色の髪が吹き散り広がった。
風が帽子を吹き流す。暗い天空を軽々と舞ってゆく。紙で折られたかのような軽やかさだ。
私は慌ててそれを追いかける。
あれは思い出の品だ。飛ばされたから諦めるというわけにはいかない。
息を荒くしながら後を追う。冬の空気の中、私の吐きだした息が白く凝結し、霧のように漂う。
ひらりひらりと舞っていた帽子は、研究棟の最上階の壁にぶつかり――
「……え、あれ?」
そのまま落ちてくるかと思えば、ふい、と消え去ってしまった。
少なくとも、そう思えた。
窓から中に飛び込んだのだろうか。しかし、最上階の戸締まりは全て確認したはずだ。
どこかに引っかかったとも考えにくい。研究棟の表は滑らかで、出っ張った部分は無い筈だ。突風が吹いて帽子を飛ばしたなどということもなかった。
となれば、研究棟の中に入り込んでしまったのか。窓の閉め忘れがあったに違いないのだろうが、それにしても――
「……探しにいくしかないか」
四の五の考えていても何にもなるまい。あの帽子を無くすわけにはいかないのだから。
幸い、教員の研究棟への出入りは自由だ。入り口に向い、財布の中に入れておいた電子キーを取り出した。扉の鍵に差し込むと、赤いランプが緑に変色し、解錠されたことを知らせてくれる。
――全く、今夜は色々と面倒が多すぎる。
深く息をつくと、私は建物の中へと入っていった。
5
十二階のボタンを押すと、エレベーターの扉が閉まった。がこんと揺れると、上へ向かって動き出す。かご室が吊り上げられ、僅かな震動を伝えてくる。
研究棟のエレベーターは広い。機器の搬入に用いるためだ。一人乗りには余計な空間が多すぎるほどである。深夜ともなればなおさらで、薄暗い白熱灯がかごの中を照らしていた。
エレベーターの壁に背を寄せ、階数を表示しているボタンを見やる。一、二、三と、順番に繰り返す点灯。低い機械音が耳障りで、私は少し眉を寄せた。
(あの時、帽子は――)
風に舞った帽子は、確かに壁にぶつかり消えたように見えた。常識的に考えれば、最上階、つまり十二階の窓に飛び込んだのだろう。
それが、どうにも気に入らない。あの階には私の研究室しかなく、窓が施錠されているのは先程確認したばかりなのだ。職員か学生の誰かが、私の後で来たのかもしれない。だが、それにしては光の一つも漏れていないのが不可解だった。
がこんと。
エレベーターが大きく上下に揺れ、動きを停止する。目的の階に着いたようだ。機械音が鳴りを静め、しんとした静寂だけが耳に届く。自動扉が滑らかに開いた。
広がっているのは闇に覆われた廊下だ。研究棟は実験動物を飼育している階を除くと、全てが同じ造りになっている。電灯のスイッチがある場所も把握していた。スイッチを入れようと、踏み出そうとし――私はぴたと足を止める。
何かが変だ。
廊下には暗闇が堆積している。小さな子供なら怯えそうな程に、暗闇のベールは厚い。いつもの、誰も居ない時の研究棟だ。深夜まで研究室に居残っていたならば、必ず目にする光景だ。
だが、何かが違う。見知っているように思えるが、ここはいつもの研究棟ではない。
――子供の頃、近所の路地で迷ったことがある。見覚えがあり馴染んでいながら、行き先も何もわからない空間は恐ろしく、そして魅力的だった。少しだけ違う世界に迷い込んだ気がしたものだ。今の感覚はそれに近い。
不安を振り払うように、エレベーターの中を一通り見渡す。床、壁、ボタン、階数表示と、一つ一つ点検してゆく。
そこで違和感の理由がはっきりした。
妙な筈だ。
見上げた表示灯には
十三
そんな数字が、ぽつんと点っていたのだから。
「何、これ?」
呟いてしまう。私は確かに十二階のボタンを押したはずだ。エレベーターが故障したかとも思ったが、こんな故障など聞いたこともない。間違った階が表示されることはあるかもしれないが、十二階建ての建物で十三階などということは有り得なかろう。
ならば見間違いかと目をこするが、何度見ても十三は十三のままだ。
「――迷い込んだ、かな」
しばし考え込み、漸く得心した。
あの頃、大学生だった時と同じなのだ。
広がっているのは彼女に手を引かれ、垣間見た狭間の世界だ。
此処は結界の向こう側なのだろう。見るだけで無く内に入り込むなど、本当に久々のことだ。一人になってからは初めてだろうか。
それでも、全く未経験というわけではない。私は結界の破れ目を見ることは出来なかったし、今も出来ないが、手を引かれて尋ねたことは一度二度ではない。
それと解った上でどうすべきか。私はしばし逡巡する。
異界を訪ねるのは嫌いではない。大学生の頃なら迷わずに飛び込んでいただろう。
だが、今ではそう気楽にはいかない。何が待っているか知れたものではないのだ。不用意に飛び込むのは無謀の極みだと、私の理性は告げている。
だが反面、身体の底は興奮に疼いていた。
考えてみれば、元・少女秘封倶楽部としては、ここで引き下がる手はない。忘れていたはずの探求心が、ふつふつと沸き上がってくる。あんな夢を見たせいで、心がまだ騒いでいるのだろうか。
帽子が消え去ったのも、この空間に偶然入り込んだからかもしれない。窓が閉まったままのはずの十二階に飛び込んだというよりは信憑性がありそうだ。
「よし。行きましょ」
声に出して決めると、迷いは一瞬にして消えた。
掌を強く握りしめる。帽子のつばを触りたいところだが、不在では仕方ない。
私はエレベーターを降りると、暗い廊下へと足を掛けた。
冷たいリノリウムの床に足を置くと、エレベーターの閉まる音が聞こえた。視界の内には、窓や扉が一つも見あたらない。人影などあるはずもない。
つまりは、引き返せないということか。誰の――或いは何の所為か知らないが、親切なことだ。もっとも、引き返すつもりはなく、余計なお世話といえば言えた。
十二階の上に存在する十三階。忌まれる数字を有する非在の空間というわけだ。普通なら驚く所なのだろうが、生憎と私は異界の存在にはそれなりに慣れている。
窓もないのに、何処からか月明かりが差し込んできた。黒一面と見えた空間は実の所ほのかに照らされ、のっぺりした灰色の壁を浮かび上がらせている。扉が見あたらないせいもあって、見つめていると目眩を起こしそうだ。
耳に届く音も一つとて無い。床を蹴ると硬質な感触が伝わるものの、足音は柔らかい床に吸い込まれるように消えてゆく。
天井も床も壁も無限に伸びている空間を歩むうちに、私は言いようのない違和感を感じていた。
最初は足音がしないせいだと思っていたのだが、どうやらそれだけではない。明りの届かぬ闇の奥が質量を持ち、むわりと広がっているように感じられるのだ。大気が重くねっとりと纏わりつく。遠くから誰かに見られている錯覚を覚える。
――いや、錯覚ではない。
よくよく目を凝らせば、廊下の一角に、二つの光点が爛々と灯っている。黄金色の輝きは、私の姿を追いかけてきている。
何かが――居る。
さあ、と、光量が増した。
月が四隣を照らし出したせいだった。明りは私を追う者の潜む場所をも暴き立てた。
そこでは
「――狐?」
金色の毛を持つ狐が私を見つめていた。
一目でただの狐ではないと解った。動物園で見たことのあるキタキツネよりも、一回り以上は大きい。瞳には明らかな知性の色がある。何より、金に輝く毛並みの狐など自然に居るはずがなかった。
目と目が交錯する。狐につられて、私も首を傾げた。
それにしても美しい。毛並みは柔らかに流れ、細い切れ長の瞳が私を凝乎と見つめている。昔話には狐に惑わされた男の話が良くあるが、これでは無理もない。誘惑されれば、女の私でもふらふらとついて行ってしまいそうだ。
恋しくば 訪ね来てみよ 和泉なる 信田の森の恨み葛の葉
メリーが好きだった能楽の一節を思い出す。信田妻だったか。この狐も、葛の葉姫のように稲荷神や妖狐の類なのかもしれない。
だから。
「どなたかは存じませぬが、此処は人間の立ち入るべき所ではありません。お引き取り下さい」
狐が口をきいてもあまり意外ではなかった。時代がかった話し方が似合うな、など呑気な感想を抱く余裕があったくらいだ。
「いきなりご挨拶ね。立ち入ったというより、迷い入ったのだけれども」
答える私に、狐をぱちくりと目を瞬いた。神々しかった面相が一転、毒気を抜かれたようになっている。何とも人間くさい。
「……驚かないのですね」
「十二階建ての十三階よ、ここ。狐が喋ったくらいじゃ、今更驚かないわ」
それに、常識外の出来事には慣れている。竹藪を飛ぶ鳳凰や、霧の中に浮かぶ紅い館、鬼や兎が跳ね回る神社の宴会。メリーと共に垣間見た世界に比べれば、狐が人語を操るなど当然にすら思える。そもそも、狐は東洋では霊獣なのだ。
それもそうか――と、狐は呟いた。この空間は音の伝導率に優れるのか、ちょっとした声もはっきりと耳に届く。便利といえば便利だが、隠し事や相談には向かなそうだ。
「失礼致しました。ですが、みだりに入るべき地ではないのは確か。どうしてもご用の向きがあるというならば、私めが伺います」
私は少し考え込み
「ちょっと捜し物をしていて。あなた、帽子を見かけなかった?」
そう答えた。
まずは探し物だ。この狐――声からして女性のようだが――は礼儀正しく、聡明そうである。聞くだけ聞いて損はないだろう。
「帽子ですか。いえ、見てはおりませぬが――」
「困ったわね。多分ここにあると思うのだけれども」
「それほどに大事なものなのでしょうか」
「ええ、大切なものなのよ。思い出の品なの。無くすわけにはいかないわ。邪魔はしないから、探させて貰えない?」
そのために来たのだ。私にとっては五指に入る大事な持ち物だから、真摯に答えた。
まいったな、とでも言いたげに、彼女が前足で頬をかく。ぱたぱたと地を叩く尻尾はまとめて束となっている。九尾の狐か。
「……申し訳ありませんが、矢張りお聞き届けし兼ねます。帽子は見つけ次第、お届けいたしますので――」
「そこを何とか出来ない? あればかりは代えがきかないの」
頑として言い張る私に、狐は眉根を寄せる。心底困っている様子に、少しだけ同情の念が沸いた。
「困りました。不用意に人を迷い込ませたとあっては、番を命じられている意味がない」
意外に頑固だ。このまま話していても、押し問答になるばかりなのは目に見えている。かといって、はいそうですか、と引き下がるのも癪に障る。
むう、と視線を送ると、あちらもまた厳しく見返してきた。私と狐とが睨み合う形になってしまう。
ぴんとした沈黙が張りつめ、静寂がのしかかる。
一分近く睨み合い、私がまた口を開こうとした時のことだった。
「あらあら、藍、駄目じゃない。迷い込んだ方を邪険にするものじゃないわ」
張りのある雅声が静寂を破った。凛として涼やかな声だった。
藍と呼ばれた金狐が、耳を立てて廊下の奥へと答える。
「しかし、紫様――」
「しかしもお菓子もないわ。お客様は大事にしなさいといつも云っているでしょうに」
コツ、コツと。
音のしない空間で足音を立て、声の主が暗闇に浮かび上がる。
「え――?」
その姿に、絶句する。
典麗な女性だった。蠱惑的な肢体を覆うのは、桔梗色したロングドレスだ。裾は真白に彩られ、幾重にも襞を重ねた柔らかなフレア仕立て。長手袋と裾の狭間から覗く肌はただ白い。鹿鳴館の貴婦人かと見紛うばかりの優美な姿である。
妖妃サロメ、人造美女イヴといった「宿命の女」を思わせるのは、一種凄絶なまでの美貌故だろう。断じて、人の持ち得る美では無かった。
もっとも、私が驚いたのはそんなことではない。
女に、似ても似つかぬ少女の面影を見出したからだ。
一見する限りでは別人にしか思えまい。手に扇を持った佇まいは風雅でありながら、ただ居るだけで、場を圧するばかりの威圧感を放っている。彼女は変わり者だったが、人間離れはしていなかった。共通点といえば、豊かな金髪と大きな蒼い瞳、それに豊かな肢体くらいだろう。
それでも。
忘れるはずもない。
見紛うはずもない。
目と目があい、沈黙の帳が降りた。
しんとした世界で、私と彼女の視線が絡み合う。
紫と呼ばれた女は、碧眼を大きく見開き、ぱちぱちと瞬かせている。瞳の奥に、確かな驚きが浮かんでいた。
「もしかして――」
ゆっくりと言葉が紡ぎ出される。私は、努めて冷静に頷く。
「……あなた、蓮子……?」
「もしかしても何もないでしょ。待ち合わせは部室って言ったじゃない。十年の遅刻よ――」
メリー、と。
懐かしい親友に、私は微笑みかけた。
6
メリー――紫と呼ぶべきなのだろうが、私にはこの呼び方がしっくりくる――が壁に手を触れた。魔法のように白い扉が浮かび上がる。招かれ入ると、紅茶の良い香りが漂っていた。
「静かね」
「ここでは時が死んでいるからよ。蓮子、ダージリンはいかがかしら?」
「いただくわ」
琥珀色の芳香を楽しみながら、私は部屋の装いに目を凝らす。栗色のナイトテーブルの上には、古風な真鍮の洋燈。壁掛け鏡には、窓で揺れる紅のシェードが写っている。アームチェアに背を預けると、ふわりと身体が沈み込んだ。テーブルの木目は肌理が細かく、触れると心地良い。
「思い出すわねぇ、倶楽部のお茶会」
「いつも夢の話を聞かされていたわね。紅い館と冬の空。幽冥界の楼閣を過ぎて渡れば三途川。百の鳥居を潜り抜け、瞼に映る狭間の社――」
「夢の話だけじゃないわ。結界の裂け目に飛び込んだこともあったわよ。最初の頃はともかく、途中からは蓮子も随分積極的だったわね」
「あんなチャンスはそうそうないもの。夢を夢のままにしておいては勿体ないわ。現実と夢とを交錯させ、入れ替え、継いで接ぐ。パッチワークみたいだけど、楽しかったわよ」
「最近もそういうことはしているの?」
メリーの問いに私は苦笑してカップを置いた。私が出来るのは星と月の位置から、時間と現在値を知ることだけだ。結界に関してはメリーのようにはいかない。
「さっぱり。本当に疎遠になっていたわ。私一人じゃ、入り口を見つけることも出来ないからね」
「それもそうか――ところでお代わりはどうかしら?」
「今度はアールグレイがいいわ」
メリーが椅子を立ち、ティーポットから紅茶を注いでくれる。無雑作に見えるが、動きの一つ一つは洗練されたそれだ。私でも見蕩れそうになる。
上機嫌なのか、小声で歌を口ずさんでいる。聞き覚えのあるメロディ。倶楽部活動中の、あの時の歌だ。
「マザー・グースね」
「蓮子も覚えているのね。今でも時々唄うの。色々なことを忘れてしまったけれど、歌だけは残っていてくれているわ」
「あの頃はよく唄ったわね。幼い歌だった。今じゃもう無理ね。十年も経てば、何も彼も変わってしまう」
「そうでもないわよ。私は歌も唄うし、踊ることだってあるわ。過した時間は、十年ではきかないけれども」
「やっぱりそうなのね。別れてから過した時間が違うんだ」
メリーが人の域を外れてしまっているのはすぐに理解出来た。人語を解する狐を使役している時点で、人の業とも言えまい。幾ら結界を垣間見る力を持っていたとはいえ、十年や二十年でこうまで変わるはずがなかった。私の問いに、メリーはこくりと頷く。
「ええ。私の方は何十年、何百年。下手をすればそれ以上よ。年月を数えるのはとっくにやめちゃったけどね。そういうのは蓮子の得意分野でしょ」
その通りだ。
時間の流れは均一ではない。浦島効果は誰でも知っているだろう。過剰な重力の中では、時の経過は遅くなる。
メリーの開いた結界で私は現世へと飛ばされ、当の本人は過去の「向こう側」に迷い込んだというのも、十分に有り得る話だ。不思議の国のメリー、夢世紀のリップ・ヴァン・ウィンクルといったところか。
「ところで、メリー」
「なあに、蓮子」
邪気のない瞳に見つめられ、私は口籠もった。そうせざるを得なかった。
それでも、聞かないといけない。
紅茶を口にし、椅子の背にもたれて私はまた口を開く。
「何故、帰ってこなかったの?」
無意味な質問だ。昔のことだ。過ぎ去ったことなのだ。今更聞いてどうなるものでもないけれど、それでも聞いておきたかった。
だが、私の問いかけに、メリーは困ったような表情を浮かべる。
「それは帰りたかったわよ。でも、帰れなかった。結界を操れたのは、あの時だけ。蓮子を送り返して、すぐに閉じちゃったのよ。自由に操れることが出来るようになるまでは、気が遠くなるような年月がかかったわ。そうなった時にはもう、こちらに大事なものがたくさん出来すぎていた」
「部室にあった帽子は?」
「ああ、あれ? 何の説明もなしじゃ蓮子が困ると思って、しばらく前に送っておいたの。ちゃんと部室に届くか心配だったけど、大丈夫だったみたいね」
「メリーにとってはちょっと前でも、私には違ったんだけど……それに『ごめんね』以外にも書き方はあったんじゃないの?」
ついつい恨みがましくなる私に、メリーは苦笑する。
「ごめんなさいね。他に何を書いて良いのか思いつかなかったのよ」
「……まあ、そんなものかもね」
確かに、何があってどうしているか詳しく説明するようなものでもないのだろう。メリーにしてみれば、昔日の出来事だ。くだくだしく書く気にはなれなかったのかもしれない。私が同じ立場でも、そうした可能性は大いにある。
それに――と、メリーは眼を細める。
「あの時のことですら、私にはもう、物凄い昔のことになってしまっていたのよ。いくら私でも、記憶の風化は、感情の摩耗は止められないわ。何も彼もを覚えていたら、神様でも無い限り心がパンクしちゃうもの」
「その割には、私のことはすぐにわかったみたいだけど」
「だって蓮子よ。忘れるわけ無いでしょ」
「……あ、相変らず恥ずかしいこと平気で言うのね……」
心臓に悪いので不意打ちはやめて欲しい。
虚を衝かれた私の表情に、メリーはくすりと笑みを浮かべる。昔のままの柔らかで美しい微笑みに、私は苦笑混じりの溜息をつく。
まあいい。
言いたいこと、聞きたいことは山ほどある。何をしていたのか尋ねたいし、せめて連絡の一つも欲しかったと問い詰めたいし、何より謝りたかった。
でも――
「どうしたの、難しい顔して」
「いや、ね。色々聞きたいことがあったはずなのに、顔を見たらどうでも良くなっちゃったわ」
「ふふ、私もよ。変なところで気が合うのは変わらないみたい」
「お互い様に、ね」
優しげな眼差しが柔らかい。
そう、メリーはどれほどの時を経ても私を覚えていてくれた。
それが、彼女の答えなのだろう。
ティーカップをテーブルクロスに置く。カップとソーサーが触れ合い、澄んだ音色をたてた。それ以上に綺麗な声で、メリーが私に囁く。
「ね、蓮子。せっかくだし、私の世界を見てみるつもりはない?」
「答えるまでもないでしょ。立場が逆なら、あなた、断る?」
「そうよね。それじゃ、久しぶりに秘封倶楽部探検隊と洒落込みましょうか」
メリーは頬杖を付き、悪戯な笑みを浮かべた。
細く長い指が、ぱちりと鳴る。
途端ぐにゃりと、家具が、窓が、室が歪む。
手品のように、大きな鏡が壁に顕現していた。鏡面は波打っており、触れるとぷるぷると震える。鏡は鏡でも、水鏡のようだった。
「一名様ご案内ね。じゃ、行きましょ」
「よろしくね、添乗員さん」
私はメリーと手と手を取って、窓をくぐりぬけた。
――私は空に浮かんでいた。
草木の広がる一帯が眺望出来る。金の稲穂が大地を綾にと縫い取り、茫漠と広がっている。丘の麓に並んでいるのは、茅葺き屋根の人家だろうか。和装の女性たちが井戸端に集まりお喋りに興じている。空は果てしなく広がり、曇り一つ無い青に染まっていた。視界がどこまでも抜けて行く。このまま青の彼方に吸い込まれてしまいそうな錯覚さえ覚えた。
今では消え失せてしまった、古き良き田舎を思わせる風景だ。どこかにありそうで、その実、どこにも在りはしない幻想の故郷。日本の原風景の最大公約数と言えようか。
「ここが幻想郷よ」
メリーの声が聞こえた。いつの間にか彼女の姿は消え、声だけが偏在して私の耳に届いている。
また見下ろせば、手に木の枝を持った子供達が駆け回っている。村はずれの小屋では、台座のような帽子を被った少女が子供たちに漢文を教えていた。あちらこちらの屋根から竈の煙が立ち上り、穀類の良い匂いを運んでくる。
「意外と人がいるのね」
「それほど多くもないけれどね。人だけじゃなく、妖怪も結構いるわよ。本当に偶にだけど、一緒に暮らしている場合もあるわ」
「メリーはどうしてるの?」
「家族とのんびり暮らしてるわ。外に出るのも億劫になっちゃってね。それに、里を離れて暮らしている場合も多いのよ。ほら、あんな風に」
声に従って目を転じる。
霧に覆われた湖に浮かぶ西洋館は、華美な装飾を凝らしたゴシック様式だ。メイド服の少女たちが忙しそうに走り回る中、銀髪の少女がてきぱきと指示を出している。仕事ぶりだけで有能かつ瀟洒であることが見て取れる。あの歳でたいしたものだ。
大きな建築物は西洋館だけではない。竹林の和風建築、幻のように浮かび上がる楼閣と、立派で古風な建物が点在しているようだ。
大小取り合わせて見てゆく中で、一際高い山上の神社が目を惹いた。鳥居と境内は古びてはながら見窄らしさを感じさせない。むしろ、長い年月に耐えてきた風格のようなものがあった。社務所の縁側で、巫女らしき少女が湯呑みを手にして魔女めいた娘と談笑している。微笑ましい景色だった。
「懐かしい風景ね。まるで、私たちが何処かに置いてきてしまったような」
「ええ。蓮子の世界で失われたもの、忘れ去られたものが最後に辿り着く場所。画家が幻視し、詩人が記してきたもう一つの世界ね。妖怪も居るし、人も居る。迷い込んだ、神隠された人も少なくないわ」
「あなたみたいに」
「私のように」
大気が歪み、メリーの姿をとった。金髪をリボンで飾り、大きな日除け傘を手にしている。少しドレスアップしてきたようだ。
「家事に仕事に生活に追われることは無い。望めばしがらみに絡みとられることもない。一部の人にとっては
「あら、蓮子はそう思うの?」
メリーが日傘をくるくると回しながら軽く問う。微笑みを浮かべてはいるものの、その蒼い瞳は笑っていない。
「まさか。確かに夢の世界かもしれない。でもね、夢には夢の理があるわ。現の理とどちらが良いかなんて、誰にも決められないわよ。幻想と現実は異なる構成原理を持つもの。故にその価値は比較不能。そうじゃない?」
問いかける私に、メリーは静かに頷いた。
「そうよ。幻想郷は理想郷じゃない。いえ、理想郷など何処にもない。この世界はまさしく全てを受け入れる。夢も希望も、過去も未来も、無論、罪も罰も――真善美では立ちゆかぬ、残酷無惨な御伽噺の國よ。でも――」
メリーは言葉を切って眼下を見渡す。その表情は、見たこともないほどに穏やかだった。慈愛に満ちていると言える程だった。
沈黙した。私はあえて先を促す。
「でも?」
「――生きていて楽しい世界ではあるわね」
そう言ってメリーは笑った。極上の微笑みだった。聖母の微笑とは、このようなものなのかもしれない。私にすらこんな表情を見せたことはなかった。少し嫉妬してしまう。
「そっか。メリー、好きなんだ」
「ええ、大好き。だから蓮子には幻想郷を見て貰いたかったの。私が愛する、私たちが暮らしている境界のこちら側を」
言葉が途切れ、沈黙が降りた。
メリーも私も、何を口にするでもなく、ただ幻想郷を眺め続けていた。
数分は黙っていただろうか。もしかすると一時間か二時間かもしれない。
「……それで、続きは?」
「え?」
メリーはきょとんとし、すぐに表情を緩めた。まいったなあ、と言いたそうな様子だった。
何か言い出しかねているのは解っていた。変な所で遠慮してしまうのは昔からだ。言い辛いなら、私から話を振るのが相方の務めというものだろう。
「あーあ、やっぱり蓮子に隠し事は出来ないのね」
「昔からそうでしょ。メリーは嘘はつけない、隠し事は出来ないんだから、素直に言えばいいのよ」
「韜晦は蓮子の専門分野だものね」
口元を隠し、メリーがくすりと笑う。柔らかな笑みをたたえたまま、言葉を続けた。
「蓮子、幻想郷に来ない?」
「そうねえ、さっきから考えていたのだけれど」
「ちょっと待ってよ、蓮子」
「さっきからって何よ。それに、驚かないのね。唐突な提案だと思うけれど」
「予想してたもの。メリー、この世界大好きみたいだしね。だけど――」
「だけど?」
「そんなこと出来るの?」
京都から東京に行くのとはわけが違うように思うのだが。だが、そんな気持ちをよそに、メリーはあっさり頷いた。
「今の私なら、簡単に出来るわ。彼方と此方の境を超えることも、あなたを幻想郷に連れてくることも」
「意外に簡単なんだ」
「ええ、本当に簡単。望むなら、それこそずっと一緒にいることも出来るわ。私と、私の家族達と蓮子と、此方と彼方の狭間に永遠にたゆたう暮らしをね」
「魅力的な提案ね」
「そう思うなら教えて、蓮子。あなたの考えを。答えて、あなたの思いを」
笑みが消えていた。
蒼い瞳が私を見つめていた。
私は――
7
「やめておくわ」
あっさりとそう答えた。我ながらあっけないと思うほどの速さだった。
「そっか。蓮子ならそう言うわよね」
メリーの答えもあっさりしたものだった。私がどう出るか、半ば以上予期していたのだろう。
「あちらの世界に未練があるの?」
「未練とは違うかな。そりゃ、何かと面倒ではあるわよ。毎日が日曜日とはいかない。浮世は憂き世だもの。やるべきことは山積みで、考えるべきことは幾らでもあり、日々はただ無為に過ぎていくようにすら思える」
「……だからこそ、蓮子は」
「ええ。その気になれば意外と世界は楽しいものよ」
「面白き こともなき世を おもしろく――だったかしら」
私の答えに、メリーは句を諳んじる。
「高杉晋作ね」
「奇兵隊好きなのよ」.
じゃあ、と。メリーはどこか挑発的な笑みを浮かべた。
「最近何か、とびきり楽しいことはあったかしら?」
「メリーに会えたじゃない」
ずばりと言い切る。
案の定、大きな瞳を瞬かせてきょとんとしていた。
ストレートな切り込みは今も昔もメリーの専売特許だ。たまには真似しても罰は当たらないだろう。
「切り返しが上手くなったわねえ」
「十年前と同じと思っちゃダメよ」
「それもそうね」
ひとしきりくすくすと笑いあい、私は背筋を伸ばした。体がいつになく軽い。懐かしい親友とのおしゃべりは、矢張りいいものだ。
「それじゃあ、そろそろ戻るわ。会えて嬉しかった」
「あ、ちょっと待って。藍が渡すものがあるみたい」
「藍?」
「さっき会ったじゃない」
「ああ、あの狐さんね」
「何かと頼りになるのよ。掃除洗濯料理もしてくれるし。藍、ちょっと来て」
「承知いたしました」
メリーが呼びかけると、扉を開いてひょっこりと狐が顔を出した。一跳ねして口にくわえていた何かをテーブルに置くと、軽く頭を下げる。私も挨拶を返した。礼儀正しい狐だ。
「どうぞ、こちらを」
「あら、ありがとう」
狐はメリーに寄り添いながら、テーブルから私の帽子を取って渡してくれる。矢張りこの階に迷い込んでいたのか。
帽子をはたくと、もうもうと埃が舞い散った。長い間放っておいたかのようだ。ここでは時間が無意味なのだと、今更ながら納得する。
「まだ、その帽子使ってるのね」
「そりゃあね。あなたが残していったんだもの。大事にしてるわよ。あ、そうだ」
ちょっとしたことを思いつき、私は帽子を持ち替えたところ
「せっかくだし、この帽子を」
「私だと思って――なんて云わないでよ、蓮子」
絶妙のタイミングで言葉を挟んできた。
たまには感傷的なのも良いかと思ったというのに。こうなっては意地を張るしかないではないか。
「言わないわ。そんな感傷的なのは、私には似合わない」
「そうそう、蓮子はそうやって強がってなきゃ。それにね――」
メリーは言葉を切る。
「それに?」
胸に手を当て
「私は幻視の人間、マエリベリー・ハーン。私は境界の妖怪、八雲紫。朝と夜の、彼方と此方の、真実と虚実の、全ての端境こそが私の在るべき場所。だから、いつでも会えるわ。私がそう願うなら。あなたがそう望むなら」
そう言って、メリーは笑った。
十年前と、大学の頃と何一つ変わらなかった。
――もう、限界だ。
堪えていた諸々の感情が溢れ出る。
目薬を大量に差した時のように視界が歪み、メリーの姿がぼやけてしまう。
慌ててそっぽを向いた。我ながら素直ではないが、こればかりは仕方ない。
「あら? もしかして泣いてるの?」
「……何のことかしら」
平静を装ったつもりだが、どこまで実行できているかは大変に怪しい。声は揺れているだろうし、睫毛は濡れているだろう。
何とも、恥ずかしい。
「蓮子も涙脆くなったわねえ」
「目から汗が出たの。私、特異体質だから」
「面倒な体質だこと」
そういうメリーの声も湿っていた。
顔を背けているせいでその姿は見えない。だが、親友の声の調子を判別するくらい簡単だ。
「メリーこそ鼻声じゃない」
「花粉のせいよ。幻想郷に花粉症はないけど」
「何の花粉?」
「蓮の花粉ね」
「人騒がせな蓮ね」
「お互い様だけどね」
声を合わせて笑う。
懐かしかった。たまらないほど慕わしい世界がそこにあった。
「……それじゃ、そろそろ行くわ」
「名残惜しいけど、仕方ないわね」
「惜しくないわよ。いつでも会える、でしょ」
「……ええ、そうね」
「そうよ。ところで、出口はどこ?」
「はいはい、今出すわ」
メリーが手を振ると、非常口が魔法のように現れた。見事なものだ。
「ありがと。それじゃ、さよな……」
お別れを言いかけた私の唇を、メリーの指先が塞ぐ。細い人差し指はやはりほのかに暖かく、気持ち良かった。
「違うでしょ」
「そうだったわね。じゃあ……」
すうと息を吸う。
「またね、メリー」
「ええ。また会いましょう、蓮子」
メリーはまた笑った。
それは、今まで見たこともない、これから見ることもないであろう最高の笑みだった。もしも、私が何も彼も失うことがあっても、この時のメリーを忘れることだけはないだろう。
さあ、未練の時間は終わりだ。
手を振り、くるりと背を向け、非常口の把手を掴む。
隙間から、私が住まう世界が僅かに覗いている。
帰るとしよう。
ぎいと扉を押して開くと、眩しい光が私を包んで――
陽光が優しく眼を覆った。
瞼を開くと、空には太陽、地には林立するビルの群れ。研究棟はすぐ先だ。
冬の大学。この世界での、私の居場所。
寒空の中、私は目を瞬かせて伸びをする。しつこくつきまとい続けていた、眼の、肩の、胃の重さが嘘のように消えていた。
もう悩まされることも、夢を見ることもないだろう。そう確信し、私は研究棟へと歩き出す。アスファルトに跳ね返る足音、風の音、人々のざわめき。その全てが心地良く、明るく美しい。
おはようございますと、道行く生徒が頭を下げてくる。
おはようと挨拶を返しながら、私は手中の帽子をかぶって空を見上げる。
青い空。
白い雲。
緑の草木。
彼方に隣接した、此方の世界。
今ならば解る。幻想の郷は遙かに遠く、そして何よりも近い。
だから、私は彼方を見つめ、あなたに呼びかける。全ての狭間に居るなら、境界の間に在るなら、この声が届くとそう信じて。
メリー。
(了)
弱いんですよ私こういうの
「天上」は誤字でしょうか?
ぁぁ・・・いろいろと考え方があるんだなと思わされました
この言葉に負けた。悔しいが完敗である。よって、乾杯!
本気で泣きそうになったのは久しぶりです
ありがとうございました
これでメリーと蓮子は会えるのかな……?
ほんと久々に時間を忘れて読み入ってしまった気がする
これは良い秘封ですね。
時の流れで色褪せてしまった秘封倶楽部の過去が、メリーとの再会で瑞々しく蘇っていく
様は素晴らしいですね。
この先どんな辛いことがあっても、この思い出と真実があるのならきっと蓮子は大丈夫。
見えないけど確かに存在する、遠くて近い、かつてのパートナーの愛する世界・・・良作を
読めて良かったです。
文字というのは風景を描写するのに基本的に不向きであるはずなのですが、
このSSはそんなことを微塵たりとも感じさせません。
読者の予想通りに話が流れているのに、書き方だけで読者の想像の上を行っています。
最終段落では思わず涙腺が緩みました。ありがとうございました。