*この作品は作品集38「レミリア様にお豆をぶつけ大会」の設定を流用しています。
多分読んでなくてもあまり問題ないので、未読の方も特に読み直しに行くことは無いと思います。
人里の寺子屋の様子はいつもと違っていた。
机に座る十数名の生徒達の前に立っているのは、よく見慣れた寺子屋の師、上白沢慧音。
そしてその隣には見慣れない女性が立っている。
「彼女にはしばらくここで私の手伝いをしてもらうことになった」
女性がにっこりと微笑んだ。しかし生徒達はまだどことなくオドオドとしている。
「お前達の中にも、実は彼女の世話になったことのある者がいるかもしれない」
生徒達が顔を見合わせ、ぼつぼつと言葉を交わしては首を傾げたり、横に振ったりしている。
「見覚えがない」などと話しているのだろう。
「皆の家に置き薬はあるな?」
「ありまーす」
「あるー」
「ウサギが持ってくるやつだよね?」
「そう、その薬は全て彼女が作ったものだ。だが彼女は薬学、医学のみならず様々な知識を持っている。
それを生かしてここで働いてもらうことになった。では自己紹介を」
「ええ……皆さんはじめまして」
女性が慧音と目を見合わせ、一歩前に出て挨拶をした。
「はじめましてー」と、生徒達の元気な返事が響く。
それを聞いて女性はもう一度微笑んでから続けた。
「私は八意永琳、先ほど上白沢先生から紹介があったように、皆の家にある薬は私が作ったものよ」
「あれすげーんだぜ! 爺ちゃんのハゲが治ったんだ!! えっと、名前はなんだったかな……」
「モサモサGのことね?」
育毛剤まで配っていたらしい。それにしてももう少しマシな名前は無かったのか。
簡単な自己紹介だけを済ませて永琳が元の位置に下がると、慧音は一つ頷いて再び前に出た。
「まぁ、詳しいことは追々わかると思う。とりあえずはこんなところだ。
それほど長い間働いてもらうわけではないが、しっかり言うことを聞いて勉強するんだぞ」
「はいはい」
「へーい」
勉強の話になると生徒達の態度が一変した、やる気はあまり無いらしい。
それを見て慧音は眉をひそめた、永琳も真顔になっている。
程なくして授業は開始された。
永琳にもっとしっかりとした自己紹介をさせても良かったのだが、
本人はあまりそういったことを話したがらないし、授業時間が減ってしまうのも好ましくない。
授業中のふれあいで自然にいろいろとわかり合うだろうし、無理矢理時間を割くこともなかろう。
ということで、慧音は自己紹介を手短にさせたのだ。
「では最初に先週出した宿題を回収する、席が後ろの者から集めて持ってきてくれ」
宿題が集められる様子を腕組みして眺めていると、三分の一ほどの生徒が忘れてきたようだ。
慧音の表情が見る見る曇っていく。
「これはどうしたことだ。先週あれだけ口を酸っぱくして、忘れるなと言ったのに」
宿題を忘れてきた生徒達はばつが悪そうに視線をそらしている。
ちゃんとやってきた生徒も、居心地悪そうに背筋を丸めている。
「忘れてきた者、前に並べ」
生徒達は、威圧的に見下ろす慧音の前にしぶしぶと並び出た。
その誰もが「頭突きは勘弁してください」と思っているのかどうか。
そんな生徒達を前に、慧音は静かな調子で語り始めた。
永琳は何も言わず、その様子を横で眺めている。
「良いか? 宿題をやってくる、ということは、学力向上のためだけに留まらず、
約束を守るということや責任感を養う意味合いもある。それは信頼関係を築く上で極めて重要なことだ。
つまりお前達が宿題を忘れるということは、私に対する小さな裏切りでもある」
慧音がそっと帽子を脱いだ。
それを見て、並んでいる生徒だけでなく机に座っている生徒達も青ざめ、震え始めた。
慧音が帽子を脱ぐという行為は、ボクサーがグローブを外す行為に似る。
あの銀閣帽子は弾幕戦の最中でも吹き飛ばないほど強固に固定されているのだ。
それを脱いで放つ頭突き……それすなわち、かぶったままやったら帽子が吹っ飛んでしまうことを意味する。
以前帽子の固定方法について尋ねた生徒が居たが「原子間力」だの、妙に難しい言葉が出てきて理解できなかったそうだ。
痛さの度合いで言えば、帽子をかぶった状態の頭突きが一番優しい、イージー頭突きだ。
もちろん一番痛いのはワーハクタク時の角頭突き、生徒達の間では『EX頭突き』と呼ばれている。
帽子を脱いだ状態はその次に痛い、通称『ルナティック頭突き』だ。
ちなみにEX頭突きは生徒に対して使用されたことはほとんどない。
そもそも夜空に満月が出る時間まで授業をやることは無いし、満月の日は慧音先生が殺気立っているので定休日だ。
主に、運悪く満月の夜に里の周辺を飛び回ってしまった妖怪が餌食になる。
「先生……っ!! ごめんなさい、もう忘れません、忘れませんから、帽子を……っ!!」
「ダメだ」
直後、教室に鈍い音が響いた。
ワンテンポ遅れて生徒の悲鳴が上がる。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
最初の犠牲になった生徒が湯気の上がる額を抑え、倒れこみ、もんどりうつ。
生徒達は皆目に涙を浮かべていた。机に座る生徒は耳を押さえ、うつむいて震えている。
宿題を忘れて前に並ばせられている生徒達は、
『こんなにたくさんの人数が忘れなければ、イージー頭突きで済んだのに』
と、互いに涙目で睨み合っている。
そして次の生徒の頭に慧音の手が掛かった。
触れられた生徒は一度だけ跳ねてから、そのまま恐怖で動けなくなった。
「もうだめだ」生徒達がそう思ったとき……。
「やめなさい、なんて教育をしているの?」
「……?」
それまで静観していた永琳が突如口を開いた。
そして生徒の頭から慧音の手を振り解き、両腕を広げてその前に立つ。
「何のつもりだ、八意先生。これだけの人数が宿題を忘れるのは事だぞ。しっかり反省させなければいけないんだ」
「宿題を忘れるのは確かにいけないことだわ、上白沢先生。けれど、貴女の頭突きは痛すぎるのよ、脳細胞が死滅するわ」
永琳も食らったことがあった。ルナティックではなくEXだったが。
「可哀想に……」
未だもんどりうっている生徒を抱きかかえ、永琳がその額に手を当てる。
「え、永琳先生……痛いよ……助けて……ッ!!」
「今治してあげるわ……痛いの痛いの飛んでいけ~」
「バカな、そんな子供だましを……」
しかし直後に慧音の表情が凍りついた。
それまで苦悶に満ちていた生徒の顔が、まるで母の胸に抱かれているかのように安らいだのだ。
「永琳先生、ありがとう……」
「もう宿題を忘れてはダメよ?」
「はい……」
「なっ……?」
その様子を見ていた他の宿題忘れの生徒の表情が変わる。
そして皆慧音の周りに群がり、姿勢正しく気をつけをして声高に叫んだ。
「先生! 僕達先生を裏切りました! 頭突きしてください!!」
「な、な……」
「さあ先生早く!! 目の前に星がチラつくぐらい思いっきり!! 僕達の罪は重いんです!!」
慧音の生徒は大体が五~十歳程度の少年少女ばかりだった。
宿題を忘れたのは皆男子、女子はきちんと宿題をやってきたので机に座っている。
こいつら、まだこんな歳なのにもう色気づいているのか。
生徒達から見え隠れする変態の片鱗、慧音は目眩を覚える。
「ば、バカなことを言うな! 喜んでは罰の意味が無い!!」
「慧音先生の頭突きはものすごく痛いです、最悪です、嫌です!!」
「だから早く! 早く頭突きしてくれないと、僕達悪い子に育ってしまう!!」
机に座る女子達が慧音に哀れみの視線を向ける。
慧音はどうして良いかわからなかった。せめて満月の夜ならば、本気で嫌がる頭突きになるのだが……。
じりじりとにじり寄る生徒達、ついに慧音は教室の隅まで追い詰められた。
「先生……僕達に愛の鞭を!!」
「う、うぅ……うぁぁぁぁっ!! こうなったらヤケだ! まとめてかかってこい!!」
「やめなさい! 上白沢先生!! ドクターストップよ!!」
「永琳先生! いいんです! 僕達は罪を受けて然るべきなんです!!」
「あ、貴方達……」
「さぁ慧音せんせ……ぐはぁぁぁ痛ぁぁぁぁぁっ!!」
「ふーっ! ふしゅーっ! 次は誰だ!! 渾身の一撃をお見舞いしてやるぞ!!」
慧音は群がる生徒達をちぎっては投げちぎっては投げ……。
その脇では永琳の「痛いのとんでけ」療法により、主に生徒の心が癒された。
「何故こんなことに……ッ!!」
慧音は教室の隣にある教員室で机に拳を叩きつけて憤っていた。
此度、何故永琳が慧音の寺子屋で働くことになったかと言えば、慧音の能力を見込んでの頼みごとだった。
以前、永琳は頼みごとを聞いてもらうかわりに寺子屋での臨時教師をする約束をした。
しかしいくつかの事情があってそれを反故にしてしまったのだ。
それで怒り狂った慧音は永琳の持つ歴史を改ざんして、変なステータスをつけると言う報復を行った。
永琳にとって最も大きなダメージは「ウサ耳フェチ」という不名誉な属性だった。
永遠亭はウサギだらけであり、もちろん耳はウサ耳……その中にウサ耳フェチが居るとあっては穏やかでない。
リーダー格であるてゐから冷めた目で見られ、下っ端のウサギからは豆鉄砲で尻を狙撃される嫌がらせを受け……。
鈴仙もなんだか様子がおかしくなってしまった、どうも視線が痛い。気になる。
そこで永琳は「今度こそ約束を守るから」と慧音に頼み込み、特別に臨時教師として採用してもらったのだ。
慧音はその見返りとして、改ざんした歴史の修正をすることになっている。
「……むぅ……」
戸の隙間から教室を覗くと、永琳は上手に授業をこなしているようだ。
特に間違ったことはしていない、授業方針は慧音と随分と違うようだが……。
永琳が授業を受け持ってくれている間に歴史の編纂を行えば、満月の日の仕事が減る。
そうすれば満月の時期も優しい慧音先生で居られる……。
と、その程度の考えで臨時教師をやらせてみたが、いざ自分より人気が出てしまうとなんだか複雑である。
数人の生徒を血祭りに上げた額を撫でると、少しヒリヒリした。思いっきりやりすぎたか。
(だが、ちゃんとしかってやるのも愛情だ……)
自分の教育方針に投げかけられた疑問。もっと優しくしてやるべきなのだろうか。
これでは歴史の編纂どころではない、慧音は頭をくしゃくしゃとかきむしった。
「永琳先生! わかりませーん!」
「僕もー!」
「はいはい、今行くわ」
優しく教えてくれる永琳先生、別に慧音先生も教え方が怖いわけではないのだが、説明が回りくどくてわかりにくい。
永琳先生は引っ張りだこだった、最初は警戒していた女子達も徐々に永琳先生に馴染んでいった。
「永琳先生お肌スベスベー!」
「ふふふ、コラーゲンたっぷりよ。後で八意式美容法も教えてあげるわ」
「わあい!」
十歳にも満たないような少女に美容も何も無いような気もするが、それでも容姿を気にかけるものらしい。
永琳先生は男心も女心も鷲掴み、慧音先生は教員室からそれを覗いて歯噛みしていた。
(美容法なんかいいから授業をやれ……!!)
しかし、真面目な話ばかりするよりもこういった雑談も絡めた方が授業の効率は良いらしい。
不意に授業に関係ない単語が飛び出すと、生徒達はハッとして教師の言葉を傾聴するものである。
それが最終的に授業内容に結びつけばなお良い、面白い話と共に知識が記憶されるからだ。
もちろん、生徒達の性格と場所の問題も絡むが、少なくともこの寺子屋の生徒には有効な方法だろう。
悔しいが永琳の授業方法からは学ぶべきことも多い、慧音は素直に敗北を認めた。
肩を落として机へ戻る、大量の史料をまとめなければならない。そのために永琳を呼んだのだから。
「ふふふ……」
そんな慧音の様子に永琳は気付いていた。
部屋の奥に引っ込んで、しょんぼりと戸を閉めた慧音を見てほくそ笑む。
(また変なステータスをつけられたら嫌ですものね……正攻法で貴女のプライドを傷つけてあげるわ)
ふと尻に手を当てる。
節分用に作った自作の豆鉄砲はいまや下っ端ウサギ達の玩具と成り果てている、しかもその的は永琳の尻だけだ。
あれは本当に痛い、この痛みは悔しがる慧音を見ることでしか癒されない。
永琳だって本当は人に教えたことなどほとんど無かった。
だから紅魔館の魔法図書館に侵入し『デキる教師のバイブル』という本をちょっぱってきたのだ。
後で『著者・八雲紫』という事実に気付いてイラッとしたが、あの本は存外に役立った。
「先生?」
「あら、ごめんなさい……えっと、ここはね……」
永琳の目標は、ここを去るときに生徒の半数以上を涙させること。
それで復讐は完了だ。
陰湿だった。
大量にあった史料の一角をなんとか切り崩し、慧音は椅子に座って虚空を眺めていた。
あの後も永琳は失態一つ出さず、慧音の助言など無くとも上手に授業をしている。
(学ばなければいけないのは私の方だったというのだろうか)
永琳は完璧すぎる、まさにパーフェクト永琳先生だ。
それがまさか紫の著書によるものだと慧音は知る由も無いが、紫には教師の才能があったのだろうか。
意外と、藍はかなり幼い状態で紫に捕まっていたのかもしれない。
そして紫は幼い藍を理想の式とするべく、手取り足取りいろんなことを教えたのかもしれない。真相は闇の中だ。
なのに想像が変な方向にばかり向く、紫は禍々しすぎると思う。
さておき、多少減ったとはいえ慧音の目の前にはまだまだ大量の史料がある、しかしそれを片付ける気には到底なれなかった。
だらしなく椅子にもたれかかり、窓から差し込む西日でチラチラと光る埃を目で追った。
たまに息を吹きかけて舞い上げてみたり……その様子は茫然自失を絵に描いたよう、まるで活力が無い。
しかしそんな折、隣の部屋、つまり教室が騒がしくなった。
ついに永琳がボロを出したのだろうか。そうであってほしいような、そうであってほしくないような……。
慧音は一瞬自分の心に芽生えた卑しい感情を否定するように、首をぶるぶると振ってから教室へ急いだ。
「どうし……」
戸を開き、言いかけて止まった、騒がしくなった原因はすぐにわかった。
「狐だー!」
「狐狐!」
「どうしたのかしら? 授業妨害?」
「いや、ちょっとここのワーハクタクに用が……あ、いたいた」
「なんだ……?」
そこに居たのは八雲藍だった。
生徒達は怖がっているというよりも面白がっているように見える。
藍の腕には買い物籠がぶら下がっており、人里に食料でも買い求めにきたのであろうことが予想できた。
寺子屋に入ってくることは今まで無かったが、藍は人里で暴れたりもしないし、
今日のように買い物に来ることもそれほど珍しくない。
親しまれているというほどではないが、里の人間に警戒されていなかった。
「随分堂々と人里に現れるのね、退治されたいのかしら?」
「いや、そういうつもりじゃない。それに人里には結構足を運んでいる、お前の方が珍しいよ」
永琳がもっとも警戒心をむき出しにしていたが、生徒達の様子から見ても藍の言うことは本当なのだろう。
まるで教室に犬や猫が入り込んできたときのような態度、変に興奮して喜んでいる。
そして自分の寺子屋で、ただでさえ見慣れない永琳が授業をしているところに藍が来て、慧音は呆気に取られていた。
「すまん、本当に何も危害は加えないよ。気にせず続けて頂戴」
「ええ……手短にお願いね」
「ああ」
少時、永琳と言葉を交わした後に藍は慧音の方に歩いてきた。
「な、なんだ……?」
「いや、うちの式神を知らないかと思って。そろそろ主が目を覚ますのよ……身だしなみを整えて、ちゃんと挨拶させないと」
「ああ、あの化け猫か。最近この辺をうろついてるな、迷惑だし、連れて帰ってもらえればありがたい」
前回の満月の夜にEX頭突きで追っ払ったのは黙っておくことにした。
そうとも知らず、藍は苦笑いして頭をかいている。
「そう……まったく、あいつはすぐどこかに行ってしまうんだよなぁ」
「とりあえず教員室に入ってもらおうか、生徒達の気が散るようだ」
「ごめんごめん」
未だきゃあきゃあと騒がしい教室、永琳は二人に困ったような視線を送っている。
それを見ると、この短期間で寺子屋を乗っ取られてしまったようで、慧音はあまり良い気分がしなかった。
そして藍の手を引いて慧音が教員室へ入ろうとしたとき、一人の生徒が駆け寄ってきた。
「慧音先生ー、永琳先生忙しくてなかなか問題教えてくれないんだ」
「ん? どれ、どの問題だ?」
まだ慧音を支持する生徒も居たらしい、思わず顔をほころばせて、生徒が手に持つ問題用紙に顔を近づける。
藍も興味深そうにそれを覗き込み、耳をぴくりと動かした。
「ああ、これは……」
「お、算術を教えているのね、感心感心」
「狐でもわかるの?」
「ああわかるよ、こう見えても計算は得意なのさ。ふんふん、掛け算か」
「これは、こ、こ……」
生徒の興味が藍に行ってしまって、慧音はそれ以上言葉を発することができなくなってしまった。
思わず泣きそうな表情になる、いくら大物妖怪の式神とはいえ、一般に頭が悪い者が多い妖獣にお株を奪われてしまうのだろうか……。
「3×4か……ふふ」
「どうしたの? 狐もわかんないんでしょ?」
「いいや、わかるよ、これはな……」
こんな簡単な計算ができない、そんな幼さが可愛らしくて、藍はついつい微笑んでしまった。
「そうだなぁ、何か好きな食べ物はあるか?」
「え? おにぎり」
「よし、それじゃ……おにぎりを毎日3つ、4日間食べたら合計何個かな?」
「えっと……」
生徒は指を咥えて少し考えた後、藍の目を見て答える。
「12個」
「そう、12だ。この問題も同じことだよ、わかりにくかったらまず好きな物に例えて慣れると良い」
「あ、そっかー!」
「利口だな、その調子で頑張るんだぞ」
もう一度微笑んで生徒の頭を撫でる、生徒は満面の笑みを浮かべて自分の席へ戻って行った。
しかし和やかな雰囲気のはずなのに、藍の背筋に悪寒が走った。
振り返ると、慧音がわなわなと震えている。
「こ、こ、こ……」
「なんだ、どうした……?」
「な、中に入って……」
「え? ええ……」
藍に悪意は無いし、罪も無い。
しかし状況が悪かった、神経質になっている慧音にこの仕打ちは厳しい。
そしてこの一部始終も永琳先生はしっかり見ていた。
月の地獄耳で会話も全て拾っている。生徒に優しく勉強を教える永琳先生の目は妖しく輝いていた。
藍は教員室に招かれ、慧音の出した茶を一緒に啜りながら話していた。
「そうか、山の方に行ってるとばかり思ったんだけど」
「まだ寒いからだろう。人家に忍び込んでコタツを占拠、時には住民を引っかいたり、やりたい放題だ」
「うーん……返り討ちにされるからあまり暴れないように言ってるんだけどなぁ」
「水をかけられたり、マタタビ漬けにされた後いじめられたりと、見ていて哀れだ。早く連れ帰ってくれ」
あまり人間が恨みを買うと危険なので、いつも慧音が橙いじめの現場に急行する。
そして人間の代わりに頭突きで追い払うのだ。だがやはりそれも隠しておくことにした。
「やっぱり式も憑け直しか、もう~……」
「報復なんか考えるなよ」
「わかってるよ、人里で暴れたのはこちらの落ち度だ。
悔しいとは思うけど……そんな勝手な理由で暴れたら、今度は私が上に叱られるんだ」
紫の傘はとても痛い。
人里で暴れたら霊夢も来るかもしれない、お払い棒も痛い。想像すると恐怖のあまり尻尾の毛が逆立つ。
なんとなく気まずくなって、二人は無言で茶を啜る。
飲み干してしまうとまた手持ち無沙汰になるので、慧音は唇の先だけでちびちびと茶を含んだ。
不意に、そんな静寂に救いの手を差し伸べるように戸が叩かれ、永琳が顔を出す。
「ごめんなさい、ちょっといいかしら?」
「どうした?」
「私だけだと手が足りなくて……ふふ、まだまだ未熟で、ごめんなさいね」
「いや……そうか、今行く」
湯飲みを片手に藍と目を見合わせた。藍は今が帰り時かと思い、少し腰を浮かせる。
慧音はそんな藍を見つつ、やはり永琳はまだ新米、自分の手を借りなければ上手くやれないのだろう、と少し気分が良い。
しかし慧音と藍が同時に立ち上がったとき、永琳の口から、両者の行動を阻害する言葉が吐き出された。
「あ、上白沢先生は史料の編集でお忙しそうですから……」
「え?」
慧音が手にしているのは湯のみだ。どうすればそうなるのか。
「そこな狐さん、教えるの上手みたいですし、お時間あれば少し手伝いしていただけないかしら」
「え? 私か?」
買い物籠に伸ばした手が止まる。
これからすることと言えば自分の夕食作りぐらいだ、藍にこれと言った用事は無い。
紫が目を覚ますことがあっても深夜帯から早朝にかけてだし、こちらも心配あるまい。
そしてここに来て、ついに慧音は永琳の陰湿な嫌がらせのにおいを嗅ぎつけた。
なるほど、あえて正攻法で追い詰めることで、反撃の理由を与えないつもりか。
永琳は生真面目な慧音が筋の通らない復讐をするはずはない、と踏んでいるのだ。
そして事実、慧音は性格的にそういうことはしない。
慧音は目を細め、こめかみに血管を浮き立たせながら永琳を睨み付けている。
方や永琳はわざとらしく「はて?」と言った表情でその視線を受け流している。
飲まれたら負け……慧音は顔を引きつらせながらも、無理矢理笑顔を作った。
「そ、そうだな……片付けなければいけない史料はまだこんなにあるし、ここは一つ頼まれてもらおうか」
「ん~? そうね……橙が迷惑かけたみたいだし、少し罪滅ぼししていくか」
「助かるわ~」
永琳は藍の手を引いて再び教室へと消えていく。
慧音はその背中を見送ってから、大きな音を立てて忌々しげに椅子に座った。
そして目の前に積み重なる史料の山がまた、慧音の神経を逆撫でした。
ヤケになって史料を片付けているうちにすっかり日が暮れてしまった。
授業も既に終わり、永琳や藍も帰った、もちろん生徒達も居ない。
(作業をしていると気が紛れるな)
しかしちゃんとまとめられたのだろうか、集中力を欠いていた可能性もある。
一度ざっと見直す必要があるだろう、これではあまり意味が無い。
「ああもう、嫌だ嫌だ。今日は一杯やってさっさと寝よう」
「付き合うよ」
「むっ?」
いつの間にか藤原妹紅が入り込んでいた、まるで気配がなかったので慧音は酷く狼狽する。
妹紅は、態度こそあまり良くないものの里の人間には好意的で、竹林で迷った者を幾度も助けていた。
その度に慧音の元にやってきて注意を促す、里の管理をしている者に直接告げれば良いのに、どうもそれは嫌らしい。
慧音もときどき竹林周辺を見回っていたりして、妹紅とは顔なじみだ。
「もうそろそろ筍の季節だからかな、どうも迷い人が多い」
「そうか、そんな時期だな」
「素人が来て無事帰れるような竹林じゃないんだ、また言い聞かせておいてやってよ」
「わかった」
妹紅はどかっと座り込み、コップを受け取ってそれに酌を受ける。
丁度里の人間を送り届けた後だったのか、もんぺの端々に少し泥がついていた。
「だらしないぞ、ほら」
「ん」
慧音は、妹紅の長い髪の毛に絡まっていた笹の葉をつまんでゴミ箱に捨てた。
妹紅は照れもせずに、注いでもらったばかりの酒に口をつけ、慧音にも返杯する。
「で、何が嫌なの?」
「む……」
「そういえば来る途中に八意を見た。珍しいこともあるもんだよ、それと何か関係あるんじゃないの?」
「……勘が良いな」
自分のことはあまり話さないが、人のことは結構気にするたちらしい。
妹紅はあっという間に一杯目を空け、コップを突き出して二杯目を催促する。
「寺子屋の仕事を手伝ってもらったんだがな」
「ほー」
それから慧音は今日一日の出来事を順序良く説明していった。
時間と共に頬に赤みが差し、口調も愚痴っぽくなっていく、妹紅は終始おとなしく話を聞いていた。
「まぁ、私の授業が面白くない。とは前から耳にしていたけど」
「良薬口に苦し、だろ」
「そう言ってもらえると助かる」
「永遠亭の連中には気をつけた方が良い、直接の害は無いけど、どいつもこいつも腹黒い。
何考えてるかよくわからないし、あんまり信用しすぎない方がいいわよ」
「そうだなぁ、大体同感だよ」
薬を持ってくるウサギ達も、妙に気前が良く口の上手い者。
または無愛想で用事だけ済ませてすぐ帰る者、よくわからない。
「だが八意永琳は別に変なことをしているわけじゃない、望ましいことをしっかりやってるんだ」
「普段はおとなしいみたいだしねあいつ」
だがやるときは容赦無い。満月を隠すなんて大それたことを平然とやってのけた辺りにも度胸の大きさが表れている。
の割りに今回の嫌がらせはせこい気がする。度胸はあっても度量は狭い。
本当に心の中が読めない。
「短い間だけの手伝いだし、居なくなれば元通りにはなるのだろうが……」
「それはどうかな、あいつのことだ……何か爪痕を残していきそうな気がするわ」
妹紅に確たる根拠はないが、そんな気がした。
そして不意に目つきが変わった妹紅を見て、慧音はかすかな怖気を覚えた。
その後も永琳は遅刻も無くきちんと通い、着実に人気を獲得していく。
慧音は初めの内こそ気にかけていたが、永琳がこれといった問題を起こすわけでもない。
元来腰の据わっているほうである、最初は慣れない状況に戸惑ったが慧音はすぐに慣れた。
次第に教室を覗き込むことも無くなり、教員室で歴史の編纂に精を出すようになっていった。
どうせ少し待てば永琳は永遠亭に帰る、生徒の人気を失うのは少々痛いが、それだってじきに取り戻せるだろう。
永琳に授業を任せ、その間に歴史史料を消化する。それこそが当初の目的であり、もっとも建設的な立ち振る舞いだった。
少し冷静になればこれは慧音にとってもありがたい状況なのだ。
しかしそれまでも永琳の計算の内だったとは、慧音には思いもよらなかった。
「永琳先生はすげえや! 成績が上がってまた母ちゃんに誉められたよ!」
「八意式美容法をお母さんにも教えたら、お母さんがどんどん綺麗になっていくの!」
「爺ちゃんだけじゃなく父ちゃんのハゲも治ったよ! 永琳先生はお医者さんとしてもすごいんだね!」
慧音の監視が緩くなったことにより、永琳はさらに積極的に動いて生徒達を虜にしていく。
「永琳先生の授業を受け始めてから、スポーツ万能になったし、彼女もできたし、最高です」
「私は気まぐれで買った宝くじが当たりました。こんなにツイちゃって良いのかなって感じです。強運過ぎてたまに怖くなります」
寺子屋の生徒は少年少女だけのはずなのに、邪悪な何かが混ざっていた。
絶対これ永琳関係ない。
「ふふ、私の力だけではないわ、皆が努力しているからよ」
謙遜も忘れない。
そしてそんな謙虚な永琳には更なる尊敬の眼差しが向けられる。
「それに今まで教えてくれてた上白沢先生の教育がしっかりしてたから、私もやりやすいのよ……」
ここまで言って永琳はにやりとほくそ笑む、なんとも皮肉った言い方だ。
「慧音先生は頭突きばっかりするし、話難しいし、あんまり良くなかったよ!」
「宿題もたくさん出すしさ!」
「永琳先生は教え方が上手いから宿題出す必要なんか無いんだよね!」
もはや永琳は生徒達のカリスマ……神様のようにあがめられていた。
授業をサボりがちだった生徒も永琳の噂を聞いて、一度顔を出してからは真面目に通うようになったり……。
本一冊で随分と人間は変わるものだ。永琳の飲み込みの良さもあったのだろうが、ここまで来ると紫著の本の内容が気になる。
「皆、ダメよ、上白沢先生にそんなこと言っちゃ。あの人はとても真面目で頑張りやさんなんだから」
わざとらしく慧音を弁護する永琳……しかしこうやって諭すことも重要だ。
心の広さを見せることにより、慧音に向けられた嫌悪が丸ごと永琳への好感に変換される。
「でもさー……」
「上白沢先生が初日に言ったように、約束を守るのは大切なことだし……。
まぁ、確かに固いところがあるから授業は難しいかもしれないけど、聞けばちゃんと教えてくれるはずよ」
少し生徒達の意見に同意もしてやる。
あえて異論に共感することは相手の警戒心を解き、仲間意識を芽生えさせるのに有効だ。
諭しておいて共感もする……こうすることで自分の意見も相手に通しやすくなるのだ。
これらの内容は紫の本に書いてあったことの応用だった。
それにしても、紫はそこまでわかっていながらなんであんなに煙たがられているのだろうか。
特に好かれようとしていないのかもしれない。
「よし、三日先の分まで終わったぞ。この調子なら思ったより早く永琳を帰せるかもしれないな」
処理した史料を重ね、トントンと机に打ち付けてまとめる慧音。
隣の教室で永琳によるマインドコントロールが進んでいるとは知る由も無い。
そして永琳にも予想外の変化が起きていた。
数日後、永琳は授業終了後に教員室に呼び出された。
夕日で赤く染まる教員室、永琳は差し出された椅子に座り、慧音と向き合っていた。
「おかげさまで仕事が進んだよ。これだけまとまっていれば満月の夜、すぐに新しい歴史を創ることができる」
永琳の勤務初日にはごちゃごちゃと乱雑に積み重ねられていた史料の山が、綺麗にカテゴリー分けされ、
時系列ごとに並べられていた、机の上もすっきりと片付いている。
「次の満月にはお前の歴史も直しておく」
「ようやくね……」
「随分と生徒達に好かれているようだな」
「そうね……貴重な体験ができたわ」
永琳は誇らしげに胸を張る。しかし今の慧音はそんな永琳を見ても悔しがる素振りもない。
何も恐れるものなどないようにうっすらと不敵な微笑を浮かべている、永琳はそんな慧音を少し不気味に思った。
「まぁ、そういうことでお前の仕事ももう終わりだ、いきなりでは生徒達も戸惑うだろうが、
明日一日で任を解く。最後の仕事だ、気を抜かずにしっかりやってくれ」
「ええ、少し寂しいけれど普段通りにちゃんとやるわ」
寂しいと言うのは嘘ではない。
そうなるようにコントロールしたとはいえ、あれほど好かれて嫌な気分はしない、多少の情も湧く。
慧音があまり悔しがっていないのが少々面白くないが、貴重な体験をできたというのも事実。
そしてウサ耳フェチのみならず、様々な鬱陶しいステータスも消える、これでようやく威厳ある八意永琳に戻れるのだ。
「では、私の話はここまでだ。明日もしっかり頼むぞ」
「わかってるわ」
慧音が椅子を動かして机の方へ向き直ると、永琳も立ち上がり、踵を返して部屋を出た。
慧音の目が妖しく輝いている、口の端が歪んでいる。
これより、慧音の反撃が始まるのだ。
今までずっと無関心を装って、ダメージを軽減すると共に、力と作戦を蓄えていた。
正攻法でやられたことは正攻法で返す。
慧音、いちかばちかの賭けである。
この反撃は己へのダメージも伴う、まさに諸刃の剣だ。
しかしこの寺子屋は慧音のホーム、永琳のアウェー……。
慧音はまだまだ取り返せる、生徒からの人気と信頼を。
翌日……。
『永琳先生さよならパーティー』
「な、なに……!?」
いつもより早く通勤した永琳の目に飛び込んできたのは、きらびやかに装飾された教室。
そして並び替えられた机には料理や飲み物が用意してあった。
壁には生徒達が描いた永琳の似顔絵やらが貼り付けられている。
生徒達に拍手で迎え入れられた永琳は、何が起こったのか理解できずに目を白黒させていた。
「八意先生、今日の授業は中止だ。今日は貴女への感謝を込めて宴会を行う」
「な……朝ご飯は食べてきてしまったわよ!?」
「ふふふ、あれを食べるのは昼だよ。八意先生……今日は真心込めて貴女を送る」
既に涙目になっている生徒もあった。永琳の胸がズキズキと痛む。
慧音も顔色青く、額には脂汗と血管を浮かべていた、その表情には「道連れだ」という意思が宿っている。
永琳の涙腺を必要以上に刺激するお別れパーティー。
だがそれは同時に「永琳がこんなに好かれている」という事実を目の当たりにしなければいけない。
慧音の精神的ダメージも大きい。
「これが本日のプログラムだ、八意先生……」
「……ハッ!?」
慧音が筒状に丸めてある大きな紙を広げ、壁に貼り付ける。
すげえ長かった。
「よ、夜までかかるわこれは!!」
「ああそうだとも、これほど好かれている貴女を適当に送り出したのでは私の気が済まないのでな!!」
「く、くっ……!! あ、ありがとう! 上白沢先生!! そして皆!!」
月の頭脳が驚きと悲しさでショートしている。永琳は変なテンションだった。
そう、情が湧かないはずはない……少年少女の穢れ無き眼差しは、せこかった永琳先生の凍りついた心を融かしていた。
嫌い合っていれば別だが、ここまで仲の良い教師と生徒が別れるとき、悲しくないはずはない。
教師としての歴史では慧音に分がある、そういう悲しさを知っている……そんな慧音が最後に反撃の狼煙を上げた。
最悪なのは永琳が悲しみもせずにさらっと帰ってしまうことだったが、慧音の目論見は上手くいったのだ。
「お願いだから帰らないで!!」
「う、うぅ……っ」
まだ始まって間もないというのに、一人の生徒が大泣きを始めた。
苦しむ永琳を遠くから眺める慧音の表情は邪悪だ。
満月が近くなっていることもあって慧音はハイだった。
今月は満月の夜の仕事が楽だが、これはもはや条件反射、満月の時期の慧音先生はいつだって恐ろしいのだ。
――や、やるじゃないの上白沢慧音!!――
「帰らないでええ!! うわああああん!!」
「あ、ああ……」
「ふふふ、八意先生は人気者だな。羨ましい限りだ」
すがりつく生徒の頭を撫でながら、永琳はギリギリと歯を食いしばる。
「泣け、さあ泣け、ほら泣け」慧音は目でそう訴えている。
――ふふ、まだ宴は始まったばかりだ……ここで終わってしまっては面白くない――
慧音が永琳の元に歩み寄り、泣き喚く生徒の頭をそっと撫でる。
「そう泣くんじゃない。ここから居なくなっても、八意先生はいつだって皆の側に居るんだ」
「本当……?」
「ああ、本当だとも。八意先生は薬へと姿を変えて皆を見守り続けてくれるんだ」
その解釈はどうか。
慧音に詩的なセンスはあまり無いらしい。
「だからあまり泣くんじゃない」
「う、う……うん……」
生徒は変な解釈で納得した。
なんだかんだで慧音は生徒の扱いに慣れているのだろうか。
――あ、頭悪いわ、ここの生徒!!――
永琳はそのやり取りを見て少し引いたので、なんとか平静を取り戻すことができた。
しかしこれは慧音による余裕のアピール、そう、これからが本当の地獄だ。
慧音を貶めようとしておいて生徒に情が移って泣くなど、かっこ悪いにもほどがある。まさに墓穴掘りだ。
永琳は一生慧音にバカにされて生き続けなければいけなくなる、永遠の歴史に塗られる泥……。
『八意先生は涙もろいのだな、ハハハハハハ!!』
腹の底から高笑いを吐き出すハクタク慧音の笑顔が脳裏に浮かぶ。
ダメだ、威厳と神秘的な魅力を兼ね揃えているのが八意永琳なのだ。
だがプログラムを見ると、
『永琳先生へのお礼の言葉』
『永琳先生への贈り物』
『永琳先生との思い出』
『永琳先生を称える歌』
『永琳先生カムバック』
などと、しつこいほどに泣かせるイベント目白押しだ。
『永琳先生カムバック』ってなんだ、帰ってきたら『さよならパーティー』の意味が無い。
あまりに露骨なプログラムを前に、永琳は額を流れ落ちる脂汗をぬぐった。
永琳の脳裏に「涙腺直撃寺子屋Cryシス」という言葉がよぎる。
そんな永琳を眺めてほくそ笑む慧音の頭には、銀閣帽子がそびえ立っていた。
午前中は遊んだり話したりで、これと言って涙腺にダメージを与えるプログラムは無かった。
しかしこういったものも布石としては有効で、最後に作った大切な思い出として月の頭脳に刻まれる。
そして『祭りは楽しければ楽しいほど終わりが悲しい』理論、午後の露骨なプログラムに向けて感情が高まる。
昼食も終え、プログラムは『永琳先生へのお礼の言葉』へと移る。
永琳は誰かが代表で言うのかと思ったのだが違うらしい。
そう、どうせ十数名という理由で、慧音は全員に手紙を用意させたのだ。
「永琳先生は、優しくて、美人で、教え方も上手くて! こんなお母さんが居たら良いのにって思いました!」
「ふう、ふう……」
生徒に心配させないように、けれども泣かないように耐えている永琳。
隣に座る慧音もまた辛そうだった、状況が状況だから当然と言えば当然なのだが、誰も慧音のことなど話さない。
いっそ自分も唐突に失踪してやろうか、大切なものは失って初めて気付くと言うし……。
慧音はそんなありえない妄想で気を紛らわす。
「永琳先生は、優しくて、美人で、良い匂いがして! こんなお嫁さんが居たら良いのにって思いました!」
「……」
やはり邪悪な奴が居る。
しかし奇しくも、そういう連中が永琳のテンションを下げ、涙腺を回復させた。
なんとか十数人分の『お礼の言葉』を耐えた永琳の目は、充血しまくって真っ赤になっていた。
「ふふふ、その目……まるで貴女のところのペットのようだな、八意先生」
「……チッ!!」
もはや永琳は、慧音を悔しがらせることよりも、慧音がいるせいで素直に涙できない現状に嫌気が差していた。
とはいえ慧音だって、一方的に約束を反故にされた上に、仕返しを仕返しで返されて不愉快だったのは確かだ。
少しやりすぎたか、と思わなくもないが永琳も大人気無い。
フンと一回鼻を鳴らして慧音は立ち上がり、生徒達に視線を送る。
永琳はそんな様子を見て首を傾げたが、瞬く間に生徒達に取り囲まれて狼狽した。
「ど、どうしたのかしら?」
生徒達の手には、折りたたまれた手紙が……。
「はい、永琳先生!」
「え?」
手紙を手渡し……生徒達手書きの、心のこもった手紙が……。
「あ、あ、あ、ありがとう……」
これはピンチ。永琳は思考を止め……「ありがとうと呟いた後、手紙を受け取る」という一定の動作を機械的にこなした。
生徒達が少し不思議そうにしているが、もう背に腹はかえられないのだ。
横から、苛立つ慧音の視線が刺さる。これでもダメか、と歯噛みしている。
「はぁ、はぁ……こ、これで全部ね……」
「くっ……」
本当に目が真っ赤だった、このままだと涙の前に血が出るんじゃなかろうか。
さよならパーティーで血の涙を流す永琳先生、状況は途端にホラーに変貌する。
「えっと……今のが『永琳先生への贈り物』かしら……?」
「ブフッ! ……くっくくく……ハーッハッハッハ!」
「……しまった……!!」
違ったようだ、慧音の目は自信に満ち溢れている。
永琳は一瞬油断してしまった、再び覚悟を固めるには少し時間がかかる。
「さあ皆! 次は『永琳先生への贈り物』だぞ!!」
「う、うぅ……」
この先はさらに苦しい状況の連続だろう。
永琳はそれらを想像しただけで涙が出そうだった。
「永琳先生がはじめてここに来たときは、すごく静かで、なんだか近寄りにくいと思いました。
でもすぐに優しい先生なんだってわかって、それからはどんどん好きになっていきました!」
プログラムは『永琳先生との思い出』へと移ったのだが、これが『お礼の言葉』と微妙にカブっている。
お礼の言葉が辛かっただけに、これもまた同様に地獄だった。
生徒の目が潤んでいる、永琳はそれを直視するのが辛かった。
その生徒は既に思い出は言い尽くしたようだが、まだ口元をもごもごとさせている。
「永琳先生に……もっと教えてもらいたかったです」
そしてついに我慢していた涙を流す生徒。周囲の者達も切なげにその様子を見ている。
目をそらしている者もいたが、それらは皆泣いている者だった。
「もーらい泣き……もーらい泣き……」
隣に居る慧音が、永琳にしか聞こえない程度の声量でもらい泣きコールをしている。
だが、もう永琳はそんなこと気にしなかった、もういい、笑いたくば笑え。
永琳の目から、ついに一筋の涙が零れ落ちる。
「ありがとう、皆……」
「ふ、ふふ……八意先生の泣き顔、想像していた以上に可愛らしいじゃないか……ふふふふふ」
思ったより呆気なく訪れた決着、慧音は少し拍子抜けしたが、これで目的は達成した。
少女のように、ぽろぽろと美しい涙を流す永琳先生の歴史、しかと頭に刻んでやろう。
しかし永琳はそんな慧音のにやけ顔を見ても一切動じず、胸を張って微笑んだ。
「上白沢先生も、このような貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました」
「……ん?」
永琳が慧音に深々とお辞儀をする。
あれ、なんかおかしくないか、試合放棄か?
慧音の表情が見る見る曇り、顔色が青くなっていく。
そう、永琳先生は悟ってしまった。
「ありがとう、私ももっと皆に教えたかったわ」
「永琳先生……」
永琳は先ほどの生徒に歩み寄り、しゃがんで頭の位置を同じ高さに持っていく。
そして優しく抱きしめ、生徒の頭を撫でた。
「え、永琳先生ぇーーっ!!」
他の生徒達も一斉に永琳の方へ駆け寄っていく。
そして男子も女子も皆が永琳に抱きついて別れの悲しみに涙する。
(え~……)
慧音だけ体育座りをし、その様子を唖然として眺めていた。
なんだこの展開、ここ一応、私の寺子屋なんだが……やはり永琳は侮れない、慧音はそう思った。
見ろ、あの永琳の顔を……まるで母親のようではないか、まさに女教師の鑑だ。
あれだったら間違って永琳を「お母さん!」と呼んでしまう生徒も出ることだろう。
(教師として大切なもの、ついに手に入れたのだな、八意先生)
思いもしないことを考えてみる、なんだかそんな流れっぽいし。
頭の中に響く自分の声がものすごく棒読みだった。
慧音は冷静だった。まぁいいや、どうせ永琳いなくなるし、この後はいつも通りだ。と思っている。
散々繰り返してきた心理戦も、もうどうでもいい、自分も大人気なかった。
いいからさっさと会を終わらせて永琳にはお帰り願おう、慧音の頭の中にあるのはそれだけだ。
……だが、戦いはまだ終わっていなかった。
生徒達は皆永琳にすがりつき、頭を垂れて涙を流している。
永琳は生徒達よりも背が高いので、腰の辺りに抱きつかれている形だ。
その、生徒の誰もが見ていない、頭上の永琳の表情は……ニヤけていた。
(はぁっ!?)
「帰らないで!」と叫び続ける生徒達。
そんな生徒達の頭を撫でていた永琳が口を開く。
「そうね、皆は私に教えてもらいたい、私は皆に教えたい……」
「おいっ! 八意先生……その先は言うなよ……ッ!!」
最悪の展開だ……。
「上白沢先生は、死ぬまで続く歴史の編纂の仕事が忙しそうだから……」
「やめろーっ!!」
「私、ここで教師を続けるわ!!」
「永琳先生ーっ!!」
「認めない、認めないぞそんなことは!!」
「固いこと言うなよ慧音先生!!」
「そうだよ! さっきから永琳先生をいじめてたろ!! わかってるんだぞ!!」
「な、なにっ!? そんなことはない!! うわぁっ!?」
体格の良い男子に突き飛ばされた慧音は、吹っ飛んで机の角に頭をぶつけた。
机の角が粉々になった、すごい石頭だった。
そして慧音はふらつくことも無く立ち上がり、永琳をにらみ付ける。
「お前! 最初から寺子屋の乗っ取りが目的だったのか!!」
「え? 何のことかしら……上白沢先生、目が怖いですわ」
永遠亭に戻ればウサギ達による村八分の嵐。
それに比べてここはどうだ、皆自分を敬愛する純粋な少年少女。
授業の教え方も完璧だし、そこまで勤務時間が長いわけでもない。
永遠亭に戻ってから薬師としての仕事もこなせるだろう。
鈴仙だけはなんとか言うことを聞くので、薬の素材集めは鈴仙に任せれば良い。
輝夜のことが少し心配なので永久就職とはいかないが、最近は妹紅も大人しいし月の使者も来ることはないだろうし。
既に輝夜とは倦怠期のカップルのような付き合いになっている。多少ほっといても大丈夫だ、両者とも死なないし。
慧音は吹っ飛ばされてぶつけた後頭部を押さえる。
別に痛くはない、しかし心は痛む……生徒にこんなことをされてしまうとは。
孤立無援か……そう思うと、慧音の方が泣きそうだった。
だが。
「慧音先生に何すんだよお前!!」
「わあっ!?」
「慧音先生だって今まで頑張ってたじゃないの!!」
慧音を突き飛ばした生徒が、数人の生徒から攻撃を受けている。
少しの間状況が理解できない慧音だったが、すぐにその喧嘩を止めにいった。
「やめないかお前達! 喧嘩はダメだ!」
「だってこいつ、慧音先生に暴力をふるったじゃないか!!」
「私は大丈夫だ! だからやめろ!」
「そうよ、喧嘩は良くないわ……貴方も上白沢先生に謝りなさい」
「うぅ……」
生徒はしぶしぶ慧音に頭を下げる。
しかし当の慧音はその生徒ではなく、永琳を睨み付けている。
未だ十名近くの生徒を従えている永琳だが、残りの数名は慧音のスカートの裾を掴んでいる。
「そうだ、喧嘩はいけない」
スカートを掴まれる感触が、慧音の教師としての誇りと落ち着きを取り戻させた。
喧嘩をしているのは自分も永琳も同じ、そう、これはいけないことだ。
「わかった、八意先生の任期の延長を許可する」
「本当? 上白沢先生」
「ああ、私は誰かと違って約束は破らないよ」
「……言うわね」
慧音の目は敗北を認めたそれではない。瞳の奥底に、どこか力強い闘志の色がある。
きっとまた反撃に出るだろう、とりあえずは一時休戦、慧音の考えはそんなところだと想像できた。
「情けない話だが、皆の成績は私が教えていた頃よりわずかに上がってきている。
見ての通り八意先生には人気もある、続投には何の問題もないだろう。今までと同じ形態をとる」
「わかっているじゃない、上白沢先生」
「だがもちろん私だって何の考えもなしにこんな仕事をしているわけじゃない。
教えたいことがあるからこういうことをしているんだ」
慧音はスカートを掴む数人の生徒の頭を撫でる。
自分の教育方針、その全てが正しいとは思えないが、間違ってはいなかったからこそこうして信頼されているのだ。
自信を持たなければ、支持してくれている生徒達に申し訳が立たない。
二人は睨み合う。その視線の真ん中で火花が散る。
生徒達も皆泣き止み、息を飲んで二人の様子を伺っていた。
「あまり長くここに居られるのも困る、だから八意先生……」
「何かしら?」
「勝負だ」
「勝負?」
永琳は懐に潜めてあるスペルカードに手を触れた。
しかしそれに気付いた慧音は首を横に振る。
「違うぞ、教師としての勝負だ」
「へぇ……勝負方法は如何に?」
「どちらがより生徒をしっかりと指導できるか、それしかあるまい」
慧音の頭にはある程度見通しが立っているらしいが、永琳には想像がつかない。
「今まで散々やり合ったが、こういうときは幻想郷の流れに従う。
ルールのある戦いでしっかりと決着をつけようじゃないか」
「そうね、今までの泥仕合はあまりにも惨めだったわ。主に貴女が」
「まったくだ、お前に大人気が足りないせいで酷い目に遭ったよ」
「お互い様でしょう」
「まったくだ」
慧音は目を瞑り、大きく息を吸い込んでから、生徒達を見回した。
「すまない、少しの間私達の決闘に付き合ってもらう」
「え? え?」
「だがこの決闘の最中でも、私達はお前達に全力で教育を行う。安心して普段どおりにしていてくれ」
生徒達は何が起こっているのか、状況を把握しきれていない様子だった。
それもそのはず、現時点でこの『決闘』の内容は慧音の心の中で自己完結しており、永琳さえも内容を知らない。
「永琳、此度のお前の行動は、私の教師としての魂に火をつけた」
最近の授業がマンネリ気味だったと言えば、そうとも言えたかも知れない。
性格的なこともあって適当に仕事していたわけではないが、初心は忘れていたかも知れない。
「で、具体的な決闘方法は?」
「ある程度は考えたがまだ完全には決めていない、私が一方的に決めるのもフェアでないしな」
「まぁ、かっこいいわね」
「この後決めよう、お前の意見も取り入れる」
「わかったわ」
永琳は思い返す。節分の時は紅魔館の連中に、見事にしてやられた……。
ついでだ、あの時の鬱憤も晴らしてやろう。今日永遠亭に帰ったら「デキる教師のバイブル」の読み直しだ。
ただ一つ、慧音にとっても永琳にとっても残念だったのは、この宴会が台無しになってしまったことだが、
見れば永琳、慧音それぞれの側についた生徒達も睨み合っている。
少々大事になってしまったが、この際だから「正々堂々とした戦い」を生徒達に見せるのもありかもしれない。
「永琳先生頑張って!」
「ふふふ、ありがとう」
「永琳先生大好き!」
負けじと慧音側の生徒も声を張り上げる。
「慧音先生! 負けるなよ!」
「ああ、わかってる」
「慧音先生のオッパ……慧音先生大好き!!」
「……」
邪悪なのはこっちに来たか。慧音は結構嫌だった。
人里、いや寺子屋でそんなことが起きているとはつゆ知らず。
夕時の博麗神社には冬眠から覚めた紫が藍と橙も連れて、目覚めの挨拶をしに霊夢の元を尋ねていた。
春めいて暖かくなってきたからか紅魔館の面々も一緒に現れ、そのままプチ宴会を行っていた。
「そのまま永眠すれば良かったのに」
「まぁ霊夢ったら、相変わらず酷いわ」
「咲夜、今年の桜はどうかしらね?」
「もうすぐ咲くのではないでしょうか、暖かくなってきましたし」
思い思いの会話を交わす面々。
しかし二名だけ表情の暗い者が居た。パチュリーと藍である。
二人で向かい合って座り、うつむいてお猪口の酒を啜りながら愚痴をこぼしている。
橙は藍に抱きついて泣き叫んでいる。
「最近、泥棒が増えたのよ……」
「橙の頭がぼこぼこになっていた……大分治ったが……」
「藍様ー! 悔しいよー!」
パチュリーは最近新たな魔法を開発した、それは図書館を監視する使い魔の召還術。
今までも使い魔を図書館の防衛に当たらせたりはしたが、あれは下っ端メイドに毛が生えた程度にしか役立たなかった。
今回はそれとは違う、戦闘が目的の使い魔ではない。
「見てよこれ……」
パチュリーが水晶玉を取り出し、その横に使い魔の形をした、ツギハギだらけの人形を置いた。
その人形はアリスに製作を依頼したものだが、魔法をかけたのはパチュリーである。
これは有体に言えば「防犯カメラ」だった、見た映像を保存し、水晶玉に映し出すことができる。
そこに映っているのは永琳、そう『デキる教師のバイブル』を窃盗したときの映像だった。
水晶玉の中の永琳は撮影されているのに気付き、使い魔人形にサマーソルトキックを繰り出して破壊した。
気付いたのは流石だが、その程度で映像の情報が消えると思っていたのはパチュリーへの侮りか。
「こっちも酷いぞ……撫でてみろ」
藍が橙の頭をパチュリーの方へ向けさせる。
言われるままにパチュリーがそれを撫でると、コブだらけでボッコボコだった。
「大分治った」状態でこれなのであれば、藍が初めに見たときはどれほどだったのだろう。
橙は泣いてもいないのにズヒッと鼻を啜る。水をかけられたのもあって風邪気味らしい。
「確かに人里で暴れるのはいけないことだが……ここまでしなくても……」
「藍様ー……」
「寺子屋を訪ねたときも、平気で知らん顔をしていた……忌々しい奴だ……!」
藍は目に涙を浮かべながら橙を抱きしめる。
その涙目には悲しみと共に、怒りと恨みの炎が燃えていた。
妖獣は仲間意識が強い、高位の藍は自己制御もかなり高度に行えるが、それでも悔しいものは悔しい。
ツギハギだらけの人形を手に持つパチュリーの目も同様に燃えている。
窃盗に留まらず、人形をバラバラにするとは何とも大胆不敵。
パチュリーが胃を押さえる、最近はストレスで胃が痛む。
こういうのに詳しそうな永琳が窃盗を行っているというのがまた皮肉な繋がりだった。
治療を頼むに頼めない、腹が立つ。
「八意永琳んんん……!!」
「上白沢慧音ぇぇぇ……!!」
魔理沙も本を盗むが、これは少し前の節分のイベントで散々復讐した。
あれ以来魔理沙は長いこと家に閉じこもっていたらしい、それを考えれば少しは胸がスッとする。
だが、同じぐらいの罰を受けたはずの永琳は回復が早かった、精神力まで蓬莱人だと言うのか。
紅魔館への侵入も朝飯前に行い、人形以外誰にも発見されることなく窃盗を完了している。
その魔力も精神力も知能指数も全てが厄介だ、これからも定期的に盗まれたら最悪である。
パチュリーが咲夜を睨み付ける、それに気付いた咲夜はギョッとしたが、
理由がわからず、冷や汗を垂らしながら頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。
「このダメ猫め、やはり強力なネコイラズが必要だ」パチュリーはそんなことを考えていた。
「ヤツが渡る三途の川幅は、どれほどだ……!!」
藍の怒りっぷりも凄まじい。
手ごろな木の棒を拾ってきて、地面にガリガリと長ったらしい計算式を書き始めた。
お猪口に口をつけながらも、計算は瞬く間に進んでいき……藍は木の棒を投げ捨てて、地団太を踏み始めた。
「これでは零の漸近線じゃないか!! くそっ!! そんなに善行を積んでいるのか、ヤツは!!
ヤツの歴史全てを知っているわけではないから、適当な値を入れた部分も確かにあるが……!!」
「待ちなさい……」
酔っ払ってふらつく足で、パチュリーが藍に歩み寄る。
「なんだ……!!」
「この式には上白沢慧音の歴史のうち『頭突き係数Z』が含まれていないわ」
「むっ……!?」
「頭突きされる対象、人間をH、妖怪をMとし、それらをさらに分類して……」
「しまった、酔いが回ったかな……Hn、nに幻想郷全人口を代入すれば……」
「そうね、そうするとここがこうなって……Mは……レミィや貴女の主に頭突きをした回数が多ければ多いほど、
三途の川の渡し賃が二次関数的にハネ上がるわね……」
二人とも複雑な表情になった、レミリアや紫に頭突きをするのは善行らしい。
もし自分が死にそうになったら、最後に彼女達を呼んで頭突きをしまくろうなどと、そんな薄情なことを思い浮かべた。
ちなみに幽々子への頭突きもかなり高得点だった。
ありえないと思うが、妖夢が今わの際に幽々子を呼んで頭突きしまくる場面を想像した。
異変を起こすやつは基本的に悪人なのだろうか。
「なるほど、これで川幅が少し長くなったわ。流石にヤツの寿命的に零の漸近線はありえない。私としたことが……」
パチュリーの助言により、藍が少しほっとした表情を見せる。
そして次はパチュリーが木の棒を拾い上げ、慧音の川幅の式を元に新たな計算式を書き始めた。
「八意永琳は……」
「簡単だ」
「簡単ね……寿命に比例して罪が重くなるから……」
永琳の三途の川幅は無限大、死ぬことが無い者の三途の川幅の計算は意味が無い、正確には式としても成立しない。
いわゆる「解無し」である。
なんだかパチュリーは少し救われた気がした、そうだ、本を盗んだあいつは悪人だ。
『数字の魔術師』八雲藍の方程式がそれを証明したのだ。
「パチュリー……」
「藍……」
がっしりと握手を交わす二人。
蚊帳の外に出されてしまった橙は、地面に書いてある方程式を見て目を回し、仰向けに倒れていた。
そんな宴会場に、慧音と永琳が雁首揃えて現れたのは運命だったのだろうか。
霊夢が作ってきたおにぎりを嬉しそうに頬張るレミリアが、運命の操作でも行ったというのだろうか。
慧音と永琳は、自分達の争いがこれから邪魔者の介入によって激化するなどと夢にも思わなかった。
~続く~
多分読んでなくてもあまり問題ないので、未読の方も特に読み直しに行くことは無いと思います。
人里の寺子屋の様子はいつもと違っていた。
机に座る十数名の生徒達の前に立っているのは、よく見慣れた寺子屋の師、上白沢慧音。
そしてその隣には見慣れない女性が立っている。
「彼女にはしばらくここで私の手伝いをしてもらうことになった」
女性がにっこりと微笑んだ。しかし生徒達はまだどことなくオドオドとしている。
「お前達の中にも、実は彼女の世話になったことのある者がいるかもしれない」
生徒達が顔を見合わせ、ぼつぼつと言葉を交わしては首を傾げたり、横に振ったりしている。
「見覚えがない」などと話しているのだろう。
「皆の家に置き薬はあるな?」
「ありまーす」
「あるー」
「ウサギが持ってくるやつだよね?」
「そう、その薬は全て彼女が作ったものだ。だが彼女は薬学、医学のみならず様々な知識を持っている。
それを生かしてここで働いてもらうことになった。では自己紹介を」
「ええ……皆さんはじめまして」
女性が慧音と目を見合わせ、一歩前に出て挨拶をした。
「はじめましてー」と、生徒達の元気な返事が響く。
それを聞いて女性はもう一度微笑んでから続けた。
「私は八意永琳、先ほど上白沢先生から紹介があったように、皆の家にある薬は私が作ったものよ」
「あれすげーんだぜ! 爺ちゃんのハゲが治ったんだ!! えっと、名前はなんだったかな……」
「モサモサGのことね?」
育毛剤まで配っていたらしい。それにしてももう少しマシな名前は無かったのか。
簡単な自己紹介だけを済ませて永琳が元の位置に下がると、慧音は一つ頷いて再び前に出た。
「まぁ、詳しいことは追々わかると思う。とりあえずはこんなところだ。
それほど長い間働いてもらうわけではないが、しっかり言うことを聞いて勉強するんだぞ」
「はいはい」
「へーい」
勉強の話になると生徒達の態度が一変した、やる気はあまり無いらしい。
それを見て慧音は眉をひそめた、永琳も真顔になっている。
程なくして授業は開始された。
永琳にもっとしっかりとした自己紹介をさせても良かったのだが、
本人はあまりそういったことを話したがらないし、授業時間が減ってしまうのも好ましくない。
授業中のふれあいで自然にいろいろとわかり合うだろうし、無理矢理時間を割くこともなかろう。
ということで、慧音は自己紹介を手短にさせたのだ。
「では最初に先週出した宿題を回収する、席が後ろの者から集めて持ってきてくれ」
宿題が集められる様子を腕組みして眺めていると、三分の一ほどの生徒が忘れてきたようだ。
慧音の表情が見る見る曇っていく。
「これはどうしたことだ。先週あれだけ口を酸っぱくして、忘れるなと言ったのに」
宿題を忘れてきた生徒達はばつが悪そうに視線をそらしている。
ちゃんとやってきた生徒も、居心地悪そうに背筋を丸めている。
「忘れてきた者、前に並べ」
生徒達は、威圧的に見下ろす慧音の前にしぶしぶと並び出た。
その誰もが「頭突きは勘弁してください」と思っているのかどうか。
そんな生徒達を前に、慧音は静かな調子で語り始めた。
永琳は何も言わず、その様子を横で眺めている。
「良いか? 宿題をやってくる、ということは、学力向上のためだけに留まらず、
約束を守るということや責任感を養う意味合いもある。それは信頼関係を築く上で極めて重要なことだ。
つまりお前達が宿題を忘れるということは、私に対する小さな裏切りでもある」
慧音がそっと帽子を脱いだ。
それを見て、並んでいる生徒だけでなく机に座っている生徒達も青ざめ、震え始めた。
慧音が帽子を脱ぐという行為は、ボクサーがグローブを外す行為に似る。
あの銀閣帽子は弾幕戦の最中でも吹き飛ばないほど強固に固定されているのだ。
それを脱いで放つ頭突き……それすなわち、かぶったままやったら帽子が吹っ飛んでしまうことを意味する。
以前帽子の固定方法について尋ねた生徒が居たが「原子間力」だの、妙に難しい言葉が出てきて理解できなかったそうだ。
痛さの度合いで言えば、帽子をかぶった状態の頭突きが一番優しい、イージー頭突きだ。
もちろん一番痛いのはワーハクタク時の角頭突き、生徒達の間では『EX頭突き』と呼ばれている。
帽子を脱いだ状態はその次に痛い、通称『ルナティック頭突き』だ。
ちなみにEX頭突きは生徒に対して使用されたことはほとんどない。
そもそも夜空に満月が出る時間まで授業をやることは無いし、満月の日は慧音先生が殺気立っているので定休日だ。
主に、運悪く満月の夜に里の周辺を飛び回ってしまった妖怪が餌食になる。
「先生……っ!! ごめんなさい、もう忘れません、忘れませんから、帽子を……っ!!」
「ダメだ」
直後、教室に鈍い音が響いた。
ワンテンポ遅れて生徒の悲鳴が上がる。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
最初の犠牲になった生徒が湯気の上がる額を抑え、倒れこみ、もんどりうつ。
生徒達は皆目に涙を浮かべていた。机に座る生徒は耳を押さえ、うつむいて震えている。
宿題を忘れて前に並ばせられている生徒達は、
『こんなにたくさんの人数が忘れなければ、イージー頭突きで済んだのに』
と、互いに涙目で睨み合っている。
そして次の生徒の頭に慧音の手が掛かった。
触れられた生徒は一度だけ跳ねてから、そのまま恐怖で動けなくなった。
「もうだめだ」生徒達がそう思ったとき……。
「やめなさい、なんて教育をしているの?」
「……?」
それまで静観していた永琳が突如口を開いた。
そして生徒の頭から慧音の手を振り解き、両腕を広げてその前に立つ。
「何のつもりだ、八意先生。これだけの人数が宿題を忘れるのは事だぞ。しっかり反省させなければいけないんだ」
「宿題を忘れるのは確かにいけないことだわ、上白沢先生。けれど、貴女の頭突きは痛すぎるのよ、脳細胞が死滅するわ」
永琳も食らったことがあった。ルナティックではなくEXだったが。
「可哀想に……」
未だもんどりうっている生徒を抱きかかえ、永琳がその額に手を当てる。
「え、永琳先生……痛いよ……助けて……ッ!!」
「今治してあげるわ……痛いの痛いの飛んでいけ~」
「バカな、そんな子供だましを……」
しかし直後に慧音の表情が凍りついた。
それまで苦悶に満ちていた生徒の顔が、まるで母の胸に抱かれているかのように安らいだのだ。
「永琳先生、ありがとう……」
「もう宿題を忘れてはダメよ?」
「はい……」
「なっ……?」
その様子を見ていた他の宿題忘れの生徒の表情が変わる。
そして皆慧音の周りに群がり、姿勢正しく気をつけをして声高に叫んだ。
「先生! 僕達先生を裏切りました! 頭突きしてください!!」
「な、な……」
「さあ先生早く!! 目の前に星がチラつくぐらい思いっきり!! 僕達の罪は重いんです!!」
慧音の生徒は大体が五~十歳程度の少年少女ばかりだった。
宿題を忘れたのは皆男子、女子はきちんと宿題をやってきたので机に座っている。
こいつら、まだこんな歳なのにもう色気づいているのか。
生徒達から見え隠れする変態の片鱗、慧音は目眩を覚える。
「ば、バカなことを言うな! 喜んでは罰の意味が無い!!」
「慧音先生の頭突きはものすごく痛いです、最悪です、嫌です!!」
「だから早く! 早く頭突きしてくれないと、僕達悪い子に育ってしまう!!」
机に座る女子達が慧音に哀れみの視線を向ける。
慧音はどうして良いかわからなかった。せめて満月の夜ならば、本気で嫌がる頭突きになるのだが……。
じりじりとにじり寄る生徒達、ついに慧音は教室の隅まで追い詰められた。
「先生……僕達に愛の鞭を!!」
「う、うぅ……うぁぁぁぁっ!! こうなったらヤケだ! まとめてかかってこい!!」
「やめなさい! 上白沢先生!! ドクターストップよ!!」
「永琳先生! いいんです! 僕達は罪を受けて然るべきなんです!!」
「あ、貴方達……」
「さぁ慧音せんせ……ぐはぁぁぁ痛ぁぁぁぁぁっ!!」
「ふーっ! ふしゅーっ! 次は誰だ!! 渾身の一撃をお見舞いしてやるぞ!!」
慧音は群がる生徒達をちぎっては投げちぎっては投げ……。
その脇では永琳の「痛いのとんでけ」療法により、主に生徒の心が癒された。
「何故こんなことに……ッ!!」
慧音は教室の隣にある教員室で机に拳を叩きつけて憤っていた。
此度、何故永琳が慧音の寺子屋で働くことになったかと言えば、慧音の能力を見込んでの頼みごとだった。
以前、永琳は頼みごとを聞いてもらうかわりに寺子屋での臨時教師をする約束をした。
しかしいくつかの事情があってそれを反故にしてしまったのだ。
それで怒り狂った慧音は永琳の持つ歴史を改ざんして、変なステータスをつけると言う報復を行った。
永琳にとって最も大きなダメージは「ウサ耳フェチ」という不名誉な属性だった。
永遠亭はウサギだらけであり、もちろん耳はウサ耳……その中にウサ耳フェチが居るとあっては穏やかでない。
リーダー格であるてゐから冷めた目で見られ、下っ端のウサギからは豆鉄砲で尻を狙撃される嫌がらせを受け……。
鈴仙もなんだか様子がおかしくなってしまった、どうも視線が痛い。気になる。
そこで永琳は「今度こそ約束を守るから」と慧音に頼み込み、特別に臨時教師として採用してもらったのだ。
慧音はその見返りとして、改ざんした歴史の修正をすることになっている。
「……むぅ……」
戸の隙間から教室を覗くと、永琳は上手に授業をこなしているようだ。
特に間違ったことはしていない、授業方針は慧音と随分と違うようだが……。
永琳が授業を受け持ってくれている間に歴史の編纂を行えば、満月の日の仕事が減る。
そうすれば満月の時期も優しい慧音先生で居られる……。
と、その程度の考えで臨時教師をやらせてみたが、いざ自分より人気が出てしまうとなんだか複雑である。
数人の生徒を血祭りに上げた額を撫でると、少しヒリヒリした。思いっきりやりすぎたか。
(だが、ちゃんとしかってやるのも愛情だ……)
自分の教育方針に投げかけられた疑問。もっと優しくしてやるべきなのだろうか。
これでは歴史の編纂どころではない、慧音は頭をくしゃくしゃとかきむしった。
「永琳先生! わかりませーん!」
「僕もー!」
「はいはい、今行くわ」
優しく教えてくれる永琳先生、別に慧音先生も教え方が怖いわけではないのだが、説明が回りくどくてわかりにくい。
永琳先生は引っ張りだこだった、最初は警戒していた女子達も徐々に永琳先生に馴染んでいった。
「永琳先生お肌スベスベー!」
「ふふふ、コラーゲンたっぷりよ。後で八意式美容法も教えてあげるわ」
「わあい!」
十歳にも満たないような少女に美容も何も無いような気もするが、それでも容姿を気にかけるものらしい。
永琳先生は男心も女心も鷲掴み、慧音先生は教員室からそれを覗いて歯噛みしていた。
(美容法なんかいいから授業をやれ……!!)
しかし、真面目な話ばかりするよりもこういった雑談も絡めた方が授業の効率は良いらしい。
不意に授業に関係ない単語が飛び出すと、生徒達はハッとして教師の言葉を傾聴するものである。
それが最終的に授業内容に結びつけばなお良い、面白い話と共に知識が記憶されるからだ。
もちろん、生徒達の性格と場所の問題も絡むが、少なくともこの寺子屋の生徒には有効な方法だろう。
悔しいが永琳の授業方法からは学ぶべきことも多い、慧音は素直に敗北を認めた。
肩を落として机へ戻る、大量の史料をまとめなければならない。そのために永琳を呼んだのだから。
「ふふふ……」
そんな慧音の様子に永琳は気付いていた。
部屋の奥に引っ込んで、しょんぼりと戸を閉めた慧音を見てほくそ笑む。
(また変なステータスをつけられたら嫌ですものね……正攻法で貴女のプライドを傷つけてあげるわ)
ふと尻に手を当てる。
節分用に作った自作の豆鉄砲はいまや下っ端ウサギ達の玩具と成り果てている、しかもその的は永琳の尻だけだ。
あれは本当に痛い、この痛みは悔しがる慧音を見ることでしか癒されない。
永琳だって本当は人に教えたことなどほとんど無かった。
だから紅魔館の魔法図書館に侵入し『デキる教師のバイブル』という本をちょっぱってきたのだ。
後で『著者・八雲紫』という事実に気付いてイラッとしたが、あの本は存外に役立った。
「先生?」
「あら、ごめんなさい……えっと、ここはね……」
永琳の目標は、ここを去るときに生徒の半数以上を涙させること。
それで復讐は完了だ。
陰湿だった。
大量にあった史料の一角をなんとか切り崩し、慧音は椅子に座って虚空を眺めていた。
あの後も永琳は失態一つ出さず、慧音の助言など無くとも上手に授業をしている。
(学ばなければいけないのは私の方だったというのだろうか)
永琳は完璧すぎる、まさにパーフェクト永琳先生だ。
それがまさか紫の著書によるものだと慧音は知る由も無いが、紫には教師の才能があったのだろうか。
意外と、藍はかなり幼い状態で紫に捕まっていたのかもしれない。
そして紫は幼い藍を理想の式とするべく、手取り足取りいろんなことを教えたのかもしれない。真相は闇の中だ。
なのに想像が変な方向にばかり向く、紫は禍々しすぎると思う。
さておき、多少減ったとはいえ慧音の目の前にはまだまだ大量の史料がある、しかしそれを片付ける気には到底なれなかった。
だらしなく椅子にもたれかかり、窓から差し込む西日でチラチラと光る埃を目で追った。
たまに息を吹きかけて舞い上げてみたり……その様子は茫然自失を絵に描いたよう、まるで活力が無い。
しかしそんな折、隣の部屋、つまり教室が騒がしくなった。
ついに永琳がボロを出したのだろうか。そうであってほしいような、そうであってほしくないような……。
慧音は一瞬自分の心に芽生えた卑しい感情を否定するように、首をぶるぶると振ってから教室へ急いだ。
「どうし……」
戸を開き、言いかけて止まった、騒がしくなった原因はすぐにわかった。
「狐だー!」
「狐狐!」
「どうしたのかしら? 授業妨害?」
「いや、ちょっとここのワーハクタクに用が……あ、いたいた」
「なんだ……?」
そこに居たのは八雲藍だった。
生徒達は怖がっているというよりも面白がっているように見える。
藍の腕には買い物籠がぶら下がっており、人里に食料でも買い求めにきたのであろうことが予想できた。
寺子屋に入ってくることは今まで無かったが、藍は人里で暴れたりもしないし、
今日のように買い物に来ることもそれほど珍しくない。
親しまれているというほどではないが、里の人間に警戒されていなかった。
「随分堂々と人里に現れるのね、退治されたいのかしら?」
「いや、そういうつもりじゃない。それに人里には結構足を運んでいる、お前の方が珍しいよ」
永琳がもっとも警戒心をむき出しにしていたが、生徒達の様子から見ても藍の言うことは本当なのだろう。
まるで教室に犬や猫が入り込んできたときのような態度、変に興奮して喜んでいる。
そして自分の寺子屋で、ただでさえ見慣れない永琳が授業をしているところに藍が来て、慧音は呆気に取られていた。
「すまん、本当に何も危害は加えないよ。気にせず続けて頂戴」
「ええ……手短にお願いね」
「ああ」
少時、永琳と言葉を交わした後に藍は慧音の方に歩いてきた。
「な、なんだ……?」
「いや、うちの式神を知らないかと思って。そろそろ主が目を覚ますのよ……身だしなみを整えて、ちゃんと挨拶させないと」
「ああ、あの化け猫か。最近この辺をうろついてるな、迷惑だし、連れて帰ってもらえればありがたい」
前回の満月の夜にEX頭突きで追っ払ったのは黙っておくことにした。
そうとも知らず、藍は苦笑いして頭をかいている。
「そう……まったく、あいつはすぐどこかに行ってしまうんだよなぁ」
「とりあえず教員室に入ってもらおうか、生徒達の気が散るようだ」
「ごめんごめん」
未だきゃあきゃあと騒がしい教室、永琳は二人に困ったような視線を送っている。
それを見ると、この短期間で寺子屋を乗っ取られてしまったようで、慧音はあまり良い気分がしなかった。
そして藍の手を引いて慧音が教員室へ入ろうとしたとき、一人の生徒が駆け寄ってきた。
「慧音先生ー、永琳先生忙しくてなかなか問題教えてくれないんだ」
「ん? どれ、どの問題だ?」
まだ慧音を支持する生徒も居たらしい、思わず顔をほころばせて、生徒が手に持つ問題用紙に顔を近づける。
藍も興味深そうにそれを覗き込み、耳をぴくりと動かした。
「ああ、これは……」
「お、算術を教えているのね、感心感心」
「狐でもわかるの?」
「ああわかるよ、こう見えても計算は得意なのさ。ふんふん、掛け算か」
「これは、こ、こ……」
生徒の興味が藍に行ってしまって、慧音はそれ以上言葉を発することができなくなってしまった。
思わず泣きそうな表情になる、いくら大物妖怪の式神とはいえ、一般に頭が悪い者が多い妖獣にお株を奪われてしまうのだろうか……。
「3×4か……ふふ」
「どうしたの? 狐もわかんないんでしょ?」
「いいや、わかるよ、これはな……」
こんな簡単な計算ができない、そんな幼さが可愛らしくて、藍はついつい微笑んでしまった。
「そうだなぁ、何か好きな食べ物はあるか?」
「え? おにぎり」
「よし、それじゃ……おにぎりを毎日3つ、4日間食べたら合計何個かな?」
「えっと……」
生徒は指を咥えて少し考えた後、藍の目を見て答える。
「12個」
「そう、12だ。この問題も同じことだよ、わかりにくかったらまず好きな物に例えて慣れると良い」
「あ、そっかー!」
「利口だな、その調子で頑張るんだぞ」
もう一度微笑んで生徒の頭を撫でる、生徒は満面の笑みを浮かべて自分の席へ戻って行った。
しかし和やかな雰囲気のはずなのに、藍の背筋に悪寒が走った。
振り返ると、慧音がわなわなと震えている。
「こ、こ、こ……」
「なんだ、どうした……?」
「な、中に入って……」
「え? ええ……」
藍に悪意は無いし、罪も無い。
しかし状況が悪かった、神経質になっている慧音にこの仕打ちは厳しい。
そしてこの一部始終も永琳先生はしっかり見ていた。
月の地獄耳で会話も全て拾っている。生徒に優しく勉強を教える永琳先生の目は妖しく輝いていた。
藍は教員室に招かれ、慧音の出した茶を一緒に啜りながら話していた。
「そうか、山の方に行ってるとばかり思ったんだけど」
「まだ寒いからだろう。人家に忍び込んでコタツを占拠、時には住民を引っかいたり、やりたい放題だ」
「うーん……返り討ちにされるからあまり暴れないように言ってるんだけどなぁ」
「水をかけられたり、マタタビ漬けにされた後いじめられたりと、見ていて哀れだ。早く連れ帰ってくれ」
あまり人間が恨みを買うと危険なので、いつも慧音が橙いじめの現場に急行する。
そして人間の代わりに頭突きで追い払うのだ。だがやはりそれも隠しておくことにした。
「やっぱり式も憑け直しか、もう~……」
「報復なんか考えるなよ」
「わかってるよ、人里で暴れたのはこちらの落ち度だ。
悔しいとは思うけど……そんな勝手な理由で暴れたら、今度は私が上に叱られるんだ」
紫の傘はとても痛い。
人里で暴れたら霊夢も来るかもしれない、お払い棒も痛い。想像すると恐怖のあまり尻尾の毛が逆立つ。
なんとなく気まずくなって、二人は無言で茶を啜る。
飲み干してしまうとまた手持ち無沙汰になるので、慧音は唇の先だけでちびちびと茶を含んだ。
不意に、そんな静寂に救いの手を差し伸べるように戸が叩かれ、永琳が顔を出す。
「ごめんなさい、ちょっといいかしら?」
「どうした?」
「私だけだと手が足りなくて……ふふ、まだまだ未熟で、ごめんなさいね」
「いや……そうか、今行く」
湯飲みを片手に藍と目を見合わせた。藍は今が帰り時かと思い、少し腰を浮かせる。
慧音はそんな藍を見つつ、やはり永琳はまだ新米、自分の手を借りなければ上手くやれないのだろう、と少し気分が良い。
しかし慧音と藍が同時に立ち上がったとき、永琳の口から、両者の行動を阻害する言葉が吐き出された。
「あ、上白沢先生は史料の編集でお忙しそうですから……」
「え?」
慧音が手にしているのは湯のみだ。どうすればそうなるのか。
「そこな狐さん、教えるの上手みたいですし、お時間あれば少し手伝いしていただけないかしら」
「え? 私か?」
買い物籠に伸ばした手が止まる。
これからすることと言えば自分の夕食作りぐらいだ、藍にこれと言った用事は無い。
紫が目を覚ますことがあっても深夜帯から早朝にかけてだし、こちらも心配あるまい。
そしてここに来て、ついに慧音は永琳の陰湿な嫌がらせのにおいを嗅ぎつけた。
なるほど、あえて正攻法で追い詰めることで、反撃の理由を与えないつもりか。
永琳は生真面目な慧音が筋の通らない復讐をするはずはない、と踏んでいるのだ。
そして事実、慧音は性格的にそういうことはしない。
慧音は目を細め、こめかみに血管を浮き立たせながら永琳を睨み付けている。
方や永琳はわざとらしく「はて?」と言った表情でその視線を受け流している。
飲まれたら負け……慧音は顔を引きつらせながらも、無理矢理笑顔を作った。
「そ、そうだな……片付けなければいけない史料はまだこんなにあるし、ここは一つ頼まれてもらおうか」
「ん~? そうね……橙が迷惑かけたみたいだし、少し罪滅ぼししていくか」
「助かるわ~」
永琳は藍の手を引いて再び教室へと消えていく。
慧音はその背中を見送ってから、大きな音を立てて忌々しげに椅子に座った。
そして目の前に積み重なる史料の山がまた、慧音の神経を逆撫でした。
ヤケになって史料を片付けているうちにすっかり日が暮れてしまった。
授業も既に終わり、永琳や藍も帰った、もちろん生徒達も居ない。
(作業をしていると気が紛れるな)
しかしちゃんとまとめられたのだろうか、集中力を欠いていた可能性もある。
一度ざっと見直す必要があるだろう、これではあまり意味が無い。
「ああもう、嫌だ嫌だ。今日は一杯やってさっさと寝よう」
「付き合うよ」
「むっ?」
いつの間にか藤原妹紅が入り込んでいた、まるで気配がなかったので慧音は酷く狼狽する。
妹紅は、態度こそあまり良くないものの里の人間には好意的で、竹林で迷った者を幾度も助けていた。
その度に慧音の元にやってきて注意を促す、里の管理をしている者に直接告げれば良いのに、どうもそれは嫌らしい。
慧音もときどき竹林周辺を見回っていたりして、妹紅とは顔なじみだ。
「もうそろそろ筍の季節だからかな、どうも迷い人が多い」
「そうか、そんな時期だな」
「素人が来て無事帰れるような竹林じゃないんだ、また言い聞かせておいてやってよ」
「わかった」
妹紅はどかっと座り込み、コップを受け取ってそれに酌を受ける。
丁度里の人間を送り届けた後だったのか、もんぺの端々に少し泥がついていた。
「だらしないぞ、ほら」
「ん」
慧音は、妹紅の長い髪の毛に絡まっていた笹の葉をつまんでゴミ箱に捨てた。
妹紅は照れもせずに、注いでもらったばかりの酒に口をつけ、慧音にも返杯する。
「で、何が嫌なの?」
「む……」
「そういえば来る途中に八意を見た。珍しいこともあるもんだよ、それと何か関係あるんじゃないの?」
「……勘が良いな」
自分のことはあまり話さないが、人のことは結構気にするたちらしい。
妹紅はあっという間に一杯目を空け、コップを突き出して二杯目を催促する。
「寺子屋の仕事を手伝ってもらったんだがな」
「ほー」
それから慧音は今日一日の出来事を順序良く説明していった。
時間と共に頬に赤みが差し、口調も愚痴っぽくなっていく、妹紅は終始おとなしく話を聞いていた。
「まぁ、私の授業が面白くない。とは前から耳にしていたけど」
「良薬口に苦し、だろ」
「そう言ってもらえると助かる」
「永遠亭の連中には気をつけた方が良い、直接の害は無いけど、どいつもこいつも腹黒い。
何考えてるかよくわからないし、あんまり信用しすぎない方がいいわよ」
「そうだなぁ、大体同感だよ」
薬を持ってくるウサギ達も、妙に気前が良く口の上手い者。
または無愛想で用事だけ済ませてすぐ帰る者、よくわからない。
「だが八意永琳は別に変なことをしているわけじゃない、望ましいことをしっかりやってるんだ」
「普段はおとなしいみたいだしねあいつ」
だがやるときは容赦無い。満月を隠すなんて大それたことを平然とやってのけた辺りにも度胸の大きさが表れている。
の割りに今回の嫌がらせはせこい気がする。度胸はあっても度量は狭い。
本当に心の中が読めない。
「短い間だけの手伝いだし、居なくなれば元通りにはなるのだろうが……」
「それはどうかな、あいつのことだ……何か爪痕を残していきそうな気がするわ」
妹紅に確たる根拠はないが、そんな気がした。
そして不意に目つきが変わった妹紅を見て、慧音はかすかな怖気を覚えた。
その後も永琳は遅刻も無くきちんと通い、着実に人気を獲得していく。
慧音は初めの内こそ気にかけていたが、永琳がこれといった問題を起こすわけでもない。
元来腰の据わっているほうである、最初は慣れない状況に戸惑ったが慧音はすぐに慣れた。
次第に教室を覗き込むことも無くなり、教員室で歴史の編纂に精を出すようになっていった。
どうせ少し待てば永琳は永遠亭に帰る、生徒の人気を失うのは少々痛いが、それだってじきに取り戻せるだろう。
永琳に授業を任せ、その間に歴史史料を消化する。それこそが当初の目的であり、もっとも建設的な立ち振る舞いだった。
少し冷静になればこれは慧音にとってもありがたい状況なのだ。
しかしそれまでも永琳の計算の内だったとは、慧音には思いもよらなかった。
「永琳先生はすげえや! 成績が上がってまた母ちゃんに誉められたよ!」
「八意式美容法をお母さんにも教えたら、お母さんがどんどん綺麗になっていくの!」
「爺ちゃんだけじゃなく父ちゃんのハゲも治ったよ! 永琳先生はお医者さんとしてもすごいんだね!」
慧音の監視が緩くなったことにより、永琳はさらに積極的に動いて生徒達を虜にしていく。
「永琳先生の授業を受け始めてから、スポーツ万能になったし、彼女もできたし、最高です」
「私は気まぐれで買った宝くじが当たりました。こんなにツイちゃって良いのかなって感じです。強運過ぎてたまに怖くなります」
寺子屋の生徒は少年少女だけのはずなのに、邪悪な何かが混ざっていた。
絶対これ永琳関係ない。
「ふふ、私の力だけではないわ、皆が努力しているからよ」
謙遜も忘れない。
そしてそんな謙虚な永琳には更なる尊敬の眼差しが向けられる。
「それに今まで教えてくれてた上白沢先生の教育がしっかりしてたから、私もやりやすいのよ……」
ここまで言って永琳はにやりとほくそ笑む、なんとも皮肉った言い方だ。
「慧音先生は頭突きばっかりするし、話難しいし、あんまり良くなかったよ!」
「宿題もたくさん出すしさ!」
「永琳先生は教え方が上手いから宿題出す必要なんか無いんだよね!」
もはや永琳は生徒達のカリスマ……神様のようにあがめられていた。
授業をサボりがちだった生徒も永琳の噂を聞いて、一度顔を出してからは真面目に通うようになったり……。
本一冊で随分と人間は変わるものだ。永琳の飲み込みの良さもあったのだろうが、ここまで来ると紫著の本の内容が気になる。
「皆、ダメよ、上白沢先生にそんなこと言っちゃ。あの人はとても真面目で頑張りやさんなんだから」
わざとらしく慧音を弁護する永琳……しかしこうやって諭すことも重要だ。
心の広さを見せることにより、慧音に向けられた嫌悪が丸ごと永琳への好感に変換される。
「でもさー……」
「上白沢先生が初日に言ったように、約束を守るのは大切なことだし……。
まぁ、確かに固いところがあるから授業は難しいかもしれないけど、聞けばちゃんと教えてくれるはずよ」
少し生徒達の意見に同意もしてやる。
あえて異論に共感することは相手の警戒心を解き、仲間意識を芽生えさせるのに有効だ。
諭しておいて共感もする……こうすることで自分の意見も相手に通しやすくなるのだ。
これらの内容は紫の本に書いてあったことの応用だった。
それにしても、紫はそこまでわかっていながらなんであんなに煙たがられているのだろうか。
特に好かれようとしていないのかもしれない。
「よし、三日先の分まで終わったぞ。この調子なら思ったより早く永琳を帰せるかもしれないな」
処理した史料を重ね、トントンと机に打ち付けてまとめる慧音。
隣の教室で永琳によるマインドコントロールが進んでいるとは知る由も無い。
そして永琳にも予想外の変化が起きていた。
数日後、永琳は授業終了後に教員室に呼び出された。
夕日で赤く染まる教員室、永琳は差し出された椅子に座り、慧音と向き合っていた。
「おかげさまで仕事が進んだよ。これだけまとまっていれば満月の夜、すぐに新しい歴史を創ることができる」
永琳の勤務初日にはごちゃごちゃと乱雑に積み重ねられていた史料の山が、綺麗にカテゴリー分けされ、
時系列ごとに並べられていた、机の上もすっきりと片付いている。
「次の満月にはお前の歴史も直しておく」
「ようやくね……」
「随分と生徒達に好かれているようだな」
「そうね……貴重な体験ができたわ」
永琳は誇らしげに胸を張る。しかし今の慧音はそんな永琳を見ても悔しがる素振りもない。
何も恐れるものなどないようにうっすらと不敵な微笑を浮かべている、永琳はそんな慧音を少し不気味に思った。
「まぁ、そういうことでお前の仕事ももう終わりだ、いきなりでは生徒達も戸惑うだろうが、
明日一日で任を解く。最後の仕事だ、気を抜かずにしっかりやってくれ」
「ええ、少し寂しいけれど普段通りにちゃんとやるわ」
寂しいと言うのは嘘ではない。
そうなるようにコントロールしたとはいえ、あれほど好かれて嫌な気分はしない、多少の情も湧く。
慧音があまり悔しがっていないのが少々面白くないが、貴重な体験をできたというのも事実。
そしてウサ耳フェチのみならず、様々な鬱陶しいステータスも消える、これでようやく威厳ある八意永琳に戻れるのだ。
「では、私の話はここまでだ。明日もしっかり頼むぞ」
「わかってるわ」
慧音が椅子を動かして机の方へ向き直ると、永琳も立ち上がり、踵を返して部屋を出た。
慧音の目が妖しく輝いている、口の端が歪んでいる。
これより、慧音の反撃が始まるのだ。
今までずっと無関心を装って、ダメージを軽減すると共に、力と作戦を蓄えていた。
正攻法でやられたことは正攻法で返す。
慧音、いちかばちかの賭けである。
この反撃は己へのダメージも伴う、まさに諸刃の剣だ。
しかしこの寺子屋は慧音のホーム、永琳のアウェー……。
慧音はまだまだ取り返せる、生徒からの人気と信頼を。
翌日……。
『永琳先生さよならパーティー』
「な、なに……!?」
いつもより早く通勤した永琳の目に飛び込んできたのは、きらびやかに装飾された教室。
そして並び替えられた机には料理や飲み物が用意してあった。
壁には生徒達が描いた永琳の似顔絵やらが貼り付けられている。
生徒達に拍手で迎え入れられた永琳は、何が起こったのか理解できずに目を白黒させていた。
「八意先生、今日の授業は中止だ。今日は貴女への感謝を込めて宴会を行う」
「な……朝ご飯は食べてきてしまったわよ!?」
「ふふふ、あれを食べるのは昼だよ。八意先生……今日は真心込めて貴女を送る」
既に涙目になっている生徒もあった。永琳の胸がズキズキと痛む。
慧音も顔色青く、額には脂汗と血管を浮かべていた、その表情には「道連れだ」という意思が宿っている。
永琳の涙腺を必要以上に刺激するお別れパーティー。
だがそれは同時に「永琳がこんなに好かれている」という事実を目の当たりにしなければいけない。
慧音の精神的ダメージも大きい。
「これが本日のプログラムだ、八意先生……」
「……ハッ!?」
慧音が筒状に丸めてある大きな紙を広げ、壁に貼り付ける。
すげえ長かった。
「よ、夜までかかるわこれは!!」
「ああそうだとも、これほど好かれている貴女を適当に送り出したのでは私の気が済まないのでな!!」
「く、くっ……!! あ、ありがとう! 上白沢先生!! そして皆!!」
月の頭脳が驚きと悲しさでショートしている。永琳は変なテンションだった。
そう、情が湧かないはずはない……少年少女の穢れ無き眼差しは、せこかった永琳先生の凍りついた心を融かしていた。
嫌い合っていれば別だが、ここまで仲の良い教師と生徒が別れるとき、悲しくないはずはない。
教師としての歴史では慧音に分がある、そういう悲しさを知っている……そんな慧音が最後に反撃の狼煙を上げた。
最悪なのは永琳が悲しみもせずにさらっと帰ってしまうことだったが、慧音の目論見は上手くいったのだ。
「お願いだから帰らないで!!」
「う、うぅ……っ」
まだ始まって間もないというのに、一人の生徒が大泣きを始めた。
苦しむ永琳を遠くから眺める慧音の表情は邪悪だ。
満月が近くなっていることもあって慧音はハイだった。
今月は満月の夜の仕事が楽だが、これはもはや条件反射、満月の時期の慧音先生はいつだって恐ろしいのだ。
――や、やるじゃないの上白沢慧音!!――
「帰らないでええ!! うわああああん!!」
「あ、ああ……」
「ふふふ、八意先生は人気者だな。羨ましい限りだ」
すがりつく生徒の頭を撫でながら、永琳はギリギリと歯を食いしばる。
「泣け、さあ泣け、ほら泣け」慧音は目でそう訴えている。
――ふふ、まだ宴は始まったばかりだ……ここで終わってしまっては面白くない――
慧音が永琳の元に歩み寄り、泣き喚く生徒の頭をそっと撫でる。
「そう泣くんじゃない。ここから居なくなっても、八意先生はいつだって皆の側に居るんだ」
「本当……?」
「ああ、本当だとも。八意先生は薬へと姿を変えて皆を見守り続けてくれるんだ」
その解釈はどうか。
慧音に詩的なセンスはあまり無いらしい。
「だからあまり泣くんじゃない」
「う、う……うん……」
生徒は変な解釈で納得した。
なんだかんだで慧音は生徒の扱いに慣れているのだろうか。
――あ、頭悪いわ、ここの生徒!!――
永琳はそのやり取りを見て少し引いたので、なんとか平静を取り戻すことができた。
しかしこれは慧音による余裕のアピール、そう、これからが本当の地獄だ。
慧音を貶めようとしておいて生徒に情が移って泣くなど、かっこ悪いにもほどがある。まさに墓穴掘りだ。
永琳は一生慧音にバカにされて生き続けなければいけなくなる、永遠の歴史に塗られる泥……。
『八意先生は涙もろいのだな、ハハハハハハ!!』
腹の底から高笑いを吐き出すハクタク慧音の笑顔が脳裏に浮かぶ。
ダメだ、威厳と神秘的な魅力を兼ね揃えているのが八意永琳なのだ。
だがプログラムを見ると、
『永琳先生へのお礼の言葉』
『永琳先生への贈り物』
『永琳先生との思い出』
『永琳先生を称える歌』
『永琳先生カムバック』
などと、しつこいほどに泣かせるイベント目白押しだ。
『永琳先生カムバック』ってなんだ、帰ってきたら『さよならパーティー』の意味が無い。
あまりに露骨なプログラムを前に、永琳は額を流れ落ちる脂汗をぬぐった。
永琳の脳裏に「涙腺直撃寺子屋Cryシス」という言葉がよぎる。
そんな永琳を眺めてほくそ笑む慧音の頭には、銀閣帽子がそびえ立っていた。
午前中は遊んだり話したりで、これと言って涙腺にダメージを与えるプログラムは無かった。
しかしこういったものも布石としては有効で、最後に作った大切な思い出として月の頭脳に刻まれる。
そして『祭りは楽しければ楽しいほど終わりが悲しい』理論、午後の露骨なプログラムに向けて感情が高まる。
昼食も終え、プログラムは『永琳先生へのお礼の言葉』へと移る。
永琳は誰かが代表で言うのかと思ったのだが違うらしい。
そう、どうせ十数名という理由で、慧音は全員に手紙を用意させたのだ。
「永琳先生は、優しくて、美人で、教え方も上手くて! こんなお母さんが居たら良いのにって思いました!」
「ふう、ふう……」
生徒に心配させないように、けれども泣かないように耐えている永琳。
隣に座る慧音もまた辛そうだった、状況が状況だから当然と言えば当然なのだが、誰も慧音のことなど話さない。
いっそ自分も唐突に失踪してやろうか、大切なものは失って初めて気付くと言うし……。
慧音はそんなありえない妄想で気を紛らわす。
「永琳先生は、優しくて、美人で、良い匂いがして! こんなお嫁さんが居たら良いのにって思いました!」
「……」
やはり邪悪な奴が居る。
しかし奇しくも、そういう連中が永琳のテンションを下げ、涙腺を回復させた。
なんとか十数人分の『お礼の言葉』を耐えた永琳の目は、充血しまくって真っ赤になっていた。
「ふふふ、その目……まるで貴女のところのペットのようだな、八意先生」
「……チッ!!」
もはや永琳は、慧音を悔しがらせることよりも、慧音がいるせいで素直に涙できない現状に嫌気が差していた。
とはいえ慧音だって、一方的に約束を反故にされた上に、仕返しを仕返しで返されて不愉快だったのは確かだ。
少しやりすぎたか、と思わなくもないが永琳も大人気無い。
フンと一回鼻を鳴らして慧音は立ち上がり、生徒達に視線を送る。
永琳はそんな様子を見て首を傾げたが、瞬く間に生徒達に取り囲まれて狼狽した。
「ど、どうしたのかしら?」
生徒達の手には、折りたたまれた手紙が……。
「はい、永琳先生!」
「え?」
手紙を手渡し……生徒達手書きの、心のこもった手紙が……。
「あ、あ、あ、ありがとう……」
これはピンチ。永琳は思考を止め……「ありがとうと呟いた後、手紙を受け取る」という一定の動作を機械的にこなした。
生徒達が少し不思議そうにしているが、もう背に腹はかえられないのだ。
横から、苛立つ慧音の視線が刺さる。これでもダメか、と歯噛みしている。
「はぁ、はぁ……こ、これで全部ね……」
「くっ……」
本当に目が真っ赤だった、このままだと涙の前に血が出るんじゃなかろうか。
さよならパーティーで血の涙を流す永琳先生、状況は途端にホラーに変貌する。
「えっと……今のが『永琳先生への贈り物』かしら……?」
「ブフッ! ……くっくくく……ハーッハッハッハ!」
「……しまった……!!」
違ったようだ、慧音の目は自信に満ち溢れている。
永琳は一瞬油断してしまった、再び覚悟を固めるには少し時間がかかる。
「さあ皆! 次は『永琳先生への贈り物』だぞ!!」
「う、うぅ……」
この先はさらに苦しい状況の連続だろう。
永琳はそれらを想像しただけで涙が出そうだった。
「永琳先生がはじめてここに来たときは、すごく静かで、なんだか近寄りにくいと思いました。
でもすぐに優しい先生なんだってわかって、それからはどんどん好きになっていきました!」
プログラムは『永琳先生との思い出』へと移ったのだが、これが『お礼の言葉』と微妙にカブっている。
お礼の言葉が辛かっただけに、これもまた同様に地獄だった。
生徒の目が潤んでいる、永琳はそれを直視するのが辛かった。
その生徒は既に思い出は言い尽くしたようだが、まだ口元をもごもごとさせている。
「永琳先生に……もっと教えてもらいたかったです」
そしてついに我慢していた涙を流す生徒。周囲の者達も切なげにその様子を見ている。
目をそらしている者もいたが、それらは皆泣いている者だった。
「もーらい泣き……もーらい泣き……」
隣に居る慧音が、永琳にしか聞こえない程度の声量でもらい泣きコールをしている。
だが、もう永琳はそんなこと気にしなかった、もういい、笑いたくば笑え。
永琳の目から、ついに一筋の涙が零れ落ちる。
「ありがとう、皆……」
「ふ、ふふ……八意先生の泣き顔、想像していた以上に可愛らしいじゃないか……ふふふふふ」
思ったより呆気なく訪れた決着、慧音は少し拍子抜けしたが、これで目的は達成した。
少女のように、ぽろぽろと美しい涙を流す永琳先生の歴史、しかと頭に刻んでやろう。
しかし永琳はそんな慧音のにやけ顔を見ても一切動じず、胸を張って微笑んだ。
「上白沢先生も、このような貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました」
「……ん?」
永琳が慧音に深々とお辞儀をする。
あれ、なんかおかしくないか、試合放棄か?
慧音の表情が見る見る曇り、顔色が青くなっていく。
そう、永琳先生は悟ってしまった。
「ありがとう、私ももっと皆に教えたかったわ」
「永琳先生……」
永琳は先ほどの生徒に歩み寄り、しゃがんで頭の位置を同じ高さに持っていく。
そして優しく抱きしめ、生徒の頭を撫でた。
「え、永琳先生ぇーーっ!!」
他の生徒達も一斉に永琳の方へ駆け寄っていく。
そして男子も女子も皆が永琳に抱きついて別れの悲しみに涙する。
(え~……)
慧音だけ体育座りをし、その様子を唖然として眺めていた。
なんだこの展開、ここ一応、私の寺子屋なんだが……やはり永琳は侮れない、慧音はそう思った。
見ろ、あの永琳の顔を……まるで母親のようではないか、まさに女教師の鑑だ。
あれだったら間違って永琳を「お母さん!」と呼んでしまう生徒も出ることだろう。
(教師として大切なもの、ついに手に入れたのだな、八意先生)
思いもしないことを考えてみる、なんだかそんな流れっぽいし。
頭の中に響く自分の声がものすごく棒読みだった。
慧音は冷静だった。まぁいいや、どうせ永琳いなくなるし、この後はいつも通りだ。と思っている。
散々繰り返してきた心理戦も、もうどうでもいい、自分も大人気なかった。
いいからさっさと会を終わらせて永琳にはお帰り願おう、慧音の頭の中にあるのはそれだけだ。
……だが、戦いはまだ終わっていなかった。
生徒達は皆永琳にすがりつき、頭を垂れて涙を流している。
永琳は生徒達よりも背が高いので、腰の辺りに抱きつかれている形だ。
その、生徒の誰もが見ていない、頭上の永琳の表情は……ニヤけていた。
(はぁっ!?)
「帰らないで!」と叫び続ける生徒達。
そんな生徒達の頭を撫でていた永琳が口を開く。
「そうね、皆は私に教えてもらいたい、私は皆に教えたい……」
「おいっ! 八意先生……その先は言うなよ……ッ!!」
最悪の展開だ……。
「上白沢先生は、死ぬまで続く歴史の編纂の仕事が忙しそうだから……」
「やめろーっ!!」
「私、ここで教師を続けるわ!!」
「永琳先生ーっ!!」
「認めない、認めないぞそんなことは!!」
「固いこと言うなよ慧音先生!!」
「そうだよ! さっきから永琳先生をいじめてたろ!! わかってるんだぞ!!」
「な、なにっ!? そんなことはない!! うわぁっ!?」
体格の良い男子に突き飛ばされた慧音は、吹っ飛んで机の角に頭をぶつけた。
机の角が粉々になった、すごい石頭だった。
そして慧音はふらつくことも無く立ち上がり、永琳をにらみ付ける。
「お前! 最初から寺子屋の乗っ取りが目的だったのか!!」
「え? 何のことかしら……上白沢先生、目が怖いですわ」
永遠亭に戻ればウサギ達による村八分の嵐。
それに比べてここはどうだ、皆自分を敬愛する純粋な少年少女。
授業の教え方も完璧だし、そこまで勤務時間が長いわけでもない。
永遠亭に戻ってから薬師としての仕事もこなせるだろう。
鈴仙だけはなんとか言うことを聞くので、薬の素材集めは鈴仙に任せれば良い。
輝夜のことが少し心配なので永久就職とはいかないが、最近は妹紅も大人しいし月の使者も来ることはないだろうし。
既に輝夜とは倦怠期のカップルのような付き合いになっている。多少ほっといても大丈夫だ、両者とも死なないし。
慧音は吹っ飛ばされてぶつけた後頭部を押さえる。
別に痛くはない、しかし心は痛む……生徒にこんなことをされてしまうとは。
孤立無援か……そう思うと、慧音の方が泣きそうだった。
だが。
「慧音先生に何すんだよお前!!」
「わあっ!?」
「慧音先生だって今まで頑張ってたじゃないの!!」
慧音を突き飛ばした生徒が、数人の生徒から攻撃を受けている。
少しの間状況が理解できない慧音だったが、すぐにその喧嘩を止めにいった。
「やめないかお前達! 喧嘩はダメだ!」
「だってこいつ、慧音先生に暴力をふるったじゃないか!!」
「私は大丈夫だ! だからやめろ!」
「そうよ、喧嘩は良くないわ……貴方も上白沢先生に謝りなさい」
「うぅ……」
生徒はしぶしぶ慧音に頭を下げる。
しかし当の慧音はその生徒ではなく、永琳を睨み付けている。
未だ十名近くの生徒を従えている永琳だが、残りの数名は慧音のスカートの裾を掴んでいる。
「そうだ、喧嘩はいけない」
スカートを掴まれる感触が、慧音の教師としての誇りと落ち着きを取り戻させた。
喧嘩をしているのは自分も永琳も同じ、そう、これはいけないことだ。
「わかった、八意先生の任期の延長を許可する」
「本当? 上白沢先生」
「ああ、私は誰かと違って約束は破らないよ」
「……言うわね」
慧音の目は敗北を認めたそれではない。瞳の奥底に、どこか力強い闘志の色がある。
きっとまた反撃に出るだろう、とりあえずは一時休戦、慧音の考えはそんなところだと想像できた。
「情けない話だが、皆の成績は私が教えていた頃よりわずかに上がってきている。
見ての通り八意先生には人気もある、続投には何の問題もないだろう。今までと同じ形態をとる」
「わかっているじゃない、上白沢先生」
「だがもちろん私だって何の考えもなしにこんな仕事をしているわけじゃない。
教えたいことがあるからこういうことをしているんだ」
慧音はスカートを掴む数人の生徒の頭を撫でる。
自分の教育方針、その全てが正しいとは思えないが、間違ってはいなかったからこそこうして信頼されているのだ。
自信を持たなければ、支持してくれている生徒達に申し訳が立たない。
二人は睨み合う。その視線の真ん中で火花が散る。
生徒達も皆泣き止み、息を飲んで二人の様子を伺っていた。
「あまり長くここに居られるのも困る、だから八意先生……」
「何かしら?」
「勝負だ」
「勝負?」
永琳は懐に潜めてあるスペルカードに手を触れた。
しかしそれに気付いた慧音は首を横に振る。
「違うぞ、教師としての勝負だ」
「へぇ……勝負方法は如何に?」
「どちらがより生徒をしっかりと指導できるか、それしかあるまい」
慧音の頭にはある程度見通しが立っているらしいが、永琳には想像がつかない。
「今まで散々やり合ったが、こういうときは幻想郷の流れに従う。
ルールのある戦いでしっかりと決着をつけようじゃないか」
「そうね、今までの泥仕合はあまりにも惨めだったわ。主に貴女が」
「まったくだ、お前に大人気が足りないせいで酷い目に遭ったよ」
「お互い様でしょう」
「まったくだ」
慧音は目を瞑り、大きく息を吸い込んでから、生徒達を見回した。
「すまない、少しの間私達の決闘に付き合ってもらう」
「え? え?」
「だがこの決闘の最中でも、私達はお前達に全力で教育を行う。安心して普段どおりにしていてくれ」
生徒達は何が起こっているのか、状況を把握しきれていない様子だった。
それもそのはず、現時点でこの『決闘』の内容は慧音の心の中で自己完結しており、永琳さえも内容を知らない。
「永琳、此度のお前の行動は、私の教師としての魂に火をつけた」
最近の授業がマンネリ気味だったと言えば、そうとも言えたかも知れない。
性格的なこともあって適当に仕事していたわけではないが、初心は忘れていたかも知れない。
「で、具体的な決闘方法は?」
「ある程度は考えたがまだ完全には決めていない、私が一方的に決めるのもフェアでないしな」
「まぁ、かっこいいわね」
「この後決めよう、お前の意見も取り入れる」
「わかったわ」
永琳は思い返す。節分の時は紅魔館の連中に、見事にしてやられた……。
ついでだ、あの時の鬱憤も晴らしてやろう。今日永遠亭に帰ったら「デキる教師のバイブル」の読み直しだ。
ただ一つ、慧音にとっても永琳にとっても残念だったのは、この宴会が台無しになってしまったことだが、
見れば永琳、慧音それぞれの側についた生徒達も睨み合っている。
少々大事になってしまったが、この際だから「正々堂々とした戦い」を生徒達に見せるのもありかもしれない。
「永琳先生頑張って!」
「ふふふ、ありがとう」
「永琳先生大好き!」
負けじと慧音側の生徒も声を張り上げる。
「慧音先生! 負けるなよ!」
「ああ、わかってる」
「慧音先生のオッパ……慧音先生大好き!!」
「……」
邪悪なのはこっちに来たか。慧音は結構嫌だった。
人里、いや寺子屋でそんなことが起きているとはつゆ知らず。
夕時の博麗神社には冬眠から覚めた紫が藍と橙も連れて、目覚めの挨拶をしに霊夢の元を尋ねていた。
春めいて暖かくなってきたからか紅魔館の面々も一緒に現れ、そのままプチ宴会を行っていた。
「そのまま永眠すれば良かったのに」
「まぁ霊夢ったら、相変わらず酷いわ」
「咲夜、今年の桜はどうかしらね?」
「もうすぐ咲くのではないでしょうか、暖かくなってきましたし」
思い思いの会話を交わす面々。
しかし二名だけ表情の暗い者が居た。パチュリーと藍である。
二人で向かい合って座り、うつむいてお猪口の酒を啜りながら愚痴をこぼしている。
橙は藍に抱きついて泣き叫んでいる。
「最近、泥棒が増えたのよ……」
「橙の頭がぼこぼこになっていた……大分治ったが……」
「藍様ー! 悔しいよー!」
パチュリーは最近新たな魔法を開発した、それは図書館を監視する使い魔の召還術。
今までも使い魔を図書館の防衛に当たらせたりはしたが、あれは下っ端メイドに毛が生えた程度にしか役立たなかった。
今回はそれとは違う、戦闘が目的の使い魔ではない。
「見てよこれ……」
パチュリーが水晶玉を取り出し、その横に使い魔の形をした、ツギハギだらけの人形を置いた。
その人形はアリスに製作を依頼したものだが、魔法をかけたのはパチュリーである。
これは有体に言えば「防犯カメラ」だった、見た映像を保存し、水晶玉に映し出すことができる。
そこに映っているのは永琳、そう『デキる教師のバイブル』を窃盗したときの映像だった。
水晶玉の中の永琳は撮影されているのに気付き、使い魔人形にサマーソルトキックを繰り出して破壊した。
気付いたのは流石だが、その程度で映像の情報が消えると思っていたのはパチュリーへの侮りか。
「こっちも酷いぞ……撫でてみろ」
藍が橙の頭をパチュリーの方へ向けさせる。
言われるままにパチュリーがそれを撫でると、コブだらけでボッコボコだった。
「大分治った」状態でこれなのであれば、藍が初めに見たときはどれほどだったのだろう。
橙は泣いてもいないのにズヒッと鼻を啜る。水をかけられたのもあって風邪気味らしい。
「確かに人里で暴れるのはいけないことだが……ここまでしなくても……」
「藍様ー……」
「寺子屋を訪ねたときも、平気で知らん顔をしていた……忌々しい奴だ……!」
藍は目に涙を浮かべながら橙を抱きしめる。
その涙目には悲しみと共に、怒りと恨みの炎が燃えていた。
妖獣は仲間意識が強い、高位の藍は自己制御もかなり高度に行えるが、それでも悔しいものは悔しい。
ツギハギだらけの人形を手に持つパチュリーの目も同様に燃えている。
窃盗に留まらず、人形をバラバラにするとは何とも大胆不敵。
パチュリーが胃を押さえる、最近はストレスで胃が痛む。
こういうのに詳しそうな永琳が窃盗を行っているというのがまた皮肉な繋がりだった。
治療を頼むに頼めない、腹が立つ。
「八意永琳んんん……!!」
「上白沢慧音ぇぇぇ……!!」
魔理沙も本を盗むが、これは少し前の節分のイベントで散々復讐した。
あれ以来魔理沙は長いこと家に閉じこもっていたらしい、それを考えれば少しは胸がスッとする。
だが、同じぐらいの罰を受けたはずの永琳は回復が早かった、精神力まで蓬莱人だと言うのか。
紅魔館への侵入も朝飯前に行い、人形以外誰にも発見されることなく窃盗を完了している。
その魔力も精神力も知能指数も全てが厄介だ、これからも定期的に盗まれたら最悪である。
パチュリーが咲夜を睨み付ける、それに気付いた咲夜はギョッとしたが、
理由がわからず、冷や汗を垂らしながら頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。
「このダメ猫め、やはり強力なネコイラズが必要だ」パチュリーはそんなことを考えていた。
「ヤツが渡る三途の川幅は、どれほどだ……!!」
藍の怒りっぷりも凄まじい。
手ごろな木の棒を拾ってきて、地面にガリガリと長ったらしい計算式を書き始めた。
お猪口に口をつけながらも、計算は瞬く間に進んでいき……藍は木の棒を投げ捨てて、地団太を踏み始めた。
「これでは零の漸近線じゃないか!! くそっ!! そんなに善行を積んでいるのか、ヤツは!!
ヤツの歴史全てを知っているわけではないから、適当な値を入れた部分も確かにあるが……!!」
「待ちなさい……」
酔っ払ってふらつく足で、パチュリーが藍に歩み寄る。
「なんだ……!!」
「この式には上白沢慧音の歴史のうち『頭突き係数Z』が含まれていないわ」
「むっ……!?」
「頭突きされる対象、人間をH、妖怪をMとし、それらをさらに分類して……」
「しまった、酔いが回ったかな……Hn、nに幻想郷全人口を代入すれば……」
「そうね、そうするとここがこうなって……Mは……レミィや貴女の主に頭突きをした回数が多ければ多いほど、
三途の川の渡し賃が二次関数的にハネ上がるわね……」
二人とも複雑な表情になった、レミリアや紫に頭突きをするのは善行らしい。
もし自分が死にそうになったら、最後に彼女達を呼んで頭突きをしまくろうなどと、そんな薄情なことを思い浮かべた。
ちなみに幽々子への頭突きもかなり高得点だった。
ありえないと思うが、妖夢が今わの際に幽々子を呼んで頭突きしまくる場面を想像した。
異変を起こすやつは基本的に悪人なのだろうか。
「なるほど、これで川幅が少し長くなったわ。流石にヤツの寿命的に零の漸近線はありえない。私としたことが……」
パチュリーの助言により、藍が少しほっとした表情を見せる。
そして次はパチュリーが木の棒を拾い上げ、慧音の川幅の式を元に新たな計算式を書き始めた。
「八意永琳は……」
「簡単だ」
「簡単ね……寿命に比例して罪が重くなるから……」
永琳の三途の川幅は無限大、死ぬことが無い者の三途の川幅の計算は意味が無い、正確には式としても成立しない。
いわゆる「解無し」である。
なんだかパチュリーは少し救われた気がした、そうだ、本を盗んだあいつは悪人だ。
『数字の魔術師』八雲藍の方程式がそれを証明したのだ。
「パチュリー……」
「藍……」
がっしりと握手を交わす二人。
蚊帳の外に出されてしまった橙は、地面に書いてある方程式を見て目を回し、仰向けに倒れていた。
そんな宴会場に、慧音と永琳が雁首揃えて現れたのは運命だったのだろうか。
霊夢が作ってきたおにぎりを嬉しそうに頬張るレミリアが、運命の操作でも行ったというのだろうか。
慧音と永琳は、自分達の争いがこれから邪魔者の介入によって激化するなどと夢にも思わなかった。
~続く~
あと邪悪子供いいね
やっぱりおもしろい。
ちなみに自分も先生に「お母さん」って呼んだことあります。
再教育しなきゃやばいって!w
だからあんな風になっても仕方がない、仕方がないんだよ…!
続編楽しみにしています。
橙はどんだけ頭突き食らったんだw
けーね先生が黒すぎて新鮮
あと藍さまとパチェのコンビがいい味出しすぎですw
今度は永琳と慧音の衝突・・・多分次は藍とパチュリーも加わって・・・
うはぁっ、もう楽しみです!!
ひとつだけ。歴史を創る(編纂する)のに使うのは、「資料」ではなくて「史料」ですね(もちろん「資料」を使うこともしばしばありますが)。慧音大好きの歴史学の一学生として、ちょっと気になりましたので、進言いたします。
久々の投稿でビクビクしてたんですが、暖かいお言葉頂いてほっくほくです。
続きも頑張って書きますねー。
>史料
「資料」でも意味としては通じるんでしょうけど、確かにそうかもしれないですねぇ。
修正しておきましたー。
関係の無い感想を述べていた
生徒がいたようなのは気のせい??
自分も少しうるっとしました。
藍とパチュリーを含んだ今後の展開が楽しみです。