アリス=マーガトロイドの今日の気分は、ここ最近の中で一番良かった。
代わり映えしない何時もの服を着た姿を鏡に映した彼女は、笑顔で髪のわずかな乱れを整えた。
魔理沙と森を散歩。もちろんただ散歩する訳ではない。魔理沙のキノコ狩りの手伝いだ。
しかしアリスにとってはキノコ狩りだとしても、たとえタケノコ取りだとしても、
魔理沙のそばで他愛の無い話をしたり、魔理沙の意地悪な言葉に怒ってみたり、
彼女の太陽のような笑顔を間近で見ることが出来る。それだけでアリスは幸せだ。
「ねぇ上海。私どこかおかしくない?」
鏡でリボンの歪みを調節しながら、桜の様に淡い笑みを浮かべて嬉しそうに尋ねる主人に、
上海は一度首を傾げたが、すぐに笑顔でその質問を否定した。
「そぅ。今日はキノコ狩りだから直ぐ乱れちゃうと思うけど」
ここでアリスは少し言葉を止めた。少し前髪が気に入らない。
真剣な目付きで前髪を整えたアリスは、最後に上海の服と髪を軽く整えた。
「それまでは魔理沙に少しでも可愛く見られたいから。」
上海は嬉しそうにそう呟く主を見上げながら、大人しく髪を梳かれている。
東から登った朝日が上海とアリスの顔を優しく照らしていた。
紅魔館の図書館の一角。
照りつける太陽はここまでは届いてこない。
パチュリーは本棚の整理に勤しんでいた。
本は生きていて、構ってあげないと直ぐに古くなってしまう。
読まない本もたまに整えてあげるだけで長持ちしてくれるものだ。
パチュリーはそう思うことにしている。
そう思っていれば丁寧に本を扱う事もできるし、余り動かない自分への良い運動にもなる。
静寂の中で、本と棚が触れ合う音だけが響いている。
しかしその静寂に僅かな乱れが生じた。
重い図書館の入り口の扉を何者かが開け、こちらに向って来ている。
パチュリーが視線を移す。その人物はパチュリーの良く知る人物だった。
「咲夜。どうかしたの?」
「お茶をお持ち致しました。」
咲夜は軽く頭を下げると、ティーサーバーを置いた。
「パチュリー様。どうして手で直接整理するのですか?こう魔法で…。」
「愚問よ咲夜。」
咲夜の言葉を途中で遮ったパチュリーは本の整理の手を止め、言葉を続けた。
「手で整理しなきゃ『ああ、こんな本もあった』という喜びが感じられないじゃない。
…例えばこれが『こんな本』の一例ね。」
そう言ってパチュリーは一冊の本を手に持ち、咲夜に近づいた。
咲夜はその本を受け取ると表紙をしげしげと眺める。別に魔道書の類ではなさそうだ。
「愛の花言葉ですか。」
「そう…恋愛に関する花言葉を集めた辞典。こんな低俗で下らない本もあるのよ。」
咲夜は首をかしげる。
「素敵な本だと思いますよ?自分の恋心を優しく相手に伝える素敵な暗号です。」
咲夜はパチュリーが本の整理を一旦止め、椅子に座った事を確認すると、
ティーサーバーから紅茶を注いだ。
パチュリーは紅茶を一口飲むと、呆れた口調で言った。
「送る相手が恋する乙女なら通用するでしょうけど、相手は大体男。
男の全てが花言葉を解するとはとても思わないわ。」
咲夜はクスクスと笑う。
「あら、恋する乙女にプレゼントする殿方が参考にするかもしれませんよ?」
「直接思いを伝える手段は、結局は気持ちでは無く言葉や視線なのよ。まぁ…」
パチュリーは渋い顔で紅茶を飲んだ後、溜息のようにゆっくりと言った。
「言いにくい事を言う時には便利かもしれないわね。」
咲夜はそれを聞いて、またクスリと笑った。
太陽が西に傾き始めた。昼間からの晴れ間は少し悪くなり、ところどころに黒い雲が浮かんでいる。
魔理沙はアリスの家の前で右手を軽く上げたまま固まっていた。
「どうしたのよ魔理沙?私の顔に何か付いてる?」
そう言って呆れた顔で、腰に手を当てたアリスが玄関の前に立っていた。
「お前…ノックする前に出てくるなよ…びっくりしたぜ。」
アリスは溜息を吐くと頭痛を堪えるように額に手を当てた。
「あれだけ粗暴に来てくれれば、いくらなんでも分かるわよ。全く、
私はそんなに暇じゃないの。さっさとキノコ狩りに行くわよ?」
そう言ってアリスは不機嫌そうに魔理沙の横をすり抜け、表に出た。
魔理沙は気を取り直してアリスの横に並び、歩き始めた。
キノコ狩りと言っても飛行が必要なほどの大規模な移動は行わない、アリスの家の近くで徒歩での採集だ。
魔理沙はニコニコ笑いながら日常生活であったことを話している。
アリスは少し不機嫌そうな顔でその話を黙って聞く。
「でさ、チルノがスイカに頭から突っ込んでスイカがヘルメットみたいにさ…」
「ふ~ん。」
「そんでまた笑えるのがさ…」
「あらそう…メルランが宙を舞った後は?」
口ではつまらなそうにしているが、アリスは魔理沙の話をしっかり聞いている。
内心はずっとずっとこのままで居たいのだが、魔理沙に自分の心を気付かれるのが、
アリスは少しだけ怖かった。
魔理沙は人気者だ。色々な人が魔理沙を好きだと思っている。
それがライクなのかラブなのかは人それぞれだが、もし魔理沙に自分の気持ちが分かってしまったら
アリスの気持ちを重く思った魔理沙がもしかしたら、自分から離れて行くかも知れない。
その恐怖がアリスを素直にさせない。
「魔理沙。私達は何をしに来たのかしら?」
魔理沙の饒舌を咎めるようにアリスは冷たい視線を魔理沙に向けた。
魔理沙はちょっと悲しそうな表情をしたが、すぐに笑顔になって髪をガシガシと掻いた。
「いや、悪いな。わざわざ手伝ってもらったのにこっちが真面目じゃなくて。
じゃあ私はこっちを探すからアリスはあっちを探してくれ。」
そう言って右に行こうとした魔理沙の服をアリスは控えめに引っ張った。
魔理沙が不思議そうな表情でアリスの顔を見た、魔理沙の目では薄暗さで俯いたアリスの表情は読み取れない。
「馬鹿ね。私の家の近くとはいえ夜は危険だわ。一緒に行動しないとだめじゃない。ほら…」
そう言ってアリスは魔理沙の服を引っ張っていた手を離すと、魔理沙の胸の前に突き出した。
魔理沙が困った表情を浮かべてアリスの手を眺める。
「ん?ああ…明かりを忘れたのか。」
そう言って懐から明かりを取り出そうとした魔理沙に、アリスは少し強い口調で言った。
「馬鹿…明かりがあっても辺りは暗いわ。危ないから手を繋いで欲しいの。
私はアウトドア派の貴方と違ってインドア派で、こんな森の中を徒歩で歩くのは苦手なの。
それに私は協力者よ?少しは気を使ってよ。」
魔理沙は素直に頷くとアリスの差し出された手を取った。魔理沙の手にアリスの手の温もりが伝わってくる。
「じゃあ行こうぜ。気をつけろよアリス。確かにインドア派のお前にはちょっと怖いかもな。」
そう言って魔理沙はアリスの手を優しく引きながらキノコを探し始めた。
「………」
アリスの思考回路は少しばかり熱で狂い始めた。
魔理沙の柔らかい手が、魔理沙の温かさが自分の手に伝わってくるこの嬉しさ。
俯き、闇の薄暗さで分からないが、アリスの頬はまるで熱があるように上気している。
恋する乙女は大好きな思い人に手を引かれ、太陽の沈んだ暗い森でキノコ狩りを始めた。
「ねぇー霊夢。」
チルノは神社の賽銭箱の上に座っていた。その頭には見事にフルフェイスヘルメットのように
大きなスイカが刺さっていた。しかし霊夢はその異様な光景から目を反らし、ご飯を食べていた。
「霊夢ったら~。」
チルノが頭を左右に振る。しかし霊夢は味噌汁を飲みながら無視を決め込む。
「れ~~~~い~~~~~む~~~~~」
チルノもヤケになったらしく、今度は前後左右に頭を高速で振り始めた。
「ああああああああもう!分かったわよ!」
霊夢も流石にここまで来ると無視できなかったらしく、チルノの側まで寄ってきた。
「うぁああああ目が~目が~回る~。」
なにやらフラフラしているチルノを無視して、とりあえず霊夢はスイカをポンポンと平手で叩いてみる。
音からして、しっかりと詰まっていてとてもおいしそうだ。
とりあえず何故スイカが頭に刺さっているかは聞くまい、霊夢はそう思った。聞くとろくな事が起こらない確信が在る。
「ん~む。包丁で切ってみようかしら?」
顎に手を当てて霊夢がボソリと言った。その瞬間スイカから恐怖に震えるチルノの声がした。
「だ…だめだよ。あたいの頭まで切れたらどうするの?」
「アンタの頭は切れても大丈夫。中が空だし。」
そう言って霊夢は緑茶で喉を潤すと、台所に包丁を取りに行った。
1分後、見事に両断された後、食べ易いように切り分けられたスイカを前に
チルノと霊夢は向かい合って座っていた。
「ふぅ~助かった…ありがとう霊夢。お礼に良いこと教えてあげる。」
「いいわよ別に…ロクな情報じゃないでしょ?あ、このスイカこの季節にしては美味しい…。」
チルノもスイカを食べながら反論する。
「何よその言い草、おいしいキノコがアリスの家の近くに大発生してるって言いたかっただけなのに。」
「それ本当?」
霊夢の目が輝いた。しかしスイカは食べ続ける。チルノは頷いた。
「うん。魔理沙から聞いたの。」
経済難の霊夢にとってその情報は何よりの報酬だ。
これで今週は…いやもしかしたら今月はキノコ料理で乗り切れるかもしれない。
「それは良い情報ね。ありがとうチルノ。」
そう言って霊夢はチルノの頭をポンポンと叩いた。
スッカスカの空洞の音がした。
もう何時間こうしているだろうか。アリスの心は晴れ晴れとしていた。天気がさらに悪くなり
湿気が増えてきたが、今のアリスには問題ない。カゴの中のキノコはもう一杯だ。
そろそろ帰らなければならない事がアリスはとても残念だった。
魔理沙の方のカゴも一杯になったらしく、額の汗を拭った魔理沙がアリスににっこりと笑って言った。
「いやーサンキューアリス。これでしばらく研究材料に困らないぜ。」
アリスは慌てて不機嫌そうな顔を作ると頷いた。
「まぁ、感謝してくれるのは嬉しいわ。でもこれは貸しよ?」
魔理沙は困ったように笑った。そして、何かを思いついたらしくアリスの手を突然握った。
「なっ!何よ!」
アリスの心臓が高鳴る。魔理沙はグイグイとアリスを引っ張った。
繋がった手から自分の鼓動の高まりが気づかれないか、アリスはそう心配しながらも
魔理沙に引かれるがまま森の中を進んでいった。
どれだけ進んだだろうか。森の少し開けた場所で魔理沙はアリスの手を離した。
「な…なによ。こんな場所に連れて来て。」
魔理沙はアリスと少し距離を離すと両手を広げた。
「この場所はすごく美味いキノコが群生している場所なんだ。」
「だから?」
「まぁ焦るな。このキノコはもう一つ特徴があってな。」
そう言って魔理沙は一つのキノコにフッと息を吹きかけた。
するとそのキノコの胞子が宙を舞い、別のキノコを光らせる。
光ったキノコはまた胞子を飛ばし、他のキノコを光らせる。
そして見る見るうちに辺り一面が、綺麗で柔らかな光に包まれた。
それはとても幻想的で、美しい光景だった。
「綺麗…。」
不機嫌という偽りの仮面を落としたアリスが、素直に微笑を浮かべて言った。
薄明かりでぼんやりと映る魔理沙も笑顔で両手を広げたまま応える。
「だろ?この場所はこの時期とっても綺麗なんだ。アリス。お前だから教えるんだぞ?
これは私からのささやかなお礼だ。」
「あ…ありがとう…。」
アリスの素直なお礼。それに魔理沙は満足した表情だ。
「あ…あのね…魔理沙…。」
アリスの心はこの幻想的な光で嘘をつけなくなっていた。もじもじと両手をすり合わせ、
俯きながらアリスはゆっくりと言葉を繋げる。
「私ね…魔理沙が…何時も来てくれるの嬉しいのよ?私、と…友達居ないから。」
魔理沙は笑いながらその言葉を聞く。アリスは少し魔理沙に近づいた。
「あ…あと…今日、私に優しくしてくれた事も嬉しかった。」
「気にするな。私とアリスの仲じゃないか。」
魔理沙も少し俯いて頬をポリポリと掻く。アリスがもう一歩魔理沙に近づいた。もう手を伸ばせば
魔理沙を抱ける位に。アリスはちょっとだけ勇気を振り絞った、魔理沙が離れるかもしれない恐怖を
この幻想的な光で打ち消しながら。
「魔理沙…私…貴方が大好きなの。」
「ん?ああ、友達としてか。うれしいぜ。みんなやれゴキブリだの白黒だの言ってくれるからな。」
そう言って魔理沙は困ったように笑う。それを聞いてアリスは魔理沙の両手を取った。
二人が持っていたカゴが落ち、キノコが地面に散らばった。
二人の視線が光の中でぼんやりと合う。アリスは紅潮した頬で精一杯の勇気で言った。
「違うの魔理沙。私は貴方に恋をしているの。私は…魔理沙が…」
魔理沙の頬が真っ赤に染まる。そして魔理沙は俯くとアリスの手を振りほどいた。
「あっ…」
アリスが悲しそうに眉を歪めた。魔理沙は俯いたまましばらく黙っていた。
「ご…ごめんね魔理沙…そうだよね…いきなりこんなこと言われても…。」
アリスが悲しそうに俯く。魔理沙は顔を上げた、その笑顔は苦笑いだった。
「ごめんなアリス…私は…霊夢が好きなんだ。本当にごめん。」
それを聞いた瞬間アリスは、自分の心の一番大事な部分が砕け散った気がした。
魔理沙は霊夢が好きなんだ。なんて悲しい。なんて絶望的な事実だろうか。
不思議な事に涙は一滴も出なかった。しかし、目の前が何だか分からない。
目に入る景色が、耳から入る音が、匂いが、感触が、全てが理解できなくなった。
「ごめん…アリス…。」
魔理沙はずっと謝ってくれている。でもどうしてだろう、その言葉が心まで届かない。
クラクラする意識をなんとか保ちながらアリスは偽りの仮面をかぶった。
心が壊れないように、これ以上痛みを感じないために。
「あはは…冗談よ冗談!マリサったら霊夢が好きなのね。良い事を聞いちゃった。」
そう言ってアリスは魔理沙に背を向けると、溜息混じりにこう言った。
「じゃあね魔理沙。霊夢とせいぜいイチャイチャしてなさいよ。私は一人の方が性に合っているの。
誰か居ないといけないなんて冗談よ。」
そう言ってアリスは暗い夜空に飛び去って行った。
魔理沙は地面に散らばったキノコを拾い集めていた。すると不意に誰かがキノコを拾う。
「霊夢…。」
魔理沙が驚いた表情を浮かべた。霊夢はニッコリと笑うと魔理沙にキノコを渡す。
「あら魔理沙。愛しの霊夢に向って随分な表情ね。」
「聞いてたのか。まぁ、あいつの冗談に対抗してやったやっただけだぜ。別にお前に興味はない。」
魔理沙が笑った。霊夢も笑顔のままだ。
「でしょうね。」
次の瞬間霊夢の顔が無表情になった。その目は冷たく、まるで魔理沙を殺さんばかりの鋭さだ。
霊夢は真っ直ぐ魔理沙を見ながら、とても静かな声で言った。
「ねぇ?本当にそう思って言っているの?」
魔理沙はその瞳から目を逸らすと頷いた。
「ああ、私は霊夢にもアリスにも恋愛感情を抱いていない。」
「へぇ…。」
霊夢が笑った。しかしその目は冷たく、口も牙をむく獣のようだ。
次の瞬間魔理沙の視界は大きく歪んだ。そして頬を襲う痛みと乾いた音。
バシィイイイン
闇夜に響いた音は霊夢が魔理沙の頬を叩いた音。音は森の中に響き、そして消えた。
「魔理沙。しばらく神社には来ないで。貴方の顔すら見たくないわ。」
霊夢は頬を押さえている魔理沙を無視してキノコを採集し始めた。
魔理沙は先ほどのビンタでまた散らばったキノコを黙って回収する。
全て集め終えると、何も言わずに背中を向ける。その背中に霊夢が暗い声で言った。
「私はね、欲しくて欲しくてしょうがなくて盗んだものを、一時の迷いや恥ずかしさで、
盗まれた本人の目の前で壊すような馬鹿は嫌いなのよ。」
「意味が分からないぜ。」
魔理沙がポツリと言う。それを聞いて霊夢が笑った。
「じゃあ一生貴方は神社に出入り禁止ね。二度と来ないで。
私はもう帰るわ、これが今生の別れになるなんてね魔理沙。」
霊夢は魔理沙を一瞥する事も無く帰って行った。
一人残された魔理沙は、帰り道に足を向けた。
ポツリポツリ
この季節にしては冷たい雫が空から魔理沙の顔に落ち、すぐに雨に変わった。
薄く幻想的な輝きを持っていたキノコは光を失い、全ては暗い夜の世界に飲み込まれて行った。
(続く)
代わり映えしない何時もの服を着た姿を鏡に映した彼女は、笑顔で髪のわずかな乱れを整えた。
魔理沙と森を散歩。もちろんただ散歩する訳ではない。魔理沙のキノコ狩りの手伝いだ。
しかしアリスにとってはキノコ狩りだとしても、たとえタケノコ取りだとしても、
魔理沙のそばで他愛の無い話をしたり、魔理沙の意地悪な言葉に怒ってみたり、
彼女の太陽のような笑顔を間近で見ることが出来る。それだけでアリスは幸せだ。
「ねぇ上海。私どこかおかしくない?」
鏡でリボンの歪みを調節しながら、桜の様に淡い笑みを浮かべて嬉しそうに尋ねる主人に、
上海は一度首を傾げたが、すぐに笑顔でその質問を否定した。
「そぅ。今日はキノコ狩りだから直ぐ乱れちゃうと思うけど」
ここでアリスは少し言葉を止めた。少し前髪が気に入らない。
真剣な目付きで前髪を整えたアリスは、最後に上海の服と髪を軽く整えた。
「それまでは魔理沙に少しでも可愛く見られたいから。」
上海は嬉しそうにそう呟く主を見上げながら、大人しく髪を梳かれている。
東から登った朝日が上海とアリスの顔を優しく照らしていた。
紅魔館の図書館の一角。
照りつける太陽はここまでは届いてこない。
パチュリーは本棚の整理に勤しんでいた。
本は生きていて、構ってあげないと直ぐに古くなってしまう。
読まない本もたまに整えてあげるだけで長持ちしてくれるものだ。
パチュリーはそう思うことにしている。
そう思っていれば丁寧に本を扱う事もできるし、余り動かない自分への良い運動にもなる。
静寂の中で、本と棚が触れ合う音だけが響いている。
しかしその静寂に僅かな乱れが生じた。
重い図書館の入り口の扉を何者かが開け、こちらに向って来ている。
パチュリーが視線を移す。その人物はパチュリーの良く知る人物だった。
「咲夜。どうかしたの?」
「お茶をお持ち致しました。」
咲夜は軽く頭を下げると、ティーサーバーを置いた。
「パチュリー様。どうして手で直接整理するのですか?こう魔法で…。」
「愚問よ咲夜。」
咲夜の言葉を途中で遮ったパチュリーは本の整理の手を止め、言葉を続けた。
「手で整理しなきゃ『ああ、こんな本もあった』という喜びが感じられないじゃない。
…例えばこれが『こんな本』の一例ね。」
そう言ってパチュリーは一冊の本を手に持ち、咲夜に近づいた。
咲夜はその本を受け取ると表紙をしげしげと眺める。別に魔道書の類ではなさそうだ。
「愛の花言葉ですか。」
「そう…恋愛に関する花言葉を集めた辞典。こんな低俗で下らない本もあるのよ。」
咲夜は首をかしげる。
「素敵な本だと思いますよ?自分の恋心を優しく相手に伝える素敵な暗号です。」
咲夜はパチュリーが本の整理を一旦止め、椅子に座った事を確認すると、
ティーサーバーから紅茶を注いだ。
パチュリーは紅茶を一口飲むと、呆れた口調で言った。
「送る相手が恋する乙女なら通用するでしょうけど、相手は大体男。
男の全てが花言葉を解するとはとても思わないわ。」
咲夜はクスクスと笑う。
「あら、恋する乙女にプレゼントする殿方が参考にするかもしれませんよ?」
「直接思いを伝える手段は、結局は気持ちでは無く言葉や視線なのよ。まぁ…」
パチュリーは渋い顔で紅茶を飲んだ後、溜息のようにゆっくりと言った。
「言いにくい事を言う時には便利かもしれないわね。」
咲夜はそれを聞いて、またクスリと笑った。
太陽が西に傾き始めた。昼間からの晴れ間は少し悪くなり、ところどころに黒い雲が浮かんでいる。
魔理沙はアリスの家の前で右手を軽く上げたまま固まっていた。
「どうしたのよ魔理沙?私の顔に何か付いてる?」
そう言って呆れた顔で、腰に手を当てたアリスが玄関の前に立っていた。
「お前…ノックする前に出てくるなよ…びっくりしたぜ。」
アリスは溜息を吐くと頭痛を堪えるように額に手を当てた。
「あれだけ粗暴に来てくれれば、いくらなんでも分かるわよ。全く、
私はそんなに暇じゃないの。さっさとキノコ狩りに行くわよ?」
そう言ってアリスは不機嫌そうに魔理沙の横をすり抜け、表に出た。
魔理沙は気を取り直してアリスの横に並び、歩き始めた。
キノコ狩りと言っても飛行が必要なほどの大規模な移動は行わない、アリスの家の近くで徒歩での採集だ。
魔理沙はニコニコ笑いながら日常生活であったことを話している。
アリスは少し不機嫌そうな顔でその話を黙って聞く。
「でさ、チルノがスイカに頭から突っ込んでスイカがヘルメットみたいにさ…」
「ふ~ん。」
「そんでまた笑えるのがさ…」
「あらそう…メルランが宙を舞った後は?」
口ではつまらなそうにしているが、アリスは魔理沙の話をしっかり聞いている。
内心はずっとずっとこのままで居たいのだが、魔理沙に自分の心を気付かれるのが、
アリスは少しだけ怖かった。
魔理沙は人気者だ。色々な人が魔理沙を好きだと思っている。
それがライクなのかラブなのかは人それぞれだが、もし魔理沙に自分の気持ちが分かってしまったら
アリスの気持ちを重く思った魔理沙がもしかしたら、自分から離れて行くかも知れない。
その恐怖がアリスを素直にさせない。
「魔理沙。私達は何をしに来たのかしら?」
魔理沙の饒舌を咎めるようにアリスは冷たい視線を魔理沙に向けた。
魔理沙はちょっと悲しそうな表情をしたが、すぐに笑顔になって髪をガシガシと掻いた。
「いや、悪いな。わざわざ手伝ってもらったのにこっちが真面目じゃなくて。
じゃあ私はこっちを探すからアリスはあっちを探してくれ。」
そう言って右に行こうとした魔理沙の服をアリスは控えめに引っ張った。
魔理沙が不思議そうな表情でアリスの顔を見た、魔理沙の目では薄暗さで俯いたアリスの表情は読み取れない。
「馬鹿ね。私の家の近くとはいえ夜は危険だわ。一緒に行動しないとだめじゃない。ほら…」
そう言ってアリスは魔理沙の服を引っ張っていた手を離すと、魔理沙の胸の前に突き出した。
魔理沙が困った表情を浮かべてアリスの手を眺める。
「ん?ああ…明かりを忘れたのか。」
そう言って懐から明かりを取り出そうとした魔理沙に、アリスは少し強い口調で言った。
「馬鹿…明かりがあっても辺りは暗いわ。危ないから手を繋いで欲しいの。
私はアウトドア派の貴方と違ってインドア派で、こんな森の中を徒歩で歩くのは苦手なの。
それに私は協力者よ?少しは気を使ってよ。」
魔理沙は素直に頷くとアリスの差し出された手を取った。魔理沙の手にアリスの手の温もりが伝わってくる。
「じゃあ行こうぜ。気をつけろよアリス。確かにインドア派のお前にはちょっと怖いかもな。」
そう言って魔理沙はアリスの手を優しく引きながらキノコを探し始めた。
「………」
アリスの思考回路は少しばかり熱で狂い始めた。
魔理沙の柔らかい手が、魔理沙の温かさが自分の手に伝わってくるこの嬉しさ。
俯き、闇の薄暗さで分からないが、アリスの頬はまるで熱があるように上気している。
恋する乙女は大好きな思い人に手を引かれ、太陽の沈んだ暗い森でキノコ狩りを始めた。
「ねぇー霊夢。」
チルノは神社の賽銭箱の上に座っていた。その頭には見事にフルフェイスヘルメットのように
大きなスイカが刺さっていた。しかし霊夢はその異様な光景から目を反らし、ご飯を食べていた。
「霊夢ったら~。」
チルノが頭を左右に振る。しかし霊夢は味噌汁を飲みながら無視を決め込む。
「れ~~~~い~~~~~む~~~~~」
チルノもヤケになったらしく、今度は前後左右に頭を高速で振り始めた。
「ああああああああもう!分かったわよ!」
霊夢も流石にここまで来ると無視できなかったらしく、チルノの側まで寄ってきた。
「うぁああああ目が~目が~回る~。」
なにやらフラフラしているチルノを無視して、とりあえず霊夢はスイカをポンポンと平手で叩いてみる。
音からして、しっかりと詰まっていてとてもおいしそうだ。
とりあえず何故スイカが頭に刺さっているかは聞くまい、霊夢はそう思った。聞くとろくな事が起こらない確信が在る。
「ん~む。包丁で切ってみようかしら?」
顎に手を当てて霊夢がボソリと言った。その瞬間スイカから恐怖に震えるチルノの声がした。
「だ…だめだよ。あたいの頭まで切れたらどうするの?」
「アンタの頭は切れても大丈夫。中が空だし。」
そう言って霊夢は緑茶で喉を潤すと、台所に包丁を取りに行った。
1分後、見事に両断された後、食べ易いように切り分けられたスイカを前に
チルノと霊夢は向かい合って座っていた。
「ふぅ~助かった…ありがとう霊夢。お礼に良いこと教えてあげる。」
「いいわよ別に…ロクな情報じゃないでしょ?あ、このスイカこの季節にしては美味しい…。」
チルノもスイカを食べながら反論する。
「何よその言い草、おいしいキノコがアリスの家の近くに大発生してるって言いたかっただけなのに。」
「それ本当?」
霊夢の目が輝いた。しかしスイカは食べ続ける。チルノは頷いた。
「うん。魔理沙から聞いたの。」
経済難の霊夢にとってその情報は何よりの報酬だ。
これで今週は…いやもしかしたら今月はキノコ料理で乗り切れるかもしれない。
「それは良い情報ね。ありがとうチルノ。」
そう言って霊夢はチルノの頭をポンポンと叩いた。
スッカスカの空洞の音がした。
もう何時間こうしているだろうか。アリスの心は晴れ晴れとしていた。天気がさらに悪くなり
湿気が増えてきたが、今のアリスには問題ない。カゴの中のキノコはもう一杯だ。
そろそろ帰らなければならない事がアリスはとても残念だった。
魔理沙の方のカゴも一杯になったらしく、額の汗を拭った魔理沙がアリスににっこりと笑って言った。
「いやーサンキューアリス。これでしばらく研究材料に困らないぜ。」
アリスは慌てて不機嫌そうな顔を作ると頷いた。
「まぁ、感謝してくれるのは嬉しいわ。でもこれは貸しよ?」
魔理沙は困ったように笑った。そして、何かを思いついたらしくアリスの手を突然握った。
「なっ!何よ!」
アリスの心臓が高鳴る。魔理沙はグイグイとアリスを引っ張った。
繋がった手から自分の鼓動の高まりが気づかれないか、アリスはそう心配しながらも
魔理沙に引かれるがまま森の中を進んでいった。
どれだけ進んだだろうか。森の少し開けた場所で魔理沙はアリスの手を離した。
「な…なによ。こんな場所に連れて来て。」
魔理沙はアリスと少し距離を離すと両手を広げた。
「この場所はすごく美味いキノコが群生している場所なんだ。」
「だから?」
「まぁ焦るな。このキノコはもう一つ特徴があってな。」
そう言って魔理沙は一つのキノコにフッと息を吹きかけた。
するとそのキノコの胞子が宙を舞い、別のキノコを光らせる。
光ったキノコはまた胞子を飛ばし、他のキノコを光らせる。
そして見る見るうちに辺り一面が、綺麗で柔らかな光に包まれた。
それはとても幻想的で、美しい光景だった。
「綺麗…。」
不機嫌という偽りの仮面を落としたアリスが、素直に微笑を浮かべて言った。
薄明かりでぼんやりと映る魔理沙も笑顔で両手を広げたまま応える。
「だろ?この場所はこの時期とっても綺麗なんだ。アリス。お前だから教えるんだぞ?
これは私からのささやかなお礼だ。」
「あ…ありがとう…。」
アリスの素直なお礼。それに魔理沙は満足した表情だ。
「あ…あのね…魔理沙…。」
アリスの心はこの幻想的な光で嘘をつけなくなっていた。もじもじと両手をすり合わせ、
俯きながらアリスはゆっくりと言葉を繋げる。
「私ね…魔理沙が…何時も来てくれるの嬉しいのよ?私、と…友達居ないから。」
魔理沙は笑いながらその言葉を聞く。アリスは少し魔理沙に近づいた。
「あ…あと…今日、私に優しくしてくれた事も嬉しかった。」
「気にするな。私とアリスの仲じゃないか。」
魔理沙も少し俯いて頬をポリポリと掻く。アリスがもう一歩魔理沙に近づいた。もう手を伸ばせば
魔理沙を抱ける位に。アリスはちょっとだけ勇気を振り絞った、魔理沙が離れるかもしれない恐怖を
この幻想的な光で打ち消しながら。
「魔理沙…私…貴方が大好きなの。」
「ん?ああ、友達としてか。うれしいぜ。みんなやれゴキブリだの白黒だの言ってくれるからな。」
そう言って魔理沙は困ったように笑う。それを聞いてアリスは魔理沙の両手を取った。
二人が持っていたカゴが落ち、キノコが地面に散らばった。
二人の視線が光の中でぼんやりと合う。アリスは紅潮した頬で精一杯の勇気で言った。
「違うの魔理沙。私は貴方に恋をしているの。私は…魔理沙が…」
魔理沙の頬が真っ赤に染まる。そして魔理沙は俯くとアリスの手を振りほどいた。
「あっ…」
アリスが悲しそうに眉を歪めた。魔理沙は俯いたまましばらく黙っていた。
「ご…ごめんね魔理沙…そうだよね…いきなりこんなこと言われても…。」
アリスが悲しそうに俯く。魔理沙は顔を上げた、その笑顔は苦笑いだった。
「ごめんなアリス…私は…霊夢が好きなんだ。本当にごめん。」
それを聞いた瞬間アリスは、自分の心の一番大事な部分が砕け散った気がした。
魔理沙は霊夢が好きなんだ。なんて悲しい。なんて絶望的な事実だろうか。
不思議な事に涙は一滴も出なかった。しかし、目の前が何だか分からない。
目に入る景色が、耳から入る音が、匂いが、感触が、全てが理解できなくなった。
「ごめん…アリス…。」
魔理沙はずっと謝ってくれている。でもどうしてだろう、その言葉が心まで届かない。
クラクラする意識をなんとか保ちながらアリスは偽りの仮面をかぶった。
心が壊れないように、これ以上痛みを感じないために。
「あはは…冗談よ冗談!マリサったら霊夢が好きなのね。良い事を聞いちゃった。」
そう言ってアリスは魔理沙に背を向けると、溜息混じりにこう言った。
「じゃあね魔理沙。霊夢とせいぜいイチャイチャしてなさいよ。私は一人の方が性に合っているの。
誰か居ないといけないなんて冗談よ。」
そう言ってアリスは暗い夜空に飛び去って行った。
魔理沙は地面に散らばったキノコを拾い集めていた。すると不意に誰かがキノコを拾う。
「霊夢…。」
魔理沙が驚いた表情を浮かべた。霊夢はニッコリと笑うと魔理沙にキノコを渡す。
「あら魔理沙。愛しの霊夢に向って随分な表情ね。」
「聞いてたのか。まぁ、あいつの冗談に対抗してやったやっただけだぜ。別にお前に興味はない。」
魔理沙が笑った。霊夢も笑顔のままだ。
「でしょうね。」
次の瞬間霊夢の顔が無表情になった。その目は冷たく、まるで魔理沙を殺さんばかりの鋭さだ。
霊夢は真っ直ぐ魔理沙を見ながら、とても静かな声で言った。
「ねぇ?本当にそう思って言っているの?」
魔理沙はその瞳から目を逸らすと頷いた。
「ああ、私は霊夢にもアリスにも恋愛感情を抱いていない。」
「へぇ…。」
霊夢が笑った。しかしその目は冷たく、口も牙をむく獣のようだ。
次の瞬間魔理沙の視界は大きく歪んだ。そして頬を襲う痛みと乾いた音。
バシィイイイン
闇夜に響いた音は霊夢が魔理沙の頬を叩いた音。音は森の中に響き、そして消えた。
「魔理沙。しばらく神社には来ないで。貴方の顔すら見たくないわ。」
霊夢は頬を押さえている魔理沙を無視してキノコを採集し始めた。
魔理沙は先ほどのビンタでまた散らばったキノコを黙って回収する。
全て集め終えると、何も言わずに背中を向ける。その背中に霊夢が暗い声で言った。
「私はね、欲しくて欲しくてしょうがなくて盗んだものを、一時の迷いや恥ずかしさで、
盗まれた本人の目の前で壊すような馬鹿は嫌いなのよ。」
「意味が分からないぜ。」
魔理沙がポツリと言う。それを聞いて霊夢が笑った。
「じゃあ一生貴方は神社に出入り禁止ね。二度と来ないで。
私はもう帰るわ、これが今生の別れになるなんてね魔理沙。」
霊夢は魔理沙を一瞥する事も無く帰って行った。
一人残された魔理沙は、帰り道に足を向けた。
ポツリポツリ
この季節にしては冷たい雫が空から魔理沙の顔に落ち、すぐに雨に変わった。
薄く幻想的な輝きを持っていたキノコは光を失い、全ては暗い夜の世界に飲み込まれて行った。
(続く)