お父さん、お母さん。
優しかったお父さん、お母さんは、馬車の事故で死んじゃったのです。
わたしはみんなで暮らしていた屋敷の前で、ひとりで立っていました。
さみしくて、さみしくて。
家族とはなればなれになるのがつらくてつらくて、いやでいやでたまらなくて。
あのころが懐かしかったのです。
みんなで屋敷のサロンにあつまって、お父さんが呼んでくれた音楽家さんの演奏を聴いたり、みんなで習っていた楽器を聴かせあったりするのが、とても楽しくて、懐かしかったのです。
わたしには、お姉ちゃんが三人いました。
優しくて、明るくて、面白くて、いつもわたしと遊んでくれたお姉ちゃんたち。
わたしは、お姉ちゃんたちが大好きでした。
いちばん上のお姉ちゃんの名前は、ルナサ。
ふたつめのお姉ちゃんの名前は、メルラン。
さんばんめのお姉ちゃんの名前は、リリカ。
そしてわたし。わたしはよんばんめの、妹でした。わたしは、末っ子でした。
わたしの名前は、レイラといいます。
みょうじはプリズムリバーというので、続けて読むと、レイラ・プリズムリバーといいます。
わたしたちは、プリズムリバーの四姉妹、でした。
お父さんお母さんが死んだ後、わたし達姉妹はべつべつの親戚の家にもらわれることになりました。
わたしをもらってくれた叔父さんは、わたしに冷たかったのです。
わたしがマナーのことなんかでしっぱいすると、いつもわたしにどなりました。
きっと、叔父さんの家では、わたしはいらない子だったのです。
叔父さんは、結婚もしていなかったし、本当はこどもなんかほしくなかったのです。
でも、お父さんの末の弟だったから、親戚の手前上、わたしを引き取らなくちゃいけなくなったんだ。
わたしはそう考えました。
お父さんのお葬式のときに会うまでは、わたしはこの叔父さんのことを全然知らなかったし、親戚のおばさんたちがうわさしていたのを聞いてしまったのです。
お父さんの財産をそうぞくするためには、わけまえにあずかるためには、いやでも娘たちを引き取らなくちゃいけない。
おばさんたちは、そう話していたのです。
きっと、叔父さんもそういうつもりなのです。
だから、優しくしてくれないのです。
だから、わたしは、この屋敷に帰ってくるしかなかったのです。
ここしか、わたしに優しくしてくれる場所はないのですから。
屋敷のげんかんの門には、鍵がかかっていました。
だけど、わたしは秘密の裏口をしっていました。
そこから屋敷のなかに入ることができました。
わたしは、めしつかいの子に、火打ち石の使い方を教えてもらったことがあります。
わたしは隠してあったしょくだいに火を灯して、窓がしめきられた屋敷のなかをあるきました。
しょくだいには、ロウソクが三本つけられるようになっていました。
屋敷の中はとてもくらかったけど、どこもかしこもわたしの覚えている場所ばかりなのですから、迷ったりすることなんてありません。
掃除されていないから、ほこりがいっぱいで、汚れてはいましたけど、わたしはやっぱり自分の家に帰ってきたことで安心した気持ちになれました。
わたしの部屋も、お姉ちゃんたちの部屋も、前のままでした。
叔父さんは「屋敷のものをいずれ整理しなければいけない」と言っていましたが、まだ家具は運び出されていませんでした。
額縁に入れられたねうちものの絵や、壺や置物なんかは、おばさんたちが取っていっちゃった後でしたけど。
ただひとつ、お父さんが東洋の島国で見つけたという、使い道のわからない品物だけは残っていて、げんかんの前の棚の上におかれていました。
へんてこなものだったから、おばさんたちにも値打ちがわからなかったのでしょう。
わたしはサロンにいって、叔父さんの家から持ってきた自分のフルートを吹きました。
でも、ここにはお姉ちゃんたちの使っていた楽器がありません。
ルナサお姉ちゃんのヴァイオリンも、メルランお姉ちゃんのトランペットも、リリカお姉さんのピアノもありません。
お姉ちゃんたちがいません。
それでも、わたしは昔を思い出しながら、いっしょうけんめいフルートを吹きました。
とおいところにいる、お姉ちゃんたちにもきかせようと、せいいっぱい大きな音で吹きました。
そうしていれば、わたしの笛の音を聞きつけたお姉ちゃんたちが、帰ってきてくれるような気がしたのです。
しばらくそうやって楽器を吹いていると、眠くなってきました。
わたしは、楽器をかたづけて、自分の部屋にもどりました。
わたしは、自分のベッドで横になりました。
シーツがなかったけど、毛布がなかったけど、夏だったので、それほど寒くありませんでした。
うつらうつら、うとうと、うとうと。
わたしは、たくさん歩いたこともあって、すぐに眠ってしまいました。
あかい、あかい、ゆらめきが見えました。
あつい、あつい、かぜがふいている気がしました。
わたしは目をあけました。
なんてことでしょう。
目の前に燃え盛る炎が。
カーテンに火がついて、カーペットに火がついて、めらめらという音が聞こえました。
火事です。お屋敷が燃えているのです。
わたしはカーテンを引きはがそうとしましたけど、もう布地のほとんどに火が付いてしまっていて、熱くて近寄れませんでした。
わたしはあわてて、台所にむかって走りました。
そのときに、部屋をでるときに見たあれは、倒れているあれは、見覚えのあるものです。
まさか…わたしが…わたしがつけっぱなしにしたロウソクが?
わたしは、井戸で水をくんでバケツに入れて、重いそれを持って必死に走りました。
重かったので、走ってもほとんど歩いているのと変わらない速さだったけど、それでも急ぎました。
部屋に戻ってみると、火はかなり広がっていました。
もう、壁にも本棚にも、火が燃え移っています。
わたしはバケツの水をまきました。
何回か、そういうことを繰り返しました。台所と部屋を、いったりきたりしました。
涙ぐみながら、自分のしてしまったかもしれないことにひどい後悔をしながら、わたしはバケツの水をまきました。
火の勢いは強まるばかりで、いっこうにおさまってくれませんでした。
隣の部屋にも火が燃え移っていきました。
廊下にまで火が広がっていきました。
屋根も柱も床も、赤い熱いほのおの中に飲まれていきました。
ものすごい煙がもうもうとふき上げてきました。
それを吸ってしまったわたしは、頭がくらくらとしてきました。
わたしはごほん、ごほんとせきをして、床にへたれこんでしまいました。
とても苦しくて、悲しくて、そして情けない気持ちになりました。
その間にも、火はどんどんと、どんどんとわたしの暮らしていた屋敷を焼いてゆきます。
わたしたちが暮らした屋敷が燃えてゆきます。
わたしたちの思い出が燃えてゆきます。
お父さん、お母さん、お姉ちゃんたちとの思い出が燃えてゆきます。
お願い、やめて。
お願い、やめて。
やめて、やめて。
やめて、やめて、やめて、やめて、やめて!!
とても怖くなったのです。とても恐ろしくなったのです。とても悲しくなったのです。
わたしは、叫び声をあげました。駄々っ子のように、泣き声をはりあげました。
でも、そんなことをしたところで、火が消えてくれるはずもありません。
そのとき、ふいに目の前がちかちかしました。
そのあと急に真っ暗になったのです。
そして、ものすごい音が響きました。
ごりごり、めりめり、どすんどすん。ぎりぎり、きいきい。
何がおこったのでしょうか。
わたしにはさっぱりわかりませんでした。
目の前は真っ暗で、なにも見えなかったのです。
ただ大きな音だけが、耳が壊れてしまうんじゃないかと思うぐらいの、大きな音だけが聞こえたのです。
なぜだかそのものすごい音が、その時のわたしにはお屋敷の悲鳴のようにきこえました。
わたしのつけてしまった火によって体を焼かれて、死んでいくお屋敷の泣き声のようにきこえたのです。
あつい、あついよう。
消えたくない、まだ生きていたいよう。
そう言っているようにきこえました。
そしてその時に、わたしは背中になにか重いものが落ちてきたような気がしました。
それがのしかかってきた時に、わたしは気をうしなってしまったのです――
*
めざめたときには、わたしは屋敷の前に倒れていました。
ちょうど、げんかんの前です。
あわてて起き上がって顔をあげると、屋敷は燃えていませんでした。
煙もでていません。火もついていません。
空は、いつのまにか、太陽が消えたどんよりとした黒い曇り空でした。
さっきは晴れていたのに、急に天気が変わってしまったのでしょうか。
わたしはぼうっとなって、辺りを見回していました。
そのとき、ぎい、という音がして、げんかんの扉がひとりでに開きました。
誰か中にいる? そんなはずは……
それはまるで、わたしを手招きしているみたいでした。
わたしはおそるおそる、いっぽいっぽ、屋敷の方へ近づきました。
屋敷の中にはあかりがともされていました。
シャンデリアに火がともされていました。
壁掛けのロウソクにもひとつひとつ、火がともされていました。
いったい、いつの間に、誰があかりをともしたというのでしょうか。
屋敷のどこにも、焼け焦げたあとなんて見当たりませんでした。
わたしの覚えている、昔のままのあの懐かしい姿でした。
火事は、わたしの見たまぼろしだったのでしょうか。
げんかんの棚の上には、あのへんてこな品物がおいてありました。
みるとそれはぼんやりとした光をはなっています。
不思議な、不思議なあかりでした。
熱くもなく、まぶしくもありませんでした。
わたしはげんかんホールに立ちすくんでいました。
どういうことか、わかりませんでした。
お屋敷の留守番をしている、小間使いみたいな人が残っていたのでしょうか。
「誰かいるの?」
わたしは叫びました。
「誰かいませんか」
返事はありませんでした。
そのとき、どこか遠くから、楽器の音色が聞こえました。
すぐに音はやんでしまいましたが、弦楽器の音だったように思えます。
もしかしたら。
わたしの心に期待と不安が同時に浮かんできました。
わたしは耳をすましました。
……。
こんどは、ピアノの音のようなものが聞こえました。
つづいて、トランペットの音階練習のような音が聞こえました。
わたしはサロンにむかってみました。
サロンに近付くにつれて、音はだんだんと強くなってきています。
聞こえる、確かに聞こえる。
こちらから確かに、合奏の前に行う調律のような音が。
わたしはしだいに歩く速さをあげていきました。
お姉さんたちだ。お姉さんたちが帰ってきてくれたんだ!
でも、どうして?
わからないけど……
とにかく、とにかく、みんな戻ってきてくれた。
わたしは期待にむねをふくらませました。
そうして、わたしはサロンの扉をあけました。
広いサロンの風景がわたしの目に飛び込んできました。
窓が開いて、カーテンが風に揺られていました。
そこには、わたしたち姉妹の使っていた楽器が残っていたのです。
ルナサのヴァイオリンが、メルランのトランペットが、リリカが使っていたピアノの上に置かれていました。
そして、自分の部屋に置いたはずのわたしのフルートも。
まるで、すぐ今までだれかが使っていたような雰囲気がしました。
でも、部屋の中を見回しても、人影は見当たりませんでした。
「いったい…どういうこと?」
わたしはカーテンの開いた窓のすぐそばまで行って、外を見ました。
薄暗い、墨色の空が広がっているだけでした。地平線の向こうも黒ずんでいました。
屋敷の外には、敷地の果ての森以外は、何も見えませんでした。
そのとき、後ろで話し声がしたのです。
「…の……ところが…」
「…だから……セーニョのところで……」
わたしの耳にはなにかの音が、誰かの声らしき音が確かに聞こえました。
わたしは振向きました。視線の先には、ぼやけたなにかがいました。
お姉ちゃんたちの楽器が宙に浮いているように見えました。
その楽器に取り付いている、うごめく逃げ水のようなゆらめき。あれは…人影…?
わたしの目が、おかしくなったのかもしれない。
まばたきを何度かして、よく目をこらしてみました。
そうすると、だんだんと姿がはっきりしてきました。
「……夏場は金管楽器の管がのびちゃって困るわ。音が半音もずれちゃうんだもの」
「……あら。ピアノだって暑さで少しは音が変るんだよ」
それは、わたしの見知った姿でした。
わたしが今、一番ここにいてほしいと思っている人たちの姿でした。
「それでも、トランペットほどじゃないでしょ。木管はどうなんだろう」
「レイラに聞いてみたら?」
「ルナサお姉ちゃん、メルランお姉ちゃん、リリカお姉さん…? みんな、いったいどうして?」
そう言ったわたしに、わたしの知っているルナサお姉ちゃんが答えました。
「レイラ、あなたも早く準備して。今日はみんなで合奏の練習をするって決めてたじゃない」
*
わたしたちは、プリズムリバーの姉妹です。
わたしたちは、みんな仲良しで、ゆかいに楽しく暮らしています。
お姉さんたちが戻ってきてくれて、わたしたちはまた元の四姉妹にもどりました。
わたしが火事の夢を見て以来、屋敷はどこか変わってしまったような印象を受けました。
どこが違ってしまったかというと、魔法の力をもっていたのです。
わたしたちは、子供ばかり四人で暮らしていましたが、生活に不自由することはありませんでした。
井戸からは、いつも冷たい新鮮な水をくむことができました。
たべものは、倉庫に勝手に現れました。
不思議なことに、朝起きてみると一日に食べるぶんだけが戸棚に現れているのでした。
料理はルナサお姉ちゃんが作ってくれました。
わたしもよくお料理を手伝いました。
リリカお姉さんは、あまり料理が得意でないし、メルランお姉ちゃんは食べるほう専門です。
だから、料理はだいたいわたしとルナサお姉ちゃんの仕事でした。
屋敷には、わたしたちだけで大人は一人もいませんでした。
屋敷を尋ねてくる人もぜんぜんいませんでした。
晩餐会や、音楽会を開くわけにもいきませんし、教会のお祈りや、いろいろな行事にも参加できません。
でも、退屈ではありませんでした。
「ちょっと、リリカ。音大きすぎじゃない?」
メルランお姉ちゃんがそう言いました。
「そうね、ピアノの音だけ前に出すぎちゃってる気がするわ」
ルナサお姉ちゃんも言いました。
「そんなことないわよ。ちゃんと楽譜どおり、フォルテで弾いてるわよ」
「ちょっと待ってよ。ヴァイオリンも、トランペットも、フルートもひとりずつしかいないのに、ピアノが譜面のままの音量で弾いたらそりゃ音量で負けるにきまっているじゃない!」
「うーん。というよりも、やっぱりオーケストラ用の曲を四人でやろうとするのは無理があるんじゃないかなあ」
「まあ、たしかにレイラの言うとおりなんだけど。打楽器もいないから、ちょっとしまらないわね」
ルナサお姉ちゃんがそう言って腕を組むと、メルランお姉ちゃんがいたずらを思いついたような笑顔でこう言いました。
「そうだ、リリカ。あんた、打楽器もやりなさいよ」
「どうやってやるのよ!? ピアノは手も足も使うのよ」
「えー? 口とか? がんばってよ」
「できるかっ!」
「あはははは、それができたら嬉しいねえ」
「もう、レイラまで!」
『あはははは』
わたしたちはみんなで笑いあいました。
わたしたちには音楽がありました。
共通の趣味があったのです。
音楽室にしていたサロンには、たくさんの楽譜が保管されていました。
わたしたちは、音楽家の先生に受けていたレッスンを思い出しながら、それをひとつずつ選んで練習しました。
でも、それもいつか全部演奏してしまって、慣れてしまって、飽きてしまうかもしれません。
「あら、レイラ。なに書いているの?」
「うっ! リリカお姉さん……」
「あっ! もしかして作曲? みせて、みせて!」
「だめよう、まだできてないもの」
「いいから、いいから」
「あーん、リリカ、だめえ」
リリカお姉さんは、わたしから楽譜を取り上げました。
「ふーん、ほうほう。おー、お嬢さん、きみはちょいとした音楽家だねえ。いやいや、こいつはたいしたもんだ。おー、この小節なんかは、モーツァルトの影響かな?」
お姉さんは偉そうに評論しました。
「うん。モーツァルトの曲って、華やかで明るくてそれに…ロマンチックだから好きなの」
「うんうん。あんたらしい、繊細できれいな曲だよ」
「えっ? そうかな…」
リリカお姉さんは、普段はずるがしこいいたずらばかり考えているけど、人をほめるときはまっすぐに話すので、わたしはいつもちょっと照れてしまいます。
あるとき、メルランお姉ちゃんがリリカお姉さんに話しかけました。
「あれ、リリカ。何作ってるの? お裁縫?」
「あ、お姉ちゃんこれ、新しい服じゃないの?」
「うん、姉妹でおそろいの服を作ろうと思って」
「うわあ! 本当? すごいねえ。四着も作るの?」
「まあね。ルナ姉は料理作ってくれるし、レイラが作曲してくれるんだったら、わたしも何か作らないといけないと思って」
「それで、新しい服か。うむ、感心感心」
「ちょっと、メルランも何かつくってよ」
「わたし? わたしは、ほら。消費専門だからさ」
「なにそれ?」
「作る人がいて、使う人がいる。需要と供給でしょ? ちゃんとバランス取れてるじゃない」
「ひっどい。図々しいたらありゃしないわ」
「あはははは」
*
ある日、サロンの前を通ると、リリカお姉さんが一人でピアノの練習をしていた時がありました。
「あっ、レイラ。ちょっと来てよ」
「なあに? リリカお姉さん」
リリカお姉さんの周りには、コントラバスとティンパニが置かれていました。
使う人がいなかった楽器を、倉庫から出してきて並べていたみたいです。
いったい何のために伴奏用の楽器を出してきたのでしょうか。
「ちょっと聴いててね」
そう言って、リリカはピアノを演奏し始めました。
「あら、なにやっているの?」
「あ、ルナサお姉ちゃん。なんだかね、リリカお姉さんが聴いてて欲しいっていうから」
リリカのピアノは軽くて楽しげなテンポを刻んでいます。
確かハイドンの交響曲で、「時計」という曲です。
ピアノで主旋律を弾いているれど、けっこう綺麗に聞こえました。
それに、気持ちの良い伴奏の音が加わって、素敵なアクセントになっています。
……!?
リリカお姉さんの後ろでコントラバスや太鼓がひとりでに……
「リリカお姉さん、これどうなってるの!?」
「すごいでしょう、やろうと思ったらできたのよ」
「リリカ……」
「リリカお姉さん……」
わたしは茫然としました。
ルナサお姉ちゃんも同じ気持ちだったようです。
「どうしたの、ルナサ、レイラ? わたし、何か……」
不審そうな顔で、リリカはわたしたちを順番に見つめました。
そのあと、後ろを向いて置いてあった楽器を見つめました。
「あれ…? わたし何でこんなこと…やろうと思ったんだろ?」
立てかけられていたコントラバスの留め具が外れて、ガタンという音がしました。
*
朝早く、玄関に下りてみると、ルナサとリリカの二人がいました。
大きなリュックを背負っています。
「あれ? お姉ちゃんたちどこへ行くの? そんな格好をして」
「ちょっとね。探検だよ」
ドアへ向かおうとしていた、ルナサお姉ちゃんが答えてくれました。
「探検?」
「近くの村まで行ってみるつもりよ。買い出しに行こうと思って」
「お姉ちゃんたち、お金持ってたの?」
「衣類をいくつか持っていくわ。交換してもらえないか頼んでみる」
「何が必要なの? 食べ物も、燃料もちゃんと……その、出てくるじゃない」
「ちょっとね。ほら、いざという時に、薬とかあったほうがいいと思って。それに村の様子も気になるし」
「そう……でも、わたしたち、大人の人と一緒じゃないから、道がわからないわよ?」
「地図があるからね……それに…周りがどうなっているかも見てこようと思って」
「……そう」
「レイラは、メルランと一緒にお留守番しててね。おみやげ取ってきてあげるから」
そう言って、二人は出かけていきました。
わたしは不安でした。わたしは、なぜか家の外に出るのがいけないことのように思っていたのです。
きっと、この屋敷から外に出ると、不吉なことがおこる。
そんな予感があったのです。
昼食をとるころになっても、お姉ちゃんたちは帰ってきませんでした。
夕食の準備をするころに、ようやくルナサとリリカが帰ってきました。
「あ、ルナサお姉ちゃん、リリカお姉さん。お帰りなさい。どうだった?」
「ん? 何が?」
「何がって。周りの様子を見に行ったんでしょう? 村までは行けた?」
「うん、行けたよ」
わたしがリリカお姉さんと話している間、ルナサお姉ちゃんはさっさと荷物を片付けて、台所の方へ入って行きました。
「どうだった?」
「変わらなかったよ」
「薬は買えた?」
「……売ってなかった」
「そうなの、残念ねえ。ほかに何かなかったの?」
「……何も、ない」
「……?」
帰ってきてから二人とも、おかしな様子でした。
何を聞いても、二人はしゃべりにくいような、もごもごした調子で、あいまいな答えしか返ってきませんでした。
「ねえ、ルナサお姉ちゃん……」
「ん? 何?」
「ううん…なんでもない……」
「そう」
なんだか話づらい雰囲気がしました。
その日は二人とも、夕食の席でもずっと口数が少ないままでした。
明けて次の日。
午前中、わたしは花の手入れをしようと思い、花壇に使う石を探しに、屋敷の裏にある木陰にやってきました。
建物の角を周って木陰に入ると、木々たちが生い茂っている向こうから、話声が聞こえました。
あれ? メルランお姉ちゃんとリリカお姉さんだ。二人だけで、こんなところで何をしているんだろう?
「ねえ、いったい何があったの? ルナ姉はずっと黙ったままだし。何かあったんでしょ?」
「何もなかったのよ。本当に何もなかった」
「本当?」
「……地面がなかった」
「……え?」
「わたしたちは、地図の通りに行ってみたの。でも、地図に描かれている道をずっと進んでも、村なんかちっとも見えてこなかった。それどころか、延々と見覚えのない野原が続いていた。昔お父さんと一緒に行った道の景色とは、まるで違っていたの。それでもまっすぐ進んでみた。村のあるはずの場所をさらに越えて、ずっとずっと進んでみた。そしたら」
そう言ってリリカはメルランを見つめたようです。少し間をおいて、それから
「……崖があった。底の見えない、黒い黒いくらやみがずっと続いていた。想像できる? 本当に何もないのよ。野原の、ある場所をさかいに、急に地面が切り取られたようにきれいな直線が引かれているの。その線から先には、なにも、ない。地面も、たぶん、空も空気も――遠くに、その闇の先に目をこらしても、ずっと闇が続いているだけ。崖の下も同じ。何も見えなかった。本当に黒くて暗かった。きっとこれが本当に何も無いということなんだ―そんな風に思った。それを見ているととても不安な気持ちに――」
「いったい、どういうことなの?」
「もう、気づいているでしょう? メルランだって、あれが見えるでしょう?」
「……」
「倉庫の力については? ずっと太陽が見えないこの薄曇りの空は? ……ここは、たぶん元いた世界じゃないのよ。それに普通の場所ですらない。よくはわからないけど、何か不思議な力が働いている場所なんだと思う」
「そのこと、ひとつでもレイラに言った?」
「言ってないわ」
「よかった。あの子にだけは秘密にしておきましょう、たぶん……」
「うん、わかってる」
*
わたしたちは、プリズムリバーの四姉妹です。
わたしたちが姉妹だけで、暮らし始めてから、もう何か月も過ぎました。
ある日、ルナサお姉ちゃんがもうすぐクリスマスだと言い出しました。
この場所では、空なんて見えないし、季節の感覚なんてありません。
日記には暮らした日数をつけているけれど、正確に何日だったかは忘れてしまいました。
もう四ヶ月近くは経っているので、十二月の何日かには違いないのですが。
それでもお姉ちゃんたちが言うには、今日はちょうど聖夜の日なのだそうです。
わたしは信じました。
なぜならば。
朝起きて食糧の貯蔵庫を確認すると、まるまると太ったチキンが一羽入っていたからです。
これはもう、本格的にクリスマスに違いありません。
ルナサお姉ちゃんは、ブッシュ・ド・ノエルの、ケーキの準備をしていました。
ルナサお姉ちゃんは、お菓子作りも得意です。
この四ヶ月の間で、ますます上手になっていきました。
わたしも手伝おうと思いました。
「最後のデコレーションはわたしがするんだからね♪」
わたしはごきげんな気分で、焼きあがったケーキの上に生クリームを使い、大好きなルナサお姉ちゃんの顔を描きました。
よいしょ、よいしょ…………。
…………。
ちょっと、くずれちゃった気がする……。
…………。
まあいいか。
「できたわ! はい、これがルナサお姉ちゃん!」
「う……レイラ~、これがわたし~?」
「あれ? 似てなかったかな……いっしょうけんめい作ったんだけど……ぐす」
「いえ、そ、そんなことないのよ? そっくりだなー、うれしいなー」
「ぷっ。ルナ姉はレイラには弱いよね~」
柱の陰からリリカお姉さんが顔を出しました。のぞき見していたみたいです。
「うるさいの! リリカ、あんたも何か手伝いなさいよ!」
「いいのかな? わたしを手伝わせていいのかな。わたしの料理の腕前しってるよね~? とんでもないことになるよー、恐ろしいことになるよー。三分とたたないうちに、台所が地獄絵図だよ~?」
「くっ! 開き直りやがって……」
「じゃあ、わたしは歌を歌ってレイラを応援するよ!」
メルランお姉ちゃんが飛び出してきました。さいきん太ったみたい。
レイラがつくるよ
すえのいもうとがつくるよ
おしゃまないもうと
おいしいケーキ
ふんわり ふかふか スポンジのせて
レイラがつくるよ
いとしのレイラがつくるよ
よんばんめのいもうと
いちごのかざり
あまくて まっしろ クリームのせて♪
メルランお姉ちゃんは、即興で歌を作るのがうまいのです。
でも、この歌はちょっと恥ずかしかったです。
「ね~、メルランお姉ちゃん、その歌ちょっと恥ずかしいわ」
「え? そう?」
「だって子供っぽいんですもの」
「はーい! じゃあ、わたしの歌をきいてきいて!」
リリカお姉さんが手をあげました。
キッチンルームで あわ立てる君は
紅いくちびるで そっとつぶやいた
(You're cook of cooks)
混ぜれるんだ これで一つに
混ぜれるんだ これでホイップできるオー
レイラレイラレイラレイラレイラ
レイラレイラレイラレイラレイラ
レイラレイラレイラレイラレイララ~イ♪
不思議で変わったメロディです……。
「なんなのよ、その歌!?」
「あ、でもわたしこういうの好きよ。なんていうのかしら、憂愁の美? ダンディズム?」
「うそお!?」
「おー! この良さがわかるとは、さすが我が妹! おまえは可愛いねー、よしよし」
リリカお姉さんは、わたしを抱きしめて、なでなでしてくれました。
「えへへ、リリカお姉さん、だーい好き」
「そうよ、レイラ。わたしたちは姉妹の仲で一番仲がいいんだから」
「ああー、なんかずるーい! リリカはいつもずるいんだから! いいもん、わたしもずるしてチキン最初に食べちゃう」
お食事の準備はまだ途中だったけど、メルランお姉ちゃんは、フォークとナイフ片手にチキンの丸焼きにとびつきました。
「こら、メルラン! それ権利章典違反!」
ルナサお姉さんのよくわからない注意が入りましたが、野菜を茹でている途中なので止めに入れません。
「わったしは王族じゃないから、そんなのに縛られないんですー、そーれ、もも肉いただき!」
「あ~、ずるいー! わたしもっ」
リリカお姉さんも、それに続けとばかりにナイフを入れました。
「えっ? えっ? じゃあ、わたしもっ!」
「ほーら、レイラにはこのカリカリの、じゅくじゅくのところをあげるよ!」
「わー、ありがとう、メルランお姉さま、だいすき………お姉ちゃん、これ皮だけだよ?」
「おまえら、落ち着け! あーあー、これじゃまるで、食べさせてない子みたいじゃない」
「ふご、ふご、はべへはひ!」
メルランはお口いっぱいに肉をほうばっていました。
顔がまるでリスみたいで可愛いかったです。
「くちに物入れてしゃべるな! なに言ってるかわからない!」
「むー、美味、美味」
リリカはマイペースで食べ続けています。わたしも負けないように早く次のお肉を……
「ぐす、皮かみきれないよう、ぐす」
「へひら、ふぇふひひふほほひひひ……ぶへらっ!!」(訳:レイラ、りちぎに言うこときかなくても……気管に物が詰まりました)
「うわあ、きたねえ! 吐くな!」
メルランお姉ちゃんが吹き出したものは、もろにリリカお姉ちゃんの服にかかりました。
「ブフっ! ぶはははははははは、うわっはははははっはあ! め、メルラン、えんがちょ!」
「リリカ! あんたもいい加減にしろ!」
チキンはけっこう食い荒らされましたけど、全部なくなる前にルナサお姉ちゃんによって守られました。
わたしは台所に戻って、ようやく料理の準備が終わりました。
あとはこれを全部テーブルに運び終えれば、楽しい晩餐のはじまりです。
「ケーキ、ケーキ♪ レイラのケーキができたよっ♪」
「そのケーキはわたしのものだっ!! もう、ケーキしか見えねえ!」
「ぐはははははあ! 砂糖がわたしを呼んでいるっ、のだっ!!」
ケーキをテーブルに出そうとしていたわたしに、飢えた亡者の群れが襲い掛かってきました。
「きゃあああああ!?」
どごん。どごん。
ルナサお姉ちゃんの、フライパンを使ったでんこうせっかの一撃がきまりました。
「デザートは食事の後!」
「「……は、はい」」
わたしたちは、ロウソクのあかりの中、「聖しこの夜」を歌いました。
きーよし こーのよーる ほーしはー ひーかり
すーくいーのみーこは みーははーのむーねに
ねーむりーたもうー ゆーめやーすく♪
きっときみはこな~い~♪
…………なに? その歌?
そのあと、みんなで練習した曲を聴かせ合いました。
一緒に合奏もしてみました。
そうやってわたしたち姉妹は、とても楽しい、幸せなクリスマスを過ごしたのです。
いろいろと不安なことはありました。
どうして、この屋敷には誰も訪れてこないのだろう。
どうして、屋敷は魔法の力を持つようになってしまったのだろう。
どうして、空はいつも曇っていて、太陽は顔を出さないのだろう。
いろいろあるけれども、わたしたち姉妹が四人一緒に暮していれば、きっと、ずっと幸せでいられるはずです。
なんといっても、わたしはお姉ちゃんたちのことが大好きなのですから。
わたしは、ずっとお姉ちゃんたちと一緒に居られると思っていました。
わたしたち四人はいつまでも幸せに暮らすはずでした。
だけど……
わたしはそのころからもうすでに、自分の体の異変に気づいていたのです――
クリスマスから二ヶ月ほど経ちました。
「どうしたの? レイラ。うかない顔して」
前庭をうろついていたわたしを見て、メルランお姉ちゃんが話しかけてきました。
「庭のスイートピーの花壇がかれちゃったの」
わたしとメルランお姉ちゃんは、一緒に屋敷の花壇を手入れしていました。
これは二人の共同の仕事でした。
「え? ほんとう?」
わたしはメルランお姉ちゃんに、枯れた花壇を見せました。
スイートピーの花はだいぶ前から様子がおかしくて、茎のほうからだんだんと萎れて行っているみたいでした。
そして、今日見てみるとついに枯れてしまっていたのです。
もしかしたら、何かの病気だったのかもしれません。お日さまが当たらないからかもしれません。
「あー、残念ねえ。レイラ、この花好きだったものねえ」
「ショック……」
このスイートピーは、貿易商をしていたお父さんが外国から種を輸入して育てていたものでした。
このあたりの村で品種改良をしていたものでもあったので、とても珍しい種類の花でした。
わたしはこの花のことを、お父さんが、わたしたち姉妹へのプレゼントとして残してくれた花だと考えていたのです。
まだつぼみを結ぶ前に枯れてしまったので、わたしはとても残念に思いました。
「レイラ? ……あなた、なんだか顔色が」
「え? なあに……あれ?……」
その時、わたしは急に体がぐらついて……
「れ、レイラ!」
目の前が真っ暗になりました。
「しっかり!」
悪夢を、見ました。
あの、わたしが屋敷に火をつけてしまったときの夢です。
屋敷の中にはお父さんと、お母さんがいました。
わたしが火をつけてしまったのです。
屋敷が燃えていきます。
お父さんが燃えていきます。
お母さんが燃えていきます。
お姉ちゃんたちと過ごした思い出も燃えていきます。
そして、わたしも燃えていきます。
あつい、あつい、体があつい。
「レイラ、レイラ! しっかりして!」
気づいた時には、わたしは自分の部屋のベッドに寝かされていました。
「ルナサお姉ちゃん、メルランお姉ちゃん、リリカお姉さん…」
優しい、優しいお姉ちゃんたちが、わたしを心配そうな顔でみつめていました。
「きっと……わたし死んじゃうのね」
「何を言ってるの!?」
「ごめんなさい、わたし本当は気づいていた…姉さんたちが本物じゃないって」
わたしはもう知っていたのです。
だいぶ前から、クリスマスよりだいぶ前に、演奏の練習を見た後からは、もう本当のことを知っていたのです。
あの時、リリカお姉さんは、手を使わずに演奏しました。
あの時みんなは黙ってしまって、なかったことにしようとしたけど、わたしはなんとなくわかってしまったのです。
もともとこの場所へ来た時からおかしかったのです。
遠くへもらわれていったはずのお姉ちゃんたちが、あんなに早く駆けつけてくれるはずがなかったのです。
最初はわたしの見ている夢だと思っていました。
でも、夢がそんなに長く続くはずはありません。
夢に味があったりするはずがありません。
わたしは自分のちからにも、なんとなく気づいてしまっていたのです。
なぜなら、わたしは、屋敷を燃やしてしまったときに、悲鳴をあげたときに、一瞬だけ見てしまったのです。
目の前の暗闇が少しだけ途切れた時に、窓の外に見えた光景を。
いくつもの青白い光が、火の玉が、屋敷のまわりをめぐっている様子を。
たくさんの、そう、人魂たちが、わたしの叫び声に応じて踊っている姿を、わたしはみたのです。
きっと、その時にわたしはもう気づいてしまっていたのです。
彼女たちは、わたしが集めてしまった幽霊……
わたしには、幽霊を操るちからがあるんだ――
「レイラ!?」
「う…お姉ちゃん……」
「レイラ……」
ルナサお姉ちゃんが、静かにわたしの額にうかんだ汗を拭いてくれました。
「……ごめんなさい、わたしが死んだら、お姉ちゃんたち、消えちゃうかもしれない」
「レイラは死なない! わたしたちが、きっとわたしたちが助けるから!」
姉さん達そっくりの、幽霊達はわたしにとても良くしてくれました。
わたしは、卑怯でずるい人間でした。
ぜんぶ知っていたのに。ぜんぶ分かっていたのに。ぜんぶ気づいていたのに。
彼女たちは、わたしが作り出した、まぼろしだったのです。
ほんとうの姉さん達がもらわれていったのは、あの意地悪なおばさんたちがいる家です。
それでも、姉さん達は、ちゃんと自分の運命をうけいれて、新しい生活をうけいれていきました。
わたしだけが臆病で、過去ばかりに目を向けていて、つらい生活と戦おうとしなかったのです。
自分だけが不幸だと、身勝手な気持ちをふりかざしていたのです。
そうして、いちばんの罪は、彼女たち亡霊に甘えていたことなのです。
彼女たちに姉さんたちの記憶をもたせて、わたしのおままごとに、家族ごっこにつき合わせていたことなのでした。
「ごめんなさい…わたしのわがままで……ごめんなさい、ごめんなさい、ほんとうにごめんなさい……」
わたしはなんと罪深いのでしょうか。
神様のお教えにそむき、存在をもてあそび、霊魂を封じ込め、いきものの真似をさせました。
しみついた昔の記憶をよりしろに、いつわりのかたちを与えて、罪のない魂を縛り付けました。
すべては、すべてはわたしが満足するためだけに、やったことなのです。
それなのに、それなのに、すべてを知りながらあの亡霊たちは、わたしの姉であり続けようとしてくれました。
優しく、暖かくわたしをなぐさめてくれたのです。
わたしが死ぬのはあたりまえのことです。
当然の報いなのです。
*
プリズムリバー邸は冥府とうつし世の中間にある、どちらかといえば冥府にかなり近いところにある、閉ざされた場所に引っかかった状態になっていた。
姉妹は知らなかったが、そこは元の世界で幻想になってしまったものを引き寄せる性質を持った場所だったのだ。亡霊となってしまったプリズムリバーの屋敷は、その性質にとらわれたのだった。
レイラの体は弱りつつあった。もともとこの空間に漂っていた毒気が、人間に耐えられるものではなかったのかもしれない。すこしずつ、生気を失いつつあったのだ。
「みんな、ちょっと外へ来て」
ルナサに言われ、レイラを除いた三姉妹は屋敷の前庭へと集まった。
今後の対策を話し合おうというのだ。
気づけば三姉妹は自分たちのことを知っていた。ルナサはルナサの、メルランはメルランの、リリカはリリカの。それぞれの記憶と、なすべき役割を心得ていた。そして自分たちの使うことのできる、不思議な力から、なんとなく自分たちが超常の存在であるという事実にも気づいていた。それに加え、辺りに漂っている幽霊たちとごく普通に会話できることにも気づいていた。
彼女たちは、最初からそれを普通のことだと思っていた。時々なぜ自分は幽霊などと会話しているのだろう、と疑問に思うことはあったのだが、結局そういうものなのだと受け入れていた。そして、それらのことをレイラにだけは秘密にしていた。
怖かったのだ。自分たちが普通ではないとばれて、レイラに拒絶されることが。
幽霊たちから聞いた話により、三姉妹はこの土地の状況をある程度知っていた。ルナサとリリカが一度出かけた場所は世界の果てになっていて、空間が切れていたが、その反対側は実は冥府とつながっているというのだ。そして、生あるものなら二つの土地の間を行き来することはできないが、幽霊にはそれが自由にできるということなども聞いていた。
空を一度仰ぎみたのち、ルナサが言った。
「レイラを、もとの世界に戻しましょう。あの子はわたし達とはちがう。あの子には人間らしい生活が、陽の当たる空の下での生活が必要なのよ」
苦渋の決断だった。
暗い淀んだ空。太陽の光が届かない世界。こんな場所が、生きている人間にとって良い場所であるはずがない。ここはどちらかと言えば、死者の国に近い。それにルナサはこの場所が、一種忌わしく不吉な要素を含んでいるようにさえ感じていたのだ。
枯れていく花壇の草花。注ぐことのない陽の光。衰弱していく妹の体。もしかしたら、この場所には生あるものを拒む、何らかの意思があるのかもしれない。
メルランが叫んだ。
「でも、そんな方法がどこにあるというの?」
三人は幽霊と話ができたり、手を使わずに楽器を演奏するぐらいのことしかできない。
冥府とつながっている土地から、もともと暮らしていた世界へ妹を送り返す方法なんて、見当もつかなかった。
だが、ルナサにはひとつ思いついたことがあった。
「これはあたりに漂っている幽霊仲間から聞いたんだけど、冥府の中心には、広大な地域を治める、生死を操れるほどの力を持った亡霊がいるらしいわ」
「! ……そいつなら、レイラを元の世界に戻すことができるかもしれないってこと? 姉さんはそう思ってるの?」
「そうでなくても、レイラの体を治すことができるかも」
「すぐに相談しに行きましょう!」
リリカが叫んだ。二人ともうなずく。
そうして三姉妹のうち、メルランは屋敷に残ってレイラの看病を続け、ルナサとリリカが冥府へと赴くことになった。屋敷のある土地を離れ、周囲の霊魂から道をたずね、ついでに空の飛び方も教わり、場所と場所の間の境界を越えて冥府へと入る。
言葉の問題が心配ではあった。冥府に入れば地元に居た幽霊たちとは違う国の霊もいるだろう。それに聞いた話によると、冥府を統括している幽霊は、東洋からやってきた人物だというのだ。
だがそれらの問題は杞憂にすぎなかったことがすぐにわかった。幽霊には幽霊の共通言語のようなものがあって、それで意思の疎通が問題なくできるのだ。時には口を使った発声によるそれ以上に。
驚くべきことに、冥府はとても美しい場所だった。太陽があり、青い空に雲があり、澄んだ空気と美しい自然があった。ここにレイラを連れてくることができたらよかったのに。二人はそう思ったが、生きている者には冥府の境界を越えることができないらしいので、あきらめざるを得なかった。
冥府を統括している人物の邸宅。名前を白玉楼というらしい。なんでも、東洋の国では仙人の住む場所をそういう風に呼ぶと言う。二人は数時間かけて、冥府の入口からその場所へとたどり着いた。
途方もなく大きな屋敷だった。
塀をぐるりと回り、正面に回って入り口の門をたたく。
しばらくして門の隣についていた勝手口が開き、一人の初老の男性が出てくる。
腰にはおそらくは武器と思われる長物を二つぶらさげている。剣士であろうか。
ルナサとリリカの自己紹介を聞いたのち、その男は腹にたまる低音で声を発した。
「本日はいかな御用でまいられた?」
威圧感にあふれたその門番に、ルナサは毅然とした態度で用向きを伝えた。
「こちらの主人にあわせていただけませんか? わたしたちの妹を助けてほしいんです」
「しばし、待たれよ」
さわりしか用件を伝えていないのに、剣士は奥へと引っ込んでいった。
半刻ほど待たされた後、剣士が戻ってきた。
「中へ入られよ。主人が会われる」
白玉楼は広大な屋敷であった。玄関を入ると、枯山水と呼ばれる様式の、見事な庭園が延々と続く。建物の中に入ると、これもまた広く、長い長い板張りの廊下がずっと奥まで続いている。廊下の片側には壁がなく、先ほどの庭園が直接眺められるようになっている。
二人は純和風の邸宅などを訪れるのがはじめてだったから、目に入ってくる光景に驚きを隠せなかった。自分たちの住んでいた屋敷とは全く違った造りだ。
それにしてもこの廊下は長すぎると思った。急がないとレイラの命が危ないかもしれないのに。
「大分、あわてていらっしゃいますな」
三姉妹の様子を読み取ったのか、寡黙だった門番が口を開いてそう言った。
「……」
「ご心配召されるな。我があるじは、きっとあなたたちの願いを聞き届けてくださいます」
門で迎えられた時の緊張感のある声とは違って、穏やかで温かみのある声だった。
客間に通されて、またしばらく待たされる。
途中、うすい銀色の髪をした幼い少女が、お茶を運んできてくれたが、二人はレイラのことが気がかりで、それに手をつけるどころではなかった。
その後、右手の障子があいて、一人の女性が入ってきた。
見れば、少女といってもよい若い外見だ。桃のような、不思議な色の髪をしている。
「長らくお待たせいたしました。お初にお目にかかります。西行寺幽々子と申す者にございます。当屋敷のあるじを務めさせていただいております」
冥府の幽霊たちを治める役割を担っていた西行寺家の令嬢。その人物に、プリズムリバー姉妹は事の成り行きを包み隠さず話した。自分達が、おそらくは末妹の超常の力によって生み出された、かりそめの存在であること。そして、屋敷ごと呪われた空間に移動し、そこで半年間に渡って暮らしていたこと。その土地の呪いによって、妹のいのちが蝕まれているのではないかということ。妹のいのちを救うためには、一刻も早く元の清浄な世界へと戻してあげなければいけないこと等。
白玉楼のあるじはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「…事情はわかったわ。残念だけど、わたしの力ではあなたたちの妹を現世に戻すことはできない」
「そんな!」
「しかし……わたしをあなたたちの暮らしていたという屋敷に連れて行って。何か、てがかりがみつかるかもしれない」
ルナサとリリカの姉妹は、西行寺幽々子を伴って、屋敷のある空間へと戻ってきた。
メルランが敷地の外れまで出てきて出迎える。
「メルラン! レイラの様子はどう?」
「少し落ち着いたけど、やっぱりだんだん弱っている気がするわ。そちらの方は?」
「この方が、冥府を治めている人物で、西行寺幽々子様」
「様なんてつけなくていいわよ。初めまして、メルランさん。あなたたちの家は、こんなところにあったのね」
幽々子のしぐさは礼節に満ちていて、メルランを安心させるものだった。
彼女は空や地平線の向こうに顔をめぐらしてから姉妹に告げる。
「この空間は、かつて強大な力を持った道士/魔法使いが、創世の法に失敗して作ってしまった中間生産物の残滓。いまでも魔力が漂い続けている。あなたたちの妹は強すぎるその力にあてられたのね。これなら、もしかしたら……」
「何か方法があるんですか!?」
「もう少し、調べさせて。屋敷の中も見てみたいわ」
「はい! どうぞ、こちらへ」
そう言って、ルナサが先導し、幽々子を屋敷の中へと案内する。
扉をくぐり、玄関のホールへと入る。
「そう、この屋敷は……もう既に」
ホールの天井を見つめながら、幽々子がそう呟いた。
彼女はしばらく玄関ホールの様子を観察していたが、ホールの脇に添えられていた棚の上に目を向けて、そこをじっと凝視する。棚の上に置かれている物品の一つを見ているようだ。
「これは……?」
「ああ、これはわたし達の父、プリズムリバー伯爵が外国で手に入れた品で…なんて言ってたかしら、メルラン?」
「ええと、なんでも東洋の島国の美術品で、ランプのように使う照明器具だとか。名前は、ちょっとわかりません」
「なんてこと……これは人魂灯……そういうことか」
「あの…? これが何か?」
「……」
そのときはまだ、幽々子は言わなかった。それが、善良なものであろうと悪しきものであろうと区別なく、霊魂を呼び寄せる効果のあるマジックアイテムだということを。そして、もし所有者に怨恨を持っている怨霊を呼び集めてしまった場合には、おそらくは所有者は祟られてしまうだろうということを。
幽々子はひととおり屋敷の中を見て回ったのち、中庭に出て三姉妹に向け、こう言った。
「なるほど。これだけの残留思念があれば、それを手繰り寄せて、彼女を元の世界に戻せるかもしれないわ」
「ほんとう!?」
「でも、とても霊力を消費するわよ。あなたたち自身が術の材料として加わらなくてはいけない。この屋敷と、あなたたちに染み付いた、現世の記憶を媒介とするのだから」
幽々子は言葉を濁さずに伝えた。おまえたちの妹を現世に戻すには、おまえたちの犠牲が必要だ。
そう言うのだ。
「覚悟の上」
「妹のためだったら」
「レイラのためだったら」
「あなたたちの妹を現世に戻したら、あなたたちの存在は消えてしまうかもしれないわ。もともとあなたたちの存在は、彼女の霊力によって支えられていたのだから」
「……かまいません」
「わたしたちはあの子に生み出されたみたいなものなんだし」
「あの子がいなくなったら、存在している意味もないと思うし。なぜだかはわからないけど、そんな気がします」
三姉妹は、返答のためにほんの少ししか間を置かなかった。
「…硬い意志のようね。わかったわ、引き受けましょう」
一同はレイラの寝室に入り、ベッドに寝ている彼女の様子を見る。
レイラはすでに昏睡状態であった。
「かなり弱ってるわね。早く、術を始めましょう。彼女を中庭に運び込んで。そこで、現世への門を開く術を行います。わたしは先に行って術の準備をしているわ」
三姉妹が屋敷の中庭にレイラを運び込んだ時、そこにはすでに、呪文のような物が書かれたサークルができていた。
幽々子が準備した、現世への道を開くための結界だ。
「この子には、もともと霊魂を呼び寄せる力があったのね。霊媒体質とでも言うのかしら」
三姉妹はレイラを魔方陣の中心に据えられた台座へと寝かせる。
「この結界は、もともとはこの世ならぬ場所への門を開くためのもの。でも、現世と冥界とのとりきめにより、冥界側から現世へと赴くための門は通常開けないことになっているの。だから、今回は、場所を特定しない術式を施してあるわ。行き先は未定で、開いたあとに決めることができるようにしたの。それならば、冥界のルールにも捉われることはない。あなたたちは、あの子の記憶と、屋敷が覚えていた姉妹の記憶を引き継いでいる。その記憶は、強い思念は現世と結びついている。だから、扉が開いたら、あなたたちが強く現世にいたときの姿を思い起こすことによって、元いた世界へのつながりを引き起こすの」
そんな術の内容も自分たちに対する説明も、半信半疑だった。だけど、自分たちにも他に講じるべき手立てがないのだから、ここはとにかく幽々子の言うとおりにしてみるしかない。
説明が終わったあと、幽々子はレイラの胸の中心にお札を一枚はりつけた。
「これは何ですか?」
ルナサが聞いた。
「これは体力を回復させるお札よ。この土地ではあまり効果はないけれど、時間差で、元の世界に戻ったときにちょうど本領を発揮するようにしておいたわ」
そう言ったあと、幽々子は魔方陣の外に出て、いつの間にか手に持った扇を広げる。
そして良く通る声で三姉妹に向かって指示した。
「さあ、はじめるわよ! あなたたちの記憶を思い起こして! 彼女と一緒に、住んでいた世界を思い出して! そして、あなたたちの妹がその世界で暮らしている姿を想像するの!」
「レイラ…レイラ…」
「わたしたちのかわいい妹、わたしたちの生きる糧」
「あの子のいるべき場所。あの子の帰るべき場所」
ルナサが念じた。メルランが念じた。リリカが念じた。
「レイラは、太陽の下で笑っていたわ」
「レイラは、陽の光が差し込むサロンでフルートを吹いていたわ」
「レイラは、お気に入りの人形をもって野原を駆けていたわ」
「もっと! あるべき世界を思い浮かべて!」
そう言って幽々子は、扇を振い、術のための真言を唱える。
「わたしたちは、レイラと一緒に、優しいお父さんお母さんと暮らしていた」
「わたしたちは、レイラと一緒に、いろんな遊びをした。いろんなことをお喋りした」
「わたしたちは、レイラと一緒に、いろいろな音楽を聴いて、楽器を練習して、演奏した」
徐々に魔方陣に何らかの力が注がれていく。
幽々子の霊力を引き金として、三姉妹と屋敷の記憶を霊的な力に変換しているのだ。
刻まれた呪符が不思議な光を放ち始める。
淡い光がサークルから天へと向かって放たれる。
その光が空の一点に達した時、雲が一部分だけ晴れて、今度は大量の光が空の天井から差し込んできた。
異世界への門が現れたのだ。
三姉妹の祈りによって、何割かはレイラが暮らしていた元の土地を指し示しているものの、まだ完全に行く先の定まらぬ門。
そこから暗がりの世界に差し込んだ光は、ゆったりと地上に刻まれた魔方陣に降り注ぐ。
まぶしい柔らかい波が、台座に寝ている少女の体をぼんやりと照らす。
「あの子には、もっと暖かい場所がにあう」
「あの子には、もっと明るい場所がにあう」
「あの子には、もっとおおぜいの人が住んでいる場所がにあう」
「見えてきた、もう少しよ! こんどは、あの子の未来の姿も想像して。あの子が現し世で暮らしていくことを、既成事実にしてしまうぐらいの想像を」
「レイラは成長して、同じとしごろの友達がたくさんできるの」
「レイラはその子たちと、どきどきわくわくする遊びをたくさんするの」
「レイラはその子たちと、いろいろな場所を冒険するの」
――お姉さんたちの声が聞こえました。美しい、合唱のような声でした。三人は、わたしのために歌ってくれていたのです。
「きっと、あの子は素敵な男の子と出会って、そして恋をするわ」
「きっと、あの子はいっぱい勉強して、世界のことをたくさん知るわ」
「きっと、あの子はいろんな街を旅して、おおくの人と知り合いになるわ」
――わたしの幸せを願ってくれる、まごころのこもった声でした。優しい声でした。
「レイラはきっと、恋をした人と結ばれるわ、美しいお嫁さんになるわ。わたしたちのお母さんと同じように」
「レイラはきっと、暖かい幸せな家庭を持つわ、お父さんお母さんと暮らしていたときみたいに」
「レイラはきっと、たくさんの元気な子供にめぐまれるわ、そう、かつてのわたし達姉妹みたいな子供に」
「今よ!」
幽々子の声が響いた。
「「「だから、あの子に、わたし達の妹に、時間を。光の当たる世界を!」」」
三姉妹は、声を合わせて叫んだ。
願いを込めて祈ったのだ。
門が開いた。導きの門が開いた。
レイラの体が宙に浮く。そのまま、ゆっくりと上昇していく。
オーロラのカーテンがレイラの体を取り巻いてゆく。
差し込む光の作用により、はっきりとした陰影をまとった雲が渦巻く。
その渦の中心には、暖かな光の柱がそびえ、はしごを登りゆく一人子を祝福する。
まるで、天使の降臨の絵画を逆さにしたみたいだ。誰かがそう思った。
彼女達の妹は、彼女達を生み出した少女は、光の国の門へと吸い込まれていった。
あるべき世界へと帰ったのだ。
やがて、光が治まりゆく。
術の作用によって霊力を吸われ、脱力した三姉妹は、いっせいに地面へとへたり込んだ。
「……レイラ」
「……いっちゃったね」
「わたしたち……、消えないわね」
「どうやらあなたたちは、もう幽体として自立しているようね。たぶん、長い間その形状を保ちすぎたから、魂魄が形を覚えてしまっているのでしょう。もしかしたら、この土地に漂っていた魔法の力が、魂の固着化に良い影響を与えていたのかもしれない」
良い影響? この土地の毒気が、レイラの体を蝕み、こんな事態を引き起こしたというのに?
自分たちだけに良い影響があったとしても、何の意味もないのだ。
レイラを失った今、自分たちにどんな存在意義があるというのか。もともとわたしたちは、レイラをなぐさめるために創造されたんじゃないか。
しかし、それでも存在が消えないということはどういうことだろうか。わたしたちが存在し続けることに、何か他に意味があると思ってよいのだろうか。
レイラは、まだわたし達に居てほしいと思っているということなのだろうか。
ルナサもメルランもリリカも、しばらく同じようなことを考えた。
答えの出ない疑問を同時に心に浮かべた。
レイラと、自分たちの生きる意味と離れてしまった以上、いったいこれから何をして暮らしていけば良いというのか。もう、本人に聞くこともできない。
一同は中庭でしばらく空を眺めていた。
門はすでに閉じ、空は元通り薄暗い曇りきった墨色に戻っている。
幽々子が三姉妹それぞれに寄り添い、彼女たちの頭に手をかざして何事かの呪文を唱えていた。
姉妹が疑問に思って尋ねると、幽々子は彼女たちが失った霊力を補っているのだと答えた。
それまでは息をするのも苦しいぐらいだったが、しばらく幽々子にそうしていてもらうと、少しずつ気力が戻ってきた。
それでも、彼女たちはみな同様に、自分の胸にぽっかりと空いた欠落の大きさを認めないわけにはいかなかった。
単純に、妹の霊力が届かなくなってしまったせいだけではない。
そういった仕組み上のことを超えて、やはり失ってしまったものの重みが応えた。
「これから、どうするつもり?」
幽々子が三姉妹に尋ねた。
ルナサはしばらくしてから口を開いた。先ほどから考えていた答えが一つあったのだ。
「曲を…新しい曲を作りたいと思います。わたしたちにできるのは、それぐらいだから」
「あの子に、妹のための、わたしたちだけの音楽を送ってあげたいんです」
「いつか、レイラの寿命がきて、またこの死者の国を訪れたときには、その曲で迎えてあげるんです」
メルランもそう言葉を添える。リリカもそれに続く。三人とも同じことを考えていた。
「あなた達らしい、歓迎の仕方ね。とても素晴らしいやり方だと思うわ。で、その先は?」
「その先?」
ルナサが聞き返した。
「あなたたちの妹が天寿をまっとうし、天界での暮らしも終え、また輪廻の輪に加わったのちは? 驚くことはないでしょう。あなたたちは、もう自立した騒霊。人間に調伏されたり、自滅を望んだりしない限りは、永遠に近い年月を過ごすことになるのよ」
「……そんな先のことは考えていません」
「そうね、じゃあわたしが予言してあげる。あなた達は、来るべき幻想郷のための音楽家になるの。その郷を、騒霊の奏でる、他の場所では味わえない至福の音楽で満たすために」
「幻想郷? なんですか、それは?」
「幻想郷とはね、もともとこの場所がつながっている、東の国にある妖怪たちが住む土地のことを指す名前なの。だけど、のちの世に現れる幻想郷とは、それとは少し違っている。人間たちは、もうすでに妖怪や悪魔や幽霊の存在を否定しつつある。彼らには、そういったもの、かつては人間の暮らしの間近にあった幻想が、不要になってきているのね。だから、この場所を利用して、それらを隔離した郷を作る計画がおこるの。そもそもこの場所はその隔離を試した実験が、失敗したせいでできた土地だったのよ。今はまだ、そのような大規模な術を成功させる力は、人間たちにはない。でもあと七十年後にはその実験は成功して、この場所は本当の幻想のための郷になるのよ」
「七十年後? そんな未来の話なんですか?」
「ええ、そうよ」
「では、予言といっても、起こるかどうかはわからないんですね」
「いいえ、これは必ず起こることよ。もう決まっていることなの。人間たちが進歩していく上では避けられない必然。そして、わたしたち幽霊にとっても、あなたたち騒霊にとっても逃れることのできない宿運。未来は漠然としているわけではなく、わたしたちは決められた計画に従っているだけにすぎないの」
計画? だれの計画だと云うのか。
彼女の言っていることは分かりにくかった。分らないことばかりだ。
だが、なんとなく彼女が言うとそれが真実に聞こえてくるのだから不思議だ。
そもそもが冥界の広大な地域を治める有力者であるし、妹を現世へ送り返すという、不思議な術を成功させた実力の持ち主であるのだからかもしれない。
そんな彼女の雰囲気にほだされたのか、ルナサはかねてから聞いてみたいと思っていたことを尋ねてみることにした。
「西行寺さん、わたしたち姉妹はいったいなんなんですか? あなたは騒霊と言って、わたしたちを普通の幽霊と区別した言い方をしています。それには何か意味があるんじゃないですか?」
「さっきの術の説明を聞いていて思いました。あなたには、霊魂の本質のようなものが見えるんじゃないですか? ……わたしたちの正体も」
「…悲しいことですが、わたしたちはレイラの、妹の本当の姉では…血のつながった姉妹ではない。あの子の姉達の真似をしているだけの、ただの亡霊です。でも、妹にもらった記憶以外のことは、覚えていない」
三姉妹はそうやって、自分たちの持つ共通の疑問を口に出した。
「……なぜ知りたいの?」
そう聞かれて、彼女たちは顔を見合わせた。
しばらくしてリリカが返答した。
「それは……やっぱり自分たちのあるべき姿を知っておくのがつとめだと思うから…」
「……。そうね」
三人とも、うすうすは自分たちの正体に気が付いていた。レイラが自分たちの存在をその霊力で支えていたというのなら、彼女が望まなかったら、自分たちの意識は生まれなかったということ。自分たちは亡霊の類で、妹によって存在を与えられた、この世のものではない、幻のようなものだということを。
だが、もっとはっきりとした答えを聞きたかったのだ。
「……三途の渡しという宗教的な概念が東洋にはあるわ。三途の河という、そうね。ギリシア神話に出てくる忘却のレーテ河に似ている、この世とあの世の中間にある河のことを指すのだけれど。死者は霊魂となったのち、天国へ行くか地獄へ行くかの裁きを受ける場所におもむく。その場所に行くには、まず三途の河を渡らなくてはならないの。で、そこを渡るには渡し船の船頭に運賃を渡す必要がある。その運賃はどこから来るかというと、死んだ人が生前にかかわり合った人々からの思い慕われた実績が、貨幣となって霊魂に渡されるのよ」
「この世に生を受けて、他人とかかわり合いにならない人間は、ほとんどいない。だから、だいたいの人間は、善良に生きてきたならば河を渡りきれるだけの運賃を持って渡しにやってくる。でも……もし、誰ともかかわらずに、かかわる暇すら与えられずに死んだ者はどうなるのか。そう、たとえば生まれてすぐに、親の顔さえ知らずに死んでしまったような者は。思い慕われる間もなく、死んでしまった者は。結論から言うと、そう言った赤子たちの魂は、天国にも行けず、地獄にも行けず、三途の渡しにすら至れず、自分が死んだことにすら気付かずに、ただ地上をさまようだけなの」
幽々子は淡々と語った。
「…あなたたちは、不幸な死に方をした子供たちの魂の集合。望まれなかった子供、くち減らしのために殺された子供、疫病や戦争や政治上の理由で、生まれて間もなく生きるすべを絶たれた子供。そんな未練すら世に残すいとまも与えられなかった子供たちの魂が、成仏もできず地上をさまよう長い歳月のうちに、自分のかつての姿すらも忘れてちりぢりになり、弱りきっていた。そのままでは、やがて霧散して消滅してしまうだけの、小さな魂のかけらたちだった」
幽々子には、霊魂を統括する彼女には、三姉妹の起源が見えたのだ。そして屋敷に残されていた思念をたどることによって、末の妹の、レイラの織りなした現象の成り行きや本質すらもつかんでいた。
「わたしたちは通常、幽霊という言葉を単一の人物の霊体をさすときに使っている。あなたたちは、それとは異なり、複数の魂のかけらが寄り集まって、再度結晶化された存在。あなたたちは人間の霊魂が化けて出た幽霊とは異なり、あなたたちの妹の、レイラの、いわば霊能力の一環なの。あの子にはもともと、弱いながらも霊能力が備わっていた。それは、ばらばらになった霊魂のかけらをつなぎ合わせて、粘土のようにこねなおし、再度かたちを作り直すといったたぐいの能力。とても危険な能力よ。下手をすれば、生命の根源である霊をもてあそぶことに繋がるのだから。ただ、その能力だけでは、材料となる霊魂が大量になければ、なにもできないはずだった」
「ところが、あなたたちの屋敷の玄関に置かれているともしび、あれは霊を集める性質をもつ魔法の道具なの。あの子はそれによって集まった魂のかけらを、自らの過失で失ってしまった屋敷を元に戻すために、つまり魂を材料とした屋敷の幻影を作り出すために使った。また、自分の寂しい気持ちをまぎらわすために、姉達のすがたをした音の幻影を作るために使ったのね。たぶん寂しくてつらい気持ちに襲われて、無意識のうちにそうしてしまったのでしょう。その魔法の道具に触れたことが、彼女の霊能力の発露を促したのかもしれないわね。そうして、恵まれることを知らずに死んだ子供たちの思念が、それらが、彼女の、あなたたちの妹の力と、あの魔法の道具の力を通じて再度かたちを得た。過去の生活を思い出して、にぎやかに楽しく暮らすという動機付けを得て、騒霊としての存在と目的を与えられた」
そう言って、彼女はすっと屋敷の建物を見回す。
「だからね、本当はあの子がいなくなったら、あなたたちは消えてしまうと思ったの。あなたたちは、彼女の力と意思で支えられていた、霊魂を燃やして映すかげろうのようなものだったから」
「でも、だからと言って、あなたたちがあなたたちの妹と過した時間が、幻想に過ぎなかったなんて、わたしは思わないわ。たしかに、あの子は自分の形ある夢の中にいただけなのかもしれない。それでも、再度かたちを与えられた亡霊たちは、あなたたちはきっと、家族とともに暮らしたいというあの子の望みに共感していたんでしょうね。あなたたちは、あなたたちの妹とかけがえのない時間をすごした。見返りを求めない愛を与えた。それは、あなたたちが妹を救おうと必至に、無我夢中に動いていたことを見ていてわかったわ」
最初に屋敷を訪れた時の沈痛な面持ちや、必至に自分を説得しようとする姿勢。常に妹の体を気遣っている様子。幽々子は三姉妹のそういった姿をずっと観察していた。
「……なんだかおおげさですね」
「西行寺さん、わたし達は、あの子と一緒にいるのが楽しかったからそうしていただけですわ」
「あの子がくれたものの、お返しをしてあげたかっただけなんです」
三姉妹は、ちょっとだけ寂しそうにそう言った。
それを聞いて、幽々子はゆっくりと微笑んだ。
その笑顔を見終わった後、ルナサはかしこまった様子を作り、幽々子に正対する。
そして、三姉妹を代表して礼を言った。
「本当にありがとうございました。西行寺さん。お世話になったこのご恩は、いつか必ず返します」
「あらあ、いいのよ。気にしなくて」
「そういうわけにはいきません」
「律儀ね。じゃあ、そうねえ。たまにでいいから、わたしの家に来て演奏を聞かせてくれないかしら? わたしも今は三人で暮らしているけど、にぎやかなほうが楽しいものねえ。それから」
そう言って幽々子は、花の咲くようななごやかな表情をした。
とてももう死んでいて、命のない幽霊だとは思えない表情だった。
「これからは、わたしのことは幽々子ってよんでほしいわ」
「……」
三姉妹はお互いに、今度は口元に笑みを浮かべながら、顔を見合わせたのち、はっきりとした、明るい声でこう言った。
「「「はい、幽々子さん。喜んで!」」」
*
気がつくと、わたしは焼け跡の前の芝生に臥せっていた。
だれかが、わたしを抱き起こし、しきりにわたしの肩をゆすっていた。
目をあけると、空が青かった。
「レイラ、レイラ!」
「おじさん? どうして…」
「心配したんだよ、レイラ。君がいなくなって…まさかこの屋敷に帰ったんじゃないかと。道行く途中で、屋敷で放火があったという話も聞いたものだから、心配していたんだ。ああ、無事でよかった」
意外なことに、叔父さんはわたしに優しかった。
とても意外だったので、その時わたしの口をついて出た言葉は、
「おじさん…わたし、いらない子じゃないの?」
「……なにを言っているんだ、何を馬鹿な。ああ、すまない。わたしが悪かったんだ。わたしが君にいやな思いをさせていたんだな」
叔父は、以前は事業がうまくいかなくて、いらだっていたためにわたしにつらく当たってしまったのだと謝った。わたしが許してくれるのであれば、もういちど家族として一緒に暮らしてくれないか、とまで言うのだ。
わたしは感極まって、叔父に泣きついた。
姉達と一緒だったとはいえ、やはりわたしはあの暗く閉ざされた世界におびえていた部分があったのだ。
暖かい、大人の叔父の胸の中でひとしきり泣き喚いた。
驚いたことに、わたしがあの屋敷で暮らしていた半年近い時間の間、こちらの世界ではわずかに三日が過ぎただけだった。
「もう大丈夫、大丈夫だよ。さあ、家に帰ろう」
「うち……?」
わたしはそう言われて、自分が今まで暮らしていた屋敷の方を見た。
屋敷はすっかり焼け落ちていて、黒く炭化した破片が当たり一面に散らばっていた。
大変なことをしてしまったと、わたしは青くなったが、留守番をしている者もいなかったので、犠牲になった人はいなかったと聞いて、ほんのすこしだけほっとした。
叔父はどう思っているのだろうか。わたしが屋敷を燃やしたことを知っているのだろうか。
怖かったけど、どうも話を聞いているところでは、あの屋敷建物に対して、それほど執着を持っていないらしかった。
叔父とわたしは、家に帰る途中、屋敷のそばにあった墓地に立ち寄った。
プリズムリバーの屋敷に用がある際は、必ずここに立ち寄るようにしているのだ。叔父はそう言った。これは彼の慣習であるらしい。
叔父は、墓地の中心にあった石碑に、使いの人に買ってきてもらった花を供える。
持ってきてもらった花束は少しさみしかったので、わたしも墓の近くに咲いていた蘭の花をつんできて添えた。
「昔、ここで戦争があったんだ。それで、いくつかの村が焼かれた。何人もの罪もない人々が殺されたそうだ。これは、そのときの慰霊碑さ。わたしたちの一族が建てたんだ」
その石板には、たしかにプリズムリバーの、わたし達一族の名前が刻まれていた。
「ご先祖様は、殺された人たちをかわいそうに思って、これを建てたの?」
「そうかもしれないな。……あるいは、もしかしたら……われわれの先祖こそが」
わたしは幼かった。だから、その時は叔父がつなげようとした言葉が理解できなかった。
「いや、いいんだ。さあ、行こうか」
馬車での道すがら、叔父の昔の話を聞くことができた。
叔父は小さいころの自分の兄、つまりわたしの父は、とても兄弟想いで、優しくて、頼もしい少年だったと話した。いろいろな危険な楽しい遊びを思いついては、みんなでいたずらして回っていたことなんかも話してくれた。叔父と父は、ちょうどわたしたち姉妹と同じように、男ばかりの四人兄弟だったのだ。
わたしは父の子供のころの話を聞けたのが、とても嬉しかった。
「ねえ、叔父さんはお父さんと、喧嘩していたの? お父さんのことが嫌いになってしまっていたの?」
「……どうしてそういう風に思うんだい?」
「だって、叔父さんはお父さんの弟なのに、子供のころはとても仲が良かったって言ってるのに、大人になってからはちっともお屋敷にきてくれなかったじゃない。……お父さんが死ぬまでは」
「レイラ。君は、お姉さん達のことが好きかい?」
「うん。好きよ。大好き」
「ぜんぶ? 本当にお姉さん達のぜんぶが好きなのかい?」
「?……えっと……それは…たまには喧嘩したこともあるけど…メルランお姉ちゃんが、わたしのおやつを食べてしまったときとか、リリカお姉さんがわたしのお人形を燃やしてしまったときとか……」
「そういうことだよ。叔父さんも、お父さんのことが基本的には好きだったんだけど、ある部分では…どうしても好きになれなかった。いいや、好き嫌いとは、ちょっと違うのかな。ええとね、大人になると、単純に好きか嫌いかでは説明のできないことがあるんだ。何ていうのかな、それは信じているものの違いなんだ」
わたしは首をかしげた。
「レイラのお父さんと、叔父さんは、おおむね意見が合った。だいたいのところでは、仲良しだった。ところが、ある部分では、まったく意見が異なっていたんだ。考え方がちがっていたんだ。だから、別々の道を進むしかなかった。そうして、別々の道を進んでいるもの同士は、あまり頻繁に会わないほうがいいこともあるんだ。なぜなら、人は目的が同じでなければ、お互いに相談しあうことはできないし、つい相手のやっていることがしゃくに触ったりして、おまえのやりかたは間違っていると、声をあげて非難したくなるときがあるからなんだ。だから、別々の方向を見据えているもの同士は、お互いに、別々の道を模索するしかない。おのおのの道を探し求めて、その先に結果をみつけるしかない……わかるかい?」
「……むずかしいけど、なんとなくわかる気がする」
「君は賢い子だ。目がお父さんにそっくりだ。君のお姉さん達も、賢かったけどね」
そう言って、叔父はわたしの頭をなでてくれた。
後に叔父の死後、彼の日記を見ることによってわたしは知ることになる。
わたしが暮らしていたあの大きな屋敷は、父の代に建てられたもので、父はその建設費を得るために領地の農民から厳しい搾取をしていたのだということ。叔父はそれに反対していたが、父は家を出た者には口出しをする権利はないと、叔父に大分きつい言い方をしていたのだ。それ以来、父と叔父の関係はぎくしゃくしてしまっていたという。父は貿易商であったが、保守寄りの貴族的思想をずっと持ち続けている人物だったらしい。そして叔父は、当時としては革新的な思想家で、農民の生活向上のための運動を推進していた人物だった。
そのときの事情については、二人の立場以上の事はわからなかった。叔父も、一方的に父が悪いなどとは書いていなかった。お互いにどんな心情を抱いていたかは、当事者の間でしか、兄弟の間でしかわからないこともいろいろあったのだろう。
とにかく、わたしはそんな事実から、すべての人々はそれぞれの、その人なりの事情を抱えて生きていることを学んだ。それから、わたしたち姉妹にあんなに優しくしてくれた父に、そんな側面があったことを知って、わたしは悲しい気分になった。
そしてもう一つわかった事実がある。
あの屋敷は、じつはもう一つの墓地をつぶして建てられたものだということだ。その墓地は、戦災や疫病などで死んだ年若い子供たちを葬った場所だった。屋敷を建てる際に、墓石はもう一方の墓地に移動させたものの、大分古い場所だったので、遺体までは移動させなかったという。
それを知って、当然わたしは考えた。あの閉ざされた屋敷で一緒に半年間を過ごした、あの亡霊のお姉さんたちのことを。彼女たちがどこから来たのかを。もしかしたら、姉たちと同じ姿をした彼女たちは――
――その後、わたしは都市にあった、叔父の家で何年か暮らした。
そしてわたしが十五になるころ、叔父の仕事の都合により、わたしは当時独立を果たしたばかりの新大陸にあった植民地へと渡ることになった。
そこで成長し、さらに結婚をした。
夫は医者で、わたしは彼とともに開拓地の無医村へと旅立つことになった。
開拓地の衛生状態はまったくひどいものであった。そこに建てた家は、かつて暮らしていた貴族としての邸宅とは似ても似つかないものだったけれど、わたしは厳しい暮らしの中でも、常にあの姉達と暮らしていた半年間に演奏していた音楽を思い出し、その光景を思い描いて、懐かしくも幸せな気分にひたることができた。
わたしたち夫婦の生活は、決して裕福な暮らしとはいえなかった。新大陸へ渡ってその土地になじむために、わたしたち一家は貯金を使い果たしていたし、そのときは叔父の事業もあまり順調ではなかったからだ。
夫の実家も、それほど家柄や財産に恵まれているわけでもなかった。それでも夫は、わたしの音楽好きをおもんばかって、毎月都会にある音楽堂へと連れて行ってくれては、最新の音楽に触れさせてくれた。ベートーベン、シューベルト、サンサーンス。時代の移り変わりとともに、偉大な音楽が生まれ、そして廃れていった。
本当の姉達も、それぞれの家で成長し、それぞれに家庭を持った。やはり、久しぶりに会えば懐かしく思い、親交を暖めあい、ともに両親と暮らしていたときの昔話で盛り上がるのだったが、それでもわたしの心を一番捉えて離さなかったのは、あの屋敷で亡霊の姉達と過ごした半年間だった。
肉親に対して、薄情な話ではあるのだけれど、自分がものすごく酷薄なことを考えていることはわかるのだけれど、わたしには実際の姉達よりも、あの亡霊の姉達のほうが、より優しくて、理想的に思えたのだ。
わたしは合衆国へ渡る引越しの際に、子どものころから大事にしていたあのフルートをなくしてしまっていた。その代わりに、新しい最新のかたちのものを買って、いつも肌身離さず持っていた。そして、安息日には暇をみつけて、腕がおとろえないように練習を続けた。楽器を演奏することも好きだったけれど、そのほかにも、強迫観念と言おうか、なぜか、そうしていなければいけないような気持ちにおそわれたからだ。
聞けば、上の姉達は、もう楽器をやめてしまったという。
わたしが焼いてしまった屋敷について、わたしは成長してもずっと罪悪感を抱え続けてきたが、今では焼け跡はすっかり更地にされて、単なる小高い丘になり、蘭の花やスイートピーの花が一面に咲いているという。
近くの村では、そこにはかつては幽霊屋敷が立っていて、屋敷は末の妹とともにこの世ならぬところに消えさってしまったのだ、なんていう怪談が広まっているそうだ。わたしはそれを聞いて、なんともいえない複雑な気分になった。
わたしは合衆国の婦人として、長い長い年月を夫とともに歩んだ。
この進取の精神に富んだ、自由の国とうたわれる新しい祖国は、その輝かしい表の顔の裏で、北部ではインディアンを森の向こうへと追い詰め、南部では暗黒大陸より連れてきた奴隷を酷使しているという。驚いたことに、それを率先してやっているのは、欧州でくいつめて流れてきたものたち、つまりかつては同じ虐げられていた貧しい人々だというのだ。
それは合衆国の繁栄の裏にひそむ影の部分だった。自らの利益のためには、どんな非人道的な行為でも正当化しようとする、人間の持つ暗黒面だ。
とはいえ、それについて、わたしに彼らをせめる権利があるのだろうか。
自らの幸せのためならば、他の者を虐げてもよいと思っている彼らを非難することができるのだろうか。
それは、わたしがあの半年間に、弱い亡霊を、姉達を自分の幸せのために縛り付けていたこととどこが違うというのか。他人を犠牲にしてでも、自分だけは満足したいという、根本の発想ではなんら変わることがないじゃないか。
ある夜のことだ。わたしは納屋に明かりがともされていることに気づいて起きた。
隣のベッドを見ると、夫の姿がない。
灯りを持ち、階段を下りて外に出たわたしは、納屋の中をのぞきこんで息をのんだ。
夫が、傷を負い逃げ込んできたインディアンの手当てをしていたのだ。
二番目の息子も側にいて、夫の手伝いをしていた。
これが開拓村の仲間に知れたら、わたし達一家はただではすまない。
つい最近も、近くの砦において北部の部族との間で小競り合いがあり、アメリカ人の騎兵隊に何人か死者が出たばかりだ。村の人間のほとんどは、インディアンのことを敵視し、憎んでいる。
最初のこどももようやく一人だちできそうな年頃になったばかりだというのに。
私刑の対象になるかもしれない。わたしは夫に、すぐにそのインディアンを追い出すように言った。
夫は、頑として聞き入れなかった。
「傷ついて苦しんでいる人間を見捨てることはできない。人種は違えど、同じ主の創造物であることにはかわりはない」
夫はわたしにそう言った。
人間はみな助けあわなくてはならない。最初は、その考え方に反感をもった。なんておセンチな人だろうと思った。
その頃にはもう、わたしは少女としての純真さをとうに失っていた。そして、未開の新大陸の、厳しい環境に適応していくために、冷酷さの衣を身にまとってさえいたのかもしれない。母として現実的な視野に立って、家族を守る義務があるとすら思い、夫の意見に納得できなかった。
それに、夫がここで一人インディアンを助けたところで、時代の趨勢がどう変わるというのか。どちらにしろ、合衆国は明白なる天命とやらを掲げて、先住民族の住む大地を切り取り、自分の柵で囲っていく行為を続けていくわけではないか。あらがう力をもたない、黒い奴隷達を労働力として。合衆国の発展と、子孫の未来のためにはそれが必要なのだから、仕方ないではないか。
親しい誰かを裕福にするためには、見ず知らずの誰かから富を奪い続けて行かなければならない。ある程度の、取捨選択を受け入れて行かなければならない。
悲しいけれども、それが現実というものだ。
わたしはそう思っていた。そう、信じ込んでいた。
だけど、それは違うのだ。やっぱり、このときも現実から逃げていたのはわたしのほうだったのだ。
わたしはまた、同じ過ちを犯していたのだ。
介抱され、気がついたインディアンはいぶかしげに夫の方を眺めみ、わたしにはわからない言語でなにごとかを口にしている。
しぐさや状況からして、「なぜ、助けたのか」と、そういっているのだろう。
「ただの気まぐれだよ。きみたちの神は気まぐれをおこさないのかい?」
夫はそう言っただけだった。
英語でまずそう言い、ついでインディアンに解る言葉でも同じ意味のことを伝えていたようだ。
その時に、なぜかわたしは気づいた。言い訳も説明もしない、ただ黙っているだけの夫の態度から、なぜかわかった。
じっさい、人間はながい年月のあいだじゅうずっと、そうやって努力しつづけてきたんじゃないのか。
汝の隣人を愛せよ、病める者たちの杖となれ、その主の教えのとおりに行動できる人は少ない。
夫と結婚してもう何年も経つというのに、この時にはじめて知ったのだ。わたしの夫はかけねなしにその行為を実践できる、数少ない人間の一人だった。そして、その姿がかつてわたしに優しくしてくれた、あの亡霊の姉達の姿と重なった。
幸福になるためには、他人を犠牲にするのも避けられない。それは、諦観にすぎるし、思考停止ですらある考え方なのだ。亡霊の姉達も、わたしの夫も、みなそれとは異なったかたちで自分たちの、そして隣人たちの幸せをみつけようとしてきた。
その方法とは、相手に与えること。見返りなど考えずに与えること。そして、共有すること。ううん、単純に、奉仕なんていう言葉では片付けられない、もっと、それは智慧にあふれた、全体のバランスを重視した……ずっと困難で前向きなやり方。うまくいえないけど、そういうものを、彼は、彼女達は自然体で模索していたのだ。
そうして、彼らは自分達の精神を声高に訴えたりしない。彼女達は、自らの行いをかけらも誇ろうとしない。ただ、それが自然なやり方なのだと、そのやり方を続けていくだけなのだ。
わたしもそうしよう。そう思った。もしくは、そうしている人のために働こう。そう思ったのだ。
できるかぎり、そうするよう心がけた。夫を尊敬して、彼の行為を後押しした。
彼は態度を変えたわたしに最初驚いていた。夫はたぶんわたしのことを愛してくれていたのだろうけど、わたしのことをずっとどこか箱入りのお嬢様だと考えているふしがあり、その意識を捨てていなかったからだ。
夫は自らの意志で、周囲への貢献を、人間が生きる上での使命と捉える人物だったが、亡霊の姉たちにとっては事情が少し違っていたかもしれない。
幼い精神しかもっていなかっただろうあのときの彼女たちは、それほど複雑なことを考えただろうか。
無償の愛や、人間としての在り方なんて大層なお題目をさほど意識したことはなかっただろう。
だけど、彼女たちは、自らの消滅を返りみずに、わたしを現世に引き戻してくれたのだ。
すべてを知りながら、自分たちが偽りの記憶に縛られていることを知りながらも、わたしに恨みごとのひとつも言わず、保身のことなんか毛ほども考えていなかったのだ。
彼女たちは、すべて自然体でやっていた。あるがままで優しかった。
わたしは亡霊の姉達に幻想を抱いていたのかもしれない。わたしの心をささえてくれた、思い出の贈り物をくれた彼女たちを神聖視して、偶像的な崇拝を抱いていたのかもしれない。
だけど、それでも良かった。彼女たちのことを思い浮かべるだけで、彼女たちのしてくれたこと、贈ってくれたあの歌声のような言葉たちを思い出すだけで、わたしは幸せな満ち足りた想いにひたることができたのだ。
そしていつも、彼女たちに会いたくて、懐かしくてたまらない気持ちに襲われるのだった。
また歳月が流れた。
わたしは年を取り、ひ孫に昔語りをするほどの年齢になった。
歴史が、世代がいくつか移り変わっていった。
ヴォナパルトという名の島国育ちの男が、一介の仕官から成り上がって皇帝となり、大陸で大暴れした後、負けてまた島に流されたという、なんだかしまらない英雄譚も、今では過ぎ去って久しい。
産業の革命があった。合衆国にも多くの白煙を上げる工場の群れが建てられ、みんなをびっくりさせた、あの蒸気機関車が走るようになった。
遠く、太平洋の向こうでは、今まで外国との交易を絶ってきた島国が、われわれの提督の圧力に負けて、門戸を開かざるを得なくなったという話も聞いた。
あの馬鹿げた内戦も体験し、わたしは息子の一人を戦禍で失った。その戦争の結果として、奴隷が解放されるという、信じがたい出来事も目にした。
驚いたことに、わたしは八十を越えても生きていた。
わたしの血のつながった姉達は、とうの昔に子孫達にみとられながら、主の御許へと旅立っていた。
夫にも先立たれた。それでもわたしのいのちは潰えることがなく、娘たちにたぶんうとまれつつも心配されながら、かろうじて生きながらえていた。
とはいえ、今年の冬の厳しい寒さは、老境にどっぷりと足を浸していた者にとっては、さすがに少々こたえた。それがわたしの生きる力を奪っていたのかもしれない。夏になっても、わたしは体調にすぐれないものを覚えていた。
ある日、ポーチで愛用の揺り椅子に座ってうたた寝をしていると、ひ孫の遊んでいたボールがわたしの足元に転がってきて、こつんとあたる。
わたしにはそれをひろいあげてあげる力がない。意識が遠のいていく。
ただ、雲間から顔を出した、南中してきた太陽の熱だけが、肌にちりちりと焦げ当たるようで熱かった。
その熱さからか、わたしは、あのときの悪夢を連想した。
自分の不始末により、屋敷に火をつけてしまったときのことを思い出した。
業火に揺られて、消えていく大切な思い出たちが見えた。
やめて。消えないで。
わたしは心のなかで叫んだ。
火を消そうと、わたしは手をのばした。
火は消えてくれるどころか、わたしの手に燃え移り、すぐに全身に広がった。
めらめらと音を立てる業火に、わたしの体はのまれていく。
わたしの体が燃えきってしまったら、後に残されるのは暗闇だけなのだ。
わたしはそんな風に考えた。
わたしの魂は、おとずれるであろう暗闇の恐怖におびえた。
火を消そうと、必死にもがきつづけているような気分になった。
そうではあるのだが、やはり、意識はだんだんと薄れていった。
夏の暑い盛りだったはずなのに、瞳に映る像がとてつもなく暗い。
そうやって、だんだんと、目の前がぼやけていく――――
ふいに、草の香りを感じる。
序々に、視界に映る像がくっきりとしてくる。
わたしが次に目を開いたとき、目の前には向日葵の畑がえんえんと続いていた。
いのちの輝きにあふれる、地平線の向こうまでずっとずっと広がっている金色のじゅうたんが見えた。
まぶしい太陽と、透き通った八月の青空に、ゆったりと流れる白いかなとこがわたしの頭上に影を落とし始めた。
そして、それぞれの色のおそろいの形の服をまとった、幼くみずみずしさにあふれる三人の少女の姿が見えた。
「あら、レイラ。いらっしゃい」
「待ってたわよ」
「ちょうど今、調律が終わったところよ」
え…。
「そんな、姉さんたち? おお、おお、どうして……ああ、あの時とまったく変わらない」
ルナサ、メルラン、リリカ。わたしの姉達だ。
見間違えようはずもない。
あの閉ざされた屋敷で、リリカが作っていた四姉妹おそろいの衣装を身につけている。
それぞれ得意とする楽器を携えている。ルナサのヴァイオリン、メルランのトランペット。リリカの体の横には、腋にかかえられるぐらいの大きさの鍵盤が浮いている。
血がつながった、本当の姉達ではなく、わたしが作り出してしまった幻影の姉達だ。
病める時も、健やかな時も、わたしを励ましなぐさめてくれた、あの思い出のサロンの音楽とともにあった、優しい亡霊の姉達の姿だ。
「あなたが、お彼岸に行く前にね、ああ、お彼岸っていうのは、東洋の冥界のことだけど」
「閻魔…そこの神様に頼んで、ちょっとだけ時間を貸してもらったの」
「わたし達の作った曲を聴いてもらいたかったから」
最初にルナサが、ついでメルラン、リリカと言葉をつないでいくしゃべり方。
あの時といっしょだ。わたしをあの閉ざされた場所から送り出してくれた時に聞いた声と同じだ。
あれから、わたしをあの世界から送り出して以来ずっと、彼女たちは幽霊たちが住む冥界で楽曲の練習を続けていたのだという。わたしに聞かせる曲を作るために。
そうして、音楽を奏でる騒霊という存在として定着して、曲が準備できた後には冥界を治めている神様に頼み込んで、今わの際にわたしが座っていた揺り椅子ごと、この向日葵畑に送るようにしたのだと説明してくれた。
「ここはいったい…」
「ここはね、幻想郷という場所」
「まぼろしになってしまった事物が安らぎを得るための場所」
「まだできたてほやほやだけどね」
ルナサが、メルランが、リリカが。姉達はその場で両手を広げてくるりと回ってみせる。
向日葵の咲き乱れる園のまんなかで、せすじを手足をぴんと延ばして、くるくると回ってみせる。
自分たちの住んでいる世界を、良く見てくれと言わんばかりに。
年老いた目にもくっきりと映る。
ほんとうに、ほんとうに美しい場所だ。
わたしたちが暮らしていた、あの暗く閉ざされた場所は、幻想郷ができる際に消えてしまったという。
今では屋敷ごとこの郷に移住してきて、そこで暮らしているそうだ。
「こっちの世界からも、あなたの様子をちょっとだけ見ることができたのよ」
「ときどき見れたあなたの笑顔から、幸せな人生を送ってくれていることがわかって、安心できたわ」
「そうそう。でないと送り返しちゃった甲斐がないものね。ねえ、今度はレイラのお話を聞かせて」
わたしは自分のことを彼女たちに話した。船旅への好奇心や、ひどい目にあったことや、初めて踏んだ新大陸のこと。無限に広がりを見せる、新しい世界のこと。夫と出会ったこと。子供を何人も生んだこと。その子達の教育で苦労したけども、その何倍もの贈り物をもらったこと。
ほんとうに、丸一日は話したんじゃないだろうか。
話すことは尽きなかった。つぎからつぎに言葉がわいてきた。
姉たちも、興味いっぱいの顔でわたしの話を聞いてくれた。
ときには相づちを打ち、ときには質問をし、ときには早く先を聞かせてくれと促した。
不思議なことに、空はいつまでも真昼の暖かい日差しのままで、ちっとも暮れる様子を見せなかった。
姉のルナサが、コップに入れた水をもってきてわたしにくれた。
一気に飲み干す。おいしい。もう死んで幽霊になっているはずのわたしが、水をこんなにおいしいと感じるなんて。
コップをお盆に返すと、ルナサはそれをかたわらに置いてあった卓台の上に置いた。
その後に彼女はわたしを見て、ほほえみを浮かべてから口を開いた。
少し憂いを含んだように見える笑みだった。
「さて、そろそろ始めましょうか」
「わたしたち、プリズムリバー三姉妹の」
「貸切り生コンサートのはじまり、はじまり」
ルナサが自分のヴァイオリンに弓をつがえる。
メルランも、リリカも、それぞれの楽器を準備する。
プリズムリバー三姉妹としての演奏が始まった。
どこか夕空の茜色を思わせる、郷愁に満ちたヴァイオリンの音色が軽やかに流れ出した。
潤いと予感に満ちたプレリュード。故郷へと続く、緑にあふれる田舎道を歩いているみたいな気分にさせる。
ルナサのソロにメルランとリリカも続く。
三姉妹、その言葉にちょっとだけわたしの心は痛んだ。
彼女たちとの間に刻まれている隔絶に思いが至った。
それでもこれは、たった一人のために開かれる、満開の太陽がたゆたう海で行われるコンサートだ。
目が覚める青さの空には、いくつものおおきなおおきな、雄々しい入道雲が誇らしげな姿をたたえている。
ふわり、とした風がふいて、わたしたち姉妹の髪をはためかせる。
ルナサの金色が、メルランの薄いプラチナ色が、リリカの紅茶色が流れる。
そうして、その楽園のような風景画のなかには、音楽があった。
流れる悠久の音楽。
わたしたちの為のセレナーデや、ワルツや、シンフォニーがあった。
荘厳で深みのある、いくつもの和音。美しい響きの、複数の楽器から奏でられる音。
これは絶対に三人で出せる音ではない。
おそらくは、彼女たちの騒霊としての力なのだろう。
あの時リリカが使った、ピアノを弾きながら手を使わずに打楽器を演奏する方法。それを、もうみんな身につけているのかもしれない。
確かに技巧も素晴らしかった。でも、それ以上にこの演奏は、わたしの胸をうつ理由があるのだ。
今までに耳にしたどの交響楽団よりもその音はわたしの心を動かした。
そして、彼女たち自ら作曲したという曲。
どれもこれも、素晴らしい曲。
彼女達が費やした、七十年に渡る歳月がこもった曲。
たった一人、わたしのためだけに費やされた七十年。
わたしの頬をぽたぽたと雫が伝っていった。
ふいに、風が吹いて、わたしの頬からこぼれる雫と、彼女たちの音楽を泳がせた。
夏は、どこまでも続いている。
鋭い日差しが、少女たちの姿を色濃く照らしている。
久遠に近い時が過ぎた気がした。
いくつもの物語が通っていった。
ふと、姉達が、それぞれの楽器を下ろす仕草にわたしは気づいた。
曲が終わったあとの余韻で、向日葵畑はすこしの間、静けさに包まれた。
「さて。名残惜しいですが、わたしたちプリズムリバー姉妹によるこのコンサートも、残すところあと一曲となりました」
「最後の曲は、わたしたち姉妹を題材に作った曲です。わたしたちの最愛の妹に贈るために作った曲でもあります。それでは聴いてください」
「題名は、『四つの姉妹のためのコンチェルト』」
「第一楽章。『ルナサ・プリズムリバー』」
ルナサが凛とした発音で、はきはきと章題を告げる。
コンチェルトとは協奏曲。オーケストラを伴奏に、主役となるひとつの楽器を引き立てる形式。
これはソリストがルナサだから、ヴァイオリン協奏曲か。
『ルナサは何をやっても優秀な優等生タイプ。何事も曲がったことが嫌いで、正々堂々と勝負する。芯が強く、くじけない。性格はやることはやるがちょっと暗いかもしれない。それに素直で騙され易い』
きちょうめんで、物事をまっすぐみる、ルナサ姉さんらしい曲。重厚で、洗練された音だわ。
柔らく繊細なタッチから繰り出される、押し寄せる荘厳で迫力のある怒涛のような音の洪水。
そこに、恐怖を克服する人間の偉大さが、かいま見られる。
ルナサ姉さんは決して暗い性格なわけではない。
ただ、現実の厳しさに対応しようとする姿勢をいつも保っているだけだ。
わたしは思い出した。叔父とともに渡った大西洋の、途方もない広さを。
船酔いに苦しめられた記憶を。あの荒れ狂う海原を。
夢や理想を求める心をうち砕こうと待ち構えている、人間の愚かさや矮小さをあざ笑う数々の猛威のうちのひとつにすぎない出来事を。
でも、きっとルナサ姉さんだったら、どんな荒波にも冷静に対処して、くじけない勇気でもって克服するわ。
船酔いにも負けずにぴんぴんしていて、逆に船頭たちをはげますかもしれない。
「第二楽章。『メルラン・プリズムリバー』」
メルランが明るいはずんだ声で章題を告げる。
トランペット協奏曲? めずらしいけど、すごく軽快できれいにまとまっている。
四つの。ああ、そうか。文字通り四つの楽器に合わせた曲があるのだ。わたしたち姉妹にあわせて。
『メルランはいちばん女の子らしいお姉さん。頭も良いし、運動もできるけど、いつもその優れた力の使い道を誤る。余裕たっぷりで明るい性格。浮き沈みが激しくて、極端なのがたまにキズ』
おもちゃ箱をひっくり返したみたいな、可愛いメロディ。かわいいものが好きな、メルラン姉さんにぴったりね。
田園の花々に踊るくるみ割り人形。そこに舞う一人の少女。
生きることの喜びを体いっぱいで表現している。
そうして人間と、動物たちと、花たちと、鳥たちが共存しともに歌う賛美歌。
そこにときおり、猛々しいファンファーレが鳴り響くものだから、思わずくすっとしてしまう。
みんなで暮らしていた、故郷の森や草原の美しい光景が目に浮かんでくる。
羊飼いのラッパの音が野原に響く。もうすぐ、麦穂を刈る収穫の季節だ。
あれっ? 楽器を置いた。
しばらくオーケストラだけでの進行。
ソリストのメルランは、楽器を放してのどの調子を整えるような仕草。
もしかして……
かぜは とおく くもがすみ ゆめは ついぞ ゆきはてぬ
われら あゆみし ゆきじの ふるさとへ つづく わかれじも
いざや ゆかん まだみぬ あたらしき やくそくのとち
わだつみは あれはてども こころの こどうは なりやまぬ
はながさき れいがあふる いつのひも かわらず ながるかわ
やまのかみ いぶきあたえ とりけもの うたう げんそうのその
うたえ うたえ おとめよ いのちの よろこび
うたえ うたえ しまいよ てをつなぎ おどれ
きんいろのあめが ふり あかいきりが みちる
わかば かおる こいの きせつ
ゆめよ そそげ にじよ みちよ
声楽。
カンタータね。
突然の展開にびっくりする。
それにしても、なんて、なんて透き通った。
なんて、なんてまぶしくて美しい歌声。
まさしく人の望みの喜びにあふれている。
世界の完全さを信じたくなるぐらいに。
「第三楽章。『リリカ・プリズムリバー』」
リリカがかしこまったようなちょっと得意げな声で章題を告げる。
こんどはピアノ協奏曲。
まずは早い展開からの独奏。
ちょっと不安にさせる。物事の黎明期の不安定さ。
そして、オーケストラが合流し、一気に曲のスケールが上がる。
とてもドラマチックな急展開。
『リリカは頭がよくて、はしこい。普段は姉達にけしかけて、自分は高みの見物。最小限の力で、最大限の利益を取ることを考えるタイプ。調子が良い性格で、態度や行動は三枚先まで計算されている』
ちょっと貴族趣味に、豪華で色彩にあふれた音楽。
行動的で、いつもいたずらにわたしを引っ張り込んでいたリリカお姉ちゃんらしい曲。
都会の喧騒と、舞踏会の華々しさ。
人間の、明日へ向かって生きようとするエネルギー。
あら。都市にいたかと思ったら、場面が一転して、郊外に出ちゃったわ。
窮屈な暮らしを捨てて、辺境へ冒険の旅に出たのね。
飽きっぽいけど、目新しいものが好きで、好奇心旺盛なリリカお姉さんらしい展開ね。
わたしはフロンティアのあの広大な荒野を思い出した。
ひとりの少女が切り立った崖の上に立っている。
そこから見える景色を吸いこみ、たった一人で世界に対して屹立している。
彼女は一人でありながら、無数でもある。
瞳を輝かせながら、未知への興味を押さえきれない。
彼女はきっとそこで、素晴らしい国のいしずえを作るんだわ。
それらの音楽は彼女たち三人を余すところなく表現していた。
彼女たちの心を、魂を、存在をあらわしていた。
曲の時々に、昔よく見ていた姉達の姿が浮かんできた。
姉達と紡いだ思い出の数々が浮かんできては、わたしの胸を暖かい波で包みこんだ。
どの楽章も素晴らしかった。
表現力が豊富で、まるで本当に彼女たち三姉妹の人生を追って体験しているかのようだった。
「第四楽章。終章です」
長女のルナサ姉さんが静かに告げる。
四つの協奏曲。四人の姉妹のための曲。当然最後は……
「「「『レイラ・プリズムリバー』」」」
三人の声が重なり、完璧なハーモニーを形作った。
その名は忌まわしき名。
四姉妹の中で、もっとも臆病で、卑怯で、そして自分勝手な女の名。
箱の少女が、ギリシアの神々の良いところだけを与えられて生まれた娘だとしたら、わたしは、姉さんたちの悪い部分をすべてより固めて作られたような女。陰湿で、嫉妬深く、自分勝手で、わがままで、欲深く、情が薄く、そして、そして、罪深い女。
わたしには彼女たちの祝福を受ける資格がない。
「「「さあ、レイラ!」」」
三人が手を差し伸べる。この老いた女に。
「え?」
「いっしょに!」
「あなたの曲よ!」
「奏でましょう!」
ふと気づけば、いつのまにかわたしの手の中にはフルートがあった。
死ぬ間際まで持っていたものじゃなく、子供のころ、いつも使っていたあのフルート。新大陸へわたるときの騒動で、どこかへ行ってしまったわたしの宝物。
「で、でも。わたし練習していないし、曲なんて。それに…こんなおばあちゃんなのよ?」
もう昔ほどの肺活量も残っていない。目も老眼で良く見えないし、足腰も弱って、指だって、思うように動かなくなっている。それに、どんな曲かも知らないのだ。
でも、できないと思う理由はそれだけではないはずだ。
わたしには、彼女たちと一緒に演奏する資格がないのではないか。
そう、ずっと恐れていたのだ。いっそ、なじってくれたほうが良かった。ののしってくれたほうが良かった。祝福なんてしてほしくなかった。わたしのけちな運命に、身勝手ななぐさみに、つき合わせてしまったことを、責めてさいなんでほしかったのだ。
そうだというのに、それなのに、彼女たちはらんらんと輝く、くもりなど一切感じられない明るい目でわたしを見つめて、そしてうながすのだ。
「大丈夫、さあ立って。あなたはこの曲を吹けるはずよ」
「最後の楽章は、あなたの知っている曲をアレンジしたの」
「楽譜を見てみれば分かるわ。それに、体だって」
え?
気がつくと、わたしの体はあの小さかったころの、彼女たちと一緒に暮らしていたころの姿に戻っていた。
わたしの前には、よく使い込まれた譜面台の上に、綴じられた木管パート用の譜面が開かれていた。
わたしは震える手をのばし、そのページをめくり、流れる五線譜に目を通す。
この曲…わたしが初めて作った曲…。
たしかそう、モーツァルトの協奏曲に感動して、主旋律のところだけ自分でアレンジしてみたんだっけ。
でも、かなりの改良を加えてあるのが一目でわかる。その完成度も。
あの曲がこんなに素晴らしくなるなんて。ひとつの協奏曲として完成するなんて。
見れば譜面には要所要所に、彼女達がほどこしたと思われる書き込みが、工夫のあとがあった。
わたしは、おそるおそる、自分の横笛にくちをつける。
幼いときの、あのときの感覚が、蘇ってくる。
縮んだ手で、ぎこちなく穴を押さえる。若返った肺いっぱいに溜め込んだ息を、ゆっくりと吹き込む。
演奏が始まった。四姉妹としての演奏が始まった。
三人の騒霊としての力なのだろうか。本来なら姉達の足元に及ばない腕前であるはずのわたしだったが、彼女達の伴奏に支えられて、わたしの笛の音もそれなりに聴けるものになっているようだ。
なにより、楽しい。みんなで音を合わせることが、こんなに楽しいなんて。
あの時を思い出す。家族が全員そろっていて、屋敷のサロンで小さな音楽会を開いたときのこと。
ううん、これはあの閉ざされた屋敷で、四人で一緒に合奏していたときのことよ。わたしの本当の姉達とじゃなくて、わたしをなぐさめるために現れてくれた、新しいわたしの姉達、新しいわたしの家族、どこまでもどこまでも底抜けに優しかった、彼女たち亡霊たちと過ごした日々の曲。
あるいは、わたしももう亡霊となっているのかもしれない。彼女たちと同じ騒霊となっているから、こんなにも流暢に初見に近い曲を吹きこなすことができたのかも。そして、わたしたちはプリズムリバーの騒霊四姉妹として、この幻想にあふれた郷でこの先ずっと一緒に、四人で音楽を奏で続けていくのかもしれない。そんな夢想さえ浮かんできた。
最後の協奏曲は、今までの三楽章よりも長かった。倍近い長さがあったのだ。
そう、全四部構成のこの曲には続きともいえる部分があるのだった。単純にわたしだけを表現した曲じゃない。
これはわたしたち四人を歌った曲なのだ。わたしたち四人がともにすごした日々を綴った曲。
あの半年間だけじゃない。一緒に思い出を共有し、違う空の下、同じ星を見つめて歩んできた、わたしたちが生きた日々。
今まで出てきた主題が調和を保って交わり、わたし達はこの場所で一本の完璧な虹色の川となるのだ。
『ねえ、レイラ』
『わたしたちは、ここで生きていくわ』
『騒霊が、生きていくっていうのもなんだかおかしな話だけどね』
ルナサの、メルランの、リリカの声が聞こえる。
音符が、音程が、音色が、音形が。
タンギングやピチカートが、スタッカートが、音と音の間の休符が。わたしたちの言葉となっていたのだ。
想いを伝えるすべとなっていたのだ。
わたしの主題とルナサの旋律が多重カノンを形作る。
わたしの転調にあわせてメルランのファンファーレが響く。
わたしのカデンツァの終わりに重なるようにリリカのアルペジオが鳴る。
その折々に、お互いの心が交錯する。
『あなたにもらった存在を』
『たしかな意思をよりどころとして』
『それは、もう一つのいのちなの。幻なんかじゃない』
『『『あなたはいのちを紡いだ』』』
三人の暖かい音色が、わたしを包み込む。わたしの音を包み込む。わたしの心を許し、癒してゆく。
ことばでは伝わらない彼女たちの愛情が、優しさやいたわりが、空気の震えとなって伝わってくる。
『わたしたちには夢ができたの』
『この国を、音楽に満ちあふれた世界にするという夢。沈んだ気分を明るくできる音楽』
『他の誰かを、不幸せな気持ちの人を、幸せにできるちからを持った、そんな音楽であふれさせるという夢』
彼女たちの想いが体をゆさぶり、わたしはわたしは、それによって得られた自分の喜びをわたしの手の中の楽器へと伝える。
歓喜に震える手を必至に抑えながら、わたしの楽器を、意志を奏でる。
つぎつぎとあたらしい和音が生まれていく。
『あなたはわたしたちに、かけがえのない贈り物をくれた』
『この場所は未来にまかれた幻想の種。わたしたちは、あなたがくれたものを、喜びの記録を使って、ここに音の種をまくのよ』
『そのために、わたしたちは生まれたのだから。そのために、あなたはわたしたちを生み出したのだから』
『『『ありがとう、レイラ。わたしたちはあなたを愛しているわ』』』
愛している、わたしも、お姉ちゃんたちを愛している。
わたしは生の最後に来てはじめて知ったのだ。
恩寵と祝福は、主から与えられるものではなく、人と人とのふれあいの中に見出すものだということを。
そこにはすべてがあった。わたしの、人生の、人として生きてきた中で聴くことのできた、奏でることのできた音のすべてが。少女の憧れ、青春のきらめき、社会の残酷さ、夫とともに切り抜けた苦難の道のり、恋慕と子供たちへ向ける母性愛、老境にさしかかったころの、あのなんともいえないうすら寒さと、その寂しさを和ませてくれた、ポーチで子や孫やひ孫たちに囲まれながらすごした黄昏の日々。そして、未来へむかっていくことの、希望を信じることの素晴らしさが。
夕日を反射して輝く水面のように、美しく、人の心をさす、きらめく思い出の星たちのすべてが。閉ざされた屋敷から、ささやかな幻想のひとときをおみやげとして、人の住む国へとわたしを送り出してくれた、優しい姉達の与えてくれたすべてが。
慈愛と、悲壮と、希望と絶望と、ためらいと勇気と。共有と、隔絶と、また再びの共有と。喜びも怒りも哀しみも楽しみも。そして歓喜と慈愛と、また果てしない慈愛と。そのあふれゆく光のなかでわたしは、わたしは……
そうして、虹の音色は川となり、太陽の野辺を仰ぎ見、緑の山々のいただきを越え、白い雲のかなたへと響き渡っていく。
軽やかに緩やかに華やかに、どこまでも、どこまでも、どこまでも遠く。
澄み渡る空の果てへと、流れていった。
かたん、という音を残して無銘のフルートが一本、地面に転がり落ちる。
おおぜいの入道雲がたなびく青空と、さんさんと降り注ぐ夏の太陽の下、ひまわり畑は静寂の葬送曲を奏でている。
その中で、まるで時が止まってしまったかのように、大地に根を下ろし立ち尽くす、ほかとは違う六本の茎があった。
そのがくに咲いた六の視線が、この世のものではないが確かに存在するそれらが、言うべき言葉も知らず、とるべき行動も分からず、しかして望む未来の姿だけはしっかりといだきながら、天の都へとゆっくりと昇っていく一すじの幻影を、光のプリズムが見せる、蜃気楼のような大気のゆらめきを、ただいつまでもいつまでも見つめ続けていた。
エピローグ
「騒霊の流した涙はいったい何でできているのだろう。物でもないかりそめの存在のそれは、いったいどこへ流れていくのだろう。そういう益体もないことを、姉にたずねた日のことをわたしは覚えている。
明日はわたしたち三姉妹の、定期演奏会の日だ。末の妹を送ってから、幻想郷が誕生した年から数えてちょうど百周年にあたる。数字のもたらす意識とは強いもので、わたし達姉妹もがぜん、気合が違ってくる。やはり、記念すべき公演、これまでの演奏の中でも最上の出来としなくては。いままでもパート練習、合奏を繰り返し、おのおののコンディションを整えてきたが、油断は禁物。最後の最後で緊張のあまり、どっちらけになってしまわないように、細心の注意を払っていきたい。そして、本番では天国の妹に届くような素晴らしい曲を、わたしたちにできる最高の演奏を、お客さんに、この幻想郷に住むみんなに聴いてもらいたいと思う」
リリカ・プリズムリバーの日記より
元絵の方も見て納得。良いお話でした。
感動しました、満点をどうぞ。
惜しむらくは、説明の部分が長すぎ、よい部分が薄まっているような気がした所と、地の文がかたく感じてしまった所でしょうか。いえ、私が言えたことではないのですが、生意気な事をすいません、でもそれがあってなおとてもよいお話だったと思います。
追伸
…クリスマス・イブは私の大好きな曲ですよ?
代わりに誤りの報告を
・「必死」であるべきところが全部「必至」になっている
・リリカだけ「お姉さん」で統一されているが、ラストあたりで「お姉ちゃん」がひとつだけある
レイラレイラレイラレイラレイ なんという時代の先取り。リリカ恐るべし。
ゴはっ、作者のメッセージの処に修正履歴を書こうと思ったけれど、既にいっぱいだった……アホだおれ
花映塚とも少しつながってるようですね(映姫の言葉)
文句なしの満点です!
中盤に唐突に重くなる地の文や、長い説明も、前半の平易な雰囲気と対象的でギャップがあってかえって良かったです。うまく言えませんが曲の転調のように感じました。
そして終盤の演奏に入ってからは、もう文の一つ一つが輝いていて何回読み返しても涙がこみ上げてきます。
素晴らしいSS、そして素晴らしい協奏曲でした。本当にありがとうございました。
読んでると世界が見えてくる。これは幻視?
文句の無い大変素晴らしい作品に点数三桁を贈ります。
最後まで読んで本当に良かった。
感動をありがとうっ!
いいですね。情景がありありと浮かんでくるようでした。
絵を見てさらに納得。(絵板の5です。)
100点以上付けたいw
もはや語るべき言葉はただ一つ。
最高。
頭を垂れる他はありません、感動でした。